格言集の類が好きで集めている。
集めてはいるが、いつでも読めると思うとつい開かないままになってしまう本も多い。
これもその一冊で、トルストイの文学作品から、日記から、書簡からとびっしり格言で埋め尽くされている。
白状すると、僕はトルストイをちゃんと読んだことがない。
小学生向けの全集にあった、簡易になったものと、あらすじ集のようなもので常識程度に知っているだけだ。
『戦争と平和』はオードリー・ヘップバーンの映画を観て読んだ気になっている。
二十歳を越えた頃、バイト先の喫茶店で同年代の友人が、トルストイとドストエフスキーとどちらが優れているかを論争していた。
僕は全然入り込めなかった。
あの時の敗北感が少しトラウマになっている。
松本清張や司馬遼太郎なら語れたのだが、ちょっと恥ずかしかった。
いつかは読まねばと思いつつ、30年が経ってしまった。
せめて格言集で、エッセンスだけでも汲み取ろう。
トルストイの作品は読んでいないけど、逸話なら多少知っている。
( )内は僕のコメント。
議論の最中には、心理は忘れられている。
より聡明な人間は議論をやめる。
気の狂っている人間に対する最上の返事は沈黙である。もしも言葉を返したならば、あなたのその一言は必ず狂人からふたたびあなたのところへはね返ってくる。侮辱を持って侮辱に答えるのは、火に薪を投げ込むのと同じである。
私たちは装填された銃は慎重に扱わなければならないことは知っている。それなのに言葉も同様に慎重に扱わなければならないことを知ろうとはしない。言葉は人を殺すことができるばかりではなく、殺人よりももっと始末の悪いことをなすこともできるのである。
(言葉には、"言霊(ことだま)"という霊が宿っている。
人が人として他の動物と一線を画すのは、ひとえに言葉を持つがゆえである。
言葉によって思考し、言葉によって心を育む。
本能の欲望の他に、理性の愛を保つことができるのも言葉あってのことである。
言葉は力となり、呪いともなる。
他を呪うこともあれば、自分を呪いで縛り付けることもある。
すべて言葉の仕業である)
未来における愛というものはない。愛はもっぱら理性における活動である。
確実に幸福な人となるただひとつの道は、人を愛すること。
人間に最大の幸福をもたらす感情をすべての人間は知っている。
その感情は愛である。
多くの女性を愛した人間よりも、たった一人の女性だけを愛した人間のほうが、はるかに深く女と言うものを知っている。
(たぶん、これらはトルストイの結婚前の言葉ではないか。あるいは夢破れる前の新婚時代。言っていることは間違いではないが、文豪の言葉にしては舞い上がっている)
この人生における愛を疑う余地のないただひとつの幸福は、他人のために生きることである。
肉体的幸福はそれを他から奪うことによってはじめて獲得される。だが、霊的幸福、つまり愛の幸福は私たちが他人の幸福を高めるときにはじめて獲得できる。
動物にとっては自分の幸福を目的としない行動、つまり自分自身の幸福に正面から対立する行動は、とりもなおさず自分の生を否定することである。しかし、人間は場合によってはまったく正反対である。自分だけの幸福を獲得することのみ目的とする行動は、人間の生の完全な否定である。
欲望が小さければ小さいほど人生は幸せである。これは古いがしかしすべての人によってまったく認められていない真理である。
(キリスト教的愛については、トルストイの柱である。この博愛精神こそが彼を世界中の人々から尊敬を集める根幹となる。その愛の伝道師が、結婚によって方針転換を余儀なくされる)
女性は男性を自分の捕虜にしたときはじめて幸福であり、その唯一の希望を達したことになる。それゆえ女性のいちばんの目的は男性を虜にすることである。娘時代には選択のためにこれが必要であるが、結婚後には夫に対して権力をふるうためにこれが必要になってくる。
(トルストイは34歳で結婚をする。妻となるソフィアは18歳だった。この若き新妻が、世界三大悪妻のひとりとなる。ちなみに後の二人は、ソクラテスの妻クサンティッペとモーツァルトの妻コンスタンツェ)
誠実な結婚生活を営むことはまことによいことである。しかしさらによいのはまったく結婚しないことである。これができる人間は幸福である。
結婚なんて決してするものではない。忠告しておくが、すくなくともしたいことはなにもかもしつくしたと、はっきり自分にいえるまでは、また、自分の選んだ女性に対する愛がさめるまでは、つまりその女性をはっきりとみきわめるまでは、決して結婚なんかするもんじゃない。そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。結婚するならば、もはやなんの役にも立たない老人になってからすることだ・・・。そうでないと君のもっている美しい気高い資質がすっかりだめになってしまう。くだらないことのためになにもかも使い果たしてしまう。
結婚しなくても生きていけるのに結婚する人間の行為は、つまずきもしないのに倒れる人間の行為と同じである。つまずいて倒れるなら致し方あるまい。しかし、つまずかないのになぜわざと倒れることがあろうか。童貞のままで罪をおかさずに生きることができるならば、結婚しないに越したことはない。
結婚は自分自身に対する奉仕であり、したがっていずれにしても神と隣人に対する奉仕の障害になる。キリスト教徒の見地からみれば、結婚は堕落であり罪である。
家庭生活においてなにかをくわだてるためには、夫婦間の完全な反目かあるいは愛情の一致が必要である。夫婦のあいだがあいまいな場合にはなにごともくわだてられるものではない。何年ものあいだ夫婦がそれぞれいまわしい古い殻にとどまっている家庭が世の中には多いがそれは夫婦間に完全な反目も愛情のいっちもないためにほかならない。
(どんだけ結婚生活が辛かったのか。
もっとも既婚男性ならすべてうなずける事柄である。
結婚に夢を抱く人には残酷だが、すべて正しい。
トルストイは晩年財産の問題で妻に家を追い出され-財産のすべてを貧しい人々に寄付しようとしたため-旅先の駅舎で客死した。
ソフィアが悪妻に認定されたのにはこの一件が大きいが、不仲でありながら二人の間には9男3女の子供がいる。)
深い川には石を投げ込んでも濁らない。人間も同じである。侮辱を受けてすぐにかっとなるような人間は水ではなく水溜りである。
アメリカに生まれながらに盲目でつんぼでおしの少女がいた。彼女は触感によって読み書きを教えられた。あるとき先生が彼女に神の存在について説明すると、少女は先生に答えて言った。わたしはいつもそういう存在を知っていたけれど、いままではただそれがなんと名づけられているか知らなかった、少女はこう答えたのである。
(もちろんヘレン・ケラーのことだ。トルストイはガンジーと文通をしていたと言うから、歴史的偉人達の距離の近さに驚く)
神はすべての人々の幸福を望んでいる。したがって、もしもあなたがすべての人の幸福を望むならば、つまりあなたがすべての人を愛するならば、神はあなたの心の中に住んでいる。
神の国は眼で見るべきものではなく、また語るべきものではない。神の国はここにあり、かしこにあり、それゆえに神の国は我々の心の裡(うち)にある。
人々は愛によって生きている。だが、自己に対する愛は死の始めであり、神と万人に対する愛は生の始めである。
(キリスト教原理主義のような格言である。
トルストイは裕福な貴族として生まれたが、幼くして両親を亡くし、親戚に育てられた。
大学の成績は振るわず中退、その頃ルソーに傾倒する。
作家デビュー、クリミア戦争従軍、農奴解放運動を経て、結婚をする。
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の大作は結婚後であり、聡明なる妻ソフィアの協力なければなしえなかったであろう。
二人が同じ方向を見ていた幸せな時期だった。
キリスト原理主義らしく、当然、避妊もせず、子沢山になった。
しかし、大作を書き終えた頃から精神が重くなる。
自己完成をめざし、原始キリスト教的独自の教義をつくり、思想家として活動するようになる。
民衆を圧迫する政府を非難し、国家を否定し、ロシア正教会も国家と癒着してキリストの教えから離れていると批判し、破門される。
己の信条に基づき、生活を簡素にし農作業に従事、さらに印税や地代を拒否しようとして妻と関係悪化する。
あげくに追い出され、遠い街の駅舎で死去、82歳だった。
世界的作家としての名声を得た絶頂からの転落といっていいのか、転換である。
夫婦の価値観に齟齬が生まれ、対立し、憎みあうことになる。
同じ方向を見ているときは強力な同士であるが、いったんずれが生まれると、広がる一方で修復が効かなくなる。
トルストイを愛するものからみればソフィアは悪妻だが、こうなることは夫婦というものの宿命である。
ロンドンブーツの淳が、僕の回りに結婚して幸せになった人がいないと言って、アムロちゃんとの破局報道に対し結婚しない宣言をした。
結婚は社会的型式を整えるため、あるいは性欲を解消するために行われるもので、幸せの手段とはならない。
幸せを求めて結婚するというのであれば、それは間違いである。
結果論として言えることだが。)
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