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琉球漆器の製造工程上、特異とされる事は「下塗り」の工程です。 最近は、下塗りの下地材として化学塗料を使う様になっていますが、琉球王朝時代の殆どの漆器下地として、豚の血を塗る「豚血下地」の技法を使っていました。「明治時代前半」廃藩置県後、民間工房に生産が移行されてからは、広くこの「豚血下地」を使った漆器類が普及していきます。 沖縄の気候風土は、琉球漆器の「仕上げ」上塗りに最も最適とされ、平均湿度80%平均気温23%は、漆器製作(乾燥工程)において理想的な環境とされています。 他府県の漆器工房では、人工的に、この環境を整備しなければならないが、沖縄は天然の乾燥場となっている。 しかも、人に影響があるとされる沖縄の強い紫外線が、漆の透明感を引き出し、鮮やかな朱色を生み出す事となります。 「朱漆」は、琉球漆器を代表する物ともされています。 沖縄の自然風土と、漆器職人の知恵と技の融合が「琉球漆器」を生み出しています。次回は漆器職人の技、「加飾」です。
2005年02月28日
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「1609年」薩摩藩の侵攻以降、琉球漆器は「意識的に」中国様式模様の制作を余儀なくされた。 侵略国薩摩への献上品として、強制的に「中国様式」品として納め、薩摩は「中国との貿易は、我が手中に有り」を誇示するモノとして扱っていました。古い漆器のなかで、中国模様があると「琉球製」かもしれないですね。又、古く上等な琉球漆器は、「中国製」との評価を受けていたようです。 廃藩置県後、鹿児島・大坂の問屋の出入りで、「大和風」の製品が主流となります。大戦で焦土となり、生産中止終戦後、アメリカ軍族の土産物として復興この時、「朱塗り主流」から「黒塗り主流」へ変化していきます。米軍の部隊マークやプレ-トや「ワイングラス」まで注文に応じて、次第に漆器概念を打ち破る事となります。日本復帰後、本土の土産物として「工芸品」が増える。最近では、「日用品」として「使える朱塗り漆器」が盛んに生産されるようになります。 沖縄での漆器制作には、他の地域とは異なる点があります。基本的な特色としては自然の力紫外線と高温多湿な環境が、漆器作りに最適な環境とされており、人工的に作り出さなくても良い。漆器木地に使用されるのは、県花指定「梯梧(でいご)樹」デイゴ材は、バルサ材と同じ位軽く、厚みのある漆器を作る事も可能。100パーセント水分を含んでいても、表面積は殆ど変わらない。その他の漆器木地としては、「した槙(えごのき)」 主に棗(なつめ)や碗(わん)・小物類〔輪切りにしても芯割れを起こさない〕「せんだん」「やらぶ」「ガジュマル」などがあります。最近では、変わった素材として「サトウキビの絞りカス」を圧縮成型して、盆や茶托、銘々皿などの平たい器などに加工されています。
2005年02月27日
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焼物には、上級士族御用達の「上焼(じょうやち)」釉薬あり一般庶民向けの「荒焼(あらやち)」釉薬なしが窯場の初めとされています。 獅子は、古代オリエントを起源とするライオンを原形として、中国を経て「13~14世紀頃」琉球に伝わったとされているが、沖縄の獅子像で最古品は、浦添ようどれ陵「1265年」の王墓石棺に浮き彫りの獅子像があります。中国交易盛んな頃、首里玉陵「1501年」には、 立ち姿の雌雄一対の獅子像 毬紐を咥えた毬取り獅子像 小獅子を抱いた親子獅子像などがあります。この獅子達は、中国福建省の石材を使った石像です。「17世紀後半」になると、村境に石像獅子が姿を現す。「18世紀頃」士族階級の家は瓦ふきが認められており、その頃から屋根に家獅子を置くようになりますが、まだ一般庶民はワラ葺きしか認められず、屋根に配置できませんでした。 廃藩置県後に入ってやっと、一般庶民の家の建築様式に瓦を葺けるようになり、漆喰製や陶製の獅子が普及し、魔よけシーサーとして庶民生活に馴染んできます。シーサーの姿には、 「這う(ほーやー)シーサー」(フセの状態) 「立ち(たっちゃー)シーサー」(オスワリの状態) 「頭(ちぶる)シーサー」(胸から上) 「面(ちら)シーサー」(顔面)などがあります。 現在の名工の中には、家業が陶工でありながら、ろくろ作りがうまくできず、手びねり細工のみ行っていた方がシーサー作りの名工として活躍されています。 壺屋の陶工たちは、焼物を窯で焼き上げる事を「うまらす(生まれる)」と言う。 火入れの準備が整うと、泡盛・マース(塩)・米を御供えして、「うまらしみそーれ」と祝詞をあげて、泡盛を窯火にふりかけて、残りを皆で回し飲みをして祈ります。 戦後、捕虜収容所から一番早く解放されたのは、陶工たちであり、「まかい(碗)」や「けーうち(皿)」などの日用雑器を中心に生産されていきました。
2005年02月26日
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前の工程は大島紬(1)をクリックしてください 泥染めの工程を経た「糸」や「絣むしろ」は、この後28の工程がありますが、主な工程として 機に掛ける為の 整経 糸操り 糊張り 部分脱色 刷り込み染色 絣むしろ解き 綾拾いなどの工程があります。大島紬の刷り込み染色は比較的新しい技法で、「藍の抜染(抜き染め)」が可能になってから導入され、色使い豊富な「多色紬」が開発されました。織りの工程で手織りを必要とされる理由として、大島紬の王道、繊細な絣模様を引き出すための技法があります。一定間隔織られると、経糸を緩め、一本一本丹念に針の先を使い、「絣合せ」の工程があります。この絣調整法は、「明治23年頃」から始められ、「経緯絣」の精密さが大島紬の最大の魅力となります。古代染色と絣技法の融合を頑なに守り伝えた大島紬は、天然素材を使った織物の極限と言われ磨き上げられた。 「軽い」 「温かい」 「シワにならず」 「着る人の身体をしなやかに包み込む風合い」 素朴で渋い柄合いがありながら、 光を反射する光沢感。幾多の試練を乗り越えながらも、高級織物の頂点に君臨しています。しかし、昨今「韓国産大島紬」が市場に出回り、現代の脅威的存在であり、現代の苦難とされつつあります。
2005年02月25日
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(まえおき)「大島紬」の故郷 奄美諸島は、薩摩の侵略により、後の廃藩置県で鹿児島県となっていますが、文化的見地から独断では有りますが、沖縄文化と解釈させて頂きます。 奄美は「古代から八・九世紀頃」までの僅かな時間、自然に逆らわず風と土と共に生きてきた。それ以降は、従属の歴史。力の支配に身を任せるしか術がなかった。奄美民謡の張り詰めた裏声を駆使した独特の旋律は、島の哀しい歴史がこもっており、先人の苦しみを偲歌。「1720年」〔大島政典録〕の禁令文に、「与人・横目・目指・筆子・掟までの役人には紬着用を許すが、下の者には紬着用一切許さず」の記録があります。 奄美大島紬(つむぎ)の特徴として、非常に細かい絣模様で構成されており、「てーち木(車輪梅)」や後に「藍」などの植物染料と泥染め法を活用した技法を使い、織り上げまで全て手作業。 現在の奄美大島紬は、「絹100パーセント」の先染め手織りである。 細かな「かすり模様」を出す大切な工程として、「締機」の開発にあった。この「締機」が「奄美大島紬」の最大の秘法である。 大島紬は、絹糸のみを使う為、材料を変えて変化を楽しむ事はできない。 そこで、細かな絣模様や柄、色合いや糸の密度を巧みに組み合わせて変化を楽しむ。染めまでの工程として、経糸・緯糸をそれぞれ16本づつまとめて、液状のフノリやイギスと付けて日光乾燥させる糊張り。防染(白ヌキ)の働きのあるガス綿糸を経糸として、糊張りした材料糸を緯糸とする「締機(しめはた)」を使い織り締めをする。「絣むしろ」と呼ぶ。(注意として、絹糸は強く締め付けないと、白ヌキしたい部分まで染色液が染み込み絣模様は出ない)この為、「締機」を操るのは男性の仕事。「てーち木(車輪梅)」の幹や根を小さく割り、長時間煎じた液に「締機」で織り上げた生地を約20回繰り返し染める(赤褐色)「てーち木(車輪梅)」染めされた糸や「絣むしろ」は、泥田に浸しながら丹念に泥を塗り込ませる、(この工程を「泥染め」と言う。 「てーち木(車輪梅)」のタンニン酸と泥の鉄分が化学結合して、赤褐色から次第に黒色に変化していく。この工程を3~5回繰り返し染め付けると、糸は柔らかく大島独特の渋い艶のある黒色に染め上がる。ここまでが、通常「機織り」の前工程です。 今日は、十六日祭ですね。十六日祭記事をクリックしてください
2005年02月24日
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藍染色法には、「泥藍染色」と「生藍染色」があります。発酵させて染める「泥藍染色法」発酵させない「生藍染色法」 日本を代表する藍のなかで、色素濃度も高く、色も美しいとされています。 南国特有の日差しに、色抜けし難い染色の一つとされています。言い伝えによると、 藍染めは縁起がよく、祝席には必着とし、虚弱体質な人は常に着用すると丈夫になる。 虫除け効果を利用して、タンスの引き出しごとに藍染め着物を一枚づつ入れる習慣がありました。しかし、着る物の洋装化や安易な化学染料の発達により、藍製造所は減少。琉球藍は、別名「山藍」「唐藍」「大藍」と言われています。 琉球藍の「泥藍」とは、藍製造所から染色所に供給する製品であり、「泥藍を育てて」から染色されます。 琉球藍は、年二回の刈り取り(旧暦5月の冬越しした「冬藍」約75センチ・ 旧暦9月の夏越えした「夏藍」約95センチ)の収穫から始まる。 挿木植付けから、2~3年に一度の株の更新、適度な雨量と施肥(最重要・主に牛糞を使用) 刈り取った新鮮な藍葉を、4~5日水に浸し発酵 (この時、物凄いニオイを放つ) 名人はこのニオイを「かばさん(薫る)」と言います。 見学時、くれぐれも「くさい」と言ってはいけません! 叩き出されますよ。 藍葉だけを取り除いた液に生石灰を加えて攪拌する 液の底にある沈殿物が「泥藍」 藍製造所の作業はここまで 「泥藍」を買い求めた染織工房では、 藍甕を建てて、「泥藍」・水・苛性ソーダを入れる PH管理のもと、泡盛や麦アメ(澱粉質)を投入調整 7~15日間、発酵させ還元を待つ 藍甕の上に「藍花(いぇーばな)青い泡」が立って 初めて染めに入る。 沖縄を問わず、本土各地の染色家は一様に 「染めの本命は藍染めにあり」 「藍は生きモノ」 藍立ての難しさから 「藍の御機嫌伺い」と言う。 藍の製造工程は、 藍葉の生育から発酵、 攪拌を経て、 「泥藍」の状態までが大変な苦労と神経を遣い、 経験と勘を最重要とする作業です。 沖縄では、藍の木を「心配木(しわ木)」と呼ぶ。
2005年02月23日
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元祖的な絣の起源は、今だ解明されていません。 ただ、インド・アジャンタにある洞窟寺院の壁画に「矢絣」を着た人物画が発見されています。この寺院は「紀元前2~7世紀」に建立とされています。「矢絣」の図柄は、ジャワ・スマトラ・チモールなどの南方に広く伝えられ、後に「14~15世紀頃」南方貿易を行っていた琉球国に上陸したものと考えられています。 琉球に伝わった絣は、島民の「織」の技法と融合して発展する。「琉球絣」の基本的な図柄だけでも「600種類」を数えると言われ、組み合わせ変形に至っては「無数」存在。日本本土に伝わるのは、「1609年」薩摩侵攻により九州に上陸し、「久留米絣」・四国「伊予絣」・東北「米沢絣」となっていきます。 琉球国の多彩な「色絣」や複雑な「紋織」は、当時上層階級専用とされており、一般庶民の着用は禁止されていた。 それ以上に「貢納制度」の影響で、やり場のない庶民は、一見単純な「平織」の中に「自由と言う図柄」を配し、複雑な絣模様を築いていった。 絣柄にも、仕事着・普段着・遊び着・祝着・喪服など、TPOに合せて変えられており、庶民の許される範囲で楽しんでいた物とされています。 絣模様には、「銭玉(じんだまー)商売繁盛」「米絣(くみかすー)家内繁昌」「亀甲(びっくー)長寿祈願」「八十八絣・安全祈願」などの願い事を込めた絣模様もあります。 生活環境に溶け込んだ絣模様としては、「鳥小(とぅいぐゎー)」「群星(ぶりぶさー)」「爪ぬ型(ちみぬかーた)」などがあります。「経絣」は、経糸上に施した絣模様「緯絣」は、緯糸上に施した絣模様「経緯絣」は、経糸上・緯糸上両方に施した絣模様 個性溢れた琉球絣を支えている技法として「手結(てーゆい)式」「絵図式」「締機(しめはた)」「かしりちきー」などがありますが、特に「手結式」の技法は織機(おりはた)上で、緯糸(よこいと)をづらしながら模様を織り出し、「絣足」をきっちり揃い合せる事ができ、とても美しい仕上がりになります。
2005年02月22日
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「琉球絣」は、木綿素材を使い、藍染めを施した織物が一般的とされています。 琉球藍は「一名山藍」とも呼ばれ、沖縄の代表的な染料植物です。 その藍立て製法から「泥藍」と称されている。 (製法については後日記載します) 染色・水洗いの工程を数十回繰り返し繰り返し行い、紺の色合いは限りなく黒に近い。 民謡の歌詞に「烏(カラス)色」「黒色」を表すほど、貴重な紺地である。 この深い紺色は、南国特有の強い日差しにも退色せず、柄合に独特な趣を醸し出し賞賛されている。 沖縄では、この「泥藍」の紺を主体として「芭蕉布」「宮古上布」「八重山上布」「首里織」「南風原絣」「読谷山花織」「久米島紬」など、各地の織物に絣模様として織り出されてきた。「琉球絣」とは、この様に広く沖縄で織られる絣織物の総称としても使われている。 素朴とも言える紺絣以外に「首里柄」と名の付く色絣もある。 特に目を奪われるのは、 多彩な格子縞(じま)の中に絣をあしらった「手縞」 経糸と絣を組み合わせた「縞の中(あやのなーかー)」 黄地に藍・赤・褐色の色使いの「経経総絣(むるどぅっちり)」これらは高貴な王族や士族のみに許された琉球王府の制服である「御殿柄(おどんがら)」と呼ばれている。 今、首里の地において少数ながら復元されつつありますが、まだ市場流通には時間が掛かるようです。
2005年02月21日
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「命(ぬち)どぅ 宝(たから)」ご存知、〔命こそ宝〕 命は何ものにもかえられない大切なものである。どんなに辛い事があっても命を粗末にしてはいけない。死んだら全てを失うことになる。 だれかと喧嘩したり、笑いあったり、ささやかでも大切な幸せを味わう事ができる。生きているからこそ、苦しい事、楽しい事を体験できる。 首里城明け渡しの時、時の王「尚泰王」が詠んだとされる琉歌「戦世も すまち 弥勒世も やがて 嘆くなよ 臣下 命どぅ宝」に由来する言葉。特に戦後から多く言われるようになった。宮古島には、「すんすぅがど すぅんぬばー すす」〔死ぬ者が損をする〕死ぬ事の無益さを説いています。
2005年02月20日
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「アシビぬ 美(ちゅら)さ 人数(にんじゅ)ぬ 備(すな)わい」〔集まりの充実は、人の和の充実〕 有名な歌詞ですよね。 ただ歌うより 意味を理解すると面白いですよね。 村単位の集会や村祭り・共同体の演芸会などを成功させるには、歌や三線の上手な人達が、それぞれ集まってこそ成功につながる。 そういった人の和が保たれてこそ、内容も充実して成功する。集いへの参加を呼びかける場合や、集会での集まりが悪い時などに、説得あるいは批判の手段として用いられる。 また、集いの和が理想的に保たれている事を評価する場合にも使われる。 談)鼻歌交じりに歌って、知ってる人は「ああ、そう言うことね。」と納得するだろうし・・・。 さりげなく、皮肉る事にも使えそうですね。 場が良い場合は、朗々と歌うのも一考ですね。こんなの欲しいな~
2005年02月19日
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「人(ちゅ)ぬ 情(なさ)けー 松(まーち)ぬ 葉(ふぁー)にん 包(ちち)まりーん」〔人の情けは、松の葉にも包まれる〕 人情親切は、目に見えるモノだけではない。 松の葉の様な小さく細い葉でも包めるような「情け」と言うものもある。 人はプレゼントなど、目に見える形ある物に相手の好意を多く感じがちである。 思いやりのある温かな言葉などの、さりげなく相手に渡せる物もある事。 ほんの少しの親切であっても、相手が尽くしてくれた情けと言う恩義に対して、大切に受けとらなければならない、と言う教え。 談)実感しております。改めて ありがとう。
2005年02月18日
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2、「命果報(ぬちがふぅ)どぅ 孵果報(しでぃがふぅ)」 〔命が長らえる幸せこそは、生まれた幸せ〕 この命が長く続く事は、この世の中に生まれた幸せ 幸せとは、命があって初めてなる事ができるもの。 病気や怪我で命を縮めると、自分の願いを叶える事ができない。健康でありさえすれば、いつか必ず幸せをつかむ事ができる。 孵化の孵(しでぃ)は、文字通り鳥の孵化を意味し、果報(がふぅ)は幸せを意味する。 八重山古典民謡の「鷲ぬ鳥節(ばすぃヌとぅるぃ節)」に、孵化した鷲のヒナが、正月の明方に太陽(てぃだ)を浴びて舞って行った。 病気がちの人・やけ酒を呑んでいる人・無鉄砲で危険をかえりみない人に対して、「体に気をつけて」と命の大切さを説く場合に使われる言葉です。 談)じゅうじゅう承知しました m〇m少しづつならいいよね!
2005年02月17日
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「先(サチ) 行(ウン)じ、後(アトゥ) 言(イ)り」 〔人より先に行き、後で発言しなさい〕 会議などの話し合いがある場合、他の人より先に現地に集合して、初めからよく意見を聞き情報を集めて、後で自分の意見を述べる事が大切である。 ウチナータイムやテーゲーに対してではなく、其の場その時の情報を察知して、的確な発言が大切。 「心のゆとり」「時間のゆとり」 これは、〔時間にルーズである〕とは違った解釈が必要ではないでしょうか? 少し気分転換のつもりで脱線しています。 曲の解説も120以上になっているはずですが、リクエストがあれば、著作権フリーの曲に対しては記載できるかと思います。 疑問・質問など有りましたらコメントして下さい。
2005年02月16日
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三線の胴の側面には、「手皮(ティーガ)」が付いていますが、この中の模様に「三つともえ」があります。 この「三つ巴」は、左周りに三つの巴で「左御紋(ひだりぐむん)」と言い、琉球王国のシンボルです。 この「左御紋」の言い伝えを民話から紐解いていきましょう。 那覇市に伝わる 「謝名親方(じゃな うえーかた)の最後」 昔、大変武芸に優れた「謝名親方」と言う、琉球国の軍師がいました。 当時、琉球は唐と親和条約を結んでおり、交易の中継地点として発展していました。 ある時、薩摩藩から沢山の軍勢が攻め込み、琉球国は窮地に追い込まれました。 「謝名親方」は、加勢要請の書状を唐に送りましたが、唐で研修している琉球の役人は、「大変な事になっている。唐の王に申し上げると、騒ぎになるから渡すまい」と、言って書状を隠してしまいました。 その頃、首里に居る「謝名親方」は、「私が唐に書状を出しているから、もうすぐ唐から加勢軍が来るはず」と、のんびり構えていた。 ところが、いっこうに唐の加勢軍は来ません。薩摩藩の軍勢は、沖縄北部の山原(やんばる)から侵攻していました。 山原の人達は、火縄の鉄砲を見たことが無く、「棒の先から火(ピー)が出ると、体に穴が開く」と言って、次々に倒れていきました。 やがて、薩摩藩の軍勢は天川坂を上り、嘉手納から首里へ侵攻して琉球国軍は負けました。 戦に負けて「謝名親方」は、捕虜として琉球王と共に、薩摩に連行されました。「謝名親方」は、武芸に長けているのを知られてしまい、薩摩の殿様から「この者を、縄で縛り、煮えた油の中に入れてしまえ」の、令により若い薩摩の家来に、縄をうつよう命じた。「謝名親方」は、若い薩摩の家来を見て、「こんなに年若い子供に、縄をうたせるとは・・・。」と言い、大変残念がり、一つの謀を思いつき、「私が、琉球の空手と言う武芸をお見せしましょう」と言いました。 すると、薩摩の殿様は、「これはいい、沖縄の空手は始めて見る。よかろう、ぜひ見せよ。だが、もしお前が逃げた時は、王の命は無いぞ」「謝名親方」は、「私一人なら逃げる事もできよう。だが、王のお供で来たからには、逃げる事ができましょうか」と言い、空手を披露している最中に、薩摩の偉い役人を両方の腕で羽交い絞めにして、煮えた油の中に飛び込んだ。 三人は、大きな釜の中で左に回りながら息絶えた。 釜の上から見ると、三人の頭だけが回って、髪の毛が後ろから着いて行く様な光景が、三つ巴に見えた。琉球王「尚家」の紋章はここからきています。これが、三線の紋章つまり、「琉球王族のあかし」と、されています。この王が、薩摩に連れて行かれる時に「命どぅ宝」の言葉を残しました。 三線を大切に扱っていますか?
2005年02月15日
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この歌に出てくる男女は、島に赴任していた役人と、身の回りのお世話をする女性。 今は久部良港にフェリーが着きますが、昔は なんた浜に船が着いていました。 大変な航海をして赴任地に辿り着いた役人は、沢山の島の女性の歓迎を受けます。 船から上陸すると、砂浜の波打ち際には、歓迎する女性達が個々に作ったたくさんのアダン葉のゾウリが置いてあり、役人が履いたゾウリの製作者(女性)が、赴任中「島の妻」として尽くしていた。 二人は、出会った時から恋仲になり、首里に戻る役人との別れを切なく歌っています。 当時の船舶や航海術で荒い外海の航海は、死を覚悟の渡航の為、航海の安全を祈る歌でもあります。 「しょんかね節」(二揚) 読み人知らず1、暇乞(イトゥマグ)いとぅむてぃ 持(ム)ちゅる 盃(サカジキ)や 「ツィンダサヤゥ ツィンダサ」 目涙(ミナダ) あわむらし 飲(ヌ)みぬ ならぬ 「ウムイバヌ ナグリシャ」 「ンゾ ナリ ムヌ ヤゥ ハリ ションカネーヤゥ」〔愛するあなたとの別れの盃の中に、「可哀相で、可哀相で」 涙が落ちては泡が立ち、涙が落ちては泡が盛り、一口もノドを通す事ができましょうか〔様々な思いが懐かしい〕〔可哀相な人、しょうがない〕〕2、片帆(カタフ)持(ム)たしば 肝(クィム)ん 肝(クィム)ならぬ 「ツィンダサヤゥ ツィンダサ」 諸帆(ムルフ)持(ム)たしば 諸目(ムルミ)ぬ 涙落(ナダウトゥ)し 「ウムイバヌ ナグリシャ」 「ンゾ ナリ ムヌ ヤゥ ハリ ナグリシャー ヤゥ」〔船の帆が揚がり始めると、落ち着かなくなり、情けない思いが込み上げる、全ての帆が揚がり、最後の最後の別れ、胸は焦がれて、張り裂けんばかりに、泣き泣き崩れる〕3、与那国(ヨナグニ)ぬ 渡海(トケ)や 池(イキ)ぬ 水(ミジ)ぐくる 「ツィンダサヤゥ ツィンダサ」 心(ククル)安々(ヤシヤシ)とぅ 渡(ワタ)てぃ いもり 「ウムイバヌ ナグリシャ」 「カリユシ ショウリー ハリ サトゥ マイー ヤゥ」〔与那国から出て荒波が、池の水の様に穏やかに願います、心安らかでありますように、航海の安全を祈願しております〕4、なんた浜までぃや 無蔵(ンゾ)に 送(ウク)らりてぃ 「ツィンダサヤゥ ツィンダサ」 大渡(ウフドゥ)押(ウ)し 出(ヂィ)りば 美風(ミフ)どぅ 頼(タヌ)む 「ウムイバヌ ナグリシャ」 「カリユシ ショウリー ハリ サトゥ マイ ヤゥ」〔なんた浜から(約三キロのヤディク高台まで登って)見送りするのは乙女達の役目です、大海に出た後は、風と波に祈を託します〕5、与那国ぬ 情(ナサ)き 言葉(クトゥバ)どぅ 身(ミ)ぬ 情(ナサ)き 「ツィンダサヤゥ ツィンダサ」 命(ヌチ)ぬある 間(エダ)や とぅやい しゃびら 「ウムイバヌ ナグリシャ」 「ンゾ ナリ ムヌ ヤゥ ハリ ションカネーヤゥ」〔与那国の情けは「御嶽の前と海岸で最後の別れの遺言葉」と言う御言葉の挨拶がある、命がある限り問いかけ逢わせをいたしましょう〕
2005年02月14日
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沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案が出て、通過した後、沖縄独立論で賑わっていた。 もし独立したならば、の論議で、「旧暦に戻そう」の議題がでた。 独立論の議案中に、旧暦の生活をしようと提案。 沖縄なら何ら問題なく行う事ができると思います。 明治政府は、天長節・神武天皇即位日・神嘗祭・新神嘗祭など、国家の祝祭日を次々に作っていった。 しかし、これらは全て天皇家の祝祭日で、少なくても江戸時代までは無関係で、徳川の時代でさえも、将軍自らの記念日を庶民に押し付けてはいない。 現在の祝日も国家による祝祭日の延長にある様に思える。太陽暦採用によって、官僚達の日曜休日まだしも土曜に至るまで休日にして、庶民の季節感まで奪っている事に何人の人達が気が付いているだろうか。 旧暦の暮らしの特徴として、自然の変化を敏感に察知して生活に心のゆとりを与えるもので、昨今言われている「癒し」の原点でもあると言っても過言ではない。 旧正月なら、寒さの底にあり、これから春の訪れを予感させる、文字通りの「迎春」を迎える。 7月の七夕も旧暦なら、満点の夜空を満喫できるはず。 暦を調べていて、個人的に感じた事を今回は書きました。
2005年02月13日
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昔、ある村に2人の兄弟がいた。母親を亡くし、父親は酒ばかり呑み歩き、母親の死亡すら知らない有様だった。 2人の兄弟はなげき悲しみ、とりわけ弟は毎日毎日母親の事を思い出しては泣き暮らしていた。 そこに死の世界を知っていると言うお婆さんがやって来て、「それほどまでに、母親を想っているのなら、母親の居る世界まで案内してあげよう」と、言い二人の兄弟を大きな川岸まで連れて行って、「いいかい、よくお聞き、その世界はこの川の向う岸にあるから、この舟を漕いで行きなさい」と、二人を小舟に乗せた。「懸命に漕ぎなさい」の言葉を後にして、兄弟は舟を走らせた。だが、漕いでも漕いでも対岸に近づく様子も無く、疲れ果てた兄は、「このお婆さんは僕らを騙している。もう漕がない」と言って、櫂を投げ出してしまった。 一方、弟は一人で黙々と漕ぎ続けた。気が付くと、そこは滝の上。 兄弟の乗っている小舟は、滝に飲み込まれてしまった。「もう駄目だ」と、思った瞬間、あのお婆さんが現れて、弟を抱き上げ空高く昇り「あなたは親孝行者だから、世の中の模範になりなさい」と、子(ね)の方角に置いた。これがニヌファー星(北極星)そして、天の川の下に一つだけ離れてわびしく光っている星は、滝から落ちた兄だった。夜(ユル)走(ハ)らす船(フニ)やニヌファ星(ブシ)見当(ミア)てぃ我(ワ)ん生(ナ)ちぇる親(ウヤ)や我(ワ)んどぅ見当(ミア)てぃ(てぃんさぐ ぬ 花) 季節的には、7月の話ですが、かの津波で一人だけ生き残った男の子が、母親を捜していた、あの映像が残っていましたので、記載しました。
2005年02月12日
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昔、川沿いの道を歩いていると、その川沿いに一人の老人が立っていた。何か思案している様でした。 その側を通り過ぎようとすると、「お願いしたい事があります。どうか聞いて下さいませんか」と言うので、「何でしょうか」と聞き返した。すると、「この川をどうしても越えなければなりません。しかし、我の足では越える事ができん。向こう岸まで行かねばならん、困った、我を背負って向岸まで渡してもらえないか」と、言った。「しかたない、年寄りの言っている事だから、聞かない訳にはいかないだろう」そう思い、老人を背負って川を渡ろうとした。 川の中ほどに差し掛かったところで、何やら背中がとても熱い。「お爺さん、どうしてお腹がそんなに熱いのですか」と、言うと「風邪気味で熱があるから、熱いのかもしれないね」ただそれだけ言った。 川を渡り終え、対岸の川辺に着くと、「ありがとう、実は私は人間ではありません。天の使いです」「どういう使いなのですか」と尋ねると「〇〇集落の〇〇番地の家を焼き払って来い。との、天の令を受けた」と言った。「そこは、私の家ですよ」「ああそうでしたか、背負っていただいて恩義を受けたあなたの家を焼くわけにはいきませんね」一瞬、その老人は考えて「ではこうしましょう、私は焼いた煙に乗らなければ、天に帰る事ができません。そこで、家の近くの畑に小屋を造り、それを焼いて私を天に返してください」「もう一つ、家の棟にこの様な木札を付けると火事にはなりませんよ」と言い〔天官賜福紫微鑾駕(てん かん し ふく し び らん か)〕と、木札に書き、棟(むね)に付けるよう教えて、天に帰っていった。 その後、村で大火事が発生するが、その人の家だけが残った。それ以来、家を新築する時は、この木札を大工の棟梁が書き、棟木(むなぎ)として付ける様になった。 今現存している棟木は、竹富島の古い民家に残されています。又、民族資料館にも展示されています。
2005年02月11日
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今日は少し長い話です。昔を語るには、その時代の背景を知る必要がありますので、今回は暦についての話です。現在の暦は、「グレゴリオ暦」を使い生活しています。「1872年」(明治5年)12月2日この日以前、日本中で旧暦を使っていました。ただし、この旧暦は純粋な「太陰暦」ではありません。「純粋太陰暦」は別名(イスラム暦)と言い、イスラム教の宗教行事に使う為の暦で月の満ち欠けによる12ヶ月を一年としている為、一年の長さは約354日です。 太陽と月の周期(位置)には、誤差がある為に季節のズレも生じます。 16~17年の周期で「1月」が冬になったり、夏になったりします。 イスラムの遊牧民の環境では、熱帯地域の為に夏・冬の季節がなくても生活ができ、農作物にも影響がでない物が多くあります。 宗教で生活のサイクルが決まる事から、「イスラム暦」が宗教上大変意味がある物とされています。 このまま太陰暦が、季節のある日本や中国で使えるはずがなく、そこで考え出されたのが「太陽太陰歴」の原形ができました。この原形「太陽太陰暦」がいわゆる旧暦。 中国ではこの「太陽太陰暦」を「農暦(のうれき)」と呼び、農村生活に最も適しています。 旧暦を使っていると、月の満ち欠けだけで日にちがわかり、昔の人がこんな言葉を残しています。「晦日(30日)の月(お月様)」(みそか の つき)と言い、〔ありえない事〕を意味します。確かに新月には月がない(見えない)。「太陽太陰暦」の最もうまく出来ているのは、農業の出来ない暇な時期(冬)に「立春」とし、その前後に必ず「正月」が来るように組み込まれている。 その他には、月の満ち欠けで、潮の干満がわかる。つまり、日にちがわかれば、潮の満ち干きがわかることから、漁師の必須条件に、現在も残っています。 太陽の周期だけの「太陽暦」は約365日で一年 月の周期だけの「太陰暦」は約354日が一年 一年で「11日」の誤差が出ます。 三年すると「33日」。 「33日」は、ひと月分(これを「うるう月」と言います) この暦を、純粋に組み合わせても、 三年に一回は「13月」を制定しなければならない。 これでは、農業には適さない。 下手をすると正月休が30日有る事になる。 そこで「太陽暦」の一年を24等分して、 最初は「立春」から始まり「大寒」で締めくくる。 日本では、「立春」から数えて、 88日目を「八十八夜」(夏も近づく・・・。) 現在の暦(グレゴリオ暦)の5月初めに「種まき」「立春」から、210日・220日目が「厄日」として、 台風の到来を予測できます。(9月1日・10日頃) 今、「迎春」を迎えるに当たって「桃の節句」や「菊の節句」がいつかな?「季節どおりの暦」も有ると、楽しくなりませんか?あなたは「グレゴリオ暦派」それとも「太陽太陰暦(旧暦)派」?「太陽太陰暦」は、2~3年続けないと、その物の意味が判りにくい部分もあります。(約3年で一サイクル)「グレゴリオ暦」の発祥は、キリスト教を中心に考えられており、農耕作業や漁業には、まったく関係ありません。 明治の役人や識者が、この暦を導入するにあたって、「古い考えは捨てなさい。新しい西洋の暦を導入しなさい。古い暦を使っていては、大国にはなれない。」こんな事を言い出して導入されました。 しかし、農耕民族の日本は「旧暦を捨てる事ができないので、カレンダーの片隅に記載するようになっています。」 ちなみに、沖縄の「カジマヤー」97歳のお祝いですが、「旧暦」で数えると丁度100歳になります。 うるう月を足してしまうと「グレゴリオ暦」で100歳は、「旧暦」の103歳になってしまいます。
2005年02月10日
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八重山の正月の定番曲に「鷲ぬ鳥(バスィぬトゥリ)節」の中に出てくる木「あこう木」について 利用価値は少ない木「あこう木」だが、外での作業の休憩所(日陰)には欠かせないほど。 言い伝えでは、「葉が三枚でたら、魔物(マジムン)が憑く」 とされ、生えると直ぐに魔物が憑くと言われており、民家・屋敷内には植える事はない。 ただ、村の入り口を守る木として、2~3本を植え、周りに石垣を造り「魔よけ木」とされた。 大きくなると、神が住み着くとされて、薪や焚き物の材料としても使う事はない。(火力に乏しい)「あこう木」(桑科高木)のお話「木の精の隠れ蓑」(石垣市 宮良村) 昔、ある村に一人の働き者の男が居た。朝は誰よりも早くに起きて畑に行き、夕方は誰よりも遅くまで働いていた。 村の出入り口に大きな「あこう木」がある。その木に朝出かけるときは「おはようございます。今日も無事に働かせてください。」とお祈りをし、夕方仕事帰りには、「ただ今帰りました」と挨拶を大木にしてから家路についていた。 ある日、その木の精が表れ、「いつも挨拶をして、よく働く感心な人間だ」と言いながら、蓑をくれたそうだ。 その蓑を着ると、姿が消えて見えなくなるので、男は「これでお祝いの家に上がりこんで、ご馳走を食べてしまおう」と思い、実際にやってみた。「しめしめ思いのほか、うまくいった」 ふとした事から、この事を妻に知られてしまう。妻は怒って「こんな事をするのは泥棒ですよ。その内大変な事になるから、早く焼いてしまいなさい」と言っても、一向に聞こうとしない。 ある日、男が畑仕事をしている間に、妻はその蓑を裏庭で焼いてしまった。 男が畑仕事から帰ってきて、またイタズラをしてやろうと、蓑を捜すが見つからない。「あの蓑はどこにやった」の言葉に、妻は「もう裏庭で焼いてしまいましたよ」 男は慌てて裏庭に行き、灰をかき集めて、裸になった身体中に塗りつけた。すると、以前と同じ様に体が消えたので、お祝いの家に行き、同じ事をしようとした。 庭先まで来た所で、その中の客が酒盛りの為に、茶碗に入っていたお茶を庭先にまいた。「あちちち」 そのお茶は、あろう事か男の前の大事な所にかかり、塗っていた灰が流れてしまった。 気がついた時にはもう遅い。あの一物が、空中をゆらゆらと浮遊している。 不思議に思った家人達は、それを追い掛け回した。そのうちに、雨が降り出し、男の体は徐々に姿を現した。「この野郎、こんなイタズラしやがって」と、男は皆に袋叩きにあい、散々な目にあった。
2005年02月09日
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八重山諸島の歴史上、又、古典民謡上、大きな時事として「明和の大津波」がある。「1771年」(明和8年)石垣島・東南沖40kmを震源とした地震による津波があった。大浜村は人口の92パーセント宮良村は人口の86パーセント白保村は人口の98パーセントが、津波により死亡。 琉球王府の出した指令は、大浜村と白保村には、波照間島から宮良村には、小浜島から 島民を「強制移住」させて、村再建の令を出した。同じ島の中に居て恋仲の男女が、この令によって引き裂かれる悲劇一族が離れ離れになる悲劇 琉球王府の指示(貢納品確保・人頭税確保の策)で、人命より・島民意見無視の政策をとった。 この状態を陳情する行為として、島に赴任している役人を通して、詩や歌を王府に伝える。 王府は、献上曲を聴きながらも、人頭税の廃止は行わない。(わずか3年だけ免除)現在、大浜村にある大石御嶽白保村にある波照間御嶽(通称・アスクオン)は、波照間島から宮良村にある小浜御嶽(クモーオン)は小浜島からそれぞれの強制移住者が、故郷の御嶽の神を分けて祀ったものとして今に伝えている。 津波により打ち上げられたとされる「津波大石(うふいし)重量750t」が崎原公園北側の崎原御嶽の前にあります。
2005年02月08日
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石垣市平久保近くにあった安良村に住む「くいひへー」と言う女性同じく、平久保村に住む「もーしゃびら」と言う男性 2人は互いに愛し合いながら、「越地(峠)」を越え、「嵩(小高い山)」を越え、森を越えて、お互いに愛の道行きを確かめながら、逢っている様子を表現しています。 女性「くいひへー」の想いと、彼女を想う「もーしゃびら」の熱い、熱い恋仲を唄っています。「くいひへー節・越地(クイツィ)節」(本調子)1、越地(クイツィ)くいる くいひへ 嵩(タキ)くいる くいひへ 森(ムリ)くいる くいひへー 〔峠を越えて、山を越えて、森を越えて貴方に逢いに行く くいひへー〕2、嵩(タキ)くいるならぬ 森(ムリ)くいるならぬ 今日(キユ)んさーり もしゃびら 〔山を越える辛さよ、森を越える辛さよ、疲れ果ててしまいました、どうか今日にでも一緒になってください、もーしゃびら様〕3、家(ヤー)や いみしゃありば 夏(ナツィ)ならば 大家(ウフヤ) 貫家(ヌクィヤ) 造(ツィク)りて さーるんさ 〔今の家は小さすぎるから、夏には大きな家を新築しましょう、その後迎え入れましょう〕4、夏(ナツィ)なるけや 人為(プィトゥダミ) うんな るけや 与所為(ユスダミ) 明日(アツァ)ん さーりもう しゃびら 〔夏まで私は待てません、それならいっその事、貴方は他所の人と一緒なってくれるほうが良いですわ、もーしゃびら様〕5、人為(プィトゥダミ)ん なさぬ 与所為(ユスダミ)ん なさぬ うんどぅ さーる くいひへー 〔恋の相手を、他人に変えることが出来ましょうか、新築した暁には迎えにきますよ、くいひへー〕6、里(サトゥ) 寝(二)んじゅる 夜(ユル)や 餅(ムチ)とぅ 餅(ムチ)とぅ かさとぅ かさとぅ 〔恋しい貴方と寝る夜は、芭蕉葉包みの餅の様に、離れ難い、離れ難い〕
2005年02月07日
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男女の恋を表現しています。元々、読み人しらずの歌を「大浜安伴」により改作・編曲された曲です。 一揚げ調子の中で最もテンポの早い曲。 舞踊曲としても、よく使われています。 「胡蝶(こちょう)の唄」(一揚)1、初春(ハチハル)に なりば 押(ウ)す 風(カジ)ん 涼(シダ)しゃ 露(チユ)受(ウ)きてぃ 咲(サ)ちゅる 花(ハナ)ぬ 花(ハナ)ぬ 美(チュ)らさ スーリ サーサー シュラ サー ハイヤ 〔初春になれば、微かな風も涼しく、露を受けて咲く花々の美しい事よ〕2、我(ワ)んや 花(ハナ)やとてぃ 里前(サトメ) 綾(アヤ)はびる 花(ハナ)ぬ 寄(ユ)らりゆみ 里前(サトメ) 里前(サトメ) いもり 忍(シ)ぬば スーリ サーサー シュラ サー ハイヤ 〔私を花に例えるならば、愛しい貴方はひらりと飛び交う蝶のようです、私は花(身動きが出来ません)、貴方からおいでください、一夜かけて語り合いましょう〕3、花(ハナ)に たわむりてぃ 遊(アシ)ぶ 綾(アヤ)はびる 互(タゲ)に 肝内(チムウチ)や 与所(ユス)ぬ 与所(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ スーリ サーサー シュラ サー ハイヤ 〔花の周りで、飛び交う蝶の、お互いの心の中は、他人には計り知ることができないでしょう〕4、あん 美(チュ)らさ 咲(サ)ちゅる 花(ハナ)に 肝(チム)引(ヒ)かり いちまでぃん あかん 別(ワカ)り 別(ワカ)り 苦(グ)りしゃ スーリ サーサー シュラ サー ハイヤ 〔あれほど美しく咲いている花に、心引かれていても、いつ何時どんな事情があっても、別れる事は辛く苦しいものなのですよ〕5、花(ハナ)や 咲(サ)ちしりてぃ 黄葉(チバ)になるまでぃん 変わるなよ 互(タゲ)に 元(ムトゥ)ぬ 元(ムトゥ)ぬ 心(ククル) スーリ サーサー シュラ サー ハイヤ 〔花は咲きしおれて、いずれは黄葉になります、それでも変わらないでいてください、お互いに初心に戻り、元のままの心でいてください〕 この5番は、「伊野波節」の句です。
2005年02月06日
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石くびりとは、石畳の曲がりくねった坂道の事男の恋心を切なく、哀愁を込めた歌「石くびり(いしくびり)」1、路(クイジ) ちりなさや ままならん 世間(シケ)に 無蔵(ンゾ)が 優言葉(イクトゥバ)ぬ 肝(チム)に 掛(カカ)てぃ〔恋路のつれなさは、思う様には行かない、世間に(妨げられてまでも)、貴女の優しい言葉が、心に残る〕2、忘(ワシ)らてぃ やしが 肝(チム)に 思染(ウミス)みてぃ 思切(ウミチ)りん ならん 我肝(ワチム) 病(ヤ)むさ〔忘れようとしたが、心に思いが染まり、思い切ることもできない、私の心は痛むだけです〕3、無蔵(ンゾ)が 顔(カウ)見(ミ)りば 恋(クイ)しさや 勝(マサ)てぃ 焦(クガ)りゆる 肝(チム)や 誰(タル)に くぃゆが〔貴女の顔を見れば、恋しさは増すばかり、焦がれる心を、誰に渡せと言うのか〕4、村(ムラ)ぬ 石(イシ)くびり 我(ワン)一人(チュイド) 行(イン)じゃる 互(タゲ)に かながなとぅ 登(ヌブ)てぃ みぶしゃ〔村の中の石坂道を、私一人で登って行く。互いに思いを寄せながら(愛を感じながら)、登ってみたかった〕
2005年02月05日
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暁節は、大節(ウフブシ)と言われ、昔節五節と言われています。「組曲暁節」は、「暁節」と「瓦屋節」を組み合わせた舞踊曲です。幸地賢忠(こうちけんちゅう)(湛水親方-たんすいウェーカタ)湛水流開祖<1633~1683> 沖縄古典音楽の大作曲家 この時代、薩摩藩の支配により、琉球の人々の心は、かなり荒んだと言われている。 そんな時代であるにも拘らず、歌舞音曲は盛んになった。 そんな社会背景のなかで(湛水親方)は、沖縄で大和諸芸能が流行出した為に、絶滅寸前だった琉歌を蘇らせて、古歌を復活させた。又、三線奏法と歌をも保存させる。 幸地賢忠の作品には、「竹田(チクデン)節」「首里(スイ)節」「ジャンナ節」「諸屯(シュドゥン)節」「暁(アカツィチ)節」「早竹田(ハヤチクデン)節」などがあります。 「暁節」 惜しむ夜や更けて ヨティバ 明雲もたちゅり ヨティバ にゃまたいつ ヨ お拝で ウミンゾ 百気のびゅが ヨ〔惜しむ夜は早くも過ぎ去ろうとしている、もう すでに夜明けの雲が出てきた、もう 又いつお逢いして、命が延びる様な想いをするのでしょうか〕 夜が明けていくのを、惜しむ男女が、又いつ会えるのだろうかと、不安と期待を持っている心情や情景を、女性側から男性に対する思慕の情で表現しています。先代の普天間宮司 新垣義志氏が振り付けた創作舞踊である。〔キーポイント〕下句の噺子詞「ウミンゾ」の「ミ」の音の声切れから二拍子半の間、三線も歌も休止する処があります。 この休止は、静寂な感情が高潮し、感極まった境地の表現であり「古典音楽唯一の節・情の表現」ですね。 この節は「別れを惜しむ歌」で、下旬の「百気のびゆが…」から終わりまでテンポが早くなります。この変化は、逢瀬の儚さと時の慌ただしさ、そして別れの辛さなどの、落ち着かない心のゆらめきを表現するための工夫ではないでしょうか。
2005年02月04日
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「タマシツキ」(ビックリして、気が抜けるような時、「マブイ落ち(たましいを落とす)」として、「タマシツキ(たましいを身体に取り戻すまじない)」を言います。 それは、主に子供が多いですが、大人にも適用されるそうです。 昨日記載した事と同じ準備をして、大人用の祝詞をとなえます。 〇〇年 生(マ)り 〇〇〇〔名前〕ヌ 千里(シンリ)マカクナンガ〔〇〇年の生まれの 〇〇〇の 広い世間で〕 オーデールシー ツトゥメー ハタラギ アラグンケン〔勤め働いているうちに〕 マブイタマシ ウトゥシネーンバ〔たましいを落としてしまったのです〕 フールヌ 神(カン)ヌマイ ドーディンヤ〔便所の神様のお力で〕 ユネン ケーランネーラムールヌ 帰(カイ)ロールジブン〔夕方にたくさんの人が帰る時〕 クヌマブヤー スクヤートーリリ〔そのたましいを拾って頂き〕 千里万人(シンリマンニン)ヌ ドゥシニンジュシ〔世の中の幾万人の友人と共に力を合せて〕 サーリオーリ ウフドゥーマードゥーカイダガシタボーリ〔つれて来て、その身体に(胴体に)抱かせてあげて下さい〕 ウートードゥ〔うーとーとー〕元々、宝月尽しは、中国の文様ですが、長年の時を経て、日本風にアレンジされて今に至ります。思いのままになる如意宝珠、体が隠れる隠れ蓑・隠れ笠、打てば宝がでる打ち出の小槌、大切なものを守る土蔵の鍵、砂金や金貨を入れる巾着、祇園社の護符の祇園守、金を計る分胴、仏法の丁子、七宝、智恵を表す宝剣、怨敵退散の法螺などおめでたい柄です。
2005年02月03日
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霊魂(タマシ)付き タマシツキとは、落とした霊魂(びっくりして気が抜けるさま)を言い、沖縄本島の「マブイ(たましい)落ち」を言う。 子供が、何となく元気が無くなっていたり、不意に原因不明の病気になった時は、「タマシ(たましい)が抜けた」と言い、その子の霊魂を元の体に戻す「まじない」をする。 用意する物1、酒 (神棚に供える物と同じく、一対)2、つかみ花 (神様に供える為、花を一掴み)3、麻糸 (荒い麻糸を30センチぐらい)4、線香 (沖縄の平香・もしくは普通の線香、5~6 本)5、水 (コップに入れて、最後に飲ます為)6、マース(塩) (水同様、最後に舐めさせる為、少量を小皿 に)7、食事 (本人が普段とる食事) 祝詞 子供の場合 (何処でビックリしたか解からない場合、トイレの前で、トイレの神様にお願いする)1、 〇〇年(ネン)生(マ)りぬ 〇〇〇〔なまえ〕子(ファー)〔ファーは、子供の事〕〔〇〇年生まれの〇〇〇と言う子供〕2、 アサビ オーデーリシ〔遊びに夢中になり〕3、アマヤー アラグンケン 〔甘え 戯れているうちに〕4、キム ウドゥルギ 〔肝 おどろき〕5、ンニウドゥルギシ 〔胸 おどろきして〕6、マブイ タマシ ウトゥシド アレールンガ シャーダツ ケンドゥ 〔霊魂を落としてしまったようです〕7、フールヌ神(カン) ヌマイシ 〔便所の神様の〕8、ドーディンヤ 〔お力で〕9、ウイマーシ 〔追いまわし〕10、スィカシマーシ サーリ オーリ 〔すかしたりしながら、連れて来て下さい〕11、イツツ ヌ マムリ 〔五つのお守りと〕12、ナナツ ヌ タマシ 〔七つのたましいを〕13、ウフドゥー 〔大胴体・身体〕14、マードゥー 〔肉体に〕15、カイダガシ タボーリ 〔宿り直させて下さい〕 この祝詞の後、麻糸で結び玉を(男の子は七つ玉・女の子は五つ玉)を作る。この時、結び玉の中央の結び目は、玉にしない(くくらない)事。 麻糸の両端を持ち、水平になるようにしながら、線香の煙をくぐらす様に、向側から手前に引く様に(舟の櫓(ろ)をこぐ様に)「男の子は六回・女の子は四回、かき寄せる様にしながら1、ナマドゥ 〔今〕2、カイトゥキドー 〔丁度良い時だ〕3、クーヨー クーヨー 〔おいで おいで〕 と、呼びながら 線香の上で糸の両端を引っ張り、中央の輪を結び目にする。 結び目が出来たら、その子の名前を呼び「タマシ キータドー」(たましいが来た)と言いながら、素早くその子の首の前から(中央の結び目が前になる様に・心臓位置に結び目)、後ろで糸の両端を結び、ネックレス状態にする。 すぐに、水と塩を与え、普通の食事(その子の普段の食事)を取らせる。 大人の場合は祝詞が違います。よければ後日、記載します。
2005年02月02日
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「1、火をまたぐ風習」 家族の者が旅行から帰る時、門前で少量のワラを燃やし、その上をまたいでから門に向かい入れる。 (明治末期まで続いた風習)「2、火の神の石しばり」 足の疼痛(原因不明)がある時、「火の神のミカジ(たたり)」として、火打石もしくは、火の神の石と同じ大きさの庭先の石を探し出し、縄で縛って木の枝に吊るし「私の足の痛みを治して下さい。治して頂ければ解きますから、早く癒えさせて下さい」と祈り、痛みが癒えたら、その石を縄から解く。「3、厄払い) これは人の厄ではなく、忌み嫌う不吉な前兆のことを言う。例えば、 野生の鳥が家の中に飛び込んだり(ミミズクやフクロウの類は極度に嫌われる) 馬や牛が屋敷内(庭)に入り込んだり、飼い犬が家出して行方不明などは特に大凶とされていた。(対処法) 「浜下り(ハマウリ)」 足が浸る所まで海に入り、海水を手で少量すくい、頭にかける。これを七回繰り返す。 二~三時間、浜辺で過ごす。(旧の時間・「いっとき」は、約二時間、これを超えると「時が変わる」と言う) お払いで検索したら雛人形が出てきた。?
2005年02月01日
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