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最終処分地選定の課題―鈴木 達治郎―原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定を巡っては、北海道・寿都町、神恵内村の文献調査の最終報告書案が了承され、佐賀県玄海町では文献調査が始まっている。しかし、政府が目標とする10件程度の候補地選定にほど遠い。進まない最終処分地の選定の課題はどこにあるのか、改善すべき点は何か。原子力委員会委員長代理もつとめた長崎大学核兵器廃絶研究センターの鈴木達治郎教授に聞いた。 不透明な選定プロセス「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」(2000年)ができて24年が過ぎましたが、現在まで処分地選定の第1段階である文献調査が3カ所でしか進んでいないことは好ましい状況とは言えません。2015年の政策見直しに基づき、17年、経産省は処分地に適する地域を示す科学的マップを発表し、「国が前面に立って」関係住民の理解と協力を得ながら進めることとしましたが、実際には文献調査の段階から地域に手を挙げてもらっているのが現状で、解明責任を負う自治体の首長の負担は軽くありません。これが文献調査に手が挙がらない原因です。現在のすすめ方では、特性マップでより好ましいとされる候補地から手が挙がるとは限らず、処分地に適さない地域を含む自治体が候補に挙がる状況も生まれています。また、今後の選定プロセスが不透明であることも問題です。第1段階である文献調査の候補地選定をいつまで続けるのか。既に文献調査を終えた自治体とのズレをどう埋め、次の概要調査に進むのかも明らかになっていません。これらの問題は処分地の選定が絞り込むプロセスになっていないことが原因です。減税すすめられる文献調査では、候補地が基準を満たすのかどうか、その基準もはっきりしないカギrンが進んでいます。そうした難しい判定にとらわれ、曖昧さを残したまま先に進もうとしているのが現状ではないでしょうか。そうではなく、各地の調査結果をきちんとした比較検討し、優先的に次の段階に進める候補地はどこなのか、複数の中から絞り込んでいく、そうしたプロセスこそ必要だと思います。 原発から出る「核のごみ」分断の原因探り合意形成を 不安解消し柔軟な対応へ文献調査を受け入れるにあたっては十分な合意形成も必要です。しかし、実際には文献調査も必要です。しかし、実際には文献調査を巡って住民間に分断が生まれています。それは廃棄物処分事業が元の圧政策に必要であると法律に位置付けられていることに原因の一つがあると私は思っています。冒頭に挙げた法律第1条には、「原子力の適正な利用に資するため」と、原子力推進の姿勢が記されています。したがって文献調査に賛成することは原発政策を前に進めることに同意しているともとられるのです。脱原発を望む住民には受け入れられないことでしょう。しかし、原子力委員会が同法に先立ち、1998年に出した報告書では、「今後の原子力政策がどのような方向に進められるにせよ……その処分を具体的に実施することが必要である」とはっきりと書き込まれているのです。この原点に立ち返り処分は原発政策の将来に関係なく必要であることを法律に明記し合意形成を図るべきではないでしょうか、先月、使用済み核燃料の中間貯蔵施設が立地する青森県とむつ市、施設を運営する会社との間で安全協定が結ばれ、使用済み核燃料のむつ市への搬入が決まりましたが、地元住民には現在の不安が残っています。これは核燃料サイクル事業と深くつながる問題です。使用済み核燃料は再処理され、原発で再利用する——これが核燃料サイクルですが、現行法では、再処理の過程で出る廃棄物を「核のごみ」とし、使用済み核燃料は「核のごみ」としていません。しかし完成延期が繰り返される再処理工場が本当に稼働するかどうかわからない。そうすると、使用済み核燃料は残り続けるわけです。こうした住民の不安を理解し、例えば、使用済み核燃料も「核のごみ」として最終処分の対象にすると法律を改正してはどうでしょうか。そうすることにより、使用済み核燃料の扱いにも柔軟性が増し、住民の不安を解消することにつながるのではないかと考えています。 第三者による監視の仕組み必要 信頼性、透明性の工場こそ原発を推進するカナダや脱原発を達成したドイツでは、立場は違っても最終処分地は必要であるとの前提から候補地の選定、絞り込みを進めています。ドイツでは2020年9月の段階で90カ所が候補地に挙がっています。さらに、海外では処分地の選定過程、選定理由について第三者機関からチェックを受けながら、候補地の絞り込みが行われていることが特徴です。原子力委員会の報告書でも「公正な第三者によるレビューの仕組み」が必要であることを強く訴えていますが、こうした第三者機関がないのが、今の日本の現状です。私が考える第三者機関とは、例えば福島第一原発事故後、黒海に設置された事故調査委員会です。政府から独立した機関として、放射性廃棄物の処理・処分に関する調査、情報収集を行い。処分地の選定について中立的に評価する機関です。アメリカでは1982年に康レベル放射性廃棄物の最終処分を連邦政府の責任で実施するとして放射性廃棄物政策法を成立させますが、連邦議会に設置されたOTA(技術評価局)が放射性廃棄物の処理・処分に関する報告書を作成しています。処分計画の推進派議員も、反対派議員も、この報告書をそれぞれ使って論争が繰り広げられたという有名な報告書です。こういう信頼できる情報源が日本にはありません。日本にも独立した対場で調査、情報収集する機関が必要です。また、そうした第三者レビューがあることで処分地選定プロセスの信頼性、透明性は高まると考えます。 すずき・たつじろう 1951年、大阪府生まれ。工学博士。㈶電力中央研究所等を経て現職。2010年1月から14年3月まで内閣府原子力委員会委員長代理を務めた。著書に『エネルギー技術の社会意思決定』(共編著)などがある。 【文化・社会】聖教紙背2024.9.3
June 30, 2025
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日常生活がビッグデータに科学文明論研究者 橳島 次郎 人工知能による生体情報の活用㊤前回、脳波を計測するヘッドバンドを着けて睡眠状態を把握し、眠りの質の改善を図る健康機器が米国で売られていると紹介した。同じことをもっと簡単に、スマートフォンなどから、いびきや歯ぎしりなどの睡眠関連音を録音した音声データで、眠りの様子(レム睡眠とノンレム睡眠などの繰り返しなど)を把握し可視化できる技術を開発したと、7年前に日本の大学が発表した。それを可能にしたのは人工知能だ。多くの人から集めた大量の睡眠関連音データを人工知能に学習させ、睡眠のデータと突き合わせて音声と睡眠のパターンの結び付きを明らかにしたのである。この技術をさらに一歩進めて、睡眠関連音から個人の特徴を明らかにし、誰が眠っているのか個人識別する技術も研究されている。顔認証による個人識別を人工知能に行わせる技術が進んでいるが、私たちが日々の生活で発する音声も画像と同じように利用される可能性があるのだ。このように日々携帯したり身に着けたりする機器から生体情報を集め、人工知能に解析させ、生活や健康の状態を把握する技術の実装が進められている。血圧や心拍・呼吸数などの生体情報が、日常生活を送る中で簡単に集められ、人工知能によって分析されるビッグデータとして利用されるようになった。その結果、人工知能が提示する生体情報と健康・疾病との関連などの知見は、利用者に便益をもたらすが、他方で、第三者が生体情報を取得することで、プライバシーの侵害などの弊害が出てくるおそれもある。今年4月、米国の民間人権団体が、脳の活動を計測する健康機器が得られるデータが十分に保護されていないと警鐘を鳴らした。この団体にお調査によると、米国で脳活動データを取る装置を販売している30社の多くが、利用者のデータに無制限にアクセスでき、集めたデータを第三者と共有、売買できるようにしている。データを個人識別できないようにする措置を明示しているのは17社のみだともいう。こうした実情に対し、米国コロラド州では、個人情報保護法で最も厳重に保護される「センシティブ情報」に、脳神経データを加える法改正を行った。脳神経データは、心身の健康状態のみならず、思考、感情、意図の様子まで明らかにし、深刻なプライバシーの侵害につながる恐れがあるからだ。日本でも、市販の生体情報取得危機によるデータの管理の現状を調査し、問題がないか検討しておくべきだろう。 【先端技術は何をもたらすか—28—】聖教新聞2024.9.3
June 29, 2025
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レジリエンス—しなやかに対応し生き延びる力 「山中君、レジリエンスという言葉を知っているか」。山中君とは「ヒトiPS細胞」の研究でノーベル生理学。医学賞を受賞した山中伸弥教授。尋ねたのは、教授が中学時代に柔道部で教えを受けた恩師・西濱士郎氏だ◆氏は、がんで2013年に亡くなった。その病状が悪化した時期に教授は氏と再会する。この時、不意に氏が教授に問い掛けたのだ。教授は「すみません、知りません」と正直に答えた。すると氏は語った◆「レジリエンスというのは、つらい出来事があったとしても、しなやかに対応して生き延びる力のことだ。震災みたいに大変なことが起こったときに希望を失わず立ち直る人がいる。そういう立ち直る力のことをレジリエンスというんだ」◆氏は続けた。「レジリエンスは生まれつき備わっているものじゃない。柔道と同じで後からでも鍛えることができる」。ではどう鍛えるか。「僕は感謝だと思う」と(『山中教授、同級生の小児脳科学者と子育てを語る』講談社、『還暦から始まる』同)◆レジリエンスは感謝によって鍛えられる。自分を助けてくれた人の想いに報いたい。何があろうと、そう思える人はどこまでも強くなれる。それが最後の教えとなった。(佳) 【北斗七星】公明新聞2024.9.3
June 29, 2025
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戸田先生「宗教の偉力」(1949年12月)㊦ 分断の世界をつなぐ文化交流の懸け橋過去に先例のない変化を生み出す 小説『人間革命』の第4巻では、戸田先生が「宗教の偉力」と題する巻頭言を発表した直後に向かえた1949年の大晦日の様子が綴られている。——戸田先生は自宅で御書講義を行った後、山本伸一にこう語った。「内外ともに激動のさなかであるが、今こそ、君たち青年が、勉強しておかなければならない時だ。ぼくが、舞台はつくっておく。新しい平和の先史となって、その舞台で大いに活躍するように——」と。この戸田先生の思いを胸に、池田先生は第3代会長就任後、冷戦対立による分断を解消するために、平和と友好の懸け橋を築いてきた。創価学会や創価大学の創立者として、「教育交流」の輪を懸命に広げるとともに、民音や東京富士美術館の創立者として「文化交流」を結ぶ努力を重ねてきたのである。1975年5月、池田先生が2度目のソ連訪問をした時、同行者には創価大学や民音、富士美術館の代表もいたが、それには明確な理由があった。初訪問(74年9月)の際に合意した、文化・科学・教育分野における交流の拡大を、少しでも早く具体化したいと心に深く期していたからである。2度目の法門でモスクワに付いた翌日、ソ連の文化交流団体の責任者に池田先生は述べた。「貴国の交流を口先だけで終わらせるようなことがあっては絶対にならないというのが、私の決意です。どのような障害も、反対も、恐れません。すべて乗り越えて、必ず前進させていきます」続いて池田先生は、ソ連の文化相との会見に臨んだ。そこで、トレチャコフ美術館とプーシキン美術館から富士美術館への出店を得て展覧会を開催することや、民音による民族舞踊団の招聘など、具体的な文化交流が決まったのである。 その文化交流を巡る改憲の4日後、池田先生はモスクワ大学で「東西文化交流の新しい道」と題する記念講演を行った。「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたい」「それというのも、民衆同士の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、『不信』を『信頼』に変え、『反目』を『理解』に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります」この言葉は、理想的な願望を表明したものでは決してない。冷戦対立の悪化を交流の拡大によって押し止め、友好の礎を断じて築くという池田先生の覚悟に裏打ちされたものだった。また、公園で次の言葉は、戸田先生が「宗教の偉力」で、国家の排他的な論理に翻弄されてはならないと訴えた思いと重なるものだったと言えよう。「いかに抜きがたい歴史的対立の背景が存しようとも、現在に生きる民主が過去の憎悪を背負う義務はまったくない」「人間と人間とを対立させ、流血の三位へと煽り立てる権利は、いかなる地位の人間にも断じてありません。 そうした参事を起こさせないための方途として、池田先生が講演で呼びかけた「精神のシルクロード」の構想は、後年、民音による文化交流の一大プロジェクトとして結実した。1979年から2009年まで、『シルクロード音楽の旅』と題するシリーズ公演が11回にわたって行われ、20カ国300人以上の芸術化が参加。1回目(79年)の講演では、緊張が高まっていたイランとイラクの音楽家が同じ舞台に立ったほか、4回目(85年)の講演では、関係悪化によって公式の場では同席してこなかった中国とソ連の音楽家がステージで共演するなど、まさに「精神のシルクロード」をほうふつとさせるような意義深い文化交流が繰り広げられてきたのである。掉尾を飾る公演があった翌年(2010年)、池田先生は平和提言で時代変革にかける真情を述べるにあたって、歴史家のアーノルド・トインビー博士の次の言葉に言及した。「われわれは、歴史をして繰りかえさせるべく運命づけられているものではありません。つまりわれわれ自身の努力を通じて、われわれの順番において何らかの新しい、先例のない変化を歴史に与える道がわれわれには開かれているのであります」その上で先生が述べたのが、「私たちの歩みもまた、時代の激流に押し流されることなく、価値創造への挑戦を民衆の手で重ねてきた歴史にほかなりませんでした」との言葉だった。戸田先生が訴えた宗教者の使命を果たすため、また、モスクワ大学で述べた信条のままに、トインビー博士の言う「先例のない変化を歴史に与える道」を切り開いてきたことへの自負が、この一言に込められていたのではないだろうか。わたしたちは、池田先生が広げてきた文化交流の道を受け継ぎながら、国家間の「不信」を「信頼」に変え、「反目」を「理解」に変えるための時代の潮流をさらに強めていきたい。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第10回— 聖教新聞2024.9.3
June 28, 2025
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戸田先生「宗教の偉力」(1949年12月)㊤私は少年時代から不思議に思っていることが、いくつもあるが、そのなかで、もっと不思議に思うことは、国家と国家の間に、もっとも文化とかけはなれた行動があるということである。もっと、くわしくいえば、あらゆる文化国の人々が、礼儀の上でも、ことばづかいでも、態度でも、実によく文化的に訓練され、教育されている。このように、個人と個人の間の生活は、価値と認識において、文化的であるにもかかわらず、この形式は、国家と国家との間に、於ける外交にかんしては、表面が物価的であっても、その奥は実力行使がくりかえされている。一旦、外交が断絶されると、礼儀や習慣を捨てて、修羅の巷となるのが、国家間の状態ではなかったろうか。これを端的にいうなら、国家と国家の間には、実力以外の何ものもない野蕃人の生活がくりかえされてきたのではないだろうか。その姿はイソップ物語を、そのまま国家間の闘争にうつしたと同じであった。より高い文化、より高い科学は、より強き国家、より強き民族の力を国家間の闘争に集中された時期があったが、これでは平和に逆行する以外の何ものもない。人類の日常生活に科学が進めば進むほど、人間は驕慢を続けてきた。科学の進歩も、文化の発展も、人類の横暴、驕慢、嫉妬、卑屈を、ますます強盛にしてきた結果になっていないであろうか。しからば、人類永遠の平和、地球の楽園を建設する原動力となるものは何か。それは、宗教でなくてはならない◇科学を指導する宗教というものは、永遠に変わらぬ真実の哲学を持たなくてはならない。それは現世のみを対象として人間的な倫理や道徳観であってはならない。そのようの宗教が発展することを願ってやまないのである。(『戸田城聖全集』第1巻) 「大白蓮華」創刊を機に始まった言論戦社会に開かれた言葉で仏法思想を語る 1949年7月10日、創価学会にとっての新たな月刊の機関紙が誕生した。「大白蓮華」である。戦時中の弾圧によって廃刊にされた機関誌「価値創造」は、戦後(46年6月)に復刊を遂げたが、それに代わる形で、学会のさらなる大前進を期し、戸田先生が創刊したものだった。以来、75星霜を経て、この10月には第900号の発刊を迎えるまでの発展を遂げてきた。「大白蓮華」の発刊を通し、戸田先生がどのような言論を発信しようとしていたのか——。池田先生は小説『人間革命』の第4巻で、創刊前の打ち合わせの様子を描く中で、戸田先生が日蓮大聖人の御書の偉大さに触れながら、学会に求められる「言論の力」について述べた言葉をこう綴っている。「いくら、一人で正しい、勝れていると言ったって、相対するものがなければ、その正しさは鮮明に浮かんでこない」「仏法の法門というのは、すべて相対の上に絶対を確立していくものだ。大聖人の御書のすごさは、この点にあるんだね」「大聖人様の説得力は、単なる説得力ではない。よく読んでみなさい。根本が慈悲から発している説得力だよ。だから偉大なんです。われわれには、とうてい、そんなまねはできないが、せめて、しっかりした相対の上に、辛抱強く戦って、帰結として絶対的なものが、自ずと浮かび上がるところまで論理を尽くすことだ。そうでなければ、これらの世間の人を納得させることは決してできない」戸田先生が「相対」という言葉を通して指摘したのは、さまざまな思想を比較して吟味する中で、仏法の意義を浮き彫りにする重要性である。また、多くの人々の理解を得るためには、社会に開かれた言葉で論じることが欠かせないとして、戸田先生は次のように強調した。「ぼくらの仲間だけ、宗門だけに通ずる言葉で、あれこれ言う時代は、もう過ぎた。もっと極端な考え方を言えば、宗教の分野だけに通用する理屈で事足れりとしている時代では、絶対になくなってくる」――と。戸田先生はその模範を示すために、「大白蓮華」に掲載するための巻頭言や論文の執筆に取り組み、学会による新たな言論戦の先頭に立った。仏法や信仰に関わることについては、現代的な表現を用いてわかりやすく語る一方で、人間としての生き方や社会的な課題を巡っては、さまざまな人々に幅広く伝わる言葉で論じることに心を砕いた。 「大白蓮華」の醍醐間の巻頭言も、その一つだった。タイトルは「宗教の偉力」となっているものの、仏法的な用語は使われておらず、この文章の出発点も、戸田先生が「少年時代から不思議に思ってたこと」であった。この文章が掲載されたのは、1949年12月。第2次世界大戦によって大勢の人々の命が奪われた悲劇の傷跡がいまだ癒えぬ中で、東西の冷戦対立が先鋭化していた時期だった。同年8月、アメリカを中心とする西側陣営の軍事同盟としてNATO(北大西洋条約機構)が発足した一方で、9月に東側陣営のソ連が原爆を保有していることを公表。また、戦後に分割統治されていたドイツの分裂も決定的となり、5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、二つの国家が並立する状況となったのである。こうした情勢を前に戸田先生が述べた、「国家と国家との間に、もっとも文化とかけはなれた行動がある」との慨嘆――。それは、世界で文壇の勢いが増す中で、属する国は違っても、心ある人々の胸に去来した憂いではなかっただろうか。国家間の対立や軍事的競争を放置しておけば、悲劇はさらに深刻なものになることは、牧口先生が20世紀の初頭(1903年)に著した『人生地理学』で警告していたものだった。しかし、その後に起きた2度の世界絶え選を経ても、大勢の人々の人生を国家間の対立の渦に巻き込む「総力戦」の思想は消え去ることはなかった。本来は人間の可能性を豊かに開花させるはずの科学や文化などの営みが、冷戦下において相手陣営に打撃を与えるための手段にされることが、当たり前のように行われていた。戸田先生は、このような平和に逆行する流れを食い止めて、あらゆる国家と民族が提携して発展する道を開く必要性を訴えたのである。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか―第9回― 聖教新聞2024.9.2
June 28, 2025
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第23回「メンタルヘルス」の理解のために 〝本当に犯罪の原因か?〟 西方 これまでの連載を踏まえて、今回は「こころの病気」に対する「誤解」について考え、「理解」へ変えていく機会にしたいと思います。最初に、〝「こころの病気」は犯罪の原因になりやすいのでしょうか?〟という質問が寄せられています。 長渕 「こころの病気」であるからといって、犯罪を起こしやすいわけでは決してありません。ニュースなどで、〝容疑者は、精神科に入院歴・通院歴がある〟等と報道されることで、〝「こころの病気」が事件の原因〟という誤解や偏見につながっていることが指摘されています。こうしたイメージが、さまざまな誤解や偏見を助長していることを、厚労省や専門家なども懸念しています。 遠藤 犯罪心理学の分野においても、こうした誤解や偏見はデータによる裏付けはないとしています。むしろ、統計的な分析では、「『こころの病気』と犯罪との関連は薄い」という結果が出ています。近年、「こころの病気」が増えているのに対し、犯罪率が低下していることなどからも、犯罪との関連は薄いとされています。誤解や偏見に振り回されることなく、正しく理解をしていくことが、とても大切です。 〝要因は一つか?〟 西方 〝「こころの病気」は、家庭環境や親の育て方、過去のトラウマなどが要因なのでしょうか?〟という質問も寄せられています。 木内 「こころの病気」は個別性が高く、「引き起こす要因は一つではない」ということが、さまざまな検証で分かっています。要因が一つであるように見えたとしても、実際には複合的に影響をしており、一対一の因果関係だけで説明できるものではありません。 村松 「こころの病気」の要員を捉えていく視点として、バイオ=身体的(体)・サイコ=心理的(心)・ソーシャル=社会(生活)という多面的な視点はとても重要です。治療においても、個別の状況に応じて、身体的・心理的・社会的な視点から、さまざまなアプローチが行われることで、回復に向かうケースがあります。 〝普通じゃないから?〟 西方 〝「こころの病気」は、普通じゃないから、弱いからなるのでしょうか?〟という疑問もよく聞かれます。 遠藤 人には、それぞれ個性があります。しかし、〝普通じゃないから〟〝弱いから〟という理由で、「こころの病気」になるということは決してありません。これもよくある誤解です。 西 「こころの病気」になることは、〝特別なこと〟ではありません。ふとしたことをきっかけに、私たちは心のバランスを崩すことがあります。それまで何の問題もなく生活していた方が、突然、「こころの病気」になるというケースも多くあり、誰にとっても「身近な病気」といえます。 長渕 池田先生は、このように語られています。「『生老病死』だから、誰でも病気になる場合がある。それを上手に乗り越えていくことである。たとえ病気になっても、「変毒為薬」し、早目に治していく――信心による、懸命な〝生命の操縦〟をお願いしたい。体の具合が悪くなったら、すぐ医師に相談するなり、よく診断してもらうことである」 〝信心が弱いからか?〟 村松 〝信心が弱いから「こころの病気」になる〟と思っている方もいるかもしれませんが、そのようなことはありません。「病気になることは、決して敗北などではない。信心が弱いからでもない」と池田先生は語られています。 木内 「『三界之相』とは、生老病死なり」(新1050・全753)との御聖訓を通して、池田先生はこのようにも語られています。「病気そのものも人生の一つの相である。病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。まして、『病気になったから信心がない』などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です」 西 「安心」と「希望」の方向へ向かえるように、周囲の人も、状況に合わせた「真心の励まし」を送っていくことが大切ですね。 〝相談するのは恥ずかしい?〟 西方 〝悩みや不安を相談することは、弱い人がすること〟と思って、相談をためらう使途もいます。 遠藤 人に相談することは、弱いことでも、恥ずかしいことでもありません。むしろ勇気が必要なことではないでしょうか。池田先生は「『相談する勇気』を持とう。一人で悩みを抱えず、相談することが大事な場合がある。相談することは恥ずかしいことではない。むしろ、その『開かれた心』が強みになる」と語られています。 長渕 戸田先生も「人生には、さまざまなことがある。ゆえに必ず、なんでも相談できる人をひとり、心に置いていくことが大事である」と語られています。一人でも信頼できる人が近くにいること、相談できる環境があることは、「人生の財産」といえますね。 西 実際、初めは抵抗があった方でも、相談したあとには、「もっと早く相談すればよかった」「話を聞いてもらってよかった」という方もたくさんいます。 村松 「こころの病気」になる時には、多くの場合、少しずつ変化や症状が現れます。これまでも紹介してきましたが、初期サインに気づいたら、医療機関や公的な相談機関など、身近な専門家に早めにつながっていくことが大切です。本人が相談することに抵抗を感じている時などは、まず家族が相談してみることをお勧めします。 〝受診しなくても大丈夫か?〟 西方 「本人がなかなか受診してくれない」という家族からの相談もよく受けます。 木内 家族から見て、本人が以前と違う状態が続く場合は、やはり病院で受診するk徒をお勧めします。早期に対応することで回復も良好になります。また受診してみて、特に問題が見つからなければ、それに越したことはありません。 西 「こころの病気」で受診することに抵抗があれば、たとえば、「疲れが抜けない状態がずっと続いているように見えるから心配」など、家族として思いを伝えていくことの大切ですね。特に、初めて受診する前には、家族が付き添うことをお勧めします。 村松 池田先生は、このように語られています。「疲れたら休む。具合が悪ければ、そぐに病院へ行く。当然の道理である。病気を治すのは医学の使命であり、信心はその医学を使いこなしていく、根本の生命力を強めるのである」 長渕 「こころの病気」の治療においても、身体の病気と同じで、「早期発見・早期治療」はとても重要です。日蓮大聖人は、病と向き合う門下に繰り返し、治療を受けるよう勧められ、「早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御退治あるべし」(新1308・全986)と仰せです。 西方 〝ドクター部の精神科医にみてもらわないといけないでしょうか?〟という質問もあります。 木内 ドクター部でなくとも、精神科医の専門医であれば、適切なアドバイスや治療を受けられますので、安心して受診してください。また、医療者には守秘義務がありますので、身の回りのことなど、さまざまな話をすることは、まったく問題はありません。それは、診断や治療の一環として必要なことです。 遠藤 「こころの病気」の受診の際のポイントや病院選びなどについては、これまでも語り合ってきましたので、ぜひご覧ください。 〝題目はたくさん必要か?〟 西方 〝題目をたくさんあげないから、「こころの病気」が治らないのでしょうか?〟という質問もよく寄せられています。 長渕 そのようなことは決してありません。「題目」について、池田先生はこう教えられています。「もちろん、祈りは大事です。祈りを根本にすれば、医師は偉大なる諸天善神の働きをするからです。でも、疲れ切った時には、題目三昌で終わることがあってもいいんです。早期に休養を取れば、早く体力は回復します。「夜の勤行も、帰宅が深夜になったり、疲れている場合、唱題だけとか、柔軟に考えてもいいと思う。御書に書かれているのは、一遍の題目にも大功徳があるということである。大切なのは一生涯にわたる持続であり、根本の『御本尊への信心』なのである」 村松 「病気を克服するためには、『医学』を懸命に活用することです。その『智慧』を引き出すのが仏法です」とも池田先生は語られています。そして、「医師も、薬も、友人の励ましも、すべてを『諸天善神』としていける」のが、「信心」であることを教えられています。「仏法」と「医学」の関係性を理解しながら、「こころの病気」と向き合っていきたいと思います。 【「福徳長寿の智慧」に学ぶ】大白蓮華2024年9月号
June 27, 2025
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大日本沿海輿地全図 北九州市の地図の博物館「ゼンリンミュージアム」には、江戸時代に制作された伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図(中図)」の複製が、床面に原寸で展示されている。地図の大きさも圧巻だが、地形や地名などが記された図面は息をのむほどの緻密さだ▼学芸員の福島亮太氏が解説してくれた。忠孝は55歳から政策に挑み始め、足掛け7年で4万㌔も歩き、測量の旅を終えた。しかし、地図が出来上がる前に病気で没してしまう。すると、彼が育てた弟子たちが立ち上がった。皆で総力を挙げて地図を完成させ〝伊能忠敬による日本最初の実測地図〟として、幕府に献上した▼福島氏は言う。「弟子たちは心底、師の偉業を、師の名前を世に知らしめ、〝永遠の歴史〟として、とどめたかったのでしょう」▼地理学や測量技術をはじめ、近代日本の文化発展に多大な影響を与えた「伊能図」は、志を一つにした師と弟子の〝戦いの結晶〟であったことに感慨深いものがあった。▼御書に「善き弟子をもつときんば、師弟仏果にいたり」(新1121全900)と。人類の幸福と平和のために激闘を重ねた「創価の師」の志を継ぎ、われらは力強く前進したい。世界広布という「大ロマンの地図」の完成を目指して。 【名字の言】聖教新聞2024.9.1
June 27, 2025
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第27回=完 継 承 創価学会教学部編 「法華経の行者日蓮」と署名 日蓮大聖人が32歳で立証宣言されてから53歳で身延に入られるまでの21年間は、迫害に次ぐ佐渡流罪中、釈尊滅後の悪世に法華経弘通に励む人に起こる迫害を「山に山をかさ(重)ね、波に波をたた(畳)み、難に難を加え、非に非をま(増)すべし」(新72・全202)と記されており、これは御自身のことを踏まえての仰せであると拝されます。その佐渡では特に過酷な環境下での生活を強いられ、肉体的にも、精神的にも大きな負担があったと推察されます。続く9年間におよぶ身延での生活で、大聖人は、長年の労苦のために健康を害されたことにより、胃腸病を患われ、しばしば重篤な症状に陥られたのです。 病を押して渾身の激励60歳になられた弘安4年(1281年)春から、大聖人は次第に衰弱されます。この年の5月に池上兄弟に送られたお手紙(「八幡宮造営事」)では次のように仰せです。「この法門を弘通して始めて、すでに29年がたった。日々の問答、月々に受けた難、(伊豆と佐渡への)2度の流罪で、身も疲れ、心も痛んだ故でありましょうか、この7、8年の間、年ごとに衰え病気がちになっていても、大事には至りませんでしたが、今年の正月より体が衰弱してきて、すでに一生も終わるに違いない。その上、年齢もすでに60歳に満ちた。たとえ、十のうち一つ今年は無事、過ぎたとしても、あと1、2年をどうして過ごすことができましょうか」(新1506・全1105、通解)同年12月には、食事もほとんど取れない状態でした(新1926・全1583、参照)。老いや病に苦しまれている様子をありのままに伝える文に、一個の人間として苦痛や衰弱に直面しながらも、悠然と達観された大聖人の御境涯が拝されます。このように困難な中、大聖人は、翌・弘安5年(1282年)2月には、自ら筆を執り、当時、重病を患っていた南条時光に渾身の励ましを送られました。(「法華証明抄」)。「すでに仏にな(成)るべしと見え候えば、天魔・外道が病をつ(付)けておど(脅)さんと心み候か。命はかぎ(限)りあることなり。すこしもおどろ(驚)くことなかれ。また鬼神め(奴)らめ、この人をなや(悩)ますは、剣をさか(逆)さまにの(呑)むか、また大火をいだ(抱)くか、三世十方の仏の大怨敵となるか」(新1931・全1587)法華経の行者を守るという誓いを忘れ、時光を苦しめる鬼神〈注〉を、厳しく叱責されています。大聖人はこのお手紙に、「法華経の行者日蓮(花押)」と署名されています。このような署名を現在まで伝わる御書の中では本抄一遍しかありません。大聖人が「法華経の行者」として生き抜いてこられたことを示すと同時に、「法華経の行者」の弟子として、何ものをも恐れずに病魔と闘い、勝利するよう、後継の青年を励まされたとも拝されます。大聖人の厳しくも温かい激励を受けた時光は、以後、50年を生き抜くのです。 末法の闇を照らす太陽の仏法 池上宗仲邸で 弘安5年(1282年)、大聖人は、常陸国(現在の茨城県北部と福島県東南部)へ病気療養(湯治)に行くため、身延山をたたれます。9月8日のことと伝えられています。甲斐国(山梨県)の各地の門下宅に宿泊した後、駿河国(静岡県中央部)、相模国(神奈川県の大部分)を通り、18日の昼、武蔵国(東京都大田区池上とその周辺)にある池上宗仲の屋敷に入られたようです。翌日には、日興上人に代筆させ、地頭として身延の地を管理する波木井実長にお手紙(「波木井殿御報」)を送られています。そこには、険しい道のりを、同行した実長の息子たちのおかげでに池上に着けたという報告とともに、身延で大聖人を支えた実長の志への感謝がつづられています。さらに、「病身であることゆえ、もしものことがあるかもしれない」(新1817・全1376、通解)、「どこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております」(新1818・全1376、通解)と仰せです。迫害のため、たびたび、所を追われた大聖人を、身延の地に迎え入れた弟子に対して、心からの謝意を表されたものと拝されます。9月25日には、門下に対し、病を押して「立正安国論」を講義されたと伝えられています。最後まで立正安国の御精神を伝え遺そうとされたのです。10月8日には、日興上人を含む6人の「本弟子(高弟)」(六老僧)を定め、後事を託されました。そして、弘安5年(1282年)10月13日の辰の刻(午前8時頃)、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で御入滅されました。全ての人々に仏の境涯を開かせようという誓願と大慈悲を貫き、『法華経の行者』として生き抜かれた61歳の尊い御生涯でした。池田先生は、次のように講義しています。「御入滅は辰の刻、午前八時前後です。この時に桜が咲いたと伝えられる。小春日和の陽光のなかでの御入滅であられたがゆえの伝承でしょう。日蓮仏法は『太陽の仏法』です。日輪とともに御入滅を迎えられた。まさに、末法万年の闇を照らす御本仏にふさわしい御姿であられたと拝察する。それとともに、最期の最後まで『戦う心』を弟子に教えられた偉大なる師匠であられた。(中略)究極は、三世にわたって、法のため、民衆のために戦い続ける心を体現した生であり死である。その心にこそ、妙法蓮華経の永遠性が顕現しているのです」(『池田大作全集』第33巻) 日興上人 御入滅の翌10月14日に葬儀が営まれました。その後、御遺骨は21日に池上を立ち、5日に身延に戻られたとも伝わります。大聖人は、「本弟子」の6人が当番のときに大聖人の墓所に香華(仏前に供える香と花)を供えるように遺言されていました。このご遺言に基づいて、翌・弘安6年(1283年)正月、日興上人を中心に当番が定められましたが、この当番制度は守られなかったようです。日興上人は弘安7年(1284年)10月に、「身延の沢の大聖人の御墓が荒れ果てて、鹿の蹄に荒らされていることは、目も当てられないありさまです」(新2166※新規収録、通解)と記されています。さらに、「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(=大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われます」(新2167、通解)と、五老僧(六老僧のうち日興上人を除く五人)を非難されます。一方、日興上人は、これらの文が書かれた時期、(大聖人の三回忌に当たる)までには身延に定住し、墓所の管理に当たられたようです。弘安8年(1285年)頃、本弟子の一人である日向が身延にやってきます。喜んだ日興上人は、日向を学頭(寺の学事を統括する者)に任じられます。大聖人が期待をかけられた弟子を、大成させてあげたいという思いがあったと推察されます。ところが、日向は大聖人の御精神に背きます。日興上人は、折に触れて日向が説く法門の誤りを指摘されましたが、日向は聞きいれませんでした(新2170※新規収録、参照)。身延の地頭である波木井実長は、日向の影響を受け、釈迦像の造立、神社への参詣、念仏塔への供養、念仏道場の造立などを行い、大聖人の教えに違背しました(新2176・全1602、参照)。実長は、文永6年(1269年)頃に日興上人の教化により入信したとされ、長年、信心を貫いてきたはずです。その実長が、大聖人御入滅後、ほどなくして魔に付け込まれてしまったのです。日興上人は、実長に対しても厳しく諫められますが、実長は、「日向これを許す」(新2176・全1603)、「我は民部阿闍梨(=日向)を師匠にしたるなり」(新2171※新規収録)と言って憚りませんでした。 師匠の法門の流布が大切 日蓮仏法を受け継ぐ 大聖人は身延の地について、「地頭が法に背く時には、私も住まないであろう」(新2166※新収録、通解)と遺言されていました。日興上人は、正応元年(1288年)の暮れ、身延を離れることを決心されます。「この身延山を立ち退くことは、面目なく、残念さは言葉で言い表せませんが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切です」(新2171※新規収録、通解)このように、師匠が晩年を過ごし、墓所と定められた地を去らなければならない悔しさ、自らが教化してきた実長を改心させられなかった心情をつづられると同時に、大切なことは、大聖人の仏法を伝え弘めていくことである点を強調されています。日興上人は、南条時光に招かれ、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市内)に弘教の拠点を移されます。その後、隣接する重須郷(富士宮市北山)で弟子の訓育に当たられます。他の弟子たちが大聖人を天台宗の僧侶と位置づけ、自らも天台宗の僧侶を名乗ったのに対し、日興上人は、大聖人を、上行菩薩の働きを果たし、法華経本門の大法を弘通された「末法の教主」と位置づけ、大聖人が表された文字曼荼羅の御本尊を信仰の対象とする方向性を明確にされました。そして、本尊を書写し、多くの門下に授与していかれます。さらに、幕府や朝廷に対して「立正安国」の実行を働きかけるとともに、大聖人が著された著作や書簡を「御書」として大切にし、末法の聖典として拝していかれます。また、研鑽を奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を育成されました(「富士一跡門徒存知の事」「五人所破抄」を参照)。大聖人が確立された仏法を、そして不惜身命に貫かれた大聖人の広宣流布・立正安国の精神と行動を、日興上人がただ一人、正しく受け継がれたのです。 ◇ 創価学会が誓願を受け継ぐ大聖人の御入滅後、およそ650年の時を経て、1930年(昭和5年)11月18日、創価学会(当時は創価教育学会)が創立されました。創価学会は日興上人を範として、初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長・戸田城聖先生、第3代会長・池田大作先生という三代会長のもと、御書の仰せのままに、世界広宣流布を進め、今日までに世界192カ国・地域に日蓮大聖人の仏法を伝え弘めてきました。対立と分断が深まり、核兵器使用の危機や気候変動、自然海外、環境問題等の困難に直面する現代において、創価学会は、大聖人の誓願を継承し、すべての人に備わる偉大な生命を開き輝かせる人間革命運動を進めながら、幸福と平和の連帯を世界中に広げているのです。(終わり) 池田先生の指針から妙法こそ、究極の「生命尊厳」「万物共生」の音声であり、「こくどあんのん」「せかいへいわ」への根源の推進力であります。大聖人が、末法万年尽未来歳を展望してくださった『立正安国』の対話の大道を、創価三代の師弟は『師子王の心』で貫いていきました。そして今、一念三千の哲理を掲げ、元初の旭日の大生命力を発揮して、「大悪お(起)これば大善きた(来)る」(新2145・全1300)と人類の宿命転換に挑み抜く大連帯こそ、「世界青年学会」なのであります。不思議にも、開幕のこの時を選んで躍り出た宿縁ふ化器不二の若人たちが、必ずや、平和凱歌の希望の鐘を未来へ打ち鳴らしてくれることを、私は祈り、信じてやみません。(2023年11月2日付「聖教新聞」、第16回本部幹部会へのメッセージ) 〖関連御書〗「八幡宮造営事」、「上野殿母御前穂返事(大聖人の御病の事)」、「法華証明抄」、「波木井殿御報」、(以下、日興上人文書)「美作房御返事」、「原殿御返事」、「富士一跡門徒存知の事」、「五人所破抄」 〖参考〗「池田大作全集」第33巻(「御書の世界〔下〕第十九章)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻(『法華証明抄』講義) 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2024年9月号
June 26, 2025
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山崎豊子 今年で生誕100年を迎えた大阪生まれの直木賞作家・山崎豊子氏。才能が開花した陰には、新聞記者時代の上司だった作家・井上靖氏の存在がある▼井上氏は山崎氏に記者のイロハを教えた。筆の遅い山崎氏に、よく調査記事の執筆を依頼した。時間がかかるのは丁寧さ故と見抜いたからだろう。終戦後の紡績工場の実態を克明に描いたルポ「昭和女工哀史」からは、彼女の緻密さがうかがえる▼徹底した調査で「取材の鬼」と称された山崎氏は、作家に専念してからもその姿勢を貫いた。社会の実情や人間の本質を的確にとらえた作品群は、今なお人々を魅了する。彼女は後年、井上西に出会わなければ、作家にならなかっただろうと感謝した(「毎日新聞」7月19日付夕刊)(略) 【名字の言】2024.8.30
June 26, 2025
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現実社会で勝利しゆく肝要「天災は忘れた頃来る」とは物理学者で、随筆家の寺田寅彦の名言とされる。ただ、ここ数年は、〝忘れる〟ことがないくらい、自然災害が相次ぎ、今も非常に強い台風10号の発生によって心が休まらない日が続く▼「いざという時」の備えが必要なことは理解している。その時は、不意打ちでやってくることも頭では分かっている。だが、〝今すぐではないだろう〟と高をくぐりがちだ。来月1日は「防災の日」。改めて、さまざまな災害への油断を自戒し、自他の安穏への備え方を万全にしたい▼いざという時に本領を発揮する源は、むしろ〝いざ〟ではない常日頃の心がけや行動にあるともいえる。それは防災に限らず、広くは個々の生き方、仏道修行の姿勢にも通じていく▼御書には「さきざきよりも百千万億御用心あるべし」(新1590・全1169)と仰せである。また、池田先生は「『まことの時』との御聖訓は、『いつか』ではない。常に常に、また常に、『今』である。『今から』なのである」と、現実社会で勝利していく肝要を示している▼無事故の根本は「祈り」である。その上で、気象情報に留意しながら、自らの命を守る行動を最優先にしたい。共々に平和と安穏の未来を築いていこう。 【名字の言】聖教新聞2024.8.29
June 25, 2025
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占領下での過酷な運命を活写作歌 村上 政彦ヴァネッサ・チャン「わたしたちが起こした嵐」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日はヴァネッサ・チャンの『わたしたちが起こした嵐』です。かつて東南アジアにマラヤという国がありました。ざっくり言うと、のちにマレーシアとシンガポールに分かれた地域です。マラヤは長く植民地としてイギリスの支配を受けていました。当時は、西洋列強が帝国主義を掲げて、アジアやアフリカに植民地を得ようと競争していた。日本では、明治期になってから、福沢諭吉が「脱亜論」を解いて、日本は西洋文明を受け入れて、アジアから脱すべきだ、と述べました。そうしないと、西洋列強の植民地にされてしまう。脱亜論は現実政治からすれば、仕方のないことかもしれませんが、日本が中国や朝鮮から受けた恩恵を考えれば、かなり冷酷な考え方でした。一方で、西洋列強による植民地化から時刻を守るため、アジアの諸国が連携して、彼らを跳ね返そうとする運動もあって、アジア主義とよばれました。1941年12月8日、日本はマラヤに侵攻、やがてイギリス軍を駆逐します。国民たちは日本軍を歓迎しました。日本は西洋人の支配からマラヤの人びとを解放してくれる、同じアジアの同胞だと思われていたのです。本作では、1930年代と1940年代のマラヤが舞台として設定され主要な登場人物は、夫がイギリスの統治機関で働くセンリー・アルカンターラと、その3人の子どもである、長男エイベル、長女ジュジューブ、二女ジャスミン。1930年代、センリーはフジワラと名乗る日本人の男性と近しい関係になりまる。彼は商人を装っているが、実は日本軍のスパイです。センリーを巻き込んで諜報活動を繰り広げ、イギリス軍の弱点を突き止めた。そのおかげで、日本軍はマラヤを急襲し、占領下に置くことができた。ところが、日本軍の統治が始まって、町から少年たちの姿が消え始める。収容所に入れられて、「ロームシャ(労務者)」として働かされていたのです。そして、少女たちは、慰安婦として徴発される。イギリスの統治下にあった時より、過酷な支配でした——。まだ、イギリス領だったころ、フジワラがセシリーに語るマラヤの未来には、魅惑的な夢がありました。〝西洋人の軛からアジア人を解放して、アジア人によるアジアを創る。やがてはマラヤも独立国となって、自分たちの足で立てるようになる。これが我々日本から、君たちマラヤの人びとへの贈り物だよ〟アジア主義という〝態度〟には、大東亜共栄圏構想に発展する侵略の思想が内包されていた、という指摘があります。今、アジアを考える時、この辺りは、よくよく吟味されねばなりません。〖参考文献〗「わたしたちが起こした嵐」 品川亮訳 春秋社 【ぶら~り文学の旅56海外編】聖教新聞2024.8.28
June 24, 2025
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第27回 二元論を止揚する仏法のまなざし創価大学文学部教授 井上 大介さん 平和という人類共通の目標自己と他者の共生の絆を 熱戦が繰り広げられたパリ五輪が幕を閉じ、いよいよパリ・パラリンピックが始まります。世界各地のアスリートが一堂に会し、人間の限界に挑み抜く姿に感動を覚えずにはいられません。オリンピック憲章には人種や肌の色、性別などいかなる種類の差別も許容しないことが明記されています。このことはスポーツの分野に限らず、社会生活においても重要な概念であることは、言うまでもありません。しかし残念ながら、こうした差別は現代でも根絶はできていません。その主な理由として、物事を二つに分けて考える「二元論」という思想がヨーロッパにおいて広く共有され、世界に普及していったという事実が挙げられます。生と死をはじめ、秩序と無秩序、善と悪、上と下、正常と異常、優勢と劣勢、強者と弱者、男性と女性、大人と子ども、文化と野蛮、白色人種と有色人種、理生と感情、科学と宗教などの二元論的思想が広く共有されています。そこでは、一方が優れていて他方が劣っている、という誤った区分が長年、普遍的事実であるかのように共有されてきました。ここで記した各概念は全社がポジティブなものとであり、後者がネガティブなものといった意味を付与されているとともに、前者が後者を教え導くことを前提とした支配的立場であり、後者が支配される立場となっているのです。 主体と客体の区分歴史的には古代イランを発症とし、光と闇という概念に依処したアフラ・マズダ(善神)とアンラ・マンユ(悪神)の存在によって成立する世界最古の一神教とされるゾロアスター教(拝火教)の競技が、二元論の源流であるとされています。その後、古代ギリシャの哲学者アリストテレスに大きな影響を受けながら、その思想をキリスト教神学において展開したアウグスティヌスによる肉体と魂の区分(『三位一体論』)、アリストテレスの霊魂論の批判的見解に基づき展開されたデカルトによる心身二元論(『省察』)などをベースに形成され、15世紀後半からの植民地主義の拡大によって、西洋から世界に波及していきました。それは「人間は自然とは切り離された存在」であり、「人間が自然よりすぐれた存在」であるとの視点によって成立する。主体と客体の区分に基づいているのです。 優劣に基づく印象創価大学の創立者である池田先生の思想は、このような二項対立において、支配されて北側の存在に光を当ててきました。歴史的に射手されてきた女性や若者、欧米によって植民地化された歴史があるアフリカなどの地域が、新たな時代の主体者となる運動を展開してきたのです。しかしながら現代社会では、残念なことにこうした二元論的価値観における優劣関係が、さまざまな次元において見受けられます。例えば「北半球と南半球」という区分で言えば、北半球にある欧米への旅行は、旅行ガイドブックなどで、〝現代の最先端の文化都市への観光〟として紹介されています。一方で、南半球にあるアフリカや中南米への旅行は、〝大自然や古代文明に触れる観光〟との紹介になっているのです。この「北半球と南半球」という区分には、それぞれ現在と過去、文化と自然、文明国と非文明国というような、優劣に基づくイメージが付与されています。こうした二元論に基づく差別に異議を唱え、調査と研究によって人間そのものを正しく理解しようとする試みが、私の専門とする文化人類学という学問です。20世紀初頭のアメリカには、ヨーロッパからの移民が集まるとともに、多様な先住民も存在していました。そのような環境のなかで研究を進めた文化人類学者フランツ・ポアズは、〝欧米の文化だけが優れている〟といった考えを批判し、〝あらゆる地域のあらゆる文化は欧米の文化と同様の価値を持つ〟との視点を重視しました。ポアズや弟子たちによって普及した、このような思想は「文化相対主義」と呼ばれ、文化人類学研究の規範として共有され、日本を含めた東洋の研究にも展開されていきました。しかし東洋研究自体が、二元論の価値に基づく西洋の研究者による産物であり、そこに西洋中心主義の発想が基盤として存在することを指摘したのが、文献学者エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』という書籍でした。東洋を中立的・客観的に論じようとしている学術的な書物でも、実態は〝西洋が文明で東洋が野蛮〟であるかのような視点に立っていたことを明らかにしたのです。これは東洋の研究に限ったことではありません。「文化相対主義」の視点から、世界各国の文化を中立的・客観的に研究しようとしても、そこには研究者自身の先入観が存在し、そのような影響からは逃れられない、という事実を示しているのです。例えば、私がメキシコ文化を研究する場合、「欧米と親密な関係にある日本」「世界史や世界文学という名称ですら、そこでの事柄の大半が欧米の情報に基づいていることが常識となっている日本』という国で生まれ育った人間としてのものの見え方が、何らかの形でメキシコ文化の研究に投影されてしまうのです。 言語隠蔽効果実際、物の見え方は、国籍のみならず、年齢、差別、学歴、また学問領域などによっても変化します。例えば、言語情報が、よりものを見えなくするという「言語隠蔽効果」といった概念があります。通常、私たちは虹が7色だと認識しています。しかし本来、虹は多様な色のグラデーションであるはずなのです。虹の色が7色に見える背景には、事前に学習によって、赤、オレンジ、黄色など7色の言語的色彩が頭にインプットされているため、グラデーションを7色だと認識してしまう、といった事実があります。また国や地域によっては、虹は6色や5色だと認識しているところもあるのです。この「言語隠蔽効果」は、目の前の事象をありのままに捉えることが、いかに困難であるかを示唆しています。このような事例は、私たちの日常生活においても存在します。国際情勢についても客観的なニュースが放送されているようで、日本においては、アメリカ寄りのニュース、より具体的には、「欧米とその他」などといった二項対立を基に、主に欧米側の視点によって発信される情報が共有されているのです。国際情勢も含めた様々な分野で文壇や対立が語られる現代においては、「自分が善で相手が悪」「自分が優れた側で相手が劣った側」といった二元論の価値観にとらわれることによって、亀裂がさらに深まっているのではないでしょうか。 互いに生命尊厳を認めるその心こそ幸福築く足場 生死観の確立を日蓮仏法には、こうした二元論を止揚し、生命そのものを捉えるまなざしが存在します。いくつかの代表的な御書を通して、その法理に触れたいと思います。「自他の隔意を立てて、彼は上慢の四衆、われは不軽と云い、不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは、無明なり。ここに立って礼拝の行を成す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」(新1070・全768)「自分が善で相手が悪」という二元論にとどまっている限りは、生命の根本の迷いである無明から逃れられないと仰せです。「善悪不二・邪正一如」すまわち、自他ともに善の心も悪の心も存在するからこそ、どんな人でも信仰によって悟りの生命である法性を顕現することができると説かれているのです。「色心不二なるを一極と云うなり」(新984・全708)ここでは、色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると仰せです。「夫れ、十方は依報なり。衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし」(新1550・全1140)真諦がなければ影が現れないように、正報がなければ依報はないと説かれ、主体と客体の不可分な関係を指摘しています。「いきておわしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(新1832・全1504)ここでは、生と死が一つのものであり、そのどちらにも生命の最高の状態である仏の境涯が存在することを解かれています。この生死不二の哲学については、池田先生が1993年の米ハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講義されています。ここでは、現代社会が生を善、死を悪として規定する中で、人びとが死を忌むべきものとして扱い、目をつぶる文化が共有されたことで、20世紀が大量殺りくの世紀となったのではないかと、警鐘を鳴らされています。そして「死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。その全体とは『生命』であり、生き方としての『文化』であります。ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくると私は思います」と述べ、「生も遊楽」「死も遊楽」「生も歓喜」「死も歓喜」という法華経における生命観を提示しています。実際、池田先生はこうした仏法の人間観・生命観から、国や人種、宗教などの際に優劣をもって臨むのではなく、平和と幸福を願う人間対人間という共通の足場に立った連帯を広げてきました。相手が国家元首であっても、市井の庶民であっても、根本に相手の生命を尊敬する心を持って対話し、悩みを抱える一人一人に励ましを送り続けてきたのです。 共に励まし送る学会の座談会は信頼結ぶ世界市民の連帯 差異を超えて私自身、先生の励ましに支えられ、平和実現のための人生を決意した一人です。20代のころ、留学先のメキシコで博士論文に行き詰まり、〝諦めよう〟と悩んでいました。そんなとき、温かな伝言を贈ってくださったのが池田先生でした。その先生の励ましがあったからこそ、博士論文を書き上げることができ、今、創価大学の教員として働くことができています。「自他共の幸福」という仏法の哲学を胸に、学会の同志もまた、世界中の諸地域でありのままの語らいを重ねています。座談会では、年齢や性別、社会的立場などを超えて、さまざまな状況の人が集まっています。同志は皆、自らの課題に挑戦しつつ、家族、友人たちの仕事や病気など、生活における悩みに対し、自らの課題であるかの如く同苦し、目標達成に向けて努力する共には、心からの励ましを送っています。それは、生命尊厳に根差した利他主義に基づく、自己と他者という二元論を超克する態度であり、その姿勢が人間と人間の絆を広げゆく振る舞いとして、世界のさまざまな地域において個人の幸福と社会の発展、世界の平和という人類共通の目標に向かって共有されているのです。池田先生は創価大学の卒業式へのメッセージ(2014年3月20日)で、つづられています。「あらゆる差異を超えて、一人の人間として、互いに生命の尊厳を認め、ここに、いかなる時代の荒波も揺るがない世界市民の連帯があるといいてよいのでありましょう」まさに目の前の一人の希望に希望を送る創価の世界市民の対話運動は、今や地球全体に広がっており、共生の社会建設を推進していくことを多くの識者が評価しています。先生とも対話集を編んだ世界的な文化人類学者であるハーバード大学名誉教授であるヌール・ヤーマン博士は「創価学会の思想は今、世界どのの地でも受け入れられています。地域社会に根差し、互いを励まして進む学会の運動は、まさに『個人』と『社会』が最も必要とする支援です」(本紙20年2月1日付)と、期待を寄せているのです。私自身、学術部員として、仏法を根底にした前代未聞の民衆運動が持つ可能性をさらに探求していきたいと思います。 いのうえ・だいすけ 1971年生まれ。メキシコ国立自治大学大学院博士課程修了。人類学博士。専門は文化人類学。民俗学、社会学。メキシコ・メトロポリタン自治大学客員研究員、アメリカ・コロンビア大学客員研究員などを経て現職。日本宗教学評議員。創価学会学術部副書記長。副本部長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2024.8.28
June 24, 2025
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牧口先生「大善生活法の実践」(1941年12月)㊦ 現在が栄えてこそ先人の偉大さは輝く自他共の幸福をめざす民衆の連帯を 牧口先生は、人間としての生き方について、「小善生活」「中善生活」「大善生活」の三つに分類していた。「小善生活」は自分のことだけを考える生き方で、「中善生活」はそうした個人主義から脱して、国家のような大きい存在のために自分を無にすることをめざす生き方である。この「中善生活」は、一見、高尚な生き方のようにも見えるが、軍国主義が広がる中、牧口先生が特に危険性を指摘していたものだった。その内実は大義の名のもとに大勢の人々を犠牲にする考え方であり、「偽善」や「独善」に陥っているだけではなく、社会を蝕む「大悪」に等しいと厳しく批判したのである。これに対して、「大善生活」は、自分を無にして犠牲になるものでもなく、他の人びとに犠牲を強いる道も選ばない。時代の混迷がどれだけ深まろうとも、その混迷に染められることなく、自らの幸福と人々の幸福のために、自身に備わる生命力を開花させながら、より良い社会を築く挑戦をしていく生き方である。それはまさに牧口先生が「大善生活法の実践」と題する文章で記していた。「泥中の蓮」という、法華経の「如蓮華在水」の法理を示す言葉が象徴している通りの生き方なのだ。 戦時下の社会で、〝自他共の幸福〟を求める生き方を広げるために牧口先生がどれほど心血を注いだのか——。その自身の必死の想いと重なり合うものとして、牧口先生が「大善生活法の実践」で言及していたのが〝昼間のカンテラ〟の逸話であった。そこでは照学者のソクラテスに由来する孤児として紹介されているが、現存する最古の史料である『ギリシア哲学者列伝』では、ソクラテスの孫弟子に当たるディオゲネスのエピソードとして伝承されている話だ。ディオゲネスは白昼にもかかわらず、カンテラ(ランプ)に火を灯し、〝私は人間(本当の人間)を探しているのだと〟言って、あちこちを歩き回った。実のところ、その行為は、ソクラテスの精神を彷彿とさせるものだった。ただ生きるのではなく、良く生きることが大切であると訴えたソクラテスの精神は、白昼にあえてランプを灯すことで、人びとの魂を〝かりそめの昼間〟の状態から目覚めさせようとするような振る舞いとも、気脈を通じていたからである。いずれにしても、牧口先生がこの逸話を知った時、〝まさに自分も同じ思いで同志を探してきた〟と強く共感したのではないだろうか。牧口先生は、学会の同志が苦難を乗り越えた実証を語る姿に対し、「斯る体験談の発表は、まったく命がけの結果であり、ダイヤモンドの様なものであり、砂の中から僅少なる金粒を集めたようなものであります」と、賞賛してやまなかったのだ。 信仰を通してつかみ取った体験を語ることで、さまざまな苦しみを抱える人々に希望を灯し、〝自他共の幸福〟をめざす民衆の連帯を広げていく——。1930年11月18日の創立以来、初代会長の牧口先生が必至の想いで築いてきた創価学会の尊き実践の伝統は、戦後、戸田先生の下でさらに力強く進められ、その後、池田先生の奮闘によって世界192カ国・地域にまで大きく広がった。池田先生は、1987年11月18日に行われた創立57周年記念勤行会で、牧口先生の闘争を振り返りながら、こう訴えたことがある。「今日、このような未曽有の大発展のなか、晴れやかに創立記念日を祝せるのも、その根幹は全て、嵐の中を、牧口先生が厳として立ち上がられたからである。戸田先生が、炎のごとく、〝獅子の心〟を燃やして、立ち上がられたからである。『師弟』の精神で、第三代の私も立ち上がった」『牧口先生はかつて、栄えていればこそ、先人が偉大になるのであり、今が栄えなければ、先人の偉大さも光彩がなくなるのである』と。まさに至言である。私も牧口先生、戸田先生の偉大さを証明するために、その構想を何としても実現しようとの一念で走り、戦ってきた。第三代の私が学会を栄えさせなければ、先人への報恩はできない。師の偉大さを宣揚できない。ゆえに、この約三十年間、休みなく働いた。すべての道を拓きに拓いてきたつもりである」池田先生は、この時、牧口先生が学会を創立した時の年齢と同じ59歳だった。それ以降も、36年間にわたって全世界の同志を励まし続けながら、大聖人の仏法の「如蓮華在水」の精神を体した民衆運動の大輪を地球上に開花させてきたのである。創立100周年の2030年を目指して前進する今、三代の会長がどれだけの思いで学会の万代の土台を築いてきたのかを改めて学びながら、一人一人の勝利の姿をもって社会に実証を示す挑戦をしていきたい。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第8回—聖教新聞2024.8.27
June 23, 2025
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牧口先生「大善生活法の実践」(1941年12月)㊤(日々の生活の中で何を重視し生きているのかという)生活法は、生活において生活する姿によってのみ実証できるが、(我々が呼びかける)大善生活も、それを意識する中で大善生活を為すことがなければ到底実証できないという面で、(その原理の)意味は同じである。◇「論より証拠」という日本古来の言葉は、我々の生活に対する研究法の方向を明示しているにもかかわらず、かえって邪魔をし、それを誤った道に導いているのが、今の智者や楽章と呼ばれる人々である。(中略)その結果、生活と学問、生活と宗教とが、関係のない別々のものであると誤解され、その考え方が正解であるかのようになってしまった。われわれはこれを元に戻すために骨を折っているが、なにぶんにも多勢に無勢、世間の名だたる学者たちに対し、我々の微力ではどうすることもできず、創価教育学に関する著作を出したものの、馬耳東風の状態であった。やむを得ず、(創価教育学会の)同志の皆さんによる実験証明の力を持つよりほかにないと考え、著作の発行ではなく、この実験証明(を積み上げること)に活動の重点を移したのである。◇それは当初、砂の中から金を探すようなものだった、昼間にカンテラを点けながら、〝私は人間を探して歩いているのだ〟と言った(哲学者の)ソクラテスが、その姿を笑われながらも、人びとに自分の信じるところを訴えた姿と同じだったといえよう。すなわち、皆さんは真に「砂中の金」であり、金は金でも、初めからの金ではなかった。(自分は)光ってはおらず、泥にまみれた意思のような存在であると、他人も自分もそう思っていたのである。しかしそれが、ひとたび真価が見いだされてみると、立派な金として光る存在になっていると、他人も本人も共にそう思うようになる。(法華経で譬えが説かれている){泥中の蓮}とはこのことにほかならず、(その教えが)「妙法蓮華経」と名付けられた理由がここになる。(『牧口常三郎全集』第10巻、趣意) 学会の創立に込められた時代変革の志冷遇にも消沈せず実験証明を推進 牧口先生と交友があり、近代日本を代表する国際人として知られる新渡戸稲造博士が述べた含蓄深い言葉がある。「とかく運動とか事業とかいえば、これを動かす力が個人にあるを忘れて、自然にあるいは機械的に行われているごとく思いなすのが、世間普通の誤りである」「何事によらず大組織大事業の背後に生きた個人のあることは、具眼者の必ず認めるところである」この言葉は、第1次世界大戦後の1920年1月に、史上初の国際平和機構として誕生した国際連盟で、初代事務総長を務めたエリック・ドラモンド卿をたたえて述べたものだった。加盟国の代表が初めて一堂に会する歴史的な第1回総会が、本部のあるジュネーブで開幕したのは同年の11月15日——。ドラモンド卿はどの国にも組みしない公平さを持って職務に臨み、938年に退任するまで困難な舵取りを担い続けた。その後、国際連盟は第2次世界大戦の勃発で機能停止に追い込まれたが、事務局を各国の利益ではなく連盟に奉仕する存在にしようとした彼の努力は、1945年に創設された現在の国連(国際連合)の憲章で、事務局が遵守すべき精神として受け継がれていったのである。新渡戸稲造博士自身も、ドラモンド卿を補佐する国際連盟の事務次長として、労苦を重ねた一人にほかならなかった。前人未到の難業に取り組む時の労苦を知っていたからこそ、新渡戸博士は、牧口先生が教育史を画する新たな挑戦を始めた時に、次のような万感こもる言葉を贈ったのかもしれない。教育者でもあった新渡戸博士は、牧口先生が『創価教育学体系』第1巻を1930年11月18日に発刊した時、その「序」に寄せるかたちで最大級の賛辞を贈ることを惜しまなかったのだ。「君の創価教育学は、余の久しく期待したる我日本人が生んだ日本人の教育学説であり、而も現代人が其の誕生を久しく待望せしむ名著であると信ずる」「此処に創価教育学の意義ある門出を祝し、一文を具してこれを推奨するものである」と。 『創価教育学体系』は、それまで横行していた西欧の教育学を焼き直したものではなく、教育現場の実情から遊離した観念的な教育学でもなかった。教育現場における長年の奮闘と思索の末に編み出された労作であり、新渡戸博士をまじめ一部の識者から高い評価を得た。だが、教育界や学者からの反応の大半は、牧口先生が「馬耳東風」と表現せざるを得ないほどの冷たいものだった。以前からの権威や権力の風になびかず、〝子どもたちの幸福〟を第一に教育に取り組んできた牧口先生は、政治家などからの圧力でたびたび左遷されていた、そして『創価教育学体系』第2巻を発刊した翌年(31年4月)には、廃校が決まっていた小学校への転任という事実上の退職勧告を受け、廃校と同時に教職から離れることを強いられたのだ。理不尽の仕打ちを受けても、牧口先生が失意の底に沈むことはなかった。1928年に巡り合った日蓮大聖人の仏法への信仰の炎が赫々と燃えていただけでなく、不二の弟子である戸田先生の存在があったからである。どれだけ利を尽くして、〝子どもたちの幸福〟を第一とする教育の重要性を訴えても、見向きもされないのであれば、「論より証拠」とあるように、実証を一つ一つ重ねて、理解を広げる以外にない——。そう考えた牧口先生は、全5巻で総論が完結する構想だった『創価教育学体系』の発刊を、第4巻でとりやめた。第5巻の原稿は出来上がっていたものの、牧口先生が抱いていた志も、〝子どもたちの幸福〟だけでなく、〝すべての人々の幸福〟のための道を開くという熱願へと昇華されていった。そこで、創価学会の前身である創価教育学会の臨時総会(40年10月)が行われたのを機に、活動の眼目に置かれたのが「生活革新の実証」である。大聖人の仏法に基づいて生活を革新し、苦悩を乗り越えて、みなが幸福になることをめざすもので、後に戸田先生と池田先生が進めた「人間革命」の運動につながるものでもあった。「大善生活法の実践」と題する牧口先生の文章が機関誌の「価値創造」に掲載されたのは、1941年12月5日。日本が太平洋戦争に突入する3日前のことである。新たな戦争の暗雲が迫るなか、牧口先生は〝自他共の幸福〟のために生き抜く「大善生活法」の実践を呼びかけたのだ。(㊦に続く) 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第7回—聖教新聞2024.8.26
June 23, 2025
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佐渡島の金山世界遺産に登録の意義は元ユネスコ事務局長 松浦晃一郎氏に聞くまつうら・こういち 1937年生まれ。東京大学法学部を経て外務省入省後、香港総領事、駐フランス大使などを得歴任。99年11月から2009年11月まで、アジア人初のユネスコ事務局長を務める。著書に『世界遺産=ユネスコ事務局長は訴える』など。 17世紀、世界有数の生産量佐渡島の金山は17世紀に。世界有数の質と量の金が生産された日本最大の鉱山遺跡で、「西三川砂金山」と「相川鶴子金銀山」から構成される。江戸幕府の管理下の下、19世紀半ばまで作業による鉱山採掘や小判製造などが行われた。鎖国下で国外からの技術や知識が制約された中、日本各地から専門技術者を集めて技術を結集した。鉱床が山に対して横向きに分布する西三川砂金山では、砂金を含む山を人力で掘り崩した後、堤にためた水を、一気に流して土砂を洗い流す「大流し」の手法で砂金を採取した。これに対して交渉が広がる相川鶴子金銀山では、排水や歓喜などの課題が解決する掘削・測量技術が発達。人びとが競い合って山を削った跡がV字型で残る。「道遊の割戸」は象徴的な光景だ。幕府の財政支え国外にも影響文化庁によると、佐渡島の金山の生産量は17世紀前半に世界の1割を占め、最高純度は機械や化学薬品を用いた西洋のものよりも高い99・54%。「伝統的な手工業による金生産システムの最高到達点」と称される。佐渡島の金山で生産された金は、江戸幕府の財政基盤となり、さらに世界経済にまで影響を与えていたという。世界文化遺産の登録に向けては、2010年に国内推薦候補の「暫定リスト」入り。21年末に国の文化審議会が推薦候補に選んだものの、戦時中に朝鮮半島出身者が過酷な環境で働いていたことから、韓国政府が撤回を求めていた。 ****************************伝統的な手工業が評価——佐渡島の金山が世界文化遺産に登録された意義は。松浦晃一郎・元ユネスコ事務局長 世界遺産に登録されるためには「顕著な普遍的価値」、つまりは「誰が見ても人類共通の財として納得できる世界的な価値」があると認められなければならない。佐渡島の金山は、世界各地で鉱山の採掘が機械化されていく中で、日本の伝統的な手工業による生産技術を極限まで高めた評価された。江戸時代の12世紀前半には世界の金の約1割を生産したとも言われ、人類の歴史の中で非常に大規模な金山と位置付けられる。さらに、ヴェネツィアの承認マルコ・ポーロの著書『東方見聞録』に記した「黄金の国ジパング」というイメージにも合っているので、国際的に注目されているのではないか。 地域住民主導で登録の気運高める素晴らしいと思ったのは、佐渡島の金山の価値を認識した住民の雄姿が「世界遺産にする会」を立ち上げ、地元主導で佐渡氏や新潟花園、政府を巻き込みながら登録への機運を高めていったことだ。私もユネスコ事務局長を退任したのちに現地を視察したが、地域で盛り上げていこうという熱意を強く感じた。次のステップとしては、遺産を保全するとともに国内外への広報宣伝活動を通じて、佐渡島金山の価値をより多くの人に知ってもらう努力が必要になるだろう。 ***************************日韓政府の合意に安堵——当初反発していた韓国とは、朝鮮半島出身者を含めた鉱山労働者の過酷な環境を説明する展示を設けることで合意した。松浦 世界文化遺産としての対象期間は江戸時代までだが、金山で美作業はその後も続けられており、とくに第2次世界大戦中は朝鮮半島出身者が厳しい環境で働いていた歴史的な事実がある。ユネスコの諮問機関「国際記念物移籍会議」(イコモス)からは、性愛遺産としての価値が認められる機関以外も含めた「古ヒストリー」で金残の歴史の展示や説明をするように勧告されていた。私も、世界さん登録にあたっては客観的は資料に基づいた説明が必要と表明してきたので、日韓の交渉が合意に至ったことに安堵している。韓国の賛同を得られたおかげで、慣例である全会一致での登録決定が実現し、完全な形で世界的な価値が認められたと言える。 古ヒストリーで金山の歴史伝えよ一方、今後の取り組みには注意が必要だ、2015年に世界文化遺産に登録された「軍艦島」の通称で知られる長崎市の端島炭鉱を含む「明治日本の産業革命遺産」では、古ヒストリーでの展示をすると約束したにもかかわらず、21世紀にユネスコの世界遺産委員会から対応が「不十分」との決議を採択されてしまった。同様の事態は避けたい。佐渡島の金山は軍艦島に比べてデータがかなり残っているようなので、日本にとってマイナスととられかねない内容も含めて客観的な説明・展示を示していくことが大切になる。 **************************文化と平和 密接に関係——世界遺産が果たしている役割は。松浦 ユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」との有名な一説に続いて、「相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった」と記されている。世界遺産には、多元的な文化の相互理解を推進することで、国家間対立の緩和や戦争の防止につなげる狙いがある。過去には、偶像崇拝を認めないイスラム主義組織が世界文化遺産であるアフガニスタンの巨大石仏を爆破した悲劇もあった。文化と平和は密接に関係している。 登録を契機に相手の意見理解する努力を今回の例で言えば、佐渡島の金山は日本にとっては世界に誇る黄金の国ジパングの象徴であるぽぎてぃぶないさんだが、韓国にとっては過酷な環境での労働を強いられた負の遺産となる。登録を契機として改めて金山の歴史と価値を学ぶとともに、自分たちの言い分を主張するだけでなく、相手側に権を理解する努力が進めばと思っている。 【土曜特集】公明新聞2024.8.24
June 22, 2025
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喜界アカホヤ噴火金沢大学客員教授 内山 純蔵 縄文社会を直撃した大災害持続的な社会を築く学び 近年、巨大災害が世界的に関心を集めている。何千年に一度あるかどうかの大災害も、ひとたび起こればその被害は想像を絶する。その一つが、7300年前に九州南方の海で発生した喜界アカホヤ噴火である。最近の研究によれば、ここ3万年間で世界最大の「破局噴火」だった。周囲数十㌔は火砕流で破壊され、東北地方から朝鮮半島南部まで火山灰が覆った。大噴火は、縄文文化を直撃した。九州南部では、1万4千年前から土器技術があらわれ、万年あまり前の遺跡からは、数十軒の竪穴住居を持つ大規模な環状集落、8千年余り前には広場中心に壺型土器を埋め、その空間を取り巻くように大量の遺物が出土する遺跡が現れる。豊かな森の恵みを支えに、定住生活を営み高度な技術に彩られた文化が、本州に先駆けて花開いていたのだ。この先進的な縄文社会は噴火によって壊滅したと信じられてきた。しかし、その後の調査や、高精度の年代測定によって、このようなセンセーショナルな見方は再考が迫られている。実際は、大規模集落の時代は喜界アカホヤ噴火の1千年前には終わり、噴火の時点では、小さな集落が点在する時代に移っていたようだ。また、火山灰層の上下で共通する土器型式が確認され、噴火を生き残り、伝統を受け継いだ人びとがいたことも判明した。喜界アカホヤ噴火に遭遇した時、人びとはどう生き延び、災害後の新しい環境にどう適応したのか。噴火の影響はどれくらい続いたのか。まだまだ未解明のままだ。そんな謎に挑もうと、最近、筆者も含めた日本とスウェーデンの研究者たちが、国際チーム「CALDERA」を立ち上げた。考古学・環境考古学・公庫科学の生前線が国境を越えて合同したのである。研究チームはまず、噴火発生地に近く、200カ所以上もの縄文遺跡がある種子島に焦点を当てた。石器の種類や動物骨の分析、石器に残るデンプン粒の分析、土器脂質分析(調理の際に土器に染み込んで保存された脂質から食材を突き止める最新の分析方法)などのさまざまな手法を統合して、破局噴火の影響を明らかにした。その結果、噴火前の種子島には多くの人々が暮らし、森で木の実を集め、動物を狩る生活を送っていたものの、噴火の際に火砕流に襲われて、約200年間無人島と化したことが判明した。その後島に戻った人々は、森に乏しい草原の環境で根茎類や草の実を集め、海岸の入り江で魚介類を取る生活を作り上げたようだ。この新たな文化が噴火後2千年も続いた事実は、大災害の予想を上回る影響の大きさを示すもので、研究者たちを驚かせた。 ベン・カーレン賞日本で初の受賞研究成果は、英考古学雑誌『アンティクィティ』に掲載され、今年6月、全世界の考古学への抜きん出た貢献に対して贈られるベン・カーレン賞を授与された。日本人として初めての受賞である。今回の研究は、国際協力が大きな成果を挙げることを示すとともに、人類が災害と向き合い、持続可能性の高い社会を築いていく上で、過去の事例に学ぶ、新たな一歩になったと考えている。(うちやま・じゅんぞう) 【文化】公明新聞2024.8.23
June 22, 2025
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権力を直視すること 権力の乱用を警戒しないというのは怠慢である。本書においては〝思考(idea)〟〝慣例(institution)〟〝権力(power)〟という三つを基準に議論を進めることで、現在のさまざまな状況を理解していきたいと思う。〝権力〟は他のふたつとは違って単独では存在しえないが、これは〝思考〟や〝慣例〟に備わる力や可能性を表現するものだ。しかし私が敢えて権力を検証するのは、そのふるまいゆえである。権力はいまそこにあったかと思えば、突然に消滅し(東ヨーロッパ諸国に対しソ連政府がどれほどの権力をふるっていたかを考えてみてほしい。ある瞬間、それは確固たる様相を呈していたのに、ベルリンの壁の崩壊後、すっかり消えてなくなってしまった)、また堕落することもある。そして最後に挙げた堕落という特性こそが、〝罠〟の構築に重要な役割を果たすのだ。〝権力〟という概念なしに、なぜ物事が改善されたり、悪化したりするのかを理解することはできない。大半の人は権力について語りたがらないものだが、このことを研究する等の政治学者さえも、この課題を不快に感じるらしい。社会学者は権力を研究対象として扱おうとはしないし、経済学者たちも権力などという要素ははなから無視して、そのモデルにとり入れようともしない。これほどまでに人々に蔑まれているのは、権力が計測不能な、厄介で気まぐれな現象だからなのだろう。もし計測できないのなら、「科学」と称して知的領域内に位置付けることはできない。計測不能という計測にどうにか対処しようと、社会学者たちは、権力の「影響力」について議論し、執筆することにし、この「影響力」を権力とよんだ。彼らがこうしたのは、影響力ならば計測できるからだ。もちろん影響力にまつわるものだが、権力と同一ではない。研究者たちが権力のあつかいに不安を覚えるもう一つの理由は、権力という観点に立って物事を見ようとすれば、既存の政府に対して懐疑的、否定的にならざるを得なくなるからである。人間活動における権力という画面に目を向ければ、往々にして、そこに潜む腐敗した実態が見えてしまうのである。つまり〝権力〟を直視するということは、賞賛に値する行為である。ところが、これから述べるアメリカやヨーロッパで展開する事態の中では、このことがまったく無視されてきたのだった。これまでの欧米諸国の政治経済活動のなかで続けられてきた〝慣例〟は、すっかり腐敗してしまった。それはもはや民主的な支配が利かないほどの、そしてこれまでなら当たり前とされてきた文明の存続が危ぶまれるほどの腐敗ぶりである。これまで良好に機能していたはずなのになぜこんなことになったのか、という肝心な点であるわけだが、それは政治機能が高く、権力の腐敗を許すまいと立ち上がれたはずの人々が、無関心や無気力、あるいは単なる怠慢を理由に、それをしなかったからだ。アメリカやヨーロッパは生活の質の点でも、将来への見通しにおいても、黒人の希望や気体を持つ大きく裏切るようなレベルへと転落してしまった。これらの諸国は第二次世界大戦以来もっとも深刻な危機に見舞われている。財政緊縮熱という災禍が広まったために、景気は委縮し、失業者の数は大幅に増えた。学校を出ても若者が就職できる見込みは少なくなり、その両親の仕事として安定しているとは言いがたい。アメリカでは中産階級からごくひと握りの大富豪へと、富がいまだかつてないほど大幅に移動した。これほど状況が悪化したのは。それを解決するための権力を手に入れた人々が、事態に対処しようともせず。失政を重ねたからに他ならない。要するに、本来、権力を握るべきでない人々の手に、確固たる権力が渡ってしまったということだ。日本は大西洋の両岸に起きたような事態にまだ見舞われていない。しかしそのエリートが、苦境に陥った欧米諸国の余波を警戒しようともせず、いまだに失われた過去の世界に生きていることを考えれば、やはり危険な状態にあると言える。一〇年ほど前、日本がかかわり続けた国アメリカはもはや存在しない。言い換えるならば、それほどまでにアメリカという国家は急激な変貌を遂げ、かつてのアメリカではなくなってしまった、ということだ。 【日本を追い込む5つの罠】カレル・ヴァン・ウォルフレン/角川oneテーマ21
June 21, 2025
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産学共同研究が生む課題山田 剛志 特許権者になれない発明者研究者の権利保護と公益性を 経産相に求められた裁定新聞報道によると、iPS細胞(人工多機能性幹細胞)由来の網膜細胞を世界で初めて患者に移植した理化学研究所のもとプロジェクトリーダー高橋政代氏がバイオベンチャー企業に対し、特許技術を使用するため経済産業相に裁定を求めた件では、本年5月30日、高橋氏側に特許使用を認めることで和解が成立した。高橋氏はiPS細胞由来の網膜細胞を量産する技術の発明者であるが特許権者ではないため、「自分が発明した技術を使わせてほしい」という不思議な請求があった。そうした点からも、本件は共同研究の本質的問題を含んでいると言えるものだ。和解により、高橋氏らは自由診療において患者本人のiPS細胞由来の網膜細胞を作ることや使用することが30例まで無償で可能になった。一方、特許権を持つベンチャー企業は保険適用による患者の治療をめざすという。最低請求自体は特許法に基づく制度だが、これまで最低が出された前例はなかったことから、本件は注目されていたが、最低は取り下げられ和解に至っている。 技術の実用化に影響も本件の背景には、大学に属する研究者が特許出題可能な発明をした場合、大学の職務発明規定が適用され、その発明等に係る権利は大学に帰属し、さらに企業と研究者の共同特許契約は通常、大学と企業間の契約になるため、発明者である研究者は特許権者になれないという根本的な問題点がある。また、大学等の専門部署(技術移転機関TLO)には、専門知識を有する職員が不足しており、契約はマニュアル通りに締結されることが多い。また、別ケースでは共同出願契約なしで独占ライセンスが企業に付与されるなど、発明者や大学側の特許の管理や実施に対する影響を失い、企業が有利な立場を得ることになる。その結果、ライセンスを独占した企業が特許に関する優先交渉権を持つことで、治験が遅れるなどの事態が発生し、研究成果の実用化の遅延につながるケースもある。また、TLOの判断だけで共同特許契約が締結される場合、契約条項に発明者の意志が反映されず、契約上の問題が発生しても改善策を提案できない状況も生じている。このほか、共同研究契約を結ぶことで、研究費の大半が科研費等の公的資金であるにもかかわらず企業が過大な権利を持つことや、冒頭の高橋氏の様に発明者でありながら特許権に縛られ、研究や論文発表に制限がかかるという事態も起きている。大学と企業の共同研究の場合、実際に発明をするのは大学の研究者であることが多きが、特許権は共同研究企業と大学が共有することとなり、発明者である研究者個人は特許権がないだけでなく、利用権もない。しかもその後、研究者が大学を移籍などなると、特許権は元の大学などに帰属し、その発明を使った研究も自由にできないというのは、発明の公共性に反するのではないだろうか。 法的拘束力付与し指針の義務化へ 学問の自由守る契約が必要産学共同研究における研究者の権利保護、そして公平な契約を結ぶために、改善すべき点を指摘しておきたい。まず、産学官連携による共同研究について取り決められた経産省・文科省のガイドラインに対し法的拘束力を付与することで、ガイドライン順守を義務化し、実効性を高める必要がある。加えて特許庁による共同研究契約の例示において、不平等な条項を指摘するなど、大学と企業の不平等契約の改善も必要だろう。また、産学連携契約の透明性を確保し、公平な契約締結を促進する必要がある。特に研究者の権利保護のため、実効性のある公正な報酬や利益分配を確保することが不可避だ。大学等の職務発明規定において、発明者の権利を認めること、発明者個人が転籍しても、研究を継続できる権利を継続できる権利を認めることも重要である。さらに教育と支援の強化が不可欠である。研究者や大学関係者に対する契約交渉や知財産管理に関する教育を強化し、適切なサポートを提供する体制を警備することで、より公平な産学連携を実現することが期待される。特に契約による共同研究の経済的な側面の保護だけでなく、研究継続という、いわば憲法上認められた学問の自由に反しない共同研究契約が望まれる。もちろん研究者側にも問題がある。学会での地位を利用して不正な契約を強要する事例や研究者の不正利用は言語道断だが、近年、大学発ベンチャー企業に対し、税金から多額の補助を与え、ベンチャー企業を増やして、中には上場させようとする事例もある。しかし、会社法研究の観点からは、研究者自身が企業経営者として十分責任を果たすことができるか、自問する必要がある。大型のプロジェクトでは、数十億円という多額の補助金を得て研究をしている以上。大学で発明された特許には公益性があり、特に気象疾患や難病の患者のための研究に尽力すべき責任があることは言うまでもない。産学連携共同研究を実りあるものとして、国民全体にその果実を帰属させるためには、公平で透明な契約が必要様であり、関係者が全て報われるような仕組みが必要だと思われる。(成城大学教授・弁護士) 【社会・文化】聖教新聞2024.8.20
June 21, 2025
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冬眠誘導する脳神経回路の発見も科学文明論研究者 橳島 次郎睡眠を制御する夜にも気温下がらず寝苦しい真夏の日々が続く。よく眠れないと辛いものだが、ではなぜ眠らないといけないのか、科学的には実はよくわかっていない。睡眠にはどういう役割があるのか、それはどのように起こるのか、まだ完全には解明されていないという。今、分かっている限りでいうと、睡眠時には、成長ホルモンが分泌されて身体組織、特に脳の修復と保全が果たされる。体内で不要となったたんぱく質、老廃物が排出される。体を動かして得た運動技能(例えば楽器を演奏するなど)を記憶し、知ったり感じたり考えたりし認知上の記憶を整理して定着させることも睡眠時に起こる。ただこうした生態維持機能を果たすのに、なぜ睡眠という形をとる必要があるのかは、よく分かっていないらしい。睡眠の機能と仕組みの解明と並行して、睡眠をコントロールする技術の研究も進められている。日本の研究者が1990年代末に、睡眠からの覚醒に関わる神経伝達物質を発見し、この物質の働きを抑えることで不眠症を改善する治療薬の開発につながった。この研究者を中心に睡眠の制御をテーマとする国の大きな研究助成プロジェクトが組まれており、いつでもどこでも良質な睡眠を提供できる技術と装備の開発が目標とされている。米国では、脳皮の計測装置を仕込んだベッドセットが健康器具として商品化されている。睡眠時の脳の様子を知ることで、眠りの質の改善を図れるという。第24回で取り上げたニューロフィードパックの技術を応用したものだ。さらに興味深いのは、やはり日本の研究者が島民を誘導する脳神経回路を発表したことだ。その脳神経回路を働かせる薬物や刺激装置が開発できれば、代謝を下げ酸素やエネルギーの消費を抑えた状態で生存できる。この技術を使えば、重い障がいや心筋梗塞などで危篤に陥った患者の生体機能を維持し、必要な治療を行うための時間的余裕を作ることができると期待されている。長い年月がかかる宇宙旅行を人工冬眠で乗り越えることで、人類の外宇宙への進出を可能にする技術ともなるだろう。他方で、長時間眠らずに活動できるようにする薬剤や脳刺激装置を、米国の軍事研究機関が開発しようとしているという。それが実用化されたら、長時間労働を強要したいブラック企業が飛びつくかもしれない。睡眠の制御は人間の健康と福祉の向上のためだけに使ってほしいものだ。 【先端技術は何をもたらすか—27—】聖教新聞2024.8.20
June 20, 2025
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*統一教会問題 安倍が参加した統一教会の登山統一教会の目標は、教団を日本の宗教とし、統一教会の影響下にある総理大臣、閣僚を選出することで日本を支配することである。ご存じのように、統一教会と自民党の関係は、安倍の祖父・岸信介に遡る。UPFジャパン議長の梶栗正義は「この八年弱の(安部)政権下にあって六度の国政選挙において私たちが示した誠意というものも、ちゃんと本人(安倍)が記憶していた。こういう背景がございました」と発言している。統一教会による霊感商法被害の根絶や、被害者の救済を目的に活動している「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(全国弁連)の集計では、二〇一〇年から二〇二一年の一二年間で、確認でき羅被害金額は一三八億円、相談件数は二八七五件にのぼる。二〇二二年七月一二日の全国弁連の記者会見で、渡辺博弁護士はこう語っている。「旧統一教会の責任者が、自分たちの機関紙の中で『政治家との繋がりが弱かったから、警察の摘発を受けた。今度は、政治家と一生懸命繋がっていかなきゃいけない』と『私たちの反省』として述べていた。わたしたちが国会議員の方々に、旧統一教会の応援をするのをやめてくださいよ、と呼び掛けている理由も、そこにあります。やっぱり旧統一教会の被害者にとっては、政治家との繋がりがあるから、警察がきちんとした捜査をしてくれないというような思いがずっとあると思います」二〇〇九年六月一一日、印鑑販売を営む有限会社新世の社長・幹部・販売員らが特定商取引法違反(威迫・困惑)の疑いで警視庁公安部に逮捕された。この件に対し、全国弁連の山口広弁護士はこう語っている。〈警視庁は当初、統一教会の松濤本部までガサ入れをする方針だったのに、警察庁出身の自民党有力議員から圧力がかかり、強制捜査は澁谷教会などにとどまった。この話はいろんなところから何回も聞きました〉(「日刊ゲンダイ」二〇二二年八月一日)全国弁連の弁護団は、第二次安倍政権は発足した二〇一二年一二月以降、それまで相次いでいた教団関与の刑事事件が極端に減ったことを挙げ、教団に対する警察捜査に安倍政権が政治的圧力をかけていた可能性に言及している。二〇二二年八月五日、国家公安委員長の二之湯智は会見で、統一教会の霊感商法に関して、二〇一〇年を最後に「被害届はない」と発言。会見終了後、警察庁は「被害届」ではなく、二〇一〇年を最後に「検挙がない」と訂正した。二之湯は、二〇一八年に統一教会の関連団体が開催したイベントの京都府実行委員長を務めていた。第二次政権以降、安倍は統一教会に急接近していく。二〇二二年一二月二八日のBS-TBS「報道1930」では、統一教会元幹部の阿部正寿が、統一教会が安倍を再び総理に返り咲かせるために尽力したことを証言。「安倍総理のお父さんの安部晋太郎さんとうちの久保木(修己)・統一教会初代」会長は仲が良かったんです。文(鮮明)先生は安部晋太郎さんに言った。あなたがもし自民党総裁、首相になったら、まずは韓国にきたときは、大統領官邸に行くんじゃなくて、文先生の自宅がある漢南洞に挨拶に行きなさい。それと日韓トンンネルを応援しなさい。約束したんです」晋太郎が病死したため、約束の遂行のために今度は晋三を応援することになる。晋三は統一教会の関連団体(世界戦略総合研究所)に招かれて講演。統一教会が安倍を励ますために企画した高尾山の登山(二〇一二年四月三〇日)に参加したりするようになる。 政権周辺に結集したカルト統一教会の広告塔である安倍周辺にはカルトが結集。安倍主催の「桜を見る会」には、「世界戦略総合研究所」の小林幸司事務局次長が招待されていたが、小林はその理由について「(総裁選で安部を)応援したからですね」と平然と述べている。文鮮明と岸信介は盟友関係にあり、岸の力添えにより、一九六八年に教団系の政治団体「国際勝共連合」が設立された。この勝共連合の改憲案と自民党の改憲草案は酷似している。二〇一七年四月、勝共連合は「憲法改正について」と題した約一七分の津画を公開。副会長の渡辺芳雄は以下の三点を「改憲の優先順位」として掲げた。〈「緊急事態条項」の創設〉〈家族保護の文言追加〉〈「自衛隊」の明記〉。いずれも安倍の主張及び自民党の改憲案とほぼ同じ内容だ。朝日新聞によると、統一教会系の団体の「世界平和連合」と「平和隊士協議会」は二〇二一年の衆院選と二〇二二年の参院製の歳。数十人の自民党議員に対し「推薦確認書」を提示し、署名を求めていた。 【自民党の大罪】適菜収/祥伝社新書
June 20, 2025
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ヤングケアラーを支える「居場所」と「頼れる大人」インタビュー㊦ 大阪大学大学院 村上 靖彦 教授 心配する存在——本年6月、ヤングケアラーへの支援をはじめて法制化した改正子ども・若者育成支援推進法が成立しました、ヤングケアラーは、日本社会の大きな課題の一つです。 私が最初に『ヤングケアラー」という言葉を聞いたのは、大阪市西成区で子育て支援の調査をしていたときでした。「こどもの里」の理事長である、荘保共子さんに教えてもらいました。2016年に『ヤングケアラー』(渋谷智子著・中公新書)が出版されていて、それを読んだ荘保さんは、彼女が支援をしてきた西成の子どもたちの多くが、ヤングケアラーに当てはまる存在だと話していました。私も早速読んでみましたが、確かに、西成で見聞きする多くの子どもの姿と重なりました。一方、かつて私自身が担当した学生のことも思い浮かべました。一人の女子学生の母親には精神疾患があり、死にたいと語る母親の話を、彼女は何時間も聞き続けていた。彼女もまた、ヤングケアラーだったのだと、あとから気づいたのです。ほんの数年前まで、ヤングケアラーは、「介護や家事労働を担う子どもや若者」を指すと捉えていました。親が病気であったり、きょうだいに重い障がいがあったりして、子どもが介護や家事労働を担わなければならず、学校に行けなくなってしまったというように。そこには、介護も家事もしていないけれど、精神疾患のある親の話をずっと聞いているような子どもは、含まれませんでした。精神疾患のある母親の話を、ずっと聞き続ける子どもの労苦は想像を絶します。今でこそ「ヤングケアラー」の認知が社会で広まり、そうした子どもや若者もヤングケアラーと認識されるようになりました。私自身、「介護や家事」という行為に限らない定義で、ヤングケアラーを捉えた方がいいと考えます。「ケア」が、もともと「気遣う」「心配する」を意味する言葉であることを踏まえれば、ヤングケアラーとは、何よりまず、「家族のことを心配する存在」ではないでしょうか。ヤングケアラーという視点は、子どもが持つ心配する気持ちと、家族のために働く力にも光を当てています。家族のせいで時間と機械を体力を奪われた「かわいそうな子ども」と見るのではない。かわいそうだとラベルを貼れば、家族を攻めることになり、ネグレクト(育児放棄)と同じ意味を持ってしまいます。そうではなく、遅刻や欠席をする子どもは、実は、家族を心配し、ケアしているのではないか、子供も親もサポートを必要としているのではないか、と考えるための視点を与えるのが、ヤングケアラーなのだと思います。 家族の外へ開く——村上教授があってこられたヤングケアラーの若者たちにとって、支えになっていたのは何ですか。 先ほどの女子学生のように、学生たちから家族に関する相談を受けることが、以前は多くありました。相談しようにもできないような困難を抱えた、今思えばヤングケアラー出会った学生たちが、私が知るだけでも数人はいます。彼ら、彼女らの口から、どれほど大変な状況であるかをよく聴きました。でも一方で、私が西成で出会ったヤングケアラーヲ経験した青年たちは、そうでもないのですね。親の逮捕や自死を経験した子どももいましたし、成人になった今でも介護を担っている人もいます。皆、壮絶な過去があるはずなのに、冷静に話をするわけです。この違いは何なのか。インタビューを分析すると明瞭でした。西成の若者たちの話には、必ず、「居場所」という言葉が出てきます。こちらが聞いていないのに、必ずその言葉を使う。そしてもう一つ、自分が頼ってきた大人の名前が出てきます。居場所があることと、頼れる大人がいること。この二つが、ヤングケアラーを支えるのだと実感しています。そもそも、ヤングケアラーが現代日本で問題になっていることには、社会的な理由があります。澁谷智子さんが『ヤングケアラーってなんだろう』(ちくまプリマー新書、2022年)で論じています。高度成長期に核家族化が進み、働く男性が家族の扶養者、専業主婦の女性が被扶養者という性的役割分業が、制度的に固定化された。これにより、女性は無償のケア労働に閉じ込められました。しかし、この30年間で日本に起こっているのは、経済状態の悪化による共働きの増加です。専業主婦制度は、日本社会ではもう維持できない。さらに高齢化が進んで、介護を必要とする人が増えている。そうなると、家族の誰かが斃れたら、働けるのは子どもだけです。子どもがケアするしかない。これがヤングケアラーである、と。つまり、ヤングケアラーの問題は、戦後の流れの中で造られた社会構造によって、必然的に生まれてきたものです。これから先、どうすべきか。経済的に、またジェンダー平等の観点からも、共働きが増えていく流れは変わらないでしょう。一方、この状況が核家族化の帰結でもある以上、ヤングケアラーの問題は、家族中で背負い込んでいけるものでもない。だからこそ、家族以外へとケアを「開く」しかないと私は思います。ヤングケアラーである子どものサポートも、病気や障害のある家族のサポートも、家族以外のだれかがともに担う仕組みづくりが必要です。西成で調査して分かったのは、家族が病気になったり、トラブルがあったりしてヤングケアラーになる以前から、子どもたちは、居場所や遊び場とつながっている場合が多いということです。だから、いざ家族に何かが起きても周囲の人が「最近おかしいなあ」「あまり見ないな」と気づき、サポートの手を差し伸べることができる。ある意味で、ヤングケアラーになってから支援するのでは遅いわけです。日頃から、子どもたちが大人に見守られ、困ったことがあれば居場所を、身近につくっていくことが大切だと感じています。 場所の「連続性」——そうした居場所はどのような場であるべきですか。 臨床心理士の東畑開人さんは、「ただ単にいることができる場所」「退屈な場所」であることの価値を語っていました。周囲を気にすることなく、何をしてもいいし、何をしなくてもいい。「ここに居ていいんだ」と存在それ自体を肯定してもらえるような場所が、可能であれば複数あるといい。1カ所だけど、誰かと相性が悪ければ居づらくなりますから。それは「来たくなる場所」「戻りたくなる場所」でもあると思います。そういう空間を、地域やコミュニティーでどう育んでいけるか。鍵となる一つは「連続性」かもしれません。継続的に、ある大人が、ずっとその場所にいるということです。例えば行政では、2年ごとなどに移動があるので、お世話になった先生や支援者がいなくなってしまったりします。戻ってみたら全員知らない人だったというのは、やはりさみしいものです。何らかの困難を抱えた子どもにとっては、なおさらです。反対に、たとえ数年たった後でも、戻れば、「先生」と声をかけられるような人がいる。この連続性は大きな支えになります。大学受験に失敗したとか、仕事をやめてしまったとか、苦境に陥った時に戻りたくなる居場所があることの意味は、子どもたちにとって大きいでしょう。いつどんな困難に出合うか、分からないですから。自分をよく知っている人がいてくれて、話を聞き、人生をつないでくれる。そんな人や居場所の存在が、もっと増えていくといいと思います。 宗教の役割とは——居場所を育んでいく上で、宗教が果たしうる役割についてはどうお考えですか。 宗教について深く考える機会はあまり多くなかったですが、思い起こすのは、以前に統合失調症の患者のフィールドワークをしていたときのことです。大阪のある地域で、重度の統合失調症を患う若い女性の所に、訪問看護師さんと一緒に伺いました。そこで聞いたのが、彼女を日常的にサポートしているのが、地域の創価学会の女性だということでした。地域で手芸教室を開いていて、そこが、患者さんをつなぐ居場所になっているとも教えてもらいました。なるほど、と思いました。そういう形で、地域の中でつなぐ役割を持っている人たちがいて、そこで宗教は意味を持つのだなと。もう一人思い出すのは、本田哲郎さんというカトリック教会の神父さんです。巧妙な神学者でありながら、西成の「ふるさとの家」で、ずっとボランティア活動をされている方です。彼の話を聞くと、教会を手厳しく批判しているのですね。ご自身はずっとボランティアとして、路上生活を送る方たちの散髪をしています。西成の町に降りて行った、地域の方と共に暮らす。彼にとってはそれが、イエス・キリストと出会うということであるわけです。だから、教会という組織に対してはとことん厳しい。でもそういう形で、人と出会うことの中に信仰を見出しています。これからの日本において、身近な場所に小さなコミュニティーをつくり、人つないでいけるかどうか。その点で、宗教の役割は小さくないのかもしれません。 【危機の時代を生きる「希望の哲学」】聖教新聞2024.8.18
June 19, 2025
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SOSへのアンテナ広げるケアを柱に社会をつくる誰しもが、誰かを支えながら生きている。ケアとは「人間の本質そのもの」であると、大阪大学大学院の村上靖彦教授は語る。生きること、そして存在それ自体を肯定するケアの在り方を巡って、村上教授にインタビューした。インタビュー㊤ 大阪大学大学院 村上 靖彦 教授むらかみ・やすひろ 1970年生まれ。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。感染症総合教育研究拠点(CIDER)兼任教員。専門が現象学。著書に『ケアとは何か』(中公新書)、『「ヤングケアラー」とは誰か』(朝日新聞出版)、『傷の哲学、レヴィナス』(河出書房新社)、『在宅無限大』(医学書院)、『子どもたちがつくる町』(世界思想社)など多数。最新所は『すき間の哲学』(ミネルヴァ書房)。 つながる努力——村上教授は長年、ケアの営みに着目し、2021年には『ケアとは何か』(中公新書)を出版されました。研究を通して、どのような気づきがあったのでしょうか。 2010年ごろから、ケアの現場にいる看護士の方々に聞き取りをしてきました。看護の場面や、意思疎通が難しい人たちとコミュニケーションを取る際に、看護師の皆さんは何を大事にしているのか。そのエッセンスをまとめようと試みたのが、『ケアとは何か』です。内容は大きく三つに分かれると思います。まず、看護師たちは、患者とつながろうとする強い意志と、それを可能にする技術と経験をお持ちです。患者には意識がない人も、言葉を発するのが難しいに共いる。コミュニケーションが難しい、そうしたさまざまな場面において、どのようにケアが成り立っているのかを描きました。看護師ではなく介護士の方からの聞き取りですが、こんな場面がありました。あるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者は、眼球を僅かに動かしながら、文字盤を介してサインを示そうとします。ヘルパーは、その微妙なサインをキャッチしようと努力する。10文字読み取るのに約3時間。それでも結局、読み取りができないこともあります。しかし、たとえ読み取れなくても、読み取ろうとする意志ゆえに、二人の間にコミュニケーションが生まれている。つながろうとする互いの努力そのものが、ケアとなっています。二つ目に、ケアの現場を見ると、患者はそれぞれが「小さな願い」を持っています。誰かに遭いたい、プリンを食べたい、散歩に行きたいというような、ささいなものです。仕事で成果を出したい、会社の役に立ちたいといって、「大きな願い」ではない。でもその「小さな願い」は、患者さん本人の快適さに関わるものであり、それを認めることは、患者をダイレクトに肯定することになります。「小さな願い」は人間にとって本質的な欲求であり、同時に、壊されやすいものであると教えていただきました。そして三つ目に、病気や死、また貧困や差別など、突然降りかかる厄災に直面した時、当事者やその家族をどう支えていくのか。そうした姿を見せていただいたと思っています。もともと私は、対人関係の技術としてケアを捉えていました。しかし今、ケアを出発点として、社会を考え直す試みが広がっているのを実感します。『ケアとは何か』を出版したころから、ケアについての書籍や研究がすごく増えました。ケアし、ケアされる関係性を出発点として、この息苦しい社会をもう一度、顔が見える社会へとつくり替えていく。それを考えることが、これからの社会の土台になって行くと感じています。 大きな問題意識——看護や医療の現場に限らず、コミュニティーの至る所で「ケア」は行われています。 10年ほど前から、生活困窮世帯が多い大阪市西成区で調査をしていますが、経済的には大変なはずの子どもたちが、生き生きと暮らす様子を見てきました。看護の世界はどちらかというと、医療という管理的なシステムの中での関係です。一方、西成で私は、福祉制度や行政支援、学校教育からはみ出るような子どもたちを、コミュニティーの中で包摂している支援者に出会いました。ケアとは単に対人関係の技術ではなく、社会をつくる「核」だと捉えるようになった私の変化には、西成での経験が大きいです。今、資本主義に依存しないコミュニティーづくりなど、ケアに限らないさまざまな分野で、これまでとは別用の社会が模索されています。手段は違えど、大きな問題意識が共有されているのを実感します。 「あの人なら」——一人に向きあうケアは、人間関係の本質を教えてくれる気がします。 私も身近でも、脳卒中の後遺症で意思疎通が難しい人のシグナルを、身のつながった家族であれば感じ取るということがあります。家族の感受性に加えて、それに触発されて本人が発しようとするシグナルもある。どちらか一方の能力ではなく、ケアを担う人とケアを受ける人の双方が、コミュニケーションをとろうとする意志によってケアが開かれていきます。シグナルを出す力、そしてそれをSOSとして受け取る力。そうした方を、「かすかなSOSへのアンテナ」と呼んでいます。それは支援者だけに求められるものではなく、患者や困難な状況にいる当事者自身の力でもあります。私が聞き取りした事例に、産婦人科へ、10代の不良っぽい妊婦が訪れる場面があります。受付で、「おかっぱ、呼べ!」と怒鳴っている。おかっぱ頭の助産師は、それを聞き、「私のことやな」と出ていくわけです。怒鳴り声が、彼女の耳には「困ったから来た」といっているように聞こえた。そして妊婦さんも、その助産師なら聞いてくれると思って、名前も知らないその人をよんだ。このケアの関係性は、他の人たちでは成り立ちません。別の事例では、児童館に女性から電話がかかってきました。「10代らしき若い子が、路上で寝ているから何とかしてほしい」という内容です。電話を受けた保育士の男性にも、近所で気になる少年がいた。午前中から、町をうろうろとしている少年でした。いざ声をかけてみると、その17歳の少年は、父親から暴力故に家出をしたまま、行政の支援を受けられず路上生活を送っていました。ここでも、午前中から街を歩く様子がシグナルとなり、そこに不自然さを感じた近所の眼と保育士の眼があったからこそ、潜在的だったSOSがキャッチされています。町中に入る少年が路上生活者だと気づくのは、簡単ではありません。しかし、女性も保育士も、「かすかなSOSへのアンテナ」を持っていました。女性は「児童館のあの先生なら何とかしてくれる」と思い、電話しています。SOSへのアンテナが、コミュニティーの中でシェアされていた。こうした事例を、西成で多く見聞きしてきました。 困難を抱えた地域には未来を示す希望がある 理念を共有する——「かすかなSOSへのアンテナ」は、ある地域や人に特有なものなのか、それとも、育んでいけるものだとお考えですか。 看護の現場でも、西成でも、学校教育とはまた異なる形で、先輩たちから後輩へと伝わっているなにかがあるような気がします。その意味で、アンテナは育むものであり、学ぶものでもあると思います。私自身の経験ですが、祖父が生前、脳しゅようの手術後に入院した病院は、都心にあるとてもきれいな病院でした。新築の病棟に見舞いに行くと看護師たちが祖父に声をかけることもなく、ベッドサイドのモニターをずっと注視していたのが印象に残っています。一方、祖母が亡くなる直前に入院していた病院は、東京郊外の、それこそ幽霊が出そんなおんぼろの病院でした。しかし、いつ訪れても祖母はとても清潔で、快適な様子でした。最後のほうは認知症も進んでいましたが、看護師たちが丁寧に関わってくれているのが分かりました。この環境の違いは、長年の学びや教えの積み重ねにも要因があるでしょう。SOSをキャッチすることを意識し、それを周囲に教えて以降、伝えていこうとする誰かがいることで、変わる何かがある。看護の現場でも、今は言葉遣いが徹底されたり等、どんどんと〝マニュアル化〟が進んでいますが、それだけでは継承しえないものがあると思います。その点、理念が共有されるのは大事だと感じています。子ども支援の場では「子ども権利条約」が当てはまりますし、他の場所であれば、また違う理念があります。北海道の社会福祉法人「浦河べてるの家」では、「安心してサボれる職場づくり」「手を動かすより口を動かせ」というような、ユーモラスな理念を掲げています。そうすることで、管理的ではない形で、人が安心できる場所、つながりあえる場をつくっているのだと思います。理念とは、自分たちが何を大事にしていくかを表現したものです。知的障がいがある人を支援する、ある団体では、部署ごとに自分たちで理念を考え、毎年その理念について話し合っているとのことでした。お仕着せにならない形でチームの皆が共有し、その意味をめぐって話し合えるようなり難を持つことの重要性を、私自身も学んできました。 「責任」=「応答」——村上教授はフランスの哲学者レヴィナスを研究されていました。レナヴィスの哲学が、現代に伝えるメッセージとは。 レナヴィスは多分に対人関係を扱った哲学者です。他者とは何か、暴力とは何か、無意味から意味への反転とは、といった主題に正面から向き合い、「傷つきやすい存在」としての人間を論じました。レナヴィスをテーマに博士論文を完成させた後、私の関心は、精神医学や具体的な対人関係、コミュニティーの生成と展開というように、徐々に広がっていきました。ここ十数年間は哲学書の研究を離れ、フィールドワークを中心にしてきましたが、振り返ると、看護の世界や西成でお会いした多くの人達は、とても深刻な状況の中、困窮する人や傷ついた人を支援する人たちです。それこそ、レナヴィスが考えていたことだと気づいたのです。今でこそレナヴィスは世界中で読まれていますが、彼が執筆していた当時、どれだけの哲学者が対人関係に着目していたか。「トラウマ」「迫害」「他者への責任」といった、哲学の本に書き込む理由がないような言葉をレナヴィスは使っています。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という用語が、一般的になるよりはるか以前のことです。その背景ではおそらく、ユダヤ系であった彼の家族のほぼ全員が、ナチス・ドイツによって虐殺されたという事実が関係しています。そこから彼は、世界が瓦解してしまう可能性とともに、再生する可能性を発見した。そして、無意味の中で意味を再興しようとする内的な力が、災厄においてこそ逆にあらわになるのだと論じました。私たちは今、過剰に管理が生き渡り、競争を強いられる時代を生きています。そうではない社会へと、どう作り替えていくのか。西成をはじめとする小さなコミュニティーに、私は希望を感じています。そのコミュニティーにいる人たちの背景には、実は、大きな困難や傷つけられた経験があります。困難を抱えることと、希望となるコミュニティーをつくることが、裏表になっている。「ぺてるの家」の向谷地生良さんは、浦河を「困難先進地区」とおっしゃっていました。だから日本の先進地域なのだ、と。困難を先取りして、生き延びるためのさまざまな仕掛けを試みて、人や社会がどこに向かえばいいかを示していく。そうした場所が、日本にもっとあっていいと思います。他者は「師」であり、かつ「悲惨のなかにいる人」として私に切迫する、とレナヴィスは語ります。奇妙に難じるのですが、まさに子どもがご飯を食べられていない、お風呂に入れていないというようなことから、訴えかけられ応答を迫られるということです。「レスポンシビリティー(責任)」とは、目の前のひとりの状況に「レスポンス(応答)」できること——きっとこれがレヴィナスの言っていたことなのだと、多くの出会いの中で感じるようになりました。 【危機の時代を生きる「希望の哲学」】聖教新聞2024.8.17
June 19, 2025
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率先して発信しよう作家 伊東 潤五輪が終われば、混沌とした世界情勢に再び注目が集まるだろう。ウクライナ戦争は泥沼化し、イスラエルとハマスの戦いはイランの参戦を招き、終わりが見えなくなってきている。これまで世界中の識者が戦争の拡大を危惧してきたのが、その通りの展開になろうとしている。その理由は明快だ。現代戦争はどちらかが継続能力を失うまで続くものだが、米欧や中国がそれぞれを背後から支えているので、両陣営ともに継戦能力を失わないからだ。プーチンや習近平の権威主義国家は、自らの独裁政権を継続できる用法を変えられるので、大きく方針が変わることはない。だが一方の民主主義国家には選挙があり、国民に選ばれた元首によって方針が変わる可能性がある。特に11月の米国の大統領選の結果次第で、世界の運命は大きく変わるだろう。これほど多難な時期だからこそ、日本は強いメッセージを発していくべきだ。国際社会におけるプレゼンスは、軍事力と経済力だけで決まるものではない。諸国が納得できるメッセージを発信することが、プレゼンスを高めることにつながる。これまで国際社会の脇役だったトルコやブラジルも強いメッセージを発信し始めている。ところが日本は、相も変わらずだんまりを決め込んでいる。来年でもう戦後80年なのだ。日本も国際社会における自らの役割を意識し、論理的で説得侶Kのあるメッセージを発信すべき時に来ていると思う。平和は無言のままでは訪れない。平和を具現化しるためのメッセージを発してこそ、国際社会の一員として認められる。とくに第二次世界大戦で敗れた国の一つとして、率先してメッセージを発してこそ、日本が国際社会に恩返しできることになるはずだ。 【すなどけい】公明新聞2024.8.16
June 18, 2025
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岸田理生作品の魅力岸田理生アバンギャルドフェスティバル実行委員会会長 吉野 翼 独特な台詞回しとリズムで不変な題材を豊かに表現私と岸田理生との出会いは学生の頃。当時私は、演劇講座に入っていて、その口座での一年に一回の校内演劇発表講演、その演目が岸田戯曲賞にも入賞した岸田理生の代表作「糸地獄」であった。その頃の私は岸田理生についての知識はほぼなく、「糸地獄」という難解な戯曲に役者として四苦八苦したものである。しかしながら、その戯曲に書かれていた言葉にひどく感銘を受けた。美しくも淫らな台詞、情景の描き方、心象風景を彩る言葉、発語する台詞と音のリズム。それまでにもさまざまな戯曲に触れて来たが、初めて「言葉そのもの」に魅了された。いま思えば、当時中高生だった生徒たちの発表公演でやるには些か相応しくない大人の戯曲であったと思うが、私はその出会いに感謝している。暦の名を持つ女郎たち、女を操る女衒の男たち、そこに現れる母を探す記憶喪失の少女、そして禁忌の親殺し。発表公演が終わった後、生徒の親御さん達が学校に苦情が来たのは今や良い思い出話。その後、私は岸田理生や寺山修司のファンとなり、「アングラ」の世界にどっぷり浸かっていくことになった。岸田理生は、1946年生まれ、2003年に大腸癌で亡くなるまで、さまざまな活躍を見せた人物である。寺山修司の「天井桟敷」に参加後、「哥以劇場』「岸田事務所+楽天団」「岸田理生カンパニー」と次々と精力的に団体を設立し、劇作家・演出家・シナリオ作家・小説家・翻訳家として活動。1984年「糸地獄」にて第29回岸田國士演劇賞を受賞、92年 オーストラリア国際女性激賞を受賞、92年 オーストラリア国際女性劇作家会議に参加、2001年 第3回アジア女性演劇会議(AWT)実行委員を務めた。そんな岸田理生の魅力はやはりその「言葉」である。彼女の言葉の力はまるで魔法のように人々の内面に染み込む。その独特な台詞回しと節は、あるときは音楽的に、あるときは短歌や詩のように、あるときは風のように心象と情景を対象に刻む。正に人間の声や身体を先天的な楽器のように捉えているようである。作風は時代によって異なるが、決して真には交わらない男と女という性別、社会への風刺、恋を探す人間の様など、不変的な題材に真っ向から挑んでいた。岸田理性について詳しく知りたい方は、大阪大学出版会から研究所『岸田理性の劇世界』(岡田蕗子著)も出版されているので是非お手に取って頂きたい。◇岸田理生が亡くなってから、理生さんを偲ぶ会代表・宗像駿氏が毎年、岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス)という演劇祭を開催していた。岸田理生の命日6月28日近辺にさまざまな団体が岸田理生の作品を上演するという企画。私も縁が繋がり、フェスティバルには11年連続で参加、そして本年から宗像駿氏より規格を継承し、同フェスティバル実行委員会代表に就任する運びとなった。今後は「アングラ」という芸術文化の発展、岸田理生作品の周知促進、そしてまだ見ぬ世代への継承を掲げ、このフェスティバルを通して活動していくことを目標としている。(よしの・たすく) 【文化】公明新聞2024.8.16
June 18, 2025
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江戸時代の関所の実態歴史作家 河合 敦 各地で厳しく監視するも事情を考慮 江戸時代の人びとは、旅や仕事で遠方に行く際、関所で役人のチェックを受けなければならなかった。関所を通らず先へ進んだり、偽って通過したりする関所破りは死罪と決まっていた。ただその実態は、かなり意外なものであった。延宝九年(一六八二)七月七日夜、中山道の木曽福島関所(四大関所の一つ)に近くの上田村から連絡が入った。手形を持たない尼が息子の市松を連れて村にきたものの、その後、行方知れずになったという。じつは関所近在のムラは、怪しい旅人の動きを関所に報告する義務があった。これを受けて木曽福島関所は、近隣の村々にその情報を流し、裏関所の贄川関所と妻籠関所に連絡した。裏関所というのは、関所わき道に設けた関所のこと。これは、他の関所も同じだった。例えば東海道の箱根関所の脇道には、仙石原、名府川、矢倉沢、川村、谷ケ村という五つの裏関所があった。だから咳者を破ろうと知るには、道なき険しい山を越えなくてはならなかった。ただ、そうした周辺の山々(要害区域)では関所役人が定期的に巡回し、近隣の村人も目を光らせていた。例の尼もあえなく見つかって逮捕された。本来は死刑のはずだが、尼は翌年釈放され、息子は本籍地に送り返された。規定と異なる緩い処罰だが、何かやむを得ない事情があり、それが考慮されたのだろう。天和二年(一六八二)、葛籠沢村(山梨県市川三郷町)の忠助が、十一、二歳の少年を連れて木曽福島関所を通過しようとした。が、少年の腰つきを見て違和感を抱いた役人が女改めにかけた。関所には、必要に応じて通過する女を検査(女改め)する人見女が常駐していた。彼女たちは旅人を裸にして改めることもあったといい、東海道の新居関所には女改之長屋というそれ専門の部屋が置かれていた。女改めの結果、忠助が伴った少年は月代を剃った少女であることがわかり、忠助は斬罪の上、獄門に処された。娘のほうは赦免されている。義兄を使っても出関所を抜けようとした忠助の動機は不明だが、娘が罪に問われていないことから、だまして遊女屋などに売り飛ばそうとしたのかもしれない。ところで、木曽福島関所での関所破りは、これらを含めて五例しか記録に残っていない。同じ中山道の碓氷関所でも数例、新居関所に至ってはわずか二件だけ、あまりに少なすぎる。おそらくそれは、関所の役人や近隣の住民が関所破りについて見て見ぬふりをしていた結果だと思われる。山越えや偽計通過が発覚すると、関所では取り調べや関係各所との連絡、犯人の交流や処刑などの労力、それにかかわる費用が必要になってくる。住民たちも旅人の怪しい素行に責められるかもしれない。じっさい、東海道の新居関所の手前(浜名湖北岸)で船を雇い、東岸に上陸して新居関所を通らないルートが横行していたことがわかっている。浜名湖沿岸の村々や猟師には関所破りを監視する義務が課せられており、怪しい船は通報しなければならなかったはず。それをしなかったのは、面倒に巻き込まれたくなかったのだろう。記録に残る関所破りは、後日通報があって発覚し、処罰されているケースが多い。これも関所の役人が積極的に取り締まろうという意欲がないことを示している。このように、関所破りの罪が厳しすぎるとかえって、関所破りの横行を招く結果になったわけで、何とも皮肉なことであった。(かわい・あつし) 【文化】公明新聞2024.8.14
June 17, 2025
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真の保守とは 保守思想を理解していた福田康夫 昔を知る自民党の政治家の多くは、今の自民党を否定的に見ている。元総理大臣の福田康夫は「国家の破滅が近い」と言った(「共同通信」二〇一七年八月二日)。《各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸(の顔色)見て仕事をしている》《〔二〇一四年に発足した内閣人事局に関して〕政治家が人事をやってはいけない。安倍内閣最大の失敗だ》《官邸の言うことを聞こうと、忖度以上のことをしようとして、すり寄る人もいる》内閣人事局は官邸初動の人事を制度化するものだった。官邸が官僚幹部の人事を握ったことにより、官僚は官邸の意向に反することはやりづらくなった。それどころか、官邸の意向を「忖度」し、先回りをして働くとこになる。そして、今度はそのたぐいの官僚がのし上がっていく。 安部政権下では森友学園問題や「桜を見る会」問題を巡り、公文書の改竄や破棄が行われていたが、これに関して福田は次のようの述べる(「文藝春秋」二〇二三年八月号)。《まず最初に強調しておきたいのは、公文書は「国家の証し」そのものである、ということです。わが日本国がどのように成り立ち、国家の仕組みや制度がどんなふうに出来上がってきたのかを証明する大切な証拠なのです》《ところが近年、公文書を政治家が「捏造」と決めつけるとか、官僚が改ざんをするといった、とんでもない事件が立て続けに起きた(中略)これは、「権力の行使」に大きな問題があると考えられます。さらには「政治主導」に起因する問題もあります》これは高市早苗に対するジャブであろう。《そもそも公文書を改ざんしようという発想自体が言語道断です。なぜ公文書を残すことに懸命になっているかといえば、これが日本の証しだから。「これをこうした議論を経て、こんな法体系を積み上げて、今のこの社会ができているんですよ」というプロセスを示すものであり、国際社会に向けて「日本はこうやってきた」と説明するための証拠品なんです。その証拠を改ざんしたり捨てるなんて、とんでもない》公文書は国家の記憶である。安部政権下では省庁をまたがる形で、国家の根幹が破壊されてきた。財務省だけではない。南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)における防衛相の日報隠ぺい、裁量労働委員における厚生労働省のデータ捏造……。政策立案などに使われる「基幹統計」もデタラメだった。福田は続ける。《私は、要は「権力の使い方」の問題だと思うんです。各省庁や大臣は権力者ですし、その大臣を束ねる総理大臣の権力は非常に大きいものになる。問題は、その権力者が「自分は大きな権力を持っている」と自覚しているかどうかです。権力というのは、使い方を間違えると、国家という城の石垣である公文書を壊したり置き換えたり、とんでもないインチキが始まってしまう》だから本来の保守派権力を警戒する。人間理性を妄信していないので、権力の暴走を阻止する制度を重視する。現在の日本では権力に迎合するチンパンジーが保守を自称するようになっているが、政治家ですら、福田のように保守思想を理解している人は少なくなった。福田は続ける。《例えば二〇二一年、国土交通省の建設工事受注動態統計の数字を担当官が業者に無断で勝手に書き換えていた不正が発覚しました。厚生労働省の毎月勤労統計などでも不正がありました。よその国に「統計がいい加減だ」とケチをつける人がいますが、日本はそんなことが言えますか。実に恥ずかしいことです》《内閣人事局ができたことにより、官邸が官僚の人事権を握り、官僚が委縮して何も言えなくなったことの批判があります。この構想は福田内閣の頃から議論が始まり、私も責任がないとは言いません。ただ、こんなに評判の悪い仕組みが出来上がるとは、当時には夢にも思っていなかったし、甘く考えていた。そこは忸怩たるものがあります》《こうなった以上、政治家はもう、権力をフルに使うことは止めなければならない。権力行使は、正しい政治のために必要最低限度にとどめるべきなのです。かつては役人の交代が早すぎると思っていましたが、せいぜい二年で交代すべき。長く要職に就くものがいると、そこに新しい権力構造ができてしまう。政策自体も歪んでくる》そのとおりだ。かつての自民党は、巨大な国民政党であり、多様な意見を吸収する包容力があった。派閥も機能していたので、党内における議論もあった。しかし、政治主導の名のもとに、権力の暴走を防ぐ制度を破壊していった結果、自民党は見事に崩れていった。問題はそこにどのような勢力が食い込んだのかである。 【自民党の大罪】適菜収/祥伝社新書
June 17, 2025
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近代天皇制と伝統文化高木 博志著 文化遺産を投入し、国民意識を形成東京大学名誉教授 島薗 進 評 本書の冒頭には著者独自の現代天皇制の理解が示されていて刺激的である。平成期から令和への転換期について、著者は「皇室(天皇家)は国民に身近に「寄り添う」ものであるとの発信を、我々は過剰に体験した」という。一方、その後のコロナ禍の時期には天皇の存在は薄かった。国民に平等に作用するパンデミックの恐怖に対して象徴天皇制は無力なようだと推論する。そして、身分制を現代に持ちこんでいる天皇制は、現代的な国民・市民の生活の在りようとそぐわないものがあることに注意を喚起している。明治以降の近代の過程で、国民を養う文化財や歴史意識の構築が課題となり、そのために多くの資源が投入された。明治維新以後、とりわけ一八九〇年頃から「伝統文化」の振興や文化財の保存、また郷土意義の宣揚が進められていく。当初は皇室儀礼や陵墓などの称揚に力が入れられるが、次第に一方では国家神道や国体論を結びつく側面が強化されていき、他方、仏教や古都の文化や全国の史跡旧跡が天皇や国体と結びつけられつつ資源として尊ばれるようになる。皇室関係の仏教施設と古都京都は、明治後期以降、この意義が強調されるようになるが、それは名教論(道徳教化)的な形で、すなわち国体論や天皇制と結びつく形においてだ。史跡や寺院などをまわる修学旅行において最重要地となる伊勢神宮はそのよい例だ。桜の植樹を進め、桜が国民の娯楽文化に浸透していき、郷土意義の強化に寄与していくのも明治後期以降の顕著な動向だ。典型的には弘前城だが、植樹がしやすい新たなサクラ、ソメイヨシノがナショナリズムと結びつき愛好される例が全国に見られる。近代前には桜は多くはなかった植民地朝鮮にも植樹は及び、朝鮮には朝鮮の桜があるという認識も広がった。だが、戦後の挑戦韓国では桜への愛好は後退している。こうした文化財保護には諸学問の関与は大きい。東京帝大の歴史学教授、黒板勝美は文化財保護について海外から学んでくる使命を国から与えられ、ドイツの方式にならって文化財保護の理念的基盤を固めるが、そこでは各経論的な側面が大きな要素を占めている。こうして史実譽神話が重ね合わされる傾向は強固に基礎づけられ、現代においてもそれは廃棄されておらず、国家神道や国体論の持続に貢献している。歴史学的には事実性が否定されているにもかかわらず、大山古墳を「仁徳天皇陵」とよんで世界遺産登録しようとしてきたのはその良い例である。明治以降、伝統文化や文化財など広い範囲の文化遺産が、政策的に天皇制や国体論、また国家神道と一体のものとして捉えられ、国民意識の形成に寄与してきた。「伝統の創造」の日本版である。敗戦後もそれは解体・再構築されたわけではなく、かなりの程度、持続している。こうしたことを資料を博捜しつつ丁寧に実証しており、日本の「伝統文化」についての反省的理解を助けてくれる。歴史教育やミュージアムやツーリズムについて考え直す素材も豊かに含まれている。◇たかぎ・ひろし 1959年生まれ。京都大学人文科学研究教授。日本近代史。 【読書】公明新聞2024.8.12
June 16, 2025
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不変真如の理と隨縁真如の智 今度は、この「帰命」という文字を、「帰」と「命」の二つに分けて、それぞれの文字から「帰命」することはどういうことなのか、その意味することが論じられる。「帰」というのは、原点に回帰することを意味している。だから、まず回帰するべき原点が、「帰と云うは、迹門不変真如の理に帰するなり」と提示される。回帰すべき原点とは、『法華経』迹門に説かれた普遍的で永遠不変の真理「不変真如の理」だという。そして、「命」を「もとづく」と読ませ、「命とは本門随縁真如の智に命(もとづ)くなり」と述べている。永遠不変の真理(不変真如の理)に回帰した上で、今度は現実世界に於いて本門に展開される臨機応変で縦横無尽の智慧に基づいていくということであろう。「真如」は、サンスクリット語のタタター(tathata)の漢訳後である。タター(tatha)は「そのように」という意味の副詞だが、それに女性の抽象名詞を接尾語辞ター(ta)を付したタタター(tathata)は、「そのようであること」「ありのままの真理」という意味になり、「真如」{真理}と漢訳された。ここに「迹門」と「本門」という言葉が出てくるが、これは、天台大師智顗が『法華経』二十八品を、①序本第一から安楽行品第十四までと、②従地涌出品第十五から普賢菩薩品第二十八までとに大きく二分して、前半を「迹門」、後半を「本門」と名付けたものである。本門とは、遥かな久遠において既に成道していた本仏ついて説いた教えであるのに対して、迹門とは、久遠において既に成仏している仏の立場を秘して、インドにおいて三十五歳で成道したとする迹仏(本仏の仮の姿)の対場で説かれた教えのこととされる。「迹門」の「迹」は、「あと」「足あと」「あとから」を意味する。迹門では、諸法実相・十如是をはじめ、すべての人の平等、成仏を可能とする一仏乗の法理が、説かれている。それを、普遍的にして永遠不変の真理としての「不変真如の理」と呼んだのであろう。「不変真如の理」という言い方には、声聞たちへの未来成仏の予言(vyakarana、授記)がなされているだけで、真理として成仏の可能性が示されているが、その結果はまだ現れていないことを踏まえたものであろう。本門では、永遠性を宇宙大の広がりを持つ十界が具わり、そのすべてが輝いている姿が霊山虚空会(霊山浄土)として抽象的に描かれた。妙法の智慧にてらされて、十界のすべてがそれぞれの個性を生かして自由自在の働きをなすことができる。それを「隨縁真如の智」と呼んでいるのであろう。迹門のほうは、非常に原理的なことが書かれている。それを「不変真如の理」と言う。本門のほうは、それを踏まえて現実に応用展開するか、現実の振る舞いとしていかに生かすかという観点が強くなる。それを「隨縁真如の智」と言っている。その相違は、迹門のほうが、その主要部分で自利的探究者と声聞と縁覚(二乗)を対告衆(教えを説く対象)としているのに対して、本門が利他的実践者の菩薩を対告衆としているという違いも見ることができる。「帰」のほうは、永遠不変の真理に回帰していく、原点に戻っていくという方向性を持っている。「命」のほうは、「もとづく」ことであり、いったん回帰した原点から現実の世界に戻ってくる方向性を持っている。両者は、まったく逆の方向性(ベクトル)になっている。だから、私たちが『法華経』、あるいは本尊に回帰していくことは、不変の真理としての南無妙法蓮華経に帰り、またそこから現実に立ち帰り南無妙法蓮華経という智慧を発揮するという往復運動を繰り返しいるということになる。あくまでも、この両面が必要である。「隨縁真如の智」を発揮するといっても、もしも「不変真如の理」に帰していなければ、現実生活の慌ただしさに振り回され、根無し草のように自分を見失って空転するという結果になりやすいであろう。「隨縁真如の智」を無視して、「不変真如の理」だけを追求すれば、融通性がなく原理原則の観念的な人となるであろう。「不変真如の理」に根差した「隨縁真如の智」であるがゆえに、状況が変わっても自由自在に対応できる。日蓮は、『法華経』を読誦したり、南無妙法蓮華経と唱えたりすることで、いったんはこの「不変真如の理」に帰ることを意図している。自らの原典を確認したうえで、そこからまた現実に戻ってくる。日常生活に戻って、さまざまな人間関係の中でいろんな判断を問われる場にあって「隨縁真如の智」は発揮されるというのだ。この「不変真如の智」と「隨縁真如の智」の二面性を踏まえて、ひとまず「帰命とは南無妙法蓮華経是なり」と結論される。「帰命」とは、「妙法蓮華経」という不変真如の理に「帰」することであり、「南無妙法蓮華経」という隨縁真如の智に「命(もと)」づくということであるともいえる。従って、「帰命」とは、「帰」すべき対象、「命」づくべきところという意味で、「南無妙法蓮華経」としている。次に、この「隨縁真如の智」と「不変真如の理」が一体となった時のことが、「釈に云く、『隨縁不変・一念寂照』と」と述べられている。ここに「迹に云く」とあるのは、『三大章疏七面相承口結』のことかと思われるが、そこに「隨縁不変・一念寂照」という趣旨のことが書いてある。これは、「不変真如の理」と「隨縁真如の智」があいまって、ピタリと兼ねそなわった時のことを言ったものである。「不変真如の理」に回帰することによって、私たち一念の心はしみじみと静かで落ち着き払った平穏な境地に立ち、それと同時に「隨縁真如の智」によって、心は智慧の光明によって明々と輝きわたるというのである。「寂」とな、サンスクリット語のシャーンティ(santi)を漢訳したもので、もともと「心の静穏」を意味している。現代語としては、「平和」(peace)という意味で用いられる。一九一三年にアジアで初めてノーベル賞を受賞したインドの詩人、R・タゴール(一八六一~一九四一)が創設した大学は、カルカッタのシャーンティ・ニケータンという町にあるが、非常に静かな楽しいところである。この名前にも、「シャーンティ」という言葉が入っていて、その町の名は「平和の宿るところ」という意味である。あるいは、仏の国土される「寂光土」にも、「寂」という字と、「照」という字が入っている。こういうことを踏まえると、『妙法蓮華経』に帰命し、境智冥合(主体と客体の融合、一体化)した時には、心が鎮まり、安らかな境地が顕現するであろう。それは、熱狂的な忘我の境地とはまったく逆である。「寂」であるとともに、「照」である。静かで穏やかな境地であるけれど、光り輝くものがある。煩悩や執着心などが鎮まって、智慧が輝いてくる。だから、ものごとを〝ありのままに見る〟(yathabhutam pasyati、如実知見)ことができる。「寂光土」とは、そのような人たちの住んでいる国土である。『法華経』は、我々の生命が、瞬間に永遠をはらみ、宇宙大の広がりをもつものであることを、三世十方の諸仏・菩薩をはじめとする十界のあらゆる衆生が列座した虚空会の儀式として抽象的に表現していた。天台大師は、それを一念三千として理論的に体系化し、日蓮は、それを十界曼荼羅として顕して、実践方法を具体化した。だから、『法華経』を読誦すること、あるいは十界曼荼羅に向かって南無妙法蓮華経と唱えることは、霊山虚空会(霊山浄土)、あるいは十界曼荼羅で示された我々の尊く豊かな生命の世界に立ち還るということになる。そこに、静かで安らいだ心が開けるとともに、心が明々と輝いてくる。「静かであるが深い人」といったところであろうか。そういう世界が、この「帰命」によって開かれる、ということであろう。この「寂照」に類似したサンスリット語のプラサーダ(prasada)がある。これは「浄信」「澄浄」「清浄心」「歓喜心」などと漢訳されたが、「真理に則った信の結果得られる澄み切った晴れやかな心」を意味している。これと正反対の言葉にバクティ(bhakti)がある。これは「我を忘れた熱狂的な信仰」のことである。仏教では、原始仏典でも『法華経』などの大乗仏典でもバクティという言葉は一切用いられることはなかった。それを用いたのは、バラモン教であり、それを融合した真言密教だった。 【日蓮の思想「御義口伝」を読む】植木雅俊/筑摩選書
June 16, 2025
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猛暑から身を守る恒常的な脱水に注意早稲田大学人間科学学術院教授 永島 計さんながしま・けい 早稲田大学人間科学学術院教授。博士(医学)。「認定産業医」。日本スポーツ協会公認スポーツドクター。京都府立医科大学大学院修了後、同大学附属病院研究委、イエール大学ア学部ピアス研究所プスドク研究員などを経て現職。専門は生理学。特に体温・体液の調和機能の解明。 ポイント① 体温調節機能の〝働き過ぎ〟を避ける② 体重や尿の力から体の水分量を確認③ 適度な運動と規則正しい生活リズム 体温のコントロール人間や動物は、自分たちの生存にとって有利な温熱環境を選びながら生きています。例えば、人間は、部屋が暑ければ冷房をつけるし、屋外では(他の動物と同様に)少しでも日陰のある所を選ぼうとします。それでも十分に体温が調節できない場合、人間は二つの機能を使います。一つは皮膚に流れる血管を拡張させて体表への血流の流れを活発にします。これにより皮膚表面から熱が外に出やすくなります。もう一つは汗をかいて皮膚から水分を蒸発させる方法(気化熱の利用)です。これらの反応は主に、脳の視床下部と呼ばれる自律神経の中枢となる部分でコントロールしており、自律性体温調節といいます。人間はこのように優れた機能を持っているのですが、連日の暑さの中で、この機能を過剰に働かせており、それが自律神経に過度な負担をかけています。その負担がストレスの原因や、免疫力の低下につながり、体調不良や夏風邪になりやすくなってしまうのです。 水分不足で夏バテに暑い夏を乗り切るためには、①水分補給とバランスの良い食生活、②適度な運動、③規則正しい生活リズムの基本が大切です。① 水分補給とバランスの良い食生活 夏バテの大きな原因の一つは脱水です。熱中症は、汗のかき過ぎで脱水症になり、これを原因として気分が悪くなったり、けいれんを起こしたりすることにつながります。 熱中症予防のため、水分補給を意識している人も多いと思いますが、連日、暑い日が続いている状況では「恒常的な脱水」にも注意してください。特に日中、炎天下で仕事をしていて、短い期間で体重がグッと減ったという人は、脱水の可能性があります。一日にトイレに行く回数が減っている場合も危険です。自分の体重を毎日計測したり、尿の量が減っていないかをチェックしたりして、自分の体の中の水分量を確認し、脱水のサインを見逃さないようにしましょう。水分をとる際にスポーツドリンクを飲む人もいると思います。短時間で多くの汗をかく場合には大事なことですが、それほどでもなければ、水や麦茶による水分補給で十分です。高齢者などは、あまり汗をかかないので、塩分の強いスポーツドリンクを飲むと、むしろ塩分過多の弊害が大きくなる可能性もあります。水分と関連しますが、暑さに対抗するために大切なのが血液の量です。これはバランスの良い食生活を中心に、特にタンパク質の高い食品を積極的に取ることで、適切な血液量を維持することができます。 ② 適度な運動 筋肉量を保持する運動が大切です。汗をかけば体の水分はもちろん失われますが、筋肉の中の水分は貯水湖のように働き、脱水による体への負担をやわらげてくれます。日頃から、運動習慣のある人は汗をかきやすく、疲れにくい体を維持しています。反対に運動習慣のない人は、汗をうまくかけないので体温が上がりやすくなり、結果的に疲れやすい体になってしまいます。具体的な運動の方法については、個人差がありますが、20~30分程度、少し息が上がるくらいの運動を週に3~4回ほど行うと、効果があると思います。かえって疲れそうな気がしますが、日射の影響がないところ、気温の高くない朝方や夜に実施してみてください。早歩きや、軽いジョギングなどがおすすめです。③ 規則正しい生活リズム 前述の通り、体温は自律神経がコントロールしています。その自律神経を整えるために意識したいのが、規則正しい生活リズムです。日中にたくさん汗をかいて、スポーツドリンクを飲んで水分や塩分を補ったといっても、それで体が回復できるわけではありません。入浴や睡眠を通して、体を休ませることも意識しましょう。連休やお盆の期間は、生活リズムが乱れがちになりますが、休み明けに体調を崩さないためにも、規則正しい生活リズムを心がけましょう。 危険な暑さの警告汗を上手にかく人と、そうではない人の話を述べましたが、たとえ上手に汗をかける人でも湿度が高いところでは熱中症のリスクが高まります。反対に気温が高くても湿度が低ければ、ある程度、水分補給できていればリスクは低減します。こうした気温、湿度の影響に加え、日射・輻射(熱異動)の要素を組み合わせた指標が「暑さ指数」です。この数値が31以上の場合は、熱中症のリスクが極めて高くなるので十分注意が必要です。今年4月からは、「熱中症警戒アラート」より一段上の「熱中症特別警戒アラート」の運用が始まりました。翌日の日最高暑さ指数」が、広範囲にわたって35以上となることが予測される場合に発表されます。これは、過去に例のない危険な暑さを警告し、自分だけでなく周りの人も命を守るよう呼びかけるものです。汗をかく能力には個人差があります。一般的に年齢を重ねていくと、体温調節機能は衰えていくので、高齢者は注意が必要です。慢性疾患を抱えている人、降圧剤や睡眠薬を使っている人、体温調節機能が発達中の子どもたちも、同様に注意してください。気象庁の向こう3カ月(8~10月)の天候の見通しによれば、全国的に減稲よりも平均気温が高くなることが見込まれています。今後も警戒アラートなどの指標を軽視することなく、適切な冷房の使用などの対策をして、夏の後半と残暑を健康に過ごしていきましょう。 新型コロナウイルス感染症の発熱との違い新型コロナウイルス感染症の発熱と熱中症の発熱の見分け方の一つに、「発汗があるかないか」があります。感染症の発熱は、体が「体温を上げようとしている状態」であり、発熱している人は寒いと感じ、熱を逃す必要がないので、体温が高くても汗をたくさんかいてはいません。対して熱中症の初期の発熱は、体が「体温を下げようとしている状態」で熱いと感じ、汗をたくさんかいているのが特徴です。 【健康PLUS+】聖教新聞社2024.8.10
June 15, 2025
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鎌倉将軍の妻にみる女性活躍鎌倉歴史文化交流館 学芸員 山本 みなみ 本年は、北条政子の八〇〇年忌、源実朝の妻が没後七五〇年に当たる節目の年であることから、鎌倉幕府の将軍の妻として活躍した二人の女性を紹介したい。 北条政子稀代の女性政治家初代将軍源頼朝の妻北条政子は、「尼将軍」と呼ばれるほど勝気な気性だったという評価が定番である。これは儒教が浸透した江戸時代からで、江戸幕府の編さんの歴史書『続本朝通鑑』は、源氏将軍が途絶えたのは女人の政子が関与したからであるとさえ記す。しかし、源氏将軍の断絶と承久の乱という幕府存続の危機を乗り越えた人物こそ政子である。将軍実朝の暗殺後、幼い貴族の男子を迎え、政子が実質的な将軍となることで、幕府の基礎が揺らぐことはなかった。有能な政治家たろうとする意識は強く、為政者の必読書である『貞観政要』を読み、政治の助けとしたという。続く承久の乱の際には、頼朝の恩を解いて御家人をまとめ上げた。乱後の行き届いた恩賞分配には、目を見張るものがある。嘉禄元年(一二二五)七月、政子は甥の北条泰時に期待を寄せて、この世を去った。享年六九。政子の死後、「御成敗式目」の制定など、幕府の法整備が進んだのは偶然ではない。偉大な存在であっただけに、余人をもって代え難く、法によって整備する方向へと進んだのである。たぐいまれなる政治力を発揮した政子は幕府体制にまでも影響を及ぼした。 幕府存続の危機を乗り越えリーダーシップへの再評価を 源実朝の妻公武融和の象徴として三代将軍実朝の妻となったのは、貴族の坊門信清の娘、一二歳の少女である。京・鎌倉をつなぐ坊門家と源氏将軍家の婚姻は、公武融和の象徴であったといえよう。鎌倉では、実朝とともに神社に参詣し、幕府の安寧を祈るなど、正妻としての役割を果たした。花見に行くなど、夫婦仲も良好であったが、結婚生活は突如終わりを迎える。建保七年(一二一九)正月、実朝が暗殺されると、翌日には出家して、西八条邸に居住した。当時、貴族の女性の離婚・再婚は一般的であったが、本覚尼は夫の菩提を弔う道を選択したといえる。承久の乱の際には、兄の忠信が京側についた。乱後、捕らえられたが、政子に兄の助命を嘆願し、処刑を免れている。寛喜三年(一二三一)には西八条邸の寝殿を堂にし、遍照心院(今の大通寺)を創建し、実朝の菩提くようにその生涯をささげた。この世を去ったのは、文永十一年(一二七四)九月。享年八二の大往生であった。この翌月にはモンゴル襲来が迫っており、本覚尼は鎌倉前・中期という長い歴史の目撃者であった。亡くなる二年前に記した遺言状では、人生を次のように振り返る。我すでに春秋を送ること八十年にみてり。人間の異常いくばくか、眼にさえぎる。おりにふるゝあわれ、ことに身をかえりみる思いふかし。公武融和の象徴として鎌倉に下向したものの、多くの人の死を目の当たりにし、人間の無常を感じずにはいられなかったのである。◇以上、正妻二人の生涯を追ってきたが、源氏将軍の断絶や幼い将軍の出現といった不測の事態が起ころうとも、幕府が存続した背景には彼女たちの存在があったといえる。とりわけ政子の人物像は、評価する側の意図や時代背景によって変化してきた。女性の活躍推進が謳われ、リーダーシップを発揮する女性のローモデルには注目が集まる今こそ、政治家としての政子が再評価されるべきタイミングではないだろうか。(やまもと・みなみ) 【文化】公明新聞2024.8.9
June 15, 2025
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発達障害から考える〝生きやすい社会〟大阪大学大学院教授 片山泰一さんに聞くかたやま・たいいち 1964年、大阪府生まれ。大阪大学大学院・連合小児発達学研研究家・研究科長。大阪大学、金沢大学、浜松医科大学、千葉大学、福井大学による連合小児発達研究科で、脳に関する基礎研究を行い。子どもの心の問題にアプローチする。公益社団法人「子どもの心の問題にアプローチする。公益社団法人「子ども発達科学研究所」代表理事。博士(医学)。本年4月から「改正障害者差別改正法」が施行され、障がい者に対する合理的配慮が、国や自治体だけでなく、民間事業者にも義務付けられるようになりました。「大切なのは、私たち一人一人の〝障がい観〟の転換です」と語るのは、大阪大学大学院で発達障がい(神経発達性)に関する研究を行う片山泰一教授です。具体的に伺いました。(聞き手=斉藤智) 当事者の家族として——「発達障がい」と聞くと、思い起こす記憶があります。学生時代、発達障害のある荒廃がいました。決まったものしか食べず、私は「もっとほかのものを食べなよ」と声をかけたことがあるんです。けれど後に、変色も発達障害の特徴の一つだと知って……彼にいやな思いを感じさせてしまったのではないかと反省しました。 発達障害といわれる人たちと、どのように関わっていけばよいのか、悩まれている方は多いかもしれません。「偏食」という話がありましたが、あらかじめ知ってほしいのは、一般に発達障害の人に多いといわれる変更も、現れ方は人それぞれだということです。お話を伺う限り、そのケースについて気になされる必要はないと思います。本人が「自分はこれしか食べられないんだ」と言えれば、それでいいのですから。これが、周囲から苦手なものを「食べろよ」と強要されたら、生きづらさにつながります。そこで初めて〝障がいが生まれる〟のです。本人ができる・できないは別として、相手のことを機にかけて、声をかけること自体は問題ない。玉に、気にしすぎて腫れ物扱いになってしまう方が、良くありません。ここに、障害者を取り巻く大きな問題があるのですが、日本では「障がい者=弱者」と捉える傾向が、あまりに強い。苦手なことやサポートが必要な場面が多いと、すぐに〝弱者〟と結びつけてしまう。この捉え方の転換が必要だと思っています。実は、わが家の自助も、生後6か月具体のときに発達障害と診断されました。その頃、すでに私はこの研究をしていましたが、それでも、受け入れるまでに数カ月はかかりました。最初はやはり、〝この子は普通の人生は送れないんだ〟と、ネガティブな感情が巻き起こるんですね。しかし、家で接する娘はいつもと変わらず、にこにこと楽しそうにしている。巣の姿を見ていたら、〝普通かどうかは関係ない。この子が幸せになればいいんだ〟と心が切り替わったんです。犬が好きな娘は、動物専門学校を卒業後、愛玩動物飼養管理士の試験に挑戦しました。5回目で合格した時は、うれしかったですよ。もう家じゅう、大騒ぎです。子どもが一生懸命、努力して、目標を達成する。それを家族で喜ぶということの素晴らしさは、どこの過程も一緒だと思います。〝幸せになるために、普通である必要はなんてない〟——私は娘から大切なことを教えてもらいました。いまも日々、教えてもらっています。 脳の多様性——〝障がいが生まれる〟という表現をされましたが、具体的にどのような意味でしょうか。 近年、障がいの概念が大きく変わってきています。起点となったのは、2006年に国連で採択された「障害者権利条約」です。障がいは、その人本人にあるのではない。社会と相互作用によって生じたハードルが障がいである。という考え方が示されたのです。この考え方から行くと、「発達障がい」という名称自体、適切ではありません。医学的には既にこの名称は用いず、神経発達症と呼んでいます。さらに、この神経発達症という言葉からもう一歩進んで、「ニューロ・ダイバーシティ」(脳の多様性)として理解すべきという考え方が、主流になりつつあります。「発達障がいという障がい」があるのではない。あるのは、〝ほかの人と違う脳の回路〟という事実だけなのです。能の回路が違うということは、世界の見え方が違うということ。芸術家や学者は、人とは違う世界の見方をしているからこそ、すぐれた作品や研究を生み出せるとも言えます。実際、芸術家や学者で、発達障がいといわれてきた人は多い。ただ、忘れてはならないのは、人と違うということに本来、優劣は存在しないということです。そして、この違いがマイナスの方向、すなわち〝障がい〟とされてしまうのは、人と違うということに本来、優劣は存在しないということです。そして、この違いがマイナスの方向、すなわち〝障がい〟とされてしまうのは、基本的には、社会の在り方に問題がある。さらに言えば、その社会を構成する私たち一人一人の問題であると認識することが重要なのです。 互いの足りない部分を自然に補い合う関係に 0か100ではない——頭では分かっていても、〝わがこと〟として受け止めるのは難しいものです。もし、障害者のために〝何かしてあげる〟という考えがあるとすれば、それは相手を弱者と見なす〝上から目線〟に陥っているのかもしれません。発達障がいを考える時に、まず大事になるのは、「自分もの祖延長線上にいる」という認識を持つことです。発達障がいの一つである自閉スペクトラム症(ASD)の「スペクトラム」とは、「連続体」という意味ですが、その言葉がしますように、そうした傾向がある人と全くない人——この2種類の人間がいるのではありません。0か100ではなく、100人いたら100通り。グラデーションとして理解すべきであり、本来、どこかで線引きできるものではないのです。確かに発達障がいの人は、サポートが必要な場面が多いかもしれない。けれど考えてみてください。いわゆる健常者とされるわたしたちだって、サポートが必要とされる場面はありませんか。例えば、会社で働いていて、任される仕事のすべてが得意という人は、なかなかいないのではないでしょうか。やはり苦手な仕事もあって、先輩や上司のサポートが欲しい時がありますよね。でも、日本人は、それをあまり口に出さない傾向がある。〝助けを求めることは恥ずかしいことだ〟という考えが、どこかにあるのです。しかし、その考えが、自分たちも自信を生きづらくしていないのではないでしょうか。私は、これからの社会の在り方を考える時に、発達障がいの人を中心に置く必要があると思っています。ASDの人の中には、物事を理詰めで考える方もいます。〝臨機応変に〟といったあいまいな表現では、こちらの意図は伝わりません。しかし、順を追って丁寧に説明すれば、同じ理解を共有することができる。発達障がいの人達が理解できる方法があれば、基本的に、その周囲にいるすべての人が理解することができます。そう考えていくと、発達障がいの人が生きやすい社会とは、自分も含めて全ての人が生きやすい社会なのです。パズルのピースをはめていくように、人びとが互いの足りない部分を補い合っていく。それが自然にできるようになれば、社会はもっと生きやすくなると思います。 豊かに比べればいい——仏法では、一人一人の人間が持つ個性の輝きを「桜梅桃李」という言葉で譬えます。そこには「人間はそもそも皆、違う」「その違いを、自分らしく輝かせていけばいい」とのメッセージが込められています。 人と違うということは、その人の魅力でもあり、強味にもなります。しかし、日本の障がい観も然りですが、その違いが、あたかも悪いこと、マイナスなことのようにとらえられ、覆い隠されてしまっている現状があります。現代では、「人と比べてはいけない」とよく言われます。しかし私は、これまでお話ししてきたことを踏まえ、あえて「もっとしっかり比べてね」と言いたい。「優劣をつけるために比べる」のではなく、「お互いの違いを理解するため、正しく豊かに比べる」という意味です。特に、発達障がいの人とのコミュニケーションは、何が得意で、何が苦手なのか、何が好きで、何が嫌いなのか……といった情報を、あらかじめ把握しておくと、円滑に進みやすくなります。このような、特性を客観的に理解する助けとなる情報を、専門的には「アセスメント」といいます。発達障がいの人にとっても、自分という人間を客観的に表せることは重要です。その意味で、私は〝自分の取説(取扱説明書)〟という言葉で、アセスメントを表現するようにしています。先ほど、スペクトラム(連続体)の話をしましたが、発達障がいの診断における線引きは難しく、携行はあっても診断基準に満たないと判断されてしまうことがあります。いわゆるグレーゾーンです。公的なサポートを受けられず、虫と大変な思いをしている方もおられます。グレーゾーンの人も含めて、発達障がいの人の生きづらさを亡くしていくためには、周囲の人達とよく比較をして、互いに違いを認識していく——そういったアセスメントが大切なのです。その際に、周囲の人たちがまず、〝人間はみな、違うんだ〟ということを植え入れて、「正解か不正解か」「善いか悪いか」といった評価付けをしないことが重要になります。そうしりことで、避けられる衝突もあるし、相手に合わせるために無理をしない、あるいは、無理をさせないで済むこともある。その上で、もう一派進んで、〝どんなふうに違っているのか〟を互いに掘り下げてほしいと思います。相手だけでなく、自分自身のことを深く知るきっかけにもなるからです。そこから〝人生の豊かさ〟につながる関係性も築いていけるのではないでしょうか。 【Switchスイッチ共育のまなざし】聖教新聞2024.8.8
June 14, 2025
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「エビデンス」とは?東京大学名誉教授 安藤 宏最近、「エビデンス(証拠、根拠)」という言葉をしばしば耳にする。議論の中で、「貴女の主張や意見にエビデンスは有るのか?」と、やや批判的な文脈で使われることが多いようだ。きちんと証拠を示せ、ということらしい。実は私は、どうしてもある種の違和感を隠せないでいる。もちろん私自身、長年研究を職業にしてきた人間なので、「エビデンス」の重要性については十分に認識しているつもりだ。だが、実際にはAという学説を裏付ける資料が、観点を変えればBという相反する学説の論拠にもなりうる、という地雷にしばしば遭遇する。また、大半の資料はAという学説の正しさを立証しているのに、そうでない資料に出会い、困ってしまうこともある。研究の現場は、決して一つの「エビデンス」があるから主張が成り立つ、などといった単純なものではないのである。証拠は、ただそこにあるから「証拠」なのではない。一つの資料をどのような角度から解釈し、どのような意図をもって立証の手立てとするかという見通しがあって初めて「証拠」になるのである。都合の悪い事例があることを招致で、あえて作業仮説の有効性に欠けなければバラないこともあるし、だからこそ、さらに調べてみよう、という熱意も生まれてくるのである。「エビデンスは?」と、人の意見に横やり(?)を入れるような発言には、とにかく証拠を一つ示せば主張が正当化される、という安易な発想が含まれていないだろうか? 表やグラフも作り方次第でいくらでもうける印象は変わってくるし、観客の衣をまとった、こうした印象操作ほど怖いものはない。重要なのは、「エビデンス」という言葉を錦の御旗に掲げてしまうのではなく、主張の内容を自分の判断でしっかり吟味していく心がけなのだと思う。 【言葉の遠近法】公明新聞2024.8.7
June 14, 2025
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世界で急成長の日本マンガ明治大学 国際日本学部教授 藤本由香里 日本マンガの快進撃が止まらない。『少年ジャンプ』650万部の時代の頂点だった1996年の5864億円をさらに1000億円ほど超え、昨年には6937億円と、史上最高を記録した。 アメリカで市場規模が急拡大 近年、海外で日本マンガ市場も、驚異的な躍進を見せている。たとえば、アメリカ。昨年参加したホップカルチャーの国際学会で米出版社の方から、アメリカのコミックス市場におけるMANGAの市場規模は、2022年には、2018年の「4倍」になったとの報告を聞いた。じつはアメリカでは2007年をピークに日本マンガ市場は急落していた、この頃から、「マンガ村」のような大規模海賊版サイトが次々と生まれ、みなタダで詠める海賊版サイトでマンガを読むようになってしまったことが原因である。しかし日本の出版社も、海賊版対策やサイマル配信など力を入れ始め、2012年頃から少しずつだが市場が伸び始めた。ここに追い風になったのが、集英社のアプリ「MANGA Plus by SHUEISHA」である。これはジャンプ等の人気作品を、日本での販売と同時に英語やスペイン語で配信するという試みで、これによって海賊版に流れていた読者が正規版に戻る流れができた。そこえもってきてコロナ禍だ。海外のアニメ市場も近年目覚ましい成長を続けており、アニメは原作マンガへの強い誘引剤となる。こうしてコロナ禍の「おうち時間」の過ごし方として日本産のアニメや漫画に人気が集まり、ここ5年で市場規模が4倍というとてつもない伸び率を示したのである。コロナ化も落ち着いた昨年は、さすがに前年より少し減少したようだが、いずれにせよ、アメリカでの日本マンガ人気が高止まり状態であることは間違いない。売れ筋としては『チェーンソーマン』がダントツで『ベルセルク」『鬼滅の刃』『僕のヒーローアカデミア』『SPY×FAMILY』『呪術廻戦』などが目立つが、売れ行きバスト20にホラー作家の伊藤潤二の著作が5冊も入っていることも見逃せない。伊藤潤二は数年前から北米で大ブームなのである。 フランスも上昇、アジアでは? 一方、ヨーロッパの漫画の中心地フランスでは、いまだに紙の本が主体であるため、日本マンガはずっと高め安定の市場だったが、2021年にはそれがさらに2倍近くに上昇した。昨年はさすがに少し落ち込んだが、それでもコロナ前の1.5倍以上の市場である。冊数では、フランスのバンドデシネ(コミック)市場の半分以上が日本の漫画で、フランスで日本マンガは完全に定着した感がある。上筋としては『ONEPEACE(ワンピース)』が独走状態だが、すでに連載が終了した『NARUTO—ナルト—』の人気も根強い。『SPY×FAMILY』、今年は宮崎駿、『シュナの旅』なども上位に食い込んでいる。もちろん、アジアでの日本マンガ人気はいまだに別格。しかし最近では韓国発の縦スクロールマンガ「Webtoon(ウェブトーン)」が各国で人気を延ばしてきており、中国では完全にこちらに置き換わっている。これを受けて「これからはWebtoonの時代だ」等の声も聞かれるがWebtoonの強さは縦スクロールにあるわけではない。今後の世界戦略を考えると、日本はWebtoonのビジネスモデルをより正確に理解していくことが求められている。 ふじもと・ゆかり 熊本県生まれ。東京大学教養学科卒。筑摩書房の編集者を経て、現職。専門は漫画文化論・ジェンダー論。手塚治虫文化賞、講談社漫画賞の選考委員、文化庁メディア芸術祭マンガ部門の審査委員などを歴任。 【文化】公明新聞2024.8.7
June 13, 2025
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法華経に説かれた「三車火宅の譬え」混迷の世紀から人類を救い出す道を 池田先生「世界平和記念勤行会」でのスピーチ(2002年9月)㊦パグウォッシュ会議で会長などを歴任し、核兵器廃絶を目指す活動に尽力してきた功績でノーベル平和賞を受賞した「ジョセフ・ロートブラット博士。その博士が2000年2月に沖縄を訪れた時、池田先生の前で次のような言葉を述べていた。「1957年にパグウォッシュ会議ができ、日本を初訪問した折、私は広島を訪問し、戦争と原爆の爪痕を見ました。そして東京で、この課題について講演しました。その同じ時に、戸田城聖氏は、横浜の三ッ沢競技場で、有名な『原水爆禁止宣言』を発表されたのです」「戸田城聖氏と個人的にお会いできなかったことは残念でした」「しかしながらパグウォッシュ会議は、『核兵器なき世界』『戦争なき世界』へ向け、戸田氏が始められ、池田会長と創価学会が続けてきたお仕事を、共通の歩みを進めてまいりました」と。博士は、パグウォッシュ会議が発足する円減となった「ラッセル=アインシュタイン宣言」(55年7月)の現署名者のひとりだったが、こうした戸田先生や池田先生に対する共感を一貫して抱いていたからであろう。「ラッセル=アインシュタイン宣言」の精神を21世紀に伝えるために、同宣言を復刻した特装版を作製した際、博士が第1号の贈呈先に選んだのは、池田先生にほかならなかった。2001年10月、アメリカで「9・11」の同時多発テロ事件に伴う混乱が続く中、博士がイギリスのロンドンから、開学間もないアメリカ創価大学を訪れた際に、創立者の池田先生に届けてほしいと、宣言の特装版を自ら自賛したのである。 — ◇ — 「原水爆禁止宣言」のの発表45周年の意義をとどめる厳業界が行われたのは「9・11」から1年になる時でもあった。池田先生はスピーチでそのことに言及し、世界の青年部の代表たちに、こう呼びかけた。「原水爆禁止宣言は人類の生存権を高らかに謳い上げた普遍的な宣言であった。生命の尊厳を冒し、人類社会の存続を脅かす、あらゆる形の暴力と戦いゆく宣言といってよい。それは、他の国々との『平和友好宣言』『文化教育交流宣言』にも通じていく。さらにまた、昨年(=二〇〇一年)の九月十一日の同時多発テロ事件以降の世界にとっては『テロ・戦争禁止宣言』の意義をもつものといえる。『9・11』は、二十一世紀の第一年に刻まれた、悲劇の日である。私たちは、『人類は、いかなる暴力にも断じて屈しない!』という『9・8』に貫かれた、勇気と信念の非暴力の叫びを受け継ぎ、いやまして高めながら、平和の波動をさらに広げてまいりたい」戸田先生の「原水爆禁止宣言」の眼目は、核兵器の使用を禁止し、核兵器という〝現代世界の一凶〟を地球上からなくすことにあった。だが、意義はそれだけにはとどまらない。宣言の根底に脈打っていたのは、「世界の民衆の生存の権利」を何としても守り抜かねばならないとの強い信念だったからだ。この詩の想いを誰よりも深く知っていたからこそ、池田先生はスピーチを通して、「原水爆禁止宣言」の意義について、21世紀の課題を踏まえる形で多角的に論じながら、人類がめざすべき〝平和と人道の地球社会〟のビジョンを提起したのではないかと思えてならない。 — ◇ — 池田先生が勤行会でのスピーチで、「この現実の社会には、大火に焼かれるような苦しみが、いまだに絶えることがない」と述べていた状況は、今も世界各地で起きている。だからこそ重要となるのは、「原水爆禁止宣言」から1年後に池田先生が寄稿で言及していた、法華経の「三車火宅の譬え」が促すような、〝すべての人を火宅から救う〟との精神に立つことである。そして、仏法者である私たちが21世紀の世界で果たすべき使命とは何かを、見つめ直すことではないだろうか。「三車火宅の譬え」とは、次のような説話である。——ある長者の屋敷が火事に見舞われた。だが、屋敷にいた子どもたちは危険に気づかず、大火に巻き込まれて命を落としてしまいそうな状況だった。そこで長者は、さまざまな方便を用いて子供たちに働きかけ、燃え盛る屋敷から全員を無事に救出することができた——池田先生は勤行会のスピーチの結びで、世界各国の青年たちにこう呼びかけた。「永遠の生命の哲理を掲げて、人類が永遠に理想として願望してきた、安穏にして平和の幸福世界を断固とつくり上げていこうというのが、後世流布の大運動である」この誇りと使命を胸に、人類のため、未来のために、「火宅を出ずる道」を切り開く挑戦を共に重ねていきたい。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第6回— 聖教新聞社2024.8.6
June 13, 2025
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文明の成り立ちの見直しも必要科学文明論研究者 橳島 次郎 気候化学——気象を制御する今年も本格的な台風の季節が来る前から、大雨が各地に被害をもたらしている。酷暑が農作物の生育を脅かしてもいる。こうした気賞による災厄を防ぐ手立てはあるのだろうか。激甚化する台風や豪雨の強度や発声範囲を変化させ被害を軽減したり、逆に干ばつに対して雨を降らせたりする先端技術の開発研究が行われている。気象制御または気候光学と呼ばれる。ヨウ化銀やドライアイス、吸湿性粒子を切りの中に巻いて台風を抑えたり、超音速による大音響を起こして積乱雲の中の雹の成長を抑えたりする技術が想定されている。日本では内閣府主導の「ムーンショット型研究開発」の目標の一つに入れられ、国が研究助成を進めている。また、地球温暖化を軽減するため、成層圏にエアゾルを注入するなどして太陽光を遮り、伝わる熱を抑える技術も考えられている。気象制御は研究段階の技術で、どれだけ効果があるのか、期待はされているが、まだ明らかではない。ある地点で大雨を防げても、別の地点に降雨が移るなどして、想定していない災害を引き起こす恐れはないのかなど、気象全体に与える影響の問題が懸念されている。屋外でその実証実験をどう管理・規制し効果を適正に判定できるかが課題だ。また、気象の操作を破壊や攻撃などの軍事目的で使用することは、環境改変兵器禁止条約で禁止されている。気象制御を社会がそう受け取るかも問題だ。例えば太陽光熱の軽減技術が実用化できたとしても、温暖化を完全に防ぐことはできず、リスクを減少させるだけだ。これで問題が解決できると社会が受け取ると、本来進むべき脱炭素化と温暖化額削減への対策がおろそかになる恐れがある。さらに根本的な問題として、人間は科学技術を使って自然をどこまで制御してよいのかが問われる。近代以降、進んだ科学研究で得られた知識に基づき、自然を加工し操作する技術の力が飛躍的に高まった。そこで実現した大規模な工業化により、自然環境の汚染と破壊が地球規模で進んでしまった。大災害をもたらす激甚気象は、科学技術の発展の負の千仏である地球環境問題が一因なのだが、それをさらに科学技術を進めて制御しようとするのは、現代文明の恩恵を受けてきた人間が背負う深い業だと思わざるを得ない。気候光学技術の何をどこまで利用してよいのかを判断する際には、こうした文明の成り立ちを見直し深く反省する必要があるだろう。 【先端技術は何をもたらすか—26—】聖教新聞2024.8.6
June 12, 2025
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原爆開発支えた町の光と影映画「リッチランド」のルスティック監督に聞く リッチランド 米・ワシントン州の都市で、現在の人口は約6万人。1960年代、核燃料生産拠点となったハンフォードサイトに従事する労働者とその家族が住む町として発展。87年、差異とは閉鎖し、いま住民の多くはサイトの浄化の仕事に従事する。かつての施設群は「国立歴史公園」に指定されている。 感情の底に流れる愛国心〈平和で美しい米国の典型的な郊外の町・リッチランドだが、冒頭に登場する地元高校フットボールのトレードマーク、「きのこ雲」「B29爆撃機」の異様さに目を奪われる〉 ——リッチランドを訪れたのは2015年。監督の目に街はどう映りましたか。また、なぜドキュメンタリーを撮ろうと思ったのでしょうか。最初の印象は衝撃的なものでした。町に入ると、レストランの壁や学校の校舎、至る所に原爆のシンボルである〝きのこ雲〟が描かれていました。また、そのシンボルがとても日常化されていることに驚かされました。さらに町について調べるなか、この町を知ることは国内に横たわる問題を考えるケーススタディーになるのではないかと思うようになっていました。国内には、暴力的な歴史、奴隷制度や先住民の虐殺、排除等の歴史がありますが、こうした歴史と人々はどう折り合いをつけ、クラスの家——それはとても大きな問題なのです。 ——町の歴史に対し、人びとは自覚的ですが、受け止め方や表現には差がありますね。プルトニウムを製造してきた街に暮らすことへの感情はさまざまです。それを誇りとして語る人もいれば、その兵器が多くの犠牲者を出したことから、考えることを避ける人もいます。さらに原爆が投下された日本に思いを向ける人もいましたが、私はそうした感情の底流にある「愛国心」について考える必要があると思いました。愛国心は人々の世界観に強烈な影響力を及ぼすものだからです。リッチランドの住民の多くは核施設で仕事を得、一種の郊外型アメリカンドリームを生きた人々です。彼らが豊かな暮らしを実現してきたことと町の歴史は切り離せません。そして、その町の歴史とは、第2次大戦を勝利に導いた愛国心と深く結びついた物語なのです。しかし、問題は、その物語に取りつかれ、異なる考えを受け入れられなくなることです。愛国主義が増徴し人びとの世界観に大Kな影響を及ぼす現在だからこそ、愛国心の持つ危険性についても問い直す必要があると私は思います。 核がもたらした無限と生きる〈本作では、詩の朗読や合唱隊のコーラスの映像が織り込まれる。そこには「滅ぼしの風」や「その気の果実はプルトニウム」といった歌詞も現れる〉 ——詩の朗読やコーラスの映像を加えようと考えたのはなぜでしょうか。 それらはアートであり、アートは未解決で複雑なものを含み込み、言葉の向こうにあるものを表現できるからです。さらに、それは出演者にパフォーマンスの場を与えます。そこから出演者とのコラボレーションが生まれます。アートを織り込むことは、そうした効果もありました。また、私が重要視したのは、そこには共同体から生まれたものを組み込むことでした。朗読される市は地元で生まれ育った詩人のもので、合唱隊のメンバーの多くはハンフォードに関係があるか、サイトで働く人々です。相することで、共同体の抱えるさまざまな思いを伝えることができたのではないかと思っています。 ——原爆は孤立した出来事ではなく、いまも引き続いている状態と語られていますね。 米国における核兵器の歴史を振り返ってみると、第2次大戦後も膨大な数の核兵器が製造されました。核実験も国内だけで900回以上実施され、放射性物質が広大な地域を汚染しました。その結果、本作紹介したようにワナパム族等の先住民は住む土地を奪われ、いまも帰還できていません。原爆は一つの出来事ではなく、社会の基本構造を変えたと私は考えています。ハンフォードサイトの除染プロジェクトは今後10万年以上も続くことになるでしょう。これもまた核の開発がもたらした「無限」と共に生きざるを得ない状態ではないかと私は思うのです。 異なる意見を聞く寛容さを——リッチランド高校の卒業生が他者に対し批判的にならず自由に語り合う場面は印象的です。 撮影当初から若い人たちの声を加えることが大切だと思っていましたが、彼らがとてもオープンな姿勢で話し合う姿に感動しました。町の歴史に一定の距離をとり、複雑な問題をきちんととらえる能力が彼らにはあると感じました。これまで多くの国で上映してきましたが、私には人の行動を変えたいという思いはありません。一方、観ていただければわかりますが、このドキュメンタリーには、自分とは異なる意見を持つ人が必ず登場します。そうした異なる意見の人の主張にもじっくりと耳を傾けられる寛容さを、観る人には持っていただければと思っています。 Irene Lusztig フェミニスト映画作家。英国生まれ、ボストン育ちの米国人1世。「リッチランド」以前にも3作の長編を製作。カルフォルニア大学サンタクルース校で、永がおよびデジタルメディア学教授として映画製作を教える。 【社会・文化】聖教新聞2024.8.6
June 12, 2025
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池田先生「世界平和祈念勤行会」でのスピーチ(2002年9月)㊤きょう九月八日は、ご存知のように、四十五年前(一九五七年)、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を横浜三ツ沢球技上で発表された記念日である。核兵器の使用に代表されるように、民衆の生存の権利を脅かすものは、「これ魔であり、サタンであり、怪物であります」と戸田先生は鋭く喝破された。人類の幸福を守り、世界の平和を守り抜くことが、青年部への遺訓となったのである。仏法では、人間性名の根本的な迷いを「元品の無明」と呼んでいる。その生命の闇を光へと転換していくのが、広宣流布の大闘争であり、人間革命の大運動である。人間の相互の不振や憎悪、暴力や恐怖等を生み出す、生命の根源的な魔性を打ち破っていくのである。私は「原水爆禁止宣言」の理念を、「平和主義」「文化主義」「教育主義」として「人間主義」として展開した。全世界に向かって対話の渦を起こしていったのである。日中国交正常化の提言を、学生部総会の席上で行ったのも、「原水爆禁止宣言」から十一年後(一九六八年)の九月八日のことであった。さらにまた、内外に反対が吹き荒れるなか、第一次訪中に続いてソ連を初訪問したのも、一九七四年のきょう、九月八日出会った。(中略)一ねっまた一年、この日が来るたびに、私は、原水爆を絶対に使用させてはならない、戦争をくいとめ、平和の方向へ、人類を融合させていかねばならないとの決意をこめて、人類を融合させていかねばならないとの決意をこめて、行動を重ねてきた。◇この現実の社会には、大火に焼かれるような苦しみが、いまだに絶えることがない。その中にあって、永遠の生命の哲理を掲げて、人類が永遠に理想として願望してきた、安穏にして平和の幸福世界を断固としてつくり上げていこうというのが、広宣流布の大運動である。ここに、多くの哲学者、宗教者、平和学者等が願望してきた、全人類が幸福に生きる権利を二十一世紀に打ち立てゆく道がある。(『普及版 池田大作全集 スピーチ』2002年〔2〕) 「原水爆禁止宣言」の精神を原点に世界の分断を防ぐための行動を展開 21世紀が開幕してから2年目(2002年)の秋——。池田先生は、9月5日の本部幹部会に続いて、戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表45周年にあたる9月8日におこなわれた、SGI青年研修会での世界平和祈念勤行会に出席した。勤行会の会場となったのは、東京・信濃町の僧か文化会館。現在は、広宣流布大誓堂が立つ場所である。創価文化会館には、座席が階段状に並んでいる金舞会館があり、当日は、世界50カ国・地域の代表200人が集っていた。池田先生は会場に到達するや否や、世界の青年たちの健闘を讃え、両手でVサインを送った。そして深々と礼をしながら、「お幸せにね」「ご健康を祈ります」「お父さん、お母さんを大切にしてください」と、一人一人に声をかけた。入口付近にいたメンバーだけでなく、場内にある通路の階段を1段ずつ上がり、最上段にいる青年の所まで足を運んで、激励を重ねたのだった。勤行の後、池田先生はスピーチの冒頭でこう語った。「敬愛するSGIの我が同志を迎え、本部幹部会で忘れ得ぬ思い出を刻んだ。さらに、もう一度お会いして語り合いたいと思い、一切のスケジュールを変更し、勤行会に出席させていただいた」と。その上で、牧口先生の「羊千匹より獅子一匹たれ!」との言葉を通し、「きょう、お集りのみなさんは、一人も残らず、『一騎当千』の獅子に育っていただきたい。自分自身が『一騎当千』の力をつけることは、千倍の広宣流布の拡大に通じていくのである」と期待を寄せた。そしてまた、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表した9月8日に対する思いについて、「一念また一年、この日が来るたびに、私は、原水爆を絶対に使用させてはならない、戦争をくいとめ、平和の方向へ、人類を融合させていかねばならないとの決意をこめて、行動を重ねてきた」と、積年の心情を語ったのである。 — ◇ —核兵器の禁止と廃絶を求め、池田先生が貫いてきた師弟不二の行動——。それは、戸田先生による「原水爆禁止宣言」と時を同じくして、すでに1957年9月から開始されていたものだった。戸田先生の宣言について報じた聖教新聞の同じ日の紙面に、池田先生が御書の講義を通して述べていた〝核兵器は「全世界の共通の憂い」〟との言葉が掲載されていたのだ。また、戸田先生の逝去から5か月後(58年9月)、「原水爆禁止宣言」の発表1周年を迎えた際に、池田先生は聖教新聞で「火宅を出ずる道」と題する寄稿を発表した。法華経譬喩品の「三界は安きこと無し 猶火宅の如し 衆苦は充満して 甚だ畏怖す可し」の一節に言及しつつ、「原水爆の使用は、地球の自殺であり、人類の自殺を意味する」と論じたのである。それだけでなく池田先生は、折々の会合で〝核兵器の使用を断じて許してはならない〟と何度も呼びかけた。そして1960年5月に第3代会長に就任してからは、国内のみならず、海外においても、「原水爆禁止宣言」の精神に基づいて核兵器の非人道性を強調しながら、核兵器の禁止と廃絶を訴え続けてきたのである。さらに1996年2月には、戸田記念国際平和研究所を設立した。戸田先生の名前を冠する研究所の活動を通して、世界の学術者をつなぐネットワークを構築し、英知を結集するなかで、核兵器の問題をはじめ、地球的な課題の解決を後押しすることをめざしたのだ。こうした池田先生の行動の積み重ねがなければ、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の意義が、歴史に埋もれてしまう恐れもあったのではないだろうか。事実、世界各地で核兵器廃絶の運動に取り組んできた団体のリーダーたちが、池田先生と友情を結ぶ中で、その平和行動の原典が『原水爆禁止宣言』にあることを知り、戸田先生の先見性を高く評価する言葉を数多く寄せてきたのである。(㊦に続く) 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第5回— 聖教新聞社2024.8.5
June 11, 2025
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関東最大規模の環状集落デーノタメ遺跡 国指定史跡へ埼玉・北本市教育委員会参事 磯野 治司 縄文中期~後期の環境や食、栽培など文化を解明 今年六月二四日、国文化審議会は文部科学大臣に対し、デーノタメ遺跡を国指定遺跡にする旨の答申をした。これにより、この遺跡が国指定遺跡に向けて大きく前進したことになる。デーノタメ遺跡は、埼玉県北本市に所在する縄文時代中期から後期のムラの跡で、江川という小河川の支流に位置する。面積は約6㌶、遺跡の大半は深い杜に覆われている。遺跡名の「デーノタメ」とは、かつて遺跡の北部で水を湛えていた溜池の名で、縄文時代には重要な水源だったであろう。約5000年前に始まる縄文時代中期のムラは、長径が210㍍、短径が160㍍の環状集落で、「関東最大級」の規模を誇る。また、約4000年前に始まる後期のムラは、「デーノタメ」を囲むように弧状に連なり、その長さは弦長で270㍍と大きい。また、集落が1200年以上も長期に継続していたことも注目される。さらにこの遺跡の大きな特徴は、縄文人が利用していた水上空間が、台地化に存在していることである。こうした低地の遺跡では、当時の生活面が水漬けのまま埋もれているため、通常では失われてしまう有機質の遺物が残される。このため、縄文人が食料としたクルミ、トチノキなどの堅果類、クワ、ブドウ等のベリー類、そして鮮やかな赤漆を塗った土器が多量に出土したのである。まさに、「縄文タイムカプセル」と呼ぶにふさわしい。この低地を対象とした2008年の第4次調査は、170平方㍍という大変狭い面積で、ポンプで水を汲み上げながらの調査である。調査を始めると、間もなく土器が敷き詰められたように出土し、砂敷の道の周囲には6基のクルミ塚が点在していた。クルミ塚はクルミの核(殻)が目立つのでそう呼ぶが、塚の土壌をサンプリングして洗い出すと、驚いたことに縄文人が利用していた有用植物の種実を多く含んでいた。また、小さな溝の一画面には井桁状に組んだ木組遺構が設けられ、周囲には栃の木の皮が集中するトチ塚も形成されていた。縄文人が台地上から降りていて、水辺でトチの皮を剝いていた姿を想定させる。現地調査を終えた後は、花粉・年代・種実・樹種・昆虫・土器圧痕・同立体・漆塗膜など、さまざまな分析を行った。このうち花粉分析では、縄文人がムラを営み始めると、低地ではクルミが、台地上ではクリが増加し、トチノキが遅れて増加するという傾向が明らかである。また、土器圧痕ではダイズやアズキの圧痕が確認され、ダイズでは12㍉㍍と大型しているものがあり、5000年前の関東でダイズを栽培管理していた可能性がある。これと関連して、昆虫ではヒメコガネが多産している状況も確認できた。ヒメコガネは英名を「soybean beetle」というダイズの害虫である。種楽の周囲に大豆畑が広がり、「縄文里山」といえる環境であったことがうかがえよう。デーノタメ遺跡の歴史的な意義は、大規模集落と低地遺跡がセットで残っており、一つの遺跡で縄文時代中期から後期の環境繁華や、縄文人の植物資源利用などの実態を理解できることである。現在、歴史の教科書では縄文時代を従来の「狩猟」「採集」に「栽培」を加えた社会と表現するようになった。デーノタメ遺跡の調査成果は、まさにこれを体現しているといえよう。今後はこの遺跡の特性を生かしてさまざまな調査を継続するとともに、国指定として地域の住民が誇り、愛される史跡となるよう、地域ぐるみで育てていくことが課題である。(いその・はるじ) 【文化】公明新聞2024.8.4
June 11, 2025
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学び続けて人と交わる——シュティフターの文学福井大学教授 磯崎 康太郎世代を超えた継承知育偏重から学習者主体へ日本では現在、学校という職場環境の過酷さや、それゆえの教員志願者の減少が話題になっているが、十九世紀中葉のヨーロッパの学校環境も酷いものだった。オーストラリアの作家シュティフターは、大学を出て家庭教師として生計を立て、時の宰相メッテルニヒの息子の教育を任されるほどの手腕を発揮したが、作家の副業としての学校の教師を選ぶことはなかった。当時の小学校の教師は地位も給与も低く、教会での雑務や聖歌隊の活動を兼任しないと食べていくことができないくらいみじめな境遇にあったのである。その代わり、彼は一八五〇年代に教育視学官の職に就き、各地の学校を視察して回って、劣悪な学校環境や教師の待遇の改善を訴えた。学校教育に通じていたシュティフターが、自身の文学にあまり学校を登場させなかったのは、彼の描きたい学びや教育の姿が学校という枠には収まらないからだろう。彼は人間の成長について、ビルドゥングというドイツ語をよく用いる。日本語では、人間性、陶冶、教養といった訳語が当てられるビルドゥングは、学び手が主体となり、世界との関りのなかで調和のとれた人間形成をめざすという考え方である。例えば、彼の短編小説『水晶』では、雪山で遭難した主人公が、みずからの気づきによって成長していく姿が描かれている。長編小説『晩夏』では、人間は各々が最良の在り方で存在するとき、それが社会にとって最良のこととなる、という教育観が語られている。だが他方で、シュティフター作品における学びは、他人との協働形成の産物でもある。『麦価』において「教育とはおそらく交流以外の何物でもありません」と語られているように、一種のサロンのように人々が共用談義を行う場面が良く言受けられるし、学び手を見守り、支援する導きも常に登場している。女性や恵まれない子供への教育まで目配りがなされているのは、作家自身が教育というものを多面的に経験した証であろう。さらに、いま述べた学びや教育は、人間性にわたる営為であることも看過できない。小説「曾祖父の書類綴じ」では、日記をつけ、日々の記録を振り返りに役立てる曽祖父の姿が描かれている。この習慣を高齢になるまで続けた曽祖父は、あるとき、日記を書き継ぎながら死を迎える。同作の最終稿を執筆中だったシュティフターも、死ぬ間際にその原稿を友人に渡し、ここで作家が亡くなったという記載すべき箇所を指示した。いつまでも学び続ける者は、どこかの時点で新たな学び手が連結されることで導き手にもなるため、学びと教育は、世代をまたいで継承され、後代へと託されるものとなる。そこにはたとえば、伝統的なクリスマスの祝い方など、伝承されるべき文化的内容も含まれる。教育学では、知育偏重型の教育への反省から、学習者の主体性が問い直され、一九八〇年代頃から状況に応じた学びが重視されるようになったという。最近の日本でも、コロナ禍になかで森のようちえんが注目を集めたり、大学ではリカレント教育やeポートフォリオが推進されていたりする。シュティフターの描いた学びの教育は、案外近いところで具体化されつつあるのかもしれない。(いそざき・こうたろう) 【文化】公明新聞2024.8.2
June 10, 2025
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近著「日本鉄道廃線史」を巡って廃線にしないために小牟田 哲彦(作家)収支だけで決まらない可能な限り存続の道を災害きっかけに検討も昭和末期に国鉄の赤字改善策の一環として日本全国の赤字ローカル線が廃止されてから三十余年後の令和の世に、再び、日本全国で地方鉄道の存在を巡る議論が沸き起こっている。背景に利用者の減少という事実があるのは国鉄時代と同様だ。しかし近年は、災害による復旧をきっかけに廃線を検討するケースが多発しているのが新たな特徴と言える。近著『日本鉄道廃線史』では、被災してそのまま復旧せず廃止されてしまった路線(JR岩泉線、大船渡線)や、沿線自治体とJRとの新たな取り決めにより、数年乃至10年以上かけて復活した路線(JR浜名線、只見線)の例を具体的に取り上げている。日本の鉄道の旅客収支は、路線ごとに見れば、多くが赤字になる。だが鉄道は、長距離の大量輸送が可能な貨物輸送法においても力を発揮する。近年は、環境対策の観点からも、またトラックやバスのドライバー不足の見地からも、鉄道輸送が注目されている。それに、鉄道事業単体では赤字でも、その路線が存在することによって沿線の地域経済に活況をもたらし得る。さらに、日本中に広がる鉄道路線網は、国土全体の物流を総合的にカバーする広域交通ネットワークとして機能する。2011年春の東日本大震災や18年夏の西日本豪雨災害の際には、この広域鉄道網の利点を生かして、貨物列車が被災区間を大きく迂回して運行された。それが、現状では、赤字路線の沿線自治体レベルの意向や財政力次第で、路線の存続が左右されてしまう。これは災害による普通に限らず、整備新幹線の開業と引き換えに並行在来線がJRから切り離される場合も同じ。現に北海道新幹線の札幌延伸に伴い、函館から小樽までの長大な並行在来線の存廃が大真面目に議論されている。 広域交通網との位置付けとはいえ、JRは民営会社だから、収支を全く無視して現状のまま既存路線の維持を求めるのは無理がある。そこで『日本鉄道廃線史』では、過去に廃線を回避した先例や海外の実例をヒントに、既存路線の存続の可能性にも触れてみた。複数の先例があるのは「上下離分方式」、つまり路線や駅などのインフラ施設は別会社や公的機関が保有し、龍堂会社はその路線の上を走る列車の通行に遷延するというやり方だ。日本では伝統的に鉄道会社がインフラ整備も列車の運行も全部自前でやるのが原則とされてきたが、欧米盧泰愚堂ではむしろ上下分離方式が一般的である。青森県の第3セクター鉄道である青い森鉄道や、22年に豪雨災害から11年ぶりの復活を果たしたJR只見線(福島県)の復旧区間がこれにあたる。100年の鉄道事業法最盛で生まれた「特定目的鉄道事業」の枠組みを活用する方法も考えられる。観光客輸送などの特定の目的に特化した路線の営業について、通常よりも簡略化されて手続きで鉄道事業が行える制度で、福岡県の門司港レトロ観光線がその先例である。過疎化により地域の旅客輸送需要は限られているが、景勝地を走り漢口の資源として可能性がある路線を、この特定目的事業に切り替えれば、平時は豪華な観光列車のみを走らせたり、積雪期などを観光のオフシーズンは思い切って全体連休したりしやすくなる。北海道新幹線の並行在来線もこの方法で廃線を回避して路線が維持されれば、広域交通ネットワークの一部としての機能が最低限留保されることにつながる。鉄道の廃線は、他の交通機関が消滅する場合よりも社会に与えるインパクトが大きい。バス路線や航空便がなくなっても道路や空港などが直ちに消滅するわけではないが、鉄道がなくなれば線路やトンネル、橋梁などは撤去されるか朽ちるに任せて放置される。鉄道駅を中心に栄えていた市街地や集落は、街の玄関口を失って寂れがちになる。外国に目を向ければ、スイスは九州より約2倍の鉄道網を有しているが、スイス国内の廃線は過去42年間ゼロである(42年前の廃線区間も現在は観光路線として復活している)。そこには、鉄道を国の有用な交通機関と位置付け、その路線網を最大限に活用しようとする国全体の強固な意志が感じられる。日本も、旅客営業成績が赤字であるとの理由であに廃線やむなしと考えるのではなく、せっかく先人が苦労して築いた路線網を可能な限り将来のために生かしていく道を国全体で模索すべきではないかと思えてならない。 こむた・てつひこ 1975年、東京都生まれ。近現代交通死や鉄道に関する研究・文芸活動を展開中。6月発売の『日本鉄道廃線史』(中公新書)のほか、『鉄道と国家』(交通新聞社新書)、『列車で超える世界の緊迫国境』(扶桑社)など著書多数。 【文化Culture】聖教新聞2024.8.1
June 10, 2025
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ロームシアター京都の現在とこれからロームシアター京都プログラムディレクター 小倉 由佳子 「ロームシアター京都」(公益社団法人京都市音楽芸術文化振興財団が管理運営)は、平安神宮の隣に位置し、公園や動物園、美術館が集まる京都・岡崎にある〝市立の劇場〟です。1960年開館の「京都会館」を再整備して2016年にリニューアルオープンして以来、京都に、「劇場文化をつくる」をコンセプトに掲げています。これまで、自らが企画・制作する部隊が作品の創造。制作する舞台芸術の作品の招聘などを行ってきました。芸術と生活を重ね合わせて多様で豊かなスタイルを市民とともに作っていくことをめざしています。昨年12月には、こうした劇場の取り組みが国際的な文化芸術都市・京都の振興に貢献したと評価され、「令和5年度地域創造大賞(総務大賞)」(一般財団法人地域創造主催)を受賞いたしました。リニューアルオープンからコロナ禍を経て8年、10周年が見えてきたタイミングでの「ご褒美」でした。現在、2024年度のシーズンがスタートしています。フランスから注目の振付家ノエ・スーリエのダンス公演、沖縄在住の劇作家・兼島拓也が鋭い問いを投げかける『ライカムで待っとく』。おなじみの落語会「市民寄席」、京都薪能鑑賞のための公開講座、京都市交響楽団による子供のためのオーケストラ入門「オーケストラ・ディスカバリー」、音楽の境界を探る「sound around」など多種多様な企画が続いています。また、劇場の財産となる作品をプロデュースするシリーズ「レバトリーの想像」で創作した、高谷史郎(ダムタイプ)『tangent』は、エストニア(「欧州文化首都」主要演目)での講演を果たしました。そして、夏休みには子供たちを対象としたプログラムを集中的に行います。秋以降に続くラインアップも含め、今年度の自主事業には、「国内外のアーティストによる旺盛な探求心と知的な冒険心に満ちたプログラムが並んでいます。今年度のテーマは「好奇心の入り口、世界への出口」としていますが、これを決めるときにはある議論がありました。それは、劇場は世界への「出口」ではなく、「入り口、ではないかというものでした。もとろん、扉や窓は出たり入ったりするものなので両方の意味がありますが、今回は敢えて『出口』としました。劇場が提供するプログラムは、それぞれの観客にとって、ひとつのきっかけや活力となるものです。まだ知らなかった刺激に出会い、周りの人や物ごとに目を向ける好奇心が高まり、そこから劇場の「出口」を飛び出し、外の広い世界で関心を深め、新たな目標や夢に繋げて欲しいという思いを込めています。アーティストたちも各々の好奇心から、リサーチやクリエイションを進め、それらを集積することによって舞台を生み出しています。彼ら彼女らの作品やその活動に触れることで、心や頭、身体が揺さぶられ、質問や疑問が溢れ出すことは、一歩進んだ探求の始まりです。それらがアーティストや作品に影響を与えることも少なくないでしょう。「ロームシアター京都」というプラットフォームでは、そんな「クエスチョン」を媒介に劇場と社会がつながり、創造的に循環されていく場の機能を拡張し、いろんな方向に向かう波紋を呼び起こしていきます。この波紋こそが、文化芸術が人を育て、想像の源として広がっていく、我々のコンセプト「劇場文化をつくる」挑戦なのだと考えています。(おぐら・ゆかこ) 【文化】公明新聞2024.7.31
June 9, 2025
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言論統制 増補版佐藤 卓己著 メディア史研究の最先端を提示する日本大学教授 石川 徳幸 評 言論統制をめぐる研究は、戦時中のメディアを上からの言論弾圧による一方的な被害者と見なすものから、検閲機関とメディア側との関係を多角的に捉えるものへと変化してきた。メディアには言論弾圧の犠牲者としての面だけでなく、機能的に検閲に対応しながら当時の言論空間を形成した「共犯者」としての一面がある。もちろん、検閲を行う側と受け取る側の力関係は自明であり、こうした研究の視座が権力側を肯定しようとするものではないことは、誤解のないように付言しておきたい。ともあれ、資料に基づく検閲過程の検証によって、検閲官による取り締まりの実態が明らかにされつつある。このようなパラダイム転換をもたらした先駆的な研究が、今から二十年前に上梓された本書の旧版(二〇〇四年刊)であった。本書は、戦時中に情報局情報館として出版物の統制に従事した陸軍将校・鈴木庫三(一八九四~一九六四)を扱った評伝である。鈴木庫三といえば、石川達三が小説『風にそよぐ葦』の中で描いた出版社幹部を恫喝する「佐々木少佐」のモデルとして知られ、戦後の分断において長らく敵役として言及されてきた人物である。「鈴木庫三とは何者だったのか」という実直な歴史学の視座のもとに、「知的ならざる軍人」が出版人を侮蔑しつつ抑圧したというステレオタイプ化されたイメージが実態と異なっていたことを詳らかにしている。学者としてのライフコースをも選択し得るだけのキャリアを持つ「教育将校」としての鈴木庫三の特異な経歴と業績は、多くの読者の固定観念を覆すものであった。そうした旧版にたいし、増補版では新たに発見された日記や論文などの資料をもとに加筆が行われている。旧版の時点で新書としてはカナル分厚い四七三頁の大著であったが、増補版では五八二頁までに紙幅を増やしている。全体を通して改稿がなされているが、特に第三章「昭和維新の足音」と第四章「「情報部員」の思想戦記」には大幅な加筆が施されている。旧版をすでに読んだことがあるという読者にも、改めて手に取ってもらいたい。時代とともに歴史の解釈が変わるように、言論統制をめぐる研究もまた、現在読まれるべき社会的意義を感じさせる。なお、本書増補版の刊行に先立って、著者は編著『ある昭和軍人の記録 情報官・鈴木庫三の歩み』(中央公論社)を上梓している。この本には、鈴木自身が士官学校具格までの生い立ちを記した「思出記」と、情報局情報官としての回想をまとめた「国防国家と思想」が収録されており、鈴木の思想形成の過程を紐解くことができる。特に「思出記」はこれまで未公開の資料であったため、資料的価値のある一冊となっている。巻末には著者による解題「特異な陸軍将校のエゴ・ドキュメント」が付されており、これらを併せて読むことで、鈴木庫蔵という、人物像だけでなく、言論統制に関するメディア史研究の最先端の知見に触れることができるだろう。◇さとう・たくみ 1960年、広島県生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、上智大学文学部新文学科教授、京都大学名誉教授。専攻はメディア文化学。 【読書】公明新聞2024.7.29
June 9, 2025
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第26回本尊問答抄創価学会教学部編駿河国富士下方熱原郷(現在の静岡県富士市厚原とその周辺)での法難(熱原の法難)が頂点をむかえる弘安2年(1279年)の前年にあたる弘安元年(1278年)9月、日蓮大聖人は、故郷・安房国(千葉県南部)の弟子・浄顕房に、末法においては法華経の題目こそ本尊とすべきであることを、諸宗の本尊を破折しながら教示されています。それが「本尊問答抄」(新302・全365)です。 何を本尊とすべきか大聖人は、建治2年(276年)7月、義浄房と浄顕房の二人に「報恩抄」を送られた際、浄顕房に曼荼羅本尊を顕して与えられます(新262・全330、参照)。「報恩抄」では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(新261・全328)と仰せになっています。浄顕房はこの教えと、実際に頂いた、題目を中心とする曼荼羅本尊との関係に疑問を抱いたのではないかと考えられています〈注1〉。「本尊問答抄」では、この疑問を回想する問答が重ねられていきます。冒頭で、「問うて云わく、末代悪世の凡夫は何物をもって本尊と定むべきや。答えて云わく、法華経の題目をもって本尊とすべし」(新302・全365)と、明確に答えを示されています。 「法華経の題目をもって本尊とすべし」 さらに、「本尊というからには、勝れているものを用いなければならない。(中略)釈迦物や大日如来、十方の仏たちは全て、法華経からお生まれになったのである。それ故、ここでは仏を生み出す根源(=能生)を本尊とするのである」(新303・全366、通解)と説明されます。あらゆる仏を仏にした「能生の法」である南無妙法蓮華経こそを、大聖人の本尊感が明らかにされています。その後、真言宗の開祖・弘法(空海)、天台宗第3代座主の慈覚(円仁)、同第5代座主の智証(円珍)の、法華経よりも大日経が優れているという主張を批判されます。その中で大聖人は、「今、日本国中の天台宗・真言宗などの僧らや、天皇・臣下・民衆は、『日蓮法師ごときが、弘法大師・慈覚大師・智将大師らよりすぐれているはずがあるだろうか』と疑っている」(新305・全367、通解)と言及されています。それに対し、「弘法大師・智将大師らは釈尊・多宝如来・十方の世界の仏たちよりすぐれているはずがあろうか」(同)と反問し、涅槃経の「法に依って人に依らざれ」の文を引いて、「(私が)『法華経が第一である』と言っているのは、法(仏の説かれた教え)をよりどころにしている」(同)と断言されています。そして真言の祈禱のために立てられる本尊の誤りを厳しく破折し、真言による祈禱を行っていた天皇、上皇方が破れたという歴史的事実に照らして、真言による祈禱を行うことは亡国を招くと警告されます。当時、元(大元、モンゴル民族による中国の王朝、蒙古)の再びの襲来が予想されており、朝廷や牧夫は、異国降伏の祈祷を自社に銘じていたのです。幸福とは、神仏の力で魔や怨敵を防ぎ抑えることで、調伏ともいいます。大聖人は続けて、大難に遭うことを招致で地涌の菩薩の先駆けとして、前代未聞の曼荼羅本尊を弘めてきたと述べ、「願わくは、この功徳をもって、父母を師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候」(新315・全374)と、報恩の想いを記されています。最後に、浄顕房にひたすらこの御本尊を信じて祈るように促して本抄を結ばれます。 過酷な状況下で門下を激励 身延での生活当時、日蓮大聖人の身延での生活はどのようなものだったのでしょうか。大聖人は鎌倉の様子について、「種々御振舞御書」(建治2年〈1267〉年御執筆)に次のように綴られています。「この山のありさまは、西には七面山、東には天子ケ岳、北には身延山、南には鷹取山がある。四つの山の高いことは(山頂が)天に付くほどで、険しいことは飛ぶ鳥も飛ぶことが難しいほどである。その中に四つの川がある。すなわち、富士川、早川、大城川、身延川である。その(川で囲まれた)中に、一町(=約1ヘクタール)ばかりの平地がある所に粗末な仮住まいを構えています。裕は太陽を見ることなく、夜は月を拝むこともない。冬は雪が深く、夏は草が茂って、訪ねてくる人もまれなので、道を踏み分けることも困難である。特に今年は雪が深くて人が尋ねてくることもない」(新1247・全925,通解)数々の難や2度の流刑を勝ち越えられた大聖人は、体力を奪われていたようです。その上、身延での厳しい生活は、大聖人のお体に大きな負担であり、大聖人は年々、痩せていかれたことを門下に伝えられています。(新1506・全1105、新1926全1583、参照)。また、建治3年(1277年)12月からは、「下痢」「はら(腹)のけ(気)」の症状が起こります。「はら(腹)のけ(気)」は、激しい下痢を伴う胃腸の病気であったと考えられえます。弘安元年(1278年)6月に悪化した際は四条金吾の投薬でことなきを得ました(新1603・全1179、新1491・・全1097、参照)。しかし、池上兄弟の弟・宗長に送られたお手紙では、同年10月に症状が再び悪化し、少し治っては、また症状が起こることがあると伝えられています(新1495・全1099、参照)。このお手紙には、「寒さはますます厳しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません}(新1495・全1098、通解)とも仰せです。体調においても、衣食住においても、過酷な状況下で大聖人は、迫害に立ち向かう四条金吾や池上兄弟、南条時光ら多くの門下に渾身の励ましを送り、熱原の法難への対応についても細かく指示し、激励を重ねられたのでした。 最も価値ある人生熱原の農民門下への取り調べが行われた後の弘安2年(1279年)11月6日、大聖人は、駿河国(静岡県中央部)の南条時光に、「これは、あつわら(熱原)のことのありがた(有難)さに申す御返事なり」(新1895・全1561)と記されたお手紙(「上野殿御返事〈竜門御書〉」を送られています。熱原の法難の際、時光は、わが身の危険を顧みることなく、迫害を受ける大聖人門下を自分の屋敷にかくまうなどしていました。共に法難を戦う若き弟子・時光に、大聖人は呼びかけられました。「願わくは、我が弟子ら、大難をおこ(起)せ」(新1895・全1561)「大願」とは、〝あらゆる生き物(衆生)を導き、一緒に仏の覚りを完成しよう〟という菩薩の偉大な誓願です。法難の渦中にある門下に大聖人は、最高の目的のために生きる、もっとも価値ある人生を教えられたのです。大聖人は、御供養の品を届ける時光に、たびたび、感謝と激励のお手紙を送らえています。「わずかな所領なのに、多くの公事(=荘園・公領に課せられる年貢以外のさまざまな税や労役)を課せられて、自身は乗る馬もなく、妻子は身に着ける着物もない。このような身であるのに、法華経の行者が山中の雪に苦しめられて、食べる者も乏しいだろうと気遣って、銭一貫文を送られたことは、貧しい女性が夫婦二人で着いていた。ただ一枚の着物を乞食行の修行者に与え、利咜(=阿耶律の過去世の兄)が器の中にあった稗を辟支仏(=縁覚)に与えたようなものである」(弘安3年〈1280年〉12月御執筆、上野殿御返事〈須達長者御書〉、新1919・全1575、通解)時光を思いやる、大聖人の深い真心が込められています。 各地の門下に寄り添うように 池田先生の講義から大聖人門下へのお手紙は、その大半が、直接お会いすることが難しくなった佐渡流罪以降、特に身延に入られてからのものです。迫害の渦中にある弟子、肉親の死や人生の苦笑にあえぐ門下の心の機微と察し、心情を思いやられる大慈大悲からほとばしるお言葉が綴られています。生命と生命が響き合う、門下との心温まる興隆に満ちているからこそ、時を越えて、拝する人々の心に、尽きせぬ感動が迫ってくるのです。(「信仰の基本『信行学』」) 一人一人への慈愛のまなざし大聖人は身延の地から、各地の門下一人一人に寄り添うように言葉を紡いでいかれます。下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍が大聖人のもとを訪れた際には、夫を送り出した富木尼に思いを馳せられます。「今、富木殿にお会いしていると、尼御前にお目にかかっているように思われる」(建治2年〈1276年〉3月御執筆、新1316・全975、通解)富木尼は自ら病気を患いながら、夫・常忍の母(姑)を介護していました。その母が亡くなり、常忍が遺骨を携えてきたのです。母親の臨終の様子や家族の近況などを聞かれた大聖人は、帰途に就く常忍に、富木尼宛のお手紙(「富木尼御前御返事」)を託されたのでした。眼前の一人を励まされると同時に、その背後にいる人々に対して慈愛のまなざしを注がれたのです。佐渡に暮らす千日尼に送られたお手紙(「千日尼御返事」)は、夫・阿仏房を亡くし、寂しい思いをしているであろう千日尼への思いやりに満ちています。大聖人は、阿仏房の成仏は間違いないとの御確信を綴られた後、次のように仰せです。「散った花もまた咲いた。落ちた果実もまた成った。春の風も変わらず吹き、秋の景色も去年と同じである。どうして(阿仏房が亡くなったという)子の一字だけが変わってしまって、もとのようにならないのであろう」(弘安3年〈1280年〉7月御執筆、新1751・全1320、通解)他にも大聖人は、夫を亡くした上野尼や妙一尼、子を亡くした光日尼や松野殿夫妻など、大切な人と死別した門下に寄り添うようにともに投げかけながら、故人の成仏を確信するとともに、信心に励むことで故人と裁可絵できると、生死を超えた生命の絆について力強く伝えられています。 三世にわたる師弟の縁 2度目の蒙古襲来で弘安4年(1281年)7月、大聖人のもとに、下総国の門下・曽谷教信から手紙が届きました。同年5月、「文永の役」に続いて源(大元)が再び日本に来週氏(弘安の役)、自身も戦地に赴かなければならないという状況を報告したようです。手紙が届いた翌日、大聖人は早速御返事を送られています(「曽谷二郎入道殿御返事」)。「想えばあなたと日蓮とは師匠と檀那の関係である」「いつ生まれ変わった時に対面を遂げることができるだろうか。ただ一心に霊山浄土へ赴くことを期されるべきであろう。たとえ身はこの難に遭ったとしても、あなたの心は仏の心と同じである。今生は修羅道に交わったとしても、後生は必ず仏国に居住するであろう」(新1454・全1069、通解)武士として、戦闘に従事することがあったとしても、信心を貫く以上、心は仏と同じであると、教信を勇気づけられています。この年、大聖人は春から体調を一段と崩されとり(新1926・全1583、参照)、門下から手紙が届いても返事を書けなかったほどです(新1349・全993、参照)。そのような中で、敷地に赴くかもしれないと不安を訴える弟子のために、難に遭う意義を明確に説き、三世にわたる師弟の縁を教えられたのでした〈注2〉。大聖人の御生涯全体を見る時、誤った教えを信じ弘める悪僧や、幕府要人への激しい批判も、大聖人の教えを信じ、ひたむきに生きる人々への慈愛に満ちた温かな励ましも——そのいずれもが、すべての人々の不幸を根絶し、仏の境涯を開かせたいという、大聖人の誓願と大慈悲から紡ぎ出された言葉にほかならないのです。 (続く) 〈注1〉「撰時抄」では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」に続いて「いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、他の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」(新261・全328)と説明されている。このことから、単なる釈尊の仏像ではなく、法華経本門に説かれる虚空会の儀式を用いて表された曼荼羅本尊であることがわかる。この文字曼荼羅の本尊は、釈尊を久遠実成の仏ならしめた根本の法である「南無妙法蓮華経」を具現化した「本門の本尊」なのであり、このことは「本尊問答抄」で、より明らかにされる。〈注2〉なお、大聖人が「曽谷二郎入道殿御返事」を執筆された閏7月1日、前後からの暴風により元軍は壊滅した。 [関連御書]「本尊問答抄」、「種々御振舞御書」「八幡宮造営事」「上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事)」、「中務左衛門尉殿御書」、「兵衛志殿御返事」、「病平癒の事」」、「上野殿御返事(竜門御書)」、「上野殿御返事(須達長者御書)」、「富木尼御前御返事事」、「先日亜が御返事」、「曽谷二郎入道殿御返事」 [参考]「池田大作全集」第33巻(「御書の世界〔下〕」第十九章)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻(「法華証明抄」講義) 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2024年8月号
June 8, 2025
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サイバー被害未然に防ぐには東京海上ディーアール 主席研究員 川口 貴久氏に聞く 重要インフラが標的に港、病院など有事の混乱狙う事例も ——そもそもサイバー攻撃とは何か。川口貴之上席ディーアール主席研究員 サイバーやパソコン、スマートフォンなどの情報資産やナットワークに対し、攻撃を仕掛けることだ。一般的に、情報セキュリティーにおける3要素である個人データや企業の営業秘密、技術情報などの「機密性」(Confidentiality)、買い残が行われておらず、内容が正しい状態にある「完全性」(Integrity)、システムやプログラムが正常どおりに稼働することを指す「可用性」(Availability)の「CIA」を脅かすことをサイバー攻撃と言われる。攻撃手法は、フィッシング(実在のサービスや企業のメールなどで偽りの情報を盗む手口)や不正アクセスなどが挙げられ、日々アップデートされている。 ——サイバー攻撃による被害の実態は。川口 多くのデータは、サイバー攻撃の件数が増えていることを示唆している。ただ、量的に増加しているというより、質的変化の方が重要で、「可用性」を脅かす攻撃が非常に増えている。例えば2023年8月には、ハッカー集団「ボルト・タイフーン」が米国・グアムの通信事業者や港湾に侵入し、有事が起こった際に操業を停止させる準備を行っていたことが明らかになった。米国はこれまでは経済的、政治的なスパイ活動に注目してきたが、重要インフラに標的が移ってきていることに懸念を示している。日本の重要インフラも同様に標的になり得る。 ——日本国内での例は。川口 21年10月に徳島県の町立病院に対するサイバー攻撃があり、電子カルテシステムで不具合が起こって、患者情報の閲覧ができなくなった。先月には、出版大手のKADOKAWAが大規模なサイバー攻撃を受け、一部サービスが停止に追い込まれた。こうした事例は金銭目的ではあるが、狙われるのは、脆弱性(セキュリティー機器などの欠陥や穴)を放置している企業だ。 「自助」「共助」では防御に限界 ——国内企業の備えは。川口 十分とは言えない。考え方としては、「自助」「共助」「公助」がある。企業宇であれ、官公庁であれ、自らの組織を自ら守る「自助」が基本だ。その上で、業界内での情報共有やセキュリティーを強化する「共助」も大事だ。経済産業省が所轄する「情報処理推進機構」などはガイドラインを公表し、経営者が確認すべき内容や具体的な取り組みを記している。ガイドラインも参考に、各企業は対策を講じることが最低限、必要だ。 ——「公助」がするべきことは。川口 政府が入手した機微な情報の共有や被害が大きい場合に支援があるとよいといわれてきたが、なかなかできていない。自助・共助は防御が基本だが、これをやればOKという簡単な話ではない。どんどん高度化する攻撃に備えるには防御を高め続ける必要があり、それも限界がある。公助の役割として、これまでも企業のセキュリティー向上支援などはしてきたが、本当にそれだけでいいのか。そもそも防御だけでいいのかという問いを背景に、今、「能動的サイバー防御」(ACD)が議論されている。 能動的サイバー防御官民の連携で脅威に対処国民理解へ深刻な現状伝えよ ——ACDとは。川口 政府は22年の「国家安全保障戦略」で(ア)官民連携の強化(イ)通信情報の活用(ウ)攻撃が疑われるサーバーなどへのアクセス・無害化措置——をまとめて、ACDと呼んでいる。諸外国の攻撃を見ると、「能動的」には、被害が生きる前に先に手を打つという時間軸の側面と、自分らが管理していないネットワークや情報資産に直接働きかけるという空間的な側面の二つの意味があり、後者も重要だと考えている。過去には、総務省、情報通信研究機構(NICI)などが、IoT(モノのインタ=ネット)危機の脆弱性を調査するプロジェクト(通称「NOTICE」)を行い、一般の監視カメラやルーターといった機器を調査し、パスワード変更などの注意を喚起したことがある。管理対象ではない危機へのアクセスという意味で、これも広義ではACDに入るだろう。 ——どのような取り組みをするのか。川口 公開情報では、民間事業者と緊密に連携して、攻撃意図がある不正な通信を補足するとともに、国内外の攻撃餅に侵入・無害化し、攻撃できなくなるようにすることでイメージしている。ACDは、平時から取り組む者だ。国家安全保障戦略にも「武力攻撃に至らないサイバー攻撃」に備えると記されている。ACDの導入によって日本のサイバー防御の弱点であった有事に至る前の「グレーゾーン事態」や重要インフラへの破壊的攻撃に対処できるようになることが期待される。 ——導入に向けた課題は。川口 導入には、法整備が必要になる。電気通信事業法、不正アクセス禁止法、警報などの改正が求められるだろう。人材面では、防衛省・自衛隊や警察庁だけでなく、民間でサイバーセキュリティーの分野に携わる専門家が政府関連の仕事に前向きに携わるよう魅力を感じる勤務体系にするべきだ。報酬面の要素もあるが、政府岐南で働いた後に、民間に戻れる仕組みを作ることも考えられる。何より導入にあたっては、国民の理解が不可欠だ。サイバー攻撃のリスクや、防御だけでは攻撃を完全に防ぎきれない可能性があることを国民に丁寧に伝えていかなければならない。 〝14秒に1回〟増える攻撃政府、対応能力向上へ議論総務省の2924年版、「情報通信白書」によると、サイバー攻撃は年々、増加傾向にある。23年は過去最高を記録。観測された関連の通信数は「14秒に1回」に上った。被害は国内外の企業や医療機関のほか、政府機関や地方自治体にも広く及んでいることから、「国民のだれもがサイバー攻撃の懸念に直面している」と指摘した。中でも国や、通信、電力など重要インフラに対する攻撃は安全保障上の脅威となる。そのため22年に改定された「国家安全保障戦略」では、サイバー安全保障分野での対応能力を「欧米主要国と同等以上に向上させる」と掲げた。具体的には、まず最新のサイバー脅威に対し常に対応できる体制を整備。その上で「武力攻撃に至らないものの、国、重要インフラ等に対する安全保障上の懸念を生じさせる重大なサイバー攻撃の恐れがある場合」に対処するため、「能動的サイバー防御を導入する」と明記した。能動的サイバー防御の実現に向け、政府は今年、有識者会議を立ち上げ、主に(ア)官民連携(イ)通信情報の活用(ウ)アクセス・無害化措置——について検討を進めている。 【土曜特集】公明新聞2024.7.27
June 8, 2025
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海のカナリア——スルメイカの深刻な減少函館頭足類科学研究所 所長 櫻井 泰憲 漁獲高20年前の1割ほどに海水温の急上昇などが背景 「イカのまち」で、スルメイカが捕れない。日本海と太平洋をつなぐ津軽海峡に面する北海道函館市は、二つの海からスルメイカが回遊してくる。船の水桶で生きたまま運ばれる「いけすイカ」は身が透け、こりこりとした触感で観光の目玉だ。しかし、6~11月の市水産物地方卸売市場で生鮮スルメイカの取扱量は306㌧にとどまり、統計の残る2005年以降で最低となった。同じ時期で比べると、ピークだった08年の7700㌧の25分の1.逆に1キロ当たりの単価は、08年の217円から6倍の1342円に跳ね上がった。函館だけではない。スルメイカの全国の漁獲高は20年前の04年は23万4603㌧だったが、22年には2万9700に激減した。「スルメイカは『海のカナリア』というべき生物で、海洋環境の変化に敏感に反応する。海洋温暖化が産卵場と回遊経路に大きな影響を与えている」。スルメイカ、サンマ、サケなどの不漁、特に道南ではスルメイカのかつてない不漁が依然として続いている。こうした水産業の低迷の要因として、確実に進行する地球温暖化の影響を無視できない状況になっている。国際的にも、局所的な海水温の上昇(Marine Heat Wave)が注目されており、世界の海面水温は観測史上最高水温を記録している。参考までに、北日本の海水温が低かった1984年と2020年9月上旬の海水温分布の比較を図に示した。この39年間経過した北海道周辺の海水温も確実に上昇し、北洋から産卵回帰するサケの南下阻害、サンマ資源の激減と漁場の沖合化、沿岸の定置網やサケ建網にも、段階制回遊魚のクロマグロ、ブリが入網している。昨年は、道南でも、富山湾が北限とされるアオリイカ(通称:スミイカ)が漁獲されている。特に、スルメイカは10年代半ばからの不漁が今も続いている。なぜ、スルメイカが急に減ってしまったのか。そして、資源の復活に向けて、スルメイカの資源変動の原因は、ふ化した幼生の生き残りに影響する環境変化なのか? それとも漁獲の影響なのか? 秋生まれ群れは、対馬海峡から南西日本海で生まれ、主に日本海を回遊している。00年代半ば以降の漁獲量の減少傾向は、産卵場の10までの高水温化に伴って、11月=12月へと産卵期が遅くなったためと推定している。秋生まれ群は日本海の対馬暖流の大きくは三つの分流ウニ添った回遊ルートで北上して成長し、その後産卵のためなんかしている。この中で、最近は、「夏~秋の沿岸ルート」が高水準であるため、より水温が低く、回遊に適した「大陸ルート」と「沖合ルート」になることが多くなっている。その結果、日本や韓国の経済水域内の回遊資源が減り、とくに日本海側の現象が顕著になっている。一方、冬生まれ群は、主に1月~3月に東シナ海の大陸棚周辺海域で生まれ、その多くの幼イカは太平洋沿岸から沖合に拡がって成長しながら道東海域まで北上しており、その途中での回遊ルートでの漁獲死はほとんどない。10年代半ば以降からは、四国沖から紀伊半島にかけての「黒潮大蛇行」が続き、太平洋沿岸に添ったスルメイカ幼生の北上ルートが経たれることが多くなっている。これ等の複合的な海洋環境要因によって、冬生まれ群の激減が起きたと推定されている。通常は、東シナ海で生まれた冬生まれ群のふ化幼生は、薩南海域を経由して四国沖に輸送され、黒潮の内側域を経由して黒潮属流へと運ばれて北太平洋で大きく成長するイカである。冬生まれ群の復活に向けて、黒潮大蛇行による産卵場からのふ化幼生の輸送経路での大量死が解消されない限り、この群れの復活は難しいのが現状である。(さくらい・やすのり) 【文化】公明新聞2024.7.26
June 7, 2025
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第3回のテーマ 節約とケチは〝紙〟一重⁉今回のテーマは「節約とケチは〝紙〟一重⁉」ユネスコの無形文化遺産に登録されている「和紙」。その使用は、鎌倉時代に公家などから武士へと広がっていきました。まだまだ紙が基調だった時代のこと。一枚一枚、大切に使われていたようですよ——。それ打は早速、かいつまんでいきましょう。いざ、鎌倉時代! 「わしだって使いたい!」和紙が武士へと広がるいよいよ夏到来!夏休みの自由研究に向け、いつだって鎌倉時代を感じたいネコまた殿は、「和紙」に注目。昔ながらの「紙すき」をやってみたいとのこと。ネコまた殿、そもそも毎日が夏休みのような気もしますが……。それはさておき、まずは紙すきのキットをそろえて、作業をスタート。紙の原料をどろどろになるまで水に溶かし、型に均一に流し込み、乾燥させて——ネコまた殿オリジナルの葉書の完成です!初めての紙作りに挑戦したネコまた殿。その「1枚」のありがたさが分かったようです。「紙すき、大好き!」なんて、喉をゴロゴロさせています。◇日本では、近代に機械による洋紙の製造が始まるまで、手すきの和紙が主に使用されていました。日本における紙の歴史は古く、その作り方が伝わったのは5世紀ごろともいわれています。6世紀後半、仏教が日本に伝来。亡くなった人の供養や心の平安を求め、経典を書き写す「写経」が盛んになり、公家や僧侶などが紙を使用するようになっていきました。12世紀後半に鎌倉時代が幕を開けると、社会の中心となった武士も、行政や裁判に関する文書を多く扱うように。「わしだって使いたい!」——和紙の使用は武士へと広がり、やがて町人にも広がっていったのです。高まるニーズにこたえ、各地で紙が多く生産されるようになりました。さらに鎌倉時代に発達した、商人による流通ルートによって、京都や鎌倉にもどんどん運び込まれるように。地方産の紙が主流になっていったのです。鎌倉時代、和歌の分野で、多くすぐれた歌人が活躍。歴史や軍記物語、随筆集などの分野でも多くの名著が成立しました。宗教文化が発展し、古典の研究が進んだのもこの頃です。いずれも、文字を記す「紙」が必須だったのは言うまでもありません。この時代に花開いた文化を支えたのも、和紙だったのです。さらに建築様式としては、後の書院造の基となるものがあらわれ、「障子紙」が多く使われるようになりました。現代にも通じる、鎌倉時代の文化。その興隆と和紙の広がりは、切っても切れない〝うるわしい〟関係だったんですね。 「とことん、リサイクル!」「裏返し」の次は「すき返し」鎌倉時代、人びとの間で消息(手紙)のやり取りも増えていきました。その手紙が、思わぬところから見つかることもあるようです。現存する鎌倉時代の書物や日記を見てみると——うっすら反転した文字が透けているものがあります。もしかして、落書き?家々当時は、神を節約するため、役目を終えた手紙などを「反故紙」として、裏面を写経や日記などに再利用することが多かったのです。「反故紙で、紙を保護しましょう」なんて、呼びかけていたかもしれませんね。もともと書かれていた分は「紙背文書」と呼ばれ、当時を知る貴重な資料になります。再利用されたことで現代に伝わった手紙からは、人びとの心の交流の雰囲気が伝わってきます。さすがに、表も裏も使い切ったら、ゴミ箱にポイっ!——思いきや、まだまだ紙の節約は続きます。それが、使用済みの紙を水に溶かし、再びすいて作る「すき返し紙」。現代の再生紙にあたります。徹底して、紙を再利用する鎌倉時代の人々。そうとうケチだったのでしょうか? 鎌倉時代後期の文献には、当時、一般的に使われていた紙について、1枚が3文だったという記述が残っています。現代の感覚でいうと、1枚300円から600円でしょうか。ちなみに、一定の価格はなかったものの、紙1枚は縦30㌢、横50㌢程度の大きさが多かったようです。いずれにせよ、紙が今よりずっと高価だったことは間違いないでしょう。質素倹約を重んじた鎌倉時代のこと。「再利用、やってみよう!」と、紙も一枚一枚、大事に使っていました。まさに、節約とケチとは〝紙〟一重だったのです。現代の私たちも、鎌倉時代の〝ものを大切にする精神〟に学んでいきたいですね。 その時、大聖人は—— 佐渡の国には紙がない上に、一人一人に手紙を差し上げるのは煩雑になり、一人でももれれば不満があるでしょう——。流罪地・佐渡は、紙の確保が困難な状況でした。そのような中でも、苦境の門下に思いを巡らせ、お手紙を送る日蓮大聖人。深き地合いが伝わってくる一節です。また、佐渡で執筆された「観心本尊抄」は、17枚のカキの表と裏にびっしりと文字が認められています。一枚の紙があれば、悩める友を励ませる。仏法の教えを残すこともできる。——大聖人は一枚一枚に万人の幸福への思いを込めて、文字を認められたのでしょう。紙の調達には、門下の貢献もありました。大聖人が経論の要点を書かれた文書の裏に、別の文書が書かれていた「聖教紙背文書」が現存しています。この神を大聖人に提供したのが富木常忍です。常忍は幕府の有力な御家人に仕える家臣。用の済んだ紙を入手しやすかったと考えられています。大聖人と門下との固い絆があってこそ、鎌倉時代に説かれた大聖人の教えを、現代の私たちが学ぶことができるのです。 【鎌倉時代をつまみ読みっ!】聖教新聞2024.7.26
June 7, 2025
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ナノヘルツ重力波とは浅田 秀樹(弘前大学教授) 巨大ブラックホールか宇宙誕生時の名残か 同じような重力波ではない昨年6月、アメリカで研究チーム・ナノグラブが「ナノヘルツ重力波」の存在証拠を見つけたと発表しました。ナノというのは、10のマイナス9乗(10億分の1)の大きさ。1ヘルツが1秒間に1回振動する波を指すので、ナノヘルツ重力波は1秒間に10憶分の1回しか振動しない重力波になります。桁数が大きくなりすぎてわかりにくいかもしれませんが、1回振動するのに10億秒、約30年かかることになります。重力波自体は、2015年に研究チーム・ライゴが初顕出に成功しました。しかし、この時の重力波とは全く意味合いが違います。ライゴが検出した重力波は1秒間にも満たない短いものでした。このような重力波は、ブラックホールの合体によって生じたとされています。今回の重力波な、銀河の中心にあるような巨大ブラックホールの衝突によるもの、もしくは宇宙誕生時のインフレーションの痕跡ではないかと考えられています。いずれにしても、重力波研究が新たな段階に進んだことを知ってもらいたく、近著『宇宙はいかに始まったのか ナノヘルツ重力波と宇宙誕生の物理学」(ブルーバックス)を出しました。 時空の歪みが遠くまで伝わるアイシュタインは一般相対性理論で、重力は時空の歪みだと予想しました。空間が曲がっているイメージは、よくゴムシートに例えられます。ぴんと張ったゴムシートの上に物をのせると、沈み込みます。重いものほど沈み込みが大きく、これが空間の曲がりが大きい状態になります。実際に空間が曲がっている証言として、重力レンズという現象があります。遠くの星を観測した時に、手前にある重力減によって光が曲げられ、実際の星の位置と違う場所に見える現象です。ブラックホールは曲がりが大きく、一定の距離まで近づいてしまうと、そこから光さえ抜け出せなくなります。ゴムシートに重力減が一つだけなら、沈み込んだままです。しかし二つになるとどうなるでしょうか。うまく調整すると連星のように互いの周りをぐるぐる回るようになります。この時、ゴムシートは波のように揺れます。この波が遠くまで伝わっていくのが重力波なのです。今回、ナノヘルツ重力波の顕出に使用されたのは、パルタータイミングアレイという方法。パルサーは非常に正確に電波を発信している天体です。その正確さというのは、原子時計よりも誤差が少なく、14桁とか15桁の制度。この感覚をはかることで時空の歪みを捉えようというのです。重力波があると、電波の感覚が揺らいでいるように見えます。このデータを解析することで、値のヘルツ重力波の存在を確認したのです。 新たな観測方法に応用可能重力波の顕出という意味では以前と同じなのですが、実はひとくくりにできない成果です。一つは、巨大ブラックホールが互いに好転している現象。ライゴで検出されたのが、ブラックホール同士の衝突による重力波だったので、同じように、もっと巨大なブラックホール同士が衝突しようとして、互いの周りを公転しているのではないかというのです。銀河の中心にあると考えられる大要質量の数億倍という居談ブラックホールが、数万光年の距離で互いに好転するとき、公転周期が数年になり、同じような重力波になると考えられています。もうひとつの可能性は、インフレーションの痕跡です。無質の源である元素は、ビッグバンよりも以前に、宇宙が急激な膨張をして時空が漁師的に振動するというのが「インフレーション仮説」です。この重力波を計算すると、非常に長い波長になるのです。また、今後、重力波を使った新たな観測方法も期待されています。例えば、超新星爆発の内部では何が起きているのか。重力波であれば爆発時の放出物に遮られないで、観測できるようになるかもしれません。ナノヘルツ重力波の原因とともに、新たな観測方法にも期待したいものです。=談 あさだ・ひでき 1968年、京都府生まれ。弘前大学理工学研究科 宇宙物理学研究センター長・教授。専門分野は一般相対性理論、重力理論、理論宇宙物理学。著者に『宇宙はいかに始まったのか』『三体問題』(ともにブルーバックス)がある。 【文化Culture】聖教新聞2024.7.25
June 6, 2025
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画家が手がけたお酒のポスター青梅市立美術館 学芸員 田島 奈都子 時代を意識し、美を競う 日本におけるポスターの歴史が19世紀後半にはじまるものの、その制作と使用が本格化するのは20世紀に入ってである。そしてこれ以降、盛んにポスターを活用したものが酒造社会であった。もっとも、各社が美麗なポスター作りに邁進すると、自然とポスター間の競争もポスター間の競争も激しくなり、こうした状況がポスター用原画を、著名な画家や図案化に依頼することへとつながった。例えば、1914年の《菊正宗》は、商品名が記されていなければ、大坂を代表する日本画家の北野恒富が、美しい着物姿の女性を描いた肖像画である。しかし、作品をよく見てみると、ふすまには商品名と重なる菊が描かれている。画中にさりげなく商標や商品と重なる物事を入れる行為は、依頼主に原画を気に入ってもらうための工夫として始まった。しかし、後にポスター用原画を描く際の、「お約束」としてとして定着し、背景以外では主題が身に付ける意匠の柄や装身具のモティーフとして、それらはあしらわれるようになった。もっとも、ポスター上にはじまんの社屋や工場が描かれることもあり、1910年代後半以降はポスター画家として人気を博した、多田北烏による1926年の《キリンビール》において、盃洗をする新橋の名妓・まり千代の背景に拡がるのは、横浜市内に竣工した新工場である。さて、日本人女性の間に洋装が普及してくると、当然のごとくこの現象はポスターにも影響を与えた。事実、1935年の松田富喬による《サクラビール》の主題は、背中の大きく開いたドレスを身に着けている。これは当時のアメリカにおける最新流行のスタイルであり、本作からは、北野恒富のもとで日本画家として修業経験を持つ作家富喬が、海外のファッションに精通していたことが見てとれる。ただし同時に、女性の右の手元には、商品名とも重なる桜の花が置かれており、富喬がポスター画家として活躍できた理由には、市民受けする見目麗しい女性像を描けただけでなく、こうした依頼主に対する心遣いがあったからと思われる。ちなみに、洋装の女性は1920年代半ば以降になると、ビールやウィスキーのポスターにおいては主流となった。ところが、戦前期の日本酒や焼酎のポスターに、そのような女性が登場することはほぼなく、このあたりの違いはなかなか興味深い。当代一流の画家や図案家が描いた作品を原画として、核時代の最新かつ最高級の製版印刷術を駆使して制作された戦前期のポスターは、その特徴から「美人画ポスター」と少々され、それらは今日の眼から見ても十分に美しい。ただし、ポスターは広告である以上、その役割を果たすべく、元が前述したような観点で工夫が施される場合が多く、その実態は拙著『百花繚乱の美人がポスター』(芸術新聞社、2024年)に記したとおりである。眼福を味わいつつ、作者が忍ばせた謎を解くことも、この種のポスターを鑑賞する際の楽しみの一つである。(たじま・なつこ) 【文化】公明新聞2024.7.24
June 5, 2025
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社会の不公正を描いた国民文学作家 村上 政彦 エドガルド・M・レイエス 「マニラ—光る爪」 本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日はエドガルド・M・レイエスの『マニラ—光る爪』です。レイエスは、フィリピンの小説家。彼の祖国は16世紀半ばからスペインの植民地となり、19世紀末からはアメリカに統治された。知識人たちは、初めはスペイン語で、次いで英語で文学を創作します。フィリピンは少数民族が少なくない。100から150の言葉があるといわれます。もっとも使用する人口が多いのはタガログ語で、国民の90%を超える人々がリテラシーを持っているようです。ただし、先にも述べたように、知識人たちが使用するのは、その時々の宗主国の言語。タガログ語の地位は低く、創作される作品も大衆文学の域を出ることはなかった。それが『マニラ—光る爪』の出版をきっかけにして反転します。レイエスは本作で、民衆の言葉であるタガログ語で、フィリピン社会における人々の現実を描き出しました。時は1960年代後半、真っすぐな若者たちが、独立後も影響力を保っていたアメリカに対する抵抗を起爆剤として、フィリピン社会のゆがみを正そうとしていた。彼らは、『マニラ—光る爪』を競って読み、映画化されると、国内全土で人気を博しました。本格的な国民文学の誕生です。主人公フーリオは、音信が途絶えた恋人リガヤを探して、小さな漁村から都会のマニラへ出てきた。貧しい彼は、建設現場で日雇い仕事をしながら、中国人の妻になったらしい恋人を探します。このころ中国人移民たちは積極的な経済活動によって、豊かな暮らしをしているものが多かった。そのためか、彼女も中国人にめとられたと、フーリオは聞いていました。もともとリガヤは、ある婦人の紹介で、マニラの工場へ勤めることになっていた。それが、なぜ中国人と結婚することになったのか。フーリオは真実を突き止めようと、彼女から届いた手紙の住所を頼りに、古いアパートを訪ねるが、痩せた男があらわれ、追い払われる。物語が進むうち、リガヤは騙されて娼家に売られ、中国人の男に囲われていたことが明らかになって行きます。この男がひどい暴力を振るい、彼女を軟禁状態に置くが、赤ん坊が生まれてからは、外へ出してくれるようになった。そこで偶然にフーリオと出会い、逃げる相談をし、深夜に待ち合わせるのですが……。スペイン、アメリカの植民地として、文化的にも支配されたフィリピン人が、始めたフィリピンの民衆言語であるタガログ語で現代文学を書いた記念碑的な作品。『マニラ—光る爪』は、そのような評価を受けています。この小説も、ポストコロニアル(植民地時代以降)文学の一つの成果と言えるでしょう。[参考文献]『マニラ—光る爪』寺見元恵訳 【ぶら~り文学の旅(54)海外編】聖教新聞2024.7.24
June 5, 2025
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生命の不確実さにどう向き合うか科学文明論研究者 橳島 次郎遺伝子検査の商業的利用 今年4月、東京や神奈川の市立保育園で、企業の提供する子ども向けの遺伝子検査を保護者に進めたり、検査キットを配ろうとしたりしていたという報道があった。それらの遺伝子検査は病気や障害の有無を調べるためではなく、子どもの個性や身体的得量、将来の傾向を知る目安になる、子どもの知性や認知能力、勇気、ストレス耐性などを調べるという触れ込みだった。かなり以前から、このような医療目的でない遺伝子検査を直接一般人にて依拠する商業的サービスが広まっていた。遺伝医学の専門家らは、こうした検査には科学的根拠はないものが多いと注意を呼び掛けてきたが、子どものことはできる限り知りたいと思って検査に応じる親が少なくないのも事実のようだ。医師による採血等は必要でなく、唾液などを郵便で送るだけでできる手軽さも、流布を促す理由だろう。DNAシーケンサー(遺伝子配列解読装置)の性能が向上し、特定の遺伝子だけを調べるのではなく、遺伝子配列相対を一括して調べる前ゲノム解析が容易で安価になってきたという技術的背景もある。検査で明らかになる遺伝子情報は、不用意に第三者に漏れると差別につながる恐れがある。子どもの将来のためと思って受けた検査の結果によって、保険の加入を断られたり、就職に支障が出たりということが起こらないとはいえない。フランスなどでは遺伝子情報に基づく差別を法律で禁じているが、日本ではそうした法的措置は行われていない。遺伝子検査の流布に伴って必要なセーフティーネットの整備が遅れているのだ。早急な対応が求められる。商業的な遺伝子検査をめぐる問題は、個人情報の流出や差別の防止に留まるものではない。そもそも遺伝子とは何か、それで人間の何がわかるのかという根本について、社会全体が正しく知っておかなければならない。遺伝子は生命の設計図ではない。遺伝子ですべてが決まるのではない。それが現代生物学のたどり着いた新しい常識だ。がんのような生物学的実体が比較的はっきりした疾患でも、発症には多数の遺伝子と生体内外の環境要因が複雑に関わる。まして知性や認知能力となれば、特定の遺伝子で分かることはごくわずかだろう。遺伝子の検査技術が発達する一方で、DNAの生物学はさまざまな要因が複雑に絡み合う不確実性こそ生命の本質だということを明らかにしている。その生の不確かさに私たちがどう向き合えるかが問われている。 【先端技術は何をもたらすか—25—】聖教新聞2024.7.23
June 4, 2025
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