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有名な小説であるが、どうもよくわからなかった。翻訳がよくないのか、時代背景や場所がかけ離れすぎて、理解しにくいのか…。主人公と二人の女性の恋物語なのだが、登場人物の心理がさっぱりわからない。二人の女性は清純な令嬢と才色兼備の女官なのだが、女官はなんと主人公の叔母にあたり、しかも、主人公が生まれた時にはすでに成人していた。10歳以上も違う自分の甥に恋する心理も想像をぜっするが、さらにわからないのは令嬢の方…。許されざる恋であり、主人公の安寧を祈ることとひきかえに、主人公を絶対に「見ない」という誓いを聖母にたてる。「見ない」という誓いなので、主人公に会うのは暗闇の中で、しかも、主人公の子供まで産む。普通に考えたら「見ない」というのは「会わない」ということで、暗闇の中で会うのはよいなんていう解釈はありえない。令嬢は物語の途中で金持ちの侯爵と結婚し、赤ん坊は夫の子として育てられているし、主人公は聖職者として、多くの人の尊敬を集めている。こういうのってとんでもない話で、これは宗教の偽善を訴えた小説かといえば、さにあらず、主人公は信仰心篤い人物として描かれている。となると、さっぱりわからない。とはいえ、文庫本で上下二冊ある長編をなんとか読んだ。本当につまらない本なら中途で投げ出しただろう。わからない、理解できない…と思いつつ、やはりなにか惹きつけるものがあるから最後まで読んだのだろう。
2018年07月31日
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ずっと前にも日記に書いたことがあるのだが、世の中にはたしかに不思議なこと、自然界の法則では説明できないことがときたまあるのかもしれない。そうした不思議なことはもしかしたら巧妙なトリックかもしれず、錯覚や幻覚のような知覚の誤りなのかもしれない。ただそうした不思議なことがあったとしても、そうしたものには近寄らない…というのが賢い生き方なのだろう。怪力乱神を語らずとか鬼神は啓して之を遠ざくという先哲の言葉があるが、これは合理主義を主張したものというよりは、不思議なことがこの世にあることを認めながら、そうしたものに深入りすることをいさめたもののように思われる。ずっと昔、こんな話を聞いたことがある。当時上司だった人から聞いた話である。友人がある超能力者に傾倒していて、あまりしつこく誘われるので、友人と二人でその超能力者を訪問したという。彼女(中年の女性だった)は会うなり、微笑んで「今日はとてもよいことをなさいましたね」と言う。そして彼女のいうとおりに土産にもってきた蜜柑をむいてみると皮の下から真珠がでてきたという。彼女はその真珠をくれると言ったが、後で真珠は同行した友人にやり、その後、二度と訪問しなかったという。たぶんそれがもっとも賢い対処法だったのだろう。もちろん伝説や説話のたぐいであるが、歴史上には様々な超能力者がでてくる。空を飛んだという役行者や幻術を使ったというか果心居士、古今著聞集にはインチキだったということになっているが天竺冠者という人物もいたし、明治期にはあの「貞子」のモデルとなったという女性もいた。もしかしたらある種の人間にはそうした未知の能力が備わっているのかもしれない。それにしても…と思う。超能力というものは持っている本人の幸福にはあまり結びつかないように思う。さらにいえば、超能力という能力がもしあったとしても、それは人格や洞察力とは全く別なのではないか。例えば100メートルを9秒台で走る人間がいたらすごいと思う。場合によっては、その能力や努力を尊敬するかもしれない。でも、決してその人間をあがめ、その人間に判断をゆだねるほどの傾倒はしないだろう。超能力というものがあったとしても、それと同じである。そういえば、モームに「魔術師」という小説がある。魔術に造詣の深い奇人と知り合いになった青年医師に知人はこんなふうに忠告をする。「近づくな、とにかく近づかないことだ」と。
2018年07月30日
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少子化ということはいわれて久しい。この少子化にはいくつかの段階があって、独断と偏見でざっくりとわけると三段階くらに分けられるのではないか。第一段階は結婚した夫婦の間の子供が少なくなる段階。かつては5人兄弟や6人兄弟も珍しくなかったが、これが2人兄弟や2人兄弟が普通になっていく。乳幼児死亡率が低下するとともに、教育に金と労力をかけることができる時代になったことがその背景にある。いわば豊かさの証左としての少子化の段階である。第二段階は女性の高学歴化がすすみ、「生活のため」だけでなく「自分のライフスタイル」として職業を選び、結婚をしなくても生活できる女性が多くなったことにより少子化がすすんだ段階。いわゆる自立した女性は結婚したくないわけではないが、「適当な相手」が限られることや、その「適当な相手」と結婚するころには複数の子供を持つには難しい年令になっていたりする。そして第三段階は非正規雇用や不安定雇用が増えたことによる少子化の段階。これは少子化というよりも未婚化とか非婚化といった方がよいのだが、自身が非正規雇用であるために結婚が難しいということだけれはなく、こんな就職も難しい世の中なので子供を持っても大変ではないかという結婚や出産へのインセンティブの低下も背景にある。生涯未婚率はますます高まり、近い将来には「結婚しない生き方」もごく普通になるだろう。大昔は不幸とみなされていた「独居老人」が今ではあたりまえになってきたように…。この少子化や非婚化の影響についてはいろいろといわれているが、経済に与える影響という議論が主流のようである。それもそうであるが、もう一つ、人生観や価値観に与える影響というものがあるのではないか。つまりそれは「家」という概念の喪失である。先祖から連綿と続き、自分の後も子、孫と続いていく家はもはやない。となれば家の名誉とか恥という概念もなくなっていく。こんなことを考えるのは、最近、勲章を売買することが行われているという話をきいたからだ。ネットで検索するとたしかに昔の陸海軍の勲章は売買されている。ならば、そのうち、今の勲章も売買されるようになるかもしれず、いやすでに売買されているのかもしれない。こうしたものは本人がなくなった後も、家がつづいていけばその家の誉れとして大切に保管されるが、そうでなければ金に換えた方がよいと思う人もでてくるのだろうから。そう考えると、国家の与える勲章とか名誉というものは家の存続とセットなのかもしれない。そして「国家」についての観念もそこで自分の子孫が暮らしていくところとみる場合と、そうではなく自分の後には何も残らないと考えるのとではずいぶん違うのではないか。
2018年07月28日
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オウム事件実行犯の死刑が執行されたが、マスコミの報道は批判的なものが多い。一般的な死刑廃止論に加えて、この事件の特殊性による反対論もある。曰く。彼らは貴重な生き証人なのだからカルトの怖ろしさを語りつくさせるようにするのが、より有用なのではないか。曰く。教祖と「マインドコントロール」された信者の間には責任は天地ほどの差があるのに、同じ刑罰でよいのだろうか。前者についてはこう反論できるだろう。いままで多くの元信者が手記を書いていた。中にはサリン事件の実行犯の医師もいた。こうした手記を出した元信者の中には、ライターや評論家のように扱われていた人もいた。信者の体験談はすでに「語りつくされて」おり、事件から20年以上たった今日、いったいさらに何を語りつくすのだろうか。正直、オウム事件の後、元信者の体験談が出版界を席巻していた頃は、世間の人々はカルトの怖ろしさを感じるどころか、変な宗教を「体験」することがライターになる近道だなんて考えているのではないかと思ったほどだ。後者についてはこうだ。マインドコントロールなるものは説明をきいてもさっぱりわからないが、かりにそうした「心理操作」の手法があり、教祖と信者の責任に天地の差があったしても、じゃあ、その実行犯となった信者と一般の刑事事件の犯罪者の間はどうなのだろうか。生活に窮し、せっぱつまった事情があっても、強盗殺人で二人以上殺害したらまず死刑だ。幼児の身代金目的誘拐殺人も同様である。こうした事件に死刑が選択されているのに、未曽有のテロ事件を起こし、国家社会を震撼させた事件の実行犯が死刑にならなければ、そちらの方との均衡を欠くのではないか。それに、マスコミにでてくる人を見ていると気がつくことがある。被害者として、そして被害者の立場で発言している人の中には、子供を亡くした人や自身が重篤な障害を負った人は出てこない。オウム関連の事件では多くの人が死んだり、また、障害を負った。サリン事件では、たまたま乗った地下鉄路線で事件に遭い、失明の上に全身まひの重度の介護を要する状態になった女性もいた。もちろん配偶者を亡くすのも悲しいことなのだが、それでも、配偶者を亡くす悲しみと子供を失う悲しみは違うのではないか。ごく限られた被害者の発言が、被害者全体を代表しているかのように報道されるが、それは絶対被害者全体を代表するものではない。実行犯の死刑で被害者や遺族の悲しみが減じることはないのかもしれないけど、実行犯の処刑がなされないことは被害者やその遺族を苦しめる。死刑は法務大臣が一人で決まるものではなく、求刑をした検察官もいれば、判決を書いた裁判官もいる。それでも重い決断をした法務大臣を評価したい。彼女の政治家としての活動歴の中には犯罪被害者の支援という項目もあり、マスコミにあまりでない被害者、子供を失った親や、重度の障害を負った人々のこともきっと考えたうえでの決断だったのだと信じている。
2018年07月27日
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オウム事件の残りの死刑囚6人の刑が執行された。前回の麻原を含む7人のときと比べて、やや陰惨な感じがしたのは、前回の死刑以降残りの6人がどんな心境でいたかをつい想像してしまうからだろう。処刑が切迫した死刑囚の心理は加賀乙彦の「宣告」に描かれており、また、「二都物語」にも、恋人との別れにからめて描かれている。こういうのはフィクションだが、現実の6人は四六時中首の後ろに綱がまきついているような心境で2週間あまりを過ごしていたのではないか。オウムでは多くの人々が犯罪にかかわった。そうした中で死刑が執行された12人が特に悪辣というわけではなく、集団の中でそうした役割に当たっただけという面がある。それに組織犯罪というものは、いったん組織に入ってしまうと逃げられない。ある役割を命じられて、それを拒否したとき、今度は自分の身があぶなくなるかもしれない。警察に駆け込んだからと言って、警察が守ってくれる保証はない。そのあたりやくざ社会と同じである。また、早い段階での自首があればサリン事件を防げたのではないかという見方があり、それはそうなのだろうけど、あくまでも時間を逆に見るから言えることではないか。弁護士一家策人事件直後はサリンなど影も形もなく、この時点で自首したとしても、「サリン事件を防いだ」などという情状にはならず、やはり極刑の可能性はあった。そんな組織の中で起きた事件なのだが、それでは麻原がすべて把握して、すべては麻原の意思で行われたのだろうか。視覚障害という大きなハンディをかかえ、専門教育を受ける機会のなかった麻原にそんな能力があったとは思えない。大きな組織の力学で起きたことのようにも見え、結局はよくわからないし、今回死刑が執行された人々がもしずっと生き続けていてもやはりよくわからなかったのだろう。死刑が執行された麻原も含む13人は国家から最大級の報復をうけたが、他のオウム犯罪者に厳しい処断がなされたかというとそういうわけでもない。微罪ですんだ幹部も多いし、中には薬物使用にかかわり、サリン謀議の場にいても、まったく刑事責任を問われなかった人もいる。世界で初めて犯罪目的でサリンを作った女性二人も短期間の懲役刑で済んでいる。一般信者となると、オウムでの体験をもとに本を出版した人も何人もおり、週刊誌で評論家のようにインタビューに応じている人もいた。そうしたものの需要があったと言えばそれまでだが、世間のオウム信者に対する見方は必ずしもバッシング一色ではない。一般信者ではなく、幹部であったが上祐氏の立ち位置もにたようなものに見える。
2018年07月26日
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映画「空飛ぶタイヤ」をみた。実在の事故をモデルにした映画で、大企業対中小企業の対決に様々な人物がからみ、最後は大企業の不正が明るみになるという勧善懲悪の爽やかなストーリーで、全くあきさせない。面白い…。ただこれは実在の事故があって、当然そうなると劇中のホープ自動車というのは〇〇自動車のことであろう。こんな面白い映画が気のせいか新聞や雑誌であまりとりあげられていないように見えるのは、〇〇自動車のスポンサー企業としての圧力があったのだろうか。それにしても、映画に出てくるホープ自動車の重役は堂に入った悪役ぶりで芸達者な出演者の中でも際立って上手い。この悪役が憎たらしく見えるほど、当然、ホープ自動車のモデルになった〇〇自動車のイメージは下落するわけで、大企業に対してこんなにイメージダウンをもたらす映画を作ってもよいのだろうか。いや、それはいいのだろうけど、これに出ていた俳優は〇〇自動車のCMには使ってもらえないだろう。逆にCMに出てきたら、それはそれでインパクトあるのだが。この映画にかぎっては最後のテロップをじっとみた。協力企業に、まさか〇〇自動車はないだろうけど、他の△△自動車があるのだろうか。他の大企業や公的機関はどのくらい名を連ねているのだろうか…と。自動車関連の社名はさすがになかったが、協力企業や団体のテロップをこんなに興味深く見た映画ははじめてだ。映画も、そしてその元になった小説も、勧善懲悪で爽快だ。ただモデルになった現実の事故についての関係者についてネットでみるといろいろな情報が出てくる。真偽のほどはわからないのだが、現実の世界は映画のようにはゆかず、もっと不条理なものだということか。
2018年07月26日
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英国で世界最初の体外受精児が生まれてもう40年になる。当時ルイーズちゃんと呼ばれた女の赤ちゃんはすでに自然妊娠で二人の子供の母になっているという。体外受精も不妊治療の手法として定着し、世界では何百万という赤ちゃんが生まれているが、医学の進歩とはそうしたものであろう。それにしても…と思う。日本で最初の体外受精児が生まれた時の報道は酷かった。とくに当事者が公表を望まないにもかかわらず、実名を公表した某大新聞もあり、あんなのはマスコミによる人権侵害の典型例ではないか。他の領域での医療技術の進歩は素直に恵沢として報道されるのに、不妊治療についてはなぜ議論がまきおこったのか不思議である。たぶん大きな原因は二つある。一つは、世の中の多数の人にとっては自然妊娠があたりまえであり不妊当事者は声をあげにくい状況があったこと、そしてもう一つは、難病などと異なり、世間に不妊当事者の悩みが伝わりにくいことがあったのではないか。生き方として子供を持たない選択をする夫婦もおり、子供のいないことが不幸たとも必ずしもいえない。しかし、現に子供を望む不妊当事者がおり、その子供を持ちたいという願いは、まさに誰にも迷惑をかけない切実な願いというのも事実である。医療技術の進歩によってその願いが叶うのであれば、難病が治るようになったことと同様に、大いに喜ぶべきことではないか。体外受精技術が緒につき始めた頃、「自然の摂理に反する」とか「神の領域を犯す」だとかいった議論が散々になされた。当時の「試験管ベビー」という用語も、試験管の中で胎児が育つような印象を与え、誤解を与えた面もある。日頃、不信心な人が神の領域云々をいうおかしさはさておいても、自然の摂理だの神の領域だのをいうのなら、医療という技術そのものが反自然的であり、神の領域を犯しているのではないか。医療によって、本来死ぬべき人が生きていて、病気で苦しむはずの人が健康でいるのだから。さらに、不妊で悩むのなら養子をとればよいではないかという議論もあった。世の中には様々な事情で親と暮らせない事情を持つ子供たちがいる。そうした子供が養子縁組で安定した家庭で育つのはもちろんよいことには違いない。ただ、養親が実親のかわりにならないように、養子も実子のかわりにはならない。不妊治療を受ける人が望むのは実子である。今でも里親や養子を不妊治療の延長のように語る人がいるが、それには違和感をもつし、ましてや不妊治療をしている人よりも養子をとっている人の方が立派だといったような議論は鼻白むばかりだ。実子がいても養子をとる人がいるし、そうでなくても施設への支援など家庭に恵まれない子供のために力を貸すことは、誰だって可能なのだから、こうした問題は不妊治療とは区別して語るべきではないか。世界最初の体外受精児のルイーズさんの記事をみながら、彼女を特別視せずに包んできたイギリス社会の成熟を思った。本当は人にとって「どのように生まれてきたか」などということは重要な問題ではない。「どんな人間として、どんな素質や形質をもって生まれてきたか」そして「どのように育ってきたか」ということの方がはるかに重要であろう。
2018年07月25日
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こんな話をきいたことがある。米国の大学の中には、全国何か所かに分けて入学試験を行うところがあるという。日本と違い広大な米国のことだ。国内にも時差がある。そこで理屈でいけば東部で試験を受けた人が西部の受験生に直前に問題を教えるというのも可能になる。その懸念を指摘した人に対し大学の担当者が一言こう答えたという。「そんなことをしても幸せにはならない。」裏口入学という昭和臭のある言葉をきいたとき上記の話を思い出した。親の力、金の力で点数をかさ上げしてもらったところで、自身の能力そのものは変わらない。ましてや医学部となれば、その先に国家試験という関門がある。医師国家試験の合格率は非常に高いのだが、それはおしなべて医学部入試が難関になっているからだろう。これが歯科医師や薬剤師の国家試験になると、入試の易しい大学では合格率が非常に低くなっているところもあるという。件の官僚の息子の場合も、裏口入学と言っても、運不運でぶれる程度の点差のかさあげではないのだろうか。そうでなければ、本人が苦労する。もちろん合格点に足りない何点かの範囲内といっても、そこで親が権限をもっている高級官僚だから合格できたとなると、世間一般の受験生からみると不公平この上ない話だろう。ところが続報によると、そうした裏口入学は、この官僚の子弟にとどまらず、同窓生の子弟などにも及んでいるという。こうなるとますますわからなくなる。そもそも私大の入試というのは点数だけで厳密にやっているのだろうか。というよりも、推薦入試のようにペーパーテスト以外で入学する人も多いし、一芸入試と称して、学力とはまた別の技能で選別するものもある。スポーツ推薦というのは広く行われているし、ある私大で人気絶頂のアイドルを入学させて話題になったことがある。こういうのは、学力以外とはいえ、本人に付随する能力で入るのだから問題ではなく、親の金で入るのは本人ではなく親の経済力がものをいうのでけしからんというのだろうか。
2018年07月23日
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地震や天候の急変には予知できないものがある。けれども、人為的な行為とその結果は確実に予知できる。ダム放水をしなければならないほどの水量の豪雨は予知できなくとも、ダム放水の結果は予知できる。今回の水害で、放水に伴う避難指示が適切に伝わっていたかが問題になっているが当然であろう。思い出すのは何年か前の神奈川県で起きた遭難事故である。川の中州でキャンプをしていた二家族が増水した川に流されて死亡した事故だった。増水はダム放流によるもので、家族の中には酒を飲んで寝ていたものもいて、避難指示を聞き入れなかったという。報道はもっぱら中洲でキャンプを行うことの無謀さや避難指示を聞き入れなかった遭難者の責任を問うものがほとんどだった。けれども、ダム放水、川の増水、キャンプをしていた家族の遭難…は当然予想できたことだ。酔って寝込んでいたとしても、いや、それならばなおさらのこと、なんとかならなかったのかと思う。事故後には子供も含めた遭難者の捜索に膨大な費用と手間がかかることとなったのはいうまでもない。人道とか自己責任とかの議論以前に、無駄なコスト削減という見地だけでも、強制的な避難という方策もあるのかもしれない。
2018年07月21日
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連日の猛暑につき思うのだが、2年後、こんな時期にオリンピックなど本当にやるのだろうか。国立競技場、エンブレムで騒いだ後はあまり話題にならないオリンピックなのだが、屈強な選手はともかくとして、観客やボランティアにどれだけの熱中症患者が出ることか…。けれども、オリンピックというものは前にはいろいろ言われていても、始まってしまえば、メダルラッシュとか感動をありがとうとかそれなりにもりあがっていくものだ。それに横浜の世界陸上も酷暑のさなかに行ったが、それなりにうまくいったのでなんとかなるかのかもしれない。夏の甲子園の例もある。熱中症患者もでているのかもしれないが…あまり報道されなければなんてこともなく過ぎてしまう。猛暑の中での小学生の校外学習は中止されても、甲子園大会が消えることはないだろう。以前の都知事選ではオリンピックもたしかに争点になっていたし、都民は開催を唱えていた候補を選択した。オリンピックだからテロ対策で共謀罪成立、オリンピックだからカジノ…というまでは望まなかったのかもしれないけど。ともかく東京の1920年が冷夏であってくれることを願おう。
2018年07月20日
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豪雨災害のニュースや連日のように起こるいやな事件をみるにつけ、平穏な日常をありがたいと思う今日この頃…スポーツには興味関心はないのだが、オリンピックの開会式とワールドカップの決勝だけは、見ることにしている。サッカーのルールは実はけっこう面倒なこともあるのかもしれないが、それでもカーリングやラグビーにくらべればずっとわかりやすい。特に今回はフランス対クロアチア。かたや人材を世界中から集めてこられるような大国であり、かたや人口440万人くらいの小国。フランスが様々な出自の選手の混成部隊であるのに対しクロアチアは全員はクロアチア人。それでクロアチアが勝ったら快挙だと思ったが、そうはならなかった。それでも世界二位、決勝進出はすごい。MVPをとったクロアチアのモドリッチ選手は、2006年ワールドカップの日本クロアチア戦で途中出場したのでよく覚えている。サッカー選手としては小柄できゃしゃで、これがスポーツ漫画だったらコマの上に花びらが舞い、「この美少年選手は何者?来週に続く」となるような感じだったが、こんなに偉くなるなんて…。クロアチアチームの活躍でクロアチア特有の姓のつけ方もずいぶん耳についた。「…チッチ」というのはもともとはロシア人の父称同様に誰それの息子という意味らしい。そういえば欧米人の姓には、やはり息子をあらわす「…ソン」とか「…セン」のつくものが多い。ずっと昔、「ぼくは泣いちっち」という歌があったが、あれはもちろんクロアチアとは関係ない。でも、高校の時に地学の授業の最初に習った「モホロビチッチの不連続面」。あのときはモホロビチッチはユーゴスラビアの学者と習ったのだが、調べてみるとやはりクロアチア人。サッカーの準優勝だけでなく、人類の科学史に貢献した学者まで…まさにクロアチア、おそるべしである。
2018年07月18日
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湘南国際村というところに行ってきた。前々から名前は聞いており、どんなところか気になっていたのだが、豪華ホテル、レストラン、大学院大学、国際会議場などが集まった場所を「国際村」と称しているらしい。見物にひょいとでかけるような観光施設ではない。ただ、なんだろう。このモヤモヤ感。三浦半島の高台にあるので景色は見晴らしは良いし、東京からも近い。けれども公共交通機関からのアクセスは悪いので、会議につかうのなら送迎バスが必要だろう。行ったときは休日だったこともあり、閑散としており、国際会議はもちろん開かれていない。その一方で施設は素晴らしい。ホテルは水をたたえた中庭など非常に斬新なデザインで瀟洒な雰囲気なのだが、人がほとんどいない。豪華なレストランやビュッフェがあるが、それも本日休業のようだ。休日だからこうなのであり、平日であれば違うのかもしれないが、それにしても、こんな三浦半島の山の上に会議をしにくる人々ってそんなにいるのだろうか。ましてや国際会議がそうしょっちゅう開かれているとは思えない。ネットで検索してみると、湘南国際村での国際会議参加者の記事が出てきたが、留学生の交流事業のようで、あまりすごい国際会議が開かれているという印象がうけない。まあ、これからどんどん会議や研修の会場として活用されていくということなのかもしれないけど…。
2018年07月17日
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オウム教団の教祖及び6人の実行犯の処刑後、かの教団のスポークスマンだった上祐氏が再びマスコミに出始めている。現在、教団「ひかりの輪」主催ということなのだが、いったい信徒はどのくらいで、勢力はどうなっているのだろうか。気になってサイトをみてみた。http://www.joyu.jp/hikarinowa/overview/宗教色のないヨガサークルのようで、参加料金も手軽な価格だ。少なくとも文科大臣の行っていたというヨガスタジオよりもずっと安い。そして指導者をみると上祐氏のほかにも何人かの人が公開されているが、元オウムの信者が多いようだ。たしかオウムには上祐氏の婚約者だった女性幹部もいたはずだが、彼女とは袂を分かっているらしい。しかし…と思う。いったいこうしたヨガサークルでなりたつものなのだろうか。この参加料金なら市民サークルなみで、会場費をまかなうのがせいぜいではないか。もしかしたら最近さかんにマスコミにでているのは、団体の宣伝だけでなく、出演料や、場合によっては講演料も目当てなのかもしれない。上祐氏はかつてのような玲瓏とした美貌は消えたが、相変わらず若々しい。ただ話は上手いのだが、宗教的な雰囲気はなく、教祖には向いていないように思う。それにしても、あの頃のワイドショーはなんだったのだろう。事件も異常だったが、社会の反応も変だった。連日のように上祐氏と亡くなった村井幹部、それに韓流顔の弁護士が並んでオウム擁護の論陣をはっていた。マスコミも世間もある意味、これを面白がって見ていたように思う。いわば「世間のオモチャ」である。「尊師を殺す気ですか」、「私を監禁しないでください」等の名言もうまれたが、今では黙殺されている。
2018年07月16日
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鴨長明の「発心集」には入間川の豪雨の話が真にせまった筆致ででてくる。入間川が大洪水をおこし、人々は家の屋根にしがみつくのだが、その屋根も流されていく。ある男が自分だけでも助かろうとして、屋根にしがみついている妻子を置き去りにして、濁流に飛び込み、必死におよぐ。つかまった木の枝には蛇がいくつもからみついているのだが、それでも、九死に一生を得るという話だ。西日本水害を見ると、こうした豪雨災害の怖ろしさは昔も今も全く変わっていない。それでも、普通に住宅で暮らしていた人が、住宅の中で溺死するという事態は、気象予報技術が格段に進歩した今日では防げなかったのだろうかと思う。地震の予測は今の科学では不可能なのだが、前線や台風の進路はかなり予測できるようになっている。水害の怖ろしさは水害時にとどまらない。昔は水害の後には必ず疫病が発生した。疫病…なんていうと、今の日本人には言葉そのものが死語になっているかと思うほどなじみがないのだが、明治時代でも周期的に赤痢、コレラなどの発生があり、かなりの犠牲者が出ている。今日、そうした疫病を克服できたのは医学の進歩もさることながら公衆衛生の進歩によるところが大きい。ところで今の政府がおしすすめようとしている施策には、カジノのほかに水道の民営化がある。下水道だけでなく、上水道も、今日では公衆衛生に大いに影響する。携帯電話同様に、水道も不払いですぐに止めるようになったらどうなるのだろう。水洗トイレの普及した今日では、水道を止めることは、すぐに地域の衛生環境に影響するのではないか。さらにいえば現在高等教育の無償化の議論がなされているが、最低限の電気や水道の無償化の議論がなぜなされないのかも不思議である。高等教育と電気、水道…人が生きていくのに必要なものはどちらなのだろう。
2018年07月15日
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豪雨災害さなかの自民党の宴会が批判をあびている。本来ならこれだけでも政権はもたないはずなのに、そうならないのはなぜなのだろうか。それはいくら安倍政権が批判されても自民一強は安泰だからだ。民主党ももともと議員バッジをつけたいだけの烏合の衆だったが、衆議院民主党が解党し、希望の党になってからは烏合の衆以下になった。かつて希望の党が作った広報ビデオはおそろしく中身がなく、この党に対する選挙民の期待などは一過性の風だったことがわからなかったのだろうか。国民なんとか党は認知度すらなく、支持率はゼロにかぎりなく近いし、前回風が吹いた立憲民主党も、泥船ではないものの、自民党に比べるとせいぜい筏くらいにしかみえない。強力な対抗軸がないかぎり、自民党の議席はゆるがないので、無理に総理をおろす必要などはない、それにそもそも総理に代わるような玉もいない…といったところが本音だろう。どうも元凶は小選挙区制にあるのではないか。大量の死票を出す小選挙区制では選挙民の選択が限定されやすい。似たり寄ったりの二大政党制になるか、今のような一強多弱で、しかもその多弱の内実は一強とさほど変わらないという形になりやすい。かつてあったような批判勢力としての野党、政権党から見てうるさい野党勢力というものの、出る幕がなくなるのだ。似たり寄ったりの二大政党制であれば、まだ、政権交代の緊張感だけはある。ところが小選挙区制の下での一強多弱は、愚かで無能なトップでも、これをかついでいれば議席は安泰なので、堕落が起きやすい。政府は高プロについでカジノ法案も今国会で成立させるつもりのようだ。この災害発生中にカジノ法案を急ぐなどまったく変な話である。そんなものいったい国民のだれが望んでいるのだろうか。はっきりいってカジノを設置する多くの国では外貨獲得をその目的にしている。そのため、顧客を外国人に限っているところも多い。ところがいま推進しているカジノはどうも日本の大都市に作ることを念頭に置いているようで、しかも、カジノ業者には外資のはいる可能性もある。となると、カジノを設置して、日本人の金を吸い取り外資に差し出すという非常におまぬけな結果になるのだが、それでもよいのだろうか?
2018年07月11日
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オウム事件が起きたとき、いろいろとこの事件に関する文献を読んだことがある。当時マスコミを席捲していた「マインドコントロール論」にはどうしても納得がゆかず、その根底にある偏差値信仰には反吐がでた。社会的に反感を持つ麻原なるサイコパスが高偏差値のよいこ達をマインドコントロールしてしまった、実行犯も被害者だ云々…。たぶんこういうことを言っている人々は教祖が高学歴エリートで実行犯がヤンキーだったらきっとまた別の見方をするのだろう。それになによりも、「マインドコントロール」の手法というものは、セールスや恋愛など普通の人間関係にも使われているようなもので、なにも目新しいものではなく、それゆえ、普通の人に重大犯罪を犯させる手法としては説得力を欠いている。それでは「マインドコントロール」で説明できないとすると、実行犯の犯罪に至る心理はどう説明するのだろうか。オウム教団の内部で出版された本や教祖自らの著書も読んでみた。およそ人が宗教というものに引き付けられる要因になるはずの荘厳さや深淵さはまるでない。宗教や教義の魅力に引き付けられたとはとても思えない。いったい何なのだろうか。結局はわからなかった。ただしいていえば「神秘体験」に鍵がありそうだ。死刑になった実行犯も含め、多くの信者は実際に超自然的な体験をしている。教祖が光り輝いて見えたり、目の前で浮遊しているのをみたり、あるいは自身の体が意思に関係なく空中を飛び跳ねたりと。古来、人間には神がかりとか狐つきといった精神状態がある。将来はこういう現象も説明される日がくるのかもしれないが、「弟子たち」はそうした現象からまっしぐらに教祖崇拝につきすすんでいったことが悲劇だったのだろう。オウムの死刑囚ではまだ6人ほど処刑されていない人々がいる。こういう人々はそれこど毎朝の看守の足音に怯える地獄のような日々を送っていることだろう。オウムにさえ出会わなければ全く別の人生を歩んでいたはずだったのに。
2018年07月11日
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動画サイトをみていたら「πの音楽」というサイトがあった。円周率、音楽で検索すればすぐにみつけることができる。円周率の数字を音階に当てはめ、ピアノの旋律を作ったのだが、なんともいえない美しさに息をのんだ。別に音楽に造詣はないのだが、音楽の美しさというのはある種の秩序の美だろう。不規則に並んだ数字の円周率からなんでこうした音楽が生まれるのだろうか。それが不思議だ。こういう試みは円周率以外の数、例えばeとか、√2とかでやったらどうなるのだろうか。また別の「音楽」がでてくるのだろうか。
2018年07月10日
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ワールドカップを見ていておやと思ったことがある。日本コロンビア戦である。普通に考えれば、観客は圧倒的に日本人ではないかと思っていた。日本ではツアーがいくつもくまれるだろうけど、コロンビアは途上国でまだまだ海外に観戦に行くほどの余裕のある人は少ないのではないか。そう思っていた。ところが観客は圧倒的にコロンビア応援…これはいったいなんなのだろうか。サッカーを応援し、観戦にまでいくのは若い層が多い。国家が発展するときは若者から豊かになり、衰退するときも若者から貧しくなっていく。これって日本ではサッカー観戦に行くほど余裕のある若い層が減ったということなのだろうか。それとも、グローバル化は国家による貧富の差をなくす方向に働き、国ごとの差よりも個人による差が大きくなったのだろうか。従来の途上国でも裕福な人、多くは外国で活躍しているのかもしれないが、そうした人が増えた反面、豊かな先進国と言われる国でも貧しい人が増えたということなのか…。たしかに個人の能力、努力、運は国籍とは関係なさそうだし、もはや先進国の国籍だけではなんの保障にもならない。そんな時代になっているのかもしれない。そういえば観光でも長いこと日本人は観光する側、サービスされる側というのが普通だとおもっていた。ところが最近では大きなスーツケースを引きずる外国人観光客をいたるところでみかける。紅毛碧眼の外人も増えているのだが、それに劣らず、従来は「途上国」とひとくくりにしてきたような国からの観光客も増えている。
2018年07月09日
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オウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた7人が処刑された。この事件については教祖は処刑しても実行犯の処刑はないのではないか。あるいは教祖の処刑自体もないのではないか。内心、そんなふうに思っていたので、このタイミングでの処刑には驚いている。それにしても不可解な事件だった。宗教が金になるようなことをいう人がいるが、ああいう「若者を出家させる宗教」がそんなに金になるとも思えない。行き場のない若者が逃げ込むように出家したところで、持ってくる金はたかがしれているし、出家した信者は粗食でもなんでも食べていかなければならない。武装化にむかう潤沢な資金はどこからでていたのだろうか。それにサリン製造にしても、化学の知識だけで作れるのだろうか。これも、軍事的な専門家がいないと無理なように思う。現にサリン以外にも生物兵器や銃器製造なども試み、こちらの方にも大学院などで生物学や機械工学を学んだ専門家がいたが、ものになっていない。とばし記事かもしれないが、幹部の北朝鮮渡航の報道もあった。あれはどうなったのだろうか。さらに、何度も書いたが実行犯の心理が最大の謎…。特に土屋正実は親が何度もオウムから引き戻そうとして、こうしたカルト宗教の脱会のための施設にも入れたが、わずかの隙でオウムに戻っていった。このあたり小説「魔術師」(モーム)の被害者が魅入られていくような不気味さを感じる。また、中川智正も内向的な印象を受ける他の幹部と異なり、友人も多く人望もあった人物だったという。医師であり、晴眼で柔道の有段者で、温かい家庭、可愛い恋人と、たぶん麻原が望んでも得られなかったものを持っていたために、これも、麻原に憎まれていたとしか思えない。要するに麻原は本当になんらかの「力」を使って人を支配したとしか思えない…というかそれ以上の説明がどうも見つからない。ところで日本の歴史では、こうした教祖的な人物は処刑などしない。役行者も人心を惑わしたとして捕縛されたが、島流しとなり、その後、赦免されている。日蓮も斬首直前で免れたという話があるが、これも雷などが原因というよりも、直前でとりやめたのだろう。おそらく背景には日本古来の祟り信仰がある。死者は恐ろしいもので、教祖になるほどの人間なら、どんな祟りがあるかわからない。麻原についても、たぶん処刑はない…と思っていた所以である。
2018年07月07日
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文科省の現職局長の汚職のニュースが大きく取り上げられている。与野党問わずけしからんの大合唱なのだが、なんか変…。大学側は補助金を受け取り、見返りに局長の息子の入試の点数を加算したということなのだが、まず補助金の方を見ると、その額は3500万円とのこと。モリカケの億単位の話に比べてあまりにもしょぼい。贈収賄は収賄だけでなく贈賄も犯罪なのだが、こんな金額のために犯罪をやるのだろうか。そして入試点数加算である。「裏口入学」というと言葉自体が懐かしいのだが、なぜ懐かしいかと言えば、最近入試の多様化とやらで、裏も表もないような入試が増えたからだろう。だいたい私大入試が一点単位で厳密に筆記試験だけで合否を判定しているなんて思っている人は少ないのではないか。それに医学部の特殊性もある。件の医大とは別だが、知人から聞いた話である。さる開業医の子息が某私大の医学部を受験したが一点につき何百万という補助金で合格したという。この話を聞いたのはかなり昔であるし、実際にこんなことがどれほど一般的かはわからないが、まったくないというわけでもないだろう。もちろん医学部はその先に国家試験があり、それに受からなければ何にもならないので、学力に関係なく入学させるわけにはゆかないが、合格ラインと不合格ラインの間に補助金で合格できるラインもあって、そこには表も裏もない。本当の意味での裏口、つまり学力不足での裏口は医学部では意味がない。もちろん局長の息子が入試の点数が足らず、親父が公費で3500万円の補助金をつけるのに尽力するみかえりに、家から出す補助金を免除され、晴れて合格したのだとしたらそれも収賄である。ただそこで疑問がわく。私大の入試の選考などは普通外にでない。開業医の息子が大学に補助金を出して合格したという話も、親御さんがそれを話したことで知ったということである。いったいどういう経緯で、この贈収賄事件が明るみになったのだろうか。金銭や物の授受なら外形的にわかるし、捜査当局もつかみやすいのだが、入試の選考過程などはまず外部からはわからないと思うから。
2018年07月06日
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歴史を学ぶ面白さの一つは当時の人々の生活や考え方を想像するということがある。著名な人物の一代記もよいが、そうではない普通の人々が日々何を考えて生きていたか…そんなことに興味がある。近代以前は文献も少ないのだが、明治以降は様々なものが残っており、そのあたりの資料にはことかかない。それでも、今の時代から考えると、戦時下の国民が戦争にすすんでいった心理はわかりにくいし、若い人などには学生運動をやっていた大学生だって謎ではないか。というわけで、そんな近過去を考えると、どうしても不思議なことがある。太平洋戦争が終わった後、昭和27年5月まで日本は米国の間接統治下にあった。日本政府は存続していたが、政策は常にGHQの影響下にあったという状態である。国家が外国の支配下にある時代…普通に考えれば国民は独立を熱望するはずだ。ところがこの時代、そうした運動が草の根レベルであったという話もなく、支配層が積極的に独立を急いだという形跡もない。それどころか昭和26年にマッカーサー元帥が解任されると、沿道には都民20数万人が集まり、国会は感謝決議をし、マッカーサー神社建立の動きまであったという。このマッカーサー神社というのはネタくらいにしか思っていなかったが、ネットで見てみると、錚々たる人々が発起人に名を連ねており、どうやら本気だったらしい。その後、あの「日本人の精神年齢は12歳発言」でこれは雲散霧消したらしいのだが、もし、こんな神社ができていたら、宗教的にも興味深いものになったのだろう。存命中の人間を祀った神社というのもきかないし、外国人を祀った神社も古代の渡来人を別にすれば北里大学のコッホ神社くらいだろう。コッホ神社は恩師を追悼する術に苦心した北里博士が祠を建立したもので、鳥居などがある普通の神社とは違う。そしてサンフランシスコ講和条約で日本は独立を回復するのだが、このときも「国民挙げて喜んだ」という記録はなく、ちょうちん行列や祝賀行事というものもきかない。当時の国民はどう思っていたのだろう。つらつら思うに、占領政策というものは、普通の日本人にはそんなに悪いものではなかったのではないか。戦前は格差の激しい時代で、農村には地主と大多数の小作人がいた。教師や巡査は農村では尊敬され現金収入を得ることのできる人々であったが、それでも、官吏や軍人にくらべると給料も地位もぐっと低かった。使用人を抱えた少数の上流層、都市中産層、農村地主、自営業主がいる反面、多くの小作農や職工といった人々がいた。それでも、戦前の社会がそれなりに安定していたのは、それぞれ「住む世界」が違い、親族や地域での扶助機能が生きていたからだろう。占領期に導入された「民主主義」というのは、平等化だった。農地改革によって地主と小作人の差がなくなり、軍人は地位を失い、華族制度もなくなった。役所では高等官、判任官、雇い等の身分の区別がなくなり、上下の俸給差も縮小した。それと同様に、戦前からの流れもあったが、民間企業では社員も職工も同じ社員となった。累進課税も強化され、学校では国民主権や平和、人権を教えるようになった。マッカーサー神社が実際に建立されていたらどうだったのだろう。占領期の民主主義の名のもとに行われた種々の改革を当時の人々が喜んで受け入れたことがもっと記憶されたのではないのだろうか。
2018年07月04日
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モンテクリスト伯の小説があまりにも面白く、余韻にひたりたくて映画(ケビン・レイノルズ監督)版をDVDで視聴した。膨大な登場人物やいくつものサイドストーリーのある原作をコンパクトにまとめるのは大変だったのだろうけど、よくまとまっている。ただ、ストーリーの改変がひどく、原作とは別物と思った方がよいのかもしれない。幸福の絶頂での逮捕、投獄、獄中での学問、脱獄と巨万の富…ここらへんはほぼ原作どおりだ。ただその先が違う。ネタバレになるが、立派な青年に成長した息子が実は…主人公の子供だったということになっており、こうなると、最大の復讐をやったのは主人公ではなく、その恋人だったのではないか。主人公を陥れた仇の一人である恋敵は傲慢な貴族で剣の名手と改変されており、最後はこの手の映画のお約束のチャンバラシーンで主人公に敗れるのだが、なんかこちらの方が気の毒にみえてくる。本では主人公が三人の仇を追い詰めていくあたりが面白いのだが、映画ではこのあたりはでてこない。やはり連続ドラマくらいの分量がないと無理なのだろう。現代日本に舞台を置き換えたドラマ版は、このあたりうまく原作の筋をとりこんでいるようで、こちらもみてみたい。それにしても、この物語に限らず有名な原作で、映画やドラマがあると、原作をよまずに、もともとこういう話だったと思う人もいるのかもしれない。今もあるかどうかわからないが、かつては大人向けの名作を小学校高学年くらい向けにリライトした本がよくあった。その多くは後で読んでみると全く印象が違った。「こういうものだ」と思って読まずにきたものも原作を本で読むと意外におもしろいということはよくあるのかもしれない。
2018年07月03日
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若い頃のこと…職場に不満があって転職を考えたことがあった。ただ就職には苦労したので、今更他社の面接を受ける気にもなれず、また、新卒でもないので採用される可能性もなさそうであった。そこで考えたのはなんらかの資格をとることである。もちろん最難関資格などは無理であったし、可能な範囲で…いろいろ検討してみた。問題は二つあった。今の職場を続けたまま受験準備ができるものなのだろうか。そしてたとえその資格をとったとしてもそれで生活できるのだろうか。結局あれやこれや考えてあきらめることにし、同じ会社にとどまり今にいたっている。受験準備のために仕事を辞めたとしたら、その間の生活費、学校に通う授業料、書籍代は相当な額になる。そして資格の難易度は当然ながら資格の価値に比例し、「自分でもチャレンジ可能にみえる」ような資格はとったところで、それで生活するできそうもなかった。ところで難関資格と言えば弁護士なのだが、米国の弁護士資格をもっているという人の話を聞いたことがある。この方は大変な秀才で非常に早く日本の法曹資格を取り、国費で留学して米国の弁護士資格もとったという。世の中には優秀な方もいるものである。
2018年07月01日
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