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バタバタして更新できませんでした。ウォームビズに挑戦中
2005年10月31日
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「1890年(明治23)」10月30日教育勅語は、戦後、当然ながら悪の象徴とされ、1946年に奉読と神格的取り扱いが禁止、1948年には失効確認が決議され、以後は、触れることさえタブーになってしまいました。『朕惟(ちんおも)フニ、我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ』〔私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して日本の国をおはじめになったものと信じます〕『我カ臣民、克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心を一(いち)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス』〔そして、国民は忠孝両全の道をまっとうして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物と言わねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます〕『爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ、徳器(とっき)ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ』〔国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることはもちろんのこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません〕『是(かく)ノ如キハ、獨(ひと)リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン』〔そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります〕『斯(こ)ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラス。朕爾臣民ト倶ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こひねが)フ』〔このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであるとともに、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります〕(国民道徳協会訳文)難しい文ですね。当時の子供達はわかってたのでしょうかね。
2005年10月30日
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いつも話題に挙げて頂いている花より薩摩琵琶さんへ御礼を兼ねてアップしますね。後に400年の歴史を持つ郷中教育へ発展する薩摩日新公(じっしんこう)の「いろは歌」です。日新公とは、島津日新斉忠良公です。「1492年(明応元)」9月23日伊作亀丸城に生まれ、幼名菊三郎。21歳、伊作・田布施城主となり三郎左衛門忠良と称名し、36歳で髪を剃り相模守入道日新斉と号する。その後、出水の島津実久の軍と加世田別府城で戦い「1539年」正月、これを破り、加世田城主(現加世田市)となる。薩摩を統一し島津氏が戦国大名の第一歩を踏み出す事になります。日新公は文武・神・儒・仏三教を極め、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。この「いろは歌」は天文八年から十四年頃の作藩政時代から薩摩武士、士道教化、師弟教育の教典となりました。『いにしえの 道を聞きても唱えても 我が行いに せずばかいなし』〔昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけではダメです。行ってこそ役に立つもの。実践実行が最も大切〕『楼の上も はにふの小屋も住む人の 心にこそは たかきいやしき』〔大城に住む身分高き人や金持ちでも、心が卑しければ尊敬はできない。貧しく小屋に住む人でも、心が清く正しく高尚であれば、真に仰ぐべき人である。心のあり方により人の真価が決まる〕『はかなくも あすの命をたのむかな 今日も今日もと 学びをばせで』〔雑用口実に物事を明日に延ばし、明日は明日とて次に延ばす。一向に勉強せずに日々を送るのは心得違い〕『似たるこそ 友としよければ交らば われにます人 おとなしき人』〔友を選ぶ時、自分と似ている者を選びがち、しかし自分を向上させる為には、自分より優れた見識を持つ人を友とするのが良い〕『ほとけ神 他にましまざず人よりも 心に恥じよ 天地よく知る』〔神も仏もの心の在り様。他人より自分の良心に恥じよ。天地神仏は全ての事がお見通し。良心を恐れよ〕『下手ぞとて 我とゆるすな稽古だに つもらばちりも 山とことのは』〔自分自身が、いろんなことに下手だと卑下して努力を怠ってはいけない。稽古さえ積めば少しづつでも進歩している、遂には上手にもなれる。チリも積もれば山となる〕『科ありて 人をきるとも軽くすな いかす刀も ただ一つなり』〔科(罪)のない者を切ってはならない。が、たとえ罪があり死罪を行うにあたっても、軽々しく行ってはいけない。殺人剣も活人剣も君主の心一つで決まるもの〕以下省略します。ご要望あればアップしますね。 島津日新公いろは歌 西郷大久保稲盛和夫の源流島津いろは歌
2005年10月29日
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「1882年(明治16)」東京・日本橋で田鎖綱紀が初の速記講習会を開催しました。「1888年(明治22)」10月28日この講習会の7周年記念会を開き、この日を「速記記念日」として定めました。現在では日本速記協会が中心となり、ひろく国民に速記に関する関心を啓発する催しなどが行なわれています。速記とは、話しことばと同じほどの速い文字を持ちたいという願望は昔からありました。西欧ではルネッサンス期以降より早書き文字が近代的な速記法へと発展していきました。田鎖綱紀(1854~1938)は、日本人で始めて西欧速記に啓発され、日本語の速記法を工夫しました。明治初期、鉱山技術指導の為、日本政府の招きで滞日していたアメリカ人カーライル博士がいました。この博士は、「アメリカン・スタンダード・ステノフォノグラフィー」を使い書き込みをしていました。このステノフォノグラフィーを見た田鎖綱紀は、この表記法の日本語化の研究に取り組みました。苦心の末、1882年(明治15)9月19日付の『時事新報』(福沢諭吉が創刊)に「日本傍聴記録法、ジャパネースホノグラフヒー」と名づけて発表しました。この速記法は、早稲田速記です。五十音表の速記文字です。五十音の中で、一番の基本は8個の速字「か・さ・た・な・は・ま・や・ら」です。線の長さは、いずれも1センチを基準とします。実際に書く時は、8ミリから1センチぐらいのあいだになるように注意して正確に書く事。「か」と「た」が直線で、線の書き終わり(字尾)をとめて書く。「さ」「な」「は」は左回りの曲線ですが、「さ」は右上45度斜めの方向、「な」は水平方向、「は」は右下45度斜めの方向線の角度がちがっています。「ま」「や」「ら」は、反対に右回りの曲線で、「ま」水平、「や」右上斜め、「ら」右下斜めの角度に書きます。曲線は浅くまげるのがコツらしいです。いずれも字尾は止めます。
2005年10月28日
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10月27日アメリカ26代大統領セオドア・ルーズベルトの誕生日です。「1902年(明治35)」の秋、ルーズベルト大統領は趣味である熊狩りに出掛けた。が、獲物をしとめることができなかった。そこで同行したハンターが、小熊を追いつめて最後の一発を大統領に頼んだ。が、「瀕死の小熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。この言葉が新聞に掲載された。翌年、ニューヨークのおもちゃメーカーが熊のぬいぐるみに、大統領の愛称「テディ」と名づけて発売した。その頃、ドイツのシュタイフ社が熊のぬいぐるみを大量にアメリカに上陸しており、この名前が広まった。ニューヨークのおもちゃメーカーvsドイツ・シュタイフ社どちらに軍配が揚がったのでしょうね。これも報道力? ファーネル社アンティークベア1920年 シュタイフ1920年代オリジナルテディ シュタイフテディベア世界限定1000体ジャッキー【楽天野球団】 100年前のパーツを使っているよ 125体限定シュタイフ125GOLDテディベア シュタイフ日本限定テディベア1906レプリカ
2005年10月27日
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毎日の睡眠食事掃除入浴など全ての生活がそのまま修行であり、また、これが悟りである。トイレ事・頭を掻く事・歩く事も又然り曹洞宗を開いた道元(どうげん)禅師は、天台宗の比叡山延暦寺で修行をされました。(当時の日本宗教界の中心)道元は天台宗修行中に大いなる疑問を抱き、中国に命がけで渡る決心をしたのです。道元は中国の港で年配の僧侶に逢いました。その僧侶は、「典座(寺の食事係)」で、汁のだしに使う椎茸を買いに来たのだそうです。道元はその老僧と仏法の話がしたく思い、今日はここに泊まりませんかと誘いましたが、老僧は、食事の準備が間に合わなくなると断わりました。道元は言いました。「食事の用意などは若い者にでもさせれば良いではないですか?あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の論議よりも、食事の準備を優先させて、何かいいことがあるのですか。」すると老僧は大笑いし、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」と言い残して帰ってしまいました。別の伝承には、この椎茸を買いにきた老僧に「いかならんか、これ文字」と問いかけ、老典座僧はその問いに「一二三四五」(頭を満たしている文字の羅列の知識などは単なる記号に過ぎない)と答えたそうです。痛棒を含め道元は中国留学で多くのことを体験した様子です。道元は中国各地の道場を訪ね、修行を重ねます。ある寺で暑い日に、杖をつき腰の曲がった年寄りの修行者が、汗だくになって本堂の脇できのこを干していました。道元が、「こんな暑い日ですから、誰か若い者にでもさせるか、もう少し涼しい日にしたら良いのでは」と言うと、年寄りの修行者は「他は是吾にあらず 更に何れの時をか待たん」(他の者にさせたのでは自分の修行にならん、今せずに何時するというのだ)との返答があったそうです。その後、天童山の如浄(にょじょう)禅師に巡り会い、修行に励んだ道元は、とうとう悟りを得て、如浄禅師の証明を受けて帰国しました。希玄道元から道元禅師の誕生です道元禅師は、帰国後しばらくは京都で布教しておりましたが、師匠である如浄禅師の「公家や貴族にこびて、教えを妥協することなく、深山幽谷で本当の弟子を育てなさい」と言う教えを守り、福井県の山奥に永平寺を開いて、教えを広めました。仏道とは坐禅や読経ばかりではなく、毎日の睡眠・食事・掃除・入浴など、全ての生活がそのまま修行であり、また、これが悟りであると強調し、その観点から、 「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」「学道用心集(がくどうようじんしゅう)」など多くの著述を残しました。食べる事の大切さを考えてみませんか?有り難い説法より食事の大切さ。 典座教訓 禅と食の対話 道元・日々の生きかた 禅の心で家庭料理表紙が干し椎茸ですね。
2005年10月26日
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昨日のお話の続き1951年4月、チベット政府は大臣(カロン)のアポ・アワン・ジクメーを団長とする、5人の代表団を北京に派遣した。代表団に与えられた権限は、チベットの意見を述べ、中国の見解を聞き出すことだった。ところが白書は、代表団が「全権」を与えられていたと書く。しかし実際のところ、代表団は条約を結ぶだけの権限はもっておらず、重要事項はすべて政府の指示を仰ぐようにと指示されていた。4月29日、交渉は、中国代表団の団長が協定草案を提示することから始まった。チベット代表団が草案を拒否すると、次に修正草案が提出された。しかしそれとて受け入れがたいことに変わりはなかった。この段階で、中国側の代表であった李維漢(りいかん)と張経武は、これがぎりぎりの条件であり最後通牒だと明言した。チベット代表団は侮辱的な言葉を浴び、暴力をほのめかす脅しを受け、団員たちは囚人同様に拘束された。それ以上の議論は許されず、中国の言い分とは裏腹に、チベット代表団はチベット政府の指示を得ようにも、連絡を取ることすらできなかった。自分たちの責任で「協定」に署名するか、あるいはラサへの即時侵攻を受け入れるか、代表団は苦しい選択を迫られた。1951年5月23日、チベット政府に知らせるすべのないまま、また中国の重圧の下、チベット代表団は「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」に署名した。代表団は、署名はあくまで個人の責任で行うものであり、ダライ・ラマやチベット政府を拘束する効力がないことを中国政府に確認した。しかしそんなことはおかまいなしに、中国政府は調印式を行い、「チベットの平和解放」のために「協定」が締結されたと世界に向けて報道した。また中国政府は協定を本物に見せるため、チベットの印璽(いんじ)を偽造して捺(お)すことまでした。(チベット亡命政府 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋)一国を消し去る方法。報道の力を利用した最も卑劣な行為。一服の清涼剤です。 バイマーヤンジン/チベットのこころ こんにちはバイマーヤンジンです。
2005年10月25日
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10月24日は「国連デー」です。「国連デー」とは、国連憲章が発効された1945年10月24日を記念して、毎年10月24日に世界中の人々が国連の目的やその意義を再認識するために設けられた日です「国連デー」は、国家間の平和と友好を願いつつ、世界をより住みよい環境にするために私たちに何ができるか、同時に私たちが直面する様々な課題について考える機会でもあります。一民族のお話です。「もともとは中国だった」という強引な理屈と、軍事力の脅しによって、中国の一部にさせられてしまった一独立国がありました。1951年、その独立国は、中国の軍事的脅威のもとで「17条協定」を結ぶよう強いられました。この協定によりかつての独立国は名実ともに中国の一部になりました。但し、協定の内容が守られていれば、まだマシだったのですが・・と言えます。「17条協定」は、中国共産党は共産主義による急速な「民主改革」を進めていましたが、チベットの事情に配慮して「チベットには改革を強制しない」と約束していました。しかし、現在にいたるまで、中国がやったことは一貫して正反対です。「銃口から政権が生まれる」という有名な言葉どおり、中国はチベットにも銃口を向けました。仏教国であったチベットの95%の僧院を破壊・多くの僧侶を強制還俗・経典を焼き・仏像を持ち去り溶かしました。中国はこれを「封建農奴制からの解放」「民主改革」などの名目で、人口600万人のチベット人に対して8万人以上の人民解放軍を送り込み、「改革」を無理矢理進めました。現在もチベット文化やチベット人のアイデンティティの破壊・人権抑圧は、現在も着々と進んでいます。僧院などの宗教施設は形だけは復活しました。が、僧侶の数に制限が設けられ、共産党のチームが駐屯して「愛国教育」と称する講習を行なっています。そこでは、チベット人の心の指導者でもあるダライ・ラマ法王をののしることが強制され、嫌がる者は僧籍を剥奪僧院から追い出し「分離主義者」として投獄・拷問を受けます。ラサでは、96年頃から寺院を含む公の場所でダライ・ラマ14世の写真を掲げることが禁止されました。チベット文化は衰退の一途を辿り、言葉においても中国語しか話せないチベット人が増えています。多くの役所や職場を牛耳っているのは中国人(漢民族)ですから、中国語ができないと就職もかないません。中国当局は、対外的に「チベット人幹部がたくさんいる」と主張しますが、肩書きはあっても実権のない場合が多く見受けられます。中国支配に抵抗するデモなどは今もたえることなく、「ダライ・ラマ万歳」「チベットに自由を」などとスローガンを叫んだだけで、裁判も無く過酷な環境の刑務所に投獄され、労働矯正キャンプに送られ、拷問を受け、死刑になる人もいます。大きな問題として、中国は広大なチベット高原に、核実験場を造りました。核廃棄物・産業廃棄物の投棄、鉱物資源の無作為供出、貴重な野生動物を乱獲。森林の豊富な東チベットでの乱伐は、98年の揚子江水害の原因にもなりました。人口過密な中国本土から大量の人口を故意に移動させ、移住者は税金面で優遇を受け、高い給料をもらう一方、地元のチベット人から仕事を奪います。こうして中国人の数を増やしながらも、チベット人には産児制限を押しつけ、避妊や中絶を強制しています。現在「チベット族自治区」「チベット族自治州」などと名前がついている地域でさえ、チベット人が少数派に(すでに多くの地域でそうなっています)。一民族を物理的に抹殺する「民族浄化」が、ゆるやかな形で確実に進んでいるといえます。その内、対象であるチベット人が居なくなり、「チベット問題」は過去の遺産になり、是中国が求める「最終的解決法」を狙っているのかもしれないですね。ダライ・ラマ14世は亡命して以来、国際社会にチベット問題を訴え続けてきました。しかし、状況は悪化している印象さえ受けます。中国軍による監視の目を潜り抜けヒマラヤ山脈を越えてインドやネパールに逃げてくるチベット人は(運良く逃げられた数だけで)今も毎年2000~3000人にのぼります。一つの民族の文化・宗教・生活・風習・土地・国家・音楽が、歴史から消え去る瞬間を今現在垣間見ています。
2005年10月24日
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2004年10月23日17時56分頃に新潟県中越地方の深さ約10kmでマグニチュード(M)6.8(暫定)の地震が発生し、最大震度6強を観測した。また、同日18時12分頃にM6.0(暫定)、18時34分頃にM6.5(暫定)の地震が発生し、いずれも最大震度6強を観測した。地震の発生状況から、これまでの活動はM6.8の地震を本震とする本震-余震型であると考えられる。一日も早く復興される事を祈ります。「水」は非常持ち出し袋に入れない事〔運び出す苦痛が大きく、倒壊家屋からでも掘り出せるから〕寝間近くにスリッパではなく簡易ズック靴を置く〔小学校の上履き(若しくは簡単なズック)がよい、瓦礫の上はスリッパでは歩けません〕食料備蓄に一週間分もいらない〔余程孤立していなければ、救援は3日で来る〕都市ガスは地下に配管〔断裂によるガス漏れ等爆発・火災の危険アリ。LPガスの災害は少ない〕米の買い置き〔一週間分は最低有る様に買い足しておく事に気を付ける〕高圧線や電線の位置を知っておく〔断線による漏電、トランスの落下に警戒〕食品保存のラップが重宝します〔洗い回しが利かない状態(断水)では、食器に巻き使う、御飯の残りもラップすれば握り飯になります〕
2005年10月23日
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「パラシュートの日」 「1797年」10月22日フランス人のアンドレ・ジャック・ガルネラン氏がパリ公園の上空、高度900メートルの気球から飛び降りました。直径7メートル、数十本の骨組みにカンバスが張られた傘のようなものを着け、世界初のパラシュート降下をしたといわれています。布張りの巨大な傘で900m上空から落下したという事ですね。それで「落下傘」ね。メリーポピンズは、傘で空中を飛ぶお話ですが、実際に開発して使う事は、命知らずの冒険者ですね。この方、成功したのかどうか、無事かどうかはわかりません。
2005年10月22日
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「あかりの日」1879年(明治12)10月21日、米国のトーマス・エジソンが、世界ではじめて実用的な白熱電球を開発しました。「あかりの日」は、この歴史的な日を記念し、エジソンの偉業をたたえて制定されたものらしいです。家庭内の照明でも、60歳位では20歳の必要光度の約三倍の光が必要になるとか・・・。「国際反戦デー」1966(昭和41)、日本労働組合総評議会(総評)が、アメリカ軍のベトナム戦争介入に反対する全国政治ストライキを計画し、同時に全世界の労働団体・反戦団体に呼びかけ、この日が反戦の日になったらしいです。個人に対する呼びかけでなく、団体に呼びかけなのね。しかも全国政治ストライキか。陰の臭い強すぎかな。それより気になるのが、抜粋開始『アメリカ政府は、日本政府が両国の折衷案として提示した案について「受け入れられない」と日本側に回答してきていたことがわかりました。 これは、複数の政府関係者が明らかにしたものです。普天間基地の移設を巡っては、先週の日米政府間協議であくまで辺野古沖の海上施設を譲らないアメリカ政府に対し、日本政府が、折衷案としてキャンプシュワブの岬の部分に一部を海に突き出す形のヘリポートを作る案を提示していました。 来週にはアメリカ側の担当者であるローレス国防副次官が再び来日して最終的な詰めの協議を行いますが、アメリカ側が折衷案拒否の姿勢を示したことで、厳しい交渉が予想されます。(20日22:04)(TBS Newsi)』抜粋終了
2005年10月21日
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10月20日は、「ヒトマワリフタマワリ一廻り二廻り」と言う事から「リサイクルの日」。沖縄では、ゴミの事を「チリ」と言います。ゴミ捨て場ではなく、「チリ捨て場」となります。「チリも積もれば山となる」現在、リサイクルとして回収・再生のシステムができているもの。「紙」再生紙としてコピー用紙・トイレットペーパー・ダンボールなどに再利用されています。これは、従来の古紙再生ですね。「アルミ缶」溶かして再生。元の素材ボーキサイトから加工すれば、精製に使う電力は相当な量になります。それよりは随分安くつきますね。再生アルミニウムの耐久性はやはり落ちます。従って耐久をそれほど必要としない部品に使用されます。国産自動車の再生アルミニウム使用度は結構あるようですね。「スチール缶」テフロン加工やホーロー加工に比べて、溶かして直ぐ再生できるものですね。これも鉄鉱石から精錬するより、遥かにコスト削減ですね。「発泡スチロール」燃やせば、大変な臭いと黒い煙が出てしまいますね。溶剤で溶かし、プラスチック素材として利用されます。「ペットボトル」繊維製品や固形燃料・石油製品などに再利用します。ポリエステル繊維に再生すればブラウスやワイシャツの素材になり、ビデオテープやフロッピーの磁性体を塗るベース素材になります。ペットの語源は、『PET(ポリエチレンテレフタレート)』で、塩素を含みませんので、燃やしてもダイオキシンを発生しないものです。しかし、PETボトルに似た『PVC(塩ビ、塩化ビニル樹脂polyvinyl chlorideの略)』ボトルは、半分以上が塩素を含みダイオキシンを発生します。家の周りに使われている塩ビ管はこれにあたります。「ガラス瓶」酒瓶・醤油瓶などは洗浄してそのまま再利用する古くからのサイクルが見直されていますね。ワインの瓶は沈殿物が洗浄では取れないので、ビン自体を溶かし再生ビンとなります。沖縄県内の酒瓶(一合・二合・三合・五合・一升瓶)の再生率は凄いものかも知れないですね。
2005年10月20日
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お気に入り、宮古島方言シンガー「我達(バンタ)が生(ン)まり島(ズマ)」 作詞作曲 下地勇南(バイ)からぬ風(カジ)ぬサヤサヤち涼(スダス)きなり〔南風がサヤサヤと涼しげに〕ブーギスぬ葉(バー)ゆ撫(ナ)でぃ〔さとうきびの葉をそよがせている〕お爺達(ジィタ)が馬車(バシャ)や毎日(マイニツ)すとぅむてぃ〔おじぃさん達の乗った馬車は〕東(アガズ)ざぁ道小(ンツガマ)から畑(バリ)んかい〔毎朝東の道から畑へと出かけていく〕お婆達(バァタ)や茶(ツァ)ゆ沸(フ)かし神(カン)かいすきぃ〔おばぁさんたちは、お茶を沸かして神様に供え〕「助(タス)き上手(ドース)ばしふぃーさまちタンディトートゥガナス」ちぃ〔「今日も一日守ってくださいね」と祈る〕一番座(イツバンザ)ぬ蚊帳(カヤ)ぬ中(ナカ)んな〔一番座(客間)の蚊帳の中には、〕童孫(ヤラビンマガ)ぬきゃぬ寝(ニィ)ふぎゃずばしぃ〔寝相の悪い幼い孫たちが〕鼻(バナ)ば吹(フ)きぃ寝(ニィ)っう゛ぃうー〔鼻を鳴らして寝ている〕東(アガン)にゃーぬ大祖父(ウブアーザ)や戸口(ヤドゥフツ)ぬ横小(ユカーラガマ)ん座(ビジ)ゅーてぃ〔東隣の家のおじぃさんは、玄関の横に座って、〕ツカニ綱(ヅナ)ゆ縫(ヌ)いうらます゚〔ツカニ網を縫っていらしゃる〕西(イズ)にゃーぬ大祖母(ウブアーマ)や三番座小(サンバンザァガマ)ん座(ビジ)ゅーてぃ〔西隣の家のおばぁさんは、三番座(小部屋)に座って、〕「一(ピテイ)つ二(フタ)つ」ちブーゆ紡(ン)みーうらます゚〔「ひと~つ ふた~つ」と糸を紡いでいらっしゃる〕前(マエ)ばらぬ猫小(マユガマ)やしばらぬ犬小(インガマ)ん追(ウ)すかされー〔南隣の家の猫は、北隣の犬に追いかけられて、〕綱引(ツナピ)きす四又(ユマタ)がみ逃(ビン)ぎぃ回(マァ)り〔綱引き十字路の方まで逃げ回っている〕久(フガ)・松原(マツバラ)ぬ区長(クチョウ)や公民館(コウミンカン)ぬスピーカーから〔久貝と松原の区長さんは、公民館のスピーカーから大声で〕やぐいばし国民年金(コクミンネンキン)納(ウサ)みふぃーる〔「国民年金納めてください!」と叫んでいる〕ういがどぅ我達(バンタ)が生(ン)まり島(ズマ)〔これが私たちの生まれ島〕愛(カナ)す生(ン)まり島(ズマ)野崎(ヌザキ)ぬ風(カジ)や あ~あ〔愛しいふるさと野崎の風は あ~あ〕今(ンナマ)まい変(カァ)らだな涼(スダス)きなり吹(フ)きうーなぁ〔今も変わることなく涼しそうにふいているだろうか〕パナリ島(ズマ)ぬ西(イズ)んかいばし また太陽(ティダ)ぬ沈(スズ)みぃぴす゚〔離れ小島の西へと今日も日が沈んでいく〕一番終了、二番以降省略淡々と日常を唄っているお気に入りの唄です。今、ブレイク中とか・・下地勇/天(tin)下地勇/Nee下地勇/開拓者下地勇/また夢でも見てみるか
2005年10月19日
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「冷凍食品の日」日本冷凍食品協会が「1986年(昭和61年)」に冷凍の「とう(10)」と冷凍食品貯蔵温度のマイナス18度を組合せて、1986年(昭和61年)にPRデーに設定したのが始まり。昨日は、「やはり生麺が良い」といいながら、この流れです。一日違いで、こうまで内容が変わることは珍しい?やはり脱線続きですね。この日の制定の翌年から、アラスカからの液化天然ガスの輸入が始まります。それ以前は、自国生産のみ。LNGは、気体を冷やし、液体化(体積60分の1)させタンクで運び、冷熱を取り除くと、再び気体に戻るようです。ここで出る冷熱を利用して、冷食生産に拍車がかかってる事にも、繋がるのかもしれないですね。冷食でお気に入りは、冷凍讃岐うどんです。モチモチ感を出す為にタピオカを混ぜているとか・・でも、多分本場讃岐うどんに次ぐ美味しさかもしれないです。 【お歳暮】【送料無料】加ト吉 本場の讃岐うどん11月21日(月)より全国発送開始 カトキチざるうどんセット カトキチしっぽくさぬきうどんセットうどんの日ではありません冷凍食品の日です。
2005年10月18日
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沖縄そば「沖縄すば」明治末期、小麦粉麺の劣化を防ぐ為「灰汁(木の灰の上澄み液)」と小麦粉を混合して麺を打ち、汁と共に食したのが沖縄ソバの原形とされています。ただ、名産・特産としてお土産品にした場合、公正取引協議会よりクレーム「待った!」がかかった。蕎麦の実の粉を使用している本土の蕎麦に対し、沖縄ソバは、蕎麦粉を全く使わない麺「沖縄そば(小麦粉100%)」は、そばではない。又、蕎麦粉を30%以上使用してない物は「そば」とは認められない。という理由から沖縄が本土復帰後は、その呼び名が禁止されていた。がしかし、昔から「沖縄そば」として親しまれ、愛されてきた呼称を存続させようと数年間に渡って運動を続けた結果、昭和53年10月17日に公正取引協議会から正式に「沖縄そば」の呼称認定を受け、全国麺類名産・特産品にも指定された経緯があります。それ以来 毎年、10月17日を「沖縄そばの日」として沖縄県内のそば屋さんでは、いろいろなサービスをしているところがあります。全国麺類名産・特産品と認められているのは「沖縄そば」を含め9品ということです。公正取引承認団体正式名称は、「全国生麺類公正取引協議会」です。
2005年10月17日
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いつも当サイトを紹介してくださり、ありがとうございます。感謝の意を込めてこんな情報見つかりました。唐代5弦琵琶のコピー品かなり精巧なレプリカと思われます。現在の物と比較参照するには最適ですね。一番の違いは、棹の曲がりが無く真直ぐで有る事。しかし、高価すぎます。でも正倉院宝物のレプリカですから考えようがありかも・・・螺鈿装飾品という感じかな、楽器とは見えない造りですね。螺鈿琵琶は音色まで再現と書かれていますね。でも唐代の音色を聞き比べる事が出来たのでしょうか。宗教儀礼の法具的存在でしょうか。不思議な感覚に陥る情報でした。尚、当サイトでは販売しておりませんm〇m
2005年10月16日
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昔の中国大陸は、日常茶飯事の戦争がありました。これに嘆いたサンシェン奏者の男が、両軍の間の小高い丘に登り、この楽器を弾き語り始めました。「蒼き空の下 金色に輝く麦 風はそよぎ 木陰では乳飲み子が眠り 我は麦刈りをする」唄、音色、いや、情景が浮かんでは消えるこの感覚に、兵士は戸惑いはじめた。「蒼き空の下 金色に輝く麦 風はそよぎ 木陰では乳飲み子が眠り 我は麦刈りをする」こうして争いは収まった。歌に感情がこもれば、唄になりその唄を聞く者全てが、情景の中に居る。リンクして頂いている木の香さん提供です。感謝!津軽三味線並の大きさです。糸巻きの下の歌口に注目です。三味線のさわり加工がなく、三線の歌口です。モンゴルのお姉さんですね。うつくしい。弾き方は、やはり三味線風なのかな?小指禁は三味線薬指禁は三線しかし、何故に沖縄・与那原のフィリピンパブで演奏か 不思議です?
2005年10月15日
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まずは九州地方から奄美そして八重山の六調です。九州地方「六調」又は「六調子」エー 若松様よ 枝も栄える葉も茂る唄いますます憚りながら 唄ぬ過ち御免なされあなた百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生ゆるまで様はいくつか二十二か三か いつも変わらぬ二十二、三立てば芍薬 座れば牡丹 歩む姿は百合の花長い刀は差しよがござる 後ろ下がれば前あがる花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島薩摩西郷さんは世界の偉人 酒も煙草も呑めと言った君と僕とは枕は要らぬ 互い違いの腕枕磯ぬ夜光貝と 田ぬタンミャと 夫婦なろちば 田ぬタンミャや穴ぬいべさぬ あまいじコッコ こまいじコッコエー 君と僕とは羽織の紐よ 固く結んで 胸のうちわたしゃお前さんに 七惚れ八惚れ 今度惚れたら命がけ千両万両の金には惚れぬ 私ゃ貴方の気に惚れる様が踊れば地謡は要らぬ 足の踏みよで地謡なる踊れ踊れよ三十まで踊れ 三十越ゆれば子が踊る踊り好きなら早う出て踊り 三味線が止まれば踊ららぬ刀自の貧乏者な 面やにっちゃ面 鍋や歪すぃぎ 膳な横膳箸やいきゃなが 漬物な鼻はっち 噛まらん噛まらん「奄美六調」踊り好きなら はよ出て踊れ 踊り上手を嫁にとるうたいましょうか はばかりながら うたのあやまり ごめんなさい踊り踊るなら30まで踊れ 30越えれば子が踊るさまはいくつか22か3か やがて25の生まれ年 よいや八重山地方では、オープニングは「鷲ぬ鳥節」または「赤馬節」、フィナーレは「六調」によるモーヤー(カチャーシーの事)八重山古典民謡「六調子・サマーヨ」(二揚)サマヤゥ 幾つか二十二か三か「サヤゥーサンカー」やがて二十五の生まれ年「ヨイヤナーヨイヤサマーヤゥ」お前(マエン)が振袖と私(ワタシン)が袖と「サヤゥーサンカー」二つ併せて四つの袖「ヨイヤナーヨイヤサマーヤゥ」嬉し嬉しや若松サマヤゥー「サヤゥーサンカー」枝も栄えて葉も繁る「ヨイヤナーヨイヤサマーヤゥ」人の結びは枯木の枝を「サヤゥーサンカー」上り下りの危なさよ「ヨイヤナーヨイヤサマーヤゥ」以下省略北は西日本から南は八重山諸島まで「六調」は流れています。八重山に至っては、幕締めの総踊りは「六調」で締めくくります。宮古島では、クイチャー踊りです。黒潮の流れに沿った唄の漂流。いやいや、人の流れに乗った唄ではないでしょうか。南の端八重山でも「ヤマトクチ(共通語)」ですね。
2005年10月14日
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今年8月23日記載『古典女踊「諸屯(しゅどぅん)」』のご指摘がありました。琉球舞踊をされている方からのコメントがありました。(抜粋開始)『ただ歩むだけの踊りとはどう言う事でしょう?シュドゥンは琉球古典舞踊のコンクールの課題曲で最高賞に位置する踊りでかなり難度の高い踊りです。観ている側からは上半身の動きがまったくないように見えているようですが、足の先から手の先顔の表情や視線の落とし方や感情の入れ方や立ち振る舞い肩の落とし具合まで合否に影響します。(ただ歩むだけの踊り)だけではありませんよ?今度シュドゥンを観る機会がありましたらどうぞそれを頭に入れて観てやってくださいね、きっと独特な感情が伝わって来ると思います。何事でもそうですが裏事情は関わっている人にしかわからない事がいっぱいあります、何事も勉強だと思ってこのコメントを見ていただけたら幸いです♪余談ですが今年のコンクールの受験生に対する琉球新報さんの評価はかなり辛口でした。大きい先生方の他界で踊る側の質や技術がどんどん落ちているとの事でした。私たちがしなければならない事は先生方の意志を受け継ぎ次の世代を育てて行く事と更なる自分自身の修業だと思っております。』(抜粋終了)元々、琉球舞踊は能・狂言の舞台芸術の流れを汲んでいます。ですから、『ただ』の意味合いが違うように感じます。「只」など、純粋・直など単純な作業の「歩く」から、『ただ歩む』の『歩む』事は、禅宗の「歩む」を表し、「ただ」とは、「その事にだけ集中しなさい」「成りきりなさい」の意味があります。武道にも通じる『歩む』であることは確かです。「評価辛口」も判ります。伝え切れない、物事の本質を知らない世代と受け止めます。「ただ(只)」とは、〔簡単な意味合いではない事〕を書き残しておきます。
2005年10月13日
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「国際防災の日」国連総会は2001年、災害の防止、縮小およびこれに対する備えを含め、自然災害を減らす動きを世界共通の文化として広めるため、10月の第二水曜日を「国際防災の日」とすることを決定しました(12月21日の決議56/195)。この日はもともと「国際防災の10年」の期間中(1990~1999年)に「国際防災の日」に指定されていたものです(決議44/236)。パキスタンを中心とした地震が発生し沢山の尊い命が奪われました。北インド音楽や映画など、パキスタンは関係しています。特にこれからの時期、被災された方々に気候的な試練が訪れようともしています。インド側とパキスタン側双方の国境付近では、このような状態でも睨み合いが続いているようです。首都イスラマバードの気候は、7~9月は酷暑ですから夏の服装でもよいですが、夜間は結構冷え込む事もあるので、この夏場でもジャケットやセーターが必要です。これから冬になります。冬期は氷点下になる日もありますので、絶対条件として防寒具の用意は必要です。ただし、パキスタンの気候は地域差がありますので、他の都市を訪れる際は注意が必要です。詳細な情報<国名> パキスタン・イスラム共和国<人口> 約1億4,250万人<首都> イスラマバード<言語> ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)<人種> パンジャブ人、シンド人、パターン人、バルーチ人<宗教> イスラム教が国教で、97%を占める。その他ヒンドゥー教、キリスト教、拝火教(ゾロアスター教)など。パキスタンは、 南西にイラン、西と北にアフガニスタン、北東に中国が位置し、東側は長い国境線でインドと接しています。南側は、アラビア海に面しています。パキスタン北部は、ヒンズークシ山脈カラコルム山脈ヒマラヤ山脈の連なる山岳地帯で、標高8616.3mの世界第2の高峰K2もそびえています。パキスタンの気候は地方によって、大きく異なりますが、「秋と冬」「春と夏」「雨季」の三季に分けられます。「秋と冬」は、南の地方は、日中は爽やかで夜は涼しくおだやか気候です。北の山岳地方では、雪や霧雨が降る厳しい寒さとなります。「春と夏」は、南の地方は、かなりの蒸し暑さになります。北の地方は、快適に過ごせる気温です。「雨季」は、南西モンスーンの影響をうけ、特にパンジャブ州ラホール~イスラマバードにかけての地帯は、絶えまなく雨が降ります。北部では、高い山々が雲の動きを遮るのでの、この時期はほとんど雨が降りません。この国に流れるインダス川は、チベット南西部に源として、多くの支流を合わせながらカシミール地方・パンジャブ州・シンド州と国土の中心部を南へ流れ進み、アラビア海に注がれています。古代インダス文明であるモヘンジョ・ダロやラホールなどの川の恵みうけた肥沃な大地を芽生えさせた。カイバル峠を越えて行き交った古代シルクロードの交易など、パキスタンは古来より、多くの民族・宗教・文化が往来したため、幾多の戦争や支配が重なりあった歴史を歩んできた国でもあります。このパキスタン大地震で被災された方々のお見舞いと亡くなられた方の冥福を祈ります。追記)パキスタンを、位置的に日本に置き換えると、南は西表島あたり北は名古屋あたりに位置します。しかし、標高のある山脈があり、かなりの高山冷地になります。
2005年10月12日
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「結びススキを畑に刺す」昔々、八重山の小島にアールマイと言う海人(漁師)が居ました。仕事場である海が好き、生まれ故郷でもあるこの島の事を何時も想っていました。ある晩、沖へ夜釣りに行くと、目の前に大きな船がやって来ました。その船の甲板から、こんな声が聞こえました。「この島の一番近い港は何処か教えてくれ」アールマイは、こう応えました。「何の為に、その船をこの島に着けるか」と聞きました。すると、又甲板から声がしました。「私は病魔の神である。船倉庫に充満した病気の種子を乗せている」「この島の出入港を教えくれれば、そのお礼にお前の家の者と畑の農作物だけには避ける方法を教えてやろう」「お前の畑に目印であるススキの穂先を結んで差しておきなさい。お前の家の門には七五三の注連縄〔7結び・5結び・3結びのしめ縄〕を張れば魔の種子は入れない」と、病魔の神が言いました。アールマイは、「島の北の方向にアールマイ港という立派な港口がある。その港口から船を入れて下さい」と、言って病魔船が遠廻りに島上陸する様に道順を教えた。アールマイは、急いで最も近い舟着き目指しました。そして一足先に島に戻りました。道の両側の畑に結んだススキを差しつつ村に帰ります。村入口には、七五三の注連縄を張って病魔の神を村に入れないよう準備しました。病魔船は入港、病魔種を蒔いた。が、この島には何ら影響は無かった。それを機会に竹富島ではアールマイの教えとして、植物の種子を蒔いた時は「アールマイぬノールフキ〔すすき〕」と唱えて、穂先を結んだススキを畑に差し、作物の豊作を祈る印としました。村入口の注連縄を張り病祓いの習慣は、祭りとして今も伝えられています。
2005年10月11日
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リンクしてくださり、このサイトを良く宣伝していただいている「花より薩摩琵琶さん」のコメントで、琵琶の音(勘所)と唄の音を合わせる事が難しい場合の『説明』に苦慮された事が、その世界に入るキッカケとか・・・(あっ勘違いでしたら、ゴメェ━━━。゚゚(*´□`*。)°゚。━━━ン!!!!です)意外な事ですが、自分の出している〔声自体〕を知らないと言う事実。これは、自身の発声音を頭蓋骨内では認識していますが、口から外にでた時の音は案外知らないものですよね。知る方法は、〔自身の声を録音〕後、聴くだけです。ただ喉の奥で震えた音が、口の中の構造物(舌や歯の状態)口の中の空間(大口・小口)鼻(鼻腔)の状態(風邪ひきサン・鼻炎持ちサン)唇の状態(厚い薄い・開け方)顔の骨格(他意なし)身体の姿勢(猫背?)肺活量(息を出す量)腹筋量(御腹の筋肉の量ですが、御腹周りの脂肪も影響?)その人の声になるまでには、大変な環境状態を経て『声』になるようですね。〔人が聴いている状態の自分の声〕を〔自分自身で聴く〕事のない状態が普通ですよね。これを幾つかの音源から探し出す事は容易ではないですね。殆どが〔自分の声を想像〕しているに過ぎないから・・・楽器の音と唄声とを比べる事は、他人よりその人自身が一番「気が付き難い事実」ではないでしょうか。もう少し脱線した(酔っぱらい話等)をアップする様にしましょうね。(沖縄フレーズ)
2005年10月10日
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「中絃と女絃の共鳴」本調子の場合中絃(中央の絃)から女絃(細い絃)を見ると「三分損一」の関係です。女絃の基本音の周波数は、中絃の基本周波数の1.5倍になります。わかり易く倍数にすると、中絃の基本音を1とした場合、女絃の2倍の周波数は、中絃の3倍波の固有周波数ということになります。ちんだみ(調律)が上手く出来た場合、女絃を鳴らせば、僅かですが中絃が共鳴します。(この場合、男絃をミュート〔押えて振動をカットします〕すれば聞く事ができます)この時の音の高さは女絃の開放音の2倍の高音ですから、1オクターブ高い勘所の音になります。「男絃から女絃の共鳴」男絃の四分の三倍の高さの音が中絃音ですから、男絃の3倍音(1オクターブ高い勘所)で男絃と中絃も共鳴します。男絃を弾いて直ぐ、男絃と女絃を押さえれば中絃が鳴っているのがわかります。但し、実際にちんだみ(調律)を行う場合、倍音の強さの問題(音が聴き取りにくい)弾きやすさ(絃を二ヶ所同時に押えられない)等の問題が発生しますので「女絃と中絃の共鳴」を使う方が簡単便利です。
2005年10月09日
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「絃共鳴式調律法」調律の方法として「共鳴」を利用する方法があります。「共鳴」とは、〔2本の絃、相互間の振動エネルギーのやり取りが発生する状態〕〔一絃を鳴らすと、他の絃まで鳴り出す状態〕「基本周波数(基本振動数)」楽器等から発する音には、その音を特徴とする周波数の音を基本周波数と言います。「倍音」基本周波数より他に、その2倍~3倍(整数倍)の周波数の音が含まれています。この高い周波数の音を「倍音」と言います。楽器等の複雑な音色を特徴付ける一つの要素となっています。喉笛とでも言いましょうか、モンゴルのホーメイも喉の唸り音以外に笛の音が聞こえます。この笛の音が倍音です。「共鳴」さらに、これらの絃周波数は「固有周波数(固有振動数)」とも呼ばれています。通常、絃を指で弾き直接振動を与えて音となります。しかし、絃は自らの固有周波数で、微かな振動刺激を受け続けると、最初は微小な音で聞き取る事もできませんが、次第にそのエネルギーを蓄えながら、大きな音へ変化していきます。これが共鳴です。巨大なタンカーでも、波の上下運動に逆らわず、手で横方向に推し進めると、次第に離岸していきます。最高品質のドラ(金鐘)に、触れる程度の振動を与えると、数分後には大きな音になります。ここから本題の「共鳴式調律法」です。三線で解説します。三下がり(一二揚げ)以外の(ちんだみ)調律の場合本調子・二揚のちんだみをする場合、「男絃(ウーズィル)〔太い絃〕」と「女絃(ミーズィル)〔細い絃〕」は、例えば〔ド〕の音を基準にすれば、低い〔ド〕と高い〔ド〕の関係になります。つまり1オクターブの関係です。1オクターブの低音域と高音域の物理的周波数は2倍である事を意味します。男絃の2倍の振動で音を鳴らす事が出来るのが女絃となります。上記した「倍音」を利用すれば、男絃自体に含まれる音の中に、二倍音の音である女絃の発する音(1オクターブ高い音)も含まれています。ですから、この「男絃」の中には「女絃」音域の固有周波数があり、ここで「共鳴」反応が起こります。つまり、正確な調絃が出来ていれば、「男絃」を鳴らすと自然に「女絃」も振動を始めます。「中絃(ナカジル)」との関係調律法は、次回記載します。
2005年10月08日
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「音の基準」大陸から日本に渡来した音楽理論「三分損益」という考え方があります。ある一定の〔絃長〕又は〔筒(竹筒)〕から発する音高を基準「基準音」とし、その基準音の長さを四分の三、又は二分の三に分割し、新音を作ります。基準絃音の四分の三弦音は、元音から完全四度低い音です。基準絃音の二分の三絃音は、元音から完全五度高い音になります。さらに、完全五度低+完全四度高=完全九度となります。これはオクターブの関係にあるという事ですね。 三線の場合、中弦(真ん中の絃)基準と考えると、その四分の三倍の長さの絃音が男絃(低音絃)の音その二分の三倍の長さの絃音が女絃(高音絃)の音「本調子」調絃(ちんだみ)「C-F-C」(中間調律)となります。 高音域調律「D-G-D」低音域調律「A-D-A」しかしこんな理論がありました。『基準の長さの弦または管を三分して、その一を現ずると(三分損一)、完全五度上野音が得られ、その長さを再び三分して一を加えると(三分益一)、完全四度下の音、すなわち最初の基準の音の長二度上の音が得られる。この三分損一と三分益一を交互にくり返すので、三分損益の法と呼ばれる。』(小泉文夫著「日本の音」参照)この方法ですと、「三分損一と三分益一を交互に行って、基準音より高音を順に作り出していく事で音階を作る」と、書いてあります。しかし、この方法では無限にオクターブの関係になる2音が発生することはありません。 三線のちんだみ(調絃)は「三分損益の法」という厳密な音楽理論を用いたものではなく、「三分損一」と「三分益一」で高音・低音が得られ、その高低がオクターブとなり、三絃の調律が可能になります。この三分損一と三分益一による完全五度高・完全四度低の音程作りはピタゴラスによっても確認されており、ピタゴラス音階の基礎ともなっています。東洋西洋にある3本絃楽器の調律にこの方法を使う事は極めて自然なことなのかもしれませんね。
2005年10月07日
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「10月6日は国際協力の日」この日は、日本がコロンボプランに参画し、開発途上国支援を開始したのが1954年10月6日であったことから、1987年に閣議決定されました。『ODA』Official Development Assistance.「政府開発援助」日本政府からの公的な援助ですが、概して「金だけ出して」とか「お金の使い方がおかしい」と不評です。事実、お金がないと何も始まりません。不満ながらも十分役に立っているか・・・疑問は残ります。『NGO』Non-Governmental Organization.「非政府組織」民間主体ボランティアや企業などによって運営されている国際協力組織。日本からも多くの人達がNGOに参加して時には身の危険を冒してまで世界各地で働いています。NGOの、ある意味で総元締め?がUNESCO。『JICA』Japan International Cooperation Agency.「国際協力事業団」特殊法人として設立。海外へ人的・技術的援助を主としているようです。
2005年10月06日
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「芭蕉ナガレ」(奄美大島竜郷町秋名) 南島歌謡大成・奄美篇より天(ティン)から 降(ウ)るされたん 美(キョ)ら 芭蕉(バシャ)〔天から降ろされた美しい芭蕉〕天(ティン)指図(サシジ)むち〔天の神の指図によって〕我(ワ)が 植(ウィ)たる 美(キョ)ら 芭蕉(バシャ)〔私が植えた美しい芭蕉〕てぇーでぇーば 登(ヌブ)てぃ〔嶽々を登り〕深山(ミヤマ)深迫(フカザク) 植(ウィ)るされてぃ〔深山の深迫に植えられて〕大東(ウーアガリ)ぬ 清(キョ)ら 遠原(トゥバル)〔大東の清らかな遠原に〕我(ワ)が 植(ウィ)たる 美(キョ)ら 芭蕉(バシャ)〔私が植えた美しい芭蕉〕青葉(アヲバ) たらたらとぅ〔青葉ゆらゆらと〕青葉(アヲバ) 青々(アオアオ)とぅ〔青葉 青々と〕あがんがれぃ 美(キョ)らさる 美(キョ)ら 芭蕉(バシャ)〔あんなに見事な美しい芭蕉〕元葉(ムトゥバ) 切(キ)り 剥(ハ)がし〔根元を切り離し〕末葉(スラバ) 切(キ)り 剥(ハ)がし〔末を切り離し〕薙(ナ)ぎん 薙(ナ)ぎ 美(ギュ)らさ〔薙ぎも 薙いだる(その)美しさ〕切(キ)りん 切(キ)り 美(ギュ)らさ〔切りも 切ったる(その)美しさ〕剥(ハ)じゃる 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)や〔(皮を)はいだ 美しい芭蕉は〕剥(ハ)ぎぃたん 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)や〔(皮を)はぎ洗った 美しい芭蕉は〕黄金灰汁(クゥガネアク) たれぃてぃ〔(黄金の様な灰汁)素晴らしい灰汁を 作って〕煮(ニ)しゃる 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)〔(それで)煮た 美しい芭蕉は〕とぅかさん 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)〔柔らかくなるまで煮た 美しい芭蕉は〕東(アガレ)ひご川(カワ)に きりばぬかし〔東の冷たい川で 灰汁を洗い流し〕あぎぃたる 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)や〔すすぎあげた 美しい芭蕉は〕イビとぅ 手籠(ティゴ) 取(トゥ)り 回(マワ)し〔いび(竹へら)と てぃご(手カゴ)を 使って〕ひちゃる 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)や〔(繊維の周りの身をこそぎ落す)繊維をとった 美しい芭蕉は〕ひちゃる 美(キュ)らさ〔とった繊維の 美しさ〕撫(ナ)でん 撫(ナ)で 美(キュ)らさ〔撫でに 撫でたその美しさ〕金(キン)ぬ 竿(サオ) 取(トゥ)りまわし〔金の竿を 取り出して〕下(サ)ぎぃたん 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)や〔(竿に)下げた 美しい芭蕉は〕下(サ)ぎぃん 下(サ)ぎぃ 美(ギュ)らさ〔下げも 下げたる美しさ〕干(フ)しん 干(フ)し 美(ギュ)らさ〔干しも 干したる美しさ〕はさみとぅ ソケとぅ 取(トゥ)り 回(マワ)し〔鋏と そけ(績み道具)を 取りよせて〕績(ウ)む出(ダ)しゃる 美(キュ)ら 芭蕉(バシャ)〔糸を績みだした 美しい芭蕉〕績(ウ)みん 績(ウ)み 美(ギュ)らさ〔績みも 績んだる美しさ〕下(サ)ぎぃん 下(サ)ぎぃ 美(ギュ)らさ〔下げも 下げたる美しさ〕七尋(ナナヒル)ぬ かしかきぃてぃ〔七尋のかせ糸を 機に仕掛けて〕小袖(コソディ) このでぃ〔小袖を作って(神に仕え)〕九尋(ココノヒル)ぬ かしかきぃてぃ〔九尋のかせ糸を 機に仕掛けて〕大袖(フウスディ) このでぃ〔大袖を作って(神に仕えます)〕開(ア)けれぃ 開(ア)けれぃ〔開けよ 開けよ〕かみがじょ あけれぃ〔神の門を 開けよ〕あけれぃ あけれぃ〔開けよ 開けよ〕きみがじょ あけれぃ〔君の門を 開けよ〕〔芭蕉ナガレ〕は、村々により歌詞が少しの違いが有りますが、神への祈りを込めて歌う「神歌」であり、紡織の段取りを教える「作業歌」でもあります。「芭蕉布」は、一般庶民の着物でした。奄美大島は貢租(税)を砂糖で代納していた為、染織物などの紡織品は、廃藩置県(明治政府)頃まで一般市場に出回る事はありませんでした。その後、紬の生産により、「芭蕉布」作りは衰退。「芭蕉布」の現在の生産地奄美大島には無く、沖縄本島大宜味村喜如嘉産の「重要無形文化財指定芭蕉布」竹富島・小浜島・与那国島に残るのみです。 尚、奄美大島等も琉球弧の一部、琉球文化圏と解釈し記載しています。 重要無形文化財喜如嘉の芭蕉布 着尺平良敏子作 ・ 芭蕉布着物、透明感のある独特の地に素朴な絣模様、極少々難【仕立て上がりリサイクル着物】 特選 重要無形文化財 芭蕉布名古屋帯【トンボ】 赤城芭蕉 特選 絹絽芭蕉【片 縞】 正絹夏もの絽芭蕉「紺色横段に琉球鳥」
2005年10月05日
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宮古島北部・島尻集落に伝わる伝統行事。「パーントゥ」とは、宮古の方言で化け物や妖怪を意味します。 写真:宮古島市教育委員会 (旧平良市教育委員会)旧暦9月(新暦10月頃)の連続する2日間〔昨日、今日〕。宮古島北部の島尻集落(平良市街から車で30分)で開催されます。「17~20時」まで。毎年17時ジャストに始まり、20時ジャストに「終了の放送」を合図に終わります。沖縄の祭りにしては珍しく、時間がしっかり決まっているようです。全身泥まみれの奇妙な格好をした神様が集落に現れ、人々・家(特に新築)・車(特に新車)に泥を塗りまくります。泥を塗られた者には無病息災がおとずれる。正式には「パーントゥ・プナハ」といい、年に三回あるプナハ行事の最終回に行われます。「ンマリガー」(ガーとは水場)と呼ばれる泉水池が、扮装する青年達の「楽屋(舞台裏)」です。夕方、日常の着衣を脱ぎすて、非日常の衣をまとう。全身に泉水池の泥を塗りたくり、「キャーン(シイノキカズラ)」を巻きつける。泥仮面を手に黒い草獣の出来上がり。彼らは「フツムトゥ(拝所)」に出向き、祈祷後、部落へ。主に新築の家や新生児のいる家がターゲット。これは、新築家屋や新生児に好んで取りつく悪霊を祓い、「嘉例・カリー(祝福)」を授ける、という役割を担っています。観光客も容赦なく泥を塗られます。荷物は全て車に置き、カメラと体だけで参戦する事をオススメ。着替えの持参必須、カメラは水中ハウジング等で防御したほうが良い。レンタカーは集落入口にあるパーントゥの里会館駐車場に止めること(容量20台)。集落内は道路が大変狭く、興奮した子供達やパーントゥが駆け回るので、集落内には車で入らないほうが良い。日没前は写真撮影しやすいが、街灯が少ないため日没後のピント合わせが難しい。ケガ防止のためサンダルは止めた方がよい。(かなり追いかけられますよ)ピカピカの新品には、変な大切感があり、下手をすれば触れる事も少なくなります。一度、汚れを体験すると愛着もわくものですね。神様に汚してもらい、祝福を頂く。物や人を見つめ直す良い行事だと思います。このプロセスまでが、大変では無かろうかと感じました。
2005年10月04日
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昨日、和紙の作品展を鑑賞してきました。オォォーーー!! w(゚ロ゚;w(゚ロ゚)w;゚ロ゚)w オォォーーー!!ですね。発想を変えると、こうまで変化に富むものかを実感しました。和紙については過去ログに記載しています。今回の驚きは、紙は漉く物から新しい素材への転換でした。通常の和紙もシワ加工や染色により、「皮革の様な風合い」を作る事はありましたが、「縄のれん」や「タオル」「Tシャツ」「帆布の様に丈夫な織りのバッグ」になることは驚きでした。これからは、いかに発想を変えるかを主題としてみたいものです。
2005年10月03日
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秋の季節を楽しむ?民族衣装の展示会があり、目の保養をしてきました。コウゾやミツマタ、ガンピの和紙を使ったドレス。紙製のTシャツやロープなど、目からウロコの作品でした。面白かった。やはり、車ではないのでワインなぞコンビニで買いつけ昼間から呑んでしまいました。千円以内のコンビニワイン(田崎ソムリエ推奨)はやはり美味しかった。が、よくマワッタ。。。夕方居酒屋でギネスビールだけ飲み、締めとして帰宅しました。携帯から送信できていなかった事お詫びします。携帯まで酔っぱらいの様でした。
2005年10月02日
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2005年10月02日
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市認定街頭ライブを、午後から行います。津軽三味線と共演する為、楽器がかぶらないように打楽器です。サックス&津軽三味線&ディジュリドゥ&タブラかな?新作打楽器もデビューさせよう。場所は〇〇〇です。
2005年10月01日
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