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今年は例年になく早い梅雨入りとなりましたが、昨日、今日と梅雨も一休み。特に昨日は爽やかな青空となり、風もさやかに吹いて久々の銀輪散歩も心地良いものでありました。 去り行く5月を惜しみ、本日は青葉で記事構成です。 花園中央公園の桜も青葉が繁り、さやさやと風にさやいでいます。 青葉の風と言っても、風そのものは目に見えないので、桜葉のそよぎでそれをとらえてみようとしたのですが、さて、それを感じて貰えましたかどうか。去り行ける 五月惜しとや さやさやと 青葉の風は 木間吹き行ける (偐家持) 桜木の 青葉の風は 去り行ける 五月がくれる 最後のゑまひ (偐中也)桜木は 花過ぎぬとも 夏青葉 秋もみつ葉の なほしぞ愛(は)しき (偐家持)五月惜しと 我が恋ひ来れば さやぐ葉の 梅雨の晴れ間の 見らくしよしも (偐家持) 五月は、風と共に去りぬ、ですな。 桜葉の 惜しとや風に さやげるは 去りか行くらむ 五月にし 松浦佐用姫 領巾振るなるか。(花園中央公園)(メタセコイア)時鳥(ほととぎす) 鳴き行く方は 知らねども 雨間に青き 空はありける (偐家持)(チャボヒバかな?) こういう常緑の木を照葉樹と言うそうだが、言い得て妙。日に照り輝いてつややかに光る葉、まさに照葉樹です。前日まで降り続いた雨で洗われて、青葉がひと際美しく照り輝いていました。初夏(はつなつ)の 五月(ごがつ)の風と いざ行かな 若き青葉の 日に照るも見む (銀輪家持)(元歌)この雪の 消(け)殘る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 巻19-4226) いよいよ、明日から6月。5月を惜しみて後は、6月も亦よきことの待ちてあれば、これを歓び迎えることといたしましょう(笑)。 (
2011.05.31
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偐万葉・松風篇(その18) 本日は偐万葉第106弾、松風篇(その18)です。長歌を2篇も作ってしまった関係で、字数制限の心配もあり、予定よりも早い掲載と相成りました。 <参考>過去の偐万葉・松風篇はコチラからどうぞ。 松風さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が松風朝臣麻呂に贈りて詠める長歌2首並びに短歌9首春過ぎて 刈られたるかや 芝草の 縞目ぞ夏の しるしなりけり (司馬刈麻呂) うたた寝の 草にひとすじ 風ありて 見やれば銀輪(ちゃり)の をとめかも行く わが苑の 榎(え)の実は鳥の 食はざるか 雨止みたれど 濡れてぞ落ち来(く) (目白麻呂) ママチャリの 母に包まれ 見し景色 雪し降りても 真綿のごとや (中原中麻呂) 滅びゆく もののかたちは うつくしき 草野に朽ちし 古きバケツも (朽麻呂)無惨なと 云ふことなかれ きりぎりす 朽ちしバケツの 陰にしあれば (偐芭蕉) 鶴見緑地の賦光る羽(はね) 風車の丘と 人いへる 鶴見の丘は 春花の 咲ける盛りも 秋の葉の 匂へる時も 夏草の 繁き盛りも 冬雪の 降り来る日にも それぞれの 愛(は)しき色あり 出で立ちて ふりさけ見れば たたなづく 木々のほつ枝に 朝風は さやにぞ澄める 夕風は やはらに吹ける 木(こ)の暗(くれ)の つづらの道は なつかしく もとほり行けば 大池の 水面(みなも)に映す 島山の 影も清めり 行く人の 影も絶えざり こちごちに 花も咲くあり 百鳥(ももどり)も 数多(さは)にぞ鳴ける 神さぶる 生駒高嶺(たかね)も はるけしと 遠み青みて 見ゆるあり 絶えず通はむ 鶴見野の 継ぎて見まくの 欲しき丘なり 反歌ゴミ山の 昔は知らず 鶴見丘 今は木の花 咲くやよき山 木曽川の賦しなざかる 信濃の木曽の 鉢山を 母とやすらむ 神さぶる 木曽の御嶽(みたけ)の 王滝を 父とやすらむ 山峡(やまかひ)を めぐりへ廻り 美濃尾張 伊勢の平野(ひらの)を 潤しつ 揖斐と長良を 従へて とどろの波の 伊勢の海(み)に 注ぎたりける 木曽川は 春さり来れば 咲く花の 寝覚めの床に 散り流る 夏さり来れば 若鮎は さはにた走る 青葉陰(あをばかげ) 秋づきたれば はやばやに 山ゆもみぢの 降りも来て 冬さり来れば 雪深く 尋(と)ふ人絶えて 寝にやつく 川にぞあれり そらにみつ 大和の夜明け 見きとてか 暗き山路の 旅人の 道のしるべと 眺めやる 人も憩へり 古(いにしへ)ゆ 丹(に)の穂満つ田も 菜畑(なはたけ)も みなこの川の めぐみなり 見る人こぞり 褒めよこの川 反歌木曽川の 岸辺に立ちて 眺むれば 水面(みなも)の風は 木間(こま)ゆ光れり木曽川の 春浅ければ 木(こ)の下は 枯草踏める 音のほかなき (注)掲載の絵画は全て松風さんのブログからの転載です。
2011.05.30
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第79回智麻呂絵画展 本日は久々の智麻呂絵画展であります。智麻呂絵画ファンの皆さま、どうぞごゆるりとご覧になって行かれませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(カタクリ) この構図は本ブログ読者なら「あれ、見たことあるような・・」と思われることでしょうが、けん家持が新潟銀輪散歩で撮った写真(「越後・会津銀輪散歩余録・かたくりと雪割草」2011.4.15.)を絵にされたものであります。物部(もののふ)の 八十少女(やそをとめ)らが 汲(く)みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花 (大伴家持 巻19-4143)(躑躅A) ツツジもなかなかの力作。花の表情が生き生きしています。(躑躅B) 次はサクランボ。デイサービスで戴いた題材であります。 今年は早くも梅雨入りとなりました。間もなく6月。6月と言えば桜桃忌。太宰治の誕生日は6月19日でその死体が発見されたのもこの日であったから、この日が桜桃忌とされたそうな。「桜桃」は彼の最後の作品であるが、桜桃とは、サクランボの別名である。 で、友人の凡鬼さんの昨年と一昨年の6月の句集から一句。 電子辞書失せしままなり桜桃忌 (凡鬼2010) 桜桃忌青春の日の苦き澱 (凡鬼2009)(サクランボ) 下左のマーガレットのような花。名は何と言うのでしょう?花弁が先端でくびれたような独特の形です。このような花びらの花は見たことがありません。恒郎女様のお話ではこの花が散った後に咲いた花は普通の花びらで、先端のくびれはなかったそうですから、ひょっとすると花が蕾の間に糸のようなもので花先を括りつけるか何かして、人為的に作り出された形であったのかも知れません、そういうことがもし可能であるのなら。 (真白き花は・・) (薄紅に花は咲きぬる) 上右のピンクの花も名前が分りません。可憐な花です。 (追記2011.5.28.) 本日智麻呂邸訪問。取材の結果、昼咲き月見草と判明しました。(雲丹と烏賊) 花より団子ではなく、花より雲丹・烏賊です。以前にもこの雲丹の瓶詰の絵があったかと思います。「うに食はば~」と戯れ歌を作った(第67回展の童子森の母さんへの返事コメント参照)記憶がありますが、今回は烏賊も一緒ですから、いかなヤカモチも「雲丹食はば萩のを食はね、烏賊食はば辛子和へ食はね~」などと二番煎じすることは止めて置きます(笑)。(注:よく見ると前回も烏賊と一緒でした。)(栗饅頭) 上は、花より饅頭。 下は、花よりお菓子、いや、花より恋ですかな?(白い恋人) 白い恋人は、智麻呂邸のご近所の奥様が北海道旅行のお土産にお持ち下さったものとか、黒い友人のヤカモチは聞いて居ります。(富士山) 智麻呂富士です。富士山の絵は2作目ですな。(1作目は第69回展参照) ヤカモチの富士山銀輪散歩に協賛しての絵らしいです。(シラン) シラン。いかにもシランですな。カタカナで表記するよりも紫蘭と漢字で表記する方が似合う絵の雰囲気ですかな。(ドクダミ) ドクダミの絵は初登場でしょうか。いや、前にもあったかな?何しろもう今回で679点もの絵が展覧会に登場していますので、ヤカモチも全ては覚え兼ねています。 この絵、小生は好きですな。とても存在感があって、力強くて、清らかです。何と言っても、触ってもあの匂いが手に付かないのがいい。絵~っ!(笑)。 写真3枚(「サクランボ」「薄紅に花は咲きぬる」「雲丹と烏賊」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.27
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(承前) 前回は鵜坂神社に到着した処で終ってしまいました。目的の大伴家持歌碑から記事を始めることと致しましょう。(大伴家持歌碑)賣比河の 早き瀬ごとに 篝さ志 八十伴の男は 鵜川立ちけり 見潜鵜人作歌一首 賣比河波能 波夜伎瀬其等尓 可我里佐之 夜蘇登毛乃乎波 宇加波多知家里 鵜を潜(かづ)くる人を見て作れる歌一首婦負(めひ)川(がは)の 早き瀬ごとに かがりさし 八十(やそ)伴(とも)の男(を)は 鵜川(うかは)立ちけり (大伴家持 巻17-4023) 鮎をとっているのであろう、篝火を焚いて鵜飼をしている多勢の男(官人)たちの姿である。瀬音と篝火のはじける音も聞こえて来る。 婦負川(賣比河)は神通川の古名。鵜坂神社の祭神・鵜坂神の姉と妻である姉姫(ねひめ)神、妻姫(めひめ)神に由来する名であるとも。(神馬像)(芭蕉句碑)油断していくな鵜坂の尻打祭 芭蕉の句碑もある。碑には芭蕉「元禄集」より、とあるが・・?。鵜坂神社では、平安時代から、尻打祭という奇祭が明治になって廃止されるまで行われていたらしい。それを詠んだ句のようだが、神社の由緒書には、弟子の其角の句として「あなこわや鵜坂祭の音にむち」という句も記載されている。 この祭は女子の貞操を戒めるため神官が参詣の女性の尻を竜眠木の枝で打ったものとのことだが日本五大奇祭として全国的に有名であったらしい。明治になって、女性の代りに牝馬が打たれ役を務めるようになったらしいが、二次大戦後はそれも行われなくなったとのこと。(鵜坂寺跡) 奈良時代から神仏習合が広まり、当神社にも真言宗の鵜坂寺が建立され隆盛を誇ったそうだが、衰退し、明治3年の廃仏稀釈で廃絶したそうな。社務所の裏に鵜坂寺跡の表示がひっそりと立っている。 さて、歌碑探訪は終了。婦中大橋を渡って右岸の自転車道をサイクリングすることと致します。(婦中大橋) 婦中大橋を渡ると右に富山空港がある。橋の途中で間違って中洲のような処に下りてしまい、ぐるり一回りして橋に戻るなどもありましたが、長い橋である。(婦中大橋から見る神通川)(神通川自転車道) 河川敷の自転車道に入り、海方向に走る。(ハルジオンと有沢橋) ハルジオンが咲き、チガヤ(浅茅)の穂が銀色に光る。チガヤは花穂が開く前をツバナ(チバナ)といい、食用にもしたらしい。噛むと甘いらしいが、勿論このように穂が開いてしまっては、「噛んではいけない」(笑)のである。チガヤ、チバナの「チ」は「チ(茅)の輪」のチ、「チマキ(粽)」のチでもある。 万葉集にも沢山歌われているが、ここは紀女郎と家持との軽妙な掛け合いの歌を掲載して置きましょう。戯奴(わけ)がため わが手もすまに 春の野に 抜ける茅花(ちばな)を 食(を)して肥えませ (紀女郎 巻8-1460)わが君に 戯奴(わけ)は恋ふらし 賜(たば)りたる 茅花(ちばな)を喫(は)めど いや痩(や)せに痩す (大伴家持 巻8-1462)(チガヤ<つばな>と富山大橋)(同上 浅茅が原と言う方がいいですかな。)(富山大橋と路面電車)(自転車道、奥の青い橋は神通大橋) 神通大橋を潜るとJR北陸本線の鉄橋。傍らでは只今北陸新幹線の工事中です。(神通川、中島大橋<国道8号線>或いは富山北大橋かも?) 国道8号線を潜った処で河川敷から堤防上の道に移り、木陰で小休止。(神通川 下流海側を望む。) 海は未だまだ先であるが時計を見ると12時。食事のために駅前の方に戻る。昼食後、ホテルに預けてあった荷物を受け取り、自転車を宅配便で自宅に送り、予定より早いが帰宅準備に入ることに。(家餅)(万葉歌まくら) 喫茶店で時間潰しをした後、土産物店街をブラブラ。中味はいざ知らず、名前だけで、上の2品を買い求めました。「家餅」とあっては買わない訳には行かない。「歌まくら」の方も家持の絵が描いてあったのでついでに・・(笑)。(富山駅3番ホーム 特急サンダーバード) サンダーバードがやって来ました。これにて今回の銀輪万葉すべて完結であります。最後までお付き合い下さり、有難うございます。<前篇>神通川銀輪万葉(その1)<追記・注>写真1枚(「家餅」)が横倒しになっていたので、2020年11月2日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.26
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(承前) 5月20日は魚津ー富山間の銀輪散歩でありましたが、本日21日は神通川銀輪散歩であります。と言っても午後3時過ぎの列車で帰阪する予定なので、そう遠くへは行けない。駅前のホテルをチェックアウトして松川沿いを神通川方向へ走る。 先ず目指すのは呉羽山を越えた峠茶屋三叉路にあるという高市黒人の歌碑である。(松川沿いの桜並木の道)<参考>松川桜木の 青葉の道ぞ 松川は 名のみし松の 桜川なり (偐家持)(松川。奈良の佐保川に似た眺めである。) 松川に別れて県道44号線に入る。直ぐに神通川である。富山大橋にさしかかると、路面電車がやって来た。自転車を停めてパチリ。路面電車は風景を和ませ、趣のあるものにしてくれる。(富山大橋) 橋を渡ると道はゆっくり右にカーブし、やがて呉羽山への長い登り坂となるが、勾配がそれ程でもないので、楽に行ける。 呉羽山は、司馬遼太郎「街道をゆく」の「郡上・白川街道と越中諸道」の中でも述べられているが、呉東・呉西とこの山を境に富山県を関東文化圏と関西文化圏とに分かつ人文的な分水嶺の山なのだそうな。(峠茶屋への道)(呉羽山) 坂を登り切った処が右・呉羽山公園、左・城山公園の入口になっている。この山を歩いたのはもう10年以上も昔のことになるが、今回はパス。峠から少し下ると峠茶屋。三叉路の中央に高市黒人の歌碑はあった。(高市黒人万葉歌碑) 歌碑は老朽化し、その台座の一部も破損していて痛々しい。文字も殆ど判読できない。黒人さんは見捨てられて居りますな。賣比能野能 須須伎於之奈倍 布流由伎爾 夜度加流家敷之 可奈之久於毛保遊婦負(めひ)の野の 薄(すすき)押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しくおもほゆ (高市黒人 巻17-4016) この歌の末尾の句は於毛保遊(おもほゆ)と於毛倍遊(おもはゆ)の2通りあるのだが、こちらの歌碑は前者によっている。ススキを押し倒して降り積もる大雪の中、夕暮れて旅の宿りをする黒人の寂寥感が迫って来るいい歌であるが、初夏の車の行き交う三叉路ではそれを偲ぶよすがもなきことなれり。 <参考>高市黒人 婦負郡 黒人の歌碑から来た道を取って返す。来る途中で目にした五福公園で少し休憩。アカシアの花とカエデの種子が目に止まったので、写真に撮る。(アカシア)(カエデの種子) 富山大橋西詰で右折、左岸堤防の道を上流へと行く。目指すは鵜坂神社と堤防上にあるという家持歌碑である。(神通川左岸から眺める富山大橋)<参考>神通川(神通川に右から井田川が注ぐ。)(井田川。神明橋上から。奥は神通川)(有沢橋) 有沢橋を過ぎ、次の婦中大橋の手前に歌碑と鵜坂神社がある筈。堤防の道は風が心地良いが、車が結構走るので要注意だ。(神通川堤防の万葉歌碑)宇佐可河泊 和多流瀬於保美 許乃安我馬乃 安我枳乃美豆爾 伎奴奴禮爾家里 婦負郡鵜坂河の辺にして作れる歌一首鵜坂川(うさかがは) 渡る瀬多み この吾(あ)が馬(ま)の 足掻(あが)きの水に 衣(きぬ)ぬれにけり (大伴家持 巻17-4022) 早月川では鐙を濡らした家持、神通川では衣まで濡らしてしまいましたか。鵜坂川は神通川の古名(もっとも支流の井田川だという説もある)。歌碑から直ぐに鵜坂神社はある。境内にも家持の歌碑がある。(鵜坂神社)<参考>鵜坂神社 (本殿) 文字数制限の限界近くになりましたので、ここでページを改めます。続きは(その2)に記載します。<続編>神通川銀輪万葉(その2)<追記・注>写真2枚(「高市黒人万葉歌碑」<縦長タイプ>と「神通川堤防の万葉歌碑」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.25
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(承前) やっと常願寺川にやって参りました。この川を渡ると自転車専用道がある。車を気にせず走れるのが何と言ってもいい。ここからは神通川の手前、岩瀬にある諏訪神社の大伴家持歌碑を目指しての銀輪散歩である。(常願寺川)(常願寺川河口。今川橋の上から。) 河口に架かる今川橋を渡ると富山朝日自転車道の入口である。この自転車道は富山から滑川、魚津を経て朝日町へと至る自転車道なのであるが、途切れ途切れになっていて完成していないので、今回も魚津、滑川ではその一部を走っていると思うのだが、いつの間にか一般道になっていたり、他所者にはよく分らないのである。しかし、ここから先はよく整備されているので、出口までのわずか2km程の短い距離であるが、しばし「銀輪家持」に専念という次第。(富山朝日自転車道) 赤い橋が今川橋。舗装された部分が自転車道。(富山朝日自転車道、浜黒崎キャンプ場付近) 上の写真は振り返って撮ったもの。進行方向には海は右側、松林は左側である。松林の中にはダイコンの花が咲き群れて美しい。道は松林の中を通り抜けたり、快適である。(キャンプ場の松林)(松林の中にはダイコンの花が咲いて・・)(松林の中を走る)(やはりダイコンの花が目を引く) (自転車道出口・古志) 自転車道から出ると県道1号線。右に折れて県道1号線を西へ進む。道の右手すぐに何やら石碑がある。「古志乃松原」と刻まれていて、脇に説明板がある。「越」は「高志」とも書くがこの辺りの町名は岩瀬古志町。(古志の松原記念碑) 県道1号線を道なりに西へ行くと富山ライトレールの岩瀬浜駅前の交差点に出る。そこで行き合った大学生風の若者4人組に「諏訪神社は何処にありますか?大伴家持の石瀬野の万葉歌碑がある神社なんだけど。」と尋ねるが、「知らない。」と言う。「万葉のことも少しは勉強してよ。地元なんだから。」と言うと、「僕たち東京です。」との答。「これは失礼しました。」と笑い合って別れる。 駅前の案内板に周辺地図の表示があり、諏訪神社の所在位置を確認。(諏訪神社) 諏訪神社は岩瀬浜駅の次の駅、競輪場前駅の西側にある。駅の東側は富山競輪場。ここの歌碑の家持は「銀輪家持」ですな。 上の写真では「影持」も写ってしまいましたが、もう日が傾いて影が長くなっているのが分かる。家持の歌碑は鳥居の前にあった。(大伴家持歌碑)伊波世野爾 秋芽子之努芸 馬並 始鷹狩太爾 不為哉将別石瀬野(いはせの)に 秋萩凌(しの)ぎ 馬並(な)めて 始鷹(はつと)狩(がり)だに せずや別れむ (大伴家持 巻19-4249) この歌は天平勝宝3年7月17日少納言に選任され、いよいよ帰京することとなった時に作った歌。掾官の久米広縄と別れを惜しみたかったが、彼は朝集使として上京中であったので、その館におもむき、悲別の歌を2首残して来たものの1首。家持にとっては栄転であり、帰京が叶うのであるから、その喜びは大きかっただろうが、越で親交を結び共に過ごした人々と別れなければならないことの悲しさ、寂しさはまた別のもの。部下でもあった広縄と別れを惜しみたかったのだろうが、上京中とあってそれも叶わないので歌を留守宅に託して来たのである。時に家持34歳。 この時のもう一つの歌は次の通り。あらたまの 年の緒長く 相見てし その心引 忘らえめやも (同巻19-4248) 広縄に会えないまま出発した家持であったが、越前の国で京から帰ってきた広縄と再会する。場所は越前の掾、大伴池主の館である。家持が越中国守に赴任して来た時に越中の掾官であったのは池主であったが、その後越前の掾に転任し、後任の掾が広縄であった。そんな因縁の3人が偶然に池主の館で再会することとなったのである。 この時に広縄が家持に贈った歌と家持が返した歌。君が家に 植ゑたる萩の 初花を 折りて插頭(かざ)さな 旅別るどち (久米広縄 巻19-4252)立ちてゐて 待てど待ちかね 出でて来(こ)し 君にここに遇(あ)ひ 插頭(かざ)しつる萩 (大伴家持 巻19-4253)(諏訪神社拝殿) 家持の歌碑に別れ、富山ライトレールに沿ってJR富山駅までひたすら走る。ホテルは駅前である。<参考>富山ライトレール (東岩瀬駅) モダンな電車と古い駅舎のミスマッチがいい。(東岩瀬駅舎) そして、これはオマケ。駄洒落の自動販売機。こういう類いのナンセンスものはヤカモチの好みでもある。大阪にもあるのかな?で、「出たな、ラムネ味」の仮面サイダーを呑みました(笑)。シュワッチ。(ウルトラウォーター、仮面サイダー、ゴレンシャー) これで、魚津から富山へ銀輪万葉、完結です。長らくお付き合い下さり有難うございました。明日は「神通川銀輪万葉」です。<関連記事>魚津から富山へ銀輪万葉 (その1) (その2) (その3)
2011.05.24
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(承前) ハマナスの咲いていたハマナス公園の辺りの海岸線は和田の浜と呼ばれ、戦国時代の古戦場であったとのこと。(和田の浜 右手がハマナス公園) 海沿いに400mほど南西に行くと左手に神社。 櫟原神社である。 <参考>檪原(いちはら)神社 当地の東方1.5km柳原地区にも檪原神社があり、どちらを本宮とするかで争いがあったらしい。(社殿) 檪原神社から200mほど進むと「芭蕉翁おくのほそ道宿泊のまち」と刻まれた碑があった。曽良旅日記の(元禄2年<1689年>)7月13日の記事には、「昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑河ニ着、宿。暑気甚シ。」とあるが、この宿が当地にあった旅籠・川瀬屋であったらしい。わせの香や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ) (芭蕉「おくのほそ道」) この説明文で、徳城寺が何処にあるのかと探してみるが見つけられず、句碑は見ること叶わずでありました。帰宅してから調べると200mほど内陸に入った処にありましたが、時既に遅しであります。 芭蕉の頃は防波堤もなく稲田の道を行くと荒磯の海が右手はるかに見えたのでありますな。芭蕉と曽良も歩いたのであろう、荒町のほそ道をヤカモチは銀輪で行くのでありました。(荒町の町並) 荒町を過ぎて小さな水路を渡ると、地元の人が万里の長城と呼ぶらしい巨大な防潮堤が続く小路に入る。小路を出た処に立山大岩道しるべ。立山に信仰登山する人々への道案内の道標とのこと。この先の加積雪嶋神社の境内にも2基あるとのことであったが、見落としました。(大岩道しるべ)(加積雪嶋神社・社標)(同上) 神社の境内は祭の準備中のようでしたが、地元の方のブログで偶然その祭の様子などが紹介されているのを見つけましたので、リンクして置きます。<参考>防潮堤に祭の絵 露店にウキウキする 子供たちがやって来る 神輿の一行が帰ってきたらしい 神輿の登場 神輿の車輪 神社に戻った神輿 加積雪嶋神社を出て暫く行くと、加島町か領家町かどちらの町域になるのか知らぬが諏訪神社という小さな祠があった。何やら祭のようなので覗いてみると、神輿から神様が祠にお帰りになられた処のよう。モオオオ~という声でそれと分かったので、お邪魔をしてはいけないと鳥居の陰から見ていると、村人のお一人が手招きをされ、「こちらに来い。」という仕草。それで小生も参列させて戴いた。写真は無事に神様が祠にお入りになって片づけが始まった処です。 この先の加茂神社でも境内に露店が出ていたから、この地域はこの土日に一斉に祭となるようだ。来るのが一日早かったかな。道脇の家々には祭礼の飾り付けがしてある。飾りは3本と決まっているようだ。(格子に祭飾りと提灯が似合う。) 祭礼の一部にも参加させて戴き、愉快な気分で先へと進む。(上市川) 上市川を渡って2分ほど行くと富山市に入る。更に8分ほど行くと広い河口に出た。常願寺川かと思ったが、行き合った地元の人に聞くと、白岩川で、常願寺川は未だ先とのこと。(白岩川) 奥の橋を渡った処で上流を撮ったのが下1枚目の写真。 下2枚目はこの道を左に曲った処にある常夜灯の写真。(水橋港はしけ場跡) 常願寺川まであと300mほどの地点までやってまいりましたが、本日はここまでとします。(その3)で完結する予定でしたが、(その4)までかかることとなりました。<関連記事>魚津から富山へ銀輪万葉 (その1) (その2) (その4)<追記・注>「加積雪嶋神社・社標」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.23
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(承前) 角川を渡って1kmほど走ると、魚津総合公園である。大きな観覧車のあるミラージュランド、県道を挟んで水族館がある。この水族館の南西側に大伴家持の歌碑がある。この歌碑とその歌に歌われた早月川を見るのがヤカモチの目的である。(大伴家持万葉歌碑)(同上)立山(たちやま)の 雪し来(く)らしも 延槻(はひつき)の 川の渡瀬(わたりせ) 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも (大伴家持 巻17-4024)(歌碑の奥の林を抜けると早月川<延槻川>である。) 早月川の河原に出てみると、水は、ライトブルーの、水色と言うしかない美しい青さで、ほとばしり流れている。瀬音もさやさやと軽く清々しい音なのである。見返るとはるかに立山の雪の頂も見えるとあれば、大伴家持も雪の峰々を見やって、「雪し来らしも・・」と口について出たのだろうか。滔々とたぎち流れる川の瀬音も春の到来を喜んでいるように聞こえたことであろう。(早月川) 河原に桐の木があった。花が咲いている。はひつきの川の水の色にも似たすがしい花の色である。既に実も生っている。(桐) 川に架かる橋は「早月橋」。橋の上から川を眺めてみようと、県道に戻ると道の反対側の遊園地の観覧車が空を圧している。JR北陸線の列車の中から遠目に何度も目にしている観覧車であったが、早月川畔に位置していたのですな。(観覧車) 閑話休題。早月川に戻ります。早月橋へと自転車を走らせる。(早月川) 写真左手にかすかにではあるが、雪の立山連峰が写っている。空気がもっと乾いて澄んでいれば、青空にくっきりと山容が望めたのだが・・。早月の 瀬音さやけみ いにしへを しのへと色も 青くやあらむ (偐家持)(たぎち流るる水清み・・)(橋を半分位渡った場所がビューポイントのようです。)(早月橋) 早月橋を渡って暫く県道を走るが、やはり海辺が走りよかろうと、津田板金工業の前で右折、海岸へと向かう。滑川浄化センターが右手にあり、その先はもう海岸である。どうやら滑川市に入ったようだ。早月川が魚津市と滑川市の境界であったのかも知れない。景色に見とれて標識を見落としたよう。 海岸に出るとまた突堤の道を走ることとする。突堤に上れる場所に可憐な見慣れない花が群れ咲いていた。(何という花でしょう?)<5月23日追記>小万知さんからマンテマという帰化植物とご教示戴きました。(滑川から富山への道) 次に目指すのは常願寺川。これを渡ると歩行者・自転車専用道がある筈。(同上)(海面が日に輝いて・・)(ひたすら富山市へ。常願寺川を目指す。) やがて、滑川港に到着。(滑川港) 風は心地良いが、日の照る下を走っていると、汗、汗、汗である。こまめに水分を摂る。そして、花も写真に撮る(笑)。ハマダイコンの花が群れ咲いていた。コバンソウもさらさらと風に揺れていた。(ハマダイコン)(同上)(小判草)(ハマナス)(同上) 上のハマナスは道の駅「ウェーブパークなめりかわ」に隣接する「はまなす公園」に咲いていたものであるが、常願寺川の先の自転車専用道に入ってから見かけたハマナスは白い花でした。白い花のハマナスを見るのは初めてのことでありました。(白いハマナス) 常願寺川には未だ着かぬが、(その2)はここまでとし、続きは(その3)にページを改めます。<関連記事>魚津から富山へ銀輪万葉 (その1) (その3) (その4)<追記・注>写真2枚(縦長の「同上(大伴家持万葉歌碑)」と「小判草」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月2日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.23
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20、21日と魚津から富山へ蜃気楼ロードを銀輪散歩して参りました。いくつかの万葉歌碑を訪ねつつ海辺を銀輪散歩しようというものであります。JR魚津駅下車。駅前でトレンクルを組み立て出発。(魚津駅) 駅前から雪を戴いた立山連峰が見える。(魚津駅前) 地下通路で駅の北(海)側に出て、先ず「懐かしの灯台塚公園」にあるという大伴家持の歌碑を目指す。海に出ると望遠レンズを構えた人がいる。「蜃気楼ですか?」と声を掛けると、「今日は駄目だ。」と仰る。(懐かしの灯台塚公園) 「懐かしの灯台塚公園」は草むしりのボランティアの人達で一杯。作業のお邪魔にならないように、写真を撮る。「蜃気楼を見に来たのか。」と仰るのに「いいえ。」と答えると悪い気がして、「ハイ。」と言うと、「今日は駄目だ。昨日ならB級の蜃気楼が見えたのに。」とのこと。「そうですか。それは残念なことです。」と失望して見せるヤカモチでありました(笑)。 そう言いつつ、傍らの大伴家持の万葉歌碑をしっかりと写真に。(大伴家持万葉歌碑)越の海の 信濃の濱を 行き暮らし 長き春日も 忘れておもへや (大伴家持 巻17-4020) この歌は天平20年春正月29日に家持が作った歌4首のうちの1首。歌碑の方は何故か「長き春日も」が「長き春日を」と間違って刻まれている。左の白文の方は「奈我伎波流比毛」と「乎(を)」ではなく「毛(も)」になっているのだが。(蜃気楼ロードから海を望む。) 突堤には双眼鏡を構える人、望遠レンズでカメラを覗く人。蜃気楼目当ての人が何人も居られるが、今日は「大蛤さん」もご機嫌うるわしくないようですな。いづれにせよヤカモチの弱い視力では蜃気楼なんぞ見える筈もないのであります。突堤を富山方向へと走る。(突堤の道) 天気も好し。風が心地よい。海の駅蜃気楼、魚津埋没林博物館を過ぎ、魚津港に。浮玉と漁船のかもす景色も旅人の目には新鮮である。(魚津港)(同上) 漁港の先で道を右に取り、海沿いを行くと諏訪神社があった。突堤には車を停めて双眼鏡を持って海を見ている人がここにも何人かがいる。この道を走る人は皆、当たり前のように双眼鏡を車に備え置いているようですな。海を指して、沖合いに塔のようなものが見えるという。あんな処に塔がある筈もないから蜃気楼に違いないと言う。しかしヤカモチの目にはそれらしきものは何も見えない。カメラを構えて写してみるが勿論何も写らない。ただ茫洋とした海があるばかり。(諏訪神社) 更に行くと小さな川に出る。角川である。突堤の「道」はここで行き止まり。昔はこの角川の河口が魚津港であったそうな。川に沿って左に入ると万燈台があった。慶応4年(1868年)に建設された魚津港最初の灯台であるそうな。(万燈台) 米騒動の発祥となったという米倉と魚津城跡へは、少し来過ぎていたようなので、一つ内側の道を引き返す。(旧十二銀行倉庫・米騒動の発端となった米倉)(米騒動発祥の地の碑)<参考>1918年米騒動 何故か撮った写真がモノクロ写真のようになっている。コンデジカメラもタイムスリップしたようだ(笑)。米倉建物の前の三叉路を上がって行くと大町小学校の通用門に突き当る。ここが魚津城のあった場所とのこと。同小学校の正門横には魚津城跡の石碑が設置されている。通用門脇の校庭には上杉謙信の歌碑もある。<参考>魚津城の戦い 魚津城 (魚津城跡碑) (上杉謙信歌碑)もののふの 鎧のそでを かたしきて まくらに近き はつかりの声もののふの 鎧の影も かき消えて われに返れば わらべらの声 (偐家持) 魚津城は上杉・織田戦争で織田軍に包囲され落城する悲劇の城であるが、今はその一角を校庭とする大町小学校の児童たちの明るい声が響き渡っている。 城を出て、いや、小学校を出て南西に向かうと先程の角川に出る。角川書店の名はこの角川に由来するとは、今回初めて知りました。なかなか風情のある川である。遠く立山連峰も見える。<参考>角川 (角川) この後、海沿いを更に南西へ、早月川を目指すのでありますが、本日はここまでとします。<続篇>魚津から富山へ銀輪万葉 (その2) (その3) (その4) <追記・注>写真5枚(縦長の「万燈台」「米騒動発祥の地の碑」「上杉謙信歌碑」<2枚>「角川」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月4日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.22
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昨日(17日)は八尾市方面へ、南方向の銀輪散歩。 花園中央公園に立ち寄った後、恩智川沿い、途中から玉串川沿いに銀輪散歩して参りました。 当ブログをお気に入りにご登録戴いているブログ友のアメキヨさんが、先日エゴノキの花の写真をブログに掲載されていました。この木、花園中央公園にも何本かある。先ず、その花を見むと、立ち寄ってみることにしました。今年はこの花を未だ見ていないことに、彼女のブログで気付かされたからであります(笑)。(エゴノキ) 公園の木は、それほど大きな木ではないのだが、4~5本植わっている。既に散り始めているようだ。木の下が白くなっている。(エゴノキの花) それでも、木には未だこのようにいっぱいの花が。もう少し近付いてみましょう。(同上)<関連記事>エゴノキ(ちさ)の花が咲いた 2008.5.6. エゴノキ(ちさ) 2007.8.11.(同上) 万葉集巻18-4106の大伴家持の歌に出て来る「知佐の花」は、エゴノキの花と考えられている。 この家持の歌は、部下である尾張少昨(をはりのをくひ)が佐夫流兒(さぶるこ)という遊女に夢中になって妻を顧みなくなったので、彼を教え諭した歌であるというのが面白い。 (歌の全文は上の関連記事「エゴノキ(ちさ)の花が咲いた」に掲載していますのでご参照下さい。) まあ、小生は教え諭したと言うより、宴会でからかったのではないかとも思うのであるが・・(笑)。()()(同上) エゴノキの隣にはミヤマトサミズキが実を付けていました。(ミヤマトサミズキの実)(同上) そして、少し離れた処にはシランが咲いていました。シランは万葉歌には登場しませんが、巻17-3967の歌の序文に「・・あに慮りきや、蘭とけいとくさむらを隔てて・・」とある「けい」(原文は草かんむりに恵という字)がこのシランだという。<関連記事>紫蘭(シラン)、定家蔓(テイカカズラ) 2008.5.2.(シラン)(同上)(同上) 花園公園を出て、定番の恩智川沿いの道を走る。途中で左折、西に向かい、玉串川沿いの道に移り、更に南へ。やがて、西へとカーブして来ている外環状道路にぶつかる。外環状道路を暫く行くと八尾市都塚付近で道路の反対側左手に神社の森らしきものが目に入る。横断歩道のある場所で横断しようとするが信号が赤になってしまう。待てないヤカモチは、帰途に立ち寄ることとし、右折して脇道に入る。出鱈目に走っている内に以前来たことのある弓削神社に出くわした。(弓削神社) 弓削氏は、ニギハヤヒを祖とする物部氏(石上氏)の配下にあった氏族である。蘇我・物部戦争で蘇我氏にしてやられた物部守屋は母方の姓に因んで、物部弓削守屋とも言うが、守屋の後裔は弓削氏を名乗っている。 弓削氏は河内国若江郡弓削郷(現大阪府八尾市弓削町付近)を本拠地とするが、何と言っても有名なのは、称徳天皇に寵愛され権勢を誇るも、その死と共に失脚、下野に左遷されてしまう、怪僧・道鏡であろう。(同上) 下の説明板によると、河内国では枚岡神社、恩智神社に次ぐ神社であったそうだから、この神社の南西志紀駅を挟んで反対側の弓削町にあるもう一つの弓削神社と一体の大きな神社であったのかも知れない。 弓削神社から少し南に行くと外環状道路。もう一つの弓削神社と八尾空港でも回ってみるかと思うが、空の雲行きが何やら怪しいので引き返すことにする。道路の反対側に渡り、往路で見かけた祠に立ち寄って行くことにする。(都留美嶌神社) この神社の祭神は闇(くら)御(み)津(つ)羽(は)大神。闇御津羽(くらみつは)(闇罔象)は、伊邪那岐命が迦具土(かぐつち)(軻遇突智)の首を十拳(とつか)(十握)の剣で斬った時に、剣から滴り落ちた血から色々な神が生まれているが、その神の一つである。 闇御津羽の「闇」は、谷あいの意味。「御津羽」は、水の意味で、谷を流れる水の神ということになる。雨乞・止雨の霊験ありとされる神である。(同上)<参考(2011年5月19日追記)> 「復(また)剣の頭(たかみ)より垂(しただ)る血、激越(そそ)きて神と為(な)る。号(なづ)けて闇(くら)?(おかみ)と曰(まう)す。次に闇山祇(くらやまつみ)。次に闇罔象(くらみつは)。然(しかう)して後(のち)に、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。」(日本書紀神代上第5段)(<追記・注>縦長写真の「エゴノキ」が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月3日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.18
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偐万葉・nanasugu篇(その4) 本日は久々の偐万葉・nanasugu篇であります。昨年の10月以来となる(その4)であります。 <参考>過去の偐万葉・nanasugu篇はコチラからどうぞ。 nanasuguさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がnanasuguの郎女に贈りて詠める歌19首よき人に よき犬よく見て よしと言ひし よき人よく見よ よき犬よく見つ (大犬皇子(おほいぬのみこ)) (元歌)淑(よ)き人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見つ(天武天皇 巻1-27) ぬばたまの 黒髪山は 妹と来し 道にしあれば 恋ひて来にけり冬立ちぬ いまはた恋(こほ)し もみぢ葉の 日に照るも見む 奈良山のみち顔だけは 神の使ひの 白なりて しかとはふみも 見んで奥山 (顔鹿白麻呂(かほしかしろまろ))瑞兎(みづうさぎ) 跳ねてめでたき 瓢箪と 南瓜(カボチャ)並べむ 春の迎へは (ウサギ猫) 春されば まづ咲く梅の 花やよし 見つつ愛でつつ 日もや過ぐさむ (偐憶良)みちのくの ひとにしとどく わぎもこの やさしきおもひ うみしへだつもユキヤナギ 咲きぬるなへに 春風の やはらにそより かの地にも吹けみちのくに きみしうゑけむ うめのきの めぶきてはるは いまそこしありおだやかな 日々うばはれし ひとびとの ありうらうらの はるひもかなしGAMBATTE うみのかなたゆ とものこゑ さはにしあれり なゐにな負けそ (注)なゐ=地震 な~そ=~するな サンシュユの 花の香いかにと 尋(と)ふ人の あれどヤカモチ 嗅がず来にける (鼻づまり家持)みちのくの 人にぞ添はな 月明かり 世界の人と われも灯(ひ)消さむタイにては 助けたいとや 象もまた 我らにくれる 力のあれる (象潟夫人) いのちある ものみな生きよ われらみな ともにし今を 地球にあれば (Same Boat)願はくば 花の下にて 春見むや わが恋妻の われにし笑むを (南行苦行)なぬなぬと ナノも読むらし 被災犬 救はれ安堵の 春の知らせは (ナノ麻呂) 我がために 祈りをくれる ひとあるを ひとな忘れそ 幾代経(ふ)るとも藤娘 恋をすなるか 智麻呂に 知らぬ画伯は 絵を描くばかり (朴念仁) (注)掲載の写真はnanasuguさんのブログからの転載です。
2011.05.17
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(承前) 広見公園に行く途中で見事な藤の花を見かけましたので、ご紹介して置きます。雨なれば ふじは見えねど ふじの花 ふじの道の辺 咲きて濡れけり (藤子不二麻呂)(藤の花)(同上) 藤の花の傍らの草むらには、母子草が咲いていました。(ハハコグサ) さて、最終の13日になってようやく天気も好くなり、立ち昇る雲の上から富士山が顔を出しました(5月13日の日記参照)。ということで、13日は国道139号線を田子の浦港の赤人万葉歌碑を目指して銀輪を走らせるのであるが、日記に洩れた写真を少しばかり掲載して余録とします。途中、139号線から外れて、JR富士駅と新幹線新富士駅を回っての遠回りをするのでありましたが、さしたる発見もなし、でありました(笑)。(JR富士駅)(東海道新幹線・新富士駅) それでも、139号線を走っている時に出くわした源立寺という寺には、北条氏政の首塚がありましたので、これをご紹介して置きます。(源立寺)(本堂) (北条氏政の首塚) <参考>北条氏政 北条氏政は後北条氏最後の当主。秀吉の天下統一に際して臣下の礼を取らなかったことから、秀吉に攻められ、戦に敗れ切腹させられる。 その辞世の歌は下記の通り。雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風我が身今 消ゆとやいかに おもふべき 空よりきたり 空に帰れば 氏政の首塚が小田原でもなく、曝し首にされた京都でもなく、富士市の源立寺にある理由は下掲の写真の説明板の文章をお読み下さい。(源立寺門前の説明板)<関連記事>富士山と山部赤人万葉歌碑 富士山本宮浅間大社へ 曽我寺から広見公園万葉歌碑へ<追記・注>縦長写真の「北条氏政の首塚」が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月5日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.16
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(承前) 松岳寺から少し南へ下った処に神社があった。立ち寄ってみると入山瀬浅間神社。富士浅間五社の一つとある。(入山瀬浅間神社) 本殿の隣に風情のある塔があったが、これは殉国者慰霊塔でありました。本殿の傍らで休憩されている男性が居られたので、尋ねてみると、明治時代に建造されたものであるとのこと。(鷹岡殉国者慰霊塔) 国道139号に戻るべく東へ道を取ると曽我寺があった。「曽我兄弟の仇討ち」で知られる曽我兄弟の墓所がある寺である。<参考> 吾妻鏡 曽我物語 (曽我寺)(本堂) 狭い境内であるが、曽我兄弟の墓、同兄弟の像や可愛い仏像(?)もあるほか、山門前には身代わり地蔵もあって盛沢山の寺である。(曽我兄弟墓所) 「曽我兄弟の仇討ち」は、「赤穂浪士の討ち入り」、「伊賀越えの仇討ち」(荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘)と並ぶ日本三大仇討ちの一つであるそうな。事件は、源頼朝が行った富士の裾野での狩の際に、これに参加していた仇の工藤佑経を兄弟が襲って、討ち果たし、その後に殺されたというものであるから、兄弟の死亡場所も富士の裾野。この辺りに墓があってもおかしくはないのだろうが、曽我兄弟の墓は関東から九州にかけて全国に14か所もあるらしい。仇役の工藤佑経の墓もこの曽我寺の近くと富士宮市・白糸の滝の近くにあるようだが、今回は回っていない。(曽我兄弟像)(左から、「親を思う心」、「兄弟愛」、「一念」)(身代わり地蔵尊) このお地蔵さんは皮膚疾患専門医のようにて、お願いをして振り返らずに帰ると皮膚疾患を治して下さるそうな。(たまご) 国道139号に戻って走っていると大きな卵が道脇に。ちょっと気分転換に掲載して置きます。 国道が西富士道路とぶつかる地点で左折、西富士道路に沿って北方向へ2kmほど行くと広見公園がある。下調べではここに万葉歌碑がある筈。(広見公園入口) 万葉歌碑は、この階段を上って正面にある像の処を右に入るとある。歌碑から下って行くと歴史民俗資料館で、周辺の木立の中に古民家などの重要文化財建築物が移設保存されている。(万葉歌碑)天の原 富士の柴山 木(こ)の暗(くれ)の 時移(ゆつ)りなば 逢はずかもあらむ(巻14-3355) 万葉集巻14には238首の東歌が収録されている。遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥の国々の民衆の歌である。この歌碑の歌もその一つである。 赤人の富士は旅人の見た感動的な雄大荘厳な山であったが、この地に暮らす民衆にとっては富士山も焚き柴を採る山であり、その木陰は男女がデートする場であったのですな。 この歌の後にも同様の富士山の歌が3首続いているので、それも掲載して置きましょう。富士の嶺(ね)の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによばず来(き)ぬ (巻14-3356)霞ゐる 富士の山傍(やまび)に わが来(き)なば いづち向きてか 妹が嘆かむ (巻14-3357)さ寝(ぬ)らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴澤(なるさは)のごと (巻14-3358) 以下は公園内の展示保存建物のうちのいくつかです。(旧稲垣邸)(旧杉浦医院)(眺峰館)(樋屋代官長屋門)<参考>富士山と山部赤人万葉歌碑 富士山本宮浅間大社へ 富士銀輪散歩余録<追記・注>縦長写真(「たまご」と「眺峰館」の2枚)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月5日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.15
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12日は雨中の富士から富士宮への銀輪散歩となりました。富士宮市には大雨警報が出ていたが、富士まで来たら富士山本宮浅間大社に詣でなくてはなるまいと、ともかくも富士宮を目指す。走り始めは雨も殆ど降らず、降っても霧雨のようなものにて、雨具の必要もない位のものであったが、上衣だけ雨用コートを羽織って出発する。JR身延線に平行して富士宮へと通じている国道139号を行く。車の通行も結構あり、歩道の幅も狭く、走り心地は余りよくない。しかし、地図を忘れて来た上、雨で富士山も見えないので方角の見当もつかないとあっては、道路の標識の「富士宮〇km」だけが頼りなので、国道を走るしかない。道路沿いに白山神社があったので立ち寄り小休止。(白山神社) 曹洞宗と白山神社の関係は下の説明文で初めて知りました。 白山神社から500m程進むと国道139号は大きく右に折れる。直進すると県道であるが、直進する。県道に入ると途端に標識が無くなる。不安になって道行く人に尋ねると、直進でいいとのこと。やがてしっかりした雨に。ザックから雨用のズボンを取り出して着用。目の前に駅舎らしきものが見えて来た。JR身延線の富士宮駅である。(富士宮駅) 駅から北東の方角に浅間大社はあった筈と駅前で右に入るが大鳥居が見えて来ないので一つ早く右に入ってしまったことに気付く。少し戻って、正しい道に。(浅間大社の大鳥居) 浅間大社は、富士山の噴火で周辺住民が離散し荒れ果てた状態が長期に及んでいたため、垂仁天皇がこれを憂い、浅間大神(木花之佐久夜毘売命のこと)を富士山麓に祀ったのが、その起源とする。当初は山麓の適所を選んで祭祀を営んでいたと見られるが、やがて山宮の地(現在の浅間大社の地の約6km北方の地)に祭祀を営むようになり、大同元年(806年)に平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営し、山宮から遷座したのが、現在の浅間大社である。 祭神の木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)は大山祇(おおやまつみ)の娘で瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻となり、三人の子を産む。その一人彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)が神武天皇の祖父であるから、彼女は神武天皇の曾祖母ということになる。また、ニニギノミコトが醜女である姉の磐長姫を選ばず美人である妹の木花開耶姫の方を選んで妻として子をなした結果、その子孫たる人間の寿命が短いものとなったというのであるから、面白い(日本書紀神代下第九段)。(太鼓橋から楼門へ。神木の桜の木の下を行く。) 現社殿は慶長9年(1604年)に徳川家康が寄進したものとのことであるが、寛永、安政の大地震などで倒壊したものもあり、当時の建物で現存するのは、本殿、幣殿、拝殿、楼門のみであるとのこと。(楼門) 楼門前の石段中央にあるのは鉾立石。明治初年まで行われていた山宮御神幸の際に、神鉾をこの石に立てて休め奉ったとある。前の道は「桜の馬場」。5月5日には流鏑馬神事がここで行われているとのこと。桜の木が両サイドに植えられている。祭神が木花咲耶姫だけあって、此処では桜が神木となっているのですな。境内には多くの桜の木。花の盛りには桜の名所として賑うそうな。(本殿) (富士山の火山弾) (南極の石) 本殿の左側に、何かが置かれている。近付いてみると富士山の火山弾と南極の石でありました。(湧玉池)(同上) 当初の予定では、大石寺から白糸の滝辺りまで、潤井川沿いを遡って走ることとしていたが、地図も忘れ、雨も降り、大雨警報が出ているとあっては、その気力も失せて、引き返すこととする。 復路は県道と国道139号がぶつかる処で左折し身延線を渡り、富士根駅前から潤井川沿いを走ることとする。山本勘助生誕地がこの辺りで、その生誕地碑があるらしいので、それを目指すがさっぱり道が分らない。下調べも十分していない思い付きの目的地。所在する場所の地名も分らないのでは見つけられる筈もない(笑)。(潤井川、山本付近。) 潤井川の対岸が山本の地、その高台の何処かに勘助生誕地碑はあるのだろうが、渡るべき橋が行けども、行けども無い。第二東名高速道路の工事囲いの処で県道に戻り、身延線に平行して走る。もう何と言って目的地もないので、目を引くものに立ち寄るなどの行き当りばったりのいつもの銀輪散歩となりました。(アヤメ) 道端のアヤメにも挨拶をして行く。 そして、松岳寺という曹洞宗の小さな寺に出会う。境内に歌碑がありました。道元の歌ならと思いましたが、仮名遣いが違いますな。 梅花観音御詠歌のりのおと みめぐみおおき かんぜおん おがむこころは のちのよのため 道元の歌と言えば「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」が有名であるが、お坊さんらしい歌を2首ばかり掲載して置きますかな。草の庵に ねてもさめても 申すこと 南無釈迦牟尼仏 憐れみたまへとどまらぬ 隙(ひま)ゆく駒の ゆくすゑに 法(のり)の道うる 人ぞ少なき ~松本章男著「道元の和歌」(中公新書)より~(松岳寺) この後、曽我兄弟の墓所のある曽我寺、万葉歌碑のある広見公園などへと回りますが、そろそろ文字数制限に引っ掛かりそうなので、本日はここまでとします。<関連記事>富士山と山部赤人万葉歌碑 曽我寺から広見公園万葉歌碑へ 富士銀輪散歩余録<追記・注>「富士山の火山弾」と梅花観音御詠歌の歌碑の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月5日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.14
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小生がそらんじている万葉の長歌は巻頭第一首の「籠もよ み籠もち・・」を始め何首かあるが、その一つが山部赤人の「不盡山を望む歌」である。その反歌である「田兒の浦ゆうち出でて見れば・・」は余りにも有名であるが、この赤人の歌碑があるというので、富士市方面まで銀輪散歩に出掛けてまいりました。生憎の雨で富士山の雄姿を眺めながら銀輪を颯爽と走らせるという目論見は雨によって打ち砕かれましたが、最終日の本日(13日)になって晴れ間も覗き、漸く富士山が姿を現してくれました。 という訳で先ず赤人の万葉歌碑から記事を始めることとします。 この歌碑は新幹線新富士駅から1.6km東へ行った、田子の浦港の一角にある。潤井川が田子の浦港の湾に注ぐ場所に架かる田子の浦橋の西詰めを20mほど南に下った道脇にそれはあった。とても立派な堂々たる歌碑で万葉集中の代表歌に相応しい佇まいである。(山部赤人万葉歌碑) 山部宿禰赤人望不盡山歌一首并短哥 天地之 分時従 神佐備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 渡日之 ?毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不盡能高嶺者 田兒之浦従打出而見者真白衣 不盡高嶺尓雪波零家留 山部宿禰(やまべのすくね)赤人、不盡山を望める歌一首并に短歌天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(ね)を 天(あま)の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡の高嶺は (巻3-317) 反歌田兒(たご)の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪はふりける (巻3-318)(富士山と赤人歌碑) この歌碑の右手後方に富士山が見える。最初は雨で富士山はいづこでありましたが、2回目の訪問で漸く富士山とセットで撮影することができました。この歌碑はやはり富士山を背にしなくては画龍点晴を欠くというものである。 赤人歌碑への再訪のため、国道1号を走っている時のこと。信号待ちをしていると、ママチャリに乗った男性と視線が合った。会釈されたので、小生も会釈を返す。同じ方向を目指して走っているうちに何となく会話が始まり、赤人の歌碑があることをお話すると、写真では見たが実物を未だ見ていないので是非見てみたい、と仰る。それで、小生が案内する形となる。この方はご実家が吉原辺りとかで、最近ご実家の方へ帰って来られたらしい。JR吉原駅は田子の浦の東側にあるから、長らく他の土地で暮らして居られたとは言え、言わば地元の方である。その方を大阪から来た人間が案内するという妙な構図が、いつぞやの高岡でと同様に、ここでも亦生じました(笑)。 「富士と港の見える公園」というのが「都市地図・富士市」を見て記憶していたので(もっとも地図は自宅に置き忘れたので、今回は記憶にある地図と方角を頼りの心もとない銀輪行となった。)、そのことをお話すると、今度はその男性が案内すると言う。で、その公園まで一緒に走る。公園入口に着いたら11時になっていたようで、「もう直ぐお昼なので私はここで失礼します。」と言って帰って行かれました。おそらくご自宅までは自転車で1時間程度はかかるのでしょう。 富士山と田子の浦港を写真に撮るべく、公園の展望台に上ると、予想通り見事な眺望である。(富士と港の見える公園) では、公園の展望台からの富士山の写真などをご覧下さいませ。(田子の浦港) 赤いクレーンの左手に写っている緑の木立の辺りに赤人万葉歌碑が立っているのですが、上の写真ではよく分りませんね。高架になっているのが国道1号。その手前の一段低い橋が潤井川に架かる「田子の浦橋」である。 万葉の頃、田子の浦とはどの辺りの海であったかは議論のある処であるが、続日本紀天平勝宝2年3月条の記事から、田子の浦は当時の廬原郡にあり、それは富士川の西であったから、今日の田子の浦よりも西方、蒲原から興津川河口付近にかけての海浜を言うとされている。(田子の浦港と富士山)(少しアップで)(さらにアップで、富士山だけ。) ついでに、新幹線の新富士駅ホームから撮影した富士山も。(新富士駅ホームから富士山を望む。) 雨中の富士宮への12日の銀輪行やその他のあれこれは次回以降にし、今夜はもう夜も遅くなりましたので、ここまでとします。おやすみなさいませ。<関連記事>富士山本宮浅間神社へ 曽我寺から広見公園万葉歌碑へ 富士銀輪散歩余録
2011.05.13
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偐万葉・松風篇(その17) 本日は雨。雨の日は偐万葉。という訳でシリーズ第104弾、松風篇(その17)であります。 <参考>過去の偐万葉・松風篇及び松風偐万葉集はコチラからどうぞ。 松風さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が松風朝臣麻呂に贈りて詠める歌20首流されし ひとのみたまの かへり来て 槻のほつ枝に 芽吹くにあらば (祈家持) (注)槻=欅、ケヤキ かへるでの 芽吹くときなり 大池の 清き水面(みなも)に 潜(かづ)く色見ゆ朝霞 流れか行かむ 桜花 咲ける盛りも かなしと思(も)へばうらぐはし 少女(をとめ)なるらし 桜花 今し咲き始(そ)む 朝をし行けば (注)うらぐはし=美しい。目細(まぐは)しと同意。注意を引く美しさに言う。遠山は 青み春花 盛りなり ひとみな朝の 日の下行かめ 楠(くすのき)の 下ゆ駆け来る 銀輪の をのこの片辺(かたへ) 春日は落(ふ)れど (春野(はるの)老麻呂(おゆまろ))桜花 散りてうつろふ 常磐なる 楠(くす)のさ枝を われは写さな (大伴楠持(くすもち)) (元歌)八千種の 花はうつろふ 常磐なる 松の小枝を 吾は結ばな(大伴家持 巻20-4501)石垣は こころおきなく 描(か)かれよと 積めるものには あらざるなれど桜花 咲きて木々みな 芽を吹けば 風もや春の 色にし染まむ大池の ほとり静かに 春たけて 鶴見は人も そぞろに行ける 去年(こぞ)夏に 見てしきのこの あづま屋を 背子が絵に見る 春日(はるひ)うれしも (銀輪家持)鶴見野は そぞろ行く人 急ぐ人 花の盛りも はや過ぎたれば (鶴見歩麻呂)をのこやも かなしかるべき 一人にし そぞろに行けば あやしと見らる (男一人歩き麻呂) ひとしきり 降りて止みたる 春雨の あと追ひ丘に 雲立ち昇る丘の上(へ)の 芽吹くゆりの木 後(ゆり)の世も 逢はまし妹に 花手向けゆくなゐに逝きし み魂かへりて 芽吹きたる 青葉にもあれ 風さやに吹け 蒼ざめて 風車のあれば 色々の こと思ひ出す 五月(ごがつ)なりけりもののふの 八十少女(やそをとめ)らが 走り行く 鶴見の五月 銀輪の風 (銀輪家持)亜麻色の 髪靡かせて 銀輪の アルベルチーヌ 駆けて行く道 (古須戸セル麻呂) ♪ 花水木 匂ふ鶴見に をとめらは 髪なびかせて 銀輪駆ける 夏は来ぬ (注)大阪市鶴見区の木は花水木ということなので 「卯の花」を「花水木」に修正しました。 夕暮れは 木々の青濃く なりゆきて ぽつり灯れる 道を帰らな (注)掲載の絵画は全て松風さんのブログからの転載です。
2011.05.10
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ゴールデンウイークは家でゴロゴロするのがこの処の偐家持の恒例となっているが、今年もそのようにして、日は過ぎました。前半は万葉関係の資料作り。後半は近隣自転車散歩などで、何ということもなく過ぎました。その所為かどうか、数日前から胃がしくしくと痛くて頗る不快である。 そんな訳でブログの更新も怠っていましたが、余り長くサボっていると、また、病気でもしているのかとご心配を掛けてもいけないので、形ばかりの更新をして置くこととします。例によって、銀輪花遍路であります。困った時は遍路に限る(笑)。 では、本日の銀輪花遍路のキーワードは「白」としますかな。(ハナミズキ) ハナミズキは、ピンクの花は可愛い感じでそれはそれでいいのであるが、小生は白い花の方がスッキリ爽やかで好きである。さあーっと風が吹くと白い蝶たちが群れてでもいるように揺れるのもいい。まあ、その白い蝶たちは、花弁のように見えて、実は「ガク」であるのだから、正確には花ではないのである。しかし、花弁、花萼、花序などの区別の出来兼ねる銀輪家持にてあれば、全てそれらは「花」でいいのである。真ん中の黄色いのが花だと言ったら、やはりそれはもう我々のハナミズキではないし、歌にもならないというものである(笑)。 さて、蝶と言えば、万葉集巻17-3967~8の歌の題詞が思い出されますな。「紅桃灼灼として戯蝶花を廻りて舞ひ翆柳依依として嬌鶯葉に隠りて歌ふ。」(花を上から見ると)<参考>ハナミズキ そして、ニシキギの花。この花はまことに小さいもので、葉陰に隠れて咲いていたりもするので、近付いて覗き込まないと見落とす。この木は花ではなく、葉の紅葉で、秋にその存在感を示す。(ニシキギの花) <参考>ニシキギ 最後は、タンポポ。と言ってもこれはもう花ではないのであるが、タンポポたちの旅立ちの花である。風が強く吹いて種を遠くへ運んでくれるのを待っているのである。既に散ってしまったものも多く見える。絮帽子は季節の移ろいを感じさせるところが、そこはかとなくいい。 それにしても、このように群生していると、ひとつの景色になる。(タンポポたちの旅立ち)蒲公英(たんぽぽ)の 絮(わた)群れて居り 風待ちて いざ旅立ちの 時にしあれり (偐家持)<参考>タンポポ(追記)本日7日病院に行って参りました。検査の結果さしたることも見 つからず、胃炎であろうとの診断。それに応じた薬を貰って参り ました。<追記・注>縦長写真の「タンポポ」が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月5日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.05.06
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偐万葉・ビッグジョン篇(その5) 本日は、偐万葉シリーズ第103弾、ビッグジョン篇その5であります。ビッグジョン篇掲載歌も今回で累計101首となり、大台に乗りました。質より数の偐家持です(笑)。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョンさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持は交野歩麻呂(かたののほまろ)に贈りて詠める歌20首併せ 交野歩麻呂の返せる歌1首我が畑に 咲きたる春を 指折りて かき数ふれば 八種(やくさ)なる花 (畑上憶良(はたのうへのおくら)) 木瓜(ぼけ)の花 みづな姫榊(ひさかき) 白菜の花 ほとけのざ なづなフユシラズ ブロッコリーの花 (畑上憶良) (注)577577の形式の歌は旋頭歌という。 まだ咲かぬ 花にしあれば カモミール 春の八種(やくさ)を 見つつあるカモ (鴨(カモ)の見麻呂(ミマロ)) 交野歩麻呂の返せる歌かにかくに 歌読む人は 羨まし 花を買い来て 妻としたしむ (畑の啄木)わが背子は 徒歩(かち)にて行くや 刈りばねに 足な踏ましそ 信濃墾道(はりみち)それぞれに 顔は違(たが)へど ひとしなみ ヒゲ面(づら)おやぢ パンジーの花 (事の真相) 花蛍(ハナホタル) 咲きたる色の 靴履きて 春風のごと 孫娘来たる (爺麻呂) みほとけの 道にし行くに キリストの 門に至れり 本願なるや (大伴迷持)鶯も 去(い)にし辺(へ)を恋ひ 鳴くならし ひとの面影 かなしと立てば帰り行く ナツキとケント 笑む窓に 星条旗のザック 見えてバス行き 恋ひ恨み 泣きて岩陰 松代の つつじ乙女は 山道(やまぢ)に咲ける (躑躅郎女(つつじのいらつめ))大浦ゆ 比良に消(け)残る 花越しの 雪もよかりき 淡海(あふみ)の道は (海津の歩麻呂)花咲けば 近江の春は 風さへも やさしく吹けり 海津の崎へ北近江 今か行くらむ 我が背子の 桜花咲く 道に恋ふわれ 畑麻呂と なればムラサキ ケマンソウ 咲きて笑むらし 花愛づ君に (偐紫田舎華鬘草)春たけて 竹の子タケノコ のこのこと ここ掘れとかや 土盛り上げる (竹野小太郎)野に置くが よかりと背子は 菫草 手には取らずて 写真に撮れり (藪中菫麻呂) 咲き始(そ)めぬ 藪の椿は 白赤の 斑(ふ)には落ちたる 源平椿(げんぺいつばき) (源平盛(みなもとのひらもり))ライラック 八重咲く花の ごとにもや 千代に八千代に ありませ母も (偐歩麻呂)水仙と 百合の花言ふ 我ら歩麻呂 花は植ゑずて 芋(うも)植ゑるらむ (里野芋麻呂) 金鳳花 咲きてしあれば 田居のみち 春も名残りの 笑みこぼすらし(注)掲載の写真は全てビッグジョンさんのブログからの転載です。
2011.05.01
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