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昔、年始の風物詩 「獅子舞」ルーツは諸説あり、中国は唐の時代に伝来したとも清の時代とも言われ、北方・南方それぞれの伝来と、伝えられていますね。では、中国獅子舞とはどんな物なのでしょうか?中華街や南京町などの旧暦新年のお祝いには、爆竹が鳴り、チャルメラ・ドラの音と共に踊るシーンを想像しますね。中国獅子舞は、「駆邪と降福」の象徴として、古代中国社会の特に封建的農村の生活風俗に大きく影響を与えた神事であり芸能であるようです。元々、「獅子」自体は中国本土に棲息していません。想像多き人物が、古代文献や見聞により描かれた想像の動物ですね。「見聞偶録」(朱象賢著)には、この様に書かれています。『獅子は「天龍九子之一善守門云」とあり、神々の宮殿にいつ天龍が怒って町や村を破壊しないように宮殿の前で守る役目を持つと云われ、天龍の九子のうちの一子である。』それが語り伝えられて、「獅子は門前で魔物から家を守るもの」と、信じられており、今現在でも守られています。沖縄のシーサーや神社の狛犬ですね。廟や宮殿、その他建造物の前には必ず左右一頭ずつ石造獅子を置いて、「駆邪と降福」を祈願しています。その守り神である獅子をお祝いの席で、踊り披露する事で、悪霊から人々を守り、しいては五穀豊穣祈願と移行していきました。獅子舞は、中国清の時代、乾隆皇帝時代に最も盛んに踊られていた。その為、この時代に今日の獅子舞が開発され、発達したという説が多く存在しています。こんな伝説がありました。中国清の時代初期、乾隆皇帝が江南地方の帰徳府城で過ごした。ある晩、乾隆皇帝は夢を見た。五色の色彩豊かな聖獣が枕元に現れ、愛嬌を振りまいて立ち去った。目を醒ました乾隆皇帝はさっそく都に戻ると、宮中の名匠たちを一堂に集め、夢に見た聖獣の姿、形そっくりなモノを作らせて、二人の舞手を中に入れ踊らせたのが獅子舞の始まりとされています。獅子舞をこよなく愛した乾隆皇帝は、軍の士気を高めるためにも、武術のほかに日々獅子舞を訓練させ、朝廷の祭典時には大々的に獅子舞で祝ったという。〔獅子の中の人は兵士であり、武術の達人〕元は、宮廷内だけであった獅子舞も、彼ら将兵が中国各地への転属等で地方の軍人にも伝えられ、やがて民間まで広まった。これが乾隆由来説とされています。日本に伝わる獅子舞は、もっと古い時代かと思われますね。新年の門付き芸人や秋祭りの定番とも・・獅子頭の多様や胴の素材が唐草染めの布や熊の毛皮など色々アリ面白いですね。沖縄では、正月踊りより初夏や秋の踊りがメインの様ですね。今日は、大晦日です。皆様、良いお年をお迎えください。m(_ _)m 純金 無双獅子 (LPC・500g) INAX 手洗器[創の美 産地別シリーズ][源右衛門窯][青磁掛け分け獅子唐草][有田] L-25/GE1 獅子舞装束 頭 【九谷焼の伝統の陶器・縁起物】18号立獅子・盛 ド迫力!!特大シーサー20(赤獅子) 袋帯特選 京蔦織物四騎獅子狩文(帯芯入り) 江戸褄
2005年12月31日
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八重山民話 「犬が見つけた仲筋井戸」昔々、竹富島の仲筋村酋長の新志花重成(あらしのはな かさなり)は、1匹の犬を飼っていました。重成は、常々「水質の良い泉があれば、竹富島民が困ることがないのだが・・・」と、祈願していました。ある日、重成は犬を連れて散歩に出かけました。〔昔は、放し飼い同様なので、散歩ヒモなど着けていません。〕重成の後にピッタリと着いて来ていた筈の犬が居なくなりました。暫く経ち、嬉しそうに尾を振りながら現れ、重成の足元で元気良く走り回りました。重成は、不思議に思いました。それは、この干ばつの乾燥した時期に、この犬の尻尾が泥水が付いて、濡れていたからです。付近には井戸も水溜りもありません。すると、犬は又、芭蕉の森の方へ走っていきました。犬は、陸カニの穴に尾を入れ、ココだと言わんばかりに尾で水を振り撒きました。重成は、「これは珍しい」と思い、持っていた杖でこの穴を掘り返してみました。すると、綺麗な真水が涌き出したではありませんか。見る見るうちに、付近は小池になりました。重成は、自分の念願していた泉が見つかったので、大変喜びです。その後、その穴を中心に深く掘り下げました。すると、立派な飲料水が湧き出しました。重成は、この犬に感謝して、その井戸の石枠を犬の形に積み上げました。そして日頃の祈願が成就したので、井戸の落成式を盛大に行いました。その井戸の名前を「シマナーフンナー(めでたい嘉和)」と名付けました。 それから竹富島では、元旦の若水(初水)、出産祝いの命名水等、御目出度い事ある毎に、必ず仲筋井戸の水を使うことになったそうです。
2005年12月30日
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「手拭い」沖縄では、手拭い・タオルを「サージ」と呼びます。エイサー衣装で使う紫の鉢巻を「長鉢巻(マンサージ)」と呼びます。一部地域のエイサー衣装では、西洋タオルを頭に巻く事もあります。手拭いは元々、洗顔や入浴の際に使うだけではなく、頭に被り(頭巾・頬っ被り)巻き(襟巻き・腹巻)肩に掛ける(オシャレアイテム)詰め物(現在のパット代わり)などに使われていました。防寒・日除け・ホコリ除け・虫除け・草除けなどに大変重宝し、愛用されていた。また、被り方や巻き方は、流行の最先端という方法「粋だね」が合言葉になり、男女の違いや職種による使い方、用途にあわせる方法など様々にあり、流行りや廃りもありました。特に、歌舞伎役者が見せた被り方は、流行一番と評判になり、町人たちは我先にと真似ていたようですね。「ねじり鉢巻」は、意気盛んな大工や鳶がする頭を保護する役割もあった。「鉄火」と言う巻き方は、ねずみ小僧や泥棒のスタイル、鼻の下にねじり目が特長。「吹き流し」は、頭に被せて垂れた布の一部を口に挟む、色っぽさが漂います。笠を差さない旅姿では、髪の埃除けに、頭巾のように頭をスッポリ覆う被り方があります。この被り方には、男女それぞれに、「男被り」と「姐さん被り」と呼ばれていました。「粋」と言う観点からは、手拭いを単に縦に四つ折にして肩にかけるだけのスタイル。花見や寺社詣の際に襟に掛ける事は、シャツの襟を立てる感覚。笠を被る時には、後ろ首の日除けとして、笠裏に留め掛ける方法もありました。白粉化粧の際、着物に着かないように肩襟に掛け、膝に掛け使われています。現在のタオルの様に、名前の宣伝や店の屋号を染め込んだ物を配る慣わしがありました。「染め抜き図柄」大量生産ができる型染めの、白地に藍で染め上げたシンプルな物が多く出回りますが、型のデザインとして、「縞」「青海波」「豆絞り」「そろばん玉絞り」「鳴海絞り」などがあります。「文様」江戸時代に人気の文様として、「吉原つなぎ」とも「廓つなぎ」とも呼ばれた四角い吉原の町の形をモチーフとして、斜めに配置し鎖状に繋いだ文様。「キ九五呂」縦に五本、横に四本の格子の中に、キと呂の文字が入り五本と四本で「九」、これで(キ九五呂)菊五郎を表した尾上菊五郎のトレードマークですね。当時は浴衣の反物のような状態から、一尺、二尺と用途に応じて適当な長さに切り売りされていました。1尺(約30cm)は、主に汗拭き用や現在のハンカチ代わり三尺(約90cm)は、入浴用として、体を擦り、その後絞って、体を拭く。四尺~五尺(約120cm~150cm)は、被り物として使った。「帯に短し、タスキに長し」六尺(約180cm)は、職人が帯の代わりに利用していたようです。この六尺の手拭いは、「三尺二廻り」と呼ばれる事から、帯の別名「三尺」という言葉が使われるようになりました。以前は手拭いをも三尺と呼んでいたようですね。 手拭い(てぬぐい)財布に名前を入れる50枚のご注文☆1枚¥1000♪ 竹久夢二『港屋絵草紙店』リトグラフ ONITSUKA TIGER(オニツカタイガー)WOMENMARATHON TABI(マラソン足袋)手拭いの意匠を生かし... 【ちきりや】“手拭い”Wリングベルト おしゃれ手拭いばすたおるせっと 大 手拭い生地の【てでぃべあ】 水色 手拭い【阿波の藍染】 行列が出来ちゃいました!!新春福袋!手ぬぐい2本分価格で!?新作&レアもの手ぬぐい含めて3... 名所江戸百景【戸田屋】手ぬぐい亀戸梅屋敷 日本の伝統色マフラー「青藤」 日本手ぬぐい 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら) 桜 天竺木綿の柄足袋♪女性用♪花紋 桜桃 上棟手拭い(たてまえ手拭い) てぬぐい 殿と姫
2005年12月29日
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エイサー衣装の検証を行う為に、物のルーツを調べています。「脚絆(きゃはん)」仕事や遠出の旅に出掛ける時には、両脚の膝下から踝にかけて(特に向こう脛)保護を目的として巻きつける布を言います。小袖着流しのスタイルでは、歩き易くする為に脚絆は必需品となった。上下または一カ所に紐をつけて縛るタイプやコハゼで止めるタイプがあります。麻・木綿・絹織物などの布を方形または扇形に縫ったものであり、特に婦人が多く用いていました。男性は、植物性繊維を縦に編み込んだ「ハバキ」を多用していた。上下部に結び紐を付けた脚絆は大津型脚絆上部にのみ紐を付け背部にコハゼをつけたものを江戸型脚絆布を円筒形に縫い脚を通して上部に紐を付けたものを筒型脚絆と呼びます。室町時代より広く使われており、脚巾・脚絆・脚半の字で表し、キャハンと読まれていました。それ以前は、「脛巾(ハバキ)」だけを使っていた。江戸時代では、キャハンとハバキを同じ様に扱った地域もあり、現在でも布の脚絆をハバキと呼ぶ地域もあります。着物着用の時代、裾から下を保護する役割を担っていた脚絆。農家では水田の作業中、ヒルにふくらはぎを吸われない為に着用した。畑仕事や山仕事では、害虫除けと毒蛇対策シバ刈りでは、切り枝の先で脚を痛めない為に用いられた。京の都へ行商に出る大原女や白川女は、脚のホコリ除けに巻いたと言う。これらは地木綿製が主でしたが、農耕作業では黒や紺色の木綿製のものが多かったようです。「早口言葉」お前の脚絆(きゃはん)は小紋皮脚絆私の脚絆も小紋皮脚絆ござれ川向いで小紋皮脚絆比べを致しましょうお前の脚絆は河獺(かわうそ)の皮の革脚絆私の脚絆も河獺の皮の革脚絆川向うで河獺の皮くらべしょうその脚絆(きゃはん)は親の脚絆か子脚絆か親も脚絆なら子も脚絆親の脚絆子の子脚絆江戸期の脚絆の製法にも、大別して二種類の製品があった。関西モノの「京坂物」と関東モノの「江戸物」に分けられます。「京坂物」は、滋賀県の大津近隣で多く生産されたので「大津脚絆」と呼ばれた。使用地域では、主に京阪神地区。木綿の紺色又は浅黄色の一幅布を、下の方にヒダを一つとって下方を細くした、長さ鯨尺七寸余(三十センチ)のもので、紐は木綿を五分幅くらいに織って両端を組紐にしたものを上下につけ、これで脚にはいた。三度・飛脚などは、特注の厚手雲斎木綿の紺を使っていた。「江戸物」は、関東一円で使用。「江戸脚絆」と呼ばれていた。製法は、大津脚絆と全く異なっていた。ふくらはぎの形におさまる様に、両側に曲線が施されており、コハゼ掛け、紐は上だけの片紐をつけてあります。材料は、表地に紺やめくら縞、裏は浅黄木綿。前に当たる部分の上が山状(三角)をなし、「山付き」といわれる。武士は、鼠地藍小紋のものを使い、身分の高いものは裏に絹や羽二重などを施す。又、女性の脚絆スタイルは、八瀬や大原の女たちが古くから見せていたようです。 【アルフレックス】木枯らし紋次郎(モデル:中村 敦夫) 青縞脚絆 ■エイサー用衣装 脚絆 水色脚絆 短脚絆 マジック(M・L・LL) 脚絆 5枚コハゼ(M・L・LL) 脚絆 きゃはん
2005年12月28日
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エイサー装束を調べてみました。現在のエイサー衣装は、手拭い(サージ)・打ち掛け〔チョッキ〕(ウッチャキ)・脚胖(キャハン)・地下足袋が基本形とされていますが、足元から見てみますね。「地下足袋の由来」その元は足袋ですね。足袋の起源は奈良時代とされています。字の如く足の袋の為、当時は足の指は分かれていなかったようです。分かれたのは室町時代に入ってからではないかと言われています。当時の一般の人々は、裸足や裸足に草鞋履きなどで作業する場合も多く、足を保護する必要や動きやすくする為に、丈夫な革足袋や刺子足袋を履き始めた。江戸時代中期頃になると、普及していった作業用革足袋や刺子足袋は、室外作業の革足袋と室内履きの布製足袋(座敷足袋)に区別され、布足袋と革足袋の役割の違いが明らかになりました。呼び名として沓足袋・足袋沓とも言われていたが、実際にはそれまでの革足袋と同様でした。当時の革足袋や刺子足袋は、補強として底を二重にし、足底部分のみに革を貼った物もありました。足袋の語源「たんび」と言い、武士が好んで履いた皮の靴(現在の靴下に酷似)を用いた単皮からきたようです。江戸時代の足袋は、綿の布で作られるようになります。その頃には、草履姿と足袋であり、水耕では裸足でした。明治時代に入ると、現在の靴下と同様の扱いである足袋が、広く浸透していきます。本題の地下足袋の登場は、大正時代初期頃になります。が、原型となる物は明治時代のゴム輸入開始から、開発がはじめられたようです。それは野外労働用、特に山林作業に従事する方達から広がり、丈夫な綿足袋の底に厚いゴムを貼り付けた物が原型とされています。語源は、直に地を踏む足袋の「じかたび」や、「ぢかたび」として当て字の地下を使ったとも伝えられています。地下足袋とは、いわゆる普通の足袋(座敷足袋)とは異なり、外で作業が出来るよう、底にゴムが貼り付けられてあり、また筒(膝下から踝の間)が長く、鞐(こはぜ)の枚数が多いものが多い。これは、かつて作業に多く使用されていた「脚半」の役割を地下足袋が引き受けるようになったと考えられます。また素材には、綾織のような強い素材が用いられています。現在では足袋の形状も多様化しており、底が柔らかく足の底で地面の感覚が分かりやすい「縫い付け足袋」耐水性や丈夫さの点で有利な「貼り付け足袋」足底部を補強した「ジョク足袋」厚手地で綿入り「保温足袋」指先の部分に鉄芯が入った「安全足袋」指が分かれていない「先丸足袋」農業特に田植え用としてゴムひき布地で出来た「ゴム地下足袋」林業など滑り止めの付いた「スパイク足袋」鳶職人が溶接作業で使用する「皮地下足袋」その他に、祭用に開発された足袋も普及しています。脚絆と地下足袋地下足袋の丈が長くなったのは、脚絆の代わりとしてならば、エイサー衣装の地下足袋は丈が短い物でもよいようですね。衣装のルーツは難しいですね。 地下足袋式で指先をきたえよう!フィンガーコントロールシューズ【野球スパイク】 人気NO.1、しかも12枚、あのエアーの力で激しい男の祭りも、よいしょ~~粋な地下足袋足元ひか... 高所作業用安全靴安芸たび モンベルサワーシューズロング 浴衣にあわせる歌舞伎者、和柄地下足袋(M寸) 浴衣にあわせる歌舞伎者、和柄地下足袋(S寸) モンベル (mont-bell) サワーシューズ ショート 1125301 [分類:沢登り用品] 花柄地下足袋(ゴム底)(赤) 踊り足袋2足組み【外反母趾対策】【1227アップ祭10】 地下足袋 kids(濃コン・ピンク) お祭りにも! スポーツジョグ 地下足袋 白 23~28cm 紬(つむぎ)地下足袋 23.0cm~27.0cm 快足ゴム足袋(先丸) わらじ
2005年12月27日
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名護親方 程順則1663年寛文元年、那覇の久米村に生まれ。順則は中国名であり、沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」。66歳、名護間切の総地頭(今の市長)となり、名護親方や名護聖人と呼ばれる。また、文学者、教育者として漢詩集を出稿もしています。1718年、琉球初の学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立。20代の頃から5回、中国に渡って学問を深め、彼が中国から琉球に持ち帰った教訓書「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には、人が人として守らなければならない6つの教え(六諭)が分りやすくまとめられています。この本は、八代将軍吉宗に献上された後に和訳され、江戸時代の寺子屋の教科書として全国に広く普及し用いられました。彼が亡くなった後、名護間切番所(今でいう市役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(ミジウガン)」といって「六諭」の書を掲げ、遺徳を偲んでいます。今も引き継がれている行事の一つです。「六諭」(聖諭)「孝順父母」 父母(父母)に孝順(こうじゅん)なれ 〔父母に孝行しなさい〕「尊敬長上」 長上(ちょうじょう)を尊敬(そんけい)せよ 〔目上の人を尊敬しなさい〕「和睦郷里」 郷里(きょうり)を和睦(わぼく)せよ 〔村里にうちとけなさい〕「教訓子孫」 子孫(しそん)を教訓(きょうくん)せよ 〔子孫を教え導きなさい〕「各安生理」 各生理(おのおのせいり)に安(やす)んぜよ 〔各々の生業にあまんじなさい〕「母作非為」 非為(ひい)を作(な)すなかれ 〔悪いことをしてはならない〕今の善くないニュースの登場人物は、この言葉が足らないのでしょうね。
2005年12月26日
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「宮古根(ナーク二―)」なぐさみに取たる 石なぐやあらんよ里がいめぢちぬ さんどぅ取たる〔無邪気な小石遊びじゃないのよ、貴方が来てくれないから、貴方の身代わりに小石をとったのよ〕暮らさらんひちゅい しぬでぃちゃる うじょうによいんじみそり さとめー うむい語ら〔一人では居られないから、寂しくて門前まで忍んで来たのよ、さあ貴方、出てきてよ、共に思いを語りましょうよ〕結しでぃ行く契り くぬゆまでぃとむなよ変るなよたげに あぬゆまでぃん〔結んだ契りは、この世の果てまで変わりなく、あの世まで相思相愛でいましょうね〕ほんの一部ですね。星の数ほど歌詞(琉歌)が続きます。琉歌が続く限り、この唄は残ります。唄者や口ずさむ人の数ほど、この唄は続きます。
2005年12月25日
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「時代の流れ」(本調子)唐(トゥ)ぬ世(ユー)から 大和(ヤマトゥ)ぬ世(ユー)大和(ヤマトゥ)ぬ世(ユー)から アメリカ世(ユー)珍(ミジ)らさ変(カ)わたる 此(ク)ぬ沖縄(ウチナー)〔唐の時代から日本政府の時代、日本政府の時代からアメリカ占領の時代、はげしく変わったこの沖縄〕昔(ンカスェ)銭(ジン)ぬ 計算(サンミン)ぬん一貫(イックヮン)二貫(ニクヮン)どぅ さびーたしが世(ユー)ぬ 中変(ナカカ)われ 変(カワ)わる如(グトゥ)銭(ジン)ぬ 計算(サンミン)までぃ 変(カ)わてぃ〔昔はお金の計算も一貫二貫としていましたが、世の中の動きが変われば変わるが如く、お金の計算まで変わってしまった〕何(ヌゥ)やがひるまさ 変(カワ)とぅしぇ女(イナグ)ぬ 姿(シガタ)どぅ やいびんで昔(ンカスィ)ぬ 面影(ウムカジ)むる無(ネー)らん〔一番何に驚いた事かと言うと、女性の姿に驚きました。昔の面影が全く無くなってしまった事です〕昔(ンカスェ)髪(カラジ)ぬ 長(ナガ)さしどぅ女(イナグ)ぬ 嗜(タシナ)み やいびーたる今(ナマ)や昔(ンカスィ)とぅ うち変(カ)わてぃ生(ミィ)とる 髪(カラジ)ん 毛(ケー)詰(チ)みてぃパーマネントし 毛(ケー)縮(チジュ)らち親子(ウヤックヮ) むるっ子(クヮ)同年(チュトゥシ)ん 人(チュ)〔昔は髪の長さが、女性の嗜みだったが、今は昔と違い、元より生えている長い髪を短く切り、パーマをかけて縮らせて、母親と娘が同年代に見えてくる〕踵高靴小(アドゥダカ グツグヮ)やけぇ 履(ク)まいうんぶい こーぶい 歩(アッ)ちゅしやまーん変(カ)わらん 風吹(カジフ)ち鳥(ドゥイ)〔ハイヒールを履いて、フラリフラリと歩く様は、風に吹かれた鳥がユラユラと飛んでる姿に変わりわない〕昔(ンカスェ)那覇(ナファ)ぬ 行(イ)ち戻(ムドゥ)えー歩(アッ)ちどぅ 行(イッ)ち戻(ムドゥ)いんすたしが今(ナマ)や 座(イ)ちょーてぃ 行(イッ)ち 戻(ムドゥ)い〔昔は那覇への行き来は、歩くのが普通だった。しかし今では、乗り物に乗り座ったまま行き来ができる〕後(クスィ)から見(ミ)んでー 若(ワカ)さしがる前(ンメェ)から拝(ウガ)めー 面(チラ)ぬ皮(カァ)んうすまぐー いまぐとぅ みせさ六十(ルクジュウ)ばんじゃどぅ やみせがや〔後ろから見たら非常に若いのだが、前からよく見たら顔には、うっすらとシワも有るようだな。六十歳位にはなられるのか〕何時(イチィ)までぃ 心(ククル)や 十七八(ジュウシチハチ)目(ミィ)ぬ 尻(チビ)ぬる 合点(ガッティン)さん自然(シジン)とぅ まぐりてぃ 行(イ)ちゃびんで〔何時までも心は十七八歳位のつもりだが、目尻は気持ちとは同じではなく、自然にシワが寄って来てしまいます〕時代の変化は、凄まじく変わって行く物。頭の中の切り替えを早くしなければ、ついていけなくなりますね。作者の心情がわかる様になれば、もう立派な老齢?民謡の歌詞中に、新しい言葉(外来語)等を入れる所が、この歌の面白く、作者のオシャレを感じますね。粋な唄。
2005年12月24日
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「ホワイトクリスマス」(本調子)四 七 六 五 工 尺 中 尺 四 七 六 五工 尺 中 尺 〇 四 〇 合 〇 上 四 老 アイム ドゥリーミン四 上 合 〇 尺 工 〇 合 〇 五 〇 六オブァホヮイト クリスマス ジャスト ライク七 八 七 六 五 工 〇 四 工 五` 工 〇ズィワンスアィ ユス トゥノゥ四 上 中 〇 合 〇 中 五 〇 工 四 〇ホェァザトリ トップス グリッスン アン チルド合 〇 四 工 〇 尺 中 中 尺 中 上 四レン リッスン トゥヒーアスレイベルズ インザ上 〇 合 工 五` 工 〇 七 六 五 工 尺スノー中 尺 〇 四 〇 合 〇 上 四 老 四 上 アイム ドゥリーミン オブァ合 〇 尺 工 〇 合 〇 五 六 七 八 七ホヮイト クリスマス カドゥ ァィ ラィ 六 五 工 〇 合 工 五` 工 〇 四 上 中 ト メィユァデイス合 〇 中 五 〇 工 〇 七 〇 〇 四 上ビィ メリー ェンド ヴラィト ェンドメイ中 〇 合 〇 五 老 〇 老 四 〇 四 上ウォル ユァ クリス マス ィズヴィブライト中 尺 工 五 六 七 八 〇 七
2005年12月23日
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「きよしこの夜」(本調子)工 上 老 上 四 乙 合 〇 〇 五 工 〇上 中 上 老 〇 〇 上 中 上 老 〇 〇き ― よ し ― ― こ の よ る ― ―き ― よ し ― ― こ の よ る ― ―八 〇 八 六 〇 〇 七 〇 七 工 〇 〇ほ ― し は ― ― ひ ― か ― り ―み ― つ げ ― ― う ― け ― し ―五 〇 五 七 〇 六 五 工 五 工 中 〇す ― く い ― ― の み ― こ は ―ま ― き び ― ― と た ― ち は ―五 〇 五 七 〇 六 五 工 五 工 中 〇み ― は は ― ― の む ― ね に ―み ― こ ― ― ― の お ん まえに ―八 〇 八 九 八 六 〇 七 〇 七 九 〇ね ― む ― り ― ― た も ― う ―ぬ ― か ― づ ― ― き ― ぬ ― ―七 工 中 工 〇 尺 上 四 〇 〇 八 七ゆ ― め や ― す く ―か ― し こ ― み て ―飲み会の余興ですね。笑いましょうね。
2005年12月23日
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12月22日は冬至ですね。一年中で昼が一番短く、夜が一番長い日です。この冬至に、「ゆず湯」に入り、「冬至かぼちゃ」を食べます。西洋では、ハローウィンがカボチャの日ですが、東洋では冬至がカボチャの日ですね。「ゆず湯」は、厳しい寒さの中でも健康に暮らせるようにと、浴槽に柚子を浮かべてはいるお風呂のことです。大陸の解釈では、薬(薬湯)と言い、煮出した飲み薬と訳されるようです。ゆず湯は、風邪を防ぎ、皮膚を強くするという効果があります。冬至は、湯につかって病を治す「湯治(とうじ)」にかけています。柚子は、融通が利くようにと願いが込められています。江戸庶民から生まれた風習のようですね。柚子を二つないし四つに切り、さらしを縫った袋に入れて湯船に入れると体が温まりひびやあかぎれにも効きます。「冬至の柚子湯に入ると無病息災」といわれています。「かぼちゃ」は、厄除けになる、病気にならないと言われています。実際にかぼちゃには、カロチンやビタミンが多く含まれています。冬にビタミンなどの供給源が不足した時代はかぼちゃは貴重なものだったといえます。カボチャやコンニャクは、元輸入品であり珍しい野菜を神に捧げた事が始まりのようですね。カボチャを食べると魔除けになり、また痛風や風邪にかからないといわれています。その他に、地方では小豆粥を食べる習慣もありますね。小豆粥は中国の風習が元らしく、赤色は災厄を祓うといわれていることからきていますね。冬至は一陽来復ともいわれています。陰が極まって陽が帰ってくること、境から運が向いてくる転換の日とも。早稲田の穴八幡神社では冬至祭りに一陽来復のお守札が配られるようですね。お札の中には金銀融通の意味で柚子と銀杏が入っています。この日は「冬至冬中冬初め」といわれるように本格的な冬への準備の日でもあります。が、この寒波襲来はどうしたことでしょうね。
2005年12月22日
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今年のハーリー祭の出し物だった物をアップしておきましょうね。「細崎 唐船ドーイ」1.トシンドーイ サンテンマーン イッサンハーエー ナランシーヤー ユウイヤナーワカサー マチームラーヌーサー シナファヌ ターンーメー ハイヤセンスルーユイヤナー イヤッ サーサーサーサー 2.あがりかたーやーりばー 歌やシン立てぃてぃー ユウイヤナー 遊びー うーむーじんさーたーちゅらーでーむーぬ ハイヤセンスルーユイヤナー イヤッ サーサーサーサー 3.西(イリ)かたーやーりばー けもりもりー いもーりー ユウイヤナー 歌にー ひかーさーりーてぃさー 遊びいーもーりー ハイヤセンスルーユイヤナー イヤッ サーサーサーサー
2005年12月21日
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意外な内容でした「蛍の光」スコットランド民謡を原曲とし、歌詞が加えられた「蛍の光」です。今日も歌われていますね。軍事色は、「君が代」よりも濃い内容の筈が・・・。この曲の4番歌詞には沖縄が登場します。防衛体制を表現しているようですね。明治14年「小学唱歌集初編」には『蛍』という曲で4番まで掲載されています。3・4番は軍事色が強く戦後は歌われなくなりました。 1番 蛍の光 窓の雪 書(ふみ)よむ月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を あけてぞ今朝は 別れゆく2番 とまるも行くも 限りとて かたみに思う ちよろずの 心のはしを ひとことに さきくとばかり 歌うなり3番 筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 海山遠く へだつとも その真心は へだてなく ひとえにつくせ 国のため4番 千島の奥も 沖縄も 八島のうちの 守りなり いたらん国に いさおしく つとめよわが背 つつがなく この歌詞の前は「八島の〔外〕の守りなり」だったようですね。「千島の奥も沖縄も」のところが「台湾(の)はても カラフトも」(明治39年の教育唱歌集より)とも歌われていました。太平洋戦争中には「昭南(シンガポールのこと)のはても アリューシャンも…」と歌わせた教師もいたということだそうです。
2005年12月20日
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沖縄民謡「唐船どーい」唐船(トウシン)ドーイ さんてぇまん 一散(イッサン)走(ハ)えー ならんしや ユイヤナー若狭(ワカサ) 町村(マーチームーラー)ぬサー 瀬名波(シナファ)ぬ タンメハイヤセンスル ユイヤナ〔唐航海を終えた船が帰って来たぞー!と、皆が大騒ぎで波止場まで走って行くのに、若狭村のオジイだけは、ゆっくりと歩いていく〕音(ウトゥ)に響(トゥユ)まりる 大村御殿(ウフムラウドゥン)ぬ栴檀木(シンダンギ)ユイヤナ那覇(ナファ)にー響(トゥユ)まりるサー 久茂地(クムチ)ぬ ほーい榕樹木(ガジュマルギー)ハイヤセンスル ユイヤナ〔世にも有名は、大村御殿の栴檀の木です、那覇で有名なのは、久茂地にあるガジュマルの木ですよ〕嘉利吉(カリユシ)ぬ遊(アシ)び うちはりてぃーからやー ユイヤナ夜(ユー)ぬ明(ア)きてぃ 太陽(ティーダー)ぬ 上(アー)がーるーまでぃーんハイヤセンスル ユイヤナ〔御目出度い、御目出度い、皆で踊り遊びましょう、夜が明けて太陽が上がるまで〕以下省略しますね。(際限なく歌詞は増殖している為)唐船とは、中国との外交・貿易の木造船の事を指します。大陸との交友関係を維持する為、豊富な物資を調達する目的で、琉球王国は察度王統二代目「武寧王」より任命(1396年)されていました。後、尚泰王までの470年間この交易は続きました。一度任務航海に就けば、帆かけの木造船ですから、半年や一年は帰ることが出来なかった為、船員の家族は首を長くして待っているという事です。ですから、海上に船影が見えただけで大騒ぎになるのも無理もありません。航海の度に、死を予見させる程の大変な航海からの無事な生還。船員の家族皆が波止場に向かって駆け出して行く。こう言う光景を表現していながら、瀬名波に住むオジイだけがゆっくりと歩いて向かって行きます。「船が此方に向かって走って来るのに、なぜ走らにゃイカンのだ」と、楽しい歌なので、文字数とムードが合えばどんな歌詞を歌い込んでもOKですよ。琉球の形式で「8・8・8・6」が基本です。「この歌が聞こえたら何をおいても踊るように」
2005年12月19日
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宮古古典民謡「なりやまあやぐ」サーなりやまや なりてぃーぬ なーりやますぅーみやまや すぅみてぃぬ すーみやまイラユマーン サーヤヌ すみてぃぬ すーみやま〔「なりやま」とは、馴れているから馴れやまです。「すみやま」とは、お互いに心が染めあうから染みやまです〕サーなりやまむ みやぃすてぃ なーりぶりさます゜な主(シュ)すぅーみやまむ みやぃすてぃ すぅみぶりさます゜な主(シュ)イラユマーン サーヤヌ すぅみぶりさます゜な主〔お互いに馴れ合っていても、馴れ馴れしくしては困まりますよ。お互いに心が染め合っても、心に隙があっては困りものですよ〕サー馬(ヌーマ)ん乗(ヌウ)らば 手綱(タズナ)ゆ許(ユル)すな主(シュ)美童屋(ミヤラビヤ)いき 心(ククル)許(ユル)すな主(シュ)イラユマーン サーヤヌ 心(ククル)許(ユル)すな主(シュ)〔いかにおとなしい馬に乗っていても、手綱をゆるめてはいけないよ。好きな彼女の元に行っても決して気を緩めてはなりませんよ〕サーぶり押(ウ)し波(ナム)や 笑(アマ)いどぅ押(ユ)しす゜吾彼女(バンブナリヤ) 笑(アマ)いどぅ迎(ンカ)いイラユマーン サーヤヌ 笑(アマ)いどぅ迎(ンカ)い〔気持ち良さそうな位、打ち寄せる波ほど、恐ろしいものはありませんよ。笑顔で迎える彼女にも、油断大敵ですよ、気を抜かないようにしなさい〕「なりやま」「すぅみやま」とは、慣れ親しい間柄の意。如何に慣れ親しい間柄であっても節度をもって接する事を心がけなさい。如何なる時でも気を緩めず、抜かる事無いようにと、諭す教訓歌です。〔親しき仲にも、礼儀あり〕ですね。「す゜」の発音は、スとズの中間の発音が近いかと思われます。
2005年12月17日
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「小禄豊見城(ウルクトゥミグスィク)」(本島童歌)小禄(ウルク) 豊見城(トゥミグスィク) 垣(カチ)ぬ花(ハナ) 三村(ミムラ)三村(ミムラ)ぬ 姉小達(アングヮター)が揃(スリ)とてぃ 布織話(ヌヌウイバナシ)綾(アヤ)まみぐなよー 元(ムトゥ) かんじゅんどー〔小禄村と豊見城村と垣の花村と言う三つの村のお姉さん達が揃っては、布を織りながら話に夢中、織り目を間違えると大損しますよ、気をつけなさいね〕潮平(スンジャ) 兼城(カニグシク) 糸満(イチマン)とぅ 三村(ミムラ)三村(ミムラ)ぬ 姉小達(アングヮター)が揃(スリ)とてぃ 魚売話(イユウイバナシ)安売(ヤシウ)い すなよー 元(ムトゥ) かんじゅんどー〔潮平村と兼城村と糸満村と言う三つの村のお姉さん達が揃っては、魚を売りながら話に夢中、安売りするんじゃないよ、大損しますよ〕上泊(イードマイ) 泊(トゥマイ) 元(ムトゥ)ぬ泊(トゥマイ)とぅ 今(ナマ)三村(ミムラ) 三村(ミムラ)ぬ 二才達(ニーセーター)が揃(スル)とてぃ 塩焚話(マースダチバナシ)雨(アミ)降らすなよー 元(ムトゥ) かんじゅんどー〔上泊村と泊村と元泊村と言う三つの村の青年達が揃っては、塩焚き(塩作り)しながら話に夢中、雨を降らさないでくださいね、大損しますよ〕
2005年12月16日
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協調しない和音ディジュ(イダキ)に限らず、音を奏でる楽器や声に、その固体毎にキーがあるのはご存知の通りです。イダキの一般的なキーでは、低音部C(=Do=ハ)~高音部G(=So=ト)ぐらいかと思われます。勿論、この範囲より高低差のあるモノも稀に存在しています。 複数のイダキを持ち寄り、セッションする時に、妙に音がぶつかって何となく心地の悪い感じがする時があります。それは、複数のイダキが出している音が『不協和』している場合です。『不協和音』とは、ここでは平均律を使いますね。この表は結構便利です。セッションする際の参考につかえますよ。平均律の2和音の音源比較です。
2005年12月15日
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時代考証が確認できる範囲の「世界最古の管楽器」は、約2000年前の古代ギリシャ遺跡から発掘された物や約5000年前の古代エジプトに至っては、演奏形態や譜面の解読が進み、様々な楽器が発明され演奏されていたようです。例えば、ツタンカーメン王の墳墓から出土し、現在カイロ博物館に展示されているトランペット状の管楽器が考証できる楽器として最古ではないかといわれています。しかも青銅製や真鍮製の管楽器もあったようです。イダキの音を鳴らす仕組みは、トランペットやアルプホルンとほぼ同じと言えます。リード部分は存在していません。従って構造的には木管楽器ではなく金管楽器にあたります。木製だから木管楽器とは限らないようです。フルートやサックスなど金属製のものでも木管楽器に分類されます。逆に、木製のアルプホルンは金管楽器に分類されます。イダキの神秘性と楽器構造的に間違いのない表現として「古代のトランペット」と呼ぶのが一番相応しいようですね。金管と木管の楽器形態として呼ばれるようになった経緯は、角笛に起源を発しているかどうかで判断されています。但し、例外として古代エジプトのラッパ、これが現在出土されている最古の管楽器ですが、これ以前に、このラッパのモデルとなった角笛があったのかどうかを調べる事ができない事とイダキの存在です。イダキは金管楽器でありながら角笛を起源とされていない(古代豪州に角の生えた動物がいたか不明の為)形態の可能性が強いことです。「くちイダキ」と言う、言語音声でレッスンする方法『ティップトリトリトリ、ティップトリトリトリ、ティップトリトリトリ、トゥルトウゥルトゥル~』アボリジニの社会では、ディジュリドゥは民間医療(メディスンマン・シャーマン)の方面でも活用されて来たという歴史があります。ディジュリドゥを吹いて唇を振動させることにより、口の周辺に集中している体全体のツボが刺激されるという。また、その振動は内臓にも伝播し、血液などの結晶化を防ぐ効果があるとも言われています。その他に腹式呼吸の効用により体全体の循環機能が活発になる。その効用は吹いている本人だけでなく、患者に聴かせてヒーリングを行うという行為も行われ続けてきたようです。
2005年12月14日
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ディジュリドゥーと言う楽器の正式名称(先住民的言語)「イダキ」と言います。5万年の遥か太古から大自然と共生し独自の文化を継承してきたオーストラリア先住民、アボリジニーが神聖な儀式で使用してきた唯一の風笛は世界最古の木管楽器ディジュリドゥーとして欧米では広く知られています。が、言語や文字を持たなかった先住民族の歴史をどう説明できるでしょうか?千年前説や万年前説など多々あります。「イダキ入門講座」イダキの吹き方には大きく分けて「コンテンポラリー」と「トラディショナル」の2つのタイプがあります。「コンテンポラリー」スタイルには、デビッド・ハドソンやアラン・ダーゲンなどの一部のアボリジニや、アボリジニ以外の人のほとんどのイダキ・プレイヤーがこのスタイルです。西洋音楽的な解釈で吹かれている為、一見分りやすく、またトーキングなど派手さもあり、他の楽器とのアンサンブルなどもしやすいので、大抵の人は最初このスタイルにハマってしまいます。「トラディショナル」スタイルには、オーストラリアの北部=アーネムランドと呼ばれる地域やキンバリー地方のものが代表的なスタイルです。コンテンポラリーに比べあまりにも泥臭く、西洋音楽的な要素では割り切れない部分もあり、聴いても何がなんだか分らないという人がほとんどだと思います。が、イダキの本当の魅力はそこにあります。吹き方もコンテンポラリーなものと全く違います。「循環呼吸演奏法」イダキを演奏する上で、音を出すことに加え、「循環呼吸法(サーキュラー・ブリージング)」という方法を修得しなければなりません。「吹きながら鼻から息をして、吹き続け音を途切れさせない」というテクニックです。が、それほど難しいものではありません。また「循環呼吸演奏法」自体は、インドネシア・バリ島の竹笛スリンや西洋楽器サックスなどの奏法としても用いられています。(どちらが先行していた等は、煮詰めません。)1~2ヶ月吹いていれば大抵の人はできるようになりますので、あきらめずに続けてみましょう。超えなければいけない最初のハードルかもしれませんが、越えてしまえばそれほど高くないことがわかります。「イダキの音が出るメカニズム」唇を発信源とする指向性を持たないパルス状の振動音が、空洞内を乱反射的に衝突を繰り返しながら楽器先端から噴射されます。〔唇のブルブル音を管の先端から出します〕後に様々な倍音が反響したエコーです。〔エコーが倍音として伝わります〕これがバロック音楽の通奏低音のように全ての音の塊を支えて豊な響きを現出する効果をあげています。それらの音を組み合わせた上に、指向性を持つタンギングやコールなどの音声を被せる事により、一人の奏者が一つの楽器で複数の音を出すことができます。意図的に2度の音程差(ウルフの2度)を出して不協和音を低いコールを使って作りだすテクニックもあります(指向性を持たないコールは、空洞内の低周波の影響を受けることによって、凄まじいヴィヴラートがかかり独特な響きとなる。さらに2度の音程差のウルフ音を意図するとさらに音声が倍増される)。音の説明に苦慮します。つまり一つの楽器で複数の音を同時に出すという点ですね。西洋音楽の世界では、源初より単旋律の時代が続いていました。記録として遡れる複数の音の使用(和声)は西暦1000年頃、フランスはパリのノートルダム楽派で活躍したレオニーヌス、ペロティヌスらのオルガヌムの技法です。仮説としてですが、その時代よりはるか昔にイダキのだす音は、和声のような技法を駆使していたかもしれないですね。しかも、たった一人の奏者が奏でる一つの楽器でです。「一人の奏者が一つの楽器で、複数の音を同時に出す事ができる」楽器が他にあるでしょうか。ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器がありますが、ピアノの起源は300年、オルガンが2000年ですね。ハープはキタラという名称で古代ギリシャで使われていた弦楽器。アウロスと呼ばれる現在の縦笛の先祖も古代ギリシャ時代の楽器ですが、二本の笛を同時に口にくわえて吹くというスタイルです。その他にバグパイプがありますね。しかし、鍵盤楽器はともかく、バグパイプもアウロスもオルガンも「複数の管」が、それぞれが違う音を出す構造ですね。ところが、イダキは「たった一つの管」です。そのたった一つの管で、ドローン、ホーン、コールといった複数の音声を同時に出し、倍音がバロック時代の通奏低音のように出す事ができます。バロック通奏低音は、厳格な音の組み合わせが決められているので、その解釈からは通奏低音とはいえないのが事実ですね。このような低音ベースを作って豊かな響きを築くという概念を、バロック音楽の成立(西暦1500年位)や、単旋律からルネッサンスのポリフォニーを経てここまで到達するまでに1000年ほどかかっていますね。しかし、イダキはこれらとは全く異なる独自の手法ですが、似通った概念をごく普通にやってのけている文化水準には感服します。イダキは、即興性が強く、自然発生的な創作性を楽しむ楽器です。例えば、美しい自然の中に身を浸す時に、自然に湧き上がる何か(?)を、楽器を通じて表現したくなります。本来、音楽とはそういうものなのでしょうね。 誰でも、美しい自然に身を浸した時などに、何かを傍受するアンテナを兼ね備えているのだと感じる事があります。その受け取ったモノを、何かで表現したくなるのです。それは絵画・彫刻・作曲・作詞・演奏・踊りなど・・・誰しもが持ち合わせているものだと思います。そのアンテナやモニターの精度が非常に優れているのが、芸術家と呼ばれる人達かと思います。 美しい自然、或いは大地から湧き上がる生命のエネルギーを感じた時に自然に音楽となる・・・いや、自分の体を通じて、大地が、自然が、音楽を創りだしているような感覚を覚える。イダキマスターのジャルーは語ります。「大地がイダキを通して語りかけてくる。それを素直に聞き入れなければならない」イダキの奏でる音色には、そういう大地からのメッセージを感じさせる何かがある。まだまだ可能性を秘めた楽器の様に感じます。
2005年12月13日
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八重山に生えている竹リュウキュウチク(方名:マッシャンダキ)、ダイサンチク(方名:マーンダキ)、ホウライチク(方名:ンガンダキ、ハタカラ─)があります。この中でも、リュウキュウチクは別名コハマダケとも呼ばれ、島を代表するタケです。かつては、径の太さによって、大30本、中30本、小40本を1単位として商店で物々交換されていたと伝えられています。大は竿用、中は床下用、小は屋根葺き用(ユツルと呼ばれる)として取り引きされていました。特に小浜島産のユツルは、70~80年も耐久性があるということで高く買い取られるほどです。また、ハンソーあるいはピーと呼ばれる笛の材料としても格好であり、このためか、島は古くから笛吹きの名人を多く輩出しています。しかし、近年において、土地改良等のために多くの竹林が消失し、また現存するものであっても、保育・管理が行き届いていないために荒廃しています。(小浜小学校創立百周年記念誌編集委員会編,1997: 535-538)
2005年12月12日
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八重山古典民謡「鷲ぬ鳥(バスィヌトゥルィ)節」1、大山(ウフヤマ)ぬ 上(ウイ)なか 中山ぬ 側(スバ)なか 〔山々が続いている所に、中山が続いて側に〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ2、大(ウフ)あこうぬ むやうり 実(ナ)りあこうぬ さしゃあり 〔大木のあこう木が生えていた、実りあこう木が生えていた〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ3、大(ウフ)あこうぬ 根(二)ざすぃに 実(ナ)りあこうぬ 本(ムトゥ)ばいに 〔大木のあこう木が根を張り、実りあこう木の根元から〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ4、五(イツィ)ぬ枝(ユダ) ふん登(ヌブ)り 七(ナナ)ぬ枝(ユダ) ふん登(ヌブ)り 〔五つの枝を踏み登り、七つの枝を踏み登り〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ5、一(プィトゥ)ぴらい 巣ばかき 七ぴらい 巣ばふい 〔一片(一つ)の巣を作って、七片(七つ)の巣を作って〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ6、一(プィトゥ)ぴらい 卵(クガ)産(ナ)し 七ぴらい 卵(クガ)産(ナ)し 〔一片(一つ)の卵を産んで、七片(七つ)の卵を産んで〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ7、一(プィトゥ)ぴらい 卵(クガ)から 七ぴらい 卵(クガ)から 〔一片(一つ)の卵から、七片(七つ)の卵から〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ8、綾羽(アヤパニ)ば 生(マ)らしょうり ぶぃる羽(パニ)ば 産(スィ)だしょうり 〔種々の模様をした羽根の美しい鷲の雛を孵して下さい、色とりどりの羽根の鷲を孵化して育て上げて下さい〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ9、正月(ションガズィ)ぬ すぃとぅむでぃ 元日(グワンニツィ)ぬ 朝ぱな 〔正月の「すぃとぅむでぃ」早朝・暁・明方・夜明けの意、元日の「朝ぱな」朝端・黎明・曙・朝またぎの意、対語体〕 ※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ10、東(アガルィ)かい 飛(トゥブィ)つぃけ 太陽(ティダ)ば かめ 舞(マイ)つぃけ 〔東方の空に威勢良く飛んでいった、朝日を浴びて舞っていった〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ 東は、太陽が〔あがる〕ので「アガルィ」 西は、太陽が〔はいる〕ので「イルィ」
2005年12月10日
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「鞴(ふいご)祭り」宮崎アニメに登場する「たたら場の足踏みふいご」がありましたね。鍛治師・鋳物師・錺(かざり)師・時辰(とけい)師・箔打師・石職人は、普段から鞴(ふいご)を扱う家業である為、火防又は家業の徳を得ん為に稲荷神(お稲荷さん)を祭ります。これを鞴祭(ふいごさい)と言いますが、実際には稲荷祭ですね。その日は、家業を休み、鞴を浄めて祝います。畳を敷き替えて家内を整え客を招く仕来たりがありました。稲荷神の宝前に供物を積み、灯明を着け、近隣に蜜柑・膳部の配り物をします。また、この日の早朝、蜜柑をまいて近隣の子供に拾わせる蜜柑まきの催しがありました。この日が来るまでは、ミカンを食べる事は許されなかったそうです。ですから、悪少年等の狼藉・喧嘩の端となり始め、寛延の頃(1748~1751年)に制禁されるようになりました。全国のお稲荷さんの総本社である伏見稲荷大社では、この日にお火焚の神事が行われます。鶴岡八幡宮の末社、丸山稲荷社でも火焚祭が執り行われるそうですね。祭典終了後には当宮神楽男方職掌が伝えてきた神楽が奉納されます。この神楽は、鎌倉及びその周辺の神社で伝承されてきましたので、今日、一般に「鎌倉神楽」と称されているようです。神楽の庭には、5色の切り紙で飾られた山飾りが設けられ、湯立てを中心にして、初能・御祓・御幣招き・湯上・かき湯・笹舞・弓祓・剣舞・毛止幾などの神楽が素朴な舞と笛、太鼓の音色を伴って奉仕されます。調べていて面白い事がわかりました。鉄の産地として有名な地域に多く伝わる民話には、同じ発音で「踏鞴法師」と呼ばれる片眼片腕の大男が出てくる妖怪(?)物語が、出雲を中心に日本全国に伝わっています。どうやら、鞴(ふいご)仕事が原因の職業病ではないかと思われます。高温の炉の温度を見る際、片眼で炎の色を見て極めます。その時、利き目の網膜が炉の強い光に曝され、片眼となってしまうそうです。そして片腕・片脚の訳は鞴(ふいご)の影響とも言われています。片腕で操る鞴か、片足で踏み込む鞴かによります。この為、鉄の産地には多くの片眼、片腕若しくは片脚の人が職業病として存在し、後に伝説となってしまったようです。勿論、沖縄でもこのお祭りが今日行われます。
2005年12月09日
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「針供養縁起」針供養とは、勤めを果たした針を供養する行事をいいます。古針を木綿豆腐・コンニャク・餅に刺し、神社で供養、又は川へ流すことが、一般的であったようです。ではなぜ豆腐やこんにゃくなどに刺すのか?それは柔らかいもので針に楽をさせ、今までの針の労に感謝するという意味があります。この日は、芋・大根・焼豆腐・小豆・人参などの煮物料理を食べます。料理では、「いとこ煮」「六質汁」も、こうした縁起からきたものだと伝えられています。この針供養に似た行事は、過去に中国にも存在していた様です。それが日本にも伝わり、「事始め」「事納め」の歳時事や女性の守護神とも言われる淡島神社信仰と交わり今日の針供養になったと言うことらしいです。東北の一地域に残る伝説では、昔々、姑からイジメを受けていた嫁が、針山の針を盗んだという無実の罪を着せられて、海に身を投げて死んだ日が、この日であったと伝えられています。今でも前日から海が荒れて知らせ、娘のいる家では針仕事を休み、その供養をするという説もあります。一般的に、針供養は和歌山市の淡島神社が有名です。その年に使って折れた針を集めておき、淡島堂(あわしまどう)へ納め、縫裁の上達を祈ります。その土地によりますが、古針を豆腐やコンニャクに刺して川や海に流したり、紙に包んで碑に納めたりします。淡島神社の祭神は、「少彦名命(すこなひこな)」「婆利才女(ばりさいじょ)」と言います。また、日本における医薬の祖といわれている神様は、「大国主命(おおくにのぬしのみこと)」と「少彦名命(すくなひこなのみこと)」ですね。大国主命は、「因幡の白うさぎ」のお話で、鰐鮫を騙して海を渡ろうとし皮をむかれて浜辺で泣いていた兎に、「真水で体を洗って蒲の黄(がまのほわた:花粉)にくるまって寝ていなさい」と優しく教えた。少彦名命は、「一寸法師」「竹取物語」のモデルともいわれている神様です。「日本書紀」によれば、これら両神をもって我が国の祖とされています。両神は国造りを進めながら、医薬、まじない、酒造り、温泉療法などを開発し、人々の福利厚生のために尽くされたとされていますね。少彦名命は、神産巣日神の御子で、神の手の股からこぼれ落ちたとの話があります。大国主命が出雲の岬にいた時、常世の国(不老長寿の国)から蛾の皮をはいで着物にし、蔓芋のさやを割って作った船に乗ってやってきた少彦名命に出会った。少彦名命は大国主命と兄弟のように力を合わせてこの国を作り堅めた後、淡島で栗茎にのぼってはじかれて常世(とこよ)の国に帰っていった。現在、大阪道修町の少彦名神社に、古代中国の伝説上の皇帝・炎帝神農と共に祀られています。針供養を行う時期もいろいろあり、関東では2月8日、関西では12月8日に行う所が多いと言われています。古くから、事始めと事納めを総括して「事8日(ことようか)」と呼ぶ風習がありました。12月と2月のどちらを事始め、事納めとするかは一定していません。例えば、2月8日に「武み槌(たけみかずち)」の神が出陣し、12月8日に帰陣した。八幡太郎義家が奥州征伐を始めたのが12月8日、功を終えたのが2月8日であるなどという言い伝えがあります。出雲などでは、12月8日に掃除などして正月の用意にかかり、2月8日に年神の棚を去る風があり、これが事納めであるという説もあります。12月8日を事始めとする方が古い形であろうと言われています。(参考引用資料・文献 日本民俗事典/弘文堂、日本年中行事辞典/角川書店、総合日本民俗語彙/第三巻平凡社)
2005年12月08日
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驚くべき事実かもしれません。八重山諸島の各島における伝統芸能は、御嶽や神司無しでは在り得ないはず。しかし、日々仕事に追われる状況はどの島でも同じ事。慌しい時代になり、神司の成り手は減少傾向です。神司を失い、御嶽での祭祀が縮小する一方にありながら、村の行事としての豊年祭が、観光客の来島で盛んになっています。本来、神前での素朴な祈りがあってこその奉納芸能が省略され、観光客誘致のイベントに移行されています。神への願いや思いよりも、写真撮影や賑やかな衣装が大事とされる祭典になっています。神司があり御嶽があるからこそ、奉納芸能は心のこもった祈りとなるはず。奉納芸能は、観客に披露する舞台芸能とは一線引いてほしいものです。八重山は歌の島、踊りの島といわれます。伝統ある祭祀を軸にして、神前の奉納舞踊があり、奉納唄があります。その祭典は神司が執り行い、神とのコンタクト的役割を担っているはず。御嶽の周辺の人々は、家人衆と言うその御嶽を管理や祭典実行委員を務めます。観光客が多くなると、家人衆の人員には限度があります。盛大になればなるほど、運営が厳しくなり、本来の祭り(祈りや願い)と言う行事が疎かになり、宗教儀礼のはずの祭典が、イベント祭に変わりつつあります。御嶽信仰とは、宗教のはず。その宗教の本来の役割を破り、奉納が舞台芸能になる事は、八重山の芸能の将来を左右する大切な状況にあるようですね。今、地域振興において、岐路に立っているといっても過言ではないはずです。今、神司の役を引き受けることすら拒否する家人衆の本音は、「時代の流れに合わない」の風潮へ変わりつつあります。其の内、神司も家人衆も存在しなくなるのではないでしょうか。 神司は、「時代の流れに合わない」という風潮にしている八重山の振興策は、間違っているのではないでしょうか。その方向へ移行すれば、島外から入ってくる人々にとっては好条件になります。が、伝統は衰退していきます。すでに、島外の神司に依存している八重山の御嶽の姿もあります。観光客動員数をマスメディアの視聴率よろしく一喜一憂している状況から目覚めて、ゆったりとした時間の流れを取り戻してほしいと願います。のんびりとした自然環境と、農業・漁業を営み、まったりとした雰囲気をもつ八重山であってほしい。それが、本来の観光資源ではないでしょうか。スピード違反の「わ」ナンバーが走り回り、大型ダンプが追い越しをかける島は、興ざめ以外の何者でもない。現在の八重山の姿。明日は、竹富島の「鍛冶屋ぬ願い」と言う伝統祭全国的には「針供養」ですね。翌9日は、「鞴(ふいご)祭り」火を使う製造業の祈願祭があります。
2005年12月07日
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「音の日」日本オーディオ協会が1994(平成6)年に制定。1877年、エジソンが自ら発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功した日。オーディオや音楽文化・産業の一層の発展を図り、音について考える日。オーディオ関係者が音の日ね。生音はどうなるのかな?「シンフォニーの日」1914(大正3)年、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『かちどきと平和』を発表した日。今日はどちらも音に関する記念日ですね。
2005年12月06日
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「バミューダ・トライアングルの日」1945年12月5日、大西洋上でアメリカ軍機が突然消息をたったことに由来します。バミューダ・トライアングル(Bermuda Triangle)は、フロリダ半島の先端と、大西洋に浮かぶプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ海域。昔から船や飛行機などが消息不明になる事件で有名。100年以上前から100を超える船や飛行機、1000人以上が消息不明となっていると言われています。「魔の三角海域」という別名もある。トライアングルと書かれているが、実際に怪奇現象が起こるのは三角形でなく四角形(トラペジアム)ですね。「船や飛行機などが消えてしまうことで有名」とされるが、多くの場合は嵐等の悪天候の時に起こったもので、自然環境が原因とされています。少なくとも現代においては、船や飛行機などの遭難件数が、他の一般的な海域よりも多いという事実はありません。また、初期の特異な事例(完全な晴天時に乗組員のみが消えてしまう等)の一部は、事実関係を誇張、または、歪曲したものであることが解明されました。あるいはバハマ諸島北部にある、近世以降探検家たちに恐れられた粘りつく海「サルガッソ(海藻ホンダワラ)海」と混同したか誇張したのかも知れないですね。漂着ごみ問題と海流の関係など、起因するところありですね。今ではメタンハイドレート説が有力ですね。磁気系統が狂うのも説明ができます。メタンハイドレートとは、メタンを中心にして周囲に水分子が囲んだ形になっている物質です。大量の有機物を含んだ土砂が低温・高圧の状態におかれ結晶化したもの。見た目は氷に似ているが、火をつけると燃えるために燃える氷とも言われています。ほとんどが海底に存在しており、稀に地上の永久凍土などで発見される場合もあります。日本近海にも大量に存在すると言われ、日本のエネルギー問題を解決する物質として研究されています。1立方メートルのメタンハイドレートを解凍すると164立方メートルのメタンガスに変わります。例えると、コップ一杯のハイドレートを溶かすと164杯になります。石油や石炭に比べ燃焼時の二酸化炭素排出量がおよそ半分であるため、温暖化対策としても有効な次世代エネルギーとされ期待されています。
2005年12月05日
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「血清療法の日」1890年(明治23)の12月4日、エミール・ベーリングと北里柴三郎が、血清療法開発につながる破傷風免疫体を発見したことから記念日とされています。血清療法とは、抗体のある血清を患者に注射し、体内に入った毒素を中和して無力化する治療法です。ウマなどの動物の体に病原体またはその毒素をくり返し注射すると,ウマの血清中にこれに対する抗体ができます。この血清を「免疫血清」といいます。これを患者に注射し,抗原抗体反応を利用して治療します。但し、血清剤を世界中に備蓄することは難しく、例えばヘビ毒などの毒性が強く、緊急を要する場合や僻地での治療施設まで移動困難な場合、間に合わず死亡するケースが多々あるようです。西ケニアのルオ民族がヘビに噛まれた時に治療に使う薬草(24種)で、血清療法の代わりになる治療方法として紹介されました。西ケニアでは、ヘビに噛まれた人の 80%が診療所へ行く前に旧来の開業医を訪れます。これらの発見については、ケニアの植物学者ベスウェル・オゥオア、ベンソン・ミュレミ(いずれも東アフリカ・カソリック大学)及びナイロビ大学のジョン・カクワロによって「民族生物学ジャーナル」最新刊に報告されています。この研究はヘビに噛まれた人々はもちろんのこと、毒物治療より手に入れやすく廉価で、危険性の少ない代替治療の必要性からも注目を集めています。 「ヘビに噛まれると死に至ることが多いことは世界的によく知られているにもかかわらず、残念なことに病院で抗血清治療の手当てを受けられるのはほんの少数の人達です」と、アースウォッチ・プロジェクト“ケニアの薬草”の前主任研究員であるオゥオア研究員は語っています。「ヘビ毒用の血清をある程度備えているのは地域で最も大きい病院だけで、地方病院は大抵スタッフも少なく、冷蔵用の電気もないことが多いのです」 全世界で毒ヘビに噛まれる人は毎年 60万人にのぼると推定され、その内2万人以上が死亡しています。世界的に見ても、アフリカはオールド・ワールド・バイパーやコブラ(マンバなども含む)という最も危険な種が数多く集まっている地域で、ケニアだけでも同種の仲間の97種が生息しています。ジャーナルの記事によると、西ケニアで人がヘビに噛まれる危険性は大部分が田舎地域で、多くの人が農業、牧場、その他屋外生活をする中~高階層です。 この研究では、伝統的な治療や対処法も含め、ヘビに噛まれる事に関する地域の言い伝えや信仰について一般の人々と伝統的な開業医、合計100人のルオ族から聞き取り調査をしています。これらの聞き取り調査の何件かは2000年とおそらく2001年にアースウォッチの協力を得て行われ、ボランティアたちは“ケニアの薬草”プロジェクトで薬草療法について幅広い調査を行いました。 研究者たちは伝統的開業医がヘビ毒治療に使う24種の植物を特定し、それぞれの野生の証拠標本を採集しました。使用された薬の73%は植物の葉から、19%は根から、8%は樹皮から作られていました。ヘビ毒血清は、ヘビに噛まれたときに世界中で使用されている唯一の治療薬ですが、常に効果があるとは限らず、生命に関わるほどのアレルギー反応を起こすこともあります。さらに悪いことに、血清はめったに手に入らない高価な商品で、通常、西部ケニアのように最もヘビに噛まれる可能性の高い人々が住んでいる場所から遠く離れた大きな病院でしか手に入りません。 世界の他の地域に生息する植物から作られた薬は、炎症を抑え、凝血・解毒・中和作用など毒の影響を緩和する重要な特性を持っていることが判ってきました。このような研究によって、薬草療法は血清療法を効果的に補い、副作用を減らすこともできるという主張への信頼性がさらに高まり、また現代社会における土地固有の文化的知識の価値を再認識することにもなっています。 「伝統的な治療方法は、それが文化と人間社会を支える重要な柱となっているため、高度に文明が発達した世界でも生き続けて人々の健康に寄与することでしょう。しかし他の文化的要素と同じように伝統治療にも流動性があり、異なった文化が生んだ治療法を取り入れながら変化しています」とオゥオア前主任研究員の言葉です。
2005年12月04日
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昨今、あまりにも惨い事件が多いですね。名護親方 程順則1663年寛文元年、那覇の久米村に生まれ。順則は中国名であり、沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」。66歳、名護間切の総地頭(今の市長)となり、名護親方や名護聖人と呼ばれる。また、文学者、教育者として漢詩集を出稿もしています。1718年、琉球初の学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立。20代の頃から5回、中国に渡って学問を深め、彼が中国から琉球に持ち帰った教訓書「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には、人が人として守らなければならない6つの教え(六諭)が分りやすくまとめられています。この本は、八代将軍吉宗に献上された後に和訳され、江戸時代の寺子屋の教科書として全国に広く普及し用いられました。彼が亡くなった後、名護間切番所(今でいう市役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(ミジウガン)」といって「六諭」の書を掲げ、遺徳を偲んでいます。今も引き継がれている行事の一つです。「六諭」(聖諭)「孝順父母」 父母(父母)に孝順(こうじゅん)なれ 〔父母に孝行しなさい〕「尊敬長上」 長上(ちょうじょう)を尊敬(そんけい)せよ 〔目上の人を尊敬しなさい〕「和睦郷里」 郷里(きょうり)を和睦(わぼく)せよ 〔村里にうちとけなさい〕「教訓子孫」 子孫(しそん)を教訓(きょうくん)せよ 〔子孫を教え導きなさい〕「各安生理」 各生理(おのおのせいり)に安(やす)んぜよ 〔各々の生業にあまんじなさい〕「母作非為」 非為(ひい)を作(な)すなかれ 〔悪いことをしてはならない〕
2005年12月03日
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与那国の村祭り「カンブナガ(村祭り・ムラマチリ)」 今日12月2日、「久部良祭り(クブラマチリ)」から始まり、「宇良祭り(ウラマチリ)」、ンディマチリ、「島仲祭り(ンマナガマチリ)」、ンダンマチリと続く一連の祭事です。25日間この期間を「神の月(カンヌティ)」と呼び「司(ッカブ)」を中心に、祈願に参加する人達は、一切獣肉を摂る事を禁止されます。さらに「司(ッカブ)」や「公民館長」など「祭り(マチリ)」の主催者は、旧暦8月以降より「祭り(マチリ)」終了まで獣肉を避け、火事見舞い、葬祭見舞い、出産見舞いなどを努めて避けます。また、一般住民でも「神の月(カンヌティ)」の間は、四つ足(牛、馬、豚、山羊など)の屠殺を厳禁とされます。 「久部良祭り(クブラマチリ)」は、旧暦10月以降の庚申(かのえ・さる)の日、「久部良祭り邑根(クブラマチリトゥニ)」で行われます。古くは比川(ひがわ)家・後間(こしま)家の祭事であったが、後に久部良自治公民館が主催するようになりました。こんな伝があります。『島に外敵が度々襲来しては、食料や家畜などを略奪し、婦女子に暴行を加えるなどの横暴をはたらいた。外敵の災難に困った島民達は、大きな草履を作り、海に流し、島に強大な巨人がいるように見せかけた。以後、外敵による災難がなくなった』という。この言い伝えにより、往時「久部良祭り(クブラマチリ)」では、大草履をつくって海に流して、外敵を防ぎ、異国人・大国人(海賊)の襲来なきよう島の平穏安泰を祈願するようになりました。 「宇良祭り(ウラマチリ)」は、辛酉(かのと・とり)の日である「久部良祭り(クブラマチリ)」の翌日、東自治公民館が主催して、「宇良祭り邑根(ウラマチリトゥニ)」でおこなわれます。昔、野原家の祖先が山中にいた黒い怪物(牛)を取り押え(捕まえて飼いならし)、家畜として農耕に利用し、島人もそれに倣ったといいます。また、野原家が特別に牛馬の繁殖が良かった為、同家の「牛願の拝所(ウチニガイビディリ)」を島の拝所として、牛馬の繁殖を祈願するようになったと伝えられています。祈願後、一同「祖納(そない)家」に招かれ、同家の祈願が行われます。同家では玉、鼓、刀、槍、弓矢などの神器をもち、タマハティとよばれる神舞を舞います。 「ンディマチリ」は、ウラマチリの3日後の甲子(きのえ・ね)の日に比川自治公民館が主催して行われます。祭事は早朝ンディマチリトゥニで「アサカダイ(朝の御供え)」の祈願を行った後、カダリバクで祈願します。嫁とり婿とり、家内円満、子孫繁栄を祈願。また、後間(こしま)家でも祈願がおこなわれ、タマハティが舞われます。 「島仲祭り(ンマナガマチリ)」は、壬午(みずのえ・うま)の日に、島仲自治公民館が主催します。旧島仲村跡にある、マイヌトゥニとツイヌトゥニの両方でおこなわれ、五穀豊穣を祈願します。 ンダンマチリは、「島仲祭り(ンマナガマチリ)」の翌日の癸未(みずのと・ひつじ)の日にンダンマチリトゥニを中心に、西自治公民館の主催でおこなわれます。早朝、トゥニの途中、宇良部岳麓のハイナグで宇良部岳にむかって祈願をおこない、後トゥニ東方にあるミドゥティ山でも祈願します。トゥニでは、魚を神へ捧げる儀式、「ウブダラ(大皿)の儀式」「ナガダラ(中皿)の儀式」などが、ッカブ、ティディビ(祭事を取り仕切る係役員)公民館役員、有志などが参加して行われます。祈願の祭事が終われば、一同で祝宴が執り行われます。トゥニに隣接して与那原家祖納家の拝所があり、それぞれも同じ日に祈願がおこなわれ、互いに交流祈願をします。夜になると、夜更けまでに祭り参加者全員トィニの前庭で松明を囲み「鉦(カニン)」にあわせて、手をつなぎ輪になってドゥンタを歌い、踊り、マチリのフィナーレを盛り上げます。また、参加者は小屋で籠り一夜を明かします。 翌早朝、トィニで祈願を終えた後、部落への帰途ハイナグで神別れの祈願をおこなう。この日の祭事をアンタドゥミとよびます。 さらに祖納東部落近くのティランクンダで祈願をし、これで25日間にわたるカンブナガを終了です。公民館役員が打ち鳴らすカニンやンヌンの音で、島人たちはカンブナガの全日程の終了を知り、もろもろの禁制を解きます。(参考資料:与那国島の祭事の芸能)
2005年12月02日
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「天地の詞(あめつちのうた)」平安時代初頭に成立したそうです。いろは歌の変形ですね。天、地、星、空、 山、川、峰、谷、 雲、霧、室、苔、 人、犬、上、末、 硫黄、猿、生ふせよ、 榎の枝を、馴れ居て。あめ、つち、ほし、そら、 やま、かは、みね、たに、 くも、きり、むろ、こけ、 ひと、いぬ、うへ、すゑ、 ゆわ、さる、おふせよ、 え(ア行)のえ(ヤ行)を、なれゐて。
2005年12月01日
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