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沖縄の昔の保存食「スーチキ」豚バラ肉ブロックを用意します。マース(塩)をたっぷり肉にすり込み、塩蔵保存します。(この時、豚肉から水分が沢山でますので、ザル状の物に入れてから密封し、水分に浸らないようにします)食べる前に、よく水で塩分を洗い流します。鍋に肉が完全に浸かるくらい水を入れて、水から炊く。沸騰したら、また水を入れて炊く。これを、2・3回繰り返し。(この炊き方は、ソーキ・角煮・テビチなどの下ごしらえと同じ)流水で肉を冷まし、5mm厚に切り分ける。スーチキの出来上がり。(酢味噌・ゴマ味噌・島唐辛子醤油・マヨネーズ・酢醤油につけて食べます)長期保存としては、塩壺に入れると一年保存可能です。あっさりサラダ感覚で頂くのには三日ぐらいがおすすめ。電気や冷蔵庫の普及以前の、沖縄の知恵。不便の中での、生活の知恵。スーチキは、島酒と共に食卓へ。命薬。ぬちぐすぃ。その他の国では、生ハムやアイスバイン・パンチェッタなどが、これと同じ保存方法です。
2005年03月31日
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DJロマネスクさんのコメントです、かまぼこネタなのでここで質問したいのですが…先日沖縄出身の友人に「かまぼこが売れますように」という歌を聴かせて貰いました。 素朴ないい歌でしたが、友人いわく「沖縄ではかまぼこを作るということはちょっと悲しい話なんだ…」と。 家計を助けるための内職で…と話は続きましたが、その辺のお話をご存知でしたらどうか教えていただきたいのです。お時間のある時で結構ですので、どうぞ宜しくお願いいたします。---------------------------------------------------------------------------「かまぼこが売れますように・カマド体操」の曲ですよね。この曲は、沖縄県蒲鉾水産加工業協同組合(沖縄県かまぼこ組合)推薦曲に認定されて、徐々に人気がアップしてますね。夕方に刺し網を仕掛けて、翌朝日の出前から漁場へ出かけ、網を揚げます。その中で、刺し網を仕掛けた直ぐ「前日掛かりの魚」や「クブシミ(甲イカ)に頭を食われた魚」などは、セリに出せません。その為、身の部分だけ冷凍保存して、ある程度たまって調理するのが「かまぼこ」です。小さな魚もその中に入ります。大漁ならば家計は安泰ですが、不漁ならこれが家計を助けます。一年を通して、祝事や盆などでは欠かせないご馳走の一つ「かまぼこ」漁に出られない家では、この身の欠けた魚を分けて貰い、「かまぼこ」に加工する事で、生計をたてている方もいます。大漁時は何処も同じ状態なので、セリの値段が下がりますね。そこで、加工食品である「かまぼこ」が助けてくれる。鹿児島の「さつま揚げ(たらし揚げ)」も、沖縄の糸満市(海人うみんちゅの村)から伝わったと言われています。「かまぼこ」作りの名人など、沢山のオバーの知恵の産物ですね。ナベ(不発弾)を畑から拾い、金物屋で「中華なべ」に加工してもらい、そのナベ一つから、沢山の料理を作り出し、店を持ち「次男は大学行かせた・・・」の「オバー自慢の爆弾ナベ」(ビギン)などは、(長男はまだ、軌道に乗れずに行かせる事が出来なかったが、次男は行かせる事が出来た)こんな話は、山ほどありますね。貧しいが故の家計を切り盛りする知恵その恩恵で、今の自分が居ると言う、親を思う心の歌ですね。
2005年03月30日
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沖縄かまぼこ 「たらし揚げ」用意する物 白身魚の切り身(ねばりがあると尚良いが、さんま・あじでも可)3kg にんじん 一本半 ごぼう 適当 片栗粉・さとう・塩・味の素・卵 魚を叩いてミンチにする。(ねばるほど) にんじん・ごぼうを細く千切りにする。 魚のミンチに片栗粉を入れかき混ぜる。(魚1.5kgに片栗粉280gの割合) 塩 手づかみ2杯・味の素適当につまみ・卵4個を投入し、水を加え、手で良くかき混ぜる。 砂糖 (魚1kgに対し百g)を入れる。 味見して調味し、にんじん・ごぼうを加える。塩・味の素・卵・水・砂糖は別に作っておき、序所に足していく方が調整しやすい。かまぼこタネは、冷凍保存ができます。 油を熱して、タネを指ですくって中へ。1回沈んですぐ浮いてくる温度。 ハシで返しながら揚げていく。1個が出来たら味見。 ここで、少し硬いなら、水をタネに加える。砂糖・卵・片栗粉を調整時に加えながら揚げていく。 何も付けずに、そのまま頂くのが沖縄流かまぼこ。 沖縄では、油で揚げる事を、「油で焼く」と言います。サーターてんぷらや、かまぼこで使った油は、味があるので捨てる事が無く、ちゃんぷるーやジューシー・炊き込み御飯を作る時、絶妙な隠し味となります。 鍋の油が少なくなったら、継ぎ足すだけで、油処理剤を使う事が無い。 味噌汁の具に、魚をから揚げしてから炊いたり、肉に油通ししたり、料理では度々使うので、油が傷む事が無い。 カルシウムや油分は体に良いとされる、大陸文化の影響か。 インドでは、油は調味料のひとつ。 油処理剤を使い、捨てるのは企業の策略か。 酸化するくらい使用しない食文化の変貌か。 せっかく味の付いた油、有効利用しましょう。 ちなみに我が家では、油を処理した事がありません。 しいらのすり身~うす味~ 内容量 500g 屋久島飛魚ミンチ(400g) [産直大分県] 当店特製エソすり身(300g)消費税込み 飛魚すり身 400g 3パック
2005年03月29日
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60度の酒 「花酒」クバ葉を巻き付けたビンでもお馴染みですね。クバ巻きは、地元のおじー・おばーの手作業で一本につき200円の作業賃で、一日70本ぐらいしかできない大変な作業です。与那国を別名「どなん」と言います。「どなん」とは、渡るのが難かしい・「渡難」からきてます。カラスが一羽もいません。ちり捨て場(ゴミ捨て場)でも見かけない。それほど渡難な島。リーフがほとんど無く外洋に面した孤島。空港も小さく、石垣から飛行機で1時間・船では3時間の外海航海。与那国の民族資料館の館長おばーから、「墓参り時期は60度のどなんを小さなグラスで一気に飲み干し、続けて水氷を飲む。こうすると喉がスーっとして気持ちいい。」 やってみた。本当だった。80歳超えてもこれが出来るのはすごい。 日本の酒造法では、60度は地域限定の酒。与那国だけの特別規格。一度おためしあれ。 花酒は、はなから(最初から)で泡盛と区別する為の呼び名。酒造法規から「祭儀用に特別規格されたもの」正規登録です。 暑い日のいっぷくの清涼感。酒飲みにはたまりません。 舞富名(花酒)600ml0503アップ祭10 どなん クバ巻き60度600ml 花酒 与那国60°1800ml 花酒 どなん60°グリーン 720ml
2005年03月28日
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風習 「おとーり」 元祖一気飲み「おとーり」の場では、おとーり開催発起人が「親」となり口上を述べ酒を飲み干し、同じグラスに注いだ酒を参加者全員に順番に飲み干させる。 全員が飲み終えると、親は「つなぎ」の酒を飲み、次の人に「親」を譲る。全員に「親」が廻ってくる。例えば、5人で開催すると「5親x5杯」合計25杯飲み干す事になる。 無事に全員が「親」を務め果たしても、延々と廻し続ける。 元々「おとーり」は、収穫祭や豊作祈願の神事の終わりに司祭達が参列者に供物の神酒を回し飲みした事が起源とされる。 神の恵みに感謝を込めて貴重な酒を、小さな杯に注ぎ、みんなで分け合うと言う風習が、家の棟上、結婚、出産、歓送迎会などで受け継がれてきた。 現在のようにコップになみなみと注いで飲むようになったのは、ここ30年くらいで、「オトーリ」に使われる酒は泡盛に限らず、ビールやウイスキーの水割り、ワインでも良い。 ただし、かなりの量になるので予め水氷で薄めた泡盛がベスト。ちなみに沖縄では「清酒」はあまり飲まないが、水割りにする手間がいらないと言う事で飲んでいる方も多い。「清酒」であり「日本酒」ではない。と、言い切る御人もいる。 琉球王朝古酒30度1800ml 久遠 長期熟成古酒35度720ml 炎 8年古酒40度540ml 沖縄県 宮古島 『ちよいずみ』 30度 1800ml 親方の酒32度1800ml
2005年03月27日
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現在、月に約4000棹の三線が各地に渡っています。その中の500棹弱が国産、残りの大多数が海外、特にベトナム産と言われています。純沖縄県産黒檀を使った三線に至っては、皆無に近い。理由として、戦火で焼失し、その後植樹するも間に合わない。土地(米軍所有)が多くを占めており、植樹する土地が少ない。黒檀は、年月を経て芯から少しづつ黒色化が進み、芯材は亀裂や裂け目が起こりやすく、中心以外から切り出す為、かなり成長した木からでないと、切り出し不可。黒檀以外も同様。古い民家から材料を譲り受けるも、数量に限界がある。なにより、三線屋の方針これは、高価な三線を作っても、なかなか売れない。持って価値ある一品と、目利きのできる購入者が少ない。従って、安価な三線を沢山出荷する事が安定となる。安い労働力と材料供給の為には、外国産が中心となる。昨今のブームで、本物が少なくなり、安価な物が氾濫している。高価だから、良い物とは思えない。良い音質とは、棹と胴のバランスによる為。安価でも、良い物もあります。しかし、沖縄の音が、ベトナムなどの外国製からの音となっている現実。本当の癒しの音「沖縄の音」とは、何でしょうか?
2005年03月26日
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沖縄復帰前までは、マチグヮー(市場)で棚置きや店頭にならんでいた。 復帰当時の日本の食品衛生法では、豆腐の保存基準として「豆腐は冷蔵するか、または十分に洗浄し、かつ殺菌した水槽内において、飲用適の冷水で絶えず換水しながら保存しなければならない。」 当時の沖縄は、断水が多く換水が困難で、死活問題にまでいたった。 そこで当時、沖縄豆腐組合長らが厚生省に陳情し、「沖縄の昔ながらの作り方・売り方では、内地の食品衛生法に引っかかり販売できない。ウチナンチュの食文化に影響がでる。改正を要求。」 全国豆腐油揚協同組合連合会の会合にも出席し訴えた。それから二年半後に、食品衛生法が改正された。 一部改正文「ただし、移動販売にかかる豆腐及び成型した後、水さらしをしないで直ちに販売の用に供されることが通常である豆腐にあってはこの限りではない。」 これで島豆腐は生き残った。 島豆腐の歴史。昔ながらの硬い豆腐。ちゃんぷるーに最適の豆腐。口の中で感じる豆腐。の生き残りをかけた戦歴。 一度食べてしまえば、なぜか恋しくなる島豆腐。内容は手作り島豆腐(1丁:約1キロ)♪オジィ自... 島豆腐もいいが、この「ゆし豆腐」は店長の超オススメ!内容は手作り「ゆし豆腐」(約1キロ)♪... 沖縄づくり豆腐の昆布巻 沖縄の美ゆら島とうふ(2パック) ひろし屋の島どうふ(450g)
2005年03月25日
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島豆腐の歴史 うちなー復帰前までぃや、マチグヮー(市場)で棚置きや店ちぶるんかいならんでうたん 復帰あぬじぶんぬやまとぅぬ食品衛生法あんしぇーとーふぬ保存じょーまんでぃさーに「とーふは冷蔵すんか、あらんでー十分に洗浄し、かつ殺菌した水槽内かいうてぃ、飲用適ぬひじゅるみじで絶えず換水しぎちなー保存さんだれーならん。」 あぬじぶんぬうちなーや、断水がうーさ換水がどぅーぐりさんで、死活問題にまでいたっちゃん。うまうてぃあぬじぶん、うちなーとぅーふ組合長らが厚生省に陳情し、「うちなーぬんかしぎちなーぬちゅくい方・売り方あんしぇー内地ぬ食品衛生法に引っかかり販売ないびらん。ウチナンチュぬ食文化に影響がんじーん。改正 要求。」 全国とーふあんだ揚協同組合連合会ぬ会合かいん出席し訴えた。うりから二年半後に、食品衛生法が改正さったん。 一部改正文「ただし、移動販売にかかいんとーふ及び成型した後、水さらし さんぐとぅ直ちに販売ぬ用に供さりんくとぅが通常んやいびんとーふにあてぃはくぬかじりうてぇーねーん。」 くりしー島とーふは生きぬくたん。 一度食べてしまえば、なぜか恋しくなる島豆腐。内容は手作り島豆腐(1丁:約1キロ)♪オジィ自... 島豆腐もいいが、この「ゆし豆腐」は店長の超オススメ!内容は手作り「ゆし豆腐」(約1キロ)♪... 沖縄づくり豆腐の昆布巻 沖縄の美ゆら島とうふ(2パック) ひろし屋の島どうふ(450g)
2005年03月24日
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八重山古典民謡 「桃里(トザトゥ)節」(本調子)1、桃里(トザトゥ)てぃる 島(スィマ)や 果報(カフ)ぬ 島(スィマ)やりば 柄岳(カラダギ)ば 前(マイ)なし うやき 繁昌(ハンジョウ) ヤゥ サティ ヤゥ ヒーヤゥン ナ〔桃里と言う島は、果報の島、柄岳を前にして「うやき(富貴)」繁昌〕2、柄岳(カラダギ)に 登(ヌブ)てぃ 押(ウ)し 下(クダ)し 見(ミ)りば 稲粟(イニアワ)ぬ なおり 弥勒世果報(ミルクユガフ) ヤゥ サティ ヤゥ ヒーヤゥン ナ〔柄岳に登って、眼下の田畑を見おろすと、稲や粟がたわわに稔り、見事豊穣である〕3、赤(アカ)よらぬ 花(ハナ)や 二 三月(ニサングワチ)どぅ 咲(サ)ちゅる 我(バ)がけーらぬ 花(ハナ)や いつぃん 咲(サ)ちゅさ ヤゥ サティ ヤゥ ヒーヤゥン ナ〔「赤よらぬ花(デイゴの花)」は、二月~三月頃に真っ赤に咲く、我が(青春の花)は、いつ何時でも咲いている〕4、花(ハナ)ぬ 色美(イルジュ)らさ 桜花(サクラバナ)でむぬ 女童(ミヤラビ)ぬ 美(チュ)らさ 我島(バスィマ)でむぬ ヤゥ サティ ヤゥ ヒーヤゥン ナ〔花の中でも一番美しいのは、桜の花である、乙女達の色艶の優れているのは、我が島 桃里村の乙女達である〕桃里村は、「1732年」880人の村民から創建されるが、「1771年」明和の大津波で過半数の村民が溺死、その上に、過酷な人頭税の徴収やマラリヤで、村民が途絶える「1914年(大正3年)」に廃村(183年の村の歴史を閉じる)政府は、「1953年(昭和28年)」沖縄本島 大宜味村から135人を開拓民として送り込み、入植させて「大里村」と改名し、現在に至る。この歌は、「1732年」に桃里村創建当時、繁栄・五穀豊穣を祈願して作られた。
2005年03月23日
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●緊急避難セット(防災セット)避難袋5000 幼児・お年寄り向けセット3年間保存用 厳選された防災避難セット 最低限必要な防災用品セットサバイバルミニグッズ コンパクトな防災セット。緊急避難セット 3000 避難21点セット8801 [防災・地震対策用品] THE ARK 3(命の箱 アーク・スリー)
2005年03月22日
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八重山古典民謡 「めでたい節」(本調子)1、年(クトゥシ)作(チク)たる 稲粟(イニアワ)や 実(ミヌ)り 出来(ディキ)たい サンサ 面白(ウムシル)ヱ メデタイ メデタイ〔今年の農作物は、特に稲粟が面白いほど稔り、五穀豊穣を迎えた〕2、年貢(ニング)上納(ジョウヌ)は 不足(フシク)なくに 捧(ささ)ぎ上(ア)ぎたい サンサ 誇(フク)らしゃや メデタイ メデタイ〔年貢の上納も不足なく完納し、喜ばしく嬉しい限り〕3、捧(ササ)ぎ 残(ヌク)いや あまたありて 酒(サキ)や神酒(ミキ)とぅむ サンサ 造(チク)りとぅてぃ メデタイ メデタイ〔上納した残りが余分にあるので、泡盛や御神酒を造りましょう〕4、今日(キユ)ん 明日(アチャ)にん 遊(アシ)ぶ 嬉(ウリ)しゃ ありに三四(サンシ)とぅ サンサ くりに五六(グルク) メデタイ メデタイ〔今日も明日も遊ぶ楽しさは、あれにも三四、これにも五六(中国伝来の酒座の賭博遊びの一種)〕5、遊(アス)び あまいや 踊(ヲドゥ)いしゃびら ウグカぬ御代(ミユ)や サンサ 宮良村に メデタイ メデタイ〔遊びあるいは踊りもしましょう、この不動の御代を宮良(ミヤラ)村にも迎え入れましょう〕(ウグカはウ呉夏の中国王朝名)「うぐかぬみゆ→動かぬ御代(みゆ)・不動のものを表す」「1771年」明和大津波が襲いかかり、石垣島宮良村をのみ込む大災害が起こる。村復興の為、小浜島から320名の島民を〔強制移住〕させる。「1843年」宮良村総横目兼与人役の「大浜用登」が結願祭を記念して作詞作曲をする。この時、英国より津波調査の為、宮良村に入港する。八重山の歴史上、初の西洋人が上陸する事となった。
2005年03月22日
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沖縄民謡 「ヒヤミカチ節」(本調子)作詞 平良新助 作曲 山内盛彬1、名(ナ)に 立(タ)ちゅる 沖縄(ウチナー) 宝島(タカラジマ)でむぬ 心(ククル)打(ウ)ち 合(ア)わち 御立(ウタ)ち みそり 御立(ウタ)ち みそり ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ2、稲粟(インニアワ)ぬ なうり 弥勒世(ミルクユ)ぬ 印(シルシ) 心(ククル)打(ウ)ち 合(ア)わち 気張(キバ)い みそり 気張(キバ)い みそり ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ3、学(ガク)やない しゅらさ 花(ハナ)や 咲(サ)ち 美(ジュ)らさ 我(ワ)した 此(ク)ぬ 沖縄(ウチナー) 世界(シケ)に 知(シ)らさ 世界(シケ)に 知(シ)らさ ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ4、人(チュ)ぬ 取(トゥ)ゆる 年(トゥシ)ぬ 否々(ンバンバ)ぬ 成(ナ)ゆみ うびらじ に 取(トゥ)たさ 六十(ルクジュウ) ばんじゃー 六十(ルクジュウ) ばんじゃー ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ5、我(ワ)んや 虎(トゥラ)でむぬ 羽付(ハニチ)きてぃ たぼり 波路(ナミジ)パシヒック 渡(ワタ)てぃ なびら 渡(ワタ)てぃ なびら ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ6、七転(ナナクル)び 転(クル)でぃ ヒヤミカチ 起(ウ)きり 我(ワ)した 此(ク)ぬ 沖縄(ウチナー) 世界(シケ)に 知(シ)らさ 世界(シケ)に 知(シ)らさ ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ
2005年03月21日
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八重山古典民謡 「無蔵念仏(ンゾーニンブツィ)節」(本調子)1、親(ウヤ)ぬ ヤゥ 御恩(ウグヌ)は 深きむぬ 父御(チチグ)ぬ 御恩(ウグヌ)は 山高(ヤマタカ)さ 母御(ファファグ)ぬ 御恩(ウグヌ)は 海深(ウミフカ)さ〔親の御恩は深きもの、父上の御恩は山よりも高く、母上の御恩は海よりも深いものである〕2、山(ヤマ)ぬ ヤゥ 高さやさ わかりん 海(ウミ)ぬ ヤゥ 深さんさ わかりる 昼や ヤゥ 父御(チチグ)ぬ 足が上(ウイ)〔山の高さは、測り知る事ができる、海の深さも測り知る事が出来る。昼は父上の脚の上で〕3、扇子(オージ)ぬ ヤゥ 風(カジ)に ヤゥ あおがりてぃ 夜(ユル)や ヤゥ 母御(ファファグ)ぬ 懐(フトゥクル)に 十重(トゥヤイ)む 二十重(ハタイ)む 衣装が内(ウチ)〔扇の風に、扇がれて、夜は母上の懐に、十重、二十重の衣装の内側に〕4、濡(ヌ)りる ヤゥ 方(カタ)には 母(ファファ)ゆくてぃ 乾(カワ)く ヤゥ 方(カタ)には 子(クワ)寝(二)してぃ 諸共(ムルトゥム)濡(ヌ)りりば 胸(ムニ)が 上(ウイ)〔濡れた所には、母上が寝て、乾いた所には、子供を寝かせ、諸共に濡れると、母上の胸の上に寝かし〕5、くり程(フドゥ)親(ウヤ)に ヤゥ 思(ウム)わりてぃ 年(トゥシ)や ヤゥ 十二十歳(トゥハタチ)なゆりどぅむ 親(ウヤ)ぬ ヤゥ 御恩(ウグヌ)は 未(マ)だ知らん〔これほど親に、大切に思われて、年は二十歳にもなっているが、親の御恩は、未だ知らない〕この歌が「特別部落で生活を余儀なくされた(にんぶちゃー)いやしい民(賎民)とされた人達」の浄土宗の教えを説いた念仏歌です。琉球王朝には、仏道が政治的に邪宗とされていたようですね。
2005年03月20日
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沖縄民謡 「屋嘉節」(本調子)1、懐(ナチ)かしや 沖縄(ウチナ) 戦場(イクサバ)になやい 戦場(イクサバ)になやい 世間(シキン) 御万人(ウマンチュ)ぬ 流(ナガ)す 涙(ナミダ) 流(ナガ)す 涙(ナミダ)2、涙(ナミダ)ぬで 我身(ワミ)や 恩納(ウンナ)山(ヤマ)上(ヌブ)て 恩納山(ウンナヤマ)上(ヌブ)て 御万人(ウマンチュ)と共(トム)に はだゆ さらち はだゆ さらち3、無蔵(ンゾ)や 石川(イシチャ)村(ムラ) 茅葺(カヤブチ)ぬ 長屋(ナガヤ) 茅葺(カヤブチ)ぬ 長屋 我身(ワミ)や 屋嘉村(ヤカムラ)ぬ 砂地(シナジ)枕(まくら) 砂地(シナジ)枕(まくら)4、心(ククル)勇(イサ)みゆる 4本(シフン)入り 煙草(タバク) 4本(シフン)入り 煙草(タバク) 淋しさや月(チチ)に 流(ナガ)ちいちゅさ 流(ナガ)ちいちゅさ5、哀(アワ)り 屋嘉村(ヤカムラ)ぬ 闇(ヤミ)ぬ 夜(ユ)ぬ がらし 闇(ヤミ)ぬ 夜(ユ)ぬ がらし 親(ウヤ)居(ウ)らん 我身(ワミ)ぬ 泣(ナ)かん 居(ウ)ちゅみ 泣(ナ)かん 居(ウ)ちゅみ6、ぬんち 焦(クガ)りとが 屋嘉村(ヤカムラ)ぬ 枯木(カリキ) 屋嘉村(ヤカムラ)ぬ 枯木(カリキ) やがて 花(ハナ)咲(サ)ちゅる 節(シチ)ん あゆさ 節(シチ)ん あゆさ沖縄本島・金武村の屋嘉ビーチは、かつて沖縄戦の捕虜収容所。民間の防衛隊・健児隊の少年等約2000名が収容されていた。着ている服は、アメリカ軍の払い下げ。食料は、米軍野戦携帯戦闘食「レーション」(チーズ バター 肉類のスープ ビスケット チョコレート チューインガム 粉末コーヒー レモン 砂糖 煙草4本)が一食分パッキングされている物仕事は、死体を埋めるための穴掘り。「夢も希望もまるでない、自棄的状況」 その中でも、歌は忘れず音楽を僅かな支えに、軍事食料の缶詰の空缶を、三線の胴にして組み立て寝台ベットの脚を棹に、パラシュートの中芯糸を絃にして、三線を作り心のなぐさめにした。これが「かんから三線」 今、戦闘状態の某所も、民族音楽のルーツ的土地柄。爆音や銃声の無い、音楽のある地になってほしいと思います。今の携帯非常食はこんな感じ いざという時のために。携帯非常食安心救命食 90g×5袋
2005年03月19日
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沖縄民謡 「沖縄育ち」作詞 黒島英章 作曲 黒島英章デイゴの花の 咲く頃は真っ赤な日陰で 子守唄花かんざしの ヤレ 沖縄育ち〔デイゴの花は、3月~4月頃咲き、幹に葉は無く、花だけが咲きます〕朝はそよ風 日の出頃汗にまみれて 鍬をふる甘藷の畑で ヤレ 沖縄育ち〔日中は暑く、早朝に作業、甘蔗はサツマイモの類〕黒髪人形が 歌う頃クバの葉かげで ひと時を花も年頃 ヤレ 沖縄育ち〔クバは、シュロに似た木〕沖の黒潮 高鳴るときもエッサエッサで 腕まくり刳り舟躍る ヤレ 沖縄育ち〔外海の荒波にも耐えながら、サバニ(昔の小さな木舟)を漕いでいます〕若葉しとしと 雨降る頃に紺地浅地の はたの音小唄まじりの ヤレ 沖縄育ち〔雨が降る頃は、労働歌(ゆんた)を歌いながら、機(ハタ)を織り、着物生地を作る〕森に日陰の 沈むとき馬もいななく 野良帰り疲れを知らぬ ヤレ 沖縄育ち〔夕暮れ時、畑仕事を終え、帰るが疲れ知らずの働き者〕この歌には、沖縄方言が使われていない為、簡単な訳意としますね。
2005年03月18日
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八重山古典民謡 「繁昌節」(本調子)1、だんじゅ とぅゆ まりる 崎枝(サキイダ)ぬ 島(スィマ)や ヤゥ ウネ 黄金(クガニ)むるくさでぃ スリ 田ぶく 前(マイ)なし イヤマシ ウヤキ ハンジョウ マサル ハンジョウ カツマタ イヤマシ〔誠に評判高い、島の村 崎枝は(黄金の森を後ろにして、田園農地を前にして、弥増しに 沢山の財産・五穀豊穣の島)〕〔繁昌に勝る繁昌 且つ又、弥増し(弥増しは、益々多くなる)〕2、作(ツィク)てぃ 実(ミヌ)らしゃる 稲苅(イニカユ)る 人(フィトゥ)や ヤゥ ウネ 若者(ワカムン)ぬ まぎり スリ さらば さらば イヤマシ ウヤキ ハンジョウ マサル ハンジョウ カツマタ イヤマシ〔今年の稲作も豊穣なので、稲刈り人達は、若者が全員揃って早く刈り終わり、すぐさま解散して行く〕3、崎枝(サキダ)女童(ミヤラビ)や 水(ミジ)故(ユ)いが やゆら ヤゥ ウネ 色姿(イルシガタ)うちゃてぃ スリ なだる 美(チュ)らさ イヤマシ ウヤキ ハンジョウ マサル ハンジョウ カツマタ イヤマシ 〔崎枝村の乙女達は、水が良いのか、色艶のつり合いがとれて、なだらかで美しい〕 石垣島の崎枝村、目差役勤務の「慶田城用舛」が作歌・作曲とされています。「1871年」作 その前後、同年に、同作者が、「とぅまた節」も作歌・作曲。
2005年03月18日
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「汗水節」汗水ゆ流ち 働らちゅる人ぬ心嬉しさや 与所の知ゆみ 囃子(フェーシ)に「スラヨー スラ働らかな」 この唄は、昭和3年に発表された唄で、十一月十日昭和天皇即位の礼の時、沖縄では記念行事のいっかんとして「勤検貯蓄運動」が実施された。 そのキャンペーンのために作詞募集をしたところ、具志頭村の青年団員 仲本稔 二十四歳の作品が優秀賞として選出されました。 その年の前年、昭和二年は労働運動がにわかに活性化した時で、那覇には大工組合、左官組合、石工組合、樽工組合(黒糖を入れる樽作り職人の組合)などが結成され、労働者の待遇改善が叫ばれた時代で作者の心情に「働く事の意味」がこの唄に込められている。 一日に一厘(グンシュウ) 百日に五貫 守てぃすくなゆみ 昔言葉 五貫は十銭(五十貫が一円、千貫が二十円)ちなみに「十九の春」の歌詞の中に(葉書が一銭五厘)や(一銭・二銭)とあります。 朝夕働らちょてぃ 積み立てる銭や 若松の盛い 年と共に とあり、作者は後に具志頭郵便局長を勤め、昭和五十二年八月五日、七十三歳で亡くなっています。
2005年03月17日
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沖縄民謡 「汗水(あしみじ)節」(一・二揚、三下げ) 作詞 仲本稔 作曲 宮良長包1、水(アシミジ)ゆ 流(ナガ)ち 働(ハタラ)らちゅる 人(ヒトう)ぬ 心嬉(ククルウリ)しさや 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ ユイヤ サー サー 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔ひたいに 汗を流しながら 働く喜びは 他人に わかるはずはない〕2、一日(イチニチ)に 一厘(グンシュウ) 百日(ヒャクニチ)に 五貫(グクヮン) 守(マム)て 損(スク)なゆみ 昔言葉(ンカシクトバ) 昔言葉(ンカシクトバ) ユイヤ サー サー 昔言葉(ンカシクトバ) シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔1日に一厘貯めれば、100日では5貫になる。祖先の残したことわざを守って努力しましょう〕3、夕(アサユ)働(ハタラ)ちょて 積(チミ)たてる 銭(ジン)や 若松(ワカマチ)ぬ 栄(サカイ) 年(トシ)と 共(トム)に 年(トシ)と 共(トム)に ユイヤ サー サー 年(トシ)と 共(トム)に シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔朝から晩まで働いて貯めたお金だからこそ、年をとるにしたがい、若松が伸びるように増えていく〕4、心(ククル)若々(ワカワカ)と 朝夕(アサユ)働(ハタラ)きば 五六十(グルクジュウ)になてん 二十歳(ハタチ)定(サダ)み 二十歳(ハタチ)定(サダ)み ユイヤ サー サー 二十歳(ハタチ)定(サダ)み シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔老いても心を若く持ち懸命に働けば、いつも二十歳の青年のように、元気ハツラツとするものです〕5、寄(ユ)ゆる 年忘(トシワシ)て 育(スダ)てたる 生(ナ)し 子(グヮ) 手墨学問(テシミガクムン)や 汎(ヒル)く 知(シ)らし 汎(ヒル)く 知(シ)らし ユイヤ サー サー 汎(ヒル)く 知(シ)らし シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔歳をとる事も忘れて 働き育てた子が 学問を修め 立派に育つことを思えばこそ 働き甲斐がある〕6、公衆(クジュウ)ぬ 為(タミ)も 我(ワ)が 為(タミ)と思(ウム)て 百勇 みいさでぃ 尽(ツィ)くし みそり 尽(ツィ)くし みそり ユイヤ サー サー 尽(ツィ)くし みそり シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな〔公衆(おおやけ)の事を 自分の事の様に思い、お互いに助け合う習慣を、みんなで大切にしよう〕勤倹貯蓄のすすめ、労働のよろこび、子弟教育の重要性や社会奉仕の精神をうたい、社会の向上発展を期待する。昭和4年に作られた民謡です。作詞者は当時、郵政省(郵便局員でした) エイサー大太鼓 1尺5寸 エイサー大太鼓 1尺 エイサー締太鼓 パーランクー エイサー太鼓パーランクー ミニ 全音三線初級入門セットSS-150 ●K.Yairi 一五一会 w/専用ハードケース
2005年03月17日
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八重山古典民謡 「かたみ節」(本調子)1、さてぃむ 目出度(メデタ)や 此(ク)ぬ 御代(ミユ)に サー 祝(ユワイ)ぬ 限りねらん 遊(アス)び 楽(タヌ)シムエースリ 我(ワ)ンヤ カタミクイラ 千年(チトゥシ)マディン〔さてもお目出度い事は、この代に限りなく続く事でしょう〕〔二人は共に歓楽をつくし、夫婦の契りを千年までも固めましょう〕2、一番(イチバン)願(ニガ)わば 福禄寿(フクルクジュ) サー 其(ス)ぬ 他(フカ) 無蔵(ンゾ)とぅ 連(チ)りてぃ 遊(アス)び 楽(タヌ)シムエースリ 我(ワ)ンヤ カタミクイラ 千年(チトゥシ)マディン〔二人の第一の願いは、幸福・繁栄・長寿 そのほかに二人連れ添っていつまでも〕3、無蔵(ンゾ)とぅ 我(ワ)んとぅ や 元(ムトゥ)ゆりぬ サー 契りぬ 深さあたん 遊(アス)び 楽(タヌ)シムエースリ 我(ワ)ンヤ カタミクイラ 千年(チトゥシ)マディン〔貴女と私は、固めの杯を取り交わして、契りが深く、水も漏らさぬ二人の仲〕4、百才(ヒャクセ)なるまでぃ 肝(チム)一つ(ヒトゥチ) サー 変るな 元(ムトゥ)ぬ心(ククル) 遊(アス)び 楽(タヌ)シムエースリ 我(ワ)ンヤ カタミクイラ 千年(チトゥシ)マディン〔百歳になるまで偕老同穴の、契りは変らない様に〕 この歌は、首里王庁に貢物を献上し、その帰り(十月頃に北風に帆かけて)大時化(シケ)に遭い、石垣伊原間と平久保の中間の久志真(現在の久宇良部落)に漂着し、その時救助した村娘と沖縄本島出身の漂流者との恋物語を「黒島英任」(平久保村の耕作事務役官)が聞き、作詞・作曲(1732年) 「黒島英任」二十歳頃の作品と伝えられています。 内地の「高砂」の様に、結婚式の席で、唄われています。 エイサー大太鼓 1尺5寸 エイサー大太鼓 1尺 エイサー締太鼓 パーランクー エイサー太鼓パーランクー ミニ 全音三線初級入門セットSS-150 ●K.Yairi 一五一会 w/専用ハードケース
2005年03月16日
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八重山古典民謡 15~17 「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。15、歌(ウタ)に とぅゆまり 我(バ)が 生(マ)り 島(ズィマ)に ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 黄金(クガニ)ぬ 花(パナ)ゆ 咲(サ)かし 給(タボ)り マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔歌に評判高い我が故郷に、明るい話題をもたらして下さい〕16、山(ヤマ)ゆ 見(ミ)りば 八重山(ヤイマ)ゆ 思(ウム)い出(ダ)し ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 海(ウミ)ゆ 見(ミ)りば 生(マ)り 島(ズィマ) 思(ウム)い出(ダ)し マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔山を見ると八重山の事を思い出します、海を見ると故郷の事を思い出します〕17、隔(ヒダ)めうる 故(ユイ) 我生(バガマ)り 島(ズィマ)ゆ ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 思(ウム)うな 居(ウ)らるぬ 朝(アサ)ん 夕(ユ)さん マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔隔てているからこそ、自分の生まれ故郷を、朝な夕なに、思う心は増すのでしょう〕八重山民謡の経緯と時代背景 「トゥバラーマ節」(二揚) 真栄里村の仲筋家に「嘉那志(カナシャーマ・カナシ)」と言う評判の小町娘が生まれた。 当時は階級制度が厳しくて、「石垣主邑の士族の青年達」は横暴であり、農村の娘と自由に恋愛する権利を与えられていた。 その権力を振り回して、仲筋家の絶世美人(カナシ)を、我が意中の「恋女」にしようと競い始め、暗い狭い悪路を毎夜通い、仲筋家の福木(ふくぎ)の下の石垣から覆面姿でノゾキ見をする。(今でいうストーカ-行為) だが、ノゾキ見をするのは、一人ならず五・六人も居るので(カナシ)は怖く毎夜、両親と同じ部屋で両親に挟まれる状態で寝ていた。 その士族の青年「殿原・殿方(とぅばらーま)」達は、何とか(カナシ)と語り合いたい、人目会いたい、との思いで、風雨の日も、毎夜幾日・幾月通い続けるが、一度も会えずにいた。 その帰り道で、無念な想いを即興で謡い出したのが始まりとされています。「1814年」頃の作。「昔とぅばらーま」は登野城村の故・金城長保氏の祖先が、黒島首里大家子職の時、公用中 宮古島沖で遭難し、宮古蔵元に助けられ、宮古の島娘との恋愛し、「1800年頃」別れの時に即興詩として唄われたと伝えられる。 「とぅばらーま」は、毎年大会があるほどに、進化し増殖する唄です。「とぅばらーま節」はこのぐらいにしましょうね。 泡盛まさひろ 縄巻三升龍壷 43度 百年の夢 25度 1800ml 戯れる獅子 28度 720ml 瑞泉 青龍 古酒 30度 1800ml 熱き島唄 [咲元酒造] 720ml 30度 復活した黒麹 御 酒(うさき) 瑞泉酒造
2005年03月15日
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八重山古典民謡 13~14「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。13、あたら 島歌(スィマウタ) たんでぃ 磨(ミガ)きつけ ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 我(バ)がけーら 肝(クィム)ゆ すらし 給(タボ)り マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔残された島の歌を、いつまでも大切に保存し継承していく為には、皆さんが心を一つにして、唄い続ける事を御願い致します〕14、歌心(ウタグクル) 数(カズ) 云(イ)ず 程(フドゥ)に ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 思(ウム)いん 情(ナサキ)ん 増(マ)しゅる 定(サダ)み マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔歌の心を知るには、数多く歌う程に、唄心も情けも益々知る事が出来ます〕 黒真珠43°1升壷 黒真珠43°5合壷 ひとときのちゅら 4月20日蒸留分予約
2005年03月14日
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八重山古典民謡 11~12「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。11、幾世(イツィユ)迄(マディ)ん 侭(ママ)でどぅ 我(バ)な 思(ウム)うだ ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 今日(キユ)ぬ 別(ワカ)りや 命(ヌツィ)中(ジュ)ぬ 思(ウム)い むぬ マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔いつの世までも変らぬ幸せだと自分は思っていたのに、今日の突然の離別は、生涯の心の傷として、残るでしょう〕12、昔(ムカスィ)ぬ 人(プィトゥ)や 暮(ク)らしゆ 歌(ウタ)に 託(カ)け ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 島(スィマ)ぬ 宝(タカラ)で 今(ナマ)に 残(ヌク)しょうり マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔私達の祖先は、生活ぶりを歌に託して現代まで伝えた、八重山島の宝として残してくれた〕 紅露染うちくい しゃこ貝塩から 塩から はらわた 【送料無料】お得な八重山泡盛セット! 伝統的工芸品 八重山ミンサー名古屋帯深みのあるブルー地 八重山みんさ[四寸帯-草木染]縹色地に紺縞
2005年03月13日
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宗教上、豚肉を食べない理由「宗教上の理由から豚肉を食べない」と、聞く事があります。では、宗教の教義上で食べる事を禁じているのは何故でしょうか。イスラムのコーランには、「死獣の肉・血・豚肉・アッラー以外に捧げられた肉・絞め殺された動物・打ち殺させた動物・墜落死した動物・角で突き殺された動物・猛獣の食い残し・偶像神の祭壇で捌かれたモノ・賭博などの賭け事で分配されたモノを口にしてはいけない」とあります。ユダヤ教「旧約聖書」(レビ記・申命記)のなかでは、食べても良いモノとして、「ヒズメの分かれたモノ・ヒズメが二つに切れたモノ・反芻(はんすう・一旦胃に送った食物を、再度口に戻して噛み砕く)するモノ」に限られており、豚は反芻しない動物であり認められていない。イスラム教の母体は、ユダヤ教であり、母体宗教の禁忌は避けることができない。が、理由とされています。その他で豚を禁忌とする理由としては、雑食であり、動きが鈍く、発情期が21日周期の習性、が忌み嫌われているようです。又、他の家畜動物は、肉以外の副産物として人間に提供していますが、豚は肉以外の提供はない、とされています。ユダヤ・イスラム発祥地域で考えると、乾燥し暑い これは腐敗を助長します。残飯(草以外)などを摂取する事は、衛生面で不潔。遊牧させる事ができない。この事から、豚に関わらない様に「教義・教え」として現在まで伝えられているようです。厳格なイスラム教徒の場合、豚肉が触れたであろうとされる調理器具がある一般のレストランには絶対に行かず、イスラム教徒専用レストランに行き食事を取るほど徹底しているようです。
2005年03月13日
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八重山古典民謡 9~10「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。9、月(ツィクィ)ぬ 美(カイ)しゃ や 十日(トゥカ)三日(ミーカ)月(ツィクィ) やしが ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 女童(ミヤラビ) 美(カイ)しゃ や 十七八(ジュシチハチ)頃(グル) マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔月見の最も美しい時期は十三夜の月、乙女の最も美しい時期は十七・八歳頃〕10、月(ツィクィ)ゆ 見(ミ)りば 昔(ムカスィ)ぬ 月(ツィクィ)やしが ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 変(カ)わてぃ 行(い)く すや 人(プィトゥ)ぬ 心(ククル) マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔今、月を見ても、昔の月そのままである、変わり行くものは、人の心 ばかりである〕 大月光浴 【CD-ROM】 月光の屋久島 【CD-ROM】八重山民謡の経緯と時代背景 「トゥバラーマ節」(二揚) 真栄里村の仲筋家に「嘉那志(カナシャーマ・カナシ)」と言う評判の小町娘が生まれた。 当時は階級制度が厳しくて、「石垣主邑の士族の青年達」は横暴であり、農村の娘と自由に恋愛する権利を与えられていた。 その権力を振り回して、仲筋家の絶世美人(カナシ)を、我が意中の「恋女」にしようと競い始め、暗い狭い悪路を毎夜通い、仲筋家の福木(ふくぎ)の下の石垣から覆面姿でノゾキ見をする。(今でいうストーカ-行為) だが、ノゾキ見をするのは、一人ならず五・六人も居るので(カナシ)は怖く毎夜、両親と同じ部屋で両親に挟まれる状態で寝ていた。 その士族の青年「殿原・殿方(とぅばらーま)」達は、何とか(カナシ)と語り合いたい、人目会いたい、との思いで、風雨の日も、毎夜幾日・幾月通い続けるが、一度も会えずにいた。 その帰り道で、無念な想いを即興で謡い出したのが始まりとされています。「1814年」頃の作。「昔とぅばらーま」は登野城村の故・金城長保氏の祖先が、黒島首里大家子職の時、公用中 宮古島沖で遭難し、宮古蔵元に助けられ、宮古の島娘との恋愛し、「1800年頃」別れの時に即興詩として唄われたと伝えられる。 「とぅばらーま」は、毎年大会があるほどに、進化し増殖する唄です。
2005年03月12日
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追悼 照屋林助作詞「チョンチョン節」(本調子)1、キジムナ小(グヮ)ぬ 家(ヤ)やまーやが チョーバン石ぬ すばどーやー すばどーやー ガジマル木ぬ 中にどぅあんどー チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン キジムナーが チョーン チョン2、キジムナ小(グヮ)が 呼(ユ)びーが来ね まじゅーん行かや カーマデ カーマデ 月ぬ夜や 海かいどーや チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン キジムナーが チョーン チョン3、キジムナ小(グヮ)や 力持ちやさ 魚取(イユトゥ)い 上手(ジョウジ)ぬ 海ヤカラー 海ヤカラー 魚取てぃもうきてぃ まぎ家(ヤ)造(チュク)らな チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン キジムナーが チョーン チョン4、キジムナ小(グヮ)とぅ 海かい行ちね 魚(イユ)ん グヮサ グヮサ グヮサラコ グヮサラコ 大魚(ウフイユ)やいゃーむん 目玉(ミンタマ)やありがむん チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン チョン キジムナーが チョーン チョン 忠孝 南蛮荒焼 5升甕窯変入 泡盛まさひろ 縄巻三升龍壷 43度 瑞泉 かめ入り古酒 忠孝 南蛮荒焼 1升甕
2005年03月11日
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沖縄民謡 照屋林助作詞作曲「ベール ベール」1、余所目(ユスミ) 忍(シヌ)ぶんで 今(ナマ)ど 我(ワ)ね 来(チ)ゅうる 肝(チム)からやあらん 許(ユル)ち 呉(クイ)りよ 無蔵(ンゾ)よ ベール ベール 我(ワ)んねえ 許(ユル)さらんむん 許(ユル)さらんどう2、自由ならん 恋路(クイジ) 踏(フ)み 迷(マユ)らゆいか とてん 我(ワ)がくとや 忘(ワ)して 呉(クイ)りよ 無蔵(ンゾ)よ ベール ベール 我(ワ)んねえ 忘(ワ)しららんむん 忘(ワ)しららんどう戦後、「たくさんの人が戦争で死んだのに皆さんは生き残っている。生き残った人が命の祝い(ヌチぬスージ)をしなければ、死んだ人に申し訳がない」と、舞天(ふーてん)と共に命の祝いと称して芸を披露し人々を励ました。てるりんさん 御冥福をお祈りいたします。
2005年03月10日
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八重山古典民謡 7~8「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。7、河(カー)らぬ 水(ミズィ)や 海(ウミ)にどぅ 溜(タ)まる ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 我(バ)んが 思(ウム)いや うらにどぅ 染(ス)まる マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔川を流れ行く水は、海まで流れつく、自分の想いを受け取ってこそ、本当の恋ではないでしょうか〕 (「うみにどぅ たまる」・「うらにどぅ すまる」韻を踏んでいます)8、月(ツィクィ)とぅ 太陽(ティダ)とぅ や ゆぬ道(ミツィ) 通(トウ)りょうる ツィンダーサヤゥ ツィンダサー とぅばらーま 心(ククル)ん 一筋(ピトゥミツィ)あり たぼり マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔月や太陽は同じ場所を通ります、とぅばらーま(貴方)の気持ちも一筋であって下さい〕
2005年03月10日
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八重山古典民謡 5~6「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。5、紺染(クンズミ)や 藍(アイ)しどぅ 染(スミ)る ツィンダーサヤゥ ツィンダサー かなしゃー とぅ 我(バ)んとぅ や 肝(クィム) しどぅ 染(スミ)る マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔紺地の着物は、藍(あい)で染めるが、可愛い乙女と自分の仲は、心を通して染めましょう〕(本妻は、夫婦の契りで繋がれるが、妾との仲は(愛・下心?)で繋がりましょう ?)6、染(スミ)てぃ 染(スミ)らば 花(パナ)ぬ 紺染(クンズ)み ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 浅染(アサズ)み や 免(ユル)し 給(タボ)り マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔馴れ初めて恋仲となったからには、藍(あい)の紺染めの様に、濃く染めたい。浅染めは「免し給り(ゆるしたぼり)・御免です」〕(好きで恋仲になったならば、後には本妻にしてあげたい)(妾なら、絶対に御免ですから) 伝統的工芸品 琉球かすり・きもの 伝統的工芸品・琉球かすり・きもの 知念幸徳伝統的工芸品本場手織り琉球かすり「小さな星の光り」 正絹 本場琉球かすり 大城トミ作 梅茶色系rkt04
2005年03月10日
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八重山古典民謡 3~4「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。3、二重(フタイ) まーぐぃ ぬ 一(ピィトゥ) いらならば ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 河(カー)らぬ 水(ミズィ)ぬ ぴくぃ きしぱらば マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔二枚のマツゲが、一枚になったら(眠りにつく頃)、川原の水(道を行く人)が、途絶えたら、人目を忍んでおいでください〕4、思(ウム)てぃ 通(カユ)らば 千里(シンリ)ん 一里(イチリ) ツィンダーサヤゥ ツィンダサー またん 戻(ムドゥ)らば 元(ムトゥ)ぬ 千里(シンリ) マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔好きな人を思い詰めて通うと、千里の道も一里に思うが、帰りの道はやっぱり千里だな〕 「八重泉 シュロ巻壷」30度1800mL 黒真珠43°1升壷
2005年03月09日
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今日3月8日は「三板(さんば)の日」です。 琉球サンバ 沖縄ミュージックにかかせない!! 三板・さんばここをクリックしてください。使い方・演奏の仕方が詳しく記載されています。
2005年03月08日
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八重山古典民謡 1~2「とぅばらーま節」(二揚)唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相だね、可哀相)「マクトゥ二 ツィンダサー」は(本当に可哀相だね)と囃しています。1、仲道路(ナカドーミツィ)から 七(ナナ)けーら 通(カヨ)うけ ツィンダーサヤゥ ツィンダサー 仲筋(ナカスィズィ) かなしゃーま 相談(ソウダン)ぬ ならぬ イラ マクトゥ二 ツィンダサー んぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ)〔ナカドウ道から、幾度も幾度も通ったが、仲筋家の(カナシ)は、一度も顔を見せて会ってはくれなかった〕2、かなしゃーま 誠(マクトゥ)ぬ 者(ム) ゆ やりばツィンダーサヤゥ ツィンダサー歌(ウタ)ば 聞(スィ)き走(パ)り 来(クィ)んだら ヤゥマクトゥ二 ツィンダサーんぞーしぬ かぬしゃーま ヤゥ (又は、とぅばらーま ヤゥ) 〔可愛い(カナシ)に、真の恋心があるならば、私の唄を聞いて走ってくるだろう〕
2005年03月08日
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八重山民謡の時代背景と経緯 「鳩間節」 鳩間島は、 「1701年」宮古島人「船屋 儀佐真」後に改姓し、「鳩間 儀佐真」の計画と尽力によって、「古見村から男8人・女6人計14人」で、山林を開拓し小村を創立。 古見村の管轄であったが、公用に支障を来たし、「1703年」黒島の保里村から男100人・女50人を〔強制移住〕させ「鳩間村」に独立させた。 鳩間村には、水田が皆無である為、蔵元政庁では(人頭税貢納困難)の理由から、西表島の上原・舟浦に鳩間人に借地させて、稲作を強制させた。 鳩間人は、田畑管理小屋(田宿屋)を建て、2・3泊しては耕作に精魂打ち込み、毎年豊作であった。が、土地貸主である上原村・船浦村の人は、自分たちより上手く豊作に結びつけた鳩間の人たちをヤッカミ、怒りだし借地返還の要求を出した。 蔵元政庁では、人頭税の徴収が出来なくなるので、返還要求は絶対不可との厳命を出し、新開拓地を得る様命じる。 ここで鳩間の役人は、「小浦インダ・福浜・下離」の土地に選定し、鳩間島総動員で開拓を開始する。 この無慈悲な鉄面皮の「上原・船浦」の人が来たら神酒も普通の皿ではなく、「アディンガー(マングローブの根元の泥に生息するハマグリより大き目の貝)殻」で飲ませて、酒もハマグリ(八重山のハマグリとは、小指の先ほどの貝・アサリやシジミに似た貝を指します)の殻で与え、「人間としての待遇はするな!」と歌っています。 この民謡は、生産の喜びと、反面の「上原・船浦」の無慈悲に対する敵対心を謡って(溜飲が下がった)と言う唄が「鳩間ユンタ」です。後の役人が改作し「工工四」に「鳩間島節」として発表し、名曲として現在も唄い継がれています。
2005年03月07日
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八重山古典民謡 「鳩間(ハトゥマ)節」(本調子)1、鳩間(ハトゥマ)中岡(ナカムリ) 走(パ)り 登(ヌブ)り 久葉(クバ)ぬ 下(スィタ)に 走(パ)り 登(ヌブ)り ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔鳩間島の中岡まで走り登り、クバ林まで走り登り〕2、美(カイ)しゃ 生(ム)いだる 岡(ムリ)ぬ 久葉(クバ) 美(チュウ)らさ 連(ツィ)りたる 頂(ツィヅィ)ぬ 久葉(クバ) ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔美しく生えている森のクバ、美しく揃っている頂上のクバ〕3、いんが 南端(パイバタ) 見渡(ミワタ)しば 浜(ハマ)ぬ 見るすや 小浦(クラ)ぬ 浜(パマ) ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔対岸の西表島を展望すれば、白布を敷き並べた様に見えるのが小浦の浜〕4、小浦(クラ)ぬ 浜(パマ)から 通(カヨ)ふ 人(プィトゥ)や 蔵(ウラ)ぬ 前(マイ)ぬ 人(プィトゥ)ぐくる ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔小浦の浜から通行する人々は、ちょうど蔵元政庁の大路を、大きな態度で歩く風情の様である〕5、いんだ ふく浜(ハマ) 下(スィタ)離(パナ)り 船浦(フノーラ)地(ズィ)やか 増(マスィ)ぬ 地(ズィ) ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔インダ・福浜・下離などは、上原や船浦の土地より、上質の土地である〕6、前(マイ)ぬ 渡(トゥ)ゆ 見渡(ミワタ)しば 行(イ)く 舟(フニ) 来(ク)る 舟(フニ) 面白(ウムシル)い ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔前の海を展望すると、西表島へ耕作に行く舟・来る舟が通り、面白い眺めだ〕7、稲(イニ)ば 積(ツィ)んつぃけ 面白(ウムシル)や 粟(アワ)ば 並(ナミ)つぃけ さてぃ 見事(ミグトゥ) ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔稲を満載している舟を見ると面白い、粟は立てかけて満載している、さても見事な積み方だ〕8、船浦(フノーラ) 人(プィトゥ)ぬ 見(ミ)る みん 上原(ウイバル) 人(プィトゥ)ぬ 聞(スィ)くぃ みん ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔船浦の人の面(つら)当てに、上原の人に聞かす為に、精魂打ち込んで開拓してみせよう〕9、上原(ウイバル) 人(プィトゥ)ぬ 走(パ)り 来(ク)ば アディンガーぬ 殻(グル)し 神酒(ミキ) 飲(ヌ)まし ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔上原の人が鳩間にやって来たら「アディンガー」の殻で、御神酒を飲ませましょう〕10、船浦(フノーラ) 人(プィトゥ)ぬ 走(パ)り 来(ク)ば 蛤(ハモルィ)ぬ 殻(グル)し 酒(サキ) 飲(ヌ)まし ハイヤ ヤゥ ティバ カイダギ チトゥユル デンヌ マサティ ミグトゥ〔船浦の人が鳩間にやって来たら、ハマグリの殻で酒を飲ませてやれ〕(ここで使われる ハマグリは、アサリほどの小さな貝の事)
2005年03月07日
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アブサン(Absinthe)は19世紀末の芸術家に霊感を与えた「緑の魔酒」と言われていた。が、原料の ”ニガヨモギ”に含まれる”ツヨン(Thuyone)”が有害とされ「1915年」にフランスで製造中止となり、販売されていませんでした。「1981年」にWHO(世界保険機構)で、”ツヨン”の規制値が承認され、また技術の革新により、”ニガヨモギ”に含まれる”ツヨン”の量をコントロール出来るようになったため、昔のような「アブサン」が復活しました。緑色の酒に、5倍の水を加えると白く濁り「ミルク」のような色に変わります。
2005年03月06日
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たまたま調べ物をしていて、気になった事です。普段、民謡の訳意をしていますが、こんな歌を見つけました。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」「マルセユからやって来た市民」と訳します。「ラ・マルセイエーズ」祖国の子らよ 立ち上がれ闘いの日はやって来た暴虐の血まみれの旗 ひるがえるひるがえる聞いたであろう 野や山に悪魔の様な 兵士の叫びを奴らは我々が 息子達まで殺すつもりで やって来る立てよ市民よ さあ剣を取れ進め 進め汚れた奴らの 血をぶちまけろおののけ 裏切り者恥を知らずや親殺しの 罪は免れず惨酷なる 暴君を討て奴らは母の胸 引き裂く者解釈に困りました。フランス代表・・・国歌斉唱それでも、この歌を由緒ある場所で堂々と歌う事ができるのでしょうか。他国の事ですが、気になりました。
2005年03月06日
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昨今の新聞記事で、半年で50人の「練炭自殺」が報道されていました。しかも、一人では寂しいとネットで同伴者を募っている。又、安易に人の命を奪う犯罪の増加金銭に換えることができない「命」の大切さ「生きる」と言う、人生の「宝(大切な物)」を粗末に扱っている現実前回、記載しておりますが、再度書き込みます。 「命(ぬち)どぅ 宝(たから)」 〔命こそ宝〕 命は何ものにもかえられない大切なものである。どんなに辛い事があっても命を粗末にしてはいけない。死んだら全てを失うことになる。 だれかと喧嘩したり、笑いあったり、ささやかでも大切な幸せを味わう事ができる。生きているからこそ、苦しい事、楽しい事を体験できる。 首里城明け渡しの時、時の王「尚泰王」が詠んだとされる琉歌「戦世も すまち 弥勒世も やがて 嘆くなよ 臣下 命どぅ宝」〔戦いの時もいずれは終わる、平和な時代が必ず訪れる、嘆く事は無い、諦めるな、家臣達よ、命こそ宝〕に由来する言葉。特に戦後から多く言われるようになりました。宮古島には、「すんすぅがど すぅんぬばー すす」〔死ぬ者が損をする〕死ぬ事の無益さを説いています。
2005年03月05日
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サイト仲間では、「怖いシリーズ」が続いていましたから・・・。 ある場所の出来事でした。かなり昔の話です。磯釣りに一人で出かけました。そこは、磯釣りファンにとっては、楽園とも言うべき大物狙いのポイント。夕方、車から降り、クーラーボックス・釣り竿を肩に掛けて、崖を下り磯場に着きました。まだ辺りは明るく、点々と人影があり、大物狙いに集中しようと準備をしていました。1時間が過ぎたが、いっこうにあたりがありません。2時間が過ぎ、3時間が過ぎました。なぜか一匹もかかりません。通常、夜釣りでは、餌を付け替えたり、仕掛けを手入れする時には、ライトを点けます。が、まわりを見渡しても、いっこうにライトが点く事は無かった。そうです。その場所には、自分以外一人も居なかったのです。足元をすくわれる様な、得体の知れない感覚が襲いました。急いで荷物をまとめ、崖を上り、車に乗り込みました。磯場から車までは、およそ15分夕方から釣りをして約4時間ぐらい・・・か?辺りは、白々と明けてきました。慌てて時計を見ると・・・5:25?家に帰り服を脱ごうとしたら上着もズボンもなにかで切りつけた様な切り後があり、もはやボロボロだが、体には一つの切り傷も無し。いったい、そこで何が起きたのか。未だ 不明。ただ、この場所は〇〇の名所と言う事を、後から聞いた。タコ・イカ・貝類・舌ひらめの類は、腐乱したモノを好んで食べる習性があります。
2005年03月05日
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三線の日は、正午の時報を合図に、「かぎやで風節」(御前風節)を一斉に演奏する行事があります。時報の前15分ぐらいから、ラジオなどでは調律笛を鳴らし、「ちんだみ(調律)」をします。会場となる場所では、スクリーン全体に「かぎやで風節」の三線譜面「工工四(クンクンシ)」が書かれており、これにならって弾き始めます。ライブ中継をクリックしてください上記のサイトでは、ライブで昼から時間毎の時報と共に聞く事ができます。サイトの配信と言う四角いコーナーをクリックして、次の画面の中央にある三線のコーナーをクリックします。ライブ中継をクリックすると、見る事ができますよ。上へアクセスすると、ライブ中継を見る事が出来ますよ!夜9時まで。
2005年03月04日
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「かぎやで風節」 御祝いの場・儀式の場で、いの一番で踊られるのがこの「カジャリ風(フウ)」です。 祝儀舞踊で、五穀豊穣・健康・長寿を祈願します。 以前は「老人踊り」とされて、老人は頭巾「リンファーモー」を被り・白い顎鬚・緞子衣装・広帯・扇子のいでたち、老女は白いカツラ・緞子衣装を打ち掛け・うちわを持ち、男女共に白足袋の気品ある衣装を身に着けます。 「かぎやで風(カヂャディフウ)節」〔御前風節〕(本調子) 今日(キユ)ぬ 誇(フク)らしゃや 何(ナヲ)に ぎ(ジ)ゃな 譬(タ)てぃる 蕾(ツイブ)でぃ 居(ヲぅ)る 花(ハナ)ぬ 露(ツィユ)行(チ)逢(ャ)た ぐとぅ ヤゥ ン ナ ハ リ ツィ ブ ディ ヲゥ ル ハ ナ ヌ ツィブ ディ ヲゥ ル ハ ナ ヌ ツィ ユ チャ タ グ トゥ ヤゥ ン ナ〔今日の嬉しさは何に譬えればいいでしょう、つぼみの花が露に出逢って、花開いた様です〕 簡単な歌詞ですが、これを2分30秒にわたり、ゆったりと歌うのは大変高度な曲です。調律(ちんだみ)のしかたをクリックしてください三線と三味線の違いをクリックしてください三線の取り扱い方をクリックしてください
2005年03月04日
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「夫婦船(みーとぅぶに)」作詞/比嘉盛勇 作曲/亀谷朝仁 1、間(シケ)や 果(ハ)てなしぬ 船路(フナジ) 旅(タビ)心(グクル) 夫婦(ミイトゥ)や 以外(カフカ)や 頼(タユ)いならん (囃し)かなし みーとぅぶに〔世間は果てしなく、船旅をしているようなものだ、夫婦以外に、頼れるものはない〕 〔(囃し)愛しい 夫婦船〕2、夫(トゥ)や 帆柱(フバシラ)に 妻(トゥジ)や 船心(フナグクル) いちゃる 波風(ナミカジ)ん 共同(トゥムドゥ)やゆる (囃し)〔夫は帆柱で、妻は船心(舵をあやつる)、どんな波風にも、いつも一緒だよ〕3、船(フニ)とぅ 帆柱(フバシラ)や 打(ウチ)ゆ 風(カジ)任(マカ)し 極楽(グクラク)ぬ 港(ンナト) 着(チ)ちゅる 間(イエダ)や (囃し)〔船と帆柱は、世間の風まかせ、極楽の港に、着く間までは〕4、互(タゲ)に 肝(チム)合(アワ)ち 走(ハシリ) 夫婦船(ミートゥブニ) 時(トゥチ)ぬ 来(クル)までぃや 漕(クガ)ね なさみ (囃し)〔互いに心合わせて、走れ夫婦船、時が来るまでは、漕ぎ続けよう〕5、頼(タユ)るなよ 他人(タル)ん 夫婦(ミートゥ) かながなとぅ 日々(ヒビ)ぬ 暮(ク)らし方(ガタ) 笑(ワラ)い 福(フク)い (囃し)〔頼るなよ誰にも、夫婦揃う事と、日々の暮らしにも、笑いと福を〕 この曲の作者は、ハワイ在住で、移民として苦労をされて、夫婦のあり方を教訓的に表してますね。 人生の長い船旅とするならば、夫は帆柱・妻は船。 浮世の航海では、荒波にもまれながらも、心を込めて一緒に漕ぎ出せば、やがては極楽の港に着く事ができる。 現在、親子・夫婦の関係が危うく、悲惨な事件が多発していますが、この唄のように生きる事ができれば、きっと港に着く事ができる、と信じたいですね。
2005年03月03日
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沖縄の焼物には、「荒焼」と「上焼」の二種類の焼き方があります。「荒焼(あらやち)」は、別名「琉球南蛮」とも言います。 土は、壺屋周辺で採掘していましたが、「都心化」が進み、今では与那原・大里・豊見城方面から採掘されています。 釉薬を使わずに焼き締める素朴で力強い印象を与え、陶肌は赤褐色をしており、昔は酒がめ・味噌がめ・水がめなどの大型の物から、土瓶・カラカラ・徳利まで幅広い製品が作られてきました。「上焼(じょうやち)」は、読谷村・恩納村や名護の土を使い、釉薬を掛けたり、彩色する事により、色彩豊な焼物となります。 焼物の土は、各工房が各々の技術や特徴を持つように、各自で精錬し作られていた。 しかし、「昭和56年」県の補助金を得て、恩納村に共同製土工場が完成し、各工房へ配送されるようになる。現在、釉薬に至っては輸入品に頼っている傾向です。昔は、「しろぐすい(透明釉)」 サンゴ石灰岩と籾ガラを焼いて、混ぜ合わせて作る沖縄独自の釉薬があり、その他に「あかーぐゎー(飴釉)」「おーぐすやー(緑釉)」「くるぐすい(黒釉)」など、島内で調達していました。
2005年03月02日
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「琉球ガラス」は、比較的新しい工芸・日用品です。 二次大戦後、アメリカ軍が持ち込んだコーラやビールの空ビンを再利用したのが始まりとされています。タダでは起きない!空瓶再生と島再生を賭けた産業ですね。
2005年03月01日
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琉球漆器(1)をクリックしてください琉球漆器(2)をクリックしてください「加飾」とは、飾りを加える事。 漆器を、より美しく魅せる技法として、「螺鈿(らでん)」 貝を貼り付け、漆で埋め込む技法「沈金(ちんきん)」 厚く塗った漆自体に模様を彫り、金箔を押し込む技法「堆錦(たいきん)」 漆塗りの表面に、粘土状に加工した漆を立体的に貼り付ける技法などがあり、その他に「密陀絵」「漆絵」「木彫」などがあります。「螺鈿」 琉球を代表する高級工芸品として、「螺鈿漆器」があります。薩摩藩が、琉球国を支配した背景の一つとして、この「螺鈿漆器」を徳川幕府への献上品とする事が挙げられています。生息地として北限域の沖縄近海で採れる夜光貝は、貴重な貝として扱われる。献上品として扱う作品については、特に厳しい検査が行われており、粗雑な製品を作った職人には、かなり厳しい処罰を科してまで、精巧で緻密な細工を求められていた。 夜光貝の表面の荒い部分を削り取り、 平たく、薄くなる様に研ぎ出す 模様に合わせて切り取り 先漆を施した面に貼り付け その上から、仕上げ漆を塗り込み 表面に貝模様が出るまで、研ぎ出し 材料である夜光貝も貴重であり技術も高度な為、大変高級な工芸品として扱われ、生産もわずかとなっている。「沈金」漆塗りを終えた表面に、特殊な刀(昔のぼんぼん時計のゼンマイを加工)で模様を彫り出し、その中に金箔を埋め込んだ技法で「15~16世紀」に最も作り込まれた技法。「1500年」八重山・オヤケ赤蜂の乱で功績を上げた、久米島の祝女(ノロ)「君南風(ちんぺー)」へ、国王から賜ったとされる「祭具を納める丸櫃」が、現存最古とされています。 細く切った金箔を、線彫りの漆器に埋め込んだ「沈金」は、他の地域の作品と違う点は、鮮明な赤い漆を使い、金線が細かく配置されている「朱漆沈金」にある。「堆錦」「1715年」首里の「比嘉乗昌」の独自の技法で、沖縄の気候風土でのみ可能とした物とされる。今、最も「琉球漆器」の代表として使われる技法であり、生産数も多い。 漆液に特殊な顔料を練り込み 餅状にして、麺棒で延ばし 模様に切り抜き 細工して漆器物に貼り付ける立体的な浮き彫り模様が特徴で、「山水花鳥図」が一般的今、琉球漆器の代表的なデザインとしては、「ハイビスカス」「デイゴの花」 この技法は、日用品として最も丈夫で、模様が消えたり、剥がれ落ちる事もない。 漆工芸の技法の中で、簡単に肉厚を表現できるのは、この技法しかないとされている。 琉球漆器の「朱漆」が多様されている理由の一つに、沖縄料理(琉球宮廷料理)を美しく魅せる効果があるとされています。
2005年03月01日
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