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韓国版大河ドラマ(この言葉はそのまま韓国にもありテハドラマといわれている)「不滅の李舜臣」をみながら、なぜ日本の大河ドラマがつまらないのか考えてみる。歴史そのものと歴史物語とは違う。日本では歴史を離れるとすぐに歪曲だのなんだのと批判がでるが、ドラマにするのであれば歴史を素材とした物語の方が絶対に面白い。チャングムも史書には一行かそこらしか書かれていない実在の女性を思いっきり想像力で膨らませたわけだが、「不滅の李舜臣」も歴史を離れた波乱万丈の英雄物語になっていて、そこがやっぱり面白い。武科に及第するまで侠客として放浪しながら倭寇と戦ったり、悪い役人を懲らしめたりしたというのは話としてはよいのだけれども、さて事実はどうだったのだろうか。そしてまた、李舜臣が将軍となってからも、いかに将兵を愛し、民衆を愛していたかが描かれていて、そんな場面で、やはりついつい感動してしまう。「○○は弓が上手で仲間に優しかった」「○○は明るい性格でいつも周りの雰囲気をよくしていた」と戦死した部下の一人ひとりを追想するところや、初の海戦勝利の後、灯火の下で記録を書きながら「勝利の歓呼の声が私には敵の手に落ちていった民衆の叫び声のようにも聞こえる」とし、戦乱の犠牲者を思う場面など…。いささか乱暴なことをいってしまうと英雄というのは民族とか国家単位の一種の偶像のようなもので、救国の英雄であれば、いかに民衆を愛していたか、国家のためには生命すらも惜しまなかったかということが重要なのであって、本当のところ、歴史的事実はどうだったのだろうなんていうのは野暮な話なのだろう。そう考えると「不滅の李舜臣」に比べて、日本の大河ドラマ(最近はあまり見ていないが)がつまらないのは、歴史的事実からはなれることもできず、主人公も英雄というよりも等身大の人間がめだつせいではないのだろうか。※「不滅の李舜臣」で歴史にとらわれない描写は日本側にも及ぶ。千利休の死を朝鮮侵略への抗議にからめているところも、歴史的事実とは違うだろう。しかし、陶器の美しさを愛でながら、朝鮮の人々の心情に思いをはせ、出兵の結果起きるであろう惨禍を憂える千利休の台詞はすごく説得力があるし、たとえ千利休ではなくても、こうしたことを思っていた日本人は当時いたのではないのだろうか。こうした歴史捏造はさして問題もないのだが…ただ、釜山に上陸した小西行長の足軽部隊がいきなり漁民を射殺しまくったり、敗戦のはらいせに村人を柱にしばりつけて射殺したりという場面になると、いくらなんでもそんなことはなかっただろうと言いたくなる。銃弾だって当時は貴重だったはずだし、長期間占領して城まで作ったのであれば住民を無差別に殺戮するなどもってのほかだからである。
2007年04月30日
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世界○大○○…というのが最近気になりだしたのは、どうも韓国ドラマ「不滅の李舜臣」のビデオをみるようになってからのようである。というのは韓国のサイトでみると李舜臣が世界4大提督の一人で鳴梁海戦が世界史上の4大海戦の一つとあったりするのだけれども、そもそも人類史が一つの流れになったのは19世紀以降で、それ以前の歴史というのは他の地域ではどうでもよいというのが多いのではないかという気がしたためである。欧米イコール世界標準と考えるのも偏見だろうけれども、16世紀の東アジア地域の戦争が欧米基準でそんなに重要視されているとも思えない。となるとこの李舜臣が4大提督の一人というのもかなり韓国限定の言い方なのではないのだろうか。※それで日本のウィキペディアで世界○大提督をひくと、ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズ、東郷平八郎が世界3大提督とある。ネルソンはまあ有名だけれども、ジョーンズは米国独立戦争の際の人物で、これも米国限定という感じもする。東郷平八郎もロシアに圧迫されていた国では人気があるというけど、本当にそんなに知名度があるのか疑わしい。日露戦争は当事国のロシアでは人気のない戦争(それもそうだろうけど)で、あまり学校などでも教えていないという。さらによく聞く世界三大美人を調べてみる。日本人ですらろくに知らない小野小町を世界三大美人に入れるのはどうやら日本限定らしいということはわかった。さらに、クレオパトラや楊貴妃だって本当のところどの程度認定されているかは確認のしようがない。そもそもこの世界○大なんとかという言い方…たいていは世界○大何とかの一人と言われていますというように主語がぼかされて使われている。別に世界的な機関かなんかで一定の基準の下に選考しているわけでもないし、となると、世界○大何とかというのは、言われているのではなく、ご当地国などでかってに言っているというだけというのがほとんどではないのか。※韓国ドラマ「不滅の李舜臣」はドラマのつくりといい、俳優といい、日本の大河ドラマとは比較にならないくらいよくできている。そしてまた、国を守るとか民を守るということがどういうことかということも深く考えさせられる。日本でも大河ドラマのかわりに放映してもよいくらいだし、子供たちにもぜひ見てほしいドラマなのであるが、日本が敵役であることだけが玉に瑕である。
2007年04月29日
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完読できるかなあとあやぶみながら読み始めた「太平記」。5巻目に入ってなんとか読了できる見通しになってきた。こうした古典を読んでいつも思うのは登場人物の「行動の美しさ」である。古来、人がどういう行為を「美しい」と感じてきたかは、古典を読むとよくわかるような気がする。そこがリアリズムに徹して人間の醜さを描く近代文学と古典とのなによりの違いだろう。※もっとも同じ軍記物語でも「平家物語」に比べ、この「太平記」の世界はかなりえげつない。なにしろ天皇が二人いる時代である。確固たるパラダイムもなく、人々は旗色をみながらあっちにつき、こっちにつきするので、敵味方入り乱れてストーリーがわかりにくいことこのうえない。逆にそれだけにそうした中でどんな行動が美しいとされていたのかがよくわかる。一言でいえば「行動の美しさ」というのは、潔さということに尽きるのではないか。言い方をかえると散り際の美学である。だから物語中で、死を覚悟した際には、生命に執着せずに討ち死にしたり、割腹をしたりした人間は必ず好意的に描かれている。反面、高師直のような人物については、命惜しさに心にもない出家までして、その後も逃げ惑ったと嘲笑的に記述される。※よく考えてみると、この散り際の潔さというものは道徳や人倫とはあまり関係がない。それなのに、なぜこうした潔さがよしとされるのだろうか。そしてこうした潔さは死を前にしたときばかりでなく、勝負事などにも同じようにいえる。死を前にしてじたばたするのが醜いのと同様、負けた後にぐじゃぐじゃいうのは潔くないという美学である。こうした感覚が日本だけなのかどうかはよくわからないが、日本で特に強いことは事実だろう。よくスポーツの国際試合などで日本選手は審判に文句をいわず損をしているという話があるが、それはおそらく語学力だけの問題ではない。いったん負けの判定がでたあとに文句を言うというのは行動として美しくない…そんな感覚がきっとある。さらにいえば、なぜ日本人は原爆投下の非人道性やシベリア抑留の不法をいいたてないのか。戦争に負けた後にそういうことをいうのは美しくないという感覚がきっとあるのではないか。原爆の碑の「あやまちは繰り返しません」という主語不明の文もこうして考えると、古典の世界にみられる美学とどっかで通じている。
2007年04月28日
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最近あまり聞かなくなったと思ったら…またまたでてきた母乳賛美の大合唱。なんでも教育再生会議とかで母乳の薦めをするらしい。しかしながらいろんな体質の人がいるように母乳の出ない人だって古来からいる。昔々の絵馬にだってお乳の絵を書いた願いが残っているくらいである。それともなんだろうか。こんな「提言」をする人は、母乳で育てていない母親は皆スタイルを気にして母乳育児をやめているなんて本気で思っているのだろうか。そんなことはないんじゃないの。夜中に赤ん坊が泣くと母乳ならすぐにお乳をのませればよいが人工栄養だと寒い冬でも起きてミルクを調合しなければならない。それにまた粉ミルク代だってばかにはならない。ただでさえ赤ん坊を育てている母親は様々な情報に悩み戸惑っている。このうえさらに「母乳で育てないと親子の絆ができない」とか「人工栄養でそだてると非行や家庭内暴力につながる」なんていうアホな情報をふりまくのはまさに百害あって一利なしじゃないのかしら。「おっぱいのでない母さんでごめんね」と泣きながらミルクで子育てしている若い母親もいるという。妙な母乳信仰や根拠不明の人工栄養批判はいいかげんにしてほしい。個人としての評論家が母乳礼賛をいうのは自由だけれども、「母乳育児の薦め」に税金を使って、たたでさえ不安いっぱいの若い母親に妙な脅迫概念をうえつけるのはやめてほしいものである。※※昨日の続きであるが、世界三大何とかについての国際標準(これも何をもってそういうのかという疑問もあるのだが)はどうやって調べればよいのだろうか。そもそも英語で世界三大美人とかってどういうのか?
2007年04月26日
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世界三大美人といえばクレオパトラ、楊貴妃、小野小町ということらしい。らしいというのは長いことそういうふうに記憶していたからだが、よく考えてみるとちょっと変だ。古今東西の三大美人になんで極東地域から二人も入っているのだろうか。それにクレオパトラとか楊貴妃は美貌で歴史を動かしたといえるが、小野小町というのは、日本でもあまり知らない人が多いのではないか。秋田出身で六歌仙の一人でといっても、それはどうみても美貌とはあまり関係のない話だ。それに有名な「花の色は…」の歌も容色が衰えてからの嘆きだし、大きな声じゃいえないけど身体に欠陥があったなんていう噂もある。で、調べてみたら思ったとおり。小野小町を入れているのは日本だけで、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネというのが世界標準らしい。それにしてもこのよくある世界三大なんとかって、どこでどうやって決めているのだろうか。美人といったって写真で比較できるわけじゃないし、ただ言っているだけという感じもするのだが。ついでにいうとこの世界三大美人の三人目は国によって変わるなんていう話もある。なるほど。
2007年04月25日
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韓国が北朝鮮に対しコメ40万トンの支援を行うという。40万トンといえば北朝鮮の人口を2000万だとしたら一人20キロである。赤ん坊からお年寄りまで含めての20キロだからそれだけで全国民の食料をほとんどまかなえるのではないか。ましてやそのコメを輸出して家畜用のトウモロコシや芋にかえれば、一部を換金して支配層の奢侈や兵器開発につかってもまだおつりがくる。北朝鮮はもはや同胞国家の韓国に寄生しているといっても過言ではなく、吸収統一をおそれる韓国もそれを必死でささえているという…状態である。核兵器廃絶にむけた約束が全然履行されなくとも韓国による支援は行われる。そして韓国から運び込まれたコメは将軍様の恩恵として国民に下賜されていくことだろう。※ところで日本の立場であるが、今までは「拉致事件解決なければ支援なし」といっていたものが、いつのまにか「拉致事件進展なければ支援なし」に変わってきている。最近、工作員に対する「逮捕状」がだされたり、幼いときに工作員の父親に「拉致された」幼児二人の被害者認定などが、「拉致事件進展」の形だけを作るものでないことを願うばかりである。韓流ドラマ「不滅の李舜臣」は本当によくできていて面白いのだが、朝鮮水軍反撃後の日本兵が死んでいく場面などリアルにできていて、いくら歴史物でも日本のテレビで放映するのはちょっとという気もする。そしてそれ以上に日本軍の捕虜が殺害される場面となるとさすがに抵抗がある。そしてそれこそ侵略などとはなんの関係もない拉致被害者の中にも殺害された人がいるのかもしれない…などとつい連想してしまう。「拉致事件解決なければ支援なし」というのは何も感情論ではない。国家としての尊厳の問題である。逆にいえば拉致事件に目をつぶって北朝鮮支援にのりだすような国だったら、いくら愛国心教育をやろうが決して愛国心など育たないであろう。※※世界三大美人はクレオパトラ、楊貴妃、小野小町だとずっと思っていたが、小野小町を入れているのは日本だけだという。考えてみればそれもそうだろう。国際標準ではクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネだという。しかしよくいうこの世界三大なんとかって、いったいどこで誰がどうやって決めているのだろうか。ちょっと不思議である。
2007年04月25日
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中国奥地での暴動が国際欄のべた記事でしか報道されないことはつとに有名だが、外国、それも欧州のサミット参加国で1000人もの中国人が暴動を起こしたとなるとことは重要だろう。イタリアで女性警察官とのトラブルをきっかけとして中国人が暴動を起こしたという。詳細は下記のサイトをみていただきたいが、コメントにはGo out,Chinkといった文字が躍っている。そりゃあそうだろう。たぶんあちらの感覚では皆同じような顔にみえる不気味な異人種の集団が暴動を起こしたとなればエイリアンに侵略した地球人のような気分になる。なぜこれを日本のマスコミは報道しないのだろうか?これにかぎらず日本のマスコミは相手が中国となると妙に腰のひけた報道がめだつように思う。http://dogma.at.webry.info/200704/article_13.html※中国には血縁意識はあっても国家意識はないという。中国が経済発展をすればするほどより多くの中国人は少しでも豊かな国を目指すようになる。そしていったん定住すれば故国には戻りたがらず逆に家族親族をよびよせる算段をする。あの銃乱射事件のあったバージニア工科大学でも韓国人よりも多くの中国人留学生がいたというからおどろきである。当初犯人中国人説がながれたのも決して単なる流言飛語ではなく、ブログで銃の収集癖を自慢し、最近失恋したことを嘆いた某中国人留学生が犯人と思われていたらしい。少しでもよい生活を求めてどんどん外国に進出し、そしてそこでもミニコミュニティーを作って遠慮もなんのその、暴動まで起こすエネルギーって正直言ってすごいと思う。最近は日本でも再チャレンジなんていう言葉がはやっているが、外国まで行って再チャレンジしようという人はなかなかいないようだ。海外進出に際しての橋頭堡となる同胞コミュニティーや血縁共同体がないということもあるのだろうが、同じアジア人(この表現もなんだが)のバイタリティーをみるとなんかエリートしか海外に行かない日本社会もちょっと変なのではないかとも思う。まあ、暴動や銃乱射はよくないけどね。
2007年04月24日
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温家宝の国会演説で「日本に文字を教えてやった」のくだりが失礼だのなんだのって言っている人もいるみたいだけど、そんなことどうでもよいのではないか。漢字が中国で発祥し、それが日本に伝えられたことは事実なのだから…。そしてまた温家宝の国会演説も日本語でみるかぎりでは非常に練りに練った言葉で綴られており、「日本に文字を教えてやった」といった表現では決してない。※史書によると漢字は4世紀の末に百済の碩学王仁博士によって日本に伝えられたとされている。王仁という特定の人がいたのか、それとも何人かの人物のイメージを総合してそういう人物が造形されたのかはともかくとして、中国発祥の文字が朝鮮半島の人々によって日本に伝えられたことは歴史的に争いのないところである。王仁はその後「王仁命」として学問の祖の神となり、百人一首の前に詠われる「難波辺に さくやこの花 冬ごもり 今は春べと さくやこの花」の歌も王仁博士の歌と伝えられている。上野公園にはたしか韓国大統領(キムヨンサム)によるこの歌の碑があったと記憶しているので、別に国会でいわなくとも、日本に文字を伝えた文明の先進国という自負は韓国にもあるのだろう。※ところで、今読んでいる太平記は後半になるほど本筋とは関係のない説話の挿入が多くなるのだが、そこに王仁博士についてのこんな記述がある。新潮日本古典文学集成太平記(五)の453頁である。「神功皇后新羅を攻めさせたまうこと」という段の末尾部分である。引用「…三韓の夷の王、自ら罪を謝して降参したまいしかば、神功皇后御弓のうらはずにて、『高麗の王は我が日本の犬なり』と石碑に書き付けて帰らせたまう。これより高麗我が朝に従いて、多年その貢を奉る。いにしえは呉服部という綾織、王仁という才人、我が朝に来たりけるも、この貢に備わり、大紋の高麗縁もそのはこものとぞ承る。」
2007年04月23日
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電車の中でおきたレイプ事件が様々な論議をよんでいる。もちろん車掌に通報しなかった乗客の行動を非難するものが多いのだが、一方でじゃあ自分がその場にいたら何ができたかを考えてみる。部署の関係で1時間近く電車に乗って通勤していた頃、何日に1回かはたいてい「車内の変な人」にでくわした。奇声をあげる人もいれば、ぶつぶつと独り言をいってやまない人もいた。そうしたときには本当に気味悪くさりげなく次の駅で降りてから車両を変わったこともあった。そうした理由はなにもその人にだけあったわけではない。不運にもそんな人がからんできたとしても、周囲の人はたぶん見て見ぬふりをするだろうと思ったからである。その意味では大勢の人が乗る電車の車内も深夜の街角となんらかわることがない。それではもし車内で変な人が、自分ではなく誰か他の人にからんでいたのをみたとしてらどうだろうか。直接止めるどころか、車掌に通報することもするかどうか…正直いってちょっと自信がない。そしてまた車掌に通報したことろで、車掌は体をはってでもそうした行為をとめることができるのだろうか。乗客の犯罪をとりおさえようとして車掌が殉職をすれば美談ではあるが、すべての車掌にそんな美談的行為を期待することはできない。※格差社会ということがよくいわれるが、問題は格差そのものではなく、貧困層の増大である。生活が安定せず、将来への希望を持てない人が増えれば治安は確実に悪化する。日本で非合法の銃所持が少ないのは治安のよさの原因ではなく、結果であることをよく認識しておく必要があるのではないか。自分の身が危険だとなれば法を犯して人はどんなことでもする。日本の治安が崩壊したときには、いくら銃所持を禁止しようが、若い女性などで非合法に銃を持とうとする人がたえなくなるのではないか。ただ、この車内の事件に関して言えば容疑者は別の暴行事件で起訴をされているという。こうした人物がなぜ野放しにされていたのか、そのへんの議論ももっと行うべきであろう。
2007年04月22日
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最近「不滅の李舜臣」という韓国ドラマをDVDで見ている。李舜臣は文禄慶長の役の際の朝鮮側の水軍の将で現代の韓国では極めて評価が高い人物である。なにしろソウル市の目抜き通りに銅像が建っているくらいなのだから。そのためドラマもオーソドックスな英雄伝説のような作りとなっている。最初の女真族討伐の戦いでは援軍を得られなかった上、敗戦の責任を問われて一兵卒に格下げされながらも、奇襲攻撃を発案して最後の最後に逆転をする。史実とはとても思えないが、女真の酋長と一騎打ちをする場面まであって娯楽作品としてはサービスも十分だ。※こうして女真討伐で功績をあげた李舜臣は紆余曲折の果てに全羅左水師となる。その後1年足らずで文禄慶長の役、つまり朝鮮からみれば日本軍の侵略が起こる。このドラマの本編ともいえる場面は女真族相手の英雄談とはうってかわって、かなり凄惨な場面がつづく。4月の平和な漁村の風景、魚を干しながらおばさん達は世間話に興じ、漁を終えた男達は子供を肩車などしながら家路についている。そこに日本軍の先鋒部隊小西行長の軍がやってきて村人達を片端から鉄砲で銃殺する。平和な村は一瞬で阿鼻叫喚地獄に変わり、釜山の朝鮮軍は一緒にたてこもった村人もろとも数時間で壊滅。その後も第二陣、第三陣の舞台が上陸するにつれて国土は蹂躙され、恋人の目の前で逃げ遅れて拉致されていく若い女性や炎に包まれて燃えていく膨大な量の書籍などの場面が延々と続く。やがて李舜臣の待機している軍営にも小船で非難してきた血まみれの避難民があらわれ、声をふるわして「やつらは人間じゃない。怪物だ。殺した人間の耳をそぎ、鼻をそぎ…」という場面などは歴史的知識としてはそうした話を知っていても、ドラマとして映像でみるとはるかにリアルである。足軽部隊による住民の無差別銃撃などどこまでが歴史的事実かはわからないが、血は山河を染めると記録にあるように住民にも甚大な被害があったことは事実だろう。日本人の感覚では文禄慶長の役などは歴史の一こまにしかすぎないのだが、韓国の人にとってははたしてどうであろうか。※韓流というと愚にもつかない恋愛ドラマばかりが紹介されているが、こうしたドラマも日本で紹介されてもよいように思う。ちなみにこの「不滅に李舜臣」は高視聴率をあげた上、ドラマ部門でのいくつもの賞をとり、再放送もされているという。ドラマとしても本当によくできているし、全く日本で紹介されていないのも残念なように思う。それに韓国人がこうした歴史認識をもっているということはやはり直視すべきではないか。16世紀の日本侵略の被害の大きさを考えると、その後の朝鮮通信使なども報復を恐れた徳川幕府の懐柔策だったのかもしれない。通信使は費用負担の大きさで中断されるのだが、巨額の費用を払ってまで大人数の使節を招聘し、接待する必要を感じていたということであろう。※※どうでもよいけど李舜臣で検索してみたらこんなニュースも…。http://www.chosunonline.com/article/20060427000048慶尚南道で李舜臣将軍を世界化するためのプロジェクトを行うという。それはよいのだが、この戦争の際の日本軍の簒奪などをテーマとした「受難史館」を建設するらしい。なんかやめてほしいなあ。400年以上前のことだし。
2007年04月21日
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温家宝の演説に熱烈に拍手をおくる国会議員をみていると、なんか日本には中国崇拝DNAのようなものがあってそれのなせるわざかしら…なんてつい思ってしまう。なにしろ温家宝も演説の冒頭でいっていたように稲作、文字、思想と日本文化の根幹を形作る多くのものはもとはといえば中国に淵源をおくものなのだから。今の日本人が中国を崇拝しているかどうかはさておくとしても、江戸時代に限ってみれば、インテリの中国崇拝というのはけっこうあったらしい。そりゃ武士階級の正式な学問といえば漢学だったし、無理もないといえば無理もないが、はだはだしきは中国を「聖賢の国」とよんでいた人もいたらしい。四書五経はいずれも中国の書物であるが、あれほど人倫についての深い省察を行っている人々だからさぞ聖人や賢者も多いだろうという発想である。※しかしよく考えてみるとこれには別の考え方もできる。史料などで「○○を禁ずる」という文献があれば○○を行わなかったというよりも、禁ずる必要があるほど○○をする人が当時は多かったとよむのが普通である。人倫に対する深い省察を行った書物が出たのは、逆に言えばそれをする必要があったからではないか。そんな観点から異議を唱えたのが国学者たちである。日本の古典などを読んでいると、忠誠とかいさぎよさとか敗者への思いやりとかいった行動の美しさを感じることが多いのだが、中国の古典にはあまりそうしたものは感じない。それどころか日本では想像もできないような酸鼻きわまる残酷な話も多いし、人を喰らうような話もやたら多い。日本でファンの多い三国志ですら妻を殺してその肉を玄徳に食べさせ、玄徳もそれを感謝して食べたなんていう場面がでてくるほどである(もちろん吉川版ではこのエピソードは省かれている)。※中国が実際のところ聖賢の国だったか、それとも国学者達の方に理があったかはさておくとして、日本は中国とほどよい距離で海に隔てられている。それゆえ昔から憧憬を抱く人は多かっただろうし、あの温家宝来日でせっせと宿所におしかけたりした議員先生にもどっかにそんな感覚があったのかもしれない。どうでもよいけど、外国から見ると、日本では、米国大統領よりも温家宝の方を熱烈に歓迎して熱狂しているようにみえたのではないのだろうか。
2007年04月20日
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米国の銃乱射事件の犯人は「金持ちへの恨み」などを綴ったメモをのこしており、どうも過度の被害者意識を持つ人間だったようだが、全く理解を超えている。人もうらやむ一流大学へ通っている境遇のいったい何が不満だったのだろうか。単なる異常者ではないのか。米国でこうした事件が起きるとすぐに銃社会アメリカの病理とかいう人がいるが、銃だって使うのはあくまでも人間である。病んでいるのも銃ではなく人間。ただし、銃があるとそうした人間の犯罪への狂気が暴発するとより大きな惨事をひきおこす。それだけのことだ。そういえば今日、何年か前に池袋で通り魔事件を起こした男の死刑が確定した。彼だって銃を持っていたらもっと大きな惨事をひきおこしていただろう。その意味で銃が規制されている社会というのはありがたいが、一方で銃という最も強力な護身手段をもてないのも銃規制社会である。体感治安が非常に悪化していけば一人暮らし女性などで非合法に銃を持つようなケースもでてくるのかもしれない。銃規制社会のありがたさは銃をそれほど必要としないという治安のよさあってのものだろう。治安が悪くなれば、女性などの犯罪弱者にとっては、銃ももてない社会というのはそれほどありがたくない。
2007年04月19日
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銃による犯罪事件が起きるたびに日本では銃を規制しろという議論がわきおこるが、「銃で撃たれたくなければ銃をもて」という感覚も世界では決してめずらしくない。よい悪いの問題ではなく、乱射事件のあった米国では護身用の銃をもって登校する学生が増えていくことだろう。※日本の銃規制はたぶん世界でも最も厳しいものであるが、これはたぶん江戸時代にまでさかのぼる伝統のせいではないか。江戸時代を舞台にした時代劇をみると銃というものはほとんどでてこない。戦国時代に使われた鉄砲を、まるでそんな武器がこの世に存在することを忘れたように暮らしていたわけである。強力な武器を持ちたいというのが人間の本性に宿る根強い願望にもかかわらず江戸時代の人間はなぜ鉄砲を捨てたのか…そのあたりも興味深いところである。
2007年04月18日
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活字に比べて映像の力というものは非常に大きい。例えば欧米中心の歴史観や世界観のひろまりもハリウッドなどの米国映画が世界中に輸出されていることと無関係ではないだろう。活字ならこれはすでに歴史になったことですませられることが生々しい映像でみるとそうはいかない。そうした意味で遠藤周作氏の小説「沈黙」が海外で映画化されることに危惧の念をいだく人もいるようである。日本でキリスト教弾圧があったことは歴史的事実であるし、内容についてどうこういうことでもないが、それでも棄教のための拷問などが刺激的な映像になったりすればいろいろと誤解をまねくこともあるのかもしれない。※そもそも日本で過酷なキリスト教弾圧があったといわれるが、その表現についてはちょっと疑問に思っている。だいたい日本にキリスト教が伝わった頃ってすでに宗教改革がはじまった後であり、同時期にヨーロッパで宗教戦争で殺された人の数に比べれば、日本の宗教弾圧の被害者数は微々たるものではないのだろうか。こうした弾圧の結果大規模な改宗があったという記録もあるが、逆に言えば表面的にでも改宗すればなんの迫害や差別もなかったというのも、また、実態だったのである。※蛇足ではあるが故遠藤周作氏はキリスト教徒ということになっているのだがどうもよくわからない。だって彼の「イエス伝」を読むとイエスキリストの奇跡などまるでしんじていないようなのである。小さな人間界の奇跡も否定するのに、万能の神を否定しないのはおかしいし、逆に万能の神が存在するのなら、奇跡を起こすのなどその神にとってはたやすいことだろう。イエスキリストは普通の人だったと思うがそれでも自分はキリスト教徒だというのがどもよくわからない。参照:http://www.melma.com/backnumber_45206_3628888/
2007年04月17日
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高校生の学力テストの成績分布が二峰化していることをどうみるのだろうか。普通なら正規分布に近くなるはずの同質集団の能力が二極化しているということは中位層が上位にいっているというよりは下位に流れているとみるのが通常であろう。多くの部分を占める中間層の子供たちが勉強への意欲を失っていたり、成績向上の機会が奪われているのだとしたらことは重大である。政府は景気がよいとか上げ潮だとかいっているが、成績が中下位の人間にとっては状況は厳しい。教育政策にしても他の政策にしてもこうした中間層以下の層に照準をしぼった施策ができないものかと思う。※そういえば最近、キオスクが次々と消えているという。品物の値段をすべて覚えている熟練した店員をリストラしたために後継者が育っていないのだという。今日のキオスクで起こっているようなことは、将来社会の様々な分野で起きることではないのではないか。経費を節減できるからとじっくりと人を育てることをしないと必ずそうなる。多くの若者が勉学への意欲も人生の希望もあきらめ、職業分野で自己を鍛えたり成長する機会もないまま年取っていけば、この先どうなるのか…。少子化対策だのといって生まれる前の子供の心配をするよりも、今生きている多くの子供や若者のための施策の方が重要である。
2007年04月16日
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高校生学力テストでちょっとショッキングな結果がでている。数学、理科、英語などの多くの科目で点数によるヒストグラムを作ると山が二つある形状の分布を示すという。山が二つ…これが何を意味するかというとそれは異質な集団の混在である。例えば男女を一緒にして身長などの数値をグラフ化するとたいていこんな形になる。この山が二つという形は昔からなのだろうか。もしこれが最近ことに顕著になっている傾向なのだとしたら学力の二峰化はいずれは中流層の崩壊、そして社会の亀裂につながるのではないかと危惧している。※もう一つ考えさせられるのは、この二峰化が数学や理科だけではなく英語にも見られることである。今や多くの国で国民の英語力を国際競争力の一環として位置づけて英語教育に力を入れている。世界で最も競争力のある国とされるフィンランドは国民の英語力水準も非常に高いが、フィンランド語自体は日本語と同様、主語、目的語、動詞の語順で各単語を助詞でつなげるタイプの言語で英語とはもちろん似ても似つかない。英語教育軽視の施策が環境に恵まれない子供の英語力低下につながっているのだとしたが大問題である。今世紀は観光の時代ともいわれて観光客をどのくらいよべるかということも国際競争の上で大きな力になる。みやげもの店の店員もタクシーの運転手も、これからは最低限の英語くらいできるのが常識ではないのだろうか。※また脱ゆとり教育の成果で点数があがったというが、上がったのは主に暗記系の科目である。本当の意味での教育水準を向上させたければ教師の質を向上させるのが第一であり、質向上には待遇改善しかない。教員免許を更新制にするとか、教師の給料をさげるとかといった議論はその意味でも教育改革ではなく、教育改悪である。
2007年04月15日
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教育再生会議で学部毎に授業料の差をつけるという議論をしているらしい。たしかに国立大学の大学院といっても、最先端の科学研究を不眠不休でしているところもあれば、エリート主婦(優秀な女性はやはり優秀な男性と結婚することが多いので)が源氏物語の研究などをやっているところもある。同じ国立大学だからといって同じような授業料、そして同じ基準での税金投入というのはどう考えてもおかしいとつねづね思っていた。重要な科学研究を行っているような大学生や大学院生には授業料ただなのはもちろん、新人官僚や司法修習生以上の金額を逆に支給してもよいのではないか。最優秀の頭脳に対しては国家はそのくらいの優遇をすべきである。※ところが…教育再生会議の議論の方向は別だというのだからびっくりする。学部で授業料の差をつけるというのは、理工系の授業料を高くするということらしいのだ。昨日の産経新聞には数学五輪に出場した元天才少年でも商社や銀行に行く例もあると書いてあったが、そんなことをしたらこうした傾向にますます拍車がかかるのではないか。文科系は利口で忍耐力のある人間なら誰でもそこそこにはできる。しかし理工系はそうではない。理工系の才能というのは、それこそgiftというか天の配剤でその人間に与えられた財産のようなものである。明治の近代化や戦後の復興の歴史を考えてみれば、その限られた理工系の人材を活かすかどうかが、結局は国家の興亡を決めるといっても過言ではない。理工系の授業料を、受益者負担の名の下に法文系よりも高くしようという、教育再生会議の提言はどうみても改悪としか思えない。※※あの有栖川宮詐欺事件の犯人だった女性がGカップとやらを披露していると話題になっているが48歳であの若さ…というだけでもうらやましい人だ。40代半ばすぎても十二単のお姫様だのGカップ披露だのというのなら、それこそゆうに100歳は生きるお方だろう。そういえば世間はほとんど忘れているが、あの宮様詐欺と同じ頃、偽フランス貴族令嬢詐欺というのもあった。富山出身(別に富山をバカにしているという意味ではない)の45歳女性が、25歳のフランス貴族令嬢をなのって結婚詐欺をやったというのだが、こちらの方は週刊誌に続報もでなかったし、写真もマスコミにはのらなかった。45歳のニッポンのおばさんがどうやったら25歳のフランス貴族令嬢に見えるのだろう。化粧法とかなんかのコツとかがあるのなら、公共の福祉という見地からも、そうした知識はぜひ社会全体で共有すべきである。もちろん私にだけそっと教えてくれたらもっとよい。
2007年04月14日
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裁判所の決定をうけてまたまた代理出産についての議論がもりあがっている。これについてはいろいろの考え方があるが、反対している人とは別に意味で、こうした不妊治療の問題というのは「神の領域」なのではないかと思う。つまり個々人の生命観、倫理観の深いところにかかわっている問題で、議論でコンセンサスなど得られるわけもないし、考えの異なる人を説得できるわけもない。それはちょうど神や信仰の問題は議論で決着がつくわけないし、信仰を異にする人を説得できるわけもないのと同様なのである。日本には「わが仏尊し」といって互いの信仰には関与しないという価値観がある。不妊治療についても同様にできないのだろうか。それぞれの生命観、倫理観にもとづいて代理出産を行いたい人は行えばよいし、反対する人は自分がやらなければよいだけのことだ。もちろんその過程で強要などの行為があれば現行法でも犯罪として処罰できる。へたに法制化などをして国家がしゃしゃりでて不必要な「犯罪者」をつくってしまうことなど大反対である。※※最近ちょっと気になるのは拉致事件に関して今更ながらの「逮捕状請求」や新たな「被害者」が認定されたりしていること。これってこれをやったら拉致事件の進展と認めますよというシグナルではないのだろうか。おじいさんの工作員や戻ってくる可能性の高い「被害者」を新たに提示することで、拉致事件の進展、経済支援という道筋を誰かが考えているのだとしたら…。
2007年04月12日
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「判官びいき」という言葉がある。功なり名遂げた人物よりも歴史の流れの中で滅びる側にたって美しく消えていった人物に人気が集中する傾向をいうらしい。その判官びいきの語源となった源義経が人気があるのは、なによりもその悲劇性にあるのだろうし、彼を主役にした映画やドラマでもみどころ(といってはなんだが)はたぶん運命が暗転した後の逃避行の場面などにあるように思う。もっともおなじみの忠臣蔵にしても、あだ討ちを果たしてスカッとしておわるというよりも、やはり全員切腹して内蔵助が辞世の歌を詠む場面までみないと最後までみたような気にならないのではないか。※そしてことはこうした史実をもとにした物語だけにとどまらない。フィクションの世界でもどうやらハッピーエンドよりもアンハッピーエンドのほうが好まれる。江戸時代にさんざんはやった歌舞伎の心中ものなど、ああいうタイプの話がなぜいくつも好まれているのか、考えてみると不思議である。歌舞伎にかぎらず日本で人気のある恋愛小説というのは最後に結ばれてめでたしめでたしというのはどうも少ないようだ。不如帰、金色夜叉、風たちぬ、野菊の墓など皆悲恋物語である。そういえば童話で「フランダースの犬」というのがある。ラストでは主人公が愛犬とともに死んでしまうという話で、本国ではほとんど忘れられていたらしいのだが、日本ではなぜか人気があり、舞台となったフランダース地方に日本人の観光客が来るようになって再評価されたらしい。これを映画化するという話があったが、あまりにも悲しい結末のためハッピーエンドに変え、日本市場向けにだけ原作どおりの悲しい結末のものにするのだという。※実生活ではもちろんアンハッピーよりもハッピーの方がよいのだが、物語の世界ではアンハッピーエンドが好まれるのはいったいどうしてなのだろうか。こういう傾向が日本で特に顕著なのだとしたら、それこそ日本人論としてぜひ語ってほしいテーマである。
2007年04月11日
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朝鮮日報4月4日にこんなコラムが載っていた。もちろん筆者は日本人ではなく歴史評論家のイ・ドギルという人だ。江戸時代に行われた朝鮮通信使の目的の一つに文禄慶長の役でつれてこられた捕虜たちの本国送還があったという。ところがこの送還というのがかなり大変だったらしい。1617年の使節の従事官のイギョンジクという人の書いた扶桑録という本によると、捕虜たちが帰国を拒否する例がかなりあったということだ。記録では、「倭京(江戸)に到着して以降次々と会った捕虜達で帰国を希望する人は少なかった」とある。それでも士大夫出身の者は帰国を望む例が多かったが、一般人は違う。朝鮮では賎民だった陶工は日本では匠人として地位を得ているので別に帰国する必要を感じなかったらしい。もちろん何年も日本で生活していて生活の本拠ができていたというのもあるが、それでも捕虜の多くが帰国を望まなかったというのは、なかなか興味深い事実である。まさか某国の拉致被害者のように「帰国を望まない」ように言わされていたわけでもないだろうから。
2007年04月10日
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毎月膨大な数の本が出版されているがこのごろとんと見なくなったタイプの本がある。それは「日本人論」というジャンルの本である。肯定的なもの、否定的なもの、外国人によるもの、日本人によるもの、にせ外国人によるものといくつかタイプがあるものの、たいていどの時代にもその時代を代表する「日本人論」というのがベストセラーになっていたような気がする。でもそうした本の多くは、内容的には同工異曲で、日本人の集団主義や大勢迎合性を記述し、いかに日本人が「特殊」かを強調したものが多かったように思う。そしてその特殊性の由来についても、農耕民族的特性だとか天皇制の存在だとかに話をもってくるのがほとんどだったのではないか。※しかしよく考えると農耕など地球上の多くの民族がやっている。日本人イコール農耕民族だから特殊というのも、ちょっと考えれば変な理屈だ。それにその「特殊性」への持っていき方も、欧米と日本を比較し、違うところをさんざん並べた後、だから日本人はユニークだとする。なんか多くの日本人論というのは、アジア、中東、アフリカという視点がすっぽりとぬけている。この日本人論というジャンルの本の中で日本人とアフリカのどっかの民族とを比較した本というのは、私はいまだに見たことがない。そしてさらにこうした日本人論が日本人のユニークさの傍証としてあげていることも、虫の音を右脳で聴くのは日本人だけとか、湯という言葉があるのは日本語だけだとかいった、どうも怪しげなものが多い。虫の音と右脳の話についてはどうやって調査したのかぜひ知りたいところだし、湯という言葉があるのは日本語だけだとしても、だからどうなんだという話ではないか。※最近こうしたタイプの日本人論がはやらなくなったのはなぜなのだろうか。日本人論というのは均質な日本人の存在というのを前提にしている。格差社会の中で、日本人の均質、同質というものが消えていけば日本人論そのものがなりたたなくなる。また、多くの日本人論というのは、非ヨーロッパで唯一近代化に成功した日本人というのを前提にしている。唯一非ヨーロッパで近代化したからには、日本人というのはアジアでもヨーロッパでもない非常に特殊な存在に違いない。多くの人はそれを説明し、安心させてくれるものとして日本人論を求めたのではないか。しかし、今やアジアも発展しつつある。日本人だけが近代化したなんてしっているうちに他のアジアの国々に追い越されることもあるかもしれない。こんなこともあって、本屋に行っても昔ほど日本人論というのは置いてないのだろう。
2007年04月09日
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おくればせながら最近韓流にハマっている。冬ソナブームの頃は「ヨン様ってお笑いタレントみたい。」とか「冬ソナの設定は記憶注入とかありえないことばかりじゃん。」とか思っていたし、韓国ドラマもひところはやったインド映画と同様、こういうのもあるかといったところで何作も見るものではないと考えていたのだが…。でもやはり見ていると画像の美しさやストーリーのテンポのよさで、面白いものが多い。※最近みたものではなんてったって「天軍」が気に入っているが、「千年湖」も一度レンタルでみるくらいなら損はない。話はたいしたことないのだが、新羅の女王と亡国を結びつけた点などは大統領選挙をひかえて意味深なメッセージがあるのか(慶尚道出身の朴大統領の娘が有力候補)なんてついかんぐってしまう。「天軍」で韓国軍人の尊敬してやまない李舜臣がダメ青年から英雄に変貌するところをみたのだが、正統的な李舜臣の映画はないかと思ってレンタルを探してみたがどうもそうしたものはない。KBSの大河ドラマで「不滅の李舜臣」というのがあって韓国ドラマの様々の賞を受賞しているときいて、探してみたらDVDが発売されている。2巻組で1巻でも1万円以上もするのだが、2週間ほど逡巡したあげくについに買ってしまった。字幕は英語と韓国語のみ…大丈夫かなあ。※というわけでここ2,3日毎日DVDをみているのだが、主演は韓国版「白い巨塔」でも主演をつとめるキムミョンミン氏。一度目にみたときは字幕をみながらで理解度は半分いったかなというほどだが、最初の章では迫力のある物語にとにかく感動。この女真族との戦いの物語が終わるといよいよ日本との戦いの章になる。このDVDの日本語字幕版がでないのは反日映画という位置づけがあるのかもしれないが、400年以上昔の歴史的事件で反日だなんだといってもはじまらない。そんなつもりでみはじめたが、上陸した日本軍が鉄砲をつかって市民や兵士をかたはしから射殺していく場面にぎょっとする。泣き叫ぶ幼児や兵士達に連れて行かれる若い女性。それに死体の山。スペイン人が南米に上陸して原住民を皆殺しにしたような光景がアジアの端でもかって展開されていたのだろうか。足を踏んだほうは忘れても踏まれたほうは忘れないという。日韓併合のみならず、文禄慶長の役も韓国からみれば単なる歴史ではないのかもしれない。ちなみに文禄慶長の役は韓国では壬辰倭乱というが、最近では対等な国家の戦争ということで朝日戦争という言い方もあるらしい。そういえばDVDの中でも朝日戦争という語が使われている。
2007年04月08日
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「こうのとりのゆりかご」(マスコミの付けた名称は赤ちゃんポスト)がまたまた話題となっているが、これをめぐる議論の中で、赤ちゃんの出自を知る権利はどうなるという議論がある。母親の匿名性と赤ちゃんの出自を知る権利は二律背反であって、母親の匿名を認めれば赤ちゃんは出自を知ることができないし、赤ちゃんの出自を知る権利を守れば母親の匿名性は守られない。この出自を知る権利というのは人工授精などの不妊治療でも問題にされ、出自を知る権利を犯すから匿名での精子提供は認めるべきではないということをいう人までいる。※ここですごく不思議に思うのは遺伝上のDNAを知る権利、親を知る権利ってそんなに重要なのだろうか。逆に言えば遺伝上の親を知らない人というのはそれだけでそんなに不幸なのだろうか。思えば人なんて自分の意思とは全くかかわりなく、自分の選択の及ばない条件の下に生まれてくる。親がそろっていたってその親の事情は様々である。不和の両親もいれば、男をつなぎとめる手段として子供を生む母親もいる。そしてまた、性別、能力、健康など重要ないくつかの要素は生まれたときにかなり決まっているのではないか。だからあえていう。病気や障害、その他のもろもろの不幸にくらべて、自分の親を知らないなんていうことはそんなに不幸なことではない。もし、不幸だとしたら、それは親をしらないからではなく、それゆえに育った環境が不幸だったからではないか。※親をしらなくても才能や能力を開花させ、有意義な人生を送っている人はいる。贈り主についての情報はなくとも、健康な身体、才能、能力、そうしたものがいくばくかでもあればそれこそ最大の贈り物であろう。以前、人工授精で生まれた方のブログを読んだことがある。育ててくれた父親を責め、人工授精児だから自分は不幸だといわんばかりのものいいにはちょっと辟易とした。まあ、その立場でないからいえるといえばそれまでだが、「子供は親を知ることができない」からといって「こうのとりのゆりかご」に反対する意見にはとても共感などできない。そしてそれは子供の出自を知る権利をたてにとって人工授精を批判する議論についても同様である。
2007年04月07日
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3人の男たちが立ち上がりカメラに向かって深々と頭を下げる…すっかりおなじみの謝罪の光景であるが、どうにも違和感を感じてならない。何だろうかと考えてふと気がついた。こういうのってたいてい謝る対象となる行為は別の人のやった行為で、謝罪パフォーマンスを行っている当人は直接手を下していないのだ。だから、頭などいくら下げたところでそらぞらしさがただよってならない。部下の飲酒運転事故で組織の長が謝罪する。まあ、減給くらいはあるかもしれないけど、事故を起こした当人やその親が謝るのとはまるでわけがちがう。ある政治家は薬害エイズ禍を謝罪して一躍人気者になったが、あれだってたまたま大臣のポストについたばかりの人間が自分の関与していない行為について謝罪するのだから気楽なものだ。ああした謝罪のうそっぽさというのは謝罪に伴う痛み、それは間違った自分、愚かだった自分を否定する痛みでもあるのだが、そうした痛みがまったくないということではないのだろうか。※おなじようなうそっぽさは「日本の過去」を謝罪したがる人々にも感じることがある。謝罪している人々はたいてい過去の日本と自分との間になんの紐帯も感じていない。たまたま「日本人」であるというだけで、日本軍国主義のなした悪行の謝罪をし、自分はよい人になったつもりになっているのだから気楽なものである。そんな謝罪マニアの中には、わざわざ文禄慶長の役の謝罪までやる人もいるという。でも、その文禄慶長の役の300年前には蒙古と高麗の侵略である文永弘安の役があった。いったい謝罪というのはいつまでが対象となるのだろうか。ローマ法王はこの間、十字軍による侵略を謝罪したが法王庁と俗人の政治家とは歴史的な時間感覚が違う。過去にさかのぼって侵略を謝罪していったらモンゴルなんて世界のあちこちに謝らなければならなくなってしまう。
2007年04月05日
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最近はちょっと下火になったのかもしれないが、ひところ本などでよくとりあげられたテーマとして「日本人はどこから来たか?」というのがある。しかし、そもそも北海道かあら沖縄まで含めた日本人という概念自体、たぶん明治以降のものだろうから、この問い自体ちょっと無理がある。何万年とさかのぼればこの日本列島には人類が一人もいない時期もあったのだろうが、その後、今の日本人の祖先が全く同じ「どっか」からやってきたなんてちょっと思えない。結局、「日本人はどこから来たか?」という問いには。「さあ、いろいろなところから来たんでしょうね。」と答えるしかない。それではこの問いをもっとしぼって「大和朝廷をはじめとする日本の歴史の主流を担ってきた人々はどこからきたか」とするとどうだろうか。これならなんか答えがありそうだ。そして今は昔と違ってDNA鑑定等の技術もある。よく古墳などの発掘で被葬者の骨も発見されたなどということがニュースになるが、なぜそうした骨のDNA鑑定を行わないのだろうか。それを行えば古墳に埋葬されたような古代支配層の系統というものは確実にわかる。将来的に天皇陵が発掘されるようになれば、古代天皇の遺骨のDNA鑑定を行うことにより、あの「日本人はどこから来たか?」という問いに対してはほぼ最終的な答えが出る。それこそどっかの評論家がいうように「天皇制は縄文以来の日本列島固有のもの」なのか、それとも高天原に擬せられるどっかからやってきたのかがはっきりするというものである。もちろんこれに対しては秘すれば花という見方もあるのだが。
2007年04月04日
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自衛隊は人殺しの練習をしているというどっかの知事の発言をなにやら問題発言のようにとっている人もいるみたいだけど、そもそも人を殺すことを全く念頭におかないで国家なんて守ることができるのだろうか。暴力を防ぐのは暴力によるしかないという究極のパラドックスの上に安全というものはなりたっている。もちろん人を殺すこと自体が目的ではなく、その意味では「人殺しの練習」という表現はいささか不適切ではあったが、国家を守るということは当然に国家の安全を脅かす者を殺傷するということも視野に入っているはずである。人を殺傷することを考えずに社会の治安や国家の安全を守ることができるなんて考えているとしたらそれこそ御伽噺である。
2007年04月03日
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プロジェクトXという番組があったが、あれを見ると戦後日本の復興をささえたのは何よりも有名無名の多くの技術者だったということがよくわかる。どっかのお役人の考えた政策がよかったというよりも、様々の分野で技術者達が寝食を忘れて、よい物を多く作り、外貨をかせいできたからこそ、短期間にあれほどの経済成長をなしとげることができたわけである。おそらく同様のことは明治以降の近代化の成功についてもいえる。日本の近代化といえば、欧米の政治体制や制度をとりいれた維新の元勲の働きばかりが強調されるのだが、実は、明治期の「地上の星達」もそれに劣らず大きな役割を果たしていたのではないか。短期間のうちに近代的な科学技術を身につけ、それを実用化していった技術者達である。もちろん、この背景には、物作りの職人を尊敬する風土や、漢学以外にも様々な学問が花開いていた江戸時代の文化があったことはいうまでもない。
2007年04月02日
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この間定年退職を迎えた人が職場で挨拶をされていたが、皆若々しいのにはびっくりする。昔はこうした定年の挨拶まわりっておじいさんばかりで、仕事を離れるといかにも余生という感じだったのだが、今は本当にこの人仕事をやめて何するんだろう…というくらい元気な人がめだつ。郷里のある人はもどって農業をやるなんていう人が多いようであるが、これからは郷里のない人も棄農地などを利用して農業を行うなんてことができればよい。※今日は四月1日だから何か面白いことでも書こうと思ったが、ウェブ日記でうそ書いてもしかたないし、まあ、最近のニュースで気になったものからいくつか。沖縄戦の住民自決で軍の強制という記述が教科書から消えるというが、こうした議論ってなぜもっと前にしなかったのだろうか。証拠云々といったってあの状況での軍の命令を示すような証拠が残っているわけがないし、事実を調べたければ生き残った住民の証言によるしかない。戦後もすでに60年をこえている。当時の大人なら80歳をこえているし、ましてや住民をたばねるような立場の人はとうに鬼籍に入っていることだろう。証言をできる人が消えつつある今頃になって、軍による自決の強制はなかったなどとするのは、日常の言葉でいえば「卑怯」なのではないか。自決に軍が関与していないのなら、なぜ住民は手榴弾で自決したのだろうか。強制かどうかは受け取り方の違いもあるであろうが、住民の自決に軍が関与あるいは容認をしていたということは、事実として動かせないところであろう。※従軍慰安婦についても同様のことがいえる。軍の強制をしめす文書はないが、日本占領下の地域で白人女性が日本軍人に暴行されたという事実、朝鮮半島から多くの女性が業者などを通じて戦地に送り出され、その背景にはやはり軍の関与があったという事実、これはあらそえないところである。これに対して、日本人の慰安婦もいたとか、日本女性に対する暴行もあったとかいってみたところで仕方がないのではないか。※教育再生会議では道徳を正式教科にすることを検討しているという。しかし公教育の場で道徳教育を行うのであれば、公教育がそもそも期待している人間像がどういうものであるか定まっている必要があろう。社会が共有する宗教とか価値規範があれば簡単なのだが、今の日本でそういうものがあるのだろうか。公共の場を汚さないとか、人に親切にするとかいった程度のことではとても授業としてはもちそうもない。
2007年04月01日
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