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コロナとインフォデミックニュースパーク(日本新聞博物館)博物館事業部 博物館担当主幹阿部 圭介 感染情報拡散が招く混乱経験振り返り、学ぶ手掛かりに ニュースパーク(日本新聞博物館、横浜市中区)は4月20日から9月1日まで、企画展、「新型コロナと情報とわたしたちⅡ——コロナが私たちに残したもの」を開催している。新型コロナウイルス感染症は、真偽ないまぜの情報が爆発的に拡散する「インフォデミック」(information+epidemicまたはpandemic)をはじめ、情報を巡るさまざまな混乱を引き起こした。コロナ禍を振り返り、そこから教訓を学びとることを狙いとしている。「Ⅱ」があるからには「Ⅰ」がある。当館が緊急企画展「新型コロナと情報とわたしたち」を開催したのは、コロナ禍の2020年夏だ。この年の2月頃には、日本でコロナの流行が始まり、当館も臨時休館を余儀なくされた。世の中に様々な流言・デマが流れ、医療従事者・感染者への誹謗中傷・差別が行われる事態を目の当たりにし、「情報と新聞の博物館」をうたう当館として何ができるのかを考え、急きょ準備に着手し、開催したものだ。インフォデミックで起きた出来事を展示し、どう対処すればよいのかの手がかりを探るため、メディアやコミュニケーションの研究者らのコメントを紹介した。コロナ禍の初期、「トイレットペーパーが中国から輸入されなくなり不足する」というデマによる騒動があった。東大の島海不二夫教授と日本経済新聞の分析では、SNS上ではデマそのものよりも、デマを否定する善意の投稿の方が多かったという。ニュースサイトやテレビ番組などでもこのデマが紹介され、多くの人がトイレットペーパーの供給に問題がないことを知りながら、それでも我先にと買い求め、結果として商品が棚から消えた。当館はコロナ前、来館者の約半数を占める小・中学生を中心に「確かな情報を見極めることの大切さ」を展示で紹介していた。しかし、トイレットペーパー・デマ騒動は、おおくのひとが確かな情報」を知っていたのに起きた。この経緯は、緊急企画展では図解パネルで紹介するとともに、常設展示を見直すきっかけにもなった。22年3月の常設展示一部刷新では、情報との接し方をより実践的に学べるよう、その心構えを「情報の杜」を冒険するアイテムなどに見立てて紹介している。流言・デマや誹謗中傷・差別が起きる原因として、不安や恐怖心が挙げられる。関東大震災をはじめ過去の災害時や感染症にも起きたように、コロナ禍も例外ではなかった。新聞はニュースをわかりやすく伝えるため、具体的な事実を積み重ねる。それがあだとなって、感染者の誹謗中傷・差別を助長したとの指摘もあった。開催中の「新型コロナと情報とわたしたちⅡ」は、誹謗中傷・差別の他20年7月以降の出来事として、ワクチンを巡るデマや東京五輪・パラリンピックの開催などを取り上げ、分析ともいえる社会状況を紹介するとともに、結核予防会の尾身茂理事長や東大の武藤香織教授といった政府専門会議の元メンバーから伺った話をパネル展示している。メディアに対する厳しい意見もいただいた。また、コロナ禍の経験をm来に継承する観点から、白鷗大の下村健一特任教授、法政大の藤代裕之教授の協力を得て、「私(個々人)はどうすればいいのか」「仕組み(インターネットの情報流通機構)をどうすればいいのか」を考えてもらう大型パネルを設置した。インフォデミックを繰り返さないためには皆で経験を振り返り、考えていくことが必要で、本展がその手掛かりになればと願っている。(あべ・けいすけ) 【文化】公明新聞2024.5.31
April 30, 2025
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進化する太陽の観測と研究宇宙物理学者 柴田一成さん宇宙天気予報などに活用 地球にも大きな影響 「太陽やばい!」今月の11日から12日にかけて、通常は北極や南極、そして付近でしか見られないオーロラが日本でも観測されました。北海道や青森、さらい緯度の低い京都や兵庫などでも見えたようですね、これは「太陽フレア」によるものでした。太陽の表面に「黒点」と呼ぶ黒い斑点が見えることがあります。周りよりも温度が低いために黒く見えるのですが、黒点は強い磁場を持っていて、この付近のエネルギーが急激に解放されることによって大規模な爆発現象が起こる。これが「太陽フレア」です。フレアの多くは黒点の出現後に発生します。黒点がたくさんあらわれるとフレアもたくさん起こることが分かっていますが、太陽活動の周期はおよそ11年。黒点もほぼ11年周期で増えたり減ったりしていて、今は極大期(ピーク)に近づいていると考えられます。フレアの規模は生じるエックス線の強さによって小→大の順にA・B・C・M・Xの5段階が続いて起こったものですから、私はX(旧ツイッター、@cosmic_jet)でつぶやきました。「ちょっと今の太陽やばい!」 磁気風によって太陽はエックス線や放射能粒子、プラズマ(電気を帯びた粒子)を常に放出していますが、フレアが発生すると大量のプラズマが宇宙空間に噴出されます。これをコロナ質量放出(CME=コロナ・マス・エジェクション)と言い、地球の方向に噴出されると2~3日後には地球にぶつかって磁気圏を激しく乱し、磁気嵐を起こすのです。これによって磁気が変動して、たとえば、電線に強い電流が流れて電気製品が損傷。大規模停電が起きる可能性も考えられます。実際、数年に一度の大フレアが起きた1989年3月にはアメリカ・ニュージャージー州の変電所で変圧器が焼け焦げ、2003年10月には飛行機と通信の一部に障害が出るなどの影響があります太。今回は03年以来、21年ぶりの大磁気嵐でしたが幸い放射線粒子とエックス線の強度は強くなく、日本でも大きな被害はほとんど報告されませんでした。プラズマ噴出はフレアを伴わない場合もあります。1994年4月、私はこのケースでプラズマ噴出が起こった可能性があることを予測。国内外の友人にメールで知らせたところ、アメリカ・シカゴの電力会社が磁気嵐の対策を事前に講じて数億円の損害を回避することができた、ということがありました。宇宙の爆発現象を解明したいと始めた研究が社会に役立つことを実感した、貴重な体験でした。 他分野との交流黒点の極大期は2025年と予測されていますが、実際の数は予想よりも多くなっています。ひょっとすると今がピークかもしれません。ただ、国定の数が少なくなっても大フレアが起きることも分かっています。直近の10年で最大のフレアが起きたのは2017年。太陽活動の周期は約11年周期から、28年の前後どこかで、今回を超える大フレアが起こる可能性も考えられるのです。人類で最初にフレアを捉えたのはキャリントンというイギリスの科学者です。1859年、黒点のスケッチ中に一部が光ったといいます。フレアが可視光で見えることは滅多にありませんから、よほど大きかったのでしょう。ハワイやキューバ、和歌山でもオーロラが見えたようです。この時と同程度のフレアが起きた場合、国レベルの被害は100兆円から数百兆円に及ぶといわれています。太陽の観測・研究は「宇宙天気予報」に活用されていますが、日本では被害に備える具体的検討は十分ではありません。政治・経済はじめ社会のリーダーが理解を深め、人員や予算を拡充する必要がある。とともに、私たち理学の研究者も、テクノロジー分野の高額研究者との交流を活発にし、これからの対処に当たっていきたいと考えています。◇柴田さんは、京都大学大学院付属花山天文台で土・日曜日に実施されている昼の公開のうち、土曜日のみに講演を行っている。詳細は、Webサイト(https//kwasean.kyoto-u.ac.jp/open)を確認。午前10時から午後3時半まで自由見学も可。 しばた・かずなり 1954年、大阪府生まれ。宇宙物理学者、理学博士。専門は太陽宇宙プラズマ物理学。愛知教育大学、国立天文台を経て、99年から京都大学大学院理学研究科付属花山天文台長。17年から19年、日本天文学会会長を務める。著書に『太陽の科学』『太陽 大異変』『とんでもなくおもしろい宇宙』など。 【文化Culture】聖教新聞2024.5.30
April 30, 2025
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「芭蕉」と『法華経』東京大学名誉教授 松岡 心平能では、亡霊や鬼や神などの超越的な存在が主人公となることが多い。風変わりなのは、植物が主人公になることもあることだ。能「芭蕉」では、植物の芭蕉が主人公である。舞台は中国の楚国の小水(湘水かもしれない)のほとりに山居する僧の草庵。僧(ワキ)はいつも『法華経』を読誦しているが、そこに毎夜訪れる中年女性(前シテ、芭蕉の精の化身)がいる。あまりの熱心さに僧が女性を草庵に入れると、彼女は「このおん経(法華経)を聴聞せば、われらごときの女人非情草木の類までも」成仏できそうに思われます、と言う。さらに女性が「草木成仏の謂れ」をお教えくださいと問うと、僧は、「薬草喩品あらはれて、草木国土有情非情も、みなこれ諸法実相の……」と答える。『法華経』も含めインドの仏教では、人間のような意識がある有情だけが、発心し解脱すれば仏になるとする立場であり、植物など意識のない非情の成仏は認められていない。『法華経』第五章「薬草喩品」は、仏陀の教えが、全ての草木それぞれの器量に応じて、ひでりのなか干天の慈雨のようにしみ渡っていくと説く。壮大で美しい比喩の章だが、草木成仏の可能性には厳密には触れていない。ところが僧は、「草木国土有情非情はすべてみな諸法実相(世界のすべての存在があるがままに成仏している)」と言うのである。「草木成仏」の考えは、中国で萌芽を見、主に日本中世の天台本覚思想で発展した、日本における『法華経』の創造的再解釈であった。能の後場、植物の芭蕉らしくあらわれた中年女性(後シテ、なぜ中年女性なのかは未解決課題だ)は、芭蕉のもろさ、破れやすさなどを語りながら、シテの舞の身体を通じて音楽と舞踊により、諸法実相の不思議を表現していくのである。 【言葉の遠近法】公明新聞2024.5.29
April 29, 2025
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誤解や偏見のない社会を共に「依存症」を考える 依存症にまつわるニュースをよく目にする。有名人による巨額のギャンブルに驚かされるが、他にも薬物やアルコール、最近ではゲームや買い物、SNS、美容などへの「依存症」に苦しむ人がいる。世界保健機関(WHO)が定める「国際疾病分類」の第11回改訂版(2019年)によると、依存症の正式名は「物質使用および嗜癖行動による障害」。長年、アルコール、薬物など「物質への依存」に限られてきたが、改訂版には「行為・過程への依存」が加えられ、ギャンブル、ゲームへの依存が、国際的なガイドライン(指針)に従って診断される病気となった。筑波大学の原田隆之教授は、依存症について、「脳の機能障害に基づくコントロール障害」と定義する。つまり、脳の病気であり、「心がけや意志で対処できるほど、依存症は生やさしいものではない」「ある種の物質の摂取や行動の反復によって、脳の機能が変化してしまい、コントロールが利かなくなった状態」という(『あなたもきっと依存症』文春新書)。依存するものは異なるが、共通するのは「体調を崩す」「嘘をついて家族との関係を悪化させる」「行動や浪費がエスカレートして手段を選ばなくなる」「社会生活を送れなくなる」などだ。アルコール依存症者を抱える。ある家庭では、親が、「自分がいないとダメになる」考えて長年、この借金を肩代わりしており、「共依存」が第三者の関与を難しくしていた。〝だらしない〟〝育て方が悪い〟といった誤解や偏見は根強く、世間体から周囲に相談しにくいという側面もあろう。依存症は1度の経験だけで陥る可能性があり、誰もがなりうる病である。ゲーム依存症では、急速に進む低年齢化も危惧されている。陰で最も苦しむのは家族だが、治療への最大の協力者となるのも家族である。ただ、家族や周りの人が適切な対応や接し方を知らないと、状況をこじらせかねない。自助グループや家族会への参加、専門の相談・診療機関へ連絡することを勧めたい。家族への支援も重要だ。依存症者や家族がちゅうちょせず支援を受けて回復するためには、周囲の人々の理解も欠かせない。病気で苦しむ人が、誤解や偏見で二重に苦しまないよう、一人一人が依存症を正しく認識していきたい。 【社説】聖教新聞2024.5.25
April 29, 2025
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問題解決あきらめないで作家 伊東 潤仕事上で発生する問題の多くがダブル・バインドの要素を孕んでいる。ダブル・バインドとは、何らかの問題に勅命した時、それを解決するには矛盾した要素があり、Aを立てればBが立たないという状態になることだ。例えば、イスラエルによるガザ地区への攻撃をやめさせたい米国民主党政権だが、イスラエルの支援をやめてしまうと、米国籍のユダヤ系国民の支持を失うことになる。こうしたダブル・バインドの問題を解決することに長けたのが、この七月から福沢諭吉に代わって一万円札の顔になる渋沢栄一だ。渋沢の手品のような財政手腕によって明治政府は草創期の財政危機を脱し、近代化への道をひた走ることになる。その手品の詳細については複雑なので記さないが、関心があったら調べてほしい。さて、こうしたダブル・バインドに直面した場合、すぐに「ダメだ」「無理だ」「不可能だ」と思考停止していないだろうか。さらに自分が直面している問題は特別なので「言うは易し、行うは難し」と思っているのではないだろうか。しかし見方によっては、世の中は特別な問題だらけだ。どのようなダブル・マインドだろうと、渋沢のように解決策を見出している人がいるのを忘れないでほしい。そのカギは「深く考える」ことにある。またさまざまな問題解決を諦めてしまうことだけは避けてほしい。とにかく大切なのはDeep thinkingだ。あなたも紙幣の顔になれるかもしれない。 【すなどけい】公明新聞2024.5.24
April 28, 2025
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世界遺産登録10年 富岡製糸場世界の絹文化一変させた近代日本東京大学名誉教授 石井 寛治大量の生糸輸出支えた養蚕技術と女工の労苦19世紀中用に開国した近代日本は、近世に育った生糸産業に西欧式の縦糸器械を備えた製紙工場を1872年に導入し、フランスやアメリカへの大量の生糸輸出に成功した。ヨーロッパでは蚕の病気が大流行して絹産業が打撃を被ったため、中国や日本の生糸への需要が膨れ上がり、イギリスの巨大勝者ジャーディン・マセソン商会は、1862年に中国上海に200釜の器械製糸場を設立し、69年には担当者が亡くなった同製糸場を丸ごと日本に移植しようと前橋藩に共同経営を提案したが、交渉は挫折した。外国人への裁判権のない日本政府は外国商人の日本内地への侵入・支配を危険視したからである。しかし、機械製糸場設立の許可願いは、その後のフランスの巨大商社エッシュ・リリアンタール紹介からも提出され、少なくとも資金投下だけでも認めてほしいと強く迫ったため、驚いた日本政府は、渋沢栄一の式かに300釜という大規模な官営器械製糸場の設立を計画し、技術担当者として同商会の生糸検査技師ポーリュ・ブリュナを雇い入れた。 貴族独占から民衆のものへ 群馬県がユネスコに登録申請した世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」が2014年6月に許可されてから今年で10年目となる。注意したいのは、ヨーロッパの最新技術の移植は生市場について行われただけであって、生糸の製造コストの8割を占める原料繭を作る養蚕業は、近代日本の養蚕技術が十分発達しただけでなく、群馬県の養蚕家田島弥平や高山長五郎あるいは庭屋静太郎らの努力によって改良が積み重ねられており、かれらの活動は世界遺産の重要な一環とされたことである。1873年にローマ郊外の養蚕業を視察した岩倉遣外使節団は、「養蚕の方は日本と大抵同じ」と記していた。製糸業の技術を移転しても、300釜というヨーロッパの大規模モデルは、日本では模倣されなかった。長野県に普及した器械製糸場の当初の平均規模は富岡製糸場の10分の1以下であり、群馬県では家内工業の座繰製糸のままで、揚返工程を集中する改良座繰が明治期一杯は広がった。そのため、明治末期にイタリア・中国を抜いて世界最大の生糸輸出国になったとはいえ、日本生糸は質的にはイタリアや中国上海の生糸に劣っていた。第一次世界大戦後に世界生糸市場の80%台を日本生糸が独占するのは、製糸女工の労苦多い労働と、生物学者外山亀太郎の一代交雑蚕種の発見、片岡製糸・郡是製糸・原合名製糸のリスクを負担してその普及の努力が実を結んだ結果であった。1929年から世界大恐慌は、御法川直三郎式の多条繰糸機によるアメリカでの靴下用生糸市場の独占を通じて克服され、養蚕農民の満州移民は経済的に不必要だったことが最近明らかとなった。こうして古代には皇帝や貴族の実が用いた絹製品を、近代では民衆も用いるようになり、世界の絹文化は一変した。富岡等の世界遺産は、それを作り上げた我々の先祖たちの輝かしい成果を示す宝庫である。(いしい・かんじ) 【文化】公明新聞2024.5.24
April 28, 2025
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あいまいな言葉川添 愛(言語学者) 「きのこる」の意味は?依然、ネットでこんな書き込みを見つけました。「この先生きのこるにはどうしたらいいか」——。皆さんはどう思いますか。私は一瞬、「きのこる」ってどういう意味だろう、と考えてしまいました。そしてもう一度読み返したときに、「この先(さき)生きのこるにはどうしたらいいか」であることに気付いたのです。また、高級レストランで、お客様から「ここに書いてあるオードブルって何ですか」と訊かれたウェーターが、「オードブルというのは、食事の最初に出される軽い料理のことです」と答えたら、「そんなことを聞きたいんじゃない」と怒られてしまいました。オードブルとして、どんな料理が出てくるのかを聞かれたのに、オードブル自体の説明をしてしまったからです。こうしたすれ違いは、気を付けていても起きるもの。私も似たような失敗をした経験があります。人工機能関連の研究会で、「機械学習を利用したとおっしゃいましたが、機械学習って何ですか」と聞かれた時のこと。ずいぶん基本的な質問だと思いましたが、深くは考えずに機械学習の定義を説明したら、「そうじゃなくて、どんな機械学習を使ったのかを教えてください」と言われてしまいました。このような、曖昧な表現による「すれ違い」を回避できるかどうかは、あいまいさのパターンを知っているかどうかに左右されます。皆さんにも、あいまいさに上手に対処してもらいたく、近著『世にもあいまいなことばの秘密』(ちくまブリマー新書)を出しました。 英語にもある勘違い表現間違えやすいのは、名詞に修飾語がいくつもつくパターン。例えば、「政府の女性を応援する政府」。政府が考えた「女性を応援する政策」なのか、政府にいる女性を、応援する政策なのか。このよう場合、句読点を入れることで言葉の塊がはっきりし、正しく解釈しやすくなります。日本人はやんわりと表現することが多いので、とくに日本語はあいまいだと思われているようですが、そんなことはありません。どんな言語にもあいまいさはあります。以前、海外の新聞に「Eye drops off shelf」という見出しが出たことがあるそうです。「eye drops」は「目薬」という意味にも、「目玉が落ちる」という意味にも取れます。また、「off shelf」には「棚から」と「在庫あり」の二つの意味があります。見出しに込められた意図は「目薬の在庫あり」でしたが、読んだ人たちからは、「棚から目玉が落ちる」と解釈されてしまいました。よく考えれば、常識的に分かるはず。でも、多くの人が「目玉が落ちる」と思ってしまったのです。同じようなことは、日本でもありました。嵐の櫻井さんと相葉さんの結婚報道です。見出しには「嵐の櫻井さんと相葉さんが結婚」と。一瞬、二人が結婚したのかと思った人は少なくないはずです。山道を歩いて「すぐに走って逃げてクマを興奮させない」という看板を見たあなたは、どう行動しますか。クマにあったら走って逃げる? それとも逃げない?これも、どちらにも取れる表現。でも、急な動作にはクマを刺激して襲われる危険があることが分かっていれば、「走って逃げてはいけない」という意味だと分かるでしょう。 互いの認識の違いを意識こうした「あいまいさ」は、排除した方がいいと思うかもしれません。でも、あいまいさがあるから、私たちは便利に生活できているのです。複雑な世の中を事細かに表現しようとすればするほど、言葉が長くなり、単語の数も増えてしまいます。それでは人間には理解しづらい言葉になってしまう。そこで、大ざっぱに物事を捉えることで、言葉を短くし、瞬時に理解できるようにしているのです。あいまいさは、効率的にコミュニケーションを取るには、どうすればよいのでしょうか。それは相手と自分の認識の違いを意識すること。共通認識が多ければ短い言葉で通じますが、少なければ詳しく伝える必要があります。最近、LINEで「り」と書くことがあります。「了解」という意味なのですが、それだけでも通じるのも、互いに共通認識があるから。こういう言い方を知らない人は、打ちミスかなと思ってしまうかもしれません。最後に、あいまいな言葉の便利な使い方を教えましょう。食レポで使われる表現で、あまりおいしくない料理の時に「なかなかですね」「独創的ですね」など。どちらにも意味が取れるし、相手のことを否定したくないときに便利です。もしかしたら、若者が、何に対しても「ヤバい」を連発するのは、同じような理由かもしれませんね。 =談 【文化Culture】聖教新聞2024.5.23
April 27, 2025
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平和と正義の追求のため国や文化を越えて連帯をマレーシア国際イスラム大学国際イスラム思想・文明研究所 ダト・オスマン・パカール名誉教授本年1月、マレーシア創価学会とマレーシア国際イスラム大学の国際イスラム思想・文明研究所が共催する、池田大作先生を追悼する集いが、首都クアラルンプールにある同研究所で行われました。登場して一人が、同研究所のダト・オスマン・パカール名誉教授です。先生の思想と生涯を巡り、パカール名誉教授にインタビューをしました。(聞き手=萩本秀樹) ——本年1月の追悼行事で、パカール名誉教授は池田先生を「多様な文化や宗教を持つ人々の対話を促進した、優れた哲学者」とたたえられました。先生が現代の世界や人々に与えた影響を、どうお考えですか。 池田氏の世界的な影響力は、第一に思想の次元にあったと考えます。数々の著作、特に東洋、西洋の著名な人物の対談は、文明間対話の重要性を数多くの人々に理解させるものでした。世界の主要な文明の代表者と対談した池田氏の影響力は、当然のことながら世界の隅々にまで及びます。しかし、創価学会の世界規模の組織とその多くの支持者にとっては、池田氏の影響は思想の次元にとどまりません。氏の思想を実践に移そうとし懸命に行動する人たちがおり、そんな皆さんの高い規律と理想の実現への献身に、私は大いに感銘を受けました。池田氏はまた、国や文化を横断する知性の持ち主でもあります。それは氏が、共通の人間性、平和、寛容や協力など、文化や文明や宗教を越えて人々に訴える問題に対して、普遍的な言葉を使いながら語られる点にも見てとれます。争いや分断が深刻化する現代にあって、地球規模の問題に対する池田氏のようなアプローチを、評価する人は多くいます。氏の長年の功績が、報われ始めたといえるでしょう。 対談集に感銘——名誉教授が池田先生を知ったのは、イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーとの 対話読んだことがきっかけだったと伺いました。 その通りです。トインビーとの議論にみられる、諸問題に対する池田氏の知性に、私は大変に感銘を受けました。トインビーは、西洋だけではなく東洋の多くの人々に影響を与えた偉大な歴史家です。そうした人物を迎えるだけで、対話の質は高まるものです。それは同時に、対話する人を難しい立場に起きかねないものですが、池田氏は、自らの考えを的確に表現することに成功しています。二人の対談集『Choose Life』(邦題『21世紀への対話』)に出会った時、私は、イギリスのロンドンで博士課程に在籍していました。私は哲学を専攻していましたので、池田氏の哲学的な思考に興味を抱きました。氏は哲学と宗教性とを切り離して考えてはおらず、それが私にとっては重要でした。というのも、当時学んでいたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの書籍の中では、哲学は宗教性とかけ離れたものでした。しかし、私たち東洋人にとって、宗教性は生活になくてはならないものです。地球的問題の根を宗教性の視点からとらえる師の洞察は、とても魅力的でした。池田氏の宗教性はもちろん仏教ですが、その焦点は仏教の普遍的側面に置かれています。ゆえに市の思想は、私にとってのイスラム教をはじめ、世界の他の宗教的伝統とともに視点を共有できるものです。また、池田氏は単なる哲学者でも宗教家でもなく、知的活動下でもあり、そのエネルギーは目を見張るほどです。おそらくその点こそが、私が最も感銘を受けた点です。池田氏とトインビーの対談集は、これまでに出合った書籍の中で最高のものの一つです。池田氏に深く感謝しています。 池田氏は人類普遍の哲学と言葉で文明間を結んだ世界的な指導者 ——マレーシア創価学会(SGM)をはじめ、各地の創価学会員と共に交流を深めてこられました。 最初の接点は1990年代でした。私が副学長を務めていたマラヤ大学で行われた環境問題に関するイベントなど、参加できたものは、どれも印象的でした。池田氏とインドネシアのワヒド元大統領の対談集(『平和の哲学 寛容の智慧」』を読まれマレー語版を発刊ンする際には、序文執筆の依頼があり、もちろん快諾しました。準備のために対談集を読み込みました。一緒に準備をしてくれたSGMメンバーの献身と規律は、とても印象的で、深く感謝しています。また、本年1月には池田氏の追悼行事でも言葉を述べさせていただき、SGMとの距離がさらに縮まったとうれしく思います。 ——池田先生とワヒド元大統領の対談集に、どのような印象を持ちましたか。 仏教とイスラム世界を代表する、二人の世界的な人物による対談です。さまざまなテーマを扱っていますが、それらをアジアに限らず、グローバルな問題として捉えていることに異議があります。また、二つのアジアの精神が、多くの共通点と融合点を有していることは注目に値します。私は個人的にもワヒド元大統領をよく知っていますが、彼は非常にオープンで寛容な心の持ち主として、イスラム世界の人々から敬愛されています。対談の主題は、書籍のタイトルにも関せられた「寛容の智慧」ですが、それはイスラム教で伝統的に重要視されてきた価値でもあります。7世紀にアラビアでイスラム教を創始した預言者ムハンマドが、布教の拠点とした都市メディナは、多様な民族と宗教に対する寛容さを特徴としていました。以来、イスラム教は多元的な社会に貢献し、多民族、多宗教が調和して生きる方法を示してきました。その間用の智慧は、仏教の伝統にも見られます。池田氏が対談集で示した仏教観には、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教等にも共通する普遍的な価値観が多くありました。対談集をマレー語に翻訳したのは、私の友人であるシティン・アーマド・イシチャク教授でした。素晴らしい翻訳に仕上がっていることを、一言付け加えたいと思います。 「衝突」論の衝撃——名誉教授は1996年、マラヤ大学に「文明間の対話センター」を設立されました。目的や経緯について教えてください。 設立の数カ月前、マラヤ大学で、文明間の国際会議が開催されました。私は副学長に就任したばかりでしたが、すぐに多くの対話活動に関わっていました。会議は、現在のマレーシア首相、当時は副首相だったアンワル・イプラヒムによって公式に動き出しました。私たちは学生時代を共にし、文明と対話という共通の関心を持つ間柄でもありました。政府の支援を得たことで、とても大規模な会議が実現したのです。当時、「文明の衝突が迫っている」という説をとなえたサミュエル・ハンチントンの悪名体愛論文が、国際社会に衝撃を与えているさなかでした。イスラム教徒儒教が力を合わせて、西洋と戦うという彼の首長は、マレーシアを含む世界中で多くの批判を招きました。私自身も賛成できない見解です。互いを知るために対話するのがイスラム教の精神であり、力を合わせて西洋に対抗するというのは、あまりにも浅薄な考えです。多民族・多宗教のマレーシアで、マレー系に次ぐ大きなコミュニティーを形成しているのは中華系の人々です。しかし長い間、イスラム教徒儒教が共存してきたにもかかわらず、本格的な対話が行われたことはありませんでした。そんな中、イスラム教徒儒教の代表を招いて会議を開催しました。著名な儒教研究者であるハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士も、参加者の一人でした。会議では、両者の間に多くの共通点があると示され、それは驚きをもって迎えられました。この会議の成功の直後、私は「文明間の対話センター」の設立を主導しました。3年前には創立25周年を祝賀することができ、センターは今も活発に活動しています。マレーシアだけでなく東南アジア地域における、文明間の対話の拠点であり続けています。 宗教本来の役割——巧妙なイスラム哲学者である名誉教授は、グローバリゼーションの過程でイスラム教が果たした役割に発信してこられました。 イスラム教の聖典であるコーランには、人類という家族の統一について書かれています。イスラム教は基本的に、それまでの全ての聖典を結合した教えとして自己を提示しています。ここで問うべきは、何が人類を統合するのかということです。それは人種でも物質主義でもなく、宗教性です。コーランでいう「神意識」であり、それは人間に内在するものです。あらゆる聖典の真理を再確認する意味で、コーランは、普遍的でグローバルな聖典であるといえます。また、ムハンマドの死後にイスラム教が東西に急拡大したことで、人々はそのグローバル性を意識するようになりました。イスラム振興の柱の一つは聖地メッカへの巡礼ですが、毎年、肌の色や民族の異なる数百万人もの巡礼者がメッカを訪れます。メッカが文明的な中心地にもなることで、グローバリズムの精神を促進してきました。しかし子らの事実は、イスラム教に対する一部の偏見に満ちたイメージによって、矮小化されてしまっているのが現実です。残念なことに、今日のイスラム世界では、過激主義に関連した出来事が起こり、そうした過激主義や暴力が強調されて報道されることで、イスラム教の多くの皇帝的な側面は普及せず、あまり知られていないのです。しかし私は、イスラム教の名のもとに、過激で暴力的な行為に訴える人たちがいることは否定しません。重要なのは、イスラム教徒の大多数はいかなる形の過激主義も、同意も容認もしていないということです。政治化された側面ではなく、協議の核心に目が向けられ、イスラム教の理解が深まることを願っています。文明の目的は、互いを知ることにあります。コーランでも、人間が国や部族にわかれたのは、互いをよく知るためであると説かれています。イスラム教は何世紀もの間、東西文明の懸け橋となり、豊富な知識とヒューマニズムを共有しながら、グローバリズムの精神を強化してきました。池田氏もまた、人々の分断する宗教と連帯させる宗教を、明確に区別されています。そして氏自らが、人類を連帯させるための努力に生涯をささげました。 ——池田先生の心を継ぐ学会員は人類の幸福と平和のため、「対話随いを知る」行動に徹してきました。 すでに述べたように、創価学会の規律と献身に、長年、感銘を受けてきました。私が期待するのは、池田氏が築いたよい伝統を継承し、師の思想を深く理解するとともに、その思想に生きてもらいたいということです。理解することにもまして重要なのは、氏の思想を、あらゆる活動を通して実践していくことです。創価学会の皆さんは、さまざまな活動を通じて社会に貢献してこられました。その根底にあるのは、池田氏と、氏の二人の師匠である戸田氏、牧口氏の理念と思想でありましょう。これからも、人類に奉仕しているという自信と誠実さを以て、前進し続けられることを願っています。私たちの世界は、皆さんのような人材を必要としています。そして、共通の思想を持つ世界中のグループと、さらに協働していっていただきたい。私たちは、平和と正義の追求のために手を携えていくのです。創価学会は、他の多くの人々をつなぐ存在でもあると思います。 【識者が語る「未来を開く池田思想」】聖教新聞2024.5.23
April 27, 2025
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涙と人間愛にあふれた群像劇作家 村上 政彦サローヤン「ヒューマン・コメディ」 本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日はウィリアム・サローヤン『ヒューマン・コメディ』です。「いつかあなたのために物語を書きたいと思ってきました。(中略)アルメニア語として出版されれば、あなたにじゅうぶんこの物語を味わってもらえるでしょう。(中略)細々と受け継がれているこの言葉の魅力を、あなたほどよく知る人はいないのですから」冒頭のやや長い献辞で作者は語ります。「あなた」は母のこと。アルメニアに出自を持つ最大の作家サローヤンは、アルメニア移民の2世でした。アルメニアには、世界でも最古の文明が発祥したともいわれていますが、民族としては苦しい歴史を生きてきました。オスマン帝国の一部だった、第1次世界大戦の頃には、アルメニアの独立を求める文学者や芸術家が捕らえられたことをきっかけに、150万人に及ぶアルメニア人がジェノサイドの犠牲者になったのです。仁郎は、ナチスのホロコーストが生きる以前にも、おぞましい「民族浄化」を行っていた。このような歴史的スキャンダルは、現在にも地続きで、21世紀を生きる僕らにも知っておく責任がある。そうしないと、人間は同じ過ちを繰り返すからです。本作の舞台は、第2次世界大戦のさなかにあるカリフォルニア州。主人公のホーマー・マコーリーの家族が暮らしているのは、イサカという架空の町で、おそらくアルメニア移民の多かったフレズノがモデルになっているのではないかと思われます。ホーマーは2年前に父を失い、14歳ながら家計を支えるため、年齢を偽って電報局で配達員の仕事を得る。局長のスナングラーは好人物で、彼の年齢を知りながら雇う。電報局には、老いた電信士グローガンがいて、ホーマーとはいい話し相手。ある時、ホーマーは、戦史には意味があるんですよね?と尋ね、グローガンから、その問いに答えがあるかな?と返される。なぜ、ホーマーがこんなことを口にしたのか。それは、どうしても届けたくない電報——兵士の戦死を告げるものがあるからです。受け取った家族の悲嘆が耐えられない。ホーマーは自分が「死の使者(メッセンジャー)」になった気がするのでした。しかし見方を変えれば、ホーマーは兵士の死をきちんと知らせることができる。現在、世界の各地で起きている戦争では、どの兵士が何処でなくなったのかさえ分からないことがあります。そういう時、人は固有名詞ではなく、数字に変えられてしまう。死者××人という非人間的な情報。僕らが日常的に見聞きするニュースです。本作には人間の善なる輝きも描かれます。サローヤンにしか書けない小説です。[参考文献]『ヒューマン・コメディ』小川敏子訳 光文社古典新訳文庫 【ぶら~り文学の旅㊿海外編】聖教新聞2024.5.22
April 26, 2025
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思慮の力と実践——徳倫理の現代的展開 アリストテレスを始祖とする「徳倫理」は、思慮の力と「生の充実」を重視する倫理学であり、そこには現代の倫理的課題に応え得る可能性が秘められている。『つなわたりの倫理学』(角川新書)の著者、松村聡・早稲田大学教授は、徳倫理から妊娠中絶やがん告知の倫理的課題を考察している。村松教授に聞いた。 答えの出ない医療・生命倫理の現場行為者の態度、心構えを問う村松 聡 アリストテレスが考えた徳私たちが「徳」というとき、徳がある人や徳の高い人を考えるように、心の在り方や性格に関わる道徳論を連想するのが一般的ですが、アリストテレスが展開した徳倫理の基本にあるのは、人間は以下にすれば幸せな人生を歩めるのかということであり、そのために必要な資質や心の姿勢をアリストテレスは徳と考えました。したがって、その起源において、徳は幸福と深い関りを持ち、充実した「生」の展開を達成するための心得と考えられ、私たちの想像する高潔で立派な徳のイメージに加え、ふだんは徳と考えていない、ユーモアなセンスなど、私たちの生活全般に及ぶもものでした。一方、アリストテレスが想定した徳倫理には個人と社会の在り方は一致するとの前提がありました。この前提が歴史的に崩れ、徳倫理は衰退の道をたどります。ヨーロッパでは、宗教戦争の経験から、故人の徳と社会の規則の在り方に乖離が生まれます。一神教では信仰は個人の内面にとどまらず、故人の倫理を社会的ルールとして強く束縛します。宗教戦争の時代、異なる協議を持つ宗派間では社会的にも互いを認められなくなったのです。こうした反省から、公の規則では、故人の内面的な倫理に介入せず、プライバシー権を認める近現代社会が成立します。アリストテレスが考えもしなかった問題に、西欧は直面したというべきでしょう。さらに而立に基づく個人の在り方を考えるカントの義務倫理が18世紀後半から倫理思想の中核を占め、経済学と結びついた功利主義が倫理思想の一角を占めるなど、徳倫理は倫理思想の脇役へと追いやられていきます。しかし、徳倫理は、その原点に立ち返れば、「すべきでない」と縛る義務倫理や「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義にはない、何を幸せと考え、私たちは何をしたいのか、それを広く問う可能性に開かれています。拙著では、その徳倫理の可能性について展開しています。 開かれた包括的な人間理解 原理主義に走らない柔軟さ多くの倫理学者と同じく私も当初、規範倫理的な考えから原理や原則を見つけ、倫理的課題に対する答えをえようと考えていました。ところが、医療倫理や生命倫理の現場の課題に向き合うなか、原理や原則を厳密に守るだけでは、答えの出ない問題があることに気付きました。例えば、がん告知の問題。カント的義務論では正直な行為としての真実の告知が求められますが、その思わぬ悲劇の結果をもたらす場面もあります。功利主義はどうでしょうか。告知について、最大多数の最大幸福をどう図るのか。それはネゴシエーション(折衝)の技術に陥る可能性もあります。私が説く倫理のアプローチが必要であると考えるのは、徳倫理の原理主義に走らない柔軟さ、たおやかな感性、応用の難しさを知る人間知が、現実に起きている問題に応えるために助けになると考えるからです。技術論的アプローチは、どのような行為が義務化を考える点で行為自体に焦点を当てます。一方、功利主義は行為の結果に焦点を当てます。これに対し徳倫理は行為者に注目しその姿勢、心構えに焦点を当てます。人工妊娠中絶を例に挙げれば、徳倫理アプローチは中絶行為の是非を問う二項対立に陥ることなく、行為の結果を損得で測ることもしません。問題に向き合う行為者の態度、心構えを問います。それが柔軟さの根源になっているのです。さらに徳には、さまざまな生の充実に対し開かれた包括的人間理解があります。それが現在の複雑な問題に向き合う行為者の精度や心構えに対する寛容さを生んでいると私は考えています。 考えるための「心の正中線」拙著では、伝統的な徳倫理の思想家であるフットとハーストハウスの論点から、安楽死や妊娠中絶を考える基準や原則を考察し、徳理論の現代における復興者である、マッキンタイアの実勢に基づく徳理論、ヌスパウムの潜在力アプローチにも言及しています。そして、私自身の「ささやかな試み」として、徳倫理のアプローチに基づいて必要な判断をもたらす際の思慮(フロネーシス)がどのようなものかを、四つの章で絞殺しました。私たちが現在、直面する複雑な倫理的状況において、「誠実に更衣する」とはどういうことか、必ずしも明らかではありません。小さなうそをつくことで「誠実に更衣する」ことを実現する場合もあります。私たちはいつも「よいことをしたい」と思っていますが、悪いことしかできない場面が人生には時として生じます。そのとき、道しるべとなる思慮、あるいは考えるための「心の正中線」になるものを示したいと思いました。そうした思慮の一つが、たとえば拙著で揚げた「小悪選択」です。ただ、「小悪選択」を道しるべとしても、それはやむえざる選択であり、なお抑制する心の在り方は必要です。「誠実に更衣する」ため嘘をつく場合もそれは同じです。道しるべを示せば、それで終わりではなく、どういう心の在り方でその道しるべに向かうのか、言葉にはできない執着や諦め、それら全てを含めて思慮しること、それが説く倫理のアプローチでは大切ではないかと考えています。 【社会・文化】聖教新聞2024.5.21
April 26, 2025
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自由診療を憂慮する学会声明も科学文明論研究者 橳島 次郎脳の操作の臨床応用㊤ 今年4月、日本児童青年精神医学会が、反復経頭蓋磁気刺激(rTMS)両方を未成年者の精神疾患や発達障害の治療に使うのは「非倫理的を伴う」とする声明を発表した。大きな電磁コイルを頭のすぐ近くにかざし、磁場による刺激で脳の神経活動に変化を与えると、精神神経疾患に対し治療効果が得られるとされる。標準的な手順では、1回約40分の磁気刺激を1週間で最多5回、最長6週間程度、外来通院で受ける。これがrTMS療法である。この治療法は、日本では2019年から、成人の難治性うつ病に用いることが保険診療として認められている。だが子どもへの実施は認められていない。発達障害への適用も、研究は行われているが、まだ認められていない。しかし一部のクリニックで、保険外の自由診療として施術しているところがある。学会の生命は、そうした医学的根拠の乏しい脳の操作が高額の診療費をとって行われている事態を憂慮して出されたものだ。近年、脳の神経活動に時期や電機の刺激を加えて精神疾患を治療しようとする試みが盛んになっている。これらを総称して「ニューロモヂュレーション(脳神経調節)」という。rTMS療法はうつ病患者の他に、米国では強迫性障害への適用も認められた。頭に取り付けた装置で電流を流す経頭蓋直流電気刺激(tDCS)両方もあり、うつ病などへの適用が研究されている。ニューロモヂュレーションの精神疾患治療への適応は、1990年代に研究が始まったばかりの新興の技術で、rTMS療法は痛みやけいれんなどの副作用が起こることもある。だが侵襲を伴わずに実施でき患者の負担が少ないので、期待は大きい。しかしニューロモヂュレーションには、留意しなければならない独特の事情がある。精神科医療では過去に、脳に外科手術を施して統合失調症などの治療を試み、多くの害をもたらしたことがあった。悪名高いロボトミーに代表される「精神外科」である。この負の歴史が影を落とし、ニューロモヂュレーションも同じような害をもたらす恐れがあると受け取られるのではないかとの懸念が、関係者の間に根強くある。では、精神外科とはどんなものだったのか。それは現在のニューロモヂュレーションにつなふぁりや影響があるのか。次回、脳に手を加える精神科医療の歴史的経緯を詳しく見ることで、脳神経活動を操作する先端技術がもつ倫理的問題を正しく知るように努めてみたい。 【先端技術は何をもたらすか—21—】聖教新聞2024.5.21
April 25, 2025
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ウクライナ訪れ戦争犯罪を調査東京大学大学院 遠藤 乾 教授社会に広がる「分断」「復旧格差」 過酷な高速・拷問を証言——ロシアの攻撃によって、ウクライナの東・南部をはじめ、多くの非戦闘員・文民が犠牲となりました。遠藤乾教授 今回、ウクライナを訪問したのは、ロシアに一時占領された都市を中心にロシア軍の犯行行為を調査することが目的でした。長めの休暇を利用に、1週間、同国に滞在。首都キーウをはじめ、虐殺があった首都近郊の街プチャ、南部のへルソン州、ロシアに一時占領された南部ミコライウ……。車や電車で長時間をかけて移動しました。滞在中、戦争犯罪の訴訟準備に取り組むイタリア人の国際人権弁護士や日本人ジャーナリストと協力し、占領下で高速・拷問されたウクライナの人びとに聞き取り調査を行いました。また、ワークショップ(研修会)では、安全保障の専門家、元知事らと意見を交わしました。 ——交戦中の国への訪問です。危険を伴いましたか。遠藤 はい。空襲警報が頻繁に鳴り響いていました。ミコライウでは、すでに出発した後でしたが、宿泊していたホテルがドローンの攻撃を受け、粉砕されました。ロシア側は「英語を話す傭兵を攻撃した」と表明しましたが、私たちや台湾の医療支援グループのみ。地元メディアでも報じられましたが、ぞっとする出来事でした。ロシアの蛮行に怒りを覚えます。 ——聞き取り調査では、どのような成果がありましたか。遠藤 へルソン州が占領されていた時期、70日間にわたってロシアに拘束され、毎日のように拷問を受けたという元州知事から話を聞きました。温厚な方で、彼の父はロシア人です。侵攻が始まった当初、悪いのはロシア政府だと考えていましたが、解放後にはロシア人への憎しみ日変化したことを吐露していたのが印象的でした。男性被害者6人の会合に参加した際には、全員が務めて平静を装っていると感じました。青い目をした若い元兵士は、拷問について詳しく語りませんでしたが、自らが話している最中、ずっと目の辺りが痙攣していました。また、恰幅のいい中年は、ロシア人が自分に「性的暴行を加えようとした。自殺しようとまで考えた」と述べていました。他に、父と兄が行方不明になり、家族が離散した中学生は話しているうち、立つこともままならない状態になりました。尊厳を幾度も傷つけられたウクライナ人の心には、今も深い傷が刻まれていることを実感しました。 〝息の長い支援〟が必要——日本のメディアは、選挙区や戦況の報道に傾きがちです。遠藤 最前線の選挙区を伝えることは、もちろん重要ですが、それが戦争の全てではありません。戦地から戻った人たちが重い苦しみに丁面している。あるいは、戻ることすらできない人もいる。戦争の悲惨さを伝えるために、そうした点にもっと関心を払うべきでしょう。 ——昨年3月、オランダ・ハーグにある国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアのプーチン大統領らに、子どもを不法に擦れ去った行為に対して、ウクライナでの戦争犯罪の責任を問う逮捕状を出しました。また、今年3月、ウクライナの電力インフラに大規模な攻撃を加えた容疑で、ロシア軍の司令官2人への逮捕状を発令しました。遠藤 2002年に設立されたICCは四つの中核犯罪、すなわち「ジェノサイド(大量虐殺)」「人道に対する罪」「侵略犯罪」「戦争犯罪」の裁判を行っていますが、ICCのような公的機関が動いたことは大きいと言えます。ウクライナから2万人の子どもが連れ出されたといわれますが、ICCはプーチン大統領画指示した証拠を提示できるということでしょう。戦争の渦中で、国際司法の正義を表現することは極めて困難だといえます。しかし、後からでも戦争犯罪を明らかにすることは重要です。容疑者が酷寒(政府)の命令のっ下で行為だとしても、その人物が裁かれることによって、将来の抑止効果をもたらしうると考えます。 ——ウクライナ社会の現状については、どんな印象をもちましたか。遠藤 首都キーウは、的からの攻撃に対する防空体制が整っており、破壊された建物も早急に復旧されています。首都では一見平穏な生活が見られる。しかし一方、へルソンをはじめ地方都市では、破壊された建物がそのまま再建されない場合が多い。いわば、復旧の「格差」が生まれているのです。これは、地方に行かなければ分かりませんでした。首都と地方、占領された地区と非占領地域、兵士を送り出した家族とそうでない家庭、男性と女性、世代の間など、多様な分断線がウクライナの社会に生まれています。今は、圧倒的な軍事力を持つ大国に対し、ウクライナ国内のナショナリズム(民族主義)が高揚し、国民の団結を見ることができます。しかし喫茶五、社会の中には、さまざまな意識のすれ違いあるという複雑な状況です。社会の分断を修復するのは容易ではなく、相当な時間を要することが推測されます。 秋の大統領選に注目——今月7日、ロシアのプーチン大統領の通算6期目となる就任式が行われましたが、大統領は演説の中で、侵攻終結の道筋を示しませんでした。遠藤 昨年来、米下院で、¥共和党強硬派が反対し続けてきたウクライナへの追加支援法案が、ようやく通過しました。ウクライナの人びとの間には「これでなんとか今年は守れる:という安ど感が広がっています。ウクライナの社会学者らの調査によれば、ロシアを撃退できると考える人は85%だといいます。とはいえ、それで「反転攻勢:が可能というわけではありません。黒海への出入り口であるオデッサを占領される可能性は少ないだろうが、奪われた国土全てをとりもどせるわけではない。しばらく膠着状態が続くのではないでしょうか。 ——11月には、米国大統領選挙が実施されます。遠藤 米国の政治はもちろん、国際社会にとっても重要な意味を持つといえます。ウクライナ支援に否定的な立場をとる候補が当選すれば、ウクライナ侵攻の戦局を左右するだけでなく、ウクライナ国民の西側陣営への信用を貶める可能性がある。バルト三国(エストニア・等とぴあ、リトアニア)など近隣国に対するロシアの脅威が増大することになれば、国際情勢は一段と緊張することになります。 ——今年2月、日本の官民によるウクライナ支援を協議する復興推進会議が都内で開催され、共同声明では「復興のあらゆるフェーズ(局面)における日本の継続的な支援」が約束されました。遠藤 日本が貢献できることは多いと考えます。例えば、ロシアは発電所を攻撃し続けている。ウクライナの人々を疲弊させる狙いがあると想定されます。発電機の供与をはじめ民生支援は今後も重要でしょう。また、地方に行くと、道路や橋、ダムなど教協インフラが破壊されたままになっています。インフラ復旧の支援は、日本の得意分野であり、ウクライナからの期待はとても大きいといえます。ハード面の支援が重要である一方、今回の訪問であらためて気づいた点として、前線の兵士にも、銃後の市民にもメンタル(精神)面の問題を抱える人々が多いということ。メンタル・ヘルスケアの活動に取り組んでいるIOM(国際移住機関)、国際赤十字などとの連携を強化するのも一つの方法でしょう。童謡に、教育への支援も大切です。未来にも夢を持てなければ、人は絶望に陥ります。ウクライナの社会に希望がなければ、特に若者たちが国外に出ていく可能性があります。中長期的な支援活動ですが、こうした分野において、日本がリーダーシップを発揮する機会になることを期待します。 取材メモウクライナでは、今年の秋以降、各国から識者を招き、大規模な国際会議を開催する予定だという。遠藤教授は「日本の学者らが参加することで、ウクライナの復興・再建を含め、議論を深めることに貢献したい」と。 【オピニオン】聖教新聞2024.5.20
April 25, 2025
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高浜父子の北海道での足跡ホホトギス同人・北海道文学館評議員 増田 植歌『ほとゝぎす』は俳句核心を実現した正岡子規の友人・柳原極堂が愛媛・松島で1897(明治30)年に俳句雑誌として創刊し、翌年、子規の後継者である同郷の高浜虚子が東京での発行を引き継いだ。夏目漱石の「吾輩は猫である」の掲載によって総合文芸誌としての爆発的な売れ行きを見せながら、子規の死後は、虚子のライバルである川東碧梧桐とともに切磋琢磨し、徐々に俳句雑誌としての体裁を整えていった。 虚子子らに会うため6回来道年尾青春時代を小樽で過ごす 虚子が北海道へ初めてわたるきっかけは式の命名による長男の年尾が小樽商業学校(現在の小樽商科大学)へ1919(大正8)年に入学したことである。もともと年尾は文学を希望していたのにも拘らず、「ホトトギス」の経営を継承してほしいという虚子の願いから、商学へ進学した。当時の小樽は「北のウォール街」とも呼ばれ、商業と漁業に潤う街だった。 小樽高商にあった「緑丘吟社俳句会」が年尾の入学と虚子の来道により一気に活気づいた。翌年、年尾は丹毒(蜂窩織炎)を患い、4度の発熱により入院。虚子は忙殺されていた仕事を投げ打って、年尾の死をも想像しながら、小樽へ駆けつけたところ、幸いにも年尾は無事回復した。年尾は小林多喜二と同期で、一年下に伊藤整がいて、メーテルリンク「青い鳥」のフランス語劇で三人が同じ舞台に立っている。虚子三度目の来道は1933(昭和8)年、旭川で開催された北日本俳句大会への出席。四度目は1938(昭和14)年、函館に住む五番目の娘に孫が生まれたのを祝いに来道。五度目は戦後1948(昭和23)年に現在横浜港に係留されている日本郵船氷川丸での船旅で、ホトトギス俳句大会が北海道大学の大講堂で開催され、四百四名余を数える参加者の記念写真が残されている。戦後の六度目は1958(昭和33)年で札幌と小樽を巡り、翌年4月8日、85歳で逝去した。「ホトトギス」の経営を引き継いだ年尾は北海道、とくに小樽を第二の故郷とし、1959(昭和34)年以降、毎年開催される北海道ホトトギス俳句大会にほぼ毎回出席し、必ずと言っていいほど、青春のひとときを過ごした小樽を訪れている。また、北海道を愛した年尾を慕う弟子は道内に多く、特に北海道俳句協会の初代会長を務めた鮫島交魚子は、北海道の年間最優秀と認められる句集に送られる「鮫島賞」に名を遺している。年尾は母校、小樽商科大学創立50周年行事の記念植樹に参加し、〈記念植樹白樺新樹五十本〉の句碑を大学構内に1977(昭和52)年、脳血栓で倒れ、二年間の闘病生活の後、78歳で逝去した。北海道内各地に虚子や年尾の心に触れることができるのかもしれない。(ますだ・うえか) 【文化】公明新聞2024.5.19
April 25, 2025
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人類と気候変動の7万年史福井県年縞博物館 学芸員 北川淳子さん 年縞とは何か年縞とは、湖底などに1年に1枚ずつ退席する、縞模様になった泥の地層です。水月湖の底には、春から秋にかけてプランクトンの死がいなどの有機物による暗い層、晩秋から冬にかけて主に黄砂や鉄分の鉱物粒子による明るい層がたまります。明暗いったいの縞模様が毎年できるので、樹の年輪のように、過去の次官を図るための「物差し」となります。現在の固定には2024年の年縞が作られつつあり、1万枚下には1万年前の年縞があります。水月湖には厚さにして45㍍、時間にして7万年分の年縞が途切れることなく積み重なっているのです。このような湖は世界でも例がありません。当館は、45㍍の年縞を100枚のステンドグラスに加工して、一直線に展示しています。いわば、現在から過去へと7万年の「時」をさかのぼる回廊です。平均すると、年縞の1年分の厚さはわずか0.7㍉。1000年でも70㌢ほどです。積み重なった年縞が上から圧縮し明日ので、過去へ向かうほど1000年の幅は短くなります。7万年前といえば最終氷期が始まり、私たちの祖先がアフリカから世界に広がっていく時期です。館内には、年縞を歴史の物差しとして「人類と環境の7万年史」を紹介しています。 奇跡の湖 水月湖水月湖に年縞が形成される地理的条件として、次の四つがあります。① 水深が深く、流れ込む大きな河川がないこと。大量の水や土砂が入り、湖底がかき乱されることがありません。② 山々に囲まれた地形。周囲の山々に風がさえぎられるため、波が立ちにくく、湖水がかき混ぜられません。③ 生物のいない湖底。湖底は無酸素状態で生物が生息できず、年縞が生物に壊されることがありません。④ 埋まらない湖。断層の影響で年縞がたまる速度より早く沈降しているため、堆積物で埋まることがありません。こうした好条件がそろう湖は世界的に珍しく、水月湖はまさに「奇跡の湖」なのです。 標準の年代の物差し水月湖の年縞には二つの学術的な価値があります。一つは、一つは、冒頭に申し上げた、過去の時間を計るための「物差し」としての価値です。考古遺物の年代を決定する方法に放射性炭素(炭素14)年代測定があります。動植物に含まれ、時間の経過とともに一定の割合で減少する炭素14の存在比率を計算して年代を決める測定法です。しかし、動植物に含まれる炭素14の量は時代ごとに異なるため、時代によっては数百年から数千年のズレがありました。試行錯誤を経て、年縞を数える作業と、年縞の中に保存された葉化石の放射性炭素年代測定を行った結果、年代ごとの炭素14の量が明らかになり、この測定の精度が飛躍的に向上しました。そして2012年、水月湖の年縞が「世界標準の年代の物差し」として、国際会議でその価値が正式に認められたのです。 環境のタイムマシンもうひとつの価値は、過去の風景をよみがえらせる「環境のタイムマシン」ということです。年縞の中には、花粉や火山灰、地震や洪水の跡など、過去の出来事を語る、さまざまな証拠が含まれています。これらを丁寧に取り出して分析することで得、水月湖周辺の環境を復元できます。花粉の種類や量を調べると、当時の植生景観がよみがえります。植物は寄稿を反映しますので、気候が変われば植生も変化します。植生の遷移を調べることで、過去の気候を復元できるのです。例えば、約2万年前の水月湖周辺は、亜高山帯に生えるシラカバやコメツガの杜が広がっていました。気温は今よりも10度以上も低かったのです。当時は年縞の分析結果をもとに、7万年前から現在までも水月湖周辺の植生変化を映像で再現しました。火山灰を調べれば、噴火して火山を特定できるほか、噴火の年代や規模などがわかります。環境や気候に与えた影響を知る手掛かりにもなるでしょう。年功からはまた、地震や洪水がいつ起こったかを正確に知ることができます。災害の履歴は、防災への活用が期待されています。 私たちの未来を考える水月湖の年縞に刻まれた7万年の歴史は、気候変動を繰り返す地球に適応しながら生き抜いてきた人類の記憶でもあります。展示の最後は「年縞と私たちのこれから」をテーマに、気候変動の仕組みや、進行する温暖化との付き合い方などを紹介し、年縞を通して見える、これからの地球の姿を展望しました。地球環境は今、大きな岐路に差し掛かっています。私たちの未来を考える上で、年縞は重要なメッセージを与えてくれるでしょう。 【環境】聖教新聞2024.5.19
April 24, 2025
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第1編 人類の生活処としての地東京学芸大学名誉教授 斎藤 毅 第1編は「日月および星」や「地球」の章の後、「島嶼」「半島および岬角」で構成されています。いずれも自然地理学的な説明の後、人々の暮らしと環境との関りに移ります。 第1章 日月および星ここでは「地上現象の総原因としての」という副題が付き、天体としての天文学的な記述とともに、時間、暦、方位など尽現生活を律する基本的な事象が、神話にまで及びます。特に「日本人と大要」との一節を設け、「国号を『日本』となし『日の丸』を国旗となし(中略)日本国民は、太陽と一種独特の交渉を表するものと謂うべし」とあり、太陽に対する感性的なかかわりが強調されています。ただ現在では、バングラディシュや北マケドニアなど、太陽を国旗に描く国は日本以外にも幾つか見られます。一方、月に関しては百人一首にある「月見れば/千々に物こそ/悲しけれ/わが身ひとつの/秋にはあらねど」が登場。月を観て、先立った夫をしのぶ歌でしょうか。他方、月や星を描いた国旗は多く、大平湯戦争の激戦地ペリリュー島のあるパラオは平和な夜を願ってか、青地に満月を描き印象的、また、陰暦のイスラム諸国では新月を描いたものが多く、新年への願いが込められています。こうした人々の願いや想いのこもる克己を大切に扱うのは、国際理解への第一歩かもしれません。 第2章 地球この章では、地球の形状や大きさとともに、その運動や水界・陸界などの自然地理の記述の後で、人間生活との関係に迫ります。所で、もし今、牧口師が『人生地理学』の改訂を試みたら、ここにプレートテクニクスの理論が加えられたことでしょう。地球の表層はいくつかの移動するプレート(岩盤)でできており、それがちぎれたり、一方が他方に滑り込んだりすることで、火山活動や大地震が発生するとみる理論です。師は同時に、地球の温暖化問題にも触れられたかもしれません。それにつけても終戦直後の「社会科」創設で中等教育の地理化の諸単元のうち、人文地理が地学、とくに李下に組み込まれたのは、両者の関りを重視する地理教育の立場からは大変、不幸なことでした。必修化された高校の「地理総合」が期待されるところです。 【地理学者牧口常三郎の『人生地理学』—その精読の試み】聖教新聞2024.5.19
April 24, 2025
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人道危機—克服への課題脆弱になった平和擁護の意思日本国際平和構築協会 坂根 宏治理事に聞くさかね・こうじ 1967年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、ブラッドフォード大学平和学修士(紛争解決専攻)。JICAで30年以上、開発・平和構築分野に従事。スーダン事務所長などを歴任。2020年から現職。『衰退する民主主義、拡散する権威主義—中東・アフリカで民主主義は適合するのか?』(笹川平和財団IINA、22年10月)など論文多数。 普遍的価値あらためて重要性増やす「人間の安全保障」 ——人道危機に対応ができない現状の原因と解決策を示した論文『機能不全に陥るグローバルシステムー平和構築の利き、人道援助の危機をどう克服するか?』(4月)の執筆動機は。坂根宏治理事 一番大きなきっかけは、イスラエルと、パレスチナ自治区ガザ地区を拠点とするイスラム組織ハマスとの武力紛争だ。一般市民が犠牲者となる様子が報道されているが誰も止まられない。問題の一つは、やはり国連安保障理事会(安保理)だ。拒否権を持つ常任理事国間の対立で明確な判断ができない状況が続いている。そして国際司法裁判所(IJC)。イスラエルに人道支援物資のガザ地域への搬入を確保するよう1月に暫定命令を出したが守られない状況が発生している。「われわれは目の前の危機を止めることができない。なぜなのか」というのが一番強い動機になった。 ——戦争違法化、人権と人道の擁護という国際社会を支える普遍的価値が揺らいでいるのではないか。坂根 普遍的価値そのものは変わらないが、普遍的価値を擁護する意思を持つ国が少なくなっていると思う。強力な擁護者、守護者がいなくなった印象だ。「自己の地益を追求するためなら武力行使もいとわない」、「人道危機が発生しても自分の利益を追求する」という風潮が強まっている。しかも、国際社会がそれを抑え込むことができない。 ——日本政府が実践している「人間の安全保障」は、生命を脅かす恐怖と、生活を困窮させる欠乏から個人を守り、人間の尊厳ある生き方を目指す理念だが、普遍的価値として国際社会で支持されていないのか。坂根 「人間の安全保障」という言葉は、必ずしも多くの国で使われているわけではないが、その考え方に多くの国が反対しているわけではない。パレスチナなどを紛争下にいる人々は、この考え方を理解し、強く支持している。しかし、現実の政治が優先され、擁護されなくなっている。国連では2000年ごろから「人間の安全保障」が大きく取り上げられてきた。テロなど暴力的過激主義が伸長する背景に貧困問題があり、「人間の安全保障」の実践は平和な社会の実現につながるのだが、2000年頃と比べ、事態はさらにひどくなっている。いまこそ日本は率先して、「人間の安全保障」が世界全体で擁護すべき重要な考え方であることを訴えるべきであろう。 報道の責務マスメディアは世論形成で存在感を示せ ——先の論文で、人道危機に対する私たりの無関心の解消が必要と強調されている。坂根 以前から、日本のマスメディアに対し、もっと国際問題を取り上げてほしいと思ってきた。以前に比べると最近は国際報道は増えてきたが、それでもまだ少ない。一方で、SNSや動画共有サイトなどソーシャルメディアの持つインパクトが非常に大きくなる中で、マスメディアの存在感が低くなっていると思う。ソーシャルメディアには自分の好きな分野や同じ考えを持つ人たちをまとめていく作用があり、また、より過激な発言が注目される傾向がある。そのため社会を分断していく作用も指摘されている。これでは偏った情報で、間違った、あるいは過激な世論を構成してしまうのではないか。特に国際問題については、マスメディアが世界から客観的な事実を集め、伝え、それによって一般の人びとが適切な判断ができるよう、世論形成に貢献することが大事であると思う。 ——日本ではどうしても欧米発の情報が多くなる。坂根 欧米の報道を信頼し、それを信じる傾向があるが、それがすべてを伝えているわけではない。今は、ロシア、中国、中東、アフリカの声、とくに一般の人たちの声も聞く必要がある。国家とそこで暮らしている人たちは必ずしも一枚岩ではない。一方的な情報だけに基づき偏った考え方をしないように努力することが非常に大事だと思う。 国連の機能不全信頼感の高い日本が安保理改革に貢献を ——人道危機に対処できない理由として、国連安保理の常任理事国間の対立による機能不全がある。以前から安保理改革の声もあるが実現しない。日本は国連改革に貢献できるか。坂根 安保理改革には、拒否権を持つ常任理事国5カ国と非常任理事国10カ国、さらに、安保理メンバー国とそれ以外の国の双方の「橋渡し」訳が必要となる。日本は、双方を繋ぎ、コンセンサス・ビルディング(合意形成)をしていくリーダーシップが発揮できる非常に有利な立場にある。その理由は、日本が多くの国々にから信頼され、高い評価を受けているからだ。しかし、日本自身がそのことに気がついていない。 ——なぜ日本の評価が高いのか。坂根 これまでの日本の外交や途上国へのODA(政府開発援助)をはじめ、海外での民間企業の方々の活動、一般市民によるNGO(非政府組織)活動の全てを通じた、総合的な評価だと思う。日本は、力の行使ではなく、対話で信頼を勝ち得ていくソフトパワーをもっている。日本は「非常にバランスの取れた判断をする国」、「隠された戦略のような魂胆がなく純粋に協力してくれる国」などと見られている。日本人は上から目線ではなく一緒に働く態度や、相手を励ます姿勢も崩さない。こうした日本ブランドともいえる好感度は、先人たちの努力によってつくられた財産だ。私たちはこの財産に依存する子ではなく、これから20~30年席に「どのような形で日本が世界中の中で生きていくのか」、「どうしたら世界の人達が満足できる社会をつくれるのか」を考え、そのための努力をすべきだ。 次世代に向けてグローバルサウス十30年後の世界めざせ ——日本の将来の生き方について、グローバルサウス(南半球を中心として途上国)との関係強化が必要だと言われる。どのような姿勢で対話を進めるべきか。坂根 グローバルサウスは漠然として概念だが、グローバルサウスと呼ばれる国々を、私は大人の仲間入りをした若者たちというイメージで見ている。このような国々は、30~50年後に人口も増え経済的にも成長する。いまは紛争や貧困で苦しんでいても、将来の世界の中核を担うのは彼らである。今は若さゆえにできないこともある。さまざまな課題もある。彼らが抱える紛争、貧困問題、環境問題などを一緒に計決していくこと、それは望ましい世界をつくるために日本が率先しているべきことだ。将来のリーダーになる彼らと一緒に成長していく、そういう社会をつくっていく必要がある。次世代の社会づくりを今の現役世代が実行することが重要だ。日本はいま、今後の世界を担う中東諸国、アフリカ諸国と強力なパートナーシップを築くべきである。 【土曜特集】公明新聞2024.5.18
April 23, 2025
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橘樹官衙遺跡群東京大学名誉教授 佐藤 信 地方支配の成立と展開を知る——律令国家の郡役所跡 川崎市で初めて国指定史跡となった橘樹官衙遺跡群の郡役所の遺跡である。律令国家は中央集権的に地方を統治するため、国・軍には国府・郡家という地方役所を置いた。国府は今の県庁、郡家は市役所にあたる。国富には中央貴族が国司として派遣され、郡家では地方豪族が郡司に任じられた。武蔵国の橘樹郡は、一般的な郡とは違う来歴もつ。『日本書紀』の地方記事で、ヤマト王権の支援を得て、武蔵国造となった北武蔵野笠原直氏が大王に献上した南武蔵の四屯倉の一つ橘花屯倉が、後に橘樹郡となったのだった。大王直轄領の屯倉が、その後七世紀はカバに「評」の役所(評家)となり、それがさらに八世紀に「郡」役所(郡家)となった変遷が、遺跡によって具体的にわかるのである。郡司の刑部直氏は、ヤマト王権と密接な結びつきを持つ屯倉の管理者から標司・郡司となったこの地の豪族で、七世紀後期には影向寺の寺院や地方役所を造営した。開明的な氏族であった。律令国家の地方支配の成立と展開を知る上で、橘樹郡遺跡群は希少な価値をもっている。また武蔵国は七七一年に東山道から東海道に所属替えされており、南武蔵の橘樹郡は、それ以前から東海道の相模国(神奈川県)と武蔵国(川崎市など神奈川県の一部・東京都・埼玉県)や下総国(千葉県)を結ぶ交通路として機能している。郡家は、政務・儀式の場の郡庁、租税を収める国家的倉庫が立ち並んだ正倉院、郡司の官舎である郡司館、食膳を供給する厨、交通施設の駅家(うまや)、そして郡司氏族の氏寺でもある郡寺などから構成される。橘樹郡家では、正倉院、郡庁・館推定地のほか塔心礎石がのこる白鳳寺院の影向寺がセットで残っており、官衙遺跡群と総称される。また影向寺で出土した文字瓦からは、荏原評や都築郡など複数の郡が協力して造営されたことが分かり、南武蔵の地域的一体性もうかがえる。この度、史跡整備の事業で、堀立柱の高床倉庫で茅葺の屋根をもつ七世紀後半の正倉建物が、建築士の精密な研究成果のもとに当時の候法で復元され、同時期の正倉建物群の配置なども平面的に整備表示された。評段階の正倉建物が復元されたのは、はじめてである。ぜひこの建物を見て、古代の郡役所の規模を実感し、そこに勤めた郡司達役人や、正倉に稲穀を納税した当時の民衆の気持ちなどに、思いを馳せてほしい。(さとう・まこと) 【文化】公明新聞2024.5.17
April 23, 2025
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ひらめきを生む直観脳岩立康男(千葉大学脳神経外科学元教授) 広範囲が活性化する人生は決断の連続です。受験校を決める、就職先を決める。家を買う……人な何かを決める時に、どのように判断しているのでしょうか。経験やデーターをもとに判断する、それとも、直観で?直観というと、非論理的、非科学的と思われがちです。しかし、最近の脳科学から、広い範囲の脳を使い、無意識化にある記憶同士がつながった時、「直観」として優れた意思決定ができることが分かっています。直観はどのように働いているのか、高めるためにはどうしたらいいのか。最新の脳化学からみた「直観・ひらめき」のしくみについてもらいたく、近著『直観脳』(朝日新書)を出しました。脳は、集中している時は働いていて、ぼーっといる時には休んでいると思っている方が多いかもしれません。しかし。脳は休むことなく、いつでも働いています。エネルギー消費を比較すると、集中している時ぼーっとしている時の差は、わずか5%程度しかないのです。では、ぼーっとしている時には、脳の中で何が行われているのでしょうか。この時に働いているのは、分散系と呼ばれる部分。無意識化でさまざまな記憶にアクセスし、記憶の統合と整理が行われます。この時、脳の広い部分が活性化することで、思わぬ記憶同士が結びついて、新たな見方や発想が生まれるのです。 分散系を働かせて記憶を組み合わせる 無駄な時間ではない脳には、集中系と分散系という「2大システム」があります。いろいろな課題をこなすため意識を集中させるときに活性化するのが集中系です。前頭葉や頭頂葉の外側が中心となって活性化し、作業の種類によって働く脳部位は異なります。この集中系が活性化している時に、常に抑制されているのが分散系です。分散系の中心となるのは、脳をぐるっと囲んでいる帯状回と呼ばれる部分。大脳皮質を前頭葉から、脳頂葉、側頭葉、後頭葉に至るまで、広範囲に結びつけている、長い神経線維の束です。集中系と分散系は互いに、オン・オフの関係にあって、片方が働いている時には、もう片方は休んでいます。つまり、集中して考えている時には、分散系は働かず、ひらめきも生まれません。例えば、仕事をしている時。無駄な時間をなくし、結果を出すために、細かな作業に集中していることでしょう。でも、新規事業のアイデアなどは、仕事の合間に、ほっと一息ついた時に思いつくのではないでしょうか。ただ、こうした時間は、必ずアイデアをもたらしてくれるわけではありません。なにも思いつかずに終わってしまうこともしばしばです。しかし、なにも思いつかないからといって、無駄な時間として排除したのでは、新しいアイデアは生まれることはないのです。効率化を進めるにしても、集中系、分散系のバランスを考えて行わないと、成果自体が得られなくなってしまいかねません。 バランスよく使いたい分散系はどのようなときに働いているのでしょうか。大切なのは集中しないこと。例えば、ぼーっとする、寝る、散歩する、単純作業をする……。体がリラックスしていても、脳が集中して考えていたら、分散系になりません。私の場合、食器洗いをしている時。行動自体は体に染みついているから、手順などを考える必要のない作業です。体を動かしながら、あれこれと考えていると、分散系が活性化してくれます。誰にでも効果があるのは散歩でしょうか。哲学の道といわれるように、歩くことは思索のためにうってつけ。同じ道を歩いていても、同じ景色は二度とあるません。そのつもりで、きれいだな、楽しいなと歩けたらいいと思います。散歩をすると互換が刺激されます。歩くことで運動系が刺激され、景色を楽しむことで資格が。時には鳥のさえずりが聞こえてきたり、季節ごとの花の香りが感じられたり。刺激に応じて、さまざまな脳の部分が反応して、分散系が活性化されることになるのです。集中系と分散系は、交互にバランスよく使うことが大切です。仮に分散系が過活動になると、うつに近い状態になってしまいます。昔のことばかり思い出して後悔や怒りなどが生じてしまうのです。ここから抜け出すには、集中系を働かせること。ただ、ガックリと落ち込んで、昔のことを後悔している時に、勉強や仕事は手につかないもの。そこでおすすめなのが、テレビゲームです。簡単に集中できるものに取り組むと、分散系の活動が抑えられ、うつ状態も改善するのです。=談 いわだて・たすお 1957年、東京都生まれ。千葉大学脳神経外科学元教授。現在は東千葉メディカルセンターセンター長。著書に『忘れる脳力』などがある。 【文化Culture】聖教新聞2024.5.16
April 23, 2025
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弱さを演じる強さ東京大学教授 安藤 宏私事で恐縮だが、この度日本学士院賞を頂くことになった。近代文学は研究と評論の境が未分化で、学問としての歴史もまだ浅く、こうした形でパブリックな評価を頂けたのは大変ありがたいことだと思っている。受賞の理由は、太宰治の「自意識過剰論の饒舌体」という文体の特殊性を、日本の近代文学の自己表現の歴史のなかで解明した点にあるとされている。多少の補足をさせていただくと、太宰の文学の魅力は「いかに自分がダメか」を強調する。その自虐的な文体にこそある。自分の長所をいくら強調しても文学にはならない。自己否定を繰り返すその姿に人々は共鳴し、人間誰もが隠し持っている〝弱さ〟に気づかされるのである。もちろん太宰の語る〝弱さ〟が常に本音であるとは限らない。〝弱さを演じる強さ〟とでも言ったらよいのだろうか。時に自意識過剰に陥りながらも、〝弱さ〟をしたたかに演出して見せる〝名優〟でもあったわけである。当然、こうした文学は「好き」か「嫌い」かに読者を二分してしまう。例えば太宰を嫌っていたことで有名な作家に三島由紀夫がいる。彼は、太宰の苦悩の大半は冷水摩擦で治るはずであり、治りたがらない病人は病人でいる資格がない(「小説家の休暇」)、と切り捨ててみせた。近親憎悪、とでも言ったらよいのだろうか、三島がこれほどまでに太宰を嫌ったのは、実は何よりも三島自身がこうした〝弱さを演じる強さ〟の秘密を熟知していたからにほかならない。近代文学において「自己」を否定して見せるというのはどういうことなのか、拙著『太宰治論』(二〇二一年、東京大学出版会)執筆のきっかけだった。その意味でも、今回こうした形で評価して頂けたことを、とても喜ばしく思っている。 【言葉の遠近法】公明新聞2024.5.15
April 22, 2025
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各地に伝わる多様なかたち 暮らしの中から生まれる国立民族学博物館 教授 笹原 亮二特別展『日本の仮面——芸能と祭りの世界』今回の特別展では、国立民俗博物館(民博)の収蔵資料と全国各地の博物館や資料館、社寺、祭りや芸能の保存会などから借用した七百点近い仮面を展示している。それらの仮面は、神楽、風流踊、浄瑠璃芝居などの芸能。神輿の渡御などの神社の祭り、修正会や練り供養などの寺院の法会、豊年祭などの地域の行事といったさまざまな機会に用いられてきた。用いる際も、人目を避けてつけたり、人がつけずにまつったりとさまざまである。今回展示された仮面は、作りや表情がさまざまで一つとして同じものかもしれない。手本を正確に写すようになって形式が固定した能面を除けば、各地の仮面はある程度共通の傾向が認められるものの、鬼の角があったりなかったり、天狗の鼻が高かったり大きかったり、獅子頭がかさだかだったり扁平だったり、仮面ごとの差異は明らかである。鹿児島のボゼやメンドンのように、ほかに類のない地域独特の形状の仮面も少なくない。こうした仮面の多様性をどう考えればいいのであろうか。そこで注目したいのだが、民俗学の大先達の、柳田国男の「言語芸術」の考え方である。柳田の言語芸術は、作家が創作した詩歌や小説などの文学作品というよりも、各地で暮らす一般の人びとの創意工夫で生まれ、語り伝えられてきたことわざ、なぞ、昔話をさす。この場合の「芸術」は、能力に秀でた一部の芸術家の創作の成果ではなく、各地の人々が生活上の必要から日々行う事物の命名や新語の作成も含む、ことばを巡る日常的な創作の成果を意味している。しかも、そうした言葉の創作は、誰かが発するだけでは不十分で、周囲の人々が適切な言葉で支持し、使われ、次世代に伝えられて成立する、作り手と聞き手の共同作業の成果となる。人びとの生活上の必要は地域により異なるので、それを反映して、地域ごとに異なる多様なことばが生じることになる。全国各地の仮面も同様に考えることができるのではないだろうか。仮面は各地の人びとのさまざまな異なる芸能や祭りを行う際の必要性により創作され、人々に支持され、使用され伝えられてきた。それらの必要性は一様ではなく、地域によってさまざまである。その結果、仮面にも地域ごとに異なる多様性が生じるに至ったというわけである。柳田の「言語芸術」は、言葉という文化の在りようを地域の人々自身の主体的な創造性にゆだね、将来のよりよい姿の実現を期待する、民主的、文献的な発想であった。それを仮面に当てはめると、今回展示した地方プロレスのレスラーの仮面も違和感がなくなる。近年各地では、大阪プロレスの「えべっさん」をはじめ、地方ならではの仮面で人気を博するレスラーも現れた。そんな彼らに、民主的、文献的で多様性に富む現代の仮面という文化の一端を見るのはうがちすぎであろうか。(ささはら・りょうじ) 【文化】公明新聞2024.5.15
April 21, 2025
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誰もが輝ける学校づくりを総埼玉教育部長 稲村浩之さんいなむら・ひろゆき 埼玉県内の小学校で校長を務める。1965年(昭和40年)入会。60歳。埼玉県東松山市在住。副総県長。 〝不登校ゼロ〟に挑む校長先生進学・進級の春4月を過ぎて、5月。過ごしやすい天気が続く季節ですが、その一方で「五月病」と言われるように、4月に新しい環境に慣れようと頑張った心身の疲労が、表れやすい時期でもあります。大人でも疲れを感じやすい時期ですから、子どもは、なおさらです。少しずつ学校への行き渋りや不登校の兆候が出始めるもの、この頃です。小学校の校長として、これまで6年間務め、不登校をはじめ、〝子どもたちの心に寄り添う校長に〟と、奮闘を重ねてきました。前任校では、「心のアンケート」を実施し、心配事のある家庭には、直接、連絡を取り、お話を伺うなどしました。また、不登校の子には、状況によっては手紙を送り、「焦らなくていいんだよ」と伝えてきました。こうした取り組みもあってか、最終的に、少しずつ投稿できる子も増え、〝誰一人取り残されない〟学校になったのです。今春、赴任した学校でも、〝どこまでも子どもの幸福のために〟と祈りながら、児童と接する日々です。 多様性を尊重し合う環氏として、強く記憶に残っているエピソードがあります。約30年前、外国人の父と日本人の母のもとに生まれた児童を、担任として受け持ったときのことです。当時は、そうしたルーツの子は珍しく、髪の毛の色など、ささいな違いから、その子は、クラスメートから奇異の目を向けられてしまいました。〝知らない〟ことが偏見の原因であると思い、クラスメートと、その子のお父さんの出身国の伝統菱栄を食べると、みんな「おいしい!」と。以降、偏見は亡くなっていきました。その後、私は、自ら希望してオーストラリアの日本人学校に赴任しました。そこでは、出身国などルーツが違うのは当たり前。文化も家庭によって異なり、〝違いがあって当たり前〟の環境でした。こうした状況においては、差異によるいじめなどを起こりようもありません。これが、「多様性を尊重し合うかんような学校づくり」を志した原点となりました。その後、帰国してから、教頭を経て、教育委員会にも努めました。そこで学んだことは、学校の備品一つとっても、〝子どもたちのために〟との誰かの思いが込められているということ。校長の任を受けてからは、そうした多くの方々の願いが、さらに実現していくよう、尽力してきました。例えば、「校長賞」という取り組みです。学校には、足の速い子、絵が上手な子など、さまざまな子がいます。足の速さや、絵のうまさは、大会やコンクールで表彰されることが多い。一方で、そうしたことは苦手だけれども、一生懸命に係活動に取り組んだり、黙々と丁寧に掃除したりする子どもも学校にはいます。そうした子たちの〝頑張り〟に光を当て、表彰する取り組みが「校長賞」でした。一度、この取り組みを始めると、各クラスの担任が「実は、この子も……」「あの子は、こんなことを……」と次々と教えてくれるように。地域も方からも「あの子は、1年生の手を取って、一緒に登校してくれていますよ」なんて声が寄せられるまでに。ある保護者の方は「うちの子がはじめてもらった賞状を家宝にします!」とまで語られていました。 豊かな心を育むにはまた、校長室をオープンな場所にしようと、「詩の暗唱」の取り組みも行っています。校長室に来てもらい、暗唱できたら「校長スタンプ」を押しています。この時に、「実はクラスでこんなことに悩んでいて」などと、児童が素直に話をしてくれることがあります。すると、教員が意識し、素早く対応できるので、より良い学校づくりが進みます。校長室を解放していると、師の暗唱以外の要件でも、児童がふいに訪れてくれたりします。ある時は、2人の女の子がやって来ました。一人の子は、「鉄棒ができるようになった」と涙を流して喜んでいました。よく話を聞くと、泣いていた子ではなく、もう一方の子こそ、鉄棒ができるようになった子。友達の〝頑張り〟を、こんなにも喜べる豊かな心が子どもにはあるのです。その素晴らしい心を育んでいくためには、教師も全身洗礼で臨んでいかなければいけない——そう自覚を新たにしました。御書には、「餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報に随って別々なり」(新1411・全1025)とあります。同じ水であっても、境涯で見え方は一変し、その境涯を開いて行けるのが信心であると仰せです。教育においても、接する松陰教員自身の境涯によって、見える子供の姿はまったく異なってしまいます。ですから、日々の祈りは欠かせません。御本尊に向かって祈る中で、自分自身を省みて、「もっと子どものために」と決心し、子どもの生命を正面から見つめ、行動していく——この最高のリズムを生み出せる信仰、そして、教育に命をかけてこられた池田先生という師匠を持つことができたからこそ、教育の道を歩み歩み続けてくることができたと確信しています。〝不登校ゼロ〟に挑み、誰もが輝いていられる学校を築いていきます! 稲村さん教えてQ.不登校の子に、どのように声をかけてあげればよいでしょうか?現在、小・中学校における不登校の児童・生徒数は全国で約29万9千人。当然、個々の状況は大きく異なるでしょうから、一概に「こうすればいい」とは言えませんが、私なりのアドバイスを送らせていただきます。まずは、「あなたがいることそれ自体が、親にとっての最大の喜びなんだよ」と伝え、その子の存在そのものを受け止めることが重要です。その上で、ありのままの現状を、担任や、校長、自治体の教育相談所などに伝えておくことが大事です。必ず力になってくれる人がいます。私は、不登校の児童に送る手紙の中で、〝トンボの話〟をします。トンボは前にしか飛ばないとされる。けれど、疲れた時は、止まり木にとまって休む。あなたは今、その時かもしれない。決して焦らないで——必ず、希望の未来は開けていくから大丈夫だよ、と。 【紙上セミナー】聖教新聞2024.5.14
April 20, 2025
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評伝 丸山眞男黒川みどり著▲晩年、丸山は「横につきあっていただきたい」と語り、社会とつながり、孤立しないことを訴えた——生涯と思想の全体像伝える意欲作戦後知識人を代表する政治学者・丸山眞男。『日本の思想』『忠誠と反逆』など、数々の著作に接した世代にとっては、なじみ深い一方で、近年は顧みられる機会が少なくなった人物かもしれない。本書は被差別部落問題の研究者である著者が、丸山の生涯と学術的功績、さらに思想の全体像を、評伝という形式で記述した意欲作だ。1914年生まれで、高校時代に特高警察によって留置された体験がある丸山は、東京帝国大学で南原繁に師事し、東洋政治思想を専攻。法学部助手の時に徴兵され、勤務地の広島・宇品で被爆した経験を持つ。丸山は儒教や仏教、マルクス主義など、日本において「主旋律」となってきたのは全て外来思想であり、「日本思想史は外来思想の修正の歴史」と結論。さらに、知識人の戦争責任にもこだわった。また、日本近代化を論じる中で、近代の理念を根底から支える〝個人の確立〟がなされない現状に透徹した批判を加え続けた丸山は、そのことを先駆けて喝破していた福沢諭吉に対して、最も高い評価を与えたことでも知られる。戦前戦後を通じ、左翼運動の最高潮の時代を経ながら、マルクス主義とは一線を画し続けた態度は「『個人がノーと言える権利』の補償をリベラリズムの原点に据えてきた」丸山の思想を象徴している。明治維新後の歩みをとおして、日本社会の特徴を「同調社会」「一億火の玉にいつでもなる社会」を強調してやまなかった。「これこそが丸山の希求する『デモクラシーの精神』の根幹」との著者の指摘は、現代社会にも通じる教訓に見える。(常) 【読書】聖教新聞2024.5.14
April 20, 2025
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百年へて祇園の市民権嵐山の桜が、散りいそいでいる。洛西から市中に入り、六波羅蜜寺のあたりから建仁寺のほこりっぽい境内を通りぬけたが、市中ではすでに桜は葉ばかりになっていた。祇園を通り、先日火事がいったというお茶屋の焼けあとを見物した。京のひとは火の用心にきびしい。ことに祇園町の出火はまれで、今度の火事は昭和に入ってはじめてである。東京ならば日常茶飯事の事件が、京都ではこの話はもちきりだった。こんど焼けたお茶屋のうちの一軒は、店をはじめて百年以上だという。「百年以上」ということに、私は感心した。が、これは的はずれだった。そのあと、友人と落ちあうために知りあいのお茶屋へゆき、おかみをつかまえてそれを感心すると、くすっと笑われた。「うちも百年以上どすえ」という。百年以上などは祇園ではざらなのである。「うちも百年以上どす」とその座にいた老妓がいった。さらどころか最小限百年は経たないと祇園町の市民権が確立しないのかもしれず、この長寧にあっては百年などはいばれたものではなさそうである。今日ではつづくということがあたりまえであり、正義であり、派手な商いをして続かなくなることが不思議なのである。おかみは、言う。「四代前か、ちょうどあのサワギどした」。あのサワギとは、幕末の騒乱のことである。「そらもう、なんぼでもお金が入ってきたそうどすえ」という。おかみが聞きつたえている範囲では、志士は即金勘定だったという。長州とか薩摩とかいう歴とした大藩の場合は、御用のお茶屋がある。藩の外交官である周旋方、公用方と呼ばれている連中はむろん社用族であり、つけであったろうが、小藩の者や浪士はイチゲンサンであり、イチゲンサンでも花の都にのぼった以上、かれらのいう「解語の花」と遊びたい。もともと祇園はイチゲンサンをあげないのだが、そういう点でも、かれらにはひがみがあったのであろう。「あげへんと刀を抜かはるのどす」。だから「こわいいっぽうであげる、あとは、——何々をよべ。である。その名指しの芸者が来ないと、かれらは当然ながら逆上する。長州の座敷におるのか、薩摩の座敷におるのか、一橋の座敷におるのか、という次第で、抜刀する、白刃をさかさまに畳に突きさす、「よべ」と叫ぶ。「家の者はみな押し入れにかくれて、すきまからそっと」と、おかみはいう。とにかく使いが芸者のところへ何度も走り、「命を助けると思うて来とくれやす」と頼み入るのである。あとの金払いはきれいだったという。ところがその白刃志士が翌朝近所で斬り斃されていたという。名もわからず、どこの藩の者かもわからない。お茶屋のほうとしてはそういう詮索よりもとにかくかかわり合いをおそれて、うちのお客やおへんと口をぬぐっていざるをえなかったであろう。祇園では四、五代つづいた家なら、かならず同種類のはなしがつたわっている。 京の人気は長州に集まったとにかく初版が祇園町でつかった遊興費というのはばく大なものだったらしい。渋沢栄一翁は若いころ、一橋家の京における公用方であった。毎日祇園で他藩との連絡という名目で会合があり、それに出席して酒を飲むことだけが仕事だった。「いくら若くても体がもたなかった」と渋沢翁は語っている。一橋家は、幕府の代弁藩である。その反対勢力である長州藩は幕府側諸藩をひっくるめても及ばぬほど祇園で金をつかった。なぜそれほどの金が長州の金庫にあったかということについては、いずれ山口県の項を書くときに触れねばならないが、いずれにしても長州藩が幕末において祇園でおとした金は大きかったであろう。こういうこともあって、祇園は挙げて反幕勤王化した。幾松や君尾といった名妓だけが勤王芸者であったかのように後世のドラマの作り手たちは思いがちである。そのほうが彼女らの侠気を悲壮美に仕立てやすいのだが、どうもありようは、祇園町ぜんたいの気分がそういうものであったらしい。金があってきれいに使って、男ぶりがよくて(長州人に多い、と明治初期にきた英国人チュンバレンも書いている)、そのうえ国のために命をすてようという男どもを芸者たるものが好かぬというほうが不思議である。さらにこの長州藩の藩としての浪費が、長州藩という像を、実像以上の巨大なものとして世間に印象させた。「長州さまが天下をとるのではないか」という実感を京の者はもったであろう。その長州藩が文久三年夏の政変で京を追われ、とくに元治元年以降は長州人と見れば新選組が所かまわず斬りたおすという凄惨な反動期をむかえるが、そのときでさえ京都人は長州を捨てず、その潜伏者を命がけでかくまった。桂小五郎ならずともそのようにして救われた実例がおびただしく、幕府がこれに手こずり、「長州人をかくまうべからず」ということについて、三条大橋のたもとの制札場に長文の説論文を掲げたほどであった。その長州藩が鳥羽伏見の前後、薩摩藩の手引きによって京によびもどされたが、伏見街道からダンブクロ姿の長州兵が京に入ってくるのを市民はあらそって見物し、その隊列が曳いている荷駄に〈一文字三星〉の定紋が入っているのをみて沿道はみな涙を流したという。京都人の侠気というものであり、長州藩の成功の一つはそれを得たことにあったであろう。 【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文春文庫
April 19, 2025
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食後の強い眠気、「糖質疲労」かも北里研究所病院糖尿病センター長 山田 悟さんやまだ・さとる 医学博士。慶應義塾大学医学部卒業。北里大学北里研究所病院・副院長、糖尿病センター長。糖質制限のトップドクターとして糖質制限食を積極的に糖尿病治療に取り入れている。糖質制限「ロカボ」の提唱者。『図解 炭水化物の話』(日本文芸社)など著書多数。 血糖値の乱高下昼食後、仕事のパフォーマンスが低下するほどの強い眠気や倦怠感に襲われる。イライラする。しっかり食べたはずなのにすぐ小腹がすく。首の後ろが重くなる——社会人やアスリートの方で、このような症状が増えていることに気付き、不快症状をまとめて「糖質疲労」と名付けました。当然、食後の眠気に襲われるのは、疲労や睡眠不足などが原因の場合もありえます。しかし、食後2~3時間に激しい眠気や倦怠感などが続く場合、「糖質疲労」に陥っている可能性があります。この原因は、糖質の取り過ぎによる「食後血糖値」と「血糖値スパイク」です。食後1~2時間の血糖値が140㎎/㎗以上になると、「食後血糖値」と判断します。血糖値が急上昇すると、反動でインスリンというホルモンが過剰に分泌され、血糖値が急降下します。急上昇・急降下する様を「血糖値スパイク」と呼びます。急降下する時、「このままだと低血糖になるかもしれない」ということが危険信号として脳に伝わります。すると脳は、実際には低血糖でないのにもかかわらず、体を休めさせようとして眠気を感じさせたり、空腹感を自覚させたりするのです。これが「糖質疲労」の正体です。健康診断で「空腹時血糖値」が110㎎/㎗以上となると、血糖異常と指摘されます。その10年ほど前から食後血糖と血糖値スパイクが生じるといわれています。「糖質疲労」を放置しておくと、ドミノ倒しのように糖尿病、高血圧症、脂質異常症、肥満などに至る恐れがあります。 食生活を工夫する「糖質疲労」を改善するには、食生活を工夫することが重要です。具体的には、糖質は控えめにして、脂質とタンパク質を満腹になるまで食べましょう。脂質とタンパク質は、糖質以上に満腹中枢を刺激するため、満足感が得られやすいといわれます。そのため、一般的なカロリー制限よりも継続しやすくなります。私は、この緩やかな糖質制限を「ロカポ」と名付け、推奨しています(別掲に食事例)。脂質は血糖値の上昇を抑制する働きがあり、脂質を摂取する量が多い人ほど、血中の中性脂肪が低いという報告もあります。マヨネーズやバター(できれば無塩)は何にでも使いやすいのでオススメです。個人的にはごま油やオリーブ油、ラー油も好きです。ただし、古い油やトランス脂肪酸などの人工的な油は避けてください。油が苦手な方は、肉や魚、ナッツやチーズなど、食品から取るようにしましょう。タンパク質も、食後の血糖値の上昇にブレーキを効果があります。筋肉量を維持して元気で長生きするためにも、積極的に取ってほしいと思います。食べる時間も大切です。先に脂質とタンパク質を食べ、最後に糖質を食べる「カーポラスト」を心がけましょう。糖質に手を付けるのは、一口目から20分後以降を推奨しています。一食だけでも意識してみてください。また、運動を行うことで、体内で糖が細胞に取り込まれ、血糖値が低下します食後15分散歩することから始めてみましょう。糖質疲労になりやすい人は、いわゆる〝糖尿病家系〟の方だけではありません。運動習慣があってスリムな体型でも、35歳以上で、普段から脂質を控え、スポーツドリンクやスムージーなど糖質が多いものを好む方は要注意です。「糖質疲労」を感じている方は、一日も早く改善に取り組んでほしいと思います。 こんな症状ありませんか□食後に眠い、だるい、集中力が持たない、イライラする□食べた量の割にはすぐ小腹がすく□上記の症状を自覚せずとも周囲から指摘される□食後血糖値が140㎎/㎗以上 食後血糖値を調べよう食後血糖値は一般的な健康診断では分かりません。自分で測定する方法を二つ紹介します。一つは、薬局やドラッグストアで測定する方法です。検体測定室(ゆびさきセルフ測定室)が設置されていた、検査項目に「血糖値」がある店舗で検査できます。料金が500円程度。測定前の食事は、おにぎり2個と野菜ジュース1本で、一口目から1時間後に測定してください。ただし、込み合ってすぐ検査できない場合もあります。事前に店舗に問い合わせてください。140㎎/㎗以上は糖尿病の基準を満たすため、医療機関を受診しましょう。もうひとつは、血糖測定器を使用する方法です。高度管理医療機器販売資格のある薬局やドラッグストアで購入できます。最近では、血液を採らずに測定できる医療機器も出ています。「糖質疲労かも」と感じる方は測定してみてください。 ロカボの食事例糖質は毎食20~40g、おやつで1日10g摂取する。とうしつ40gは、半膳のごはん、おにぎりなら1個程度に相当。実際の食事では、麺なら半玉、食パンは8枚切り1枚だと、おかず(野菜)の糖質量を含めても糖質40gに収まる。みぞやしょうゆの味付けが濃いと、ごはんなどの糖質を食べ過ぎるため、できるだけ塩分控えめに。マヨネーズやごま油などでの味付けを意識する。外食の際は、ごはん半膳にして冷や奴や唐揚げといった低糖質の小鉢を1品、2品追加する。 朝 食・8枚切りの食パン1枚(バターたっぷり)、チーズオムレツ、無糖ヨーグルト、ナッツ、コーヒー・焼き魚、ごはん半膳、オイルをしっかり垂らした味噌汁や納豆、ツナサラダ(ドレッシングたっぷり。ノンオイルはNG)朝は最も血糖値が上がりやすい。脂質とタンパク質をしっかり取ることで、一日中血糖値が上がりにくくなる。果物のスムージーのみはNG。 昼食・夕食・唐揚げ定食(マヨネーズたっぷり)、ごはん半膳、小鉢1品追加。・牛攫、卵、ごはん半膳、冷ややっこ、みそ汁・ハンバーガー(パテとチーズを2倍)、無糖のドリンク、チキンナゲット(ポテトは避ける)・ステーキ、サラダ(ドレッシングたっぷり)、ご飯半膳、みそ汁・お好み焼き(豚肉、チーズ、マヨネーズたっぷり、ソース控えめ)・カルボナーラ(チーズたっぷり)とろろそば、ラーメン、ライスセット、おにぎりと野菜ジュースなど、糖質かぶせのメニューはNG。カレーライスは、ご飯・ルー・ジャガイモの糖質トリプルに成るので要注意。 おやつ・ミックスナッツやチーズ・板チョコ1/3枚・ファミリータイプのアイス1個・「ロカボ」マークの入ったお菓子商品成分表示の「糖質」量を確認する。糖質の記載がない場合は、「炭水化物」量が指標になる。 【健康PLUS+】聖教新聞2024.5.11
April 19, 2025
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現代日本に残る秦の言葉京は、郊外がいい。嵯峨野から太秦あたりを歩いた「太秦の秦とは、どういう意味でしょう」と、Tさんはいう。「あの秦ですよ」と、私は言った。これは古代史としてはわりあいはっきりしているから確信していいが、秦の始皇帝のあの「秦」というところから出ている。山城国をおもうには、想いを古代中国に馳せねばならない。いうまでもなく紀元前三世紀のことの古代中国を統一したのが、秦である。ところがその秦は始皇帝以来わずか三代十六年にして漢の高祖にほろぼされた。話が飛ぶが、この秦というのは当時の中国の中原の連中から夷狄(異民族)をもって目されていた。——ほんとうです。色は白く、目が青くて鼻がこう、ぐっと高かったのです。と、戦前、秦史を余技で調べておられたある政治史(それも英国政治史だが)専攻のIという学者が、内緒話でもするような小さな声で教えてくれたが、しかしどうだろう。鴻毛碧眼であったというのはちょっと想像がすぎるかもしれない。秦の人種論はさておく。その言語はシナ語の一派だったのであろう。秦の言語では国という語は邦だったそうである。弓は弧という。賊は寇、衆のことを徒。これらの秦語は漢語に溶けこみ、その漢語が日本に輸入されてわれわれ現代日本人も、国家というのをしゃれた邦家といったり、在外日本人を邦人、万国無比を万邦無比などといったりしている。二千数百年前にほろんだ大陸の王朝の言葉を、二十世紀の日本人がなお使っているというところに文明というものの不可思議さがある。その滅亡した秦王朝の貴族の一部が朝鮮半島に逃げた。「魏志東夷伝」にそのころの朝鮮の記述がある。朝鮮は馬韓、秦(辰)韓、弁韓にわかれている。このうち秦韓については「古ノ亡人、秦ノ役ヲ避ケテ来ッテ韓国ニ適ル」とある。「他の韓国とは、言語や風俗が少し違っている」とも書かれている。その秦韓民族が、何世紀かをへて日本に来たのである。このことは日本側の正史である「古事記」にも記載されている。応神天皇の十四年(西暦二八三年)、弓月君という朝鮮貴族が百二十県の民をひきいて日本に帰化した——と。 帰化人がおいた京の礎百二十県の民といえば大量帰化というよりもはや民族移動にひとしい。かれらがやってきたことについては、朝鮮半島における政情の変化と直接のつながりがある。すなわち半島においては新羅という強国が勃興し、右の秦韓を圧迫した。やむなくかれらは第二の故郷をすてて、東海の列島を慕ってやってきた。その当時の日本では、おそらく群雄が地方に割拠していたのであろうか、むろん大和朝廷が最大の勢力であった。弓月君はそこへゆき、「予は秦の始皇帝の子孫である」といった。単に朝鮮人というよりも、そのほうがこの蛮国(かれらは思っていたにちがいない)で、居住権を得るには都合よかったに相違ない。もっとも当時の大和王朝にあっては、秦帝国などというものについて歴史知識がどの程度にあったか、うたがわしい。百二十県の民といえば、いったい何人いたのであろう。この応神天皇から百八十年ばかり経った雄略天皇の時代、雄略帝はその家来の小子部という男に、「あの帰化人の人数をしらべよ」と命じ、その結果、九十二部族、一万八千六百七十人という数字があきらかになった(「雄略記」)。応神朝はかれらにたいし、「山城あたりでも拓けばどうか」とでもいったらしい。なにしろ大和・河内は大和朝廷の直轄地であり、そこにはかれらの割りこむすきがなかったにちがいない。当時、山城は草獣の走る一望の曠野であったのかどうか。とにかく、秦氏はここに国都をさだめた。その国都がいまの京の郊外、嵐山電車の沿線にある太秦であった。秦氏は、たちまち強大な勢力になった。なぜならばかれらは産業をもっていた。その特殊技能はハタオリであり、織物をふんだんに生産することによって大和朝廷の用をつとめた。当時の日本人たちが秦を秦(はた)とよんだことだけでも、秦氏の日本の未開社会における位置がわかるであろう。応神朝のつぎは仁徳朝だが、この仁徳天皇の代にこの秦氏の技術者を山城だけに住まわせず、諸郡に分地させることをもってしても彼らがいかに珍重されたかがわかる。秦氏の首長からは、政治家も出た。秦川勝がそうである。推古朝の人。聖徳太子につかえ、その政治をたすけただけでなく、太子のための資金源になった。当時日本で富者と言えば秦氏のことであったから、聖徳太子の政治的成功はこの秦川勝の経済力なしに考えることはできない。川勝は、太子に尽くした。仏教好きのいわば当時の進歩的知識人であった太子のために、このパトロンは山城ノ国に法隆寺をたて、太子の別荘として献上した。「山城にあそびに来られたときはこの別荘でお昼寝をされよ」というのが川勝の口上であったのであろう。 秦人はイスラエルびとか?「この夢殿がそうですか」と、Tさんが広隆寺の境内を歩きながら、八角の円堂を指した。太子建立の大和広隆寺の夢殿と同型のもので、この寺では桂宮院本堂という呼称になっているが、聖徳太子以後の建造物だから、太子が昼寝をしたわけではなかろう。「秦氏はイスラエル人だったと思います」と、前記I氏が私にその壮大な空想を語ってくれたことがある。なぜならばこの広隆寺の境内わきに、太秦の土地のひとびとがいまでも神聖視している「やすらい井戸」という井戸がある。I氏によれば、やすらいはイスラエルのなまりであり、砂漠の民であるイスラエル人は当然ながら湧水地のまわりに住み、それを神聖視する。やすらい井戸はその生きた遺跡だというのである。太秦には、奇祭がある。町と四十月十二日におこなわれる牛祭がそれで、夜八時すぎ、怪奇な赤鬼青鬼の面をつけた白装束の鬼四ひきがタイマツに照らされて境内にあらわれ、やがて牛面をつけた摩陀羅神というものの供をする。やがて祭壇の前で鬼が摩陀羅神に対し、祭文を読みあげるのだが、その祭文のことばはまったくちんぷんかんぷんで、何語であるかわからない。マダラ神というのはいったい何の神か。その祭文のモトの言葉は秦語か、古代朝鮮語か、それともイスラエル語なのか、まったくわからず、土地の古老にきいても、「さあ、神の言葉どっしゃろか」と、とりとめもない。この祭りの起源もわからないほどに、たれかこれを大真面目に県有する学者がいないものだろうか。アジアの他の国の古俗と対比すればなにか出てきそうに思われるのだが、どうであろう。この太秦広隆寺の境内に小さな森があり、泉が湧き、泉に三脚の柱をした奇妙は石鳥居がある。三本のあしの鳥居など日本のどこにもないが、前記のI氏は「あれはイスラエル人が好む紋章です」という。空想というのは楽しい。この法隆寺には寺の守護神というかたちで大酒神社という古社がある。古くは大避と書かれていたそうである。さらに古い時代には、「大闢」という文字があてられていた。大闢とはなんぞ——ここで空想家は興奮しなければならない——大闢とは漢訳聖書ではダビデをさすのである。となれば大酒神社の祖形はダビデの礼拝堂であるということであり、秦氏はイスラエル人であるばかりか、古代キリスト教徒であった、ということへ飛躍していくのである。「魏志倭人伝」における邪馬台国とは九州か大和か、という考古学的創造も面白いかもしれないが、「魏志倭人伝」から発想してゆくこの古代山城の秦氏研究も十分に学問的ロマネスクの世界ではないか。フルネームはわすれたが、大正末期に英国人でコルトンという女性が、秦氏キリスト教徒説を立てたことがある。私は手元にこの資料をもっていないから、その説を正確にここに紹介することはできないが、要するにキリスト教徒といっても、ローマンカトリックではなく、ネトリウスの教徒らしい。いまのローマのカトリックは、遠くはパウロがひらいた。他の教派は異端とされた。異端の最大のものはネトリウスの教派であり、これはコンスタンチノーブルを根拠地とする東方教会から追われ、東へ逃げ、絹の道(シルクロード)を経てさらに中国へゆき、ついに中国大陸に入った。古代中国ではこの宗教を景教と称し、この時点よりちょっと時代のくだる大唐の世に一時大いに隆盛を示したことがある。やがて弾圧され、泡のように消えた。秦氏はつまりこの景教徒であるというのだが、真偽はむろんわからない。あくまでも青と朱にいろどられたあえかな空想としておくほうが無難であろう。要するに、京—山城平野—の最初のぬしである秦氏は謎の民族なのである。 ゼッペキ頭を貴しとなす「秦氏の遺跡は、この太秦の広隆寺や大酒神社だけなのでしょうか」とTさんはこの空想旅行を楽しみはじめたらしい。孔子は、怪力乱神を語らず、といった。私もそれにならい、物事を考えるときに奇譚奇説という麻薬をできるだけ服用せぬように心掛けているが、文献資料のない古代を考えるということは、もうそのこと自体が麻薬的酩酊をともなう。私は、酩酊をおさえつついった。「京の古社がたいていそうです」このあたりに大堰川が流れている。その中流に松尾橋がかかっており、橋を西へ渡ると、松尾大社という古社が鎮まっている。ついでながらその南の谷に苔寺がある。この古社は秦氏の長者秦都理という人物がはじめて祀ったとされているが、祭神の松尾大神というのは秦氏にとってどういう神だったのかわからない。いまはとにかく酒の神社であり、全国の醸造家から崇敬されている。朱の鳥居と狐憑きで知られる伏見の稲荷大社も、当時の大和の神ではなく、秦氏の神であった。「秦氏の三神」といえば、加茂社(上賀茂、下鴨神社)も入る。京都最古の神社であり、秦氏が大いに崇敬したというが、しかしこの神社だけは秦氏の創立ではないかもしれない。社伝から想像するに、秦氏が山城国にやってくる以前からこの神はこののに鎮まっていたように思われる。秦氏よりも古い先住民—カモ族—の神であったか。加茂族、鴨族と書いてもいい。カモという地名は、諸国あわせて七十九カ所もあるそうだが、要するに天孫族に追われた出雲族の古称を「カモ」というのであろう。秦氏は山城の出雲族と調和すべくこの神を氏神のひとつとして祀ったかもしれない。これで、古代山城についての私の話柄が尽きた。時代はあるかにくだって延暦十二年(七九三年)、桓武天皇は山城の地に唐風の帝都を建設しようとし、この年の二月、新都造営の旨を加茂大社に告げた。おそらくは山城の先住民であるカモ族の協力を得ようとしたのであろう。新都は山城国葛野郡宇太村(京都市の現地名)に造営されることになるが、その宇太村にはまだカモ族が住んで炊煙をあげていたにちがいなく、それの協力を得るにはそのカモ族の神のゆるしを得ようとしたのである。むろん山城にはカモ族などよりはるかに強大な秦氏がいる。朝廷ではこの秦氏をも協力せしむるために「秦王(はたのきみ)」といわれた長者の娘を、「平安京造営長官の妻として嫁せし」めたりした。平安京の最初の内裏は、秦王の邸館をこわしたあとにたてられたという。秦氏もこのころになると、廷臣の位置を得ているものも多く、まったくといっていいほどに日本化していた。もっとも彼らの風俗が、王朝の廷臣に影響をあたえもしていた。平安の公卿というのは、男子の後頭部を絶壁のようなるさまを尊ぶという妙な習俗をもっていた。ゼッペキ頭のことを「編頭」という。編の意は狭きさま、その形状。頭を編頭にするために子が生まれると、固い扁平な枕で寝かせたという。この習慣は秦氏にもあり、この民族がまだ朝鮮で秦韓(辰韓)という一国家をなしてたころ、中国側の地理書ではその風俗につき、「児生ルル時ハ、便(すなわち)、石ヲモッテソノ頭ヲ圧シ、ソノ編ナランコトヲ欲ス」と書かれている。この秦氏の風が平安期の貴族に感染し、そのゼッペキ好みになったのかどうか。ついでながらゼッペキのほうが冠をかぶったときに立派にみえるという。源氏物語の主人公も、美男であるかぎりはおそらく編頭であったであろう。 【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文藝文庫
April 18, 2025
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2人の「私」が語る苦悩と葛藤作家 村上 政彦ノラ・イクステナ「ソビエト・ミルク」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日はノラ・イクステナ『ソビエト・ミルク』です。著者は、ラトビアを代表するリガ生まれの女性小説家です。この国は、エストニア、リトニアと合わせて、バルト三国と称される子の国家の一つ。長く周辺の強国に支配されてきましたが、1918年に独自の憲法を制定し、ラトビア語を国語として定めて、独立を果たしました。ところが第2次世界大戦の混乱期、ソ連に併合され、また自由を奪われます。彼岸の独立を勝ち取ったのは、1991年。ソ連が崩壊して、東西冷戦の終焉が語られた時期です。ソビエト・ラトビアだった頃はラトビア語に加えてロシア語も公用語になり、ロシア人は不自由しなかったのですが、ラトビア人はロシア語の習得を迫られた。植民地にありがちな言葉の環境が生じたのです。また、ロシアの知識人たちは、ラトビア語を地方の劣った言葉と蔑んで、まともな文学はロシア語で書かなければならないと考えていました。ラトビア人は伝統的な文化を差別された上、ついには国家としての主権を剥奪されるという苦渋をなめさせられたのです。けれど、その中でも、ラトビア語で創作した文学者たちがいました。読書数を考えれば、ロシア語で書いた方が得策です。しかし彼らは、マーケットの論理ではなく、ラトビア語で書くことで、ラトビアの文学者としてのアイデンティティーを得る方を選んだ、著者もその一人と言えるでしょう。本作は、2人の語り手が登場して、交互に語りますが、どちらも一人称の「私」を使います。最初の「私」は娘、次の「私」は母。1969年10月15日に生まれた「私(娘)」は、出産直後の母の失踪によって、母乳を与えられなかった。困り果てた祖母は、急場をカモミールティーでしのいで、その後、乳幼児の粉ミルクを手に入れます。母の「私」は5日後に家に戻るけれども、授乳もしなければ子育てもしない。娘の「私」を育てたのは祖父母です。母は産科医になって将来を嘱望されるが、ある日、突然。職を失います。人工授精を施した女性に暴力をふるう夫を傷つけたのです。これは、どちらも許さないこと、田舎の救急センターで働くことになり、娘も連れていく。母は、母性を自覚するどころか、生きることに意味を見いだせず、自殺を図るような女性。娘はヤングケアラーとして、母の世話をする。二つの一人称「私」は決して交わらない。これは親子であっても、個として自立した存在であるという主張でしょう。また、母の最期はソ連の崩壊と同じ時期です。著者は彼女の姿をソ連の終わりと重ねた。ラトビア母娘の物語は、抑圧の中、精いっぱい命を燃やした2人の記憶です。[参考文献]『ソビエトミルク ラトヴィア母娘の記憶』 黒沢歩訳 新評論 【ぶら~り文学の旅㊾海外編】聖教新聞2024.5.8
April 17, 2025
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種の同一性の混乱、倫理的問題も科学文明論研究者 橳島 次郎 動物の臓器を移植する今年3月、米国でブタの臓器を腎不全の患者に移植する手術が行われた。一昨年と昨年に、やはり米国でブタの心臓を思い心疾患の患者に移植する試みが行われていたが、腎臓の移植は世界で初めてだ。動物の臓器を移植医療に用いることを「異種移植」という。脳死や心停止後に死亡の人、または生きている人からの提供には限度があり、臓器不足は世界中で深刻な問題になっている。その不足を補う方策として、異種移植への期待が高まっている。解剖学的な構造とサイズが人に近く、飼育技術が確立しているブタが最も有望な提供源となっている。だが動物の臓器を移植すると、他の人の臓器に対する以上に激しい拒絶反応が起こり、移植臓器が壊れてしまうリスクがある。それを防ぐのは非常に困難だったが、近年、ゲノム編集などの遺伝子工学とクローンなどの発生工学の先端技術を駆使して、移植を受ける患者の免疫反応を起こさないように遺伝子を改変したブタを作る手法が開発され、異種移植の実用化の可能性が開けてきた。同じくブタでインスリンを産出する膵島という膵臓の一部の組織をばらし、拒絶反応を抑えるために膜に包んで糖尿病の患者に移植する試みもある。ただ遺伝子組み換えをしたブタの臓器の人間への移植は、まだ十分に安全性と有効性が保証されていない。実験研究段階の医療技術である。ブタの心臓の移植を受けた2人の患者は、いずれも術後1~2カ月で亡くなっている。拒絶反応や免疫抑制による感染、とりわけ人にはないブタ固有の病原体の感染を防ぎきれないのが原因だと思われる。今回ブタの腎臓の移植を受けた患者は、術後2週間で拒絶反応を克服して退院で来たというが、予断を許さない。米国で相次いで行われた患者への手術は、異種移植の実用化に向けた大きな一歩だと評価されているが、かなりリスクの大きい試みだ。ブタの臓器をサルに移植する動物実験を行い、患者への臨床応用の可否を慎重に見極めようとしている。異種移植には、人間の医療の種にほかの動物の命をどこまで犠牲にしてよいかという、動物保護の観点からの倫理的問題がある。体の中に動物の一部を持つことで、人間としてのアイデンティティーが混乱し心理的安定が損なわれるおそれがあるともいわれている。ブタを体内に入れることを忌避する宗教的・心情的反発も予想される。異種移植が移植医療の選択肢の一つになれるか、見守る必要がある。 【先端技術は何をもたらすか‐20‐】聖教新聞2024.5.7
April 17, 2025
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調和を創り出す地球の働きに最大限の敬意を自然写真家 高砂 淳二写真展「この惑星(ほし)の声を聴く」に寄せて日本にはもともと、英語の〝Nature〟に当たる言葉がなく、周りの動植物や海、山などはみな自分たちとひと繋がりなもので、特に自分たち人間と周りのものとを分ける捉える発想はなかった。明治時代後期になって〝Nature〟の対訳として〝自然〟が当てられ、時代とともに周りの〝自然〟と人間とを、別なものとして捉えるようになっていったのだ。人間も自然の一部で、周りや森や海や生き物を自分たちと繋がりな存在として捉えていれば、当然それらにもった親しみを感じるのだろうし、子細な変化にも気づき、より小さな変化にも気づき、より小さな声にも耳を傾けようとするはずだ。そんな関係があったからこそ、古来日本では森羅万象の機微に心を動かされて歌に詠み、周りとの隔たりのない家屋で、月や虫を愛でながら季節の食材をありがたく頂いて暮らしてきた。今は、野菜や穀物は機械や薬を使って大規模に、川や海はコンクリートで固めて安全に、というように、周りの環境は科学技術でコントロールするのにすっかり変わってしまった。しかし、だからといって僕ら人間と周りとの関係の本質が変わってしまったわけではない。もともと何もしなくても完璧な調和の世界であるこの地球やそれを取り巻く宇宙と同様に、僕ら人間の体も、自ら何もしなくても脳内細胞から手足、爪の先まで、完璧な調和の世界に組み込まれているのだ。これまで長い間、高空から熱帯雨林まで、水陸問わず地球のさまざまな場所を撮影してきた。そして、地中の微生虫から巨大なシロナガスクジラ、空中の二酸化炭素に至るまで、いかにすべてのものがつながりあってこの地球の調和が成り立っているかに心から驚かされ、同時に、近年それが崩れかけている様子も目の当たりにしてきた。環境を変えてしまうほどの力を持ってしまった僕ら人間が今なすべきこと。それはまず、その調和を創り出そうとする大きな働きに最大限の敬意を払うこと、そして、微生物からシロナガスクジラまで、調和を創り出している一つ一つの声を聴き、それらに最大限の感謝と愛情をもって接することではないかと思う。僕らは大きな力を与えられていると同時に、それをどう使うかを決める意志の力を、生まれながらにして森や山々を見て神々しさを感じたり、生き物を見て愛らしさを感じたりする心を与えられている。それらをどのように使っていくべきか。その答えは、僕らの心の中にすでにあるような気がする。まずはこの星の声にしっかり目を傾けてみたい。(たかさご・じゅんじ) 【文化】公明新聞2024.5.5
April 16, 2025
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大量のCO₂を地下に埋めるCCS実用化への道は京大名誉教授 深田地質研究所顧問 松岡 俊文 氏に聞く 「脱炭素」達成に不可欠日本適地11地点、技術力に強み 目的と可能性——なぜCCSが期待されるのか松岡俊文・京大名誉教授 2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにする「カーボンニュートラル」(CN)は動かせない目標だ。しかし、それまでに全てを再生可能エネルギー(再エネ)に置き換えることは、とても間に合わないだろう。そこで経済的に大量のCO₂を削減できる手法として注目されているのがCCSだ。CCSは、直接的にCO₂を削減する温室化対策のうち、省エネや再エネ利用に次ぐ第三の有力な選択肢となる。「ブリッジングテクノロジー(橋渡し技術)」と位置付けられるが、CNの達成には不可欠な技術だ。 ——どんな技術か。松岡 CCSは「分解・回収」「輸送」「貯蓄」の三つからなる。それぞれはドライアイスの製造やパイプラインなど、すでにある技術であり、それを温暖化対策に使おうというアイデアから生まれたものだ。既存のインフラを活用できることもメリットだが、何より排出されるCO₂を大量に削減できるのが最大の特徴だ。 ——国内の実用化は。松岡 十分に可能だ。CCSは技術力勝負であり、日本に強みがある。特に「分離・回収」の技術では、三菱重工が世界シェアの7割を占めている。課題となっている大量の役かCO₂を排出源から貯留地まで運ぶ「輸送」についても、26年度までに世界に先駆けた技術確立をめざしている。貯留に適した場所についても、国の調査によると、現時点で国内11地点に160億㌧を地下貯蔵できることが分かっている。油田のある北海道、水溶性天然ガスが眠る関東平野の地下には砂岩層が広がっている。まだ本格的な調査が進んではいない地域もあり、適地は今後さらに増えるだろう。国内のCO₂排出量は年間約11億㌧と世界的に比べても少なくない。だからこそ、技術力を生かし、日本もCCSの実用化を目指すべき泥考えている。 政策主導の推進 カギ握る公共事業通じた普及進めよ 課題と方策——国は実証実験を行い、30万㌧の貯留に成功した。松岡 この実証実験で「分離・回収」から「貯留」までを一連のプロセスとして機能させ、実際にCO₂の貯留を確認できたことは大きな成果だ。現在も、CO₂が漏えいしていないかモニタリング(監視)を続けている。CO₂を入れっぱなしにしないで、安全性を確かめ、地域住民への理解につなげていくことが重要だ。 ——コスト面での課題も指摘されている。松岡 地球環境産業技術研究機構(RITE)の試算では、CO₂の貯留量1㌧当たりのコストは1万円を超える。政府は将来的に、その約6割以下に抑えようとしているが、簡単ではない。各工程において、さらなる技術開発が必要だろう。一方で、CCSのコストを誰が、どのように負担するのか。この問題を解決しないと、なかなか広がらない。例えば、CCS先進国で亜米国では、22年に成立した法律に基づき、CO₂貯留量1㌧当たり86㌦の税額控除を措置している。低コストで貯留できれば収入となるため、技術開発のインセンティブになる仕組みだ。欧州の国々は、CO₂排出量に応じて税を課す「炭素税」の税率を引き上げている。税を払うか、地下貯留をするかという選択肢を事業者に与えることで、脱炭素化に向けた意思決定を後押ししている。こうした政策主導がCCS実用化の成否のカギを握る。世界を追い掛ける日本も参考にすべきだ。 ——今後の進め方は。松岡 日本では昨年6月、早期実用化をめざす「先進的CCS事業」を7件選定し、国が集中的に支援するなど、急ピッチで取り組みを進めている。こうした動きと並行して、法制面で事業環境を整えることが大事だ。今国会に提出された「CCS事業法」が成立すれば、基本的な枠組みはできる。加えて、国や地方の公共事業を通じた推進を天安したい。例えば、CCSで製造時のCO₂が削減された鉄や製造時のCO₂が徹夜セメントを積極的に用いて、箸・道路などインフラを整備することが挙げられる。それが徐々に民間に広がれば、受け入れやすくなるのではないか。また、地域や国民の理解を得ながら進めていくことが必要で、政府には安全性や意義を丁寧に説明していくことを求めたい。 北海道苫小牧市での実証実験国内初30万㌧貯留に成功日本初となるCCSの大規模実証実験は、出光興産の北海道製油所がある北海道苫小牧市で実施。同製油所の水素製造設備の排ガスからCO₂を分離・回収し、海岸から3~4㌔離れた地下層へ貯留する者で、2016年の貯留開始から19年までに目標の類型30万㌧を達成した。現在は圧入を停止し、CO₂が漏れていないかモニタリングを継続中だ。同実証実験を行う経済産業省や研究機関などは、20年5月に発表した総括報告書で「安定活安心できるシステムであることを確認した」と評価。圧入されたCO₂は「1000年後」においても貯留槽にとどまっているとの予測が示された。こうした成果などを踏まえ、政府はCCSの実用化を進める考えだ。そのため、昨年6月には、独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が、大規模化やコスト削減に取り組むモデル性のある事業を「先進的CCS事業」として7件選定。ビジネスモデルの確立を国が支援する体制を整え、30年までに年間貯留量600万~1200万㌧の実現をめざす。50年時点で年間約1.2億~4億㌧(現在のCO₂排出量の約1~2割)の貯留達成へ、官民連携の取り組みが続く。 【土曜特集】公明新聞2024.5.4
April 16, 2025
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やさしさには2種類ある 人は自分の意志がない時に周囲の人からもてあそばれる。世の中には「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」がたくさんいる。やさしさには「たくましさからのやさしさ」と「弱さからのやさしさ」がある。「弱さからのやさしさ」とは、「やだなー」と思っていながら、それを言えない。弱い人は、自分の気持ちを適切に説明することができない。人から「こうでしょ」といわれると、「あーそうです」と思い、「そうです」となってしまう。他人から「これは、よいものだよ」と言われれば、そう思ってしまう。しかし後で何かわからない不快感に苦しめられる。「やさしいけど、意志のない人」、「やさしいけど、弱い人」は糸が切れたタコみたいなものである。或いは「いつも宙ぶらりん」と言ってもよいだろう。相手は意志を言う。こちらは意志を言わない。「お金を貸して」と言われるとイエス。「あの人は悪い人」と言われるとイエス。そういう弱い人はとにかく相手の言いなりになっている。自分が苛められていることさえ分かっていない。相手は自分を道具として使っている。それに気がつかない。それが、もてあそばれているということである。同じことでもそれに気がついていないのが「もてあそばれた」ことであり、それに気づいた時が「苛められた」になる。「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」自分が「相手が嫌いだ」ということにさえ気がついていないことが多い。相手を「嫌い」と気づいた時に、「苛められている」という感覚になる。恐らくそういう従順で弱い人は、恐怖の中で成長してきたのであろう。恐怖や不安というのは、たとえば親から見捨てられる不安である。具体的には「お母さん、家、出て行っちゃう」とか「あなたが生まれなければよかった」などというような言葉である。酷い母親は、気に入らない子供に飯をあげない。そして父親はいつも渋面であった。よい成績でないと夜中まで叱られた。叱られたというよりも苛められた。そして「どうして、お前は○○のようになれないのだ?」式の言葉でいつも能力以上のことを要求された。「学年で一番になれ」という無理なことを言われる。これは父親の苛めである。苛められる子は、自分がいじめられていることに気がつかないが、同時に相手の親切に気付かない。そうした恐怖の中では、極端に言えば寒さも暑さも感じないような人間になってしまった。恐怖の中では自分で時間を充実させることができない。 このような不安や恐怖の中で成長すると、意志を失う。すると「オレ、マリファナ、やっているんだぜ」という友達の後ろをついて行く子になる。そしていいように利用される子になる。友だちから苛められる子はたいてい本当の気持ちを親に言えない。そうした親子関係の中で育っている。不安や恐怖の中で生きるということは、ただ生きるだけでエネルギーを消耗してしまう。なにもしないでも疲れる。 苛めで、からかわれている多くの場合、迎合するタイプである。苛める側から見ると、その子は「先生に言わないだろう。仲間を作らないだろう」と思われている。苛められる子は、やさしくて弱いから苛められる。苛める人は憎しみを持っていて、ストレス解消のために苛める人を探している。そして害がなくて、真っ白な人を見つけて苛める。見つけると相手が嫌がることをする。その子を「臭い」とか、「汚い」とか色をつけていく。苛めることが癒しになっている。苛める人の安らぎは憎しみのエネルギーの発散である。放熱して安らぎを得る。従っていても怯えて周囲の人に迎合している子は、そぐに苛められる。「お金持ってこい」と言われて家から金を盗む。大人でいえば、世間慣れしていない人である。苛められる大人は、弱くて純粋な大人である。親にとって都合の悪い子は、やがて大人になって社会に出ても周囲の人にとっても都合のよい子になろうとする。そして結果はからかわれるだけである。 ではたくましくなるための、強くなるためにはどうすればいいのか? 本文の第七章でも詳述するが、ここではそれとは別にあらかじめ考えておきたい。まず第一に自分に気づくことである。自分に気づけば強くなる。自分がわからなければ勇気は出せない。自分が怯えている時には、何をしても失敗する。その失敗を分析したら強くなれる。「あー、この女に騙されたのか!」とわかる。その時にそれに気がついて「なぜ?」と分析する。すると自分の弱点が見えてくる。そして相手のずるさも見えてくる。しかし相手はこちらが気づいたことに気がついていない。そこで同じパターンを使ってくる。相手はこちらを舐めている。だから相手は同じ手を使う。しかし自分の弱さがわかれば、「あーこれだったのか、あーこれか」と相手の正体にも気がついてくる。そうして相手を見ていくうちに自分の態度が自然と変わってくる。そのうちに「それはしないよ」ときっぱりと相手に言う時が来る。強くなるというということは周囲の人が見えてくることである。今まで「強い人、エネルギッシュな人」と思っていた相手が、実は「不安な人」だと見えてくるときもある。相手はエネルギッシュな人ではなく怯えているだけの人だとわかる。怯えているから自分の勢力を増やさなければ不安で、じっといられなくてエネルギッシュに動いているだけのことだとわかってくる。そしてさらに、「だから『弱いこの私』を恐喝してくるのだ」とわかってくる。エネルギッシュに動いている姿だけを見て、強い人だと思っていた自分の見る眼のなさがわかる。第二には、「自分に大切なものは何か?」を考えることである。あるやさしいが弱い若者である。人の言いなりになる人だった。どの人が結婚をして、家族ができた。山師のような知人が一発勝負のような仕事で銀行から借金しようとした。しかし彼は連帯保証人の判を押さなかった。人は必死になったとき強くなる。護るべきものがあれば、人は強くなれる。「女は弱し、されど母は強し」という言葉がある。「この子供を守らなければ」と思った時に「弱い女」が「強い母親」に変身する。自分に大切なものがわからないと、困難な問題は解決できない。本当に大切なものが見えないと、戦う勇気が湧いてこない。「ラーメンと寿司と両方が欲しい」というのでは、エネルギーが湧いてこない。「自分は、絶対、寿司だ。寿司以外はいらない」。そう決心すれば、勢いがつく。迫力も違う。死ぬ気になれば相手にはっきりとものが言える。そうなれば怖い気持ちを乗り越えて、相手をさばく方法も見えてくる。そして解決する。見えるだけでは解決できない。 敵意を無意識に抑圧して、周囲の人に従順に振る舞い、結果としてノイローゼになる人がいる。そういう人よりも、人と対立することのストレスで胃潰瘍になる人の方がまだ心理的には成長している。ストレスをあまり感じないまでに成長している人が最も望ましいのはもちろんである。好き好んで敵をつくる人は心理的に健康な人にはいない。しかし仕事をしていく上で、あるいは自分を殺さないためにどうしても敵ができる時がある。その時には、相手ができてもそれを受け入れる強さがないとノイローゼになる。弱い人は、そこで相手に迎合するからノイローゼになる。滝がいるというストレスにたえられないというなら、自分を殺すより仕方がない。たくましくなりたければ、「その時には敵と戦え!」である。その時に戦わないとノイローゼになる。そういう人は、死ぬ時に「こんな死に方をするなら、あの時にもっと頑張っておけばよかった」と後悔する。死ぬ時の後悔は地獄である。この本には、やさしくて弱いがゆえにいろんな形で追い詰められた人達のストーリーが出てくる。それを読みながら、「あー、この人達はここで戦わなかったから、ここまで追いつめられたのだなー」ということを理解してほしい。なぜこの人達は追いつめられたのか、ということに関心を持ちながらこの本を読んでほしい。少なくとも対立からくるストレスを感じている間は、立ち上がれないほど落ち込まない。外に向けるべき敵意を自分に向け、全ての人に迎合し、ノイローゼになる人がいる。そういう人に比べて、戦う人は心理的に成長しているのである。ノイローゼになる人は戦うべき時に戦うことを放棄して逃げた人である。それに比べて人と対立するストレスに苦しんでいる人はまだ戦っている。自分を放棄していない。自分に絶望していない。人が戦わないのは、大切なもの、好きなものが見つかっていないからである。人は好きなものが見つかれば戦う。そして難局を乗り越えられる。敵はあなたのいちばん好きなものをもっていってしまうのだから。弱い人は自分にとって一番大事なものがなんだかわかっていない。だから戦えない。戦わない人は、自分の心臓が何処にあるか分かっていない。だから敵が心臓を持っていってしまう。好きなものがわからないから戦わないというのは、自分の心臓を持っていかれるということである。「これだけは渡したくない」という気持ちがなければ、戦う力が湧かない。心の底から「私はこの人を本当に嫌いだ」と思わなければ、別れる力が出てこない。「本当に嫌いだ」と思えば、相手を断ち切る準備を始める。弱い人は、自分が本当に好きなものは何かを考えないし、心の底から嫌いなものは何かも考えない。好きなものも、嫌いなものも理屈ではなく、感情的なものである。 「やさしいが、弱い人」は自分が本当に嫌いな人に気づいて、その人と離れる準備を始めることである。どのくらい嫌いかは、そのグループを出た後によくわかる。出た後に「よく、あの人と一緒にいられたなー」と思う。「あのグループの中によくいたなー」と思う。強くたくましくなるために「好き」と「嫌い」を自分の中ではっきりさせることである。 最後に「強さ」とか「たくましさ」と言う時に、よく誤解がある。「強くなる」ということを、人はよく間違えている。「強くなる」というとすぐに、腕力があるとか、凶暴性とか、脅しができるとか、お金とか権力があるというように間違える。強さを誤解するから、「強くなれ」と言うとナイフを持ってしまう。本当に強いとは、たとえば憎しみの感情を乗り越えることである。悔しい気持ちを乗り越えた時に本当の強さが出る。男の面子があると思って「怖い」と言えない。それは強くないということである。自分の弱さをちゃんと言える、それが強さである。怖い時に「怖かったよ」と言えばいい。「あれは怖かった」と素直に認めることが強いということである。「強くなる、たくましくなる」ということは、現実の自分に気づくことである。そしてそれを乗り越えることである。そうすれば自ずと行動や態度が変わってくる。この本が道案内になることを願っている。 【やさしさを「強さ」に変える心理学】加藤諦三著/PHP文庫
April 15, 2025
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農民が書き残した幕末の記録神奈川県立歴史博物館学芸員 寺西 明子 江戸で接した事件を日記に生き抜く情報と知性を生き生きと 嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ大統領の国書を携えたマシュー・ペリーが蒸気船2艘、ハンセン2艘で浦賀沖に姿を現した。長尾村(川崎市宮前区・多摩区)の村役人鈴木藤助は江戸新川で親族の法事に出席しており、事件の第一報に接する。藤助は、この事件をきっかけにして日記をつけ始めた。この「鈴木藤助日記」書簡の表紙には「唐舟一条御座候」と墨書され、ペリー来航に関して得た情報を次々と書き留めている。情報を得る相手は江戸市中に居住する親族、娘の嫁ぎ先である幕臣、知り合いの武家、江戸近郊の商売仲間、各村の名主、多摩川を昇降する船頭や荷上場の役人のほか、しじみ売りの爺にいたるまで多種多様である。6月12日にペリーが浦賀を去るまでの間は、江戸内海警固にあたる大名の動き、艦隊の動きを警戒する江戸市中への町触、ペリー来航目的に関する風聞を集め、ペリーが去ったあとはアメリカ大統領国書写しや、「日本を茶にして来たか上きせん たつた四はいて四日寐られぬ」(茶にする…馬鹿にするの意)などの狂歌を書き留めている。藤助は日記に極力感情を記さず、事実の記述に徹している。藤助自身にも影響が考えられる事件の第一報に接すると、自身の持てるツテを存分に利用し積極的な情報収集を行った。ペリー来航以外にも、藤助が積極的な情報収集を行っていた様子がうかがえる。例えば、安政7(1860)年3月3日大老井伊直弼が殺害された桜田門外の変について、藤助は6日に速報を得た後、約1カ月間にわたり情報収集を行っている。現在の東京都世田谷区・狛江市の一部に入池の治める彦根藩世田谷領があり、多摩川を挟んで対岸に位置する長尾村にも藩領の動向を知ることができた。国許の彦根(滋賀県)から国家老が世田谷に到着し、兵糧が集められる様子を聞き、藤助も危機感を募らせたのかもしれない。3月末に彦根藩士に対し老中より仇討厳禁の通達がなされ事件が一応の収束をみると、「雪なかで井伊かもだとくびをねじ」などと狂歌を書き留める。事件の記述をくすりと笑える風刺で書き留める所に藤助の人物像が垣間見える。藤助が積極的な情報収集をなし得たのは江戸に住まう親族が多数存在したことが一因だが、江戸の親族も有事に藤助と情報共有することを望んでいた。戊辰戦争が始め利新政府軍が江戸を目指しているという情報が入った折には、霊巌嶋、湯島の親族から長尾村への避難について相談がなされている。幕末を生きる人々は情報共有を武器に賢く生き抜いていたといえる。明治22(1889)年まで書き続けられた「鈴木藤助日記」は53冊が現存する。神奈川県立歴史博物館では令和2(2020)年度に日記の寄贈を受け、同5(23)年度にコレクション展「藤助さんと幕末」を開催した。展示において日記の多面的な魅力、つまり、幕末の事件だけでなく、鈴木家の商売、近所づきあい、長尾村内の状況といった藤助の身近に起きた出来事についても紹介した。来館者の興味は幕末史、古文書の解読、郷土の歴史、藤助が生業としていた醤油醸造業について、藤助を取り巻く家族たちの生活、と様々である。会期中、興味の所在が異なる人々が藤助日記を通じて知り合い「藤助さんのおかげね」と笑顔する場面に幾度かであった。多方面に活用し得る日記資料ならではのことかもしれない。(てらにし・あきこ) 【文化】公明新聞2024.5.3
April 14, 2025
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日本の平和憲法 日本の終戦時を描いた『日本のいちばん長い日』で有名な半藤一利氏の著書『日本憲法の二〇〇日』が先日、角川新書として復刊した◆同書冒頭、15歳の半藤少年が逃げ惑う群衆の一人として中川に落ち、九死に一生を得た東京大空襲が描かれる。黒焦げの死体がころがる中を命からがら戻ってきた家とその周辺は焼け野原。神国日本は絶対に勝つ、日本は絶対に正しいと教えられてきたが、〈俺はこれからは「絶対」という言葉を使うまい〉と誓う◆敗戦から憲法制定までの、さまざまな生の声の積み重ねには迫力がある。新憲法の平和条項を半藤少年は〈それは武者震いの出るほど、わたくしには素晴らしいことのように思えた〉と感激し、老境を迎えても〈人類の理想として、地球の明日のために、世界の各国が日本国憲法に倣え、とときどき叫びたくなっている〉と述べている◆戦乱のアフガニスタンで多くの命を救う灌漑事業に尽力し、同国国民から慕われた中村哲医師は、現地の人から信頼され事業を行う上で力になったのは、日本の平和憲法の存在だったとたびたび述懐している◆きょうは憲法記念日。徹して平和を守り抜く努力を積み重ねる重要性を、いま改めて思う。(唄) 【北斗七星】公明新聞2024.5.3
April 14, 2025
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人の歩きはスゴイ!本川 達雄(生物学者) 不安定さを利用して省エネで移動可能に安定歩行には4本足「歩く」ということを考えてみましょう。すると日々何気なくやっていることが「スゴイ!」と分かり、自分を褒めたい気分になってくるものです。日常の活動では「食べる」と「歩く」が最も基本のものですね。生きるためには食べねばならず、それには歩き回って餌を見つけねばなりません。動かなければ生きていけないのが動物なのです。人も犬も猫も、足で胴を持ち上げて立ち、それを振り動かして歩きます。同を地面にべったりつけたままで、ほふく前進すると、ものすごく大きな摩擦抵抗がかかってしまうからです。手足は計4本。陸の脊椎動物なら、手が翼になった鳥を除けば、ほとんどが4本足で立っています。立っていると下手をすればコケる可能性があるということです。安定してコケずに立っていられる脚の数は最低3本。これは三脚を見れば分かりますね。でも三脚は立ったままです。歩くためには足を持ち上げて前へと振り出す必要があります。だからもう1本余分に足が要る。それには、4本あれば3本で体を安定に保ちながら、もう1本を持ち上げて前に動き出す動きを繰り返せば歩いて行けます。4本なら安定なのですが、人は2本足で立ち上がりました。それだけでも不安定なのに、歩く時には一方の足を持ち上げて振り出し、その間にはたった1本で立っています。ものすごく不安定な歩き方をしています。それでもコケないのは、目と耳で姿勢をモニターし、常に体のバランスをとっているから。耳には体の平衡を感じるセンサーが入っています。耳や目からの情報を基に、脳は筋肉を微妙にコントロールして、コケないように体の安定を保ち続けます。 倒立振り子と同じ動きなぜこんな不安定な姿勢で歩くのでしょう。何か良いことがあるのでしょうか。主な利点を三つだけ挙げておきましょう。①高い位置から見晴らせるので敵や獲物を発見しやすい②手が自由に使えるようになる③不安定な姿勢を上手に使うと省エネで歩ける。ではここからの人の歩き方を見ていきましょう。すると③「省エネ」の意味が分かってきます。人の歩行は、逆さになった振り子(倒立振り子)と同様の動き方だと解釈できます。音楽室あったゼンマイ式のメトロノームを思い出してください。棒の上端におもりがついており、下端を支点として開店しながら往復しているのが倒立振り子。足が振り子の棒、胴がおもりに対応します。まず左足が前に伸びて地面に着いているとします。その足を地面につけたまま後ろに地面を押せば、胴は前へそして上へと円弧を描くように動いていきます。体の重心は腰のところにありますが、足が垂直になったところで腰が3、4㌢持ち上がって最高点に達し、そこからまた円弧を描くように前へ下へと動いていきます。この〝前へ下へ〟のところでは、重力に任せて体が落ち着いていく、つまりコケているんです。だからそのまま放っておけば転んでしまう。そうなる寸前に右足を出して地面に着け、体を支えます。体は、前へとコケる速度を持っていますから、これを使って右肢を軸として再度円弧を描くように、体は前へ上へと上がっていきます。こうして左右の足を交互に振り子の棒のように動かしながら私たちは歩いて行くのです。 コケやすさを逆手にこの歩き方のよいところは省エネと速さ。垂直の位置から前へと落ちる時には地球の重力が引っ張ってくれ、落ちるのは結構な速度になるから、何もせずにタダで速く進めることになります。そしてこの速度の持つエネルギーを使って再度、体を持ち上げます。棒高跳びで助走のエネルギーを使って体を持ち上げるのと同じです。棒高跳びの棒が歩く時には着地している足に対応します。そうやって体を持ち上げ、また落っこちる。振り子がエネルギーを使わずに振れ続けるように。理想的にはタダで歩けるのがこのやり方です。もちろん歩く時にはさまざまな抵抗が加わっているからタダとはいきません。それなりのエネルギーが必要ですが、最大なんと7割も省エネで歩けます。2本足で立ち上がるという、ものすごくコケやすい姿勢になったうえに、さらに足をまっすぐに伸ばしてさらに腰の位置を挙げてコケやすい歩き方をしながら、そのコケやすさを逆手にとって省エネしているのが人間。こんな高級な歩き方をしているのは哺乳類でもわれわれだけです。こうやって歩いているだけで「私はすごい」と誇らしく思えてきませんか。 もとかわ・たつお 1948年、宮城県生まれ。生物学者。専門はナマコやウニの生物学。著書に『ゾウの時間 ネズミの時間』(講談社出版文化賞)、『ウマは走る 人はコケる』(本記事はこの本にもとづく)など多数。NHKラジオ第1「ラジオ深夜便」で毎日「うたう生物学」を生放送中。 【文化Culture】聖教新聞2024.5.2
April 13, 2025
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アイヌ民族の研究をめぐって小野 有五〖人間と見ず研究対象に〗2014年4月1日、日本文化人類学(旧・日本民俗学会)は、これまでのアイヌ民族研究に関する反省と謝罪を認める声明を発表した。国内外の学会が研究に関してアイヌ民族に謝罪するのは初めてということだ。人類学や考古学に関わってきた研修者は、アイヌの人々が自由に暮らしていた土地を一方的に「北海道」として日本に組み入れた明治2年(1860年)以降、アイヌの人々の墓を暴き、遺骨を盗掘し、副葬品を持ち去って研究するだけでなく、それらを営利目的で利用するなど、倫理的に許されない行為を繰り返してきた。声明では遺骨問題には言及していないが、研究者がアイヌの人々を平等な「人間」とは考えず、単なる「研究対象」として「モノ」のように扱ってきたことへの反省と謝罪の意が込められていることは明らかであろう。例えば、北海道大学の人類学教授だった児玉作左衛門らは約1000体ものおびただしい副葬品を盗撮し、「児玉コレクション」と称していたが、アイヌの人々の遺骨も多くは、動物の骨と一緒にされて段ボールに詰めこまれ、研究室にただ放置されていたのである。同学会は1989年に「アイヌ研究に関する日本民俗学会見旧倫理委員会の会見」を発表したが、それ以降も研究成果をアイヌ民族の当事者と共有する方針については会員の個別の努力に委ね、学会としてアイヌ民族の医師や要請に向き合うことなく、結果的にアイヌ民族研究に起因する心的外傷に対する認識を書いてきた(声明から)。そこで、「アイヌ民族の方々に対する過去の研究姿勢をあらためて真摯に反省し、心からの謝罪の意を表明」したのが、今回の声明であるという。 学術界から初めての謝罪今を生きる人々への姿勢こそ 〖声明に欠けた問題〗過去の過ちを認め、真摯に謝罪することは、傷つけられた人間関係を修復し、新たな一歩を進めるうえで不可欠であり、そうした意味では声明は評価できよう。しかし、この声明には欠けている問題がいくつかあるのではないだろうか。声明はそもそも「アイヌ民族研究に課する」声明であって、「アイヌ民族に対する謝罪」声明とはなっていない。「謝罪の意を表明する」と書かれていても、結局の徒声尾、この声明は、自分たち仲間内の研究者に向かって、もうこのようなものはやめようと訴えるだけで、肝心のアイヌ民族に対し、学会は何も謝罪していないのではないだろうか。これが第一の問題である。また、「研究至上主義の過ちは決して清算されうるものではありませんが、こうした過去を正しく認識し、絶えず自生していない限り、学術研究、とりわけ生身の人間のせいに向きあう文化人類学の研究には、未来など開かれないことを私たちは確信しております」と言うが、今を生きるアイヌの人々に、学ぼうと向きあおうとしているのだろうか。今回の声明文を直前に見せられ、コメントを求められたアイヌの女性は、交通費も自弁で突然呼ばれたうえ、アイヌが置かれている差別的な現状を訴えても、声明文の内容が変わることはなく、すべてが出来上がっていたのだから、差別の姿勢は変わらないと怒りをあらわにしていた。生身の人間の生に向きあうのが文化人類学であるというなら、学会誌にこの声明文をのせる際、そのすぐ隣に、今を生きるアイヌ女性のこのような批判を同時に載せて示すべきであろう。 奪われてきた権利の回復を 〖今も続く植民地主義〗第二の問題は、同学会が、アイヌ民族の研究に得に関わってきた日本人類学会、日本考古学協会とともに、2019年、北海道アイヌ協会とアイヌ民族に関する研究倫理指針案を発表してきたにもかかわらず、今回、単独で声明を発表したことだ。アイヌの人々の墓を暴き、遺骨や副葬品を盗掘し、研究してきたのは、むしろ日本人類学会と日本考古学協会の方である。日本文化人類学は今回の声明で、遺骨問題については一切触れていない。自分たちはそれとは無関係であり、それは他の学協会が謝罪することだ、と暗に言おうとしているかのようにみえる。しかし、これら3学協会は、先住民族を単に「モノ」としてしか見てこなかった点で共通なのである。だからこそ、協働して、研究倫理試案を発表してきたのではなかったか。なぜ一緒に声明を出さなかったのか、というのは大きな疑問である。「民族」とは後になってから作られた概念にすぎない。重要なのは、それとは無関係に、そこに生きていた人間であり、現在のアイヌ語にまで続く「言葉」を話していた、一人一人の人間である。そのような人々は、少なくとも数千年前から北海道に暮らしていたはずであることを、さまざまな証拠が示唆している。だが、考古学や歴史学の年表では、いまだに「アイヌ」は12世紀から明治維新までしか存在しない。このような矮小化こそ、今も続く植民地主義的な見方である。文化人類学もそれを否定しようとしない。アイヌを「先住民族」と認めるなら、明治期に根こそぎ奪われたその権利を回復するために、真っ先に行うべきなのが、個々の生身の人間と向き合う文化人類学ではないか。今回の声明を本当の謝罪声明にするために、学会として取り組んでほしいと願うものである。(北海道大学名誉教授) おの・ゆうご 1948年、東京都生まれ。筑波大学講師、北海道大学教授などを経て現職。専門は自然地理学、第四紀学、環境科学。97年より、アイヌ語地名の平等な併記運動、先住民サミットの開催などを通じて、アイヌ人たちと協働しながら、権利回復を目指す活動を行ってきた。それらを『「新しいアイヌ学」のすすめ』(藤原書店)にまとめた。 【社会・文化】聖教新聞2024.4.30
April 13, 2025
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リスクに警鐘鳴らす専門家も科学文明論研究者 橳島 次郎mRNAを使った創薬研究昨年のノーベル生理学・医学賞は、メッセンジャーRNA(mRNA)の研究を行った2人の科学者に授与された。mRNAは、DNAの遺伝子情報を写し取って細胞内機関に運び、生命現象を担うタンパク質を合成させる役割を担う生体分子である。この働きを利用して、さま生な疾患に対するワクチンを作ろうという研究が2000年代初めから行われてきた。特定の病原体のたんぱく質を作る遺伝子情報を持つmRNAを人工的に作り体内ではたらせれば、その病原体に対する免疫を獲得でき、感染・重症化しにくくなる。ただ人口のmRNAは阻害対外物として強い免疫反応を引き起こし、炎症などの有害な副作用を起こす。ノーベル賞を受賞した研究は、人工のmRNAのある部分を別のものに置き換えれば炎症反応を抑えられることを発見したというものが。この発見が、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの迅速な実用化につながったと高く評価されたのである。mRNAは、感染症に対するワクチンだけでなく、治療効果を持つたんぱく質を患者の体内で作らせる医薬品としても使えると考えられ、開発研究が行われている。例えば、がん細胞特有のたんぱく質の情報を入れたものを投与し、がんを攻撃する免疫反応を促して治療につなげる臨床試験が海外で行われている。膿疱性繊維症などに対する遺伝子治療薬として使う試験も出てきている。日本では膝などの変形関節症に対し、軟骨の再生を促す治療に用いる研究を進めているグループがある。このようにmRNAの作成は有望な創薬技術としての期待を集めているが、人工のmRNAが体の中でどのような作用を及ぼすか、まだわからない点もある。思わぬ副作用が起きるかもしれない。昨年3が有、日本人の医学者が一般向けの月刊誌に、国内で新型での新型コロナウイルスワクチン接種後の健康被害のデータを分析し、mRNAワクチンのリスクについて警鐘を鳴らす論稿を発表した。健康被害が認定されたケースは昨年末までに5735件、うち死亡は420件あった。僧接種件数から見れば非常にまれではあるが、血栓系と心臓の障害が多いことなどが懸念されるという。それが投与された人工のmRNAによるものか、もしそうであればどのような作用機序によるか、きちんと検証しておくべきだ。今後のmRNA創薬の安全性をチェックする際に役立つ、重要な知見となるだろう。 【先端技術は何をもたらすか‐19‐】聖教新聞2024.4.30
April 12, 2025
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在日米軍基地川名 晋史 著 米軍と国連軍の「二つの顔」中央大学教授 佐道 明広 評 現在、日本周辺の安全保障環境の悪化を背景に、日米安全保障協力が急速に進展している。先般の日米首脳会議で、日米の統合作戦指揮強化が合意されたのは、その象徴的事例である。こうした日米協力の進展は、日本の安全保障政策の基軸が日米安保体制にあるからであり、日米安保体制の基本的性格が、「基地と軍隊の交換」と呼ばれるものであることもよく知られている。しかし日本が提供する財米軍基地についてはさまざまな問題が指摘されてきたし、沖縄の普天間基地移設問題のように、現在も大きな政治課題となっているものもある。この在日米軍基地の持つ政治的、歴史的意味について、「米軍と国連軍という二つの顔」という新しい切り口で分析したのが本書である。たしかに、本土の4カ所、沖縄の3カ月の米軍基地は国連軍後方基地に指定されており、日本国内に9カ国の連絡将校が駐在している。米軍基地であり交連軍基地でもあるということはどのような意味を持つのか、本書の分析による指摘は重要なものばかりである。もちろん、軍事に関する情報は飼料役制約も多く、その点について著者は性急な結論を避けながらも興味深い論点をいくつも提示している。例えば、在日米軍基地問題として現在も議論になっている普天間基地の移設問題について、なぜ日の子でなければならないのか、国外異説ができない理由も含めて、『国連軍基地』という補助線を入れることで著者が提示する仮説は極めて興味深い。著者が指摘するように、これまで在日米軍基地に関数議論は、国会、ジャーナリズムにとどまらず研究においても、日本と米国の関係で語られることがほとんどで、国連軍について触れられることは不思議なほど少なかった。しかし、議前協議の問題にしても、日米間の「密約」問題にしても、国連軍を視野に入れて見えてくることが多く、また重要であることに、いまさらながら驚かされる。二〇一五年の安全保障法制の整備、さらに国家安全保障戦略の策定等によって何が変わったのかという意味も、またオーストラリアやイギリスとの安全保障協力の進展も「円滑化協定」との関係でみていなければならない点など、今後の政策転換を考えるうえで重要である。著者の言うように、在日米軍基地は必ずしも日本を守るための存在ではない。地位協定の本質は「派遣国側の要員と財産を保護することにある」そして、「戦後の日本、乃至極東の安全は日部の二カ国間だけでなく、国連軍を通じた多国間の枠組みによって維持されている」という指摘は重い。戦後の安全保障政策は、憲法と日米安全保障体制の関係を中心に複雑な構造となって理解がしにくくなっている。しかし政策の転換が行われている現在、日米軍基地がどのような意味を持つのかを考え、理解することは重要である。その点で本書は在日米軍基地問題を考える時の必読文献の位置をといえる。多くの人に熟読を勧めたい。◇かわな・しんじ 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専門は米国の海外基地政策。『基地の政治学』で佐伯喜一賞、『基地の消長 1968~1973』で猪木正道賞特別賞。 【読書】公明新聞2024.4.29
April 11, 2025
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戒名なんていらない 戒名とはなんだろう? 値段も高くて頭痛の種ですね。実は調べてみると、戒名は日本の、ごく最近の習慣で、本来の仏教にはそんなものはないのです。戒名にはまず、その規定がない。小乗にせよ、大乗にせよ、仏教の原理原則は、経典か、律蔵か、論蔵に明記してあるはずです。ところが大蔵経をいくらひっくり返しても、「在家の信徒が死んだら戒名をつけてもらいなさい」とはどこにも書いていないのです。その昔インドでは、出家得度して仏弟子になる際、世俗の名前(俗名)を捨てて、僧侶としての名前(法名)をつけました。オウム真理教が、アチャリーとかインド風の名前を付けていたのは、その真似です。中国では法名も、玄奘とか、雲鸞などと、中国流に漢字でつけます。日本の僧侶も、漢字の法名を名乗ります。法名は、生きているうちにつけなければ意味はない。戒名は、死んでからつける。しかも「××院××居士」などとなっているでしょう。居士とは「在家の男性」の意味ですから、こんな名前はつけるだけ無駄です。戒名の値段は、戦後値上がりました。檀家制度が壊れて、経済的に成り立たなくなった寺院が、葬式のチャンスに、過去何十年分の費用をまとめどりする……戒名の社会的機能はそんなところです。仏教の誤解と堕落の産物といえましょう。(島田裕己『戒名』法蔵館も参照のこと) 【世界がわかる宗教社会学入門】橋爪大三郎著/ちくま文庫
April 11, 2025
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下山御消息創価学会教学部編建治3年(1277年)6月、日蓮大聖人は、門下の因幡房日永が、甲斐国巨摩郡下山郷(現在の矢将司見巨摩郡身延町下山)の地頭であったとされる下山兵庫郎光基に宛てた書状(「下山御消息」)を、日永に代わって著されます。 弟子に代わって日永は、念仏者であった光基の氏寺(氏族が一門の冥福と現世の幸福などを祈るために建てた寺)・平泉寺の僧で(新2179・全1605、参照)日興上人を通じて大聖人に帰依しました。大聖人のお住まいと日永の住む下山郷とは、わずか数キロの距離です。日永は大聖人が身延に入られると、その評判を聞いてお目にかかりたいと思ったようです。ある人が大聖人にお会いするという機会をとらえて、日永はその人について行き、大聖人の講義を聴聞することができました。当初、日永は信仰しようとういう考えではなかったので、目立たない場所で密かに聞いていたようです(新272・全343、参照)。それが大聖人との最初の出会いです。大聖人の弟子となった日永は、阿弥陀経の読誦を辞めて、法華経如来寿量品第16の自我偈を読誦するようになります。そのため、光基によって寺から追放されてしまいました。これに対し大聖人が、日永の名で、光基に宛てた弁明書を記されたのです。それが「下山御消息」です。『日蓮大聖人御書全集 新版』で30㌻に及ぶ長文で、大聖人がいかに力を入れられたかが伝わります。 日本の仏法流布の歴史たどる 良観は経文通りの悪比丘同抄で大聖人は、御自身が経文にある通りの強敵を呼び起こした「法華経の行者」であることを確認し、幕府要人らに信奉されていた極楽寺良観(忍性)こそ僭聖増上慢であると強調されます。まず、宗教の五綱(仏法を弘めるにあたって心得るべき五つの規範)について述べられた後、鑑真〈注1〉以降の日本での仏法流布の歴史をたどられます。これまでも法華経が優れた教えとして認められていたことを確認し、「一向に法華経を行ずるが誠の正直の行者にては候なり」(新275・全345)と仰せになっています。次に、末法は上行菩薩が出現して法華経本門を弘めるべき時代に当たっていて、その瑞相(前兆であるしるし)は既に現れているけれども、諸宗の学者たちが自分勝手な主張を立てていると批判されています。特に、伝教大師(最澄)が像法時代の末に出現して、比叡山に法華円頓の戒壇〈注2〉を建立した時、日本全国で小乗の律〈注3〉は捨てられたと仰せです。それにもかかわらず、良観ら律宗〈注4〉の僧たちが、とっくに捨てられた小乗の経典を取り出し、公家や武家を欺いて自ら国師であるなどと主張していと指摘し、彼らを「天下第一の大不実の者」(新277・全348)と断じられています。さらに、涅槃経に記された「未来には、律をたもっているかのように見せかける比丘(=男性の出家者)がいるであろう」(新279・全348、通解)という悪比丘の出現の預言を引いて、良観こそが、その悪比丘であると断じ、良観に誑かされた人々は、今世で経文通り亡国の苦しみを受け、死後には無間地獄で苦悩しなければならないと警告されます。 「教主釈尊より大事なる行者」 法華経の行者とは大聖人はさらに、伝教大師以後、弘法(空海)が真言宗を立てた一方、日本天台宗第3代座主の慈覚(円仁)と第5代の智証(円珍)の二人が、大日経は法華経に勝として伝教大師の教えを歪曲したことを厳しく批判し、慈覚が日輪を射る夢を見たことは、慈覚が考えるような吉夢ではなく、「日本国亡国となるべき千兆」(新286・全353)であると仰せです〈注5〉。かつて予言した通り、元(大元、モンゴル民族による中国の王朝。蒙古)の脅威が次第に強くなっても、人々は、大聖人を軽んじ諸宗の僧を尊ぶので、諸天の大怨敵となり、国が滅びようとしていると指摘されています。そして、「教主釈尊より大事なる行者」(新299・全363)である大聖人を迫害し、法華経を蔑ろにした大罪から免れることはできないと仰せになり、真言の祈祷では、この国難を逃れられるはずがないと強調されています。この後、日永の言葉として、理に適った大聖人の主張に対して、よく吟味した幕府のやり方は理不尽であると訴え、日永が阿弥陀経の読誦をやめたのは下山光基やその父母のためであると述べ、光基を諫めて同書を結ばれています。本抄で、末法では大聖人こそが「教主釈尊より大事なる行者」となると明かされたことは、末法という時における御自身の使命の自覚を述べられたと拝されます。そのことについて、池田先生は、次のように抗議されています。「これは、大聖人の御一生における重大事であり、本抄が『十大部』の一つとされている所以であります。言うまでもなく、大聖人は釈尊を大切にされた方はいません。その上で末法広宣流布を主題としたときに、以下に末法の法華経の行者が重要な存在であるのか。本抄は、(中略)末法の法華経流布の本義を述べられているのです」「法華経は末法の人々を救う経典です。ということは、マ峰に、法華経の行者は、闘諍言訟の謗法充満の時代に、ただ一人立ち上がり、大難を受けながら正法を弘通し続ける人であらねばならない。法華経の行者の存在によって、末法の全民衆が幸福になれるのです」(「大白蓮華」2015年6月号「世界を照らす太陽の仏法」)なお、同書を贈られた下山光基は、これをきっかけとして大聖人に帰依したと伝えられ、その妻子とこについては、日興上人から御本尊を授与されたことが知られています。 池田先生の講義から 民衆のために戦う「法華経の行者」を知らなければ、仏法も、法華経も、その真意がわかりません。それゆえに、本抄(=「下山御消息」)では、法華経の行者に敵対する僭聖増上慢とは、具体的に誰か。三塁の強敵を引き起こした法華経の行者とは誰か、という主題に迫っていきます。本抄では、念仏だけでなく、全集・真言宗・天台宗などの諸宗の転倒ぶりを示し、明快に破折されています。なかでも、真言律宗の極楽寺良観の破折に、多くの紙幅が費やされています。(中略)大聖人は、「真の民衆の幸福を願って、経文の通り仏法を弘め、行動している人は誰なのか」を明確にするため、人々を惑わす根源的な「悪」を激しく責めたのです。聖者を装う仮面の正体を見極め、人々が〝偽り〟にだまされない社会を築き上げる——。それには、人々の精神的境涯を高めるしかありません。(「大白蓮華」2015年6月号「世界を照らす太陽の仏法」) 四条金吾から誓いの手紙届く弟子の危機に師は筆を執った 桑ケ谷問答「下山御消息」を執筆されたのと同じ建治3年(1227年)6月、日蓮大聖人は「頼基陳状」を著されました。これは鎌倉の四条金吾(頼基)〈注6〉に代わって執筆し、金吾の主君江間氏(北条氏=注7)に宛てた弁明書です。この頃、金吾は次のような窮地に陥っていました。同年9月、大聖人の弟子である三位房が、金吾のもとを訪ねました。その頃、竜象房という、京都から来た天台宗の僧が、鎌倉の桑ケ谷(神奈川県鎌倉市長谷)に住んでいました。竜象房は、日夜、説法を行い、鎌倉の人々から釈尊のように崇められていました。彼は説法の場で、「仏法について不審のある人は、法座に来て問答をされるがよい」(新1568・全1153、通解)と言っていましたが、あえて問答をする人はいませんでした。およそ半月が立った同月25日、金吾のもとに突然、主君の江間氏から下文(命令書)が届きました。そこには、金吾が竜象房の説法の場へ、徒党を組んで武器をもって乱入し、威圧を加えたと記されていたのです。さらに、江間氏が信奉している良観や竜象房を蔑ろにし、主君の命令に背いたとあり、法華経の信仰を捨てるという起請文(誓約書=ノート参照)を書くように命じるものでした。金吾は、以前から同僚に妬まれていました。一方、江間氏は良観に帰依し、竜象房にも好意を持っていました。このようなことから、金吾を快く思わない者が、三位房と竜象房との問答にかこつけて、江間氏に対して、金吾についての善言(事実無根の告げ口)を吹き込んだのでした。信仰を貫いて所領や社会的な立場を失うか。主君の命令通りに大聖人の仏法への信仰を捨てるのか——最大の苦境に際し、金吾は即座に大聖人に事態を報告するとともに、〝法華経を捨てるという起請文は書きません〟という誓状(誓いを記した文書)を記し、江間氏からの下し分と一緒に大聖人にお送りしたのです。大聖人は金吾への返書と同時に、江間氏に対する弁明書を金吾に代わって執筆し、いざという時にはこの書を清書して提出するように指示されました。それが「頼基陳状」です。金吾自身が記した弁明書という体裁をとっています。(続く) ノートNote神仏への誓い——起請文御書では、何度か「起請文」について言及されています。起請文とは、「自分の行為、言説に関して嘘、偽りのないことを神仏に誓い、また、相手に表明する文書」(「日本国語大辞典」ジャパンナレッジ)です。中世においては、「前書」と呼ばれる誓いの内容を記した部分と、「神文」と呼ばれる誓いの対象となる神仏の名称を列挙した部分からなります。前書に記した内容に背けば、神文に並べた神仏の罰を受けると誓約するのです。中世の人々は、人間を超えた神仏が現実世界の根源にあって、この世界の全てを支配し、動かしていると信じていました。常に神仏と共に生き、その声を聴き、その視線を感じながら生活していたようです。起請文に記された神仏は、誓いのないように嘘があったり背いたりすれば、実際に罰を下す存在として信じられていたのです。現代においても一般に「神に誓って」などと訊くこともありますが、中世とは感覚が異なると言えるでしょう。重大な覚悟を持って記すのが起請文だったのです(佐藤弘夫著『起請文の精神史』講談社等を参照しました)。 〈注1〉688~763年。中国・唐の僧で日本律宗の祖。天台宗と律宗を学んだ後、5度の失敗と失明を経て、天平勝宝5年(763年)に来日を果たし、当時、中国で用いられていた「四分律」に基づく正式な戒壇(戒を授受する儀式を行う場)を設立しました。〈注2〉伝教大師が建立を目指した大乗戒に基づく階段のこと。円頓とは、円満にしてかけることなく、速やかに成仏するという法華経の教えを言う。〈注3〉具体的には、出家者教団の規則を定めた「律蔵(具体的には「四分律」)」で想定されている二百五十カ条の規範のこと(尼僧の場合は三百四十八カ条)。〈注4〉奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に戒律復興運動の中で叡尊らによって新たに樹立された律宗。新義律宗ともいう。〈注5〉慈覚は大日経の注釈書を書いたものの、〝仏の考えはわかるはずもありません。大日経と法華経とどちらが優れているのでしょうか〟と祈念したところ、真空に輝く太陽を矢で射て命中させるという夢を見た。慈覚は、その夢は吉夢であり、真言の教えが法華経より優れていると書いた注釈書は、仏の考えにかなっていたと考えた(新230・全306、参照)。〈注6〉「金吾」は四条頼基の官職である「左衛門尉」を中国風に呼んだもの。頼基が実名であるが、「四条金吾」という呼び方が定着しているので、以下、「金吾」と呼ぶ。〈注7〉第二代執権・北条泰時の次男・朝時の嫡男(跡継ぎである子)である光時の系統のこと。朝時の系統は名越家と呼ばれるが、光時は宮騒動(叛乱未遂事件)を起こしたため、北条氏の古くからの本拠である伊豆国江間(江間)荘(静岡県伊豆の国市北江間一帯)に移され、以後、時光の系統は江間氏と称された。 [関連御書]「下山御消息」、「富士一跡門徒存知の事」、「頼基陳状」、「報恩抄」 [参考]「大白蓮華」2015年6月号「境を照らす太陽の仏法」(「下山御消息」を講義) 【日蓮大聖人 誓願と慈悲の御生涯】大白蓮華2024年5月号
April 10, 2025
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自律型致死兵器システムLAWSだけではない多様化するAIの軍事利用京都産業大学世界問題研究所 岩本 誠吾 所長に聞く人工知能(AI)を組み込んだ機会が自ら標的を選択し、攻撃する自律型致死兵器システム(LAWS(ロース))の規制に向けた交渉が、特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の政府専門委員会(GGE)で進められている。ただ、LAWSは実用化に居やっていない一方で、別の形でAIの軍事利用が問題になっている。特に、パレスチナ自治区ガザ地区への攻撃で、イスラエル軍が運用しているとされるAI意思決定支援システム(AI-DSS)が、多くの民間人を犠牲にする攻撃を招く一因になっているのではないかとの懸念がある。多様化するAIの軍事利用に、国際社会はどう向き合うべきか。京都産業大学世界問題研究所の岩本誠吾所長に聞いた。 「殺人ロボット」のイメージ先行現実味のある規制議論の妨げに ——LAWSの規制に向けた交渉を進めているCCWのGGEでは近年、LAWSに加え、自立型兵器システム(AWS)という言葉も用いられている。岩本誠吾所長 2013年にCCWの下でLAWSについて議論することが決まって以降、17年から公式にGGEが開かれるようになり、LAWSの規制に向けた交渉が進められている。ただ、実在していないLAWSについては、辺国のSF映画「ターミネーター」に出てくるような「殺人ロボット」というイメージが先行してしまい、それへの危機感にあおられる形で議論が行われていたと感じる。例えば、19年8月のGGLで示されたKAWSの規制を巡る11項目の指針の一つに、LAWSの擬人化を禁止する項目がある。これは、ターミネーターのような人型ロボットの実用化を危惧して盛り込まれた項目だといえよう。また、殺人ロボットへの危機感に囚われするあまり、それ以外のAIの軍事利用に伴う問題が見過ごされがちだった。LAWS「致死兵器」だから、人を殺傷する対人AI兵器ということになるが、AI技術がよっぽど進化しない限り、LAWSの実用化は不可能である。戦闘員と民間人を区別しない無差別攻撃などを禁じる国際人道法に違反するLAWSは許容できないとの認識が、大多数の国に共有されているからだ。例えば、市街地での戦闘で、戦闘員なのか民間人なのか、等公平なのか戦闘意欲がまだある兵士なのかを、AIが区別できるとは思えない。一方、戦闘機や戦車、防空レーダーといったものの識別であれば、AIでも比較的容易に行えるため、AI兵器の本格的な実用化が進むとしたら、対物兵器からになるだろう。AWSという言葉を用いれば、対物AI壁の規制についても議論できるようになる。 ——AI-DDSの軍事利用に対する懸念も高まっている。岩本 自ら標的を選択し、攻撃する兵器システムではないので、GGEでのLAWASの規制に向けた交渉では、あまり取り上げられてこなかったが、AI-DSSの軍事利用が国際人道法に違反するような事態を招いていないかどうか注視する必要がある。現在、ウクライナ軍がロシア軍との戦闘で、「ゴッサム」というAI-DSSを利用似ている。これは、データ解析などの防衛関連技術を手がける米国の企業「パタンティア・テクノロジーズ」が開発したものだ。イスラエル軍も、諜報などを担う8200部隊が開発したとされる「「ハブソラ」(福音)や「ラベンダー」、「ウェアズ・ダディ」(パパはどこ)といったAI-DSSを利用し、パレスチナ自治区ガザ地区を攻撃しているという。イスラエル国有の防衛関連企業「ラファエル・アドバンド・ディフェンス・システムズ」(ラファエル)も「「パズル」と呼ばれる軍事AI-DSSを開発している。 意思決定システムに懸念もイスラエル軍の過剰攻撃助長か ——AI-DSSの軍事利用の何が問題視されているのか。岩本 AIなどを組み込むことで自動化されたシステムが示した情報や提案などを、人は過度に信じてしまう傾向にあり、人間が調べて導き出した提案の方が正しかったとしても、それを無視したり、拒絶したりする「自動化バイアス」という心理状態に陥ってしまうことへの懸念がある。AIのような高度な技術が、人間みたいな間違いを犯すわけがないという潜在的な思い込みから生じる、心理的な落とし穴だと言える。軍事利用されているAI-DDSが示した標準の位置情報は誤りで、そこにいるのは民間人だったという場合も、人間が自動化バイアスに陥ってしまえば、その情報は正しいものとして生け入れられ、攻撃が実行されてしまう。自動化バイアスに陥ると、人間の関与は、AI-DDSが示した提案を検証せずに、承認のサインをするだけの「名ばかり関与」になってしまうことも問題だ。 ——イスラエル軍が運用するAI-DDSが、ガザ地区で暮らす民間人に加え、人道支援に従事する国連や非政府組織(NGO)の職員まで標的に挙げているのではないかと疑われている。岩本 イスラエル軍は「ダヒヤ・ドクトリン」という戦略を採用しているのではないかとの指摘がある。ガザ地区を実効支配し、イスラエルに対して武装闘争を繰り広げている抵抗運動組織ハマスへの住民の支持を失わせるには、軍事的必要性が認められない住宅や学校、病院なども標的にして、多数の民間人が犠牲になることもいとわない大規模な攻撃を行うことで恐怖を与えるのが効率的だとする戦略である。このような戦略に基づき、イスラエル軍はAI-DDSを運用している可能性がある。ハプソラは建造物の、ラベンダーは人の標的候補を示し、ウェアズ・ダディは効果的な攻撃方法を提案するAI-DDSだという。ハプソラは1日に100件の標的候補を挙げ、ラベンダーは実に3万7000人ものガザ地区の住民を標的に指定しているとされる。さらに問題なのは、ハマスの戦闘員だと「見なす」ことができれば、標的としている点だ。イスラエルは05年にガザ地区全域から撤退しているので、標的であるかどうかを判断するための情報は、主に、傍受したガザ地区の住民の通話やメールでのやりとりの内容であり、その情報を基に、AI-DDSに標的候補を挙げさせると考えられる。例えば、ハマスの戦闘員でなくとも、ガザ地区で治安維持の任務を担うパレスチナ人の通話やメールでのやりとりの内容は、ハマスの線という院の者と似通っている場合があるため、ハマスの戦闘員とになされ、標的にされ得る。また、ハマスには、打座地区の住民に福祉などの行政サービスを提供している要員もいる。ガザ地区で人道支援に従事する国連やNGOの職員の通話やメールでのやり取りも、行政サービスを担うハマスの要員のものと見なされ、標的の候補にされている可能性も考えられる。 各国は複合的な課題に向き合え——日本もAI-DDSの軍事利用を検討しているという。岩本 22年12月16日に閣議決定された防衛力整備計画には「AIにより行動方針を分析し、指揮官の意思決定を支援する技術を装備品に反映するための研究を行う」と明記されている。これに先立ち、同9日に岸田首相が、バランティア・テクノロジーズのアレックス・カープ最高経営責任者(CEO)と面会しており、AI-DDSの軍事利用に前向きであることがうかがえる。そうであるなら、日本は国際人道法を順守し、民間人を保護するという観点から、AI-DDSの運用のありかたについて、事前によく考えておくべきだ。LAWSの規制に向けた交渉を進めているCCMのGGEの枠外だが、オランダと韓国が共催し、昨年2月にオランダのハーグで開かれた「軍事領域における責任あるAI利用」(REAIM)サミット(首脳会議)は、LAWSだけでなく、AI-DDSの軍事利用などに対する規制も視野に入れた国際規範づくりをめざしている。同サミットで採択されたREAIM宣言には、日本を含む60カ国が支持を表明した。第2回REAIMサミットは今年9月に韓国のソウルで開かれる予定である。多様化するAIの軍事利用に伴う複合的な課題に向き合いながら、規制について議論を進める国際的な機運を高めていくことが重要だ。 【土曜特集】公明新聞2024.4.27
April 10, 2025
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戦後の沖縄を伝える作家 伊東 潤太平洋戦争末期、日本で唯一、日常生活の場が戦場となったのが沖縄戦だ。押し寄せた18万の米軍によって、兵士を除く一般市民9万4千人余が犠牲になった。糸満市の沖縄平和記念公園には、沖縄戦で亡くなった方々の使命を刻んだ「平和の礎」がある。中には一家が全滅したため、子供の名が分からず「○○の息子三歳」といったものまである。名さえ伝わらない痛ましさは言葉に尽くせない。しかも戦後、米軍の土地強制収用によって、沖縄の農地はただ同然の価格で米軍に接収され、北爆の拠点とされた。その後、土地の返還は徐々に進んではいるが、今でも米軍の接収値は沖縄本島の15%に及ぶ。しかも米軍兵士の犯罪は後を絶たない。こうした現状を、本土の人はどれだけ知っているのだろう。何となく知ってはいるが、自分には関係ないし、何もしてやれないと思っているのではないだろうか。私もそんな一人だった。しかしあの戦争の生産は、沖縄ではまだ済んでいない。日本国民一人一人が沖縄の痛みを理解し、分かち合うことで、ようやく生産の第一歩が刻まれるのだ。戦後の沖縄を少しでも知ってほしいという一念で、四年前に『琉球警察』という小説を書いた。小説をとおして沖縄の抱える諸問題を知ってもらいたい。少しでも観光文献を読んでほしいという思いからだ。おかげさまでかなり反響もあり、諸方面から賛辞もいただいた。だがそんなことよりも、沖縄の抱える諸問題の断片だけでも伝えられたことがうれしかった。そして今、続編の連載も決まった。小説とは、読者に物語を楽しんでいただきながら何かを「伝える」ことだと痛感する。これからも告発の書としての小説を書き続けたい。 【すなどけい】公明新聞2024.4.26
April 9, 2025
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香りの効用塩田 清二(湘南医療大学薬学部教授) 多様な効果を持つラベンダー好きな香りをかげば気分は良くなり、おいしそうな香りを嗅げばおなかがすきます。さまざまな香りがどのように脳に作用し、私たちの体に影響するか。そんな仕組みやメカニズムを知ってもらいたく、近著『「植物の香り」のサイエンス』(NHK出版新書)を出しました。香りは、鼻の中にある嗅覚受容体で捕らえられ、脳に情報が伝えられます。植物の香りの中には、自律神経系を調節している「視床下部」に作用する者が多く、人間のやる気や集中力などに直接的に働きかけるのです。例えば、ラベンダーの香り。古代から伝統的なハーブとして利用されています。ラベンダーの心身に対する効果は広く研究されており、香り成分を抽出したラベンダー精油は、高ストレス作用、抗炎症作用、抗菌作用、鎮静作用など、多様な効果が知られています。特に、ストレスの緩和、リラックス効果は有名です。副交感神経を優位にした、脳を休ませる鎮静効果があるのです。同様の効果を持つ香りとして、ローズウッド、コリアンダー、イランイラン、クラリセージなどがあります。逆に交感神経を優位にする香りに、レモングラスやグレープフルーツなど柑橘類系の香りがあります。脳をスッキリとリフレッシュさせてくれます。神経を高揚させ、集中したいときに使うとよいでしょう。 レモングラスで認知症が改善香りの効果は、自律神経の調整による気分の改善だけではありません。ここで、認知症に対する効果を紹介しましょう。レモングラスの香りをかぐと、交感神経が活性化します。認知症の人は、前頭葉の脳血流が落ちています。そこでレモングラスの香りをかぐと、この部分の血流が最善されることが明らかになってきました。2014年、介護老人施設の協力を得て、レモングラスの香りが認知症の患者にどのような影響を及ぼすかの臨床試験を行いました。ディフューザーを用いて、昼の活動的な時間帯に2時間ほど、毎日対象者が集まる食堂にレモングラスの香りを流したのです。その結果、3カ月目には、記憶などの知的機能、以下リポ差などの感情機能、トイレに行けるかという運動機能、自発性などに改善傾向が見られました。昼間に活動が活発になるため、夜は疲れてよく眠れるようになり、不眠症が改善されました。看護する人にアンケート調査をしたところ、患者さんは、やる気が高まって活動的になり食欲も増したといいます。アルツハイマー型認知症の場合、親交を遅らせる薬はあっても、根治できる治療法はありません。これまで運動や人とのコミュニケーションなど、複数のアプローチで症状を改善できることが報告されています。香りによる効果として期待されています。香りによる効果は、それをサポートするものとして期待されているのです。 鼻から入り脳に作用やる気や集中力に働きかける リラックスしつつ集中できる美郷雪花という、色白のラベンダーがあります。濃い青紫の真性ラベンダーとは、香りの成分が大きく異なることはありません。しかし美郷雪花の場合、まったく違う成分で、香りも全く異なります。この香りの効果が面白いのです。驚くことに美郷雪花は、交感神経も副交感神経も、両方とも活性化します。交感神経の働きが高まると、気持ちは高揚し活動的になります。しかし、冷静さを失ってミスが増えたり、判断を間違う危険性もあります。緊張から体が硬直してしまうことも。逆に副交感神経が高まるとリラックスして落ち着くことができます。でも、闘争心が亡くなり、集中力も低下します。この両方が活性化されると、どうなるのでしょうか。スポーツなどで最高のパフォーマンスを発揮できる「ゾーン」に入った状態になります。つまり、やる気はみなぎっているのに、リラックスしている状態です。試験などでゾーニング効果は働くと、リラックスしつつ集中でき、自分の能力を最大に発揮できるようになるわけです。さいごに、香りの使い方として注目されているのは塗る方法。ラベンダー精油を塗ると、皮膚から吸収されて、香り成分が骨格筋まで届きます。骨格筋は象基幹ネットワークの基点として注目されており、運動した骨格筋はいろいろな化学物質(マイオカイン)を分泌することが分かっています。その中には筋肉増大に効果がある物質や、脂肪の分解を促進する物質などがあり、香り成分がそれらの効果を高めるのではと期待されているのです。=談 【文化Culture】聖教新聞2024.4.25
April 9, 2025
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一人旅で満足度アップ休憩も観光も自分軸日本トラベルヘルパー協会会長 篠塚恭一さん グルメや花、歴史、低山登山も旅行はシニア世代に根強い人気があります。子育てや、仕事が一段落し、時間に融通が利きやすくなる年代。それまでできなかった旅を、ゆっくり味わいたいという声を聞きます。現実は働き続ける人も多く、短い日程になることが多いようですが……。旬の物を食べに行くグルメ旅はもちろん、この時季ならネモフィラや藤、シバザクラなどの花を見るたびも好評です。年齢を重ねるほど歴史旅へのニーズは高まり、白や大河ドラマの舞台を訪ねる人も。最近は、健康志向から、運動を兼ねた低山登山やハイキングも増えています。旅といえば、非日常の入り込むことで「自分とは何か」「自分の好きなものや感じ方」を再認識できるのも、魅力の一つでしょう。また、「無事に帰ってきた」ことが、「いつまでも元気」と自信につながります。昭和の頃は、団体旅行が一般的でした。いまだに、旅のイメージはそのままという方もいます。しかし、シニアにこそ一人旅がオススメです。年を重ねるにつれ、人に合わせて行動するのは、難しくなります。歩くスピどもそれぞれ。トイレの頻度も違います。食事や、官庫したいものの好みもあるでしょう。ゆっくり寝たい人、朝から散歩したい人。一人旅は、人に合わせる必要がなく、気ままで、満足度が高くなります。もちろん、体調面などで不安があれば、無理して一人だけでいく必要はありません。ただ、友だちとグループでいく時も、プライベートの自由時間を確保することを推奨します。例えば、「ランチや夕食以外は個別行動」「泊まる部屋は別々」「集合時間を決めて観光はそれぞれ」とか。自分の時間を予定しておくだけで、積極的に見て回ることも、疲れたぼーっと休むことも、その時に合わせた調整ができます。 余裕のあるスケジュール旅程を立てるコツは、イベントを詰め込み過ぎないこと。予定が多少ずれても大丈夫なくらい、時間が多少ずれても大丈夫なくらい、時間に余裕を持ったスケジュールにしましょう。とくに今は、インバウンドで海外からの旅行客も大勢います。観光地が予想以上に混雑しているということもあります。事前の下調べは大切です。情報はネットで得る時代ですが、現地の最新情報を知るには、検索のテクニックが必要です。目的地の観光協会、また、宿泊を伴う場合は宿泊先に、周辺の込み具合などを電話で問い合わせるのもよいでしょう。余裕をつくるのは、体調を崩さないためでもあります。自分の体調変化に気付きにくくなるのがシニアの特徴。普段と違う環境は刺激になる半面、ストレスがかかります。旅になれていない人であればなおさらです。少し控えめに行動するくらいがよいでしょう。温泉旅行も湯につかった結果、疲れが出てぐったちということもあります。せっかくの旅も、健康を害してしまっては元も子もありません。行くところによりますが、この時季は朝晩の寒暖差に注意が必要です。日ごとの気温の変化も大きくなります。羽織るものは用意しておきましょう。また、朝夕涼しく日中気温が上がる時は、熱中症の心配があります。こまめな水分補給を必ず行いましょう。春の日差しは柔らかいように感じても、紫外線が強く、体に負担がかかります。サングラスや帽子、日焼け止めなどの対策も忘れずに。常備薬派の見慣れている風邪薬や、胃腸薬、頭痛薬などを持ち歩いてください。 メジャーな場所をちょっと外して旅程を考えるのが苦手な一人旅初心者には、ツアーへの参加をご提案します。最近は、シニア向け一人参加限定プランもあります。ツアーは、旅行会社の規格だからこそ見られるものや、見られる場所があるのも魅力です。自由時間がたっぷりと確保されているものもあります。参加者の中に、旅の達人みたいな人がいれば、仲良くなってみるのもよいと思います。旅情報を交換すれば、行きたい候補が増えることでしょう。旅慣れしている方に、私がオススメする工夫は、ちょっとずらすことです。「宿泊も、観光も、メジャーな場所」では人も多く、疲れてしまいます。漢口をした後は、少し離れた宿泊所を選ぶとか、観光自体を、メジャーから外すことで、人込みは回避できます。例えば京都なら、舞鶴に拠点を構えて、京都府北部を楽しむ。春の海を見に行く時は、熱海や下田を外して、熱川とか、東伊豆を使う。高尾山がいっぱいなら、青梅の御岳山。同じような自然に触れながら、ゆっくり過ごせます。瀬戸内海なら、人気が出てきていきますか、車で渡れる淡路島。東北でも話題の申湖温泉から、車で40分ほど走ると、赤倉温泉(最上町)があります。五島列島も、新五島町の方なら、比較的すいているので、長崎港から船で渡ることもオススメします。泊まるところも、高級ホテルや高級旅館で毛ではなく、民宿や脳白を使用すると、地元の人との交流や生活に触れることもでき、値段が安く抑えられます。こういう触れ合いの中で、ガイドブックでは知ることができない情報を得ることができる、貴重な体験になります。観光に動き回るのも、ひたすらゆっくりするのもいい、誰に気兼ねすることもない、気ままな一人旅に出かけてみませんか。 【幸福社会】聖教新聞2024.4.24
April 8, 2025
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圧政下の人々の忍従と抵抗作家 村上 政彦イヴォ・アンドリッチ「宰相の象の物語」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日はイヴォ・アンドリッチの『最小の象の物語』です。アンドリッチは、1892年五ボスニアで生まれました。両親はカトリック教徒で息子も受洗させましたが、父はパン・チャルシア(イスラム商業圏)のムスリムの親方の下で職人として働いた。アンドリッチの小学校には、セルビア人、オーストラリア人、チェコ人、ポーランド人、ユダヤ人、ドイツ人、イタリア人と、多民族な人々や文化が混合しる社会で、ギムナジウムに進学し、ドイツ語やフランス語を学び、文学に目覚める。ゲーテ、ハイネ、スタンダール、プルースト、トルストイ、ドフトエフスキーなどの小説や詩を耽読するようになります。当時、祖国ボスニアは、オーストラリアに併合され、国民の中には政治的には不満が募っていました。1914年、オーストラリア大公夫妻が、反政府組織「青年ボスニア」の若者に暗殺される。第1次世界大戦のきっかけになったサラエボ事件です。かつて彼らと連帯した組織「急進青年クロアチア」の議長を務めたアンドリッチは、国家に反逆した罪で逮捕。スロベニアの監獄で生活を送ることに。その後、アンドリッチは、獄中生活に材を取った散文詩『エキス・ポント(黒海より)』を出版し、作家として出発しました。同じ頃、オーストラリア=ハンガリー帝国が航海士、旧ユーゴスラビアの土台になる国ができた。その政府で外交官として働きながら、次々と作品を発表します。第2次世界大戦の最中も世に出す当てのない原稿を書き続けた。本作の舞台は、1820年代のボスニアです。田舎町のトラヴニクに新しい宰相がやって来た。セイド・アリ・ヂェラルゥディン—パシャです。「まだ若い男で、年は三十五と四十の間ぐらい、色白で髪はニンジン色、痩せすぎの長身に小さな頭がついていた」。彼は就任した翌月、ボスニアの主だった貴族、指導者、市長を収集し、出席者27人の内17人を白の中庭で殺害、残りの10人には首かせをつけ、鎖で数珠つなぎにしてイスタンブールへ送った。これほど残忍な宰相はいなかった。2か月後、宰相は1頭の象を買った。2歳のアフリカゾウでフィル(象のトルコ語)と呼ばれた。この仔象が召使に連れられ、街を散歩するようになり、人々は大いに迷惑を被った。犬猫や馬がおびいて騒動になったのです。やがて市場の店を荒らし始めた。横暴な権力者の気まぐれが市民のおだやかな生活を壊してゆく。耐えられなくなった人々は、ヒ素を仕込んだ林檎をフィルが通ると投げ与えるようになる。さて、宰相とフィルの物語の行方は?「物語を語る流れが枯れ果てることはありません」。作者は物語の力を確信しています。読者はその流れに身を任せればいいのです。[参考文献]『宰相の象の物語』 栗原成郎訳 松籟社 【ぶら~り文学の旅㊽海外編】聖教新聞2024.4.24
April 8, 2025
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高い志を持つ 白黒模様の四角形を見ない日はない。キャッシュレス決済やチケット発見など暮らしのあらゆる場面に定着する2次元コード「QRコード」。1994年の誕生から今年で30年◆世界中に広がる画期的な技術の生みの親は、一人の日本人技術者だった。株式会社デンソーウェーヴの主席技師・原昌宏さん。今月、自身の母校・法政大学の入学式に来賓参加し、祝辞を贈った◆30年前、自動車工場で部品管理にバーコードは横方向だけ読み込む1次元。入力でき有情報量が圧倒的に少ない。それを縦横の2次元コードにし、情報量を約200倍まで増やすことに成功。しかも面積の約30%が汚れたり破損したりしても正確に読めるようにした◆「どんなにいい技術でも、多くの人に使ってもらわなければ意味がない」と特許を無料開放する営団も。コードを読み取れるカメラ付携帯電話やスマホの普及で国内外へ急拡大した◆新入生に対し、原さんは人生の重要なキーワード3点を伝えた。「主体性をもって学ぶ」「創造的思考能力を伸ばす」「高い志を持つ」。とくに「人類の皆が幸福になるような高い志を持ってください」と、初々しい後輩たちへ期待を寄せた。(青) 【北斗七星】公明新聞2024.4.23
April 7, 2025
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医療小説を読む作家 久間 十義ニーズの変化にも対応妙に相性のいい医者と文芸医療小説と呼ばれるものは数多い。何を読むか迷ってしまうほどだ。そんなときはまず古典からが鉄則。すぐに思い浮かぶのは山崎豊子の『白い巨塔』や、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』だろう。『白い巨塔』は難波大学医学部の財前五郎助教授が権力の階梯を駆け上がろうとする物語。医局制度の問題などを赤裸に描く社会は小説だ。一方『赤ひげ診療譚』は江戸の時代物。長崎帰りの若い医者が、赤ひげと呼ばれる医長に導かれて一人前の医者へと成長していく姿が描かれている。に咲く友映画やテレビで人気を博し、実際の小説を読まずとも、すでに内容が分かった気になりがちだ。だが、どっこい、直に小説に当たると、予想以上の深さ、面白さに驚く。山崎豊子の対立がさらなる対立を呼ぶストーリーテリング、戦後教育の生前主義的な傾向ときっぱり断絶した山本周五郎の人間洞察力など、読書の見返りは絶大なはずだ。もっとも、こうした作品の功徳を述べ立てても、人によっては「古臭い」との反応があるのも事実。時代が下がると読書人のテイストや要求水準も変わり、どんなに素晴らしいものでも読み辛く感じられたりするものだ。だからこそ、常に新しい医療小説が求められ、生産され、消化される。古典と現在の医療小説との距離については、テレビ・ドラマや漫画といってジャンルを介在させることで、多少はその隙間が埋まるかもしれない。そう、たとえば医学の全線で苦悩する医者たちの姿を描いた『ER緊急救命室』や『シカゴ・ホープ』『シカゴメッド』『ドクター・ハウス』などなど。これら海外ドラマに加えて漫画では手塚治虫の『ブラックジャック』、さらには題名がそのオマージュになっている『ブラックジャックによろしく』などという人気漫画もあったはず。こうしただれもが知らず知らずに観たり読んだりして、記憶にとどめる物語イメージが、私たちをして新たな医療小説を求めさせるのだろう。そんなふうに感じながら現在の医療小説を眺めてみると、お医者さん自身が書いている小説が吃驚するほど多いことに気づく。医師で小説家という人を思いつくままに挙げても、加賀乙彦、渡辺淳一、海堂尊、箒木蓬生、久坂部羊、夏川草介、知念実希人、南杏子……。純文派では南木佳士もいる。考えてみれば『ER緊急救命室』のマイケル・クラントンも医学部出身だし、手塚治虫も元医者だ。そもそも森鷗外に始まって、斎藤茂吉や茂吉の息子の北杜夫など、医者と文芸は妙に相性がいいという訳だろうか。そういった医者が各医療小説で、最近目について三冊をあげれば、まず久坂部羊『生かさず、殺さず』。これは題名からして治療者側の本音が洩れ出た「認知症小説」だ。夏川草介『スピノザの診察室』は例によってトリビアな知的問答をちりばめて読者の心をくすぐる本屋大賞候補作。南杏子『いのちの十字路』は吉永小百合主演映画『いのちの停車場』の続編で、訪問診療所が舞台だ。『白い巨塔』や『赤ひげ診療譚』カラずいぶん遠くまで医療小説が来たことが実感されるが、しかし「変われば変わるほど、ますます変わらない」という言葉もある。こうした小説が文芸の強力として、現在の私たちのニーズを満たしているのは確かなことのように思われる。(ひさま・じゅうぎ) 【ブック・サロン】公明新聞2024.4.22
April 7, 2025
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「故事成語」にはワケがある!始皇帝が絶賛した韓非子の言葉。塚本靑史つかもと・せいし(作家)1949年、岡山県倉敷市生まれ。96年、『霍去病』で文壇デビュー。2012年6月、『燿帝』(上・下)で「第1回歴史時代作家クラブ作品賞」受賞。14年10月、『サテライト三国志』(上・下)で「第2回野村胡堂文学賞」受賞。著書に『則天武后』(上・下)『バシレウス』『玄宗皇帝』『趙雲伝』『深掘り三国志』『姜維』など多数。 歴史を変えた決断中国を統一した始皇帝誕生の影の成功者といえる呂不韋は、ソグト人だったとの説があります。彼は諸国を渡り歩いて商売を行い、財を築きます。その材を使って周囲を買収し、始皇帝の父、嬴異人(えいいじん)を秦王(荘襄王)にすることに成功するのです。その呂不韋が、趙の人質になっていた嬴異人を見つけたときの言葉が「奇貨居くべし」(『史記』「呂不韋列伝」)です。当時の嬴異人はみすぼらしい姿で邯鄲で暮らしており、兄弟が二〇人以上もいたため、王位継承の見込みは、ほとんどありませんでした。しかし、そんな嬴異人を見た呂不韋は、「これは思いがけない掘り出し物だ」と支援することを決めます。この決断がなければ、始皇帝が生まれ、中国が秦によって統一されることはなかったかもしれません。また始皇帝の母親は、もともと呂不韋の愛人だったため、始皇帝は呂不韋の子だったとの説もあります。荘襄王の擁立に成功し、権勢を極めた呂不韋が大勢の食客を集めて編纂した『侶氏春秋』には、次のような故事成語があります。「耳を掩(おお)いて鐘を盗む」(『侶氏春秋』『自知』)は、自らを欺いて悪事を働いても益がない、人には知られている、といったの譬えです。鐘を盗むと音がするので、自らの耳を塞いで実行した。そんな意味のない、愚かな行為に由来する言葉です。 友との死別を表す「池魚の殃(わざわい)」(『侶氏春秋』(必己))は、思いもよらぬ災難にあったり、巻き添えを喰ったりすることを言います。池に投げ込まれた宝珠を探すため、王の命令で池の水を抜いたところ、池の魚がすべて死んでしまった。そんな故事に由来します。「舟に刻みて剣を求む」(『侶氏春秋』「察今」)は、状況の変化に正確な対応ができない、見当違いな行動を表します。ある時、船から剣を落とした人が船べりに印をつけ、船が岸についた後で印の下を探した。そんな故事に由来します。「琴の緒絶ゆ」(『侶氏春秋』「本味覧」)は、親友との死別を表す言葉です。春秋時代のことの名人、伯牙は、自分の演奏を完璧に理解していた友人の鐘子期がなくなると琴の弦を切り、二度と弾かなかったといいます。そんな二人の美しい交友から生まれた言葉です。きわめて親密な友を表す「断琴の交わり」という言葉もあります。呂不韋は『侶氏春秋』の内容によほど自信を持っていたのか、書物が完成すると「一字でも添削できれば、千金を出す」と言いました。そのエピソードから、一字が千金に値するほど優れた文章や詩を「一字千金」(『史記』「呂不韋列伝」)と言うようになりました。 荀子に学んだ法家の韓非子始皇帝に影響を与え、秦の天下統一にも貢献した韓非子は、もともと戦国七雄で一番弱かった、韓の公子でした。性悪説を提唱する需家の荀子のもとで学び、始皇帝の宰相を務めた李斯と同窓だったと言われています。しかし韓非子は重度の吃音で講演が苦手だったため、著述に専念しました。韓非子の教えは、人間は本来、弱く愚かな生き物なので、法に基づいて為政者が適切に統治すべきという法家思想です。ちなみに「韓非子」とは本来、韓非が書いた書物と本人への敬称です。ただ唐代の詩人の韓愈を韓子と呼ぶことが多いことから、区別するために「韓非子」と呼ぶことが一般的になっています。まず「良賈は深く蔵して虚しきがごとし」(『史記』老子韓非列伝))とは、賢い商人良い品物を蔵の奥に仕舞いこみ、店頭に出さないということ。賢者は才能を誇示しない、ひけらかさないということの譬えです。「能ある鷹は爪隠す」と似た言葉です。「鶏をして夜を司らしめ、狸をして鼠を執らしむ」(『韓非子』「揚権」)は、才能に応じてそれぞれに任務を与えること。政治においては適材適所が大事だということです。ここでの「狸」は「猫」のこと。鶏には朝を告げさせ、猫には鼠取りの仕事をさせるのが相応しいということです。「南郭濫吹」(『韓非子』「内儲説上」)は、実力が無いのに能力以上の地位に居座っていることを言います。かつて南郭処士という人物が、笛を吹けないのに吹いている振りをして、楽隊の一員として俸給を得ていました。ところが一人一人演奏させられることになると、姿を消してしまいました。 時の重要性を説く「長袖(ちょうしょう)善く舞い、多銭良く賈(あきな)う」(『韓非子』「五翥(ごと)」)は、袖が長いと舞が上手く見え、銭が多いと商売も仕入れが自由にできるということ。資力が豊富で素質、条件、環境が調った者は、何事にも成功しやすいということの譬えです。「千鈞も船を得れば則ち浮かぶ」(『韓非子』「功名」)は、とんでもなく重いものも船があれば運べる。愚かなものでも勢力や地位があれば、大きな仕事や難しいことでも為せる。逆にいえば、どんな賢者も能力を発揮できる地位や環境がないと成功できない、といった意味です。「玉の杯(さかずき)底無きが如し」(『韓非子』「外儲説上」)とは、宝玉でできた杯も底が抜けていれば使えない。外見が美しく立派なものでも、肝心の部分が欠けていれば役に立たないということです。「余桃の罪」(『韓非子』「説難」)は、君主の寵愛は気紛れで当てにはならないとの譬えです。衛の国の霊公は、弥子瑕(びしか)という美少年をかわいがっていました。ある時、弥子瑕は自分が途中まで食べた桃を、美味だからと霊公に渡します。この時、霊公は喜んで食べました。ところがその後、霊公の弥子瑕の寵愛が薄れると、あの時の行為は無礼だったと処罰されてしまいました。「老いたる馬は路を忘れず」(『韓非子』「説林上」)は、道に迷ったとき、老馬を放って後についていったら、元の所へ戻れた。そのような故事から、経験を積んだ者、経験の重要性を説く言葉です。「飛竜、雲に乗る」(『韓非子』「難勢」)は、竜が雲に乗って空を自在に飛ぶごとく、英雄が才能を存分にふるまう時を得ることを言います。時節をうまくとらえれば、強いものがさらに強くなる、といった意味です。 小さな勇気を讃える「越王、怒蛙(どあ)に式(しょく)す」(『韓非子』「内儲説上」)は、小さな勇気でもほめたたえることで、士気を高めることができるという、指導者に向けた言葉です。ある時、越王が体を膨らませて怒る蛙を見て、敬礼しました。その理由を従者が聞くと、王は「あの蛙は勇気があるからだ」と答えました。すると勇気のある人間は王から尊敬されるとみなが思い、自分の首を王に献上したいと申し出る勇者が続出したと言います。「遠水近火」(『韓非子』「説林上」)は、火事が起きても、水が遠くにあれば消せない。遠くのものは緊急時に役に立たない。間に合わないことをやっても仕方がない。そのような意味です。「遠い親戚より近くの他人」という言葉に似ています。「逆鱗」(『韓非子』「説難」)は、今でも良き耳にする言葉です。逆鱗は竜の顎の下にある鱗のことで、触れると竜が怒ります。よってこの言葉は、天子や目上の人の激しい怒りを表します。日頃は感情を表に出さない人でも、そこに触れると激怒するデリケートな部分を指すときにも使われます。「毛を吹いて疵を求む」(『韓非子』「大体」)は、他人の小さな欠点を殊更見つけ出そうとすること。粗探しをすることです。そのことによって、かえって自らの欠点をさらす結果になると、諭すときにも使えます。「藪蛇」や「草を打って蛇絵驚かす」にも通じる言葉です。「山に躓かずして垤(てつ)に躓く」(『韓非子』「六反」)は、山のように大きなものにはだれもが注意して躓かないけれど、垤=蟻塚のような小さなものには躓きやすい。小さなことに油断してはいけないとの戒めです。「韋弦の佩」(『韓非子』「観行」)は、自分の欠点を意識し直そうと努力することです。韋とはなめし革、つまり柔らかなもののこと。「弦」は弓のつる、「佩」は身に帯びることです。魏の西門豹は気忙しい性格だったので、なめし革を身に付けて、おっとりとした性格になろうとしました。逆にのんびりした性格の蕫安于は、緊張感を持とうと弦を身に付けました。そんな故事に由来します。 誠意の大切さを説く「巧詐は拙誠に如かず」(『韓非子』「説林上」)は、巧みに詐りごまかすより、拙くとも正直な方が望ましいということ。不誠実な意図があると、それは必ず露見して軽蔑されてしまう。逆に何事も誠意をもって行えば、不器用でも必ず評価を受けるということです。私たち小説家は、人を上手に騙す虚構が仕事なので、この言葉をどうとらえるべきかは、ちょっと悩ましいところです。「水は方円の器に随う」(『韓非子』「外儲説左上」)とは、水は器次第でかたちが変わること。つまり、人は交友や環境しだいで善悪ずれにもなることの譬えです。「朱に交われば赤くなる」と同意です。リーダーの方針しだいで、社会はいかようにも変わるといった意味でも使われます。「櫝(とく)を買いて、珠を返す」(『韓非子』「外儲説左上」)は、外側の装飾にばかり目がいき、中身の重要さを見抜けないこと、見る目がないことです。「櫝」は「櫃」と同じく器、「珠」は宝石の意です。美しく飾り立てた箱の中に宝石を入れて売っていたら、鄭の人は箱だけを買い、宝石は売り手に返した。そんな故事に由来します。これまで紹介してきた韓非子の言葉は含蓄に富むものが多く、現在にも通用する教訓を含んでいます。秦王政(後の始皇帝)は韓非子の著書を読んで絶賛し、「この人物に会えたら死んでもいい」とまで言いました。そこで同窓だった李斯の紹介で、韓非子は始皇帝に仕えることになりますが、最終的に、韓非子に嫉妬した李斯の讒言により、処刑されてしまいました。しかし、その法家思想が始皇帝による天下統一に、大きな影響を与えたことは間違いありません。(つづく) May 2024 潮
April 6, 2025
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戦国武将と花押泰巖歴史美術館 中村 亮佑形で個性を表し本人を証明 群雄割拠の時代を生き抜いた戦国武将たち。彼らの出した手紙には花押と呼ばれるサインが記されている。そして、その花押の形は武将や時代によって様々で、それぞれの個性があふれていた。現在の私たちが自分自身を証明する際には印鑑を使用するが、平安時代中期から江戸時代までは花押が盛んに用いられた。花押は自著(自分自身が署名すること)の代わりに用いられる記号・符号である。その起源は自著の草書体(草名)にある。この筆順・形状が普通の文字とは異なる特殊性をおびたものが花押であり、自分と他者を区別して、本人であることを証明するために使われた。他人の模倣・偽作を防ぐため、その作成に様々な工夫を凝らしたり、頻繁に形を変えることも行われた。今ではその地位を印鑑に取って代わられてしまったが、内閣における閣議書には現在でも閣僚が花押をもう室で書くことが、明治以来の慣習となっている。花押の作り方は、趣向や時代の流行によって様々な作り方があった。江戸時代成立の『押字考』によれば、実名(本名)の草書体から成る「草名体」、虹を組み合わせた「二合体」、実名の一字からなる「一字体」、動物・天象などを図案化した「別用体」、天地(上下)に日本の横線を引いて間に図案を入れた「明朝体」の五種類が挙げられている。 権威ある人物の形状の模倣も しかし、花押の類型は以上の五種類に限るわけではなく、それぞれの複合型や文字を倒置したり、裏返した、名字・実名・通商などを組み合わせた新様式も登場した[①鳥のセキレイを模した伊達政宗の花押]。戦国時代には、室町幕府将軍足利氏の花押を模倣することが流行した。また、父祖の手陣など本人にとって権威となる人物の花押を模倣する風潮も、武家社会で広く見られた。この戦国時代の流行は、織田信長に限っても例外ではない。信長は花押を頻繁に変えたことで知られているが、初期の花押は足利将軍に倣ったもので、父・信秀と似通ったものであった。その後「信長」の草書体を裏返して組み合わせたとされる花押や、点を主体とした花押を使用した[②永禄二年の織田信長の花押]。そして、永禄八年(一五六五)から有名な麒麟の「麟」の字を象ったとされる花押が登場する。麒麟は中国神話に現れる伝説上の動物で、泰平の世に姿を見せるといわれている。この花押を使い始めた頃、将軍足利義輝が殺害されるという事件が起こり、将軍の不在と度重なる構想のため、中央情勢は不安定な状況に陥っていた。また、同年には念願の終わり平定を成し遂げており、領国の平和と中央情勢の安定を願って、「麟」の字を象った花押を使用し始めたとされる[③天正三年ごろの織田信長の花押]。戦国時代から江戸時代には、さまざまな武将たちによる個性的で魅力的な花押が次々と作られていた。花押には、武将たちの思いが込められているのである。(なかむら・りょうすけ) 【文化】公明新聞2024.4.19
April 5, 2025
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第一節 釈尊の滅後に始まった権威主義化初期の仏教教団を取り囲む社会は、相変わらずヒンドゥー的(バラモン教的)社会であった。釈尊が、「ダルマ(法)に基づいて男女の平等を説いたといっても、それが実現されていったのは、厳密には教団内に限ってのことであったのではないか。教団の外では、すでに前章で述べたようなヒンドゥー的女性観が根強く横行していたのである。また、教団内の男性出家者を見ても、釈尊が生存していて当時のある時期には、約千二百五十人の男性出家者たちがいたとされているが、その構成はバラモン出身者が五〇%以上を占めていた(岩本裕著「仏教と女性」六頁)。こうした傾向は、その後もそれほど変わることはなかったであろう。岩本裕博士は、このように男性出家者の教団内でバラモン出身者が高い占有率を占めていたということから、「仏教における女性間の根底に、あるいはその背後に、バラモン教やヒンドゥー教における『生』の問題のあることを見逃すことはできない」(同)と述べている。そうしたヒンドゥー社会の女性観が、次第に仏教教団にも影響を及ぼすことは自然な成り行きであろう。それは、釈尊の滅後、とくに部派仏教、あるいは小乗仏教と呼ばれる時代に顕著になってくる。そのプロセスについては、本章でのちに述べることとする。釈尊の滅後、仏教の教団には徐々にとはいえ、変化の兆しが現れた。その一つが、在家に対する出家の優位の強調であった。セイロン上座部が伝えた「スッタニパータ」は最古の経典と言われ、詩の部分はアショーカ(阿育)が王に即位した紀元前二六八年以前、すなわち部派分裂以前にまとめられたものである(中村元著『原始仏教の社会思想』六七二頁)。そこにすでに在家を低く見る出家優位の考えの萌芽が見られる。『スッタニパータ」におけるその変化のあらましをたどってみると、詩の中でも古いものには、 目覚めた人(ブッダ)を誇り、あるいはその〔ブッダの〕遍歴行者や在家仏弟子を誇る人、その人を賤しい人であるかと知りなさい。(第一三四偈) といった釈尊の言葉が見られる。出家者を意味する言葉としてparibaja(略歴行者)が用いられているということは、この詩がきわめて古いものであることを意味する。bhikhu(食べ物を乞う人、比丘)が用いられるようになるのは、後のことである。ここでは、略歴修行者という言葉で示された出家者と、在家者(gaharttha)が、ともに等しく「〔ブッダの〕教え(声)を聞く人」(savaka)、すなわち仏弟子と見なされていることが注目される。savakaは、「聞く」という意味の動詞(√su)に行為者名詞を作る接尾辞akaを付けたもので、「声を聞く人」を意味する。すなわち、「仏の教えを聞く人」のことで、「声聞」と漢訳された。それは、「仏弟子」というほどの意味で用いられていた、当初は在家と出家を共に含んでいたのである。ところが、部派仏教の時代になると、出家者たちはsavakaから在家者を排除してしまう。大乗仏教徒が「小乗」と呼んだのは、まさにそのような出家者たちのことであった。gahattha(在家者)という語は、第九〇偈にも見られる。その直前の第八九偈において、釈尊はまず、ずうずうしくて、傲慢で、しかも偽りをたくらみ、自制心がなく、お喋りでありながら、いかにも誓戒を守っているかのごとく、真面目そうに振る舞う出家修行者のことを「道を汚す者」と述べた上で、次のように論じている。 智慧を備えた聖なる仏弟子である在家者(gahattho... ariyasavako sapanno)は、彼ら(道を汚す〔出家〕者たち)のことを洞察していて、「彼らは、すべてそのようなものだ」と知っているので、以上のように見ても、その人の信仰が亡くなることはないのだ。(第九〇偈) ここにおいても、釈尊は在家者をしめすのにgahatthaという語を用いている。しかも、「道を汚す」出家者の言動を見ても少しも紛動されることなく、信仰を見失うこともない在家者のことを、「智慧を具えた聖なる仏弟子」と言っている。この表現に在家者を軽んずる姿勢は全く感じられない。『スッタニパータ』では、このほか第四八七偈にも在家者を指すのみgahatthaが用いられている。これは、「家」を意味するgahaと、「居る」「在る」を意味する形容詞thaとの複合語で、文字通りに「家に居る人」を意味している。ところが『スッタニパータ』の他の偈で、出家者を指すのにbhikkhu(食べ物を乞う人」という語がしばしば用いられている。それに対して、在家者を指すのに「そばに仕える人」を意味するupasaka(優婆塞の音写)という語の使用は、『スッタニパータ」では「グンミカ経」の第三七六偈と、第三八四偈の二カ所に限られている。その第三七六偈は、次のようになっている。 教えを聞く人は、家から出ない状態になる人であれ、在家の優婆塞(upasaka)であれ、どのように行うのが良いでしょうか? ここでは、仏弟子を意味する「教えを聞く人」(savaka)という語が、在家を排除して出家のみに限定されるまでには至っていないが、在家のことを「優婆塞」という語で示すにいたっている。また第三八四偈は、次のように表現されている。 これらのすべての比丘たちや、優婆塞たちは、まさにこのように〔ブッダ〕の教えを聞くために共々に坐っている。ここでは、出家者を指す。言葉として「遍歴行者」(psribbaja)ではなく「比丘」(bhikkhu)が用いられ、さらには在家者を指す言葉が「家にいる人」(gahattha)から「優婆塞」(upasaka)に取って代わられている。ここに在家者との関係の若干の変化が見られえる。ただし、この二つの偈は、釈尊によって語られたものではなく、在家の男性信者であるダンミカが諳んじたものであるということを考慮しなければならないであろう。以上のように見てくると、最も古く編纂されたといわれる『スッパニパータ』において、在家者と出家者を表現するのに、何段階かの変化を経ていることに気づく。もっとも古い表現は、出家者を「遍歴行者」や「仙人」、在家者を「家に居る人」と呼んでいた。ところが、出家者についての表現が先に変化し、「食べ物を乞う人」(dhikkhu)が用いられるようになった。ところが、在家者についての表現は、『スッタニパータ」に限ってみれば、「家に居る人」が用いられていて、釈尊が「そばに仕える人」(upasaka)を使った形跡はまったく見られない。それが用いられているのは、ダンミカという在家が自分たちのことを指して用いた二カ所だけである。ということは、「スッパニパータ」成立の段階では、まだ出家者の側で「優婆塞」(upasuka)という語が用いられていなかった可能性が高い。ただ、在家の信者が仏教以外、すなわちバラモン教における伝統的な呼び方にならって用いたということは確実である。「スッタニパータ」も含めて経典を編纂したのは出家者であるから、在家者にそれを言わせる形をとった、あるいは言わせることを容認したとも考えられる。比丘は、bhikkuhuを音写した者であり、「食べモノを乞う人」を意味する。優婆塞は、「そばに坐る」という意味の動詞ウパ・アース(upa√as)に行為者名刺を作る接尾語akaを付けたupasukaの音写語で、「そばに仕える人」を意味する。だれに仕えるとかといえば、比丘に対してである。後世には、男性出家者を「食べ物を乞う男」(bhikkhu、比丘)、男性在家者を「食べ物を乞う女」(bhikkhuni、比丘尼)、「そばに仕える女」(upasika、優婆夷)を加えて、「四衆」と言い、それが仏教徒の総称とされるにいたるのである。当初は、男女の別なく出家も、在家もともに「仏の教えを聞く人」という関係であったけれども、次第に「食べ物を乞う人」「そばに仕える人」という意味が加味され始める。この『スッタニパータ』のの「ダンミカ経」の段階では、そこまでは至っていないが、すでに僧俗の分裂と、優劣を規定する前兆がここにうかがわれる。『アングラッタ・ニカーヤ』には、第二章第十節でも論じたように多数の仏弟子の中から代表的な人物を四衆ごとに列挙した箇所があった。そこでは、 わが男性の仏弟子(savakanm)にして比丘なるものたちわが女性の仏弟子(savukanam)にして比丘になるものわが男性の仏弟子(savakanam)にして優婆塞なるものわが女性に仏弟子(savikanam)にして優婆夷なるもの と前置きして、それぞれの勝れた点と人命が列挙されていた。出家者と在家者を示す言葉が、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、すなわち「食べ物を乞う男/女」「そば近く仕える男/女」という言い方に変わっているものの、いずれの場合にも、『仏弟子』を意味するsavaka‘、あるいはその女性型のsavikaという語が四衆のそれぞれの後の前に付されている。ここには『テーラ・ガータ』『テーリー・ガーター』にみられない女性修行者の名前が挙げられていることから、この良書よりも知胡氏時代を経てまとめられたと考えられるが、在家も出家も、男性も女性も差別なく仏弟子と見なされている点は、まだ変わっていない。こうした在家と出家の関係の変化は、釈尊滅後、漸次に進行したと思われる。それは、紀元前三世紀末の部派分裂を経て顕著になった。原始仏教において「仏弟子」を意味していたsavakaとsavikaという語が、男性のみに限られ、その上、在家を排除して出家にのみ限定されてしまうのである。その代表が西北インドで最も有力であった説一切有部(略して有部)であった。彼らは、他に先駆けてサンスクリット語を用いたが、パーリ語のsavakaに対応するサンスリット語のsravakaという語を用いるのみで、その女性形savakaに対応するサンスクリット語を用いた形跡は見られない。サンスクリット文法の造語法では、sravakaの女性形はsravakaという語に相当するが、「女性の仏弟子」を意味するこの後は辞典にも仏典にも見当たらない。すなわち、小乗仏教において「仏弟子」は、[表2]のように男性出家者に限られてしまったのである。こうした事情によって、大乗仏典において批判の対象とされたsravaka(声聞)も、当然のように小乗仏教の男性出家者を意味している。 |男 性 女 性|出家 在家 出家 在家 原始仏教(パーリ語) |savaka savaka savika savika 小乗仏教(サンスクリット語) |sravaka ——— ——— ———表2 部派分裂が起こったのは、釈尊の入滅から百年余りを経過したころのことだと言われている。ヴァイシャリーにおける会議(結集)において、形式的な保守派に対して、現実的な核心は画、時代や地方によって異なる風俗・習慣・気候・風土に応じて十項目の戒律(十事)を緩和するように要求した。この問題を巡って保守派と革新派との間に激しい論争がおこり、ついには教団は上座部と大衆部に分裂する(根本分裂)。その時期を仏滅五百四年とすることは、セイロン上座部(分別説部)の『島史』(Dipauamsa)と『大史』(Mahauamsa)、それに説一切有部によっているので、その確実性は高いと言えよう。釈尊の生存時代については、中村元博士の綿密な生産の結果、紀元前四六三~同三八三年と推定されている(『インド史Ⅱ』五八一~六一九頁)。それによると釈尊滅五百四年というのは、紀元前三世紀ということになる。それ以後も、さらに部派分裂は繰り返され、約百年の間(紀元前三~同二世紀)に大衆部系統が細かく分裂し、次の約百年の間(紀元前二~同一世紀)に上座部系統が細かく分裂した。最終的に紀元前一世紀ごろまでに約二十の部派に分裂していった(枝末分裂)。これらは、紀元前後に起こる大乗仏教運動の担い手たちから、「小乗二十部」と呼ばれ、「小乗仏教」という言い方で貶称された。上座部系はインドの西方と北方に、大衆部慶は中インドから南方に主に発展したようである。 [『異部宗輪論』による部派分裂の形態] 大衆部——本末九部(詳細は略) |本上座部(雪山部) | |—法上部上座部— |買子部 |—賢冑部 |—正量部 |—密林山住部説一切有部——|化地部——法蔵部 |飲光部 |経量部 これらの諸部派は、分裂・独立して後、自派の教説の正当性を権威付けるために聖典を集大成し直すこととなる。それには、自説に都合の悪い箇所を削除し、都合のよいユリな言葉を付加増広するということも行われたようだ。(中村元著『原始仏教から大乗仏教へ』八五頁)。ブッダの教法と戒律を集大成したものをそれぞれ経蔵、律蔵といい、その教法について弟子たちが研究・解説した著作などを論蔵といった。各部派は、それぞれ経・律・論からなる三蔵を所有していたようだが、たいていは散失してしまっていて、現存するのは、主にセイロン上座部のパーリ三蔵と、西北インドを中心として有力であった上座部系の説一切有部の論蔵である。説一切有部は、西北インドのカシュミールやガンダーラを中心に繫栄した。物質豊かなカシュミールに拠点を置いていたことが、法(ダルマ)の研究であるアビダルマ教学の精緻な体系を確立することを可能にしたと言えよう。諸部派の中でも、説一切有部に対立した学派として有名な経量部のように、名前は知られているがその論書がほとんど伝えられておらず、教義の内容の詳細はよくわからない部派が多い。大衆部系は、上座部に比べて勢力はそれほど大きくなかったようで、大衆部以外の名前の知られた部派は少ない。マウリヤ王朝(紀元前三一七~同一八〇年ごろ)以降には、西北インドを支配したインド・ギリシア王朝、サカ王朝、クシャーナ王朝(特にカニシカ王)による仏教保護によって、ガンダーラからカシュミール、マトゥラーにわたって説一切有部、正量部、飲光部、法蔵部、化地部、大衆部などの部派が栄え、あとには大乗仏教も興起することになる。上座部系統の各部派は、教理の面においても実践の面においても保守的であり、伝統的であった。それを支持していたのは、インドの上層部であった。それに比べて、大衆部系統の部派は、広く一般大衆に支持されていて、現実社会と密接な接触を保っていて、時代の趨勢に分間で進歩的で改革的態度を持っていた。そうした傾向が、時代の変遷とともに大乗仏教を成立させる温床ともなったと言える(同、八三頁)。部派分裂を経て、とくに上座部系は権威主義的傾向を強めていったようだ。それは、出家中心主義、隠遁的な僧院仏教という特徴として表面化してくる。出家して比丘となり、戒律を守り、厳しい修行をする。在家と出家の違いを厳しくして、出家を前提とした教理体系や修行形態を築き上げ、僧院の奥深くにこもって、禁欲生活に専念し、煩瑣な郷里の研究と、修行に明け暮れた。その修行も、他人の九歳(parartha、利他)よりも自己の修業の完成(savartha、自利)を目指したものであった。それは、ややもすると利己的・独善的な態度に陥る傾向があった。こうした傾向を助長する要因の一つとして、教団自体の富裕化が挙げられよう。教団は、王侯たちから広大な土地を寄進された。それは寺院の荘園となり、王の官吏たちも立ち入ることができなかった。また、莫大な金銭の寄進を受け、教団はそれを商人の組合に貸し付けて利子を取った。こうして西暦紀元前後には、教団自体が大地主・大資本家と化していた(中村元著『インド史Ⅲ』一八九~一九〇頁)。出家者たちが大寺院の中に住んで瞑想に明け暮れ、煩瑣な教理の研究に没頭して、悩める民主のことを考えられなくなってしまった背景にはこうした事情もあったのである。紀元前後に登場する大乗仏教から、「小乗」と呼ばれるにいたる理由はこうした点にあった。小乗は、サンスクリット語の「ヒーナヤーナ」(hinayana)を訳したものだが、これは「劣った乗り物」「粗末な乗り物」「打ち捨てられた乗り物」という意味である。「小乗」と呼ばれた人たちが、自分たちのことをこのような言い方で呼ぶはずはなく、ん「マハーヤーナ」(mahayana、偉大な乗り物)と自分たちのことを呼んだ大乗仏教の徒によってつけられた貶称であった。生々と大乗の大きな違いは、前者の自利のみを探求するのに対して、後者が利他業に徹し、「他者の救済が自己の救済に通じ、自己の完成が他者の救済の言動力炉なる」という自利利他円満を指す——という点にある。大乗仏教によって「小乗」と呼ばれたのは、部派仏教全体なのかどうかは明らかではない。『大品般若経』の注釈書で、ナーガルジュナ(龍樹)の著だとされる『大智度論』によれば、そこで批判されているのは「毘婆沙師」、すなわち『大毘婆沙論』を信奉する説一切有部であったようだ。有部は、その論究方法の精微さにおいて群を抜いており、理論仏教として勢力をふるい、他の部派(後には大乗仏教)にも理論的に大きな影響を与えた。そのため、有部は上座部系の有力なる代表者と見られていた(平川彰『インド仏教史』上巻、二二六頁。木村泰賢著『大乗仏教思想論』五三頁)。スリランカや、東南アジアの仏教の場合、小乗仏教と呼ぶのは適当ではなく、上座部仏教(thera-vada)、あるいは、長老仏教と呼ばれている。 【差別の超克「原始仏教と法華経の人間観」】植木雅俊著/講談社学術文庫
April 5, 2025
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「複眼」とは東京大学教授 安藤 宏私が元寇の執筆を手書きからワープロに切り替えたのは一九九〇年代の後半(三十代半ば)になってからだった。周囲に比べて、とても遅かったように思う。理由は二つあって、一つには、今から考えると笑えるような話だが、推敲だらけでわけのわからなくなった原稿を書き直す際、ハサミと糊を巧みに使って素早く仕立て直す、特殊な技能(?)を身につけていたこと。もう一つは、一度不採用にした表現をのちほどまた参考にしたいという思いがあって、完全に〝消去〟してしまうことへの躊躇が働いたように思う。その意味でも書き直したあと、もとの表現をあえて〝見せ消ち〟にしておける原稿用紙は、とても便利なツールだったのである。「複眼」という言葉がある。私はこの語を、自分の文章を一度他者の視点に立って批判的に読んでみたり、違う発想で捉え直してみるまなざし、という意味で使っている。実は「複眼」によって吟味すればするほど、文章の言いよどみも増えていき、ともすれば悪文になりがちである。しかしそこはやはり割り切りが大切なわけで、そのギリギリの葛藤が、複数案を〝見せ消ち〟にして書き並べておく、という行為につながっていたように思うのである。たとえ最終案は一つでも、その背後に複数の構想があったうえでの決断であったかどうかの違いはやはり大きい。そんな私もいつの頃から完全にワープロ原稿になり、今ではそれに何の抵抗もない。むしろ思考のプロセスも明快になったような気がするのだが、時々、もしかしたらそのために何か大切なものが失われてしまったのではないか、という思いに囚われることもある。時代により、「書く」形態がどのように変わろうとも、やはり「複眼」的な発想を自分の中に確保しておくことは大切なのではないかと思う。 【言葉の遠近法】公明新聞2024.4.17
April 4, 2025
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めぐりと恵み〝海と生きるということ〟川島 秀一漁師と共に暮らしながら季節がめぐり来るように、海の中にもめぐるものがある。まず海の潮は、日ごと、月ごと、年ごとに、少しずつたがえて繰り返される。二〇一八年から福島県の浜通りの北端、新地町に住み始め、漁師と共に暮らしながら、その言葉一つ一つに考えさせられることが多かった。新地町の漁師、小野春雄さんは、家で食べた後の魚の骨や貝殻をわざわざ海のそばまで行って投げ入れてくる。このことを「海に投げる」とは言わずに、「海に戻す」と言っている。刺し網漁で、市場に出さない生物や傷んだ魚を海に投じることも「戻す」と呼んでいる。春雄さんは、それが魚の餌になるからだと語っているが、いずれにせよ、海からいただいたものは人間が授かったものの残りであろうと、海に返すという考え方である。ここには、海とオカ(陸)との、めぐり回る関係が生きている。食べ残しものを「海に戻す」という言葉にも、それはオカの人間がいれないものとして称する「生ゴミ」とは、まったく意味するものが違うのである。そこにあるのは、海を介した「循環」の思想である。これに対し、昨年から実施されている、福島第一原発の事故処理水の海洋放出(「投棄」が正しい)は、オカに居る人間が不必要なものを一方的に流すだけで、漁師が海との生活から学んでいる循環の思想とは全く異なるものだろう。 授かり戻す「循環」の思想自らを支える存在と尊厳を守る 寄り来るものを命につなぐ春雄さんによると、刺し網漁に思わぬ珍しい魚がかかった場合、それを「回りもの」と呼んでいる。沿岸で常時、かかるものではなく、個数が少ないために高価なホシガレイや、値が上がる冬季のアンコウやトラフグのことを指すことが多い。この言葉には漁運を授かったという意味が込められている。大漁に近い漁が続くことも「回りが良い」と語り、不漁のときに酒宴を開くことを「マワリオシ」や「マンナオシ」と言うことも全国的に伝えられている。そのマワリを左右するのも海という自然である。たとえば、昨年に漁があった魚が今年は少ないことが多々あるが、それを補うように他の魚種が大漁することがあり、結局は同じ程度の漁獲高になることがある。海のこの采配力に対して、春雄さんは「海は、だから素晴らしい」と語っている。また、新地では、雪解け時分の二月ごろにホッキ貝(ウバガイ)が真水と混じった海の表層で産卵するため、風波の強いときには、浜辺にころころところがって寄り上がるときある。これは「寄りボッキ」と呼ばれ、共同漁業権のある者は、いくらでも拾ってよいことになっている。この「寄りもの」に対する平等性も全国に伝えられている。海から寄り来るものを無駄にせず、それを人間の命につなげうることが漁師の使命であり、漁師としてのプライドの源泉のように思う。福島に限らず、全国の漁師は、人の口に入る魚をとることを生きがいとしている。今回の事故原発処理水の海洋投棄では、風評被害があった場合、売れなくなった魚を買い上げて冷凍保存しておくことを政府の補償方法の一つとして決めたが、魚を食べもせず、冷凍保存することは、海からいただいたものに対する尊敬の念がない仕業であり、それは漁師のプライドを傷つけることにならないだろうか。魚は金に換算できる「水産資源」としてあるだけではない。どの漁師も、利用せずに冷凍保存するために魚を捕っているわけではないからだ。 科学では解決しない問題も 〝水に流す〟という甘え海洋投棄される事故原発処理水は人間にとって科学的に安全な「廃棄物」であると、流す側は主張するが、今回の問題は「科学的に安全」という言葉のみで論じられる表面的な問題ではない。また、介在的な問題でもなく、法律的な問題でもない。科学的な、あるいは論理的な言葉に贅を尽くしても、それは所詮、海に囲まれた日本人の、地上の問題を「水に流す」ということで収める原初的な思考や感情に基づいた「海」への甘えである。福島の漁師にとっては、それは精神生活や生活感情に関わるものだった。つまり、海を自分たちの存在自体を支えるもの、すべての「良きもの」と源泉と見なしている。それゆえ、漁労生活を維持するためだけでなく、自分たちの尊厳を守るために、投棄に反対する必要があったのである。「漁師は感情的だから」と排除してしまっては、その背景にある、人間が海に対して長い間にわたって培ってきた価値を見失うことになるだろう。海は魚たちも含めた一つの大きな生き物である。それは大きく息を吸うように潮の上げ下げを繰り返している。ときに寝返りを打つように、海の傍らに住む人間に災いを与えることもある。海と共に生きることは、それほど矛盾に満ち、簡単ではないが、今、実施されている事故原発処理水の海洋投棄という問題に対し、科学信仰や経済信仰、法律信仰だけでは、解決の糸口は、永遠に見つけられないだろう。「投棄」ではなく、漁師が海から学んでいる「循環」の論理を今一度、原点から考え直してみる必要があるのではないだろうか。「めぐり」とは「恵み」にも通じる言葉であるのだから。(民俗学者) かわしま・しゅういち 一九五二年、宮城県気仙沼市生まれ。リアス・アーク美術館副館長を務めていた2011年、東日本大震災に。その後、神奈川大学特任教授、東北大学災害科学国際研究所教授を歴任し、18年から福島・新地町で漁師と共に暮らす。日本民俗学会前会長。著書に『漁撈伝承』『津波のまちに生きて』『春を待つ海』『いのちの海と暮らす』などがある。 【社会・文化】聖教新聞2024.4.16
April 4, 2025
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