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戦場でボロボロになった精神状態のまま、私はようやく懐かしい家にたどりつきました。 「あんたは誰だい?」家の中に入っていくと私を迎えた母は顔を見て、悲しそうに言いました。そこに立っていた私は、家を出て海兵隊に入ったときの顔ではありませんでした。家を出るまでの「私」は人を殺すような気違いでもなかったし、死体を平気で足蹴にするようなことはできなかったし、人の排泄物を掘り返して猟犬のようなふるまいをする人間でもありませんでした。私の風貌は家を出たときにくらべるとたいへん変わっていたようです。私は心身ともに全く違う人間になってしまっていたのです。夜には眠れず、眠ると戦場での出来事がつぎつぎと夢に現れました。得体の知れない恐怖感にうなされました。毎晩毎晩です。ベトナムで人を殺すことが平気だったわたしが眠ることさえ怖ろしくなってしまったのです。誰かが階段を昇る音を聞くと、敵に襲われる不安につきまとわれ、眠りにはつけませんでした。アパートのまわりを歩いてチェックし、子どもが寝ていることを確かめ、妻が寝ていることを確かめ、窓、ベッドの下、タンスの中を確認しました。どこかに敵が潜んでいるような気がしてならなかったのです。娘が起きてきて「お父さん、どうしたの?なにもないから、安心して寝て」と心配してくれても、ベッドにも行けないし、眠ることができませんでした。昼間うつらうつらと夢遊病のようにふらつくだけです。私は「戦争後遺症」に蝕まれてさいなまれていました。後にわかったことですが、ベトナム帰還兵の多くがこのような症状に悩まされ、自殺にまでいたったり、恐怖感から発狂して無関係の人を殺してしまったり、麻薬に救いをもとめてどん底に落ちてゆく人たちがたくさんでて深刻な社会問題にまでなりました。私は今、みなさんにこのように話しをできるようになるまで、何年も何年もかかりました。自分を立ち直らせるためには何ができるのか考えました。大勢の人たちを苦しめ殺してきたことはぬぐえないにしても、少しでも私と同じ過ちをする人を出さないために、兵役につこうとする若者たちに、自分の犯した「罪の告白」をしてきました。自分が「人殺しをした」ことを言うのです。戦場でおこったことをどのように伝えても、現実に起こったこと以上の悲惨さは伝えられるものではありません。海兵隊に入ったときに、上官は繰り返し教えてくれました。「撃て!撃て!よし!撃ち損ねた? 気にするな! ただの標的と思え。」こんな調子です。私たち兵士は全員、殺すことに責任を持ってます。国家への責任と思ってきたことを否定することは兵士たちにとって、最も困難な告白です。上官は命令します。「あのばあさんを撃て!あのじいさんを撃て!あの子どもを撃て!母親も撃て!」子どもを撃つのは難しいんです。老人は簡単です。彼らは走れないから。老人を見つけたとしても、まず他の難しい獲物からかたづけ、始末して戻ってきてもまだ間に合います。今回、沖縄を訪問し、たくさんの女性に会う機会がありました。彼女は老いていましたが、沖縄戦についてよく話しました。私の体験どうようとてもひどい話でした。私はベトナムに行った経験があります。ベトナム(の戦場)では、女性たちは子どもを抱いて走らなくてはなりませんでした。子どもを抱いて全力で逃げるなんて、誰ができますか。想像してみてください。今、この部屋に窓から「敵」がやってきたとしたら、どうやって逃げますか、しかも子どもと一緒に…。ベトナムでは、女性と子どもが大変苦しめられました。女性は、子どもといっしょにジャングルの中を逃げなくてはいけません。子どもの食べ物も必要です。母乳の出ない母親にたくさん会いました。それは爆撃や銃撃などの精神的ショックや死体の悪臭のなかでは母乳もとまってしまうようなのです。もし、母乳が出なくて、子どもに与えるものが何もなかったとしたらどうしますか。ここでお話ししたことは、私がベトナムにいるときに起きた、たくさんの出来事の中のほんの少しのことでしかありません。私は皆さんにこの話ができて、少しだけ気が楽になりました。アメリカ軍は、ベトナムから引き上げていきました。私が殺してしまった人たちの魂も、安らかに眠れるように毎日祈っています。私は、幸いにして、このように戦争体験を話せるようになりましたが、私と同じような考え、意見を持っていても、戦争に参加したことによる精神的後遺症のために、自分の戦争体験を語れる人は多くはありません。きちんとした精神的ケア(治療)を受けていないからです。沖縄でこの話をすると、「それで、私の父は第二次大戦に参加したけれども、戦争中の話を全くしないのですね」と言う人がいました。同じかも知れません。ネルソンさんの話は、沖縄のこと、現在のアメリカのことにも向かいます。明日につづきます。
2003.10.31
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ベトナム人・白人・黒人 差別私の心は戦場には向かず、帰国することばかり考えていました。しかし、戦争は続き、私はまだベトナムにいました。あの「出産」事件を機に、ベトナムの人たちを人として、また友人として思えるようになりました。私たちのベースキャンプから遠くないところに、ある一人のベトナム女性が住んでいました。実名は知らなかったのですが、みんな彼女のことを「ママさん」と呼んでいました。彼女は私のことを「アル」と呼んでいました。ある日、ママさんのところへ行くと、彼女が私に言いました。「アル、海兵隊員、おなじ、ない。」このように言うのです。「ママさん、どういう意味だい?」と聞きました。「アルは海兵隊員と、おなじ、ない、あなた」と言って彼女は私の顔をなでるのです。「わたしの、いえに、きなさい。すわって、ビール、のみなさい」そして言うのです。「海兵隊員の人、言う、あなたの、ママ、しっぽ、持ってる」。私は、彼女が何を言っているのか何度も聞き直して、やっとわかったのです。白人の海兵隊員がママさんの家に来て、ビールを飲みながら、ママさんに「黒人の母親たちはしっぽを持っている」と教えていったと言うのです。奇妙な感じでした。私はここベトナムに来て、ベトナムの人を殺したり、ものを燃やしたりしています。しかし、(ベトナム人が)私に対して人種差別的な態度をとったことはありません。私のことを「ニガー」と呼んだりしません。「ベトナム人がアフリカに爆弾を落とした」という歴史はありませんし、「人々を鎖でつなぎ、たんぼで働くよう、連行した」こともありません。ところが、私たちはここで、ベトナム人を撃ち殺しています。そして、一緒に戦場で戦っている白人たちは、私たち黒人のことを「ニガー」と呼び、ベトナムの人たちには「黒人の母親にはしっぽがついている」と教えている。「出産」の事件で気持ちが揺れていたのに、このような話を聞いて、私には何がなんだかわからなくなりました。私はママさんに「私のお母さんにはしっぽはないよ!」と言いました。ママさんのような純朴な人が「しっぽの話」を信じるたのも無理がありません。私がそこで否定していなかったら、いまだに信じていたことでしょう。この出来事のすぐ後に命令がでて、私たちはある村を攻めに行きました。付近にベトコンがいて激戦になりましたが40人ほどの村人全員を殺しました。近く、村長選があるので、この村を「確保」しておきたかったのです。アメリカ政府の指示でその村を全滅させたのは、ベトコン(ベトナム兵)の影響下にあった村の人たちを選挙の投票に行かせたくなかったからです。そのためそこの村人を殺しましたが、必死の反撃にあい米海兵隊員も25人程が殺されました。こうして投票のゆくえは「確保」され、選挙が行われました。私たちはベースキャンプに戻りました。私は11歳の妹がいました。彼女からの手紙が届いており、その中にニューヨークタイムスの記事が同封されていました。アメリカ南部では、マーチン・ルーサー・キング牧師と黒人のグループが選挙権を求めて運動しており、それに対して警察隊が犬をけしかけたり消火栓のホースで放水したり、棒で殴りつけたりしているという記事が載っていました。これを読んだことで、私の「変化」はさらに弾みをつけました。アメリカの南部では黒人は参政権も持っていない。その私はベトナムにいて、これから選挙に行こうとしている(ベトナムの)人たちを撃ち殺している。私は自分の考えを変え始めていましたが、それを表にだすことは少し危険なことでした。というのは、私はまだ戦争の指揮下のまっただ中にいたからです。逆らうと大変な処罰が待っています。さて、これから私がベトナムにいて、最後に起きた出来事についてお話しします。激戦、そして帰還私は30人ほどの兵士とともにパトロールを命じられました。ヘリコプターが私たちを乗せ、どことも地名もわからない場所へ連れていき、そこに降ろされました。私たちは何日かルートを調べるために歩き回り、任務が終わり次第またヘリコプターが来て私たちを拾い上げることになっています。そんな繰り返しをしていました。ある時、私たちが降ろされた場所は、北ベトナム兵に待ち伏せされました。激しい攻撃を受け、私ともう一人、「チーフ」というニックネームのアメリカインディアン系の兵士の他は、みんな傷を負いました。私たちは丘の方に逃げ、傷ついた仲間たちを塹壕に隠し、地雷などの限られた武器で敵の攻撃に備えました。ベトナムでは、昼の時間は武装ヘリなどに守られ装備の備えたアメリカが制圧していましたが、夜になると地の利にくわしい彼らが有利です。夜8時半、彼らの激しい攻撃が始まり、朝の4時にその熾烈な闘いは終わりました。付近は敵味方の死体が散乱していました。すでにお話ししたように、私はすでにこころのなかでは「生き方」を変えていたので、このままベトナムでは死にたくありませんでした。どうしても、生きて家に帰りたかったのです。じっと身を潜めていました。しかし、再び北ベトナム兵に戦闘を開始されたらおしまいです。我々は捨て身の一計を案じました。自分たちを「気が狂った人間」と思わせることにしたのです。そこで、あたりに何百とあった死体の破片を拾って、丘の上からベトナム兵の方に向かってつぎつぎと投げつけ始めました。全身が死体の血で真っ赤に染まりましたが夢中です。それをしばらく見ていたベトナム兵は、あきれたように我々を放って去っていき、ようやく我々は生き延びることができたのです。アメリカ政府(海軍)はこの丘での功績を讃え、私にシルバースターの勲章をくれました。この丘の戦いは「881高地の戦い」として、アメリカ史上に残る戦いとなりました。ようするに敵も味方も戦死者がとても多かったということです。アメリカ海兵隊が、この一晩で何人殺したのか、殺されたのか私たちは数え切れませんでした。翌朝、海兵隊は565人まで死体を数えましたが、ベトナム兵は、自軍の兵士の死体は運べる限り運んでいってしまうので、最終的に(ベトナム兵の)死体が何体あったのかはわかりませんでした。私は、この丘を立ち去るときには、精神的にかなりイカレていました。帰りすがら、死体の頭をナイフで切り刻んでは、投げ捨てたりしました。その私を海軍は勇敢で立派な兵士として褒めてくれました。軍隊では、殺せば殺すほど褒められ勲章をくれます。海軍が私にくれたシルバースターの勲章は、これまで3人しかもらっていなかったものでした。しかし、私はその勲章を受け取るなり地面に投げ捨てました。みんな驚いていましたが、私は勲章より、軍隊から解放されたかったのです。私は何がなんでも家に帰りたかったからです。勲章をもらうことよりも、家に帰りたかったのです。そして私は軍隊から見放されることによって家に帰ることができました。ネルソンさんの話は、ここからアメリカに帰国してからの苦闘に入るのですが、長くなりますので、つづきはまた明日。
2003.10.30
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それが「出産」だとはすぐには気がつきませんでした。彼女は、さらに押しだそうと苦しんでおり、私は思わず彼女の足の下に両手を差し出して、産まれ落ちた赤ちゃんを受けとめました。 大久保きみえさんが掲示板にカキコしてくれたように、 アレンさんは高校生たちに、講演のかたちで体験談を 証言していることが多いようです。 昨日も宿を立ち、塩尻のほうの高校に出かけました。 さて、昨日のつづきです。目の前で生命の誕生目は閉じられたまま、小さな手は握りしめられ、へその緒もついたままでした。彼女はへその緒を自分の口でかみきると、私の手から赤ちゃんを奪い取りました。それを自分の着物に包むと、あっけにとられている私をそのままに、壕から急いで飛びだし逃げていきました。目の前で起きたことが信じられませんでした。あまりにも一瞬の出来事でした。もし、私の手にその「出産」のあとが残っていなければ、幻覚だったと思ったかもしれません。壕から出てきた私は、壕にはいる前と、違っていたようです。仲間の海兵隊員は「どうかしたのか」と声をかけてきました。私の気持ちが動転していた理由、それは、ベトナム人も「人間」だということに気づいたからです。海兵隊での訓練で教わったのは、ベトナム人は「Gooks(=よごれ、いなかっぺ、黄色人種)」または「Slant eyes(目のつり上がった東洋人種=軽蔑的表現)」、「共産主義者=人間ではない」と教えられていました。「Gooksは自分たちと同じように父、母を持たない」のだと信じこまされていました。しかし、私は気がついてしまったのです。自分がこれまで殺してきたベトナム人も、私たちと同じ「人間」であった。私は、アメリカで待っている妹と同じくらいの年齢の少女たちを殺してきたのだということを…。私はいてもたってもいられない気持ちになりました。私はずいぶんひどいことをベトナム人にしてきたのです。また、現在もそれを続けていることに気づいてしまったのです。私はどうしたらいいのか、悩みました。以前の私を「攻撃的」というなら、それからは「防衛的」になりました。以前は「狩り」をするために「獲物」を探していましたが、もはや「狩り」をしたくなければ、「獲物」を見つけたくもありません。どうしても殺さなければならないときだけ、に限定して、目をそむけるようにして銃を使うようになりました。ジャングルの中で敵を見つけるには、まず彼らの排泄物を探します。ベトナム人たちはきれいに隠しますが、私たちは訓練により観察力が優れていたので、見つけるのは得意でした。排泄物は(戦場の兵士にとって)必要なすべてのことを教えてくれます。「何人いるのか」「何を食べているのか」「どのくらいの期間そこにいたか」、また、この「排泄物がある」ということは、「敵が近くにいる」「自分たちを狙っている」ということを意味しますので、これを見逃すことは私たちの死に直結します。こういうことを軍隊では教えるのです。「どうやって(戦場で)生き延びるか」ということです。しかし、私は排泄物を探すのを、すべてやめてしまいました。ネルソンさんの証言はさらにつづきます。このつづきは明日書くことにします。
2003.10.29
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アレン・ネルソンさんを知っていますか。ネルソンさんは元米軍の海兵隊員として、ベトナム戦争に従軍。ベトナムでの出来事をきっかけに平和運動に身を捧げるようになりました。がっちりとした体格の黒人ですが、今はとても優しい眼をしています。日本にもたびたび訪れて講演活動をしていますが、その彼が昨夜は伊那に泊まって、たまたま朝の散歩の間に出会い少し話をする機会がありました。僕たちのグループで以前、彼の講演会を開いたことがあり、そのレポートを市民向けの新聞に纏めて配布しました。そのときの内容をかいつまんで紹介してみましょう。講演はほぼ同じ内容で、各地で行われていますから、あら筋をご存知の方もあると思います。アレン・ネルソン海兵隊を除隊後はボランティアとして、軍隊にはいるかどうかで悩む青年の相談相手を長年勤め、現在、ニュージャージー州、カムデン市で教育活動をしている。カムデン市はアメリカの中でも貧しく、犯罪の多い町だが、その中で黒人とヒスパニック(中南米系)の中学生や高校生に勉強する場を提供し、大学進学への道をつくる。ニュージャージー州とコロラド州を中心に、沖縄にいた元宣教師や、教師、それに市民運動家が集まってつくった「沖縄駐留米軍をアメリカに連れ戻すネットワーク」の呼びかけ人の一人としても活動。海兵隊員として海兵隊が最初に新兵におしえること、それは「命令に従うこと」です。「疑問を持つことなく命令に従うこと」です。兵士は、いったん戦場に行けば、与えられた命令はどんなことでも遂行するように仕込まれます。海兵隊にはこういう言葉があります。「考えるのはおまえの仕事ではない。おまえの仕事は、実行し、死ぬことだ」。命令に従うことを教え込んだ後は「殺し方」を教えます。多くの時間を「殺し方」を習うのに費やし、海兵隊に入って18歳になるまでに、25種類もの人の「殺し方」を覚えました。それこそが兵士が持たねばならない技術だからです。兵士というのは、平和を維持する人(ピースキーパー)でもなければ、ソーシャルワーカーでもありません。兵士はピースキーパーとして訓練されていません。兵士は「殺す」ことを訓練しているのです。それが彼らの仕事です。「殺す」ことです。私はベトナムに着いたとき、とても興奮していました。アメリカという国に対して、私が価値ある人間で、いい仕事をし、教育もあることを証明し、私を黒人としてではなく、何をおいても国に対して奉仕した者として見てくれることを喜びました。だからベトナムに着いたときもたいへんうれしく、ジャングルにいることは好きでした。私が初めて人を殺したとき、上官がやって来ました。上官はとてもうれしそうでした。私がついに「敵」を殺し、「頼りになる」ことを証明したからです。彼は私にナイフを渡して、「おまえの勲章を切り取れ」と言いました。「勲章」とは、耳のことです。海兵隊はベトナムで人を殺したとき、(勲章として)その耳を切り取る習慣があり、みんなそれをひもに通して首に下げていました。私たちはベトナムで、ある村に入りました。そして迫撃砲を撃ち始めました。ベトナムの人たちは家の後ろに防空壕を持っていて、アメリカ軍が攻めてくると、みんな子どもを抱えて防空壕に逃げ込みます。私は壕まで降りていき、攻撃しました。すると誰かが私のそばにいるのに気がつきました。よく見ると、それは16、17歳ぐらいの若いベトナム女性でした。私は彼女を殺そうとしました。「殺すこと」は今までにもしてきたことであり、子どもでも、老人でも、誰でも殺しました。それは「命令」なのです。兵士は戦争を「ゲーム」のように考えています。笛が鳴ったら急いで多くの人を殺すゲームというのように。戦争は残虐な「ビジネス」です。さて、私は彼女を撃とうとしましたが、そのときだけ何か躊躇するものがあり、殺すのを止めました。彼女の出血の仕方が今まで見たこともないものだったからかもしれません。けがをしているのか、よくわかりませんでした。とにかく、私は一瞬ちゅうちょして、よく見てみると、彼女は壕の中の壁を背に座り込み、何かを押し出すような動きをしていました。彼女は汗びっしょりでした。彼女に呼びかけると、私に殺されるのではないかとおびえ、震えていました。しかし彼女は相変わらずなにかを押し出すような動作をしていました。ふと、両足の間を見ると、小さな頭のようなものが見えました。私は学校でこのようなことを習ったこともなかったし、映画でも見たことがなかったので、それが「出産」だとはすぐには気がつきませんでした。彼女は、さらに押しだそうと苦しんでおり、私は思わず彼女の足の下に両手を差し出して、赤ちゃんを受けとめました。
2003.10.28
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まだ蝶をみかけますか色気を感じる女性はたしかにいるもので、目の前で微笑まれただけでゾクゾクとした人と何度かは遭遇している。容貌がいいとかスタイルがいいとかいうだけのこととは少し違う。色気というものは内面からじんわりと滲み出てくるものだろう。知性とか教養もいくぶん大切ではあるが、それより人間として熟成されていなければ、知識や教養がむしろ嫌みに感じることもある。若い娘であれば何でもいいというヤボがよくいるが、青いだけを魅力と感じるうちは男としてまだまだだろうなー。仕事で訪れた、20~30代の若い女性ばかり4、5人いる工房で、ティーをご馳走になりながら、男の色・気女の色気という話になった。こんな話題が多くなるのは僕が好き者とみられているのかなぁ。ここにいるようなクリエイティブな女性たちとはとても話が合いやすいが、スナックなど水関係の女性で、如才なく話題をあわせてくる女性が僕には苦手である。大概が浅く広く何でも話題をこちらに合わせてはくれるが、だいたいの内容は薄っぺらで、知ったかぶりの付け焼き刃だということがすぐに露見する。まあ、世の中の男性には優しい人が多いから我慢しておつきあいしているのだろうが、僕はすぐに尻のあたりがムズムズしてきて、席を立ちたくなってしまう。ところで、女性が男に色気を感じるのはどんなときか聞いてみた。楽天のどなたかはアランドロン風の人とか言っていたが、女性はスタイルだとか、がっちりした体格だとか、少年のような中性タイプとかいろいろあっても、結局はほれた男であれば、ジャガイモであろうがアンパンマンであろうが、つきあっているうちにだんだんと良くみえていくものではないだろうか。美男美女というより、花とカメムシのようなカップルは存外に多いような気がする。時実新子さんに、「手が好きでやがてすべてが好きになる」という句があるが、ひとりの女性は、「男は手よ、きれいで細っりしたゆびさきに魅力を感じるの。そんな指で首筋に触られたら、もう……」などと言う。僕の指はゴツゴツと短くて、ときには印刷インキで爪が汚れていたりする、もう救いようがないようである。足もとだという女性もいる。太ももからスネ、ふくらはぎからカカトまで全体が含まれるが、重点的には足首と靴だという。「靴や足もとに気をつかわない男はプレイボーイとしては失格」と断言する。プレイボーイに目をつけられるタイプとは思えない人ではあるが…。僕の足もとをみたら靴下がたるんでいた。そしてつづける。さりげなく組んだ足もと、ぴたりと足首にはりついている靴下、きちんと磨かれている靴、こんなところに女はぞくぞくとするのよ、ともうひとりがいう。そうだよこんな田舎だもの、どうせ僕の靴にはドロがついている。「私は首すじね、息を吹きかけられたらもう…」という女性もいる。僕が、「ふっ」と吹いてみたら「ピシャリ」と叩かれた。このえり足が男らしくて汗っぽいか、こざっぱりと清潔かで男の値打ちは決まるという。つぎに目線、笑い方、髪、腕、手指……とつぎつぎと出てくる。もういい、もういいから、僕のようなタイプはどう。皆さんのおっしゃることにことごとく外れているような気がするけれど…。「あら、mskさんはいい人だから今さら色気なんて必要ないでしょう。ここでモテなくてもどこかでモテまくっているんでしょ。」ときた。そう、いつだってそうなのである。どこにいっても、どこかではモテているに違いないと仲間はずれにされてしまう。こういうソンな役回りはけっしてモテるとはいわない。 もう鳥たちが渡ってくるようです
2003.10.27
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小諸のワイナリー付近もきれいに紅葉していました信州を訪ねてくれたまき~♪さんを南アルプスの懐にある、気の集まる付近の水場に案内しました。今ではだいぶ知られてきましたが、中国の気功師や気に関する専門家が訪れるたびに、強い気が漂うと指摘されて、村ではすっかりその「気」になって村おこしにまで利用を始めようとしています。気の磁場としてみんなが行く場所とは少し離れますが、おいしいミネラル水の出ている場所があります。その水は延命水と名付けられて、南アルプスの岩山の巨大な岩石のなかから吹き出るように出ています。大陸のプレートとプレートがガッチンコしてできた岩山を通ってくるのですから、様々な濾過が働いているのかも知れません。以前は山にはいる人か地元の人にしか知られていませんでした。文字通りアルプスの天然水で、とても美味しい水ですが本当に延命効果があるかどうかはわかりません。長老の話では、寿命が尽きるまでは長生きをするそうです。その場所は南アルプス山中、中央構造線添い、教科書にも出てくる糸魚川・静岡構造線の東側のフォッサ・マグナ地域と交わる最深部になります。2000万年くらい前に、内帯と外帯が中央構造線を境に、大きくずれ動き、そして1500万年くらい前、アジア大陸の一部だった日本列島が太平洋方向へ移動し、日本海ができたということです。その折れ曲がった中央構造線にフォッサ・マグナ地域が入り組み、断層の集中した付近が、いま気になる話として少し話題になっています。難しいことは僕もわかりませんが、日本列島ができたときの大きな力の加わり合った、この付近に〈気〉が発生しているというのです。その筋の専門家の説によると〈気〉が人間にさまざまな良い効果を及ぼすということで、それを信る人たちが訪れ、その付近で座禅を組んだり瞑想にふけったりしています。こういう話の常として、末期の病だったのに治ったという少数の人と、何の効果も感じられなかったという多数の人がいて、やっぱり気のせいかなと僕は思っています。まき~♪さんに気が必要かどうかわかりませんが、紅葉真っ盛りな山中の安上がりな穴場で鋭気を養っていただいたわけです。ええ、僕の息子が運転して行きましたから山の中でも皆さん、何の心配もいりません。そこから帰って軽く腹ごしらえしたあと、山賊の住むような山小屋で山賊(のような友人)たちと焚き火の宴をして、近くのペンションに泊まっていただきました。今日は、妻をともなって車で小諸のワイナリー、そこで例のうるとびーずご一家とご対面。晴れ上がった青空の下でジャズの生演奏を聴きながら、しばしの歓談。しかも、ワイン飲み放題ということで飲んだ飲んだ。まき~♪さんも意外に強い、グビグビグラスを空けておりましたよ。僕はうるとびーずさんがいつ例のクセを出すのか楽しみにしていましたが、穴沢さんと子どもさんの手前でしょうか、ちょっと控えめのようでした。う~ん、残念。帰りに諏訪の回転すしに寄って、山のようなお皿(妻のほうが多い)を残して先ほど帰宅しました。うるとびーずさんの日記に、僕の中味は過激と書いていましたがうるとびーずさんほどではないような気がしますが…。とにかく、お世話になりました。 気の効能だということです。・気エネルギーによって、「自然治癒力、免疫力」が高まる。・心身の不調・体の悪い箇所が改善される。・気力が充実し、気分が少し〈ハイ〉になる人もいる。・「邪気」を払うことで、人間関係のトラブルが改善される。・「運気」が高まり、物事がいい方向へと向う人もいる。・精神的不安・苦痛が改善され、前向きになってきくる。・心身が「精気」で満たされ、性格もおおらかになってくる。 ちなみに、僕はそこに年に1~2度訪れていますが、気が多いこと以外は変わってないようです。
2003.10.26
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昨日は快晴だったのに…今日は楽天友だちが訪ねてくれるという。心理学のせんせいで、僕が巻き込まれた楽天大騒動の渦中には何かとアドバイスをくれた女性だ。偶然に休みがとれ、ふっと僕やうるとびーずさんのことを思いついて信州へ行こうとなったらしい。今日はこちらに泊まって(ちゃんと一人で泊まる宿もとってあるからご心配なく)、明日は一緒にうるとびーずさんのところにお邪魔して、そちらでお世話になるという予定だ。実はうるとびーずさんとは同じ信州で、田中康夫応援団としてのつながりもあるのだが、まだ一度も会ったことがない。HPに小さく載っていた写真で姿形は予想しているのだが、さてどのくらい自分のイメージと近いのだろう。ちょっと怖くもあり楽しみだ。うるとびーずさんのご伴侶は、元稲垣吾郎に似ていて(元というところがミソだが)、アランドロンの大ファンだという。ドラエモン系の僕をみて失望するのではないかと心配だが、面食いのわりにヤッシーも好きだという雑食性の心のひろい人だから大丈夫だろう(とまずは牽制球を投げておく)。オフ会は以前東京で小林とむぼさんの個展でミドル英二さん、混々沌々さん、秀さん等とお会いして以来だ。顔を合わせたことはなくても、HPのなかの日記でだいたいの人格や性格は予想できる(ということは、僕はかなりヤバイかも)。また、掲示板やメールでのやりとりで、もう一歩お互いの考えていることも披瀝しあえるから、姿形を一見しての思い込みがないだけ、正確に実像にちかづくことが出来るかも知れない。ということで、まもなく到着するのでこれから迎えに行ってきます。今日の報告はないでしょう。 紅葉でも観に行ってこようか…。
2003.10.25
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この春まで仕事で2年ほど四国の香川県に行っていた人に、妻と一緒にお呼ばれしてきた。呼んでくれた友人のご主人は大のうどん通。四国・香川といえば札所めぐりの巡礼。巡礼もすべて済ませたという。そして讃岐うどん、その讃岐うどんを食べ歩き、ついにはうどん道場に通い、うどんの道を極めてきたのだという。いうなれば、その腕を拝見ということなのだ。信州にいるときに、蕎麦打ちはすでに皆伝だったということだ。まず、ザル蕎麦からスタートして、フルコースともいえるほどたくさんの種類の食べ方で馳走になったのだが、さすが腕自慢だけあって、麺はもちろん出汁もイリコも見事なものだった。僕も友人に本業のうどん屋がいて美味しい麺を食べつけているから、うどんの味にはちょっとうるさい。腰があって、のどごしが良くて、健康的に色白でと…、最近W君の店でも出してくれるが、これは葬式のときのおにかけ並で、まだまだ合格レベルにはない。聞くところによると最近都会では讃岐うどんがブームになっているという。ブームというものにあまりいい印象をうけない。一時ブームになって消えたもつ鍋ではないが、ブームというのは一過性のものだよ、と宣言されているようなものだ。ちょっと調べてみたら、なんとかヌードルと呼ぶところもあるんだって。うどんはうどん、カップヌードルと同じ呼び方にする必要があるのだろうか。本物のヌードなら許すが…。ところで、香川県では讃岐うどんの値段が信じられないほど安いという。一番安いうどん店では1杯90円、1杯100円といううどん店も15軒、1杯110円の店が2軒、120円が19軒。セルフサービスの店のかけうどん1杯の平均値段は165円だそうだ。一般店の平均値段でも250円強ということである。これだけ安かったら、やっていくのが大変かと思うが、信号の数より店が多いという。これは、うどん店だけで商売をしているからでなく、製麺所の片手間に店を出して味見をしてもらうという色合いがつよいのかも知れない。旨いものを安く、この原点があるかぎり讃岐うどんの人気は当分安泰だろう。Kご夫妻様、おいしいうどんと含蓄のある話をありがとうございました。うどんの句はいろいろありましたね。雪だよとうどんの箸で窓をさす何も言うないまはうどんを喰っている向き合ってうどんを食べる死んでもいい
2003.10.24
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昨日の日記にこんなに反応をいただくとは思っていませんでした。とくに女性の反応が多いのには驚きました。うるとびーずさんのように、ぬけぬけとのろけられてしまうと、もうタジタジといったところですね。おおむね女性の方がくっつき願望が強いのかも知れない。これはSEXのためという意味だけではなく、体温を通じあうことの安心感や信頼感などを求めて、という面があるのでしょう。男の場合は、年齢にかかわりなく未知の肌と接近したい願望は強いと思いますが、それとて、こころに通じ合うものがあるだろうと…かなぁ。でも、そうあって欲しいものですね。刺青の話題も戴きましたね。唯乃葉羽さんが「知り合いの女優さんに、可愛らしい刺青をしている人がいますが、高揚すると色が美しくなるのだそうです。」とありましたが、「高揚」って、愛し合っているときのことでしょうか。う~ん、どのように美しくなるのかぜひ拝見してみたいものです。いえ、あくまで後学のために…。以前、僕もお会いしたことのある女優さんのことなのかなー、つい想像をしてしまいます。刺青が身体に悪いかどうか、僕には医学的にはわかりませんが、花子さんが娘さんから聞いたという「火傷の状態になるので検査が出来ないそうです。」という話は信憑性がありそうですね。龍の彫モンさんの「登り龍下り龍を入れていますが、制汗作用はないに等しいです。汗は人一倍かきます。C型肝炎にはなっていますが、肝臓はいたって丈夫です。」これも、当事者の証言として貴重ですね。「久しぶりです」って、僕とどこで久しぶりなんだろう、あまり心当たりがないけれど…。そうか、汗をかかないといったのは正確ではなかってのですか。それとも色の入ったところだけが汗をかかないのかなー。刺青を彫るときは痛いと思うのですが、銭湯で一緒になったくだんのヤーサンはかなり微妙なところまで彫っていましたが、麻酔でもして彫るのではないでしょうね。聞いたところによると、手彫で背中に彫るのに6ヶ月から1年位、全身を彫るのに2年から3年位、金額も数百万円はかかるということです。その間に発熱や大変な痛みと闘わねばならないということですから、相当の覚悟がなければできないでしょうね。女性でも全身にしている人がいて、拝見したことはないですがこれは妖艶でしょうね。アイヌの女性たちは口の周囲にしましたが、これもやっぱり痛そうですね。僕のような臆病者には想像もできませんが…。日本では、一時お上が禁止したこともあったり、公衆浴場などで「イレズミの方はお断り」などと日陰者扱いされることの多い刺青ですが、西洋では刺青が芸術的な観点から注目されているとも聞いたことがあります。たしかにあの技術は職人技でしょう。縁遠い世界と思っていましたので、よもや刺青でこんなに話が盛り上がるとは思いもよりませんでした。 急に寒くなって、木の葉が舞い始めました
2003.10.23
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教えたがりの友人から、夏でも異性と肌をくっつけたいか否かが、若さを占う境界線だということを聞いた。つまり「ただでさえ汗をかくのに、これ以上他人さまの汗で濡れるのはうんざりだ。」と思うようになったら若さを失った証拠だというのだ。(オイオイ、もう記憶にないほど昔からうんざりだよ)と内心は思ったのだが、「濡れるのだったらまだまだスコールでも夕立でも朝立ちでも(ンッ?)どんとこいだよ。」と見栄をはってはみたのだが、彼の言うこともあながちピントはずれではないのかも知れない。しかし、家では粗大ゴミ寸前の大方の男も、(なに、一歩外にでればオレだって…。)と、こころの中では思っているのである。しかしである、暑かった夏が過ぎ、秋がきても、外出をする気にもならずその状態がつづいたら、若さを失ったことのダメ押しと認定されてもしかたがないだろう。教えたがりは、若さはあるが汗は嫌いだというひとは刺青をするといいという。刺青のスミを入れると汗をかかなくなるそうである。しかし全身いれずみをしたら、よっぽどヤクザ好きな女性でないかぎり寄りつかなくなるのではないだろうか。以前、立派な彫り物をしたヤーサンに出会ったとき思わず聞いてしまったのだが、刺青は身体にあまり良くないのだそうだ。ことに肝臓に良くないという。彼も肝臓を壊していると言ったが、酒のせいなのか刺青のせいなのかわかったものではない。教えたがり屋にしても、口ほどに実力があるとは思えない。つい先日、当市の遺跡から縄文中期のものとみられる土偶が発見された。土偶は女性を形どったものらしく、頭頂部はヘビがとぐろを巻いたようで側頭部には三つ編みの状の髪型をしている。それに耳栓をして、目からしたのほうにかけて文身(いれずみ)が刻まれているという。かなり珍しいものらしい。縄文中期の特殊な身分の女性ではなかったかと見られているが、当時からいれずみなどの技術があったということだろう。刺青の風習は、南は沖縄から北はアイヌ民族まで広く分布していたが、もともとは「悪魔よけ、子孫繁栄、成仏祈願」などの呪術的、信仰的な目的だったようだ。男たちがするようになったのは江戸時代になってからだ。火消しや籠かき、船頭などの肌を見せることが多い職業の男達の間でブームになったということだ。明治以降は禁止されたのにもかかわらず現代まで続いているのは、まさか制汗作用を求めてことではないだろう。ところで、僕は何を書きたかったのだろう。そうだ、若さとは〈それ〉だけで測っていいものだろうか。溌剌と生きたり、スポーツや趣味に熱中することも、精神的な若さがあってのことではないだろうか。なにか、いいわけっぽくなってきたからこのくらいにしよう。 いや、たそがれの景色だって悪くないぜよ
2003.10.22
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今日で楽天日記を開いてちょうど1周年になった。当初はあまり真面目に書いていなかったようで、日記記入率76パーセント、一日あたり平均111カウントという。うち1割くらいは自分で踏んでいるだろうから、100回くらいはヒマなひと、いや忙しい合間をぬって開いてくれたことになるのかな。でも、実際に日記を読んでくれた人はその半分か、3分の1くらいだろうけれど。いずれにしても日記は読んでくれる人がいると思うからつづけてこられたのだ、いずれにしても感謝感謝。ここでは日記と言っても、その日にあったことの記録は少なかったと思う。たまたま思いついた題材で書く、エッセー風のものが多かったから、思春期に書いた日記での「……と書いておこう。」といったものと同じたぐいで書いてきたといってもよいだろう。この1年でもっとも印象に残ったのは、イラク戦争前後になんだかんだと複数絡み合ってきたBBSでのやりとりと、他人の個人情報を漏らしたということでやり玉にあげられた出来事だった。騒ぎの渦中にいるときには、自分でも事態がよく飲み込めない状態だったが、冷めてみれば何か空しさだけが残った出来事だった。ネット上のトラブルが原因で離れた人もあったが、対応をアドバイスしてくださるなど、身元を名のりあっておつきあいできるなど、おかげで友人と呼べる人が何人もできた。ネットの上ではハンドルネーム、互いの顔も知らない間柄ではあるが、信頼してこころを通じ合うことのできる人はどんなところにもいるものだと知った。また、思わぬ人が思わぬ力を発揮してくれるなど、意外な発見もあったりして、つくづく人は捨てたものではないということをあらためて認識した。そして、一旦閉じた掲示板の再出発。実はいつ楽天を撤退してもいいというつもりで再開したのだが、それ以後の掲示板でのホットなやりとりには、実りを感じるものが多かった。また、このところリンクしてくださっている方たちの日記も、ずいぶん中味が濃く、勉強になったり息抜きができたりと、ありがたいことである。そして、川柳作品への感想や、昨日の日記への感想などにみられるように、すこしずつではあるが僕にとって血や肉になる反応をいただき学べることが嬉しい。さて、この「ひまじんみにぎゃらりー」がこれからどれほど続くのかわからないが、皆さんと今後も良いおつきあいを続けられることを願いたい。よろしくお願いします。 こんなタイトルのときもありました
2003.10.21
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ヌードの美しさは共同幻想?人間の裸が美しい、セクシーなものと認識されたのはいつ頃からだろうか。西欧ではミロのヴィーナスに代表それる女性像、ミケランジェロのダヴィデ像などの男性像など美しい肉体が彫刻として残されている。教科書に載っていたそれらの写真をちょっと眩しい思いで眺めたものだが、肉体の美しさ・セクシーなもの、という感情は明治以降の西欧的道徳観の由来する共同幻想である。日本の縄文時代の埴輪は、西欧の彫刻などと違ってとても個性的である。『日本書紀』によれば、埴輪が造られるようになったのは、天皇など身分の高い人が亡くなったときに、殉葬として近習の者たちが生きたまま墳墓の周りに埋められていたのを垂仁天皇がその痛ましさを見るにしのびず、禁令を出し、自分の皇后の葬礼に際しはその古風な風習の代替物として「埴輪」が立てられることになったということだ。女性の形をした埴輪も多く出土しているが、ふっくらした腹部とふくよかな胸、臀部といかにも妊娠中の女性の形が多いのは、妊婦がことのほか大切に大事にされたからでもあろうと思われる。埴輪の女性たちが、西欧の彫刻とくらべ特異な形をしているのはモデルの違いにもよるのだろうが、この頃は、妊婦が美の象徴だったのかも知れない。今はそれなりとみられている人も、縄文時代なら美女としてあがめられたかも知れないな。ダンプ松本だって世が世なら…。先の日記にも書いたが、西欧の道徳観が入る明治以前は、裸体をセクシー・美の対象とみる習慣はなかったから、銭湯などは男女混浴で平気だったし、道ばたで行水する女性の姿もあったようだ。この頃は男性も女性の裸に現代人ほど興味を示さなかったのだろう。きのどくに…。僕の子どもの頃は、女性が乳児に乳を与えるときには人前でも平気で胸をはだけていた。最近は、こういう光景はほとんど見られなくなったが、僕たちは女性の乳房をことさらセクシーで美しいものとする西欧的にな共同幻想に毒されているのだろうか。江戸時代の男性は好きな女性(当時は、好きな人=寝たい人だった)以外の胸を見たいとか触れたいとか思わなかったのだろうか。共同幻想の象徴としては、たとえば愛国心がある。国のために命を捧げても惜しくないという人があらわれるのも、そういう愛国者を立派な人とする育て方をする、共同幻想があったからだ。江戸時代以前は、身近な肉親とか好きな人を守りたいとか主君のために命を投げ出すことはあっても、国のためだけに命を投げ出すということはなかったと思う。翻って、ヌード写真などを見て美しいと感じるのは、それが美しいものだという共同幻想にとらわれてのことであるのかも知れない。たしかトンガなどでは、お相撲さんのような女性が美しいと崇められたような気がする。日本に生まれて幸運だった人と不幸だった人と、さて……。 この画像は僕ではありません。素材からの借り物です。
2003.10.20
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政治はディベート?日曜の午前中はゴロゴロとテレビを眺めていることが多い。サンデーモーニングとサンデープロジェクトをつづけて観る。関口宏の控えめで穏やかな語り口と、田原総一朗の自己主張を前面に出した攻撃的な論調という、対称的な番組内容だが、どちらもタイムリーな話題とともに、良くも悪くも日本人の政治観を左右させるオピニオンな役割をもっている。ことにサンプロの場合は、政治家同士を論戦させるという構成が多いが、いつものことだが、政治家とはよくもまあディベートな議論をするものだと感じる。言葉や意味ののすり替え、論点ずらしなど巧妙で、実に勉強になる。今日の各党の討論には自己主張はあっても、残念ながら展望を感じられなかった。具体的な展望のない論争は無味乾燥だ。言葉と文章は違うとはよく感じることだが、立て板に水のように語られている言葉も、文章にすればたぶん辻褄があわないだろうということはよくある。今日出演していた、小泉外交のブレーン岡本行夫氏(総理大臣補佐官)。複数回にわたってイラクへ足を運んで実情を把握しているということで、イラクへの自衛隊派遣についての必要性を述べていたが、各所に矛盾を感じた。たとえば、「自衛隊を危険地帯には行かせない」「イラクにいる邦人を(守らず)放置していいのか」。邦人を危険性から守るために派兵するって、自衛隊派遣は復興支援のためだけではなかったの?。 それとして、邦人が危険で自衛隊が安全な場所ってあるの?。「(戦争で荒れたままにして)イラクがテロリストの温床になったらどうするのか」。あれれ、イラク攻撃は、大量破壊兵器やテロリストを無くすために始めた戦争で、しかもそれに勝利して戦争は終わったと宣言してのではなかったの?。その言葉を真に受けるとしたらテロリストは居なくなったはずなんだけれど…。結論づけるには端的すぎるかも知れないが、僕のような単細胞には論理的に整合できない発言だった。日本は、2007年までの4年間では、有償資金を含めて総額50億ドル(約5500億円)規模を拠出する方針だということだが、(K総理と塩ジイが、アメリカと約束しているという1兆という額との差額も気になるけれど…)国民のほとんどがみたこともない巨額な金を献上しようというのだから、せめて国民を論理的にも納得させたうえで決めて欲しいものだ。あ~ぁ、外はいい天気なのにムダな時間を費やしてしまったなー。
2003.10.19
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ドロちゃん、カメラ返してくれないかな20歳頃だったと思う。司馬遼太郎の『龍馬が行く』を夢中になって読んだことがある。「男の本懐」ということばがあるが、社会に対して坂本龍馬のようにさっそうと生ることができたら、それこそ男の本懐だろうと思ったものだ。そのときから司馬遼太郎というう作家に憧れに似た興味を抱き、幾つもの作品を読んだ。歴史上の人物に光をあてた作品が多く、どれも面白かったが、なんといっても学ぶべきところが多かったのは『街道をゆく』だろう。これは『週刊朝日』に連載されていたものだった。徹底した取材力によるものだろうが、司馬遼太郎の歴史への鋭い洞察力にはどれほど思想的に影響を与えられたか知れない。『街道をゆく』のために取材した街道は72ヶ所、原稿用紙18000千枚に及んだという。歴史小説家は、歴史上の人物の生家、付近の地勢、土地のいいつたえをしらべ、子孫を訪ね、そして人物にかかわるあらゆる文献をあつめるという。いつか週刊誌だかに司馬遼太郎の家の書庫が紹介されていたことがあったが、図書館とみまがうほどの広さと蔵書数だったと記憶している。作家にとって、まずなによりも大事なのは事実認識であり、その認識の自由な展開が、小説となることを知ったのであった。僕などは、ほとんど空想のなかでものを書いているが、どんな文章にも事実起こったことや体験をベースに敷いて書くようにこころがけている。事実認識なしに、空想だけで作った文章や川柳は、相手のこころに伝わりにくい、というよりどこかで見抜かれてしまうような気がする。
2003.10.18
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自由に書くということ。文章を書く場合、たいがいテーマを決めてスタートするのだろう。テーマさえ決まれば、エッセー程度の文章なら目標に向かって進めてゆけばいいのだから苦にはならない。しかし、書くべきテーマが思いつかないときには、机の上でダッチロールをつづけることになる。きょうは茸のことについて書こうとか、子どもについて書こうときめるのが「主題」だが、絵でも作文でも小学生のときは先生が題を与えらることが多い。「お母さんについて」とか「遠足について」書きなさい。これは小学生だけでなくても大学や社会人になっても与えられた題によってレポートを書くことがある。題を与えられることに馴れてしまうと「興味あることについて書きなさい」などと、限りなく自由な主題が与えられたばあいに、なにを書いていいのか分からなくなってしまうことがある。「自由題」をいやがる子どもたちが増えているそうだが、僕たちのやっている川柳においてもそれを感じることがある。いわゆる「自由からの逃走」が発生するのだ。本来、自我というものは自由な存在であり、その表現も自由であるべきだから、ひとから題を与えてもらわなければ何も書けない書けないというのは困ったことだ。こことリンクしている小林とむぼさんの人形たちなど、どのようにテーマが決まっているのだろうかと不思議になるほど面白いタイトルがついている。主題が決まったときに作品の何パーセントかはできたようなものなんだろう。もとに戻るが、主題について興味をもたなければ迫力のある文章は書けない。いやいや書いた文章は読んでも面白くないものだ。そして、主題が大きすぎてもだめだと思う。なるべく焦点を絞って小さなことにこだわって書いたもののほうが面白くなることが多いような気がする。また、ピンボケの文章はこころに残らない。焦点がボケた文章とは、そう、この文章などはその典型かも知れないな―。
2003.10.17
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友人の始めた店に昼食に行ったら、僕あての贈り物があるというので受けとり袋を開いてみました。出てきたものが、下の写真です。 いや、スラリと形のいいものも入っていましたから、これはご愛敬でしょう。I.YUKIKOさんありがとう。YUKIKOさん似(?)のスラリとした方も一緒に、鮭の頭などと一緒にアラ煮にでもしていただききます。といっているところに、宅急便の荷物が届きました。「福井のこしひかり」採れたての新米です。福井の川柳ともだちが送ってくれました。もつべきものは友ですね。この間、この貧乏人がバイクやらカメラを盗まれたということで、きっと皆さん心配してくださっていたようです。このお米と大根があれば1ヶ月ほどは食いつなげるでしょう、ありがとう。S君が衆議院選に立候補!?先のW君の選挙のときに手伝ってくれたS君という青年がいる。上田市出身で、S大学の法学部を出たあと生協の事務局長などを経て、この地域のNPO法人をまとめる仕事をしている。禿げあがった坊主頭に黒々とした髭という、ちょっとコワモテの風貌だが実はとても真面目で大人しい彼であるが、なんと今度の衆議院選挙に出馬する予定だという。オイ、オイ血迷ったか! と言いたいのだが、もう記者会見も済ませて新聞にデカデカと発表されてしまった。この地区は、自民党の実力者のM氏が長い間議席を占めてきたが、このたび引退して長男のI君が引き継ぐということで、街中A幹事長とツーショットで並ぶI君のポスターが貼られている。M氏は病気のため引退ということになっているが、実は大票田I市を基盤としている若手の参議院議員Y氏が伸びてくる前に禅譲を果たしたいというのが本音だと囁かれている。政権交代を目指して頑張ってもらいたい民主党もK候補を立てているが、落下傘候補という印象が強く、もうひとつ盛り上がっていない。ご存じひとり野党の共産党もM新人を立てているが、やはりいつものように独自の戦いといった風情だ。憲法の危機などもとりざたされている危ない時期ゆえ、ここはひとつ頑張ってもらいたいところだが、今回この地域で票の伸ばすにはちょっと苦労するだろう。というのは市民派として評価の高かったW候補を、暗黙のうちにも協力をするだろうと思っていた先の県議選で、党の事情にこだわって候補を擁立し、絵に描いたように足を引っぱってしまった後遺症もあって、市民間にひろがった失望感は簡単には払拭できないだろう。そこでS君に頑張って欲しい、といいたいところだが、何の基盤ももたずに選挙というのはあまりにも無謀で、自爆テロにも等しいのではないか。彼の生真面目さは確かに買うが、真面目だけでは政治家は務まらない。国会は寝技足技、騎乗位(?)などを駆使して生きている妖怪たちの魔窟である。彼は、「普通の人が政治に参加できる澪になりたい」という。それは結構だ。しかし、この普通の神経ではつとまらない世界で、きれいごとを貫くことはアザラシのタマちゃんが神田川に住むより大変なことは誰の目にもあきらかではないか。彼を担ごうという人たちも、文化活動、環境問題、市民活動、平和啓蒙の活動などを通じて少なからず知古の方たちだ。これからも、もっと地に着いた場所で力を発揮してもらいたい人たちばかりだ。再考してみたらいかがだろうか。S君、高邁な目標をもつことはたしかに大事だよ。しかし選挙は出る以上は少なからず「勝つ目算」を立てなければならない。「自爆テロ」のような戦法は、体制への一時的な混乱と自己満足以外のなにを残すのだろうか。そのS君が、案の定パンフレット制作などで、知恵を借りたいといってきた。「ほら、ほら」こういうときにいつでも僕を引きこもうとする。印刷業という仕事を抱えている以上、ビジネスとしてのお手伝いは拒むものではない。しかし、とてもそれ以上のエネルギーを使う余力はない。それでもよかったら、ということで…。フゥー、ちょっと気が重いなー。 うるとびさん幻泉観さんの画像処理の方法「幻泉観さんの画像処理の方法」に飛びます。
2003.10.16
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今日は青空か拡がりました走る!小春日和に誘われて農道で車を走らせていたら、高校生たちが走っている。辻々に「競歩大会につきご協力ください」という立て看板が立っていた。にわかに高校時代に行われた「強歩大会」が甦った。僕が高校1年の10月、全校強歩大会が行われた。それも昼間の「クラスマッチスポーツ大会」を終えて、夕方4時出発。夜を徹して走るのだ。距離は男子が約80㎞、女子が約30㎞。山越えの道だったため舗装も少なく、街灯のない暗闇を懐中電灯を頼りに走った。今思えばずいぶんムチャな計画である。卓球部に籍を置いていた僕は、卓球の腕はともかく走るトレーニングだけは充分に積んでいた。先輩たちに混じって走り通して、約10時間ちかくをかけてゴールの学校まで辿り着いた。夜中の2時になっていた。学年で2位、全校で10位という成績だった。遅い人たちは次の日の昼頃足を引きずりながら学校にたどりついた。その日からしばらくは先輩の女子たちの人気者になった。それまでは単に身体の小さい男の子だったのが、足が速いという勲章がついたからだった。実は中学生までは、身体が小さくて運動もダメだろうと、クラスのほどんどが出る駅伝にも選ばれないほどだったが、その一件があってからは、たいがいのことは努力さえすれば何とかなるという自信がついた。従兄弟に、パラリンピックアジア大会のマラソンで2位になった人がいる。「シドニーパラリンピック」ではゴール200メートル前までメダル圏内にいながら、ふらついたところに伴走者が手を出したということで失格になった。極度の視覚弱者で、伴走者のひもに頼って走るのだが、2時間40分台で走るのだから一般の市民ランナーとしては速い方なのだろう。彼は、国立病院でリハビリ療法士として働いているのだが、あるきっかけで走ることに喜びを見いだして、とうとうパラリンピックにまで出場するようになったのだ。常に伴走者がいてくれるわけではないので、彼のトレーニングにはいつも妻が自転車などで練習につきあわなければならない。自分の趣味でもないのに、ほとんど毎日のように何十キロも一緒に行動するのだから、そのほうが大変だと僕は思う。彼ももう若くはない。過酷な競技生活をつづけることに彼の兄弟たちは心配しているのだが、まだやめる様子がないという。まだ20歳そこそこの頃、彼と東京のデパートに入ったことがある。田舎者にとっては、初めての巨大な迷路のような建物のなかで、僕は人混みのなかでとまどうばかりだったのに、彼は平気で歩き回って、用事かすむと、スタスタともと来た入り口までまっすぐ戻ってしまった。生まれつき、弱視というハンディを負っていた彼は視力の弱いぶん直感力などが優れていた。むしろデパートのなかでは僕がハンディを負っていたようである。人間はどこかに欠損した部分をもつと、それを補う作用が自然にそなわってくるものだ。幼児期に、愛情たっぷりに何でも与える、困るとすぐに手助けをしてあげる、ということが必ずしも本当の愛情につながらないのだということを、若いお母さんに知ってもらいたい。失敗したときに思い切り抱きしめて、失敗を共感してあげれば、次にはそれが子どもの経験として確実にインプットされていくに違いない、と思う。
2003.10.15
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性格の不一致は性の不一致、離婚するときに「性格の不一致」と言ってもそのまま信用されることはないというのが通説だ。その多くは性の不一致、男性の暴力的な性行動かSEX嫌いにあるとも言われる。愛し合って一緒になったはずなのに、なぜそのようなことが起こるのだろう。しかも、相反するような形で…。その多くが、男性の幼児期における母親との情緒的な関係に起因すると、性心理学に詳しい友人に聞いたことがある。幼児期に、母親の過度の愛情に支配され、情緒的にも絡め取られ、充分すぎる保護と同時に干渉される呪縛感や息苦しさのなかで育った男の子が男性になり、正常な性能力を確保してゆくには、精神的にも性的にも母親から解放されないかぎり、支配され保護される愛情しか受け入れることができなくなるというのだ。これはしばしば不能であったり、一方的な性行動であったりと偏ることが多い。ときに両親が離婚した子どもが結婚して、同様に不幸な経過をたどることがあるのは、片親だからということではなく、夫を無くした母親の過度の愛情が子どもに注がれすぎて、追い込まれてゆくからだという推測だ。先日、AVビデオを問題にしたが、個室に籠もりAV漬けになる動機も、母子家庭であったり、家庭に無関心な父親をもつ子どもに多いのではないだろうか。性を機械的即物的なものとしか考えてこなかった男性は、相手に対しては性的道具としての扱いを強要することになる。幼児期からの生活のなかで、こうした方向にむかって刷り込まれていくわけである。仮に、こうした男性と結婚して(他からみて)平穏な生活をつづけるには、SEXレスかあるいは彼がイメージしているSEXを受け入れるしかない、という日々が待ち受けている。女性は堪え忍ぶべきもの。という古きよき(?)時代には家のためにじっと我慢というケースも多かったかも知れないが、現代ではほぼだれもが予想する結論のほうにゆくのだろう。いやはや、この話題はそろそろ終わりにしましょう。
2003.10.14
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男性はしばしば性衝動によって行動する。女性が男性の性について考える最初の戸惑いは、なぜ愛情ももたずに男がSEXを求めたりするのだろうか、ということではないだろうか。(あくまで予断だが)それを商売にする女性以外は、女性のSEXと愛情は不可分なものであって、自分が愛しているか愛してくれているとき以外に身体の関係をもつことに嫌悪感をもつのではないだろうか。(僕は男であるゆえ実感できないので、歯切れが悪くなるのはご容赦あれ。)逆に、SEXモードにはいれば自分は愛されていると(無理にでも)思いこんでいるのではないだろうか。男は昨日の日記のエロ事師でみられるように、性的快感への欲求が強まれば愛情がなくても性行動ができる。南極観測隊に風船(?)できたダッチワイフを持って行ったり、戦時中は兵隊が強姦をしたり、家畜などで性欲を処理したという話を聞いたことがある。しかし、感情が入らなければできないから売春夫にはなり難い。では、男性の性行動とは本能で行動するものであろうか。男女を問わず、本能と思いこんでいる人が多いようだが、実は本能ではない。多くの男性は性衝動を理性のなかでコントロールしているし、愛情に応えるなかでSEXも行われている(でしょう)。動物は本能による性行動がはっきりしている。たとえば人間にいちばん近い猿にしても、雄が求愛して雌が応えるか拒否するかははっきり態度で示す。鳥や虫たちでもそうである。子孫を残すにふさわしい相手か、タイミングかを見極めて受け入れる。この雌雄が互いに求め合いカップルにいたる行動は本能的なものである。その絶妙なタイミングというか、あうんの呼吸は本能がなければできないことであろう。人間の男性の性には、単なる性欲というものと、精神的な満足とがある。精神的な満足はかならずしも愛情というものだけではなく、征服欲もある。しばしば戦地で兵隊が女性を辱めたりするのは、特殊な精神状況のなかで歪められた征服欲が起こるためである。もちろん抑制されつづける性欲が下敷きにあったり、命にたいする不安がともなうときに、性欲がより高まるということは知られている。このような文章を書くのは自分でも気恥ずかしく、正直なところ気が引ける。しかし、自己弁護すると僕は文章で書くほど実体験は多くないし、そういう欲求も高くない(と思う)。安心して欲しい(何を?)。これを書こうと思った動機は、「SEX」は愛情表現の究極のものという考えかたのなかにある、男女間の落差について語る人が少ないので、あえてとりあげてみた。こう書いていても思うのだが、「SEXはもっとも優れたコミュニケーション」だとは思う。仮にそれまで何とも通じ合わなかったふたりが、ベッドをともにしただけで人生のかなりの部分の共感を手にするわけだから…(*^_^*)。ところで、男性を代表して書いているような文章になってしまったが、男性も異論反論があったら寄せて欲しい。
2003.10.13
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きのこ採りに行ってきました。雑きのこが意外にたくさんでていました。「エロ事師たち」か…、ミトドル英二さんが今日、「最近見つけた、面白楽天日記」として紹介しているCAT-Oさんの日記に、「安部慎一」という作家が紹介されていた、要チェック。このCAT-Oさんもただ者ではなさそうだ。ところで、このCAT-Oさんが「最後の戯作師・野坂昭如」さんを紹介し、こんな破天荒なオヤジが書く作品は一体どんな作品なんだろうと興味をもった方、早速「エロ事師たち」(新潮文庫)を手にしてください。と書いている。ずいぶん昔(1970年代か)になるが、僕も読んだ記憶がある。たしか二條朱実、殿山泰司というような配役で日活映画にもなったはずだ。「エロ事師たち」はポルノグラフィーを生業にしている男たちの哀歓を絶妙に描いているおもしろい作品であるが、今日の♪翔子さんの反応のように、女性にとってはこのような商売にうつつを抜かす男たちを理解してもらうのは難しいかも知れない。(って、別に僕が理解してもらう必要もないが…)実際、物語としては面白くても自分で実際にやってみたい商売ではない。それはおいて、エロ事師のなかで、登場人物ズブやんが次のような発言をしている。「よう薬屋でホルモン剤やら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもしろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるわけや、人だすけなんやで。今まで何人がわいに礼をいうたか、わいを待ちかねて涙ながさんばかりに頼んだ人がおったか、後生ええ商売やで」現代のように開けっぴろげの時代になってしまっては、「エロ事師」などという商売がなりたつかどうかわからないが、今でも三流雑誌には「エロ事師」によるさまざまな道具が通信販売されている。聞いた話だが、ポルノが禁止されている国ほど性犯罪が多いそうだから、「エロ事師」らは性犯罪の防止に協力していたのかも知れない。現代になって、小学生や幼児に対するいかがわしい犯罪が増えているが、「エロ事師」たちのように、開けっぴろげでヘンテコリンな大人が少なくなったこととも関係があるのだろうか。ここまで、男の心理から眺めた「性」を書いてみた。たぶん、これを読んでいる女性たちは、男とはなんと「性」に対して不真面目で、ふしだらで、不道徳で…、とあきれているかも知れない。しかし、程度の差こそあれ、男同士では「エロ事師」のように性を語ったり(女性からすれば滑稽なことで)悩んだりしているのである。書ければ、女性側からの「性」も考察もしてみたいが、なにしろ実感がともなわないので女性の皆さんからのご意見も伺いたいものである。 きのこ採りの帰りに、南アルプス村で、吉田ゆきこさんのご主人の手作り家具展を拝見。手作りでデザインも素材を活かしたシンプルでナチュラル感あふれるものです。値段は安くないので、今風の手軽に手に入れて古くなったら捨てるものという発想の人には向かないでしょう。一生ものとしてじっくりと使い込み、磨き込むほどに良くなっていくという感じの家具でした。あの座卓いいなー。あの上に料理を並べて酒を呑んだら旨いだろうなー
2003.10.12
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男にとってのポルノグラフィーと、女にとってのポルノグラフィーの感じ方にどのような違いがあるのだろうか。若い頃、週刊誌などのヌードグラビアをしげしげと眺めていると、妻はあらかさまに厭な顔をし、しばらくすると軽蔑するような顔をしたが、今は一瞥するだけで平然としている。もうそうとう過日のことなので記憶に薄いが、僕は母親と中学生頃まで風呂に入ったような気がする。男性なら誰でも経験することであるが、少年期はほんのささいな刺激で局部が勃起する。子どもの頃はなぜそうなるのか意味がわからなかったから、母親の前でも平気だった。たとえば耳をピクピク動かすことが特技の子があったように、それが僕だけの特技かも知れないと思っていたことさえあった。だれも、そんな姿を見せてはくれなかったからであるが…。僕は奥手のほうだったから、中学生になるまでは結婚して家族にさえなれば子どもが生まれると信じていた。小学校6年頃、ある同級生が人間も犬や虫たちと同じことをするのだと懇切丁寧に教えてくれたが、にわかには信じられなかった。中学生ともなるとこと細かく教えてくれる先輩がいて、さすがにその仕組みを知ることになった。すると、母親と風呂に入ることの不安感が漂うようになった。当時はまだ若かった母親の裸は、なんの偏見もなしにきれいで誇らしげにみえていたが、男女間でおこなう仕組みを知ってしまってからは、もし身体の部分的な変化がおこったらどうしようという不安にかられて、だんだんと一緒に入ることからは遠のいていった。わけもわからず、仲の良かった女の子にイジワルしたくなったのもその頃だったような気がする。若干いいわけも含めていうと、ポルノグラフィーを見ている男を軽蔑する女性もいるが、少年時代にヌード写真などを見ることは自然な性的成長を促す大切な要素をもっている。中学生くらいになった子どもが仮に部屋にこもって、ティッシュをゴミ箱につめこんでいても、大目にみてあげたほうがいい。いや、みなければいけない。ただし、僕は過激なAVビデオなどにはちょっとちがった見方をしている。(それほど詳しいわけではないが)AVビデオで描かれる世界は実にエスカレートしていて、現実とはかなり隔たりのある描き方で、性の尊厳を冒涜したと感じるものもかなり多い。これを、現実と錯覚し、同じようなことをしているものとしてエスカレートしていくと、AVの世界でしか性を感じることのできないといったゆがんだ世界に陥ることもある。それをリアル化しようとすると、極端には昨今の宮崎勤事件に通じる犯罪などに発展することだってありえる。ヘアーヌード写真集などを見て、自然の範囲で性的浄化ができていれば性犯罪にまでおよぶ心配はないのではなかろうか。ところで、僕などが週刊誌のグラビアをこっそり開くのは、性的興奮を得るものではなく、純粋に美的観賞である。いやホント、そんなことではビクともしなくなった。まったく自慢にもならないが…。
2003.10.11
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福井の小学生の女の子に応えて、10年ぶりに「日本一短い手紙」を書いて今日ポストに入れた。書いたといっても、わずか35文字以内、短歌程度のものだから大げさに言うほどのことはないが…。ただ、この賞に関してはキャリアということになるので、入賞ねらいという内容ではなく、以前の作品のまとめとして書いてみた。母子の往復書簡という設定での募集。書き終えてから親子関係のことをつらつら考えてみた。女の子と父親という場合、男の子と母親という場合に、どのような異性像が生まれるのであろうか。幼児期に、男の子は母親に現実離れしたイメージを膨らませることが多い。乳房という肉体を通して自分にいのちをエネルギーのように授けてくれた潜在意識。またどんなわがままも厚いクッションのように受けとめてくれる、全知全能の人が幼児期に感じる母親である。大人になるにしたがって、周囲の女ともだちや父親との関係から現実的な姿を知ることになり、ときには反動としての軽い憎しみさえもつことさえあるのだが、いずれにしても、聖女から娼婦までの顔を自らのイメージのなかで反復させることになる。ところが、女の子が父親を見る眼はかなり覚めているような気がする。いや、覚めているというより等身大に見ていることが多いのではないだろうか。一家の大黒柱と聞こえはいいが、給料を運んでくるとか背中でものを教えるという作業は、母親のスキンシップ的なすり込み現象による効果にはとうてい及ばない。むしろ、ゴロゴロとテレビの前で寝転がって、ときに母親をメイドのように扱っている(中には違う家庭もありましょうが…)姿を見ていると、白馬の王子様も現実のなかではいないものだ、男とはそれほど過大な期待はできないということが早い時期にうすうす悟ってしまうのではないだろうか。そして、白馬の王子様を求める気持ちよりむしろ、ダメな男でも私の手で支えてあげなければという、母性本能が芽生えるにしたがって、より危ない男性に魅力を感じたりするケースが増えてくるのかもしれない。ちょっと、この話題をつづけて考えてみたい。
2003.10.10
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ちょっとした脱力感があって、文章をまとめる意欲が減退している。ことばの能力の優劣の決める要因のひとつは、経験に照らして事物の名前を覚えることだ。そして、表現力をやしなうための第一歩は、子どものような言語的好奇心をもういちどとりもどすことにつきると教えられたことがある。年齢的なものなのか、単なるバイオリズムの問題なのかわからないがそのどちらも減退することがある。実は今は娘の部屋を僕の書斎として使っている。娘は遠くにいるので帰ってきたときだけ開放してあげればいいからだ。娘にきている手紙類などはモチロン読まない。私信を読まないのは家族の間でも当然のルールだ。しかしカミサンはときどきルールを破るのだが…。娘は大学で国文学を専攻していたので、その頃使った資料があって重宝している。そのなかに寺田寅彦の文章があって、ハタと思ったことがあった。「八月のある日、空はねずみ色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机にもたれてK君にはがきを書いていた。はがきの面の五分の四ぐらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手すり越しに庭の楓のこずえをながめていた」これに似たことは僕たちにもよくある。こんなぼんやりした一瞬であるが、寺田寅彦は小さなひとつのできごとに気がつく。「すると私のすぐ目の前に突き出ている小枝に蓑虫のぶら下がっているのが目についた。それはこの虫としてはかなり大きなものであった。よく見ると簑はおもに紅葉の葉の切れはしや葉柄をつづり集めたものらしかったが、その中に一本図抜けて長い小枝が交じっていて、その先の方は簑の尾の先端から下へ一寸ほども突き出て不格好にそりかえっていた。それがこの奇妙な紡錘体の取ってとでも言いたいような格好をしているのであった。枝に取りついている上端は目に見えないほど小さい糸になっているので、風の吹くたびに簑はさまざまに複雑な振り子運動をしまた垂直な軸のまわりに回転もしていた」このように、小さな虫のできごとを微細にわたって観察し、書いている。こうして事物を虫眼鏡で書けば、書くネタなど無尽蔵にあることがわかる。それにはやっぱり観察だろうな、好奇心だろうなと思う。寺田寅彦は、もう80年も前に亡くなっている人だが今でも色あせない文体は、すぐれた好奇心のたまものだったのであろう。 最後まで読んでくれてありがたいことですコーヒーでもどうぞ―
2003.10.09
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恩人は月のある夜の月の中 恩人は竹二にとって月の光のように夜道を照らしてくれた人であったのだろう。その恩人もすでに故人となって、月の中にある。恩人と重ねて月を見上げる竹二の姿が夜景のなかに浮かぶ。川柳の本質をきっちり捉えていながら、詩情もかもしだしている好作品である。兄弟の母の記憶は別に持ち 大山竹二 異母兄弟のこととも読めるが、むしろ兄弟の年齢差による記憶差と読んだほうが良いだろう。長男は若く気負いのある母の記憶を、末っ子は穏やかに老いてゆく優しい母の記憶をもつ。ちなみに次男だった僕は、母を困らせた記憶ばかりが残っている。作品から様々なストーリーを連想させる。間をおいて犬が子を産む話をし 大山竹二 親戚、あるいは身近な人との会話であろうか、一通りおもな用件が済んでしまい特別な話題もない、こんなとき出るのは気候の話か身の回りの話題であろう。 このときも、そこにいた飼い犬の出産の話題でお茶を濁している。よくある平和なひとこまを捉えた川柳味のある作品。一つ咲いて誰彼の目に冬の薔薇 大山竹二 冬薔薇が咲いた。それは誰彼の目にも一輪の薔薇でしかないだろう。 しかし、薔薇を見つめる一人ひとりの心はそれぞれ別々の生活や思いがある。それぞれ違うことを考えていた人の目を一点に惹きつけた薔薇の立ち姿を切り取ってみせた作品。冬の無聊を囲っていた男たちの前を過ぎるときに、皆の目をくぎづけにした美人の姿とも読めるが、これは深読みが過ぎるだろう。かぶと虫死んだ軽さになっている 大山竹二 威風堂々と昆虫の王者としてふるまっていたかぶと虫。 それも死んで乾いた骸はひとつの物体でしかない。 翻って、生前のどんな肩書きも死んでしまえばひとつの物体としての軽さでしか残らない、と自ら(人間)にも置き換えて自嘲したのであろう。この句は竹二の代表作として、竹二死後も堂々とした姿で生き残っている。 「詩は川柳であるか」の問いに、竹二は「詩人との差は判然と語学の差」と述べている。竹二の句に詩情はあるが、詩に寄りかかっていない潔さがある。
2003.10.08
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「おかじょうき」という青森から発行されている月刊川柳誌がある。先日、9月号が送られてきて、ドヒャッ!と驚いてしまった。どこかで見たことのある顔がドアップで表紙になっているではないか。どうやらこの夏に青森に行ったときにいつの間にか撮られたものらしい。恥ずかしいではないか! それにしても、いつもこんな恥ずかしい面を晒していたのか…。「おかじょうき」川柳社代表の北野岸柳さんは僕とほぼ同年代、かの地ではラジオ番組のDJとして、先年には雅号(川柳名)のまま参議院議員にかつぎだされ、厚い保守地盤の壁に阻まれ惜しくも次点で落選した。)彼に招かれての青森での川柳大会行きであったが、彼のご子息のSinくん(といっても、最近に家庭をもっている好青年である)、八戸むさし、工藤青夏、岩崎眞理子氏等々(まだいっぱいいるけれど代表ということで)好作家とお会いするのが楽しみででかけた会であった。川柳大会とはどのようなことが行われるのは、一例であるが紹介してみよう。 命とは小さきものよ手をつなげ 岸柳岸柳氏は口顎に髭を蓄え、野武士然としているがDJで鍛えた弁舌で、たちまち周囲を自分の空気に変えてゆく達人である。もちろん川柳の達人でもある。これは小さな子供を真ん中に黒人夫婦らしき二人が手をつなぎ歩いている写真を見た印象を句にするという、席題(句会の場でつくること)での作品。ちなみに僕の句は、 街を出る小さな鈴をぶらさげて 岬時事川柳という課題では、 タイガース独走地球温暖化 岸柳 日の丸というアメリカの紙オムツ 岬固有名詞を読み込んだ川柳という、変わった課題もあった。 何もかも寒い夏だよ鶴彬 岸柳 蟹田町北野岸柳未決囚 岬鶴彬は獄死したプロレタリア川柳作家。岸柳氏の句が天で、僕は佳作。つぎに「ち」から始まる川柳。 致死量の夜露を待っている蛍 岸柳 ちいさめの月からいつも泣いてゆく 岬ここでは、岸柳氏が人で、僕が天。ちなみに、天地人、五客、佳句の順にいいということなっている。というふうに、句を競い合うのである。たまたま二人の句だけ抜き出したが、もちろん他にもおおぜいの句が出ていて、良い句があったことはいうまでもない。川柳は座の文芸ともいわれるが、今日はこのような遊びが行われているということを紹介した。
2003.10.07
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茄子もそろそろ露地物が消えてしまうのでしょうか院長があかん言うてる独逸語で 須崎豆秋 川柳で、着眼点を言うとき「見つけ」と表現するが、豆秋はまさに「見つけ」の名人。カルテに病名などをドイツ語で書かれていることを「なに、読めないと思っているだろうが、オレにはお見通しサ」とばかりに言って見せた鮮やかな見つけ。この句を作ったとき豆秋は癌にかかっていたのだが、自分の死をも笑いのタネにしてしまう川柳魂。速よいかな消えてしまうと火事見舞 豆秋 当人にとっての一大事も、他人にとっては義理を欠かさないことのほうが大事だという。誰にもありそうな本音の部分を穿ってみせたセンス。オーライで動き出したる霊柩車 豆秋 家族の悲しみの側から、まるで荷物でも運ぶように出てゆく霊柩車。悲しみの感情と実務的な作業との対比の面白さ、この「見つけ」も面白いといったら不謹慎か。夜の蜘蛛死んだまねしたままで死に 豆秋 這い出てきた蜘蛛を「縁起でもない」と払ったら、擬死をみせかけて転がったのだろう。それを殺してゴミ箱にいれたところまでの、よくありえる出来事を句にしてしまった。 豆秋は優れた写生の眼をもっていたのだろう。また、人間の哀しみの本質、自己への諧謔精神など、人間へのまなざしという深い裏打ちがあったからこそ、見事なまでにユーモアを表現できたのだろう。川柳の原点を考えさせてくれる作者である。
2003.10.06
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友人のW君の店が開店することになり、試食会に行ってきた。地元の人はもう誰でも知っているとおり、W君は市会議員だったがこの春の県議選で落選したため、糊口を凌ぐ意味で飲食店を開くことになった。彼ほど純粋で真面目に政治にとりくんでいた男を落としてしまったことは、この地方の民主運動に大打撃だった。トップ当選も狙える位置にいたのに自爆テロのような候補擁立に足を引っぱられてしまった。調整できると踏んでいた我々の見通しも甘かったが、大局を読む力のない人たちが政治をひきづると結局闘うべき相手を見失うという典型となった。もちろんこのまま落ち込んでばかりはいられない。どこかで態勢を立て直さなければ…。ところで、この店開きには正直、先行きを危惧して仲間たちは反対したが、大家となるおばあちゃんをはじめ家族や友人たちの支援を受けて開店の運びとなった。彼には誰かどうか助けてあげる人がでてくるんだなぁ、いいことではあるが今は艱難辛苦を耐えて鍛えなければね。二階は彼の活動を継続すべく、店の常連客のたまり場および市民情報センターとして活用されてゆく予定だ。一階は昼間は軽食喫茶、夜はアルコールもOKとなる。さて、彼が客の口にあう料理を作れるかどうかが関心事だったが、彼のファンだというオバチャンたちが寄ってたかって手伝いやアドバイスをして、なんとか合格点が与えられそうだ。ただ、オバチャンたちがそのまま居座ってしまうと店の雰囲気としてははなはだ…。料理の主品は、ちょっとしゃれた家庭料理といったところか。当地にお越しの方はぜひお出かけいただきたい。家庭料理と言えば、友人の奥方で西洋料理などを本格的につくる人がいるが、これには僕はちょっと苦手だ。自慢たらたらと説明されながら出されるから褒めないわけにいかないのだが、気を使いながら食べる料理は美味しくたべたことがない。僕は、肉じゃがやおでん、大根のあら煮などごく普通の家庭料理をたっぷりと盛りつけしたものを、日本酒やワインをチビリチビリやりながら食べるのが好きなので、隣で料理のうんちくを語られながらというのはどうも落ち着かない。ようするに貧乏性なのである。ところで、明日は僕たちのグループのきのこ例会がある。きのこ名人が何人かいて、例年だと松茸やシメジ、クロカワといった茸を薪ストーブの上で炙りながら情報交換をするのだが、これがけっこう楽しくてつい飲み過ぎてしまう。そうなると、この日記の更新もできないかも知れないなーと、思っているが…。 稲刈りの最盛期ですね苦労してにつくった米を盗む泥ちゃん、これはいけないよ。
2003.10.05
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高橋散二という川柳作家は常に庶民の眼差しで、ユーモアとペーソスのある作品を生みだしていた。喩えていうならば、調味料をたっぷり使いこってり味付けした料理ではなく、とれたての旬な野菜を上手にあつらえた料理といった趣だ。現在の川柳句会や大会で、一見舌触りのよい味、見かけだおしの句が選ばれ、佳句が見逃されるという傾向が高橋の時代よりあらたまっているだろうか、と、散二作品に諄々と突きつけられているような気もするのだが―。しまいかと思えば続くベートーベン そういえば僕もクラッシックコンサートで、終わらないうちに拍手をしてしまいそうになり、周囲の失笑を買ったことがある。早すぎず遅すぎず、うっかりすると心地良くなって居眠りをしてしまう、拍手のタイミングは難しいものである。 一年二組いけずする子が二人いる イジメは昔からあった。ただイジメの質は変わってきているだろう。 昔はスカートめくり、胸ぺったん(触り)など、それは、好意を寄せている子への屈折した気持からであったり、学業への劣等感の裏返しであったりした。いつの世にもいけずな子はいるものだ。(少年時代の)作者はイジメっ子とは別の立場に立っていた、からこその小さな告発であろう。
2003.10.04
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タイトルの句、「盗むなら…」と書きましたが、「奪うなら」の記憶違いだったかも知れません。間違っていたら失礼!「ほら、わたしをさらうなら今よ」と、彼とはちがう人に囁いているのです。もし、結婚披露宴の席で花嫁にいわれたらどうします。大事にしているバイクとデジカメを盗まれて、やっぱり不便です。簡単に移動できないし、カメラを持たないと撮りたいものがやたら眼についてしかたがない。「盗む」も広辞苑では、【盗み足】【盗み聞き】【盗み食い】【盗み心】【盗竹】【盗み鳥】【盗み撮り・盗み録り】【盗み見】【盗み物】【盗み読み】【盗み笑い】などと、ちょっと趣のあるものもあります。川柳人はどのように「盗み」を料理すると思いますか。「川柳新子座」のなかから紹介してみましょう。唇を盗むに丁度良い月夜 井上由紀子 この人も僕の親しい友人。いい川柳を書く人ですが最近は写真に凝っていて、各地の風景を盗る、もとい撮るために動き回っています。川柳と写真は似ているんですよ、その理由はまた別の機会にしましょう。恋人を盗んでくれて今感謝 高田公三 思いあたる人もいるのではないでしょうか。恋人だったときにあんなに可愛く素敵だった人も歳月を経てあってみれば、おぞましいオバタリアンになっている。振られた腹いせもあるけれど、盗ってくれてありがとうョ! もっとも、相手も同じように彼のことを思っているに違いないけれど…。親友の夫盗んでみたくなり 小野富代 男だったら「妻」ということになるのでしょうが、こんな気持ちもときにはあるかも、いえ、僕にはないですよ。友達の前では…。 人のものはとても素敵に見えて、盗んでから較べてみればたいした違いはないんだろうけれど…。一盗、二卑、三妾、四妓、五妻という言葉があります。ほしい順番のことらしいんですけれど…。私が盗ったそうですひと一人 西原典子 盗ったひとが今のご主人なんでしょうね。あんなに苦労して盗ったのに、今らなってみればただのカボチャではないですか、と今更うらむのなら、のしをつけてお返ししますけれど…。父を盗んだ人が近所に住んでいる 中野文擴 僕の書いた一行に似ているシチュエーションですね。お父さんは盗まれたくて、ときどきそのひとの家の前をウロウロ散歩していたのです。妹がみんな盗んで器量好し 長井紀子 確かにおなじ親から生まれたとは思えないような器量の差がある姉妹っていますね。いえ、これを読んでいるあなたのことではないですよ。盗んではいけない妻に怒られる 田付賢一 そうなんです。べつに盗もうなんて思ってもいないのに「よその奥さんにはダメよ!」って奥方に怒られるですよね田付さん。ちょっとお借りしただけなのにねぇ…。ストローでゆっくり盗む脚線美 二村吉光 喫茶店の低めの椅子に座って、アイスコーヒーを啜っている僕の斜めむかいに座ったスラリと脚線美の女性。スカートの、その見えそうで見えないあたりについつい視線が行ってしまう。ちょっとあなた、目の前にいる彼女のことお忘れではありませんか。盗みやすいようにすこうし目をおとす 夕 凪子 男なんていつもコソコソとかわいいもんです。そこへいくと女性はなかなかのテクニシャン。ほら、はやく私を盗みなさいって、じれったい。
2003.10.03
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ちょっと荒んだ気持ちで帰宅したら、ラヴレターが届いていた。福井県の女の子だ。福井には親しくして戴いている女性も男性もいて、気になる土地ではあるがまだ訪れたことはない。「はじめまして」とある通り、手紙の女の子と僕は会ったことがない。読んでみると、以前福井の丸岡町で募集した「一筆啓上賞」へのことが書いてあった。そうか、あれからもう10年にもなるのか。当時、2歳だった女の子があんな文章を気にしてくれていたなんて、嬉しくもちょっと申しわけない気持ちになった。たまたま、今日うるとびーずさんの日記でも小諸での「初恋はがき」に応募しませんかというお誘いが載っていたが、偶然のふしぎを感じた。 この女の子が手紙で触れている僕の文章は、 あの人と幸せでしょうかお母さん、父さんは無口を通し逝きました。は「日本一短い母への手紙」として、十朱幸代、原田龍二、裕木奈江、小林稔侍、江守徹さん等で映画化されて、僕のことも新聞や、フライデーだかフォーカスだったか忘れたが、あちこちで書かれ閉口したことがあった。その文章のことで訪ねてくださった伊藤俊也監督(小柳ルミ子の白蛇抄や花いちもんめ・誘拐報道・女囚さそりシリーズ・プライドなど様々な話題作を撮りつづけている)とは今でも親しくおつきあいさせて戴いている。 というように、僕の筆のなかでもちょっとしたエポック作品でもあった。ところがである。そこにでてくる母親は全くの虚像、ウソッパチである。本当の母はごく平凡な良い母親であった。ゴメン、母さん。親戚からはブーイングがあった。それでなくても、文芸上のあそびとはいえ、母をそんなふうに書いたことで胸が痛んだ。手紙をくれたのは小学校六年生の女の子。手紙のうしろに大人の影を感じないわけでもないが、母への贖罪の手紙を書かなければならないだろうなー。ところで、「初恋」なら何度(?)も経験している。皆さんも同様でしょう、ぜひ小諸にも応募してあげてください。表彰式でうるとびーずさんとお会いできるかも知れませんよ。
2003.10.02
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もうすぐ紅葉なのに…まさか自分だけはそんな目に遭うまいと思っていたのに…。昨夜、事務所で書きものをしていた。午前0時を回り、帰宅しようと外にでたら事務所玄関先に停めてあったバイク(スクーターの大きいやつ)が無い。目をこすって、周囲を探したのにどこにもない。そういえば外から帰ったら客が来ていたので慌てて、鍵をつけたまま事務所に入って、そのまま忘れていたのだった。バイクは街中では小回りが利くのと、渋滞していても車の脇をすり抜けて前にでられるので、なんといっても爽快だ。そして、写真になりそうなものを見つけるとどこにでも停められる。もう、車は家に置き放しにしてバイク一辺倒だった。そのバイクがない。そして、もっとショックだったのは座席シートのボックスには愛用のデジカメが入れてあったのだ。デジカメといっても仕事に使うこともあるので、500DPI対応のニコンCP5700十数万する。妻の目を盗んで、外出もがまんして買った記憶用CFも、バッテリーも、万全を期して揃えてあったのに…、無い!HPにUPした写真の大方はお世話になったカメラだ。昨年暮れに、名古屋で娘のバイクが盗まれた。そのときは都会だからそのくらいのことはあるだろうと諦めたが、こんな田舎で、しかも事務所の中には僕が居たではないか。音も立てずにどうやって持って行ったのだ。息子と深夜の街中を探し歩いたが、無い。神隠しにあったようだ。どこかに子供を拉致された親の気持ちが少しはわかったような気がした。なんといっても、手足のように親しんできた道具だから…。ということで、今日は警察署に被害届を出して、警察官も何度か訪れ早速手配をしてくれた。見つかるか、犯人を検挙したら教えてくれるそうだ。そういえば、最近警察署もずいぶん応対が柔らかく親切になった。バイクは僕の足で、カメラは眼だったと言ったらたいそう同情してくれた。偏見や予断は持ちたくないが、手口が大胆で鮮やかすぎる。しかたがない、しばらくは肉体を使うことにしよう。今、窓の外を眺めるとアルプスに夕焼けが染まって美しい。お見せしたいのにカメラが無い。文章で補うしかないが、夏みかんの色からオレンジになり、今はサーモンピンクがエンジに変わりつつある。クソ表現力が足りない!考えてみたら、夕べ「悪事発覚…」などと書いている頃やられたようだ。罰があたってしまったようだ。コメントを頂いても今日は返事を書けないと思います。すみません。 これは今日の写真ではないんですよね
2003.10.01
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