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小学校の卒業文集に将来の自分は何になりたいかと書くコーナーがあって、私は「ジャパニーズ、ビートルズ」と書いた。ビートルズが日本に来たのは、1966年6月末。その日大きな台風が来ていて、学校から帰れなくなった。オーストラリアに来たのはその2年も前。1964年の6月。ただ、この時リンゴが扁桃腺で来られず、その代役としてジミー・ニコルというドラマーが来た。途中で元気になったリンゴと交代する。彼はメルボルンの飛行場から1人イギリスに帰った。どんな心境だったのだろうか。こちらのその時の映像を見ると、ジミーが必ず写っている。以前、こちらの運送会社の広告写真撮影があり、オーディションで社長役になったことがあった。数多いる日本人などは、私の会社のスタッフなども皆一日100ドルの日当だったが、社長役は1000ドルだった。皆は作業服、私はスーツ姿。やっているときは、なんだか本当にその会社の社長のような気分で高揚する。撮影が終わって、普段着に着替えると、また元のタコ社長にもどって拍子抜けした。ジミーはそんなもんじゃなかっただろう。あの世界のビートルズの代役だった。このジミーが、1966年に日本に来ていたのだ。また代役とかじゃなかった。あの、スエーデンのバンドで一世風靡した「スプートニックス」のドラマーとしてだった。それは、それなりに彼にとっては絶頂の経験だったろう。しかし、その後は苦労の連続だったようで、経済的にも苦労したようだ。後にジミーは回顧している。あの経験は、自分の人生の中で最悪の経験だったと。すべて、リンゴの扁桃腺のお陰だった。今、ジミーはイギリスで誰にも知られず隠れるようにして生きているらしい。私の場合は、ジャパニーズ、ビートルズは実現せず、せいぜい髪を同じようにしたくらいで終わった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月27日
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生まれて初めて父が購入したのは、スバル360の中古車だった。我が家のマイカー第一号だ。東村山の実家の家の入口を改造して、小型車だったら玄関脇まで入れることができるようになった。以前、パトカーに乗っていた警察官の父が購入したのがこの車だ。大型で高速のパトカーに比べて、いかにも小さく見劣りがする。ところがこの車、185センチの私が乗っても大丈夫なのだ。前に、他の会社の360ccに乗ったときは往生した。スバル360は、エンジンが後ろの後輪駆動車だった。更に水冷ではなく空冷エンジンで、一つだけ難点があるとするとうるさいのだ。この車は、我々大型の家族4人でも乗れた。いわゆる、「てんとう虫」だった。1974年6月、初めての海外旅行の際、黄色のパンタロンスーツに着飾った、付き合っていた好江と両親、白地に黒のストライプで縮みのような感じの新しいジャケット姿の私の4人で、この車で羽田に向かった。翌年、私から去って行った彼女だったから、4人で会うのはこれが最後だった。次に買い換えたのは、500ccに車で、それから、日産スタンザハッチバック、最後は日産のサニーだった。80を超えて父は運転を辞めた。時々、帰国する私は、日産やマツダの車をレンタカーして温泉などに行っている。因みに、私がこちらで運転してきた車は、日産、マツダ、そしてフォードと代わってきた。不思議に内の家系、日本を代表する車、トヨタを買ったことも運転したこともない。最初に買った車に影響されるのだろうか。スバル360で、よく好江の練馬のアパートに遊びに行った。夜中に帰って来るときは、家の前の短い坂になっている所を、エンジンを切って運転して、そのまま車庫に入れた。これって、結構技術がいて慣れるまで大変だった。でもこの車にはずいぶんと厄介になって感謝している。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月27日
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メルボルン動物園で、象の赤ちゃん誕生。既に150キロの堂々たる発育。名前がマーリ(MARI)と決まる。早速、撮影。子どものとき、上野動物園で象を見て泣いていたという。昔から、どうも大柄な方が怖い。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月25日
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幼稚園の頃からダンスが好きだった。中学に入って、オクラホマミキサーとかマイムマイムなどを習って、その熱は更に高まった。ただ、楽しかった。中学3年のとき、クラスに何人かのフォークダンス好きが音頭を取って、毎日昼休みに校庭でオクラホマミキサーを踊った。その内、他のクラスの人も入ってきたりして、一つの運動となっていった。何年か前に、中学の同期の連中で軽井沢に行った。そこで私たちのフォークダンス好きを知っていた1人が企画してキャンプファイアーの夜となり、オクラホマミキサーを踊った。笑いが止まらなかった。ところで、マイムマイムも大好きだったが、あの「マイム、、マイム、マイム、、、、」の後に一体何と言って踊っていたのか定かでない。「レッセッセ」とか歌っていたのような気がする。「デッカンショ」とか言っている人もいた。調べてみた。なんと、これはイスラエルの井戸掘りの歌だった。水を掘り当てたときの喜びを踊りで表しているとのこと。初めて知った。「水よ、水よ、喜ばしいことだ(Mayim mayim be-sasson)」ということだそうだ。ベッサソンだったようだ。井戸を囲んで踊っていた訳だ。知らずにいることが多い。やはりアメリカから台湾にも伝わって、「水舞」として彼の地でも知らない人はないらしい。これから台湾に行っても、イスラエルに行っても、皆と一緒に踊れる曲が一曲できた。本場イスラエルhttp://www.youtube.com/watch?v=7BsFiuFRZQk&feature=related台湾の「水舞」http://www.youtube.com/watch?v=9hmdHoAYD24&NR=1日本の怪しい踊りhttp://www.youtube.com/watch?v=pmENjpOldK0&feature=related最後に、今も若い方々に、狭い地域ではあるが受け継がれているオクラホマミキサー。安心した。http://www.youtube.com/watch?v=a-Vq8pdd7F0毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月25日
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オランダ系の連れ合いといっしょに、極力炭水化物を摂らない食生活に変えようとしている。ジャガイモがよくないという。但し、目の前にこのポテトウェッジスを出されると、しかもこってりのクリーム付きで出されると弱い。どう考えても、脂ものはうまい。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月24日
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今日の午後、突然街中のメイン道路が封鎖されロックミュージックのトラックを先頭に大変な数の人のデモがあった。子供のときから、お祭りとかが大好きな私だが、思わずデモに紛れて一緒に行進してしまった。ビクトリア州のパブで生演奏をしている所には、必ず最低二人のガードマンを付けないとならないという法案に反対するデモだ。人を雇うことでパブの経営が脅かされるし、客も高い酒代になって行けなくなってしまうということらしい。考えてみたら、平和な国だ。業者には死活問題かもしれないが、この国オーストラリアは、本当に最後の楽園なのかもしれないと思ってしまった。州議会議事堂の前でロックコンサートの日になった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月23日
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私は、自慢したいくらいの悪筆だ。小学校5年のときに書道教室に通ったことがあった。でも、2か月ほどで辞めてしまった。赤丸がなかなかもらえないこともあったし、160センチもあるのに、子供の切符で電車に乗るのが嫌だったこともある。駅員に、中学生じゃないかと言われた。半ズボンの中学生がいるか、と言ってやりたかったが。この半ズボンも嫌で仕方なかった。嫌な事が重なって、書道教室を辞めてしまった。あの時、ずっと続けていたら、と後悔した。メルボルン動物園の中の日本庭園の案内。可なり日本語を勉強した人が書いたことは認めるが、絶対に赤丸はもらえない書だ。人の荒探しをしているようじゃ、この先も悪筆はつづきそうだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月23日
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オージー男はめっぽう酒に強い。しかも、食べずに黙々とビールを飲み続ける。われわれ、モンゴロイドは酔い易い。真似をしようとするとえらいめにあう。タコ社長、今回も懲りずにやってしまった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月21日
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小学校5年のときに、父が横が15センチ、縦が5センチくらいのトランジスターラジオを買ってきた。父は、それでNHKの浪花節とかを聴いていたようだが、実際には私が一番使っていたようだ。ビートルズが日本でもブレイクした頃で、よく洋物歌番組を聴いていた。中学になると深夜放送の全盛期を迎えようとしていたラジオ局がこぞって新しい番組をスタートさせた。愛川欣也の、「松葉でチョン ♪」なんていう語りが新鮮に聞こえた頃の話だ。「山田、きみも森繁のラジオ聴いていたのか。今度、公開放送があるんで申し込んだら当たったよ。一緒に行かないか。」中学2年のとき、私は文化放送で「こんばんは 森繁久弥です」と始まる番組を聴いていた。その公開放送に山田と行くことになった。悲しい経験を語り、それでも頑張っていこう、というのがこの番組の趣旨で、「友よ、明日泣け」という言葉がメインテーマだった。1967年2月10日にこの公開放送があった。私の半分くらいしか上背のない山田と二人で行ったのだが、あいにく当日は雪だった。長靴はいて、14歳の珍道中となった。会場に入ると、私たちが恐らく最年少だと思えるくらい大人の人たちで埋まっていた。少なくとも、小さい山田はそう見えた。私は、180センチあったが顔は可愛い童顔。自分でいってりゃ世話はないが。内容は殆ど覚えていないが、アメリカ軍の兵士と日本人の間に生まれた子供たち、といっても大人だが、そういう方たちが出てお話してくれた。一番印象に残っているのは、隣の3人組のオネエサン達を除くと、まだ青年だったマイク・真木が新曲の「バラが咲いた」を歌ってくれたことだ。私たちの客席の横を歩いて歌っていた。オネエサン達もうっとりしていた。いい歌だった。今も歌っている。本当の幸せにしみじみとむせび泣きたいのなら今日の不幸せには笑って耐えようではないか友よ、明日泣け !番組で、いつも森繁さんが力強く発信していた言葉が、この会でも大きく力強く伝わってきた。43年経って、隣のオネエサン達の顔はまったく覚えていないが、この言葉だけは今もしっかりと覚えている。森繁さんも昨年亡くなられたが、私の中では、あの会場で笑顔で励ますその姿のままだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月20日
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中学2年生の時に180センチを超えた。体で、有無を言わさず学級委員長を3年間通した。怖がられていた部分もあるようだ。3年の修学旅行は、東京の学生定番の京都奈良3泊4日の旅。シーズンを外した6月上旬で、伝説の「ひので号」に乗っていった。5台のバスに乗って京都と奈良を回る。バスは「帝産観光バス」だった。学級委員長は旗を持ってクラスの先頭を歩く。必然的にバスガイドさんと一緒に歩くことになる。小柄だが日本人形のような可愛い目をした素敵な人だった。帽子は、スチュアデスがかぶっているような帽子だった。小学校3年の頃からの、年上好みの性格がこの時も律義に働いて気持ちの浮きっぱなしな3日間だった。東京に帰ってから私が取った行動は、自分でも驚くものがあった。「帝産観光バス」に電話して、今回B組の担当をしたバスガイドさんが何という名前か聞き出したのだ。個人情報保護がうるさい今では考えられないことだろう。そして、会社宛に手紙を出した。返事の期待度は五分五分だった。付き合ってくれ、とかいう内容でない感謝の手紙だから返事が来ない筈はないと思ってもいた。そして、6月の末に山本洋子さんという名前のそのガイドさんから返事がきたのだ。夢は、願えば叶う。当然、即2通目の手紙を書いた。何を書いたかは全く覚えていないが、警視庁の警察官の息子、学級委員長の範囲は逸脱していなかったと思う。返事は来なかった。そして、明日で夏休みが終わるという8月30日に、山本さんから2通目の返事がきたのだ。誠実な年上の人と大いに評価した。自分の性格上、3通目のは一歩進んだ内容で出したことは想像に難くない。あれから42年、3通目の返事は未だにない。それにしてもこの行動力、3年に2回くらいは、今の仕事でも役だっているように思う。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月19日
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1万2775人だという。今年のメルボルンマラソンの出場予定者の数とかの話ではない。ハリウッドの映画俳優ウォーレン・ベイティが床を伴ににした女性の数だという。あまりに天文学的数字で、何とコメントしたらいいのか言葉もない。しかし、こんな数の女性を覚えているのだろうか。前に日本の有名なドラマ作家が、付き合ってきた半端じゃない数の女性のことを事細かに記録していて奥さんに見られ大変なことになったことがったが。いずれにしても、百科事典くらいの厚さになったりしそうだ。半身浴をしながらこの記事が書かれている週刊誌を読んでいて、上気に弾みがついてしまった。実は、これは最近出版された彼の伝記の中での想像の数ということが分かった。50代前半でアネット・ベニングと結婚するまでの間に、毎日違う人と、という前提だとか。これは、ウォーレンにやや酷じゃないだろうか。別に、同情する必要はどこにもないが。ところがこのハリウッド1のプレーボーイ、アネットと結婚してから18年間、浮いた話が一つとしてないという。子供もできて幸せな家庭を築いているらしい。現在、72歳。フェイ・ダナウェイとの共演「俺たちに明日はない」。この時の印象は可なり強いものがある。ジーン・ハックマンもよかった。私の個人的洋画名作の一つになっている。因みに、「ドクトルジバゴ」「ディアハンター」「追憶」「ゴッドファーザー」「マンハッタン」などが上位を占めている。結婚して落ち着いてしばらくしているから、こんな大胆な伝記が出版されたのだろう。自叙伝が出るなら、その時の数値との比較が待たれるところだ。まったく他意はないが、タコ社長もオランダ系の連れ合いと連れ添って18年になる。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月17日
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急に、お袋の作った「マカロニサラダ」が食べたくなってしまった。まだ、温かさが残っているマカロニに、マヨネーズが程良くきいている。子供のときからの大好物。チャイナタウンで日本のドラマのビデオを買った。「深夜食道」という昨年日本でヒットした番組だ。まだ日本ではDVDが出ていない。2枚組で8ドル、日本円で650円だった。卵焼き、赤いタコウインナー、バターライス、ソース焼きそばの目玉焼きのせ、ポテトサラダ、何とも痛いところをこれでもかこれでもか、と突いてくるお袋の味オンパレード。これらに、それぞれのストーリーがまぶされて出てくる。警察官の父は、三日に一度泊まりの日があった。そんな時は、大皿にてんこ盛りのご飯、その上に目玉焼き、それに鰹節をまぶして醤油と味の素。ご飯があったかいから、鰹節が大きく踊る。顔を湯気と一緒に鰹節と醤油の匂いが覆う。母と兄と私の三人で食べる。猫まんまの目玉焼きのせとも言えなくもない。これが、美味しくてたまらなかった。こちらでも、同じものを作って1人で食べたことがある。オランダ系の連れ合いがいないときだった。でも、幼いころ、本当に貧しくても和気あいあいと食べていた頃の味は戻ってこなかった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月16日
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「チンタレラリルナー お屋根のてっぺんで ♪」又従姉弟の恵子ちゃんが、四畳半の窓にもたれかかって夜空に向かって歌ってくれた。私が小学校1,2年の頃の話で、恵子ちゃんは女子高生だったのだろうか。鼻筋が通っていて目が切れ長で本当に可愛い人だった。歌ってくれたのは、「月影のナポリ」というザ・ピーナッツの歌だったということを後で知った。月夜の夜に、歌ってくれた歌が今も耳に残っている。こんな恵子ちゃんに憧れてしまった。この曲は、わりとロマンチックな曲だったように覚えていたのだが、You Tube で聴いてみたらすごく明るい感じの歌だった。http://www.youtube.com/watch?v=RMKFXjsU2k4&feature=related本当にいい時代になったもんだ。ネットで簡単に昔の曲を聴き続けることができる。歌が、その頃の幼い心を蘇らせてくれる。老後の楽しみが増える。しかし、いろいろと勘違いもあることだろうから、そのまま封印しておいた方がいいこともある。それにしてもこの曲、「チンチンチンのお月さま ♪」というところが、妙に気になってしかたなかった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月14日
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メルボルンの朝日新聞と私が勝手に言っているThe Age紙の先日の表紙だ。1970年代に結成されたオーストラリアの過激ロックバンドACDCが、久しぶりにメルボルンで公演したときのもの。警察が出向くほどの騒ぎになっている。日本でいうなら、タイガースとかテンプターズが表紙を飾るようなものか。こちらの新聞は、結構くだけている。ところで、ACDCとは電流の交流直流のことだが、人間関係でいういわゆる「両刀使い」という意味があり、私もたまに使ったりしている言葉。因みに、使っているのは言葉だけで、実際に御世話になったことはない。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月14日
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日常からしっかり隔離された日々だった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月12日
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「サーカスの兄弟の1人に似てない?」サラリーマンのとき言われた。木下サーカスとかの話ではない。4人組みの歌のグループのことだった。確か、「ミスターサマータイム」でヒットした人たちだった。「タコ君って、ジョン・レノンに似てるね。」中学時代にはこんなことも言われたことがあった。髪で目が見えないくらいだったからだろうか。歌い手に縁があったのだろうか。「そういえば、浪越徳治郎さんに似ていますね。」今日お会いした日本の中年の女性に、私が指圧を勉強した話をしたときにそう言われた。ジョン・レノンも、長生きしていたらそう言われたのかもしれないと思ってみたりして、自分を納得させることにした。こうして生きてくると、いろいろなことを言われて飽きない。痛めている右手の親指が治ったら、また指圧でもしてみようか。シャネルの5番だけのマリリン・モンローに指圧した浪越さん。せめてそんなことだけは、あやかりたいものだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月11日
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我が家には、4つの万歩計がある。右下は、メルボルンの日刊ゲンダイと私が勝手に呼んでいるヘラルドサンの付録。こういう付録は大歓迎。これがあったからかどうか、毎日5時半のウォーキングのとき出会う人が増えてきているように思う。タコ社長、厭きっぽい性格で何でもすぐ厭きてしまうが、ウォーキングとオランダ系の連れ合いだけは続いている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月11日
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先月末の建国記念日の時に、再びこのオーストラリア国旗を変えるべきだという議論が沸騰した。何度も何度もこういうことがあった。英国のユニオンジャックを外せというのだろう。でも、もう少しイギリス系以外がの人間が増えない限り、難しいのではないだろうか。私が生きている間にあるのだろうか、国旗の変更。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月10日
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「主人はピストル自殺したんです。主人の浮気が一つの原因だったかもしれないこど、本当のところは分からないの。」静岡県富士宮市にあった、「貿易研修センター」に会社から3カ月の研修に出されているとき知り合ったニュージーランド人のロビンがそう言った。1979年の7月の終わりのことだった。3カ月の半分は英語研修、残りの半分は貿易実務などの学習だった。サラリーマンで給料をもらいながら、この3カ月は夢のような日々だった。毎日夜中まで勉強したことは確かだが、30名を超える各企業の人と知り合えたこと、そして海外からの研修生と知り合えたことが私の一生を大きく左右することになった。そういう意味では、いまある自分の原点は、この富士山のふもとにあるとも言える。因みに、ここで知り合った友人の1人Aさんはシンガポール駐在で、この年末年始に一緒に過ごしていただいた。ロビン達は、オセアニア地域から来た日本語教師たちで、日本語に磨きをかけるコースに参加していた。こと、外国人女性に対してはまったく物怖じがない特異な性格で、何人かの人と話す機会に恵まれた。8月に研修は終わり、会社に戻った。次の3カ月コースに出る同僚の仕事が回ってきた。いままでの2倍の仕事量だ。毎晩、11時前に会社を出ることのないない日々が続いた。それから、また赤坂六本木を飲み歩く。すっぽん料理とか食べて力もつけたが、どうも気持ちも体も上向かない日々。「良かったら、ニュージーランドに年末にでも遊びにきませんか。」ロビンからの便りがきた。即、行くことにした。申し込んだ時期が遅かったことと、年末ということで、シドニー経由オークランド行きの飛行機代は64万円だった。勿論、エコノミークラス。この旅行を楽しみに、毎日の残業を乗り切った。ロビンはその後オランダ人カールという方と再婚して、オークランドに住んでいる。人生の節目節目で何度かお二人にお会いしている。キャンディス・バーゲン似のロビンは、来年70歳になる筈だ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月09日
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またやってしまった、週末朝のまとめ喰い。腹も満足でもたれていると、立っている人たちに出会った。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月08日
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車で30分。セントキルダに行ってきた。暑いと、いろいろな事が自然に起きるようだ。でも、この方々非常に毛深く、だみ声だった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月07日
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「タコ、カプチーノはねこうやって作るのよ。」シティーのカフェで、キャシーがそういいながらコーヒーマシーンでいろいろなコーヒーの淹れ方を教えてくれた。「ところでタコはいくつ?」「25です。」ワーホリということで雇われていた。今は、30歳までこちらで1年間、仕事をしながら旅行したり、勉強したりすることができるビザ、ワーキングホリデービザだが、当時は18歳から25歳までだった。33歳になっていた私は、大幅に年をサバ読んだ。基本的にはキッチンハンドは、皿洗いから何からキッチンの仕事をこなす雑用係のようなもの。ただ、少し慣れてくるとコーヒーの淹れ方や、サンドイッチの作り方も教えてもらえる。来る日も来る日も毎日皿を洗っていると、コーヒーを作ることことで急に格上げされたような気分になって嬉しくなった。注文が入ってきて、結構手際よくさばいていた。「タコ、辞めちゃうんだってね。寂しくなるわ。次のところ駄目になったらもどっておいでよ。今度は、ラザニアに作り方おしえてあげるから。」このカフェのラザニアは絶品だった。というより、初めて食べたから比較のしようもないが、賄いとして食べていて大満足だった。「はい。」本当は、私よりずっと年下のキャシーだったが、先輩として礼儀正しく接していた。一体自分の永住権は見えてくるのだろうか、という不安を抱えながらサウスヤラの日本食レストランの手荒れの続くキッチンハンドに変わった。でもあの頃は、いつも不安より夢が勝っていたように思う。夢が素直に大きかった。今は、夢がこじんまりとしてしまって現実に押し流されてしまいそうになることがある。新たに夢を製造し直さないとならない時にきているようだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月06日
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柄にもない所での食事だった。でも、どんなレストランでも普段着で行けるのがいい。肩ひじ張らない、そんなオーストラリアがいい。ちと、食べ過ぎた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月05日
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「タコさんね、シンガポールでは長袖のYシャツでノーネクタイ、これが仕事のスタイルです。フォーマルになるとこれにネクタイですね。ジャケットは着ることはないです。」シンガポールに行ったとき友人の秋山さんがそう言った。そう言われて電車の中なんか見てみたが、本当にジャケット、背広の人はいなかった。「なんだあいつ半袖シャツで。」隣の部長がそういったという。クソ暑い日本の夏、私はサラリーマン時代に半袖シャツで出勤していた。隣の部長は、どんなに暑くても半袖シャツを認めていなかった。私は気にしなかった。「格好いいなあの人、誰?」隣の西山さんに聞いた。国際事業部の滝山さんだという。サラリーマン時代の頃の話だ。真っ白なYシャツに紺のズボン、髪はやや長め、上背はそんなにないが顔は褐色。そして、Yシャツは素肌につけている。私は、日本を代表できるくらいの汗かき、夏にはランニングシャツとかいつもつけていた。滝山さんみたいにダンディーに着てみたいと思った。因みに滝山さん、女子社員にかなりもてていた。ああいう感じになるともてるのかとも思った。ある夏の日、滝山さんのように素肌にYシャツを粋につけて出社した。その日、タイからのお客さんを上野駅に出迎えることになっていた。手配したバスと駅の間を駆け回っている間に大汗かいて、水洗いしたばかりのYシャツを着ているようになってしまった。熱帯からきているタイのお客さんから大笑いされた。自分のバカさかげんに呆れた。軽佻浮薄に、恰好いいからと中身の伴わない形だけ真似して何もいいことはない。あの頃は、同じようなことを何度も何度も繰り返していたような気がする。パイプや葉巻もそうだった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月03日
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金髪で青い目のジャニスさんが、素敵な笑顔で私に微笑みかけている。30年くらい前の話だ。新宿にあるサロン形式の英会話学校の電車内の広告だった。ジャニス先生、私にだけではなく満員電車のサラリーマン全員に八方美人的に微笑んでいた。「タコ、俺さ英会話やろうと思ってさ、この学校の会員になったんだよ。」友人の菅原が言った。なんでも、1年間30万円払うと毎日でもレッスンを受けられるという。私に見せたパンフレットには、あのジャニス先生が写っていた。このサロン形式というのは、最高4人まででサポートが行き届いている、というのがウリだった。私は、授業料の高額さと仕事の忙しさで、このレッスンには食指が動かなかった。数年後、この学校は跡形もなく消えていた。ずさんな経営が裏目に出たらしい。「タコ、こんど新しくできる日系の英語学校のマネージャーの職が見つかったわ。」モデルにしたいくらいの容姿で、私の日本語学校の生徒だったダイアンが、メルボルンの事務所に報告にきた。今から、10年以上前の話だ。自分の教え子だったので共に喜びを分かち合った。30人くらいで始まった英語学校、その後順調に伸びて、マネージャーは何代も変わったが600人くらいの生徒数になった。タコ社長、何を隠そう本職は「留学センター」経営だ。実は、日本を代表するこの英語学校ともいろいろとビジネスがあった。この学校が、昨日閉校となり管理会社の任意管理下に置かれることとなった。世界に広がる学校展開だったので、ここだけ良くても行き詰ったのかも知れない。大きな会社も、小さな会社も、いつ何が起こるか分からないご時勢だ。タコ社長、クリスマスに相撲を取って親指を痛めて、今は取れない状態だが、気持ちのフンドシはしっかりと締め直さないとならない。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月02日
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