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我が家近くの住宅の玄関わきに、自生したものと思われるタケニグサが大株になって花をつけ始めている。 タケニグサ見栄えも決して良いとは言えず、この植物について知識のある人は決して自宅の庭先に植えることはないと思うのだが、価値観の相違からか欧米では観賞用として栽培されることがあるという。タケニグサ(竹似草)はケシ科の多年草で崩れた崖地や日当たりのよい草原、空地などによく見られる2メートルを越えるほどにもなる大型の雑草である。葉には切れ込みがあって、形は菊の葉に似るが大きくて葉裏は白っぽい。花弁を持たない花を、夏に咲かせる。種子の長さは、2cmほどの大きさの扁平形をしている。茎を切ると毒々しい黄色をした乳液を出す。この汁液の色はケレリスリン塩(黄色)、サングイナリン塩(紅色)で空気に触れると分解される。タケニグサの名前の由来は、茎が中空で竹に似るところから付いたものである。チャンパギクという別名は、南ベトナム辺りからの帰化植物と思われたことから付いたとされるが、もともと日本に在来していた植物である。特有な形態から外来種を思わせるが本州、四国、九州に広く分布している。日当たりのよい崖や荒地、原野などに他の植物に先んじて自生する植物である。結実すると長さ2センチくらいの種子の入った莢が多数つき、中の種子が風に揺れて人が囁いているように聞こえるところからササヤキグサと呼ぶ地方もある。この植物の茎葉を傷つけると黄色液を分泌するが、分泌液にはケシ科植物に多く見られるアルカロイドの一種サングイナリンやケレリスリンなどを含んでいて外用薬として皮膚病、たむし、みずむしなどに用いられることがある。茎葉から出る汁を、直接患部に塗布して用いる。中国では、全草を開花期に採取して乾燥したものを博落廻といい消腫解毒、殺虫止痒の目的で、酒に溶かして患部に塗布して用いる。トリコモナス膣炎にも洗液として外用されるが、内服すると中毒を起こすので毒草として扱われる。皮膚が敏感な人は、かぶれなどの皮膚炎を起こす場合があり長期間の連用には十分な注意が必要である。またタケニグサは若芽のときに、山菜と間違えて誤食される場合があるので注意が必要である。この植物を食べると酩酊、昏睡、呼吸麻痺や心臓麻痺などの中毒症状を起こす。昔の便所はどこでも汲み取り式で、夏場には必ず蛆虫がわいたものである。その蛆を殺すためにタケニグサを便壷に入れると、蛆が死んで発生を抑制すことができると言い伝えられていた。そんなことからタケニグサのことを、伊那谷では「ウジコロシ」と呼んでいたのを思い出す。種子は風に乗って遠くまで飛散するので、住宅街の中での栽培はあまり歓迎しないのだが。
2013年05月31日

2008年の「住宅土地統計調査」によれば、我が国の空家数は実に757万戸で13.1%に上ると言う。この調査で空家・空室とされるものには売却予定、賃貸住宅、別荘、長期不使用住宅その他が含まれる。所有者の転居、死亡、建て替え予定の住宅などがその他にカウントされている。特にその他に分類される空家で、長期にわたって放置されている場合は居住者が死亡したりして家財道具もそのまま残されているようなケースも多くあって風景・景観の悪化、防災・防犯機能の低下、ゴミ不法投棄の誘発、火災発生や鼠族昆虫発生の恐れ、雑草の繁茂など外部不経済の問題が起きている。 原野と化した無人住宅昭和30年代後半から経済が豊かになったこともあって、都市の居住者が狭隘、車の騒音や排気ガスの問題から脱出して、環境の良い土地で広い住宅に住むことを望んだため、一戸建て住宅を求めて近郊都市への人口流出が起きた。郊外に住宅を取得し移転したのは、子供がいる生産年齢人口が多かった。高度経済成長期からバブル景気の時代には、この傾向が一層顕著になった。特に東京、大阪、名古屋の三大都市圏においては、隣接県への急激な人口流出によるドーナツ現象がおこった。現在では逆転現象が起きていて、郊外移住した大分部の団塊世代の子が成人して「世帯分離」と独立することで、住宅開発が早かった住宅地や都心から遠い郊外外縁部などを中心に、人口減少と急激な高齢化がおこっている。我が家の周辺は昭和30年代初めに大手私鉄が開発分譲した住宅地で、幸い私鉄の駅から1キロほどの至便の場所で、若干高地形なので大雨でも溢水の心配が無く居住環境としてはこの上なく良好な土地である。分譲後最初に家を建築した5軒ほどの人たちは暫らく電気が来ていなくて、竹竿を立てて共同で家庭用の電線で電気を引いていたと言う。現在では、ライフラインの整備は都心と同じで公共下水から都市ガスまで敷設され完備されている。この地域の土地が分譲されてから50年を経過した現在、我が家より先に居住した人で、現在も居住している家は1軒しか無くなった。住宅密集地の中に、ススキと植木が伸び放題となって原野と化した長期空き家が目につく一方、便利な土地故に死亡や高齢化で家を手放すと間髪をいれず、新たな建築が始まる。したがって我が家の周辺では一年中途切れることなく、家が壊され土地が細分化されて新たな複数の家が建築されている。我が家の裏側の家でも主人が亡くなって、家を手放した老齢の奥さんは駅前の新築マンションに遷った。引越しの翌日から大型重機が3台も入って我慢の限界を越えるほどの連日の騒音と振動を上げながら、手入れされた庭木の全てが抜き去られ3週間ですっかり更地になってしまった。 建築がはじまった隣地この土地にはこれから12月までかけて、新たに8戸の家を建て分譲するという。緑の多い良好な住宅地が、細分化されてスラム化しなければ良いがと心配される。4メートル道路を隔てた居間の前の建築騒音で窓を開けらなかったらと想像して、今年の暑い夏をどのようにして乗り切るか思いやられるこの頃である。
2013年05月30日

多くの海産無脊椎動物の卵は、卵細胞の形で放出され、受精膜のみにつつまれて発生が進む。爬虫類や昆虫など、陸上に産卵される卵は表面に膜を持つことで水分の蒸発を防いでいる。爬虫類では胚膜を形成し、これが陸上での胚の発生を支える。鳥類やカタツムリの卵では卵殻をもち、内部を保護している。多くの哺乳類の受精卵は、母胎内に留まり成長する胎生であるが、カモノハシやハリモグラは、鳥類のような殻をもった卵を産む「卵生」の哺乳類である。卵の大きさは、ウニ卵の直径約100ミクロンという微細なものから、長径11センチもあるダチョウの卵など様々な大きさの卵が存在する。※1ミクロン= 1/1000ミリメートル通常一般的には食用卵と言えば、ニワトリの卵のことを言う。調理後は「玉子」とし、生の場合を「卵」と呼んでいる。卵がいつごろから食べられたかということは、文献を調べてもさだかではない。ニワトリの飼育が始まっても日本では、信仰的な理由から卵はあまり食べられていなかったようである。安土桃山時代になって南蛮菓子の渡来により、その材料として卵が使われるようになっていった。さらに日本においてもカステラやボーロなどが作られるようになり、これに伴い鶏卵も多く使われるようになった。江戸時代に入ると、大奥の朝食の一の膳には蒸飯、落したまごのみそ汁、その他が、二の膳には玉子焼きに干海苔を巻いたお外の物、その他が出されたと記されている。また天明年間(1781~89)になると、卵の入った海苔巻きや玉子焼きも作られるようになった。しかし卵が本格的に普及したのは、明治以降である。鶏卵も自然なものであるので、正常卵ばかりでなく二黄卵、ひび卵、破卵、汚卵、血卵(血液が付着している卵)、腐敗卵等の不良卵が存在し、またこうした卵が市場に出荷されないように検査を行いそれらを排除している。店頭に並ぶ卵は、GP(Grounding&Packing)センターで、分光分析技術を用いた高性能、完全自動化で毎時4万卵の高速検卵を行った後、洗浄・殺菌・計量・包装されてから市場に流通する。※食品衛生法(平成10年11月改正)で、血斑卵と肉斑卵は食用不適卵とされた。二黄卵のように卵黄が2つ以上あるものを「複黄卵」という。複黄卵は、産卵開始初期の若い鶏の産卵に見られるものであり、雛から自家飼育しているとしばしば経験する。産卵リズムが安定していないことが原因となって発生するもので異常卵の1種として扱われるが、卵黄が複数あるだけで衛生上は全く問題がない。通常はGP(格付けとパッキング)センターの「透過検査」によりチェックされて、外されるので流通することは少ないのだが昨日はたまたま二黄卵があった。二黄卵を見て幸運と思う人と気味悪く思う人がいるが、これで作った玉子焼きは文字通りの目玉焼きであった。
2013年05月29日

山ビルは乾燥には弱いが10℃以上あれば活動が可能で、冬以外は活動する。比較的暖かな房総半島では4月から11月に活動が見られ、梅雨や秋雨の頃が活発とされている。房総半島では1975年頃には清澄山を中心だったものが、2005年にはその棲息域が30倍の面積に拡大しているという。北は秋田県から、南は沖縄県まで分布していて、秋田県、群馬県、千葉県、神奈川県、静岡県、三重県、滋賀県、京都府、兵庫県、宮崎県、鹿児島県などで多く報告されている。毎年テレビで取り上げられるが神奈川県内の主なヤマビル生息地は、丹沢北部の相模原市、東部の愛川町、清川村、厚木市、表丹沢の伊勢原市、秦野市で、西部の松田町と山北町の一部地域からも見つかっている。山荘のある山梨県内では、韮崎市、北杜市、早川町、身延町、南部町で確認されている。日本三大桜の神代桜がある地域で、別荘用地の笹藪整理で10数匹に取りつかれ3匹に吸血されたとの報告がある。 韮崎市の看板山ビルの棲息地拡大はシカの生息域拡大と関連性があるとされ、シカ蹄にヒルが寄生し山里で落ちるためと考えられており、シカがヒルの運搬役をしていると言われている。一回の吸血量は成体で3ミリリットルほどであるが、ヒルが剥がれた後も出血するので失血量はそれより多くなる。ヒルの唾液には麻酔成分が含まれているので、痛みや痒みを感じない。咬まれた痕は丸い小さな傷口になり、血液凝固を阻害するヒルディンによりしばらくは出血が止まらないで2時間程度は、出血が続く。傷の治りの遅い人では、年を越えることもあるとされる。皮膚から剥がす方法としてはアルコールや火を近づけたり、塩や酢をかけることで剥がすことができる。吸血予防のために、濃い食塩水に浸した布を足首に巻くという予防法が推奨されている。ヤマビルによって媒介される寄生虫や病原体は知られていないが、ヤマビルからはいろいろな細菌が見つかっており、吸血被害を受けた人が高齢であった場合や十分な免疫力を持っていない場合には、何らかの感染症をおこす恐れもあるといい傷口の消毒が必要である。水の中に棲むヒルを「チスイビル」と言うが、こちらは陸に上がることは無い。田植えで水田に入って吸い付かれた経験がある。少し違和感を覚えて足を見ると、黒々とした2センチほどのヒルが吸血して丸く膨らんでぶら下がっているのだ。無理に剥がすと、傷口から血が帯状に流れて中々止血しない。止血の方法は、藁稭(ワラシベ)の節の部分を患部に押し当ててきつく結わえておくと良いと父に教えられた。現にその方法で止血出来たわけだが、藁稭の何がどう効いたのか解明出来ていない。芥川龍之介の「雛」に書かれているように我が国では古来、ヒルで瀉血したり鬱血した悪い血を吸わせる治療に使われてきた。白熱電球の首の部分からカットしたような丸いガラスの器に、水とチスイビルを入れ、肩に吸いつかせ肩こり治療をしていた場面を見たことがある。昭和37年頃には、渋谷や上野のガード下の漢方薬店では生きたマムシ、ムカデなどと一緒にヒルが売られていた。チスイビルは、水から出てくるようなことは無い。しかし山荘の辺りは現在、鹿や猪の運動場と化しているのでやがて山ビルが持ちこまれることになるのではと大いに危惧している。
2013年05月28日

女性が髷を結っていた頃の必需品に「笄・櫛・簪」があった。このうち、櫛はブラシと呼ばれるプラスチック製のものに置き換わり、髷を結わなくなった今ではどれもほとんど目にすることがなくなってしまった。このうち「笄」とは、「かみかき(髪掻)」の音便変化したもので、髷の髪をかき上げるのに使った箸に似た細長い箆(へら)状の道具で、現在でも結婚式の際には日本髷の横に挿して飾りとしている。 櫛と笄高価なものは金・銀・水晶・瑪瑙・鼈甲・象牙・鶴の脛骨などで作られる。昔は男女ともに用い、男では刀の鞘の差表に挿しておいて髪を撫でつけるのに用いた。また頭が痒い時に髪型を崩さずに掻く道具として用い、女性の身だしなみには欠かせない装身具として使われた。棒形かまたは頭部がイチョウの葉形をしたものが多く、そこから長細い二本の足が出た形をしているのが一般的な形である。形状が良く似ているため簪と混同されることも多いが、ルーツはまったく別系統で発展してきたものである。江戸時代に編纂された辞典には、「先が耳かきのものを簪、そうでないのは笄」と区別している。笄は本来、髷の根を固定する実用的な道具であったが、江戸後期の複雑な髷になると結髪を八分通り終ってから仕上げに挿すための、「中割れ笄」といって中心で2分できるものが使われるようになり完全な装飾品となった。イチョウ型をした笄の頭に似た、コウガイビル(笄蛭)という名前の動物がいる。しばしば10センチを越える大きさにもなる紐状の陸棲動物である。 北杜市にて名前にヒルとあるがこちらは扁形動物に属し、環形動物のヒルとは全く異なった動物である。コウガイビルの名称は、女性の髪飾りの笄と頭部の形が似ている所から付けられたものである。乾燥にはミミズやナメクジ以上に弱く、湿った石の下や朽ち木の中などに棲息し夜間に湿った場所を徘徊してミミズやナメクジ、カタツムリなどを捕食する。獲物に体全体で巻きついて腹面の口から吻を伸ばし、肉を消化しつつ飲み込む。人間にとって身近な場所に棲んでいて、石を持ち上げるととぐろを巻くような形で潜んでいる個体が出てくることがある。人には何の害も与えないとは分かっていても、元来長いものが好きになれないのに、ヌメヌメとして蠢く10センチを超える笄蛭を見つけるとぞっとしてしまうのだ。
2013年05月27日
5月も20日を過ぎて、漸くハルゼミの合唱を聞いた。蝉は約3,000種もいると言われ、最大のテイオウゼミは13センチもの大きさがある一方、イワサキクサゼミは2センチほどしかない。成虫のオスの腹腔内にはメスを呼ぶための発音器官(発音筋、発音膜、共鳴室、腹弁)が発達している。発音筋は、1秒間に2万回も振動して音を出しているのだという。共鳴室は気管が拡大したもので、腹部のほとんどを占めている。鳴き声の大きなヒグラシやヒメハルゼミでは腹部は中空でほとんど空洞である。セミは蛹の期間が無く、卵→幼虫→成虫という不完全変態をする昆虫として知られている。ほとんどの種類は夏に成虫が現れるが、一部には春や秋に出現する種もある。いつまでも暖かな年では、10月になってもセミの声が聞かれることもある。飼育することは難しく成虫期間は1週間ほどと言われているが、自然界では数週間も生存すると言われる。幼虫で地中生活する期間はアブラゼミでは6年とされ、地中と地上合わせると昆虫類としては寿命が長い。鳴き声や鳴く時間が種類によって異なるので、種類を判別する目安となる。クマゼミは午前中、アブラゼミやツクツクボウシは午後、ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは早朝から夕暮れまでである。セミの多くは夏に現れるが、ハルゼミはその名前のように5月から6月にかけて発生する。本州・四国・九州のマツ林に限局して棲息し、マツ林の外に出ることがほとんどなく市街地にはまず出現しないので一般の人には案外知られていない。鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしているように聞こえる。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ」「ゲーキョ・ゲーキョ」「ムゼー・ムゼー」「ゲー・ゲー」などと聞きなしされる。鳴き声は大きいが、棲息地に入らないと聞くことができない。黒い小型のセミで高木の梢に止まることが多いため、その姿は殆ど目にすることができない。合唱性があり1匹が鳴き始めると、一斉に他のオスも鳴き始める。仲間の声に反応するだけでなく、飛行機や車など他の音でも合唱を始めることがしばしば経験されている。長閑な初夏の陽光を受けながら、ハルゼミののんびりした声を聞くと何故か眠気を催してくるのだ。近年はマツクイムシによるマツ林の減少、さらにマツクイムシ防除の薬剤散布もあって、初夏の風物詩としてのハルゼミの声が、残念ながら各地で減少していると言われる。山小屋周辺では例年5月の連休にハルゼミの声が聞かれていたのに、今年は2週間も遅れて漸くハルゼミの声を聞いた。春先から気温が一定しなかったことも影響しているのだろうが、周辺では松が枯れる傾向が、この3~4年で顕著になってきて周辺一帯の松林の松が点々と赤く立ち枯れを起こしている。マツノザイセンチュウによる被害が、生態系にも影響を与え始めている証拠ではないだろうか。やがては初夏の風物詩であるハルゼミの声が、伝説となってしまうのかも知れない。住みかへよ 人見の松の 蝉の声(向井去来)
2013年05月26日

妹が見し 楝(あふち)の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干なくに (万葉集巻5 山上憶良 798)楝とは、美しい藤紫の花を咲かせて一般に「せんだん」と言われている木のことである。センダンは古くはアフチと呼ばれ、「楝(おうち)」と書かれた。もともと栴檀と呼ばれていたのは、香木の白檀のことである。 センダン日本では楝に「栴檀」の文字が当てられたため、白檀と楝と一体どちらを指しているのかまことに紛らわしい。研究者の中には、混乱を避けるために「楝」という古名を復活させるべきだと主張する人もある。「せんだんは ふたばより かんばし。」という諺がある。ここで言うせんだんは白檀のことで、漢字を当てれば「栴檀は双葉より香し」である。同じ名前で、同じ漢字が使われることもあって、この諺を楝のことを指していると間違えている人が多い。諺の意味は「栴檀(白檀)は芽を出したときに既に香気を放つように、大成する人物は幼いときからその片鱗が見える」と言うことの譬えである。この諺に反して白檀の香りはその芯材に由来しているので、葉や花が香気を放つことはない。したがって、双葉の頃から芳しい香気を放つこともないとされる。この言葉を作った人は、白檀の香木が芳香を放つことから想像して、この木は芽を出したときから香りがするのだろうと考えたものであろうか。京の都に、左獄と右獄がありその門外に植えられた楝の木に、斬首された多くの武将の首が下げられ梟首されたことから「獄門の木」と言われたと言う。樹高は10mを超えるほどにもなって、成長が早い。若い樹皮は紫褐色をしていて、楕円形の小さな横斑が点在する。太くなった幹の樹皮は縦に裂け、凹凸ができる。一枚の葉の長さは50cm以上にもなる。関東では5月に、若枝の葉腋に藤紫の5弁の多数の花を円錐状につけて美しい。 センダンの花果実は2cmほどの楕円形の核果で、11月頃に黄褐色に熟し落葉してからもしばらく果実が残る。遠くから見たら、胡桃に似て見えなくもない。果実には、果肉が少なく核が大きい。果実は有毒でこれを食べると中毒を起こし、摂取量によっては命にかかわることがある。街路樹、庭木、公園樹として利用され、樹皮は生薬の「苦楝皮」とし利用され駆虫の目的で煎液を内服する。材は、建材や器具に加工して利用される。葉には強い殺虫作用があり、かつては便所のウジ殺しなどに利用されていたともいう。果実は生薬の「苦楝子」といってひび、あかぎれ、しもやけに外用し、整腸、鎮痛薬の目的で煎液を内服する。アジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生していて日本では、四国、九州、沖縄に分布する。海岸近くや森林辺縁の、温暖な地域に多く自生する。沖縄北部の今帰仁にある友人の別荘の広大な庭にも、自生の大木が一本残されて花を咲かせていた。花言葉 意見の相違
2013年05月25日

ドクダミは古くは、之布岐(シブキ)と呼ばれていた。古名の由来は滞るという意味の古語のしぶくから、林下の湿った窪地に群生して悪臭が立ち込めることを意味する「どくしぶき」が短縮転訛して「しぶき」になったとする説がある。江戸時代の方言集を集めた物類呼称(1774年)には、「しゅうさい」、「じゅうやく」、「しぶき」は江戸で「どくだみ」、武蔵にて「じごくそば」と云い…とある。毒溜(ドクダメ)由来説は古名のシブキと同様に、林下の湿った窪地に群生して毒気(悪臭)が立ち込める場所を意味していた言葉が、植物を指すようになり「ドクダメ」が転訛して「ドクダミ」となったという。奇しくも信州伊那谷では、「ドクダメ」と呼んでいた記憶がある。独特の強烈な臭気があることから魚腥草(腥の意味は「生臭い」)とも言われ、多くの国で魚に纏わる名前が付いている。住宅周辺や道端などに自生し、特に半日陰地を好む。全草に強い臭気がある。開花期は5~7月頃。茎頂に、4枚の白色花弁に見える部分は苞で棒状の花序に花弁も萼もなく、雌蕊と雄蕊のみからなる淡黄色の小花を密生させる。天婦羅にすると臭気が無くなることから、山菜料理として天ぷらで提供されることがある。何処にでも生えている雑草だが、自分で摘んで来て天婦羅にして食べるのにはその匂いから少々勇気が必要だ。薬にする心算でうっかり庭に移植すると、いつの間にか庭中に広がってしまう。地中深く白く長い根を伸ばしていて、スギナと同じで除去するのに苦労することになるので注意が必要だ。日本ではハーブとして料理に用いられる事は無いが、葉を乾燥させてどくだみ茶として飲用する。ハーブティのように、お湯を注いで飲まれている。どくだみ茶の名称で、商品が販売されてもいる。ドクダミはゲンノショウコ、センブリとともに昔から薬草の代表的なものである。 開花期の地上部を乾燥させたものは生薬名を「十薬(重薬とも。)」と言い、日本薬局方にも収録されている。十薬の煎じ汁には、利尿作用や動脈硬化を予防する作用などがある。乾燥したものには、臭気はほとんど無い。また湿疹、かぶれなどの治療には、生葉をすり潰したものを貼り付けるとよい。漢方では解毒剤として魚腥草桔梗湯、五物解毒散などに処方されている。ドクダミは単品で用いることが多く、漢方薬として他の生薬に配合して用いることは少ない。ドクダミ特有の臭気成分はデカノイル・アセトアルデヒドとラウリル・アルデヒドである。これらには抗菌作用があるが、乾燥によって酸化されることによって抗菌効果は失われる。利尿作用、動脈硬化の予防作用のあるクエルシトリンとカリウム塩が単離されている。全草に利尿、解熱、排膿、解毒の作用があるため、腫れ物、高血圧症、肺壊疽、肺結核、感冒、蓄膿症、痔、便秘などの治療に用いられる。大和本草(1709年 貝原益軒)に「ワガ国ノ馬医コレヲ馬ニ用イルト、十種ノ薬ノ能アリトテ十薬ト号スト云」との記述がある。ドクダミをウマに与えると、10種もの薬に相当する効果があるとされることから十薬の名前が付いたという。また重薬は、重要な薬草であると言う所から付いた名前だと言う。5~6月の花期に根を含めた全草を採取し、一度軒先などで吊るして乾燥してから日に当てて干しその後、半日陰で完全に乾燥させて保存する。膿を持った腫れものには、濡らした新聞紙に生の葉を包んで蒸し焼きにし患部に張りつけておくと、翌日には綺麗に排膿される。花言葉 白い追憶 野生
2013年05月24日

クローバーは、マメ科シャジクソウ属の多年草の総称である。一般的には、シロツメクサを指すことが多い。約300種が、世界に分布している。シャジクソウ(車軸草)属の分布は北半球に多いが、南アメリカやアフリカにも分布している。茎は地を這うように長くのび、葉は三小葉。希に四、五および七小葉のものがある。花期は、5月から9月。高さ5から20cmほどの花柄の先に、長さ1cmほどの小さな蝶形の花を密集して咲かせ球状の花序をつくる。 シロツメクサ子供はこの花茎を摘み、何本も束ね長く編んで花の縄を編み花輪を作って遊ぶ。花の色は白、黄、ピンク、紅など多彩である。一年草、二年草、または多年草である。属名はラテン語の「tres」(三)と「folium」(葉)に由来し、三つの小葉を持つことからきている。カタバミも3葉で花の無い時期には良くクローバーと混同されることがあるが、比べて見ると全く異なることが分かる。 カタバミ和名の「ツメクサ」の由来は、江戸時代オランダから輸入されたガラス器の梱包に本草が詰め物として使われていたことから「詰草」と呼ばれるようになった。一般にツメクサと呼ばれるものには、白と赤の種類が有る。シロツメクサは、ホワイトクローバーをアカツメクサはレッドクローバー(ムラサキツメクサ)を指して言う。ムロサキツメクサはシロツメクサと共に、牧草として我が国に明治以降移入されたとされる。牧草としての他に、ハーブや薬草としても多用されている。本種に含まれるイソフラボン(体内で女性ホルモンのエストロゲン作用を表す)は、女性の更年期症状を抑えるのに使用されてきた。しかしクローバーを多食した羊が、不妊化したといった報告が古くからあるので妊婦や授乳中の女性には有害とされる。花穂は強壮剤、痛風の体質改善薬などとして用いられていた。その他解熱・鎮痛効果もあると言われている。また、咳止めや口内炎の痛み止めとして有効で気管支炎、湿疹、外傷、るいれき(頸部リンパ節結核)に対する治療効果があり、うがい薬としても使用できるとされる。種・属も姿・形もまったく異なる草本に、同じツメクサと呼ばれるものがある。こちらはナデシコ科のツメクサ属の一年生植物で目立たない雑草である。漢字で表せば、「爪草」となる。 ツメクサ 道路端に、ごく普通に見られる雑草である。アスファルトの接ぎ目などには、1cmに満たない姿で見られる。全体に緑色、艶があるが茎の上部には短粘毛を生じる。茎は下部でよく分枝し、その先の茎は這う。葉は線形、先端はとがってその先はさらに針状に突き出す。4から7月にかけて、極く小さな目立たない白い花を咲かせる。果実は球形で、熟すと先端が5裂して種子が出る。名称はその様子が鷹の爪に似ている所からとするものと、葉の形が切った爪に似ているところから付いたとする説とがある。クローバーは重要な蜜源植物であり、この蜂蜜は世界で最も生産量が多い。葉は茹でて食べることもできる。クローバーの属名が示すように基本は小葉3枚であるが、中には4枚以上の小葉を付けることもある。特に4枚葉のクローバーを4つ葉のクローバーと言い、見つけると幸運が訪れると言い習わされていて、「幸運の4つ葉のクローバー」と言われる。花言葉 シロツメクサ 約束・私を思って アカツメクサ 勤勉・実直
2013年05月23日

義父から、50年近く前に挿し木で貰ったクジャクサボテンが今年も咲いた。サボテン(仙人掌、覇王樹)はサボテン科植物の総称である。サボテンには多く種類があって、美しい花を咲かせる物が多い。なかでもクジャクサボテンは、色鮮やかな大輪の花を咲かせ見事である。孔雀が尾羽を広げた様子に似ている所から、この名前が付けられた。非常に育てやすく、特段注意しなければならないような病気は無い。害虫はナメクジの食害や、カイガラムシに気を付ける位で良い。苗は5~6月に、大きく育った株の植え替えは秋に行う。置き場所は冬期気温が5℃以上ある場所、夏は風通しの良い涼しい場所が良い。草丈を伸ばし過ぎると花着きが悪くなるので、茎の先端を摘み取る。クジャクサボテンの原種はメキシコからブラジルなどの熱帯雨林が自生地で、樹木や岩に着生している。約20種が発見されていて「森林性サボテン」とも呼ばれている。平たい肉厚の葉を、地際から出す。非常に多くの園芸品種があり赤、ピンク、オレンジ、黄色、白など花色が豊である。花は大きく、花びらが牡丹のように八重となって豪華である。茎は長く伸びるが横に枝や葉を伸ばさないので、比較的場所をとらない。葉は放置しておとくと、長く伸びて倒れやすくなる上に花が咲きにくくなるので、1mくらいに伸びたら葉の先を切ってそれ以上伸びないようにする。葉の上の方から伸びた新芽は、大きくなったもの2~3芽を残して小さなものは根元から摘み取る。この作業で葉の成長を抑え花が着きやすくなる。5~9月に葉の延び具合を見ながら随時行う。森林に自生する植物なので、夏の強い日射しは生育に適さない。生育期の5~9月は屋外の風通しの良い半日陰の場所に置くようにする。寒さに強くないとされるが、5℃以上あれば越冬出来る。5℃以下になると休眠するので、絶対に水やりはしないようにする。他のサボテン類と同じで年間を通じて、水をやりすぎると根が腐ってしまうので乾き気味に管理する。良く似た花を咲かせるものに「月下美人」があるが、こちらは花色が白だけである。クジャクサボテンには、棘座(葉茎の凹んだ部分)に小さな棘があるが月下美人には棘は無い。また比較的肉厚な葉をしているのは孔雀サボテンで、月下美人の葉は薄く固く濃い緑色をしていることから判別ができる。どちらも夕方から開き始めるが、月下美人は翌朝の午前中までには凋むのに対して、孔雀サボテンは丸一日以上持つ場合もある。孔雀サボテンのほとんどが4月下旬~6月上旬に対して、月下美人は6~7月と9~10月の2回咲きである。月下美人には芳香があるが、赤色の孔雀サボテンの香りは芳香とは言えない。白や黄色のものには芳香種が多いので、香りの有無だけで判別すると月下美人と間違えやすい。花言葉は… 儚い美・儚い恋・幸福者・温かい心
2013年05月22日

蕗のことを古くは「ふふき」とよんで、漢字では「布々岐」とも書いた。フキの茎は中空となっていて息を吹き込むことができ、折ると蓮根と同じような糸が出てくる。その様子から「フフキ」と名付けられたとも言われ、平安時代にすでに栽培されていたという。平安時代各地で唄われた風俗歌に、外来楽器の伴奏を加えた歌謡で遊宴や祝宴で歌われたものを催馬楽(さいばら)というが、「近江路の篠の小ふふきはや曳かず」とある。このフフキがフキに転訛したとするのが、現在のところ常識的な解釈とされている。ところが一方では、昔の沖縄地方で用便の後に使用したと言う「ゆうな(オオハマボウ)」の葉と同じ使われ方をしたので「拭き」がフキになったと言うのだが、ゆうなの葉と異なりこちらは葉の表面がざらついていていかにも使い心地は悪そうである。フキは2月終わり頃に頭を出す蕗の薹と、5月頃に延びたフキの茎の2回味わうことができる。我が家でもそうだが、なぜか茗荷と一緒に植えられていることが多い。狭い土地の有効利用で蕗の薹、フキ、ミョウガタケ、ミョウガと季節毎に年4回異なった食材が収穫出来る。今は正に、フキが旬の季節である。あの独特のほろ苦さが、なぜか酒の肴にぴったりである。今年も4回目の収穫をして、「キャラブキ」もどきと「煮びたし」を作って大人の味を楽しんでいる。作り方はいたって簡単である。キャラブキを作るには、先ず丁寧に皮を剥かなくてはならない。皮を生のままで剥くと、剥きにくい上にアクが手に沁み付くので、アク抜きと皮を剥きやすくするため軽く茹でる。一握り程の山フキをまな板の上に乗せて、塩を振ってから板摺りをした後、鍋に入る長さに切り揃え沸騰した湯の中に入れる。フキを入れてから、湯が再度沸騰したら笊に揚げる。気になる人は20分程流水に浸ければ苦味は消えるが、多少の苦味を残した方がフキの美味しさが味わえる。皮を剥いて3センチほどの長さに切り揃えたフキを、味醂と日本酒100mlに対して醤油60mlの調味料に、材料がヒタヒタになるようにかつおぶしの出し汁を加え最初強火で、沸騰したら落とし蓋をしてさらに中火で煮汁が無くなるまで煮詰めれば完成である。煮汁が無くなる前に味加減を見て、不足していたら調味料を加える。これを瓶に詰めて冷蔵庫で保存すれば、2週間は保存可能である。沢山作った際は瓶に詰めて冷凍すれば半年は保存が効くが、冷凍ではどうしても味が落ちるのは否めない。茎が太くて中空になった栽培のミズフキより、下拵えに手間がかかるが細くて茎に穴の無い山フキの方が味が濃くて好きである。蕗の葉を 傘にさしたる 蛙哉 子規
2013年05月21日

本来は人に似せて作られたものが人形(にんぎょう、ひとがた)だが、広い意味ではヒト以外の動物や架空の河童や鬼などの生物の姿に似せて作られた物も「にんぎょう」と言う。人形は先史時代から作られるようになり、それ以来いつの時代においても作られ人間の文化活動になくてはならないものになったと言える。人形の現代における主な用途は祭礼や伝統行事、人形劇等の他玩具、土産物、芸術作品など幅広い分野で使われている。古来人形は、幼児の遊びのための道具として与えられ使われてきたものであり、日本各地に存在する「郷土人形」は、幼児の玩具として大切にされてきた。主に木や土の素材に胡粉などで着彩をした人形が多いが、工芸品として精巧に作られた物もあり、戦後からは美術品として扱われている郷土人形もある。江戸時代に普及した女児向けの人形に「姉様人形」がある。和紙と千代紙で造られた素朴で優雅な人形である。裕福な武家や商家の子女の、遊び道具に用いられた。人形を使った代表的な遊びは「ままごとあそび」で、戦後になって人形の衣服を交換して遊ぶ「着せ替え人形」が全国に広まった。人形には日本人形と西洋人形といわれるものがある。日本人形とは和服を着日本髪を結った、日本の伝統的な風俗を模した人形の総称である。普通一般的に日本人形という場合、「市松人形」や「衣裳人形」のことを指して言う場合が多い。これらには一般家庭で置物として飾られる工芸品の他、美術的価値の高い品もある。衣裳人形は、江戸時代に武家の子女が嫁ぐ際に、婚礼道具として持参する習わしがあり、人形にその災厄を身代りさせるという大切な役割もあった。様々な衣裳で製作され、その姿から「舞妓」「藤娘」「町娘」「武家娘」「姫君」など身分や職業が分けられる。厄除けの身代りであることから、なるべく身分が高く姿の美しい人形が、婚礼道具として用いられた。人形を婚礼道具とした時代は、1980年代半ばまで多くみられた。 衣装人形 高60cm博多人形は土で作られ、焼成された人形である。博多人形の誕生は1800年代であり約200年の歴史がある。数万円程度までの人形には化学塗料が、数十万円以上の人形では伝統の胡粉彩色が行われている。 博多人形 高30cmフリルやリボンなどの装飾を多く用いたローブ・デコルテを着けたものを、生産国に関係なくフランス人形と言っている。 フランス人形 高45cm実際には欧米で作られたものは、その顔立ちなどが日本人の好みに合わないので、日本でフランス人形として流通しているものはあどけなさを加えて日本人の好みに合わせたものが多く、そのほとんどは日本製であった。これらは幼児の玩具として用いられるのではなく、多くは部屋の調度品として飾られるものである。人形の始まりは、藁人形に見られるように他人に呪いをかけるための呪詛の道具、または流し雛のように身代わりとなって厄いや災難を代わりに受けて貰うための対象物として使われたものである。遺跡から出土する人形には、祭祀用途の土偶や木製人形(ひとがた)、副葬品としての埴輪等がある。中央区日本橋の人形町は、周辺で人形芝居が行われていたことの他、人形を作る人も多く住んでいたので付いた地名で鴻巣市人形は、ひな人形製造業者が軒を連ねていたことに因む名前と言う。ウラン鉱を採掘していたことで有名な、岡山県と鳥取県の県境に位置する峠を人形峠というが、峠で旅人を襲う化け物(大蜘蛛とも蜂とも伝わる。)退治の際に、囮として人形を使ったと言う伝説に由来して付いた名前とされる。大正12年に野口雨情が作詞した童謡に、「青い眼の人形」があり「アメリカ生まれ」とあるが、この歌は日本生まれのキューピー人形からヒントを得て作詞されたものであることは有名である。この歌が作られた5年後、実際に米国から日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られたが、セルロイド製ではなく多くがビスクドール(素焼き)であった。
2013年05月20日

南アルプス甲斐駒ケ岳の雪の星形が消えて、麓の里にも漸く農作業の季節がやってきた。水田に水が張られて、田植えの準備が進んでいる。今年もまた、蛙の声が夜の闇に響き渡るようになった。 残雪の逆さ甲斐駒 水田に映る鳳凰三山難しく定義すれば米は、稲の種子である籾から外皮を取り去った粒状の穀物を指して言う。穀物の一種として米穀とも呼ばれる。東南アジア以外では一般的に主食という概念が希薄であり、日本語における「米」と「稲」という区別が無い。そのため、英語圏ではどちらもriceという同一の単語で扱われている。語源は、「…を籠める。」の連用形が名詞に変化したものであろうとする説が有力となっている。古語は「ヨネ」と呼ばれ、儀式の場で「コメ」が多く使用されるようになっていった。米には、「神聖なもの、生命力」が籠められているとすることを意味し「コメ」となったものであろうと言う。稲作の起源は長江中・下流域がと見なされるようになっている。コメには短粒種の円粒で、加熱時に粘りが大きい種類で日本で生産されるほぼ全量を占めるジャポニカ種がある。主な調理法は、炊くか蒸して用いる。他種に比べ格段の耐寒冷特性がある。他の代表種に、長粒米のインディカ種がある。粒形は長粒で加熱時の粘りは小さい。世界的にはジャポニカ種よりもインディカ種の生産量が多い。煮るのが主な調理法である。ジャポニカの祖先は、現在東南アジアに見られる多年生のイネ科植物であり、インディカはジャポニカ種と様々な一年生野生種の混血であるとさる。ジャポニカは本来多年生であり、初期の栽培は種籾からではなく株分けによって行われたと推定している。イネ、トウモロコシ、コムギが世界三大作物と呼ばれる。米作には陸稲と水稲があるが、水稲の方がコストがかかる半面、面積当たりの収量が多く連作障害が殆ど無いなどのメリットがあるうえ、水田整備がいきわたったこともあって日本の稲作はほとんどが水稲である。米にはデンプン分子が直鎖のアミロース約20%と分枝鎖のアミロペクチン約80%の粘性が少なく米飯に用いられる粳米と、デンプンにアミロースを含まず、アミロペクチンだけが含まれ調理時に強い粘性を生じるので餅やおこわに用いられる糯米とに分類できる。糯粳性のある植物にはイネのほかトウモロコシ、オオムギ、アワ、キビ、モロコシが知られている。稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めていたことが炭化して出土する籾や米、土器に残る痕跡などからわかっている。大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が出土している。米は食料として重要であり、比較的長期に保存ができるという特徴から、日本においては長い間租税あるいは年貢としてまた、石高(ろくだか)制に見られるように、家の勢力を示す指標としても使われた。米を作るには八十八回もの多くの手間がかかることから、米という漢字が作られたとも言われているが、実際にはもっと多くの手間がかかっていたと思われる。しかし、現在では機械化と栽培技術が進んだため、かかる手間は半分以下に減ったと言われるが、それでも稲作には大変な労力がかかる。 広い田圃がたった半日で稲田に 日本人の出生時平均余命が50歳を越えたのは1947年で、江戸初期の平均寿命は30歳くらいと推測されている。現在でも、90歳は長寿の部類に入る。江戸より前の時代に、米寿を迎えることが出来たのはほんのわずかな人であったに違いない。88歳の長寿のお祝いを、米寿または米(よね)の祝いという。米の文字を分解すると「八十八」になり「米」に通ずることから、江戸時代以降、親類・縁故者を招いて長寿を祝い、併せて家門の繁栄を喜び合う宴席を催す習俗が行われるようになったものである。米寿の祝いは還暦(60歳)、古稀(70歳)、喜寿(きじゆ)(77歳)に次ぐ「最終の長寿の祝い」として久しく行われてきた。ヒトの寿命が延びるにつれて、卒寿(そつじゆ)(90歳)、白寿(はくじゅ)(99歳)の賀寿の祝いが追加され近年はこれらも定着の傾向がみられる。米の需要が減少し米作りに懸ける手数も減って、時代と共に「米」の文字の語源由来に驚く時代がやっくるかも知れない。そうすると、米寿の意味も理解出来なくなってしまうのだろうか。けふはとて 娵(よめ)も出(いで)たつ 田植哉 与謝蕪村
2013年05月19日

黄金色の花を咲かせることから漢字では、「金雀児」や「金雀枝」と書いてエニシダと読ませる。金糸雀と書けば鳥のカナリアであり、こちらも羽根の色が綺麗なことから当てられた漢字である。世界の温暖な地方に30種程が分布している。落葉または常緑の低木で、樹高は2から4mくらいに育ち良く分枝し、葉は非常に細いものが多い。花は良く分枝した枝の葉腋に咲く場合と、総状花序を作り一つの花は小さいが非常に多数の花が集まって開花するものとがある。基本色は黄花だが白花もあり、交配種には赤・牡丹色・ピンク・オレンジ色、それらと黄色の複色花になるものまで多様である。果実の若い内はサヤエンドウに似ているが、熟すと黒くなり捻じれて弾け中の種子を15メートルも飛ばすと言う。挿し木の活着率は低いが、種子が良く発芽し3年目には開花する。花や茎には興奮性アルカロイドのスパルチンが含まれている。イギリスではかつて蕾や鞘を塩漬けにして食べたり、若芽をホップの代用にしたという。この木のアルカロイドは、劇薬の子宮収縮剤「硫酸スパルテン」の製造原料になり、不整脈や子宮収縮不全、子宮出血などに用いられる。 伊藤伊兵衛が著した「地錦抄附録」(1733)によると、日本には江戸時代の延宝年間(1673~81年)に渡来したとの記載がある。記録されているのは「増補地錦抄」が最初で、エニスタの名が見える。これが、後にエニシダとなったものだが、語源はラテン語のゲニスタgenistaで、オランダ読みのヘニスタから由来したという。中世ヨーロッパでは、伝説の魔女が箒に跨って空を飛ぶが、日本では竹の葉を落とした枝の箒を使うようにヨーロッパではエニシダが実用的な箒として使われていた。瀬戸内海に浮かぶ島にある古鷹山は、昭和53年に大山林火災で消失した。その山火事跡の緑化のために、エニシダの種子をヘリコプターで空中散布したことが報じられていた。開花時には山火事の跡が一面に黄色になり、異様な景観であったという。外来生物に対して厳しい、ニュージーランドで同じような景観を目にした。クイーンズタウンは、ニュージーランド南島のオタゴ地方の内陸、ワカティプ湖畔に面した町である。周囲の山々に囲まれたその美しさが「ヴィクトリア女王にふさわしい」と名づけられたことに由来する。世界的に有名な、観光・保養地である。クイーンズタウンから車で4時間半ほどの距離にあるので、ミルフォード・サウンド訪問の玄関口となっている。訪問したのは12月の上旬で現地の夏の季節であったが、宿泊したコテージから見える全ての山が黄色一色に染まっていた。古鷹山もこんなであったのかな、と思わせる景色であった。 ワカティプ湖から見たエニシダこれではマヌカの樹を駆逐してしまい、特産のマヌカハニーも手に入らなくなる日が来るのかも知れないと要らぬ心配までしたものだ。現在、外来動物のオポッサムや植物のルビナスは目の敵にして駆除に躍起となっているのに、エニシダのことはあまり聞かないのも不思議な感じだ。花言葉 清潔 謙遜 清楚 上品
2013年05月15日

葉の基の部分に形成された芽を腋芽という。しかし腋芽はすべてが生長して、枝として成長するわけではない。腋芽が生長せずに痕跡のようになって残っていて、長期間にわたって潜伏し機会があれば生長できる能力を保持している芽を「陰芽」または潜芽、潜伏芽という。陰芽があることによって、伐採や剪除の人為的要因、あるいは自然災害によって枝や幹が折れた場合でも、萌芽して再生する能力となっている。萌芽力のある木は、樹皮中に潜在芽を長期間持っている。頂芽や他の側芽が剪除されたり障害を受けると、形成されてから数十年たっても陰芽が生長してくることがある。樹木を胴切りしても、切断面の下から芽を吹いて来るのは、そこに潜在している陰芽があるからである。気をつけないとならないのは、萌芽した枝は真正の枝ではないため基部が毛根のようになっており3年くらいは樹皮からはがれやすい。このため、強風や枝に触れることで剥がれ落ちてしまうことである。一般に広葉樹の萌芽性は高く中でも低木性の樹木は萌芽力が旺盛で、針葉樹は乏しい。また同じ樹種でも、古くなると萌芽性が弱くなるのが一般的である。コナラ、クヌギ、カシワなどのドングリを着ける木は萌芽力が高い。ケヤキ、ヤマボウシ、ナラやクヌギでは高い位置で伐採しても萌芽力が強いので、数年で新たな幹や枝を形成する。果樹類では、陰芽の発生が多い樹種はウメ、モモ、ナシ、カキ、クリなどで、中程度の木は桜桃、西洋ナシ、リンゴ、キウイなど。桃やブドウでは極めて少ないので、剪定に注意を要する。陰芽発生の少ない木では太枝を切ることはしないで、若木のうちから整枝に注意して樹形を作る。陰芽の発生が容易な樹種では、縮伐や低樹化が可能なので作業し易いように大胆に剪定することが可能である。我が家の庭に40年も前に植えた富有柿は、アメリカシロヒトリの駆除以外何の手入れもしないで放任のままであったので、完全に隔年結果であった。素晴らしく甘くてうまい柿なのだが、ヘタ虫被害により青いうちに熟して落下することが多くなった。落下しないで、樹上で完全に成熟した果実の基部に、小指の先ほどのゼリー状の塊ができるようになってこの部分は極めて食感が悪い。いろいろ調べて見ても、放線菌の感染とかウイルスが原因とか言われるがハッキリしたことが分からない。昨年の暮れ、思い切って直径15センチほどの枝6本全てを切断して丸坊主にしてしまった。幹もガサガサに罅割れていたので、高圧洗浄機で水を噴射してひと皮剥いてしまった。これでヘタ虫などの越冬は無くなったものと思っている。家内はその姿を見て、枯れてしまうのではないかと心配していたのだが、5月にはいって切断箇所の下の部位から急激に新芽を吹き出してきた。今年は、結果を望むべくもないが来年は再び甘い実をならせてくれることを今から期待している。里古りて 柿の木持たぬ 家もなし 芭蕉
2013年05月15日

国内多くの里山で、野獣による農作物の被害が発生している。鹿被害の多くは、保護によって全体の生息個体数が増加したことが原因となっている。農作物に与える被害も多いが、冬季に植林した幼樹の芽や成木の皮を剥いで食すことによる樹木の枯死も大きな問題となっている。また、樹木の枯死が引き金となって、樹林地の保水能力が衰退して、山の荒廃や地滑りの誘因ともなる。猿も猪も、農作物を食べるようになって個体の栄養状態が改善されると繁殖が旺盛となる。その結果、巨大化した群が農作物を荒らし被害が増加する。猪や鹿の個体数の増加と作物被害については、猟師の高齢化と狩猟を行う人自体も減少し天敵が居なくなったうえ、従事者の高齢化や被害を受けて作物を作付する意欲が無くなり放置された農地が荒廃することで緩衝帯が無くなり、人里へ野生動物が侵入し易くなったことも大きな要因である。ハクビシンは、出産個体数の多いこともあってその勢力を拡大していて、果物やスイカ・メロン・トマト・トウモロコシなど漿果などへの被害が著しい。様々な獣害予防対策が採られているが、どの方法も一長一短の消極的な方法でしか無く、抜本的に防除可能な方法は見つかっていないのが現状である。近年使用されるようになった野獣の天敵とされる白オオカミの尿と称されるものが、「ウルフピー」の商品名で販売されている。一昨年購入して試したが猪・鹿には効果が認められるものの、ハクビシンにはほとんど効果が無かった。プラスチック容器に入った茶色の液体340mlが、9千円と高額でしかも半年程度で蒸発してしまうので、趣味で栽培する70坪程度の家庭菜園では採算に合わない。海のヒトデを加工した商品、「ヒトデナシ」なるものが販売されているが、宣伝文句通りの効果があるのか実証していない。最も手頃で利用されるものに、防獣網がある。よほど強い網で上、横、土中まで固定してないと、トンネルを掘ったり飛び越えたり、網を破られたりして猿やハクビシン、猪には全く効果が無い。初期費用がかかるが近頃、稲田への鹿とイノシシ侵入防止対策に設置する農家が増えているのものに、昔から牧場からの家畜逸走防止や野生動物の畑へ侵入防止目的で使われていた電気柵がある。柵は木製から、金属製のものまで様々である。いずれも裸電線や針金に、専用の電源装置によって制御された弱い電流を流して、触れた動物にショックを与える仕組みになっている。野生動物は、餌を盗るために集団で柵を攻撃して破損させる、柵の下に通路を掘る、柵をジャンプするなどの行動をとることがあるので様々に工夫して設置する必要がある。日本では電気設備の一種として、電気事業法関連の法令等により規制されていて、「田畑、牧場、その他これに類する場所において、野獣の侵入又は家畜の脱出を防止するために施設する場合であって、絶縁性がないことを考慮し、感電又は火災のおそれがないように施設するとき。」以外には設置することが出来ない。電気柵には、1万~1万7千ボルト程度の高圧の電流が1秒ほどの間隔で流れる仕組みになっている。実際に人が触れた時のショックは、静電気の放電程度である。このことによって、電線や通電ネットに触れた獣類に電気ショックを与えて、撃退する柵である。我が家の菜園には、4年前から複数のハクビシンが襲来するようになって、被害に遭わなければ700個程もの収穫が期待できるトマトが根こそぎ被害に遭ってしまう。また、猪は植えたばかりの種イモを全て掘り返して食べてしまう。そのため、今年は電気柵を設置した。トマトは未だ苗を植えたばかりだがジャガイモは晩霜にもめげずに芽を伸ばし始めた。電気柵の効果か今のところ、猪の侵入被害は無い。猿に対しての防除策は無くお手上げで、敗北を認めて食害される作物を作らないことにした。今年は多少でも、トマトが収穫出来るのではと期待しているのだが。
2013年05月14日

植物を建物の窓の外に這わせたものを、グリーンカーテンと呼んでいる。目に涼しげに見えるだけではなく、植物が間近にあることで室内に居ながら森の中のような雰囲気を味わうことができ、また室温を下げる効果がある。原発の運転休止に伴う電力供給量の不足や電気料金の値上げもあって、国や自治体を挙げてグリーンカーテンの効用を宣伝したことも動機となり、夏を乗り切るためには欠かせないアイテムとなりつつある。グリーンカーテンの効用は夏の強い直射日光をカットし、同時に外部からの視線も遮って目隠しの役割を果たす。植物の根から吸い上げた水が葉からの蒸散作用によって、気温を下げて清涼感をもたらしてくれる。僅かではあるが、大気中の二酸化炭素の減少にも寄与する。古来わが国では遮光や目隠しのために、簾や朝顔・糸瓜などが用いられてきた。簾では、日光の直射があたり続けると高温になってしまう欠点がある。ヨシズや簾で太陽光の直射を防いだ場合、建物外壁の温度を5℃程度押し下げる効果がある。これをゴーヤーなどの植物を用いた緑のカーテンにした場合は、植物の葉からの蒸散によってさらに5℃以上低く出来ることが実証されている。植物は主に蔓植物が用いられ、家屋の外壁に沿って設置したネットに絡ませて栽培する。ブドウや蔦、沖縄ではブーゲンビリアなども用いられているが、植栽される植物としては多くは一年生の植物が用いられることが多い。定番のアサガオやヘチマ、瓢箪、夕顔などのほか、病害虫に強く食用にもなることなどからゴーヤーが近年急激に普及して多く植えられるようになった。 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず 子規34歳で没した正岡子規は、東京根岸で結核による闘病生活を送ったのだが、咳きに効くと言うヘチマを棚にして日除けとしていた。ネットを設置する際、エアコンの室外機周辺に設置すると熱交換効率の低下や火災の原因になり、植物の生育に悪影響を与えることがある。5月になって園芸店の店頭やホームセンターには、改良され苦味を少なくしたものなど多くの種類のゴーヤーの苗が並ぶようになった。種もいろいろの種類を売っており、畑へ直接播種しても簡単に発芽するが、ゴーヤーは平均25℃程度の気温がないと発芽を始めない。種を購入したのに見事な苗を見ると、序でについつい苗も購入してしまう。昨年は、ゴーヤーに加えて南瓜と糸瓜もグリーンカーテンとして活躍して貰ったのだが、ゴーヤーは食べきれず多くは赤く熟して落ちてしまった。糸瓜は、巨大なものが12本もなったのだが、甘皮を腐らせるために使った沢庵漬け用の大樽に糸瓜の腐臭が付いてしまって沢庵が漬けられなくなってしまった。南瓜は蔓ばかり延びて、2個しか収穫出来なかった。昨年の反省の上に捲土重来を期して、今年はスイカ・メロン・新種のフルーツゴーヤーなるものの苗を購入して来た。何れも某大手アルコールメーカーが開発したものであり、普通の苗に比較して6~7倍もする高価な苗である。スイカは、風に弱いと言うので、実が付いたらネットで支える必要がある。雨が上がったので、今朝ネットを張って来たるべき猛暑に備えたところである。 君来ばと 西瓜抱えて待つ 夜かな 子規
2013年05月13日

山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止(山ぢさの、白露重み、うらぶれて、心も深く、我が恋やまず) 柿本人麻呂 山ぢさが露に濡れて重たく垂れ下がっているように、しょんぼりとうなだれてひたすら恋し続けている私です。ヂサとはエゴノキの別名で、この木は日本全土の雑木林に見られる。エゴノキの名は、実に猛烈なエグ味があることから来ている。チシャノキ、チサノキなどとも呼ばれ歌舞伎の演題「伽羅先代萩」に出てくる「ちさの木(萵苣の木)」はこれのことである。轆轤(ろくろ)細工で傘の柄を作ったため、ロクロギとも呼ばれる。高さは10mほどになり、樹皮は赤褐色できめが細かい。花期は5月頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけ、芳香がある。花が下向きのため、この木の下で仰いでみると見事である。花冠は5片に深く裂けるが大きくは開かずややつぼみ加減で咲き、雄蕊は10本ある。淡紅色の花をつける品種もある。果実は長さ2cmほどの楕円形で、中には種子が一個ある。熟すと果皮は自然に破れる。木質が緻密で材は粘り強いので、火であぶって曲げ「背負い籠」や「輪かんじき」などに加工して利用されていた。将棋の駒にも加工される。果皮にサポニンを多く含んでいて泡立ちが良いので、昔は若い実を石鹸の代用として洗濯に用いた。エゴノキ・サポニンには魚毒性があるとされ地方によっては魚の捕獲に使ったとされるが、エゴノキのサポニンの魚毒性は漁に使えるほど強力ではないとする見解もある。幼時この実を潰して川に流したことがあるが、魚が浮いて来たことは無い。ヒゲナガゾウムシ科の甲虫が果実に穴を開けて産卵し、中で幼虫が種子を食べて成長する。成熟幼虫を「ちしゃ虫」と言いウグイやオイカワなど渓流釣り用の餌として流通している。釣りの餌にするため我が家の周りで探してみても、ちしゃ虫の入ったエゴノキの実を目にしたことは無い。この虫の発生が見られる場所は限定的であると言われ、発生地での種子への寄生率は7割近いという。多くの新梢にはしばしば菊の花の様な塊を見ることがあるが、これはエゴノネコアシと呼ばれる瘤である。イネ科の一年草を一次寄主とし、二次寄生のエゴノキとの間で寄主転換を行うアブラムシが、エゴノキに移動してきて新芽を変形させたものでる。種子は硬い殻に包まれている。良い音がするので、これをお手玉の中に入れて用いたことがある。種蒔き、さし木、接ぎ木の何れでも殖やすことができる。種はドングリ類と同じで、採り蒔きが基本である。秋に熟した果実から種を取り出したら、乾燥させないようにして用土にすぐ蒔きつける。挿し木は春の生育が始まる直前の3月か、開花後に行う。昨年伸びた枝の中で太くてしっかりしたものを15cmほどの長さに切って土に挿す。接ぎ木の適期は3月である。山荘の庭に一本のエゴノキがあり、毎年芳香のある白くて可愛い花を沢山咲かせる。近くの山にはこの木を見ないから、離れた場所から鳥か動物が種を運んできたに違いない。知左の花 咲ける盛りに 愛しきよし その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まずも 万葉集 大伴家持 花詞 壮大
2013年05月12日

戦前から終戦直後までは、何処の小学校の校庭にも必ず二宮尊徳の像が建っていた。それが何時か知らない内に、全て撤去されてしまった。北杜市須玉町には、昭和60年に廃校となった明治8年建設の擬洋風の校舎、大正13年建設の校舎、昭和28年建設の校舎が保存されていて、「三代校舎ふれあいの里・須玉歴史資料館」として利用されている。昭和の校舎は別名「美味しい学校」と言われ、宿泊・イタリアンレストラン・和食処・ハーブバスの施設がある。当時の給食を再現して、1050円で食べさせている。器も当時そのままの、アルマイト食器である。この校庭の脇に昭和58年に町の篤志家2名が寄贈した、尊徳像ならぬ野口英世の胸像が建っている。この地は特に野口英世との縁は無く、この像が何故ここに建っているのか奇異に映る。像設置についての謂れを知る人は見当たらないが銘板によれば、学校創立90周年記念事業の寄贈だという。野口英世の伝記物は、多くの児童に読まれていて現在も偉人として讃えられている。彼がノーベル賞候補に3回も上がったことについては多くの人が知るところだが、彼の性格や行動に隠れた闇の部分があることについてはあまり多く語られていない。猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に、利発さを見出され高等小学校に入学することができた。高等小学校卒業後火傷の手の手術を受けた医院で、書生として住み込みで働いていた際、歯科医で現在の東京歯科大学の講師である6歳年上の血脇守之助と知り合う。医師になるため小林らから40円の大金を借りて上京し、前期試験に合格するが遊郭通いに狂って2か月で全て使い果たしてしまった。(血脇の月給が4円であったと言うから、40円は給与の10カ月分に当たる。)そこで、血脇を焚きつけて院長と昇給の交渉をさせ、昇給分から学費を得ることができた。後期試験の予備校へ通う資金を得るために、再び血脇に病院の経営を任せるよう院長と交渉させた。その結果、血脇が病院の金を自由にできるようになり、血脇から月15円もの援助を受けることができた。当時評判になった坪内逍遥の「当世書生気質」に書かれた、巧言を弄して借金を重ね自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」が出てくるが、借金を繰り返して遊郭に通うところも自分そのままであったので、その小説のモデルと看做されるのではないかと恐れて改名することにして小林に相談したところ、世にすぐれるという意味の「英世」の名前を与えられた。戸籍名の変更は法的に難しかったのだが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に同姓の野口家へ養子に入ってもらい、同姓同名の野口清作を誕生させてから、「一集落に同じ名前の人間が二人居ては紛らわしい」と主張して戸籍の改名に成功した。清国でのペスト対策として国際防疫班に選ばれたが、その支度金96円を遊郭の遊びで使い果たしたため、渡航費用を血脇に工面してもらっている。半年の任期終了後も、高給を受けて清国に残った。この時期の報酬は、すべて遊興に使い果たしてしまった。日本へ帰国して、アメリカへの留学資金の工面を小林に依頼したが、「いつまでも他人の金に頼るな」と拒否された。そこで渡航費用を工面するため、女学生と婚約しその持参金300円を渡航費に充てアメリカへ渡航した。しかし、婚約者のことを「顔も醜く学がない」と批評し婚約破棄の策を練っていた。血脇は破談を薦めるが、自ら破談にしないで先方から破談されるよう策を弄し婚約持参金を返済し婚約を破棄した。破談後も欧州への留学資金として、元婚約者に数千円を要求していて通常の神経では考えられない行動をとっている。また、学歴・学位についての詐称もしている。恩師や友人たちから、言葉巧みに再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれた野口の要領の良さや世渡りのうまさは、父から受け継いだ才能であるとも言われている。野口は貧乏育ちのためか金銭感覚が乏しく、非常に金遣いが荒かった。留学の費用として血脇から受け取った500円という大金を遊郭で使ってしまった時には、さすがの血脇も言葉を失ったと言われる。同じ東北育ちで、いつも貧しかった歌人に石川啄木がいる。啄木死後70年近くを経た1970年代の全集出版まで日記の一部の公表が伏せられていたのは、浅草の遊郭で遊んだ様子が詳細に記載されていたためである。はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見ると詠んだが、彼の借金のほとんどは遊郭での遊興に使われ、それが貧困の原因であった。「たかり魔」で、生活に困窮してよく友人知人から金をせびっていたという。二人の性格にどこか相通じるものを感じるのは、自分だけであろうか。
2013年05月11日

マムシグサが、山荘の周辺至る所にニョキニョキと花を咲かせ始めた。一見するとヘビが鎌首をもたげて、今にも飛び掛かりそうな風情に見える。ただ、鎌首を高くもたげる姿はマムシよりむしろ、ガラガラヘビに似ていなくもない。茎には、気味の悪い模様がある。この植物はサトイモ科に属しテンナンショウといい、漢字では「天南星」と書く。球茎が漢方に利用され、その生薬名である。花言葉は「壮大な美」だという。「天南星」も「壮大な美」も素晴らしい言葉なのだが、マムシグサからは想像も出来ない。テンナンショウは北海道から沖縄まで分布し、その種類は30種ほどが数えられている。この仲間は温暖で湿潤な環境を好み、湿地や沼地に生育するものが多い。同じサトイモ科にミズバショウがある。 井戸尻遺跡にて花軸に密集した肉穂花序(花は肉質の太い柄の上に一面に並んでつく)と、それを囲むように発達した仏炎苞を持つのが特徴である。花弁がないか、あっても花そのものが小さく目立たない。肉穂花序の根元から出る苞は多くの場合、花穂を包むようになっていて特別な色を持ち目立つものが多く花びらの役割をしている。これを仏炎苞という。仏炎苞の形状が特徴的で様々なものがあるが、森の木陰に咲く紫色の仏炎苞からは不気味な印象を受ける。特徴のある苞の形が、花に近寄る昆虫を内部に閉じ込めて、受粉の確率を高めていると考えられる。テンナンショウ属を始め、クワズイモ、ザゼンソウなどは、シュウ酸カルシウムなどのシュウ酸塩を全草に含んでいて有毒である。サトイモやコンニャクなど食品になるものや、葉や花が美しいので観賞用に栽培される種も多い。苞は肉穂花序を囲み、通常は前に曲がる。花序は単性または雌雄性で、1年に1個を花茎の上につける。一部を除き多くは雌雄異株であるが、栄養状態によって性転換することがこの種の特徴として知られている。株の成長に伴って最初は雄性をつけ、株が成熟すると雌花をつけるようになる。種類によって、両性の花序をつけるものもある。花序には悪臭があり、受・授粉はその臭いに誘引されて集まった小形のハエなどによって行われる虫媒花である。地下部には、コンニャクイモに似た扁球形の地下茎がある。春から夏に、サトイモ科の特徴である肉穂花序と仏炎苞を持った花をつける。花後にトウモロコシ状の実を付け、果実は液果で赤く熟す。果実が朱赤色となるので、子供が手に取ることもあり誤食には注意が必要である。2004年から2009年の間に、4件6名の中毒事例が発生していて幼児が青い実を、またトウモロコシと間違えた男性の例、食べられる野草と誤認して食べた男性、タラノメと間違えた男性3名の事件が発生している。球茎の細胞にはシュウ酸カルシウムの針状結晶があり有毒で、そのまま食べると口中の粘膜に突き刺さって腫脹を伴った猛烈な痛みの症状が現れる。有毒ではあるがデンプンを多く含むため、シュウ酸カルシウムの刺激を避けながら食用とする工夫がなされてきた。球茎の上部の毒の多い黄色の部分を取り除いて蒸したり、蒸し焼き、蒸し煮にしたものを団子にして噛まずに丸飲みし、刺激を避けて食べたといわれる。球茎は漢方に使われ生薬名を「天南星」といい鎮痙、去痰、鎮痛、鎮静、消炎などに効果があるとされる。五十肩、肩こり、神経痛に処方される二朮湯(にじゅつとう)に配合されている。
2013年05月10日

縄文時代は、約1万6,500年前~約3,000年前の間に日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代または新石器時代に相当する。山梨県白州町との県境に近い長野県富士見町に、昭和33年の発掘調査によって縄文時代中期を中心とする集落遺跡が発見され、この遺跡群は昭和41年国の史跡に指定された。八ヶ岳南麓の縄文遺跡は、7千年前から居住が始まり5~4千年前の縄文中期に最も栄えたとされる遺跡群である。JR中央線の信濃境駅を中心とした地域に、「井戸尻・曽利・藤内・九兵衛尾根・居平・唐渡宮・向原」など多数の遺跡が集中しており、「井戸尻遺跡群」といわれている。井戸尻遺跡群は、標高800m~1000mの尾根や台地上に立地している。富士川上流の釜無川に向かって緩やかな東南傾斜地となっていて八ヶ岳からの伏流水が湧水となり、この水に恵まれた環境が集落形成の要因になったものと考えられている。中期中葉の土器様式は、この地の名前をとって藤内式や井戸尻式と呼ばれている。何とも大きくて見事な深鉢は抽象的な文様が描かれおり、よく観察すると動物や人の頭をかたどった紋様とも見てとれる。住居跡からは、完全な形で12個の土器が出土していて11個が鉢形で、そのうちの9個が深鉢である。これらは煮物用で、特殊な大深鉢は食物の貯蔵用に用いられたものであろうという。石器類はその多くが凹石や打製石斧、石皿で、3号住居跡からは打製石斧が43個、凹石が10個出土したという。 我が家所有の打製石器雑木林の伐採や根茎、球根などの土掘り道具としての打製石斧が多く、その他の出土品の石皿や凹石はドングリなど硬い木の実の調理加工の道具として使用されたものであったらしい。これらの出土品は、井戸尻考古館(長野県諏訪郡富士見町境7053)で展示されている。出土品の中でも長野県宝に指定された「水煙渦巻文深鉢」(長野県宝)は、昭和38年にパリで開催された「日本古美術展」に出品されたものであり、昭和47年には郵便はがきの料金印面として採用された。 井戸尻考古館パンフレット装飾も見事で、縄文人の芸術的センスと指・手先の器用さを感じさせるものである。この地が縄文遺跡の宝庫であることが判明したのは新しく、昭和24から始まった数次にわたる発掘調査で、百数十の住居址とともに各種遺物が多数出土している。とりわけ膨大な土器群は、縄文中期土器中の最高級品と評価されている。住居址の炉近くから出土したパン状の炭化した物が、考古館に展示されているがその他の地域の発掘において類似品発見の端緒となって、縄文文化における食糧のあり方研究に一石を投じたともいう。これらの遺跡群が存在する地域は、現在でも寒さが厳しい土地である。竪穴式住居で夏が涼しかったことは想像に難くないが、今から5~4千年前の縄文人がどのようにして冬の寒さを乗り越えていたのか考えるとき、人類の祖先の知恵に驚かされる。長野県霧ヶ峰や和田峠は、黒曜石の産地として知られており、諏訪を中心として半径約200キロメートルの範囲に黒曜石石鏃が分布していて、井戸尻遺跡からも非常に多くの黒曜石石鏃が出土している。曽利遺跡には竪穴住居一棟が復元され、近接して井戸尻考古館が建設されている。 復元された住居址 新石器時代の世界的遺産に出会う 井戸尻考古館
2013年05月09日

虚無僧に 犬吠えかゝる 桐の花 漱石桐の木は高さ10mほどに成長し、5月の始め頃、円錐花序に淡い紫色の筒状の花をつける。 残雪の甲斐駒ケ岳を背景に咲く桐の花葉が特徴的であり、広い卵形の大きな葉をつける。特徴的な葉故に、初夏の桐の花を呼んだ句よりその葉を詠んだ秋の句の方がはるかに多い。桐の原産地は中国大陸といわれ、我が国には飛鳥時代の頃に渡来して各地で植栽されるようになったとされる。北海道南部から鹿児島まで生育しているが、特に、岩手の南部桐、福島の会津桐、岡山備後桐が三大桐と言われた。近年は国内での生産量は減少し、中国・台湾やアメリカなどからの輸入に頼るようになってきた。種子は小さくて特徴のある翼が付いており、風に乗って撒布される。発芽率が高いので、野生化した個体を各処に見ることができる。根からひこ生えも多く発生するので、株分けでも増やすことが可能である。桐は古くから良質の木材であり、湿度の透過性や熱伝導率がきわめて小さいという特性のため、タンス、刀剣、掛け軸など貴重品を収納する箱のほか、琴、琵琶、下駄等の楽器や日用品に至るまで幅広く使用されている。燃えにくい特質から、金庫に収納する箱として使われている。中国では、桐は鳳凰が止まる目出度い樹とされており、我が国でも伝統的に神聖な木とみなされ家紋や紋章の意匠、皇室の紋章や神紋にも用いられるなど貴い木として扱われている。成長が非常に早く、材の比重は0.31と日本の樹木の中で最も軽く、色白で木目が美しく狂いが少ない。桐灰は懐炉に用いたほか、樹皮は染料、葉は虫除けに使われた。五三の桐(両端の花の数が3で真ん中が5個)、五七(両端が5で真ん中が7個の花)の桐が家紋の図柄として有名でその変形も多い。昔は女子が誕生すると家の周りに桐を植え、その子が嫁入りするときに伐採しその材料で桐タンスや長持を作って嫁入り道具とする風習があった。桐は20年ほどで成木となり材として使えるように育つことから、こうした風習が根付いたものであろう。実家で叔父の結婚に際して、家の周りに植栽されていた桐を伐採して洋服ダンスを作って持って行ったことを記憶している。戦後は物資不足でズック靴やゴム靴などは配給であり、しかも抽選のため当たらなければ買うことも出来ず、履き物はもっぱら家で育てた桐材で作った桐下駄か藁草履であった。家族皆が履いていた桐下駄であるが、今では高価で普段履きにはもったいない位の値段がする。桐にはしばしばカミキリムシの幼虫の通称テッポウムシが入ることがあって、管理に気を配らないと穴だらけとなり材としての利用価値が無くなってしまうことがある。五百円硬貨の表の文様は桐の花であるが、五三か五七かハッキリしない。もしかしたら、桐の紋様を用いたのではなく、単に桐の花を図案化したものなのかも知れない。 五百円に描かれた桐の花
2013年05月08日

瑞という文字を、音でズイと読む場合は「めでたいしるし」と言う意味になる。瑞光、瑞祥、瑞兆、瑞鳥、嘉瑞、奇瑞、祥瑞などと用いる。ズイと読む言葉に、「めでたいことの前兆として現れる雲」の意味で瑞雲がある。これはまたの呼び方を祥瑞の雲ともいう。 彩雲 5月4日瑞を訓でミズと読む場合は、「みずみずしい」と言う意味で人名に使われることが多い。瑞西や瑞典をスイス、スウェーデンとはなかなか読めない。めでたいことのしるしを意味する瑞兆とは、本来は「嘉祥な物事の予兆」という意味であるが、歴史上では後に権力を得た者の出生時などに起こったとされる事象を指して言うことが多い。歴史書における瑞兆の記載は、ほとんど全てが後世の人間の筆によるもので、創作かあるいは偶然であることは疑いが無い。このような「瑞兆伝説」の脚色は、出自の身分が低かったとされる権力者、権威者の出生を塗り隠すために利用されたものである。豊臣秀吉の懐妊時、大政所の体内に日輪が入ったとされる日吉丸伝説はその最たるものである。なお、古来より瑞兆とされるものとして次のようなものが挙げられている。○竜、鳳凰、麒麟など伝説の生物の出現○鶴、亀など吉祥とされる生物の出現○甘露(天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体)など伝説上の品物の出現、原因不明の芳香○彩雲、新星など特異な気象、自然現象の発生○玉(南総里見八犬伝)、貴金属など希少な品物の発見、発掘○吉夢連休の真ん中の5月4日正午ころ、中天やや西の空、太陽の下方のたなびく雲を彩って水平な虹色の雲を見ることが出来た。山梨・長野県境近くのJR信濃境駅近くの標高900メートルの地点から、曲がりくねった坂道を20号線に向かって息子が運転する車に乗って下っていた時、孫が突然「虹が見える」と教えてくれたのだ。 薄くなったり、濃くなったり雨模様の天候でもなく、太陽と並んで出てしかも赤が強くて円弧を描いていないので虹では無く、彩雲か環水平アークと言われる現象であろうと思ったが、須(すべか)らく同乗者は虹だと主張した。空を彩るものには虹、彩雲、朝焼け、夕焼け、アークと言われる現象などがある。 5月3日 甲斐駒ケ岳の夕焼け「環水平アーク」と呼ばれる現象は、雲の中の氷晶がプリズムの役割を担うことにより見られるものである。上空の氷の結晶の方向がほぼそろったとき、結晶で屈折した太陽光により見える現象で、虹が太陽とは反対の方向に見えるのに対し、環水平アークは太陽と同じ方向に、ほぼ水平に現れる。ただし、低空に雲があると見えない。彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象である。瑞雲、慶雲、景雲、紫雲などともいう。この現象は、雲に含まれる水滴で日光が屈折し、その度合いが光の波長によって違うために生ずるもので大気光象と言われるほぼ水平な虹が見える光学現象の1つである。巻積雲や高積雲、風が強い場合に千切られた積雲などに発生することが多い西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる来迎図などにも描かれている五色の雲のことで、瑞相の一つとして知られる。本州太平洋岸では、夏至を挟んだ半年の間とされる。「環水平アーク」を彩雲と呼ぶ場合もあるが、回折により見られる彩雲とは別の現象とされる。環水平アークは高度が低くて視界に入りやすいので見つけやすく、明るく鮮やかに見える場合があるので彩雲より話題になりやすい。4日のテレビ、5日のニュースで注意していたのだが、全く無視されてしまったようだ。それとも、気付いた人が居なかったのかも知れない。日本国内では年に数十回観測されるというのに、生まれて以来初めての観察であった。この出現回数は、関東で降る雪より多く出現するとされる現象であるのにもかかわらず、雪を見たことのない人は居ないのに彩雲を知っている人は居ないのが不思議である。文字通り「瑞雲」となって、社会が良くなる前兆であってくれればと願うのは欲張りであろうか。
2013年05月07日
1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は上野寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し雨中総攻撃を行った。攻撃に先んじて上野を封鎖し、彰義隊の逃げ道を断つため神田川、隅田川、中山道、日光街道などに兵を配置して交通を分断したうえで、上野のお山の三方に兵を配備し根岸(現在のJR鶯谷と日暮里の外側)方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。上野のお山とその周辺が、文字通りの戦争の渦に巻き込まれた一日となった。家内の実家は、現荒川放水路の至近にある。しかし彰義隊が上野の山で壊滅したのは、荒川放水路が完成する49年も前のことであるので、現放水路は慶応4年時代には遊水地や畑であった可能性もある。寛保2年と明治43年のこの辺り一帯の大洪水や関東大震災、戦災にも耐えた古い家である。庭からは大村益次郎が、徳川の財宝を外国人に売り払った金とアメリカからの軍艦購入予定の資金を併せて50万両で購入した、アームストロング砲で使用された鉄砲の玉が出てくることがあると言う。そんな家に育った、文字通り下町育ちのチャキチャキの江戸っ子である。東京言葉が標準語(共通語)と言われるが、家内や兄弟の話す言葉には明らかに江戸訛りがある。「シ、シャ、シュ、ショ」と「ヒ、ヒャ、ヒュ、ヒョ」とが入れ替わる「東」はシガシ「質屋」シチヤ「髪結いさん」カミイサン「潮干狩り」シオシガリ、ヒヨシガリとなる。今から400年前、「日吉狩り」に遭っていたら豊臣秀吉は存在しなかったかも知れないと思ったりする。言葉をより強調するため、言葉の頭に付けていう「ぶん」「まん」という言葉がある。「ぶん殴る」、「ぶん回す」、「まん真ん中」など。東京言葉が標準語(共通語)と言われるが、東京にも地方と同じように方言があり、訛りもあるのは面白い。現在では日本の全国何処へ行っても、若い人は共通語(標準語)を使うようになり方言が急速に失われつつある。何処の土地へ行っても言葉が通じるようになった功罪の一つは、テレビであり短時間で移動が可能となった自動車社会もその一端を担っている。
2013年05月06日

私は18歳の春まで伊那谷で育ち、以来55年を東京で暮らしている。 伊那谷風景(つのさんのロマン紀行より)大学入学のために東京へ出てきた当初は、南信の訛りに染まったままであったので、学友や買い物の際の店員が言葉の意味を理解出来なくて度々ハッとさせられたことを思い出す。いつもお世話になっている「白州の爺や」さんは、京都出身の方で東京・白州・沖縄と3か所を拠点とした生活を送っておられる。先日沖縄那覇のFМラジオに出演して話していたが、私と同世代なのに京都駅に降りると、京都弁が自然に出てくると話されていた。私はというと今では多くの信州方言を忘れてしまい、実家へ帰った折には一度頭の中で整理しないと理解が難しくなってしまった言葉が多い。南信州には、忘れられない面白い方言も多い。長野県は県歌にもあるように「松本、伊那、佐久、善光寺」の4つの盆地がある。言葉もこの地域毎に随分異なっている。南信州は、どちらかと言うと交通・物流・文化交流が三州街道を経由して行われた。この道は信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、伊那街道ともよばれる。したがって、甲州街道・中山道・北国街道・千国街道を通って交流した北信・東信・中信とはかなり異なった文化と言葉をもっている。南信州の数ある方言の中で、特徴的なものには次の様な例がある。「くむ」と言う言葉を南信地方以外の人が聞くと、「組む」か「汲む」と言う意味にとらえるのが一般的である。南信地方では「組む」や「汲む」の意味の他に「交換する」「崩れる」の二つの意味を表す言葉である。買い物をして気に入らなかった場合、他の商品と交換して欲しいときには「○○とくんでくんな」と言うように使い、また人の持っているものと交換することも「くむ」であるし、部品を交換することも「くむ」と使う。この場合は、組むと同じアクセントである。汲むと同じアクセントでは、「積みあげた物や崖などが崩れること」を意味する。最も特徴的な方言は、手前や前方の意味の「前」というとき「まえ・で」と「で」を付けて言う。使い方は「前でにある」、「前での方(方角)」、人の前を通る際「前でを悪いなあ」と言うように使う。「で」は無くても全く意味は変わらないのに不思議な使い方である。思うに「手前」が逆転して「まえて」となり、「まえで」に転訛したものではないのだろうか。この言葉を聞いただけで、出身地を当てることができるユニークな言葉である。その他に面白い言葉は、眩しいときに「ひどろっこい」と使い、他人に不幸な出来事があった場合は、可哀そうだの意味で、「おやげない・なあ」と使う。また整然としていた状態が、目茶苦茶になったようなときには、「ささらほうさら」と言う。畑の作物を動物に荒らされたような場合、台風で稲や作物が潰れてしまったような場合にも使う。共通語に置き換えられない言葉がある。億劫がってあるいはやる気が起きなくて、物事をやりだそうとしないぐずぐずした状態をさして「づくが・無い」などと形容する。また一方では、逆になにか面倒なことや細かいことを厭わず熱心に集中して行うようなときには「づくが・いい」と用いられる。「づく(主語)-が-無い(述語)」がひとつのセンテンスであると解説する人もあれば、「づく無し(だ)」が一語の形容動詞であると説明する人もある。一般には「ず・く」と書き現すようであるが、私は「づ・く」の方がより意味を表している感じがする。運動会で走ることは、「とびっくら」という。走ることを方言で「とぶ」と言い、翼は無いのに「とんでこいよ」の様に使う。したがって徒競争のことを「とびっくら」というが、これは、「とび-くらべ」であり、これが「とびっくら」になったものであろう。
2013年05月02日

♪どこかに故郷の 香りを乗せて入る列車の なつかしさ … ああ上野駅(昭和39年)この歌は、農村向け月刊雑誌「家の光」の懸賞で一位入選した、関口義明作詞で井沢八郎が歌った歌謡曲である。ここでいう香りには、現実の香りの他に、古郷言葉も含まれていたのだろう。思うに作詞者の頭には、「ふるさとの 訛りなつかし停車場の 人込みの中にそを聞きに行く」という有名な石川啄木の歌があったのではないだろうか。上野駅常磐線特急線路の、列車止めのすぐ後ろに石川啄木のこの歌の碑がある。訛りとはある地方・地域特有の発音で、標準語(共通語)と異なった発音のことをいい、「言葉に訛りがある」のように使われる。訛りに似た言葉に、方言がある。方言の定義は、「ある一定の地域で使われる言語体系のこと」と定義されている。同一の言語が分かれて、発音・文法・語彙などが地域によって差異が見られる場合、それぞれの地域で使われる言葉のことを指して方言という。狭義には、標準語(共通語)と異なる言葉のことを指していうこともある。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には、「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」というように方言の文字が使われていて、これが「方言」という語が使われた最も古い例とされている。ある言葉が一定の地域内では共通理解できても、離れた地域では全く意思の疎通ができなくなる場合も生じる。言葉の違いは、地形や人・物の交流の多寡が影響している。わが国では明治以降中央集権国家を目指したため、学校教育や軍隊の中で標準語を押し進めた。特に軍隊においては、異なる地方の者同士が、方言によって命令を取り違える事態が発生することは軍隊の命取りともなる問題であった。したがって、方言やアイヌ言葉などの言語の使用を禁止する政策がとられた。そのため、方言を話す者は劣等感を持たされ差別されるようになり、方言の使用が憚られる事になった。共通語とは「その地域内で、意思疎通を行うための便宜的な言葉」であり、標準語は「人為的に整備された基準的な言葉」であると定義される。また、標準語とは「こう話し、書くべきである」という基準であり、共通語は標準語が基礎となっていてその上で「実際はこう話し、書いている」という実際に使用されている言語のことである。明治中期から昭和前期に、主に東京山の手の上流階級が使用していた言葉を基に、標準語を整備しようという試みがなされた。小学校における国語教科書や、文学の言文一致運動とも相俟って、ここに「標準語」と呼ばれる言語の基礎が出来あがったのである。「標準語」という言葉は、言語学者・英文学者で天心の弟、岡倉由三郎がStandard Languageを日本語訳したものとされている。共通語は「現実、自然の状態の言語」、標準語は「理想、人為的につくられた言語」と定義することができる。現在の日本には標準語の定義やこれを規定するものがないため、公式には標準語は存在しない。しかしながら日常会話で「標準語」という用語は現在も多用され、その場合「標準語」は東京の口語(東京方言や首都圏方言)を指していう場合が多い。厳密には標準語と東京で使用される言葉そのものは異なるが、東京言葉を標準語(共通語)とすることを誰もが認めている。
2013年05月01日
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