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友達の友達は友達だ…なんていう言葉があるが、そうだとしたらそんな「友達の輪」は法務大臣とアルカイダにもつながっているのだろうか。一国の大臣、いや大臣でなく単なる個人としてだって、そんなテロに関与した者の情報を持っているのなら速やかに警察に申告するのが義務ではないのだろうか。少なくとも指紋押捺の是非云々にとどまるような話ではない。※その法務省がまたあのゾンビ法案の準備をしているらしい。「人権擁護法」である。よく考えるとこの法案の名称自体ヘンテコリンだ。殺人を筆頭とする強度の人権侵害行為は犯罪として法でとっくに規定されている。だから犯罪となるような人権侵害なら犯罪対策をきちんと行えばいいだけのことである。それ以外の「人権侵害」とは何なのだろうか。セクハラ、パワハラといった労働環境の場で起こる人権侵害なら、それ相応の相談窓口を整理して労働法制などの専門家が相談にあたればよく、人権擁護法で考えている「人権擁護委員」のでる幕はない。学校での「いじめ」も同様だろう。※そしてこの「人権擁護法」の最大の問題は、特定の個人の人権侵害にとどまらない「差別を助長する言論」も規制対象になるということである。いったい物事を語る場合、こじつけようとすればたいていのものは「差別を助長」することになってしまうのではないか。公務員一般を批判すれば「公務員に対する差別を助長する」ことになるし、政治家一般を批判すれば「政治家に対する差別を助長する」ことになる。こうなるとネットで思ったことを書ける事由は急速に制約されていく。※外国には人権擁護法があるのに日本にないのは変だ、という推進派の議論はそれこそ変。外国云々よりも、こうした法案が日本で必要な理由をまず説明すべきではないか。最近またトーンをあげてきたマスコミのネット批判をみていると、本当にこんなネット言論の規制が実現してしまうのではないかと不安になる。「ものいわぬことは腹ふくるるわざなり」と古人はいっているが、ネット出現前はいくらマスコミの報道に疑問をもっても、普通の人にはそんな思いを世間一般に発信する機会はなかった。ネットはそんな機会を与えてくれる重要なツールだし、ネット出現によってはじめて本当の意味での「言論の自由」を多くの人が手に入れたのではないのだろうか。※※人権という意味ではマスコミ報道、特に犯罪被害者に対する取材や報道こそが最大の問題であると思うが、そうしたものはこの人権擁護法には入っていない。マスコミのいう言論の自由とは「マスコミの報道の自由」と同義である。マスコミは自分達に規制が及びそうになると日ごろ犯罪被害者をいたぶるような報道取材ばかりをしても、急に「権力を監視する」とか「巨悪と戦う」とかと正義ぶって猛反対する。そのくせネットを通じた一般人の言論の自由に対しては「ネットは犯罪の温床」だとか「便所のラクガキ」だとかとまるで冷たい。マスコミの報道にまどわされずにこの「人権擁護法案」の動きはしっかりとみていく必要がある。
2007年10月30日
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学力テストなどについての報道では必ずでてくる議論がある。それは親の経済力と子供の成績との関連を述べ、親に経済力がないと子供は十分に学力を伸ばすことができないと問題視する議論である。こんな議論をきくといつも違和感を感じてならない。※だってもしこれが学力ではなくスポーツなどだったらどうであろうか。スポーツ選手の親にはママさんバレーや職場野球の愛好者が多いという調査結果があったとしても、親がママさんバレーを熱心にやれば子供はスポーツ選手になるかもしれないなんていうことをいう人はたぶんほとんどいない。スポーツ向きのDNAが親から子に受け継がれて、それが親子それぞれでスポーツが好きで得意という形であらわれているだけとみるのが普通であろう。親の経済力と子供の学力との関係だって、これと似たようなものであろう。封建社会や身分社会ならともかく、今の世の中では、子供の頃学力の高かった人はそうでない人に比べて収入の多い職業についているケースが多いだろう。そうだとしたらがそうした親の子供はやはり勉強に向いたDNAを受け継いで学力優秀なケースが多い、というそれだけのことである。※なんでこんなことを書くかといえば教育の問題にしても、そして格差の問題にしても「能力」にふれることをタブー視した議論というのは偽善という感じがしてならないからである。格差についての議論で一頃政治家はよく「努力した人がそれだけの成果を得るのは当然だ」ということをいっていた。世の中の勝ち組といわれる人はそれこそ努力をしてきたのだろうけど、じゃあ、この間、九州で生活保護を断られて餓死した50代男性は努力が足りなかったのだろうか。不安定雇用で生活苦の人達には再チャレンジの機会を与えればよいのだろうか。酷なようだが、チャレンジの機会がいくらあっても、勝ち続ける人は勝ち続けるし、そうでない人はそうでない。※世の中には様々な能力の人がいるということを前提にした上で「格差」の問題だって考えていかなくてはならないのではないか。能力があり、成果をあげた人を優遇するのは当然としても、そうでもない(多くの人がこっちに属するだろうが)人々を貧困ラインに放置することが社会のあり方として、はたしてよいのだろうか。再チャレンジの機会を社会で用意することは重要だし、その意義は否定しない。しかし格差の問題の解決はそれにとどまらないこともまた銘記すべきである。※※能力云々と書いたが、こうした能力差は社会全体を考える上では必要だと思うが、個人レベルではそれに拘泥する必要はない。なぜなら自分は能力がないといってみたところで人生にとってよいことなど一つもないし、神ならぬ身で他人様の能力がないなどと決め付けることも不遜というものであろう。また、能力は親から子供に受け継がれる例が多いといっても、それはあくまでも確率の問題で、同じ兄弟でも能力に天地ほどの開きがある例だって少なくない。そして同じ程度の学力なら、親が優秀というよりも、親からみれば自慢の息子(娘)という方が親子ともども当人の幸福度は高い。世の中考えようである。
2007年10月29日
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いまや人口は減少局面に入って出生数よりも死亡数の方が多くなっている。そして今後この差はますます開いていくという。結婚式や赤ん坊のお宮参りよりも葬儀や仏事がありふれた光景となる時代の到来である。日本の宗教ではなぜか「生、この世の幸福=神様、死、あの世の平安=仏様」という形での神仏の所管の違いがあるので、口の悪い、というかいささか不謹慎な人は「神社は廃れてお寺は栄える」なんてことをいうのだが、本当にそうなのだろうか。※ちょっと前までは意識するとしないにかかわらず葬儀といえばお寺でやるものという感覚が普通だった。しかし今ではそれが変わってきているのではないか。それに最近檀家制度がくずれてきているという。うちは○○宗だからといっても、葬儀のとき無条件でそこのお寺がひきうけてくれるというわけではない。跡取りの家ならともかく都会に出た兄弟の場合には、新たに葬儀をするお寺を探さなくてはならない。そこまでして「お寺」にこだわる必要があるのだろうか。今は娘ばかりの家も多いし、成人後故郷を離れるのも普通だ。お寺も今後、檀家制度の上に安住してばかりもいられないのではないか。※おそらく今後は宗教にこだわらない葬儀の形も増えていくだろう。散骨とか樹木葬とか…こうしたものもきっと増えていく。別に信心深くなくても小さいときから仏事を見慣れていればそれがあたりまえだと思うし、田舎などではそうしたものを経験する機会も多い。葬儀=仏式というのが当然だったのは、そうした文化になじんだ世代が葬儀の主役だったからで、これからはそうはいかない。都会育ちの人々が葬儀の主役になっていけば葬儀の形も変わってくる。いや葬儀ばかりでなく仏事も親族とのつながりが疎遠になっていけば行わない例も多くなるだろう。親族といえども遠く離れてすむのが普通という今日ではそれだってやむをえない。※死後のことなんてもちろん誰にもわからない。でももしそうしたものがあったとしても、戒名や葬儀に多額の金を出さなければ死後の平安が得られない…などとはどうしても思えない。
2007年10月29日
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こうした話題を取り上げること自体、マスコミの笛に踊っているのかもしれないけど、今回の亀田騒動と称する騒ぎをみていると、何年か前にあった某プロ野球監督夫人に対するバッシング騒ぎを思い出す。次のような点がよく似ていると思わないだろうか。その人物を「嫌い」という人はいるだろうけど別に犯罪を行ったとかいうわけではない。ある時期まではもちあげていたマスコミが突然批判一色になる。その批判騒ぎでワイドショーや週刊誌のネタを一定期間もたせる。なぜ公人でもないその人物の言動をそんなに大きく報道するのかという疑問には誰も答えない。あ、もう一つ共通点がある。これがもし本当に人に危害を加えた人物、例えば元少年犯罪者などだったら、マスコミがバッシングどころか触れでもしただけで、人権屋さん達がどっと群がってくるだろう。ところがこうした理由のわからないバッシングに対しては人権屋さん達の動きもなぜか鈍い。まあ、亀田一家にしても某プロ野球監督夫人にしても、一応有名人で本人もマスコミを利用していたという面では同情の余地は少ないのかもしれないけど…それにしてもいっせいにもちあげ、いっせいに叩くマスコミというのはやはり怖い。※※新聞で本の広告をみていたら、この間の愛知県でおきた女性拉致殺害事件を下流層の暴走と分析した本もでているようである。昨今の格差拡大は単なる経済問題だけではなく、日本社会を質的にも変えている。あの女性拉致殺害事件の犯人達はいずれも定職がなく経済的に困窮していた中年者で、一人は車中に寝泊りしていたいわゆる車中ホームレスであった。介護殺人などと同様こうした事件も今後の日本では確実に増えていくだろう。そしてこれは犯人達の出会いのきっかけとなった闇サイトを規制しようがしまいがあまり関係はない。だからこの事件、マスコミが名づけるように「闇サイト殺人事件」ではなく「格差社会殺人事件」としたいところだが、それも犯人達を免罪するみたいでまずいのだろう。思うに、日本社会では、様々な紐帯が個人を規制し、社会をなりたたせてきた。家族や親族に迷惑がかかるなどもその一つだろうし、会社を辞めなければならなくなる、世間様(多くは狭いムラや地域であるが)に後ろ指をさされる、ご近所に顔向けができないというのもそうである。昔の学者はこれを「恥の文化」と称して日本人の特質とした。ところが今激増しているのはそうした紐帯をもたず、夢も希望もない貧困者達である。こんな中で良好な治安を維持していこうとしたら厳罰化だってやむをえない。いや、それどころかそのうち江戸時代みたいな公開処刑だって導入しなければいけなくなってしまうのではないか。(公開処刑というのは決して荒唐無稽な話ではなく、米国でもオクラホマテロ殺人犯の処刑シーンをテレビで流したそうである。)
2007年10月28日
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コムスンの問題を受け政府は介護事業者への監視を強化するのだという。ここでいう監視というのはヘルパーの人数で虚偽の申告をすることがないように…とかそんな意味だと思うのだが、どうも問題はそれだけではないのではないか。コムスン事件は「事件」としてはヘルパーの人数で虚偽の申告をしたとかいった行政法規違反だったのだが、世間が衝撃を受けたのは社長の金満生活と介護労働者の待遇との天国と地獄のような落差だったのではないか。※行政が監視をすればたしかに行政法規違反は減っていく。しかし介護事業者とて事業者であるかぎり、ヘルパーの人件費はぎりぎりまでおとしても利益を追求していくであろう。思えば、介護保険制度が導入された頃は、行政というのは非効率で民間がやれば何もかもうまくいくというような議論が充満していた。しかし介護のような仕事って本当に民間にまかせてよいのだろうか。それも宗教法人とかNPOでなく、純然たる民間会社にである。※介護保険についてもやがては保険料引き上げという議論がでてくる。費用についてはこうした公的な保険料でまかなわれているのに、それを行うのが営利目的の民間というのがどうも納得しずらい。値上げした保険料がヘルパーの労働条件改善に向けられるのなら、保険料引き上げもいいだろう。でも今の介護保険ではその関係がどうも見えにくいのだ。自分の才覚で企業を起こした才覚ある経営者が金満生活をするのはよいが、介護の場にそうしたものが入り込んで、保険料値上げなんていわれても、どうせ吸い上げられた保険料は介護事業者の幹部のふところを潤すだけなんだという気がしてしまう。介護を純然たる民間事業者が行うことについては別の疑問もある。介護の現場というのは多くのボランティアの参加や助力が望まれる場でもあるのだが、民間事業者がそうしたものを担うことでボランティアが集まりにくい構造になっているのではないか。つまり対象が公的なものと思えばこそ、ボランティアも誇りをもって活動するが、それが営利目的の民間事業ならそうはいかない。別に介護を民間事業者が営利目的でやってはいけないとはいわない。しかし介護保険料のように公的に徴収された金額でまかなうべき部分についてはやはり公的な団体が担い、それ以外の高額所得者向けの施設などについては民間が参入するようにすべきではないか。教育に公教育と私学があるように、介護にも公介護と私介護があるようにするわけである。※コムスンの問題はたんにホームヘルパーの人数で虚偽の申告をしたということだけではない。公的に費用を徴収しながら民間事業者に運営をまかせるという介護保険制度そのものに疑問をなげかけたのではないか。この制度があるかぎり介護労働者の地獄のような待遇はかわらないし、第二第三の折口社長もかならずでてくる。
2007年10月27日
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多くの人が思っているのだけれども誰も言い出せないことって世の中にはあるもんだ。どう考えても問題のある事業なり計画なりを「やめる」というのもその一つではないのだろうか。ある事業なり計画などを多くの人が金と労力をかけて行っていたとする。でもどうもこの事業なり計画、具体化していくうちに問題が多いことに気づく。そこでやめるかやめないかが肝心なのだが、やめると言い出すのもなかなか大変だ。今までの費用は労力はどうしてくれる。一生懸命やってきた先人に悪いではないか。かくして事業や計画は続いていく。問題のある公共事業が無駄とわかっていてもストップがかけられないゆえんである。※裁判員制度もこれと似たような状況になっているのではないか。裁判員を忌避する事由がいろいろ論議されているが、「重要な仕事」が忌避事由になったあたりで裁判員制度というのは建前としての存在意義を失ったのではないか。だって裁判員制度はもともと「国民の声を司法に反映させる」ということで始まったはずなのに、その裁判員が「重要な仕事をしていない人」に限られるのであれば、裁判員=国民の声の反映とはいえない。それに加えて思想信条も裁判員忌避の理由にしようとする意見もでたがみおくられたそうだ。たしかに思想信条による理由までも認めれば誰でも忌避できることになってしまうが、だからといって思想信条は無視してよいのだろうか。裁判員は死刑か無期かが争われるような重大事件につくという。しかし世の中には宗教的信念から死刑に反対する人もいる。そういう人の宗教的信念をふみにじってまで裁判員を強制する必要はどこにあるのだろう。※様々な議論をきくにつれ…裁判員制度については「勇気ある撤退」をすべき時期ではないかと思う。こんな制度を導入して司法がよくなるとも思えない。「国民の司法参加」というけど、その国民がこんな「参加」を望んでいない。※※追加であるが…裁判員制度の最大の問題は、事件関係者のプライバシーではないかと思う。大久保事件でも宮崎勤事件でも殺されなかった被害者が大勢いる。裁判員はいやでもそうした被害者の情報にも触れるのだが、その人たちのプライバシーはどう守られるのだろうか。守秘義務があるとはいうが、茶飲み話や友人との会話など規制できるものではない。世の中は広いようで本当に狭い。世の中を狭くしたくないのであまりやらないのだが、出身地や出身学校(高校、中学、小学校)の話をすると、必ず意外な人との間に意外な共通の知り合いがいるものである。事件の被害者などにとったら、そうした事実がいつどこからもれてしまうともかぎらないわけである。犯罪の被害者を守るという見地からだけでも裁判員制度など即刻やめるべきであろう。
2007年10月26日
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70にして心の欲するところに従いて矩を超えず。論語にこんな言葉がある。これにちなんで70歳のことを不矩ともいう。一般に老人になれば食欲も衰えるし、他の欲望も少なくなる。それにくわえて孫も生まれて係累も増えてくる。だから若い頃に無茶をやっていた人でも老人になればまともになるのがあたりまえ…それがちょっと前までの老人のイメージであった。それが最近ではそうでもない老人が少なからずいるということで「暴走老人」という本が話題らしい。※たしかに老人は欲望や体力も少なくなっておとなしくなりそうなのだが、よく考えると逆に無茶をする要素だってある。非婚化や少子化の今の時代には、老人になれば、親とも死別し、兄弟とも疎遠になって逆に係累の少なくなるケースも多い。矩を超えない理由が、親族や家族にかかる迷惑を考えてなのだとしたら、その要素は確実に減っていくわけである。それに加えて若者と違って「自分の将来への不利益」もあまり考える必要もない。犠牲にしたくない将来の夢や希望があるのならともかく、先の見えた人生など惜しくもない…そう考えるとどんな無茶もできそうである。人生はどうせ旅のようなもの。ならばその旅の恥は掻き捨てでいいじゃない。※そういえば最近老人の粗暴犯や迷惑行為のニュースもけっこう目に付く。老年イコール人格の円熟。60にして耳順い、70にして矩を超えず、なんていうのは、昔話になっていくのかもしれない。「暴走老人」なる本はまだ読んでいないのだが、読むと自分もその予備軍のような気がして怖くなりそうな気がする。※※この「…70にして心の欲するところに従いて矩を超えず」の文は孔子自身について語ったものという説と、世間一般の加齢と人間について語ったものとの2種類の説があるようだが、前者だとしたら聖人になるには、なによりも長生きをしなければならないことになってしまう。2600年前の戦乱の中国で70歳まで生きた人間なんてたぶん極めて少なかっただろう。ここは後者の説をとった。
2007年10月24日
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昨日の日記で比叡山の難行のことを書いたが、それと同じようなことをサリン事件で有名になった某新興宗教も行っていた。地中サマディーと称して3日間地中に埋めたコンテナの中で過ごしたり、水中クンバカと称して水中に長時間もぐっている修行の類である。そしてまた不眠についても、幹部の多くは常人のように眠ることをしなくても大丈夫だと思われていたそうである。比叡山の方はよく知らないし、もちろんこんな新興宗教とは同一に語れない。しかし、この新興宗教の話をきいたとき、底に流れる強烈な能力信仰にびっくりしたものである。※能力の高い人間は魂の価値も高い、そしてそれが常人をはるかに超える能力や超能力だったら、とてつもなく魂の価値も高いに違いないと考えるのが能力信仰である。数学でいつも100点とる僕は偉い…と考える人たちが、あの教団にはたぶん沢山いて、だからこそ常人を超える能力の開発に励んでいたのだろう。具体的には、空中浮遊と称するあぐらジャンプの高さをきそったり、コンテナの中で何も食べず眠らずの修行に励んだりしていたわけである。そしてそんな能力には興味のない外の人間を凡夫外道を蔑み、サリン事件を引き起こした。こんな能力=魂の価値のような信仰については、当時教団と対立し、最後には殺害された故坂本弁護士の言葉が説得力がある。「空中浮遊と君らはいうが、人が宙に浮くなんてことはあるわけもない。そしてもし仮にそうした超能力なるものがあったとしても、それは人格とか洞察力とは全く関係がない。」※そうなのだ。人間の能力と人格とは基本的には関係がない。しかしやはり人間というものはあさはかで、高い能力のある人には、何かしらその能力以上の洞察力や人格が備わっているとついつい錯覚してしまうもののようである。
2007年10月24日
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比叡山の難行達成の行者が話題になっている。なにしろ9日間も断食、断水、不眠、不臥(ふが)で不動真言を唱え続けるというのだからすごい。こんな難行を達成した行者は六年ぶりで戦後十二人しかいないそうだ。小生など最初の断食を24時間続ける自信すらないので、こんなニュースは聞いただけで圧倒されてしまうのだが、あえて疑問に思ったことを言ってしまおう。※何日間も断食や不眠を続けるというのは、確かに常人を超える素晴らしい体力の持ち主には違いないのだが、このことと宗教的悟りとの間にいったいどんな関係があるのだろう。難行ではないが、俗界にも100キロマラソンやトライアスロンをやっている人がいる。そうしたことをやる体力や意志はすごいと思うが、じゃあ100キロマラソンやトライアスロンをやる人が他の人よりも人格や洞察力が優れているかというと全くそんなことはない。何か凡人をはるかに超える能力があったり、凡人にはとてもできないことをやり遂げる人がいると、それだけで全般にわたって優れた人間であるかのように思ってしまうことがあるが、それはたぶん錯覚というものである。※体力と意志力に優れた人がウルトラマラソンやトライアスロンをやれば単に優れたアスリートでしかないが、僧侶として長時間の荒行をやれば悟りだの解脱だのと体力だけでなく精神的にも格段上にみなされる。そこのところがどうもよくわからない。難行もトライアスロンも体力と精神力の限界に挑むという意味では、なんか同じようなものではないか。
2007年10月23日
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週刊誌の広告をみていたら新潟長期監禁事件の被害者についての見出しがあったのでやりきれない気分になった。異常な事件の被害者が世間の好奇の目にさらされることはよくあることだが、それでも事件から時間がたてば、それなりの平穏な人間関係や生活ができてくるものである。そんな中には事件について知らない人だって大勢いるだろうし、それを意識しない人もいる。それなのに被害者周囲をかぎまわって取材し、ことさら周囲にそうした事件について周知させるとしたら、それは立派な人権侵害ではないか。もしこれが被害者ではなく犯罪の加害者だったらと想像してみる。たぶん人権屋さん達がどっと群がり人権侵害をいいたてるのではないか。ネットだったらもう大変…ネットの害悪についてこれでもか、これでもかとたたくに違いない。そんな現象を酒鬼薔薇の実名顔写真が掲載されたHPについて何年か前にみたことがある。犯罪加害者の人権については過敏といっていいほど保護されるのに、犯罪被害者の人権やプライバシーには冷淡な社会。ネットの害悪については声高に語られるのに、マスコミの報道被害については自然現象でもあるかのように当然視され見過ごされる社会。こんなことがいつまで続くのだろうか。この社会ではいったん犯罪被害者になったら終わり…こんな言葉すらあるのだが、こういう状況こそ犯罪被害者に泣き寝入りを強いて、犯罪者を跳梁させる温床になっている。沖縄の米兵による暴行事件でまたもや「未成年者が盛り場にいるほうが悪い」という発言がなされ、論議をよんでいるという。窃盗などでは鍵をかけ忘れた方が悪いという議論はほとんどないのにどうしてこの種の犯罪だとことさら被害者の「落ち度」をいいたてるような発言がでてくるのだろう。
2007年10月22日
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主として福祉政策を所管するのが厚生省、労働政策を所管するのが労働省、そしてその二つが一緒になったのが厚生労働省であるが、どうも厚生労働省のお役人達の目は自分達の行政の対象であるはずの社会的弱者や労働者の方にはあまりむいていないようだ。前々から最低賃金と生活扶助の水準の不均衡は指摘されているのだが、これは先進国中でも最低水準にある日本の最低賃金を引き上げるというのが筋であろう。かっての日本では親族による扶助機能があってこうした低い賃金も問題にならなかった。若者は生活できなければ親に扶助されるのが当然視されていたし、女性も夫に扶助されるのが当然であった。そしてそこからこぼれた人がいたとしても親族集団の中で扶助され、いわばそうしたものがセーフティネットの役割をはたしていたのである。戦前を舞台にした映画や小説では病気の叔父や離別された叔母が跡取りの兄に扶養されているなんていう家族関係がでてくるが、まさにそうした構図である。それが現在では若者や女性で自分一人で生計をたてなければならない人が増えた上、中年の男性でも賃金の低い不安定雇用者が増えている。最低賃金の引き上げこそが急務と思うのだが、それを生活扶助水準を引き下げることで「均衡を図ろう」というのだから発想が逆立ちしている。※厚生労働省では、生活扶助基準の水準に関する検討会を開くというのだが、そのやり方がなんとも姑息だ。詳しくは下記のHPをみていただきたいが、いくつかのことに気が付く。まず公開とはいうものの周知期間がきわめて短い。これでは形だけの公開といわれても仕方有るまい。そして検討会の人選であるが、社会的に声の出しにくい弱者の立場で発言する委員がいない。大学の先生ばかりの委員の中で最低生活の実態について理解している人がどのくらいいるのか。さらにもう一つ気の付くのが委員の中にマスコミ寄せの人がいないことである。よかれあしかれ役所が自分達の立ち上げる委員会をマスコミにとりあげてもらいたいときには人気作家やちょっと名のしられたエッセイストなどを入れる。この検討会の人選はそれとは真逆で大学の先生であまり名の知られていない人ばかりである。この検討会ということではなく、一般論であるが、政府のこんなお座敷に初めて声がかかったという学者の中には、政府寄りの発言をすることで御用学者の地位を得たいなんて思っている人もいるのではないだろうか。http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/fffb5a627fb76de2633dcb0d3e84b197※日本の社会保障水準をこれ以上落としてはならないと思うし、こうした扶助基準の引き下げの動きはもっと監視していかなければならない。マスコミは亀田などに大騒ぎしているときではない。
2007年10月21日
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アメリカの下院外交委員会でトルコを非難する決議案を可決したという。でもこの非難の理由というのが、90年以上も前のアルメニア人虐殺に関するもので、しかも当時のトルコの政体もオスマン・トルコ帝国だったというと首をかしげてしまう。90年以上前…というと世界の様相も今とまるで違う。アジア、アフリカは植民地に分割されていたし、そこでは今の基準からすると非人道的な施策がいくらでも行われていただろう。他にも非難決議をやらなければいけないことがきっとあるはずである。そしてまたアメリカ自身も他国の他民族に対する非人道的行為を非難するほど立派な国だったのだろうか。今でこそ自由と人権の旗手のようにふるまっているが、昔は奴隷を労働力として使っていた時期もあったし、ついこの間まで、南部では公民権からバスの座席に至るまでの人種差別を堂々と行ってきたことだって知られている。他国や他民族に対する非難決議をする前に、まず自国の歴史上の汚点についての反省決議をすることの方が先ではないのだろうか。もしかしたらそういう決議の方はとっくに行っているのかもしれないけど。※※余談だが、トルコというとどうもよくわからないところがある。EU加盟を熱望しているというが、いったいトルコがなんでヨーロッパなんだろう。顔だちだってヨーロッパ人とは違うし、言語もインドヨーロッパ語族ではなく、日本語と同じ膠着語に属する言語だという。なんかトルコがヨーロッパというのなら、日本だって十分に「ヨーロッパの資格」があるのではないか。だって一応先進国だし…。
2007年10月20日
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最近、「闇サイト」のからみでまたぞろネット規制論がでてきている。きわめつきは、昨日か一昨日の日経の夕刊にあった、「犯罪被害をうけない権利」と「ネット上の言論の自由」を対峙させ、前者の方が当然に重いという寸評である。どうやらマスコミのいう尊重すべき言論の自由とは、自分達だけが意見情報の発信を独占する権利を意味しているらしい。※マスコミが「闇サイト殺人事件」と名づけた愛知の女性拉致殺害事件。犯人達はいづれも30歳代や40歳代の定職のない男性で、中には乗用車に寝泊りしていたホームレスもいたようだ。事件の真の原因はネットなどではなく荒涼とした格差社会であるのは明らかであろう。ネット規制をしようがしまいが、こんな事件はたぶんこれからも増えていく。企業は利益をあげ、好景気だ「いざなぎ超え」だというが、世間にはそんな実感はまるでない。それもそのはず、労働分配率はどんどん低下していて、企業は人件費をぎりぎりまで削減し、非正規雇用を増やし正規雇用者の給料だって下げているのだから…。潤っているのは投資家と一部の役員だけで、まさに格差拡大の構図である。多くの人が希望のない貧困生活を強いられていれば、犯罪が増えるのもあたりまえではないか。何度でもいうが、「闇サイト」というHPがあるわけではない。普通の日記のコメントや掲示板にだって、変な書き込みがあればそこが「闇サイト」の機能をはたすことになる。入り口は犯罪防止のための「闇サイト規制」であっても、それは必ずネット上の言論規制につながっていく。※もう一つ言いたいことがある。日経新聞は「犯罪被害にあわない権利」を主張して「闇サイトの規制」を説く。でも、人が「犯罪被害にあわない権利」を持つというのなら、それと同時に「犯罪被害から立ち直る権利」というのもあるのではないか。不幸にして犯罪被害者になってもプライバシーが保護される権利、静穏な生活が守られる権利である。ところが現実に最もそうした権利を侵害してきた、そして今も侵害しているのは当のマスコミである。犯罪被害者の人権、そして人生をまもるために、実はマスコミの規制こそが緊急の課題なのではないか。別に法技術的には難しくない。今あるストーカー行為禁止法を手直ししてストーカーの目的に「報道取材」を付け加えればよいのである。
2007年10月18日
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朝のテレビはどこも亀田親子の謝罪会見一色であったが、いつからこんなに日本にボクシングファンが増えたのだろう。スポーツにもいろいろあって、反則が絶対許されない型を重視するスポーツもあれば、それによる減点もおりこみながら闘うものもある。ボクシングはたぶん後者だろう。外国の有名ボクサーでも反則をよくやる選手がいて、ヒール役としての人気があるという。亀田のようなレッスル行為もリングの上ではそれほど前代未聞というものでもないようだ。何よりも亀田はリングの上で大減点され、試合での敗北につながっている。その上、リング外でも謝罪し、なおかつバッシングを受けるという理由がどうもよくわからない。今回の件では、亀田父子の態度が云々というよりも、いっせいに持ち上げ、いっせいに叩き潰すマスコミの怖さというものをどうしても思ってしまう。※※従業員の雇用は守る、パートも解雇しない…という赤福社長の言葉にちょっと感激。アカフク、アカフクとテレビでさかんにいうので食べたくなっていたので、関西旅行をひかえた友人の土産には赤福を所望しよう。あの件は、冷凍保存を公にし、できれば冷凍とそうでないものとで値段をちょっと変えでもしたら、全然問題なかったのではないか。もちろん冷凍だって十分においしいけどね。※※こんな話を聞いた。お寺の経営する駐車場では駐車料金を取らないのだという。そのかわり交通安全の祈祷料として同額の金を受け取る。なぜか。祈祷料とすると税金がかからないそうである。宗教法人の優遇はあちこちにみられる。こんな制度ができた当初はたぶん宗教法人イコール慈善活動というイメージがあったのかもない。でも今では、宗教法人は決して慈善活動だけをやっているわけではないし、人の弱みにつけこんで金をまきあげるものも多い。宗教法人への優遇は、そろそろ見直してはどうか。
2007年10月18日
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新興宗教の中には「いったいなぜこんなことを信じているのかしら」と心底不思議に思うものと、「こんなふうに人間の弱みにつけこむものもあるのだな」と妙に納得するものの両方がある。教祖が空中浮遊するとか、ミイラが生きて紅茶を飲む…なんていうのは前者の典型だが、今回話題になっている紀元会はどうやら後者のようである。紀元水を飲めばどんな病気も治るといって水を売っていたらしいけど、これと以前話題になったアガリクスやメシマコブとの境界線はどこにあるのだろう。両方とも現代の医学では救えない患者のわらをもつかむ弱みにつけこんで金儲けをすることは共通している。それを薬と称して売れば法に触れ、信仰としてだったらどうかご自由にとなる。なんか変ではないか。そういえば、今どうなっているかは分からないが「法の華」なんとかいう教団もこのタイプの典型であった。それもわざわざ病院の前でチラシを配っていたというのだから徹底している。そんな宗教だったせいか教祖も信者もオウムなどと違ってずっと「普通の俗人」ぽかったように記憶している。理解できない宗教も気味悪いけど、こうした人間の弱さにつけこむ宗教もなんとかならないものかと思う。余談であるが法の華なんとかでは、「あんたこのままではいつか死ぬよ。」と脅して入信を強要していたようである。でも、別にこの教祖にいわれなくたって、人間はいつか死ぬ。だからこそ、人間のことをmortalというのではないか。ニュースでこの話をきいたとき、正直こんな「脅し」にひっかかる人の気が知れないと思った。
2007年10月17日
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パワハラ上司のいじめによる自殺が労災とみとめられたらしい。パワハラ、セクハラ、そして最近ではモラハラなんてのもあるという。いつも思うのだが、こうしたことを訴えているのは正社員である。たぶんこうした問題の背後には、非正規雇用者に対するもっと凄まじいパワハラ、セクハラがあるのではないか…と思う。そんな被害を受けた非正規雇用者の中には勤労意欲そのものを失っていってしまう人もいても不思議ではない。そういう意味では非正規雇用の問題とニートや失業の問題もどっかでつながっているのではないか。アルバイト募集、正社員登用制度あり。こんな広告をよく見かけるが正社員登用をエサにどれだけのパワハラ、セクハラ、モラハラ、そしてどれだけの我慢が強いられているか。正社員にとっての職場砂漠の背後には、たぶんもっと悲惨な非正規雇用者の職場地獄がある。たぶん多くの国民が願っているのは人口大国でもなければ政治大国でもない。ましてやアベ氏の主観の「美しい国」でもない。普通の人が幸せに暮らせる住みやすい国ではないか。少子化対策と称してバラマクお金、外務官僚の悲願の常任理事国入りのためにバラマクお金をみなおして雇用対策や福祉、公教育の質向上のために使えばどれだけのことができることか。
2007年10月16日
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有給休暇の取得率が過去最低の46.6%となったというニュースに考えさせられた。企業は人件費を削減するためにぎりぎりまで人員を抑制し、そのために休みが取りづらくなったという分析なのだが、そうだとしたら非正規雇用者の増加と正社員の残業増加はコインの裏表の関係ではないか。企業が正社員を削減したことによって、個々の正社員の負担は増える。そして非正規雇用も珍しくない時代には、正社員は正社員の地位を守るために無理な残業にも応じざるを得ない。景気はよいというが、設けているのは企業、そして投資家ばかりで、役員でもない普通の勤労者の収入はむしろ減っているという。望んでいるのは人口大国でも政治大国でもない。ごく普通の人が普通に暮らせる住みよい国なんだけれど。
2007年10月15日
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ノーベル平和賞が「不都合な真実」のゴア氏と聞いてびっくり。地球温暖化と平和っていったいどんな関係があるのだろう。それにあの映画「不都合な真実」自体のいくつもの誤りがみつかっているし、ゴア氏自身の豪邸もそのエネルギー浪費ぶりが揶揄されたばかりだ。地球環境は重大だ…でも自分はエネルギーも資源も浪費しながら快適な暮らしをしましょう、というのが、ノーベル平和賞に値するものなのだろうか。※いつも思うのだが、ノーベル賞は自然科学系の部門と平和賞・文学賞をわけた方がよいのではないか。ノーベル平和賞では、様々な政治的思惑がからんだり、背後の猛烈なロビー活動があることはよく知られている。現に北朝鮮の体制延命に手を貸している政治家だって貰っているし、どうもそれほど価値のある賞とは思えない。この賞は政治家や元政治家を対象とするよりも、ボランティアや篤志家で稀有な実績をあげている人を対象とするものとして、別に毎年選定しなくともよいということにしてはどうだろうか。そしてノーベル文学賞の方も文学的価値そのものよりも背後にある政治的メッセージを重要視して選考しているようだ。今年も多文化共生のメッセージを盛り込んだ女性作家が選考されているが、ノーベル賞をとったからといって彼女の作品がより読まれるということもないだろう。ノーベル文学賞=文学的価値なら、ノーベル賞受賞者の文学全集などとっくにでている。日本の大江氏にしても彼の作品の文学的価値よりも「核兵器廃絶」というメッセージが評価されたものと思っている。ノーベル賞の故国のスウェーデンも含め、欧米では日本は絶対に核兵器をもってはならぬと考える人が圧倒的多数であろうから。
2007年10月14日
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敬虔なムスリムのマレーシア人が宇宙飛行士になるというのでちょっとした論争がおきているらしい。問題の宇宙船は地球を24時間で16週するので一日80回のお祈りをしなければないけないのか。メッカの方角をどうやって決めるのか。祈りの前の沐浴は、そして祈りの前の姿勢はどうするのか。また宇宙飛行の期間がちょうどラマダーンにあたっていたため、断食の是非も問題となる。この問題の解決の一助とするためにマレーシアの大学ではメッカの方角を瞬時にわりだすプログラムを作成中というが間に合ったのだろうか。科学技術の進展と宗教との問題というのは、いつまでたっても話題がつきないものである。これに関しては結局のところ、できる範囲で…ということに落ち着きそうであるが。※人類初の宇宙飛行士ガガーリンは「宇宙に神はいなかった」と言った。でも、本当に白い髭のおじいさんか何かが宇宙船の窓からみえたら、それこそ幻覚というものだろう。このムスリムの宇宙飛行士は、地球に帰還後何というのだろうか。「アッラーの姿はもちろんみえなかったが、その存在は認識することができた。」とかいうのだろうか。真の暗黒の中で荘厳に輝く地球の姿をみれば、ムスリムならずともやはりそこには何か大いなるものの存在を感じそうである。※世界規模で情報化がすすみ、科学的、合理的思考が席巻していく中で、イスラム教の信者数が激増しているという。海外のHPをみるとアンチとプロ共にイスラム教に関するサイトはいくつもあって、コメントの論争などを読むと興味はつきない。出版でも「Ameristan」というアメリカのイスラム教国化の可能性を扱った本まででているので、世界規模ではこのイスラムの教勢拡大は注目されているのだろう。それに比べると、日本ではイスラム教に関する本もサイトも平板な異文化紹介にとどまるものばかりでつまらない。日本では信者も少ないし、まだまだ関係のない異文化くらいにしかとらえられていないのだろう。そして、日本がイスラム教国になる可能性についても、日本が火星人に占領される可能性と同程度くらいとみられているようだ。※でも、最近のテロ事件等をきっかけに、日本でもイスラム教に興味を持つようになった人は多い。小生も実はその一人である(ちなみにサリン事件の頃はオウム真理教に大いに興味をもっていた)。調べてみたところでは、イスラムの教義にはテロや好戦性に結びつくものは全くない。それも当然で世界に15億もいるというイスラム教徒の数を考えれば十数名のテロ犯などは大海の数滴のようなものだろう。それどころか、日常生活に浸透した強い規範意識、富者から貧者に対する喜捨の義務、運命に対する諦観と来世指向など、非常にこれって格差社会に適合した宗教なのではないのかなと思う。※格差、不平等をそれだけで悪いことのように受け取るのは、心のどこかで「平等」こそがあるべき姿だと思っているからである。日本で昔から理想郷として語り伝えてきた桃源郷も隠れ里もたいていは皆平等に仲良く暮らす社会だった。なぜそうなのだろうか。それはこの社会が伝統的に農耕社会だったからではないか。農耕というのは、土地と天候が生産性のほとんどを決め、個人の能力や才覚の差はあまりでない。人間は平等であり同じようなものという感覚がなじみやすいのである。でも遊牧や商業を生業にしている人達はそうは考えない。人間の能力も才覚も天地ほどの差があり、決して平等だなんて考えない。そして人それぞれ異なる量の能力や運を与えられているということを前提にするからこそ、喜捨の義務という考えも生まれてくる。ある陸上の中距離で活躍したアルジェリアの選手は、国内でも慈善活動に熱心に取り組み、絶大な尊敬を得ているという。一方、目立つようにやってはいないだけなのかもしれないけど、日本で巨万の富を得たスポーツ選手などが貧困者への支援を行っているという話はあまりきかない。イスラム教というとテロ犯のニュースばかりが紹介されるのだが、なぜこうした慈善活動を熱心に行っているムスリムの姿はあまり紹介されないのだろうか。日本もほおっておけばそのうち多数の貧困者と少数の富裕者といった途上国型の社会になっていくだろう。日本のイスラム教国化という仮定は全く荒唐無稽なようだが、格差社会を安定させる装置としては宗教もけっして悪くはない。AmeristanHPhttp://fidelisentertainment.com/projects/ameristan.htm
2007年10月13日
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今朝の朝日新聞をみて思わず目が点になった。「自殺サイトで契約・殺害」というのがなんと1面トップである。もちろん殺人事件は大きなニュースなのだが、被害者の同意のある嘱託殺人である。大報道するほどの事件なのだろうか。この間の通り魔殺人に「闇サイト殺人事件」といったおどろおどろしい名前をつける感覚もそうだが、何かネットを諸悪の根源であるかのように印象づけるマスコミ操作がはじまっているように思えてならない。※自殺サイトとか闇サイトとかいってもそういうサイトがあるわけではない。ネット空間のどこかで誰かがそんな書き込みをすればいつでも事件に発展しうる可能性はある。現にこの楽天の日記サイトの掲示板にもそんな書き込みがある。自殺サイトや闇サイトの規制は必ず普通のサイトの規制につながっていく。もちろんネットで仲間を募っての殺人などとんでもないことだ。でもそれは厳罰化をはじめとした通常の抑止策をまず考えるべきで、ネット規制は短絡的ではないか。便利な道具は犯罪者にもやはり便利で、誘拐や拉致に自動車が使われることが多いといったって自動車を規制するわけにはいくまい。※かんぐってしまうとマスコミにはどうもネット以前の時代への郷愁があるのではないか。ネット以前には、マスコミだけが世の中に意見や情報を発信していた。○○が静かなブームだとマスコミがいえば世の中の人はそんなもんかなと思っていたし、「アベする」という言葉がはやっているといえばやはりそんなものかと思った。そして一般人が自分の文章を活字にしようとしたら、投書欄に新聞社好みのことを書くしかなかったのである。※※最近またぞろ出てきた「バスに乗り遅れるな」論にはうんざり。バスに乗って独裁国家に何兆円も貢いでよいことってあるの?
2007年10月11日
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政権が変わった頃からまたまた「日本の孤立」や「日本は蚊帳の外」をいいたてる論調が多くなってきた。北朝鮮の核問題である。いうまでもないことだが、北朝鮮をめぐる5カ国はいずれも立場が違う。立場が違えば、行動が異なるのはあたりまえでそれを孤立だとか蚊帳の外だとかいうのはあたらない。外交の目的はあくまでも国益であって、孤立しないことが目的なのではない。※外交といえばもう一つわからないことがある。民主党の小沢代表の、あの国連信仰というのはどこからでてくるのだろうか。連合国を国連と意図的に誤訳したあたりから、どうも国連を世界政府とか人類の平和と理想の殿堂とかのようにみる誤った想念がでてきたのだろうか。むろん小沢代表もどっぷりつかっているか、もしくはそのまやかしを知りながらご自身の政治的野心のためにそれを利用している。常任理事国は米国、英国、フランス、中国、ロシア。そして事務総長はこの間までせっせと太陽政策で北朝鮮を支援してきた韓国人のパンギムン。いったいこれのどこが人類の理想と平和の殿堂なのかしら。※平和…といえばもそれだけで崇高な価値や理想のように思ってしまう人が世界には実に多いようだ。アイスランドにイマジンタワーという世にも美しいモニュメントが建ち、やがては平和の聖地になるのだろう。いうまでもなくこれは故ジョンレノンの「イマジン」の歌詞にちなんでいる。想像してごらん、国家も宗教も財産もなければ戦争は起きない…といった歌詞だったかと思う。でも国家がなければ無政府状態じゃない限り、より強力な世界政府が必要になる。そしてそこでは国家を復活させないために、ありとあらゆる民族の独立運動を暴力で抑圧するだろう。そして宗教を信じ、財産を持つという欲求が、制度以前のある種の人間性に基づいているのだとしたら、宗教を抑圧し、私有財産を禁止するために、そこでもやはり抑圧が行われるだろう。そして、そんな抑圧が陰惨を極めたものになるだろうことは歴史をみれば明らかだ。たしかにイマジンのような世界が現出すれば国と国の戦争はない。その限りでは平和なのだろうけど、普通、人はそういうものを「奴隷の平和」とよぶ。ま、そういう奴隷の平和が大好きな人はイマジンタワーでもせいぜいありがたがっていればよい。
2007年10月10日
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格差という場合にはたぶん二つの意味がある。一つは能力のある人をいかに優遇するかといった上に注目する格差。そしてもう一つは貧困層をいかに少なくするか、社会のセーフティネットをどうするかといった下に注目する格差。「格差」を肯定する人の議論を聞いていると往々にして前者の格差を念頭に置いている場合が多い。たしかに技術者の待遇など今までの日本では低すぎた面もあったので、こうした議論にも大いに理がある。しかし、今、本当に問題にしなければならないのは後者の格差ではないのか。詳しい資料出所はわすれたが、OECDの統計によると日本は先進国の中でも貧困層の比率の高い国になっている。また、最低賃金の水準も他の国に比べると明らかに低い。郊外にまでホームレスがたむろし、生活保護申請を断られて餓死する人も後をたたない。何年か前に「岸辺のアルバム」という多摩川の水害を背景にしたホームドラマが人気を博したが、この間の多摩川増水ではホームレスのテントが流され水死者がでた。一億総中流からホームレスのテント村…これがここ10年、20年の世の中の変化である。※貧困層の増大、そしてその貧困レベルの低さという意味でも、今の日本は先進国の中でも、すっかり格差の厳しい国になっている。そしてまた、日本がいつまでも先進国でありつづけるという保証もない。世界史をみても一つの国が絶頂から衰退を迎えるまでの期間というのは案外と短いものである。スペインしかり。オランダしかり。戦前もそりゃ凄まじい格差社会だったが、あの頃には農村共同体や親族共同体がセーフティネットの役割と共に規範の源泉としての機能も有していた。いわゆる「恥の文化」である。農村や親族の共同体をいまさら復活させることができない以上、今後の日本の格差社会が戦前とはかなり違うものであることは想像に難くない。いや、自力で生活できない貧困層が激増し、彼らにとってのセーフティネットが刑務所の三食労役付きの生活しかないとなれば、どんな社会になるか簡単に想像できる。※もし今のような格差の拡大、というか貧困層の増加をよしとするのなら、いっそ途上国モデルを研究した方がよいのではないか。英語の公用語化による出稼ぎ社会もその一つだし、一神教(イスラム)の規範の下での安定社会なんてのもあるだろう。なんか両方とも非現実的に聞こえるかもしれないけど、案外、何十年後かには実現しちゃっているかもしれない。どちらにしても共産革命によるキリングフィールドよりはましである。
2007年10月09日
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ミャンマーで射殺されたジャーナリストの件が連日大きく報道されている。そんな報道をみているとつい連想してしまう。イラクでも何人かの日本人が人質になったり殺害されたりした。あのイラクで殺害された青年については自業自得という感じてさしたる世間の同情もなかったのだが、それと今回のミャンマーの件はどう違うのだろうか。両方とも危険を承知で紛争地にのりこみ殺害された。イラクで殺害された青年の動機はいまいちよくわからないが、ミャンマーで殺害されたジャーナリストの方はよい写真をとりたいという動機だったのだろう。映像をみると警官隊のすぐ目の前でカメラをかまえているようにみえる。あれでは挑発しているととられても無理もない。いったいイラクで殺害された青年とミャンマーで射殺されたジャーナリストとどう違うの…というのが正直な感想である。もちろんジャーナリズムの存在意義はわかるが、だからといってジャーナリストは聖職、そしてジャーナリストの受難はあってはならないことのように報じるマスコミの感覚は、一般人からするとさっぱりわからない。※同様にわからないことがある。沖縄返還の際の核保有の密約が暴露されたことで、あの元毎日新聞記者が得たりとばかりコメントを出していたが、この西山元記者をまるで「反権力の闘志」であり「ジャーナリストの鑑」であるかのように持ち上げる感覚には不快感を持つ。彼は外務省の女性事務官に近づいてマル秘文書を手に入れ、そしてその情報は国会議員にわたって質問に使われた。彼のやったことは記者倫理だけではなく、人倫にも悖る行為ではなかったのだろうか。女性公務員といったって、今の感覚でみると間違える。あの70年代当時には女性事務官の中には立場の弱い公務員がいくらでもいた。当時の報道を記憶する限りでは、その女性も、病気の夫と二人でつましく暮らしていたようである。要するに、女性事務官と全国紙記者との間には、地位や立場に天と地ほどの差があったのである。あの西山元記者がからんだ機密漏えい事件の後、女性職員は懲戒免職になっただけではなく、服役、離婚したと記憶している。西山元記者は、自分のせいで平穏に暮らしていた女性やその家族の生活や人生が破壊されたことに、なんのいたみも感じていないのであろうか。※ジャーナリストといったって特別の人間ではない。たまたま普通の人がそういう職業についているというだけのことではないか。だとしたら、危険地域に行って問われる自己責任の程度も他の人間となんら変わらないはずである。そしてまた、一般の人間にとって倫理に悖る行為は、ジャーナリストが取材という目的のために行ったって、やはり倫理に悖る行為であることには変わりない。
2007年10月08日
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格差についての議論をすると、よく途上国の例を出して「日本などは格差は少ない」とか「日本の貧困はまだまし」ということをいう人がいる。そういうことをいう人は日本もそんな途上国のような社会になればよいと思っているのだろうか。まあ、たしかに案外近い将来、日本もそんな途上国の仲間入りをするかもしれないけど…。世界史をみればわかるけど、一つの国家が全盛期を迎える期間というのは案外短い。日本だって「ジャパンアズナンバーワン」なんていわれていた頃がピークでその後は衰退過程をたどっているようにもみえないことはない。※たぶん日本で進行している格差は今の途上国よりも深刻である。多くの貧困層と少数の富裕層というのが途上国の特徴であるが、安定している途上国というのは、たいてい社会の安定装置が機能している。農村共同体などもそうだし、血縁や親族による相互扶助のコミュニティーもそうである。また、その社会が共通に受け入れている宗教などにもそうした面がある。例えばイスラム教などをみると、このあたりよくできていると思う。※イスラム教では、信者の義務として信仰告白、礼拝、巡礼、断食と並んで喜捨、すばわち富者から貧者への富の再分配をうたっている。この喜捨はあくまでも富者の生活を犠牲にしない範囲のもので、人間というものは自己犠牲まではなかなかできるものではないが、そこまで至らない程度の扶助を行うことは信仰上の義務というわけである。現実の富の再分配機能だけではない。唯一神の下での規範意識や同じ宗教を共有しているという認識は、貧富の格差にもかかわらず、社会の一体性を維持し、安定を保つという機能があるだろう。そして貧困や辛い立場にある人々には、それも神の思し召しであり、信仰の対価として来世の幸福が与えられるということで、精神の平安を与える。(小生の理解が間違っているのかもしれないが。)※世界では現在、イスラム教人口が急成長しているらしいが、本当は日本のような社会でこそこうした宗教が必要なのかもしれない。仏教伝来は538年。キリスト教伝来は1549年。世界宗教の中で、まともに日本に紹介されていない宗教はイスラム教だけである。ぜひ日本で本格的な布教活動を行ってほしい。将来的にも激増する貧困者人口。日本が少数の勝ち組と膨大な貧困層からなる社会になったときに、貧困者の魂が迷ったままだと、行き着く先は犯罪頻発で社会崩壊するか、共産主義革命しかないんじゃないかと思うから。
2007年10月07日
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公園の噴水で水遊びをする子供の声がうるさいという女性の主張が認められ、噴水がとめられたという「事件」があったらしい。それをテレビでみていた家族がつぶやいた。「へえ、今度は逆騒音おばさんか」。※疑問その1。50デシベルとか60デシベルとかいうが、工事の音と子供の歓声を同じに考えていいのだろうか。疑問その2。たとえ子供の歓声が基準値を超えていたとしても、一日中子供は遊んでいるわけではないし、一年中水遊びをやっているわけでもない。夏の昼間に限った騒音くらい我慢できなかったのだろうか。疑問その3。訴えを行った女性だって子供時代があったはず。自分も大きな声を出して遊んだり泣いたりしてきたはずで、それを考えると子供の歓声など大目にみてもよいではないか。※でもこんな疑問はしょせん他人事だから思い浮かぶだけなのかもしれない。女性は病気療養中というから、事態はもっと深刻だったのかもしれない。想像をたくましくすると辛い人生を歩んできた方で、耐えられなかったのは子供の歓声ではなく、子供と一緒に遊ぶ幸せそうな母や祖母の姿だったのかもしれない。この事件については詳細がわからないので、なにもいえないけど、子供の歓声も聞こえないような街にしてよいのだろうか。ただでさえ子供の姿、子供の声を聞くことは本当に少なくなっている。公園だってみかけるのはゲートボールに興じる老人とホームレスばかりだし、子供が群れていたりすると逆に何かのイベントではないかと思ってしまう。かってはあたりまえだったものがあたりまえでなくなっている。子供の歓声も「あたりまえ」ではなくなったから、それを「騒音」とみる人も増えたのかもしれない。※子供といえば当世子供を育てるには安定した職場や収入など様々なものが必要だ。できちゃった婚は別にすれば、ちゃんと結婚して子供も持てるというだけで「勝ち組」といえるのかもしれない。彼らの下にはフリーターやニート、アルバイトなどの結婚すらできない膨大な貧困層の若者がいる。ところで民主党は収入とかかわりなしの「子供手当て」を提案するという。いったい何を考えているのだろうか。これこそバラマキの最たるものではないか。
2007年10月06日
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いうまでもないことだが日本人は英語習得に大きなハンディを有している。理由その1。日本語と英語は対極といってもよいくらい文法的に似たところのまるでない言語であること。理由その2。日本語の発音構造は極めて単純であること。普通、外国語取得といえば聞く、話す、読む、書くの順に習得するのが世界標準なのかもしれないが、日本人の場合、その順序はどうも逆である。だから他の国以上に日本では英語教育に力を入れなければならないのに実体はそうなっていない。世界的に小学校からの外国語教育が普通になっているのに、日本での英語早期教育は遅々としてすすまず、いまだに「英語よりも国語が重要だ」式の反対論がまかりとおっている。ゆとり教育の見直しの議論でも、英語の学習時間を増やすという話はあまりきこえてこない。なぜなのだろうか。※もしかしたら最近話題の書「プリンセスマサコ」にそのヒントがあるのかもしれない。日本が言論出版の自由の保障された国というのは嘘だ。その証拠にこの本も翻訳出版されるまで紆余曲折があり、大新聞では未だに広告も載せることができない状況だという。そして翻訳されたものも原書のすべてではないらしい。出版にこぎつけるまでに切らざるを得なかった部分があり、そしてそれはまた別の本になっているという。もし、国民が英語を自由自在に読むことができれば翻訳などはなんの問題にならず、とうの昔に多くの人がこの本を読んでいただろう。国民を日本語という情報空間にとじこめ、為政者の都合の悪い情報には接しないようにさせたい。うがった見方かもしれないが、英語教育に力を入れない政府の本音はもしかしたらこんなところにあるのかもしれない。「正論」とか「諸君」とかといったそっち系の雑誌を読むと、「天皇制は日本古来の誇るべき伝統」といった趣旨の文章がしょっちゅうでてくる。日本語で、日本でしか流通しない全く内向きの議論…。もし、日本語と同じように英語の情報に自由に接していれば、こうした議論もずいぶん違ってくるのではないのだろうか。
2007年10月05日
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6カ国協議で合意となると、日本も合意したから金をだせということになるのだろうか。拉致事件の解決なくして支援なし…なんてのも政権が変わって昔の話のなったのだろうか。いったいそもそもあの国に支援する理由がどこにある。過去の清算っていうけど、今の北朝鮮よりは戦前の日本の植民地統治の方がはるかにましじゃん。少なくとも戦前の日本は公開処刑なんてやってないし。それにしても国内の話になると市役所の会議の弁当代にまで文句をいうくせに海外へ金を出す話になるとどうしてこう静かなんだろうか。北朝鮮に金を出すなんてのはバラマキ、無駄遣いを超えて、危険極まりない話なんではないのだろうか。核の無能力かなんていったってせいぜい数年の話らしい。そして軍事力は核だけではない。拉致事件をやるような国に金なんかやれば、それはさらなる脅威でかえってくるんじゃないの?そもそも今まであの国にコメ支援なんてしてなければ、今日の核問題だってなかったんじゃないだろうか。そこのところ、コメ支援にかかわった政治家にぜひ話をききたいものだ。※※もうひとつわからないニュース。政府は裁判員制度の広報に力を入れているみたいだけれど、あの制度ってそもそも何のためにあるのかさっぱりわからない。重要な仕事をしていれば辞退できるらしいけど、そもそも重要でない仕事なんてあるのかしら。床屋さんだって平日に一日休めば顧客を失う。「裁判員に選ばれましたけど、私は重要な仕事をしていますので辞退できるように証明して下さい」と上司に頼んだら「いや、あんたの仕事は重要でもなんでもないよ」と言われたら(言われそうだけれども)、ショックだろなあ。思うんだけれど憲法で禁止されている「苦役からの自由」の苦役って別に石運びの強制労働ばかりじゃないと思う。見たくもない死体写真をみせられて一生うなされるのだって、気の弱い小生にとっては十分に苦役である。そして、また、ストレスの多いサラリーマンとしては、小生意気な法律家のガキに上から目線の話し方をされるのだっていやだしね。たぶんこの裁判員制度で一番気の毒なのは被害者じゃないのかな。宮崎勤事件でも大久保清事件でも殺されなかった被害者は大勢いる。世の中は広いようで意外に狭い。職場や学校に犯罪被害の事実が知られて、人生が変わっちゃう被害者の方もでてくるのではないか。そうなると、犯罪被害を訴える被害者も少なくなる。どうもこの裁判員制度…死刑判決の心理的負担を軽減したい裁判官のためではないかと疑っている。
2007年10月04日
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マスコミは今頃になって郵政民営化の弊害を書きたてている。郵便局の消滅を心配する田舎のおばあちゃんの声とか、各種サービスの値上がりとか・・・でもそれをいうならなぜあの郵政民営化選挙のときにそうした報道をしなかったのだろうか。過疎地ではだいぶ前から郵便と福祉とを合体させた事業を行ってきた。独居老人に郵便局の外勤職員が声をかけ安否を確認する一声事業である。郵便局職員が公務員で税金でいい思い?をしているのがけしからん…ただそうした動機で小泉政権に一票を投じた人だって、そんな郵便の役割を知っていれば投票行動も変わったのではないか。身近な公務員に対する庶民の嫉妬心をあおった衆愚政治のはてが自民圧勝と郵政民営化ではないか。※ところで郵便局の外勤の多くは、すでに非常勤職員が行うようになっている。民営企業として利益をあげるのなら目いっぱい職員を非正規化して人件費をぎりぎりまで抑えたほうが良い。たぶん民営化でこうした非正規化の流れには拍車がかかるであろう。ある経済誌によると郵便局の非正規職員の待遇は非常に悪く、職場内には正規職員と非正規職員の軋轢もあるという。郵便物が紛失せずに確実に届く、郵便のプライバシーは必ず守られる…今まであたりまえだと思ってきたこんなことは今後もあたりまえでありつづけるのだろうか。※郵便物が確実に届くということばかりではない。電車が時間通りに運行する。急いでいるときにはタクシーを使えば早く目的地につける。事故の心配をしないで街を歩ける。こうしたあたりまえのように享受してきた社会の安心感というのは、実は様々なプロとしての職業人の矜持にささえられてきたのではないか。別に社会的地位の高い職業というのではないが、その職業に就き社会の歯車として役立っているという誇りと、報酬として得るつましくも安定した暮らし。非正規化の流れや格差の拡大はそうしたものを蝕んでいって、その結果、社会は確実に荒廃し、大多数の人にとって生きにくいものとなっていく。※※「北朝鮮との国交正常化」というのは不思議な言葉だ。平壌宣言が生きている限り、国交を締結すれば北朝鮮に何兆もの金を「過去の清算」としてわたさなければならない。そしてその元は日本国民の税金、福祉や就労支援など様々な別の用途に使われたかもしれない金である。あれほどバラマキや税金の無駄使いを批判するマスコミがなぜ北朝鮮へ支払われるかもしれない金については何もいわないのだろうか。そしてまた、「過去の清算」をいうのなら、「拉致の清算」はなぜ誰も言わないのだろうか。何人もの日本人が拉致され、その被害者の中にはたぶん惨殺された人もいるのではないか。非常に素朴かつあたりまえの疑問だが、自国民にそこまでの犯罪行為を行った国になぜ金を出す?
2007年10月03日
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競争原理と結果の平等については、前者に軸足を置く米国のような体制と後者に軸足を置く北欧のような体制との両方がある。前者が低負担低福祉の米国モデルであり、いわゆる「小さな政府」である。日本もどちらかといえば低福祉低負担型といえるが、それは福祉の役割の多くが家族や共同体(会社)によって担われてきたからだといえる。そういう意味で昔高齢者と同居する日本の家族慣行(今はないが)を「含み資産」といった政治家がいたがそれは全く正しい。ただ、今後も日本は低福祉低負担のままでいけるか・・・というとそれは大いに疑問である。「小さな政府」が公務員を優遇しない政府とか税金が安い政府というのと混同されて、アプリオリによいものとされているような気がする。今後のますます深刻になるであろう貧困問題を考えると、いずれは再分配機能に軸足を置いた「大きな政府」に方向転換することも考慮すべきではないか。それに関連してどうも最近「格差」という言葉が都市と地方の格差にすりかえられているようだが、最も問題なのは個人間の格差である。親と同居しながらその日暮らしの非正規雇用で暮らす20代、30代の若者達・・・こうした人達に正規就労への機会を提供することこそ最大の政治の課題ではないか。そしてこんな状況をもたらした労働法制の規制緩和。たぶんこのままの状況がつづけば、100年後には日本の衰退、日本社会の崩壊をもたらした最大の失策として記憶されるのではないか。
2007年10月02日
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最近話題の相撲部屋でのリンチ事件。どうにもわからないことがある。新弟子が死んだのは6月とのことだが、これほどの暴行があったのになぜ当時問題にならなかったのだろうか。医師はいったい何をみていたのか。朝青龍の仮病?のときも医師の責任云々をいう人はいなかったし、どうも相撲界関係の医師というのはかなりいいかげんなのではないのだろうか?そしてもう一つの疑問。こうしたことは時津風部屋だけの話なのだろうか。実はこうしたしごきというかリンチというのは相撲界に蔓延していて、時津風部屋だけではないのではないか。こんな印象をうけた人も多いと思う。そうだとしたら今までの弟子の死亡事件の中にもほりおこしていくとけっこう不可解なものがあるのではないか。報道でみるかぎり、これはリンチとかしごきとかといったものではなく、れっきとした殺人である。親方だっておそらく責任はまぬがれまい。そしてたぶんことはこれでおわらない。相撲界に籍をおいた様々な人間から、こうしたリンチや暴行の証言が続々と出てくる。やがて相撲=犯罪集団のようなイメージが醸成され、人気は地に落ち、存在価値まで問われるようになる、そしてそれこそが関係者が最もおそれていることではないか。時津風の尻尾きりだけで無事ことが終わればよい…願っているのはたぶんそれだけであろう。※相撲もそうだけれど、古くから続いてきた風習とか文化というものが、それだけで「価値あるもの」で「よきもの」だとはどうしても思えない。なんか一緒くたに伝統というと、それだけで尊重すべきもののように思ってしまうのだが、古くからあったということと伝統として後世に伝えるべきであるということとは別物であろう。相撲が後世に残すべき文化であるか否かはさておき・・・多くの人が「伝統」といっているものも、実は明治以降終戦までの期間に人為的に作られたものもかなり多い。そうした人為的なものを廃して、日本の風土の中で先人達が守ってきた生活の知恵や価値観。そうしたものの中に真に守るべき伝統があるように思う。
2007年10月01日
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