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昔から言葉遊びには、様々なものがある。「うらにわにはにわまえにわにはにわにわとりがいる」もその内の一つである。裏庭には二羽、前庭には二羽、にわとりがいる、となるのだろうか。昔からニワトリの肉と卵は貴重な栄養源として多くの家庭で庭に放し飼いで飼育されており、貴重な食料として利用されてきた。採卵鶏として最も有名なのは、白色レグホンである。イタリアで作出され、アメリカで改良を重ねられた品種で世界的に最も普及しており、日本の産卵鶏の約80%がこの種類である。採卵鶏は、孵化後150日目頃から産卵を始める。産卵を開始して1年ほどで、卵質や産卵率が低下し、自然に換羽・休産期に入る。このため、給餌制限によって栄養不足にさせ強制換羽を行う。強制換羽された鶏は、再び質の良い卵を生むようになる。強制換羽は日本の採卵養鶏場の半数で実施されている。強制換羽後、約8ヶ月間産卵させた後廃鶏にする。食肉専用雑種鶏の総称を、ブロイラーという。アメリカの食鶏規格の用語で、孵化後2か月半以内の若鶏の呼称である。「丸ごと炙り焼き」のことをブロイル(broil)といい、ブロイルして売るのに適した大きさの鶏がこう呼ばれた。日本では、年6億羽のブロイラーが生産出荷されている。ブロイラーの品種としては、チャンキー、コッブ、アーバーエーカなどがある。生育が早く、数週間で2kg前後の肉が取れるほどに成長する。自然界の鶏は成鶏に達するのに4〜5か月必要だが、ブロイラーは40〜50日で成鶏になる。自然の摂理に反して、急激に成長させるために30%ほどが歩行困難となり、3%は歩行不能となってしまう。また、心臓にも負担がかかるので1%は心臓疾患により死亡してしまう。現在、日本の採卵用鶏の養鶏方法は95%がバタリーケージ方式である。ブロイラー養鶏では99.9%が密閉型の鶏舎で、1m2当たり16羽ほどの高密度で平飼いしている。常時摂餌させることにより肥大生長を促進させるため、約90%の施設で照明管理が行われている。ブロイラーは、同一の鶏舎には同じ孵化日の雌雄鑑別を行わない雛を入れ、大きさの選別はしないで全ての鶏を同時期に出荷する。わが国で三大地鶏と呼ばれる鶏に、名古屋コーチン・比内地鶏・薩摩鶏がある。名古屋コーチンはバフコーチンが原種だが、比内地鶏・薩摩鶏にはアメリカのロードアイランド州原産のロードアイランド・レッド種の血が入っている。鶏肉のことを指して、「カシワ」というがその語源は、にわとりの茶色鶏の羽毛が植物の「槲(かしわ)」の葉の色に似ている所から、もともとはにわとりのことを「かしわ」と言っていた。それが19世紀の中ごろになってから、鶏肉のことをカシワと言うようになったものである。したがって漢字での表記は、「柏」ではなく「黄鶏」と書いてカシワと読ませる。
2013年02月28日
動物の生みだす生産物を、人が利用することを目的として飼い馴らして飼育している哺乳類と鳥類を家畜といっている。昆虫のミツバチ、カイコ、養殖魚介類、ペットの小鳥類も人に飼養されているが、これは家畜とは言わない。家畜としては、古くからイヌ、ネコ、ウマ、ウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギ、家禽が飼育されてきた。なかでも、鶏は肉と卵を食用に羽毛を防寒具や寝具に利用するため、世界中で飼育されている身近な家禽である。ニワトリの名前の語源は、庭にいる鳥の「庭つとり」からとされる。現に子供のころ育った伊那谷では、ニワットリと呼んでいた。翼は体重に比較して小さく飛ぶことは得意ではないが、野生化した個体では数十メートルほども飛ぶことができる。ハワイのカウアイ島では、至る所に小型の野生化したニワトリの姿が目に付く。天敵の猫・犬・狐などの肉食獣がいないこともあると思われる。鳴き声のために改良されたものに、三大長鳴鶏の東天紅鶏(土佐地方原産)、声良鶏(東北地方原産)、唐丸(新潟県)がある。日本では鳴き声を「コケコッコー」と聞くが、江戸時代には「東天紅(トウテンコウ)」と表現していた。英語圏では「クックドゥードゥルドゥー」、フランスでは「ココリコ」、ドイツでは「キケリキー、」イタリアでは「キッキリキー」、韓国では「コキヨー」と聞こえるという。烏骨鶏を除いて、足の指は4本で雄の足には横向きか後ろ向きに角質が変化した蹴爪が生えているが、雌にはない。瞬きが人間とは異なり、下から上に被せるようになっている。ニワトリが首を常に前後左右に振る特異な運動をしているのは、眼球運動が出来ないためである。古代には「暁を告げ闇を払う鳥」として、太陽に関係ある霊鳥として尊ばれていた。現在も、伊勢神宮ではニワトリは神の使いとされ、境内には多くのニワトリが放されている。よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあうさかの せきはゆるさじ 清少納言喜田川守貞が、天保年間に書いた守貞漫稿(風俗について記した一種の百科事典)によると、愛玩用として飼育されていたニワトリは、文化年間には食用に利用されるようになったとの記載がある。闘鶏用、観賞用、食肉用として利用されているニワトリに、タイ原産のシャモがある。シャモという名前は、タイ国の呼称シャムに由来する。闘鶏用として輸入されたため「軍鶏」と書くようになった。闘争心が強く、闘鶏に利用され、肉も良質のため食用として珍重されている。鶏と鶏を戦わせる競技は、東南アジアでは古くから行われていた。江戸時代のはじめに、シャモが輸入されると闘鶏が一層盛んになった。しかし庶民の間で賭の対象とされることが多くなり、幕府は何度か闘鶏禁止令を発し、明治時代にも禁止されたが密かに生き残ってきた。鏡を見せて、そこに映る自分を敵と思わせ戦う訓練をする。現在でも、闘鶏は全国に愛好家団体があり各地で開催されていて、東北地方で特に盛んである。高知県安田町では、12月から日曜日毎に半年間にわたって開催され、6月の最終日曜日には、盛大に決勝戦が行われる。シャモと異なり、非常に大人しいニワトリに江戸時代ベトナムから移入されたチャボがある。江戸時代に、ベトナムから輸入されたニワトリの小型種を改良して日本で作出したとされる。名前は、ベトナムの異称チャボが語源とされている。漢字で「矮鶏」と表記されるように、他の品種に比べて小型である。また足が非常に短く、尾羽が直立しているのが特徴である。卵は小さい分味が濃いといわれ珍重された。 雛を孵す能力に優れており、抱卵・育雛をしない鳥の卵を抱かせて孵化させる仮親としても利用する。
2013年02月27日

「仙人掌」を読める人は多いが、「覇王樹」はかなりの識字者でないとなかなかサボテンとは読めない。不思議なことに、サボテンをシャボテンと言う人が多い。名称でサとシャが用いられるのは、鮭でも同じである。物の名称で「さけ」と呼ばれるものには酒もあるが、こちらはシャケとは言わない。サボテンは、16世紀後半に東南アジアから持ち込まれ、畳や衣服の汚れを落とすためにウチワサボテンの樹液を石けんの代用として使っていたため、「石鹸のようなもの」という意味で使われたポルトガル語の、「石鹸(シャボー)」と手(テ)からの転化とする説があって、昭和30年代ころまでは「シャボテン」の呼び方を正統派とする人が多数派を占めていた。しかし、現在は広辞苑にはシャボテンの項目は無い。サボテン類のほとんどは、南北アメリカ及び周辺の島が原産地である。乾燥地に見られる種が多いが、熱帯の樹木や岩石上に着生するものや高山に生える種、北米の湿潤な温帯や冷帯に育つ種もある。サボテンは暑さを好むものと誤解されることがあるが、低温に弱いものもあれば、零度以下で生存できるものもある。葉は針状か、または退化している。トゲの根元に、綿毛で覆われた刺座(シザ)と呼ばれる器官を持っている。多くは腋芽に刺座が形成され、そこに葉の変化した蕀が密生する。根は主根が深く伸びるゴボウ根のものが多いが、主根が芋の様に肥大するものもあり、主根が発達しないひげ根系のものもある。貯水組織が発達し、乾燥に耐えられる植物である。葉が鱗状に退化したウチワサボテンや、葉を全くつけない柱サボテンがある。球形のサボテンは柱サボテンの変形種である。サボテンは、赤、青、紫を示す水溶性色素のアントシアニン系の色素を持たないので、青色の花は咲かない。一般的に植物は昼に気孔を開け、一酸化炭素を取り込む。この場合は、同時に大量の水分が必要となる。サボテンは、乾燥という過酷な環境の中で、生育に必要な水分の損失を最小限にするため夜に気孔を開けて一酸化炭素を取り込み、昼は気孔を閉じるように進化した。サボテンの生育環境から、栽培には水分が不要であるかのように思われがちだが、サボテンの自生する地域は乾季と雨季がはっきりしているだけで、サボテンは水を好む植物である。しかし種類によっては、潅水の仕方に注意しないと水分過多により根腐れを起こして枯死する場合がある。紐サボテン属の果実(ドラゴンフルーツ)やウチワサボテン属の果実(トゥナ)は多くの国で、一般的な果物として栽培され食用にされている。ウチワサボテンの若い茎節はメキシコ料理では野菜として扱われ、日本の漬けもののように塩漬けにもされて食べられている。往年の西部劇の名優ゲーリークーパー、ジョン・ウェイン、バートランカスターが出る西部劇には、必ずアリゾナの砂漠地帯がロケに使われた。フェニックス・サンシティーからグランドキャニオンへの一本道には、「騎兵隊」のロケで使用されたというジェロニモの岩がそそり立ち正に西部劇の道である。その砂漠の至る所に、柱状の巨大サボテン「サワロ・カクタス」が見られる。サワロ・カクタスは、毎年5~6月に美しい花を咲かせて蜜を提供し、7月には果実が実り砂漠に棲む様々な動物や鳥の貴重な餌になっている。サバクシマセゲラ、ハシボソキツツキ、ニシアメリカオオコノハズクなど多くの鳥は、このサボテンの茎に巣穴を穿ったり穴に巣をつくる。そのため多くのサボテンは穴だらけとなっている。このサボテンは、日本では「ハシラサボテン」に分類され、「弁慶柱」の名前で呼ばれている。サボテンの中で最もサボテンらしいサボテンであり、アリゾナの砂漠に良く似合うサボテンである。関東南部の真冬の外気は、零下になることもあるのだが地植えで結構生育するほど寒さに強い。たくさんの蕾を付けているので開花が楽しみである。
2013年02月26日

松尾芭蕉の図版で、背に負うているものを笈と言う。笈(おい)は、修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱の事を指すが、ここから転じて勉学のために故郷を離れることを指して言うようになった。続日本紀には、「沙門行善。負 笈遊学。既経 七歳 。備甞 難行 。解 三五術 。方帰 本郷 」と書かれている。松尾芭蕉は、俳聖として世界的にも知られている嘉永~元禄の江戸前期に活躍した俳諧師である。芸術性の極めて高い句風を確立した。元禄2年45歳の年、弟子の河合曾良を伴い東北・北陸、岐阜大垣までの旅をした。その旅行記、「奥の細道」は誰もが知るほど有名である。芭蕉はその出自が伊賀上野であり、しかも農民の身の上でありながら苗字帯刀が許されていた。こんなことから忍者の系類で、忍者としての訓練を受けた忍者であったと言う説がある。仙台藩主の伊達正宗は、「20年早く生まれていたら天下を手中に収めることが出来たのに。」と言ったといわれ、天下捕りの野望を抱いていたと言われることからも分かるように、幕府にとって仙台藩は獅子身中の虫と見られていた。その仙台藩の内情と動静を探らせるために、芭蕉が密命を帯びて潜入調査を行ったのではないかと言う。隠密調査をカモフラージュする目的で、途みちに詠まれた句が纏められて「奥細道」になったというのである。この旅で詠まれた句で、特に有名なものには、次の句がある。夏草や兵どもが夢の跡 手県平泉町閑さや岩にしみ入る蝉の声 形県立石寺五月雨をあつめて早し最上川 形県大石田町荒海や佐渡によこたふ天河 潟県出雲崎町江戸時代に煙草入れ、印籠、小型の革製鞄などを持ち歩く際、紐で帯から吊るし留めた道具を根付と言う。ポケットが無い男性用の着物で袋や印籠等を持ち歩く場合に、袋や印籠などに付けられた紐の他方の端に取付け、紐を帯の下に挟んで根付を帯の上方に出す事によって引っ掛って袋や印籠などが落ちないようにする目的で用いられた。大きさは数cmから、小さいものは1cm位のものもある。材質は黄楊、一位、黒檀等の堅い木や象牙などが多い。根付は、江戸時代から近代にかけての古根付と、昭和以降の現代根付に大別される。江戸初期のものは簡素なものが多いが、時代と共に実用性の他に装飾性も重視されるようになり、江戸後期には爆発的に流行した。現在も、美術骨董品としての隠れた人気があり収集家も多い。江戸後期の作とされる、象牙に掘られた芭蕉の根付がある。この根付を見る限り、図版で見る芭蕉より柔和な顔をしていてとても忍者には見えないのだが。
2013年02月25日
年輪は、温帯から寒帯の木の断面に生じる同心円状の模様のことで、成長輪ともいう。1年に一つずつ増加するので年輪という。輪状に見えるのは、春期には幹の肥大成長が盛んで、夏期には緩除になるためであり、細胞壁が色の濃い部分は密に色の薄い部分では疎になっている。熱帯の樹木には年輪がないこともあるが、季節に乾季と雨季があれば乾季には成長を休止するために年輪ができる。年輪を数えることで、その木の樹齢を知ることができる。北半球では南側から日が当たるので、南側では成長が盛んで年輪の幅が広く、北側は目が詰まっているので切り株を見れば方角がわかるという説は誤りである。実際には、木が谷側に傾かないように谷側がより盛んに成長するので、谷側の目が広く山側の目が詰まる。年輪の幅の広さと方角には、因果関係はない。よく知られているクリスマス・キャロルに、「樅の木」がある。独語でTannenbaumと歌われている。バウムと言う言葉の響きで、バウムクーヘンという焼き菓子を思い出す。バウムクーヘンとは、ドイツ語のBaum(木)とkuchen(ケーキ)の合成語である。広島県商品陳列所(現在の原爆ドーム)で開催された広島県物産陳列館捕虜製作品展覧会で、大正8年にこの菓子が販売された。これを記念して、毎年3月4日が「バウムクーヘンの日」になったそうだ。バウムクーヘンは、輪切りにした樹木を模したものだが木材では製材の方法によって、柾目と板目の材ができる。板の端の部分で木目がほぼ平行に並んでいる板を柾目と言う。柾目はほぼ平行にそして均等に木目が並んでいるので、反りづらく割れにくい。丸太を製材する木取りで、年輪を切断するように木取りすると木目が不規則な波形などの曲がった線が現れる。これを板目と言う。年輪の模様が山形や渦巻き模様にあらわれ、板材が多く取れるので柾目と比べ安価だが、収縮により反りがでてしまう欠点がある。板目は木目が面白く、たとえ1本の木でも同じ木目の板は取れない。材木の模様を木目と言うが、人の肌も漢字で肌理(きめ)と書き、これは木材の表面状態をあらわす「木目」に由来している。木彫は、中学生時代の版画以外にやったことは無いし、技巧についてもまったく知識はないのだが彫刻には木目を見る目が重要だと言う。古木の柾目杢目を究め独特の斬新さと風格ある手法を用いて、昭和から平成にかけて木彫工芸家として数多くの秀作を発表し活躍したことで有名な人物に横山一夢がいる。木彫で名高い、富山県井波町の名門の家に生まれ本名は善作といった。伝統的な木工芸を見て育ち、幼少期から父の下で技術を教わり第4回文展に初入選した。その後、数々の展覧会に出品し多くの賞を受賞している。また、日展会員や現代工芸美術家協会の会員に推挙され、中心的作家として活躍した。伝統の木彫技術を継承する一方、彩色を多く用いた装飾的な作品の鯉、鶴、魚類、鳥類の造形や獅子頭などの秀作を残している。富山県指定無形文化財でもあり、代表作には、『木彫猩々』、『鯉置物』等がある。我が家にも初代一夢の木彫りの代表作、「鯉の置物」がある。骨董店で手に入れた際、箱があまりにも埃で汚れていたため亀の子束子で水洗いをしてしまった。染みついた箱の汚れは薄くなったのだが、書かれていた墨の文字が薄れてしまった。 その後、テレビの「なんでも鑑定団」を見て、洗わない方が良かったのを知ったのだが時すでに遅しであった。
2013年02月24日

日本昔話の「桃太郎」や「舌切雀」、「花咲爺」の話を知らない人は少ない。明治初期までの「桃太郎」の話は、桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたとするものが主流であった。その他「流れてきたのは赤い箱と白い箱で、赤い箱の中に赤ん坊が入っていた」とするもの、「赤いのと緑色の2つの桃が流れて来たので、お婆さんが「緑の桃はあっちへ行け、赤い桃はこっちへ来い」と言うと赤い桃が寄って来た。など、筋の異なる話が多く伝わっている。今日主流になっている物語には、巖谷小波が「日本昔話」としてまとめたものが後世の語り伝えに大きく影響を受けている。桃太郎は、1887年に国定教科書に採用され、ほぼ現在の筋で掲載されてからこれが定着したものである。巌谷小波の本名は季雄(すえお)である。明治から大正にかけての児童文学者で、多くの俳句や俳画も残している。周囲からの期待で医師の道に進むことを目指して、獨逸学協会学校(現独協中・高校・大学)へ入学したが、医者になることを嫌い、進級せずに周囲の反対を受けながら文学を志した。尾崎紅葉らとも親交があった。機関誌「我楽多文庫」に発表した小説「五月鯉」は、小説とは呼べない未熟な出来であった。作品の多くは、彼自身が編纂した雑誌「少年世界」に掲載された。さらに「日本昔噺」、「日本お伽噺」、「世界お伽噺」などのシリーズものも刊行した。小波の功績の一つとして、国内外の童話を当時の日本の児童のため用に書き改めたことが挙げられる。ドイツ語学校に通っていたこともあって、その豊かなドイツ語力を駆使して西洋の昔話に登場する人物の名前や舞台を日本版に書き換えるなど、国内の子ども向けに改編した。誰でもが知っている『桃太郎』や『花咲爺』など多くの民話や英雄話は小波によって再生・復活されたもので、日本近代児童文学の開拓者でもある。作句にも優れた才能があって、かなりの数の俳画を残している。しかし、その数の多さ故に骨董価値としてそれ程高価なものは無い。10数年前、ガレージセールで小波の一幅の俳画を見つけて購入した。独特の筆使いの字で、[○○丈の届かぬ 氷柱かな]とある○○の部分が判読できない。文部省唱歌「ふじの山」や「一寸法師」も小波の作詞である♪♪あたまを雲の 上に出し四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く富士は日本一の山
2013年02月23日

可視光線を反射する物体のことを鏡と言い、その性質を利用して光を反射させる器具のことを指す。鏡に映る像は鏡像といって鏡に平行な上下・左右は同じ向き、鏡に垂直な前後の方向は反対の向きになっている。これを、鏡に向かって映った像を観察すると、左右が逆転しているかのように感じられる。人類が初めて自分の姿を見たのは、水溜りの水面を利用して自らの姿形などを映す水鏡であったと考えられる。その後、石や金属を磨いて鏡として使用したと思われる出土品が遺跡発掘で発見されている。次いで、金属板を磨いた金属鏡が作られるようになった。多くは青銅などを用いた銅鏡であったが、後に錫めっきを施した表面鏡が現れた。現代の一般的な鏡は、ガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のメッキを施し、さらに酸化防止のため銅メッキや有機塗料などを重ねたもので裏面鏡と言われる。その他、プラスチックやポリフィルムの表面に金属を蒸着したものも作られている。光沢面保護のための金属メッキや塗料の工夫により飛躍的に耐久性が向上したが、ガラスの裏面を銀メッキした鏡の原理は19世紀から全く変わっていない。鏡に映った己を自分と認識できる能力を「鏡映認知」と呼ぶ。鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされる。鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得た。チンパンジーは、鏡に映る姿を自分自身と認識し、毛繕いに利用するという。チンパンジーのように鏡を利用するまでには至らないが、犬、猫、カラス、ゾウ、ブタ、イルカ等は鏡映認知能力がある動物に挙げられている。鏡に像が「映る」という現象は、昔から神秘的なものとして捉えられた。そのため、祭祀の道具として使われた。鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こっち側」と「あっち側」の間にある扉のようなものとして考えられ、鏡の向こうにもう一つの世界があるという観念は通俗文化に存在し世界各地で見られる。水鏡と石板鏡、金属鏡しかなかった時代には、鏡像は「ぼんやり」したイメージであった。近代になりガラス鏡が発達し、そのままの姿を映す鏡が出現すると「ミラー」という名前の新聞が登場する。これは、「鏡のようにはっきりと世相を映し出す」意味で付けられたものであるとされる。鏡と鑑はおなじ意味の文字であるが、鑑は人間としての模範・規範を意味する。手本とじっくり照らし合わせることを鑑みるというのも鏡から来ている。天照大神は「此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし」(この鏡を私だと思って大切にしなさい)との神勅を出したとされているように、古代から日本人は鏡を神聖なものと扱っていたと思われる。古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡を贈られたと伝わっている。このことから卑弥呼は巫女のような、支配者であったとの研究も多い。鏡は信仰の対象とされ、神道や皇室では三種の神器の八咫鏡であり、ご神体として鏡を奉っている神社も多数存在する。また、キリスト教が禁止された江戸時代には、隠れ切支丹の信仰のために、光の屈折でキリストやマリア像が浮かび上がる「魔鏡」が作られた。鏡は、事物の真の姿を映し出すともされた。地獄の閻魔大王の手には、彼の前に引き出された人間の罪業を暴き出すために「浄玻璃鏡」という鏡を持つという。鏡が割れることを不吉の前兆としたり、鏡台にカバーをかけた習慣は、鏡に霊力が宿るとする通俗観念が生活習慣の中にも根付いていたことの表れである。日本においては鏡の持つ神秘性が、餅や酒などの供物にも込められてきた経緯があり、現代でも鏡餅や鏡開きなどの習慣に残っている。鏡の語源は「影見」、あるいは蛇の古語のカカとその目から来たとされている。女性は、結婚に際して必ず鏡台や三面鏡を持参したものだが、今ではほとんど鏡を持参することが無くなった。これは、和服を着る習慣がなくなってきたことと関係しているようだ。
2013年02月22日
サザエと同じ仲間の巻貝の一種に、ロマンチックな「夜光貝」と言う名前の付いた貝がある。何故かこの貝の名前を聞くと、竹の節が光っている「竹取物語」の挿絵を思い出す。九州から北の海には棲息しないので、通常一般の人はこの貝を生きたまま目にする機会は少ない。インド太平洋のサンゴ礁域に生息する大型の巻貝である。重厚な殻の裏側に真珠層があって、研ぎ出すと美しい煌めきが出るので、上古から螺鈿細工の材料として利用されてきた。正倉院御物の中にも、ヤコウガイを使った工芸品がある。平安時代に書かれた日本最古の続き物語である「空穂物語」には、「やくがい」をつきまぜてぬれば、キラキラとして美しいと書かれている。海棲生物で自ら発光するものとしては、ホタルイカや海ほたる、チョウチンアンコウなどが有名だが、深海に生息する多くの生物は発光することが知られている。ヤコウガイはその名前から、暗闇で光ると思われがちだが貝自体が発光することはない。もともとの名前の由来は、屋久島から献上されたことから「ヤクガイ(屋久貝)」と呼称されていたようである。それが転じてヤコウガイになったと言う。貝の真珠層の美しさから発想して、夜光貝の字を当てたものであろうか。ヤコウガイはリュウテン(竜天)サザエ科の貝の中で最大である。殻高18cm、殻径20cmで重さは2kgほどにも成長する。殻は開口部の大きさに比べて尻が低い。数列の竜骨突起が発達するが、連続せずに瘤状に分離することもある。サザエのようにごつごつしていなくて殻表面は滑らかで、個体によっては成長肋が目立つ。殻表全体は緑色を帯びた黒褐色を呈し、赤茶色がある。殻の内側は青色から金色を帯びた真珠光沢である。他のサザエの仲間同様、石灰化した厚い蓋を持つ。日本近海では屋久島・種子島以南の暖かい海域に生息する。生息域は水深30m以浅の比較的浅い岩礁に棲み、ハマグリに見られるような砂泥質の海底には棲息しない。夜行性で、海藻などを餌とする。繁殖活動は冬場を除き一年中みられ、大潮の前後におこなわれる。稚貝は3年で70mmほどに成長する。肉は刺身や煮物として食用にされる。煮た場合非常に硬くなるので、調理には圧力釜などが必要である。硬くて、焼き物には向かない。ヤコウガイから加工できる螺鈿素材は、最大で5cm×15cmほどになり、温帯・亜寒帯域で捕獲できる螺鈿素材の貝よりもはるかに大きいパーツが取れる利点から珍重されてきた。 釧路幣舞橋の袂にある「フィッシャーマンズワーフMOO」をはじめとして、魚市場に併設された食堂の多くでは購入した魚介類を調理して客に食べさせるシステムがある。沖縄県那覇市の牧志公設市場の二階の食堂でも、一階で購入した魚介類を調理してくれる。 学友が食堂の経営者と懇意なこともあって、沖縄を訪問する度に牧志の二階に案内してくれる。いつも南の海特有のカラフルな赤・青・黄色の色をした、ブダイの類やニシキエビなどをご馳走になるのだが今回はそれらに加えてヤコウガイの刺身を頂いた。前からこの貝が気になっていたので、巨大な貝殻を貰って帰ることにした。学友が話すには、小学生のころの夏休みの工作の宿題に多くの児童がこの貝殻を磨いて、置物を作って提出したという。貝殻自体は一個2,500円程度で購入できる。これを様々に磨いたものには、倍以上の付加価値が付く。さらにアクセサリー用などに加工したものでは、1cm×5cmほどでも3000円位もする。 磨き方なども教えて貰ったのだが、家に持ち帰ったら家内がそのままで花入れとして使いたいと言い始めたので、目下のところ加工しないでそのままに置いてある。ふとこの貝に目がとまると、沖縄のサンゴ礁に囲まれた海が目の前に浮かぶように感じられる。
2013年02月21日
日本で、古来より使われてきた伝統的な楽器を和楽器あるいは邦楽器と呼ぶ。大陸文化の影響を受ける以前から伝承される日本固有の楽器としては、和琴(わごん)がある。神楽笛(かぐらぶえ)、笏拍子(しゃくびょうし)も日本固有のものと見なされている。そのほかの和楽器と呼ばれているもののほとんどは、大陸から渡来した楽器を基としている。渡来楽器が、日本の文化や美意識のなかでその形を変え独特な進化を遂げたものに三味線、尺八、能管、小鼓・大鼓がある。中でも尺八は、日本の伝統的な木管楽器の一種であり、リードのないエアリード楽器である。リードとは、楽器に用いられる薄片のことで振動して音源となるものである。そのために尺八は不完全楽器とも言われていて、弦楽器や鍵盤楽器のように誰でもが最初から音を出すことは非常に難しい。尺八は、薄片を用いず空気を絞ってエッジに吹き当て振動させる。熟練しないと音を出すことも出来ない。しかし、吹きこむ息の形状や角度を自在に調節できるため、音量・音色・音高・音域の幅が広く、哀愁のある日本人好みの枯れた音を出すことができる。材質は本来真竹であるが、初心者用などには木製の尺八やビニール管などで出来た安価な尺八が開発され使用されている。尺八の歌口は、外側に向かって傾斜がついていて水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材が埋め込まれている。歌口の形状には二種類があり、三角形をしている琴古流と半月形の都山流がある。日本には雅楽楽器として、7世紀末から8世紀はじめに唐から伝来した。空白期間の後、鎌倉~江戸時代に現在の尺八の原型が完成した。名称は、標準の長さが一尺八寸であることに由来する。尺八に関わっている人の間では単に「竹」で通用する。実際の尺八はその名前とは異なり、尺二寸の短いものから二尺を越える長さのものまである。短いほど、高音が出る。何れの長さでも真竹の根元から、節が7つあるようにして作られているのが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。7孔尺八を除いて指孔は前面に4つ、背面に1つある。正倉院には六孔三節の尺八が八管収められていると言う。鎌倉時代になると一節切(ひとよぎり)と呼ばれる縦笛があらわれた。これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものである。また、この一節切は武士の嗜みの一つとして武家社会で流行した。後に、これを吹いて物乞いをする遊芸人の薦僧と呼ばれる集団が現れた。この薦僧が、禅宗の一つである普化宗と結びつき虚無僧になった。幕府の法度によって、尺八は法具として普化宗に属する虚無僧以外は演奏できないとされていた。建前上は一般の者が吹いてはならない決まりとなっていたが、実際には尺八を嗜む者はいたようである。明治時代以降に、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏することが可能となった。我が国の舞踊・華道・茶道など、伝統文化には全てに様々な流派がある。尺八も例外では無く、いくつかの流派がある。その内の一つに琴古流がある。琴古流は大小いくつもの組織の総体であり、琴古流として統一した組織ではない。都山流は明治期に初代中尾都山が創始した流派であり、普化宗とは直接のつながりを持たない。都山流は尺八界最大の組織である。上田流は、都山流から独立した流派である。尺八の符のロ、ツ、レ、チ、リでは無く五線譜、7孔尺八などを導入し、尺八の近代化を図った。現在は上田流尺八道と称している。琴古流本曲は、古流の始祖である初代黒沢琴古が日本各地の虚無僧寺に伝わる楽曲をまとめたものである。代表的な楽曲に、鹿の遠音、鶴の巣籠りなどがある。 昭和50年に一念発起して、琴古流尺八師範の所へ弟子入りした。当初は全く音も出なかったのだが、半年ほどでかすれながらも「荒城の月」が吹けるようになった。その後本曲の「鹿の遠音」、「鶴の巣籠り」の他、筝曲との合奏曲の春の海、千鳥の曲、黒髪、六段の調べなども吹くことが出来るようになった。 5年程の修行で奥伝と師範の免状を貰ったのだが、それを契機にほとんど竹を手にすることは無くなってしまった。尺八歴は40年近い計算になるが今では、たまに竹を手にしても息が続かないし指の運びも硬くなってしまった。もう少し真面目にやっていれば、人様に聞かせるほどに上達したのかも知れない。
2013年02月20日
昭和25年に勃発した4年間にわたる朝鮮戦争の特需によって、第二次世界大戦で疲弊した日本が息を吹き返し糸偏・金偏景気とも言われた。今、中国では自動車排ガスや工場排煙による微粒子物質PМ25の大気汚染が大きな問題となっているが、日本の工業地帯や大都市でも当時全くそれと同じような現象が起きていた。大学入学のため、初めて上京して来た昭和33年当時から昭和40年代までは、東京の空の冬はスモッグに、夏は光化学スモックで覆われ多くの人に、気管支ぜんそくなどの呼吸器疾患を発症させ、健康被害が多発した。大きな社会問題となり、患者救済のための法律まで作られた。自然の真っただ中で育った人間にとって、東京の空気の汚れは真実耐えがたいものであった。昭和37年にT庁へ就職したのだが、通勤途中でホームから見る線路のスズメは灰色に汚れていて、まるで田舎で見ていたスズメと別種のように思えた。そんなこともあって就職当初から、定年後は都会から隔絶された場所で山川草木に囲まれて、花鳥風月を愛でながら自然と共に暮らしたいと思うようになった。定年まで10年と言う頃、東京生まれ東京育ちの妻に相談すると、心良く賛同してくれた。それからは事あるごとに、故郷の伊那谷を始め八ヶ岳や南アルプスの麓、富士五湖・箱根・熱海方面などの土地を見て回った。退職の2年前になって、これらの中で周りに何本もの清流が流れ、岩魚や山女などの渓流魚も豊富で夏はホタルが飛び交い、春は豊かな山菜や秋にはうまくすれば松茸も採れると言う南アルプス甲斐駒ケ岳の麓を退職後の拠点と定めた。100坪ほどの続きの2区画の土地を購入し、一区画は開墾して家庭菜園にしようと計画した。しかし残念なことに、建築に取り掛かってからこの地域には百匹とも言われる野猿の群れが月に2~3回出没し、作る野菜の種類が限られることが判明したのだ。その上委託した建築会社が、建築費全ての支払を済ませた後に不渡りを出して倒産するなどのアクシデントも重なったが、10カ月後に漸く建物の引き渡しを受けることができた。下請け業者には経費が全く支払いされていなくて、裁判で決着がつくまで随分嫌な思いをした。原野になっていた土地から一年掛かってススキとクズの根、一抱えもある無数の石を掘りだしての開墾で畑らしくなった。最初の何年かは順調に収穫出来たのだが、5年程すると猿・猪・ハクビシン・鹿の襲撃でほとんど野菜の収穫が出来なくなってしまった。土地を購入したのが夏の季節であったので分からなかったのだが、冬から春にかけては現地で言う八ヶ岳颪が恐ろしいほどに吹き荒れる。裏の山の木々が唸り声を挙げ、家が悲鳴を上げるほどだ。そんな日は恐ろしくて、中々熟睡が出来ない。初夏の季節には優雅に舞っていたホタルであったが、3年前の河川改修で全く飛ばなくなり、その上釣りキチの義妹の夫が15匹も釣りあげて焼いて食べたこともあった渓流魚は、今では全く魚影が見えなくなってしまった。近くの農家の人は、毎年松茸収穫の報告をしてくれるのだが、これもまた素人には全然採れなくて今では山へ入ることもなくなってしまった。住んで見ると、中々最初に思い描いた計画書通りには行かないものだ。子供たちは、この建物を使う気も無いようである。昨年は、高齢者運転免許講習を受けて免許更新をした。この場所に通うには、車は必需品なのだがいつまで運転ができるか分からない。後数年したら山荘をどうするか考えないと、子供たちにとっては負の遺産になってしまうかもしれない。 「山荘の雪景色の写真は、白州の爺やさんが送ってくれたものである。」
2013年02月19日
日本の道路の総延長は、1,268,743キロメートル(平成22年4月1日現在)だそうである。その内、高速自動車国道は7,802.6キロメートル(総延長から重複、未供用、渡船を除いた延長を含めると9,126.8キロメートルになる。高速自動車道は一般的には、高速道路や単に高速と呼ばれる。東名高速道路が、略称で東名高速または東名など複数の呼び方で呼ばれているように、他の道路にも複数の呼称が使われている。自動車道の出入りはインターチェンジ等のランプに限られ、上下線が中央分離帯で分離されていること(暫定二車線を除く)、交わる道路・鉄道とは立体交差し、自動車の高速通行に適した勾配、直曲線になっていることが求められる。高速道路の通行条件はつぎのようになっている。自動車(125CC以上の自動二輪を含む)自動車で、50キロメートル/h以上の速度が出ない自動車も通行ができない。我が国の高速自動車道路網の進展と共に、日本の貨物輸送の主力は従来の鉄道から自動車輸送へと変化した。年間30往復ほど、中央道を利用する。中央自動車道は、高井戸ICから小牧JCTまで山梨県と長野県を貫いて走り、文字通り中部地方の大動脈である。国道20号と塩尻市から伊那谷を経由して名古屋市に到る国道153号線が並行している。諏訪湖を見下ろす場所に、諏訪湖サービスエリアがある。小淵沢インターチェンジから伊北インターチェンジの間は700メートルから850メートルの標高があり、この一帯は冬の朝は晴天のために放射冷却によりマイナス15度以下にまで下がることも珍しくないほど寒冷の地である。この寒さと続く晴天を利用して170年前から、日本一のシェア―を占める寒天作りが行われているのは有名である。小淵沢IC-伊那ICは、冬季にはしばしば降雪による通行止めが発生する。逃げ道は並行する国道20号線と153号線しかないため、この一般国道はかなりの渋滞が発生する。通行止になる場合には小淵沢IC周辺にも降雪がある。しかも山陰で陽の当たらない場所が多く気温が低いため、融雪剤の効果も低いと思われる。この区間に降雪通行規制があると小淵沢ICで下ろされるのだが、、ICから国道20号に向かってはきつい下り勾配とカーブが連続しているので、ノーマルタイヤの車両がスリップ事故を起こしたり、坂を登ることが出来ずに立ち往生したりする光景が見受けられる。今年は寒波が続くためか、韮崎から西のルートでしばしば通行止めが発生している。1月15日にどうしても南信州へ行かなければならない用事があったのだが、大荒れの天気予報のため、前日に出掛けた。笹子トンネルの一車線規制による渋滞のほかは、春霞たなびく長閑なドライブであった。翌日は一転、早朝から予報通りの大荒れ降雪となり、中央道は全線通行止め。漸く解除になったのは、17日の朝であった。その後も2月9日には伊北ICから飯田ICが濃霧で、午後まで通行止めになった。2月16日にまた信州へ出掛ける用事があって、早朝八王子JCから入ったのだが前日の降雪のため、小淵沢ICから伊北ICまで通行止めであった。双葉サービスエリアで9時から10時半まで規制解除を待っていたのだが、解除の見込み無しとのことで信州行きを断念。白州の山小屋で一泊して帰ることにし、昼飯を食べて一休みし念のためネットで検索したところ、12時で規制が解除になった事を知り急遽行くことにし再度予定を変更したのだ。当日々時間帯に、関東地方からは4台の車が向かっていた。内一台はスタットレスタイヤを履いていたので、時間通りに到着していた。チェーンを持っていた車は、小淵沢ICで7の渋滞とチェーン着脱で結局3時間後に出発した車と同じ到着時間になってしまった。幸い、昨日の帰りは諏訪湖サービスエリアの日中気温零下11度の酷寒の中であったが何の規制も無く帰って来られた。しかし今日も、今朝からの降雪で韮崎ICから西が通行止めとなっている。笹子トンネルの天井崩落など手抜き道路管理による事故での通行止めは絶対に許せないが、安全確保のための通行止めは受忍の範囲で仕方ない。ただし、規制解除の見通し等についての情報が全く知らされないのは問題であって、復旧状況やその見通しなど細い情報が欲しいと願うのはドライバーの我儘な希望なのであろうか。
2013年02月18日
ウグイスは東アジア一帯に棲息し、日本ではほぼ全国に分布する留鳥である。寒冷地の個体は、冬季に暖地へ移動する。平地から高山まで棲むことが可能で、環境適応能力は広い。笹の多い林下や藪に潜むので、鳴き声が聴こえても姿が見えないことが多い。スズメとほぼ同じ大きさで背中がオリーブ褐色、腹面は白色の雌雄同色で全体的に地味色である。鳥には、奇妙な習性を持つものがある。自分では産卵はするものの、抱卵・育雛を放棄してしまう変わった鳥がいる。この習性を、托卵と言う。ホトトギスは、専らウグイスの巣に卵を産み付け自らは子育てに全く関与しない。ウグイスとホトトギスの卵は色・形ともよく似ていて、ホトトギスの托卵対象となる。科学博物館動物研究部脊椎動物研究グループ濱尾章二らによると、ウグイスの繁殖期を通じての被托卵率は21~24%であるという。約1/4もの巣が、ホトトギスの攻撃托卵を受けていることになる。また、東大の樋口広芳はかつて、ウグイスの巣に人工の卵を入れて反応を観察した結果、ウグイスは白やピンクの卵では巣を放棄したが、赤い色の卵は抱き続けた。ウグイスは、赤色では自分の卵と識別できないためであろうとしている。北海道にはホトトギスの渡りはないが、ホトトギスの代わりにツツドリが托卵する。雑食で夏期は主に小型の昆虫、幼虫、クモ類などを捕食し、冬期は植物の種子や木の実なども食べる。繁殖期は初夏で、オスは縄張りをつくり「ホーホケキョ」と1日に1000回ほども鳴くという。横に穴が開いた壺形の巣をつくり、4~6個の卵を産み育雛はメスがおこなう。囀りは「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」、地鳴きは別名「笹鳴き」とも言われ冬期に低い声で「チャッチャッ」と鳴く。「ホーホケキョ」と鳴くのが縄張り宣言で、「ケキョケキョケキョ」は谷渡りとも言われ、侵入者への威嚇または警戒の鳴き声であるとされる。「ホーホケキョ」とさえずるのを初めて聞いた日を「ウグイスの初鳴日」と呼び、気象庁が生物季節観測に用いている。鳴き始める季節が早春であることから、春告鳥の別名がある。関東・中部地方では2月初旬頃から8月下旬までが時期だが、場所によっては10月頃まで弱い囀りの聞かれることもある。平安時代初期の歌人であり書家の藤原敏行が詠んだ和歌に、心から 花のしずく そほちつつ うくいすとのみ 鳥の鳴くらむ (古今和歌集 巻十 0422)とある。薬局・薬店では、「うぐいすのふん」を売っている。糞にはリゾチームなどの加水分解酵素が豊富に含まれ、顔面への塗布で角質層が柔らかくなって小皺が取れ、肌のキメが細かくなったり色白になるとされ、古くから美顔洗顔料やにきび治療薬として使われてきた。この酵素には漂泊作用もあるため、着物の染み抜きにも利用される多くの人は、ウグイスとメジロを良く混同している。梅にウグイス言われるが、実際には梅の蜜を吸いに集まるのはメジロであり、藪の中で虫を食べているウグイスは梅の木で蜜を吸う姿を見せることはない。また、メジロは群れをつくるが鶯は群で行動しない。「ウグイス色」というとメジロの体色のような鮮やかな色を連想する人も多いが、実際は地味な黄土色をしている。古来、その鳴き声が衆人に愛された鳥であり、春鳥、春告鳥、花見鳥、歌詠鳥、経読鳥、 匂鳥、人来鳥、百千鳥、黄鳥、金衣公子など多くの異名・愛称をもっている。上を歩くと、「キュキュ」と音が鳴る床を鶯張りという。鴬張り廊下では二条城が有名だが、その他にも大寺院の堂や書院の廊下に使われている。特殊な金具を使用して音が出るようにしており、不審者の侵入対策として作られたものと言われる。しかし、一般住宅で特別何の細工もしてなくても、経年劣化によって同じような音が鳴る家もある。ウグイスのテリトリーは200mとされ、シジュウカラの凡そ倍の広である。相模原の我が家の庭にも、秋口からウグイスの藪鳴きが聞こえていたのだが、今年は春になっても囀りが聞かれない。南アルプスの麓では、5月頃盛んにウグイスの声を聞く。散歩しながら口笛で鳴き声を真似ると、本物のウグイスが必ず鳴き返すのだ。何年か前、家の窓のすぐ外の垣根に来て囀っていたので、鳴き合わせをしようと考えて野鳥の声を収録したCDを大音響で鳴らした。どうも、それ以来ウグイスの囀りを聞かなくなったような気がする。もしかしたら、CDの音との縄張り争いに負けて、縄張りを明け渡してしまったのかも知れない。家内からは、自然を壊して馬鹿なことをすると顰蹙を買ってしまった。
2013年02月15日
一日8時間が睡眠時間としたら、人生の1/3は寝ている勘定だ。人が寝る際必ず必要となるものに布団と共に枕がある。枕の語源には魂の倉(たま・くら)からとする説と、布団と頭の間を意味する間座(ま・くら)または、神や霊を呼ぶための真座(ま・くら)からとするものがある。安眠する為には使い慣れた枕が必要で、枕が変わると眠れないと言うのはよく聞く言葉だ。枕は人が使うものを指して言うだけではなく、レールなどの長い物の下に敷く物を「枕」または「枕木」と言う。線路の枕木は、いつの頃からか、コンクリート製に取って代わられ今では文字通りの木製の枕木には滅多にお目にかかれない。木製でなく、コンクリート製でも枕木とよばれている。落語で本筋に入る前に、本題の前に聴衆を笑わせてリラックスさせることを意図した小話が語られるがこれも「枕」という。中学時代の古典入門で必ず学習するのが、青丹によし…、みすずかる…、垂乳女の…などの「枕言葉」と言われるものである。それぞれ奈良の都、信濃の国、母などの言葉が続く。寝具の枕は中に詰物を入れて、適度な硬さと高さを調節している。詰める材料は蕎麦殻・籾殻・小豆・ウレタン・羽毛などがある。終戦末期から戦後にかけて、当時食料不足のため枕に詰められていた小豆を煮てぜんざいにして食べたという話をよく聞いた。「NHKのためしてガッテン」の実験では、寝た時の首の角度はおよそ15度が良いと説明している。江戸時代から昭和の初めにかけては、台形の箱の上に伊達巻きに似た形態の枕を乗せた箱枕が必需であった。結った髪が乱れないようにと、工夫されたものであった。なかにはこの箱の部分が漆塗りで、華麗な装飾の施されたものもあった。中国北東部の遼東半島南端の旅順にある標高203メートルの丘陵は、二百三高地と呼ばれ1904年から1905年にかけて日露戦争の激戦地となった。大正時代に女性の間で、束ねた髪を前後左右に大きく張り出させ頭上に髪を盛り上げる髪型が一世を風靡したが、この髪型は203高地にかけて「二百三高地髷」と言われた。就寝時この大きく結われた髪型を乱さないための枕として、日露戦争後に箱枕が再度脚光を浴びるようになった。実家には沢山の箱枕が残っていて、実際祖母は昭和10年代まで使用していた。しかし箱枕は、戦後女性の髷がパーマネントや短髪になるとともに需要がなくなって消えて行った。枕を高くして眠る、という言葉がある。史記の「楚韓の患い無くんば則ち大王枕を高くして臥し、国必ず憂い無からん」がこの言葉の出典である。現在は気にかかることがなく、「安心してゆっくりと眠ること。」「心配事が全くないこと。」の意味で使われる。一方では、江戸時代の随筆に「寿命三寸 楽四寸」という言葉が書かれている。四寸(約12)くらいの枕は寝心地がいいのだが、長生きするには三寸(約9)くらいにしたほうがよいと言うのだ。確かにあまり高い枕では、首や肩が痛くなって熟睡は出来ない。箱枕は台形の箱の高さが15センチもあり、さらにその上に直径7センチ以上もあるものを乗せているのだから、髷のためとはいえ決して使いやすくはなかったはずである。斯く言う自分も、使い慣れない旅先の枕では極めて落ち着きが悪い。この頃のホテルの枕は、一様に柔らか枕である。平たい柔らかな羽毛入りのペタンコ枕では、横になった気がしなくてまるで安眠できないのだ。かといって自宅で常用の枕を抱えて旅をするわけにもいかず、バスタオルを丸めて重ねるなどの工夫を凝らして何とかその場凌ぎの対応をしている。
2013年02月14日
衣類の防虫剤と言えば、昔から楠から採取された樟脳かコールタールから精製されたナフタレン(製品名ナフタリン)が使われていた。樟脳は、クスノキの葉や枝などのチップを水蒸気蒸留すると結晶として得ることができる、香りのある昇華の性質を持った結晶である。クスノキは楠と書き現すのが一般的だが、元々は樟と書いていたのだが漢字が伝わった際楠の文字に間違えられたのだと言う。流通する天然樟脳の多くは、中国や台湾など外国産である。樟脳には、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されていた。かつては強心剤としても使用されていたので、「カンフル剤」の語源になっている。現在では、それらの用途としては用いられなくなった。衣服の防虫防腐剤としての利用のほか、花火の添加剤、セルロイドの可塑剤としても使用されてきた。日本における樟脳の生産は、1962年に日本専売公社による樟脳専売制度が廃止されたことによって生産量は急減した。 現在日本においては、福岡県と宮崎県の各1社で製造されているに過ぎない。樟脳は皮膚から容易に吸収され、そのときにメントールと同じような清涼感をもたらし、わずかに局部麻酔作用に似た働きもする。誤飲の場合は極めて有毒であり発作、精神錯乱、炎症および神経と筋肉に障害を与える。有毒物質の誤飲・誤食の場合に、牛乳を飲ませて応急処置をすることがあるが、樟脳は脂溶性のため牛乳によってより一層体内に吸収しやすくなるので飲ませてはならない。子供の頃祭礼や縁日で、盥に張った水面で不思議な動きをする樟脳舟を売っているのをよく見かけた。木かセルロイドで作られた小船の船尾に、樟脳を小さくカットして取り付け水面に浮かべると、後方の水面に樟脳の成分が拡がるため表面張力の差によって前方に引っ張られ船が進む原理を利用した安価な玩具であった。楠は主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られる。なかでも九州に多く、生育域は内陸部にまで広がっている。人里近くに多く神社林ではしばしば大木が見られ、御神木として人々の信仰の対象とされているものもある。巨材が得られることから家具や飛鳥時代には仏像の材としても使われた。多くの県や自治体で、「県木」や「自治体の木」として指定されている。昭和63年に環境庁が実施した「緑の国勢調査」によって、鹿児島県姶良市蒲生町上久徳の蒲生八幡神社境内にあるクスノキが日本一の巨木と認定された。大正11年に天然記念物に、昭和27年には特別天然記念物に指定されていて、通称「蒲生の大楠」とよばれている。鹿児島空港から40分、市内へ向かう途中に位置している。この木は、樹齢1500年と推定されている。900年前に正八幡若宮(蒲生八幡神社)を建立したときには、すでに御神木として祀られたと言われている。公式記録で樹高30m、根回り33.7m、目通り24.22mとされている。根際にはカギの付いた扉があり、樹の中芯は空洞になっていて8畳敷の空間があると言う。樹木の好きな人は、その巨大さを一度は見ておく価値がある。 前々から衣類の虫が気になっていたので、先月樟脳を買って来て箪笥や衣装箱に入れた。少し量が多かったと見えて、箪笥などから気化して漏れた匂いが寝室に充満して息苦しいほどになってしまった。多ければよいと言うのではなく、何事もほどほどにすべきだと今更ながら悟ったことである。
2013年02月13日
1933年に作られた童謡「赤い帽子白い帽子」の歌詞では、女の子がランドセルしょってと歌われていて、1939年に作られた「仲よし小道」にも、みよちゃんとランドセル背負っての歌詞がある。これらからするとランドセルは、この頃にはすでに一般に普及し始めていたことが類推できる。ランドセルは小学校入学のシンボルとして愛され、受け継がれてきた。入学時までには教室で履く上履きと一緒に必ず備えるものだが、多くは祖父母からの入学祝いとしての贈り物である。4月の入学式を待ち切れず、筆箱だけが入った贈られたランドセルを背負って家の中を歩き回り、その感触を確かめた記憶のある人も多いと思われる。ランドセルの歴史は、幕末の日本に西洋の軍隊制度が導入された際、兵隊の持ち物を持ち運ぶため布製の背嚢も導入され、軍用に使われたことが日本におけるランドセルの原型になったとされている。明治18年学習院において、学用品類の通学時の入れ物として軍用の背嚢が採用された。背嚢はオランダ語で「ランセル」と呼ばれていたことから、やがて通学用の背負いカバンを意味するランドセルという言葉が生まれたという。当時のランドセルの形態は、今のリュックサックに近いものであった。現在の様な形の箱型ランドセルが出来たのは、明治20年に内閣総理大臣伊藤博文が大正天皇の入学祝いとして献上したものが原型になったとされている。背負い式の通学カバンはヨーロッパの一部でも使用されているが、ランドセルは日本独自のものとして発展して来たものである。私は戦後直ぐに入学したのだが、物資が無い時代に母親ほど年の離れた従姉から布製のランドセルをプレゼントされ、それを使っていた記憶がある。背負うことによる負担の軽減や両手が自由に使えるなどの長所から、ランドセルは小学生用として戦前から普及していたことがわかる。これが昭和30年代になって、全国的にランドセル通学が普及し日本の小学生にランドセルは欠かせないものとなった。ランドセルの材質は従来、牛革や高級なコードバンが多かったのだが軽さや丈夫さに加えて手入れが簡単なことからから、クラリーノ製が約7割を占めるようになった。牛皮の天然素材を使用したものより、人工皮革の方がむしろ高価である。我が家には、5人の孫がいる。毎年入学して、現在3年生を筆頭に3人が小学生である。今年も一人入学する。以前自分が子育ての頃は、入学祝いは3月に貰うのが当たり前であったのだが、贈る時期がだんだん早くなって、ランドセル業界は入学前年のお盆の頃をターゲットにし始めている。実家へ孫を連れて帰省する時期にランドセルを贈り、孫の喜ぶ顔を見るのが楽しみだと言うのだ。我が家もご多分にもれず、コマーシャリズムに踊らされて今年入学する孫のため4個目になるランドセルを昨年の内に贈った。
2013年02月12日
神社とは、神道の信仰に基づいて作られた恒設の祭祀施設を言う。祀っている対象は、伝説の神を祀る古社と歴史上の実在の人物や自然物を祀る神社とに分けることができる。日本には、八百万と言われるほど多くの神々がいるとされている。人が神として祀られるのにはいくつかの条件があって、ひとつは平将門、菅原道真、崇徳天皇等のように死ぬ際強い恨みを抱いていた場合である。これらは、怨霊を鎮めるために御霊として祀られている。もう一つは、常人を超えた「神」のような力量や人格がある人の場合で、その人は神さまとして崇められるようになる。信長、秀吉、家康も神になっているし、甲斐の国には武田神社がある。明治天皇は明治神宮に祀られているし、吉田松陰は松陰神社に祀られている。虎退治のエピソードのある加藤清正は、加藤神社に祀られている。戦前戦後に小学校に学んだ人で、二宮金次郎を知らない人はいない。1881年発行の報徳記に、「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず」と書かれ、像の原型となった「振薪読書図」が初めて紹介された。振薪読書図は売薬版画や引札、子供向けの伝記類によって、薪を背負いながら本を読んで歩く姿が全国に広く知られることになった。ただ、報徳記に記載されている尊徳幼少期の記述は信憑性が薄いとされていて、薪を背負って本を読んで勉強しながら実際に歩いたかどうかについては大いに疑問が残る。1904年以降になると、この像が国定教科書の修身に象徴として取り上げられた。尊徳の実践した自助的な農政をモデルにして、「自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策」の展開を図るために、山縣有朋を中心とする人脈によって政治利用された。二宮金次郎の像の元になったのは、東京美術学校鋳金科の教師岡崎雪聲が1910年に東京彫工会に出品した作品である。小学校の校庭などに見られた「金次郎像」は、国家の政策論理に同調する石材業者や石工らによって広まったとされる。「金次郎像」は、1924年に現豊橋市立前芝小学校に建てられたのが最初であるという。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地のほとんどの小学校に像が建てられた。どこの小学校にも、必ず二宮金次郎の像と教育勅語・天皇皇后の写真を納めておくための奉安殿があった。終戦後GHQの指令により、奉安殿と二宮金次郎像が共に廃棄されたと言われたことがあるが、二宮尊徳は占領下の1946年に日本銀行券(1円券)に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部とは関係無いようだ。実際には、像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという逸話の信憑性に疑問があり、児童が像の真似をすれば交通安全上の問題があるとも指摘された。そんな理由もあって、1970年代以降の校舎の建て替え時などに徐々に撤去されたことで、像の姿を目にすることが少なくなったと言うのが真実であろう。地元に、二宮尊徳命(にのみやそんとくのみこと)を祀る二宮神社がある。明治13年に開拓者の八家族がこの地に移住し、尊徳の実践した自助的な農政をモデルにして村作りを始めたという。終戦後、地元住民の心のよりどころとして神社の設立に着手し昭和22年4月22日に完成、翌23日に小田原城内鎮守の報徳二宮神社の分身をここに移して祀ったものという。神社の境内には、新たに建立された二宮金次郎像がすっかり現代の顔をして建っている。
2013年02月11日
浄瑠璃や歌舞伎で、盗賊石川五右衛門が釜茹での刑にに処せられる時に詠んだ辞世の句と言われるのが「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」である。実際に、五右衛門が詠んだとは考えられず多分に後の創作であろう。同じ他人の物を盗る行為をしながら、これをイギリスの歴史家エリック・ホブズボームが盗賊と義賊とに分類し定義づけている。単に盗みを働く者が盗賊で、権力者にとってみれば犯罪者だが民衆からは「正義」を行ったと看做される賊を義賊に分類した。さらに、民衆との接点が必ずあることも義賊の条件としている。わが国で有名な盗賊には、安土桃山時代に釜茹になったとされる石川五右衛門と、江戸時代に義賊と言われ36歳で処刑された鼠小僧次郎吉がいる。生家に白井喬二の代表的長編小説「富士に立つ影」があったため、難解ではあったが中学生頃に読んだ。そんな縁で、白井喬二戦後作品集〈地の巻〉石川五右衛門も読んだ記憶がある。稀代の大盗人石川五右衛門は、浄瑠璃・歌舞伎を始めあらゆるメディアに取り上げられている。落語には、お血脈、釜泥、骨つり、強情灸などがある。安土桃山時代に都市部を中心に荒らしまわり、豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で子分らと共に処刑された。京都市東山区にある龍池山大雲院に、石川五右衛門の墓がある。彼の処刑に関わる様々な記録が、史料として残されている。アビラ・ヒロンの記した「日本王国記」によると、かつて都を荒らしまわる集団がいて20人が捕らえられ、1594年の夏京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。続本朝通鑑には、「頃年有石川五右衛門者或穿鍪或強盗不止矣、秀吉令京尹前田玄以遍捜之遂捕石川且縛二其母竝同類二十人許一烹殺之三条河原」とあり、また、歴朝要紀では、「所司代法印前田玄以、捕賊石川五右衛門竝其母及其党二十烹殺于三条河原」と記されている。ところで、今までの人生で侵入盗と、空き巣の2回の被害を受けている。大学新卒で就職したての頃、最初に勤務発令されたのは、東京都の北部に位置する保健所であった。当時の保健所は、伝染病(現・感染症)・食中毒・咬傷犬の届け出受理の必要から、職員の宿直が行われていた。大体は、独身の男子が妻帯者に替わって泊まるのが常態であった。事業所は戦後間もなく建設された木造の建物であって、窓枠も勿論木製で風が吹くと窓が鳴るような代物であった。夜中に窓がガタガタ鳴っていたのは覚えているのだが、まさか侵入盗があったとは思わなかった。職員が登庁してきて、初めて泥棒に入られた事を知った。当時、手数料・使用料の多くが都の収入証紙で納入されていて、会計室の引き出しに保管していた証紙を盗られたのである。この盗人は数日後、質屋へこの証紙を換金に持ち込んで敢え無く御用となった。切手と間違えて盗って行ったようだ。もう一度は、新築して間も無い自宅に入られた。結婚後間もなくの夏のボーナス支給日であったから、雨の降った6月10日頃であったと思う。退庁後家内と、「サウンド・オブ・ミュージック」のロードショーを見に行っていたのだ。留守の間に、窓ガラスを割られて土足で入られた。家内が持ってきた総桐のタンスに鍵を掛けていたため、二竿のタンスが取っ手の部分から無残にも引き千切られたのだ。小銭入れが壊され、百円・五十円・十円・五円・一円の硬貨が、部屋一面にばら撒かれていた。被害はガラスの入れ替え費と、新品の購入費程もかかった箪笥の修理費であった。後から聞いた話では、当夜入いられたのは近隣7軒で、自分の所以外は宗教の集まりで留守にしていたと聞いた。警察から、お宅も○○宗教ですかと聞かれた。このケースの犯人も後日捕えられたようだ。 石川五右衛門ではないが、浜辺の砂が無くなったとしても世の中から盗人がいなくなることはないのだろう。
2013年02月10日
笹子トンネル全面開通 2月9日朝日新聞朝刊 昨年の12月2日に、中央自動車道笹子トンネル上りルートの天井隔壁が落下し、9名の命が奪われるという重大な事故が発生した。その後、昼夜を分かたぬ懸命な復旧工事により、昨日8日の午後4時68日振りに全面復旧しトンネルの通行が可能となった。中央道は山梨県、長野県を貫いて小牧ジャンクションで東名高速と接続していて、まさに中部地方の大動脈となっている。天井のコンクリートパネル崩落により、上下線とも車両通行止めになったのだが観光県山梨の強い要望もあり、年末の最も車両が利用する時期の26日には、下り線を使った一車線対面通行でトンネル通過が可能となった。山梨県警は、事故2日後の4日から始めた現場検証を18日間で終えた。県警の担当者はもっと詳しく調査が必要だが、早期開通のためには捜査を早めに切り上げざるを得なかったと話している。県警の調査とは別に、当初国土交通省は事故調査を管理者の中日本高速道路株式会社の関係者に任せる方向であった。しかし、世論の反発もあって国土交通省自らが行うことになった経緯がある。いままでの調査によって、中日本高速の道路管理が如何に杜撰なものであったかその一部が判明した。何年も前の点検で、天井板と壁面との結合吊り下げボルトの抜け落ち腐食などで、天井隔壁のコンクリート板が落下の恐れのある危険状態になっていて、天井板を撤去すべきだとの認識を持っていた。しかし、撤去するには全面通行止めにして5か月を要することからこの事実が隠蔽され、さらには2000年以降指示によりトンネル上部の詳細な点検は実施してこなかったという。これは正に、道路管理者の中日本高速道路株式会社が故意過失致死に問われる問題であろう。事故原因調査が、道路管理者に任されていたら、これらの事実が明るみに出なかったかも知れない。若い命を絶たれた被害者の家族にとっては、命を失うことになった場所の上を一日2万台から3万台の車両が通過して行くことには耐えられないほどの苦痛があると思う。一方では、この事故による通行規制について、中央道が通る山梨・長野両県にとっては物流や観光に大きな影響があるため、早期復旧・規制解除を要望して来た。昨年末と年始に、南信州に実際に宅配荷物を送って追跡調査して見たところ、関東からの荷物は中央道・20号線を通らないで、関越自動車道や上信越自動車道を迂回して運ばれていたことが分かった。石和温泉は関東から至近の場所に立地していて、東日本有数の歓楽温泉として山梨県の観光資源となっているが、12月だけで3千人のキャンセルがあったと言う。温泉組合では、「開通が初めの予定より早くなって助かった。」とする一方、「高速道路の安心や安全が保たれないと、客は戻って来ない。」とも言っている。全てこの種事故では、事故が起きてからが起きてから、「二度と事故を起こさないように…。」と責任者は頭を下げるが、経済性のみを追及するのではなく、事故を予見する能力を培いさらに幾重にも安全策を構じて安全性を高めて欲しいものである。
2013年02月09日
博徒と言う言葉がある。賭博で世渡りをしている人のことを指して言うが、博打うち、渡世人ともいわれる。これらの発生は古く、賭け事が庶民の間に広まった平安時代初期には生れたとされている。江戸時代になると、博徒が組織化され武装するようになった。文化2年には幕府が関八州取締所を設置して博徒の取締りを強化したため、江戸および近郊の博徒が上州付近に集まり強大化して幕府に対抗した。この時代に生きた博徒や侠客として、国定忠治、清水次郎長、飯岡助五郎などが有名である。侠客とは、「任侠を建前とした渡世人」を指して言われるが、浪人や疲弊した農村からの離農者など封建体制下における一群の無法者や博徒が用いた自称でもある。賭博には二種類あり、一つは賭ける人間が関与しないで偶然に賭けるもので、3競オートと言われる競馬・競輪・競艇・オートレースの公営競技や、サイコロ、花札、宝くじなどがある。もう一つは、賭ける人間の技術や能力が勝敗に強く影響する賭け麻雀、賭けゴルフなどがある。公営くじには、宝くじとスポーツ振興くじがある。宝くじは、正式名称は「当せん金付証票」と呼ばれる。スポーツ振興くじは、サッカーJリーグの指定された試合の結果あるいは各チームの得点数を予想して投票し、的中すると払戻金を受けることができる公営ギャンブルである。50年も前には、パチンコに嵌まったことがある。その後、コンピュータ制御がされるようになってパチンコの機械自体が変わり、一層ギャンブル性が強くなってきたのですっかり縁を切った。3競オートには、今までの人生で全く手を出したことが無い。昔は、宝くじの年末ジャンボは毎年買っていたのだが、一万円の最高当選金額しか出なくてこれも今では縁を切った。我が家は、築35年になる木造住宅である。少々くたびれてきて様々にリフォームしたのだが、家内がどうしてもリフォームの計画から外れた玄関ドアを替えたいというので、昨年末業者に工事を依頼した。工事契約が済んだところで、業者から市の「住宅リフォーム助成金交付制度」を利用出来ることが知らされた。詳しく内容を聞いて見ると、その助成目的は「地域経済の活性化や市民の居住環境の向上を図るため、市民が市内の施工業者を利用して、個人住宅のリフォームを行う場合に、その 経費の一部を助成する。」というものなのだが、申請数が多いので実際に交付がされるのは、申請者の1/4程度しか無いと言うことであった。申請者の1/4ていどへの助成で、しかも助成額が5万円という小額で果たして本制度の目的が達成できると考えているのだろうか。行政の所管窓口はこの制度をどのように検証し、評価しているのだろうかと考えてしまう。市民の居住環境の向上を図るとするのは隠れ蓑でむしろ、その目的は「市内施工業者の育成と発展」にあるのではないかと思いたくなる。何日か後に申請書類を持参した業者が、代理で市の窓口へ書類を提出した。昨日、「抽選に外れましたので通知します。誠に心苦しく存じますがご了承のほどお願いします。」との通知書が届いた。この制度の助成決定は抽選ということなので、当事者である本人の関わらないところで偶然によってきめられており、しかも当選者がわずかであることから、いうなれば一種のギャンブル制度と言えなくもない。現在同じような制度が、2012年8月16日現在、4県と491の市区町村(計495自治体)で実施されているようである。これらの自治体では、予算執行の効率効果の面から有益との評価がなされているのであろうか。当市の場合、年総額600万円と市の予算から見たらほんの僅かではあるが、もっと多くの市民が快適な生活を送るための方策として、他部面での有効な予算の使われ方があるように思う。
2013年02月08日

18歳の早春に大学を受験したのだが、国語の問題に古典の大鏡の一節が引用されその解釈が問われる問題があった。菅原道真が昌泰四年(901)に、太宰権帥に左遷され家を発つときに詠んだ歌として伝承されている有名な歌の部分である。『この御子どもを、同じ方につかはさざりけり。方々にいと悲しく思しめして、御前の梅の花を御覧じて、「こちふかば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春をわするな」』(現在は、「東風ふかば にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」が一般的か。)子供の頃畑仕事を手伝いながら、教師だったこともある父親からいろいろと言葉と意味を教えて貰った。「東風」の読みとその意味も、最初は父親から教わったものであったと思う。問題に解答しながら、しみじみと親は有難いと感じた。「ウメ」の語源は、中国語の「梅」(マイあるいはメイ)の転化したとものだという説が有力である。サクラと同じバラ科に属し、現在は300種以上の品種があるといわれ、野梅系、紅梅系、豊後系の3系統に分類される。梅の実を採るのは主に豊後系である。奈良時代にはサクラよりもウメの花が愛でられていたため、「好文木、春告草、木の花、初名草、香散見草、風待草、匂草」など多くの異名がある。梅の生産地と言えば甲州、信州、紀州といわれる。実採りの代表品種としては豊後、白加賀、南高、花香実、古城、甲州最小、竜峡小梅がある。竜峡小梅は小梅の大半を占める品種で、大正時代に実家の隣り村(現下伊那郡松川町)で栽培されていた小梅の中から選別された品種である。竜峡の名前は、昭和09年(1934年)に市 丸(28歳時)が唄って大ヒットした竜峡小唄にもあるように、現在の飯田市に属する天下の名勝「天竜峡」から命名したものである。カリカリ梅に漬けるが、カルシウムを加えることで独特の歯応えを作り出している。この原理を応用したものに、フルーチェと言う牛乳を使った食べ物がある。フルーチェにはペクチンが配合されており、牛乳のカルシウムとのゲル化反応を利用したものである。慣用語の「良い塩梅」とは、ウメ干しの塩の味付けが程良いことを言った言葉である。バラ科の未熟の果実や核には青酸配糖体のアミグダリンが含まれていて、腸内細菌の酵素の作用によりシアンが生成され、場合によっては死亡することもある。アンズの種子による重症例がある。未熟な実であっても、アルコールや塩、熱によりアミダグリンは不活化され毒性は低下するとされる。 一輪を 五つにわけて 梅ちりぬ 蕪村
2013年02月07日
この7年ほど、立春を過ぎる頃になると毎日が憂鬱になる。今から65年も前には、現代のように電子ゲーム機など無い時代だったから、遊びの道具は自分で工夫して作り、自然を相手として遊んだものだ。2月も下旬頃になると、杉山のスギの木に鈴生りとなった花芽が膨らむ。そんなスギの花芽を枝ごと採取してきて、篠竹を利用した手作りスギ鉄砲に雄花を詰めて飛ばして遊んだものだ。子供時代には、常にスギ花粉塗れとなって濃厚に接触していたのに、花粉症の兆候など全く無かった。それが、スギの木の林や森の無い東京で暮らすようになって半世紀を過ぎる頃から、世間並みに花粉症を発症するようになってしまったのだ。体質の変化があったのだろうか。花粉症は、現代の文明病とも言えるものである。花粉が原因となるアレルギーを花粉症と言うが、イギリスで最初にこの病気を診た際、枯れた牧草と接触したことによって発病したと考えられたので「枯草熱」と名付けられた。今も、その名前で呼ばれている。今年のスギ花粉の飛散情報が、この2月4日に環境省から発表された。それによると、東日本を中心に例年を大きく上回って飛散し、東北南部から関東東海では昨年に比べて最大7倍もの量の花粉が飛散するという。スギの雄花は真夏の日照時間が長く、気温が高いほど生育がよくなる。そのため、飛散するスギ花粉量は前年の7~8月の気象条件によって予測できるのだと言う。過去10年平均の飛散量は、10年前と比較して約2倍になっており近年の花粉飛散量自体が増加傾向にあるそうだ。 花粉症とは、植物の花粉が原因となってくしゃみ・鼻水などのアレルギー症状を起こす病気の総称であり、季節性アレルギー性鼻炎とも呼ばれている。花粉症は、原因となる花粉の飛ぶ季節にだけ症状が現れる。日本では、60種類もの植物が花粉症の原因になると言われている。主なアレルゲンには、スギ、ヒノキ、カモガヤ、オオアワガエリ、ブタクサ、シラカンバなどがある。個人差はあるが、現在平気な人でも今後とも花粉症にならないという保証は無い。発症する確率はそれまでに花粉を吸ってきた量が関係するとされている。2月頃からスギ花粉の飛散がはじまり4月下旬には飛散が少なくなる。次いで、ヒノキ科花粉の飛散がはじまり、5月末頃まで続く。花粉症は、日本人の4人に一人が持つ国民病とも言われているのだが、戦後になって初めて報告された新しい病気である。日本では、1960年代からわずか40年間で、スギ花粉症に代表される花粉症が激増した。その理由として、スギ花粉の飛散量の増加が挙げられている。また、舗装道路の増加に伴い一度地面に落ちた花粉が、車や風によって再び舞い上がることも大きな原因とされている。戦後に大量植林され伐期の来たスギが、木材の需要減も影響して伐採されず開花期を迎え、さらに地球温暖化の影響を受けて花粉飛散量が増えたことも原因とされている。最も大きな要因として、車の排気ガスなどで汚染された大気中の多くの微粒子によって、抗体の産生がされ易くなり花粉症の発症を促進しているのだと言う。さらに、高タンパクや高脂肪の食生活や不規則でストレスの多い生活、さらには気密性の高い住宅やオフィスの増加もダニやカビの温床となって、アレルギー体質を作り易くしているようだ。春の陽気に誘われて、滅多に通ったことが無い道を散歩していると、住宅街の所々に森があって住宅街に緑を供給している。ところが、近づいて見るとたわわに花芽を付けたスギの林である。普段何気なく見ている緑の林が杉林であることに驚かされる。後、暫らくするとこの林からも多くの花粉が飛び始めることだろう。もしかしたら、自分もこの林の花粉を吸って苦しむことになるのかもしれない。
2013年02月06日
天体で身近にあって、最も人に親しまれているのは月であろう。月と対比される太陽は、月に比べて少しく詩情には欠けるようだ。有名な李白の漢詩に、月光を見て情景と心情を見事に詠んだ詩がある。私が漢文を好きになったのは、この漢詩を知ったことが切っ掛けになっている。牀前看月光 疑是地上霜。舉頭望山月 低頭思故郷。(床前月光を看る、疑うらくは是れ地上の霜かと。 頭を舉げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う。) 月を見て感じる「あわれ」(深いしみじみとした感動・情趣)は、洋の東西を問わず万人の心に響くもののようだ。関東の住宅地ではこんな情景を経験することは不可能だが、これが南アルプスの裾野の山里では見事なまでに現出される。お定まりの八ヶ岳颪に、寝付かれないままカーテンを開けて窓の外を見ると、畑と霜枯れた枯れ草が中天に懸かった月光を受けて、まるで霜が下りたように見える。この詩は、恐らく霜月のころの満月の夜の情景であろうと思われるのだが、厳寒の時季の下弦の月でも雪に覆われた南アルプスの峰々と目の前の景色を青白く照らし出す。今月は3日の節分が、下弦の月で18日が上弦の月に当たる。上弦・下弦の月を言葉で知っていても、その見分け方は中々に難しい。満月は右から欠けて行って、月齢22日頃が下弦の月となりやがて新月となる。新月は右から膨らんでいって、月齢8日頃が上弦の月となる。弦とは、円を半分にした時の直線部分を指していて、円弧の膨らんだ部分を指して言うのではない。三日月の時には上弦の月や下弦の月とは言わず、半月の時に限って使われる。また満月に向かうのが先なので上弦とし、満月から欠けるのが後だから下弦とするのだとの説もある。上弦の月は、夜中の12時までには西の空に沈む。一方、下弦の月は0時頃に東の空から上る。したがってほとんどの場合、夜中の0時になる前に見えるのが上弦の月であり、夜中の0時より後に見えるのが下弦の月であるが、季節によっては下弦の月が夜中の0時前に上ることもあり、上弦の月が沈むのが年に2~3回は夜の0時を過ぎてしまうこともある。十六夜以降の月のことを「有明の月」と言う。百人一首には月を詠んだものが11首あるが、その内21、30、31、81が「有明の月」を詠んでいる。また内容から36の月も有明の月であることが類推できる。枕草子には「月は有明の、東(ひんがし)の山ぎわにほそくて出づるほどいとあわれなり。」(『枕草子』池田亀鑑校訂・岩波文庫)と書かれている。日本人は古来より、有明の月を詩情豊かに愛でていたことが分かる。今朝6時半に、赤く染まったカーテンを開けて外を見ると、文字通りの「東雲」の朝であった。東の空に低く掛かった雲は真っ赤に染まっていて、中天には月齢24.5の有明の月が掛かっていた。月は古来中秋・長月・霜月の月が多く詩歌に詠まれているが、今の時期の有明月も詩情をそそられる情景ではある。
2013年02月05日
清少納言は、源氏物語を著した紫式部と同時代の平安時代中期の歌人で、中宮定子に女房として仕え、『枕草子』を著した人物である。その枕草子の第一段は、誰もが中学時代に必ず古典への入り口として、「徒然草」(吉田兼好)とともに暗唱した記憶をもっている。「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」枕草子も古典の例外では無く、伝えられて行くうちに多くの伝本ができた。大別して三巻本系、能因本系、前田家本、堺本系の四類もの本が伝わっており、「春はあけぼの」だけでも大変異なっている。前田家本では、「はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに…。」堺本では、「春はあけぼのの空は いたくかすみたるに…。」能因本では、「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。」となる。三巻本系は、夏の段が能因本と非常に異なっている。枕草子の場合は、ほとんど平仮名で書かれているのでこのような混乱が起きやすく、そのため異なった解釈が生じて意見や学説が分かれる原因となっている。清少納言自筆の原稿、草子、本は現代に全く残っていない。したがって、全ての文章が後世の人の写本であり手から手へ写し伝えたものである。写し違いや、写す人の考え方、好悪の思い込み、うっかり、あるいは態と本文を変えたり添削したりした可能性も否定できない。一般に古典の場合、自筆本が伝来していない以上転写の系統によって本文に異同が生じてしまう。堺本及び前田家本は、能因本、三巻本にくらべ後世の人の手が加わり過ぎているということが定説となっている。「あけぼの」の意味は、「ほのぼのと夜が明けはじめるころ。朝ぼらけより時間的に少し前をさす。夜明け。」さらにあけぼの色とは、「黄みを帯びた淡紅色。東雲色。」とある。平安時代の、朝まだきに雲の色が紫がかって見えたのは春のいつごろの時期と時刻であっただろうか。太陽光は地球大気を通過するときに水蒸気より小さな大気の分子とぶつかり、四方八方へその光が散らばる。大気分子のように光の波長と比べ、直径が非常に小さい物質に光がぶつかったときの散乱をレイリー散乱と言うが、レイリー散乱では青い色の光が最も散乱されやすく、空のあちこちから散乱されてきた青い色の光が私達の目に多く入るために、昼間の空は青く見える。夕焼け空が昼間と違う色に見えるのは、夕方になると太陽光は 地平線方向からやってくるので、太陽光が地球大気を通過する距離が 昼間より長くなる。光の通過する距離が長いと、最も散乱されやすい青い光が散乱されすぎて、太陽光線が私達のいる場所に届いた頃には、青が無くなった残りの色で構成された光だけとなり赤っぽい色に見える。明け方の空の色ではないが、かつて灰田勝彦が歌った「新雪」の歌詞にも、紫煙る…と言う文言がある。雪が反射する際の色彩感覚は、紫に近い色として認識するためであろうか。立春の白州の日の出は、6時40分ころである。約1時間前から東の空が白み始め、山の稜線が識別できるようになる。一説によると厳冬のよく晴れた日の日の出1時間ほど前に見られる最初の陽光を「かぎろい」と言い、この時刻には清少納言の言う「紫だちたる雲…。」が見えると言うのだが。立春の時季6時を過ぎた頃から、茜色に染まった空が出現し一日の晴天を暗示するような茜色に染まってくる。 残念ながら、まだ清少納言が空を見た時の境地にまで到達するのには、感性が稚拙に過ぎるきらいがある。
2013年02月04日
日本の多くの地域に、春先のまだ草木の新芽が出ない時期に野山の枯れ草を焼く行事がある。野焼きあるいは山焼きとも言う。自然の状態では、草地は3年もすれば樹木の苗が成長を始め、森林へと遷移する。野焼きを行うことで、この遷移が止まり、草地のままに維持することができる。さらに、有機物の蓄積を減らし、無機塩類にすることで新たに出る若草のための肥料になる効果が期待さる。また、害虫や虫卵を焼き殺す効果もある。このように古くから、野山を草地として継続的に利用するために野焼きを行ってきた。日本で行われる有名な野焼きは、若草山の山焼き(2009年1月24日)、阿蘇の野焼き(2月の終わりから3月中旬にかけて)、渡良瀬遊水地の葦焼き(毎年3月)、大室山の山焼き(毎年2月 第2日曜日)、秋吉台山焼き(2月の第3日曜が予定日)、千石原の山焼き(毎年3月下旬の風の無い日に)などがある。私は子供のころから、土手の枯れ草を焼くことを「土手焼き」と言い習わして来た。実際に調べて見ると、本当は「土手草焼き」が正しいらしい。土手草焼きも野焼き・山焼きと同じ効果と病害虫の駆除を期待しているのだが、その他に土手のモグラやネズミの巣穴を火力で処理し田の畔や土手の保守を図るためとされる。又、草の種を燃やし繁茂を抑え低性の植生に維持する改善効果もを狙っているそうだ。ところで、甲府盆地一帯は立春の頃一斉に土手や河原の枯れ草に火が点けられる。今日節分の日、北杜市から中央道を走ったのだが、韮崎市一帯の土手や河原から真っ黒な煙が立ち上っていた。昨日の日中は南寄りの春の強風が吹き、夜半からはこの地定番の八ヶ岳颪の猛烈な北風が吹き荒れたのだが、朝八時には強烈な北風がピタリと治まって正に土手草焼き日和となった。辺り一面から立ち上る猛烈な黒煙を見ながら、ふといま中国で問題となっている大気汚染物質pm2.5に汚染された空もこんな状態になっているのかもと思った。旅行者が、春の風物詩として豪快に立ち昇る炎と煙を見るには良いのだが、韮崎市近辺の居住者は、暫らく洗濯物も干せない状態だったのではないかと思いながらのドライブであった。
2013年02月03日
400年も前から知られていた野生の蘭に、「エビネ」がある。サツキの盆栽ブームと一致して、突然1970年代にエビネ栽培ブームがおこった。この花は、江戸時代初期にはすでにエビネと呼ばれていたとされ、1681年に水野勝元が編纂した日本最初の「花壇綱目」にはアツモリソウと並んで、エビネなどラン科植物の栽培方法が書かれている。名前の由来は、地下に連なっている茎とそこから生えている根の様子が、エビの頭を指でつまんで持ち上げたように見えるところから付けられたものである。エビネは容易に交雑種を作りやすい。そのため、花色などが多彩である。交雑が何世代も進んだものではどの系統のものか分類が困難である。日本で栽培されているものの多くは、ジエビネ・キエビネ・サルメンネビネ・ニオイエビネ・キリシマエビネの原種5種とそれらの雑種で、春咲きエビネの系統である。栽培は容易であるが、春咲き系のエビネは栽培中にさまざまな植物ウイルスに感染し易く、一旦感染すると栽培土壌への移行によって植物内ウイルス濃度が上昇する。ウイルス量の増加した個体は、葉の壊疽や落蕾、花の変形などの諸症状が出現し観賞価値がなくなる。 ジエビネの栽培では長期にわたってウイルス感染を受けないで栽培されることは稀で、株分けなどの栄養繁殖は極めて難しい。ウイルス感染した株の有効な治療法は無く、他の植物への感染源にもなる。そのため感染症状が出現した株への対応としては、焼却処分以外にない。1970年代からエビネの栽培人気が爆発的に高まり投機対象にもなった「エビネブーム」があったが、ウイルス感染の多発で栽培を止めた者が続出しブームは終りを迎えている。日本の多くの都道府県においてレッドリストの、絶滅あるいは準絶滅危惧種に指定されている。エビネは無菌播種による人工増殖技術が確立されており、ウイルス感染個体でも種子を播くことで病気の無い株を得ることができる。感染個体を処分し、実生株と入れ替えていくことで栽培・生産が継続されている。原種エビネは市場価値がそれほど高くないため、営利目的での種苗生産は行われていない。そのため、現在販売されている原種の多くは野生採取されたものと思われる。盗掘は野生種保護の上で大きな問題となっているが、近年は選別交配種が生産されるようになり、安価で容易に入手できるため原種エビネの園芸需要は減少している。ブームが去って、盗掘によってほぼ絶滅状態であった自生地でも、個体数の回復が確認されたという報告がされるようになった。エビネは、夏を過ぎて冷涼な気候になると、今年の葉茎の先に伸びた根に、来年の花芽を持つ。これを冬至芽という。ニオイエビネやサルメンエビネなどが交雑した種類では新芽の形成が早く、寒くなる頃には大きな冬至芽になる。これに対しジエビネなどでは冬至芽の成長はゆっくりで、硬くしまった状態で地中にもぐり冬を越す。9月終わり頃にはすでに蕾の数も決まる。エビネはこの時期までの管理が良ければこれから先、葉が無くなっても花を着けることができる。1970年代までは、神奈川県西北部の中津川の両岸の雑木の山の至る所に、地エビネが群生していた。私も、700株に及ぶ地植えの地エビネと、鉢植えではニオイ・コオズ・サルメン・イシヅチ・キリシマ・タカネなどを栽培していた。通信販売で購入した高価な鉢もあったのだが、栽培を始めて3年ほどで、これらのほとんどの株が姿を消してしまった。現在は、キエビネと地エビネの10株ほどが何とか生き残っていて、5月の初旬になると清楚な花姿を見せてくれる。 エビネの花言葉は、花言葉は、謙虚・誠実である。
2013年02月01日
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