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我が会社のあるJR大崎駅の構内に今年も七夕飾りが飾られました。 昨年から復活し、駅の利用者に短冊に願い事を記入してもらい、これを竹にぶら下げているのです。笹の葉が構内の空気の流れに揺れて近づく夏を知らせてくれているのです。一年も気がつけば半分が過ぎ、湿気が多い中、気分もリフレッシュしたくなるこの時季、風流な気分を味わうのも良い物です。子供のころから馴染みの深いこのお祭りですが、そもそもはどんな意味を持っていたのでしょうか。この七夕飾りはもともとは、機織りのうまい織姫にあやかって、機織りや裁縫の上達を祈っていましたが、江戸時代に庶民の間に七夕飾りが広がると、寺子屋に通う子供達が習字などの上達を願うようになったとのことです。本来は、サトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、五色の短冊に願いを書きこんだのです。サトイモの葉は神からさずかった天の水を、受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達すると信じられたのです。竹笹にはいろいろなものを飾りますが、それぞれに意味が込められているとのこと。・竹......神様やご先祖様が地上に降りる目印。空洞になっている部分に力が 宿っている。・五色の短冊......中国の陰陽五行説に由来する、青・赤・黄・白・黒の短冊。 字が上手になるように。習い事が上達するように。・吹き流し......織姫の織り糸に見立てて、五色のテープで作る。・巾着(きんちゃく)......金運を祈り、折り紙で作ったり、本物のお財布をさげたり。・千羽鶴......長寿のシンボル。・紙衣(かみこ)......裁縫の上達を願い、紙の人形や着物を飾る。 災いを移す意味も。・網飾り......豊年豊作大漁の願いを込めて。・くずかご......物を粗末にしないよう、七夕飾りの紙くずを折り紙のかごに入れる。老若男女の願いの短冊がぶら下がっています。さらに、七夕には現在の私の仕事に関係する、水に関わる行事もたくさんあり、日本各地には七夕の日に髪を洗う、子どもや牛馬に水浴びをさせる、墓石や仏具を洗うといった、水によって厄災をはらう習慣が多くあったとのことです。中でも江戸時代、盛んに行われていたのが"井戸さらえ"で、人々は七月七日の朝に自宅の井戸の中の水をくみだして掃除し、神酒を供えて井戸の神様を祀ったのです。現在の我々の暮らしには"井戸さらえ"はかなり縁遠いものですが、その精神だけは受け継ぎたいものです。これから暑くなるにつれ、ますますお世話になる水に感謝して、日々仕事に励んで行きたいと考えている、『水商売』に関わっている『アラカンオジサン』なのです。
2010.06.30
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我が養蜂場の農園のアーティチョークが紫の花を付け出しました。アーティチョークは、キク科チョウセンアザミ属の多年草。和名は朝鮮薊(チョウセンアザミ)。若いつぼみは食用とできるのです。地中海沿岸原産。高さは1.5-2mで、葉は50-80cmに達し、つぼみは8-10cmの大きさになっています。江戸時代にオランダから日本に渡来したとのことです。チョウセンアザミという和名のとおり、アザミのような草姿をしており葉には鋭いトゲがありさわると痛いのです。この花が咲くこの季節になると、我が農園を訪れた方に、この花の名前を尋ねられます。実際、我が家の近くではアーティチョークの株が植えられているのをあまり見かけません。・・というか、そもそも日本ではまだまだ知名度が低いようです。この株が一つあるだけで、我が農園の一画を占領しているのです。 我が農園で咲いているアーティチョークの花は 遠くから見ると紫色のネオン灯が灯っているように見えます。。「朝鮮アザミ」というだけあって、アザミにそっくりな花なのです。そしてまさしく巨大。畑に「ボーン!」と生えて存在感を示しています。イタリア・フランス・アメリカ等では花の咲く前の蕾は野菜として広く親しまれているようです。また、ビン詰めのマリネやペースト状等でも売られ、ポピュラーな食材とのこと。そら豆のような味で、独特な苦みと甘みは癖になるとのことですが・・・・・・・・・・・。未だに食べたことのない趣味の農園主なのです。
2010.06.29
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東京・六本木の国立新美術館で開かれている『オルセー美術館展2010「ポスト印象派」』を見に行って来ました。チケット売り場で並ぶこともなく入場券を購入、1500円。しかし警備員によると場内は混んでいるとのこと。そしてパンフレットによると、【モネ5点、セザンヌ8点、ゴッホ7点、ゴーギャン9点、ルソー2点を含むオルセー美術館の傑作絵画115点。しかも半数以上が初来日!】「これらの絵画がまとめてフランスを離れることは二度とない」と、展示内容の豪華さ・素晴らしさを謳っているのです。そして『ポスト印象派』とは1880年代半ばから1900年ごろにかけてフランスで活躍した画家達の総称とのこと。空いているコインロッカーを漸く探し手荷物を入れ、エスカレータで2階の会場へ。傑作絵画115点、空前絶後と表現しているだけあって、昔美術の教科書で見たことがある作品がゾロゾロと並んでいました。しかしその絵画の前には携帯電話の如き音声ガイドの機械を右手に持ち、耳にあてている人々がこれもまたゾロゾロと動かないままいたのでした。20年以上前でしょうか、仕事でパリに行った折り、休日を利用して、ルーブル美術館、オルセー美術館を訪ねたのです。流石に両方を1日で制覇することは無理があり、鑑賞する作品を決めて走り回った記憶があるのです。この時から世界の大きな美術館は『足で見る』ことを悟ったのです。どの作品もその時見たような記憶もあり、いや初めてのような気もしたのでした。モネの『日傘の女性』『睡蓮の池、緑のハーモニー』、ドガの『階段を上がる踊り子』、スーラの『ポーズする女』、セザンヌの『水浴の男たち』 『たまねぎのある静物』、ロートレックの『黒いボアの女』、ゴッホの『自画像』、『星降る夜』、『アルルのゴッホの寝室』、ゴーギャンの『タヒチの女たち』、ルソーの『蛇使いの女』・・・・・・とどれも、傑作名画だらけなのである。ゴッホの《自画像》、ルソーの《蛇使いの女》をはじめ、オルセー美術館から初来日する作品は約60点。本展出品作品の半分以上におよぶとのことでした。一番印象に残った作品は、モネの『睡蓮の池、緑のハーモニー』。モネは自宅の庭に睡蓮の咲く池を作り、1日の殆どを池の畔でキャンバスに向かったとのこと。静かな水面に映り込んだ様々な木々の緑の色が目に鮮やかに入って来るのでした。そしてゴッホの『自画像』と『星降る夜』。ゴッホ特有の筆遣いが目の前で堪能できたのでした。特に『自画像』は、線状の長いタッチを用い独特の雰囲気を作り出していたのです。特に顔の表面の赤や緑が表情に鋭さを与えていることに大いに感激。オルセー美術館は現在、鑑賞環境の改善のために改装中であるようです。この改装期間にしか実現できない、非常に貴重な展覧会ではないでしょうか。それにしてもこの多くの作品の鑑賞のために、この瞬間にもパリのオルセー美術館を訪ねている、そして鑑賞できない事に落胆している世界各国の絵画好きの方々の姿に思いを馳せながら帰路についたのでした。
2010.06.28
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タチアオイの花の近くの空き地で、久しぶりにマツヨイグサ(待宵草)を見かけました。よく「宵待草(よいまちぐさ)」と呼ばれますが,ほんとうは「待宵草(マツヨイグサ)」。竹久夢二の「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ」が、この通称を広めてしまったことは昨年知ったのです。待宵草の名前の通り、普通は暗くなってから開花し、翌日、陽が高くなる頃にはしぼんでしまうのです。花弁は4枚、8個の雄しべがあって、花粉が糸状につながっているのが解ります。葯はユリのようなT字の形についています。めしべは1本で、先端が4裂し、十字の形になるのが特徴なのです。この待宵草は、花がしぼむと、橙色になります。黄色の花の後ろにしぼんで橙色に変化した花が確認出来ます。葉の中央脈は白色なので、メマツヨイグサ(雌待宵草)との区別するポイントのひとつになるのです。マツヨイグサ属には黄色以外の白、紫、ピンク、赤といった花を咲かせる種もあるとのこと。標準和名では、黄花を咲かせる系統はマツヨイグサ(待宵草)、白花を咲かせる系統はツキミソウ(月見草)と呼び、赤花を咲かせる系統はユウゲショウ(夕化粧)などと呼んで区別しているようです。透き通ったような黄色で、決して華やかではありませんが、美しい花なのです。
2010.06.27
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趣味の農園への道端で『ムラサキツユクサ』の花を見つけました。ムラサキツユクサは明治の初めに北アメリカから渡来したもので、日本の道端でよく見られる『ツユクサ』とは花の形なども大きく異なる別の植物。3枚の花びらが特徴的で、大輪の花を咲かせるオオムラサキツユクサという種類もあるのです。ちなみに普通の「ツユクサ」も6から9月頃、雑草のごとく、ごく当たり前に道端などで見ることができます。花はきれいなブルーもしくは白色です。花がいちばんきれいに見られるのは朝イチで、午後にはもうしぼんでしまうのです。草丈は50cmほどで2cmくらいの花をつけます。昨年我が家の横で撮影したツユクサの写真です。ブルーが本当に見事です。幼い頃、このブルーの花をつぶして青い汁を作って遊んだ記憶があります。 そして 『ムラサキツユクサ』の蕾。先端の蕾から花が最初に咲き、順に下の方に向かって咲き進むのです。紫の可憐な花花びらの中央はやや色が薄くなるグラディエーション。6本の黄色の雌しべが直立してよく目立つのです。ムラサキツユクサの雄しべには、たくさんの毛が生えています。中学生時代(高校かも?)の理科か生物の時間にこの雄しべをを顕微鏡で観察した記憶があります。実はこの毛1本が、細胞の1列の連なりだったのです。毛の根元に近いほうの細胞は細長くなり、先端の方の細胞は丸っこい形だったのです。観察だけだったのか他の学習の目的があったのかは全く記憶にはないのですが。雨の多いこの6月頃、露や雨のしずくを光らせて、朝霧と命をともにするムラサキツユクサの青紫色の花の姿は、しっとりと静かで趣もひとしおだと感じているカウントダウンに入った『アラカンオジサン』なのです。
2010.06.26
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我が養蜂場のある農園への道の傍らに、タチアオイが美しいピンクの花を付けて咲いています。タチアオイの名前の示すとおり、茎が直立して長く伸びた花茎に沿ってアオイに似た花をたくさん咲かせているのです。花の咲き方は一重?、花の大きさは10cm程度でしょうか。タチアオイの花は、昔は農家の庭先などに植えられて親しまれてきましたが最近はあまり見かけなくなりました。子供の頃は、春の花が盛りを過ぎて初夏が近づくこの時期に、あちこちで高く伸びたタチアオイを見かけたのですが。花の形はハイビスカス、フヨウ、ムクゲに似ています。中国が原産の植物で、平安時代には「唐葵」と呼ばれていましたが、江戸時代に今の「立葵」になったとのことです。すっくと立ち上がって咲く姿に、花言葉の「高貴」「威厳」がぴったり。下から咲き始めて、上の花が咲くころに梅雨が明けるので、梅雨葵ともいわれているのです。確実に夏が近づいているのです。
2010.06.26
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我が家の庭の百合の花が色とりどりに咲いています。百合は園芸品種が多く,正確な名前はなかなかわかりませんがカサブランカ,スカシユリ,テッポウユリ,オニユリ,ヤマユリ,カノコユリ、ヤマユリ・・・・・と色々あるのですが、その区別は良く解りません。細い茎に大きな花がつくので風に揺れることから「ゆる(揺)」、それが変化して「ゆり」になったとのことです。 ヨーロッパでは百合は非常にに好まれていますが、日本の百合を外国に紹介したのは江戸末期に来たシーボルトとのこと。 以前は我が庭にも複数の色が有る花弁を持つヤマユリがこの時期に咲きましたが、いつの間にか姿が見えなくなってしまいました。そしてヤマユリは我が県の花なのです。 白のテッポウユリ、ラッパのような形からついた名前でしょうか。多くの百合は花の根本近くから花弁が分かれているのですが、鉄砲百合は筒状になっていて先の方が分かれています。草丈は昔はもっと高かったですが、段々低くなってきました。植え替えが必要なのでしょうか。顔を近づけてみると良い香りがします。桃スカシユリでしょうか。赤スカシユリがその後ろで咲いています。黄色のユリは、辺りがパッと明るくなるような色なのです。子供が好きなチョコバナナの如き雄花。そして出番を待つ株、どんな色で魅せてくれるのでしょうか。秋植え球根の代表の一つですが、約束したかのように、初夏のこの時期に毎年美しい花を咲かせてくれるのです。そして、今この時、日本のサッカーが大きな花を開かせたのです!!!!!。おめでとう。おめでとう。Σ(おめでとう)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
2010.06.25
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我が農園に今年初めて『アイスプラント』の苗を2本購入し植え付けていましたが 大きく成長し収穫の時期を迎えています。地面を這うように密集しながら、横に広がって成長していきます。アイスプラントの名前の由来は表皮に塩を隔離するための細胞があるため葉の表面が凍ったように見えることからです。今ワールドカップで盛り上がっている南アフリカ原産のサボテンのような多肉多汁組織を持つ多肉植物なのです。乾燥に耐えるとともに、耐塩性が高い塩生植物の一つであり、なんと海水と同程度の塩化ナトリウム水溶液中でも水耕栽培が可能であるとのことです.葉や茎が白っぽくキラキラ光っているのです。茎をさらに拡大してみました......。葉や茎にビッシリと氷粒のような水泡がついているのが見えます。繰り返しになりますがアイスプラントという名前は、この氷のような水泡が、凍っているように見えるのでつけられた名前なのです。この粒々の部分はプラッター細胞といい、水を蓄える働きをしているようです。葉はみずみずしくて、鮮やかな緑色が特徴です。味は青臭さがなくあっさりとして、軽く、シャキシャキとした食感が特徴なのです。塩味があるとのことですが、我が農園の物は塩味はほとんど感じられません。やはり栽培している場所の土の状況次第なのでしょうか。料理には、素材の持つ水っぽさ、シャキシャキ感からシンプルなものがよく合います。火を通しても、肉厚の葉の中がとろっとして、おいしく食べられるのです。天ぷらにしてみました。これはかなり美味しかったのです!サックリした衣に、火を通したことによって少しトロンとなったアイスプラントの内側。いくらでも食べられたのです。この日は全て我が農園から収穫したものを調理した、ベジタリアン家族の夕飯となりました。酒のつまみにもろきゅう。アイスプラント、ピーマン、シシトウ、ナス、アスパラガス、ヤングコーン、ミツバの天ぷら。アイスプラント、レタス、トマト、キューリの野菜サラダ。ジャガイモ、タマネギの(肉)じゃが。自分が栽培した新鮮な野菜を直ぐに調理したものを食べられる至福の瞬間なのでした。
2010.06.24
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梅雨のこの時期、我が家の庭や農園の周囲の紫陽花(あじさい)が見事な色彩で楽しませてくれています。日本で最も一般的に植えられているいわゆる球状のアジサイは、セイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイを改良した品種であるとのこと。ご存知の通り、アジサイの一般に花と言われている部分は、装飾花で、本来の花は中心部で小さくめだたないのです。花びらに見えるものは萼。セイヨウアジサイではすべてが装飾花に変化しているのです。花の色は、アントシアニンのほか、その発色に影響する補助色素や、土壌のpH(酸性度)、アルミニウムイオン量、さらには開花からの日数によって様々に変化するのです。そのため、「七変化」とも呼ばれているのです。しかしこの色変わりは、いわゆる花びらの老化の一種とのことです。しかし下の写真のように赤や紫が青と同時に一緒に咲いている所や、白の花の土は何性なんであろうかと、ふと思うのは私だけでしょうか?「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われているのです。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は唐の詩人・白居易が別の花(ライラック?)に名付けたもので、平安時代の学者がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれているのです。しかし見事な漢字『紫陽花』なのです。アジサイは万葉時代から栽培され、花びらが幾重にも重なって咲くとか、色が変わるといった比喩に使われるほど知られていたことは驚きなのです。しかし、これほどに目立つ花が万葉集には2首のみで、『源氏物語』にも『枕草子』にもまったく取り上げられていないとのこと、これも不思議なことではないでしょうか。紫式部、清少納言はこの花をどう感じていたのでしょうか?心変わりする花として当時の女性は嫌っていたのでしょうか、聞いてみたいのです。やはり雨の日の紫陽花は格別です。晴れた日の紫陽花も綺麗ですが、やはり紫陽花は雨にぬれて初めて美しさが映えるのです。梅雨の季節はあじさいのためにあるのでは・・・と思ってしまうほど。憂鬱な雨の日もこの紫陽花を見れば心を和ませてくれるのです。それにしてもアジサイは、色々な色があって不思議なのです。こういうのを眺めていると、人間ワザではないなぁ、と感じ、本当に心が癒されていくのです。白いあじさいは清楚。しかし白も日がたつにつれてピンクに変わっていくのが多いなかで何故か我が農園の横の、このアジサイは白を保ち続けているのです。あじさい、アジサイ、紫陽花と表現しましたが、やはり漢字『紫陽花』が好きなのです。 折りしも我が市に生まれ育った少女が、小学生のとき、野の花、庭の花、雨、風、雲・・・など身近な自然をいつくしみ、多くの詩を書き、その詩、45篇ほどが写真をそえて我が中央図書館に展示されていたのです。16歳の若さで夭折した堀明子詩集展『四季の色』です。その中の琴線に触れる少女の詩 一篇です。紫陽花 --だれがこんなに 美しい字をあのあじさいに あてはめたのだろう青むらさきや もも色に美しく変化する花 色とりどりにさきほこっている とても美しい花
2010.06.23
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2年前の2008年4月10日から始めたわがブログもお蔭様で10万回の記念すべき?アクセス数を達成しました。趣味の菜園、太陽光発電、旅行等の作業や思い出の備忘録として『つれづれなるまゝに、日ぐらしパソコンに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。』の心境でスタートしたのです。その後、セイヨウミツバチの飼育も始め、週末は忙しいそして充実した日々が続いています。今朝、パソコンを立ち上げ我がブログにアクセスすると総アクセス数99,997アクセスの数値を確認したのでした。そしてカウントダウン。5:30前後に10万回を達成したのでした。開設から803日で10万回、1日平均125回のアクセス数とのこと。最近のアクセス数は200回/日程度となっていますがこの数字が大きいのか小さいのかは定かではありません。【楽天ブログ】アクセス数のお知らせ もメールで届きました。そして日記記入率は81.3%。これは自分の性格からして『自分で自分をほめてあげたい』気分なのです。書き込まなければというプレッシャーもなく、毎日の出来事や感じたことを、稚拙な写真と稚拙な文章で『そこはかとなく』書き込んできています。還暦のカウントダウンの数字も25を切り、お蔭様で体調も回復に向かい、自分なりに充実した日々を送ることが出来ているのです。若い頃60歳の人は相当な年長者というような思いでしたが、いよいよ自分がその年になるかと思うと、信じられない思いです。そして、この年まで無事に生きられたことに関しては、有難く、私を支えてくれている妻、家族、兄弟、同僚、友人・・・・に心より感謝したいのです。論語では「60にして耳順う」と説いています。簡単に言えば、「60歳になって人の言うことを逆らわず素直に聴けるようになった」と言うような意味なのでしょうか。人の言葉を言葉の意味のままに素直に理解するのは意外に難しいものなのです。孔子にして60歳になってようやく、その境地に到達したと語っているのです。60歳は確かにまだまだ若いと感じている自分ですが、人生では大切な節目でもあり、周囲の自然の変化を敏感に感じながら、益々感謝・感動し、ブログに書き込んでいけたらと感じているのです。
2010.06.22
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我が家の裏庭の『ホオズキ』が実を付け出しました。数年前、我が実家から株を移植しましたが、その後なんの面倒も見ていませんが毎年違った場所から?生えて来ています。ホオズキはナス科の植物、よって小振りですがナスやトマトの花に似ています。花の咲いたあとに"萼(がく)"の部分が発達して果実を包んで袋状になりその後赤く色づきくのです。我が家の品種とは別に果実の部分を食用にする食用ホオズキもあると聞きます。観賞用のホオズキは苦くて食べられませんが、食用ホオズキは甘酸っぱい味がするとのことですが、TRYしたこともありませんしスーパー等で売っているのを見たこともありません。『ホオズキ』の名は、果実を鳴らして遊ぶ子どもたちの頬の様子から「頬突き」と呼ばれるようになったという説が有力なようです。子供の頃、祖母から枇杷の木とホオズキは屋敷の中に植えるものではないと聞いたことがあります。ホオズキには「鬼灯」という字が当てられ、我が実家でが、現在でも盆棚の精霊迎えに、ガクに包まれたホオズキの果実を枝付きで飾ります。これで御先祖の霊を導く提灯に見立てているのです。このことからでしょうか、ホオズキを庭に植えるとその家に病人や死者が出る、と忌み嫌われていたのでしょうか?そして幼い頃、姉がホオズキの種を取り出した実を口に含み、音を鳴らして遊んでいたのを思い出します。姉たちの作り方は次の様だったと記憶しています。先ず、袋を数分割して裂き、反対側へひっくり返します。この状態で実を指でやわらかく丁寧に揉むのです。そして実が柔らかくなったらゆっくり実の方を回すのです。すると、実の付け根の部分が外れて中身が一緒に回るのです。この状態でゆっくり袋の方を引っ張ると中身が一緒に取り出せるのです。この時、実の皮(笛)が破れないようにすることが大事だったのです。鳴らし方は、これを膨らませて口に入れ、穴を下唇に当てて前歯で軽く噛んでやると中の空気が出るときに、穴と下唇を震わせて「ギュー、ギュー」って音が出るのでした。慣れた姉たちは、口の中で膨らませては噛んで、膨らませては噛んでを繰り返し続けて鳴らせる事が出来たのでした。私も姉の真似をし、実を取り出すところまでは出来ましたが、子供の頃から不器用だったのでしょうか、鳴らす方法は解っていても口に入れて鳴らすことは出来ず、悔しがったことを懐かしく思い出している『アラカンオジサン』です。
2010.06.22
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我が趣味の農園のナスが収穫できるようになりました。今年は日本を代表する長卵型品種である『千両2号』とやや丸みのある『黒福』、果皮がやわらかく、多汁質で甘味がある『水ナス』を種から育てました。ナスの花は、一見ばらばらに咲いているように見えますが、良く見るとみんな下を向いて咲いているのです。その大きな理由は、ナスが自家受粉つまり一つの花の中にあるオシベとメシベどうしで受精する性質があるというです。ナスの受粉は、晴天の日でやや風があるという条件で行われるのです。一般的な花はオシベ全体に花粉がついていて、ミツバチなどの虫達が花粉をメシベに運ぶ役割をしますが、ナスの花はオシベの先端からしか花粉が出ないため、ナスの花は下を向いているという訳です。そして「親の小言と茄子の花は、千に一つの無駄もない」と言う諺がありますがこれはこの自家受粉のためナスの花が結実する割合が高い事を、親の小言を喩えた諺なのです。ヘタの部分には微細なトゲが生えているのです。新鮮な物ほど鋭く、鮮度を見分ける方法の一つとなりますが、触った際にトゲが刺さる場合もあるのです。夏に採れる野菜なので「夏実(なつみ)」、それがしだいに変化して「なすび」、それが省略されて「なす」になったとのこと。また、梨のようにみずみずしく甘く、梨の形をしていたので「梨実(なしみ)」が変化したものとの説もあるようですが。ナスは『肥料食い』と言われるほどなので、肥料切れには注意しなければならないのです。ナスの花で栄養診断出来ることを、以前農友から教えてもらいました。「栄養診断」と言うと難しそうに思えますが、簡単にわかる方法なのです。ナスの花を見ることで、栄養状態を知ることができるのです。花の真ん中に柱頭が飛び出していれば、栄養状態は十分ですが逆に隠れている場合は栄養不足なので追肥をすぐでもする必要があるとのことでした。 タキイ種苗(株)HPより【http://www.takii.co.jp/tsk/y_garden/spring/nasu/index.html】開花時にトマトーンで確実に受粉させると、実も大きくなります。ナスは収穫時期は長いですが、何もせずにいるとだんだんと実付きが悪くなってきます。コンスタントに収穫する為には、切り戻しを行い新しい側枝を出させてそこに花をつけさせるようにさせるのです。『為せば(ナスは)成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり』なのです。(笑)2個収獲出来ました。そして夕飯に天ぷらで楽しんだのでした。
2010.06.21
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先週末に仕事で青森県五所川原市に行ってきました。昨年に続き3回目の訪問になりました。何時ものように早く目が覚めましたので、今回は早朝ドライブに挑戦しました。ホテルの近くには『つがる克雪ドーム』が。この津軽半島地域は、積雪寒冷地域に位置し、全国的にも有数の豪雪地域であり、冬の期間の屋外での諸活動に大きな制約を受けているのです。このことから、「つがる克雪ドーム」は年間を通じて利用可能なスポーツ・レクリエーション施設。屋根は目的・気候に合わせて開閉するようです。そして車のカーナビに従いながら、早朝の黄色点滅の信号を幾つか通りながら20分程のドライブで太宰の生家『斜陽館』前に到着。雨も運良く到着時にはあがっていました。太宰治は、昭和を代表する日本の小説家。本名は津島修治(つしましゅうじ)。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』など。斜陽館前の案内板によると太宰治は1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門の6男・津島修治として生まれたのです。父は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士であったとのこと。金木のこの生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されているのです。当然早朝のため見学者は無し。近所のオジサンが一人散歩をしていましたが。太宰治の父の手で建設された入母屋作りのこの建物は、明治40年、米蔵にいたるまで日本三大美林そして青森県産材であるヒバを使い、当時のお金で工事費約4万円をかけて造られたとのこと。今の金額では幾らになるのでしょうか?5億円以上?1階は11室278坪、2階は8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の豪邸なのです。外観は和風住宅であり、間取りも大規模ではあるものの津軽地方の町屋の間取りを踏襲したものとなっており、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、また屋根構造は和小屋組ではなくトラス構造となっているなど、和洋折衷建築となっているとの事でした。太宰はこの家を「苦悩の年鑑」の中で「父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いているのです。この豪邸も戦後になって津島家が手放し、私の生まれた昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れていたとのことです。残念ながら斜陽館への入館開始時間はこの時期8時半からとのこと。勿論覚悟のドライブでしたので斜陽館前の道路を徒歩で往復し見学したのです。斜陽館の横にある妙祥寺の鐘楼。昨年は太宰治の生誕100周年と言うことでこの地も賑わったようですが、今年はどうなのでしょうか。ホテルの戻ってみると『太宰治検定』のポスターが。2009年に太宰治生誕百年を迎え太宰治検定が実施され地元津軽だけでなく、全国の方が受験したとのこと。今年は昨日の6月19日に「津軽編」初級、上級、11月14日に「富嶽百景編」の検定を実施するとの事でした。今年も多くの太宰治ファン及び文学ファンがチャレンジするのでしょうか。 そして太宰治生誕祭のポスターも。芦野公園にある太宰治銅像への祝花と作品朗読、合唱などが行われるとのこと。昨日(6月19日)は「桜桃忌、太宰の日、太宰治生誕祭」。1948(昭和23)年6月13日、太宰治が未亡人の愛人・山崎富栄と東京の玉川上水に入水心中し、6日後の19日に遺体が発見されたのです。また、その日が奇しくも太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれているのです。その名前は桜桃の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因むものであるとのことでした。 太宰治の作品は殆ど読んだ記憶がないのです。人間失格だけ題名に興味があり高校時代?に読んだのでしょうか。定かではありませんが、ある地方の名家の息子が、東京に進学のため上京。その暮らしの中で、子供の頃から感じていた違和感を引きずりながら、自堕落な生活をして女、薬・・・・と手を出して、最後は治療院に入れられてしまう話・・・・?当時自分とは異次元の話であったと感じたのでしょうか、全くこれ以上は思い出さないのです。そして太宰が妻に残した遺書には「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」との記載があり、その最後には「お前を誰よりも愛してゐました」と書いていたという。それにしても、「お前を愛している」と書き残しながら愛人と死なれた妻の心境はどのように理解したらよいのだろうかと考えている『アラカンオジサン』なのですが・・・・・・・・・・・。早朝の2時間ほどのドライブ散歩でしたが、太宰治の生家を訪ね、もう一度『人間失格』を読んでみようと考えているのですが・・・・・・・。
2010.06.20
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趣味の養蜂を初めて1年強になりますが、開始と共に養蜂場(趣味の農園)の角に 蜜源植物を数種類植えつけました。この1年でそれぞれの蜜源植物は大きく成長し葉を茂らせています。それぞれの末尾に、この1年出張先や自宅の付近で撮影したその花の写真も掲載しました。最初に『ニセアカシア』ニセアカシアは北アメリカ原産の樹木で、日本には明治の始めに導入されました。成長が大変早く花も美しいので、公園や街路樹によく植えられるほか、荒廃した山地や砂丘の緑化によくつかわれています。これはマメ科の植物の根には根粒バクテリアが共生していて、肥料分のまったく無い、やせた土地でもよく成育できるからです。アカシアの花の蜂蜜はレンゲの花の蜂蜜に続いて日本では人気が高く、ハチミツの女王とも呼ばれているのです。しかし、一般的にアカシアの蜂蜜として売られているものは、殆どはニセアカシアの蜂蜜とのことです。頭にニセが付くと、なにかアカシアより劣った蜜であるように感じますが、実はそんなことはありません。コレこそが日本で好まれてきたハチミツの女王なのです。本物の100%蜂蜜の困った?特徴の1つが、低温になると固ってしまうことですが、アカシアは果糖が多いため、固まりにくいのです。この花の蜜は極上で、ふつうの蜂蜜の数倍の値段になるそうです。日本に持ち込まれたころはアカシアと呼んでいましたが、その後、本当のアカシアの仲間が導入されるようになり、区別をはっきりさせるため、種名を日本語になおして、ニセアカシアと呼ぶようになったようです。「ニセ」という語をきらい、托葉の変化したトゲが目立つという特徴をとって、ハリエンジュという名もついていますが、ニセアカシアのほうが通りがいいようです。そしてニセアカシアの花は白い房状で、白フジに似ています。1年で大きく成長しライムグリーンの葉が美しく輝いています。来年は蜜のたっぷり入った白い花を付けてくれるのではと期待しています。先日青森へ出張した折、現場に咲いていた花の写真です。次に『ウワズミザクラ(上溝桜)』6月上~中旬にかけて咲く花は、いわゆる「さくらの花」というイメージではなく、小さな花びらが集まり、ブラシ状の稲穂のように咲きます。花色は白と決して派手ではないのですが、樹幹いっぱいに広がる姿は見事なのです。また秋になり、赤から黒色に熟していく果実は、とても印象的で、英名が示すJapanese Bird Cherry の通り、野鳥が好んで食べるので、この木の周りにはたくさんの幼苗が生えてくるとのことです。この花が咲き始めるとあたり一面、爽やかな良い蜜の香りに包まれるとのこと。ウワズミザクラの開花期は、巣箱からもこの花の香りがするとのブログの書き込みもあるのです。この花も2年目の来年は花を付け、我が西洋蜜蜂たちが戯れてくれる事を期待しているのです。そして『ビービーツリー』ビービーツリー、そのものずばりの名前。開花時期には多くのミツバチがこの花を訪れ『ビービー』と音が聞こえてくる事から、名付けられたとも聞いていますがどうなのでしょうか。 ビービーツリーは元々中国原産の木で花の少ない夏場に大量の蜜を出すとのことで、採蜜目的と言うよりはミツバチの育成を目的に植えたのです。幹の高さも2mを超える程に成長していますが来年には花を付けてくれるのでしょうか。次に『ミモザアカシア』黄色の花が房状に咲き、木全体が黄色くなる姿が美しいのです。春先に黄色い花を満開につけるので、遠くからでも非常に美しく、よく目立つ花木です。切花やドライフラワーにも利用されます。小さく風に揺れる葉の色は白粉を浴びたような青緑色をしています。先日もブログに書きましたが、ミツバチは黄色の花によく集まるといいますが、植物の世界で黄色の花は多いのです。また、花びらの色は違っても、蜜のある花芯はたいがい黄色。黄色の花が多いからミツバチが黄色に誘われていくようになったのか、ミツバチが好きだから花は黄色くなったのか、どっちの理由が先なのでしょうか?昆虫は見える色の幅が少なく、人間が見ている色とは違う色を感じているそうだ。その代わり紫外線をとらえることができるという。蜜のありかを知っているのは、この紫外線が見えるからなのでしょう。最後に『シナノキ』シナノキは北海道・本州・九州に分布する落葉高木。樹高10m前後のものが多いようですが、大きく成長して高木になり、20mを越すものもあるとのことです。シナノキは菩提樹と似た種類で、シナノキの蜂蜜はロシア・ドイツなどではレンゲ、アカシアより上位にランク付けされる初夏の香りのする高級蜂蜜とのことです。今の長野県は昔「信濃の国」と呼ばれましたが、信濃の語源はシナノキから。更に遡るとシナノキはアイヌ語が語源と言われています。長野県や北日本の寒冷地に多い木で、ロシア沿海州にも類似するシナノキがたくさんあるとのことです。シナノキは菩提樹と似た種類で、シナノキ蜂蜜はロシア・ドイツなどではレンゲ、アカシアより上位にランク付けされる初夏の香りのする高級蜂蜜です。今の長野県は昔「信濃の国」と呼ばれましたが、信濃の語源はシナノキから来ています。更に遡るとシナノキはアイヌ語が語源と言われています。長野県や北日本の寒冷地に多い木で、ロシア沿海州にも類似するシナノキがたくさんあるとのことです。我が趣味の野菜農園も蜜源植物がそれぞれの角や堺に植えられており、今は緑の葉を楽しませてくれています。そして3年目の来年こそ、この蜜源植物のいずれかが、甘い花を開かせミツバチ達がその花に戯れることを楽しみにしている『素人養蜂家』なのです。
2010.06.19
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今月も東京電力さんから『電気使用量のお知らせ』が届きました。使用量合計:388kwh 昼間:7kwh 朝晩:129kwh 夜:252kwh請求予定金額:5740円先月9551円から大幅な金額ダウンとなりました。太陽光発電開始からの我が家の1日の電力量使用パターンです。相変わらず夜型の生活パターンです。もちろん赤部の多くはエコキュートで使用した電力量ですが。東京電力への 売電量:445kwh 売電金額:21,360円と今月も20,000円越を達成しました。太陽光発電(京セラ、5.76KW)開始以来の売電料金推移です。天気予報によると今年は空梅雨の予想とのこと。この時期にも発電量・売電量を伸ばして欲しいと願っている『発電所長』なのです。
2010.06.18
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我が農園にジャンボニンニクを植えていましたが何故か今年は不作でした。 近所の農家の方も不作とのこと。今春の日照不足、温度不足が影響したようです。数本だけ元気なジャンボニンニクがいつの間にか花の蕾が出来ており完全に収穫時期を逃してしまいました。そしてこの時期、花を付けています。私もニンニクの花を見るのは久しぶりです。例年はニンニクの芽として摘んで食べてしまっていたからです。しかし咲いた花を見るときれいなのです。ネギぼうずのような形ですが色は紫色でなにか少し高貴な感じがするのです。玉ねぎや長葱等と同様にユリ科ネギ属の分類で花の形は良く似ていますが玉ねぎの花は白く花弁が開きますが、ニンニクの花弁は長葱の花と同じように開かないのです。ニンニクは球根(鱗茎)を香辛料として用いガーリック(英語 garlic)とも呼ばれているのはご存知の通り。日本ではニンニクやノビル(野蒜)など根茎を食用とするユリ科の植物を総称して蒜(ひる)と呼んでいましたが、特にノビルと区別する場合にはオオヒル(大蒜)とも称したのです。今日はニンニクの産地の青森へ出張しました。ホテルの青森県の紹介雑誌でニンニクが源氏物語に登場するとの記事がありました。自宅に戻りネットで調べて見ると要旨は下記の如し。源氏物語 第2帖帚木の巻で男【藤式部の丞】が久しぶりに女性を訪ねた際の話として『この幾月か風病のひどさに耐えかねて、極熱冷ましの薬草(ニンニク)を服して、ひどく臭きがゆえ対面しいたしかねます。真近にならずとも、妻のいたすべき雑用などは承ります』と、しゃれた断り方をしたと、式部丞は告白するのです。そこでそれに対してこの男は「ささがにの ふるまひしるき 夕暮れに ひるますぐせと 言うがあやなさ」と詠んだのです。「ささがに」とは「クモ」のこと。クモが活動を始めるのは夕暮れの暗くなってから。よって『蜘蛛が巣作りするそのふるまい方で私がまた来ることはすでにわかっているはずの夕暮れだというのに 蒜(ヒル)のにおいが消えるまで昼間を待ち過ごせと言うとは理屈にあわぬではないか』と。この歌の「ひる」は、昼間の「昼」と、にんにくの「蒜」とをカケてあるのです。つまり【ひるま】⇒「昼間」と「蒜間」(ニンニクの臭いのする間)との掛詞なのです。そしてこの歌に対して、女性は「あうことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひるまも何か まばゆらかまし」と返したのです。『お会いするのが一夜も間をあけないほど愛し合う仲であるならば、昼間であろうと蒜のにおいがしようと、どうしていたたまれぬ、恥ずかしい気になりましょうや」と。こちらの歌も「ひる」は、懸詞なのです。自分で故意?にこのようなことをしておきながら、やはり未練が隠せないというところでしょうか。ニンニクと男女、昔の男も女もニンニクの滋養強壮剤いや精力増強剤としての効能に当時から気づいていたのだ、とは考えすぎでしょうか?そして、この女の返歌を聞いた男の満足げな表情?を思い浮かべている『アラカンオジサン』がここにいます。
2010.06.17
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我が趣味の農園の【トウモロコシ】が開花しました。 トウモロコシは、イネ科の一年生植物。穀物として人間の食料や家畜の飼料となるほか、デンプン(コーンスターチ)や油、バイオエタノールの原料としても重要で、年間世界生産量は約6億トン、うち米国が4割程度を占め世界最大の生産国なのです。そのうち約4億トンが飼料、約2億トンが人間の主食として利用されている世界三大穀物の一つなのです。日本はトウモロコシのほとんどを輸入に依存しているのです。その量は年間約1600万tで、これは日本のコメの年間生産量の約2倍。日本は世界最大のトウモロコシ輸入国であり、その輸入量の9割をアメリカに依存しているとのことです。トウモロコシは生長すると高さは2メートルにもなり、スイートコーン、ジャイアントコーン、ポップコーン、家畜の餌となるデントコーン、・・・など数多くの種類が存在するのです。日本には1579年にポルトガル人から長崎に伝わったとのこと。トウモロコシは育てる時、最低5本~6本程無いと、受粉がうまくいかない恐れがあります。つまりトウモロコシは雌雄異花なのです。トウモロコシはほとんどの場合、別の株から受粉します。トウモロコシは本来、風に揺られたおしべが花粉を落とし、受粉します。風が強かったり弱かったりすると受粉の成功率が減る野菜なので、成功率を高めるために数本まとめて育てる必要があるのです。 そして、日向を好む割にはあまり日差しに強くない(特に実)ので、密集させる意義はここにもあるのです。草丈1.2m程に成長した早生タイプのトウモロコシに雄花が出穂しました。茎の先端から葉より高く伸び出し、ススキの穂のような姿です。そして数日後に雌花が出てきました。だんだん茎が太くなって、葉の付け根から例の薄緑のヒゲ(絹糸)が出てきました。この1本1本が雌花だそうで、このヒゲ1本1本がトウモロコシの実に繋がっているのです。よってこのヒゲの数がトウモロコシの粒の数ということになるのです。1株につき、雌穂が2、3本でるのですが、これを全部収穫しようとしてそのままにしておいても、結局栄養が各穂に分散される結果となり実付きが悪くなるので、最上部の雌穂のみ残して、毎年残りは取ってしまっています。しかしいろいろな見解が有るのも事実。取ったものはヤングコーンとしてフライやサラダ等で食べることが出来るのです。今年も甘みの強い【味来】と【ゴールドラッシュ】の2種類を種から育てています。上の雄花から落ちてきた花粉が、雌花の絹糸にたっぷり降りかかって受粉しています。これが十分でないと、実の入りが歪になったりしてしまうのです。そして薄緑色だった絹糸が変色して縮れていきます。収穫する前に、房の先の方の皮を少しめくって覗き見し確認する方が良いのです。そしてトウモロコシは、収獲したらすぐ調理しないと味が落ちてしまうのです。スーパーとかで、皮をはいで行くおばちゃんをこの時期見かけますが、これは、大きな間違い!!あのヒゲは、呼吸をしてる、そして皮は、実の水分を守る為に、何重にもなっているのです。よって大切なのは、甘味とおいしさが一番のっている朝に畑から収獲するのが重要。トウモロコシの近くにいると、ほのかな甘い香りが漂っています。私は、トウモロコシの実と茎の開き具合で収穫時期を判断しています。まだ実が充実していないトウモロコシは、茎と実が寄り添っているのです。つまり、角度が鋭角。ところが、実が充実してくるとトウモロコシの実と茎が離れてくるのです。トウモロコシの実が横に倒れてくるのです。もちろん、その頃になるとヒゲが茶色くなって来ますし、雄穂(雄花)も枯れて茶色に。それらを合わせて収穫摘期を判断している趣味の農園主なのです。焼いても 茹でても美味しいトウモロコシ、今年はいつ食べられるかが非常に楽しみ!!更に、1年以上前からか、世界中からミツバチが消えていなくなってるというニュースが話題になっていますが、この原因がトウモロコシの種子を処理するのに使われるクロチアニジンと言う薬品が疑われていることに思いを馳せる『素人養蜂家』なのです。
2010.06.16
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先週末も我が西洋ミツバチの単独内検を行いました。前週に王台を残しておいたNJ2群から内検実施、まず王台を残しておいた巣枠を引き上げて見ました。王台の底が既に破られていました。新女王が既に誕生していることを確信し、巣枠を1枚1枚引き上げて新王を探していきました。そして漸く新王と対面することが出来ました。写真中央上にいるのが新王。NJ3群も女王が元気に動き回っているのを確認できました。マーカーの赤が僅かに残っているので確認が容易なのです。その後、NJ4群の内検。NJ4群は女王の産卵が盛んに行われていることが確認できました。巣枠全面に蛹蓋で被われた巣枠もありました。女王のロイヤルコート状態も確認できました。ロイヤルコートとは常に7~8匹の働き蜂が放射状に女王蜂を取り囲んでいる状態。エスコート役の働き蜂は特定の蜂がどこまでも付いていく訳ではないのです。女王蜂の行く先々でメンバーは入れ替わるのです。つまり、女王の通り道のそばにいた蜂はこのような形にみんな女王蜂の方に向きを変えるのが判るのです。どんな意味があるのかは定かではありませんが、護っているようにも見えますし、敬意を表しているようにも、また、女王のフェロモンを受け入れようとしているのでしょうか、はたまた、女王を監視しているようにも見えますし、本当のことは我がミツバチに聞かなければ判らないのですが・・・。そして最後にNJ1群、この群は3段済みですが産卵が留まっています。女王蜂は元気ですがやや気になります。新女王への交代時期なのかも知れません。来週の内検で判断したいと思っています。この内検中に、なんと早くもオオスズメバチの飛行を確認しました。慌てて自宅に戻り捕獲器を巣門に設置しました。これからは、分蜂、ダニ、スムシ、オオスズメバチと注意しなければならないことが増えてきたことを実感している『素人養蜂家』なのです。
2010.06.15
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我が農園のスイカもゴールデンウィークの5月4日に定植後順調に成長しています。これを目的に栽培しておいた燕麦を抜き、麦藁として利用しています。麦藁を敷く目的は、実のなった西瓜が直接土に触れ病気にならない様にすることもありますが、この時期の風で蔓が振り回されないように、巻きヒゲをこの藁に絡ませて動かないようにさせることが大事なのです。花もたくさんつけています。左が雄花、右が雌花が仲良く並んで咲いていました。雌花の下には西瓜の赤ん坊がきちんと存在感を示しています。今年は黒皮で甘みの高いタヒチ、ブラックボール、ラグビーボール状のマダーボール、蜂友の師匠から種を頂いた黒部スイカ・・・・等々多品種少量で挑戦中です。既にソフトボール大になっているものもあります。スケール代わりに我が左手の人差し指を一緒に撮影。農作業中につき汚れていますが。これでは食指が動かないですが・・・。でも決してこのスイカを目的に人差し指を鉤型に曲げないで下さいネ。先日そんなニュースもありましたので。そしてブラックボールも、子供の頃は僅かに縞模様が確認できますが成長につれて皮が更に黒くなり縞模様が見えなくなるのです。7月下旬には大きく成長した、そして食べきれないほどの西瓜が畑にゴロゴロしていることを想像しながら、更にスイカの受粉のためのこの西瓜畑の隣に住む西洋ミツバチの大活躍を多いに期待しながら、日々の果実の生長を楽しみにしている『アラカンオジサン』の農園主&素人養蜂家なのです。そしてスイカ収穫の予約受付中ですので申し込み・書き込みはお早めに!!(笑)
2010.06.14
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トマトも大きく成長してきましたので、初めて今年は雨よけを設置してみました。オンラインショッピングでイボ付鋼管アーチ型支柱を購入しました。パイプ直径が16mmある使いやすい鋼管を樹脂コーティングして、アーチ型に加工。イボ付きなので結束しやすく、ズレにくいのです。雨よけや虫よけは栽培はもちろん、ネット張りや、支柱同士を十字に組み合わせて大鉢の霜よけ用支柱にしたり、使い方は色々できるのです。昨日午前中は風が強く作業に時間が掛かりましたが、妻が手伝ってくれましたので何とか完成しました。 アーチ型支柱の上に透明ビニールを被せこれを支柱専用のトンネルバッカーで留めました。トマトは「太陽の子」などと言われ,一般的に夏の高温を好む野菜と思われがちですが,原産地が昨年旅した南米のアンデス山脈なので,基本的には冷涼な気候を好む野菜なのです。このためトマト生産にはとくに昼夜の温度較差が必要です。日中高温で夜間低温となる,いわゆる温度較差の大きい条件下で良質のトマトができると言われているのです。そしてトマトの雨よけの目的は1)疫病、かいよう病のように、多湿で発生し易い病害を予防する。2)裂果を予防する。トマトを露地で栽培すると、果実が雨ざらし状態となり裂果しやすくなるのです。その為の対策として、直接雨が当たらないように、雨よけのビニールを株の上部に設置するとよいのです。畝もできるだけマルチングし、萎れ始めるまで潅水を控えると裂果しにくくなりますし、糖度の高い果実が収穫できるのです。トマトの原産地アンデスは大変乾燥したところですので、トマトは枯れるぎりぎりの乾燥状態の方が甘みのあるトマトに育つようです。さらに、実が熟してくる頃に乾燥状態から一気に水分を吸い上げると、実に割れが生じてしまうのです。トマトの花です。トマトーンを定期的に噴霧器でかけてやっています。トマト専用のホルモン剤で、花に1回吹き付けることで、とても大きなトマトができるのです。何でも、農家はみんな、これを使っているらしいのです。そして大きく成長してきたトマトの果実です。そしてトマトのわき芽。トマトは生育するにつれて、葉のつけ根からわき芽が出て来るのです。そのままにしておくと、主茎の生長が損なわれるので、わき芽が小さいうちに摘み取るわき芽かきを行ないます。とくに花房のすぐ下のわき芽は、生長が早いので注意が必要なのです。また、ウイルス病などの感染を防止するため、きれいな手で摘み取ります。ハサミは使用しない方が良いと教わりました。外は雨。早速雨よけの効果が出てくることを期待しながら、趣味の園芸を楽しんでいる『アラカンオジサン』なのです。
2010.06.13
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富山の我が事業所に出張した折、事業所の所長が富山市内では超有名?な 手打ちうどんの店『アラキ』へ昼食に連れて行ってくれた。事業所から車で約10分、国道を少し入ったところにあり、看板も殆ど無く外からは知る人ぞ知るの感。実は今年5月半ばに、国道整備に伴い、旧店舗南側にリニューアルオープンしたとの我が所長の説明。券売機の前には既に行列が出来ていた。席はカウンターもいれて40~50席 ほぼ満席状態。所長の薦めもあり『25 みそホルモンうどん』750円のチケットを購入。券売機の所に張り紙があり少食の方には「小盛り」をお勧めしますと。しかし今回は並盛りに挑戦。同僚4人で席が空くまで10分ほど待つ。5分ほどで私の『味噌ホルモンうどん』がテーブルに。それにしても大盛りサイズ、量が半端でなく多いのです。食べる前から、胃が小さくなった自分にはこれは完食は無理と判断。やはり小盛りにしておけば良かったとチョッと後悔。食べてみると、少味が利いたダシ、太めの麺だがツルツルで半透明の麺はコシがありモチモチして食べ応え充分、その麺に少し濃い目の味噌味ダシと大きめ野菜がマッチして旨いのです。私の大好きな稲庭うどんにも匹敵するコシと味。そして食べども食べどもうどんが減っていかないのでした。前に座った我が所長は『ざるうどん』を注文。直径20cm以上ある大きな丸ザルに盛られたうどん。まさに打ちたて、茹でたてで、ツヤツヤとうどん1本1本が白く輝いていたのだ。その様は前夜楽しんだ富山名物の白エビさながらのようであった。上部には刻みネギとワカメに生姜が添えられていた。「コシがあって喉越しがたまらない。ざる1枚でこんなに食べ過ぎたほどに満腹感を得たのは初めてだ」との我が同僚所長の言葉。以外だったのは、私のうどんの具の「ホルモン」。内臓ではなくロースやヒレなどの肉?を細切りにして煮たもので、普通のチャーシューよりもやわらかくあっさりとしてこれもいけるのであった。箸を休めて見渡してみると皆悪戦苦闘中、そして券売機の前には10人以上の行列が。この店はうどんだけではなく、日本蕎麦や中華そば全てが手打ちとのこと。毎朝早くから生地をこねて麺を打っているのだろう。我が自宅の近くにあるYうどんは年配の客が多い店だが、この店は老若男女問わず、多くの若い層が味を楽しんでいたのであった。懸命に?頑張るがやはりギブアップ、1/3程度を残し我が戦いは終了したのであった。次回は中華そばに挑戦しようと決意し、重い体を引きずりながら車で午後の仕事に 戻ったのであった。
2010.06.12
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富山城周辺の早朝散歩の途中、富山市が実施している『自転車市民共同利用システム』に遭遇。愛称名は『アヴィレ』。アベイユ(abeille)日本語で「ミツバチ」とヴィル(ville) 日本語で「街」の合成語とのこと。自然の共生にとって受粉というとても重要な役割を担っている"ミツバチ"が、花から花へと自由に飛ぶかうように、環境にやさしく、ステーションからステーションへと活発に利用されるバイクシェアリングをイメージし、ミツバチが飛び交うように、中心市街地も活発になってほしいという願いがこめられているのだ。もちろんこの愛称名『アヴィレ』が大いに気に入った素人養蜂家であった。レンタルできるのは、JR富山駅前など市内十五カ所で、計百五十台を設置。借りた場所以外へも返却できるとのこと。事前に登録したICカードかメンバーカードで自転車が置かれる端末に暗証番号などの情報を入力して利用し、二回目からはカードをかざすだけで解錠、自転車に乗れるのだという。デザインが特徴的。普通のママチャリみたいのだと、私物化してしまうかもしれないからなのであろうか。泥よけの色が青と目立ち減速機付きの自転車である。公共交通を乗るほどの距離ではないけど、歩くには遠い、公共交通を使って街中へ来たけれど、そこから交通手段がない、車で来たけど、駐車場から交通手段が無い、等々を解消して、中心市街地を活性化させるのには、いい試みだとは思うが、700円/月が高いのか安いのか・・・・・。そして暫く歩くと、これも車両ナンバーが私の誕生日とほぼ?同じ(7+016)路面電車をまたまた発見。これでドリームジャンボへの期待が益々膨らんだのであった。しかしこんな事が短い時間に2度も重なるとは信じられないのであった。年季の入ったクラシックな車両である。そしてまた暫くすると、富山ライトレールの「ポートラム」と同じタイプの車両とその後ろに旧型車両が。10月16日に開幕する第23回全国スポーツ・レクレーション祭「スポレクとやま2010」に向け、開催をPRするデザインをした環状線セントラムの運行が大会閉幕まで運行されているのだ。銀色のの車体に、黒字で「スポレクとやま2010」と表示し、開催期日やロゴマークが記されている。ランニングする青色の人影が連続写真のように7体ずつ、両側にラッピングされていた。日本には「路面電車」は幾つの都市に残されているのであろうか。おそらく20前後か。我が市の『江ノ電』も一部路面電車として運行している場所もあり、日本の都市の風景として末永く残して欲しいのである。予定通りの時間にホテルに戻り、急ぎの朝食をとり、8時になり目的地へと車を走らせたのであった。
2010.06.11
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6/8(水)前夜泊にて富山に出張した。同行の同僚が駅前のビジネスホテルを予約してくれていました。そして偶然にも部屋は我が誕生日と同じ。こんな事は長いサラリーマン生活でも初めての経験。次はドリームジャンボか??何時ものように?早朝起床。窓から外を眺めると雨もやんでいるようなので何時もの早朝散歩を決断、富山城址周辺へと足を進めたのです。自宅から歩行ナビを持参していたので目的地を『富山城址』にセットした。途中『ノーベル街道』の表示板が。日本で、これまでノーベル賞を受賞した12人のうち、2002年に受賞した田中耕一さん(化学賞)、小柴昌俊さん(物理学賞)を含め4人が、国道41号の富山から高山までのわずか約90kmの沿線にゆかりがあるとのこと。現在の国道41号は、旧飛騨街道、また、かつて富山から飛騨・信州へブリを運んだブリ街道ともその一部とほぼルートを同じくするため、ブリ街道の起点であった東岩瀬(富山市岩瀬)から、国道41号を南下し、白川英樹氏ゆかりの地、高山市までの間を「ノーベル街道」と呼んでいいるとの説明。まさに、世界の頭脳がここで育まれているとの説明であった。色々と考えるナーと感心しきり。ホテルから徒歩10分。遊覧船が停泊している富山城址公園の脇を流れる松川へ。県内屈指の桜の名所として、春にはこの松川遊覧船が活躍し多くの花見客で賑わうようだ。川べりは、彫刻公園として整備され、28作品が道行く人々の目を和ませているのだ。堀と松川に囲まれた富山城はかつて浮城と呼ばれていたとのこと。公園の南に位置する天守閣。内部は富山市の史料や美術品を展示する博物館となっているようだ。堀の水面は朝の静けさをそのままに『逆さ天守閣』を映していた。富山佐藤記念美術館。砺波市の実業家佐藤家のコレクションを展示しているとのこと。置き薬の祖 富山2代藩主前田正甫の像かっての富山城の堀跡と思われる場所にかかる朱塗りのあざやかな橋 景雲橋(けいうんきょう)から見た天守閣。松川に沿って多くの彫刻が展示されていた。この松川の両岸には、富山県出身の彫刻家の作品が右岸に12点、左岸に16点、合計28点が並んでいるのだ。ホテル近くの富山駅前の広場には『富山の薬売り』と子供の姿の銅像が。富山といえばこの「越中富山の薬売り」が有名。子供の頃に我が実家にも毎年配達に来てくれて紙風船をもらった記憶がある。置き薬のビジネスは、まず箱に入った薬を家庭に配置するところから開始されるのである。しかし、その時、顧客から代金を取ることはないのである。箱も薬も無償で提供されるのだ。その後、年に1~2回程度、行商人が家庭を訪問し、利用した分だけ薬の代金を徴収する。その際、行商人は、使われた薬は補充し、古くなった薬は交換するのである。薬などは、必要なときに必要なだけあれば良い。また、それがいつ必要になるか判らない代物である。それに対して、使わなければ一切お代は頂きません、でも必要なときはいつでもお使い下さい、というのは実に顧客にとっても都合の良い理にかなった素晴らしいビジネスモデルなのである。さらに、単に薬を売るだけではなく、訪問先の家庭の事情に応じて置き薬の中身を変えたり、健康上のアドバイスをしてきたという。また、その顧客リストは、当然ながらビジネスを続ける上での最大の財産であったのだ。そしてなんと我が家では現在でもこの『富山の置き薬』を妻が?契約しているのである。妻は・・・・・・・・・・・・であるのに!!。いや・・・・・・・・・であるからこそ??。この日も約1時間強の早朝散歩を楽しんだ『アラカンオジサン』であった。 ---------続く----------
2010.06.10
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昨日のブログでミツバチの「黄色と黒の縞模様」について書き込んだが、もう一つ『ミツバチの色覚』について学んだことを「備忘録」として書き込んでおきたい。ミツバチの色覚についてはノーベル医学・生理学賞を受賞したフォン・フリッシュ氏の実験などにより、ある程度その色覚能力が解明されているのだ。インターネット情報によると【ミツバチは波長が300ナノメートルから650ナノメートルの間の光を認識できるという。300から400の間は紫外線領域なので人間には見えないがハチには見えることになり、一方650から800は人間には赤と認識できる領域であるがハチには逆に認識できないということになる。さらにミツバチは400から480ナノメートルの間の人間では青からスミレに見える範囲、480から500ナノメートルの間にある青緑の光の色、500から650ナノメートルの間の人間では緑、黄、オレンジの範囲について、下図にあるように単に青、青緑、黄色と三つの色彩しか感じない。すなわち、細かく色を区別することができないのだ。現在のミツバチはハチ目のなかで最も新しい類に属し、ここまでくる前にハバチ、ヤドリバチ、カリバチ、ハナバチという進化をへて、その間色覚の面で大きな変化を経験してきた。カリバチまでのハチはシダ類や木の葉そして同じ昆虫の死ガイなど何でも食べ、甲虫とちがうのはより器用に飛べるようになったことであった。ところが一億年ほど前、突然花が現れたのだ。花は花びらとオシベ、メシベを最も目立ち、見やすい黄色で飾った。今までの胞子による種の保存からオスメス交配の種子による種の保存へと、花は大変革を始めたのだ。ところが、ハチは当初黄色い色を知らなかった。ハチの棲んでいた環境はほとんど青緑一色で、地面の赤と空の青はほとんど目に入らず、黄色い花はただ少し明るい緑に見えた。そこで花はハチを受粉に利用しようと考え、花粉に高い栄養価をもたせ、さらに花弁の奥にあまい密をほどこしたのだ。いままで木の葉と死骸ばかりを食べていたハチは生活の糧を花へと移した。それがハナバチ。ハナバチは黄色い花と長い間生活しているうちに、いつしか黄色を新しい色彩として認識するようになった。ただ、花のオレンジ色とか黄緑とか、微妙な色の区別は難しく、同じ色と判断した。そして、ハナバチのなかから、密だけを求めて集団を組む種が現れ、それが今のミツバチとなったのだ。このころすでに地上には四季が訪れるようになり、野には種子をもった草花が徐々にその勢力を拡大し、恐竜時代とまったくちがう花と緑の世界が広がりつつあった。ミツバチはせっせと密を巣に運んだ。ミツバチの見える世界はエサのありかを示す黄色と、草の葉の青緑と、空の青だけであった。そしてハナバチの多くはその後も進化を続け、青より若干波長の短い紫も認識できるようになった。】のだと。このように自然はわれわれ人に見える世界だけではなく、見えない世界でも植物や動物はさまざまな工夫をこらして生存競争をしていることを、『ミツバチの色覚能力』から今日もまた一つ学んだ『素人養蜂家』なのである。
2010.06.09
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今年は2010年 私も年男の寅年である。 寅と同じく、ヒトの世界でも「黄色と黒の縞模様」は注意標識。「黄色と黒の縞模様」のポールやテープで標識してあると、そこは「危ないから近づいてはいけません」ということ。道路標識の予告案内『踏切あり』、『学校あり』や『落石注意』など、注意を促す所では「黄色と黒」の組み合わせがよく見られるのである。黄色だけでも十分に目立つのだが、黒と組み合わせるのには意味がある。黄色やオレンジは進出色と呼ばれる色。こちらに飛び出したように感じる色。対して黒は後退色、収縮色と呼ばれる色。他の色より向こう側にあるように感じる色である。黄色と黒という組み合わせは前後の差が大きく黄色をより強く認識させることが出来るのである。 昆虫を含む動物の世界でも通用する法則なのであろうか?そういえば、スズメバチやトラやライオン、ジョロウグモ、危険な動物は「黄色と黒の縞模様」。なにか、進化の法則が・・・。同じ黄色と黒の組み合わせの我が愛する「ミツバチ」。スズメバチに代表される多くのハチが黄色と黒の縞模様で,非常によく目立つ色をしているのはなぜだろうか?体の小さな昆虫が鳥などの敵(捕食者)から身を守る方法は2つあるのだ.一つは周囲の風景に溶け込んで目立たなくして敵を欺く方法。たとえばアゲハの幼虫は,小さいときは鳥の糞そっくりの色をしていて鳥からの捕食を免れているが,大きくなると今度は葉と同じ緑色に体の色を変えて見つかりにくくし,捕食を免れるのだ。もう一つの方法はハチなどの危険な虫に色や形を似せて敵を欺く方法。スズメバチやアシナガバチは,警告色といって黄色と黒の目立つ色で自分が危険な虫であることを強調して敵である捕食者から身を守る。つまり、いちどオオスズメバチを食べようとして痛い目にあった鳥はその後、オオスズメバチのみならず、キイロスズメバチやミツバチなど似通ったハチまで避けることになり、全体としての犠牲が少なくてすむ、という理屈である。スズメバチやアシナガバチ、ミツバチなどが,種類は違っても皆同じような色彩をしているのはこのためなのである。弱いものが強いもののふりをして身を守るのは判るが、もともと強い者同士がお互い擬態しあいながら種の保存を保っているのであるこのように毒のあるもの同士が似た形や色彩をしていることを"ミューラー型の擬態"と言うとのこと。自然界の黄色と黒、そして人間が考えた黄色と黒の組み合わせは、共通した『危険な色』であること、そして地球上の生物の間での暗黙のルールのもとで、不思議な進化の神秘があることを実感しているのである。
2010.06.08
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長いお付き合いをさせて戴いているお客様のDENSUKEさんから、先日伊万里を訪ねた際、伊万里湾で自ら捕った天然地ハマグリ(蛤)を戴きました。昨年暮れそして新年と2回も岩牡蠣も送っていただいた方なのです。今回はホテルからクール宅急便で自宅に送らせていただきましたが、日曜日の午後に漸く到着、やはり伊万里は我が家からは遠いのです??!!。ハマグリの貝殻は貝合わせという平安時代からの遊びにも使われるように、元々の組合せ以外の貝殻とはぴったりかみ合わないのです。そこで、結婚式でハマグリの吸い物が出されることも多く、『よい伴侶にめぐり合えるように』との願掛けから、ひな祭りにハマグリを食べる風習もあるのです。我が家も今年も3月に「吸い物」でいただきました。学生時代に蛤、浅蜊(あさり)、牡蠣(かき)、蜆(しじみ)など、貝を表わす漢字には虫偏がつくものが多い事に気がつき何故虫偏かを調べた記憶があります。その理由は漢字が作られた中国では"虫"という概念が広く、 昆虫以外にも貝類、蛸(たこ)、蛙(かえる)、蛇(へび)、蝦(えび)、蟹(かに)など軟体生物、爬虫類、両生類、節足動物を含んでいるからだ、と言うことを学んだのでした。そして「ハマグリ」という言葉は、浜辺にあり、栗と形が似ていることから「浜栗」と呼ばれたことに由来しているようです。早速夕食にハマグリの濃厚な旨味を味わえる酒蒸しでいただきました。出来上がったハマグリにはたっぷりの旨味が凝縮した蒸し汁の中に、ぷりっぷりっとした身が。汁をこぼさないように飲みながら、醤油を2滴程かけ、ボリュームのある身を味わいました。贅沢そして至福の瞬間でした。そしてお吸い物も。薄白い汁が旨いのです。DENSUKEさん、ありがとうございました。ご馳走様でした。そして次回もよろしくお願いいたします!!!(笑)
2010.06.07
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先日の国立歴史民族博物館を訪れた際、第4展示室の『民俗仮面』の展示が面白くデジカメにて撮影した。古代から現代に至るまで、形を変え、姿を変えて生き続けてきた仮面について、考古学的・民族学的・歴史的・演劇的・・・・な観点からアプローチし、さまざまなメッセージを読み解こうとする試みであろうか。『ひょっとこ』のような面。ひょっとこは、口をすぼめて曲げたような表情の男のこと。語源は竈(かまど)の火を竹筒で吹く「火男」がなまったという説や口が徳利のようであることから「非徳利」からとの説もあるようだ。日本の代表的民謡「出雲安来節」のひょっとこ顔の男踊りとしての「ドジョウ掬い踊り」を思い出したのであった。翁面であろうか。豊かな笑いの表情を湛えているのである。ふとある人に似ていると感じ親しみを感じた面。猿楽の流れを汲む面と言われ、天下泰平・国土安穏を祈る神事色が濃い能「翁」等に使われる面との説明であったか?? 記憶が不確かな面。口が紐で繋がっていることから口が動くのであろうか。鬼神面。神の猛々しさや鬼の類の力強さを表した面で、この面は口を開いた阿形の形。怒りのなかに悲しみの表情も感じられたのである。これも鬼面であろうか。鬼には、悪霊を追い払う鬼と、追い払われる鬼があり、また神としての一面もあるとのこと。最も古く、最も多いのが鬼面であると言われているのだ。太古から受け継がれる仮面やその背後の日本人の心、信仰、生活に思いを馳せ、いろいろな表情の民俗仮面の姿を、急ぎながらも楽しんだのであった。
2010.06.06
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早朝から単独にて内検を行いました。先週は週末佐倉に出かけましたので、蜂友のEさんに内検をお願いしましたので2週間ぶりの内検です。NJ4群の女王蜂です。体も大きく産卵も行われていました。NJ3群の女王蜂です。先週は確認できませんでしたが、新たに誕生したのかと思っていましたが自宅に帰り写真を見ると僅かに羽に赤いマニュキア痕がありますので元の女王のようです。NJ2群は群勢は大きいですが、この日の内検では女王蜂は確認できませんでした。蛹蓋はかなりありますので、最近までは産卵していたことは事実ですが見つかりませんでした。その為かこの群には多くの王台が出来ていました。この中で新女王蜂が育っているのです。無王群に成った可能性もありますので2個の王台を残しておきました。明朝再度この群の内検を行おうと思っています。 NJ1群は群勢は協力ですが女王蜂の産卵が弱いようです。女王も活発に動いていますが、体もやや小さいような気がします。しばらく様子を見て産卵が進まないようでしたら『世代交代』に挑戦したいと思っています。本日除去した王台です。分蜂の季節ですのでこの王台の取扱に注意をしなければ成りません。
2010.06.05
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仕事で伊万里に出張した。最初にこの地を訪れたのは約35年前であろうか。それから今日まで長い間お世話になっているお客様二人と夜懐かしく杯をかわした。私の術後の体調などを大いに心配してくれていたのであった。 伊万里から博多への帰り道は通い慣れた道である。『虹の松原』。佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原である。日本三大松原のひとつで特別名勝に指定され、日本の白砂青松100選、日本の渚百選にも選ばれている人気の松原なのである。玄海国定公園の一部で長さ約5kmにわたって弧状にクロマツの林が続き、その中を道路が通っているのである。平日の為か対向車が極めて少ないのであった。しばらく車を進めると道路脇の『生の松原元寇防塁』の案内表示が目に留まった。博多での待ち合わせの時間には少し余裕があったので車を止め見学することとした。元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(侵略)の、日本側の呼称なのである。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも呼ばれている有名な歴史上の事件なのである。文永の役(1274年)には元軍が3万の兵を引き連れ博多湾に来襲。博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが必死の戦いにより追撃してきた副大将を射倒すなどして、内陸への侵入を阻止したとのこと。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰ったのであった。一方、元軍は博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた模様。このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにしたのであった。翌年の1275年、クビライは再び使者を日本に送って来た。北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場(我が地元の江ノ島付近)でこの使者5名を斬首に処したのであった。これは、この使者達が日本の国情を詳細に記録・偵察した、スパイとしての性質を強く帯びていたとの判断が時宗にはあったとためと言われているのである。 元寇防塁の看板の横を通り、松林を抜けると復元防塁があった。この元寇防塁は、博多湾沿岸一帯に築かれた石による防塁。文永の役後の蒙古最襲来に備えて築かれたのである。防塁の前に立つとすぐ前には玄界灘が広がっていた。案内板によると,防塁の高さ・石材は当時のもの。防塁の幅は狭いが,粘土で補強してあり,裏側には通路もあるのだ。高さは2mくらいあり、当時の雰囲気をよく感じることができたのであった。1968年と2000年の2度修理・復元が施されたようだ。防塁は石築地(いしついじ)が本来の呼び名とのこと。この石築地に浜昼顔が咲いていた。ピンクの鮮やかな色の花である。この生の松原(いきのまつばら)の防塁は肥後国/菊池勢が担当したといわれているのである。ということは、あの竹崎季長(たけざきすえなが)の「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」で、季長が菊池勢の前を馬に乗って通り過ぎる場面に出てくる防塁が正しくここなのだ。自分が730年前にタイムスリップした様に感じたのであった。防塁の上に陣取った菊池勢はリラックスした雰囲気で雑談しているようだ。中央に陣取る涼やかな大将が、菊池武房(きくちたけふさ)とのこと。もっとゆっくり見学したかったが、そして他の場所の防塁も見てみたかったが時間がないため次回には是非と思いながら松林の中を足早に戻り、車で博多に向かったのであった。
2010.06.05
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6月4日(金)の「虫の日」に、有害な虫や獣を知るためのイベントが新都市プラザ(横浜駅東口そごう前広場)で開催されていた。主催は、県内の害虫駆除業者らが加盟する(社)神奈川県ペストコントロール協会。『人に不快な虫・獣展』の名付けられた展示会。このイベントは、日常生活で接する様々な生き物に関心を持ってもらい、それらへの対処法を学んでもらおうとするものとのこと。この日はスズメバチなどのハチの巣が展示されていた。ミツバチの巣も展示されていたが、『人に不快な虫』ではないのであるが・・・・・・。素人養蜂家としては説明員に抗議?しようとも思ったが、言葉を飲み込んだのであった。その他に、シロアリ、ネズミ、ゴキブリ・・・・の展示もされていた。多くの種類のゴキブリの標本の展示を見て悲鳴を上げる若い女性の姿も。体験コーナーではダニ類などを顕微鏡でのぞくことができるのだ。同協会会員による相談コーナーもひらかれていた。そして『ハクビシン』の剥製も展示されていた。果樹園に入り込み、ミカン、モモ、ナシ、カキなどを食べ荒らすことで、深刻な農業被害を与えることがあり、「鳥獣保護法」により、狩猟獣に指定されているのである。夜行性のため姿こそ見ないが、我が農園にも出没している可能性がある獣。糖度の高い果樹・野菜を好む為、収穫期を迎えたメロンやスイカ、トマト等を狙いに来るのである。ハクビシンの剥製とはいえ実物を初めて見たが、さすがに『白鼻芯』。額から鼻にかけて白い線が見事にあるのであった。それにしても『いろいろな日』が制定されている。
2010.06.04
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我が家の5月の太陽光発電(京セラ 5.76kw)実績である。発電積算量=701KWH売電電力量=536KWH=25,728円使用電力量=650KWH買電電力量=485KWHゴールデンウィークを含む5月上旬は絶好調で新記録達成の勢いでしたが後半はやや低調だったため記録達成は成りませんでしたが、久々の700KWH超えとなりました。 太陽光発電導入後2年間の発電量実績の月別グラフです。2008年間発電量(2008/6~2009/5)=6890KWH2009年間発電量(2009/6~2010/5)=6546KWH となりました。2008年7月と2009年4月の700KWH超えが大きく影響していることが解ります。
2010.06.03
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江戸時代の佐倉城跡に広がる城址公園へ漸く到着。佐倉城は江戸時代初期の慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611)から元和2年(1616)までの間に築造された平山城。幕末期の藩主・堀田正睦は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名。城の建物は明治初期にすべて取り壊されたが、堀、空堀、曲輪など当時の城の様子を伺うことができるのだ。園内は佐倉城址の名の通り?多くの桜の木々の新緑が見事であった。これほどの桜の木々が一斉に花を開いた姿を想像してみると是非この時期に訪れたいと思ったのであった。園内の三逕亭(茶室)の前にはタウンゼント・ハリス像と並び堀田正睦の像が。天守閣跡は今は何もなく広々とした広場となっていた。台所門跡から望む本丸跡。中央左の長方形をした生垣で囲まれたところが、三重の天守が建っていた天守跡。佐倉城は石垣のない土づくりの城で、城の防御のための土手を土塁と呼ぶのだ。周囲は土塁でかこまれ、土塁の上には土塀が存在したとのこと。夫婦モッコクの樹。本樹は、もともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものとのこと。佐倉城本丸の天守台近くにあるこの二本幹の夫婦モッコク(木斛)には、兵士によるものと思われる「佐野」、「昭十八年十月 砲隊」などの落書きが刻まれているのだ。「佐野」は人名なのか「佐倉野戦砲兵隊」の略なのかは分からないとのことだが。昔、乳母が若君を池のほとりで遊ばせていた際、あやまって若君を溺れさせてしまったという哀しい話が伝わる「姥が池」。水面の睡蓮の白い花が美しかった。佐倉城址公園菖蒲田には白や紫の菖蒲の花が開花を始めていた。緑の草木とハナショウブの鮮やかなコントラストが見事であった。約2時間強の早朝散歩であったが、佐倉市内も名所は旧堀田邸を除くほぼ全て?を駆け足で訪ねたのであった。午後には親戚のご主人にこの旧堀田邸と武家屋敷の中も案内していただき多くの佐倉市内の主要観光スポットを楽しんだのであった。今回の早朝散歩で感じたことは、やはり城下町は素晴らしいと言うこと。我が家に客人が来られても、案内できる場所が直ぐに思いつかないのである。先日の来客に対しても、案内したのは我が農園と養蜂場。精々 湘南海岸と江ノ島か。そして足を伸ばして鎌倉となるのであろう。しかし決して徒歩で見て回れる距離ではないのである。佐倉市民が羨ましいのである。いつまでも大切に保存し子供達に伝えていって欲しいのである。そして次回の観光は8月7日(土)の印旛沼湖畔で開催される佐倉市民花火大会か。
2010.06.02
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京成佐倉駅近くのビジネスホテルに宿泊し、早朝散歩に出かけてみた。京成佐倉駅北口の『駆けっこ』の像。 女子マラソン界で有名な高橋尚子と有森裕子の練習コースの案内表示が像台座に。像のモデルは高橋尚子?しかしランニングホームが違うように思えた。京成佐倉駅を通過し、『歩行ナビ』を片手に歩き出す。京成佐倉駅南口入口を左折し県立佐倉高校方面に向かう。もちろん著名な卒業生は長嶋茂雄(読売ジャイアンツ終身名誉監督)氏である。高校前の交差点を右折し裁判所前を通過し蘭学通りに出た。旧佐倉藩主堀田正俊、正睦、正智の墓のある天台宗寺院 『甚大寺』に到着。堀田 正睦は、江戸時代末期の大名・老中。下総佐倉藩の第5代藩主。正俊系堀田家9代とのこと。 日米和親条約によって赴任したハリス総領事と堀田との修好通商条約の調印は難航したが、この人物の努力で署名の直前までこぎつけたのだ。佐倉市立美術館。エントランスホールは赤レンガの歴史ある建物。旧川崎銀行佐倉支店の建物を活かし、佐倉ゆかりの画家浅井忠の作品などを収蔵しているとのこと。更に歩くと国道296号に出た。この奥に麻賀多神社が。佐倉の総鎮守として知られ毎年10月の例祭には「佐倉の秋祭り」と共に御輿・山車が佐倉囃子の調べにのって街中を練り歩くという。この神社の側の壊れかけた土蔵。また一つ、佐倉の歴史を見つめてきた建物が命つきるのであろうか。残念であった。武家屋敷に向かう途中の案内表示。観光客に対するサービスも行き届いている。「11万石の城下町 佐倉を訪ねる旅へ」との表示。武家屋敷前の通り。早朝のため人通りはなく極めて静か。旧佐倉藩の武家屋敷(旧河原家、旧但馬家、旧武居家)が移築されており、内部が公開されているようであったが、勿論早朝のため入れなかった。土塁を築き、植栽を施した垣根(槙の垣根が多い、佐倉市の市木なのであろうか?)は武家屋敷の佇まいを静かに示していた。くらやみ坂を右手に見ながら直進し、竹林の中にあるひよどり坂を下る。市民体育館の横を通り佐倉城址公園方面に足を向けた。途中大手門跡碑を見ながら「くらしの植物苑」前を通過。反対側の自由広場では消防署の署員の早朝訓練が行われていた。 -------続く-------
2010.06.01
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