身近な動植物 0
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『路傍の石』は中学生か高校生の時に読んだような気がする。しかし、内容を全く忘れているので、当時の自分の力では読むのが難しい内容だったか、或いはあまり興味を惹かなかったか。今回この本を読もうとしたきっかけは、安岡正篤先生がお孫さんに薦めた本であるからだ。『ビルマの竪琴』と『路傍の石』を薦められていた。確かお孫さんは昭和35年生まれであったが、何歳の時に薦められたかは定かではない。ただ、安岡先生が昭和58年にお亡くなりになったことや本の内容を考えると、お孫さんが10代の時に薦めたのではなかろうか。きっかけはもう一つある。それは、2004年10月30日の日記で触れたが、『路傍の石』は戦前に発禁処分を受けていることだ。当時の世相については、私自身わからないことが多いので詳しくは書けない。このたび『路傍の石』を読んでみても、主人公の吾一少年が逆境を跳ね返して生きる姿には感動するばかりで、何故に発禁処分になったのかよくわからなかった。『路傍の石』は、当初は1937年(昭和12年)に新聞に連載され、その後、新聞から雑誌へと連載の場を移し、最初から書き直されるが未完のまま1941年(昭和16年)8月に「新篇 路傍の石」が刊行されたとのこと。何やらこの辺に、今回読んだ『路傍の石』が発禁処分を受けた理由がわかりにくい原因があるようにも思える。発禁処分についての深入りは避けて、以下に気になった箇所の【引用】と【感想】を書きます。【引用】人ハ生レナカラニシテ貴賎貧富ノ別ナシ 唯学問ヲ勤テ物事ヲヨク知ル者ハ貴人トナリ 富人トナリ 無学ナル者ハ貧人トナリ 下人トナルナリ【感想】これは「学問ノススメ」(福沢諭吉)の一節です。吾一が感激して、繰り返し読んで、そらで言えるほどになった部分です。「学問ノススメ」というと、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずという書き出しです。この有名な書き出しだけを読むと、人間皆平等という誤解(?)をしてしまいます。実は、福沢諭吉が言いたかったのは正反対で、「天は人の上に人を造る」ということかもしれません。貧人や下人にならないように学問をせよと、言っているように思えます。まだ「学問ノススメ」を通読することもなく、勝手なことを書いてしまいました。一度読んでみようと思います。
2005/04/02
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この本は1997年11月の発行ですが、内容は安岡先生の昭和46年~49年の講話等を編集し、活字化したものです。一言で感想を述べると、「歯が立たなかった」ということに尽きます。字面を追っただけという感じです。陽明学の知識がほとんどないので、わかるはずがなかったということでしょう。読後に、王陽明について少し勉強したので書き出してみます。王陽明(1472~1528年)は、明代の思想家で、陽明学の創始者です。科挙に合格して官途についたが、左遷されて竜場にいたとき、かねてから朱子学に抱いていた疑問を解消し、「心即理」の陽明学に開眼、「致良知」、「知行合一」を主張して、思想界に大きな波紋を投じたとのこと。では、陽明は朱子学のどこを批判したのかというと、人間の主体性が失われているという点のようです。詳しいことはよく分からないので、これ以上書くことはできません。以下にこの本を読んで気になった箇所の【引用】と【感想】を一点書きます。【引用】茶はそもそも煎ずるものである。湯加減を良くして、その芽茶を第一煎で、中に含まっている糖分の甘味を賞する。次に第二煎で、茶の中のタンニンの持つ渋味が出てくる。(中略)この茶をほどよく三煎すると、初めて苦味が出てくる。【感想】これは、安岡先生に関する本を読んでいたときに、どこかで出合った内容です。この内容には興味をもつのですが、いまひとつ分かりません。お茶の勉強が必要でしょうか?
2005/03/27
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「三大聖人」とは、釈迦・孔子・ソクラテスですが、いずれも紀元前5~6世紀に相前後して世に出ました。論語は、孔子とその門人たちの言行を書きとめたものです。「聖人」といわれる孔子ですが、論語から浮かびあがる孔子は、とても人間的です。例えば、最愛の弟子である顔回が亡くなったときには慟哭し、「回のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするのだ」と云われています。この『論語の活学』は、安岡先生の講座をまとめたものです。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】人間というものは、苦難の中から成功するのであるが、いざ成功すると、容易に頽廃・堕落して、やがて滅亡する。これはいつの時代でも同じことでありまして、人間は性懲りもなくこれを繰り返してきておるわけであります。【感想】いま『十八史略』に関連する本を読んでいますが、全くその通りです。年を重ねてようやく『十八史略』を手にしたのですが、『十八史略』は明治時代には『太平記』や『日本外史』などとともに広く読まれていたそうです。【引用】日本でも昔の人はよく泣いております。【感想】これこそ「へえー」という感じ。昔と言っても、この本で書かれているのは、大昔のことではありません。たとえば、橋本佐内は、夜、四書を勉強して寝床にはいり、どうして自分はこんなに勉強ができないのだろう、と夜具に顔を埋めて泣いたと告白しています。日進・日露戦争当時の軍人や大臣も、日本海海戦に勝ったといっては泣き、つらい任務を引き受けてくれるといっては泣いたと。それも相抱いておいおい泣いたと。このことを安岡先生が言ったのは、昭和40年代(と推定)です。最近は感激性がなくなってしまった時代だと、言われています。
2005/03/26
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河井継之助という人物名は何となく聞いたことがあるような気はしていたが、どのような人物かというと、全く知りませんでした。そこで、どのような人物か知ろうと、この本を読みました。なお、安岡先生は、河井継之助を好きだったようです。福島県南会津郡只見町のホームページに、河井継之助記念館がありました。こちらから入れます。また河井継之助のことを書いた小説に、司馬遼太郎氏の『峠』があるそうです。河井継之助は山田方谷のもとに33歳の時に遊学しました方谷は継之助よりも22歳年長の55歳だったはずです。新潟県の継之助が、岡山県の方谷のもとに行ったということです。継之助は、更に長崎県まで遊学して新潟県に戻りました。約1年間にわたりますが、当時の交通事情と平均寿命から、何とも言い難い思いがします。方谷も継之助も陽明学を信奉していましたが、継之助がいよいよ方谷のもとを辞去するにあたり、方谷は継之助に『王陽明全集』を譲りました。譲ったといっても、原価の4両を継之助から受け取ったそうですが。最も当時は、書店や図書館があるはずもなく、印刷された本が読みきれないほどあるはずもないので、大切な本を譲るという行為は相当なものと思われます。最後に、その別れの情景をこの本より抜粋します。人と人との交わりの尊さが感じられます。「継之助は4両で買い取ったところの『王陽明全集』と1瓢の酒(方谷の餞別であろう)とを振り分けに肩にかけて、他には何も持たず(荷物は方谷宅に預けて置いた)、川を渡りふり向くと、方谷がなお対岸に立っているのを見て、沙洲の上に座して礼をなして去ったという。また方谷は別に長生薬一包を贈ったという」
2005/03/20
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この本は昭和62年6月24日の発行なので、著者が62歳頃の作品です。著者の林繁之氏は、1925年千葉県生まれ。'45年官立無線電信講習所(現・電気通信大学)卒業。'47年安岡正篤師が設立した日本農士学校の学生監となる。'49年全国師友協会設立に参画。'60年常務理事(同協会は'84年に解散)。現在安岡正篤記念館名誉館長。3月13日の日記に日本農士学校のことを少し書きましたが、現在は財団法人 郷学研修所 安岡正篤記念館になっています。昭和6年に設立された日本農士学校は、戦後「日本農学校」になり、更に「興農研修所」になりましたが、昭和48年に閉鎖され、埼玉県に寄付されたとのことです。以下は、この本を読んで気になった箇所の引用と感想です。【引用】江戸時代、陽明学で名高い山田方谷の塾に、越後の河井継之助や、佐久間象山という豪傑が学んでいた。【感想】安岡先生は河井継之助が好きだったそうです。河井継之助は、江戸時代の陽明学者です。私は、全くこの人物については知識がなかったので、さっそく伝記(のようなもの)を読んでみました。詳しくは、明日の日記に書きます。【引用】元金鶏学院の大玄関にかけられてあった「浩然」の大額は、私の胸中から永く消えず、とにかくあれだけは返してもらいたいものと、かねがね考えていた。【感想】安岡先生により金鶏学院は昭和2年に設立されましたが、確か占領軍の指令により解散させられたと記憶しています。その金鶏学院の玄関に掲げられていた額を、30年後に取り戻したとのことです。浩然とは、孟子の有名な(と言っても私は知りません)、「我れ善く吾が浩然の気を養う」からとられたものだそうです。現在、この「浩然」の額は、郷学研修所に掲げられているそうなので、一度見てみたいものです。昭和62年発行のこの本に書かれている「現在」なので、今はあるかどうか定かではありませんが。
2005/03/19
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この本の発行は、昭和59年6月です。安岡先生が他界されたのが昭和58年12月ですから、その翌年の発行です。安岡先生は、昭和6年に埼玉の嵐山町に日本農士学校を設立されました。当時の農業は、大きな問題をかかえていたようです。たとえば大正10年頃の米価は1俵10円前後だったが、それが次第に下落しはじめ、昭和5年には5円になってしまったと。農民は希望をなくし、都市に働きに出たり、カリフォルニアや満州への移民もあったと。昭和不況のさ中でもあり、安岡先生は、将来の国運は、無名にして実力のある農林青年の奮起に待たねばならないとのことで、日本農士学校を設立されたようです。以下は、この本を読んで気になった箇所の引用と感想です。【引用】そこで、私が基金1000万円を提供し、昭和45年10月20日、(財)郷学研修所が許可された。【感想】安岡先生は、昭和45年に郷学研修所を設立されますが、日本船舶振興会の笹川良一氏に、補助金の申請をされたそうです。笹川良一氏とは、年齢は一つ違いで、同じ大阪生まれであり、長い付き合いだったとのこと。安岡先生は不思議な魅力のある方で、人やお金は自然と集まってくるというタイプだったようです。こういう人間になりたいものですが、私にはとても無理。(笑)【引用】安岡先生が六中観を説かれたことも感銘深いですね。【感想】死中有活。苦中有楽。忙中有閑。壺中有天。意中有人。腹中有書。これが六中観です。したり顔で六中観を語っている私ですが、六中観には安岡先生の本で初めて出合いました。安岡先生の本を読むと、六中観は何度となく出てきます。繰り返し、繰り返し語ったことと思います。「忙中閑あり」は、今の日本でも使われている言葉ですが、思わぬところに典拠があり、驚きます。ちなみに手元の辞書で「忙中閑あり」を確認すると、次の通りです。「忙中にも、ひまがないのではない。また、そう言っても楽しむさま」楽しむ位の人間になれれば良いのですが、実際は中々難しいものです。という私ですが、ブログを毎日更新しているように、最近は「暇」です。(笑)
2005/03/13
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この本は、平成元年6月の発行です。内容は、「安岡先生が昭和46年に、全国師友協会主催の照心講座において連続講義されたものの講録」です。『呻吟語』は、中国・明末の呂新吾(ろしんご)先生の名著です。『呻吟語』は今回初めて聞きましたが、最近では、中島孝志さんの著書で『休日にじっくり読む呻吟語』というのが2001年に発行されています。幕末から明治にかけて、『菜根譚』などとともに格言文学の一つとして広く読まれたそうです。以下は、この本(『呻吟語を読む』)で気になった箇所の引用と感想です。【引用】陽明学というものが最近急に一般教養人・知識人の興味をひき話題になっておることです。そしてその原因の多くがまた顕著に一人の影響による。一人とは三島由紀夫氏であります。【感想】いわゆる三島事件は昭和45年11月でしたが、その次の年の安岡先生の講義ですので、三島由紀夫氏の名前が出てくるのは、不思議なことではないです。三島由紀夫氏も40歳頃から陽明学に関する本を書かれたりしていたと思います。以上は当時の世相です。安岡先生は、この『呻吟語』は、文字通り呻吟して書いたものなので、これを読むときもまた真剣に呻吟して読むべきだと言われています。ここで呻吟(しんぎん)とは何かというと、手元の辞書では次の通りです。「苦しみ、うめくこと。苦悩。」【引用】我を亡ぼす者は我なり。人、自ら亡ぼさずんば、誰か能く之を亡ぼさん。(修身)【感想】これはいい言葉です。いい人生を送れるかどうかは自分自身の問題。原因と結果は自分にあるということですか。
2005/03/12
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この本は2002年2月に発行されました。ただし内容はもっとさかのぼり、安岡先生が69歳の時の昭和41年の講話の時の講義録です。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】私どもが始終言うておる郷学、これが必要である。各郷里、郷土が持っておるところの偉大なる先賢を研究し、表彰する。そうして我々が分に応じて、一灯照隅行をやるというのが一番正しい、そして誰でもできる道である、大道であると私は信じておるのであります。【感想】一灯照隅行(いっとうしょうぐうぎょう)とは、「かすかなりとも自ら一灯となって、片すみを照らそうという行ない」です。「一灯照隅行」と「郷学」は、安岡先生に関連する本を読んでいると、よく出てきます。キーワードです。【引用】学問というものは・・・あんまりやっておるというと、八幡の藪知らずみたいになってしまって、あとに戻らんような危険もある。【感想】この「八幡の藪知らず」ですが、「やわたのやぶしらず」と読みます。これは、私の地元の千葉県市川市の市川市役所の近くにあります。ここに入ると再び出られないといわれている藪です。ここから転じて、出口のわからないこと、迷うことを意味します。この「八幡の藪知らず」は、現在は完全に柵でおおわれているので、実際には中に入れません。最も本気になって柵を越えようとすれば入れるのですが、入ったら出られなくなってしまうので大変です。(笑)くわしくは、こちらをご覧下さい。それにしても、「八幡の藪知らず」が安岡先生の話から出てきたのには驚きです。昭和41年当時は、もっと話題にのぼった名所(迷所?)だったのでしょうか。
2005/03/06
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この本は、1998年8月の発行です。著者の寺師睦宗(てらし・ぼくそう)氏は、1923年鹿児島生まれの方で、この本を執筆当時は、漢方医でした。著者と安岡先生との出会いは、まずは先生の『経世瑣言』(けいせいさげん)という著作に始まるとのことです。実際に先生に会われたのは、1961年6月とのことで、「照心講座」の受講を勧められて、安岡門下生の仲間入りをしたとのことです。以下はこの本を読んで気になった箇所の引用と感想です。【引用】安岡先生は、まだ連戦連勝をする前の双葉山と酒を飲みながら、この木鶏の話をされたそうである。双葉山はじっと聞き入っていた。【感想】大相撲が好きな方なら69連勝した双葉山を御存知でしょう。双葉山の名言に「ワレイマダモッテモッケイタリエズ」というのがあります。これは連勝が69で途切れた時に、欧州旅行中の安岡先生に打電したものだとのことです。この双葉山の名言が安岡先生にあてたものであったとは、今まで全く知りませんでした。この木鶏の話は私をふくめて凡人には理解が難しいです。武術家や芸術家など、何かを極めようという志のある方にしか理解はできそうにないと思います。【引用】読書は、ただ読むだけではダメである。読みながらもその本を自分の内部で賦活する必要がある。これを活読と言う。読みっ放しならば、むしろ本に読まれていることになる。【感想】これは安岡先生が言われたことです。賦活とは、手元の辞書によると、「活力をあたえること」とあります。ここまで真剣な読書姿勢には、心を打たれます。【引用】安岡先生は、物心がつく頃から本を読み始め、7歳のときにはすでに四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)の素読をされていたという。それから何十年もたくさんの本を読まれてきたから、思想的な本や精神的な内容の本はちょっと見ただけで、いい本かダメな本かは、直観としてわかると言われていた。【感想】四書を子供のときに素読する習慣のみならず、四書を手にすることさえなくなってしまった現代の日本です。私も大人になってから論語を通読するだけはしましたが、その他の三書は手にしたことがありませんでした。そこで、最近になり『大学』を1日に1頁というペースで読み始めました。『大学』には有名な格物致知という言葉がでてきたりします。通読するだけならできますが、まさに通読するだけになってしまいそうです。
2005/03/05
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この本は、平成4年発行です。私は全く知りませんでしたが、この本によると、当時は安岡正篤ブームだったそうです。著者の神渡良平氏は、昭和23年生まれの方です。新聞記者、雑誌記者を経て独立されたとのことです。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】元来、識にはおよそ三つある。その一つは知識。これは人の話を聞いたり、書物を読んだりして得る、ごく初歩的なものであり、薄っぺらである。これに経験と学問が積まれて見識にならなければならない。さらにその上に実行力が加わって初めて胆識となる。したがって、知識だけではだめで、知識が見識になり、その見識も最後には胆識となって、初めて役に立つ。【感想】三識というのは、知識、見識、胆識ですが、知識というのはわかります。見識とは、「しっかりした判断力・意見」(手元の辞書による)とのことです。これも、何となくはわかります。胆識となると、わかるようなわからないような。車の運転時の認知・判断・操作という一連の流れがありますが、これは何となく知識・見識・胆識に対応しているように思えなくもないが、かなり無理がありそうです。(汗)【引用】安岡正篤の読書とは、情報を得たり知識を増やしたりする読書のことではない。聖賢の書を読むことで自分を練り、ひとかどの人物になるためのものである。【感想】情報を得たり知識を増やしたりする読書。娯楽のための読書。暇つぶしのための読書。これらの読書姿勢は、多分私だけに限ることではないと思います。現代の一般的な読書が軽いものであり、逆に安岡先生の読書が重いものであることでしょうか。いわゆる愛読書(座右の書)についてですが、「西郷隆盛は自分の資質を練るのに、日頃から『言志四録』を読んでいた」とのこと。また明治天皇は『宋名臣言行録』を愛読されていたとのこと。また、「佳書」といわれるものがあるそうです。佳書とは、自分の「霊魂を神仏に近づけ」てくれるほどに興奮し、教え諭されて読まされる書物であるそうです。あふれるほどの本がある現代日本でもありますので、佳書と出合うのは難しいかもしれません。読書姿勢だけでも安岡先生に見習いたいと思います。P.S(2005年3月12日)安岡先生の言葉:「君、知識、物知りでは駄目なんだ、見識でなければいかん。その見識も胆識でなければ駄目だ。見識は物事を判断するけれども、それを実行するのは胆識である。事を実行するためには、いかなる抵抗障害も排除して乗り越えていかなければならぬ。それが胆識だ」
2005/02/27
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この本は1988年3月の発行ですので、17年前になります。著者は安岡正篤先生のお孫さんで昭和35年生まれなので、この本が発行された当時は20代後半になります。この本では、学者・人間・祖父としての安岡正篤先生が書かれており、大変興味深く読ませていただきました。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】祖父には、幼い頃から『四書五経』をそらんじ、いわゆる神童といわれていた一面と、小学生で酒盛をしてしまうような型破りな一面があったようです。【感想】安岡正篤先生は1898年(明治31年)のお生まれです。安岡先生は、4~5歳頃から四書五経を素読されていたそうです。素読とは何かというと、「漢籍などを、意味を考えず、文字だけを追って、声を出して読むこと」(手元の辞書による)です。成長するにつれて、わからなかった意味がわかってくるというものです。私は大人になってから、四書の筆頭である『論語』を通読しました。通読といっても、1ページ目から読むというのではなく、気の向くままに読むという具合でしたが、何とか全部を読むことができました。しかし、大人になってから『論語』を手にしても、自分自身の血肉となりバックボーンを形成するというレベルになるはずもなく、ちょっと嘆きたくもなります。【引用】分からないことは、そのままにしておかないで、その場ですぐ解決するように、祖父自身も努力していましたし、既に若い頃からの習慣でそれは身についていたようでした。食事中に席を立って、書斎や書庫に足を運ぶこともありました。【感想】向学心旺盛な安岡正篤先生の姿が浮かびあがってきます。食事中に席を立つのが良いか悪いかは意見が分かれそうですね。(笑)著者が実際に見たときの安岡正篤先生の年齢はどれくらいでしょうか。計算してみると、先生が62歳の時に著者が生まれています。仮に著者が15歳の時には、先生は77歳ですか。いずれにせよ、晩年まで先生は向学心が旺盛だったようです。
2005/02/26
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この本は1991年7月25日の発行です。著者の塩田潮氏は、1946生まれのノンフィクション作家です。この本を読もうとしたのは、安岡正篤について知りたかったからです。今までは、安岡正篤という名前は知っていたものの、どのような人物かは全くわかりませんでした。もっと詳しく書くと、正月に六星占術の細木数子の番組を何気なく見ていました。すると、彼女が「師と仰ぐ安岡正篤」と言ったような気がしました。これがきっかけで、細木数子を検索してみると、安岡正篤と結婚していたことが判明し、一気に興味を抱きました。結構不純です。(笑)以下はこの本で気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】有名人だが正体不明の女占術家と、「歴代総理の指南番」と呼ばれた老大家という奇妙な取り合わせは、世間の人々の目にも異様に映った。そのうち、二人の関係は周辺だけでなく、政界や花柳界でも噂に上り始めた。【感想】安岡と細木のことを書いています。二人が知り合ったのは、安岡85歳、細木45歳の時です。見習って恋愛は堂々とやりましょう。(汗)【引用】「天下の為に心を立て生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」の徒たらんとするに存するのであります。【感想】これは、安岡が自ら発行する小冊子に寄せた「青年同志に告ぐ」と題した一文からの引用です。1932年(昭和7年)のことなので、安岡が34歳の時です。引用部分の意味はよく理解していないのですが(汗)、ここでの注目は「万世の為に太平を開く」です。昭和20年8月15日に、終戦の詔勅が玉音放送となってラジオに流れましたが、その詔勅には安岡の筆が入っています。「万世の為に太平を開く」は、おそらく安岡が入れたものだと思います。参考までにその部分は次の通り。「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト慾ス」これを口語訳すると、「しかし私は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、このようにして今後の永遠(とわ)のため平和をもたらしたいと思います」とのこと。長くなってきたので、今回はこれまでにします。安岡正篤については現在も別の本を読んでいますので、改めて書きたいと思います。
2005/02/20
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この本は、日露戦争の講和条約をポーツマスで締結する際の講和会議を書いています。日本側の全権小村寿太郎とロシア側の全権ウィッテとの会議の模様が書かれています。この本を読もうとしたのは、小村寿太郎をもう少し知りたかったからです。1月28日の私の日記で渡部昇一氏の著書の感想を書きましたが、渡部史観では小村寿太郎を「清貧のエリート」と表現して酷評しています。最もこの酷評というのは、ハリマン構想を潰したことに向けられています。実際にはどのような人物であったかを、ちょっと探求してみたいと思いました。小村寿太郎の私生活というのが、なかなか興味を引きます。まず、「外観からも外交官として不適」だったようで、「異常なほど背が低く痩せて」いたようです。身長は143センチだったとのこと。家庭生活では、父親から相続した多重債務あり、妻にも問題がありました。ポーツマス条約の内容に憤激して起きた日比谷騒擾事件では、外相官邸(小村はポーツマスにいたが、当時は家族が住んでいた、もちろん妻も)に、群衆が押し寄せ、喚声をあげ、火を投じられたことに影響され、妻の精神状態は著しく悪化していたと。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】事実を仔細にたどってみれば、それらの批判は当を得ず、逆に小村が、鋭い頭脳と強い意志で条約の締結に成功したことを知るのである。【感想】ポーツマス条約締結に至る小村の奮闘を書いた部分です。小村の評価というのは、実に難しいです。評価はともかく、日本のために命をかけて全権を努めたことは間違いないはずです。【引用】桂は、率直に過失をおかしたことを認め、帰朝した小村から講和条約の説明をきくためと称して、閣僚を緊急召集した。【感想】小村が、「桂・ハリマン覚書」の破棄を桂に進言した際、結局、桂自身が非を認めたと書かれています。この辺も、渡部氏(1月28日の日記参照)の著書とは、ニュアンスが異なります。正直なところ混乱しています。
2005/02/19
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この本は、1996年8月2日の発行です。この本を読もうとした理由は、革新官僚と60年安保闘争に興味をもったためです。著者の塩田潮氏は、1946年生まれのノンフィクション作家です。タイトルの岸信介(1896~1987)は、昭和期の政治家です。岸信介については、安保条約改定で倒れた元首相であり、戦後はA級戦犯であったこと位しか知りませんでした。つい最近、戦中は満州国で辣腕ぶりを発揮した革新官僚の頭目であったことも知りましたが。この革新官僚は何かというと、『日本官僚史』(ダイヤモンド社)によれば、1931年頃から新しいタイプの官僚が登場したとのこと。それは2種類あり、新官僚と革新官僚。以下に、『日本官僚史』から引用します。「新官僚とは満州事変の勃発以後、軍部が推し進めた統制経済政策を背景に政治の場へ進出した高級官僚のことだ。そして、新官僚がさらに発展したのが革新官僚で、こちらは2.26事件から日中戦争に突入する過程で軍と一体になり、完璧な統制経済を成し遂げた経済官僚を称する」次に、60年安保闘争とは何かというと、安保条約改定にともなう国民の反対運動です。しかし、「反対運動に加わった人たちの間でさえ、安保条約の改定がどのようになるかについてはほとんど知識はなかった」(『昭和史わかる55のポイント』PHP文庫)とも。何時の間にか、「安保反対」が「岸を倒せ」にかわってしまったようです。安保闘争は今から45年前の出来事ですが、当時の国民のエネルギーは驚異的に思えます。その後、そのエネルギーは、勤労にいそしんで生活を楽にしようという方向に向かい、高度成長が実現したという見方もあるようです。
2005/02/13
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この本は、平成7年8月25日の発行です。著者の瀬島龍三氏については、昨日の日記を御参照ください。加藤寛氏は、大正15年岩手県生まれの経済学博士で、平成7年4月より千葉商科大学学長をされています。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】現在20ある国の省庁をいっきに10にしてしまうとか、地方制度でも道州制を採用するとかして徹底した地方分権を実現する。【感想】これは瀬島氏の意見です。道州制は全く興味をもっていなかったので、ちょっと調べてみました。以下に某サイトから勝手にコピーしました。「日本は今や、世界の国々を追い越して経済大国といわれるまでになり、人々の生活にも余裕ができて、成熟した社会となっています。そして、人々の求める政策も、全国画一的なものではなく、それぞれの地域の特性に合ったものに変わってきました。このような時代に、中央政府の一つの政策によって、土地の条件や気候が違う各地方をまとめるには無理があり、また、場合によっては、地域住民の生活を害することとなってしまいます。 このような状況を背景に、各地方が独自に政策を展開し、現在の成熟した社会に対応し、住民自治を実現することができる仕組みとして注目されはじめたのが道州制なのです」現時点では現実感に乏しいのですが、昨年11月の自民党憲法改正草案大綱案では、この道州制導入に踏み込んでいるようです。これからは、少し関心をもって道州制関連のニュースを見ようと思います。【引用】発展途上国に援助の手を差し伸べるのは、何も日本が国際福祉事業をやるためではない。世界やアジアが平和でないと、日本が「存在」する仕組みが動かなくなっていくからです。【感想】これも瀬島氏が語っています。日本の仕組みを明快に語っています。日本は資源のない国で、年間6億トンの資源・原料が必要です。そのうち2億トンが石油です。これらの6億トンのほとんどを、外国に依存しなければなりません。そして、この6億トンを得るために、7000万トンの製品を出していく必要があります。この構図を忘れてはいけないと。日本の人口1億2千万人が生きていくには、世界やアジアが平和でなければならない。また、7000万トンの製品を出し続けるには、「国民の優秀な労働力と努力」が必要であると。1国民として、しっかりと頭に入れておきます。
2005/02/06
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この本は、1995年9月30日の発行です。著者の瀬島龍三氏は、1911年生まれで、陸軍参謀、シベリア抑留、伊藤忠商事役員、行政改革、教育臨調など、波乱万丈の人生を送られている方です。瀬島龍三氏に関する本を読むのは初めてです。読もうとしたきっかけは、田中清玄氏(元共産党書記長)の本で、瀬島龍三氏のことに触れた箇所があったため。それによると、瀬島龍三氏は昭和天皇から好かれていなかったような記述が見られました。これについては、1月9日の日記に書きました。実際に昭和天皇からどう思われていたかは定かではありません。なお、昭和天皇は瀬島氏より10歳年上です。私の推測では、好かれていなかった時期もあったと思いますが、少なくとも戦後30年経過した時期には、そういうことはなかったと思います。ちなみに、この本では、瀬島氏が昭和54年9月12日に昭和天皇と会われた際のことが書かれています。それは次の通り。「天皇陛下からこれからも健康に気をつけて国家と社会のために尽くしてください、とのお言葉を賜ったことを思いあわせ、感慨ひとしおだった」と、瀬島氏は書かれています。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】ソ連側は、「全文、片仮名で書くように」と指示した。検閲の都合であろう。【感想】これは、シベリア抑留時代のことです。日本への郵便を赤十字ルートで出す時に、ソ連から片仮名で書くようにとの指示かあったということです。画家の香月泰男氏(1911~1974)もシベリア抑留体験をされています。2004年3月17日に香月泰男展に行ったときに、実際に片仮名で書かれた俘虜の郵便はがき(1947年1月頃に書いたはがき)を見ました。この日の日記は、トラックバックを御参照下さい。
2005/02/05
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この本は、平成9年3月31日から8月9日まで、産経新聞に掲載された連載をまとめたものです。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】『ポーツマスの旗』は、当時の国際情勢を背景に、会議の全権となった小村寿太郎のポーツマス会議での苦心と、その前後の生涯にスポットを当てて描いています。【感想】『ポーツマスの旗』は、吉村昭の小説のようです。いずれ読んでみたいと思います。その後に、感想を書きたいと思います。1月28日の私の日記では、渡部史観による小村寿太郎について触れました。渡部史観では、会議の全権としての小村寿太郎に対して、かなり批判的です。しかし、この『ポーツマスの旗』で描かれている小村寿太郎像は、別の角度から見ているようです。あくまでも小説(と思います)ですので史実とは異なりますが、小村寿太郎を好意的に描いているようです。ちょっと楽しみな本です。【引用】アメリカのエール大学教授だった日本人、朝川貫一は『日本の禍機(かき)』のなかで次のように警告しています。「アメリカは今後いっそう国力を傾けてアジアでの経済競争に乗り出していく。アメリカを味方にするも敵に回すも日本の行動ひとつである。将来中国に関してアメリカと刃(やいば)を交える国は、必ず不正な利益のために戦っていると世界に評させるだろう」【感想】『日本の禍機(かき)』という本は、何時頃書かれたかを調べてみました。明治42年版(1909年版)というのが存在するので、それ以前、つまり日露戦争後でしょうか。また、朝川貫一という人物は初めて聞くので、こちらも調べてみました。福島県二本松市出身の方でした。日露戦争を境にして、アメリカは反日的になっていったというのが史実のようです。この辺は、1月28日の日記に書きました。今回は、小村寿太郎がハリマン構想を潰した理由と思う当時の世相を書き出してみます。■日露戦争で戦死者が10万人を数えた。■尊い犠牲でロシアから得たものは、南満州の鉄道経営権などにとどまり、賠償金はゼロだった。■ポーツマス条約調印に反対して、東京で憤激した市民の暴動(日比谷焼き打ち事件)が発生した。■新聞は、「10万の血であがなった満州」というスローガンで、国民の怒りをあおった。つまり国民の怒りは無視できなかったということに尽きると思います。それで私の感想ですが、「過去のことを思い悩んでも仕方がないです。ただ、今後も似たようなことはあるはずなので、いい教訓になると思います」偉そうなことを書いてしまいました。(笑)
2005/01/30
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この本は2004年7月20日の発行です。著者の鷲田小弥太氏は、1942年札幌生まれの大学教授です。この本では、官僚のことに言及した部分があります。私自身はよく理解していないのですが(笑)、以下に【引用】と【感想】を書きます。【引用】たしかに軍部とその官僚は解体されました。官僚組織の中枢で最大の組織だった内務省も分割・廃止されました。しかし、旧内務官僚を含めて、官僚と官僚体制は、そのほとんどが戦後政治システムの中で生き残りました。【感想】上記の【引用】は戦後の話です。その前に、昭和15年7月の近衛内閣ですが、この内閣の閣僚は官僚主体であったそうです。はじめて、政局の中心に官僚が登場したとのこと。国家総力戦体制であるの近衛の新体制(=国家統制社会=国家社会主義)を生みだし、支え、牽引した革新官僚体制は、社会主義をめざした統制体制の体現者であり、本当の意味で、戦時体制下の政治権力の執行機関だったと書かれています。更に、「第2次世界大戦を引き起こしたのは、軍部の独走」であると言われていることに、著者は疑問符をつけて、次のように書かれています。「軍部に明確な目的と意志を与え、戦争のために財政的措置をほどこし、その膨大な財政を可能にする経済システムを整備し、国民に協力を求める精神的統制をおこなったのは、近衛と革新官僚以外のどこにあったといえるでしょうか?」と。ただ残念ながら、私にはこの辺りは理解出来ていません。野口悠紀雄の『1940年体制』という本があるようなので、この本を読むと理解できるかもしれません。何やら、この官僚体制にようやく楔が打ち込まれるのは、敗戦後から54年目、中央省庁改革関連法と地方分権一括法の成立によってであるとのことです。それで【感想】はというと、複雑怪奇の一言です。
2005/01/29
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この本は、2003年の5月に発行されました。1995年5月に出版された『かくて昭和史は甦る』を改訂・改題したものです。著者の渡部昇一氏は、1930年生まれの上智大学名誉教授です。いつの間にか、「名誉教授」になられていました。以下は、気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】戦後、「軍国主義と戦った共産党」ということがさかんに言われるようになったので、戦前の共産党は立派なように思われているが、それは大きな間違いである。【感想】「天皇制廃止」を掲げたために、戦前の共産党は組織を拡大できなかったのが真相のようです。特高(特別高等警察)というと、共産主義者を弾圧する機関というイメージがあるが、実際の主たる関心は極右の取締まりにあったようです。【引用】およそ共産革命と名のつくもので、組織的な暴力や虐殺と無縁だった例はまったくない。革命は、つねに大量の血を欲するものなのである。【感想】日本では、1925年に治安維持法が公布されました。この治安維持法の目的は、共産主義イデオロギーが日本に入ってくることを防ぐことでした。この治安維持法ができる前、1920年に尼港事件というものがあり、ニコライエフスクという都市で、革命ゲリラにより日本人居留民700人が虐殺されるという事件がありました。こういったことが、共産革命に対する恐怖になっていたようです。最も、一方では、治安維持法によって無辜の人々が犠牲になったのも否定できない事実だそうです。特に、労働運動、農民運動、無産運動、新興宗教運動の関係者は大きな迷惑を被ったそうです。難しい時代だったということでしょうか。【引用】だが、これに徹底的に反対する人物が現われた。それはポーツマス条約をまとめて帰国し、この年の10月15日に外務大臣に復職した小村寿太郎である。自分に何の相談もなく、桂・ハリマン覚書が結ばれたことを知り、小村は激怒する。【感想】これは、日露戦争後にアメリカと共同経営することがほぼ決まった南満州鉄道を、小村寿太郎が大反対した場面です。小村の言い分は、「日本の将兵の血によって手に入れた満州をアメリカに売り飛ばすようなことはできない」というものでした。結局、小村の言い分が通って、桂・ハリマン覚書を日本政府が一方的に破棄してしまいます。これが、20世紀前半の日米関係を左右することになったと言われています。アメリカを敵に回したということです。あとから振り返れば何とも痛恨な出来事とわかりますが、当時はそれが正しいことというか、そうせざるを得なかったというか、ともかく深い事情があったと思います。この件に関して、著者の渡部昇一氏は、小村寿太郎を「清貧のエリート」と表現し、次のように書かれています。「清貧という思想は、個人の倫理としては尊重すべきものかもしれない。だが政治において濁富が負けて清貧が勝つというのは、しばしば国民にとって不幸な状態なのである。小村の意見に従ってハリマン構想を潰した結果、日本とアメリカの関係がこじれてくるようになったのも、その典型的な例と言うべきであろう」小村寿太郎に関しては、最近読んだ『教科書が教えない歴史4』に、逆に好意的に書かれた箇所がありました。日を改めて書いてみたいと思います。
2005/01/28
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この本は、平成8年11月12日から9年3月22日まで、産経新聞に掲載された連載をまとめたものです。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】この頃の北海道は、政府の近代化政策によって200万人の移民が流入し、開拓が進められていました。【感想】これは、今から100年位前の20世紀初めの頃のことです。驚いたのは200万人という数です。すごい人数ですね。【引用】この研究は池田にとって専門外だったので、自宅で行われました。そして、1908年(明治41年)、ついにその物質がL-グルタミン酸ナトリウムであることをつきとめたのです。【感想】これは、1908年に、東京帝大教授の池田菊苗博士が、「味の素」などの「うま味調味料」の正体を突き止めたことです。これは、日本人の10大発明のひとつに数えられているそうです。私は味の素の株を所有しているので、気になりました。味の素のホームページの社史にも書かれています。【引用】治安維持法は今日の価値観からは一方的に見られて、そのマイナス面だけが強調されていますが、苦心して築き上げた憲政をくつがえして、わが国を外国の植民地にしようと考えているような団体を取り締まるのは、当時の政党政治家としては当然のことでした。【感想】治安維持法は、1925年に日本共産党を中心とする革命運動の弾圧を主たる目的としてできた法律です。「天皇制の廃止」を掲げる共産党を取り締まるのは当然ということです。悪法といわれる治安維持法ですが、この法律の歴史的な評価をするのならば、同時に共産主義のことも考えないと、真実は見えないようです。
2005/01/23
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著者の半藤一利氏は、1930年東京生まれの作家です。この本の発行は1998年4月ですが、別冊文藝春秋(1997年)に初出です。この本では、ノモンハン事件の強硬論者である辻政信を相当否定的に書かれています。辻政信については、別の本も読んでから、人物像を描くほうが良いと思います。ノモンハン事件とは、1939年の5~9月、中国東北部とモンゴル人民共和国の国境にあるノモンハンで起こった日ソ両軍の衝突事件です。以下は、読後に気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】昭和の陸軍は、戦争にさいしては政治に影響されずに、軍独自に作戦を遂行する権限、それが統帥権であるとして、「魔法の杖」のようにいざというときにもちだしてふりまわした。いまや、その統帥権を行使できるのは大権をもつ大元帥だけであることも忘れているほど、のぼせあがっている。【感想】明治憲法では「陸海軍は天皇に直属する」と明記されているが、内閣や首相については一言も触れていないそうです。ここから軍部は、「われわれは天皇に直属するのであって、政府の指図を受けなくてもいいのだ」という理屈を持ち出したようです。明治憲法には「首相」も「内閣」もなかったとは、非常に驚きました。【引用】明治15年の創設から昭和20年の廃校まで60余年間、天保銭を軍服につけえたものは3,485名にすぎない。字義どおり日本陸軍のエリートは天保銭をつけたものにかぎられた。【感想】天保銭とは、陸大卒業記章のこと。年平均で60名にも満たないのですか。まさにエリートですね。そして、参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートが終結したそうです。
2005/01/22
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著者の上坂冬子さんは、1930年東京生まれの作家です。この本は、2003年10月の発行です。日本が自国の領土として主張し続けている北方4島に行く方法は、墓参、ビザなし交流、自由訪問の3つだけです。上坂さんは、2002年6月にビザなし交流で上陸しました。1956年の日ソ共同宣言によると、日ソ間に平和条約が締結されれば、歯舞と色丹は日本に返還すると明記されています。4島のうち2島が返還されるなら半分かというと、どうもそうではないらしい。4島の93%の面積を択捉と国後の2島で占めており、歯舞と色丹は7%の面積にすぎない。また、4島の総面積はどれくらいかというと、沖縄の2倍ほどとのこと。千葉県とほぼ同じとのことです。結構広いです。ちなみに日本の島を大きい順に書いてみると、大きさがわかると思います。1.択捉島 3,182平方キロメートル2.国後島 1,498平方キロメートル3.沖縄島 1,204平方キロメートル4.佐渡島 854平方キロメートル以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】日本がソ連案を受け入れて歯舞諸島と色丹島以外の北方領土と千島列島をソ連に帰属させるなら、「アメリカはサンフランシスコ講和条約第26条にもとづいて、沖縄の併合を主張しうる地位に立つ」と主張したのである。【感想】「ダレスの恫喝」というものがあったそうです。初めて知りました。1956年に重光外相がダレス国務長官を訪ねたときに、恫喝されたそうです。その内容とは、「ソ連との間で2島返還に応じたら沖縄を返さんぞ~」というものです。日本が4島返還を主張し続ける理由の一つに、こんなことがあったのですか。驚きました。【引用】イルクーツクで森首相はプーチン大統領に、まもなく自分は首相の座を退くと話したという。プーチン大統領は一瞬、顔を曇らせて、「誰が首相になろうと、その人と交渉を再開すればよい。しかし私はヨシ(プーチン大統領は森首相を非公式にこう呼んでいた)とやりたい」【感想】森首相とプーチン大統領との関係は良好でした。しかし、森首相の苦肉の策である「並行協議」(2島返還を既成事実として認め、これと並行して残る2島返還も協議しつづけるもの)は立ち消えになってしまったとのこと。その間の経緯を書いていたら長くなるので省略します。歴史的な業績を残せるチャンスだったのですが、森首相は大魚を逃してしまったというところでしょうか。以下は、2005年2月2日に追記しました。最近の日本の主張は、東京宣言に基づいているようです。東京宣言とは、平成5年、来日したロシアのエリツィン大統領が細川首相と会談して著名。帰属問題を、「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び方と正義の原則を基礎として解決する」こと明記している。
2005/01/16
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著者の野中広務氏は、1925年京都府生まれの元代議士。政治家としては町議からスタートし、衆議院議員になったのは58歳の時でした。昨今の二世議員が多いなか、異色な政治家だったと思います。政治信条は、「愛のない社会は暗黒であり、汗のない社会は堕落である」(野中広務)とのこと。なお、この本は平成8年5月に発行されました。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】日本には恐ろしい風がある。マスコミもそうだ。(中略)こうした風は戦前から何度も吹いてきた。戦前の大東亜共栄圏。戦後においては、反安保闘争等々、その度に日本人は熱狂し、後でほぞをかむことになった。【感想】先の戦争を庶民は全く望んでいなかったのかというと、どうもそうではなかったようです。世論の支持があったということです。ちょっと考えれば当然のことですが、一部の指導者に引っ張られた時代だったとのイメージが強すぎて、今まで気がつきませんでした。例えば最近読んだ本(『教科書が教えない歴史3』)によると、「昭和6年の満州事変以降、軍部は国民の圧倒的支持を背景に、軍事のあらゆることに議会と政府が口をはさまず、軍が独自に決められるような体制づくりを狙っていました」とのこと。また『ノモンハンの夏』によると、穏健派とされる要人の暗殺について、「暗殺が国家にとってつらい損失であるにもかかわらず、犯人が英雄視されるのが普通、というだけではなく、なぜか世論がそれを是認することであった。それを望んでいたといってもいい声や動きが、世の中にひろくあることである」と書かれています。
2005/01/15
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この本は、1991年3月~93年1月にかけて田中清玄にインタビューを行い、大須賀瑞夫氏がまとめたものです。田中清玄(1906生まれ)は、戦前に共産党の書記長として武装方針をとりましたが、獄中で転向しました。戦後の1945年12月21日には昭和天皇にお会いになり、熱烈な天皇主義者になったようです。以下は気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】「お前のような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。また早く死んだお前の父親に対しても責任がある。自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」【感想】これは田中清玄の母親(1930年2月に割腹自殺)の遺書です。田中清玄の母親は、田中清玄が共産党の書記長をつとめている時に自殺しました。この遺書の内容がすごい、今では考えられないです。このことは以後、田中清玄の心の中に重くのしかかって、その後の転向に影響を与えたそうです。【引用】「力ずくで取ったり取られたり、また血を流すこともなしに、お互いが話し合い、3年で解決しないものは5年、5年で解決しないものは10年、10年で解決しないものは100年だ。後になるほどみんないい知恵を出すだろう」【感想】これはトウ小平の尖閣諸島についての発言です。このスケールの大きさには感銘をうけます。【引用】先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし、許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避を行っている者である。Sのような者がそれだ。【感想】これは昭和天皇がおっしゃった言葉です。この本ではSではなく、はっきりと氏名が書かれていますが、頭文字に書き改めました。中曽根元総理が重用された方です。【引用】だいたい俺は民主政治とか国民の声とかいうものを信用しない。民衆の動向だけで国策を決定したら、国を滅ぼす。かつての日本はそうだった。先帝陛下があれだけ平和を唱え、日米戦争を回避しようとされたのに、民衆はそれを許さなかった。その民衆を動かしたのが軍部と官僚たちだ。そしてそのお先棒を担いで旗を振ったのが、ジャーナリズムだ。こんなものを民主主義だとかいって、神様のように信じることができるか。【感想】すごくはっきりと語っていますね。いまの日本は、当時とそれほど変わっているとは思えません。私は民衆の一人ですが、声をあげる時は、本当に自分の考えが間違いないか、よくよく注意しようと思います。この本を読んで、初めて田中清玄がいたことを知りましたが、「政・財界に隠然たる勢力をもっている」(コンサイス人名辞典:三省堂による)人物は、わかりにくいです。
2005/01/09
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この本の発行日は2002年6月10日で、著者の芹田氏は1941年中国(旧満州)生まれで、現在は神戸大学院教授です。専攻は国際法です。この本を読んで、日本の領土に関しての基本的な知識を得ることができました。なお、2月7日は「北方領土の日」です。まず、日本のかかえる領土問題は3件あります。北方領土・尖閣諸島・竹島です。もう少し詳しく書くと、■ロシアが支配するいわゆる北方領土の返還を日本が求めている。■日本が支配している尖閣諸島(中国名釣魚諸島)の領域権を中国が主張している。■韓国が支配する竹島(韓国名独島)については日本が領有権を主張している。ここでは北方領土に絞りますが、そもそも北方領土問題が発生した理由は何かというと、1945年2月11日のヤルタ秘密協定に原因があるようです。ヤルタ秘密協定は米英ソ三国首脳間の協定であり、日本降伏後の1946年2月11日に公表されました。日本側の主張は、ヤルタ秘密協定は米英ソが勝手に決めたので拘束されないというもの。なお、ヤルタ秘密協定については、12月18日の日記に書きましたが、ルーズベルトの深い考えがあったようです。そこで日ソ交渉を行い、1956年の日ソ共同宣言をしました。日ソ共同宣言によると、ソ連は平和条約締結後に歯舞及び色丹は日本に引き渡すことに同意しているとのこと。現在のロシアも歯舞及び色丹の返還(いわゆる2島返還論)を主張しています。それに対して、日本側は4島の一括返還を主張しています。この調子で書いているとキリがないので、今回は最近のニュースを以下にコピーしておきます。『北方領土問題を巡る日本とロシアの駆け引きが活発になってきた。プーチン大統領が2島返還論を主張すれば、小泉純一郎首相も4島返還を求め応戦。町村信孝外相は1月にモスクワでラブロフ外相と会談し、「来年初め」で合意している大統領の訪日日程の確定を目指すが、今のところロシア側が時期を明確にする気配はない。政府・与党内には「来年後半にずれ込むのではないか」とロシアの揺さぶりを警戒する声も出ている。 大統領は23日のクレムリンでの記者会見で平和条約締結後に歯舞、色丹2島を引き渡すと規定した1956年の日ソ共同宣言に触れ「平和条約の調印とはすべての領土問題の決着を意味している。日本も(共同宣言に)批准しているのになぜ今になって4島を求めるのか」と指摘。2島返還で最終決着を図る考えを改めて示した。 首相は24日、「なぜ4島返還しないのか不可解だ」と強い調子で不快感を表明。町村外相も「日本の基本スタンスは従前通りだ」と述べ、4島すべての帰属問題を解決して平和条約を結ぶ方針は不変だと強調した』とのこと。
2005/01/08
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この本は2004年11月10日発行で、著者の福井雄三氏は、昭和28年生まれで大学の教授です。「司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』は超ベストセラーであり、国民文学と言ってもよい作品である。この小説が日本国民の精神に及ぼした影響は、計り知れぬほど大きいものがある」と書かれています。『坂の上の雲』は、飽くまでも歴史小説であり、「歴史書」とは異なります。しかし現実は、「司馬史観」という言葉がありますように、「歴史書」として賞賛されている方もいます。『坂の上の雲』での旅順攻防戦での乃木希典に対する評価は、人格面はともかく、いたずらに将兵を犬死にさせた愚将です。実際、私も福井氏のこの本を読んだ今日まで、そのように思っていました。しかし、本当に乃木希典の旅順攻撃は間違っていたのかというと、決してそうではないと書かれています。なお、この本の目的は、「司馬氏やまた特定の作家を批難するのが目的ではない。司馬氏などが著した歴史叙述の中に指摘すべき点があるので、それをとりあげ、歴史の虚像と実像を見極める試みを行う」ことにあるそうです。『坂の上の雲』は、来年(2006年)に、NHKでテレビドラマ化されます。なお、司馬氏の遺言により、NHKの再三の懇願にもかかわらず、『坂の上の雲』のテレビドラマ化は今まで拒まれ続けてきたという経緯があるそうです。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】ユダヤ人大迫害はナチスの専売特許でもなく、またヒトラー個人の引き起こした例外的な悲劇でもない。【感想】2004年9月25日の日記に『ホロコースト全史』の読後感を書きましたが、私はヒトラー個人が異常であると思っていました。しかし実際には、ユダヤ人は「中世以来、疫病や災害といった天変地異が生じて社会が混乱に陥るたびに、ユダヤ人がその元凶であるとして、彼らを迫害・弾圧するポグロムという行為は、ヨーロッパでは日常茶飯事で行われていた」とのこと。一つの原因が、キリスト教徒は高利貸しの職業に就くことは禁じられていましたので、ユダヤ人が高利貸しに就いていた為、恨まれやすかったそうです。そして宗教の違うユダヤ人は、儲けた利益を「自分たちの内部で蓄積・流通させて、住んでいる社会や国には多くを還元しない、という構造ができ上がっていった」とのこと。
2005/01/03
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この本は、平成8年6月11日から11月2日まで、産経新聞朝刊に掲載された連載をまとめたものです。12月18日の日記に第1巻のことを書きましたが、今回は第2巻です。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】1869年(明治2年)、福沢の指導で日本初の株式会社丸屋商社(現丸善)を門下生の早矢仕有的が創立。【感想】福沢とは福沢諭吉のことです。興味を引いたのは、日本初の株式会社が丸善であるということです。丸善は現在東証1部に上場している会社ですが、このような歴史があるとは全く知りませんでした。丸善のホームページをのぞいてみましたが、間違いなく早矢仕有的が創業者でした。ことし丸の内に新本店をオープンしましたが、会社四季報によると集客堅調のようです。株式投資をされている方は、覚えておくと良いでしょう。【引用】前島は、政治経済の活動を滑らかにし、庶民の生活を豊かにするには、通信や運送の業務を国が行い、国の隅々までゆきわたらせ、安く利用できるようにしなければならないと考えていました。【感想】前島とは、前島密(まえじまひそか)で「郵便の父」と言われています。現在は発行されているのか定かではありませんが、一円切手にのっている人物です。ここで興味を引いたのは、現代風に言うと「郵政を国営化」したことです。小泉総理と全く逆のことを考えていたのですね。明治時代になったばかりの頃は、民間の飛脚や問屋場という制度で通信や運輸が行われていたが、料金が高くて金持ちしか利用できなかったそうです。そこで、1870年に民部省の改正係に就いた前島密は、イギリスに渡り郵便制度を学び、日本に取り入れました。当時は国家の財政事情は厳しく、全国各地の有力者の家を借りて、民間委託的な郵便取扱所(後の特定郵便局)を設けました。当時としてはこれは大成功で、料金も安くなり多くの人が利用できるようになりました。そして135年後の現在は民営化を目指しています。また、特定郵便局制度も、国家公務員である局長が実質は世襲であるとか、局長会が自民党の大きな集票力を担っているとかの問題点が指摘されています。どのような素晴らしい制度でも、時が経つと色々と問題点が出てくるものですね。
2005/01/02
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この本は2004年5月20日の発行で、「朝鮮総連を誹謗中傷ではなく、正確に、いささかの同情を持って厳しく批判的に」書かれています著者の金賛汀氏は、1937年、京都生まれのノンフィクション作家です。朝鮮大学校を卒業し、雑誌記者を経て著作活動に入られた方です。朝鮮総連とは、在日本朝鮮人総聯合会の略称です。1955年に結成されました。結成時の綱領の要約は次の通りです。1.全同胞を北朝鮮の周りに総集結させる。2.韓国から米国とその手先(李承晩)を追放し、祖国の平和的統一に献身する。3.在日同胞の全ての民主的な民族権益と自由を擁護する。4.民族教育と民族文化の育成。5.国籍選択と亡命の自由を固守。6.朝日両国人民の友好親善促進。7.原爆など、全ての大量破壊兵器の製造、使用の禁止。8.世界平和友好人士との連携。以上ですが、1995年には全面的に改定されました。当初は、在日朝鮮人のために生まれた組織でしたが、現在は、「すでに在日は朝鮮総連の必要性を認めていないだけではなく、朝鮮民族が日本で生活していく上で有害な組織と認識し始めている」とのことです。 以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】大阪地方から還った在日同胞は、「北朝鮮の生活は素晴らしく街も近代的で人々は釜ケ崎のような素敵な生活を送っています・・・」と書き送った。【感想】これは北朝鮮に帰還した方が、日本に残留した家族に書き送った手紙です。帰還前にあらかじめ日本に残留する家族には、「北朝鮮での生活が厳しく、帰らない方が良いなら手紙は横書きで出す、帰った方が良いなら、縦書きで出すという秘密の約束を交わして帰っていった」そうです。すると、「祖国の生活を礼賛する横書きの手紙が、たくさん届くように」なったそうです。ちなみに、「当時、釜ケ崎は日本最大のドヤ街でスラムでもある事を大阪の人間は誰もが知っていた」とのことです。何とも複雑な気分にさせられます。【引用】それは在日同胞の「思い」から遊離していたため、当然の結果として支持者を減少させ、総連の活動に無関心になる在日同胞を増やしていった。【感想】在日の「思い」は定住志向に変化しているにもかかわらず、総連の活動は「在日の人々が現実に直面している生活面での改善要求とは多分に遊離した政治活動が運動の中心になって」いるとのことです。生活面での改善要求の例として、1976年の司法試験合格にもかかわらず司法研修所の入所を拒否された事件、国民年金の保険料を支払っていたにもかかわらず、支払開始年齢時に支払拒否を受けた事件など、「国民」だったら適用されない制度的差別を挙げています。こちらも難しい問題ですね。現実には、「日本国籍取得者も急増」しているようです。
2004/12/26
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この本は、2003年9月から2004年6月にかけて「日本経済新聞」に連載したものを加筆・修正したものです。日本の通貨「円」と中国の通貨「元」のことだけではなく、「中国経済が急速に台頭し、日本と中国の経済関係が深まるなかで、日本は中国とどう向き合っていけばいいのか」を書こうとしたとのことです。通貨がどのように変動しようとも、企業は対応していかなければならない。この本に書かれている日本の企業(主に製造業)は、生産拠点を移すなどで「元」リスクに備えているようです。たとえば、ホンダは「自動車会社の生き残りの条件は為替との戦いを乗り切ること」と言い、「円高にも元高にも対応可能」とのことです。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】中国人誘客の足かせとなっているのが入国査証(ビザ)の発給問題。登別温泉旅館組合では数年前、地元選出の鳩山由紀夫代議士との懇談会で中国からの観光ビザの要件緩和を申し入れた。【感想】政府は、「2010年に来日観光客1000万人を目標としている」そうです。中国から日本への観光ビザの発給要件を緩めて、日本国内の観光地でお金を使ってもらおう、という考えです。河口湖や登別の温泉旅館関係者からは、「観光と犯罪の問題は切り離して考えたほうがいい」とか、「ビザと国内交通費の高さで中国の富裕層は欧州旅行に流れている」との声があるようです。いよいよ、日本も中国の経済力をあてにするというか、無視できなくなってきました。【引用】通貨を統合すれば、一国で通貨増発をできず軍事費のねん出も難しくなる。混乱に苦しんだヨーロッパは、夢想といわれた通貨統合への執念を燃やし実現にこぎ着けた。【感想】ユーロについて書かれた箇所ですが、1970年に通貨統合を提案したのは、ルクセンブルク首相のウェルナーです。当時は冷笑されただけでしたが、30年後の1999年に、統一通貨「ユーロ」が誕生したとのこと。そこには、「もう戦争はやめよう」、「そのために経済を、通貨を統合しよう」という意思とねばり強い実行力があったそうです。ユーロは誕生したばかりで、果たしてこれからどのようになるのか、まだまだわかりませんが、大成功だったといえることを望んでいます。ノーベル賞学者のロバート・マンデルが、「ユーロは独仏が両輪となって実現した。アジアでは円と元が独仏の役割を果たすべきだ」と指摘されています。現時点では想像すらできませんが、日中主導のアジア通貨を主張されています。夢想といわれたユーロが実現したのですから、本当に将来のことはわからないです。
2004/12/25
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この本は、1999年12月10日発行の自叙伝です。著者の金嬉老は、1968年2月の「金嬉老事件」を起こした人物。くわしくは、ここをご覧下さい。「金嬉老事件」は、日本でもビートたけし主演でTVドラマ化されたそうですが、特異な点のある事件でした。マスコミを通じて自分の主張を広く伝えようとした点、その主張が民族差別に対する糾弾だった点などが、それまでにあった人質事件とは大きく異なっていました。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】私は遺書を書きつけ始めました。それは昭和42年12月31日から、事件の直前までずっと書き記しています。【感想】金嬉老は「金嬉老事件」を起こしたあと死ぬ気だったのですが、実際に行動するまでの3ヶ月近くの間、死を覚悟して書きつけた文章には、なかなか迫力があります。「追い詰められた当時の私(金嬉老)の心境」を、少し書き写してみます。「42年12月31日 世界の至る所で、此の年を終わらせ、新しい年を迎えようとしているがその置かれている状態は、実にさまざまなものと思う。希望に胸をふくらませて、明日を待つ者もあらば、死線をさまよっている者もある。ベトナムの人々の気の毒な毎日。しかし、彼等には、国を守り、独立を完全に勝ち取るという大きな希望があると思う。だが、此の俺は、明日に何んの夢も希望もない。絶望感が俺を支配している今、唯、死場所を選んでいる放浪者に等しい心境・・・・」こんな感じの内省的な文章です。
2004/12/19
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この本は、平成8年1月15日から6月1日まで、産経新聞朝刊に掲載された連載をまとめたものです。著者の藤岡信勝氏は昭和18年生まれで、自由主義史観研究会の代表です。なお、教科書が教えない歴史のホームページは、こちらです。この本の「はじめに」には次のように書かれています。「これからの歴史教育では、・・・・自国をことごとく悪とみるような外国の国家利益に起源を持つ歴史観から一切自由になって、日本人の立場で、自国の歴史を考えることが必要なのです」と。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】ルーズベルトは、第二次世界大戦を終えるにあたって、ソ連、中国、日本の三つの国の間に、領土をめぐる紛争が起きるように仕向けたのです。【感想】この本によると、ヤルタ会談でルーズベルトとスターリンとの間に千島列島を日本から奪う密約があったらしいです。ルーズベルトは、おそらく次のように考えたに違いないとのことです。「戦争が終わり平和になっても、いずれは国同士の対立が生まれる。将来、極東の三大国が団結してアメリカをこの地域から閉め出すかもしれない。それを防ぐため、三国の間に戦争のタネをまいておいた方がよい」困ったことをしてくれましたが、まさに深謀遠慮です。【引用】両軍は陣地に赤十字の旗を立てるのを合図に、一時戦闘をやめて戦場に横たわっている味方の死者や負傷者を収容しました。その間は、どちらからも絶対に攻撃をしませんでした。それどころか、一時休戦のとき、両軍の兵士たちは赤十字の旗のもとに集まって酒をくみかわし、談笑し、お互いの武勇をたたえあいました。【感想】これは、日露戦争での日露両軍の旅順攻防戦でのことです。国際法に従って戦争をしていたとのことです。両軍の兵士が酒をくみかわし談笑というのは、「ほんとかね」と驚きました。正直なところ笑ってしまったのですが、これはどう解釈すればいいのか迷います。当時は戦闘機がない時代で空爆がないので、まだ人間臭のある戦闘だったのでしょうか。100年前の日露戦争を経験している方は生存していないはずなので、真相は不明と思います。はっきりとわかるのは、大量殺戮可能な今の時代には、たかだか100年前の戦闘さえも理解できないということでしょうか。
2004/12/18
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この本の発行日は、今から7年前の1997年12月17日です。確かな記憶ではありませんが、当時は今よりも日本共産党には勢いがあったように思います。宝島社の別冊に採りあげられたとは、ちょっと驚きです。ちなみに、1997年10月12日現在の共産党国会議員数は、衆議院26名、参議院14名、地方議員数4,051名です。それが2004年11月19日現在は、衆議院9名、参議院9名、地方議員数4,017名です。この本の面白いところは、お堅いイメージ、人によっては恐いイメージの日本共産党を、政策面だけではなく、様々な角度から眺めていることです。例えば、志位書記局長(現在は幹部会委員長)の追っかけをやってみたりしています。志位氏は、身長が180Cmもある長身だったのですね。さらに、「食事にいくのも飲みにいくのも、大衆的な店・・・、お姉さんが横につくような店などには一度もいったことがないですよ」と言っています。(笑)ここまで言わせるライター、あなたはエライ!この本によると、予想外の人が共産党員だったことがわかり、興味を引きました。たとえば、ネベツネこと渡辺恒雄氏は、主体性論(何かわかりません)をふっかけて共産党本部を除名されたそうです。また、党員だったとは書かれていないが、「厳格でクソまじめな共産主義者だった」のが、自由主義史観の藤岡信勝氏。今は右転回して「新しい歴史教科書」を執筆されたりしています。更に、長谷川慶太郎氏も共産党員だったそうです。どうみても今は資本主義バンザイの方ですが。(苦笑)なお、長谷川慶太郎氏のことは12月5日の日記、日本共産党のことは12月11日の日記にも書きました。興味のある方は、ご覧下さいませ。
2004/12/15
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著者の鄭大均氏は1948年生まれで、現在は東京都立大学教授をされています。この本の発行日は2004年6月20日です。概要は、在日コリアンのほとんどは戦前日本が行なった強制連行の被害者及びその末裔だ、という「神話」を疑問視し、その実像に迫ろうとしています。多くの在日1世の証言を読むと、大多数は金もうけにあるいは教育を受けに、自らの意志で海峡を越えた様子がみてとれるとのことです。実際にはどうなのか、正直なところ私にはわかりかねますし、あまりにも重い問題なので、軽々しいコメントは控えます。ここで、最近の強制連行に関するニュースを2件書いておきます。去る11月に九州に住んでおられた在日1世の「強制連行の語り部」といわれる方が亡くなりました。享年93歳でした。350回にわたり日本の学校で、強制連行のことを語ったそうです。それから朝鮮中央通信によるニュースです。北朝鮮の「朝鮮人強制連行被害者・遺家族協会」は「わが人民の間では、なぜ日本人拉致被害者問題に(北朝鮮政府が)誠意を示すのか、(一握りの)日本人拉致被害者とわが民族が被った(強制連行の)被害を比較できるのか、との抗議と激憤が満ちている」と非難したとのことです。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】80年代に入り、日本のマス・メディアが第2次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日コリアンに対する差別の問題を語るようになると、「強制連行」という言葉はにわかに大衆化する。【感想】「強制連行」という言葉を最初に使ったのは誰か、著者の調査によると、それは藤島宇内が『世界』(1960年9月号)に寄せた論文のようです。ただし、この当時「強制連行」という言葉は、大衆化していませんでした。それが、1980年代の日本の左派系の人々が、この言葉を広めたということです。確かに、言われてみると、そのような気がします。【引用】かつての日本には、不利な立場で生まれてきたがゆえに、他人よりも努力して自分を鍛えるとか、理不尽さに向き合う過程で、ある種の奥行きを備えた人間が生まれるという「逆境の効用」とでもいうべき状況もあった。【感想】これは、厳しい指摘です。さらに、「被害者アイデンティティーに身を任せた人間は、前向きの選択をしない」と書かれています。「かつての日本」には、貧乏であるがゆえに努力する、不利な立場であるがゆえに努力する的なことが、少なくとも今の日本よりは、もっとあった。そういうふうに解釈しました。確かに、私自身の問題としても、うまくいかないのは社会が悪い、運が悪いと責任転嫁しがちです。(笑)これは、もっと素直に努力が足りないと認識するべきかもしれません。
2004/12/12
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この本は、1999年3月の発行です。日本共産党というと人によって抱くイメージは異なるはずですが、私にとっては非常に馴染みが薄い政党です。両親は日本共産党には興味がなく、郵便受けに入れられた日本共産党のパンフレットを一目見るなり、「共産党か」とつぶやき、そのパンフレットは古新聞入れやゴミ箱に直行しました。そのような家庭で育ったこともあり、今回初めて共産党関連本を手にした次第です。政党には綱領がありますが、日本共産党綱領は今年の1月の第23回党大会で改定されたそうです。以下に、綱領の初めの部分を引用します。「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、一九二二年七月一五日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された」今となってはいささか古臭い感じがしますが、1922年(大正11年)創立ですか。この本にも書かれていますが、「明治期はキリスト教、大正期は民本主義、昭和初期は社会主義が若い人たちの心を捉えた」そうです。つまり、日本共産党の創立時は、かなり熱気があったことが想像されます。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】日本共産党だけは政党助成金を貰っていない。党会費と出版物の売上げ利益とカンパだけで運営している。【感想】この本で不破哲三氏が次のように語っています。「政党助成金は、国民にたいする強制的な政治献金であり、憲法が定めた政治信条の自由をおかすもの。だいたい国民から税金を徴収して、それを政党が分け取りするなどは、政党として言語道断である」道理が通らないということのようです。この本による「強制献金」は国民一人当たり250円だそうです。この点は、大いに評価すべきなのでしょうか。【引用】大規模な攻撃を受けたときには、どうするか。・・・異常な事態に対応する措置として、緊急に軍事力を持つなどの対応策をとることが必要になる場合も出てきます。【感想】緊急に軍事力を持つというのは、軍事オンチの私が考えても、難しいような気がします。この本は、1999年3月の発行ですから、今は変わっているかもしれませんね。
2004/12/11
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この本は2003年11月の発行です。著者の長谷川慶太郎氏は1927年生まれの国際エコノミストです。1年以上も前に発行された本を読もうとしたのは、著者の語る2004年の予想が、どれだけ当たっているかを見てやろうという、ちょっと悪趣味な動機からです。実際には、当たっている所あり、外れている所ありです。ただ、大胆に予測するのは勇気が必要なことですし、読者にとっては興味深く本に接することが出来ます。大胆な予測をされる著者には、はばかりながら敬意を抱いています。以下は、この本で気になった箇所の引用と感想です。【引用】おそらく小泉政権の任期が終了する平成18年には、かつてない高度成長の復活という情勢が到来することになろう。その時点で、株価は史上最高の水準を超える事態も視野に入ると考えている。東証ダウが4万円の大台に乗るに違いない。【感想】おお、超大胆予想!思わず興奮です。東証ダウというのは、日経平均株価のこと?まあ、そんな突っ込みはどうでもよい。ここまで、大胆に予想してくれるから、長谷川慶太郎氏の本は楽しいですね。【引用】確かに「双子の赤字」は存在するし、その重みは決して無視できるものではない。だが、米国経済が負担できる限度を超えると判断された瞬間、米国政府は財政赤字の原因となる「世界の警察官」として振る舞う行動の経費を分担するよう日本を含めた世界全体に対して強く要求し、その要求を貫く強い力を持ち合わせているのである。【感想】米国には逆らえませんね。今現在、ドル安が進んでいます。私は米ドルを保有していますが、1円円安で2万円の利益になります。逆に、今現在のように1円円高で2万円の損失になります。よって、あまりドル安(円高)は好ましくはないのですが、引用したこの箇所から考えると、どこまでもドル安が進むとは思えないです。米国の次なる要求は何でしょうか、怖いですねえ。
2004/12/05
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この本は、2004年5月発行です。著者の鈴木宗男氏は、昭和23年北海道生まれの前衆議院議員です。この本を読む限りでは、鈴木氏の行くところには、逆風が吹くように見えます。例えば、昭和58年の初当選の際のバッシング、最近では選挙前の胃ガン発症などです。以下は、この本で気になった箇所の引用と感想です。【引用】これはひとえに私がアフリカなど、発展途上国に対して関心を寄せ、特にその中でも対アフリカ外交を進めようとしたからです。【感想】これは、ODA疑惑に関して書かれた箇所です。鈴木氏の子供時代は、学校のクラスに1人か2人、栄養失調のために背骨や手足が曲がるクル病で苦しんでいる友人がいたそうです。しかし、鈴木氏の家も裕福ではなく、人様を助けられる境遇ではなかったということです。この子供時代の体験が、アフリカに目を向けるようになった原点とのことです。【引用】私もそれに応えるべく、朝早くから夜遅くまで、365日、ただただ中川先生のために働き続けました。自分が一所懸命頑張れば、中川先生が必ず一番にならなくても、二番か三番にはなれると思い、全力でお仕えしました。【感想】鈴木氏は中川一郎氏の秘書をしていましたが、誠実で働き者の顔が見えます。土・日の朝、家を出る時に、お子さんが「また来てね」と言って送ってくれたそうです。ちなみに、鈴木氏が尊敬している政治家は、中川一郎先生、金丸信先生、野中広務先生とのことです。
2004/12/04
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この本は、2002年4月発行です。著者の小室直樹氏は、1932年東京生まれの方です。まえがきに、「日本国憲法の問題点といえば、憲法違反が公然となされていて、これに誰も気付かず、論じられてもいないことである」と書かれています。最も、この本が発行された2年前に比べると、今では変化が生じているように思います。例えば、先頃、自民党憲法調査会がまとめた憲法改正大綱の原案が明らかになりました。私自身は、憲法の専門家でもなく、護憲や改憲の運動家でもない一人の国民です。ですから、本気で憲法のことを考えるのは、実際に憲法改正の国民投票になった時になりそうです。以下は、気になった箇所の引用と感想です。【引用】社会主義や共産主義が手ひどい失敗を見せた今日にあっては、デモクラシーこそ最高の政治形態であると広く思われるようになった。だが、歴史をひもとけば、デモクラシーはむしろ「最低の政治」と思われていた時期のほうが長いのである。【感想】これは盲点を突かれたような感じです。近代デモクラシーの基礎理論を作り上げた人物は、ジョン・ロック(1632~1704)とのことですが、もっとさかのぼって古代アテネの頃も「民主政」が行われていました。その当時の「民主政」では、「愚かな民衆がその場の雰囲気や、口のうまい煽動者に乗せられてしまうと、やすやすと衆愚政治に堕す」ことがしばしばあったらしいです。著者は、だから民主主義には教育が大切だと書いています。【引用】現行の戦時法規の基本とされている条約の中でも、最も重要なものの一つに1949年の「ジュネーブ条約」がある。【感想】ジュネーブ条約というと、捕虜に対して人道的待遇を与えなければならないことを定めています。私の知識はその程度でした。しかし、この本によると、もっと複雑な問題があることがわかりました。「戦闘員」と「非戦闘員」の区別、「非合法の戦闘員」と「合法的戦闘員」の区別などです。以下は、ジュネーブ条約を知らないと起こりうる悲劇です。日本が他国から侵略を受けたとき、そこで一般国民が武器を手にして抵抗運動をしたりすれば、それはただちに非合法の戦闘員と見なされる。そのとき、平服を着て、敵にゲリラ運動をする人間が数人でもいたら、それは敵に無差別攻撃を許すことにつながりかねない。それが実際に起こったのが、ベトナム戦争だったとのことです。ですから、ジュネーブ条約には公知条項があり、「平時であると戦時であるとを問わず」できるかぎり国民教育に努めよ、としているそうです。本来は学校教育に組み込まなければいけないと、著者は書いています。確かに、学校でジュネーブ条約を教わった記憶はないです。
2004/11/28
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この本は、2002年の5月発行です。著者の辻元清美さんは、1960年生まれ。1983年に民間国際交流団体「ピースボート」を設立され、その後、衆議院議員(社民党)に選出されました。議員活動を通して、NPO法、情報公開法などに取り組み成立させたましたが、2002年3月に秘書給与問題のため辞職しました。この本は議員を辞職した直後に発行されていますので、議員時代のことが書かれています。タイトルの『なんでやねん』は、予想外の展開で辞職するに至った著者のつぶやきであると思います。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】「27年間、国会議員をやっているが、一つも法律をつくったことがない」と、自民党の大物議員から聞いて驚いた。【感想】私は政治の世界には無縁ですが、確かに驚きます。この本によると、例えば140回通常国会で成立した法律のうち議員立法は1割だったそうです。【引用】現在の日本人の性行動をトータルに見たとき、新生児のうち婚外子がアメリカ33%、イギリス39%、フランス40%、ノルウェー49%に対して、日本が1.7%というのはあまりに落差がありすぎる。【感想】ここに挙げられたのは、おそらく特別に高い国だとおもいます。しかし、日本以外の国が異常なようですが。機会があれば、少し調べてみたい気がします。
2004/11/27
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この本は、国際宗教研究所編、井上順孝・島薗進監修です。発行日は、2004年3月30日です。この本では、靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑などの他にも、新しい追悼施設が必要かどうかについて書かれています。この問題が浮上した背景は、2001年8月13日に靖国参拝をした小泉首相の談話です。それは、「今後の問題として、靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどうすればよいか、議論をする必要がある」というものです。その後、「追悼懇」が発足し会合・勉強会を重ね、2002年12月24日に報告書をまとめました。それによると、「国立の無宗教の恒久的施設が必要である」と結論づけています。当然ながら賛否両論があり、現実に新しい追悼施設がつくられることがあるにしても、まだまだ先のことと思いました。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】靖国神社にまつられているのは、戦没者のうち軍人・軍属などの戦没者に限られており、・・・【感想】この後、広島や長崎の原爆による戦没者、東京や大阪などの空襲による戦没者などは、対象になっていないので、靖国神社を「追悼の中心施設」と位置づけるのは適当ではない、と書かれています。これは、「追悼懇」の報告書に書かれています。確かにそのような気もします。最も、靖国神社をあくまで中心的施設として反対する方々も中々手強いです。小堀桂一郎、小林よしのり、渡部昇一、西尾幹二などの方々です。敬称は省略させていただきました。最後に、追悼と慰霊の違いがよくわからなかったので、辞書で調べたところ、次の通りでした。慰霊というと、宗教的な部分があるように思います。追悼・・・死者の生前の事を思い出してその死を悲しむこと。慰霊・・・死者の霊を慰めること。
2004/11/21
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この本の発行日は、2001年4月5日。著者の佐柄木俊郎氏は、1943年生まれで、この本を書いた時は、朝日新聞社の論説主幹です。著者は、「一介のジャーナリスト」と自身を語っています。この本の趣旨は、「憲法のどこをどう改めるべきか、といった国民世論が成熟していない以上、当面改憲は必要ないし現実にも不可能だ、ということを解き明かしたい」とのことです。以下は、気になった箇所の引用と感想です。【引用】一項目でも反対の有権者は「ノー」を投じることを考えると、「全部改正」などはほとんど現実味を欠き、夢物語だとしか考えられない。【感想】折しも、自民党憲法調査会がまとめた憲法改正大綱の原案が明らかになりました。それによりますと、天皇は日本国の元首とし女性天皇を容認、自衛軍の設置、集団的自衛権行使、さらには憲法改正手続きの簡素化などが骨子となっています。仮にこの案のように多くの改正点がある場合、有権者の国民投票まで行ったとき、天皇の改正だけに反対でも、改正には「ノー」を投じるので、まず改正はないと思う。こういうことを言っているはずです。確かに改正は難しそうです。【引用】現実的には、国会の「三分の二」のハードルよりは、国民投票の「過半数」のハードルの方が厳しいだろう。【感想】これも改正手続きのことです。今回明らかになった自民党憲法調査会がまとめた憲法改正大綱の原案でも、改正手続きの簡素化として、「衆参両院の総議員の三分の二の賛成だけでも改正できる(できないケースもあり)」としています。やはりハードルの高さを理解しているからでしょうか。【引用】「憲法改正は是か非か」といった国民意識を探る世論調査では近年、改正を「是」とする回答がかなり増えてきた。【感想】新聞社の世論調査では、「改憲する方がよい」が「改憲しない方がよい」よりも、4年前の調査でも多数でした。今でも、「改憲する方がよい」と回答する方が多いと思います。各種世論調査では質問の仕方も違うし、結果に見る賛否の比率にかなりの違いがあり、正確な民意をくみ取るのは難しいと書かれています。実際の国民投票では、具体的な改正条項に対して「イエスかノーか」を問うものであると。例をあげると、「天皇制廃止」を唱える人と「絶対天皇制の復活」を主張する人のどちらも「改憲する方がよい」派であることには変わりはないとのことです。しかし両者の主張は正反対であると。この辺が世論調査の限界というか、参考程度にしかならないということでしょうか。
2004/11/20
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この本は2002年9月発行です。著者の平沢勝栄氏は1945年生まれで、現在は自民党衆議院議員です。あとがきにあるように、この本では、戦後日本の最大の不幸は国政を担当する政治家や行政をあずかる官僚に「愛国心」や「国家を守る気概」があまりみられなかったことにあることが書かれています。教科書問題、靖国問題、拉致問題など、どれを採っても日本国内問題であると思いました。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】本当に国を愛する政治家や外交官なら、「中韓よ、あなた方の発言は内政干渉にあたるおそれも十分にあるし、両国の関係の将来にとってもけっしてプラスにならないので、今後このような発言は一切やめてくれ」と強く申し入れてこそ、日本の政治家であり、日本の外交官だ。【感想】これは、日本の教科書に対する中韓の干渉について書かれている箇所です。その通りと思います。なお、中国の小学校1年生の教科書には次のように書かれているそうです。「中国に侵略した日本軍はとても多くの凶悪なことをしました。放火や略奪の罪は天までとどくほどでした。日本軍はわが同胞何千万人をも殺し、中国人民に泥にまみれ、火に焼かれるような苦しみを与えたのです」【引用】政治家などが外国のために動くようになったら、国は潰れる。その意味でいまのような状況は、日本の安全保障にとって最大の危機といえる。その危機意識がまったくないということがいちばんの問題だ。【感想】例えば、鈴木宗男元議員は、ロシアの巧みな外交戦略により、気がつかないうちにロシアの為に働いていたと書かれています。ムネオハウスや診療所などの箱物支援を、例として挙げています。これも納得です。【引用】日本では、無理が通って道理が引っ込むことを彼らは知っている。あるいは、無理難題をふっかけて外交カードに使えることも知っている。国益を忘れて、尻馬に乗って騒いでくれる売国奴的政治家やマスコミ人などがいることも知っている。日本が精神的半独立国家であり、外国から何かいわれるとすぐに言いなりになることをよく知ったうえで、要求してくるのだ。【感想】外国人参政権問題について書かれた箇所の記述です。外国人参政権問題は韓国という一国だけ、それも一部の人たちだけの主張のようです。ともあれ、引用箇所の分析は見事です。
2004/11/14
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この本は1999年10月発行です。著者の上坂冬子さんは、1930年東京都生まれのノンフィクション作家です。汪兆銘(1883~1944年)について書かれた本です。汪兆銘(おうちょうめい)は、日中戦争がはじまって3年目の1940年、重慶にたてこもったまま日本と戦い続ける蒋介石とは別に、南京に拠点をおいて和平交渉に踏み切った人物です。日本が敗れた結果、汪兆銘政権の首脳たちは蒋介石政権によって処刑されました。汪兆銘自身は、1944年に名古屋帝大付属病院で死去していましたが、南京の梅花山の墓を爆破されました。戦時下に敵国日本になびいた漢奸(かんかん 売国奴)というのが罪状でした。急に飛びますが、1994年に汪兆銘の墓があった南京の梅花山に、汪兆銘の跪像(きぞう)がつくられました。1999年の正月に撤去されましたので、いまは跡形もないそうです。かなりスクロールが必要ですが、ここを見ると、跪像の画像があります。人様のサイトですが、連絡先が不明のため勝手にリンクを貼らせて頂きました。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】私の父、汪兆銘は清廉潔白な紳士であり優れた文人ではあったが、政治家としては失敗者だと私は思っている。【感想】汪兆銘の長男の言葉です。この本を読んだ限りでは、汪兆銘はどう見ても愛国者です。蒋介石と袂を分かったといっても、和平のためであり、和平実現の際には蒋介石の重慶政府を中国の唯一の政権と位置づけるつもりであったようです。それが漢奸と言われ続けてしまうのですから、これは辛いですね。【引用】中国はつねに仮想敵を必要とする国だ。何らかのイジメられっ子をつくらなければ、あの大きな国のおさまりはつくまい。愛国者を漢奸といいつづけることの矛盾を誰よりもよくわきまえているはずの国家の幹部が、政治的な理由でそれを公言せずに逆に利用している以上、私としては傍観するつもりだ。【感想】これも汪兆銘の長男の言葉です。この本が書かれた時は、アメリカに住んでいたとのこと。軽々しい感想は控えます。
2004/11/13
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この本は2003年1月発行です。著者の井沢元彦氏は、1954年名古屋生まれの方です。「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者とのことです。本の内容はタイトルから想像できると思います。以下に気になった箇所の引用と感想を書きます。【引用】「私(井沢元彦氏のこと)も韓国の教科書を見て、韓国の一方的な、傲慢な、侮日的な態度には非常に怒りを覚えますが、だからといって日本の政治家を動かして韓国に外交ルートを通じて抗議したり・・・韓国の教科書を変更させようとは夢にも思いません」【感想】10月2日の日記に書きましたが、私は韓国の国定教科書には一応目を通しました。例えば、日韓関係が良好だった徳川幕府の時代の記述は次の通りです。「日本の徳川幕府は朝鮮の先進文化を受け入れようと、対馬島主を通じて交渉を認めるように朝鮮に求めてきた。朝鮮は、これを受け入れ、制限された範囲内で再び通行することを許したので、両国間の国交が再開された(1609)。・・・・通信使は、外交使節としてだけではなく、私たちの先進文化と技術を伝えてあげる文化使節の役割もあわせてもち、日本文化発展に大きく役立った」このような箇所に怒りを覚えるのだと思います。私はというと、日本に対する韓国のコンプレックスと思いましたので、苦笑という感じでしょうか。【引用】「中国国内で良心的な学者がいて、政府の主張はおかしいと考えても、それを発表することは犯罪になる」【感想】私も含めて民主主義の国から出たことがないと想像しにくいが、中国には言論の自由がないはずです。だから、例えば中国の発表が「かつて日本軍は南京で中国人を30万人虐殺した」と主張していても、そうは思わない中国人もいるはず。たとえば、「人口20万人の都市で30万人は虐殺できるはずがない」と思っていても、堂々と主張できない国であるようです。そのようなニュアンスで、この本にも書かれています。【引用】「中国、韓国の文化つまり儒教文化は死者に鞭打つ文化なのです」【感想】この本によると、日本の文化は「死者は善悪を問わずすべて慰霊されるべきだ」というものとのこと。いま汪兆銘に関する本を読んでいます。汪兆銘は、日中戦争の時に、日本との和平交渉に踏み切った人物でした。終戦の時は既に亡くなっていたのですが、蒋介石政権によって、墓を爆破されたとのことです。確かに、そこまでやるのですかという気はします。以上ですが、読後に書いているため、中国と韓国の悪口的な内容になってしまい、申し訳なく思っています。個人的には、近隣とは良好な関係でありたいという気持ちに変わりはありません。
2004/11/07
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この本は、2001年5月発行です。著者の永沢道雄氏は、1930年、東京生まれの方です。内容は、神風特別攻撃隊の記録文学です。戦況が厳しくなるにつれ、学生も出陣するようになります。その「学徒出陣」を書かれたものです。この本での学徒は、すべて国のために命を捧げる特攻隊員になります。今の国立競技場があるところに、戦前は神宮外苑競技場があったそうです。そこで、1943年10月21日に出陣学徒壮行会が挙行されました。ここからこの記録文学は始まりますが、涙なしには読めない本でした。以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】「練習機に技量未熟の搭乗員をのせて突っ込ませる。まるで在庫品のバーゲンセールのような塩梅」【感想】ここだけ引用すると、ひどい書き方になってしまいました。つまり、戦況が悪化してくると、特攻機が不足して遂に練習機を使うしかなくなってしまった状況です。戦死者が増え、技量のある者をこれ以上失うわけにはいかなくなったという状況です。これ以上は書けませんが、つらい時代だったと思います。【引用】「風船爆弾のほうは2,3月にすでに放流実験に成功し、量産に入ろうとしている」【感想】風船爆弾とは何か知らなかったのですが、気流に乗せて米本土に爆弾を落とすというものでした。実際に、オレゴン州の山林を焼き、6名の方が亡くなったそうです。現在、東京にある江戸東京博物館に、風船爆弾のレプリカがあるとのことなので、見に行こうと思います。【引用】「千人針鉢巻を締め、乾坤一擲男一番の体当たりを決行致します」【感想】ここも涙がでてくる箇所ですが、この千人針を知らなかったので、調べてみました。千人針とは、出征兵士が無事に帰還できることを祈って多数の女性によって作られたもので、日中戦争開始とともに全国的に広まったものとのこと。画像で確認しましたが、なかには5銭、10銭硬貨をつけているものがありました。これは、「死線(4銭)を越える、苦戦(9銭)を越える」という語呂合わせとのことです。
2004/11/06
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この本は、2002年3月発行です。当時は、米国によるアフガニスタン空爆が実行されたあとです。著者のアンヌ・モレリは、歴史学者でブリュッセル自由大学歴史批評学教授です。著者の言う戦争プロパガンダ10の法則は、次の通り。1.われわれは戦争をしたくはない2.しかし敵側が一方的に戦争を望んだ3.敵の指導者は悪魔のような人間だ4.われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う5.われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる6.敵は卑劣な兵器や戦略を用いている7.われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大8.芸術家や知識人も正義の戦いを支持している9.われわれの大儀は神聖なものである10.この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】「たとえ敵対状態にあっても、一群の人間全体を憎むことは不可能である。そこで、相手国の指導者に敵対心を集中させることが戦略の要になる」【感想】これは法則3の記述です。言われてみるとその通りです。先頃の米英国とイラクとの戦争では、米英国はフセイン元大統領に敵対心を集中させていました。相手国の国民の個人性を打ち消すように、仕向けているのでしょう。【引用】「現代の洗脳技術は、かつてゲッペルズが実現できなかった集団幻想よりもさらに遠くへわれわれを導こうとしている」【感想】この後に、この本が目指しているのは、「人々にマスメディアの言論を解釈する力を与えること」と言っています。洗脳されないように気をつけます。
2004/10/31
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今週読んだ『あ・うん』について書きます。著者の向田邦子さんは、1929年に東京で生まれ、1981年に航空機事故で急逝されました。この『あ・うん』のあとがきは、1981年の初夏に書かれているので、亡くなられる直前の作品だと思います。東宝により映画化されたようなので、御存知の方もいると思います。私は、『あ・うん』というタイトルは聞いたことがありましたが、映画化されたことは知らず、本の内容も知りませんでした。この本は、太平洋戦争前の東京を舞台にしています。具体的には、「盧溝橋事件が起きたのは、この半年あとのことである」という一文から、1937年前後です。つまり、著者が8歳前後の時の記憶を頼りに、書かれた作品です。盧溝橋事件の発端となった発砲は何者によるかというと、中国共産党陰謀説が日本国内にはありますが、真相は謎です。ちなみに、扶桑社の新しい歴史教科書(市販本)での記述は次の通り。「北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった」なお、渡部昇一氏の『渡部昇一の昭和史』によると、「盧溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲した」と書かれているます。以下は、気になった箇所の引用と感想です。【引用】「古新聞を丸めて詰めていた。御真影が載っていないかたしかめながら詰めなくてはいけない」【感想】これは靴に新聞を詰める場面ですが、今では考えにくいと思います。ちょっと感動しましたね。【引用】「やめたのではない、やめさせられたのだ」【感想】これは、山本有三の『路傍の石』という新聞小説が、途中で書けなくなってしまったことです。あまり詳しくは書かれていないので、どういう理由でやめさせられたのかわかりませんが、機会があれば読んでみたい小説です。
2004/10/30
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この本は、2002年5月に発行されています。著者の池東旭さんは、1937年に韓国で生まれた方です。「韓日ビジネス代表」との肩書きがあるようです。「韓国を代表する知日派ジャーナリスト」とのことですが、寡聞にして存じませんでした。 この本の前身は、『在日をやめなさいー70万人の優秀なマイノリティに告ぐ』という本です。著者が1997年に書いたものを、今回大幅に書き改めたのが、この『コリアン・ジャパニーズ』です。 一言で言えば、著者は様々な問題点を指摘しながらも、後の世代のことを考えれば、日本国籍を取得するのがよりよい選択だと提案されています。 以下は気になった箇所の引用と感想です。【引用】「幸せに生きることが歴史に対する最高の復讐である」【感想】 この文を2度書かれていますので、強調したかったものだと思います。この文の直後は、「在日が日本で幸せに生きるのが、差別した者に、見捨てた者に対する最高の仕返しだ。悔しかったら幸せになるのだ。」と、激励しているように見受けます。【引用】「彼は、日本で生まれ育ち、朝鮮半島の血を引く自らをコリアンジャパニーズと呼ぶ」【感想】 本のタイトルである「コリアン・ジャパニーズ」の定義と思います。 【引用】「渡来の動機は、気温の寒冷化だ」【感想】 有史以前より大陸から日本列島には、多数の人々が渡来しています。 ここでは米作という弥生文化を伝えた渡来人のことを、言っています。 なぜ朝鮮半島から日本列島に渡ってきたかというと、寒冷化により稲作に不利になったため、温暖な九州に移住する人々が増えたと考えられるようだ。動機は食うためだった。 当然ながら、先住民との争いになったと思われるわけですが、渡来人は青銅と鉄製武器で武装していたようで、先住民を制圧するのはたやすかったと考えられるとのことです。 以前からの隣人同士であり、今後も隣人同士であり続ける日本列島と朝鮮半島。引っ越すわけにいかない隣人同士の付き合いを振り返ってみると、なかなか興味深いものがあると思いました。
2004/10/24
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この本は、今年の3月に発行されました。45人の作家、詩人、歌人、俳人などが文章を寄せています。以下は、気になった箇所の引用と感想です。【引用】「男の戦死者は哀悼されるが、その陰に、結婚すべき相手を失い、ひとりで生きることを強いられた戦争犠牲者たちに、世間も男も気付かなかったのだ。彼女らも、いたわられ、なぐさめられるべき被害者たちだったのに」【感想】松本侑子さん(1963年生まれ 作家)が寄せた文章に出ていました。ただ、上記の引用は、孫引きです。田辺聖子さんの『おかあさん疲れたよ』に書かれていたのを、松本侑子さんが引用したのを、私が引用しました。先の戦争で、結婚適齢期に若い男をうしなって独身で生きた女性が50万人とのことです。戦争によって、人々の運命が変わってしまい、二度ともとに戻らないということです。今まで全く気がつかなかったことなので、新鮮な驚きがありました。【引用】「戦後59年。いまの日本で進行しているのは、かつて体験した地獄の戦場や銃後などは忘れ果て、血を流さなければ国際的に孤立するという自衛隊出兵策です」【感想】澤地久枝さん(1930年生まれ 作家)が寄せた文章に出ていました。満州で敗戦を迎えられた大先輩が書かれることは、さすがに厳しいです。小泉首相は、確か終戦時3歳だったと思います。戦後生まれの首相が誕生する日は、そう遠くはないようです。戦後59年、実に早いものです。
2004/10/23
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先週読んだ鈴木貫太郎について書かれた本のことを書きます。 鈴木貫太郎は、終戦時の首相(1945年4月~8月)を務めた方です。就任時の年齢は78歳。この本によると、「耳が遠くてもいいではないか。政治を知らなくてもよいからやれよ」との天皇の再度のお言葉に、お引き受けになったとのことです。 私は千葉県に住んでいますが、鈴木貫太郎が千葉県関宿町の自宅で亡くなられたことを、今まで知りませんでした。同町には記念館があるとのことなので、今度訪ねてみたいと思います。以下は、気になった箇所の引用と感想です。「2・26事件は、昭和11年2月26日の雪の日、東京で起きた。皇道派の青年将校たちが、かねてからひそかに計画していた叛乱事件である。その思想は、当時の日本の重臣を殺して革命を起こすことが国家改造の早道であること、日本は天皇中心である国という考えにもとづいている」【感想】 当時侍従長だった鈴木貫太郎も襲われ、身に4弾をうけながらも九死に一生を得たとのこと。 もしもこの時命を落としていたら、日本はどうなっていたかと思うと、ちょっと怖くなります。 鈴木貫太郎は、この事件以外にも何度も死にかけたとの記述があり、そういう意味では強運な方だったのかなと思いました。「新聞記事を読む限りでは、日本帝国は全戦全勝、各部隊とも勝ちっぱなし。毎日このような記事を読まされていれば、いつの間にか、気づかぬうちに、日本帝国万歳と思ってしまう」【感想】 これは大本営発表の新聞記事のことです。 当時の筆者は新聞社の社会部記者だったそうですが、内閣情報局の言いなりの記事を書かなければならなかったと振り返っています。 今後もないとは言い切れないので、頭の片隅に入れておこうと思いました。「ドイツ、フランス両国が幾世紀にわたって何回も敗北をくり返しているが、滅亡するということはなかった。それは国家の生命まで涸らしてしまわないからである」【感想】 当然ながら、鈴木貫太郎は戦争末期の玉砕主義を否定しています。 鈴木貫太郎は、夏の暑い盛りを、老体にムチ打って、毎土日曜日、勤労者激励に各工場回りをされたそうです。名古屋の愛知時計など各地を巡視したとのことです。 その時、勤労者の真剣な態度を見て、これなら戦後も大丈夫だと思ったようです。
2004/10/17
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今週読んだ本の感想を書きます。今日は、「知の巨人」と言われる立花隆氏(1940年 長崎県生まれ)の本です。この本の発行は今年の6月です。以下は、気になった箇所の引用と感想です。「ソ連の5ヵ年計画の着実な進行に、世界中が驚かされました。特に、5ヵ年計画がはじまった翌1929年、アメリカで株が大暴落したことからはじまった世界恐慌の波が世界中に及び、どこの国も不景気のドン底においやられたので、ソ連の計画経済の成功は目立ちすぎるほど目立ちました」【感想】 まずはソ連のことです。社会主義は資本主義よりも劣るもので、その証拠にソ連や東欧の国々が崩壊しました。このことに今現在、異論のある方は少ないと思います。 しかし、最初から最後までダメだったかというと、そうではないらしい。この引用箇所で、私は初めて計画経済が順調だった時代があったことを知りました。驚きのあまり、5回ほど繰り返し読んで、しばし黙考してしまいました。 この先を読むと、影響が他国に及ぶ様子が書かれています。即ち、資本主義に計画経済を取り入れたのが、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムとのことです。「終戦時、国債残高1439億円です。このころの国の年間税収が68億円ですから、21年間の税収に等しいということになります。別のいい方をすれば、毎年の税収を1銭も使わずに、全額借金返済にあてたとしても、返済に21年間かかるだけの借金を積み上げて、戦争をやってきたということになります」【感想】 現在の日本の国債残高は540兆円で、これは13年分の税収にあたるようです。つまり、終戦時ほど悪くはないということです。 とは言え、年々悪化していることは間違いのないことです。 そこで、最近発行された(数冊あるはずです)ショッキング本に書かれていることが現実味を帯びてくるわけです。 それは、ハイパーインフレを起こして、借金を全部チャラにしたという終戦後に本当にあったことが、また起こるのではないかと。
2004/10/16
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