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山荘の菜園の端に植えたペパーミントが、こぼれ種と地下茎により増殖していつの間にか畑の中まで進入するようになった。ミントの代表的なものには、ペパーミントとスペアミントの2種がある。ペパーミントは、日本薄荷に対してセイヨウハッカとも呼ばれる。13年前に知人から貰って植えたペパーミントの一株が、今では雑草のように菜園の端に繁殖している。ミントはハーブとして料理、カクテルや菓子、薬用酒などの材料となるほか、精油は香料として食品や歯磨き粉への添加、アロマテラピーやポプリとして利用される。スペアミントはペパーミントよりもハーブとして用いられた歴史は古いが、香りは比較的弱く甘い香りがする。ミントの爽快味、清涼感の主成分はメントール(薄荷脳)である。薄荷脳は歯磨きやチューインガムなどの菓子類、口中清涼剤などに多用されるほか、局所血管拡張作用、皮膚刺激作用等を有するため医薬品にも用いられる。医薬品の材料として消化不良・吐き気・気管支炎・解熱の目的に利用される。また製油のアロマで不眠症・不安神経症を解消・ハーブティのうがいで口臭・頭痛の軽減に効能がある。煎液の湿布は捻挫・神経痛・痛風・かゆみ止めにも有効とされる。生薬の薄荷葉は漢方では、清涼・解熱・発汗・健胃などの目的で用いられる。薄荷の清涼感は、爽やかな香気・メントールによる冷涼感を感じる受容器の刺激・気化熱などによるものである。刺激を与え気持ちを引き締め、精神的な疲労や乗り物酔い、鼻づまりに有効である他、眠気を覚まし、頭をすっきりさせ、気分を爽快にし、ストレスによるイライラも鎮める。こんなにさまざまな効能や利用価値のあるペパーミントだが、たまにハーブティーで楽しむ以外に利用方法が無かった。毎年刈り取って棄ててしまうのはもったいないので、数年前から入浴剤に利用することを思いついた。7月初めに地上部を刈り取って根元を紐で結え軒下に吊るし、2週間ほど陰干ししたものをビニール袋で保管しておく。これのニ握り程を洗濯袋に入れて大鍋で煎じ、そのまま浴槽へ入れる。入浴剤として利用されるものには、菖蒲・蓬・枇杷の葉・柚・カリンなど多くの植物があるが、ミントについては余り一般的ではないようだ。濃い茶色に染まった湯はいかにも薬湯の感じがし、ミントの香りが風呂中に漂うことで気分が落ち着き保温効果もあるので、今では寒い冬の入浴剤の一つとして欠かせないものとなっている。
2013年11月29日

おかめとは丸顔・鼻が低く・額は広く・頬高の女性の面のことで、同様の特徴がある女性もそう呼ばれる。おかめはお多福とも言われて福が多く縁起がよいとされ、酉の市の熊手の飾りなどに使われるようになった。漢字では阿亀と書き別称で阿多福、文楽ではお福、狂言では乙御前または乙、お多福ともいわれる。起源は神話の踊り子、天宇受売命とされており大和郡山市の賣太神社には、福の神・おたふく・おかめと称すると伝わっている。語源は頬の張り出した形が甕に似ているところから付いたとされるが、室町時代の巫女の名前からという説もある。お多福は福が多いところからという説と、頬が丸くふくらんだ様が魚の河豚に似ているからとの説もある。神楽では道化役の女性面で、男性面のひょっとこと対で用いられることが多い。平安時代には、中背でふっくらとして小太り、艶があって光るような肌の白さ、清楚、下膨れ、垂れて細い一重の目、低くて小さな鼻、薄い口唇でしかも教養(詩歌・琴弦)を身につけていて、機知に富んでいるのが美女の条件とされていた。古代においては太った女性は魔よけになり、おかめ顔が美人の象徴ともされたのだが美意識の変化とともに逆転して女性の蔑称として使われるようになった言葉である。狂言の「枕物狂」で乙(乙御前)は、男に逃げられる醜女・姫鬼・福女として扱われている。井原西鶴は「好色一代女」において、「当世顔はすこしく丸く、色は薄花桜にして、面道具の四つ不足なく揃へて、目は細きを好まず、眉厚く、鼻の間せはしからずして次第に高く、口小さく…」と美人の条件を書いている。顔の造作が整っているかどうかは時代に左右されない要素だが、美人の基準は文化、や時代で変化するものである。世界三大美人はクレオパトラ・楊貴妃・小野小町とされるが、現代人の審美基準で果たして美女の範疇に入るのか興味のあるところである。
2013年11月28日

あっと言う間に、今年も余すところ僅かに1か月となってしまった。老い先短くなった身には、来年のことも考えて置かなくてはならない時期になった。釈迦の足跡を紋様風に彫刻した石を仏足石というが、753年に智努王が亡き妻の供養のために建立したとされる仏足石が薬師寺に現存する。この石に刻まれた仏足石歌に、「四つの蛇(へみ)、五つのもの、~」との用例が見られ、源氏物語「帚木」には「ものにおそはるる心地して~」とある。「もののけ」と言う言葉は、中国から伝わった「物怪」からきている。古代中国の文献「原鬼」には「声と形と無きものは鬼神是也。形と声と有る能わず、形と声と無き能わざる者、是物怪也」との記述がある。ここでいう「もの」は、怨恨を持った霊もしくは怨霊として邪悪な意味で用いられている。このように古くは、「もの」と呼ばれていたものが平安時代末期になって「おに」に変化したとされる。「おに」は「おん(隠)」から転化したもので原鬼の物怪の説明にもあるように、姿の見えないもの、この世ならざるものの意味である。そこから人を超越したものの意となり後に、人に災いをもたらすものとして人型の像のイメージができさらに、陰陽思想や浄土思想から地獄の獄卒でもあるとされた。その姿形は基本的には人型、頭に角を生やし、虎の毛皮を腰に着け、怪力で狂暴であるとされる。肌の色は赤が多いが、青色もある。物語では悪の権化として退治される役回りであり、恨みや憎しみが極まった人間でもある。般若の面は、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」鬼女の能面のことである。「鬼の目にも涙」と言う言葉があるが、冷酷で無慈悲な人間でもときには同情や憐れみを感じて涙を流すというたとえに使われる。現在では、鬼のように怖く厳しい人でも感動して涙を流すという場合に使われることが多い。宇治拾遺物語巻一の十七で修行僧が龍泉寺という寺で百鬼夜行に遭った話が伝えられ、また、今昔物語集では巻第十四に若者が百鬼夜行に遭ったという話が伝えられている。当時、百鬼夜行を目撃すると死んだり病気になるとされて恐れられていたが、ここではどちらも信仰が身を助けたという作りになっている。宇治拾遺物語巻一の瘤取り爺では、赤い者や青い者、目が一つの者、口が無い者など様々な異形の鬼が書かれている。生前に貪欲だった者は死後に餓鬼道に落ち、餓鬼になるとされ、地獄では閻魔の配下として獄卒の役を務めているとされる。鬼に纏わる多くの言葉があるが、なかでも良く知られ使われる言葉の一部には次のようなものがある。鬼籍(鬼籍とは閻魔大王が持っている、死人の名前が記入された閻魔帳の事)、鬼才(人間離れした才能・それを持つ人)、殺人鬼(殺人者)、鬼畜(餓鬼と畜生を合わせた仏教用語)、鬼門(丑寅の方角)、鬼火(浮遊する火の玉)、鬼瓦(鬼の顔をした瓦)、鬼ごっこ、鬼歯(通常とは異なる生え方をした歯)、鬼子(歯の生えた状態で生まれた子)、鬼心(無慈悲な心)、鬼灯ほおずき(死者の霊を導く提灯に見立てて飾る)、鬼の霍乱(病気にならなさそうな人が、思いがけない病気になる)、鬼に金棒(強者がさらに力を得る)、鬼気迫る(凄まじい気迫)来年のことを言うと鬼が笑うといわれるが、笑われる前に鬼の正体に少しでも近付いて見たいと考えたところである。
2013年11月27日

甲州街道の牧原交差点を左折して612号線を進むと、駒城郵便局の手前左側に「柳沢寺六地蔵」の案内板が出てくる。新たに拡幅し整備された道路を左折してすぐのところに、「柳澤寺」、「六地蔵」の標識がある。この地区は旧武川村柳沢で、柳沢吉保の祖地遺跡とされ鎌倉末期から武田信玄が滅びるまでの約300年近く柳沢氏が統治していたとされる。弥太郎から6代後の柳沢信俊は、徳川家康により埼玉県寄居町へ移住させられた。この信俊の孫の柳沢吉保は再び日の目を見て後に江戸の老中、川越城主、甲府城主として重用された。仏教では、人生は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のいずれかの境遇で悩み苦しむとされ、この六道のそれぞれを救済してくれる仏として六体の地蔵を祀る風習が中世からはじまった。中国で唐代以後に興り、室町時代に日本に伝えられたとされる六地蔵は日本各地に散在し、円柱、六角または八角の柱状幢身と龕部・笠・宝珠などから成っている。多くの石幢の六地蔵は陰刻または陽刻だが、柳沢寺石幢の龕部には灯籠の火口に似た部屋があり、中に六体の地蔵が安置されている。柱状幢身に、1496年(明応5年)献白と陰刻された文字が判読できる。由緒書には「願主□透謹白」とあり、柳澤信興の出家名と推定されている。この地域は重なる水害のため史跡のほとんどが流失して残っておらず、柳澤氏との関連を示す唯一の文化財として昭和五十三年に市の文化財指定を受け、さらに平成二十二年柳澤史跡保存会によって保存のための石幢を囲む新たな石柵が完成した。柳沢氏が開基したとされる柳澤寺(りゅうたくじ)跡には、往時を偲ばせる建物は何もなくわずかに墓石と石塔が数基残るだけである。ひっそりとした雰囲気の中、風雪を感じさせる石幢の前に佇むと500年以上もの歴史と同化したような不思議な感覚に陥る。
2013年11月26日

中央道須玉インターを出て141号線(清里ライン)を清里に向かう途中の国道沿い左側、飲食店バーミヤン(旧スカイラーク)の裏に旧郷社の諏訪神社がある。郷社というのは明治4の太政官布告により官社以外の神社は諸社とされ、府社、府県社、県社、郷社、村社の何れかに格付けされた。その内の一つであり、府県社に次ぐ郷邑の産土神(神道において、その者が生まれた土地の守護神のこと。)で、村社より崇敬範囲が広い地方の中心的神社が郷社に格付けされたものである。この諏訪神社の後背の山上に巨石があるので大石神社ともいわれ、本殿内には貞享5年9月28日建立の棟札があるという。この神社では申歳と寅歳の7年目に諏訪市の諏訪大社に倣って御柱祭が行われ、御柱二本が境内の目立つ所に並べて建立されている。由緒書きには、「延喜式所載の笠屋神社なり。往古笠宿りの神事ありしに因り起る。又一説に穴山村に穂見神社あり之を中之社と称し、駒井村に当麻戸神社(尾比礼社)あり之を下之社と称す当社笠屋の笠は上之社の意なり。当社は新羅三郎義光及び武田の武将黒源田清光の祈願所なりとの由。御朱印領三石四斗、社中に其の霊を祀り、義光明神と云う。又祠後大岩の上に圭角の巨石あり、大石神社とも云う。明治六年郷社に列し、同四十一年御崎神社を合祀す。現在の本殿は貞享五年九月二十八日の建立なり。」とある。少し低め小振りの鳥居を潜った右側の境内には、ユニークな道祖神があるが参詣する人にはあまり関心が無いようである。道祖神とは路傍の神のことで、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として道の辻に祀られている石仏を指して言い、自然石・五輪塔・石碑・石像等の形状のものとされる。この諏訪神社の道祖神は、大人の手でひと抱えにも及ぶ球状であり、この形は胞衣を象徴するといわれる。胎衣は胎盤と羊膜のことで、胎児の生育にとって不可欠のものであるため古来いろいろな民間習俗・信仰の対象とされてきたものである。斜面の山を切り崩したような極めて狭小な境内に、質素な本殿と神楽殿が建立されている。本殿の屋根裏にはスズメバチの巣があり、屋根裏の板張には拳が入るほどの穴があちらこちらに十数か所も空けられているが、これは多分コゲラなどキツツキの類が空けたものであろう。ムササビも建築物の板に穴をあけるが、ムササビの出入口にしては小さすぎ、ニホンモモンガにしては穴の数がが多すぎる気がする。例大祭は10月5日と5月5日である。来年は機会を作って、祭りの日にぜひ訪れて見たい。
2013年11月25日

常緑樹で、縁起が良いとされる樹に「ユズリハ」がある。我が国には、中部地方以西の本州から九州に分布する。初夏に枝先に若葉が出たあと代わって前年の葉が落葉する様子が、親が子を育て上げて家督を譲り家が代々続いていく様に見立てて縁起物とされ正月飾りや庭木に植えられる。しかし縁起の良い樹とされるが実はユズリハには、多数のユズリハアルカロイドを含んでいて、家畜が誤食すると中毒の原因となる。一方新芽が萌芽するまで葉を落とさない樹に、ブナ科の落葉高木で30cmをこえるほどの波状の大きな鋸歯のある葉を付ける槲の樹がある。この木の大きな葉は、古来食物を包むのに用いられてきた。また5月の節句に作られる「柏餅」はこの葉を用いるが、桜餅の葉とは異なり食べることはない。この木は、葉に離層を形成しないため枯れ葉になっても落葉しない性質がある。ブナも同じだが、新芽が出るまで褐変した葉が垂れ下がってついている。このことから、槲の樹を人の世に擬えて世代代替して順番に代を継ぐ、めでたい樹として庭に植えられることが多い。この木の大きな葉は、古事記に「大御酒の槲を握(と)らしめて…。」とあるように古来より食器の代用や食物を包むのに用いられてきた。5月の節句に作られる「柏餅」にはこの木の葉を用いるが、桜餅の葉とは異なり食べることはない。今年の紅葉前線が、愈々関東平野まで降りてきた。標高630mの山荘付近の山は、将に紅葉の真っ盛りである。山荘の玄関前に、シンボルツリーとして槲の木を植えて12年になる。山梨県甲斐市の植木屋で購入し植えてもらったものである。植樹当初の樹高は5mほどで細い幹であったのだが、植樹10年を超えてかなり大きく育った。道北や道東など寒冷でクロマツが育たない地域では、防風林としてカラマツとともにカシワが植えられ、冬に葉が落ちないので冬季の強風を防ぐと言われるが、八ヶ岳颪と言われる強風が吹き荒れる場所にある我が家の槲は年を越える前に一枚残らず吹き飛ばされてしまうので、槲の樹の暴風効果については疑問である。槲は狭い庭では比較的樹形が暴れる上、購入当初葉に病害虫を着けてきたこともあり例年年末には今年伸びた全ての新梢を切り落とすことにしている。薬剤散布でも改善できなかったのだがこの方法を採ってから、葉の病気が全く無くなった。23日は一週間前に、標高千五百m近くまで雪が積もったとは思えない絶好の小春日和となり、3時間かけて黄葉まっ盛りの枝を少し早目に剪定した。スッキリとした樹の姿が、ちょっと寒々しいかなと感じた霜の朝であった。
2013年11月24日

都市に居住し、特にリタイアした高齢者の余暇活動として行う農作物の栽培への関心の高まりもあって、平成15年4月には構造改革特別区域法が施行され、地方公共団体や農業協同組合以外の者による市民農園の開設を可能とする特定農地貸付法等の特例措置として市民農園の開設が促進されることとなった。市民農園の形態は、自宅から通って利用する日帰り型の市民農園と、農村に滞在しながら農園を利用する滞在型の市民農園(クラインガルテン)のほか、教育や医療上の効果があるとして学童農園・福祉農園に取り組む例もある。平成24年3月末現在の市民農園の規模についてブロック別では、立地や人口比からも想像できるように関東ブロック(茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県、長野県、静岡県)が農園数・区画数・面積とも全体の約5割以上を占めている。自分が居住している市では、野菜や草花を栽培するための小規模農園を用途目的別に20・30・50平方メートルに区画して有料で貸し出している。2年間の期限付きで、毎回申し込み者が多くて抽選によって利用者が決定されている。これらの市民農園では、4月が利用開始月であるため、3月初めには明け渡さなくてはならないので栽培作物が当然制限される。玉ねぎ・にんにくなど翌年の6月収穫する作物は、2年目に作付することはできない。さらに、市民農園で誰でもが栽培したいと考える定番夏野菜のキュウリやトマトなどのナス科作物では連作障害が起きる。自分の畑では連作が起きないように作付けを配慮できるが、2年毎に栽培者が変更になると前作が何であったか全く分からないという難点がある。作物によっては木酢の散布、接ぎ木苗の利用、畑土の客土、消毒等によって連作障害を緩和することも可能だが、この点は貸し農園の宿命とも言うべきものであるから、初年度は連作障害が強く現れる作物の作付けを回避するなどの消極的方法を取る以外に無い。もう一つの難点は、同じ種類の作物が近接して植えられることから一か所で病虫害が発生すると瞬く間に農園全体に広がってしまうこともある。しかし市民農園の中には、近隣の農業者の作物より立派に育っている作物も目に付く。私の山荘の菜園には猿をはじめとして、猪・鹿・ハクビシンなどの獣が野菜の収穫時期になると大挙して侵入し作物が壊滅的被害を受ける。都会地の市民農園では、連作障害の無い作物を選んで栽培すれば自分では処理できないほどの収穫を挙げることができる。数百坪の遊休地を借りて本格的に耕作しても、1/20から1/30の面積の市民農園の収量に及ばないことも屡である。山荘に自力開墾した約70坪の畑があるのだが、猪や鹿は電気柵で防御して見ても猿の進入を防ぐことはできない。作物によっては猿の被害で、収穫がゼロになることがある。猿の群れは年々大きくなっていて今後も防御は不可能であり、作物の猿害の状況が今より改善されることは期待できない。来年4月、市民農園の貸付更改であることが広報にでていた。希望者は区画数の数倍になると聞いているが、今後も山荘の菜園の収穫が期待できないならば、市民農園の利用を申し込んでみようかと考えているところである。
2013年11月22日

フィリピンを襲った895hPaという猛烈な台風30号は、甚大な被害をもたらした後華南に至り温帯低気圧に変わった。この低気圧が北極圏から噴き出す寒気団を日本列島に押し出したため、その影響を受けた列島は時ならぬ真冬の寒気に襲われた。11月15日は予報通り午前9時過ぎからかなり強い氷雨が、午後3時過ぎまで降り続いた。雨が上がり、雲が切れ始めた紅葉真っ盛りの南アルプスの山塊は真っ白に雪を被っていた。7日に甲斐駒ケ岳に初冠雪があってその一週間後の雪化粧には驚かされたが、雪国以外に住む人は昔から雪の降るのを心待ちにしていたようである。芭蕉が庵に降る初雪を心待ちにしていて、漸く降った初雪を詠んだ句がある。 初雪や 幸ひ庵に まかりある貞亨3年12月8日に詠まれた句と言う。太陽暦では1687年1月31日にあたる。この句には「我が草の戸の初雪見んと、余所にありても空だに曇り侍れば急ぎ帰りることあまたたびなりけるに、師走中の八日、はじめて雪降りけるよろこび」の添え書きがある。(庵に降る初雪を見たいと思っていたがなかなか降らない。外出先などで雪の降りそうな雲行きになると急いで庵に帰ってくることがしばしばだったが、今日はとうとう雪が降ってきた。しかも丁度庵に居るタイミングで、しかも初雪なのだから喜びも一入である。)松尾芭蕉は1677年から3年間、現在の文京区関口の「龍隠庵」に住んだ。この庵は一度焼失し、現在の芭蕉庵は第2次大戦後に再建されたものである。この句が詠まれた時代から325年を過ぎた現代でも、東京に初雪が積もるのは1月の中旬以降になることが多く、そう考えれば1687年の初雪が特に遅かったわけでも無さそうである。この時芭蕉は43歳になっていたというのに、「初雪」の句作のために子供のように雪の降るのを心待ちしていたのであろう。1634年に、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県)に生まれ、江戸時代の女流歌人・俳人で貞門派の女流六歌仙(六俳仙)と呼ばれた田捨女が6歳の時に作った句として有名なのが、 雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡である。芭蕉の初雪を待つ執念に似た息遣いに比して、こちらは起きて戸を開けた時に目に飛び込んできた偶然の情景を、躍動感ある子供の感性でしかも率直な表現でとらえていてみごとである。この句を多くの人は「初雪や…」と間違えて記憶しているが、「雪の朝…」が正しい。今では雪の朝に、「ニの字」が印されるようなことはほとんど無くなった。
2013年11月21日

ヨーロッパの歌手で世界的に知られたカテリーナ・ヴァレンテがpassion flowerの題名でベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジして歌ったものを、1959年にザ・ピーナッツが日本語に訳詞しカバーした歌が大ヒットした。現実にpassion flowerと呼ばれる植物が存在しているが、この植物は日本語では「時計草」と呼ばれる。ザ・ピーナッは、情熱の花と訳した歌を歌っているのだが、トケイソウの事を指して情熱の花と訳したとしたら、元歌を翻訳・作詞した人の知識不足と言わざるを得ない。和英辞典でPassionの日本語の意味を引くと、1.情熱、熱狂、熱心、恋愛、情欲2.熱望、3.甚だしく好むもの4.激怒5.キリストの受難と出ている。バッハの曲にマタイ受難曲 (Matthäus-Passion)があるが、正式名称は「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Matthäus」となる。つまり、passion flowerの名前は、花の形がキリストが十字架に架けられ息絶えるまでの受難を表しているとしてつけられた名称で情熱を意味しているのではないからである。トケイソウの仲間は南米を中心に、500種類以上も分布していると言われる。欧米人にはキリストの受難に見えた花の形だが、日本人には時計の文字盤と秒針・短針・長針のように見えたことからpassion flower=時計草の名前になったものである。花形が酷似しているトケイソウの仲間で、食用果実を実らせる種があるがトケイソウをpassion flowerと呼ぶことからこちらは単に同じ花で実を付けるということからpassion fruitの名前がつけられた。この場合のpassionは、辞典の5.の意味で「情熱」の意味ではない。南国に実る果実だから「情熱の果物」の名前が付いた、と勘違いしている人が多いがこれは誤りである。ピンポン玉を一回り大きくしたようなまん丸の果実は、何種類かの色があるが関東近辺で栽培されているものの多くは濃い紫色の物が多い。熟して落果寸前のものに手を触れると、簡単に枝を離れる。内部に小さくて堅い種を多く含み、黄色いゼリー状の果肉と果汁がある。果汁及び果肉に、芳香をもつものが多い。日本では古くから鹿児島、沖縄を中心に栽培されていたが、現在は各地でハウス栽培されるようになった。関東近郊でも路地栽培が可能で、家の近くの市民農園には気温が6度を下回った現在も沢山の果実が実っている。果実が熟すには15℃以上が必要とされるので、これらの果実は多分熟さないままで落果してしまうと思われる。7℃程度以上無いと冬を越せないとされるので、関東近辺では路地では越冬が難しいと思われる。
2013年11月20日

聖護院大根は蕪に似た丸い大根で、長ダイコンの変種とされ京都左京区の聖護院で誕生したところからその名前が付いたものである。形が良く似ている聖護院蕪は主に千枚漬の原料にされ、直径20センチ以上で重さ2~4kgにもなる。両者の区別は葉が付いていれば一目瞭然であるが、葉が無いとなかなか区別がつかない。蕪は頂点が凹んでいてそこから葉が出るが、大根は凹んでいないことで区別できる。聖護院蕪は白くてきめが細かく、甘味があり大変美味である。聖護院大根ができたと同じころ、近江かぶらの種子を譲り受けた聖護院の農家が作り出したものとされる。蕪を使った「千枚漬」は、天保年間ごろから作られるようになったという。初めは聖護院蕪を塩漬にしただけのものだったとされるが、江戸時代末期に北海道産の昆布と組み合わされ現在の甘酢漬けの千枚漬けが誕生した。名前の由来は、四斗樽にカットした蕪が約千枚入ることから「千枚漬」の名がついたと言われる。千枚漬は、原料の聖護院蕪が収穫できる10月から3月ごろまでが旬の味覚である。漬け方は、酢と砂糖を入れた調味液に漬込む方法と、調味液を使わない方法がある。京都土産やお歳暮でもらった千枚漬の味を忘れられず、聖護院大根や普通の蕪を買ってきて見よう見まねで漬けたことがあるが、どんなに工夫しても売っているような味と食感にはならない。千枚漬の味を出すには、本物の聖護院蕪を使う必要があることが分かったのだが、聖護院蕪を作る農家は関東にはほとんど無く、店先で見るのは聖護院大根である。我が家の菜園で作る聖護院蕪は拳ほどにしか大きくならず、然も大きく成長したものは猿の軍団の餌にされてしまう。辛うじて猿の餌食にならなかったものを集めて千枚漬を作って見るが、未成熟の蕪では肉質が堅くて聖護院蕪本来の甘みと緻密な感触が無い。私は10年以上も前から、大阪のタネ屋から取り寄せた聖護院蕪のタネを信州の実家に送って千枚漬用の蕪を栽培してもらっている。今年も11月の半ばを過ぎて初霜が降りたので、聖護院蕪の収穫をしに信州の実家を訪れた。実家で作って貰っているのは、収穫時期を逸すると大きな物では一つが6kgを超えるほどにも成長してしまう。余り肥大しすぎると、スが入ってしまい千枚漬に利用できなくなってしまう。千枚漬にするには、大きくても1kgほどの物が最適である。今年も収穫してきた蕪を使って、早速千枚漬を作った。要点を幾つか守れば、誰でも失敗せずに作ることができる。聖護院蕪を手に入れたら、先ず良く洗って頭と尻の両端を切り落とし厚く皮を剥く。3~5mmにスライスした蕪に塩を振って軽く重石をし、水が上がるまで下漬けをする。水が上がったら軽く水で流して水を切る。器に数枚ずつ丸く入れ、その上に輪切りにした鷹の爪と昆布を敷く。これを繰り返す。詰め終わったら調味液を入れるのだが、調味液は穀物酢と砂糖5対3の割合を基準に、好みの量と味にすればよい。本漬後4日もすると、蕪の生臭さも消え美味しい千枚漬が出来上がる。今年は60kgもの蕪を収穫してきたので、年内暫くは自家製の千枚漬が食卓に上ることになる。
2013年11月19日

フィリッピンを襲って中国に上陸した巨大台風が、北極の寒気を伴った大陸高気圧を日本列島まで押し下げた。そのためこの3日ほどは最低気温が7℃を下回って、とても一か月前に30℃超の真夏日を記録したとは思えない寒さとなっている。寒くて霜が降りそうな気温となったのに、車を走らせていると5mを越えるほどの背の高い植物が、紫がかったピンクの直径約20cmもの大輪の花を咲かせているのが目に付く。この植物が良く見られるようになったのは今から20年ほど前からで、余りに背が高くなる所為なのか一般家庭で植えられるのは少なく、広い敷地や畑・藪の土手際に多く見られる。この植物はDahlia Imperialis皇帝ダリアまたは帝王ダリアと言われ、夏咲きダリアは芋の形をした塊根で増えるが、皇帝ダリアは茎の挿し木で増やすことが可能で草丈が夏咲きダリアの数倍の大きさとなるので、別名を木立ダリアともいう。メキシコが原産地とされる。昭和40年頃までは、どこの家の花壇にもダリアが植えられていたのだが、今では公園などの花壇で見る以外目にする機会が減ったように感じられる。代わって皇帝ダリやが、目に付くようになってきた。挿し木で容易に繁殖できることもあって、植えられている地域では沢山の個体を見ることが多い。短日植物で、陽が短くなる晩秋にならないと開花しない。アサガオ・菊などは日照時間との関係に敏感なことが知られているが、皇帝ダリアも街灯のある場所で育てると花が咲かないかまたは花着きが極めて悪くなる。他のダリアの草丈はせいぜい1.5m位だが、こちらは5m以上にも成長することが名前の由来となった。夏咲きダリアは寒さに弱いので、塊根を掘り上げて越冬させないとならないが、皇帝ダリアは霜で地上部が枯れても翌春地際から新たな芽を出す。庭植えや鉢植えで背を低く育てたい場合には、8月中旬頃までに草丈1/3を残して切り戻せば低く育てることが可能である。花言葉 乙女の純潔 乙女の真心 優雅 華麗
2013年11月14日

静かなる 月日の庭や 石蕗の花 虚子ツワブキが寒さを増した晩秋に、青々とした葉に添えて鮮やかな黄色の花を咲かせている。ツワブキ(石蕗、艶蕗)はキク科ツワブキ属の多年草でイシブキ、ツワともいう。ツワブキの名前の由来は、葉がフキの葉に似ていてフキより艶があるので、「葉に艶があるフキ」の艶葉蕗が転化したものとの説や、「厚葉ブキ」から「あ」が省略されて、「つわぶき」になったという説がある。ツワブキに石蕗の字をあてるが、姿が蕗に似て海岸や浜辺の岩や石の間に自生することに因んだものである。ツワブキは日本海側では石川県、太平洋側では福島県以西の日本各地の海岸沿いに自生する常緑の多年草である。ツワブキの深緑の葉と黄色の花は古くから観賞用として庭などに植えられていて、多くの園芸品種が生まれている。九州には大形のオオツワブキが自生しており、葉柄は漬け物として加工される。ツワブキの根茎は太く這っていて、長い柄のある葉を束にして出す。若葉は灰褐色の綿毛におおわれているが、葉柄がのびると綿毛は落ちて無毛となる。葉の形は円くフキによく似ているが、葉質は厚く艶がある。晩秋になって野に花の無くなった時期に、葉間から長くのびた花茎の先に散房花序を作る。花の大きさは径6cm、まわりに菊の花弁状の舌状花が一列に並ぶ。舌状花の大きさは、長さ4cm程で鮮黄色をしている。花序は異なるが、同じキク科のオタカラコウの花に酷似している。フキは霜の降りるころ地上部が枯れるが、ツワブキは常緑性である。フキやツワブキは肝毒性のある、ピロリジジンアルカロイドを含有している。ピロリジジンアルカロイドはムラサキ科・キク科・ラン科・マメ科植物に含まれていて、アク抜きをしないと食べることができない。日陰でもよく育ち庭に花が無くなった時期に花を咲かせるので、日本庭園の石組みの間や木の根元などに植えられる。葉には青葉の強い臭いがする、「青葉アルデヒド(ヘキセナール)」を含んでいて香料としても用いられる。民間療法では葉を火に炙って柔らかくして細かく刻んだものを、打撲・できもの・切り傷・湿疹に外用して効き目があるとされている。また葉を搾って出る青汁は、打撲・できもの・切り傷・湿疹に直接塗布する。フキ程の香りと食感はないが、葉が展開する前の葉柄は煮物・おひたし・佃煮・あえもの・天ぷら・粕漬け・塩漬け・カレー煮などにして食べることができる。 花言葉 謙譲 困難に傷つけられない
2013年11月13日

「も」は、江戸いろはかるたでは「門前の小僧習わぬ経を読む」だが、大阪・尾張いろはかるたでは「桃栗3年柿8年」である。「桃栗3年…」の意味は、資本を投下してもその果実を得るまでにはそれなりの年月が必要となることの譬えであるとされる。この諺の後に続く言葉があるのだが後付けで作られたらしく、地域や人によって言い方が異なっている。私が覚えているのは、「…梅は酸い酸い13年、柚子の大馬鹿18年」で「林檎にこにこ25年、銀杏の気違い30年」と続くともいわれる。ここで大馬鹿と言われるユズはミカン科に属し、柚子・柚とも表記される。このユズに似たミカン科の常緑低木でスダチなどに近く、香りも形も似ていてユズの代用となる「花ユ・花ユズ・一歳ユズ」と言われる果実がある。一般的にはユズと混同されて、ユズの名前で通っている。民間薬として、ゆず湯に入れたり健胃や駆風などに用いられることがある。原産地中国では柚(ゆ)と呼ばれていたものが、日本へは奈良時代か飛鳥時代に渡来して酢の代用として使われたため、「柚の酢」と呼ばれるようになったことが名前の由来とされる。柑橘類としては、耐寒性があり病害虫に強いのでほとんど消毒の必要がなく、手が掛からないことから作りやすい植物である。「ユズの大馬鹿18年」などと呼ばれるように、実生の柚子は結実まで長い年月がかかることで知られているが、実際には接ぎ木苗を植えれば定植後数年で結実するようになる。ハナユは本ユズと異なり、実生でも数年で結実することから別名「一歳ユズ」ともいわれる。ハナユは日本原産とも言われるが、詳しいことは判っていない。花に柑橘特有の芳香があるために、料理の飾りなどに利用されたことからこの名前がついたという。我が家にあるハナユは、40年も前に植えたもので毎年鈴なりの実を付けて処理しきれずに、翌年花の咲く時期を過ぎて自然落果するころまで木に着いていることがある。もったいないので果実を利用して数年前から、ユズジャムを作るようになった。枝に強烈な棘を有しており、果実の採取には一苦労する。採取した果実は良く洗った後皮を剥いて果肉は搾汁するのだが、沢山の種子を持っているので果汁と選別しなければならない。しかし夏ミカンで作るマーマレードと異なり、皮に苦味が少ないので煮こぼしをする必要はない。皮を細長く刻んで、搾液とお好みの分量の砂糖を加えて煮詰めれば出来上がりである。このユズジャムは、プレーンヨーグルトに載せて食べると絶品である。皮は白菜や千枚漬などに入れたり、ブリ大根・茶わん蒸しなどの香りづけに用いるほか、正月には果肉の部分を刳り貫いて「柚子釜」として利用しウニやイクラを詰める器として使っている。 12月31日の誕生花 花言葉 健康美・恋のため息・汚れなき人
2013年11月12日
この季節になれば、気圧配置もあって今年はもう日本列島に台風が近づくことは無いと思われる。しかしフィリピンは、895ヘクトパスカルという竜巻並みの巨大台風に直撃され甚大な被害が発生している模様である。あちこちの高山に初冠雪が観測されるようになり、一雨毎に季節が進んで紅葉前線は里に向かって急ぎ足で駆け下りてくる季節となった。気象協会は今年4月25日に季節を表すにふさわしい37のことばとして、「季節の言葉36選」を発表した。その中で、雨を表す言葉に梅雨と時雨がある。従来季節を表す雨の名前として親しまれて来たものには、春雨・菜種梅雨・五月雨・梅雨・緑雨・麥雨・秋雨・氷雨など多くの言葉がある。しぐれの意味を広辞苑で調べると、語源については「過ぐる」から出た語で、意味は通り雨のこととあり、1秋の末から冬の初め頃に降ったり止んだりする雨。2涙を落として泣くこと。5時雨煮の略とある。この言葉ができた当時は、降ったり止んだりする雨一般を指し、特に季節の言葉としては用いられていなかったようである。「和名抄」では、驟雨を「之久礼」と読ませている。時雨が降るような天候に変わることを時雨れると言う。万葉集には「しぐれ」の言葉が40例近くあり、「九月(ながつき)の しぐれの雨に濡(ぬ)れ通り 春日(かすが)の山は 色づきにけり」(巻10)のように紅葉を染めたり散らしたりするものとして使われた。この時代には「時雨」という用字はなく、平安時代に入ってから用いられるようになったと言われる。古今集には、「我が袖(そで)に まだき時雨の降りぬるは 君が心にあきや来(き)ぬらむ」(恋5)のように涙の比喩(ひゆ)として詠まれたりするようになり、侘しさ悲しみを暗示する物として使われている。平安中期には「神無月(かみなづき) 降りみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬のはじめなりける」(後撰集)とあり、時雨という言葉が主に秋から冬にかけ、一時的に降ったり止んだりする雨や雪のことを意味する言葉としてこのころ定着をし、晩秋から初冬にかけての季節を表す言葉として使用されるようになったとされている。沢山の蝉が一斉に鳴きたてる声を、時雨の降る音に見立てた言葉に蝉時雨がある。この場合の蝉の声は、「岩に浸みいる…」と芭蕉が詠んだ蝉の声と同一のものであろうか。また時雨を冠した食べ物に、「時雨煮」がある。時雨煮は貝類や牛肉などに生姜を加えて煮た佃煮の一種で、略して時雨と呼ぶことも多い。この名前の由来については、さまざまな風味が口の中を通り過ぎることが時雨に似ているところから、ハマグリの旬が時雨の降る時期と重なるから、調理時間が短いことからといった諸説があるがどれも今一つピンとこない。 天地(あめつち)の 間にほろと 時雨かな 虚子
2013年11月11日

サトイモの仲間のテンナンショウ属を始め、クワズイモやザゼンソウなど多くの観用植物はシュウ酸塩を含有しており有毒植物である。サトイモも例外ではなく、根茎や葉柄にはシュウ酸の針状結晶を多く含有しいていて生では食べられない。多く栽培されているのは、小芋が多数できる「石川早生」群である.その他にも葉柄を利用する八頭や京料理に使われる海老芋、小芋系統で比較的耐寒性があるえぐいも、小芋がほとんどできない系統の筍などがある。里芋はデンプンが主成分で、しかも低カロリーの上食物繊維も豊富である。独特のヌメリはムチンやガラクタンによるもので、ムチンには消化促進の、ガラクタンには免疫力向上作用があるとされる。生芋には、ある種のタンパク質にシュウ酸の針状結晶が付着しており口腔内に刺さることデ独特のエグミとシブミがある。これらは加熱によって、タンパク質を変性させることで無くなり美味しく食べられるようになる。青森県以外の東北地方では里芋収穫の時期に「芋煮鍋」が盛んに行われる。春のお花見と秋の芋煮会は、野外宴会の楽しみ行事とされている。青森県に「芋煮会」がないのは、当時のサトイモの栽培北限より北であったため里芋が栽培されていなかったためであるとされる。縄文時代にはすでにサトイモが日本に伝わったとされるが、当時は茹でる・焼く・蒸すが主な調理法であり煮て食べる習慣は無かったとされる。江戸時代には米の代用食としてサトイモが作られるようになり、中秋の名月にはこの時期収穫された里芋を供える習慣があったことから、十五夜の月を特に芋名月と言う。かつては団子ではなく、サトイモが供えられていたのだという。10℃以上無いと腐敗してしまうサトイモだが、穴を掘って地中での保存が可能である。里芋は我が家では冬の間、味噌汁の具に欠かせない食材である。子供のころから味噌汁の実は、里芋と大根のセンロッポンそれに長ネギが定番であった。江戸っ子として育った家内は豆腐または油揚げとワカメを味噌汁の具として育ったと言うが、結婚して以来すっかり信州の味に慣れて50年近くも続いている。猿や鹿、ハクビシンなどの小動物が手を付けない里芋は、山荘の菜園での格好の作物である。毎年、一冬分の里芋を栽培している。芽出しをして5月中旬に植え付けるのだが、今年は留守にしている間に3回里芋畑に猪が侵入して掘り起こしたり踏みつぶしてめちゃ滅茶に荒して行った。約60株植え付けた中1/3ほどが、5月の太陽を浴びて枯死してしまった。そのため親戚や知人に分ける程は採れなかったが、それでも30kgの米袋に2杯収穫することができた。これだけあれば冬の間の食材と来年の種イモ用としては、十分な量である。自宅の庭の隅に1m50cmほどの穴を掘って、玉ねぎの袋に小分けした里芋を入れ雨水が入らないようにビニールで覆って埋めた。来年は、電気柵を延長して猪の進入を防御しなければと策をねっているところである。
2013年11月10日

ネギは、中国西部・中央アジアが原産地とされる。ユリ科の植物である。中国では4世紀ごろには栽培が始まっており、日本には8世紀頃までには渡来したと思われ、「日本書紀」に秋葱の名前があり、「延喜式」には栽培方法が記されているという。「根葱(ねき)」が名前の語源とされ、根を食用とする葱(き)から付いたとする説。茎の白い部分を根に見たて、「根茎(ねぐき)」から転じたとする説などがある。古名の「葱(き)」の語源は、気(キ)(イキ)・黄(キ)・嗅(カギ)に由来するとする説がある。室町時代初期に宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な意味の女房言葉には、語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現するもじ詞がある。にんにくは最初の「に」に、もじを付けて「にもじ」と呼ばれ、当時「葱」はきと一音で読んでいたことからネギのことが「ひともじ」と言われた。ワケギのことを熊本では現在も、ひともじという。ネギ・ラッキョウ・ニンニク・タマネギ・ニラは陰陽思想に基づき「五葷」とされ、匂いの強い食品は食べてはいけない「禁葷食」とされる。禅宗などの寺院の門前には、「不許葷酒入山門」と刻んだ石碑が建っていることが多い。関東では主に軟拍葱が栽培され、関西では緑の葉が多い葉葱が食べられてきた。近年は人の移動交流や輸送方法の発達に伴って、料理にあわせて使い分けされるようになった。葱の臭いの元は硫化アリルで、ビタミンB1の吸収を高める働きがある。うどん・そば・ラーメン・冷奴や湯豆腐の薬味には欠かすことができない脇役である。味噌汁の実・すき焼きなどの鍋物では準主役となり、葱の入らない鍋料理は何とも味気ない。前年の8月末に種まきして育苗し、翌年の5月に定植栽培して霜の降りるころになると柔らかく甘みを増して美味しくなる。山荘の周りには幾つかの猿の群れがいて、田畑に出没して栽培野菜を収奪して行く。7月頃一度偵察で1割ほどの葱を引き抜いて少しだけ齧り様子を見ていった。11月に入って寒さに当たり甘みを増してくると、一本残らず抜き取って白い部分だけ食べて散らかして行く。14か月にもわたって丹精込めた葱を少しでも収穫するために、昨年から10月末に全て掘り採って自宅へ運んで庭の一隅に植え替えることにした。今年は約700本定植した葱が、7月の最初の襲撃で1割ほど被害を受けさらに、菜園の隅に作っている丹後ホウズキが葱畑に侵入したため、ホウズキに負けて半分の350本ほどの収量になってしまった。それでも、ネギ坊主が出るころまでの冬の期間に使うには十分な量である。 葱買うて 枯木の中を 帰りけり 蕪村
2013年11月09日

秋が深まると山荘の周りに毎年決まってやってくる鳥に、ジョウビタキがある。夏の始まりにはホホジロが、夏の終わりころからモズが鳴いていたシンギングポストから、山が紅葉に彩られるころになるとジョウビタキの独特な鳴き声が聞かれるようになる。鳴き声は、「ヒッ」と聞こえる甲高い声と軽くものを打ち付けるような「カッ」という声を組み合わせた特徴的なもので甲高い「ヒッ」の声は、遠くまで届く。鳴くときの姿勢にも特徴があり、米搗きをするように頭を下げてヒッの音を続いて尾羽を振わせながら「カッ」の音を発する。鳥の中では最も早く、日の出前の早朝から鳴くことが多い。ジョウビタキはツグミの仲間に分類され、日本では冬によく見られる渡り鳥である。ヒタキという名前は、鳴き声に由来するといわれる。ジョウビタキは渡りの後1個体ずつが縄張りを作って越冬するが,「ヒッヒッヒッ」の後「カッ,カッ」と鳴いて縄張り宣言をする。この「ヒッ」の鳴き声が「火」を連想させその後に続く,「カッ」は日を熾すために打ち鳴らす火打石の音を連想させることから,「火焚き鳥」と名前がついたものという。ジョウピタキの漢字名は常鶲・上鶲・尉鶲と書き表される。常鶲は「秋に毎年必ずやって来るヒタキ」といった意味で、上鶲はほかのヒタキより上等の鳥の意味。最も古くから使われていたという尉鶲の尉は「白髪の老人」のことで、雄の頭部が灰白色または銀色であることからの連想で尉の字が使われるという。チベットから中国東北部で繁殖し、非繁殖期に日本に渡って越冬する。スズメよりわずかに小さくオスは頭上が灰白色で、目の周りが黒いのが特徴である。現在は、ツグミ科に分類されるが他のヒタキ類に似て昆虫を空中で捕食する他、一方ではツグミ類のように地上で採餌することも多い。冬の日本では、どこにでもよく見られ身近な冬鳥の一つである。同種間の縄張り意識が強く、車のバックミラーに映った己の姿に攻撃を仕掛ける写真がニュースになる。人をあまり警戒せず、3~4mくらいの距離に近づくことがある。昆虫類やクモ類などを捕食するが、昆虫が少ない冬には木の実も食べる。毎年百舌鳥の高鳴きで秋を、尉鶲の縄張り宣言で冬の近いことを耳から知るのである。
2013年11月08日

山荘周辺には多くの猿の群れが出没し、50匹を越えるような大きな集団で現れることもある。近隣の畑では、里芋やピーマン・トウガラシの仲間以外の作物は全て猿の餌として狙われる。猪は金網や電気柵で、鹿はロープを張ることで侵入を防止できるが、猿は側面・天井まで強固なもので固めない限り進入を阻止することは不可能である。今年は7月の終わりころに2回ほど現れて、長ネギ・トマト・ナス・キュウリをいたずらして行った。その後暫く出没しなかったのだが、秋が深まった11月に入って猿軍団の野菜の収奪が始まった。菜園で順調に育っていた大根など秋野菜が、齧られ抜かれめちゃめちゃになった。さらに今まで手を付けなかったキウイフルーツも、少し齧って大量に落としてしまった。傷を付けて落としておくと、暫くして甘くなることを学習してしまったらしい。さる知恵と、馬鹿にしたものではない。さるの防除は全くのお手上げで将に、「敵もさるもの引っ掻くもの」である。「ヒト以外の霊長類」は、纏めて猿といわれる。日本で、猿といえば一般的にニホンザルを指して言うことが多い。猿のことを猿猴と言うが、猴は全般的には類人猿でない霊長類に用いられる。京都龍泉庵所蔵の重要文化財で長谷川等伯が描いた枯木猿猴図に描かれているのは、テナガザルである。他の獣に比べて「智マサル」から転じて、異称は「ましら」という。霊長目はキツネザル類・オナガザル類・類人猿・ヒトなどによって構成され、約220種がある。猿の語源には諸説あり、獣の中では知恵が勝っていることから「勝る」の意味からとか、アイヌ語で尻尾のあるものを「サルウシ」と言うことから、アイヌ語語源説。または古くから馬の守護神とされ馬と一緒に飼ったことから、「馬留マル」が転じてさるとなったとする説などがある。日本語では猿を、「得手」とか「えて公」または「えて吉」と呼ぶことがあるが、擂鉢を当たり鉢・スルメをアタリメと呼ぶように、さるが「去る」に通じる忌み言葉であることから縁起を担いだものである。外見上はヒトに似ているのに知能の面ではヒトに劣ることから、賢い動物として扱われることがある一方、「理解力が低い」・「単純である」など頭が悪い意味の蔑称として用いられることがある。「山猿」と言う言葉は身が軽く敏捷な若者を猿に例えていうこともあるが、「田舎出で野暮」などの悪い意味で使われる場合が多い。猿は人間によく似て利口そうに見えるが、人間より毛が三本足りない分知恵は浅いということから猿並みという意味で「毛が三本足りない」と言い、「猿知恵」・「猿真似」などの言葉がある。第二次大戦後、猿の数が急に減少したことがあるが、原因は戦後の食糧難の時期に食用とされ、熊の胆と同じように猿の胆嚢も薬用とされたためという。広葉樹林地に生息し、昼行性である。群れは1~80平方kmの行動圏を持つ。常緑広葉樹林では狭く、落葉広葉樹林内では広くなる。複数の雄が含まれる10数頭から100頭以上にも及ぶ群れを形成して生活する母系集団で、オスは生後3~8年で群れから独立するとされている。食性は植物食を主とする雑食で、主に果実を食べるが植物の葉・芽・草・花・種子・キノコ・昆虫など何でも食べる。2~3年に1回、春から夏に出産すると言われてきたが、里の食べ物を食べるようになって栄養状態が良くなり出産間隔が短くなっているともいわれる。 猿の尻 木枯ししらぬ 紅葉かな 犬筑波集 (犬筑波集は、1524から40年の間に編纂されたとされる俳諧撰集。)
2013年11月07日

錦秋のとは木々が紅葉して、錦の織物のように美しい秋を指していう言葉とされる。滝廉太郎の「花」では、「♪錦おりなす長堤にくるればのぼる朧月」と歌っているので錦は秋の紅葉だけを指すのでは無く、春の花にも使われる言葉であることは明白である。広辞苑第二版には、錦秋の言葉は載っていない。その代わり錦繍があって、1.錦と刺繍を施した織物と美しい衣服または織物。2.麗しい詩文の字句、また美しい紅葉・花などのたとえ。とある。新明解国語辞典では、錦秋と錦繍の二つが記載されていて錦秋とは、木ぎが紅葉して美しい秋の意の漢語的表現。とあり、錦繍についてはほとんど広辞苑に似た意味が表記されている。例解国語辞典では、広辞苑と同じく錦繍だけがあって意味にモミジの意味は見当たらないが、旺文社の古語辞典には「美しい詩文・紅葉や花のたとえ。」と載っている。紅葉に染まった秋の山の情景を錦繍に譬えたことから派生して、モミジに染まった山の秋の情景をより明確にイメージできる文字として「繍」に代わって同音の「秋」が使われるようになったものではないだろうか。これらから考えると、錦秋と言う言葉は比較的新しい造語ではないかと思われる。しかし現代では、錦繍を読めて意味が分かる人は少なくなっているであろうと思われ、紅葉の季節は錦秋と言い現わすことがより明確で分かりやすくて良いように思う。もみじ(紅葉・黄葉)は、動詞「もみず」の連用形から派生した言葉とされ、古くは「もみち」と言われた。広葉落葉樹の葉が、落葉前に赤色に変わるものを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるものを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるものは「褐葉(かつよう)」と呼ばれるが、これらはいずれも「紅葉」として扱われることが多い。また、同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがあり、なぜ紅葉するのかについては今なお解明されていない。紅葉の発現のメカニズムには、寒くなって日照時間が短くなることで葉緑素クロロフィルが分解されることが関係している。紅葉は秋に葉柄の基部に離層が形成されて、移動できなくなつた糖類が赤色のアントシアンに変わるために起こる。黄葉はクロロフィルが分解し、残っている黄色のカロチノイド色素が目立つために起こる。褐葉は黄葉と同じ原理であるが、タンニン性の褐色物質の蓄積が目立つようになるためとされる。11月に入って里山には一斉に赤や黄色の色彩が山から下りて来ていて、今将に錦秋である。晩秋の日差しに映える紅葉の山は、一瞬ハッと息をのむほどの顔を見せることがある。木々に紅葉の現象が無かったら、山の秋は全く味気ないものになっていたに違いない。 かくばかり もみづる色の 濃ければや 錦たつたの 山といふらむ (後撰和歌集)」
2013年11月06日

縁起を担いで家の表庭に植えたカリンが、今年も沢山の実を付けた。葉が色づくころになると、鮮やかな黄色の大きな実が目立つようになる。通りかかった人の多くが木を見上げて行くが、中には欲しそうにして声をかけてくる人もいる。カリンは中国東部が原産地であるが、日本へ渡来した時期については不明とされる。関東での開花期はソメイヨシノより少し早い3月で、5枚の花弁の薄いピンクの花を咲かせる。開花前の柔らかな蕾は、ヒヨドリの餌として格好のターゲットとされひどい場合は蕾のほとんどが啄まれてしまうことがある。果実は、黄色の大型の楕円形をしている。誰でもが好ましく感じる芳しい香りは、果皮や果実に含有されるトリテルペン化合物によるものである。11月の末から12月が、収穫期である。果実には果糖、ビタミンC、リンゴ酸、クエン酸、タンニン、アミグダリンなどが含まれるが、香りに似ず渋く、堅くて全く生食することは不可能である。花・果実とも楽しめ、さらに新緑・紅葉が美しいので庭園樹としても適している。「金は貸しても借りない」との語呂合わせから、縁起を担いで庭の表にカリンを植え裏にカシノキを植えることが行われる。カリンの果実に含まれる成分は咳や痰など喉の炎症に効くとされ、果汁がのど飴に配合されることが多い。加熱やアルコールで渋みが消えるので、砂糖漬けや果実酒に加工されて利用される。果実は生薬名を和木瓜といい、古くから民間療法で咳止め、利尿に利用されて来た。バラ科植物の種子に多く含まれるアミグダリンは、加水分解するとベンズアルデヒドを生じ、これに咳止効果があると言われる。しかしアミグダリンは加水分解によって猛毒のシアン化水素も発生するため、国立健康・栄養研究所では注意を喚起している。アミグダリンは青酸配糖体の一種で、バラ科植物の未熟な果実や種子、葉などに含まれる。アミグダリンそのものには毒性は無いが、動物の体内に存在する酵素のエムルシンによって加水分解されグルコースやマンデロニトリルが生成し、さらに分解されると芳香物質のベンズアルデヒドとシアン化水素となる。シアン化水素は猛毒であるが、長期の保存で分解されて無害となる。アミグダリンを含む食物を加工したものにはアーモンド、杏仁豆腐、ビワ酒や枇杷茶、カリン漬等様々な物がある。国立健康・栄養研究所は、「癌に効き、癌細胞だけを攻撃する」「ビタミンの一種であり、アミグダリンの欠乏が癌や生活習慣病の原因となる」などといったアミダグリン効果について、その科学的根拠が否定されているにもかかわらず、その効果を強調した食品が後を絶たないことから、アミダグリンの過剰摂取による健康障害の危険性に注意を喚起している。木に付いた実は一見食べられそうにも見えるのだが、見た目ほどの利用価値が無い。以前は砂糖煮にしてシロップを作ったり、果実酒やジャムに加工したが、何年か前のものがそのまま残っていたりして、今はもっぱら風呂に入れたり、玄関先に置いて香りを楽しんだりするのに利用している。
2013年11月05日

食用菊は菊の一種で、食用として改良され栽培されている菊のことである。約(つづ)めて、食菊ともいわれている。料理のつまに使われるつま菊などの小輪種の他、花びらのみを食用とする大輪種では花弁が取れやすくなっている。菊そのものは、古代から中国では延命長寿の花として菊茶・菊花酒、漢方薬として飲まれてきた歴史がある。その中でも食用菊は、苦味が少なく花弁を大きくするように品種改良されたものである。奈良時代に、日本で現在でも食用菊として栽培されている薄紫の「延命楽(もってのほか)」が中国から伝来した。平安中期の927年に行われた延喜式の典薬寮の中には、「黄菊花」の名が出てくる。重陽の宴に天皇が臣下に菊花酒を賜り無病息災、長寿延年の縁起を祝って使われたものという。江戸時代に最初民間で食用とされるようになったとされており、1695年に記された「本朝食鑑」に「甘菊」の記述がある。俳聖芭蕉も菊を食べたと言われていて、元禄3年に近江堅田で菊の句を詠んでいる。 蝶も来て 酢を吸う菊の 膾哉膾は本来肉を細かくして、調味料で和えたものだがここでいう菊膾は、精進なますと言われるものでキクを酢と調味料で和えたものであろう。堅田では、「黄菊」が今も栽培されている。芭蕉が食べた菊も、黄菊であったのだろう。菊の花には、発ガンの抑制・コレステロールや中性脂肪を低下させる効果があるという研究結果が発表されている。栄養面では、ビタミンやミネラルを比較的多く含有しており、特にβ-カロテンやビタミンC、葉酸をはじめとしたビタミンB群などの抗酸化作用の効果がある栄養素を多く含んでいる。モッテノホカにはこの他に抗糖化作用があるとされ、アンチエイジングの観点からも注目されている。観賞用の菊も食べることはできるが食用菊に比べて苦みが強く、甘みも少ない。菊は花弁を毟り取ってから、さっと茹でてお浸しや酢の物・合え物、天ぷらや吸い物としても利用される。花びらを湯がいたり蒸した後に、海苔のように薄く四角い形に乾燥させた「菊海苔」「干し菊」「のし菊」などの加工もおこなわれる。さらに刺身やちらし寿司などのつまとして使われ、色どりを添えている。醤油に花弁を散らして彩り・香りを楽しむ食べ方もある愛知県の栽培食用菊はビニルハウスで栽培され、年間を通して生産・出荷されている。刺身のつまなどに添えられる小菊が主で、つまとしての小菊の国内生産の9割近くを占めるという。一方花を食べるた食用菊は、山形が第1位で全体の6割を占めると言われる。黄菊などの種はハウス栽培で年間を通して出荷されているが、もって菊は晩生で収穫時期が限られ10月下旬から11月にかけてが旬とされる。延命楽は山形では、「もってのほか」「もって菊」、新潟では「かきのもと」と呼ばれる。明るい赤紫色の中輪種で八重咲き。主として、酢の物などの料理に使われる。名前の由来は「天皇家の紋である菊の花を食べるとはもってのほか」を語源とするという説と、山形地方で「もってのほか」という言葉は、「思っていたよりもずっと~だ」の意味で使われることから「思いのほか美味しい」と言う意味で付けられたとの説もある。山荘の菜園で14年も継代栽培しているのは、黄菊の阿房宮(あぼうきゅう)である。この種は青森県八戸市の特産で、黄色で7~8cmの中輪八重咲きである。花を食べるほかに、刺身などのつまなどにも使われている。南部藩主が京都九条家の庭から阿房宮を株分けし、藩内に植え付けさせたのが始まりとされる。この菊が中国から渡って来たことから、秦の始皇帝が建立した広大な宮殿の名前を取って「阿房宮」と名前が付けられたという。一方では、江戸後期の天保年間に八戸の豪商七埼屋半兵衛が大阪から「黄宝珠」と「軍勢」という2株の菊を大金5両で買い入れ持ち込んだものから改良された品種だとの説もある。栽培は容易で、特に病害虫もつかない。ただし一茎に中輪の比較的大きな八重咲きの花が6花も咲くので倒伏しやすい。支柱で支えてやらないと、地上に倒れてしまい花に土がついてしまう。早くより 雨戸をしめしこのゆうべ ひでし黄菊を 食えば楽しも 茂吉
2013年11月04日

妻の実家の庭から、実生のサザンカの苗を移植して45年を過ぎた。親木は、毎年庭師に剪定されるので1mにも満たない背丈であるが、我が家のは親木をはるかに超える大きさに育っている。実生にも関わらず、毎年親木と同じ花を咲かせる。サザンカは、ツバキ科の常緑広葉樹でツバキやチャなどの仲間である。よほど植物に詳しい人でないと、ツバキとの区別が付けにくい。漢字表記の山茶花は中国語ではツバキ類一般を指す山茶に由来しもともとは、サンザクワと言っていたものがサザンクワとなって、江戸中期頃現在のサザンカの名前に定着したものといわれている。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白であるのに対し、園芸品種の花色は赤・白・ピンクなど多様である。童謡「たき火」の歌詞に♪さざんか さざんか さいたみち…と歌われるサザンカの花は、どんな色の花であったのだろうか。サザンカは花の無い時期に咲くので、庭を彩るためには貴重な花である。一番簡単なツバキとの見分け方は、サザンカは葉縁がギザギザしており、花弁がバラバラに散るのに対して椿は花弁の全てが首ごと落ちる。岡本かの子は、滞在先の油壺の旅館で脳溢血で倒れ、1939年2月18日に自宅にて49歳で早逝した大正から昭和の小説家にして歌人、仏教研究家である。奇しくも家内の出身校の大先輩で、跡見女学校を卒業している。19歳で知り合った漫画家の岡本一平と21歳で結婚し、芸術家岡本太郎を生んだことで知られる。私生活では、夫一平と早稲田大学生と3人の「奇妙な夫婦生活」を送ったことで有名である。山茶花 岡本かの子(抜粋) ひとの世の男女の 行ひを捨てて五年 夫ならぬ夫と共棲み 今年また庭のさざんくわ 夫ならぬ夫とならびて 眺め居る庭のさざんくわ1912年には夫一平の放蕩や夫婦間の問題、さらに兄の死去などに衝撃を受け絶望に陥り、翌年には母の死去に加えて、一平の放蕩が再燃し家計が苦しいこととも重なって精神病を発症して入院する。1年の入院で退院すると一平は前非を悔い家庭に戻るが、長女が死去するなどたび重なる不幸と夫への不信も重なって一平を愛することができなくなっており、かの子を慕っていた早稲田大学生と一平の了解のもとで同棲を始めた。退廃の感じがする前出の詩は、そんな生活環境を詠ったものである。岡本かの子に耽美妖艶の作品が数多く残されているのは、彼女の境遇がそのまま作品に現れたものであろうか。
2013年11月01日
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