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江戸の町民の多くは日常生活を「掛け」で暮らしており、この掛け取りは大晦日が期限であった。落語でも、「掛取万歳」や柳家小三治の「睨み返し」などで語られている。五千円札の肖像画になっている24歳6ヶ月で早逝した樋口一葉が、「大つごもり」の題で小説を残している。大意は、「18歳のお峰が山村家の奉公人となったが、育て親である病気の伯父が高利貸しから借りた10円の返済ができなく、返済期間延長のために金の工面を頼まれ、山村家から賃金の前借りの約束を取りつける。しかし暮れになって奉公先の総領で放蕩息子の石之助が帰ってくるが、石之助と後妻とは仲が悪くその顔を見て機嫌を損ねてしまった新造から、約束の金を借りる事ができなくなってしまった。万策尽きたお峰は、石之助が転寝をしている傍にある硯の引き出しから、1円札2枚を抜き盗ってしまう。その後、大晦日に有り金の全てに封印する大勘定が行われ、お峰が2円を盗んだことが露見しそうになる。お峰は伯父に罪をかぶせないために、舌を咬みきって自害する決心をする。しかし、硯の引き出しを開けて見るとあるべき金の束は無く、全て金を持ち去ったと言う石之助の書き付け一枚が入っていただけであった。石之助がお峰を庇ったのかただ盗っていっただけなのか、知りたいものだ。」という内容である。「大つごもり」は大晦日のことで、つごもりは晦日の別名で「月隠り(つきごもり)」が転じたものであるという。1年の最後の日のことで、旧暦では12月30日か12月29日になる。旧暦の、毎月の最終日は晦日といわれた。その年の最後の晦日が大晦日である。新暦では必ず12月31日が大晦日で、翌日は1月1日である。年神様を、迎えるための行事が行われる日である。元々「みそ」は「三十」であり、みそかは30日を意味したものが新暦では12月31日を示す言葉となった。(月の大小が年によって変動するので、29日のこともあった。)大晦日の慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」、または「歳徳様」への信仰から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれ一年を司る神様のことである。年の初めに来られる神様であることから「正月様」とも呼ばれ、年によって来る方向が異なりその方角を「恵方」という。来年の恵方は時計では2時30分、甲の方角でおよそ東北東である。神様をお迎えして食事を共にするため、大晦日から「年籠り(としごもり)」をして元旦は家で過ごすことが一般的な習わしであった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、こちらから神社へ参拝する「初詣」に変遷していった。大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜は除夜とも言う。かつては、除夜は年神様を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皺が寄るとかいわれた。この日は年越し蕎麦、除夜の鐘、初詣、雑煮などで祝う。大晦日の深夜に一日が始まることから年越し蕎麦でなく、大晦日に正月の食事をとる地域がある。信州の実家では、お年取りといって正月のご馳走をこの日の夕食に食べる。除夜の鐘の数は、仏教思想に基づく百八煩悩を意味しているという。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に好・悪・平があるので18類。さらに18類には浄・染の2類があって36類、この36類に前世・今世・来世があるので都合全部で108となりこれを人間の煩悩という説。月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表すとする説。四苦八苦が元になっている(4×9+8×9=108)とする説などがある。幸い我が家にはローンも借金も無く、残りの12時間も「掛け取り」を心配する必要はない。来年もまた、借りのない一年となるように心掛けたい。 百方に 餓鬼 うづくまる 除夜の鐘 石田波郷
2013年12月31日

祝い船(昭和57年)の歌詞で♪晴れの門出の はなむけに 唄に踊りに手拍子を 今日はめでたい心の船出…。と歌われる。ここで歌われる晴れはハレ・霽れのことであり儀礼や祭、年中行事などの「非日常」を言い、普段の日常生活はケ・褻と呼ばれる。ハレはもともと折り目・節目を指し、ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れ舞台」(生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(儀礼で着用する改まった衣服)などに使用されている。普段着は「ケ着」といわれたが、明治以降から言葉として使用されなくなったという。天気が良いことを単に「晴れ」といっているが、江戸時代までは長雨が続いた後の晴れ間のような日についてのみ「晴れ」といったのだという。「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」のモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇することを「ケガレ(褻・枯れ)」といい、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を行うことで回復するとする説がある。(桜井徳太郎ほか)しかし諸説があって現在、ハレ・ケ・ケガレについての定義は統一されていない。ハレの日には餅・赤飯・白米・尾頭つきの魚・酒などが特別に飲食された。そのための器もハレの日用のものを使用し、日常的に用いるものと区別されていた。これらの風習は現代にも受け継がれており、正月・ひな祭り・菖蒲の節句などハレの日には餅が供えられる。わが国で餅が記録に出てくるのは、8世紀前半に編纂された「豊後国風土記」である。「長者が余った米で餅を作ってその餅を弓の的として用いたところ、的として使われた餅は白鳥(白い鳥)となって飛んで行ってしまった。やがて、長者の田畑は荒れ果て、家は没落してしまった。餅を、粗末に扱ったことの報いであるとされている。」と餅に関する記述があるところから、天平5年頃には餅があったとの説が有力である。4鏡のうちの大鏡には、醍醐天皇の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出されたとあり、天皇家や貴族の間では生後50日目に餅の味を覚えさせたという。昭和49年に電動餅つき機が開発され、一般家庭では臼と杵を使用した餅つき風景を見ることはなくなった。我が家では結婚以来正月用の餅は家内の実家から貰っていたのだが、両親が亡くなって自分で調達せざるを得なくなったので、発売されて直ぐの電動餅搗き機を購入した。現在の機械は、二代目である。餅米は米どころ信州で自家用に栽培した玄米を譲り受け、自宅で必要の都度精米して餅に搗いたりおこわにして年に30kgを消費する。暮れの30日は、我が家では正月の餅を搗く恒例の日となっている。スーパーなどで販売している切りもちには、もち米以外のコンスターチや澱粉などの混ぜ物が多い。臼と杵で搗いた昔ながらの餅でなくても、お雑煮として食べる餅は矢張りもち米だけの餅が良い。子供や孫たちは余り雑煮を好まないのだが、餅を食べる風習は残しておきたいハレの日行事の一つである。 餅ついて 春待顔の 小猫かな 子規
2013年12月30日
日本語には標準語といわれる言葉と、地方毎に異なる方言がある。その他にそのどちらにも入らない、暗号とも思える言葉があってこれは隠語といわれ辞書では、特定の仲間の間だけ通用するように、特別の意味を付与して用いる語。かくしことば。(広辞苑)「盗人・犯罪者・香具師等の仲間および刑事の社会で」1.仲間以外の人には分からないように考案した通語。例ノビ(=窃盗)、タタキ(=強盗)、ムスメ(=土蔵)や、バクロウ(=取引):お通夜(=張り込み)、ボケ(=偽名)、ナグリ(=捕物)、トバ(=服装)、カタ(=足取り)など。2.(僧侶の間で)俗人に知られては都合の悪い内容を言うのに用いた通語。酒→般若湯など。(新明解国語辞典)と説明している。隠語とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のことをいい、外部に秘密がもれないため、あるいは仲間意識を高めるために使われる。別に暗語とか集団語などともいわれる。芸能界など、職業と結びついたものは業界用語とも呼ばれる。特定の業界において、商品の値段を示す記号や特定の仲間内で使われる符丁(符牒)なども隠語の一種である。目出度いところでは、「大黒様」の名前を冠した大黒符牒なるものがある。大黒天を歌った♪「一に俵をふんまえて、二ににっこり笑わんす、三に酒を飲ましゃんす、四つ世の中よいように、五ついつもの如くにて、六つ無病息災(才)に、七つ何事のないように、八つ屋敷を建て広め、九つ小蔵を建てならべ、十でとっくり治まった。」という数え唄が知られている。この数え唄から借用して、値段を表すのに1を俵、2を笑、3を酒、4は中、5は如、6は才、7は事、8は敷、9は蔵というように用いたものである。現職中に、築地市場の衛生検査を担当したことがあったが、競りの符牒は全く理解できなかった。また現職を退いた後、関東地方の1都3県にある某百貨店とその子会社7店舗に出店する170を越える店舗の衛生指導を一人で担当したことがあった。百貨店では顧客にそれとわからないように、食事や休憩・トイレなどについての店員同士の会話や一斉の業務連絡の際に符丁が使われている。40年近い公務員生活から、突然のサービス業界に入ったことで話し言葉の端々に全く理解不可能な言葉があった。この百貨店生え抜きの人から聞いた話では、昼飯を有久(ありきゅう)といい食堂は「有久場」である。なんでも、八の符牒が「有」なのだと言う。久は繰り返すことを表していて八プラス八で米となり、これが食事の意味になったものという。何とも理解不能であるが、もともと客に理解されないように用いるのが符牒なのだから、店員同士が理解できるものであればどんな言葉でもよいわけである。
2013年12月29日

2014年の干支は十二支七番目の午で方位は正南、時刻は正午、季節は夏を指し万物が実を結ぶ充実の時とされる。古来午は馬に当てられ「天駆ける神聖な動物」と考えられてきた。中でも天馬は、仁徳を備え聖徳を感じて世に現れる目出度い物とされ、日光東照宮陽明門にも彫刻が見られる。馬は古くは乗り物や農耕に大きな役割を果たして、人々の生活に欠かすことができない貴重な存在であった。また「神様」の乗り物とされ、神社などに願をかけて馬が奉納されて来た。その風習が後になって生きた馬の代わりに絵に描いた馬を奉納するようになり、絵馬として現代に伝わっている。我が家では毎年、日光東照宮の特別祈祷を受けた干支の絵馬を床の間に飾るのが習わしとなっている。ご神木の厚い杉の正目板に、日展評議員の米陀寛画伯が原画を描いたものである。今年も余すところ4日となった今日、少し早いのだが恒例の絵馬の引き継ぎ飾りを行った。株価は年初来最高値で終わったが、年末になって急に浮上した都知事の辞職・総理大臣の靖国神社参拝で軋み始めた外交・普天間の埋め立て承認で揺れる沖縄問題など多くの課題・難題が山積したまま越年する。バトンを渡した今年の干支の巳は、「陽気盛んとなり万物が開花する時」であった。来年は万物が実を結ぶ充実の時と謂われる。干支で謂われるように、充実した新しい年となるように心から願うばかりである。
2013年12月28日
12月8日は、新年を迎える準備を始める日とされていた。12月8日が「事始め」で2月8日を「事納め」といわれる。一年間お世話になった道具に感謝し、整備の必要なものは整備して片付ける。江戸城で慣行とされていたことが由来となって、13日は歳神様を迎えるための「煤払い」の日とされ、1年間の汚れを落とす大掃除を行う。年々早くなってデパートでは、10月末からお歳暮商戦が始まるが、昔は正月に先祖の霊も帰ってくると考えられたことから、嫁いだ娘や分家から正月用のお供えものを実家や本家に届けたのが歳暮の起源とされる。本来煤払いが終わって年神様や先祖を迎える態勢が整った12月13日頃から、お歳暮を届ける風習であったのが今では12月前からお歳暮が届くようになった。12月中旬になると正月飾りや乾物などを売る露店が立ち、商店街や市場には正月商品や生鮮食料品など新年を迎えるために必要なものを売る「歳の市」が立つ。しかし現在は、ホームセンター・スーパー・コンビニでこれらの商品を扱うようになって、寺社の周りや駅前に立つ露店を見ることが少なくなった。新しい歳にはお清めの意味で下着、下駄、足袋など身に着けるものや鍋などの台所用品を新しくする。品物が豊富になった現在では、特に正月に向けて新調しなくても常に新しい物が手に入る。官公庁が28日を御用納めとしているのは太政官布告が起源であり、現在では金融機関を除いて一般企業もこれに倣ってこの日を仕事納めとしている場合が多い。現在では簡易な飾りも行われなくなってきたが、本来正月を迎えるための飾り物の門松・しめ飾り・鏡餅などの正月飾りにはその一つひとつに意味がある。門に飾る松と竹を門松といい、年神様は門松を目印にして来るといわれている。門松には松竹梅を飾るが、松は常に緑で瑞々しく神の宿る木とされている。竹の子は2~3日で背丈ほども伸びることから竹は生命力を象徴している。梅は新春に最も早く咲き1年の始まりを意味して目出度い花とされる。玄関に飾る注連飾りは、神様が居る場所を顕している。稲藁で編んだ縄を注連縄といい、豊作を祈願して飾る。その他に正月飾りに用いられるものには、シダの一種ウラジロがある。これは葉の裏が白いことから、「後ろ暗いところがない」として清浄な心をあらわしたものである。御幣は神の力が宿るものとして飾られ、若葉が出てから古葉が散るユズリハは家系が連続することを願うもの。ダイダイは「代々栄える」ように、昆布「喜ぶ」に通じる。鏡餅は神様へのお供えであり神の拠り所として、床の間あるいは高い場所に供える。神が宿り神事に欠かせない丸鏡に擬えた2段重ねで、太陽と月を象徴し円満に年を重ねるという意味もある。29日は「二重苦」「苦立て」「苦松」と読めることから、また31日は葬儀の「一夜飾り」と同じで縁起が悪く、また年神様を迎えるのに一夜限りでは失礼という意味からこの日に飾り付けをすることは嫌われる。また餅搗きも「苦持ち」で、29日には餅を搗くことを避ける習わしがある。宝暦6年(1756)の眉斧日録には「闇をこねるか大年の蕎麦」と記述されているところから、250年ほど前には大晦日に蕎麦を食べる風習がすでに出来上がっていたものと思われる。年越し蕎麦には細く長く、来年も幸せを傍(そば)から掻き入れるという縁起があるが、これは年内に食べきらないと来年の金運に恵まれないともいわれる。年越し蕎麦には、次のような様々な言い伝えがあって面白い。○長寿蕎麦または寿命蕎麦(そばのように長くのびて長生きできる。)○運気蕎麦(鎌倉時代、博多の寺で町の人に蕎麦をふるまったところ、翌年からみんなの運勢がよくなったという故事。)○福蕎麦(金銀細工師は散らかった金粉をそば粉を使って集めることから、そばは金を集める縁起物となった。)○縁切り蕎麦(そばはよく切れるため、1年の苦労や借金と縁を切るため。)○薬味の葱にも意味があり疲れを労うという意味の「労ぐ(ねぐ)」、祈るという意の「祈ぐ(ねぐ)」、神職の「祢宜(ねぎ)」などにかけている。1951年から大晦日の夜NHKラジオ特番として始まった「紅白歌合戦」は半世紀も続く超長寿番組である。娯楽が少なかった時代には大晦日の国民的番組であったのだが、時代と共に様変わりし今ではテレビに齧りついて楽しむほどの興味も魅力も無くなっている。人には108の煩悩があると言われ11時半を廻るころになると、この煩悩を撞き去るための除夜の鐘の音が聞こえてくる。一撞き毎に一つの煩悩が消えるとされ、108回撞かれる。107回は年内に最後の1回を新年になってから撞いて、新たな年も1年間煩悩に惑わされないようにと願う。大晦日の深夜0時に年をまたいでお参りすることを「二年参り」といい、旧年の穢れを祓い新年の力を授かるように寺社を参拝する。
2013年12月27日
日本に生息し囀りが美しいスズメ目の鳥で、夏渡ってきて繁殖し冬季は東南アジアへ帰るオオルリとコマドリの渡り鳥と留鳥のウグイスを、日本三鳴鳥という。オオルリとコマドリは余ほど通の人でないと、その鳴き声も姿も聞いたり見たりしたことの無い人が多い。一方ウグイスは姿形を知らない人でも、日本人なら誰でもがその鳴き声を知っている馴染み深い小鳥である。ウグイスは日本、サハリン、中国東・中部で繁殖する。ハワイ諸島にも見られるが、日本から移入されたものである。日本ではほぼ全国に分布する留鳥だが、寒冷地では冬季に暖地へ移動する個体もある。平地から高山帯まで生息しており、環境適応能力は広い。笹の多い林下や藪などで比較的低い場所を好む。英語では、藪でさえずる鳥の意味でBush Warblerと呼ばれる。警戒心が強いので、声が聴こえても姿が見えないことが多い。 声はすれども姿は見えず 藪にウグイス声ばかり 宮城県定義節ウグイスよりホトトギスの卵の長径は0.4mmほど長いが、ほとんど同じ色をしておりホトトギスから托卵攻撃を受ける。夏場は主に小型の昆虫類などを捕食し、冬場は植物の種子や木の実なども食べる。繁殖期は初夏で、「ホーホケキョ」と鳴くのはオスの縄張り宣言で1日に1000回も鳴くことがある。壺形の横に穴の開いた巣をつくり、4から6個の卵を産んでメスが雛を育てる。「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」と鳴くのを囀りといい、「チャッチャッ」と鳴くのは幼鳥と雌、縄張りを持つ前の雄の鳴き声で「笹鳴き」という。「ホーホケキョ」が縄張り宣言、「ケキョケキョケキョ」が侵入者への威嚇であるという。古くは鳴き声を「ウー、グイス」または「ウー、グイ」と聞き做していたことが、うぐいすの名前の由来になったとする説があるがホーホケキョ以外には聞きとれない。京都の二条城や知恩院・観智院・東本願寺・大覚寺・観智院の大寺院の廊下や書院に、歩くとキュキュと音が鳴る鶯張りと呼ばれる床張りがある。その鳴る音が、ウグイスの「ケキョケキョ」の鳴き声に似ていなくもない。特殊な金具を使用して音が出るようにしており、曲者の侵入対策として作られたのではないかと言われる。年末も押し詰まった寒い朝、庭の青垣根の中を忙しなく動きながら鳴く笹鳴きが聞かれるようになった。何日か置いて、定期的に廻ってくるのだが何年もの間「ホーホケキョ」の囀りは聞かれなくなってしまった。今笹鳴きを繰り返している個体は、若しかしたら雌だけなのかも知れない。
2013年12月26日

七不思議とはある地域や場所において、7つの不思議な物や現象を数え上げたものとされる。寺院で有名な七不思議は、知恩院の鴬張りの廊下・白木の棺・忘れ傘・抜け雀・三方正面真向の猫・大杓子・瓜生石が有名である。神奈川県座間市にある妙法山星谷寺は、本尊が聖観音で坂東三十三箇所第8番札所である。星の谷観音とも称されている。小田急小田原線座間駅より徒歩5分の場所にある、ひっそりとした佇ずまのいの寺である。坂東三十三札所でこの寺だけに、古くから「星谷寺の七不思議」と数えられているものがある。撞座が一つの「梵鐘「」・覗くと星が見える「星の井戸」・振ると水の音がする「楠の化石」・5色に咲き分け花弁が散る「散りの椿」・吉祥草の「観音草」・季節はずれに咲く「不断開花の桜」・「根下りの紅葉」が列挙されている。この寺は「星谷寺略縁起」によれば、清らかな泉からたえることなく水が湧き、星空の光がその水面に映る。夜でも昼のように明るく「星谷(ほしのや)」と呼ばれていたこの地。…天平年間(729年~749年)に行基菩薩が歩いていると、どこからか法華経の声が聞こえ。その声を探し更に奥へと分け入ると、古木の根元に観音像があった。…。土地の人々に行基菩薩がこの事を伝えると人々が集まり大悲殿を建立する。とありもうひとつは、行基菩薩がこの地に訪れ、高さ45センチ程の観音像を彫り、御堂を建てて安置したとの説もある。中略歴代の北条氏による篤い保護を受け、…その後は徳川家康により寺領の寄進をうけ、大寺院となる。星谷寺の境内に入ってすぐ目に付くのは、新しく石柵で囲った鐘楼と梵鐘である。此処の梵鐘は全国では50番目関東以北では2番目に古いもので、1227年(嘉禄3年)源吉国が鋳造したもので沙弥西願の願で、近江源氏の祖・佐々木信綱の寄進とされる。通常の梵鐘は鐘を撞く為の丸い撞座(しょうざ)が、通常表裏に1つずつあるのが決まりだが、この鐘には1つしかなく日本三奇鐘の1つとして江戸時代から有名になり現在は国の重要文化財に指定されている。関東以西の林地に自生し、一見ヤブランに似た花を咲かせる吉祥草を別名で観音草というが、田村麻呂がこの草で病を治したことから別名を「田村麻呂草」ともいうとの説があるが、吉祥草(キチジョウソウ)に薬効のあることはどんな文献にも見当たら無い。今の椿は堅い蕾で花を確認することは不可能で、また楠の化石は屋内保管のため見ることはできなかった。星の井戸は、昔あった釣瓶井戸の基礎部分だけが残ったような状態で上部に蔓草が繁茂しており、水底は暗く見通せない。蔓をかき分けて覗くと微かに届いた日の光を反射して、覗いた自分の顔が小さく暗い水面に映る。境内を50mほど離れた墓地の中に、幹にシラカシを抱き込んで一体となった大樹古木の桜があったが、蕾だけで花は観ることができなかった。寒風の中期待して参観に行ったのだが、桜の古木以外それほど不思議な事象とも思えなかった。なぜこんなに有名になったのか、それがむしろ不思議な気もした。 (講談社МOOK 日本の古寺名刹)参考
2013年12月25日

土壌を肥沃化する目的で栽培し、土にすき込む作物を緑肥作物といい、緑肥は土壌に休息を与え物理的、化学的、生物的な改善が望め地力維持と有害センチュウ防除などに役立てるものである。イネ科・マメ科・アブラナ科・キク科の植物を栽培し、収穫せずそのまま田畑にすきこみ、後から栽培する作物の肥料にする。大豆・エンドウ豆・クローバー・レンゲソウなどのマメ科植物の根には根瘤ができる。その中には根粒菌が寄生して宿主のマメ科植物から栄養をもらい、一方根粒菌は空中窒素を固定してマメ科植物に与えるという共生関係にある。根瘤ができる植物はマメ科以外には榛の木、ヤマモモ、グミにも根粒ができることが知られている。今では化成肥料に取って代わられたが、レンゲソウやウマゴヤシは戦前から戦後間もなくは水田の緑肥として栽培された植物である。肥しとしての利用以外にも、マリーゴールドなどの植物のようにセンチュウ類の防除に約立つものもある。しかし、植物であれば全てが畑の土壌改良や肥料として薬に立つかと言うと必ずしもそうではない。エンドウや小豆・ササゲなど連作障害があるマメ科植物は、生のまま畑に戻さない方がいいし、またトマト・ナス・ピーマンなどナス科植物では、病害虫に侵されていることも考えられるので収穫後そのまま畑に鋤き戻すことは止めた方が良い。都会地の家庭菜園では、夏野菜の収穫後の茎の後始末としては堆肥にする、ゴミとして処分する、燃やすなどの方法がある。手間を惜しまなければ細切してコンポーストに石灰や土と一緒に入れて、完熟堆肥にすれば病害虫は死滅するので土に戻して再利用しても問題がないのだが手間が大変である。乾燥して焼却するのが最も簡便で確実な消毒にもなるのだが、人家の密集した場所では裸火は厳禁である。結局家庭ごみとして、処分する以外に良い方法がない。今年も収穫後の山荘の菜園から、沢山の残りゴミが発生した。抜いて畑に積み上げて置いた野菜の茎葉と庭の木の剪定枝やキクなどの枯れ草が乾燥したので、風が無い早朝を選んで焼却した。ほとんど無風状態の中大量の煙を上げながら、約3時間かけて処分した。正月飾りを燃やすドンド焼き程もある大きな焚き火は、人家が密集していない場所で無くてはできない。畑が凍土になった今の時期が畑仕舞と見えて、山荘からの帰り甲府盆地のあちこちで行う野焼きの煙が段丘の上を棚引いているのが見えた。畑仕舞が終わると、畑は来春まで一時の眠りの時期に入る。
2013年12月24日
竹は松・梅と並んで中国の宋時代から、文人画の画題として大いに好まれてきた植物である。広義にはイネ科に属して茎が木質化する種の総称として竹と称しているが、一般の木と異なり二次肥大成長がないところは草と同じであり、竹が草か木かについては意見が分かれている。狭義にはその生育型から、竹・笹・バンブーの3つに分けられている。植物学的には成長して荀の皮が落ちるのが竹、残って茎を包むものが笹とされる。バンブーは熱帯地方に自生し、外見はタケに似ているが地下茎が横に這わず株立ちになる。タケは地下茎によって繁殖し、60年から120年の周期で開花し開花後一斉に枯れることが知られている。成長力が強く、1日1m以上も成長する。家の中にも進入して畳を突き破る被害も起きる。放置された竹林によって樹林の枯死を招き、森林が竹林に置き換わってしまう問題も起きている。淡竹または真竹の葉は、竹葉という生薬になり解熱、利尿作用があり、茎の内層は竹茹と言われ解熱、鎮吐などの作用がある。淡竹の茎を炙って採った液汁は、竹癧という生薬である。青々としてまっすぐ伸びる様子から榊とともに清浄な植物とされる。地鎮祭で四隅に立てられる青竹のことを忌竹といい「斎竹」とも書く。3本の竹を松で囲み、荒縄で結んで門松飾りにする。論語に「子曰、歳寒、然後知松柏之後凋也」(『論語』子罕第九)と「子曰、益者三友、損者三友、友直、友諒、友多聞、益矣。友便辟、友善柔、友便佞、損矣」(『論語』李氏第十六)がある。松・竹・梅が松竹梅と並べて言われるようになったのは、「厳寒の中で緑を保つ松、暴風・大雪に耐えて真立する竹、寒さの中で真っ先に咲く梅」の三つが論語から「歳寒三友」といわれ文人画の画題とされたことに由来がある。松竹梅を指す言葉の歳寒三友は平安時代に日本へ伝わって、江戸時代以降に民間でも流行するようになった。松竹梅といえば「縁起の良い」ものの象徴と捉えられているが、日本に渡って本来とは異なった意味で使われるようになったものである。20号線の初鹿野辺り右側の沢、日川の竹藪が一斉に開花して茶色になっている。やがて結実した後一帯の竹は、枯死してしまう運命にある。
2013年12月20日

野鳥を観察する人にとっての小鳥は、どんな小鳥でも可愛く保護する対象と思われる。しかし、農作物に被害を与える野鳥は、果樹や作物を作る人にとっては目の敵である。野鳥の中でも特に嫌われ者は、狩猟対象にもなっているカラス・ムクドリ・スズメ・キジバト・カワウ等のほか近年勢力を増してきたヒヨドリであろう。果実や野菜、木の実などあらゆるものを食べるが、野菜への被害は平成に入ってから顕著になった。同一種や近縁種の鳥類と哺乳類では、乾燥・冷涼気候の下で棲息するものは、湿潤・温暖な気候下に棲息するものよりメラニン色素が少なく明るい色調を呈する現象を「グロージャーの規則」という。ヒヨドリでは北に行く程白い体色になり、本州に生息するヒヨドリはエゾヒヨドリより黒い色をしている。都市部の里山や公園など木のある環境に多く見られ、おもに樹上で活動するが地上に降りることもある飛翔姿に特徴があり数回羽ばたいて翼をたたみ滑空する行動を繰り返すので、上下に波打って飛ぶ。甲高く「ヒーヨ ヒーヨ」と鳴き声を上げる所から、その名前がついたという。東京や南の島では年間を通して見られる留鳥であるが、秋には暖地へ移動する個体も多く10~11月には房総半島南端、伊良湖岬、関門海峡では数百羽の群れが渡る姿が観察されることで有名である。何が気に入ったのか、山荘の玄関前に植えた槲(カシワ)の枝に毎年巣を架ける。繁殖期が5~9月と長いが、これは繁殖の失敗による再繁殖が多いことが一つの原因と考えられている。1回の繁殖で4個ほどの卵を産み、雌が2週間ほど抱卵し孵化した雛は雌雄が育てる。巣立ち後近くの地面や木の枝にいる飛べない雛を良く見かけるが、数日は飛べないため巣の近くにいてその後も2か月近く親鳥と行動を共にする。雛から育てると飼い主によく慣れることから、平安時代には貴族の愛玩用として飼育された記録がある。関東都市部では昭和45年頃までは10月に渡来し4月に去る冬鳥であったのだが、現在は一年を通して棲む留鳥となった。南に棲んでいた留鳥が、棲息域を北に拡大してきたものと考えられている。今も秋には北海道から多数のヒヨドリが本州、四国、九州への渡りをしており、吾妻鏡には「元暦元年二月七日条 雪降る、寅剋、源九郎主、まづ殊なる勇士七十余騎を引き分け、谷の後山に着く鵯越と号す。」の記述がある。ここに「鵯」の名前が出てくるが、ここが(現,兵庫県神戸市須磨浦の西)春と秋の季節にヒヨドリの渡りの場所になっていたことから付いた名前とされる。今年は例年になくナンテンの赤い実が鈴成りに実ったが、間もなくヒヨドリがやってきて一粒残さず食べてしまうものと思われる。
2013年12月19日

未練気に落ち残っていた枯れ葉も強い北風には勝てず、最後の一枚まで吹き飛ばされた。落葉樹が葉を振い落としたこの時期目立つようになるのは、たわわに実った赤い実である。ナンテン・ビラカンサ・センリョウ・マンリョウの他、背が低くてあまり目立たないが地際を注意深く見るとオモト・ヤブコウジなどの赤い実を確認することができる。縁起が良いとして正月の飾りに欠かせない植物に、万両・千両・百両・十両・一両がある。万両は千両より実が多く着くことから、その名前が付いたと云われる。園芸種には、白や黄色の実を着けるものや実が大きくなる品種もある。千両は仙蓼とも書き表されるセンリョウ科の小低木で半日陰の林内に生育し、南関東から沖縄まで自生する。百両は唐橘のことで、江戸時代にはタチバナが非常に高価で百両もの値打ちがあったことが名前の由来とされている。十両と言われるヤブコウジの名は近代になって付けられたもので、古くは赤い果実を山のミカンに見立てた山橘の名で呼ばれていた。そこから藪柑子になったという。タチバナは、コウジミカン(柑子)の古名である。一両は蟻通しのことで、この植物は葉腋に鋭い長い刺を有する。このトゲが鋭いので、蟻も刺し通してしまうほどというところからついた名前とされる。特に「千両、万両、有り通し」と言い慣わされることから、「常時千両や万両が有るように」との縁起を担いでマンリョウ・センリョウ・アリドオシの三種の植物を揃えて庭に植えるのだという。このうちでも特にセンリョウは葉の緑と赤い実のつき方が華やかなので、正月飾りに好まれる。センリョウの近い仲間に、山野に自生するヒトリシズカやフタリシズカがある。センリョウは地際から株立ちになり、ほとんど枝分かれせずまっすぐ伸びるので剪定の必要はないが、枝数が多く茂りすぎた場合は地際から切り枝数を減らす。この実をヒヨドリなどの小鳥がよく啄み、果肉を消化した後糞と一緒に種を散布する。小鳥の腸を通過した種は、良く発芽する。種を取って蒔く場合は、3月ころに果肉を良く水洗いして落としてから取り蒔きすれば良い。寒さに弱く寒風や霜に当たると、枯れてしまうことがあり注意が必要である。
2013年12月18日
人体は細菌やウイルスなどの病原体に感染したとき、それらから体を守る「免疫」といわれる生体防御機能をもっている。この免疫が食品や花粉などに対して、過剰反応することを「アレルギー反応」と呼んでいる。アレルギーは人類史上、古くからその存在が知られていた。ギリシャのLucretius(紀元前96~55)はすでに、「食物は人によっては毒になる」と記述しており、稲田龍吉は牛乳がアレルギー喘息を起こすことを発表している(1927年)。「食物を摂取した時に、免疫機序によって不利益な症状がでる場合」を食物アレルギーと定義している。アレルギー体質の人は捕乳類にのみ存在する特定のタンパク質に、IgE(免疫グロブリンの一種)抗体をつくりやすい。摂取した食物とIgE抗体を介して症状が起こるとされ、多くは食物を摂取した直後から4時間程度の間に発現する即時型(I型)であるが、まれに時間が経ってから症状がでる非即時型もある。アレルギー症状で最も多くみられるのが皮膚症状(じんましん、痒い、皮膚が赤くなる、顔が腫れるなど)である。その他の症状として呼吸器症状(咳、喘鳴、呼吸困難)、粘膜症状(口の腫張、目の発赤・腫れなど)、消化器症状(腹痛、嘔吐、吐きけ、下痢)などが同時または別々に出現する。重症の場合は血圧が急激に低下して、意識を失う(アナフィラキシーショック)こともある。ピーナッツやソバにアレルギーのある人は、重症化し易くしばしば死亡事故が発生するので注意が必要である。小児の食物アレルギーの多くは成長とともに軽快・治癒することが多く、80%の児童では就学前までに卵、牛乳、小麦に対する耐性を獲得するといわれている。しかし食物アレルギーには個人差があり、まれに長じても特定の食物アレルギーが長く続く場合もある。ピーナッツ、ソバ、魚介類、果実、種子類のアレルギーは、耐性化しにくい食品といわれる。アレルギーの原因食物ではないのに、食物アレルギーに似た症状を示すことがありこれを「仮性アレルゲン」と呼でいる。食物の中には食物アレルギーを起こすヒスタミンやロイコトリエンなどに似た物質を含有するものがあり、その食物の摂食によりアレルギー類似の反応を引き起こすことがある。昨年12月に調布市で、学校給食による死亡事故が発生した。アナフィラキシーを発症した場合、症状の進行を一時的に緩和しショックを防ぐための補助治療剤エピペン(アドレナリン自己注射薬)が有効である。30分以内にエピペン注射など適切に対応すれば、救命の可能性が高いといわれる。この例では学校現場に知識が無く、適切な治療がなされなかったことも問題とされた。
2013年12月17日

一般的に言えば、動物の体内の特定の組織または器官で生産され、直接体液中に分泌されて運ばれ特定の組織や器官の活動を極めて微量で調節する生理的物質を総称してホルモン(動物)とよんでいる。甲状腺ホルモン・副腎皮質ホルモン・雌雄性ホルモンや、昆虫の変態ホルモンなど多くが知られている。また植物の生長調節物質のうち、植物によって作られ極めて微量で植物の生理過程を調節する物質もホルモン(植物)とよぶ。植物は動物と異なり移動することができないため、環境の変化を感知してそれに対応するための調節制御を担う物質である。植物ホルモンの伸長成長の促進・休眠打破・発芽促進作用は、農作物に広く利用されている。花芽形成・開花促進作用は花弁類の開花促進に、単為結実促進作用は、胚発生(種を作らない)がないまま子房の肥大を誘導するので、種なしブドウの作出に利用される。林檎が、エチレンガスを発生する事実が良く知られている。エチレンは二重結合で結ばれた、炭素2個を持つ炭化水素である。微かに甘い臭いのある無色の気体で、酸化剤と反応しやすく引火しやすい。エチレンガスは植物ホルモンの1つであり一般的には生長を阻害し、花芽形成を抑制し果実の「色づき」「軟化」といった熟成にも関与している。ジャガイモの萌芽を抑制するが、パイナップルでは花芽形成が促進される。林檎をバナナと共に保管すると、バナナの追熟が早く進み傷みが早まる。リンゴをジャガイモと一緒に保管すると、ジャガイモの発芽が抑制される。しかし、ホウレンソウと一緒に保存すると老化が進んで葉が黄変してしまう。冷蔵庫内での保管に、注意を要する。リンゴのほかメロン・洋ナシ・アボカドなど、多くの果実からエチレンを放出されることが知られている。キウイフルーツは、未熟な果実を採取して追熟しないと酸っぱくて生食することはできない。キウイはそのまま室温で放置しても、2か月もすれば熟して十分甘くなるが熟成を早めるためにはビニール袋にリンゴと一緒に入れて口を閉じておけば、1週間で追熟が完成し食べられるようになる。我が家のキウイは、春の晩霜と梅雨明け後の乾燥、猿の悪戯で例年の1/3の収穫しかなかった。それでもコンテナ一つと、スーパーの買い物籠に一杯のキウイを収穫できた。最初はリンゴを入れて追熟して食べていたのだが、収穫後50日を過ぎた頃から保管中の全てが熟してしまった。このままでは数日すれば棄てるよりほかに無く、今年も熟してしまった一部のキウイ5kgを使ってジャムを作った。作り方はいたって簡単である。ホーロー鍋に皮を剥いたキウイとレモン1個・ユズ3個分の搾り汁とキウイの重さの6割の上白糖を加え、中火で煮詰めるだけで上等なジャムが出来上がった。煮詰める途中でこまめにアクを取ると言う人もあるが、取らないでそのままでも全く気にならない。熱いうちに瓶に詰め、沸騰した鍋で30分湯煎して消毒終了である。消毒さえ完全に行えば、室温で1年は十分保存可能である。
2013年12月16日

12月も半ばだと言うのに、庭のモミジやドウダンツツジの紅葉が未だ枝で頑張っている。最低気温は5℃を下回るようになったのだが、まだ初霜が降りないせいなのかも知れない。そんな中、11月まで葉が青々としていたコムラサキは、すっかり黄葉し茶色に変色して縮れてしまった。そのせいで、濃い紫色の小粒な実が露(あらわ)になって冬の青空に映えている。島倉千代子が唄った歌謡曲に「リンドウ峠」があり、♪「…りんりん りんどうは 濃むらさき 姉サの小袖も濃むらさき濃むらさき…・」の歌詞の中では、「濃むらさき」を「こむらさき」と読ませている。国語辞典では、1 こってりとしている。色や味がこい。「濃艶(のうえん)・濃厚・濃縮・濃淡・濃密・濃霧」2 美濃(みの)国。「濃州・濃尾」 〈こ〉「濃緑(こみどり)・濃紫(こむらさき)」とあり、「こい」の他に「こ」と読ませているのでこの歌詩の場合「濃い紫」の意味で使われていて、植物の名前とは無関係であるのが分かる。英語でJapanese beauty‐berryといわれ果実が紫で美しい、ムラサキシキブという植物がある。漢字では、紫式部と表記する。山地に自生するクマツヅラ科の落葉低木で、樹高は高さ3mほどになる。淡紫色の花が7月ころに咲く。果実は小型の球形をしていて秋には文字通り美しい紫色となり,鳥によって散布される。園芸品種には、白実のものもある。名称は源氏物語を著した三十六歌仙の一人「紫式部」の名前と同じだが、この植物にこの名が付けられたのはもともとは「ムラサキシキミ」と呼ばれていたのが訛ったものとされる。シキミには、実がたくさんなる「茂る実」の意味がある。ムラサキシキブによく似たコムラサキは、全体に小型だが果実の数が多くて美しいので庭樹としてよく栽培される。別名コシキブとかコムラサキシキブと言われる。ムラサキシキブとは別種であるが実が酷似しているため混同されやすく、ムラサキシキブといって栽培している場合のほとんどはコムラサキである。全体によく似ているが、コムラサキの方が全体に小型であり枝垂れて実が多く着く。江戸の初期にはまだムラサキシキブの名前はなく、実紫または玉紫と呼ばれていた。紫色をした実が鈴なりに着くことから「むらさきのしきみ、またはむらさきのしげみ」を由来とし、江戸時代に植木屋が紫式部の文字を当てたという説の他に、コムラサキの別名は平安時代の歌人、小式部内侍(こしきぶのないし)からコシキブと名付けたとの説もある。紫式部に対比して、全体的に小型であるところから小式部の名前が付けられたものであろうか。花言葉 愛され上手 上品 聡明」
2013年12月15日
昭和40年頃までの南信州は、養蚕が大変盛んな地域であった。実家もかなり大規模な養蚕農家で、幼児のころには若いお姉さんが何人も手伝いに来ていた。蚕は畑の作物と異なり、家屋の中でないと飼育できない。大規模に蚕を飼育するために、生家は非常に大きな構えの家であった。当時石油ストーブは無く、ふんだんにある薪と炭が暖房や料理の熱源であった。家族が集う居間には、大きな囲炉裏が切ってあり、煙を出しながら火を燃やして自在鉤で煮物をした。その結果、家中に煤が付いて柱も壁も全てが真っ黒になっていた。その煤や天井に張ったクモの巣を取り除くために、歳の暮れには「煤掃き」といわれる「すす払い」をしたものである。屋内外の大掃除を、別の言葉で煤払いという。近年大掃除は年末近くにするようになったが、12月13日がその日と決められていた所が多い。かつてはこの日から、新年の準備をする習わしが広くあった。この日に行われる煤払いは、年間の厄を取りはらい歳神様を迎える準備としての信仰的な行事でもあった。江戸城では12月13日がすす払い日とされ、町家でもこれに倣って多くがこの日をすす払いの日としていた。本居宣長の「宣長全集」には宝暦10年7月9日と12月5日に煤払いの記載があり、当時は年に2回行われていたことがわかる。護摩や線香・蝋燭の油煙で煤ける寺社の多くでは、今も13日前後に大々的に「すす払い」の行事が行われており歳末の一大イベントとなっている。一方一般住宅では囲炉裏があった頃と異なり、暖房や料理・風呂の熱源が薪からガスや電気・石油に代わって家の中で裸火を焚かなくなった最近では、すす払い(大掃除)は極めて簡単になって13日と決めて行われることも無くなった。昨日は外へ出られないほどの強風があったが、今日は朝から快晴で風も少ない。古のしきたりを偲びながら絶好の掃除日和となった今日から、一日遅れで窓拭きを手始めに年末の掃除に取りかかる予定だ。
2013年12月14日
化学反応によって外からエネルギーを与えられると、エネルギーの低い安定した状態からエネルギーの高い不安定な状態をつくるが、その状態から元の安定した状態に移行するときに光を発する現象が化学発光といわれる。光を発する生物は多くのものが知られていて、これらは酵素を使って発光物質を酸化させ発光している。生物発光は100%に近いエネルギー効率で、発光による熱損失がほとんどないことが特徴である。発光生物としてはハダカイワシ・チョウチンアンコウ・エソ類の深海魚のほかホタル・ウミホタル・オワンクラゲなどの動物、発光茸のツキヨタケ、原生生物のヤコウチュウが知られている。生物の発光に関与する酵素はルシフェラーゼと呼ばれ、発酵物質はルシフェリンと呼ばれている。ある発光生物のルシフェラーゼは、その生物のルシフェリンとしか反応をしない。日本の太平洋沿岸に生息する発光虫として良く知られるウミホタルは、体長約3mmの米粒のような甲殻類で青く発光する。ウミホタルの分泌する発光物質が体外に放出されると同時に、酵素の作用によって海中の酸素と激しく反応し酸化作用により発光するものである。発光する魚としてキンメモドキやツマグロイシモチが知られているが、これらは捕食したウミホタル由来による発光といわれている。新鮮なイカをうっかり一晩室温に放置してしまうと、イカの体表面が暗闇で青白く光を発することがある。この発光は、イカの体表に付着していた発光バクテリアの増殖が原因である。発光バクテリアは微量では発光しないが、体表面で増殖した大量のバクテリアがコロニー(集落)を形成することによって発光するようになる。光を発する細菌は発光バクテリアと総称され、そのほとんどは海水に浮遊または他動物に寄生して寄生発光を起こす。多くはビブリオ属の細菌(Vibrio fischer)が知られているが、Photobactrium属の細菌や同定されていない未知の細菌も多い。ビブリオ属の細菌は海水の常在細菌であり、コレラ菌や腸炎ビブリオなどの病原細菌もこのグループに含まれる。青や黄色など発光色は細菌によって異なり、Vibrio fischeriでは青緑色を呈する。Vibrio fischeriは20℃程度の室温でも十分に増殖するので、孵卵器などの特別な器具を必要とせず、子供に細菌への興味を持たせる動機づけの入り口として格好の教材となる。
2013年12月13日

東京では朝顔市・ほおずき市・酉の市・羽子板市など様々な市が行われるが、なかでも12月の羽子板市は江戸の時代から歳の市として最も栄えてきた市の一つである。観音様の縁日は毎月18日で、納めの観音詣の日でもあることから12月の17日と18日はその歳の最後の縁日で「歳の市」として浅草寺が賑わう江戸の年中行事であった。明治以降になると正月用品は市中でも販売されるようになったので、歳の市としての面影は次第に廃れていった。現在では江戸末期から始まったとされる羽子板市が、年末の風物詩としてその主役となっている。羽根つきの遊びは室町時代に興ったものとされ、500年ほど前の永享年間には初春を寿ぐ遊びとして宮中で男女の組に分かれて競い合ったとされる。その頃の羽子板には目出度い松竹梅や花鳥の図柄が描かれていたが、江戸時代になって浮世絵の押絵細工を付ける様になり豪華で華麗なものとなった。江戸末期になって歌舞伎役者の似顔絵を貼り付ける様になってからは、女性から人気を集めたという。70年ほど前まで男児は凧揚げ・メンコ・ベーゴマ、女児では羽根つきが正月の遊びであった。現代でそんな素朴な遊びが、テレビゲームや電子機器によるゲームに取って代わられほとんどの子供が昭和の遊びを知らなくなってしまった。羽子板のつく羽根を胡鬼子(こきのこ)と言い、蜻蛉に似せて作られていたことから悪い虫がつかないとか、かたい「無患子(ムクロジ)」が豆に似ているので「魔滅(まめ)」に通じ魔除けになる、「マメにる暮らせる」などの縁起をかつぎ邪気を除け、健やかに育つことを願って、女児の誕生には羽子板を贈ることが習わしとなった。これによって羽子板を正月の縁起物として、「歳の市」で扱う店が増えていったものだという。井原西鶴の「世間胸算用」には、正月に羽子板が江戸の市で正月の玩具として売られていたと書かれている。現在「納めの観音ご縁日」の前後も含め、浅草寺では12月17~19日に「羽子板市」として境内に50軒ほどの露店が出店する。押絵羽子板の制作地としては春日部市が知られ、春日部市とさいたま市でも12月21日~23日に羽子板市が開催される。押絵羽子板の外題は道成寺(どうじょうじ)・藤娘(ふじむすめ)・汐汲(しおくみ)・まり飾り・浅妻(あさづま)などで4~5万円の手頃な物から、30万円以上もする高価な物もある。我が家の羽子板は昭和初期のものと思われ、長さが約80cmもある大きなもので絵柄は歌舞伎や長唄の「浪枕月浅妻」である。朝妻の里の舟女をモデルにした江戸時代の画家英一蝶の描いた、月夜の海に浮かぶ船で鼓を打ちながら舞う美しい白拍子姿の絵である。朝妻の里は琵琶湖の東岸、滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩付近の古名で中世には港があり船便で賑わって「朝妻船」として知られた。 羽子板市 三日の栄華 つくしけり 秋櫻子
2013年12月12日

来年の干支は、8番目の午である。丑・寅・卯・未・戌・亥と異なり、どこの国でも午を動物の馬に充てている。1966年が丙午に当たったため、縁起を担いで出生が大幅に減り翌年の未歳生まれが反動で増加した。次回は60年後の、2027年が丙午になる。文化や科学の進んだ時代に、果たしてどんな選択がされるのだろうか。動物の馬は人との関わり合いが古く、人の役に立ち人間も馬を大事に扱ってきた。馬を入れて飼う場所を厩というが、かつての日本において馬は農耕の重要な動力源であり、乗りものであり、肉は食用とされ皮革までも利用される大切な動物であった。この大切な馬を守る神を厩神といい、馬の飼育が盛んな時代の日本において信仰されていた。多くの地方では猿が馬の守り神とされており、厩の柱に猿の頭蓋骨、または猿の手足の骨を納めたり猿の絵馬やお札を貼って魔除けとした。日光東照宮の神馬をつなぐ厩に掲げられた「見ザル・言わザル・聞かザル」で知られる三猿の彫刻も、同じ魔除けの意味を持っている。馬の守護神が猿とされたのは、猿曳き物語に「天竺から猿が飛んできて厩の御祓いをする」と出てくるのが起源としている。五穀豊穣・雨乞・祈晴、さらに馬の安産や健康も併せて願って猿を祀ったものでないかという。(中村民彦:東北地方の厩猿信仰)古くは馬の邪気を払うとして、厩の前で猿を舞わせる風習があった。厩祭で祝言を述べて猿を舞わす者を猿曳きといい、これが後の猿まわしの起源になったのだとされる。やがて猿曳きと猿が来てくれない時代になったことから、猿の舞の代わりとして猿の頭蓋骨や手足の骨を祀るようになっていった。頭蓋骨や手足の骨が手に入らない場合には、絵馬やお札を祀る様になった。猿以外にも、馬の守り神はいくつかが知られている。妙見様の信仰対象は北斗七星で、大阪以西では眼病の神様として信仰された。これが東北地方に伝わって星座の「座=くら」から、牛馬の守り神もとされるようになった。馬頭観音菩薩は衆生の無智・煩悩を排除し諸悪を毀壊する菩薩とされ、民間信仰では馬の守護仏とされるほかあらゆる畜生類を救う観音ともされている。古くは馬を曳いて観音菩薩を参拝し、馬頭観音(馬頭明王)を祀った。現在でも、馬頭観音の多くの碑が残されている。岩手県滝沢村のチャグチャグ馬コは、蒼前さんである。「蒼前」とは、東北地方に住んでいた馬の病の治療や農耕技術に優れた馬育成者の名前といわれており、蒼前神社には農業と馬の守り神として蒼前様が祀られている。中村民彦によると猿の別名は「スズノミコト」といい、チャグチャグ馬コの鈴も猿を表しているのだという。※中村民彦 京都大学霊長類研究所共同利用研究員
2013年12月10日

1953年に文化勲章を受章した宇井伯壽は曹洞宗本庁によって駒澤大学学長に推薦された。1945年には帝国学士院会員に選出されている。東京大学、東北大学でインド哲学を教えたほか、客員講師として慶應義塾大学、早稲田大学、学習院大学、名古屋大学等でも教鞭を執った。1963年7月に、81歳の生涯を閉じた。彼の子供は5人とも頭脳明晰で、東大を卒業している。長男は農獣医学部を卒業して都の役人として勤務しており、職域が私と同じで同じ管理職仲間としての付き合いがあり伯壽の話をよく聞かされた。葬儀は伯壽の鎌倉の自宅で行われ、私も参列した。インドと言えば、仏教発祥の地である。仏教の開祖とされている釈迦(シャーキャ)は、紀元前5世紀頃にインドのヒマラヤ山麓の釈迦族の王と妃の間に生まれたという。釈迦が人々を救済する道を求めて出家し修行の旅に出たのは、29歳の時であったとされ、苦行して35歳で悟りを開き入滅した80歳までインド各地を布教したとされている。「釈迦」は、釈迦牟尼の略である。釈迦は部族名または国の名で、牟尼は聖者・修行者を指していて「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。一般には、お釈迦様と呼ばれることが多い。1868年に出土した石柱には、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていた。この碑文が釈迦の実在の証しとされ、インド・ネパール国境付近が仏陀生誕の地であるとされている所以である。釈迦は菩提樹pippalaの樹の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦は悟りを開いて仏となった。これを、「成道」という。成道の日については2月8日、2月15日など諸説あるが日本では生まれたのは4月8日、悟りを開いたのは12月8日で、入滅したのは2月15日とされている。日本では四月八日に降誕会、十二月八日に成道会、入滅したとされる二月十五日には涅槃会が行われる。釈迦の成道を記念して仏教では成道の日とされる12月8に、「成道会」を勤修するようになった。釈迦は伝道の途中鍛冶屋のために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛に見舞われた。最後を悟った釈迦は河で沐浴して林に至り頭を北、顔を西に向け横たわり入滅した。これが仏滅である。振る舞われた料理に使われた豚肉かキノコが、腹痛の原因であったという説もある。今ならサルモネラ菌汚染の豚肉か毒キノコかの判断ができたものと思われる。今でも通用する、お釈迦になるという言葉がある。この言葉は、悟りを開いてお釈迦様に近づいたと言うことを意味する言葉ではない。阿弥陀様をつくる心算の鋳物職人が、間違えてお釈迦様をつくってしまった。焼き物をつくる際、火が強すぎて不良品を出したとき江戸訛りで「シ(火)が強かった」と発音するところから「しがつよか」を四月八日に当てはめたことなどが由来とされ、「取り返しがつかなくなる、使い物にならなくなる、不良品をだす。」などの状態表すことの意味で隠語的に使用される言葉である。参考 宇井伯壽監修仏教辞典(大東出版社1937年)
2013年12月09日

童謡「大黒さま」は、明治38年(1905)に尋常小学唱歌とされた歌である。大黒さまとは大国主命のことで、出雲大社の主神である。大黒様(だいこくさま) 作詞 石原和三郎、作曲 田村虎蔵1.おおきなふくろをかたにかけ だいこくさまがきかかるとここにいなばの しろうさぎ かわをむかれてあかはだか2.だいこくさまはあわれがり きれいなみずにみをあらいがまのほわたにくるまれと よく よくおしえてやりました3.だいこくさまのいうとおり きれいなみずにみをあらいがまのほわたにくるまれば うさ ぎはもとのしろうさぎ4.だいこくさまはだれだろう おおくにぬしのみこととてくにをひらきてよのひとを たす けなされたかみさまよ日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主命と混同され、当初は破壊と豊穣の神として信仰され、後に豊穣の面が残って七福神の中の大黒様として食物・財福を司る神とされるようになった。室町時代以降は「大国主命」の民族的信仰と混淆されて微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗り福袋と打出の小槌を持ち豊かに微笑んだ長者の姿で表される。大国さまは現在も地主神社の主祭神であり、縁結びの神、土地守護の神として篤い信仰を集めている。一方の大黒さまは、マハー(偉大な)カーラ(暗闇または黒)という荒々しいインドの神で、日本に伝わると密教の守護神となりお寺の台所や食堂の神として祭られた。この由来から、寺院で祭られるのは外来の神の大黒天で、神社では日本の神の大国主命であると厳密に分ける説もある。シヴァ神の化身のマハーカーラは、青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神である。日本で大黒天といえば一般的には、神田明神の大黒天(大国天)に代表されるように神道の大国主命とマハーカーラが神仏混淆した日本独自の神をさすことが多い。日本の大黒天が福々しい相をしているのは、中国でマハーカーラを財福の神として祀られたものが伝わったことによるとされる。唐代成立の偽経「大黒天神法」には、右手の拳を腰に当て烏帽子・袴姿で、左手で大きな袋を左肩に背負う厨房神・財神として描かれている。この姿は鎌倉期の頃まで続いたとされる。真言宗や天台宗で信仰され、室町時代になると日蓮宗でも盛んに信仰された。ちなみに大黒の担ぐ袋の中には、七宝が入っていると伝わっている。大黒さまが袋を背負っているのは古事記にある神話「稻羽之素菟」(いなばのしろうさぎ))において、八十神たちの荷物を入れた袋を持たされていたためである。また、大国主がスサノオによって焼き殺されそうになった時に鼠に助けられたという話から、鼠が大黒天の使いであるとされる。今日では、「稻羽之素菟」が「淤岐島(おきのしま)」から「稻羽(いなば)」に渡ろうとして、「和邇(ワニ)」を並べてその背を渡ったが、「和邇」に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大国主神に助けられる、という部分のみが知られている。中国地方の山陰の方言ではサメを「わに」と呼び、山間部に伝わる「わに料理」はサメ・エイ等の魚を煮た料理である。隠岐島でもサメのことをワニと言うので、古事記に出てくるワニはサメを指すとする説から国定教科書編纂時にわざわざ「ワニザメ」と表記した。この説話の中に、「蒲黃」が日本最初の薬草として登場する。蒲の穂の花粉は、生薬の「蒲黄」と呼ばれ内服で利尿・通経作用があるとされる。民間薬では、収斂性止血薬としてそのまま傷口や火傷に散布薬として用いる。 雌花はソーセージの形をした綿状になり、穂綿(ほわた)と呼ばれる。因幡の白兎の説話では皮を剥かれた兎に対して、大国主の命が蒲黄を体につけるように助言している。しかし、唱歌の「大黒さま」の中では蒲黄が「がまのほわた」となっており、これは作詞者石原和三郎の錯誤によるものではないかと推測される。
2013年12月08日

足立山妙見宮(御祖神社)わが国の野生鳥獣による農作物への被害額はおよそ200億円でその6割が獣類、4割が鳥類によるものである。獣類では9割がイノシシ・シカ・サルによるもので、内訳は26%がイノシシ、シカ21%、サル7%となっている。(農林水産省17年度)山荘の菜園も例外ではなく、毎年イノシシを始めシカ・サル・ハクビシンなどの野獣が進入し作物を荒らしほとんど収穫が無い場合もある。作物に最も大きな被害を与えているどうしようもない害獣が、日本銀行券に印刷されたり守護神として神社に祀られあるいはイノシシの像が狛狗の代わりになっていたりする。和気清麻呂733~799は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族で「忠義の英雄」として戦前の国定教科書に掲載されていた。同時代に自ら法王に登りつめた弓削道鏡は、祈祷の力をもって天皇に寵愛されて権力を握り法王となり政治に口出しをするようになった人物とされている。769年7月頃、道鏡一派の大宰府の神官が宇佐八幡の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇へ奏上する。そこで天皇は和気清麻呂に、宇佐八幡の神託の内容を確認するよう命じる。清麻呂が神に顕現を願うと大神の神託は、「我が国では昔から君子と臣下は決まっている。臣下を君子とすることは無い」と先の称徳天皇への奏上とは全く逆の内容を聞かされこれを称徳天皇に報告した。(宇佐八幡宮神託事件)。このことにより、清麻呂は道鏡の怒りを買い大隅の国へ流されることになる。流される途中、皇位の安泰を祈願するため宇佐八幡に詣でようとしたところ道鏡の手先に襲われるが、その時出てきた300匹のイノシシの守護で無事に神社にたどり着けたとされ、それから猪は清麻呂の守護神とされるようになった。桓武天皇の代になってから、清麻呂は実務官僚として再び重用されて高官となる。延暦12年(793年)には自ら造営大夫として、平安遷都の建設に尽力した。孝明天皇は清麻呂の功績を讃えて、神階正一位と「護王大明神」の神号を贈った。東京大手町の大手濠緑地や、岡山県の和気神社境内など各地に銅像がある。明治7年(1874)神護寺の境内の清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され、明治19年明治天皇の勅命により神護寺境内から京都御所蛤御門前に移された。岡山県和気町には和気神社があり、和気清麻呂が祀られている。護王神社に置かれているのは、狛犬でなく一対の「猪」である。明治18年(1885)10円額面の日本銀行券が、わが国で初めて発行された。発行された紙幣を分類するために、それぞれに固有の名称がつけられている。その正式名称の他に、一般の人がつけた愛称もついている。明治32年(1899)に発行された「甲十円券」の表には、勤皇の忠臣と見なされた和気清麻呂と京都上京区の護王神社が描かれたが、そのうち1890年に発行されたものには裏面中央の円の中に大きな猪が1頭描かれている。1915年発行の十円紙幣からは猪が描かれなくなったが、清麻呂の肖像画が描かれた「甲10円券」はその図柄から「いのしし」の愛称でよばれた。
2013年12月07日

(関連:山椒の芽が伸びて五平餅の季節がやって来た | ひこじいさん ... - 楽天ブログ) 2013年3月20日うるち米を普通に炊いたご飯を潰して作る料理に、秋田のキリタンポやダマコモチ、南信州から長野県境にかけての岐阜・愛知に伝わる五平餅がある。五平餅は潰したご飯を、扁平円柱状のアイスホッケーのパック型に抜いて串に刺しあるいは平たく展ばして串に張り付けた後、焼いて甘い木の芽味噌をつけたものである。祭りや来客があった時の、ご馳走でもあった。秋田発祥のキリタンポやダマコモチは、ご飯を潰すのは五平餅と同じだがトリ肉が入った醤油ベースの鍋にする点が異なる。ダマコマチの作り方は、摺りこぎを用いて潰したご飯を手に塩水を付けてピンポン玉大に丸める。このままでもよいのだが、鍋に入れた時形が崩れてしまうのでオーブンで軽く焼いて焦げ目をつける場合が多い。秋田といえばキリタンポが有名だが、作るのに非常に手間がかかるので、家庭では棒につけて焼く工程を省略したダマコモチの方が一般的である。ダマコモチの名前の由来は、丸い玉の意味の「だま」に秋田方言の「こ」がついたものだと言われており、キリタンポが現れる以前から作られていたとされ農家の家庭料理が始まりである。新米収穫の季節になると作られるダマコ餅は、秋田のおふくろの味として有名である。能代山本には「ニワトリにダマコ餅」を略した「ニワにダマ」という言葉があって、収穫の秋には自家飼育のニワトリと新米で作ったダマコモチを入れた鍋を食べる伝統があった。ダマコモチ鍋に入れる具材と味付けは、同じ秋田の郷土料理のキリタンポ鍋と全く同じである。出し汁4カップに、同量の80mlの味醂と醤油が基本である。味見して見て、自分の好みに醤油を加えて味を調える。鶏肉・セリ・ササガキ牛蒡・白菜・長ネギ・舞茸・椎茸・シラタキ・焼き豆腐のほか好みの野菜を入れる。鶏肉・牛蒡・シラタキ・豆腐は最初から、その他はダマコモチと一緒につゆが煮立ってから加え煮えたら完成である。セリが店頭に並ぶようになると、40年も前に秋田出身の知人から教えてもらった本場秋田の家庭料理「ダマコモチ」を自分流にアレンジして良く作る。12月に入って朝晩が寒くなると、心も体も温まる鍋料理の季節となる。我が家でも、愈々男の山賊料理の出番となった。ダマコモチ鍋には本来トリガラスープが合うのだが、昨日はアゴを焼いて粉にしたアゴダシを使った。長ネギとササガキ牛蒡の効果なのか、魚の臭いは全くせずかなり上品な味の鍋となり、味も評価も上々であつた。残った汁は棄てないで、さらに味を調えてから翌日煮込み饂飩として味わうのもまた楽しみである。
2013年12月06日

8月播種したもの 11月播種したものネギは5~25℃が生育範囲で-5℃の低温にも耐えるが、成長適温は15~20℃である。秋播きで翌春定植するには、8月下旬から9月下旬の間に播種することが必要である。山荘に菜園を拓いてから、ネギ苗は購入しないで毎年畑に播種して自分で種から育ててきた。暫くの間は順調に苗が育ったのだが、7年前の冬季から長ネギや葉物野菜は勿論、定植した玉ネギ・ニンニクの芽、育苗中のネギ苗など全てが動物の餌の対象とされるようになってしまった。特に猿はネギ苗・ニンニク・玉ねぎを抜いて遊んだり、齧ったりするようになった。寒さが続いて畑が凍土になっていれば、悪戯されても根が土中に残って翌春になると再び茎を伸ばすのだが、凍る前に猿の襲撃に合うと根毎引き抜かれ、抜かれて放置された苗は寒さで枯死してしまう。猿害を受けるようになって金網や防獣網で被害を防ぐ努力をしたのだが、猿の知恵の方が上手で重石を外して網を持ちあげたり、金網の上に上って凹ませ網の穴から突き出た苗を引き抜いてしまうのである。ニンニクや玉ねぎは栽培を諦めたのだが、我が家では長ネギは朝の味噌汁の具としたり鍋料理に入れたり麺類の薬味としているため、毎日欠かせない野菜となっておりどうしても自分で栽培したネギが欲しい。不思議なことに菜園に猿が進入し、収穫前のネギの味見をするのは例年7月下旬から8月初めにかけての1回であり、この期間をうまく乗り切ることができれば多少の収穫は期待できるのである。そこで消極的猿対策として菜園での苗作りを諦めて、昨年から自宅の庭のプランターで育苗し菜園に移すことにした。今年も8月20日に2個のプランターに播種し、順調に発芽した。10月中旬に一回目の施肥をしたのだが、高度化成肥料と間違えてビニール袋に小分けした粒状苦土石灰を散布してしまった。一週間後にプランターを確認すると、施肥前まで順調に生育していた大半の苗が枯れてしまっていた。苦土石灰の威力や恐るべしである。最低気温が10℃を割る11月中旬では、既に播種時期を過ぎていたのだが新たに求めた種をプランターに播き、ビニールで完全に覆って防寒した。通常適期に播種すれば4日程度で発芽するところ、2週間経って漸く発芽した。現在は、3cmほどに成長した。例年500本以上を定植するのだが、猿の餌や遊び道具になったり台風などの影響を受けて収穫できるのは1/3程度になってしまう。今年は700本植え、例年のように7月に猿の襲撃を受けた上、台風の影響もあったのだが、10月末に菜園から抜き取って自宅の庭に移したので350本を収穫することができた。これから徐々に防寒の覆いを外して寒冷順化し、来年の5月には今年並みの700本ほどのネギ苗を菜園に移植したいところである。
2013年12月05日

植物には寒さに比較的強いものから、極端に弱いものまで様々なものがある。熱帯や亜熱帯が原産の植物は、当然寒さに弱い。少量の液体をその氷点以下の温度まで冷却しても、凍結しない状態を過冷却という。水溶液は純度が高く、小さいほど過冷却の状態になりやすい。生物は理論的には-40℃前後まで過冷却状態を保てるとされるが、実際には零下数度で凍ることが多い。霜が降りると植物が萎れるのは凍って膨圧を失うためで、凍結の時間が短ければ温度の上昇で元の状態に戻ることがある。低温下の直径15cm程度の木は、中心部まで凍り凍結と融解を繰り返している。植物組織はゆっくりと冷却されると、細胞内の温度や蒸気圧は細胞外とほぼ平衡を保っている。しかし、細胞外凍結による脱水が進まないうちに細胞が急速に冷却されると、細胞内が凍結してしまうことがある。細胞内凍結をおこした細胞は、特殊な場合を除き枯死してしまう。針葉樹の冬芽や多くの被子植物の花芽・種子では、脱水し乾燥状態になることで低温に耐える仕組みとなっている。耐凍性の低い植物では、寒冷感作により細胞質pHが低下するため生理機構にダメージを受ける結果枯死する。耐凍性は生長休止期、あるいは生長が低下した時期にだけ発現し、低温にさらされることで耐凍性が高まることが知られている。温帯から亜寒帯に生育する多年生植物は気温の低下に伴って、休眠に入り低温馴化が起きる。植物の休眠は、日照時間が短くなることで発現する。暖地で越冬している植物は、寒さに対応する必要が無いため耐凍性ができないが、同一植物を寒冷順化させると耐寒性を獲得することがある。我が家は都心から30km離れた郊外にあるため、最低気温は0℃を下回ることもあって都心の気温より年平均で1℃近くも低い。したがって東京で路地植え可能な植物も、我が家の庭では枯死してしまうものがある。そのため耐寒性の無い植物は、寒さが到来する前に何らかの冬越し対策が必要となる。我が家には、異なる大輪の花を咲かせるハイビスカスの鉢が4鉢ある。ハイビスカスの自生地は伊豆諸島・鹿児島南端部以南で、冬越しに必要な最低気温は5℃以上とされている。温室に入れたりビニールで簡易な囲いを作ったりしている人もいるが、最も簡単な冬越し対策は鉢を室内に入れることである。外気の最低気温12℃前後が、室内に取り込む目安である。フラワーショップで販売されている鉢では矮化剤を処理したものが多く、樹が大きく育たなくても花を着けるが、購入後数年経ったものや挿し木で増やしたものでは1m以上に伸びる。ハイビスカスは幹や枝のどこで剪定しても萌芽し、新梢に花を着けるので全体の2/3程度切り戻してから室内に取り込むと扱い易い。過湿にならないように鉢土が白く乾いてから水を与えるのは、冬季の室内置き植物への水遣りの基本である。
2013年12月04日
12月に入って、朝晩はかなり冷え込むようになってきた。冬型気圧配置のせいで、関東地方は晴天と乾燥が続いている。こんな日の午後になると、庭の西日が当たる場所3メートルほどの高さの空中で数十匹の小虫の塊が乱舞する。この虫の塊はユスリカの蚊柱であるが、6月頃から夏に現れる大型のセスジユスリカやオオユスリカの仲間とは異なり極めて小さな種である。我が家の周辺には河川は無いので、水棲のユスリカではなさそうである。一般的には衛生害虫の範疇には入らず不快虫と呼ばれているが、ユスリカ成虫の乾燥した死体は、喘息のアレルゲンとなることを佐々学(富山国際大学学長)が発表している。しかし、初冬に数十匹で舞うユスリカは大発生する大型のユスリカと異なり健康にそれほどの影響を与えるとは思えない。ユスリカは蚊の名前がついていて姿形が蚊に似ているが、実はハエの仲間に属する昆虫であるため吸血は行わない。成虫は口器が無く消化器も退化しているので、一切餌を摂る事ができない。ユスリカは揺すり蚊で、名前の由来は幼虫が常に体を揺すって動かしている様子からと言われる。日本には約1,000種が知られていて、そのほとんどは淡水域に棲息しているが、海の潮間帯や陸生あるいは水辺の朽木の中、土壌中などに棲む種もあって多彩である。都市の小河川や公園の池沼、汚れた水域からはセスジユスリカ、ウスイロユスリカ、ハイイロユスリカなどが、富栄養化した湖や汽水性の湖沼からからはオオユスリカやアカムシユスリカなどが大発するためしばしば社会問題になる。蚊のボーフラに似た蛹は、水面に浮き上がって流れに身を任せながら水面で羽化する。羽化した場所の周辺で、多くの成虫が柱状に集まって飛んでいることがよくある。蚊柱は交尾を目的に形成され、1匹の雌と多数の雄で構成されている。交尾の後、産卵を終えるとすぐに死ぬ。成虫の寿命は、長くても1~2日と言われる。成城学園大学の裏手に、小金井市を先端として三鷹市・調布市・世田谷区の21km弱を流れて野川に合流する仙川がある。昭和40年代にはこの川の水質は、常に全国河川水質ワースト3であったほどに汚染され、どんな水棲動物も住めない水であった。その後都市部の下水道の普及や河川改修、地下水の放流などでかなり浄化が進んだが、水質改善される過程で川底が真っ赤になるほどにセスジユスリカの幼虫が沸き、小田急線と交差する河川上部周辺住宅や商店では洗濯が干せない、飲食店の営業ができないと言うほどの騒ぎになったことがある。高価な薬剤であったが製薬会社とタイアップして初めて試みた、成長抑制ホルモン剤(脱皮阻害剤)の継続散布が効を奏し大幅に羽化を抑制することができた。当時はユスリカの幼虫以外棲める水質では無かったので、脱皮阻害剤散布が可能であったが、その他の昆虫が棲むような河川や湖沼にこの薬剤を散布することは目的外の昆虫に大きな影響を与えるため不可能であろう。 蚊柱や 凡五尺の 菊の花 一茶
2013年12月03日

細菌や担子菌類の一部には発光するものがあるが、これはエネルギー代謝の一つの形として光が生じるものである。ブナなどに発生し食用のヒラタケ、ムキタケ、シイタケなどと間違われやすい毒キノコにキシメジ科のツキヨタケがある。このキノコは、暗闇で白色のヒダが青白から蛍光色に仄かに発光する。ツキヨタケが発光するのは、ツキヨタケのヒダの外部に放出される発光体(ランプテロフラビン)によることが解明されている。ヒダの外部が弱酸性の場合により発光が強く、中性付近では同時に放出される酵素によって発光体が速やかに破壊されてしまうことで光を失う。菌類より高等植物のコケ類は、日本に約1800種が分布しているとされる。この中に、ヒカリゴケ科といわれる蘚類(スギゴケの仲間)がある。日本では北海道と本州の中部以北の洞窟や岩陰、倒木の陰などで日光の入射が少なく暗く湿った環境に群生する。羅臼町、佐久市、駒ヶ根市、嬬恋村、吉見百穴、北の丸公園(宮内庁分庁舎前辺りから見られる。)などが知られている。北の丸公園のヒカリゴケは、築城の際石垣の石について運びこまれたものではないかと言われている。ヒカリゴケの名前が付いているが、実はこのコケは自から光を発するわけではない。胞子が発芽した後に形成される配偶体の初期段階のものを原糸体(糸状体)と言うが、ヒカリゴケはこの原糸体の茎のところどころから、レンズ状の細胞が数個から十数個一層に並んで横に着き出ている。このレンズ細胞には数個の葉緑体が入っていて、入射光線の角度によって光を屈折・反射し薄暗い場所でも光合成を効率よく行う仕組みとなっている。このレンズ細胞の反射によって、恰もコケが光っているように見えるのである。駒ヶ根市の光前寺は、中央道駒ケ根インターを下りて中央アルプスに向かって直ぐ左に入ったところにある。参道右側の石垣の中に、ヒカリゴケを簡単に見ることが可能だが太陽の位置によっては売り物のエメラルドグリーンの光を確認することは難しいかもしれない。家の前に生えているコケはもちろんヒカリゴケでは無いが、乾燥時には茶褐色だが打ち水をすると太陽光を浴びて美しいグリーン輝く。桜の花の時期雨に打たれた北杜市花水にある清泰寺の山門のかやぶきの屋根のコケも、グリーンに輝いて美しい。 苔の花 さくや地蔵の 首の跡 子規
2013年12月02日
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