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灘区に水道筋という有名な商店街がある。あの震災以前には元気な商店街が結構あったが大きな被害を受けて、元気が無くなってしまった商店街や、ほとんどシャッター街になってしまった所もある。たとえば六甲道駅周辺なら「宮前商店街」。平清盛が京都の岩清水八幡宮を勧請した『六甲八幡宮』の宮前で、八幡宮の歴史は約1000年におよぶと言われている。震災前は南北に宮前商店街と六甲商店街の2本のアーケードを公設の宮前市場が東西につないでいた。いつの頃かこの商店街と市場は灘区内で人気があって、北に山手幹線と南に国体道路につながる主要道路は路上駐車が絶えず、一時は時間制のコインパーキングになっていた。神戸市灘区の北に広がる住宅街は、結構なお屋敷や洋館もあったりして、東灘区の御影ほどではないにしろお屋敷が建ち並ぶ。あの震災の直前に、そのコインパーキングにはロールスロイスやジャガーなどで買い物にくる「ええ氏」の奥様達が目についた。それが一瞬にして消えてしまった。今、灘区内で元気のある商店街というの上記の水道筋商店街だけかも知れない。水道筋商店街は周辺の市場を含めると500店舗に及ぶ規模で、神戸市東部最大の商店街。見るだけでも楽しいから是非足を運んでみては。
2010.08.31
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パリのパン屋さん。スーパーで売っているパンは、日本のスーパマーケットとよく似ているが日本のような菓子パンはない。日本でもケーキ屋さんと呼ばれるお店とパン屋さんと呼ばれるお店のすみ分けは確定してきたが、昔はパン屋さんでもケーキらしい物が売っていた。サンドイッチもあったりしたが、そんなお店はパリにはなかった。だから、スーパーマーケットでパンを買っていた。私にとってはそんな基準でよかった。なぜなら私はパンが嫌いだったから。菓子パンは食べたがいわゆるパン類は食べなかった。だから、フランスパンがどこで売っているか何てのは、どーでもよかった。 そんな私がパン(フランスパン類)をひょんな事(貧困旅行者が為)で食べるようになってからは、スーパーのパンは買えなくなった。それはあまりにも不味いから。 街中にパン屋はたくさんあった。そんなパン屋を廻って朝と昼前に行列の出来る店を見つけておいて、フランスパン(バゲットやバタール。そしてクロワッサン)を買いに走った。バゲットは半分に切って売ってくれる。それは当たり前のことらしく、私も「ドゥミ シル・ヴ・プレ」なんていって買っていた。これがすこぶる旨い。神戸には有名なフランスパンのお店がたくさんあるけど、根本的に何かが違う。その内容はまたいつか書かしてもらうとして、そんなフランスパンが食べられなかった私は不幸だったと思う。味を知らなければどって事ないけど、味を知ってしまった今は、今、そんなフランスパンが食べられないってことが、最高の不幸だと骨身に染みている。 本当に旨いんだから!。
2010.08.30
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パリにいた頃。夏になると北に向かった。初めての年は、6月19日の夏至を目指して旅に出た。まずはポルトガルのロカ岬。ヨーロッパ大陸の最西端からリスボンヘ。リスボンからスペインはマドリードのアトーチャ駅まではスペイン高速鉄道で。マドリードからパリまでは「プエルタ・デル・ソル」。パリからオランダへ入り、オランダからデンマークのコペンハーゲン。コペンハーゲンからスウェーデンのストックホルム。ストックホルムからラップランドを通ってスウェーデン国鉄最北端の駅トルムソへ。そこから陸路と舟でノルドキャップ(ノースケープ)へ。到着日を夏至に合わせてミッドナイト・サンを見に出掛ける。沈まない太陽を真夜中に見る。水平線を転げるように横に移動する太陽は確かに珍しいが、ずっと見てるわけにもいかず、熱も、眩しさも失せた冷たい太陽を眺めた。 翌年からは、6月中旬からアイルランドを目指す。ダブリンで50kmを歩き、6月の下旬には西部の街キャッスル・バーにツーディズ・ウォーク(32×2days)を楽しむ。その後はゴールウエイから舟に乗ってアラン諸島に渡り、一週間、頭の中を羊毛に埋め尽くされるまで、風と羊と戯れ、覚醒したら、オランダのナイメーゲンにスリーデイズ・マーチを楽しみに出掛けた。 それがヨーロッパにいたときの夏の楽しみ方。贅沢に聞こえるけど、パリ・ロンドン間はフリーのチケット。ロンドン・ユーストン駅からアイルランド・ダブリン間のアイリッシュ・メール号の片道料金はいるけど、あとはユーレイルで賄えた。泊まりは夜行列車かB&Bが殆どで、かなり楽しく辛く、風まかせの旅に近かった。でも、どの国もみんなやさしく「都会は嫌いだ!!」が口癖になってしまいそうな旅だったけど。
2010.08.29
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ここ二・三日、日が沈むと少しだけ涼しい風が吹いてきて、ホッとしている。それに比べて日中の暑さはどうだろう。暑さには強いと自分なりに自信があったが、そんな自信など昨年辺りからの夏の暑さを経験していなかったから持てたもので、バンコックでも、あのベトベトのマニラの夏でさえ、また、お湯の中にいるような体中にまとわりつくしつこい湿気を連れて歩いているようなデリーの夏でさえ、最近の日本の夏よりはマシだったと思える。 こんな暑い日は、しっかり冷えたスイカでも囓りながら…なんて思いは、遠い昔の夏の話し。クーラーの効いた部屋で食べるスイカは、風呂上がりに庭の床机で、浴衣姿で食べたスイカとは確実に違う。と言っても、あの頃の夏はこんなにでたらめに暑くはなかったから。 バンコックの夏は好きだった。確かに暑いが、雨期以外のバンコックはギンギン・ギンギンと暑さの音が聞こえそうな、そんなバンコックの夏を歩くのが好きだった。もう行くことはないかも知れないが、もし行くことがあったら、チャオプラヤー川沿いのマーケットで、遠慮なくドリアンにシャブリついてやろうと思う。 日本の夏は、どうなってしまうのだろうか。
2010.08.28
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今日、ハンズメッセに行った帰りに『順徳』でお昼を食べた。広東麺の滑らかな食感と、薄口ながらコクのあるスープが実に旨い。最近は仕事で三ノ宮や元町に出てくることも少なくなり、お昼に鯉川筋近くにいることも珍しい。 1時40分だったのでお昼のセットが頼めた。そんな値段では申し訳ないような炒飯とのセットは昼食時にサラリーマンの行列が出来るほど、相席も当たり前で、みんな黙々と食べて、黙々と入れ替わっていく。それでも順徳の料理がお昼に700円で食べられるのは幸せだと言える。 冷麺とのセットを見つけた。次はこれを食べよう。
2010.08.27
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ジャム用のガラス瓶にいちじくを分けて入れる。全部で5瓶あった。結構大きな瓶だけど、一瓶にいちじくが4個入った。結構食べ応えがありそうだ。で、姉、妹、義妹、私、M氏にそれぞれ一瓶となった。まずは味見にコンポートとマスカルポーネチーズを。いいですね。また太りそう
2010.08.26
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ただいま制作中。もうすぐ出来上がる。コンポートを作るのは久し振りだ。特にいちじくのコンポートは。前回、カメラマン仲間のM氏にいちじくを大量に、しかも完熟状態でいただいたものだから、いちじくが傷んではいけないと大慌てでコンポートを作った。2年ぶりかな?。とにかく立派ないちじくで、今回も前回に負けず劣らず見事なサイズ。大振りのレモンよりひと回りは大きく、20個あったので凄い量になってしまった。でも有り難い。M氏にも是非食べていただきたいと思う。あとは冷えるのを待って瓶詰めにするだけなので、明日の朝にしたい。
2010.08.25
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ただいま制作中です。もうすぐ出来上がります。出来上がり次第、続きを書きに参りますので、少々おまち!!。では、後ほど。
2010.08.25
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かなり大きないちじくをいただいた。数年前にもいただいたことがあって、とても大きく、店頭で売られているいちじくの倍ほど、女性の握り拳程度の大きさがある。それを20個。以前いただいたときも、そのまま幾つかいただいて残りはコンポートにしたので今回も赤ワインを使っていちじくのコンポートを作ろうと思う。 出来ればそのまま食べるのが、私としては好みだけど、いっぺんにたくさんは食べられないし、うまいコンポートを作って瓶詰めにしておこうと思う。久し振りに本気で作ってやろうと思う。 いちじくを届けてくれたのは写真家仲間のM氏。M氏にもコンポートを届けたいと思っている。
2010.08.24
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パリの五区にいた頃。ホテルは二ツ星のNN、「ホテル・スエーデ」にいた。住んでいると言うにはおこがましくて、屋根裏に巣くっていたって感じ。そのホテルの裏側(南側になる)にユシュット通りがあって、その通りの更に南側にサン・セブラン教会があった。 あまり有名な教会でもなくいわゆる普通の教会だけど、11世紀頃は左岸がパリの中心でこのサン・セブラン教会はその中心にあったようだ。私はこの教会のガーゴイルが好きで、よく写真を撮りに出掛けたが、実はこの教会ステンドグラスが非常に見事。大きくて、観光ガイドに載っている教会のステンドグラスも確かにいいが、観光客なんてほとんど入らないけれど、この教会のステンドグラスは素晴らしい。 今日、ガーゴイルの写真を整理していてふと思い出した。昔話。
2010.08.23
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現在明け方4時25分。うちの男猫君のミスティーが玄関を開けてとせがむから、ミスティーを連れて朝の散歩をしてきた。と言っても、遠くまで行くわけでなく、玄関の周辺をウロウロ、ウロウロ。最近よく外に出たがる。でも、ミスティーは外の世界を知らずに育ってきたから家を離れて遠くに行くことはない。と言ってもそう考えているのは私だけで、ミスティーが何を考えているのか分かるわけもなく、それでもミスティーが外に出たいと言うのなら出してあげようと思う。ただし、リードは欠かせない。猫だって自由に生きたいと思っているだろうし、野良にはなれないなんて夢にも思っていないだろう。 まぁ、それはそれとして、明け方の夜気が心地よくなってきた。もう少し冷えたら、10分や20分、外で佇んでいたい気がする。 もうすぐ秋。だね
2010.08.22
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日本にはサマータイムがない。パリには1時間あった。慣れてない物でその時期には何度もポカがあった。とは言っても、毎日朝早くから通勤するわけでもなかったから、レストランの開店時間を間違う程度。気楽なものだったが、妙に楽しい思い出になった。 日本では味わえないから。
2010.08.21
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76年4月から80年の年末までの間に、日本・パリ間を9往復したことになる。短い年は4ヶ月間。パリ祭後の年となった1980年は9ヶ月パリにいた。でも、その約5年間に夏を過ごしたのは二度。クリスマスを過ごしたのは二度。正月を迎えたことは一度もなく、期せずして81年の年明けをバンコックで迎えることとなった。 パリの夏は、寒い夏が一度。涼しくていいなって思った夏が一度。パリの個人宅にクーラーがないことに納得したものだ。 バンコックはいつ行っても暑かった。81年の新年も暑かった。7月のバンコックはホッテストのシーズンで、毎日、少しホテルから外出するだけで着替えが必要だった。たまたま涼しいヨーロッパから来たから暑いのかとも思ったが、一週間ほど過ごしたのちも同じ。冬の衣料しか持っていない私は、日本なら決して買わないなぁと思える胸にバンコックなんて書いてあるTシャツや、何が書いてあるのか皆目見当がつかないタイ語が書かれたTシャツを買ってきていた。せっせと選択するために4枚のローテーションを組んでいた。日本に帰る頃には4枚ともウエスになる運命だった。 そんなバンコックの夏に比べても、暑さ劣り(?)しない日本の夏。それどころか40度でっせ!!。そこには、美空ひばりさんがCMソングで歌っていた歌詞の『日本の夏』は、もうない。 クーラーの一台が15年物。壊れたらと思うと…恐怖!!!!。だ。
2010.08.20
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今日、新しい機材がきた。と言ってもカメラではなく、コンピュータだ。写真の加工をしているとどうしてもその処理スピードが気になってくる。写真の容量は大きいし、16ビットで処理をかけると何枚も一度に加工することが困難になってくる。のんびりやればどって事ないのかも知れないが、男六十、最近イライラする。で新しい機材を買った。昔だったら今日は配線やアプリケーションのインストールなんかでワヤクチャになってるはずだけど。今日は箱からも出していない。今の仕事が一段落するまで出さないでおく。 昨日の夜は仕事の大詰めで完徹になってしまった。もう歳だ。今日は使い物になってない。50%程の稼働率だろうか。そ
2010.08.19
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我が家の男猫君は人間の食べる物を欲しがらない。基本的に。欲しがる物は、海苔(ただし味付け海苔は食べない。すし海苔のみ)。あんこ(つぶあんは食べるがこしあんは食べない。虫歯になる可能性があるのであげないが、匂いを嗅ぎつけてやってくる)。それ以外は刺身であろうが焼き魚であろうが食べない。私が躾けたわけではなくて、母親替わりをした女猫さんが教え込んだのかも知れない。ところが昨晩。鼻先に竹輪を差し出してみる。首を横に振って明らかに嫌がるが、何回か同じ事をすると、何を思ったかいきなり私の手から竹輪をくわえとると、自分のお皿まで持っていってお皿の中にポンとおいた。竹輪を食べるのか見ていたが、置いただけで食べはしない。試しに今一度、竹輪をちぎって鼻先に持っていくと、何度か嫌がったのちに、手からち竹輪をくわえとり、また自分のお皿に置いた。 私はおちょくられているのだろうか?。暑さのせいかなぁ。
2010.08.18
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最近の写真のデータ容量は、写真の品質向上とともに段々と大きくなってきて、35mm一眼レフタイプのカメラでも2400万画素以上ある。これを8BitでTIFFで開くと、一枚で70MB以上ある。そんなデータをモニター上にPhotoshopで3枚も開いたら、簡単な加工をしようとしてもパソコンがほとんど動かない。モニター上に小さな円型が出て、それがグルグルいつまでも廻っている。ついに我慢できず、コンピューターに向かって悪態をつく。すると、まず猫君が2階にビューッと逃げていき、パソコンは我知らずにグニグニと輪っかが廻っているだけ…。腹立たしさに強制終了してやる。ざまぁ見ろ!!!。折角の写真が消えてなくなり、自己嫌悪に落ち入る。 で、コンピューターを替えようと思う。7月に新製品が出たから、前モデルが機種によっては新品で4万円ほど安い。何か問題があってモデルチェンジしたかも知れないけど、最上級機はスペックが少し変わる程度の物が多い。で、取りあえず最上級機の前モデルを…買おう。買っていいかなぁ?…。 仕事ないモンね。サクサク動く必要もないのかも。もう少し、悩んでみよう。
2010.08.17
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お盆明けのクライアント廻りをしてきた。今年は、去年にもまして盆休みを取れないクライアントさんが増えたようだ。暇だからゆっくり休もうなんてことはなく、仕事をもらいに廻る私よりも、もっと深刻に今の不景気を捉えているからだろう。 お昼によく行く立ち食いそば屋に行った。このそば屋は立ち食いながらすこぶる旨い。立ち食いのうどんは、阪神甲子園駅の構内にある立ち食いうどん屋が、そのだしの旨さで、甲子園がよいの寅ファンの間では有名だが、そのそば屋は今のところ秘密にしておきたい。関西のそばと少し違ってそばの汁がかなり濃い。それが香りの高いそば(だから美味しい)にピッタリだと私は思う。まだ、少し内緒にしておきたいと思う。 高が立ち食いそば。されど立ち食いそば。これを否定したら、長田のお好み焼きもただの「高が」になってしまう。 明日から頑張って、仕事に、ブログに精をだします。よろしく。
2010.08.16
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もうすぐ午前5時。立秋を過ぎたのでドンドン昼も短くなっていきます。 七月半ばなら、もう開け始めている朝も、まだ暗いまま。昔、よく仲間で感心した言葉を思い出します。「たそがれ時」と「かわたれ時」。夕暮れ時に、向こうから来るのは誰か分からないほど暗くなって、誰そ彼が「たそがれ」。夜明け前に、向こうから来るのは誰か分からないほどまだ暗く、彼は誰が「かわたれ」。最近、日本語には風の名前が二千もある。なんてCMが流れていたが、日本語の月の呼び名もロマンチックで、ついつい感心してしまう。8月16日は旧七夕。天気も良さそうで今日も暑そう。盆の間休んでいたブログも今日から再開しよう。 宜しくお願いします。
2010.08.16
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8月の10日に姉の飼い犬が黄泉の国に旅立った。8月11日ミーシャの命日で、13日が親父の命日で、来月は弟の一周忌と叔父さんの四十九日法要がある。何か夏は大変…。疲れる。 昔は夏が好きだったのに、歳をとるごとに辛い季節に変わっていく。そう言えば、かき氷もところてんも、スイカも食べなくなった。辛いだけの季節になってしまった。 それが、老いというものだろうか…。なんてね。
2010.08.13
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ミーシャはミックスの縞猫。白タビを履いていた。17才を目前に逝ってしまったけど、結構楽しく生きてくれたと思う。大好物はマグロの刺身。焼いた魚は食べなかった。といって、毎日マグロをあげられるほど、私の経済力は豊かではなかったので、カリカリと生餌と半々にしてあげて、人間の食べる物はあげないようにしていた。だから私が何を食べていても欲しがることはなく自分の食事だけを食べていた。ただひとつを除いては。 それがマグロだった。マグロ以外の刺身を目の前に差し出しても、クンクンとにおいを嗅くだけで決して食べようとしない。タコであろうが、イカであろうが、鯛であろうが。そのミーシャが、マグロの匂いを嗅ぎつけるといつの間にか隣にすわっていて、私が箸でマグロを挟んで口元に運ぼうとすると、私の箸に猫パンチをしてマグロを落とさせてパクリと食べた。そのあとはマグロがある限り、ミャー、ミャーッと騒ぐ。それは刺身だけでなく、マグロのお寿司、鉄火巻き、ちらし寿司であれ、生のマグロはすべてミーシャが「もういいわ」とそっぽを向くまで、すべてミーシャの物だった。それが我が家の掟。 今日、マグロの刺身を買ってきてミーシャにお供えした。ミスティーはミーシャが育てたようなものだから決してマグロを食べない。勿論、他の刺身も食べない。ミスティーの食べる人間の食べ物は海苔とあんこ。あんこは私がこぼした物をパクッと食べて気に入ったのかあんこは自分の物だと思っている。ただ、虫歯になると困るのであげないし、私も糖尿の気があるので食べないようにしている。もうひとつの好物が海苔。しかも味付け海苔は食べない。ちゃんとした寿司海苔を炙って細かくちぎってあげると、上あごにくっつくのか舌をベロベロ動かしながら、一枚丸々食べることもある。これは大変なことで、私が海苔を食べたい時は、まずはミスティーに食べてもらって、ミスティーがご馳走様をしない限り私は海苔を食べられないのだ。 ミスティーと私と、ミーシャの写真の前にマグロを置いて、ミスティーは海苔を食べ、私はマグロに醤油を付けて海苔に乗せて食べた。ミーシャが怒っているかも。 「私ンでしょ!!」ってね。
2010.08.12
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ズズの話しをしたい。ズズは黒島猫で4匹の子猫のお母さんだった。本当にこまめに子猫の面倒を見ていて、家人に子猫が見つかると、早速、手際よく子猫の居場所を変えて姿を隠す。ところが子猫たちは何でも珍しく、何でも興味があって、その隠れ家からヒョコヒョコ出てきてしまう。するとズズは子猫の首をくわえて、一匹ずつ丹念に新しい隠れ家に隠していた。それが我が家にいたミーコの姿とダブってズズに味方したくなるのだ。ズズは下宿者用台所の隅の空になったラックの裏に子猫を隠したけど、子猫たちは勝手に脱出して家の中を走り回り、子供に見つかってしまって子猫たちは、子供達のおもちゃになってしまった。ズズは子供を気遣い、子供達の間を行ったり来たり、心配そうにニャオーッと鳴いて、子供がいじめられないように見張っていた。ある時、子猫が子供の三輪車に轢かれる事件が起きた。子猫が飛んでもない悲鳴を上げる。ズズが吹っ飛んできて子供にフーッと唸った。子供は子猫を掴み上げ、ズズに投げつけようとしたところでお母さんが止めて、子猫は解放された。ズズはすぐに子猫の体中を舐めてやって、その姿が「大丈夫?大丈夫だった?」と聞いているかのようだった。子猫は何とか落ちついたようだけど、気が収まらないのがズズ。のんびりと横たわっていたウイニーの所に走り寄ったとみるや、後ろ足で立ち上がり、凄い声を上げながらウイニーに爪を立てた。ウイニーは体に似合わない鳴き声を上げてすっ飛び。ズズはスッとしたらしく、母親の威厳を取り戻した様に優雅に立ち去っていった。猫と犬の戦いは一瞬に終わった。 それにしても、この家の子供はいったいどんな教育を受けたのだろうか。
2010.08.11
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我が家の女猫さんのミーシャが逝って三周忌になります。今日は取材に出掛けるけど、早く帰ってきてミーシャの大好物だったマグロの刺身をお供えしようと思います。合掌。
2010.08.11
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フランスにいた頃。フランス人の一家にご厄介になっていた。パリから北に、国鉄で20数分の位置にあるピアレーって町でフランス人の家に居候することになった。400坪ほどの敷地以外に畑がくっついた小さな町の名士の家。奥さんはフランスの中央競馬会に勤め、旦那は新聞や雑誌の配送の大元をしていた。 たまたま知り合ったフランス人がこの家に間借りをしていて、お金に不自由な私が惨めに見えたのか「部屋はいっぱいあるし、気に入られたら間借りさせてくれる」って事で、一度そのお宅にお邪魔して食事をさせてもらった。後はその友人が話を進めてくれて、結局、間借りではなく無償でホームステイする事になった。そういうと聞こえはいいけど結局は居候。その家に、ウイニーというスタンダードのコリーと、黒縞猫のズズがいた。 ウイニーは賢い犬で、私がどこかに出掛けようとするといつもそばに寄り添って心配そうについてきた。マダムに買い物を頼まれて出掛けるときなど、実は買い物に行くのはウイニーで私は荷物持ち。町中がウイニーの事は知っているので、お店の人はウイニーに挨拶をして、私が手渡したメモを見て、私に荷物を持たせるのだ。ウイニーが担保で私は台車みたいなものだろう。まぁ、私としては楽なお仕事でウイニーのお手伝いが出来ていた訳だ。私がパリに出掛ける時は、昼間は家人が誰もいないので鍵をかけて出掛ける事になる。電車に間に合うように戸締まりをして家を出て駅に急いでいると、私の横っちょで誰かの息づかい。振り返ってみるとウイニーが私と同じスピードで歩いていた。力が抜ける。引き返してウイニーを家に入れる。ちゃんと確認して鍵をかけたのにウイニーはどこかに秘密の出口を持っているようだ。なんとか言い聞かして駅に走る。パリ行きの電車は1時間に数本。しかも昼間は少ない。結局電車に乗り遅れてしまう事もあった。 そんなウイニーだが、この犬が賢い。ウイニーはパートナーの雌犬と一緒に飼われていたが、ある日雌犬は車にはねられてしまう。ウイニーはその車を追っかけていき、数日後、ボロボになって帰ってきたらしい。それからは何となく元気がなく、あまり動かなくなってしまったらしい。そのウイニーは1階の玄関を入ったところに自分専用のマットを敷いてもらって寝起きをしていた。その前に下宿人と居候用の台所。といっても日本風にいえば10畳ほどの広さ。その隣が私が借りていた部屋で、部屋には暖炉があった。ウイニーは部屋の戸を開けっ放しにしていても部屋には入ってこなかった。招き入れれば入ってくるが、決してベッドや椅子にあがる事はなかった。よく、誰もいないときにウイニーを部屋に入れてウイニーの隣の床に座り込むと、ウイニーも隣に寝そべってジッとしている。吠えもせず、舐めるわけでもなく、それでも私の後ろをどこにでもついてきてくれた。 黒縞猫のズズは4匹の子猫を生んだところで子育てに急がしそう。昼間は私しかいない事も多いので、私の部屋をのぞいては「ニャッ」と声をかける「ズズッ、入っといで」と声をかけると、辺りをキョロキョロしながら入ってきて、私の匂いを嗅いで、荷物の匂いを嗅いで、私が隠し持っていたイカの薫製を見つけると大きな声で泣き始めた。あまりたくさん食べると下痢になるから、1本か2本を細かくちぎってあげるとグルグルと喉をならして食べ始める。両の手で掴むようにイカを持って真剣に食べている姿が何とも可愛らしかった。 フランスで関わった動物はウイニーとズズ。その出会いがあまりによかったからか、日本に帰ってきてからは、いつか猫を飼いたいと思っていた。犬もいいけど、外へ出る生活をしていたから散歩をさせてあげれないし、それでも飼うのなら大きな犬がいいと思っていた。犬種にこだわる事もないが、出来ればコリーかシェパードが飼いたいし、中型の日本犬もいいなぁと思う。ただ、私の住宅事情から大型犬は無理。それだったら小型犬を飼うよりも猫がしようと決めていた。アメ車のキャディラックを買うとしたら、たとえ燃費が悪かろうがどうせ買うならフルサイズのキャディーがいい。中途半端なキャディラックはキャディラックにあらず。だと思う。 で、フランスを引き払って帰ってきてからは、ぜひ猫を飼おうと心に決めていた。
2010.08.10
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パリにいた頃、勿論、ホテル住まいだから動物は飼えないので、サンジェルマンとサンミッシェルの南角にあったローマ遺跡に猫を見に行っていた。その頃はそんなに動物が好きだったとは言えない。特に犬に関しては、子供の頃の体験から今ひとつ信用できず、あまり好きになれなかった。 小学校の低学年から知っている友人の飼い犬は、家の前を通る犬に挑み掛かるも、鎖の長さが短くて戦うわけに行かなくて、そのストレスがあまりにたまっていたのだろうか、隣に突っ立って傍観者を決め込んでいた私の廻りを、ウゥーッ、ウゥーッと唸りながら歩いていたかと思うと、いきなり私の足首をカプッと咥えた。ほんの何分の1秒かだが、咥えて唸った。そして何もなかったように小屋に戻っていった。それまで犬が怖いと思ったこともないし、噛まれたこともない。そのことがあってから犬が怖くなった。嫌いではないが、怖くなった。その数年後、まったく違う友人の家のまったく違う犬が、家の前を通る犬とけんかを始めて、鎖が届かないという同じシチュエーションで、まったくデジャブの様に噛まれた。殆ど歯も当たってはなかったが、私の足を咥えてグルゥゥッと唸った。では、猫が好きかというと、学校の近くにあったお店の看板猫(デブのペルシャ)が私の手に甘えてきて、指であごの下を撫でていたらペロペロと私の人差し指を舐めはじめ、可愛いなぁなんて思った時に第1関節まで咥え込み、いきなりガブリッ!!。指にぶら下がって後ろ足で腕を蹴り上げた。その時の傷跡が今でも指にある。で、あまり猫も得意ではないが、何故か猫を見に行っていた。フランス人は犬が大好きで、街中に犬が溢れていたが、ある意味それが怖かったと言える。噛まれることも吠えられることもなかったが、物言わぬ動物が実は怖かった。でも、その数年後、ある犬と、ある猫との出会いがあって、私と動物の距離が縮まる事となった。 それはまた、明日。
2010.08.09
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モンがなくなって、我が家の動物は猫の「みーこ」とその子孫。池の金魚と鯉(その当時金かぶとが流行っていた)。家は改装工事が始まり、玄関は引き違い戸から大きなガラスの開き戸に替わり、玄関に出来たタタキのスペースに我が家初めての犬が登場した。その頃流行のスビッツで、下の姉がどうしても犬が飼いたい、自分で面倒を見ると親父に頼み込み、我が家の家業である時計屋が軌道に乗って儲かりだしたときに生まれた下の姉は、親父に溺愛されていて、めでたくスピッツは、玄関のたたきを縄張りとしてモンの後釜に決まった。ところがほんの三日も経つと「犬がオシッコをするなんて知らなかった」と馬鹿な言い訳で姉はスピッツの飼育を放棄した。そんなことは重々承知の親父だったが、怒りもせずに姉の仕業を許した。私とて、その犬のあたまを撫でた事はあるが散歩に連れて行った記憶はないが、その犬が、姉に大切にされることはなかった。 その犬の名前が「ハッピィ」だったことが妙に悲しい。それから何年か経って、また姉が同じ事をした。友人の家で飼われていたコッカースパニエルを譲り受けるというのだ。しかも、自分の部屋で飼うという。みんな当然反対したが、親父の溺愛が姉の出来ぬ約束を認めてしまった。綺麗な薄茶の犬だったが、ベッドでオシッコをしたという理由で、チコ(犬の名前)は、ハッピィのいた玄関のタタキで暮らすこととなり、お袋が面倒を見ていた。長生きはしたが、白内障になり、何度も保健所の罠に掛かり、その保健所員は、我が家の犬だと知った上で、針金をチコの首に掛けたまま哀れな声で鳴かせて、お袋が幾ばくかのお金を握らせてチコを引き取りにくるまで、家の玄関先に立っていた。 チコは幸いにして天命をまっとうして松の根元に埋められた。犬種なんて関係なく可愛がってもらわないと動物は不幸だと思う。 猫のみーこはかなり小粋な猫さんだったらしく、毎年子猫を生んでいた。多い時には8匹ほど我が家にいたが、家猫から半地域猫になり、1匹減り、1匹旅に出、ついにはみーこだけが残った。みーこは20年近く生き、ある日、姿を消した。これが我が家の、私が子供だった頃の動物たち。みんな松の木の根元で眠っていた。 その松の木も今はない。もう35年も前の話し。 もうすぐ、お盆だね。
2010.08.08
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昨日はアメリカ版の忠犬ハチ公をテレビでやっていた。で、今日は動物の話しをしてみたい。私の家は、動物がいないことがなかった。変な言い回しだが、いつも何かしら動物が廻りにいた。 私が物心ついた時に、我が家にいた動物は猿だった。犬でも、猫でもなく、何故か猿だった。私の生まれは愛知県名古屋。港に近い築港という地区で生まれた。その家のことを覚えているかというと殆ど覚えていない。ひとつだけ、鮮明に覚えていることがあって、ある日、家の前に檻がいくつも並べられていて、その中のひとつに大きな猿が入っていたことだ。多分、4歳程の私より遙かに大きな猿が檻の中にいた。何とも曖昧な記憶の縁から輪郭がはっきりしない記憶の残骸を引っ張り出したとしても、あまり意味もないので、親父やお袋の話をまとめて動物の話をまとめてみようと思う。 先ほどのお猿さんはどうもマントヒヒらしい。私はチンパンジーかゴリラか何かだと思っていたけど、まず、私が覚えていた猿は90%マントヒヒで、後の10%はチンパンジーかも知れないとの話し。では、本筋に入りたいと思う。 私の一家が神戸に越してきたのは、私が5歳にならない頃。芦屋に洋館を見つけた父は、その物件が欲しかったようだが、その洋館の持ち主は外国人で、家を売るのではなくて賃貸で貸したいと思っていたらしい。親父はそれが嫌だったようで、神戸の灘にある今の家を買うことにしたらしい。二階建ての家は、父と母と子供が五人、それとお手伝いさん一人には決して狭くはなかったが、実はもっと家族が居た。 それが「モン」という猿だった。親父が好きで飼ったけど、世話をするのは母親でモンはすっかり母親になついていた。本来、家で飼われる動物は、その家族に自分を加えて序列を持っている。モンも序列を持っていて、母親が自分のボスで、次がモン自身、あとは、私の父親が何となく煙たい存在で、それ以外はクソみたいなモノ。門を開けたところの松の木に留まっていたモンは、幼稚園から帰ってきた私に鎖一杯飛びかかり、その鎖の長さから届きはしないと子供ながらに分かっていたとしても、少なからず毎日恐怖を与えてくれていた。時たま、思いもよらず近づきすぎたりすると、モンは決して見逃したりせず、北方のカニ漁船をロシアの警備艇が拿捕するように、髪の毛を掴み、幼稚園の帽子をむしり取り、ある時は服を引き裂いたりもした。年に1回は首輪を抜いて町内を駆け回り、町中のガキを恐怖のどん底に落とし入れていた。逃げまどい、泣き叫ぶ近所のガキの声を聞きながら、私は決して外に出なかった。勿論、警察も来ていたし、猿を遠巻きにして近所の大人が騒いでいたが、お袋が帰ってこない限り、決して収拾のつかないことだけに、慌てず騒がす、近所の悪ガキがモンにコテンパンにやられて泣きじゃくる顔を冷静に見ていた。大騒ぎの立ち廻りを演じるモンだったが、お袋が帰ってくると、何ともおとなしくて従順な猿を演じていた。そんなモンも、私が小学校を卒業する頃に、他界した。お袋は泣いていたし、日頃は怖い親父だったが、その時は妙に元気がなかった。そうそう、名古屋の巨大猿の正体はお袋が可愛がっていたマントヒヒで、神戸に越してくる前に、名古屋の東山動物園に貰っていただき、お袋はそれからも毎年2回は、東山動物園に会いに行っていた。 あと、名古屋の家で伝説になった動物は、私が箸で目をついて死なせてしまったカメレオン私が下駄で蹴ったために片眼が失明してしまったカニクイ猿。等々。そんな動物がたくさん我が家にいた。最後に小自慢は、庭に小さな池があって、101匹ワンちゃん大行進どころか、毎年金魚五千匹を放流するのが我が家の年中行事だった。その池の畔に松の木が立っていて、モンはその根元に埋葬された。その後、我が家で動物がなくなると金魚からわんこまで、すべて松の根っこに葬られるのが常となった。 勘弁してよ。
2010.08.07
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パリにいた時、貧乏滞在者だったから買い物をする事はほとんどなかった。とにかく、安ホテルの一泊1260円の屋根裏部屋生活をしていたから、フィルムを買うことさえためらわれ、でも、それを除いてしまったらパリにへばりついている意味もなくなるから、写真を優先する生活。 1976年4月から6ヵ月間。そんな生活を続けていた。そんな中で買った物が二つある。ひとつはジッツォの三脚。フランスの作るものはあったかいか、甘ったるいか、なんてイメージしかなかったけどこの三脚は世界一だと言えた。今でも最上級にランクされる三脚で、カメラ作りは世界一かも知れない日本製の三脚でさえ、一歩も二歩も置いて行かれている。たとえば、ドイツのライカなんてカメラはおそらく世界一にランクされるけど、その当時のニコンやキャノンと比べるとライカのM型のカメラボディー1台の値段が、ニコンF2ボディの4~5台分はした。たしかにライカはいいカメラだけど時代から言えば一眼レフ。それも日本製の一眼レフの使い勝手から考えると、かなり特別な理由でもなければ、またはライカフリークか、写真が高く評価されている一部のカメラマンでもなければ、ライカを仕事に使うことはなかった。これは私の勝手な意見なので、ただコマーシャルやエディトリアルをやっているカメラマンには使い勝手がいいカメラとは言えない。勿論、カメラとしては超一級品だが。で、ジッツォの三脚はと言うと、そんなに値段差はないけど超一流の三脚には違いがなかった。日本製の三脚と比べようとしたらそれほど品質の優れた、比較できるほどのメーカーがなく、それで私も、日本から重い三脚を担いで行くくらいなら、フランス製のジッツォをフランスで買ってやろうと決めていた。「そんなにジッツォがいい?」とよく聞かれる。答えはYES。最近は肩を並べるメーカーも出てきているようだが、その時代からジッツォの三脚は高く評価されていた。何故かというと軍需産業だから。そう、ジッツォは軽機関銃や小型ロケット砲などの銃座を作っている会社で、その分野での評価は世界一だから。ただし重かった。同じサイズの日本製に比べたら倍近くの重量があった。でも、それこそが三脚に求められるガッチリとカメラが固定できて安心して写真が撮れるブレない基本。それで迷わずジッツォを購入した。値段は私の滞在するホテルの1ヶ月の部屋代ぐらいだった。 もうひとつの買い物は、傘。海外旅行に出るときに私は傘を持って行ったことがほとんどない。それはパック旅行なら施設から施設の移動程度で傘をさす必要があまりないからで、そんな理由から傘を持っていくことはなかった。ところがその年のパリはグズグズと雨が降り続いた。それでもホテルからメトロ「サン・ミッシェル」駅は30秒ほど。殆ど傘を必要としないし、パリの人は少々の雨なら傘をささずに歩いていた。私もいい気になってそのまねをしていたけど、さすがに雨が降るとカメラが濡れてしまう。それで必要にかられて傘を買うことにした。その当時、日本で安いジャンプ傘を探したら500円ではなかったかも知れないが1000円も出せばそこそこの傘があった。そんな気分で傘を探してみると、なんとも傘が高い。安い傘もあるにはあるがそれはひどい物で、パリでまっとうな物を手に入れようとしたら、そこそこまっとうな値段を払わないといけないことを知ってしまった。 ならば腐る物でもないし、折角パリで買うんだからそれなりの物を買おうとパリらしい雨傘を買った。結構な値段がしたけど、それから15年近く使ったので年単価はかなり安くついた。そんなこともあるわさ。
2010.08.06
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なんか、少し寒い日が続いているようだ。今のところパリに行く予定は、永遠になさそうなロートルのカメラマンは、暑い日本でフウフウ言っている。まあ、何のかんの言っても仕事で色んな国に行かせて貰ったから、それだけでも感謝。ても、ウサギが食べたい。ツグミが食べたいョォ。
2010.08.05
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パリの夏は、寒い夏しか経験がない。夏にウールのセーターを着ていた事を思い出す。毎日にわか雨が降って、朝など半袖を着てホテルを出た途端に寒くてセーターを取りに部屋に戻ったことも度々あった。今は、そんな夏が恋しい。この脳天気の暑さは盆過ぎまで続くらしいが、それを過ぎれば暦の上でもすぐ秋に…。なんて話ししてたら少しは涼しくなったかな?そんなこといいながら、今年もまだ暑さが続くんだろうなぁ。
2010.08.04
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久し振りにドライカレー風カレーを作った。玉ねぎを4キロ炒めて、牛すじ肉を圧力釜でトゥォロントゥォロンに炊いた物を加えて作る我が家のオリジナル。それに少し固形感が欲しいので牛肉を二本包丁でチョップして微塵にした物を加える。お鍋にたっぷり作りおき、今日、仕上げにミンチ状の肉を加えてインデラのカレー粉を混ぜ始めたところに、にっくきゴキブリが飛来して、その鍋の中に、飛び込んでしまった。ワヤである。全部捨てた。晩ご飯はそうめんにした。
2010.08.03
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パリにいた頃、4回夏を過ごした。最近では欧州の夏も異常に暑い時があり、死者も出たりしているけど、私がいた頃の夏は冷夏と言われる夏が多かった。七月にウールのセーターを着ていたこともあった。今思えば、冷房がそんなに一般的でないパリで猛暑を過ごしていたら、パリの印象は変わっていただろう。 その頃、日本に帰ってくる帰り道は、決まってバンコックか香港に寄り道して帰ってきていた。香港の安ホテルでもクーラーはガンガン廻っていた。体中の水分をすべて絞り出されるようなバンコックの夏でさえ、32~33度だったと記憶している。その頃のバンコックの季節は三つしかなくて、ホット、ホッター、ホッテストだと教えられた(冗談だけど)が、最上級のホッテストでも今の日本の夏の暑さに比べたら、赤子の夏だろう。毎日コークをガバガバ飲んで辛いグリーンカレーをバクバク食べて、パクチーの香りに何度エズいたことか。こんな町で、冷房がなかったら一秒たりとも居たくないと思ったが、1980年のクリスマスをバンコックの冷房のない安宿で過ごしたことがある。しかもジェイソンボーンかスティーブンセガールが敵に追われて潜伏するような怪しい宿。それでも今の日本の夏のように耐え難い暑さではなかった気がする。何も持たずにカメラ一台だけ持って私も潜伏したい。と、思うほど今となっては懐かしい。
2010.08.02
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ついに8月に突入。あっという間の出来事で、七月は丸々開店休業状態。くそ暑かったから休みは有りがたかったけど、そうも言ってられない経済状態が恨めしい。何とか立て直して、不景気を乗り越えなくちゃならないから、気を引き締めて頑張ってみよう!! 手抜きになっていたプログも、気を入れて毎日書かなくっちゃ。そんなこと書いたら後が大変かも知れないが、まぁ、誰も期待してないだろうから、自分自身に叱咤激励。 毎日書くぞ!!!
2010.08.01
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