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どこからともなく焼き団子の匂いが漂ってきた。日本に帰ったなと感じる。思わずつられて短い暖簾をくぐりそうになる。近くの本屋に顔を出してみた。今、日本で一番元気なのは「本屋の本」だろうか。元気に頑張って成功する、みたいな本が山積みだ。検察審査会が、一国の政府幹事長を全員一致で「起訴相当」と判断した。「全員一致」、これは怖い。新聞もTVも今は同じことを同じように「全員一致」の姿勢で書いている。日本はメディアの力で一極に振れやすい国民の国。日本は今、メディアに支配されているように見える。そして、メディアの裏にはスポンサー(大企業)がいる。早朝ウォーキングをしていると、小さな犬や犬たちに引っ張られているお年寄りの女性が目につく。犬に付いていけずに犬が両足を上げて馬がいななくようにして引いていく。犬に励まされて散歩しているようで、それはそれでいいことではあるのだろう。久しぶりに日本に帰っての雑感。変わったようでまったく変わっていない日本。これが確認できてまずは安心。いずれにしても、タコ焼き、タイ焼き、肉まんの日々、何の文句もない。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月29日
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昨日、無事東村山入りした。半年ぶりの所沢商店街早朝ウォーキング。健康に元気で社会奉仕をしている彼女たちへまずは笑顔でご挨拶。昨日、最初のショッピングは父の紙おむつ。あまりに種類があって、私もちょっと試してみたくなったが試着室がなかったので遠慮した。メルボルンと気候があまり変わらないのでスムースにリセット可。メルボルンでは「唯のタコ社長」だが、東村山に戻ると「唯の60近い息子」。掃除、選択、ママチャリでの買い物などが日常となる。頑固な父の文句連発も勢いがよく安心した。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月27日
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10年近く使ってきた事務所の大改造中。居ながらにしての工事なので力仕事の連続だ。完成を見ずに、日曜日に日本に発つことになった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月23日
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高校は国立にあった。立川署に勤務していた父は、私が高校1年のときに国立駅南口の交番勤務だった。朝、学校に急いでいるときに、同僚のお巡りさんに私を紹介するのが長いので、それが嫌で反対側を歩いて行くことが多かった。それに、友達に見られるのが何だか恥ずかしかった。そのくせ、国立スカラザの只券をもらう時は尻尾を振っていた。3年半前に前立腺癌で3カ月入院して、ホルモン注射などで治療していた父が、3日前に緊急入院したと母からの知らせがあった。担当医の予想を越えて頑張ってきていた。6月に帰国しようと思っていたが、5月にした。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月22日
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結構料理上手で助かっている。私は同じ物しか作らないが、彼女はいろいろ挑戦してくれている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月20日
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この季節には珍しく30度近い気温の週末だった。友人たちと、オランダ系の連れ合いの叔父のホリデーハウスへ行ってきた。気分転換には最高の週末となった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月18日
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最近の日記に料理の写真が少ないとのお叱りを受けて、頑張って食べている。考えてみたら、バタバタしていて、飲み会が少なくなっている。そんな思いから、「社長を一年に一度はおごる会」をスタッフに自ら提案したら、どうも都合がつかず5月になった。おごられるのだから、全く文句はなく指をくわえて待っていることにする。毎日、誰か誘ってくれないかなと待っているのに、還暦近いオジサンにはおよびがかからない。畢竟、写真が少なくなる。あ~。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月15日
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つかの間の共食い。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月14日
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年に一度の、オランダ系の連れ合いの母親の「うさぎ料理」。酢をきかせたソースで煮込んだもの。ゲルマン系の料理の典型だろうか。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月12日
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「社長は、肩が凝らないんですか?」「凝る訳ないだろう、タコには肩がないんだから。わしゃ、かたなしだ。」会社では私を抜かして全員が肩凝りでときどき悶絶したりしている。そこでときどき、プロのマッサージ師を雇って福利厚生に充てている。私は恩恵にあずかっていない。しかし、こう見えても凝る物もある。どこまでも逃げる女性を追いかけることに凝ったこともあるが、概して食べ物が多かった。そういえば、予備校時代にパチンコに凝ったこともある。すごく後ろめたかったが止められなかった。新入社員の頃、荻窪駅の南口で当時付き合っていた女性と入る喫茶店ではいつも注文していたものが決まっていた。カニピラフとビーフシチューだった。口に入れた途端にとろけるビーフ。ちょっと濃いめのスープで煮込んでいていつ食べても飽きなかった。それぞれ一人前だったから、普通の人の二倍は食べていた。彼女は嬉しそうに見ていた。大食いの人が気にいっていたのだろうか。彼女と4年後に別れてから、待ち合わせる人もなく独りで残業の後に行った池袋東口にあったトンカツ屋。今は、「マツキヨ」になっている。ここでも凝っていた。まず、板ワサと餃子でビール一本を空ける。そして上ヒレカツ定食、ご飯とキャベツお代わりし放題。いつも同じパターンでしまいには、皺くちゃな顔をした白い三角頭巾のおばさんは、「いつものね。」といって注文をまともに取らなくなった。残業の前にざる蕎麦を食べているから結構すごい量になる。そして西武池袋線に11時近くに乗って帰る。こんな生活をしていて痩せていたらバチが当るような日々。こちらに来てタコ社長を始めてからは、昼に凝っていた。ある時は、毎日「シンガポールヌードル」、あるときは毎日「パタヤフライドライス」。本当に毎日毎日食べていた。でも、いったん凝りが取れるとすっかり忘れる。しつこいようで潔い性格。しかし、ここ数年は凝ることを忘れてしまったようだ。もう枯れた年代に近くなっているのだろうか。今から変なものに凝ったりしたら余生が時化てきてしまうのでこのまま寄り道しないで棺桶めざしたい。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月12日
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「タコ君、ジャズが聴きたくなったよ。『モダン』で待ってて。後で行くから。」1971年1月、ほぼ2年間強烈な片思いを捧げていたMが私を誘った。誘われたからといって、別に何かが始まる訳でもないことは十分過ぎるくらい分かっていた。前の月辺りからだろうか、Mと私は二人で何度か彼女からのご褒美のように何度か会っていた。「ごめんね、大晦日に国分寺の駅に行けなくて。だいたいね、掃除とか正月の準備とかで忙しいんだから、そんな日に!」目に小じわを寄せてMは笑った。来なくて元々と大晦日のデートにMを誘っていた。国分寺に住んでいた彼女に、国分寺北口で待ってるという手紙をだしていた。2時間待った。国分寺は、60年代から70年代にかけてジャズ喫茶、ロック喫茶が結構あって一つの大きなうねりを作っていた。学芸大、津田塾大、一橋、東京経済大学などが近いこともあり、昼間から髪の長い男女の学生がタバコで見えないくらいの中、一杯のコーヒーで粘って愛を語ったり、反体制の激論をしたりしていた。そのなかで、駅の北口を左に曲がった所にあった「モダン」は幅広いジャズを楽しませてくれる店だった。「あっ、『レフトアローン』だよ。タコ君、好きだったよね。松山君の家で聴いたよね。」日本で異常に人気のあった、マル・ウォルドロンの「レフトアローン」。慟哭が聴こえてくるような切ない響きで、出だしから感傷的になってしまう。押せば砕けてしまいそうな18歳の胸に突き刺さってくる。だからといってMの胸を押せるような仲ではなかったが。因みに、その後ジャズはこの1曲だけで今にいたっている。1人の時に聴いている。http://www.youtube.com/watch?v=K0UbrVBYeD0&feature=related「何度聴いても泣けるね。」タバコをふかしながらMが横を向いた。「私ね、結婚もしたくなったよ。家族も持ちたいしね。」学生運動にのめり込んで学校や官憲と激しく対立していたMからこんな言葉がぽろっと出た。だいぶ疲れているのだろうか。眼の下にクマもできている。ジッと彼女の顔を見ながら、もしかしたら彼女は私の手の届く所まで降りようとしているのだろうかとさえ思ってしまった。しかし、そんな訳はない。過激派の闘士の彼とは続いているのを知っている。「レフトアローン」を聴きながら、泣きたいのはこっちの方だと言ってやりたかった。「悪いんだけど、12日、明日なんだけどお袋の誕生日でね、何かプレゼントを買わなきゃいけなくて西友に行くんだ。」「私、一緒に行く。」国分寺西友で母の45歳の誕生祝いに財布を買った。Mの見立てだった。「タコ君、知ってる?お財布を買ってあげるときはね、こうして5円玉を入れるのよ。知らなかったでしょう。何もしらないんだから君は。ご縁があるようにってやるのよ。」Mは5円玉を財布に入れながら愛くるしく笑顔をつくって店員に渡した。こんな可愛い人がどうやったら警察官と殴り合いなんかできるのだろうか。できることなら、思い切って抱きしめて離したくなかった。Mと別れて、西国分寺から武蔵野線で家に帰った。人はみんな、「レフトアローン」なんだと思った。そして、私たちは大学受験の2月に流れ込んでいった。因みに私は受けた大学は全て落ちて大塚の武蔵予備校に入った。風の便りでMは学芸大学に入学したと聞いた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月11日
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友人たちとマレーシアレストランに行ってきた。中が閑散としていて客がほとんどいない。静かな中、8人で大騒ぎしてきた。1.5リットルの赤ワインボトルを持ち込んで、オランダ系の連れ合いと二人でほぼ空けてしまった。結構、良い味出しているのに、客がいないのが不思議だったが。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月10日
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「この券、使わないと今月で切れちゃうの。」Best Westernという世界的なモーテルの加盟店の只券を、オランダ系の連れあいが見せてくれた。連れ合いのバックのなかには、いろいろな只券が入っているようだが、モーテルの只券は結構いい部類に属している。だいたいは、コーヒー一杯飲むともう一杯が只とか、そのコーヒーにドーナツがついてくる、なんてものが多 い。このドーナツがクセ物で、どうも抗し難い。一泊、200ドル前後のいい部屋が只となれば、最近、只に親近感を覚えられるようになったタコ社長も喜んで週末旅行に賛成するというもの。行ったのは、我が家から車で40分程度でいけるMornington. 海岸沿いの小さな田舎町だ。昼は、なじみのフィッシュアンドチップス。勿論、一人前頼むともう一人前が只という券を使う。食べたいと寄ってくるカモメたち に申し訳なかったが、あんなにチップスを食べたのは久しぶりだった。只だから、もったいなくてついつい食べてしまう。夜は、有名なシーフードのレストラン。メインコース一つ頼むともう一 つは只。これは結構なお得感があった。こうしてみると、いつもなんにでも満額払って生きてきている人生がバカらしくなってくる。最近、私も連れ合いの堅実は人生設計に異を唱えることが少なくなってきている。しか し、これも2人だからできること。してみると、いつまでも元気に2人でいることが一番得のようだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月08日
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今、会社の改造で力仕事が続いていて、元相撲取りのタコ社長、俄然社長のように先頭切って力仕事に取り組んでいる。お陰で、赤ワイン2杯で泥酔状態に近くなる経済的現象がたまらない。4,5年前、他州に進出、私の経営失敗で二つの事務所を閉鎖、修羅場を見た。体も壊して自分の不甲斐なさに呆れた。先日、会社の改造と一緒に書類の整理をしていたらこんなのがでてきた。社長だって、不登校の子供のように会社に行きたくない日もある。その頃、そんな日が多かった。自分に言い聞かせるようにこの言葉を毎日見ていた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月06日
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可なり前の話だが、オーストラリア人の3組のカップルと私たちとで、映画鑑賞のグループを作っていたことがあった。月に一度、幹事を決めてその幹事が選んだ映画を見るというものだった。私の番が来たときに、たまたま上映していた周防監督の「Shall we ダンス?」を見ることにした。日本映画は、オーストラリア人に受けるのとそうでないのが割りとはっきりしているように思える。最近の日本映画は、暴力とセックスがどぎついのが多い中、割とゆったりと見られたこの映画は、いまだにこの会の中で語り草となっているほど受け入れられた。因みにあの、窓から見えるダンススタジオは、私が幼い頃より利用させていただいている、西武池袋線江古田駅から見えるスタジオという設定だった。江古田にはあの日大芸術学部があり、そして私が6歳の夏に40日も入院した練馬病院もある所だ。四畳半と六畳の警察官住宅長屋に住んでいた私は、近くの豪邸のベルを押して逃げる遊びに熱中したりする徒競走少年だった。ところが、練馬区向南幼稚園雪組みの時、あわや左足切断かという恐れもあった大病をした。そしてこの江古田の病院に入院したのだ。左足の皿に水が溜まったのが原因で、その膝が腫れ上がり歩行ができなくなった。町医者で一度手術したのだが良くならず、練馬病院で二度目の手術となった。手術の前に両親はもしかしたら切断になるかも知れない、と医者から言われたと後で知った。「お父さんはね、お前のところに毎日見舞いに行っていたんだよ。お前が寂しいと思ってね。」前回、帰国して母の作った芋の煮っ転がしを食べていたとき、その母から聞いた。そして、ほとんど毎日私のベットの横に仮設ベットを置いて寝泊りしていたという。父も母も見舞いに来てくれたことは覚えてはいるがそれが毎日であったこと、そしてほとんど毎朝病院から職場の警察署に出勤していたことをあらためて知ることになった。この話を聞いて食事の箸を置いて続けられなくなってしまった。一時帰国の際、今度は私が病んでいる父の面倒を見る番になっている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月04日
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くれる、というものをほとんど断らないオランダ系の連れ合いなので、結構いろいろなものが家の中に溜まってくる。そして、一度手にしたものはなかなか捨てない。日本からの駐在員の方が日本に帰国されたときも、結構家財道具をいただいた。「だめよ水の使いすぎは。」皿洗いをしていると水の使 い過ぎをいつもたしなめられる。私が洗うといって、連れ合いが薄緑色のゴム手袋ををつける。手際よく水を流さずに洗剤がついているままにして皿を洗っていく。洗いながらだったのでよく読めなかった何かそのゴム手袋に書いてあるのが分った。ちょっと前に駐在員の奥さんからいただいた物のようだ。終わってから脱いだ手袋をよく見たら、「オムツ用」 と書かれていた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月03日
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「時給は1400円です。早速、明日から教えてください。」恵比寿にあった日本語学校の面接を受け採用になっ た。1985年の2月のことだった。その年の6月にはオーストラリアに行こうと思っていたので、ほんの数ヶ月の仕事だった。私とそれほど年の変わらない御兄弟お二人でやられている本当に小さな学校だった。しかし、少人数制の学校とはいえ、教壇に立つのは初めてのことだった。教える時間は、一週間でも15時間程度。とてもじゃないが、生活できるような金額じゃない。六ヶ月の失業保険があったのでやっていけていた。そして、まだ実家に住んでいたので出費も少なく済んだ。「タコさんね、とてもじゃないけど、 男の人は日本語教師では食べていけないわね。」同業の女性教師がいった。「でもね、主婦が片手間にやっている女性教師が多いから、男性は貴重で仕事を見つけるのには有利だけどね。」40代前半の主婦であったその女性が羨ましそうに話かけてくる。「タコさん、できたらずっと続けてください。 もう一つの教室も始めますから。」「実は、6月にオーストラリアに行こうと思っているんです。」「えっ、本当ですか。」校長先生、丁寧な言葉にもがっかりとした感じが読み取れた。「新しい、パンフレットには男性教師としてタコさんを入れたばかりなん ですよ。」私は、申し訳ないという思いはあったが、オーストラリアで日本語教師をする、という夢の一段階としての日本での日本語教師を、ずっと続けるわけ にはいかなかった。そして、6月の初めの最後のクラスを終えて、予定通りオーストラリアに旅立った。校長先生は優しく握手をして激励してくれた。先日、何の気なしにその学校HPを開けてみた。しっかりやっている様子が伺えて嬉しかった。今は、どんな先生が教えているのだろう、とスタッ フの文字をクリックした。私は、一瞬、目を疑った。なんと、そこには私の名前がそのまま出ているではないか。恵比寿の日本語学校の校長先生、よほどしつこいか、よほどズボラかどっちかだろうが、なんとなく少し嬉しくはなった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月01日
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週末はギリシャ人街のオークレイでいつもの買い物、そしてラテ。目立つバイクがあったので思わずショット。「貴方がたを撮ったんじゃないんですよ。」と言って上げたっくなるような隣の席の方々。「家族で不倫」とかの写真を撮ってしまったのだろうか。いずれにしても気を付けないとならない時代になった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月01日
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