昨年、『般若心経』の翻訳を、宝彩有名の訳で紹介した。
http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/201010240000/
なるべく分かりやすいものをと思って選んだのだが、さらに親しみのある訳をした先生がいた。
一昨年、不帰の客となった、国民栄誉賞作曲家の遠藤実だ。
『般若心経』という哲学的な“経”が、演歌歌謡の風合いにしっくり馴染んでいる。
般若心経 ―私はこう読む―
あなたもそうですか。
悲しみに泣きぬれるとき、その心の中に、ひとつのこだわりがあるのですか。
私もそうです。
苦しみにあえぐとき、やはりひとつのものにとらわれ、かたよった考え方がのしかかっているのです。
人間の苦悩は、こだわり、かたより、とらわれることから始まるのですね。
だから苦悩から逃れるということは、それらの心からいかに解放されるかということです。
この地上にあるすべてのものは、刻々と色や姿、形を変えていき、やがて消え去るものなのですね。
この世にあるもの(有形、無形に限らず存在するもの)とは、だれもが別れなければならない。
これが現象世界(人の人生)の掟であり、摂理でもあります。
人のさまざまな苦悩は、愛するもの、愛したもののすべてが絶対と思い込み、それらの対象のものが失われたとき、さみしさ、くやしさ、うらみ・・・等々に変わるのです。
健康な人間は、食すればその味わいを楽しみ、花や光などさまざまな色彩になごみ、香りにひたり、人生の道々にはいろいろな人々と縁をもち、語り合い、歌を聴き、かつ歌い、思い出をつくり、またその思い出をこころの思むくまま自由に、意識の海に浮かばせ、それゆえにまた反面、罪もつくり、過ちも犯してしまうのです。
しかし、この苦というものも思いようであります。
痛みがあり、安らぎを知り、
安らぐときを知って、また痛みを感じる。
死があり、生のよろこびを知り、
生の歓喜を知って、また死の悲しみを知る、
人の世は輪廻、くり返しているのです。
苦悩のとき、無になりなさいと 御仏 の声がします。
それは何もない無ではなく、地上にはまだ見えないが、大地の中に今まで以上に大きくなる種があり、その種を育てていけと言っているのです。
本来、人間は 白 浄 の 菩薩 心を持っているはずです。
ですから、早くそれに目覚め、心を開き、宇宙の宝光(神仏)を仰いで、その光をうけ、世界の人びとが拝み合う心がいきわたるような努力をみんなでしましょうと、神仏は語りかけているのです。
丸い心, 広い心、すきとおる心を求めて、いつも精いっぱい生きていきたいと念じています。
どの部分がどの訳なのか解らないほどの"超訳"だが、まぎれもなく「般若心経」である。
遠藤実は終戦直後、17歳で疎開先の新潟から単身上京し、さまざまな職業を経てギターの流し演歌師となる。
1956年作曲家として世に出、以来5000曲に及ぶ作曲をし、『高校三年生』『星影のワルツ』『北国の春』『せんせい』など、数々の名作を残した。
アーチスト主導のレコード会社を立ち上げ、挫折と言う苦い経験もした。
「トコトン苦しんだからこそ、人の痛みもわかる」と言う。
人を愛し傷ついてはじめて、他人の痛みがわかる。
仕事に挫折してはじめて、他人の立場を思いやることもできる。
壁にぶつかったら、思い切り悩めばいい。
とくに若いうちは、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜けばいい。
悩み、苦しんだぶんだけ、自分と言うものがわかり、同時に、他人に対して優しい気持ちになれるのではないだろうか。
般若心経の生き方とは、つまるところ、丸い心、広い心を持つということに他ならない。
三角や四角で、あっちが出たりこっちが出たりしている心を、どんなふうに丸くしていくかが私たち人間のテーマと言えるだろう。
経営者としての失敗から作曲に専念し、あまたのヒット曲を送り出し、順風な人生を迎えた五十五歳の正月、病院の検査で"狭心症"が発覚した。
心臓を養う重要な冠状動脈が詰まっていた。
「自分はこのまま死んでしまうのだろうか」と、生まれて初めて死の恐怖を味わった。
手術を数日後に控えたある日、テレビで、『男はつらいよ(浪速の恋の物語)』が放映されていた。
寅さんなら心がなごむに違いないと見ていると、渥美清演じる寅さんが、松坂慶子のマドンナとふたりで彼女の弟を探して、大阪周辺を歩くというものだった。
ところがようやく弟の居場所がわかって会いに行くと、弟はすでに亡くなっていた。
その原因が、何と心臓病で、しかもバイパス手術に失敗していた。
同じ手術を受ける身には大変ショックだった。
しかも、残された寅さんと松坂慶子が何度も繰り返し歌う歌が『星影のワルツ』だった。
映画を見ながら「やっぱり、俺はもうダメなんだな」と暗澹たる気持ちに襲われた。
手術は無事終え、自宅にもどってはじめて般若心経を唱えようとした時、仏壇の鐘の音に酔いしれた。
この余韻・・・この余韻の中に身を置き、安らぎを感じる毎日でありたいと合掌した。
病気を発見されるまで、私は自分の健康に絶対の自信を持っていた。
その私が、こともあろうに、心臓病で生死の境をさまようことになったのである。
般若心経では、「この世に絶対のものなどない」と教えてくれる。
病気になって、私はその真実を実感せずにはいられなかった。
同時に健康であることのありがたさも理解できた。
「この世でひとつだけ何がほしいか」と尋ねられれば、私は迷うことなく「健康」と答えるだろう。
人間はだれでも世の中の力によって生かされている。
もっと大きな見方でいえば、万物と関り宇宙に抱かれながら、この広い宇宙の中で、生を受けている。
私たちには、かならず親がいる。
生きとし生けるものの親こそ、この広い宇宙であり、神仏であり、父母なのである。
そのことにはっきり気づいたとき、それまでの人生に対する見方も変わっていた。
私は半生に何度もの危機が訪れている。
辛酸をなめたことも何度かあった。
それもこれも、神仏が私という人間を強くするために与えてくれた試練なのだと思えるようになった。
「たくさんの試練をありがとう」と感謝の気持ちが持てるようになった。
今日は僕の誕生日だ。
1月17日については、昨年解説したので、興味(?)のある方はこちらを。
http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/201001170000/
今日で55歳になる。
50歳で人生の幕をひくつもりでいたが、カーテンコールに誘われまた舞台に立っている。
奈落を覗き込んだあの日から、もう5年が経った。
生き続けることの恥ずかしさはもう薄らいだ。
以来、随分本を読み、考えた。
書かれているものの中で、自分の心にフィットするものとしないものがあり、フィットするものを繋いでいくと、なんとなく自分の形が浮かび上がってくる。
その影を良く見ると、ずーと前から自分の中に育っていたものだと気づいた。
なんだ、僕は、僕のままでいいんだ、って解った。
だったらもう遠慮はしない。
残りの人生を、人に尽くして過ごしたいと思っている。
それが僕のしたいことだから。
近藤誠著『「健康不安」に殺されるな』 2023年04月15日
ダニエル社長著『コロナと金』 2022年09月27日
ジェフリー・ケイン著『AI監獄ウイグル』 2022年02月05日
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