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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十と十一章である。本文は以下のごとし、第十章一、念仏には無義(むぎ)をもて義とす、不可称(ふかしよう)、 不可説(ふかせつ)、不可思議(ふかしぎ)のゆへにとおほせさふらひき。 そもそもかの御在生(ございしよう)のむかし、おなじくこころざしをして、 あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして 心を当来(とうらい)の報土(ほうど)にかけしともがらは、 同時に御意趣(いしゅ)をうけたまはりしかども、 そのひとびとにともなひて念仏まふさる老若(ろうにゃく)そのかずをしらずおはしますなかに、 上人のおほせにあらざる異議(いぎ)どもを、近来(ちかごろ)は おほくおほせられあふてさふらふよし、つたへうけたまはる。いはれなき条条の子細のこと。訳文は次のようである。一、念仏には自力のはからいの無いのをもって、その正しいありかたとする。 それは、はかりにかけてはかることも、ことばで説明することも、 また思考したり議論したりすることで認識し体得することもできないものだからだ、 と親鸞聖人はおっしゃいました。 もともと、かの親鸞聖人がまだ御在世の当時、おなじ志をもって はるばる京都まで苦労を重ねて歩いて行き、信心をひとつにして、 その念願を来世の浄土にかけた仲間たちは、 そこでみないっしょに上人のお考えをうけたまわったのであったが、 その人々につきしたがって現在念仏をとなえられている老人青年は数知れぬほど多い。 しかしそのなかには、上人のお教えから大きくはずれたあれこれのことを、 このごろじつに多く談じ合っておられると、伝え聞いている。 なんの根拠もないそれらの説の一つ一つを次に子細に記すことにする。注釈には以下のように書かれていた。1無義 義は、わけ、意味、意義。無義とは、念仏を合理化するのを否定し、 それの不可能なことを示すことば。2不可称 称は称量(しょうりょう=はかりにかける)、 称揚(ほめあげる)、称名(なづける)などに解しうるが、 ここでは称量にとるのが適当かと思う。量的に限定出来ないこと。3洛陽 京都。中国古代の首都名が転用された。4当来の報土 未来において生まれるはずの浄土。当来はまちがいなく来るの意。5意趣 心持ち。考え。6いはれ 理由。物事の起こるもと。第十一章一、一文不通(いちもんふつう)のともがらの念仏まふすにあふて、 なんじは誓願(せいがん)不思議を信じて念仏まふすか、 また名号(みようごう)不思議を信ずるかといひおどろかして、 ふたつの不思議の子細をも分明(ぶんみょう)にいひひらかずして、 ひとのこゝろをまどはすこと。この条かへすがへすも、こゝろをとどめておもひわくべきことなり。 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、 この名字(みようじ)をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、 まづ弥陀(みだ)の大悲大願(だいひだいがん)の不思議にたすけられまひらせて 生死(しょうじ)をいづべしと信じて、念仏のまふさるゝも如来(にょらい)の 御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、 本願に相応して実報土(じつほうど)に往生するなり。 これは、誓願(せいがん)の不思議をむねと信じたてまつれば、 名号(みょうごう)の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、 さらにことなることなきなり。 つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、 往生のたすけさはり二様(ふたよう)におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、 わがこゝろに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行(じぎょう)になすなり。 このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。 信ぜざれども、辺地懈慢(へんぢけまん)疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)にも往生して、 果遂(かすい)の願のゆへにつゐに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。 これすなはち誓願不思議のゆへなれば、たゞひとつなるべし。訳文は次のようである。一、文字ひとつ知らない仲間が念仏をとなえるのに対して、 「お前はいったい、弥陀の誓願の不思議な力が救ってくださることを信じて念仏するのか。 それとも、南無阿弥陀仏という名号をとなえることで救ってくださる不思議な力を信じるのか。」 などと言いおどかすばかりで、このふたつの不思議な力の其の意味をはっきり説明せず、 人々の心を惑乱させるということについて。このことは、よくよく注意して、 正しく理解しておかなくてはならない。 弥陀は、その誓願の不思議なお力によって、たもちやすく、となえやすい名号を 考え出してくださったのであって、 この名号をとなえるものはだれをも浄土に迎えとろうとの御約束があることだから、 まず弥陀の大いなる悲願の不思議な力におたすけいただき、 それによってこの生死という迷いの世界から脱出出来ると信じて念仏することができるのも、 すでに弥陀如来のおはからいなのだと思えば、 そこにはすこしも自力による思慮や見解はまじってこないから、 本願のおぼしめしにかなって、真実報土に往生するのである。 これは、誓願の不思心議な力を、専一に信じ申しあげるならば、 名号をとなえることからくる不思議な力もおのずからそこにそなわり、 誓願と名号の不思議な力はひとつのものとなるのであって、なんら別々のものではないからである。 つぎに、自分の思慮判断をさしはさんで、善と悪とのふたつについて、 それらが往生をたすけたり邪魔したりするというように区別して考えるのは、 誓願の不思議な力を頼まぬことであって、それでは自分の心で往生のための行ないをはげみ、 念仏をとなえても、それさえをも自力の修行としてしまうことになるのである。 こういう人は、また、名号をとなえることで与えられる不思議な力を信じないのである。 しかし、それを信じない人でさえも、怠けものであったり、 他力への疑惑から完全に離れられなかったりするために、 十分に浄土の恩恵を享受できないけれども、とにかく浄土の片隅にはいったん往生でき、 しかも弥陀四十八願中の第二十の願である自分の力にたより念仏するものをも、 やがては他力念仏に転向させて真実報土に往生させようとの果遂(かすい)の願の力で、 ついには浄土に往生できるのであって、これも、名号をとなえることの不思議な力によるのである。 これはほかならぬ誓願の不思議な力によるものなのであるから、 このふたつは、まったくひとつのものであるはずである。注釈には以下のように書かれていた。1一文不通 一字の読み書きもできない。まったく学問がない。2ともがら 仲間の人々。3名号不思議 名号とは南無阿弥陀仏の六文字。それがもつ人の理解も及ばない力。4いひおどろかして‥・・と言ってびっくりさせて。5いひひらかずして 説いて十分に意味をはっきりさせないで。6まふさるる 申すことができる。「るる」は可能の助動詞。7実報土 真実報土の略。まっとうな浄土の意で、方便化土や辺地に対するもの。8むねと 宗と。第一として。9具足して すべてがみないっしょにそなわって。10さらに その上に。重ねて。11たすけさはり 援助したり妨害したり。12辺地懈慢 疑城胎宮 いずれも自力行者が来世に生まれる仮りの浄土で、 真実浄土に対するもの。辺地は浄土の片すみ。 懈慢は傲慢のゆえにいや気にくもらされた者が生まれるところ。 疑城は疑いにこりかたまった者の行くところ。 胎宮は胎児のように光明に接することのできない者の生まれるところ。13果遂の順 弥陀四十八願のうちの第二十願。 自力念仏者のすべてが名号をとなえて共の往生を遂げはてるまでは、 自分もさとりをひらくまいとの誓願。---第十章では、「他力には、義(意味)がないことに意味がある」という意味の事を法然が言っているのを、強調して書いている。自分の力で自分を越える事の難しさを十分に知り尽くしたものがいう言葉であるが、今の世の中、あまりに自分で考える事もなく、その努力もしない輩が多いように感じる。法然や、親鸞はこれらを包括して、他力によれと言うのであれば、私には承伏しかねる。最終的に他力(弥陀)にすがるという構図は、結果は同じでも、自分で考え、悩み、そのあげくに他力(弥陀)にすがる者と、悩まず直裁的に「南無阿弥陀仏」とすがるものとの間には自ずと差があるように思われるのだ。それほど人は小さなものでもなく、ここまでやれてきたと思うのだが、それは傲慢なのだろうか。孫悟空のように、八千里をきんとん雲で飛び、地の果ての5本の柱に「我この地に来たり」と書き帰ってみるとその柱は弥陀の指であったという事か。私には、宗教は、とどのつまり、行き場が無くなったときにすがれる対象として、担保されるべきものではないかと思っている。第十一章を見ると、弥陀四十八願の話が出てくる。浄土宗、浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。とのことであるが、一昨日、お寺から、「如是」の四月号が送られてきて、それにも、第十八願が本願とされるとのことが書いてあり、偶然とはいえ、少し驚いている。その本願には、「至心」「信楽」「欲生」が説かれていた。「至心」:うそいつわりの無い真実心「信楽」:疑いのない心「欲生」:浄土へ生まれたいという心である。ここで、欲生心を弥陀の側から言うと、「浄土に生まれたい心」ではなく「浄土に生まれさせようとする心」なのだそうだ。ただ、第十八願の最後には「唯除五逆誹謗正法」即ち「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」と注釈されている。弥陀もそこまではお人好しではないということか。話はそれるが、イスラムの世界でも邪な教えを説く輩がいるようで、「アッラー」の名のもと、自爆テロをさせている。日本でも「オウム」などという邪宗に導かれて、卑劣な五逆の罪を犯す者がいる。その辺を弥陀の力で、何とか説得して貰えないだろうかと思うのだが。
2010.03.31
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以前から、パンフレットで、映画「カラヴァッジョ」が上映されることを知っていたが、ついつい忘れていたところ、連れ合いが、気づいて、急に観に出かけることになった。久しぶりに見応えのある映画だった。映画「カラヴァッジョ」は、副題に「天才画家の光と影」とあった。映画を見終わって、この副題の意味が良く分かる気がした。NHKの美術講座で、「カラヴァッジョ」の講義を受けたのは、もう1昨年のことになる。2008.10.31付のこのブログを読み返してみると、当時の感動が蘇ってくるが、今回の映画を見て、その壮絶な一生を垣間見ることが出来たような気がした。繰り返しだが、彼の正式な名前はミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジオで、ダ・カラヴァッジオというのは、「ミラノ近くのカラヴァッジョ村出身の」という意味だと言うことだった。イタリア語はさっぱりなので、字幕スーパーを見ていると、「ミラノの近くの生まれ」と何回も答えていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶルネサンス盛期の三大巨匠の一人であるミケランジェロと区別するために、カラヴァッジョと通称されているのだ。映画の中でも当初、有名なミケランジェロとの比較で、皮肉られている場面があったが、私にも、カラヴァッジョという名前の方がぴったりと来る感じである。地図で調べてみると、ミラノの東約20kmの所にカラヴァッジョという町がある。おそらくこの町で生まれたのであろう。カラヴァッジョが育ったのは、16世紀後半から17世紀の初めである。既に、14世紀からその萌芽があった「ルネサンス」であるが、この映画では、まだまだルネサンス以前の退廃した空気も感じられた。映画は、ペストで亡くなった祖父と父の死体と対面する思い出から始まる。全ては、回想の形で話は進むのだが、この祖父と、父の死に対して程なく母親も亡くしてしまう。やがて、ミラノに出て、少・青年時代を過ごし、絵の修行をすることになる。やがて、当時の芸術の都ローマに出ると、ヴェネツィアの上級貴族で、金融で財を成し、カトリック教会の枢機卿でもあるメディチ家のデル・モンテ卿に認められ、それまでの貧乏な生活から抜け出すことが出来た。このデル・モンテ卿がバロック美術の巨匠と言われる、カラヴァッジョの最初のパトロンとなるのである。デル・モンテ卿の援助で教会の絵に着手することになり、完成後、多くの人々の賞賛を浴び、彼の名声は高まる。こういった中にも、ひがみややっかみがあるという場面もしっかりと描かれていた。ヨーロッパにおけるパトロンと画家の関係はこういった風に出来上がるのかという感じで、パトロンは、芸術家を保護すると同時に、画家に自分の肖像画を描かせて、自らの威厳を保つという面も感じられた。無名時代は、すさんだ生活を同性愛者の若者から癒されるという場面もあり、カラヴァッジョの多様性を知ることになる。しかし、ここが芸術家の故か、無名時代からの友人たちとの放蕩三昧、喧嘩、娼婦たちとの付き合いなどなど、奔放な生活態度に、世間の目は厳しいものがあった。また、絵画における強烈すぎる表現は品位に欠けるとして非難を浴びることも多々あったようだが、強烈な表現の根底には、ペストで亡くした家族や、少年時代の恵まれない境遇が影を落としているようにも思えた。カラヴァッジョは激情型の性格の持ち主で、並の人間よりは剣を使うことも巧かったようだ。アトリエを離れれば腰に剣を提げ、酒場でしばしば騒動を引き起こした。喧嘩は日常茶飯事で、逮捕されたことも1度や2度ではなかったようだ。やがて、女をかけてのいざこざの末、相手を決闘で刺し殺してしまい、殺人犯として追われる身となってローマから逃亡するのである。ローマに居るカラヴァッジオの知人たちはカラヴァッジオへの恩赦を得る為に活動してようやく実現し解放される。このような繰り返しに、やがて理解ある権力者の庇護も失い、自らをますます窮地に追い込んでいくのである。「ルネサンス」は「再生」「復活」を意味し、「文芸復興」とも訳され教わってきた。それまでの中世は、キリスト教が全盛であり、異端審問や魔女狩り等も連想させるような、暗い感じの世の中であり、公式な十字軍の遠征も終了している中、法王や聖職者が堕落しきっていた。このように、聖職者自身の腐敗も目に余るものがあり、庶民のみが、特別乱れていたわけではなかった。日頃から、教会法を盾に、言論を封殺し、改宗に応じないものは、火あぶりの刑に処したり、自らの腐敗・堕落は棚に上げ、遊女を斬首の刑に処するなど、女性と雖も、容赦ない振る舞いをしていた。カラヴァッジョの絵は、そんな世相の影響と、自らの幼児期の両親喪失感とが相まって、ますます過激な表現を採ったようである。カラヴァッジョは、徹底した写実性と劇的な明暗対比や感情表現で、後には、あらゆるバロック期の画家に多大な影響を与えたと言われているが、アトリエにおける鬼気迫る表情や、娼婦をモデルに聖女を描くなど画家とはこういったものなのかと思わせる一面もあった。ルネサンス期のミケランジェロは、頭の中で考えを整えて、「知」でもって描くと言う具合に、カラヴァッジョは必ずモデルを使ってでないと描けないのかと、人から比較され侮辱される場面もあった。そういった絵画の中、NHKの講座でも、最初の紹介された「聖マタイの召命」の右から射す光を、偶然居眠りから覚めたカラヴァッジョを突き上げる様な感動を示し、取り入れるという場面は、これぞ芸術家の真髄であろうかと思わせるようで、感動的であった。このように、カラヴァッジョはミラノ近郊のカラヴァッジョ村からミラノへ出、さらにローマを経て、スペイン領であるナポリ王国へと移り、名声は得るものの、スペイン兵とのいざこざなどがあり、投獄され、ここでもローマの助けを借りている。脱獄に成功したカラヴァッジオはシチリアへ逃れ、聖堂から複数の制作依頼を受ける。シチリア島で9ヶ月を過ごした後、カラヴァッジョは再びナポリへと向かった。このようにイタリア中を転々とし、やがて、ナポリを去り、マルタ騎士団の本拠地があるマルタ島へと移動する。ここの騎士団長にも気に入られ、幾つかの絵を制作し、ナイトの称号を許されるまでになる。これに対して、直属の上官のやっかみがあり、「画家でもナイトになれるのか?」と言った挑発に乗って、その上官を傷つけてしまい、投獄される羽目になるのである。その場も、騎士団長のおかげで救われ、最後にカラヴァッジョは船でナポリから北上しローマに帰ろうと向かう。晩年は、闘病と出獄の繰り返しと持病のマラリアにも悩まされ最後にローマに帰ることを許され、カラヴァッジョの輸送を命じられた漁師が小舟で海上を送る中、弱ったカラヴァッジョを見て、漁師が、自分の船で死なれては困ると、無人の島に遺棄され、一人寂しく死んでしまうという結末であった。映画は、この最終場面で、漁師がカラヴァッジョを運ぶ中で、夢うつつのカラヴァッジョが暗い過去からの全てを回想する形となっている。このようなときには、終止、死をイメージする、黒衣で黒馬に乗った死神が、象徴的に彼の周りに現れるのである。享年が38歳というから、如何に人生を疾走して亡くなった、希代の巨匠と言うべきであろう。「あなたはあなたの絵と同じ。光の部分は限りなく美しく、影の部分は罪深い」との言葉は印象深い。イタリアでは、没後400年の盛大な展覧会があったという。本場で見たかったところもあるが、この映画を通じて、中世の世相や、カラヴァッジョ自身の境遇がよく分かり、美術講座だけでは知り得なかった多くのことを学ぶことが出来た。彼の作品の『聖マタイの殉教』、『キリストの埋葬』、『ホロフェルネスの首を斬るユディト』、『ダヴィデとゴリアテ』『ロレートの聖母(巡礼者の聖母)』、『洗礼者聖ヨハネの斬首』など、こういった作品を描いた背景が少し分かるような気がした。多くの死を描くに当たって、川に流れ着いて腐敗しかけた「死体」をすすんで観察する場面があったが、さもあらんと妙に感心した。
2010.03.30
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昨夜のテレビレポートで、久しぶりにジンバブウェの狂乱を見た。最近は、入国もままならないようだが、レポーターが正式に狂乱下のジンバブウェに入ったようだ。目的は、ジンバブウェの惨状を伝えるというのが主眼ではなく、中国の資源ナショナリズムがジンバブウェにも入り込んでいるということを調査してきたようだ。私がジンバブウェを訪れたのは、もう14年も前のことになる。その時の様子は、ジンバブウェ時代に書いているが、その時代は、想像していたアフリカと違い、比較的快適な国であった。居る人は皆黒人ばかりであることは当たり前だが、少数の白人も居た。そして日本人と言えば、大使館、ジェトロ、海外生年協力隊、日本の企業などで約200人はいただろうか。中でも海外生年協力隊の人が100人以上いたので、実質、日本人会を形成している一般の企業の人は100人いるかいないかであったように思う。その時に、中国人の姿を見たかと問われれば、記憶がない。もちろんその時の私の仕事は、コンサルタントという立場で、ODAによる橋梁6橋のドネーションの監理と言うことであり、中国人との接触がなかったからかも知れない。中華料理専門店があったが、そこのオーナーもスロバキアか何処かの人であった。しかし、日本の大手商社は皆、店を開いていたわけで、そういった筋からも中国人の活動は聞いたことがなかった。面積は丁度日本より少し広いぐらいの国土で、ずんぐりむっくりした形をしている。そこに住む国民は日本の約1/10と少ない。アフリカ大地溝帯の南の外れに位置している国である。元々の人類の起源はこの辺りから発祥したとも言われていて、なかなか興味深い国である。南アフリカに近く、人類が2本足走行をし始めたときからの古い歴史を持つ国である。ジンバブウェと言えば、ザンビアとの国境にあり、世界三大瀑布のひとつに数えられるヴィクトリアの滝で有名であり、世界遺産にも登録されている。暗黒大陸と呼ばれ、長く平穏であったアフリカは、19世紀に入りヨーロッパ列強の草刈り場となった。北からは、イギリス、フランスが南からはイギリスが、探検家の名の下に、侵入し、各々の地域を植民地化してしまった。残った中央部もドイツや、ベルギーなどの列強が、奪い合うように自国の植民地下においてしまった。元々ジンバブウェは2世紀ころ、ケニア方面から入って来たバントゥー系が集落を建設したあと、9世紀ころバントゥー系の中のショナ族が建設した国家で、一時南アフリカのズール王国から逃れたンデベレ族によって占拠されたが、今では、ショナ族(7割)とンデベレ族(2割)は、仲良く共存している。14~19世紀の間は、モノモタパ王国やロズウィ王国が繁栄し、穏やかな日を送っていたようだが、19世紀末に。南から侵攻し、植民地化した、イギリスのセシル・ローズの名を取って、南ローデシアと称していたものが、1980年に独立を勝ち取ったという形である。ジンバブウェとは現地語で「石の家」という意味であるが、これは、ショナ族が農耕、牧畜を確立し、金の採掘と交易等で富を得て生活をし、各地にジンバブウェ(石の家)と呼ばれる巨大な石造建築を建設したことに由来している。南の地方のグレートジンバブウェは、往時を偲ぶ縁になっている。イギリスからの独立を機に、名前を南ローデシアから誇り高きジンバブウェに変更したものである。独立したと言っても、各地のプランテーションや、インフラの整備などを自国でまかなえず、実質的には、なお少数白人の天下であった。やがてお定まりの民族独立気運に乗り、ロバート・ムガベ大統領の狂気が始まったわけで、闇雲の白人を追い出し、白人の財産を没収国営化(即ちムガベの独占化)したのである。私がいた頃のジンバブウェは季候も良く穏やかであり、郊外のアウトレットにも物が比較的豊富で、生活に困るという感じではなかったが、さしたる技術的裏付けや、経済政策などにおいても自前での運営は出来ないにもかかわらず、狂気の如く白人を追い出した後は、凋落の一途を辿った。我々日本がドネーションした田舎の6橋も今はどうなっているかという感じである。コンクリートの橋故に、おいそれと壊れることはないだろうが、果たして役に立っているのかどうかだ。まんまと、白人を追い出したまでは良いが、30年にわたる無為無策の最悪独裁ムガベ政権は、先の選挙でも、対立候補を力で封じ込め、今日では、極端に中国寄りの姿勢を見せている。これも、同国に豊富に眠るレアメタルなどの鉱物資源に目を付けた中国側の策謀によるものである。何度も言うが、中国は、我が国からのODAを受け、(こんな時には、全体のGDPは引っ込めて、中国内陸部の貧困を前に出す狡猾なやり方で)そのODA資金をアフリカに投じ、北部では、油田やガスを獲得し、ここジンバブウェではレアメタルを得ようとしているのである。今や、ハイパー・インフレと呼ばれて、10兆ジンバブウェドルの紙幣も出ていると言い、紙くずの方が未だ価値があると言うくらいの状態になっている。そんな国の労働力は、個人のプライベートなお金で何十人も雇用出来る程低いわけで、中国にとっては、本当に甘い汁なのである。ジンバブウェ側も、最初は、抵抗をしていたものの、背に腹は替えられないと言うところではないか。そのうち、中国に、骨の髄までしゃぶられても、政府高官さえ満足のいく内容であれば、不平等な交渉は続くであろう。90歳が近いロバート・ムガベが居座る限りは、この国の改善はあり得ないだろうし、昔西欧列強に良いように翻弄されてきた体質は、未だに治らないのであろう。私がいた頃に、最後まで勤勉に尽くしてくれた、ジンバブウェ大学卒業でショナ族のチャワンダ君や、同大学卒業のンデベレ族のニョニ君は、今どんな暮らしをしているのだろうか。ジンバブウェ大学は、ジンバブウェでは最高の教育機関である。いわばエリートであるわけだが、その内容たるや恵まれていないことおびただしい。元々、運転手をしていたマレーテ君や、秘書とは名ばかりのでかい女マトーレさらに、庭の片隅の掘っ立て小屋で起居する、ガードナーのパトリック、テンダイ夫婦など今はどんな風に暮らしているのだろうか。のんびりとやっていた大使館連中も、対ジンバブウェ政策というか、豊富に眠るレアメタルなどの鉱物資源の宝庫に対して、それなりのアプローチをする気構えはあるのだろうか。強引で、なりふり構わぬ中国の資源ナショナリズムにあって、小さく縮こまって居るだけなのだろうか。今や、駐在の日本人は余り変わらぬ70人程度だとかに比べ、中国の企業は200社が進出しているという。情けは人のためならずと言うが、損得勘定だけが全てでないことは分かるものの、今まで、この国に落としてきたODAドネーションは、全くの善意の無償供与であり、それは、やがて日本が国連における安保理の常任理事国入りに賛同を得るための1票でしかないわけではないと思う。日本の外交下手はつとに顕著である。「目で分かる」とか「腹と腹の話だ」等と、過去の遺産?をいつまでも踏襲していては、世界では生き残れないばかりか、中国のような狡猾な国にしてやられて泣きを見るのが関の山であろう。通りすがった国だから、思い入れは人より少し多いかも知れないが、何も関係がなければ、遠いアフリカの国の話など、おそらく歯牙にも掛けなかったかも知れない。政治家たるもの、国家の利益になることをし、国家の不利益になることには断じて立ち向かうという気位がなければ駄目である。自分が裕福な家庭に育って、外を見ていなかったとか、私腹を肥やすだけのことしか頭にない連中は、この際総入れ替えをお願いしたいものである。
2010.03.29
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今、リチャードドーキンスの「進化の存在証明」を読んでいる。ドーキンスの本は多数出版されているが、自他共に「ウルトラ・ダーウィン主義者」として知られている。西欧社会や、中東辺りでは、ダーウィンの考えを、神を冒涜するものとして歯牙にも掛けないところがあり、その数は、私が想像するよりも遙かに多いようだ。「それでも地球は回っている」と言ったか否か、ガリレオが当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えたコペルニクスにならい地動説を唱え、聖書に反することだとして異端裁判に掛けられたという話がある。地動説など、当時としては、寝耳に水のことであったろうが、今日では、人工衛星が宇宙を飛び交い、明らかにコペルニクスやガリレオの考えの正しかったことが客観的にも証明されている。また、ヴェーゲナーが「大陸と海洋の起源」の中で、プレートテクトニクス論を唱え、「大陸移動説」を主張した事なども、当時としては画期的で、にわかには信じられないことであったろう。生物も、元はと言えば、真性細菌に起こり、海洋性の生物が生まれ、やがて陸に上がって、それぞれの適応を遂げつつ、自然選択(自然淘汰)や、性選択を経て、時に突然変異などを伴いながら、現在の人類の元である猿から猿人そして現生人類と進化してきたのであるという。前の諸説と同じく、こういった「進化論」が100%受け入れられていないことは、想像に難くないと思う。では、どのようにして人類が今日あるのかという対応する理論を求めても、そういったものは存在していなく、ただ「聖書」に依ればとか、「コーラン」に依ればと言うところでそれ以上の議論の進展は望めない。日本における「万世一系の天皇、これを統治す」と言った考えが古事記をひもとくまでもなく、その起源が曖昧であるにもかかわらず、まかり通るが如しである。これら、時勢におもねることが無く、正しいことを述べる事は相当の度胸と勇気が要るであろう。正に命がけだと言わねばならない。特に、進化論については、なかなかにわかには信じられないことだと思う。私などは、いろいろ聞かされたり、ドーキンスを読むにつれて、そして、掘り起こされるミッシングリンクが解き明かされるにつれ、自然な形で受け止められるようになった。いろいろな事象が明らかになるにつれて、そのことが確固たるものになっていくのだが、「フィッシャーの理論」の、自然淘汰によって、性比は常に1対1に成ろうとすることである。即ち雄に偏った性比であれば、雌が適応度上有利となり、雌の数が増えすぎ、その結果、雌の有利性も減少していき、その逆でも同じ事が起こるというものだ。例えばと考えると、戦争が続き、男が、戦場で多数死んでしまうとしたときの場合などもこれに当たるのだろうか。一度、オスばかりになった動物が、集団で暮らしていると、そのオスの中からメスになるものが出てくると言うことがあるのだそうである。まさか、「オネエ」が多くなった現在は、男の数が極端に減少した結果でもないから、これはまた違った論理なのであろう。生物多様性という言葉がある。もとは一つの細胞から出発したといわれる生物が進化し、今日では様々な姿・形、生活様式をみせているような生物の間にみられる変異性を総合的に指す概念だと言うことだ。地球上に生息する生物は、確認されているものだけでも、175万種いて、未知のものを含めると、3000万種にもなるのだという。未知のものが何故、既知の175万種の20倍近くもいると言えるのかは全く分からないが、新聞記事ではそういった説明になっている。もちろん不遜ながらその頂点に立つのが霊長類であり、人間なのであろう。では人間の使命はと言うと、そういった環境を、人工的に変えるのではなく、自然のあるがままにしておくことではないかと言うことになる。しかしながら、本来居なかった種が、人間の手で、持ち込まれることによって、生態系が崩れるなどして、現在世界では年間4万種もが絶滅しているのだと言うから驚きである。1日に100種以上が絶滅している勘定になるわけで、種の中の何個かの個体が死ぬのではなく、種全体が絶滅するということであるから、由々しき問題である。もちろんその中には、見たこともない、草花なども含まれていたり、細菌に近いものも含まれているのではあろうが、その数は相当なものである。学名が「ニッポニア・ニッポン」とよばれるトキは、日本の国鳥ではないが、絶滅危惧種になるほど、激減している。なにやら、「ニッポン」が絶滅して言うようで特につらい感じがする。今月の10日新潟県佐渡市の佐渡トキ保護センターの「順化ケージ」で保護育成中のトキが、ゲージに張り巡らされた金網の穴から進入したイタチかテンによって襲われ、9羽が死に1羽が重傷を負ったと言うことだ。1967年センター開設以来、初めてのことだそうだが、何処か甘いところがあったのではないか。私もずいぶん昔の、小学校の頃、クラスで金網を張って、中で兎を飼っていたことがあったが、ある日進入したイタチによって皆殺されてしまったことを覚えている。まさかと思うような所からイタチなどの小動物は入ってくる。要は、猫も同じだが、頭さえ通れば、するりと入ってこられるのである。ここの「順化ケージ」には何と、金網の隙間より大きな穴が260個所も空いていたというからずさんさは手に取るようだ。トキの貴重さを一番よく熟知しているはずで、しかも、日本の期待を一身に受けている保護育成施設としては、どうにも考えられないことである。過去にもそのようなことがなかったのか、無かったとしたら何故無かったのかが逆に気になるところである。トキを殺したテンは、元々佐渡には居なくて、増えすぎる兎の駆除のためにわざわざ佐渡に持ち込まれたのだそうだ。どのようにして、兎が増えたのか、それを、人為的に、且つ短絡的に対処療法で持ち込んだテンであるが、神でない人間が勝手に自然界の食物連鎖を無視したいびつな行動を取るとこのような結果を招く事になる。地球上に人間が増えすぎることによって、大地震や、大津波などの自然災害や、戦争などで、人口調整をしているのではないかとはよく聞く話である。元々草花が生え、自然の中でお互いの均衡を保ってきた動植物も、人間の開発の名の下での自然破壊が、もう手の付けられないところまで来ているわけだ。霊長類のトップに君臨する身としては、あまりに自分勝手なことである。日本のトキは、江戸時代には北海道から九州まで何処でも見られたとあるのだが、今や、数羽しかいなくなったその半分近くを一時に失ってしまったのだ。パンダは元々日本に住んでいない動物であるから、中国から借りると言うこともやむを得ないと考えるが、トキの場合、全国で居たにもかかわらず、絶滅を危惧されるようになり、また中国から借りて繁殖を試みなければならないなどとは、全く情けないことである。
2010.03.28
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日経平均株価が上がり、景気が良くなって来たかに見える。アメリカでのサブプライムローン問題に続き、リーマンショック後、世界中が震撼するほどの世界同時不況になったが、回復の兆しが見え始めたという感じで受け取られている。中でも、中国を筆頭とする新興国は、いち早く影響を脱したかに見える生命力を示した。先進国でも、イギリスのようにEUに加盟しながら、ユーロ圏とは一線を画する国でも、ショックからいち早く立ち上がりの気配を見せているようだ。震源地のアメリカも確実に回復に向かいつつあるようだが、如何せん日本は未だその痛手から立ち直ったとは言えない。株価の上昇も、外国人機関投資家による買いが、株価の上昇として現れているに過ぎないようだ。経済音痴である私などでも、そういわれてみれば、何となく日本は自力ではい上がってきたとは言えない気がする。共和党の代弁者という形の「日高レポート」ではオバマ民主党政権は次の中間選挙で負けるという判断をしているようだが、オバマは是非もある中、確実にマニフェストを実行の形で推し進めている。イラクからの撤兵をアフガンに向けるという点は、余り同調しかねるが、先頃、民主党悲願の「国民皆保険」の成立を成し、今回は、米ロ、核軍縮の新条約の合意に至った。戦略兵器削減条約(START)は第1次から第2次を経て、保有核弾頭数を最初6000発→3,000~3,500発と減じ(ロシアは批准しなかったが)、今回互いに1550発と言うところに落ち着き、曲がりなりにも核廃絶の公約の道を進んでいるようである。もちろん、相手国を壊滅するにはまだまだ十分すぎる核兵器数ではあるが、2001年ころからアメリカの安全保障政策が大国同士のつぶし合いよりも、対テロ対策に重きを置くようになり、核兵器の大量保有の必要性が減少したと言うことも背景にあることは確かである。アメリカでは、この度「新しい雇用、企業、産業を育成する」というキャッチフレーズで、「産業創造戦略」が具体化に向かって動き出しているようである。自らが起こした世界不況に対して、いち早く脱却の道を進もうとしているわけである。私も、会社時代に、過去何度となく「イノベーション」と言う言葉を聞いてきた。特に経営トップからは、今が「変革」の時だ、「自ら変わらねば生きる道はない」などと叱咤激励をされたことをついこの間のように思い出す。しかし、本当は、変わって欲しくないのは、経営者だったのではないかと言うことに思い至った。自らに火の粉が掛かるような場合は別として、足下がゆるんでいない限りは、自分が目の黒い内には出来るだけ変わって欲しくなく、リスキーなことはしたくないというのが本音だったのではないかと思うのである。それは言い過ぎにしても、「改革」に痛みが伴うことも十分承知しているわけで、日本の官僚群のように、改革即ち自らの首を絞めるということを誰が本気で取り組むだろうか。それを政治主導で、とかけ声だけは勇ましいが、昨日まで、お笑いをやっていて、人を笑わせるためにはどうすればいいかと昼夜考えていたような人や、離婚調停での得策は何かとかいった類を手がけていた法律家などが、明日は高邁な理想を掲げて日本を造り直すのだと言うことは、余程の俊才でなければ出来ることではないと思う。「民主主義=数」と言うことは至極当然のことであるが、その母数である「数」が極めていい加減な集団である場合は、良くなる方向になるわけがない。企業献金で未だに疑惑渦中の日本の真の実力者幹事長、子供献金で、平成の脱税王とまで言われた首相、国家の安全を双肩に担いながら、北朝鮮のスパイかも分からない女性に議員宿舎の鍵を預ける大臣。実力者幹事長の秘書だったと言うだけで、不法献金を受けて恥としない議員、北教組から不法献金を受けても止めないという議員、今回落選はしたが、覚醒剤まで持っていたという議員等々など、何処に日本の政治を任すことの出来る人材が居るのかと云うほど、悪人の枚挙にいとまがないほどである。さて「オバマイノベーション」はアメリカの将来像を見据えた、長期的な展望である。過去の民主党のスローガンである「グリーン」を発展させ、官民が協調して、世界から流れ込み「知」と「マネー」を原動力に使おうとしている。そして、21世紀に必要な知識・技能を備えた次世代の教育に投資することを土台にして、生産性の高い、企業家精神を醸成し競争市場を推進することにしている。そして、足下の注力目標に、クリーンエネルギー、先端自動車、医療ITなどが遡上に挙げられている。そして、「持続可能な成長と質の高い雇用」を推進するという目標を掲げている。昔、経営学の走りで学んだことに、企業とは「ゴーイング・コンサーン」であると言うことだ。企業は将来にわたって、無期限に事業を継続し、廃業や財産整理などをしないことを前提とし、永続的独自性を持つと言うことで、アメリカ自身も国家として「ゴーイング・コンサーン」であると言うことである。不況だからと言って簡単に馘首しない、企業利益を不安定な不定期労働者の犠牲の上に保つのではないなどのこともこれらのことにあてはまるのではないかと思う。会社は誰のものか、と言う問が一寸以前によく聞かれた。私のような技術者は、それは社員のものだろうなどと考えていたが、有限会社や個人商店でもない限りは、経済学的には会社は株主のものであるという答えであった。しかし、株主がなければ株式会社は維持出来ないのは明らかであるが、今日のように外国の機関投資家達が、株を投機の手段として考えている会社というものが、果たして本当に株主のものであるのかどうかについては、疑問を感じるのである。それはともかくとして、アメリカが今考えている戦略の中で、クリーンエネルギーである太陽電池のベンチャー企業に、国家が最終的リスクテイクで保証し、短期間に450億円もの資金調達を可能にするという事実だ。またバイオ燃料についても、開発支援に約9兆円もの公的資金を投じるとしているのである。これは異例とも言えるが、真実の「官民一体」というのはこういったことを言うのではないかと思う。民が潤うから、官があり、官のために民が使役されるわけではないと言うことだ。日本とは国家の成り立ちの違いがはっきり違うことが分かる。日本は、昔から「官尊民卑」であり、且つ頭の良いのは皆官に行くという中国の科挙制度に習っているからだ。アメリカでも、シリコンバレーのベンチャー企業にコリンパウエル元国務長官やアル・ゴア元副大統領なども経営幹部に就任しているという。これって、アメリカ版天下りかと見る目もあろうが、決してそうではなく、日本のように、さしたる仕事もせずに、過去の遺産と顔の繋がりだけで、「渡り」をするのとは異質のものであろう。燃料電池にも注力している。こちらは、競争相手の共和党が力を入れているというのだ。ベンチャーのブルームエナジー社が開発中の「ブルームボック」というものがある。燃料電池をぎっしり詰め込んだコンテナという類だ。片手に乗るというサイズの燃料電池1個で、1世帯分の家庭の電力をまかなうという代物だ。しかも、この会社のCEOはインド生まれであるという。世界の「知」を導入するという方針はこんな所でも歴然としている。因みにシリコンバレーでの外国出身技術者の数は6割だそうで、インドが28%と断トツ、次いで中国、ベトナム、台湾、フィリピン韓国と続き、日本はやっと3%の8位だそうである。分数の出来ない大学生など要らないと言うところだろう。しかしながら、本当に必要な、日本の頭脳は間違いなく海外流出していることを忘れてはならない。私がフィリピンに行って、かつその後、サウジや、UAEで働いているとき、フィリピン人と出くわすが、正直、本国に残っているフィリピン人よりは、海外に出ているフィリピン人の方がやる気も力もあるように感じた。本国に魅力的な企業や働き場所が少ないと言うところが根底にはあるのだが、日本もそうならないように自国を充実しないと、日本企業に勤めは出来たが、働く場所は海外だと言うことにも成りかねない。
2010.03.27
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阪急上牧の駅前にフランス料理を食べさせる、人気のレストランがある。連れ合いの発案で、何時もお世話になっている先輩夫妻を招いて、昼食をした。いつもながら、レストランは満員の盛況であり、主に先輩と2人でワイン2本を空け、昼間から良い気分で談笑した。さて、国連環境計画(UNEP)と国際刑事警察機構がまとめて、ワシントン条約締結国会議で発表されたところによると、コンゴ川流域のゴリラの絶滅が心配されているという。国際連合環境計画(UNEP)は、国際連合の機関で、地球環境に関する諸活動の総合的な調整を行ない、新たな問題に対して国際的協力を推進することを目的として設立された機関である。多くの国際環境条約の交渉の場ともなり、ワシントン条約、ボン条約、バーゼル条約、生物多様性条約などの条約の管理も行っているという。さらに、モントリオール議定書の事務局にもなっている国際的な機関であり、現在国連加盟国192ヶ国のうちの173ヶ国が加盟しているという。機能の主なものでよく耳にするのは、動植物の輸出入とか、絶滅種のための世界自然保全モニタリング等を行っているということだ。本部はケニアのナイロビに置かれていて、開発途上国に本部を置いた最初の国連機関である。国際刑事警察機構はインターポールと呼ばれる国際犯罪の行政レベルでの国際機構であり、この場合は、密猟を対象にしたものであろう。「絶滅」とは、動植物のなかで、地球上に1個体も生存しなくなった状態を言うのであり、従って、「絶滅危惧種」とは、そのおそれがもっとも大きな状態の種や亜種の事である。世界中で絶滅のおそれのある野生生物の現状を集約したデータをまとめて『レッド・データ・ブック』として発行されているが、動物の中で、哺乳類だけでも48種、鳥類90種もいるのだそうだ。そのカテゴリーは、(1)絶滅種(2)絶滅危惧種(3)危急種(4)希少種となっている。日本では、これに、(5)地域個体群を加えている。ゴリラもこの(2)絶滅危惧種に入っているわけだが、ゴリラの主な生息地は、コンゴ川の流域である。コンゴ川は正に赤道直下の中部アフリカを南から北そしてまた南へと丁度コンゴ盆地を囲い込むように蛇行しながら流れて、コンゴ民主共和国・コンゴ民主国の各々の首都キンシャサ・ブラザビルを通過し、大西洋に注ぐ、アフリカ大陸2番目の長さ(4,700km)を誇る河川である。またコンゴ川は流域面積と流量はアマゾン川に次いで世界2位であり、流域の熱帯雨林もアマゾン川に次ぐ広さを持っている。赤道直下で1年中雨が降るため流量は一定であるのでゴリラなどの生息には格好の場所であったはずである。私が、アフリカを訪れることになって、地図を購入したときには、丁度、国名も川の名前もザイールと、ザイール川となっていた。コンゴは、「コンゴ動乱」、「第一次コンゴ戦争」、「第二次コンゴ戦争」と独立から、政権争いなどで、ずっと悲惨な内戦が続き、死者は250万人にも達するというアフリカでも1,2を争う劣悪な国である。その、戦いで組織された、民兵組織が、ゴリラの住む、ジャングルを違法に伐採したことにより、ゴリラの住処が奪われ、このまま放置すると、2020年頃には、ほとんどその姿を消すのではないかと文字通り危惧されているのである。人間でさえも殺し合いの最中にあるわけで、彼らにとっては、ゴリラどころではないと言うことかも知れない。昨日、リチャード・ドーキンスの「祖先の物語」に触れたが、「ヒト」が類人猿になる前に分離するのは、「猿人」であり、それを遡れば、「チンパンジー」に会い、そしてその前が「ゴリラ」なのである。その出会いが700万年前頃だと言うから、あながち、この地方の現生人類の中には、「ゴリラ」に至極近い連中が居るのではないかと云うことだ。顔かたちを見たら、ゴリラとは歴然とした違いはあるものの、何処か風貌が「ゴリラ」に似ていなくもない連中が居るように思われる。動物園で見るゴリラの子供は可愛い。正に黒人の子供との違いと言えば、生えている毛が多いか少ないかと言うことぐらいではないかと思うほどだ。途上国における森林破壊は国際的な経済格差拡大の結果のひとつの現れなのかも知れない。 無計画な森林の伐採は森林の破壊に繋がる、コンゴの人たちが、森林を伐採するのは、燃焼材木としての利用が大きいのかも知れない。アフリカや中南米の熱帯地域では、原発などはほど遠い話であり、水力発電用のダムもなければ、石油、石炭による火力発電もままならないわけで、木質燃料の比率が非常に高く、薪炭材の利用が急増していることが原因の一つに挙げられる。まさに、貧困によるために、エネルギー源である安価な薪炭材確保のための行為である。また、宅地造成や、インフラストラクチャーの整備、焼畑農業等も森林の伐採に繋がっているのであろう。ただでさえも、こういった自然破壊により安住の地を追われるゴリラであるが、何と、ゴリラ目当ての密猟もあるというのだから驚きである。俗にゲテモノ屋と言われる食品店があり、普段は食さないいろいろな肉をおいていることがある。西洋では、ゴリラの肉を「ブッシュミート」(森林の肉)として、野生生物の肉の一部として各国で広く売られているのだという。このためにコンゴ共和国だけで、年間300頭ものゴリラが殺されているのだというのだ。(毎日ほぼ1頭である)売られているのは、買うものが居るからであり、食する者達がいるからに他ならない。おそらくはそういった人種は、食に困った人種ではなく、既存の食糧では飽きたらず、常食とまではいかないが、珍しい食べ物(珍味?)として興味本位で食べているのであろう。明らかに、食物連鎖の域を超えたものである。特に西洋では、ゴヤやルーベンスの絵画「我が子を食らうサトゥルヌス」に見られるように、カニバリズムの風習があるくらいだから、遠い親戚とはいえ、ゴリラの肉ぐらいはどうって事もないのかも知れない。私などは、モナコの王様が何故、クロマグロではなく、ゴリラを対象にしなかったのか、ゴリラを救えと言えば、ヨーロッパ各国の人はクロマグロを禁漁にするより強く支持すると思うのだが、ここで早くも文化の違いがあるのかも知れない。それに加えて、クジラを禁漁にせよというオーストラリア政府と、そのお先棒の「シーシェパード」の連中が、地中海に行くくらいなら何故、コンゴ川に行かないのか。理解に苦しむ。私に言わせれば、象牙を取るだけの象の密猟や、「ブッシュミート」のゴリラの肉の方が、差し迫った問題であり、そちらの阻止に全力を挙げて貰いたいものである。それとも「シーシェパード」は船乗りだから、海の上で無抵抗な船を相手にするのなら出来るが、ジャングルの中で、鉄砲で撃ち殺されかねないところはおっかなくて行けないということなのか。
2010.03.26
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新聞記事によると、ロシア・シベリア南部の洞窟で4万年前の人類の指の骨片が見つかったと言うことだ。さらに、この人骨は、新種の人類だというのであるから興味深い。現在の地球上には、現生人類の「ホモサピエンス」しか居ないことになっている。この「ホモサピエンス」は、47万年前に、ネアンデルタール人と別れて、その後ネアンデルタール人は、絶滅したのである。従って、リチャード・ドーキンス流に、祖先へと逆流の旅に出るとすると(「祖先の物語」参照)、現生人類とネアンデルタール人の合流点からさらにさかのぼり、104万年前に今回発見された新種人類と合流することになる。そこを遡って、ズーーーと行くと、チンパンジーと出会い、最後は「真性細菌」に至るというものだ。そこまでの話はさておき、今回の発見は、このダーウィンの進化論に基づく人類の先輩格の新種だというのである。104万年前には、インドネシアのフローレス島で新たに発見された石器から、小型人類「ホビット」の存在も確認されていると言うから、当時は、人類も多様であり、賑やかしかったことであろう。もちろん、各人類の種とも、完全に絶滅してから次の種に取って代わるという秩序だったことはないわけで、お互いに、場所は離れていたかも知れないが、時間的には共存していたことになる。現に、この骨片は、アフリカでも、東アジアでもない、西シベリアとモンゴルにまたがるアルタイ山脈のデニソワ洞窟というところで発掘されたのだという。山脈はモンゴル高原西部を北西から南東方向に走り、モンゴル高原の西部境界であり、ジュンガル盆地の北部境界となっている所で、北西部は西シベリアの低地に接続している。全長約2000キロメートルの大山脈はロシアーモンゴルー中国にまたがっている。アルタイとは、モンゴル語で「金の山」を意味するのだそうで、かつては金・銀・銅など地下資源を豊富に産したが、乱掘のため現在ではその重要度が少なくなったと言うことらしい。今回は地下資源ではなく、新人類の化石である。現人類の遠い親戚なのだ。104万年も前であるから、この山脈が現在のような状態であったかどうかは、分からないが、東西に2000m級の山が連なっている山脈は、一部世界自然遺産にも登録されているという。シベリア南部にあるというこの洞窟は見にくいが、写真で見る限り、通常は(現代)人が入りそうにないところであり、この洞窟は丁度、ロシア内だが、カザフ、中国、モンゴル4国の境界点近くにある。人類の祖先はと言うと、まずアフリカを思うが、アフリカを出た人の祖先は、広くヨーロッパに渡り、東のアジアの方面にも向かったのであろう。今回発見された骨片は、2008年のようだが、4万8千~3万年前の地層からの発掘だそうで、ドイツの研究所が、骨片の内約30グラムを使って細胞内のDNAを解析した結果、新種だとの結論に達したようだ。折しも、明日は、足利事件で、DNA鑑定の結果、有無を言わさず犯人に仕立てられた、菅家さんが、正式無罪を勝ち取るときである。当時のDNA鑑定がずさんだったと言うことにつきるが、今回の鑑定は、間違いないのだろうか。昔は特に、技術屋の陥る問題の一つに、コンピューターがあった。とにかく「これは、コンピューターの出した結果ですから」という類である。考察もせず、且つ、どのような内容のプログラミングであったかというソフトウェアの件は余り顧みられないのである。コンピューターは考えない。どういう入力をどういったアルゴリズムで解いて、どういった結果を得るのかの全ては、人間が行うことである。コンピューターは、とにかく、その単純な作業をいかに短時間で繰り返し行うのかと言うだけなのである。DNAの解読にしても、全ては人の判断に依るわけで、この発見が、正確かどうかは地球に埋もれた、これらの化石達に口を開いて貰わないと真実は分からないのである。リチャード・ドーキンスの「祖先の物語」流に言えば、現生の人類(いろいろな種族、白人、黒人、黄色人種など居るが、これらはひとまとめて「ホモサピエンス」と呼ぶ)が祖先を求めて、まず行き会うのは、「クロマニヨン人」や小型人類でホビットと呼ばれる「ホモ・フローレシエンシス」であろう。その中には、1876年に絶滅した「タスマニア人」が共存していたかも知れない。さらに遡ると、「ホモサピエンス」の「ネアンデルタール人」がその代表であろう。そしてさらに遡って、「ホモエレクトゥス」のトゥルカナ・ボーイで有名になった「エルガスト人」となる。どんどん遡って、次は、「ホモ・ハビルス」の「ハビルス人」である。それ以前は、人のようなサル即ち「猿人」となり「サル」言うことになる。これら代表的な名称のホモ族は他にも多様な名称で呼ばれているが、とにかく遡ると、現代人→現生人類→ネアンデルタール人(ホモサピエンス)→ホモエレクトゥス→エルガスト人→ホモ・ハビルスと言ったところだろうか。今回の骨片は、ホモエレクトスとホモサピエンスの中間的なカテゴリーにはいるのかも知れない。いずれにせよ、未だに、ダーウィンの進化論を受け付けない現代人も多数いるというし、西洋には、聖書のノアの箱舟の話を信じている人たちが大勢いるのだそうだ。いやしくも人が真性細菌から分離し進化していったものだと言うことは全く考えられなくて、とにかく人のみ神が造りたまえしものなのだという考えである。およそ800万年前に、「ヒト」という名がつき始めたのは、アフリカ大地溝帯の東の一部からだった。400万年前頃に、西進した「ヒト」はアフリカのほぼ全てに行き渡り、200万年前にはアフリカ全土からヨーロッパ、中近東を経てアジアの東端まで達した。この経過途中で、今回発見されたアルタイ山脈のデニソワ洞窟のヒトの化石であろう。これから先、我々が化石となって、10万年後の人(もう人とは呼ばないかも知れない)に分析されたと言うことを考えると、どんな評価を下されるのだろうか。化石だけでは、皮膚の色までは残らないだろうし、顔つきだけでは、必ずしも現代人を完全に区別出来るとは思わない。デニソワ洞窟の人と、ネアンデルタール人の交雑はあったのか、またネアンデルタール人と現生人類の交雑はどうなのか、今は、ハーフとか言いながら、白人と黄色人種や白人と黒人などの交雑は行われていて、純粋血の弊害さえ言われている。人はどこから来たかと言う推定は出来ているが、何処に行くのか、月なのか、火星なのか、誰がノアの箱舟に乗るのか、等に思いをはせると、一部実現化しつつある中で、夢は無限に広がっていくのである。
2010.03.25
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今日は朝から雨である。このところ空模様はすっきりしないし、春の名を聞いてから一層寒くなったようである。連れ合いは、終業式があり、一日中忙しいと言うことで、1人で「古代カルタゴとローマ展」へ行った。私にとってその名前は、そそるものだったので、かねて行ってみたいと思っていた。駅に掲げられた、ポスターは興味をかき立てる字句が並んでいる。言葉だけを連ねると、「5m×5mの巨大モザイク世界初公開!!」「The Legacy of CARTHAGE 」「A Journey Across the Mediterranean」「チュニジア世界遺産」「古代カルタゴとローマ展」「きらめく地中海文明の至宝」である。そして、そのポスターの背景には、5m×5mの巨大モザイクの「バラのつぼみを撒く女性」そして、端の方には、「ライオン像」と「チュニジアの金貨」が配されている。会場は2年前に高校の同期生ら4人で「源氏物語千年期展」を見に行った京都文化博物館とある。場所も近いことだから、1人で出かけても大丈夫だ。念のため、通りの向こうのコンビニの端末機で前売り券のチェックをした。前売り券は、会期前だから前売り券であり、展覧会が開始されると無くなるという人もいたが、確かそんなはずはないと、試してみることにした。以前に試したときには、名前を正確に覚えていなかったので、出てこなかったが、今回は正確に入力したので、出てきた。案の定、前売り券は発売されていて、飛び込みで行くより200円安く買えた。しかしいい加減なものである。前売り券の定義は、やはり「公開前日まで販売」ではないのかなどと思いながらも、安く買えたのだからまぁ、いいやとばかり電車に乗り、阪急烏丸駅から傘をさしながら、取り敢えず、三条方面に上っていった。しかし1人で歩くというのは、どうも勝手が違う。いつもは連れ合いに、そこを左とか、真っ直ぐとか言われながら、ついて行けば着くのだが、今回は、慣れない通りを歩いたので、雰囲気が違っていた。どうも感覚的にしか覚えていなく、見慣れた景色に行き着かないのである。仕方がないので、近くのコンビニで、店員に聞くと、「地図をお持ちですか?通りの名前とか、分かりますか?」と問われる。予期せぬ問にとまどった。こちらは、「京都文化博物館」とだけしか覚えてこなかったし、三条辺りだったが、あやふやである。よもや、近くのコンビニの店員が知らないとは、と思いながら、「まぁ、いいか」と、「では探します。ありがとう。」と雨の通りに出て、東に向かって一つ通りを歩いた。次の辻に簡単な地図看板があったので、見ると、先ほどのコンビニを一筋上がったところにあると言うことが分かった。ぐるりと大回りしたことになる。私がよくやる失敗で、そこにいる人、働いている人は、皆その辺りを熟知しているという錯覚である。これはとんでもない話で、大概は、地方から来ている人が多いので、近くのことでも全く知らないのが普通なのである。1人で歩いていると道のりは結構長く感じる。とにもかくにも、見覚えのある通りに出て、やっとの思いで、「京都文化博物館」にたどり着いたのである。昼前に出かけてきたので、少しお腹は減り気味だったが、ここでも、「まぁ、いいかと」会場内に入った。なにやら重々しい雰囲気で、人はまばらで、中には、外人さんをエスコートして見に来ている人がいるものの、通常の美術展よりは明らかに入場者数は少ない。そのわりには、監視人があちこちに座っている。最初数枚写真を撮ったが、柱に撮影禁止とか、やたらと駄目マークのシールが貼られている。カメラのフラッシュで絵画が劣化すると言うことは良く聞き、納得は出来るのだが、それならノーフラッシュとすればいいのに、撮影自体が駄目なのだそうだ。あのパリの「ルーブル美術館」でも写真は撮り放題だったのを思うと、この展覧会のような、テラコッタや、モザイクをカメラで撮って何が悪いのだろうかと思う。映画などでは、著作権が云々とかで、毎回映画泥棒駄目を聞かされて、嫌な気分になるが、ここでは何らかの、ポリシーがあるのだろうか?そんなことを座っている、お姉さんや、ましておばさんに聞いてもどうせ「決まりですから」としか答えは返ってこないだろうとカメラをしまい込んだ。帰ってから、「高松塚古墳」の壁画劣化のニュースを放映していたが、発掘後30年で、美人画の顔には多数の肝斑(?)が出来ていた。40年ほど前に発見されたのだから、女性もそれくらい経てばシミや、そばかすは出来るだろうというわけにはいかないようだ。高松塚の場合は、現場における保存の仕方の問題で、カビが原因であるが、それくらい当然想定内かと素人でも思うのだが、今回のカルタゴ展の場合の写真撮影とはおよそ性質が違うように思った。多分、出口で記念のガイドブックを売っているので、その売れ行きが悪くなるだろうからとしか思えない。内容には、「アンフォラ」と呼ばれる、陶器の器の一種の展示があり、オリーブ・オイルやワインなどを運搬・保存するための物らしいが、下の部分が妙に尖って安定が悪そうな理由がよく分からなかった。他には、墓に副葬品として埋められた、独特のテラコッタ人面マスクなどである。紀元前3世紀頃と言うから、日本は未だ弥生時代である。ローマ帝国の時代であるから、この点では、西洋文化は、日本の文化に先行していたと言わざるを得ない。カルタゴと言えば、紀元前9世紀頃の海洋民族フェニキア人が、北アフリカ地中海沿岸に建設した古代都市であり、このフェニキア人が、アルファベットの元を作ったというのだから恐れ入る。この頃の日本はというと極めて曖昧である。未だ途上なのでよく分からないが、架空の神である神武天皇が、8世紀初めの降誕であるとされるから、その曾祖父の時代に相当するわけで、丁度「海幸彦」や「山幸彦」の時代かも知れない。このカルタゴ、現在はチュニジア共和国の首都チュニスの近郊にあったらしい。世界遺産にも登録されていて、訪れる日本人も多いという。カルタゴとは、フェニキア語で「新しい町」を意味する“カルト・ハダシュト”に由来すると言うことを初めて知った。カルタゴは群を抜く航海術と巧みな交易により強大化し、海洋交易大国として古代世界の中心─地中海にその名をとどろかせた、とあるが、洋の東西を問わず、海洋を制する者が世界を制すると言うことなのかも知れない。カルタゴは「地中海の女王」と称されているとあるが、何故女王なのか私には分からない。私は、ギリシャ・ローマ時代が好きで、特にローマ時代の話は、塩野七生の「ローマ人の物語」でより親近感を覚えた。カルタゴと言えば、当時の新興国ローマとの第3次にわたるポエニ戦争を思い出し、特に、希代の勇将と言われ、象部隊でのアルプス越えなどで有名な英雄ハンニバルがいる。やがて、ローマのスキピオに破れて、カルタゴは消え去るが、滅亡から約100年後、にローマの初代皇帝アウグストゥス帝によって再建され、「北アフリカのローマ」として再び新生カルタゴとして円熟期を迎えたとある。その独特のモザイク芸術が多数展示されていた。トフェトと呼ばれる、子供達だけの墓や、バール・ハモンというフェニキアの古代宗教神、そして、てるてる坊主を平面化したようなカルタゴの守護女神タント、共同墓地であるネクロポリスの副葬品の数々も展示されていた。私は船に携わってきたので、カルタゴの、四角形の商港と、その奥の丸形の軍港のよく考えられた構造に一段と興味を惹かれた。この軍港には、1度に220隻の船が収容出来、修繕のためのドライドックもあったと言うから、海洋国家カルタゴの面目躍如と言うところか。
2010.03.24
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今日は、姉に付き添って、白内障の手術説明の立会で病院に行った。近代的で綺麗な病院は、ホテルのようであり、ここならどんな病気でも治るだろうという感じだ。ところが、である。約束の時間は、14:30という事で、当然30分くらい前に赴き、診察カードを渡す。30分前に行くのは、個人の自由でそれはそれで良いわけで、30分は待つつもりである。しかし、規定の時間が来たら診て貰えるというつもりだ。ところが予約時間が過ぎても、一向に声が掛からない。どこの病院でも、大概待たされるので、少々待つ事は不文律であり、納得している人が殆どである。そんなつもりだったが、周りに大勢いた人たちは呼ばれて診察室に入っていくのに、なかなか声が掛からないのである。30分過ぎ、40分過ぎても梨のつぶてで、ついに業を煮やして、看護婦室に行く。「どうなっているのですか?もうかれこれ50分近く待っているのですけれど。」というと「この次になっていますから、もう少しお待ち下さい」とのこと。それから又10分少々待たされた。そこで、私は、ナースステーションに赴き「婦長は居られませんか?」と問うと、階が違うという。では、「主任さんは居られませんか?」と聞くと、「そういう体制ではないのです。」との応えである。「そんな馬鹿な話はないだろう、それでは、文鎮みたいに婦長の下で、てんでんばらばらに作業をしているのか!」というと返事がない。「あなた、観月ありさの『ナースのお仕事』ってテレビ知ってますか?」と聞くと、知らないという。そりゃそうだ、看護師ならみんなが観ているという考え方はこちらの独りよがりである。しかし、ここは、そんじょそこらの町医者ではなく、婦長だけがいて、後は平の看護師が、思い思いの作業を担当医からの指示で行っているとはとても思えない、それほど綺麗で、立派な大病院なのである。私は段々と頭に来た。何時も血圧が高いのはそんなせいかもしれないし、加齢に伴って気が短くなっているのは親父譲りかも知れない。対応した看護師(女性)の応答は、気のなさそうな、どこの親父が又クレームしているのかといった態度に見える。「あなたのその受け答えは、患者をなめているのですか?」というと、そうでもないらしい。百歩譲って、人の表情なり応える口ぶりがどうのこうのといっても始まらない。その前に、姉から、この間は予約無しで飛び込みで来たら、朝10時に診察を申し込んで、診て貰ったのは、午後3時だったという驚きの話である。姉は、「勿論その間にお昼ご飯は食べに出たよ」と言うのだ。当たり前であるが、姉は腹が立ったけれど、それでもこちらは診て貰う身、待つ以外に手がないと思ったというのだ。そういわれてみればそうなのだが、今回は、前回の約束で予約時間を指定されているのである。そこで、私は、その看護師に、「前回は予約無しで、5時間待たされたのだけれど、それは予約無しに勝手に飛び込んだから仕方がないと思っていますが、今回は約束の時間前から待っているのですよ」といい、「ここが病院だから、それで済むかも知れないけれど、普通のお店だと、人は来なくなりますよ!あなた方はどこか、診てやると言う気持ちでいるのではないですか?」とたたみかけた。当然「そんな事はありません。」との応えである。「では、あなたが普通、友人とでもいい、約束の時間に遅れるようだったら、どうしますか?交通渋滞や、事故で遅くなるなら、今では携帯電話を掛けるか何かするでしょう?」、「携帯電話をお持ちでなければ出来ないでしょうが、このナースステーションと我々が待っているところは、歩いて、10歩程度だし、しょっちゅうどなたかナースの方は通っていらっしゃるのですよ」「5分や10分程度なら、病院だから、当然の事として待ちますよ、ところが、既に50分は経過しているのに、何の連絡もなく、大勢いた周りの人はどんどん帰って行き、がらがらになっているのですよ」といいながら待合室に姉ともう一人の患者さんしか座っていないところを指さす。「普通なら、『前の人が、時間が掛かりすぎて、段々遅れましたのであとどのくらいお待ち下さい』とか言うのが人間としての当たり前の行為でしょ。」というと「すみません」という。カルテを持ってきて、「この次に置いてありますから、もうすぐ声が掛かると思います」との事だ。そして、又10分待ち、再度その看護師に言うと、「前の患者さんが早く終わるつもりが、急に処置が入りまして・・・」と顔だけは申し訳なさそうになったが、気持ちが変わってない。「あなた、今は放映していないけれど、又やると思うから、観月ありさの『ナースのお仕事』を是非観なさい。」といった。「あなたは、主任が居られないと言ったけれど、看護師同士の朝の朝礼もないのですか?それではどうやって引き継いだりするのですか?」、「今日こんなクレームを聞くのは、この病院始まって以来の事かも知れませんが、この意見を病院のというか、看護師のあり方に反映して下さいよ。」といったが返事はなかった。「待つのをとやかく言うのではないのです、病院だから突発の予期せぬ治療が入り遅れる事もあるでしょう、でも約束の時間に来て、心細く待っている患者は、本当に診て貰えるのか心配なのです。一声、事情を説明する気遣いがあっても、さほどお仕事の妨げにはならないと思うのですが・・・」といっているところに、診察室のドアを開いて、医者が、やっと我々を招じ入れる時間になった。約束の時間から既に1時間10分が経過し、残りの待合いシートには、患者らしき人はいなかったようだ。診察に入るなり、医者は、「どうも遅くなって申し訳ありません」といった。まともな先生だなと思った。この病院の根本は、明治時代に設立された慈善事業団体であるし、全国チェーンの立派な病院なのである。そして古くは経済的に恵まれない人々に医療を提供する主旨で設立され、貧困層が多く定住するとされる駅周辺に建てられることが多かったと言うことである。総裁に、皇族を頂く、有り難い病院であるのだ。仏を作って魂入れずではないが、元々はそれが両立していたのだろうが、今は、コンクリートだけが立派になって人がおろそかになっているようだ。政府の向かう方向とは違った風に感じられた。病院と雖も、人と人との信頼関係にあるわけで、病人側は、藁(と言っては失礼だが)にもすがる思いで観て貰い、治して貰おうとしているわけで、それほど急に容態が変わらないからと言うことで、貴重な時間を浪費させ、あまつさえそれでも診てやっているのだからという態度はどうにも承伏しがたい。但し、ここには、姉は一度救急で運ばれてきたことがあるのだが、その時の処置は、誠に手際よく、スムースに処置してくれたことを付け加えておかねばならない。世の中、救急患者でもたらい回しにされ、挙げ句の果てに死んでしまうと時代である。診てもらえ、処置してもらえると言うだけで感謝しなければならないのだろうか。あまつさえ、看護師が、むしゃくしゃして、患者の肋骨を折ったり、意図的にインシュリンを点滴に入れたり、虐待したりが、日常のように報じられる時代になったわけで、たまたま、私がクレームを言った看護師が、どうかそんな人でないことを祈らなければならない。帰り際に、「さっきはきついことを言って申し訳なかったです」と一言フォローしなければならないところは、やはり病院と患者の立場は対等ではないと言うことが心の何処かにある証なのだと思いながら病院を後にした。白内障は加齢によっても起こる病気であり、ほとんどの患者は、濁った水晶体の入れ替えで、回復するという。病院に来る前に本屋に立ち寄ったが、「人は誰でも長生きをしたいが、人は誰も歳を取りたくない」といった意味のことを書いた本が目についた。健康で、明るい人生を送りたいものである。
2010.03.23
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日曜日に、久しぶりに日高レポートをテレビで観た。1995年から放映開始とあり、開始された当初は、日本の番組とは少し違った印象で、興味深く観たものである。日高義樹は「ハドソン研究所」の客員首席研究員で国際政治ジャーナリストである。「ハドソン研究所」はアメリカの未来学者ハーマン・カーンが創立した保守党シンクタンクであり、ハーマン・カーンは限定核戦争を肯定する一方、バートランド・ラッセルが核兵器による平和の達成は不可能だと論証したと認めたことで、平和主義的な面で評価を受けたりもしている。また、ハーマン・カーンは「21世紀は日本の世紀」と断言し、また「2000年頃に日本の国民一人当りの所得がアメリカと並んで世界一のレベルに達する」とか、「軍事的にはアメリカの、経済的には中華人民共和国の影響下に置かれる」などと予想したりもしている。そんな関係で、この毎月1回放送の「日高レポート」は主としてアメリカと日本の関係を共和党の論客メンバーとの対談方式でなされている。原則月1回の第3日曜日放送だから、この期には、ゴルフの放映と重なって、ゴルフを優先するときもある。日曜日は、女子プロの放映と重なったが、テレビを2画面状態にしながら、とぎれとぎれに聞いていた。今回のテーマは「オバマは何故、日本を敵視するのか」というもので、アメリカ初の黒人大統領として華々しく打って出たオバマ大統領が、対日政策を軽視し、中国重視政策を採る根拠が知れるのではないかと興味深かった。インタビュー形式で、今回の対談相手は今や野党となっている共和党全国委員長のコーニン上院議員である。共和党全国委員長と言えば、アメリカの共和党において全国の党組織を統率する委員会の調であるから、相当な地位であるわけだが、院内総務というわけではなく、かつ今や野党であるために、民主党のオバマ政権に辛口であることを承知で聞く必要がある。75分の放映時間のテーマは、5部に別れており、第1部:オバマのトヨタ批判は常軌を逸している。第2部:オバマは外国企業叩きしか景気回復の道はない。第3部:オバマ民主党は中間選挙で負ける。第4部:オバマの対日政策は間違っている。第5部:トヨタ叩きの背後には何があるか。との構成になっていた。ゴルフの画面を追いながらの二股であったので、核心を聞き逃したかも知れないが、話の内容は、オバマ政権が日本に無関心なのは、駐日大使に選挙で集金力に優れ、多大な貢献をしたジョン・ルースを選んだことで明らかだという。永年の友人である「日本」に対し、大統領の個人的友人を論功行賞の如く起用するのは、間違っているというのだ。それは、とりもなおさず、日本軽視の表れであるという。駐日本大使には、大統領の友人ではなく、日本の友人を選ぶべきだというのだ。党派を超えたライシャワー大使のように「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」と率直に発言するような人が望ましいということなんかと考えた。確かに、「非核三原則」違反を元アメリカ大使が認めたが、日本はこれに呼応せず、今日までだまし続けた自民党の体質が今問われている。オバマ政権は、今2つの大きな内政問題を抱えていて、その一つは、排ガス問題と、もう一つは、医療保険制度の問題である。国際問題では、イラク撤退が最大争点であったが、それにつぐのが、労働者寄りのオバマ政権最大の公約であった医療保険問題であり、これで手一杯だというのだ。さらに最近のトヨタ車リコール問題における、オバマの異常なまでのトヨタバッシングは何を意味しているのかでは、国内で、GMを国有化しながら、トヨタをバッシングするのは明らかに不当だと言うのだ。通常こういった類の苦情は、1000件を超えた場合、大きな問題として取り上げるのが普通だが、今回のトヨタへのクレームはたった80件であるというのだ。さらに、日本から見ていても、明らかに、でっち上げのクレームを、まことしやかにマスコミが取り上げ、トヨタ=日本を窮地に追いやろうとしている。この姿勢そのものが、オバマの体質であるというのだ。オバマは、労働組合を基盤に持つ、そういった構図から、アメリカの労働組合とは一線を画する日本のトヨタが問題を起こしたと言うことで突き上げているというのだ。これは、民間の問題に対して、国家主義で対処しようとしているゆゆしき問題であり、対する鳩山政権は、逆にトヨタに極めて冷たく、一私企業の問題と素っ気ない。方や子供の喧嘩に親が出てきて、それも巨漢の腕っ節の格段に強そうな親なのだが、こちら(日本)は、子供が結構でかいので、ひ弱な親はこれに隠れて出て行こうとしないという構図である。トップセールスが下手で、ベトナムの原発もロシアに取られ、UAEの原発も韓国に掠らわれるような有様であり、ドイツやフランスなどのトップ外交も旺盛なのに対して、日本政府の対応は極めて稚拙である。私はトヨタを個人的に贔屓するものではないが、日本=トヨタ、SONYが定着している今これを放置しておくのは、竹島を傍観し、北方領土を放置して顧みない脆弱な日本を、一層世界に喧伝するようなものである。また、先頃行われた、民主党エドワード・ケネディ議員の死去に伴う、マサチューセッツ州上院補欠選挙では民主党の金城湯池であるはずが、共和党のロムニー前マサチューセッツ州知事が民主党のマケイン上院議員を抑えて勝利した。これにより、11月の大統領の中間選挙ではオバマは負けるだろうというのである。選挙の結果が、政局の運営に重要であることはどの民主国家でも同じだが、日本で選挙第一となりふり構わぬ小沢一郎を思い出してしまった。勝てばやがては官軍なのだ。中国はアメリカの国債を多量に持ち、核の脅威もある。またドイツは今回、中東への派兵も行っているし、フランスはイランの核対策に対応している。そしてロシアは、中東への政治的圧力を強めている。そんな中で、オバマは、対日政策は経済問題に対する対応だけでよいとしているが、これは誤りだとコーニン上院議員は言う。それでいて、このコーニン上院議員は沖縄の基地問題について、そのポイントは何処なのかと逆に日高に質問をし、日高がブリーフィングする場面もあったのには驚いた。結論は、オバマはアメリカの経済界から嫌われており、日米の軋轢も共和党が政権を奪還すれば解決すると行った具合に対談は終わった。我田引水と言うところか。
2010.03.22
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水は人間にとってというより以前に地球上の生物にとって不可欠のものである。旧約聖書の「創世記」にも、神の霊は水の上を動いていたとされ、先ず第1日目に昼夜の別を作り、第2日目に空と水を分け、第3日目に海と陸を造った、とある。私は以前、このブログで、地球上の水の量を大雑把な計算をして、書いた事がある。その計算では海水の量は2×10^18m3(2×10の18乗、立方メートル)という結果だった。他の人が計算した結果(この方が本当だろう)では1.35×10^18m3というものだった。オーダーとしては余り変わらないからこんな所であろうか。ところが、これは海洋(海)の水であり、塩分を含んだ水である。従って、このままでは人間などの飲料水としては、使えないわけだ。その上海洋の水は地球全体の水の97.5%を占めると言うから、何も手を加えないで飲料に使える水は5×10^16m3程度と言うことになる。このうち仮に汚染されていなく、見える形で人間が使える水(例えば河川など)が50%あるとして、その量は2.5×10^16m3と言うことになる。2.5×10^16m3は即ち2.5×10^19リットルと言うことである。ここで、人間が1日に使う量は、生活水250リットル、飲料水2リットルと言われ、統計では昨年の世界人口は67億人を超えたと言うから、世界の人が1日に消費する量は全部で約1.7×10^12リットルとなり、世界中の人が平等に、まんべんなく使ったとしても、4万年は持つ計算になると言ったいたずら計算だった。実際には、水は何らかの形で循環したり、海水が蒸発して雨になったりと、おそらくは、このような計算ではないもっと長く使えるものであろう。(前の計算では4億7千万年だった。)この点で、日本人は、とても恵まれている。鉱物資源や、石油などのエネルギー資源がない割に水は潤沢にあるわけである。しかも、河川や湖・沼沢等すべてが1国完結なのだから国同士の諍いが無くて済む。それにもかかわらず、水をめぐる争いは日本でも随所で起こっている。昔の日本の各藩の境は、今の都道府県境よりはより国境に近いものだろうからより厳しかったのであろう。この近くの滋賀県では犬上川の水源を巡る、上下流域の集落全員の生死をかけた争いや、戦国時代から昭和18年まで「餅ノ井落し」の儀式として残っていたという高時川での水利権に関する争いなど、全国各地で、水に関するトラブルが起こっている。これが海外となると、さらに問題が深刻である。サウジアラビアなどは、水の方が、石油より高いと言った、信じられないような現象が起こる。国土の1/3を砂漠が占める乾燥したこの国では、もちろん水は貴重である。現在は、日本などから造水(海水淡水化)装置プラントが進出しているが、自然の地下水だけに頼っていた場合は、2040年には水は枯渇するとまで言われていた。また、サハラ砂漠から乾燥をもたらす熱風(シロッコ)で有名なリビアなども、地中海には接していて気候は温暖であるかわりに、沿岸部も乾燥しており、年間降水量は400mmを越えないとのことである。こういった水に悩む国は多い一方、水が多すぎて困る国もあり、様々である。昨日の新聞によれば、南アジアで水資源の争奪戦が再び過熱しているとのことである。インドとパキスタン、インドとバングラディシュ、さらには、これに中国が絡んで複雑の様相を呈している。国をまたぐ川はその国によって川の名称は異なる。自国の領有を誇示する、島の名前などに似ているが、インド、アッサム地方を流れるプラマプトラ川は、その上流では中国名でヤルンツァンポ川と呼ばれている。このプラマプトラ川にはさらに下流で、バングラディシュのティスタ川と、インドとバングラディシュを通るバラク川が合流している。インドも中国も、国力が増大するに従って、エネルギーの消費が増大する。そのエネルギー源の一つである水力発電について、この、ヤルンツァンポ川(プラマプトラ川)での問題がある。この川は、2008年にも「中国とインドが水をめぐって戦争勃発の危機」などと報じられたところである。当時、中国はヤルンツァンポ川(プラマプトラ川)を堰き止め水を中国東北部に引き込もうとしているという報道があったのだ。中国にとってのインドは取るに足らない存在だと映っていたが、実際にはインドは科学技術分野では中国を上回るほどの国である。ヤルンツァンポ川を堰き止めようとする、この“無謀”な計画は、「中国人の唯我独尊的な態度」を表した中華思想そのものである。しかし中国に取っても南水北調計画の一環として、三峡ダムに水を引き込み、干ばつに苦しむ東北地方の水源とすることは必要不可欠な命題である。 一方、インドにとっては、この計画で川をせき止められ、もし水の半分でも中国に奪われれば、乾期には川は完全に干上がってしまい、インドとバングラディシュで1億人もの人々の死活問題となる。最終的には軍事的な衝突にまで発展する可能性もあるというのだ。 今回、中国はダムの建設計画を否定しているが、インドは「引き続き状況を中止する」という姿勢のようだ。中国は、何をする国か解らない、注視するだけで済めばよいのだが。しかし一方ではインドも、この川に水力発電所の建設を計画しているというのだから複雑である。バングラディシュとインドとの関係では、インド北東部を流れバングラディシュに通じるバラク川で、インドはバングラディシュに対して、自国に対する中国の立場になっている。即ちバラク川上流に水力発電所を建設しようとしていて、これがバングラディシュの農業、物流に多大な影響をもたらす事になり、バングラディシュはインド政府に抗議している。これはインド東部の話で、一方インドの西部に目を転じると、永年の確執のパキスタンとの間にも、この水の問題があるというのだ。インダス川上流の印―パの火薬庫であるカシミール地方の停戦ラインに近いキシャンガンガ付近で、チェナブ川にインドが水力発電所を建設し、これが下流のパキスタンにおける水力発電所への水供給が減少するという懸念である。元々、パキスタンにしろ、バングラディシュにしろ、宗教上の問題で、インドから分裂独立した国柄であるが、自国内で完結しない河川では、このような問題は随所に起こりうるであろうし、また起こっているのであろう。一方、東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、ラオスの5カ国にまたがるメコン川流域の広域開発をメコン地域開発構想として積極的に水を利用しようとしている。メコン川を中心に、南北回廊、東西回廊などを多国間で建設し、地域発展につなげようとしている。どうも人口の多い国(中国・インド)は自国のことのみを考え、多国的な協力態勢を取っていないように見受けられる。川は誰のものか、また地球は誰のものか、地球が狭くなっている現在、そこに共存していく道を、水の面からも考えないといけないと思う。
2010.03.21
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連れ合いと孫を伴って、大阪長居の大阪市立自然史博物館に「大恐竜展」を見に行った。昨日前売り券を買いにコンビニに出かけたが、各種の催し物など簡単に手に入る「チケットぴあ」というものを初めて経験した。銀行の引き出しも出来、確かに、convenient(便利)だと感じた。阪急電車の駅でも「大恐竜展」の宣伝のビラが貼ってある。それによると、”関西初上陸”大恐竜展(Dinosaurs of GONDWANA)とあり、副題には「知られざる南半球の支配者」となっている。何となくそそるビラに、恐竜好き(といっても恐竜のおもちゃ好きだが)の孫を伴って行くことにしたわけだ。それにしても大嘘の宣伝である。まず、関西初上陸という言葉だが何を指して言っているのか分からない。昨年の夏に大阪南港ATCで「大恐竜帝国」というのがあり、その時も孫を連れて、出かけているのである。いい加減な誘い文句だと思った。そして、副題の「知られざる南半球の支配者」という意味である。ヴェーゲナーの大陸移動説で、現在の諸大陸が超大陸で「パンゲア」であり、ジュラ紀中期に「パンゲア」は北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分裂したのである。ここに集められたのは、そのゴンドワナ大陸に生息した恐竜である。そして、不愉快なのは、小さな文字で、大阪市内在住の65歳以上の方は無料とあるではないか。「何で、大阪府下ではあかんのや!」と言いたくなるが仕方ない。とにかく、孫を迎えに行った。いつもの大型のリュックは持っていないが、袋を2つ持っている。一つには、カジノのチップのような物で、もう一つは小さなゲーム機のような物だが、とにかく外出中には使わないのだが持っている。孫に聞くと「持っとく!」である。これは、姫がいつも大荷物を持ち歩いているのと似ていて、とにかく持っていたいのである。かくいう私も、いつも連れ合いから「使わないのだから、置いて行きなさいよ」といわれてもとりあえず「持っとく!」ので、気持ちは分かる。今朝、孫は挨拶をしたものの、すたすたと一人で駅の方に足早に歩いていく。「何かあったか?!」と思っていたが、水無瀬駅から電車に乗る頃には、いつも通りはしゃいでいた。「今日は、何処へ行くの? 恐竜展でも良いよ!」と言うのには恐れ入った。どうやら、前回、連れ合いが、「どらえもん」の映画に連れ出したが、満員で見られなかったことを言っているのである。その点は、しっかりと記憶していて、おざなりにしないところはたいしたものである。大阪長居へは阪急淡路で、相互乗入れの地下鉄堺筋線で動物園前まで行き、そこで御堂筋線に乗り換えるのが、簡単で、一番安い。ATCの時の4つの路線とは違い、3路線で、乗り継ぎが易しい。私は、今朝早く目覚めたので、少し眠く、うとうとしていたが、堺筋線に乗るときに、あらかじめ孫に、「動物園前」で乗り換えるのだということを告げておいたので、「あ!動物園前だ!」との言葉で、やおら乗り換えることが出来た。もはや立派なパートナーである。その点、連れ合いは、鷹揚なもので、「どっちに行くの? これで良いの?」とか極めて人任せである。従って私は、子供2人を引率する形になるわけである。長居公園についても、「え!こんな広い公園なの?」と心許ない。「太郎君がここで、槍を投げたんだろう?」と聞くと、「ここでは、中学時代に砲丸で優勝した。」のであり、「槍はユニバーサル・・」でとか、「ここは狭すぎるので槍は無理」というのである。なんだか訳の分からないことをいいながら、長居駅から公園を突ききるように、自然史博物館に着いた。今日は、暖かいので、人出も多く、既に公園はにぎわっていた。孫に写真を撮るよというと、両手を上に開いてそこにあごを乗せる仕草をする。「どうして、そうするの?」と聞くと、自分で考えて、「格好良いと思う」からとの答えだった。通りがかりの自転車のおっさんが、「ぼく、男前やな!」と声を掛けていく。さすがに大阪らしい。さて、大恐竜展の入口では切符切りの子に「何で、市内在住だけただなんや、橋下知事に云うといて!」と他愛もないことを云いながら館内に入った。館内は、大陸移動説などの、パネル説明から配置されていた。パンゲアが、いかにして現在の大陸になったのかが動画と共に解きほぐされていた。近くの若いカップルが「ねぇ、今でも大陸は動いているの?」と聞いている。その通りだよと思いながら、私は、連れ合いに、孫を任せて、写真を撮って回った。恐竜の家系図(?)がある。恐竜にサウルスという言葉が多いが、「サウルス」とは「トカゲ」や「竜」の意味で、恐竜の元祖は爬虫類であり、そこから鳥にも進化したというものである。会場はATCの時より狭いので、やたら恐竜の骨格復元が大きく見える。初めて見る、「マラウイサウルス」等は横から全身を撮れない。マラウィと言えば、ジンバブウェの隣国で、アフリカでも最貧国の一つである。そんなところにも、恐竜は眠っていたのかと感慨深い。ニジェールで見つかった「アフロベナトール」もいた。また、南米アルゼンチンで発掘されたという「アウカサウルス」は頭がとてつもなく大きい。従って、狭い場所なので、これも全身の写真を撮ることは叶わない。モロッコで見つかった「デルタドロメウス」は体長は約8mで、これなら何とか全身を撮せる感じである。今イスラム圏の勉強をし、モロッコ文学にも接しているが、急にアフリカ最果ての国が近しく感じられる。恐竜展の定番である「ティラノサウルス」の骨格復元は親子で並んで展示されていた。何といってもでかい。これは恐竜の代表格である。体長は約15mもある。今回は、足先の化石も別途展示されており、鳥を思わせる3本の巨大な爪先が不気味であった。頭上では、恐竜時代の想像ビデオが大型スクリーンに映されていて、孫は、食い入るように見つめていたのは印象的であり、後で、少し怖かったねと漏らしていた。ここ「ティラノサウルス」の親子化石の前で、祖母―孫の記念撮影をしたが、これは、約6800万年前の爬虫類親子と現代のほ乳類祖母、孫の記念すべきショットである。これもモロッコ生まれの「カルカロドントサウルス」は顔の部分だけの骨格化石と、復元模型が展示されていて、顔だけでも十分に迫力のあるものだった。孫より小さな小型恐竜も展示されていた「アナピセティア」「ウネンラギア」「パタゴニクス」で、共にアルゼンチン産であった。パタゴニアの名は、本で読んでいたが、広大なパタゴニア平原にもこんな小さな恐竜がうようよ居たのかと、興味深かった。小さな展示物に石に押されたサソリの仲間があったが、私と連れ合いの星座でもあることから、記念に写真を撮った。今のサソリと何ら変わらないが若干小型のようであった。全地球規模で見られるという、白亜紀と第三紀の地質の間の、K-T境界層という1~3cmの極薄い赤い粘土層の断面の標本も展示してあった。こういった層を地道に根気強く発掘する考古学者の粘り強さには頭が下がる思いだが、大きな恐竜の化石を掘り当てたときの感動は、いかばかりかと思う。人より小さな「エオラプトル」の可愛い恐竜化石が、掘り出されたままの姿で展示されていたのは、何となく臨場感があった。最後はトリケラトプスの頭蓋化石であり、ここでも孫の写真を撮った。後で解ったが、孫はトリケラトプスをプリントしたTシャツを着ていたのだ。恐竜展の会場は狭く、内容も乏しかった。これでは「大、恐竜展」ではなく「大恐竜、展」と区切らなければならないだろう。しかし、南半球の恐竜は確かに関西初上陸のようであった。最後の1室は、子供達に恐竜の絵を描かせたり、台紙に糊を置き、色の粉を振りかけ、絵を描かせるなどのコーナーがあったが、一寸狭すぎた感があった。孫は自分が描き終えると、もう心は外の公園での遊びに移っている。恐竜展会場出口では、待ってましたとばかり、恐竜グッズが売られていたが、孫は、一も二もなくオレンジ色の首の長いスピノサウルスを取って、これが良いという。それはそれで良かったのだが、いつもは、弟の分もと言って選んであげるのに、今日は、知らん顔である。連れ合いが「弟の分はどうするの」と言っても、余り乗り気がしないようだ。孫も好きな、トリケラトプスにしようか、どれにしようかと、余り選択肢の無い中で迷ったが、ここのトリケラトプスは、首が短い上に、色遣いも今一の感じだった。弟が、スピノサウルスを欲しがったら、どうするのかで、また悶着があり、絶対に死守する態勢である。連れ合いは、いっそう同じ物を買おうかというが、それもおもしろくないと結局はトリケラトプスを選んだ。外に出ると丁度お昼時、食べ物屋の少ない中、見つけたのが、マクドナルドで、奇しくも前回のATCと同じである。食の細い孫は、そそくさと食事を終え、公園に出るが、それまで考えていた連れ合いは、やはり、弟用にも、トリケラトプスよりも首の長いブラキオウルスがいいと言うことで、一人交換に帰って行く中、孫は一目散に、皆で遊んでいるパラボラアンテナのような、窪んだ丸いコンクリート製の滑り台に向かった。私は、靴と靴下を脱がせて遠くから見ていたが、10分近くは、わいわい雑踏の中、1人で何度も滑っては、遊んでいたが、何回か滑ったときに、運悪く、一寸後ろから滑ってきた男の子の足が、顔に当たったようだ。余程痛たかったのか、驚いたのか、振り向きざまにその子に手を挙げた。だだそれだけで、双方とも、余りダメージは無かったが、そこで、孫は急にうずくまり、どうやら泣いているようである。しばらくそのまま見守っていると、次から次に滑ってくるみんなが当たるので、場所を変えてまた泣き続ける。根比べかと見守ったが、朝から眠そうだったので、泣き寝入りでもしているのかと伺いに行くと、両手を広げて、甘えて、「だっこ」という。自分で立ちなさいと言いながら、場所を滑り台から離れるも、なかなか泣きやまない。見る限りは、悪意もなく単なる偶然の結果なのにと思い、折からの風に吹きだまった、枯れ葉の上に、そのままにして連れ合いが帰るのを潮にしようと一寸離れて見守ることにした。孫は、地球にしがみついて泣いているようでもあり、寝ているようでもある。近所のおばあさんや、お父さん達がのぞき込むように見ているが、平気である。丁度連れ合いが戻ってきたので、「寝てるのか?」と傍によると、目を開けたまましゃくり上げている。どんな風な心の動きなのか読めないまままたしばらく、一寸離れてみていたが、状態が変わらないので、連れに行き、端の方で、靴下や靴を履かせて、諭すように話すと、もう随分経ったので、疲れたのか、だんだんと気分が落ち着いたようだ。抱いて、そのまま眠るかと思ったが、しばらくすると、ようやく元気が出て、平静になってきた。もう滑り台はしないというので、ソフトクリームを食べ、公園の緑の中に寝転がると、またまた、元気よく走り出し、遠くの子供連れに合流しばらく遊んでいた。元気を取り戻して、帰途についたのだが、それ以来眠そうなことは一切言わず、帰りも乗換駅を教えてくれて、乗り越さず、連れて帰って貰ったようなものだ。今日はお父さんとお母さんの結婚記念日とかで、私の部屋で、帰りを待つことになる。風呂に一緒に入り、汗と、少し、泥にまみれた体を洗うのだが、さすがに成長しているので、頭からザブンとお湯を掛けても平気である。風呂から上がって、買ってきた恐竜のおもちゃで遊んでいたが、遊び疲れても、いつもは「おうちに帰りたい」というのに今日は平気である。「お父さんがもうすぐ迎えに来るね」と連れ合いが連絡を取っても、いつもなら「やったぁー!」と言うところなのに、「ふーん」と結構平気である。今日は、恐竜展もさることながら、地球を抱いて泣いたこと、その後、機嫌を直して遊んだこと、おもちゃを買って貰ったこと等々、以前とは少しずつ違う孫の成長を見ることが出来た。
2010.03.20
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リーマン・ショックで、世界の経済は奈落の底に落ち、我が家も少なからずその影響を受けた口である。今は、国際経済で問題になっているのはギリシャ問題であろう。リーマン・ショックの影響が、どのような形でギリシャ問題に関わっているのか、私には分からないが、ギリシャが国家的経済破綻に直面しているという。EUは現在27ヶ国が加盟していて、ギリシャは、EU発足から程ない、1981年にEU加盟を決めている。また、EU加盟国の中で、流通通貨がユーロである、ユーロ圏が誕生し、2001年にギリシャはその基準を満たしたとしてユーロ圏の仲間入りをしている。ユーロ圏は現在16ヶ国という事になっている。それが今、ギリシャの金融破綻により、EUの屋台骨を揺るがしているというのである。ギリシャと言えば、アテネ、オリンピック、エーゲ海となにやら、南国の情趣豊かな国のように思っていたが、内実はとんでもない破綻国であると言うことらしい。脱税など、税金を逃れた非合法活動が形成する「やみ経済」の割合が国家のGDPに占める割合が1/4にも及ぶのだという。因みにアメリカのやみ経済は7.5%程度で、日本のそれは、約10%弱なのだそうだ。汚職にまみれた、中国のデータは書いていないので解らないが、概して南欧の国は、やみ経済が横行している印象である。ギリシャのお隣の国イタリアでも、その割合は20%を超えており、こういったことから連想するのはやはりマフィアの国上がりということなのであろうか。以前イタリアに旅行したときのガイドでは、やはり北部の方は比較的裕福であり、南部の辺りは、貧困であるとの話を聞いた。先頃「アマルフィー 女神の報酬」の映画を見たが、内容はともかくも、景色の良いところだということは十分に味わえた。私はギリシャには行ったことがないが、連れ合いが訪れた時若い働き盛りの男達がまともな仕事もせず観光客に金をせびるような様子を話しているのを聞いた事がある。そんな、フィリピンのストリートチルドレンの様な男達の話から、日本人が感じる、エーゲ海の美しさとは裏腹なこの国の疲弊をその時も感じたものであった。ギリシャに対して、私などが感じるのは、やはり、「ギリシャ・ローマ神話」やアテネのアクロポリスの丘に建つ世界遺産のパルテノン神殿、ロードス島などであり、また、その昔、マケドニアを発したアレキサンダー大王が、東欧に遠征した拠点でもある。その頃には既にローマ帝国は興っていた等と考えていると、現実は、それらの夢のような事柄を払拭してしまう。それに似た例で、かの日の没することのない大帝国と言われた、イギリスも、現在では、こじんまりと縮こまってしまった。私の中では、頭で理解は出来ているつもりだが、過去の栄光の諸国が、現在も同じ状態で続いているということは、無いということである。アメリカは高々230年ほど前に独立をして今日の大国にのし上がってきたわけで、そのことからも世界は様変わりしていることを認識しなければならない。現在のギリシャの状況を見たら、アレキサンダー大王や、オリンポスの神々は何という感想を述べるだろうか。地球のプレートテクトニクスでは、大陸はマントル上の数枚のプレートを移動して、徐々にその形を変えているというが、ローマ、アテネの国々と現在のイタリア、ギリシャの国々とでは、横方向の移動ではなく、過去の栄光の地に重なった上下の関係にあるだけで、全く異質(別の国)と考えなければいけないわけだ。ギリシャは上記16ヶ国のユーロ圏で最悪の財政状況にあり、人口の約1/4に当たる人が、ゼネストを打ったというからすごいことである。何しろ、全人口が東京都と同程度であるというから、それからしてゼネストの規模が分かろうというものであり、いかに大問題であるかということだ。振り返って、日本の「金と政治」については、テレビや新聞などのマスコミで、かまびすしく、取り上げられてはいるが、1億2千万人の誰一人として立ち上がろうとはせず、総評論家になってしまっているだけなのである。かつて大宅壮一が「一億総白痴化」といったが、言い得て妙というか、未だにその癖は治っていないということである。そこを熟知している為政者は、時が来ると必ず沈静化し、忘れ去られるのを見越し、待っているのであろう。ギリシャの2009年度の赤字は、GDPの12.7%と言うことだが、全く持ってぴんと来ないというか、それで良く成り立っていくものだと思ってしまう。我が国の宰相、鳩山由紀夫が、寝耳に水と繰り返しながら、巨額の脱税未遂事件(敢えて未遂としたのは、官憲が摘発を見送ったからに過ぎない)を起こしているが、ギリシャは国の1/4がそれを堂々と行っていると考えればわかりやすいかも知れない。日本は代表者と権力者が、率先垂範してヤミ献金と・脱税を行っているわけだから、どちらがどちらとも言えないが、早晩ギリシャ並みになって行くのではないか心配である。かつて、国民年金保険料不払いで「団子3兄弟」と揶揄していたのが自分もそうだったと「団子8兄弟」と改めたが、よくよく調べてみると、何と、首相経験者を4人含み、その数70名近い国会議員が対象になってしまった。元祖「団子8兄弟」だった、現副総理は頭を丸めてお遍路して、懺悔した(と思う)のだが、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言うとおり、今ではその事実すら忘れ去られている。「政治と金」の件については、有史以来問題にされてきたわけだから、この際はどんなことがあっても、選ぶ側の国民がしっかりしないと、このままうやむやになることは必定である。ギリシャなど南欧諸国は、南国特有の温暖化で、ぼーっとした性格からか物づくりのコストはドイツなどの1.3倍も掛かると言うし、それであって、作る物(産業)がないという有様である。せいぜい、せっせと日本人達がかの地を訪れて、外貨を落とさない限りは立ち直れる体質にはないと言うことらしい。ユーロ圏の規律では、財政赤字はGDP比3%以下と規定しているが、その4倍もの赤字のギリシャは、どうしようもない鬼っ子と言うことになる。「お前のために家族全体が苦境に立っているのだ、ユーロが売られて、価値が低下しているのだ!」と親兄弟が騒いでいるというところである。信用を失ったギリシャは、国債発行で、借金をしてということもままならない。ギリシャまではひどくないが、アイルランドや、スペインなどでも財政赤字が、GDP比で3%以下であるとするEU規定をオーバーする10%超の国も控えている。何処の家族もそうだが、兄弟みんなが優秀だというわけにはいかず、ユーロ圏では16人兄弟のうち、この3ヶ国は、出来そこないのお荷物兄弟なのである。EUは加盟国27カ国で総人口は5億人を数え、EU内の2008年のGDPは12兆ユーロ(約1600兆円)を超え米国をしのいでいる。家族のことは家族でと、国際的なIMF(国際通貨基金)と似た機構をEU内に作り、支援体制を打ち出そうとしているが、未だしっくりとなじまない連邦国家もどきであるところから、なかなか5億人が心をいつにすると言うところまでは行かないようだ。
2010.03.19
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定例のゴルフコンペに参加した。コンペは既に60回目を数えるというが、私が参加したのはこれで17回目である。殆どの人とは顔見知りになったが、今日3人で回る事になった1人のパートナーは、まだ一緒に回った事のない人(KDeさん)である。コンペ前に突然欠席者が出たとかで、本当は、同期の友人と同じグループだったのが、急遽組合わせが変更になった。幹事の先輩からは、初めて回るKDeさんは結構口が厳しい人で、何人かと、あまりうまくいっていないとか聞いていた。今回は従順に持ち上げてくれと予め言われていたので、どんな人なのか、また楽しくラウンドできるのかと多少心配でもあった。同じ組のもう1人の人(MNaさん)は過去に一度ラウンドをともにした事があったので、多少とも顔見知りである。3人で回るのだが、このお2人とも6歳(KDeさん)と2歳(MNaさん)年上にも拘わらず、ハンディキャップは、11と6といった具合に私よりも格段に上手なのである。MNaさんは前回グロス80で優勝して、ハンディーを大幅に減らされたのだが、それまでは、口うるさいと言われているKDeさんのハンディーもシングルであった。ゴルフはつくづく年齢ではないのだという事だが、今回だけは上手な人の足を引っ張らないようにと、昨日ゴルフの練習に行き、3時間の一人特訓を行った。八幡の練習場は、1時間または3時間と時間制で、3時間の方はシニアで1800円と決まっている。アプローチの練習も含めてだが、361球を打った。1球当たり5円を目標にしたが、最後の1球が不発だったので、361球となったわけだ。しかし、自己流の練習は、体慣らし程度にしかならないという事が今日のラウンドで表れた。過去の軌跡を追ってみると、KDeさんは、私が最初に参加したときにはベストグロスの77で当時のハンディーが7だったので優勝はしていないが、すごい腕である。その後何回か欠席はされているが、90を越える大叩きというのが、2回だけで、コンスタントに80代の前半で上がっている。もう一人のMNaさんも、90を少し越えるのが5回で、そのほかは全て80台であり、前回優勝時のグロスは80という具合である。私のように、100を切るのが悲願の者にとっては、夢のような数字なのである。こんな具合に、出足から気圧された感じであるが、そこはゴルフの良いところで、ちゃんとハンディーで調節するようになっている。従って、まともに自分のゴルフをすれば、優勝のチャンスがあるように出来ているのだが、如何せん、ゴルフはメンタルなスポーツであり、私は人一倍そういったメンタル面が脆弱なのである。今日も朝から、迷惑を掛けないようにしなければという事が頭の中にあった。スタートは8時01分と何時もと同じなのだが、私の組は、インコースからの最終組で、先頭組スタートの同期の友人のティーショットを見に出かけたところ、彼は既に打ち終わっていて、前方のブッシュに当たり、その先の池に落ちるというOBスタートのようであった。その組の4人目の人も当たり損ないで池に入れるという波乱である。私もこの組だともっと気楽に行けるのになぁなどと思いながら、我々のスタートとなった。年上の両者とも飛距離は同じ程度で真っ直ぐに飛ぶ。最終のくじを引いた私は、左に引っかけて、ラフに入り、前方には木があり、直接グリーンを狙えない。5Iで斜め前のフェアウェイに出した。3打目でショートして、グリーンの1パット目は惜しくも外れ、結局はダボであった。2人はパーとボギーである。次のショートも届かずバンカーに入れ、ボギーで、2人はともにパー。次の打ち下ろしサービスホールでは、当たりが悪く右のラフにはいり、残り100ヤードをシャンク、PWでグリーンにオンしたものの、3パットのまたダボである。この時、MNaさんは、左に引っかけて、あわやOBかと思わせたが、ラフの木に当たり、斜め後ろに跳ね返り、フェアウェイぎりぎりに戻った。そこは、ドラ短ホールで、MNaさんは命拾いとドラ短の両方を手に入れたし、上がってもボギーと大もうけだった。次の13番ホールでは、何時も右に大スライスするのだが、最近は少し改良して、OBにはならず、右のラフに残り、そこから2オンこそしなかったが、ボギーで上がれた。KDeさんもボギーだったが、MNaさんは2打目をOBして、上がって7という事で、やっと私は半歩前に出られた。ところがである、次の打ち下ろしショートホールで、グリーン前の池が気になり、あろう事か、5Iで2度立て続けにシャンクしてのOBである。頭に血が上った。2人がパーとボギーで終わる中、私一人8を叩いたからたまらない。これで、今日のゴルフは終わったと思った。KDeさんも「ショートで8とは、もう笑うしかないな。」と言われてしまった。次のミドルは、まずまずで、グリーンでも、1パット目が惜しくも入らず、ボギーで、このホールは全員がボギーだった。16番ロングホールにさしかかる前に、スライスボールを治し距離を出すには、右肩をボール1個分引けとワンポイントアドバイスを受けて、守ったところ、そうすると、左に引っかけやすいと云うことで、あわやOBかとの当たりは、今度は、木に助けられて、ラフに落ちた。そこで距離が出なかったのが最後までたたって、グリーンでも3パットとトリプルになってしまった。2人は、パーと、バーディーであった。続く17番では、ティーショットは少しこすり気味だがまずまずで、2打目も当たりは会心ではないもののゴロ気味の勢いで前方にと行った具合に当たりは相変わらず会心ではない。しかしこのホールは全員がボギーであった。前半の最終で最後が池越えのロングホールでは、当たりはまずまずだが、少し地面をこすってしまった。続くフェアウェイウッドも当たりも湿っぽく、残り140ヤードを5Iでトライしたが、トップし池手前に落ち、そこからヘッドアップの池ポチャ、上がってみたら8であった。2人は共にパーと言うことだった。今日は夕方から雨が予想されていたこともあって、プレーはスルーだった。すぐさまアウトホールに回る。1番ホールのティーショットは一寸フェアウェイを外したものの、結構良かったのだが、前の組が、グリーン上で特別長く立ち往生をしていたので、待って2オンを狙ったのがチョロで前方のバンカーに捕まった。そこからの脱出は、もう少しでグリーンという谷間に落ち、アプローチのショットは、何と2度打ちをして罰打を取られた。上がってトリプルである。2人とは、1-2打ずつ離されていく。次の打ち下ろしから打上のホールでは、3パットのダボ、また1打離なされる。3番ホールでは、右肩を引くアドバイスが、利きすぎて、左に引っかけ、崖からフェアウェイに戻って助かった。フェアウェイショットも良く飛び、3打目がピンに絡むナイスオンの1パットで何とか皆さんと同じボギーとなった。これに気をよくして、次のショートホールでは、ニアピンこそ逃したが、1オンの1パットで初めてのバーディーとなり、力でオナーを初めて取り、良い気分だった。2人は、パーとボギーである。5番のロングホールは右ドッグレッグで何故か私には、げんの良いホールなのだが、右目に出たティーショットは、前方の木がスタイミーになり、フェアウェイ真ん中に出して、アゲインストの残り140ヤードを、グリーン前の池が怖くて、打ち出した球は、何とゴロで、横に広いグリーンのピンから離れたところに転がってオンした。一応パーオンで、まぐれが起こればバーディーもというシチュエーションだ。それも1パット目はピンの近くまで運び、パーは可能性が高いと思っていたのだが、ところがその後に信じられないことが起こった。何と合計5パットをしてしまったのだ。当然オナーキープかと思ったが甘かった。KDeさんは珍しく、ティーショットがスライスボールで巻き込むようにわずかにOBを出したにもかかわらず、プレ4からダボで上がり、MNaさんは、何故か、池ポチャとアプローチのトラブルで8と、3人とも結果は良くなかった。皆さんがトラブル中、私としては逃した魚は大きかった。次の打上ドラコンホールでは、アドバイス通りに真っ直ぐ飛び、2人のラフより良く飛んだが先の組のドラコンの旗に少しのビハインドだった。その旗はシルバーから打った人のものであり、残念ながら生まれて初めてのドラコンのチャンスを逃してしまった。続く7番は距離の長いミドルホールで、あろう事か、思い切り左に引っかけて、山の上にOBしてしまった。プレ4からも当たりが良くなく、グリーンでも3パットとダブルスコアの惨憺たるものである。この時は、MNaさんもアプローチをオーバーするOBであったが、私より1打少なかった。次の8番ショートはまた悪い癖の当たり損ないでOBとなり、打ち直してバンカーと散々のダブルである。最終ホールは、また左に引っかけあわやOBというのを木に当たってラフに落ちた。フェアウェイウッドの当たりが良く距離は稼いだが、そこで、ダフリ、残す140ヤードを5Iでオンが出来るという、ちぐはぐプレーである。しかし、最後は、ボギーということで、今回の長いラウンドは終わった。心配していたKDeさんの毒舌にもあわず、返って、私がOBでボールを無くしたことを気の毒がって、ロストボールを拾っては、私にくれるのであった。夕方からの雨の予報は見事に当たったが、我々最終組が、最終ホールを終えてクラブハウスに着いてから降り出したのはついていた。帰宅後、石川遼の妹で、未だ中学生の石川葉子が何と、ドライバーで220ヤード飛ばしたと聞いて、愕然とする思いであった。昨日の練習でも、175ヤードの向こう側のネットにどれだけ届いただろうか。恐るべき女の子である。
2010.03.18
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日本の鉄鋼輸出が4年ぶりに世界一に返り咲いた。新聞の記事はじっくり見ないと内容が良く理解できない事が多い。この鉄鋼輸出量の記事で、大見出しの「日本の鉄鋼輸出4年ぶり世界一」を見ると、日本も盛り返したのだな、と解釈してしまい、自尊心をくすぐるような内容を想像する。良くある表現方法で、一時的にその事実は変わりないのだが、内容は、中国と韓国2ヶ国と比べて、相対的に世界一になったという事で、日本の輸出量が伸びて、これら各国を追い抜いたわけではない。2008年との輸出量比で、中国が6010トン程度だったのが、ほぼ60%減少して、2500トン程度に落ち込んだと言うだけの事で、一方の日本の輸出量は2008年が3800トンで2009年は、10%減の3400トン強に止まり逆転したという事なのである。韓国は、変動が少なく、2009年は2000トン強というところである。言葉を換えれば、突出していた中国の鉄鋼輸出量が半分以下に落ち込んだ為に相対的に日本の輸出量が世界一になったのだという意味である。(国内消費に回されたと考えられる)他が落ちる事によって、浮かび上がってきた事を持って、世界一に返り咲いたというのは、どうにも表現としては、適切でないと思う。私が勤めていた会社の例で言うと、細かな数字は忘れてしまったが、当時の業容として、造船と機械がメインであり、鉄鋼関係は、従という内容であったのが、造船業界が不況に落ち込んだとき、鉄鋼の売り上げは、絶対的に差ほど伸びなかったにも拘わらず、造船がこの場合の中国の鉄鋼輸出量の激減の如く減少した為に、一躍、鉄鋼にスポットが当たる事になったのに似ている。会社自体が、鉄鋼で躍進したわけではないが、これからは海の時代ではなく、陸に上がるべしと経営者が判断し、造船は置き去りにされた。それはそれで仕方のない判断だったかも知れないが、既存のものに頼りすぎて、足下の判断を優先させた事は必ずしも正解ではなかったように思う。人的な資源は限られているわけで、この時、多くの人が鉄鋼関係に配置換えをさせられた。そして、迎えたのが、バブルの崩壊である。頼みにしていた、鉄鋼関係が急激に冷え込み、最後は、事業部の崩壊へと繋がり、結果として多量の余剰人員が出る事になったと記憶する。要するにパイは増えていないわけで、増えそうに当て込んだパイは、ある時突然食えないものになったのだから、畢竟、全体としては落ち込まざるを得ない事になる。中小企業であれば、倒産と言うところだが、多少体力があるので、身を削って、何とか生き延びたという形である。時に、船は大量輸送には適しているが、速度が遅いのに対し、航空機は高速だがコストがかかるという問題があり、そこでこの2つの輸送機関の中間的な輸送機関として構想された「テクノスーパーライナー」が登場し、当時の運輸省の下で国家プロジェクトとして研究開発が始まった。ウィキペディアなどでは運輸省の指導の下でというフレーズが付いている。日本のこの許認可の権化なる言葉が付くものでたいしたものは存在しない。私が関係した、当時の通産省工業技術院指導の極限作業ロボットも、国家プロジェクトと位置づけられていたが、模型を作り、実証試験をしたところで、実用化は為されず、開発止めになり、結局はそれで終わってしまった。結果の基礎的要素技術が活かされているのかどうかは、目に見える形では残っていない。従って、お役所がらみの国家プロジェクトについては余り大きな期待は出来ないと云うことかも知れない。「テクノスーパーライナー」の場合も、大量の物資を高速に、しかもコストを抑えて(航空機に比べ)輸送出来るという当時としては夢のような話であった。しかも、対象は、国内輸送に止まらず東アジア地域との国際輸送も視野に入れ、研究開発目標は速力50kt、載貨重量1,000t、航続距離500マイル以上、波高4~6mでも安全に航行できることとされた。その結果、私の旧職場の仲間も当然動員され、「これからの造船の華」と言う意気込みでスタートしたが結果は、実験船が2隻、実用船が1隻建造されただけである。実験船は、ホバークラフトのような空気圧力によって浮上するタイプと浮力と水中翼の揚力によって、浮かせるタイプの2種類が実用船の6分の1の大きさで建造され、それぞれは開発目標をクリアした。しかし、その後は、一時的に民間航路に就航したことがあるものの、燃料費など航空機並みの運用コストが掛かることもあって民間利用はされていない。と言った具合で、現在は顧みる人すらなく、一方のタイプは、そのまま神戸海洋博物館で展示されているし、もう一方の実用船は、建造したものの、小笠原航路に就航予定が、従来の重油を使用する船舶が一往復に要する費用が600万円程度なのに対し、原油価格高騰で、軽油を使用する「テクノスーパーライナー」は費用が2,500万円近くとなるため、廃船解体の憂き目にあうという結末のようである。これなどはやりっ放しという典型的な対象で、これにより、運輸省(現国土交通省)の誰一人責任を負う者もなく、国民の血税は、無駄に流れ、また、企業側の損失も泣き寝入りである。役人が頭で考えることにろくな事はないと言う典型的な一つであろう。この命題では、大量物資の高速輸送を目標としていたが、いつの間にか、長距離の小笠原諸島と本土を結ぶ超高速フェリーという適用にすり替わっている。全く奇妙な話である。私は、幸か不幸か、このプロジェクトには関与していないが、一技術者としてみるなら、新しいことが出来ると云うことに関しては嬉しいことであり、結構なことなのであるが、如何せん、売れない(使われない)物を作り、やがてスクラップになるというのは余りにも寂しい。余談の方が長くなったが、40数年前には、「産業の米」と言われた「鉄」も技術の国外流出などもあり、当初使用に耐えなかった、中国の鉄鋼も日本の技術援助で、軒を貸して母屋を取られる羽目になり、国内高炉も閉炉に追い込まれるなど、重厚長大産業は、衰微の一途を辿っているように思われる。国内に於いては、「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズは、「コンクリート=鉄鋼」と読み替えても良く、「人の命を守る」が前面に押し出され、理念は解るが、ではその手段やいかにが明確ではない。「人の命を守る」のが、観念的であってはならないし、その基礎が、ものづくりの使命であるはずなのだが、そこのところが欠落している。工学部出身の宰相などと言うが、何処に工学の理念があるのかと言いたい。私が考えるに、何故、「コンクリートから人へ」と言われるのかの根本は「コンクリート」すなわち、許認可、すなわち利権という構図なのである。利権がらみの問題が、山のようにあり、それを放置しておいて、何故民百姓が豊になるのだろうかと問いたい。国内の経済格差社会を生んだ弊害はひとえにこの問題につきると言える。国が豊かになって、その資本の再配分が国民を豊かにすると言う、竹中理論は、後半部分が、企業エゴも手伝って全く機能しなかった。また脱線したが、今回は鉄鋼の輸出という点での話は、世界の粗鋼の生産量はなんと言っても中国が第1位であり、2008年では、50,201万トン、2位が日本の11,873万トン、3位はアメリカの9,149万トン、以下ロシア 6,851万トン、インド5,505万トン、韓国5,348万トン・・・となっているようだ。世界の粗鋼生産量は1998年の7億7700万トンから2008年に約13億トンと大きく伸びたという。その大きな要因は中国など、新興国の台頭である。その昔、世界の鉄鋼生産は10億トンで、その1割が日本、そしてその中の1割が建築鉄鋼だと認識していたが、全くの昔話になってしまった。世界の粗鋼生産量13億5000万トンが、12億トンに減じる中、中国は5億トン、インドは現在はまだ5000万トンであるが、鉄鋼世界最大手の欧州アルセロール・ミタルが、インド事業の拡大に乗り出した事もあり、2020年には、2億トンに達するとの見込みもある。いよいよBRIC’sの台頭がすさまじさを増してきた感じである。大国(?)日本は一体何処へ行くのだろうか。
2010.03.17
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文学から見るアラブ社会の第6回講座があった。来期も講座は続けて有るが、今日は、一応6回区切りの最終回ということになる。今日取り上げられた作品は、あまりにも有名な「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」である。この物語には特定の作者というものがなく、日本の昔話のように口承伝承を集めたものであるようだ。生まれた時期と土地は、唐時代と同じ、アッバース朝の頃のバグダッドとされている。世界的に広がったのは、フランスの東洋学者アントワーヌ・ガランがたまたま写本なるものを手に入れ1704年に翻訳・出版した事に始まる。瞬く間にヨーロッパ中に広がりを見せるという事になる。翻訳者が後から追加した話もあり、なかなか輪郭が定まりにくい上に、世界中に広がっていく内に、諸文明や言語が引用されるなどと、変形はされていったが、アラブ文学としては真っ先に挙げられる作品である。そして今や、アラブ文学の枠組みを越えた存在となっていて、世界中で最も有名な物語の一つにまで数えられている。幼年から少年時代に掛けて、誰もがこの「アラビアンナイト」に何らかの影響を受けて育っていて、日本の文学者と言われる人たちも子供時代の読書の思い出として、「アラビアンナイト」を挙げない人はいないほどである。そして、ただ文学だけにとどまらず、絵画や音楽など他のあらゆる分野にも浸透し、様々なイメージの原型となっている。ところが、当時のアラビア文学の王道としては「詩」(シア)を読むことにあったという。ジャーヒリーア(イスラム以前)の砂漠の遊牧民族の精神世界の支柱として詩が伝承されたのだという。そういえば、サウジにいた頃に聞いた、サラー(お祈り)へのアザーン (誘い)も、朗々と詩を吟ずるような口調であったことを思い出す。イスラム以降はアダブ(文学)として、宴会などで人を楽しませる、礼儀作法の一つとして、また躾の意味からもこういった教養を身につけることが求められた。ナディームと呼ばれ、酒を飲みながら王様と接する際に、教養として、これら詩歌に始まって、すべてのジャンルに精通した人(アディーブ=文人)が求められた。こういったものに、宗教としてのイスラムの影響や、エジプト、ギリシャ、ローマ、スペインなど西方や、東方のペルシャ、インド迄への伝搬の中からの文明の影響を逆輸入した形で様々な要素が「アラビアンナイト」に混入してきた。そんな中、この「アランビアンナイト」は「詩」に重きを置く、発祥の地での評価は低く、アダブ(文学)というものから除外されていたのである。では再び「アラビアンナイト」というものはどう位置づけられるのであろうか。それは定本のない物語集と言うことが言える。先の最初の翻訳者であるアントワーヌ・ガランの他にも、他国からの逆輸入した話も織り込んだ次の様々な訳本が出版されるに至った。・カルカッタ第1版・ブレスラウ版・ブーラーク版・カルカッタ第2版等である。さらには、日本などで重版された、レインによる英訳やバートンによる英訳、マルドリュスによる仏訳、そしてマフディー版など、有名なものでも多数の訳本が出されている。中でも、マフディー版はガランが元にした14世紀の写本による210数話が、すべてではないとし、これに、別系統からの移入である「シンドバッド」「アリババ」などを「アラビアンナイト」として取り込み、之が爆発的に売れたことを受け、似た話が何処かにあるのではないかと掘り起こされて、「アラビアンナイト」は膨れていったわけで、逆に翻訳本をアラビア語に再翻訳することで、定本を作るといったことまで為されたようである。伝承された経路としては、最古の定本が9世紀に其の断片を見ることが出来、ガランが定本とした14世紀のシリア系定本や、またエジプト系定本などがある。物語も様々な起源を有し、インド、ペルシャ、ギリシャ、アラブ等々と多様である。中でも「アリババ」は中国での物語であるとされているが、いずれにしても当時は文学としての評価は低かった。物語の枠組みは入れ子構造になっていて、大元は、兄弟王(シャフリヤールとシャフリザード)がいて、弟王が外出から帰ったときに妻が黒人奴隷と不貞を働いているのを見、愕然として、兄王の所に行くと、兄王の所でも、外出から帰った時に兄王の妻も同じように黒人奴隷との不貞を働いている現場を見るというのである。以来女に対する不信感から、国中の処女を毎夜一人ずつ寝所に招じて、事が終わり朝になるとその娘を殺すということを繰り返した。国中の処女が底をつく頃、大臣の娘のシエラザードが、ある計画を持って王の寝所へ行き、寝物語に様々な話をしたというのである。2百数十話を、1話を何日かに分け、語り続けると、続きはどうなるのかと王は、殺すのを止めて話の続きを聞くと云うことになり、ついには、王の心もゆるみ、シエラザードを愛するようになるのである。物語の中で物語が語られるという入れ子である。そして、物語は、心をいやすものであると言うことを云いたかったのかも知れない。こうして「アラビアンナイト」は西洋の文学や、芸術諸般に多大な影響を与えたのである。「アラビアンナイト」=好色なポルノグラフィーという構図と「アラビアンナイト」=児童文学と言う2つの側面を持って語られる。バートン版は好色な方に属し、バートン自身は恐妻家であったという。インドの「カーマ・スートラ」等も好んだようである。しかし、現代の目から見ると、之が好色物なのかと言うほど他愛のない、可愛らしいものであるようだ。一方、フランスのマルドリュス版は、詩を省略し、子供達に向けて発信されたような形を取っている。「空飛ぶ絨毯」「魔法のランプ」「砂の妖精」などである。私自身は、正面切って、「アラビアンナイト」を通読したわけではない。日本語訳のバートン版でさえ、分厚い文庫本で全11巻あるという分量である。しかし、話の内容については、どこからか、どんな媒体であったのか、頭の中に残っている不思議な本である。講師は、「アラビアンナイト」を聖書や、コーランにも匹敵するほどの影響力を持ったものとして紹介していた。今の世の中で、「アラビアンナイト」の臭いが全くしないというものはないほどに世界中に浸透している。「アラビアンナイト」は人類全体の混成的所産であるというのが、結論のようである。
2010.03.16
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第八章と第九章である。本文は以下のごとし、第八章一、念仏は行者のために非行非善(ひぎょうひぜん)なり。 わがはからひにて行(ぎょう)ずるにあらざれば非行といふ。 わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。 ひとへに他力にして自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行非善なりと云々。訳文は次のようである。一、念仏とは、それをとなえる念仏行者にとって、行でもなく、善でもない。 つまり、自力のわがはからいで行ずるというものでないから、それは行ではないという。 また、わがはからいをもって修行する善でもないから、善ではないという。 ただただ、弥陀の本願力である他力に頼るのみで、自力を遠くはなれたものであるから、 その実践者にとっては、念仏をとなえることはなんの修行でもなく、 善をなすことでもないのである。 ―――このようなお言葉であった。注釈には以下のように書かれていた。 1非行・非善 念仏は自力判断によっての価値高い修行でもなく、 望むところの報い大きい善根でもないことをいう。2他力にして 本願他力をたのむという行為さえもが完全に他力であって、自力でないことをいう。第九章一、念仏まふしさふらへども踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこゝろ おろそかにさふらふこと、 またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、 いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんとまふしいれてさふらひしかば、 親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこゝろにてありけり。 よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、 いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。 よろこぶべきこゝろをおさへてよろこばせざるは煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)なり。 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぷ)と おほせられたることなれば、 他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、 いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、 いさゝか所労(しょろう)のこともあれば、 死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、 煩悩の所為(しよい)なり。 久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、 いまだむまれざる安養(あんよう)の浄土(じょうど)はこひしからずさふらふこと、 まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)にさふらふにこそ。 なごりおしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁つきて、 ちからなくしておはるときに、かの土(ど)へはまひるべきなり。 いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。 これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、 往生は決定(けつじょう)と存じさふらへ。 踊躍歓喜のこゝろもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、 煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと云々。訳文は次のようである。一、「念仏をとなえますけれども、いまにも踊りあがらずにはいられないような よろこびの心持ちが少しもわいてまいりません。 また、一刻も早く浄土へまいりたいと願う心持ちも起きて来ないのは、 これはいったい何としたことでございましょうか」と、おたずね申しあげたところ、 自分もこの疑問は前々からあったのだが、唯円坊、おまえもまさに同じ心持ちだったのだね。 しかし、よくよく考えてみると、天におどりあがり、 地をかけまわるほどによろこばなければならないことを、 どうしてもよろこべないという、こうした状態のわれわれだからこそ、 かえってますます往生はまちがいなしと思わなければならないのである。 このように、ほんらいよろこばなければならない心をおさえて、 どうしてもよろこばせないのは、ほかでもない煩悩のしわざなのである。 ところが、仏はとっくの昔、このことを十分御承知で、 われわれのようなあらゆる煩悩のかたまりである凡夫を、 そっくりそのままに救おうとおっしゃっているのだから、 弥陀の他力の誓願は、じつはこのようなわれわれのためのものであったのだとわかって、 ますます心強くたのもしい気持が深くなるのである。 また、浄土へ一刻も早くまいりたいと願う心持ちがなく、ちょっと病気でもすると、 これで死ぬのであろうかなどと心ぼそく思われてくるのも、 これはみんな煩悩のなせるしわざである。 遠い昔から今日までずっと生死流転を経てきた、 苦悩つきない裟婆であるこのふるさとが捨てきれず、といって、 まだ生まれたことのない安らかで豊かな世界である あのあこがれの極楽浄土もこいしくなれないというのは、 まったくもって、どこまでもこの煩悩が強くさかんだという、 まさにそのことからくるのである。しかしどんなになごりおしく思ってみても、 この苦悩の世界にとどまる期限がつきて、 自分ではまったくどうこうする力もなくなってしまったそのときに、 はじめて浄土へまいればよいのである。 仏は、はやくまいりたいという気持ちのない人を、とくに気のどくに思ってくださるのである。 だからこそ、ますます弥陀の大慈悲の誓願を頼れるし、 われわれ凡夫の往生はまちがいないと信じられる。 念仏をして、おどりあがるようなよろこびの心がわいたり、 はやく浄土へまいりたくなるというのであったら、 かれには煩悩がないのであろうかと、かえって疑わしく思われるであろう。 ―――このようなお言葉であった。注釈には以下のように書かれていた。1念仏まふしさふらへども……さふらふやらん この部分は、親鸞に対しての唯円の問いの言葉。2踊躍歓喜 身心全体でおどりあがっての深く激しい喜び。3おろそかに はかばかしくなく。不十分で。4しろしめして 「知ろし召す」で「知る」の尊敬語。知っていらっしやって。5所労 わずらい。病気。6久遠劫 無限に遠い過去の意。劫は数字では表わせない時間の最大単位。7旧里 ふるさと。住みなれた境涯。8安養の浄土 極楽浄土と同じ。安養は心を安定させ身を養うこと。9娑婆 苦悩のこの世界。 10あやし 普通でない。ふしぎだ。第八章では、念仏を唱えることは、寒中に滝に打たれるような特別な「行」をしているわけでもなく、ことさらに良いことをしているわけではないのであって、ただただ弥陀におすがりするだけのことなのだと、改めて説いている。第九章では、念仏を唱えると躍り上がって喜ぶのが普通なのだろうか、また早く死んでしまいたいと思うのが普通なのだろうか。そんなことを親鸞の直弟子が尋ねている。そして、親鸞も同じだといっているのである。私などは、念仏を唱える時は、ごく打ちひしがれた時や、何か法外なお願いをしたい時くらいだと思う。まして、病気にでもなっていない限りは、早く死んでしまいたい(浄土に行きたい)などとは考えないが、それが普通ではないだろうか。そうすると、そんな気持ちにならない方が、返って往生するのだそうだ。なんだか当たり前のような気がする。だがそう思うのを留めているのが煩悩の仕業だというのは、いかにも納得がいきがたい。ここに、念仏すれば早く浄土に行きたくなるのが普通で、それを抑えるのが煩悩であるといい、逆に、病気をして心細くなれば、浄土から迎えに来るとおびえるというのはいささか矛盾のような気がするわけである。そんなことを行っているのは全て煩悩のせいであるという。だからといって、煩悩を払い、浄土に早く行きたいという気持ちを強く持つべきではなく、自然の摂理に従い、生きるのが良しとされている。煩悩が無く、早く浄土に行きたいと思う考えは疑わしいとまで言っているわけだから、年忘れに除夜の鐘を108つ叩いて煩悩を消そうとすることは、返って良くないのではないかとも思うのだが。ただただ、凡夫は、委細を他力(弥陀)にゆだねるべしとのことなのである。要するに自然に生き、煩悩を多く持ち、且つ自然に命尽きるまで生きると言うことが是と言うことなのであろう。分かりにくい言い回しながら、言っていることは実に常識的なことなのだと思う。親鸞は、妻帯している。この当時、他にも闇で女性を持つ僧もいたというが、親鸞は、それをおおっぴらにしたと言うことで、今日の僧には、良い道を示したと言えるのではないだろうか。もしそうではなく、厳格に僧は妻帯すべからずとでもなっていて、罰則規定などが有れば、おそらくは僧になる人など本当に少なかったのではないかと思う。親鸞は、観世音が変身した女性(恵信尼)と、聖徳太子の夢のお告げで結婚したから許されているともっともらしい注釈がついている。いずれにしても親鸞は「行」でも「善」でも「得」でもなく、「性」についても、すべからく「自然体」で行くべしとのことを言いたいのではないだろうか。宗教は、心を救うよすがであり、宗教自体が、あちらの方から手を差し伸べてくれる事にはならないのだと思っている。
2010.03.15
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昨年初めに、一時中断していた、高校時代のバスケットボール部のOB・OG会再立ち上げの話があり、我が母校の卒業生ではないが現在部の顧問をしていただいている先生からの依頼や協力もあって、ようやく昨年末に設立の総会を持つことが出来た。今日は、新OB・OG会の設立後初めての行事と云うことで、集まりを心配していたが、結構な人数が参加してくれたようで、一寸ほっとした気持ちだった。懇親会の前に現役選手と、OBによる試合が行われることになっていた。私の同期生は一人他用で不参加だったが、他の3人は参加してくれたので、有り難かった。皆前期高齢者になっているので、試合は観戦するだけと思っていたが、友人の一人は、何と運動着姿で、真新しい運動靴を持参でやってきていた。現役選手と言えば既に子供よりも若い年齢である。対するOBは之も未だ若い、卒業直後の大学生が中心である。そんな中で、60歳を遙かに超えた、友人は大丈夫かと、「怪我をするな、無理をするな、アキレス腱を切るぞ」とやんやと言い合った。少しだけのつもりが、何回にも分けて、トータルの出場時間は結構長い時間走っていたことになる。尤も、動きはもちろん往年のキレなどはなく、ジャンプしているつもりがほんの少し空中にいると言った案配だったが、其の意気込みたるや、素晴らしいものであった。一方明らかに大学生ではなく、卒業ご数年を経過していると思われる年配者は、彼の他に3人いた。中でも、我々よりも1周り若い人だから、50歳は過ぎている人がいて、その君の動きは、しなやかで、明らかに私の同期生より動きはスムースだった。聞いてみると、大阪府のシニアの大会に出ているとかで、練習も毎週していると言うことだった。それにしても私の同期生の冷やかしプレーは別として、50歳を過ぎてバスケットボールのような過激なスポーツが出来るというのは驚きである。その人が持参した、大阪府のシニアクラブのメンバー表を見てまたビックリである。何と最高年齢者は82歳ではないか、さらに70歳代の人も大勢おられた。従って、頭に白いものが半分くらい混ざった53歳のその人は、若手の部類なのである。ゴルフで、82歳の人とラウンドすることはあって、こちらの方は未だ頷けたのだが、バスケットボールは、いつまでもやれるスポーツなどとは思いもよらなかったのだが、ゆったりとであれば、続けることも可能なのだと云うことが解り、まさしく驚きである。私の両親は、79歳と80歳で他界しているので、この事から見ても私にとっては正に驚異的なことである。試合が終わった後、フリースロー大会が企画されていたが、之には、我々より年配の方々も参加された。今回来られた最長老は、それでも75歳である。以下女性を含め、我々の年齢まで7人の方々が見えられた。例のフリースローのサークルからボールを投げても、既にリングに届かなくなっている人がほとんどであった。以前は届くのは当たり前で、ほぼ80%程度は入れることが出来たのだが、ゴールまでの4.6mの距離がが入らないどころか届きもしないのである。その方達は、30cmほど前からシュートすることにしたが、それでも入るところまでは行かないのだ。私の場合は、まともにゴールを狙って投げたのでは届かないと云うことが解り、ゴールに届けとばかり、かなり遠方に届くようにと投げることで、5本の内何とか2本入れることが出来た。53歳の人は3本決めたのだが、その他は、せいぜい1本か0であった。もちろん若手OBの連中は、全数の5本や4本を入れた者が沢山いた。賞品をと言う段階で、年齢の修正無しに上位を決めるのは、いかにも不公平だ等と勝手に思った。我々の時は、体育館は、校舎の1階に組み込まれた、暗い倉庫のような所であり、ゴールと其の後ろの壁との距離も短く、かつ床は所々へこんでいて、ドリブルをしたらそこだけ跳ね返りが少ないという代物であった。懇親会の席上で、75歳に成られる先輩もさかんに昔に比べて、「皆さんは恵まれている」と云うことを何度もおっしゃっていた。私の同期生も、昔の古びた体育館の紹介と、バレーボールやバドミントンなどとの競合で、そんな体育館でも使用が制限され、夏場に炎天下で、兎跳びやらダッシュを何回もさせられた事を話していた。さすがに暴力はなかったけれど、今時昔風なスポ根が通じるのかどうか、疑問に思った。それというのも、昔は、試合にも事欠くぐらいに少なかった部員も、現在は、現役部員数が何十人もいる感じなのである。さらにマネージャーと言って、世話係の女性も5人もいるというのだから、全くの驚きである。一寸グラウンドを見ると、サッカーの試合をやっている。ラインジャッジが近づいたので聞いてみると、母校の選手の紅白戦であることが解った。サッカーは11名のプレーであるから、少なく見ても22人以上は部員が居ると云うことだ。我々の時には、試合に出かけることすら出来ないので、他部の連中を借りて試合に臨んでいたようなことを思い出した。文化系統のクラブでは、一人が数クラブ掛け持ちでやっている人もいるのだそうで、いつ勉強をするのだろうという感じだ。懇親会は、卒業したての20歳前の学生や、女性のためにソフトドリンクが用意されているのと同時にビールも沢山買い込まれていた。また、卒業生がケータリングの店をやっているので、そこにお願いして、オードブルスタイルの大きなプラスチックの皿が沢山用意されていた。ピラフなどもあり、量的には十分かと思われたが、先輩はつまみが少ないのではないかと、近所のスーパーに買い出しに行かれた。40歳から我々の年齢ぐらいの間の人たちが全く来ていなかったことは残念だったが、若い人は大勢来てくれたので、会は盛り上がった。帰りには、発起人の先輩と、我々の同期3人とで、駅前でまた飲みながら話をした。思えば高校を卒業して半世紀がたっている今、再びこのように歓談出来るのも同じクラブ活動をしていたからなのだと、有り難いと思った。それぞれに家庭の事情も違ってきているし、高校時代の若くて純粋に自分のことだけを考えて過ごしていた時代が懐かしい感じだ。私は、住所を転々としていた関係もあり、このような総会やサークルの活動にも消極的であったが、今回発起人の一人として、いろいろ手伝わせて貰ったことで、勉強にもなり、次回にはより多くの参加者があることを願いながら、ほろ酔い加減で家路についた。
2010.03.14
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私にとってロシアという国は未だに謎の多い国である。日本とロシアの関わりは、私の知りうる限りでは、井上靖による長編小説「おろしや国酔夢譚」で1782年伊勢の漁師、大黒屋光太夫以下、神昌丸の乗組員17人が漂流し、アムチトカ島に漂着その後艱難辛苦の末、首都ペテルブルグへ向かい女帝エカチェリーナ2世に謁見するという話に始まる。之は、アメリカに漂着したジョン万次郎の大先輩に当たる漂流者である。その後は、間宮林蔵がカムチャッカに測量に出かけた等の話があるが、私の中ではロシアとの関わりはついぞ思い浮かばない遠い国であった。ロシアは、先頃のアフガン侵攻などに見られるように、とにかく、昔から、不凍港を求めて、南への活路を見いだしたいと考えていた。このロシアの極東南下政策に対し中国大陸での権益を維持したいイギリスが日英同盟を組み、日本をしてロシアと戦わせしめたのが日露戦争である。英国など各国の思惑が入り乱れた戦争に日本が巻き込まれたようなものである。この時の様子を今テレビで司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が紹介している。陸の秋山好古、海の真之兄弟の話であり、之に正岡子規が絡んでいる。私などは、父や義兄が旧海軍や自衛隊であったためか、海軍や海に対しての思い入れが強い。陸軍のカーキ色の軍服を見ると、その後の極東裁判における東条英機を思い出し、なにやら憂鬱な気がするのである。海軍だと手、戦争には変わりはないが、ネイビーブルーや純白の制服には何処かしら清涼感を感じるから不思議である。従って日露戦争と言えば、多大な犠牲を払って、二百三高地を落とした乃木希典ではなく、かの無敵のバルチック艦隊と言われたロシアの艦隊を壊滅に追いやった東郷平八郎の方が、スカッとしてみていられる。この辺りの様子は、吉村昭の「海の史劇」に詳しく述べられている。バルチック艦隊は一部を除き、英国支配下のスエズ運河を通れず、アフリカの南端である喜望峰周りで遠路日本海に突入してきた。日本海には、対馬の北か南のどちらの航路を取るかとか、遠回りして一気に津軽海峡を通過するのかなど、どういった戦略で、ウラジオストックまで行くのか、それを察知して壊滅することに日本の浮沈が掛かっていた。ここで、旗艦である装甲巡洋艦ロシアにて指揮を執る、ロジェストヴェンスキー提督と、旗艦戦艦三笠の東郷平八郎の戦いが始まるわけである。この時の戦略参謀として活躍したのが、秋山真之である。ともあれ、敵艦隊を発見し、敵前にて、常識外の丁字戦法を採り、船腹からの大砲で、走り来る敵船隊に砲撃を加えたことは有名である。陸では、総参謀長児玉源太郎や乃木希典、それに、秋山好古などが、クロポトキンや、ステッセルを破り、海では、統合や、秋山真之がロジェストヴェンスキーを破って、辛くも、日本が勝利を収めたのが日露戦争である。この勝利が後の日本にとって幸か不幸かは解らない。この戦争で、永年のロシアの極東における南下政策を断念せしめ、ヨーロッパに目を転じて、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱え、南下の矛先をバルカン地帯に向かわせる事となるのである。之がもとで、ドイツなどとの軋轢が深まり第一次世界大戦へと向かうのだが、ロシアは、巨費を費やし、そのために、民衆の生活苦も相まって、ボルシェビキによるロシア革命へと繋がり帝政ロシアは終わりを告げるのである。その後のスターリンなどの圧政や暗黒政治が続き、私にとって、ますますソ連という国が正体不明になってきた。現在のメドベージェフ大統領も最初は、憲法制限上プーチン大統領3選不可のための傀儡かと思わせ、またその状態が露骨であった。プーチンは首相として引いた形ながら、小沢幹事長―鳩山首相との権力逆転と同じく、プーチン首相-メドベージェフ大統領という権力逆転形態となっているように見える。そのロシア、現在は、往事のソ連邦の力はないが、チェチェン紛争や、南オセチア侵攻など、直接の軍事行動で、再び鷹派的な動きを見せると共に、ウクライナへの石油供給を止めるなどして、経済的に隣国に圧力をかけ始めている。この度のウクライナ選挙ではロシア寄りのチモシェンコ首相よりさらにロシア寄りのヤヌコビッチ大統領の誕生となった。当初から、拡大EUとの歯止め線として、ベラルーシやウクライナは取り込む形で経済圏を拡大しようと画策してきたが、最近では、CSTOと呼ばれる集団安全機構を新たに発足させ、ロシアを初めアルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン等で軍事同盟を構成している。西側のNATO(北大西洋条約機構)に対抗したワルシャワ条約機構に似た新しい体制である。とにかく今や、G8の一員にもなり、豊富な天然資源を有する国、核に於いても超大国であり、今後とも、目が離せない国である。今日本は、サハリンプロジェクトに大きく関わり、サハリンからの石油がこのほど初めて輸入されてきた。世界的に見ても、現在、石油輸出量では、わずかにサウジアラビアが世界一の地位を占めているが、早晩ロシアが之に取って代わるのではないかとの見方も出ている。市場経済を取り入れているとはいえ、国家の中枢を担うエネルギー部門などはすべて国営会社である。BRIC’sの一角を占めて新興国のように云われているが、Cの中国が世界を牛耳っている面があるように、Rのロシアもこれから先、不透明な部分も多いだけに注目していかなければいけないというところだ。それにしても、北方領土の返還は早期に全部返して欲しい。現在の日本の若者で、あの4島がいかに理不尽に旧ソ連に接収されたかを知る人はいないのではないかと思う。
2010.03.13
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何時も良く近くを通る、京都の動物園の近くで、八角九重塔の基礎が見つかった。九重塔とはあまり聞いたことがない。勿論、人が住まない単なる塔なら、随所に見かける。確か宇治川の畔には、十三重の石塔が建っていた。元は千早赤阪村の浄土寺にあったのを移設して、現在は堺市茶室庭園内にあるのも九重の石塔である。鎌倉時代に建てられたものとされ、重要文化財に指定されていて、軸石(塔身)の正面には阿弥陀仏彫り、他の三面には梵字が刻まれ均整のとれた美しさである。この種の石塔はもっぱら供養塔として建てられ、類例は様々存在するようだ。他の九重塔はと見てみると、これも、鎌倉時代のもので、福井県大谷寺の石造九重塔があり、加賀国の白山を開山し、越の大徳と称された泰澄大師の廟所といわれ、国の重要文化財に指定されている。何度か修理されているようで、平成の修理では、石造の塔は基礎石まですべて解体したというが、新たな発見物等はなかったようだ。木の枠で囲まれた九重塔としては、立派なもののようである。また、大分県臼杵市にも、当時はこの地の延萬寺の境内物であったが、延萬寺焼失により、場所が移されたという。石塔の基礎は壇上積式で、四面には大型の格狭間(こうざま)が刻まれ、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩が刻まれているのだそうだ。九州にはまた、福岡県筑後市の光明寺に石造九重塔が境内に2基あり、いずれも高さ3.3メートル程で、軸部から大きさが違う層状に広がった9枚笠がある。大日如来を中心にした仏教の教えを説いたものといわれているが、何故に2基の石塔があるのか、未だに解明されていないのだそうだ。これらは、9層から13層と、名前は結構重層ではあるが、実物はとにかく素人目には、単なる石の塔である、現代風にいえばモニュメントである。ただこの意味は、どうやら、仏を奉るというか、供養目的での建立であるらしい。さらに、塔と言えば、多宝塔がある。多宝塔は、寺院建築のうち仏塔における形式のひとつで、一般に裳階付き単層塔の形式で、例外もあるが、裳階平面が方形、中央部平面が円形のものが多い。単に宝塔というのと多宝塔とは若干形式を異にしているようだ。シーズン外れであったが、連れ合いや、姉とで京都の勧修寺を訪れたことがあるが、ここにある観音堂も私には多宝塔のように見えた。この観音堂は、平安時代のもので、現在は、往時を偲ぶほどあでやかではないようだ。多宝塔といえば、国宝に指定され、鎌倉時代初頭に建てられたという、滋賀県大津市の大日如来を本尊とする、日本最古の木造の石山寺多宝塔や室町時代後期の建造で和歌山県岩出市にある日本最大の木造の根来寺大塔が有名である。この間のバス旅行で、連れ合いと訪れた、安芸の宮島の多宝塔も桜の時期には結構賑わうが、この間は、そこまで足を伸ばさなかった。上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造で重要文化財に指定されている。京都にも知恩院に多宝塔が有る。三間多宝塔で阿弥陀如来が安置されていると言うが、他の多宝塔に比べて古びた感じである。大阪にも、「愛染さん」と親しまれている勝蔓院(愛染堂)の多宝塔は桃山時代の重要文化財である。四天王寺の近くにあるが、古寺でり、喧噪と雑踏の中にあることもあり、日ごろは訪れる人も少ないようだ。他にも、国宝としては、慈眼院(大阪府泉佐野市)、長保寺(和歌山県海南市)、金剛三昧院(和歌山県高野町)、浄土寺(広島県尾道市)等の多宝塔があり、国指定の重要文化財としても、来迎院(茨城県龍ケ崎市)、石堂寺(千葉県南房総市)、金鑚神社(埼玉県神川町)、大樹寺(愛知県岡崎市)、東観音寺(愛知県豊橋市)、知立神社(愛知県知立市)、常寂光寺(京都府京都市)、智恩寺(京都府宮津市)、金胎寺(京都府和束町)、吉田寺(奈良県斑鳩町)、久米寺(奈良県橿原市)、叡福寺(大阪府大阪市)、酒見寺(兵庫県加西市)、伽耶院(兵庫県三木市)、徳光院(兵庫県神戸市)、長遠寺(兵庫県尼崎市)紀三井寺(和歌山県和歌山市)、浄妙寺(和歌山県有田市)、切幡寺(徳島県阿波市) の多宝塔があるという。多宝塔は二層が普通であるが、塔には、三層のものもある。皆それぞれに趣があるが、私などは塔と言えば、大概は五重塔をイメージする。五重塔はあまりにも有名なものが多いために全てを挙げると煩わしいが、国宝であり、私が行ったり、重要なものとしては次のような塔がある。奈良県の六層にも見える、日本最古の法隆寺五重塔が最初に挙げられる。ついで、新幹線からもよく見える、江戸時代建造の、日本最大の京都・東寺の五重塔がある。古式然として、きらびやかさはないが、よく目立つ存在で、東京から帰る時には、この塔を見るとあと少しだと感じたものだ。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある室生寺には小規模ながら赤く洒落た感じの五重塔があり、ここまで登るとたいてい息が切れる。平安時代の醍醐寺の五重塔はその昔連れ合いといったことがあるところだ。何と言っても、奈良時代、南都六宗の一つである興福寺の五重塔は日本第2の高塔であり、奈良仏教の元祖とも言うべき所である。古都奈良の文化財として世界遺産にも登録されている。仁和寺の五重塔も、私の好きな塔の一つであり、ここは立地の条件が素晴らしいと思う。厳島神社の五重塔は、神社に食われて、塔自体は霞んで見える。訪れたことはないが、東北最古の五重塔である羽黒山五重塔や江戸幕府が造営した旧寛永寺の五重塔などが有名である。この間のバス旅行で、最後に訪れた、山口市の瑠璃光寺は、「西の京・山口」といわれるだけ有り、また、中国地方の雄、毛利家墓所でもあり、国宝の五重塔はライトアップに幽玄の姿を浮かび上がらせていた。ここで、今回の八角九重塔である。九重とはあまり聞いたことがない、今回発見されたのはその礎石であるが、平安時代の法勝寺があった後だという。文献によると高さは約81mというから、当時としては驚異的な高さであろう。現存する最高の高さを誇る京都・東寺の五重塔が約55mであるから、現存していれば一も二もなく最高建築物であったろう。たびたびの落雷や焼失に遭いながら、再建されたようだが、応仁の乱後は、廃絶してしまったのだそうだ。現在の京都タワーを建造する時にも都市の景観云々が議論されたが、当時、この塔を見た人たちが、どんなことを考え、どんな話をしたのであろうか、興味深いところである。
2010.03.12
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またまた、姉と一緒に一庫でゴルフを楽しんだ。今日は、連れ合いも付き添いでコースを歩いた。ところがである、連れ合いは前回も肩が痛いので、やりたいのを抑えてカートに同乗して、プレーした気分で帰ってきたのが、今回は前半を終わるなり、「うちはギャラリーは認めていないので、同乗されるのなら、カートフィーを払ってください」といわれた。他のもっと由緒のあるコースでは、頼んだら、途中のけがなどは自己責任で対処して下さいというだけで、特段に余分のお金を払うことは要求されなかったのである。こちらも一庫はどうせ練習コースだから、問題ないだろうと思っていたが、急にそのようなことをいわれて戸惑ってしまった。他のクラブがどうだといっても聞き入れるものではなく、そう決められているのだったら仕方がないと、後半は、面白くない気持ちを引きずりながらラウンドすることになった。このコースは、元々単独会社が開発したコースだったようで、それをチェリーゴルフが買い取って、多少なりとも良くしようと、コースのマイナーチェンジを試みているところである。向こうは、安いからと言って、コースが未整備なことの言い訳に使っているが、インターネット等で調べると、他にも安いところはいくらでもある。多少は高くても、コースの整備具合からすると格段に違うのである。ここに来る客は、大概は老人か、初心の女性を伴って練習しようとするカップルか、夫婦連れか、近所のおじさん方という感じである。私なども、練習場の雰囲気でなく、実戦の雰囲気をつかむ為にここを利用するのであって、少々コース状態が悪くてもそれはそれで仕方のないことと割り切っていた。何しろもうけ主義を導入してから既に1000円以上の値上げをしている。確かに他のコースよりは安いのかも知れない。しかし淡路島まで出かけると、ちゃんとしたコースで、300円程度高いだけとか、伊勢志摩の特別な日などはワンラウンドのスループレーで、3,900円とほんとかなというような所もある。、確かに私の家からは場所が遠いので簡単に比較することは出来ないが、コースの状態を比較するとまるで雲泥の差なのである。一庫は、コースがトリッキーといえば聞こえが良いが、山あいに無理矢理作ったという感じで、一部を除いてフェアウェイが極端に狭い。且つ又、このフェアウェイには必ず修理地の青杭が何カ所も立っていて、ドライーバーショットでのランは殆どそこで止まってしまい、毎回2打目は修理地から出してプレーすることになる。雨の後に行くと、排水がちゃんと計画されていない為に、フェアウェイは何時までも、びしょびしょである。これも水たまりを避けて打ち直さなければならない。グリーンはといえば、緑色になってはいるものの、そして、芝といえば芝と見えるが、単に草が刈り込んでいるような所で、勿論ラインというものは、有って無きが如しである。それでもグリーンのアンジュレーションはとてもひどく、下りのパットなどは、一寸強いとホールを素通りして、グリーンが狭いからまた場外に出るという具合である。他にもあるが、75ヤード超打上のグリーンは奥行きが狭く、グリーンの傾斜は激しいので、我々ばかりではなく、先にプレーしていた年寄り連中も、何度も往復をしている有様である。そしてグリーンは、そのほとんどが砲台となっており、アプローチでグリーンを捉えない限りは、また元の場所にボールが流れて落ちてくる仕掛けとなっている。さらに、バンカーといえば、最近は水みちこそ無くなったようだが、砂も硬く、荒れ放題で、挙げ句の果てにはこぶし大の石迄混ざって有るから、余程注意して打たないと、クラブに傷がついてしまう。極端に打ち下ろして中間に落とし、それから大きな池越えという変則ホールがあるが、ここの2打目付近は、ティーグラウンドからはスタイミーになっており、初心者なら、それと分からず打ち込んでくるからとても危険である。一時は、コースキャディが旗で連絡をしていたが、今頃はそれもなくなった。たいてい先の見えないホールでは赤ランプの点滅で先の組の状態を知らせることになっているが、このホールだけはないので、じっくりと前の組の行動を見ておかなければならない、とまあ、こんな所である。こんなコースだから、自分の下手さ加減が重畳して、がっくりと来ることが多い。1番ホールのティーショットは、いつになく良かったが、2打目3打目は雨で湿った芝がはげかかっているフェアウェイでダフってしまう。2ホールの第2打目で打とうとすると、後ろから、自分より前に打ち込んでくる。注意をし、後で謝られたが、それ以降後ろが気になって、スコアが付けられないほど滅茶苦茶にになってしまった。3ホールは、今日一番かと思うほどティーショットが飛んだが、また湿ったフェアウェイ(これをフェアウェイというのかといいたいくらいだ)にクラブを取られてダフってしまった。4ホール目は、2オンこそしなかったがまずまずで、5ホールの打ち下ろしパー3では、どうも真っ直ぐ飛ばない。続く6番ホールは超打上の短いショートホールで、日頃は難なくオンするのに、とどかない。人のせいにしたくはないが、とにかく当たらないのである。7ホールは、7Wで打ってみたが、当たり損ねてOB。打ち直して、良い箇所に飛んだが、次が木に当たってまたロスなどと、依然しっくり来ない。先ほどの打ち下ろし後池越えで、また打ち下ろしのホールでは、グリーンに後10cmで2オンを逃した。前半最後の9ホールも最後のアプローチでダフリ、ダブルボギーである。午後からは、2100円の追加料金をいわれたので、さらにプレーに響いた。2打目を左山裾に打ったが、傾斜で右の方まで転んできている。いつもよりましでもダボである。11番は、これもなかなか乗らない超打上ショートで届かずだめ、12番は綺麗にティーショットが飛んだものの、2打目は同じくダフリである。13番の谷越えでは、これも通常は1オンするのが今日はとどかない。あげく凸凹グリーンで4パットとなる。14番ホールではティーショットは真っ直ぐ真ん中で良かったが、2打目を力んでまたダフリだ。14番の名物ホールでは、1打目を一寸力んでOB。打ち直してから、3オンの2パットと、OBが無ければパーであったのが悔やまれた。16番のフェアウェイ全体が右に傾斜しているところでは、ティーショットは良かったが、2打目が砲台グリーンにわずかショート、そのまま、下の方まで流れ落ちてしまった。17番はこれも極端な75ヤード打ち下ろしで、グリーンを外してしまう。最後の18番は、ティーショットは、これも良かったが、2ンドがダフリとちぐはぐである。今日は、打ち込まれたり、追加料金の話があったりしたので、もう2度とここには来るまいと思いながら自分の下手さ加減を棚に上げて、スコアにも成らなかったことが残念だった。その代わり連れ合いは、グリーン上でのパター練習を料金内だと、所々で試して元を取った気分になっていた。姉も、この前よりは、一寸湿った感じであり、ここに来るなら、乾いた日にしなければ何をしに来ているのか分からなくなってしまう。
2010.03.11
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昔、会社時代に若い優秀な同僚がいた。定かではないが1970年代にその君は「ソフトエネルギー」という言葉を口にし、その推進が必要だと熱心に語っていたのを思い出す。ソフトエネルギーパスという言葉がある。イギリスの物理学者エイモリー・B・ロビンスが提唱したもので、石油、原子力、石炭などの高密度・集中型のエネルギー源をハードエネルギーパスと称するのに対し、太陽や風力など低密度・分散型だが、再生可能である自然エネルギー源をソフトエネルギーパスと名づけたという。ハードエネルギーからソフトエネルギーへの移行がエネルギーの利用効率向上のためには重要であると言われてきたが、ここにいたって、それが華やかに脚光を浴びている。このような記事を見る度に、私は昔の同僚の事を思い出すのである。当時から彼はこの事を考えていたのだから、現在の状況を好ましく思っているのではないだろうか。石油や石炭などの化石燃料によるエネルギーは、無尽蔵とは言えないし、昨今の地球環境問題で、CO2削減が叫ばれている時代になると、いろいろな工夫無くしては、使いづらい局面に成りつつある。CO2削減のみに注目すると、原子力エネルギー(核分裂)もクリーンエネルギーとして評価されているようであるが、私などは、原発の内在した危険性について危惧している一人である。クリーンと呼ばれる所以は、ただ一重にCO2排出が少ないと言うことにしか注目されていないわけで、では、放射能漏れによる重大な災害について、どのように考えられているのだろうか、という点である。毎回書くが「チェルノブイリ」や「スリーマイル島」の事故は忘れ去られたかのように、アメリカも30年間凍結してきた原発の再開発に注力し始めている。しかしながら、依然として、世界で運転中の原子力発電所(約430基)のうち4分の1の104基をアメリカが占め、最大の原発保有国であることに変わりはない。ここに来て、さらに、アメリカ国内で約30の原発を初め、インドや、ベトナム、UAEでも新・増設計画が進行しており、アメリカや日本、フランスの原発メーカーが受注を競っている状態である。日本は特にそうで、世界が右を向けといえば右、左を向けといえば左と、近視眼的になりがちだが、世界中が今馬車馬のようにCO2削減で血眼になっている。CO2の排出→地球温暖化→北極などの氷が溶ける→海面の水位上昇→土地(国家の)没水といった具合の連想ゲームである。武田邦彦の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」とか、槌田敦の「CO2温暖化は間違っている」といった人たちの、CO2即ち地球温暖化ということに異論を唱える人が多くいる。私個人的には、確かに短期的に見れば、CO2が原因で、地球は若干成りとも温暖化の傾向にあるのは間違いないだろうと思うが、地球を含め、宇宙全般を考える時、そういったことは枝葉なものと思われるのである。地球が、環境問題で、直接多大の影響を受けているのは太陽であり、太陽の黒点1つ取っても、それが増加したら地球は冷え切るし、最近のように、太陽表面の彩層から吹き出す高さ数万mの高さのプロミネンスの活動如何では、地球上は急に熱せられたりすることは容易に起こりうるのであるし、CO2だけに着目した近視眼的な発想では語れないことであろうということだ。原子力がクリーンだというのは、CO2の排出が少ないという点でのみ言えることであり、日本でも起こった一寸したナトリウム漏洩(放射能漏れ)などで簡単に人は死ぬのであり、こういった火種は、日本の原発だけでも枚挙にいとまがないのであるから、放射能漏れ問題の危険性を封印し、原発がクリーンである事を印象づけるのは、実に原子力業界そのものであるという意見さえある。そこで、自然エネルギーと呼ばれるるソフトエネルギーであるが、その種類は、太陽光や風力、地熱、波力、潮汐、温度差利用などのエネルギーである。これらは石油や石炭など埋蔵量が限られる化石燃料と対比し、「再生可能エネルギー」とも呼ばれ、いわば、自然界に無尽蔵に存在している。勿論、発電時にCO2を排出しないのは当然である。その中でも、最も普及しているのが風力発電で、2008年末の発電能力は太陽光発電の8倍程度であり、自然エネルギーの中では発電コストが最も安いが、発電量が安定しないという短所も持ち合わせている。そこで、太陽光発電は発電設備のコストが低下してきて、普及が見込まれてきている。また、太陽熱発電は、2-3年後には有望な市場となることが期待されている。しかしこれらの自然エネルギーは長所はそれぞれあるものの、天候に左右されやすかったり、夜間使用が出来なかったり、効率が悪いか、大規模な設備を要したり、場所が限定される等の問題もある。太陽光発電はシリコンなどからつくられた半導体に光があたると電気が発生する現象を利用し、太陽光エネルギーを電力に変換する仕組みであり、これに対し、太陽熱発電は太陽光を鏡で集め、セ氏380~600度程度の高熱で水を沸騰させ、その水蒸気でタービンを回して発電する仕組みである。このうち太陽熱発電の新聞記が事数日前にあったが、太陽光発電よりも効率が高い上、コストも安いということで、現在、欧州、中東、中国で注目されているという。向こう4年くらいで、1500万KWの発電能力が期待できるという。ちょうど、原発10基から15基分に相当する程度であるという。これらのことを考えると、一気にハードエネルギーから離脱することは難しいが、今まで安易に頼ってきた、化石エネルギーや、原子力への無造作な依存は、今後改めるべきでないかと考える。この太陽熱発電の熱エネルギーを電気に変換する効率は太陽電池を上回るという者のせいぜい20%程度だという。素人目ではあるが、効率の向上はまだ余地があるのではないだろうか。効率が倍になれば、たちまち得られる電力も倍になるのだが、そうは簡単にいかないのであろう。ドイツのシーメンスでは、太陽熱発電に約53兆円の投入計画があり、続くアメリカのGEでは今後10年で約7兆2000億円の市場と見込むなど、積極的な動きが見られる。日本でも各社が「ビームダウン型」という鏡で集光した光を別の鏡に投影して熱エネルギーを取り出す方式で、トータルコストの低下を実現させ普及を計ろうとしている。中国やインドからも引き合いがあるというから、さらなる技術革新のインセンティブになり、その向上は十分可能であろうと考える。またここでは深く述べなかったが、私自身は、原子力採用において、永年研究されてきているという、放射能漏れの心配がない「核融合」反応による、原子炉の開発がが望ましいと思っている。
2010.03.10
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かねて、岡田外務大臣が有識者に非核三原則に対する、密約があったか否かを諮問調査していたが、このほど遅まきながら、密約の存在が明らかになった。アメリカ辺りでは、何を今更という感じではあろうが、日本にとっては、重大な問題である。非核三原則は、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という3つの原則を指していて、1967年以降の歴代内閣によって堅持されてきた、いわば日本政府の国是である。国是というのは、国がこれを良しとするところのもので、これを、唱えた当時の佐藤栄作元首相以来、これを破り続けてきたというわけである。佐藤栄作元首相自身も、後に、最後の1項である「持ち込ませず」は誤りであったと反省し、悔やんでいたと言うことだから、何をか況やである。日米戦に敗北した日本は、時の流れとしてアメリカに従属せざるを得ず、本来は植民地下に置かれることも可能性としてはあった。最悪の事態は免れたとはい言うものの、アメリカの言うなりに成らざるを得なかったのは、当時としては致し方のないことであろう。勝てる戦争を勝てなくしたのは誰かとか、短期決戦ならば、我に利有りとした向きもあったようだが、所詮、国力の差は如何ともしがたかったわけで、愚かしい戦争であった。敗戦国としては、不条理な極東裁判も甘んじて受け入れなければならなかったわけだ。しかし戦後は、大きく変わっている、日米安保を締結する時も、佐藤栄作の兄である岸信介元首相を安政の大獄の井伊直弼に例える向きもあった。安保体制で、これまでのほほんと平和を享受でき、経済大国としてやってこられたことは事実であるが、敗戦国で、唯一核により被爆を体験したのは世界中で日本だけである。その日本が、アレルギーと呼ぶにはもっと深刻な、核の問題について、時の為政者が、これを国民に告げ無いどころか、無視し、あまつさえ、調査そのものすらしなかったということには極めて深い憤りを感じる。佐藤栄作は、1974年この非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞しているのである。この男、鉄道省で、戦後の日本のインフラ整備に力を発揮したのは事実であるが、1954年の造船疑獄で収賄を受け、逮捕寸前まで言ったが、したたかな佐藤は吉田元首相時を突き上げ、発動を渋る、時の法務大臣犬養健をして、ついに検察指揮権の発動をさせ生き延びたのである。犬養は、発動後すぐ辞職している。佐藤はといえば、他にも政治資金規正法違反で在宅起訴されたが、国連加盟恩赦で免訴となるなど、現在の政治と金を悪癖を創設したような男である。これから見ると子分筋の小沢一郎のやり方などは稚戯に等しいのかも知れない。さてこのノーベル賞であるが、平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後の米公文書により、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記して、授賞側が、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と述べている。さらに、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」とも述べたということだ。こんな佐藤に、国は、大勲位菊花大綬章や従一位・大勲位菊花章頸飾を贈り、国民葬で遇しているのである。それがどうしたといわれればそれまでだが、これもそれも皆税金だと考えれば、何となく割り切れない気がする。 アメリカに面従腹背ではなく、面従腹従(服従)は今に始まったことでもなく、在野の雲雀や雀が如何にさえずろうとも全く意に介さないと言うところである。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」というがこの鴻鵠がいかなる志を持っていたのか、あちらの国に行ったら聞いてみたい気がする。この佐藤栄作、生まれが良いので、浄土真宗で法名「作願院釋和栄」を受けている。さらに、出生の山口県でも佐藤家菩提寺から「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けているのである。勿論、あの世でも、格差社会はつづいているのであろうが、現世よりは少しはましなのではないかと期待しているわけだがこの通り、現世での扱いは格段に違うわけだ。調べると「法名」も「戒名」も違いはないとのことであるが、浄土真宗の法名は、院号(院殿号)・道号・位号を原則としてつけないということである。即ち佐藤の法名の太字の「作願院」などとは不要なのであり、ただ単に男なら、「釋○○」で女なら「釋尼○○」だけなのだそうだ。しかしそれでは、他よりも見劣りがする、というので、遺族の希望で院号や位号をつけるらしいが、これは、寺側にとっても儲かる話なので、結構乱発しているようである。してみると私の親父も、お袋も、「釋○○」であり「釋尼○○」だけだから、全うなのかと思った次第。さらに男の「居士」、「大居士」、「信士」の違いや、女の「大姉」、「清大姉」、「信女」の違いは、本来「居士」関係は在家の篤信家に付け、「信士」、「信女」関係は僧や尼僧に付けるものだったが、今では在家の人にも付けられるのだそうだ。まあ、佐藤の場合は、金を持ち、血筋も良いという事を後の世に知らしめたいと遺族が思ったからであり、こんな嘘つきだったことは、七十五日を待たずに忘れ去られることであろう。こういった嘘つき宰相は、一人であればまだ良いが、佐藤以下の自民党の首相であった、三木武夫、田中角栄、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、 麻生太郎全てが嘘を言い続けてきたことになるわけだ。国会議員は、上手な言い訳をよくする、質問があった時に、「知りません」とか「やっていません」とか言うと、後で分かった時に、嘘をついたことになり恐ろしいから、「記憶にございません」というのがまあ、業界用語である。これなど、重要な事柄を忘れるぐらい呆けたのだったら、引退すべし等と思うのだが、如何なものであろうか。佐藤語録に「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」 とか「参議院を制する者は政界を制する」 等というのがあるようで、小沢一郎は、正にこれを鑑として行動しているのでは無かろうか、即ち民主党を被った旧55体制が未だに続いているのではないかと思うのである。昔の政治の流れなどは、戸川猪佐武の小説「吉田学校」などに詳しく書かれている。体ばかりでかいだけの森喜朗は別として、安倍晋三も佐藤の係累だし、麻生太郎も吉田茂の孫であり、口が裂けても密約の存在など認めるわけもない、こんな嘘つき連中に国政を任せて良いものなのだろうかという義憤は感じるが、さて、この先この問題がどうなるのか、注意をしてみていきたいと思う。共産主義国家や、独裁政治の国家でない民主主義の国態では、主権は在民であり、国民がつんぼ桟敷(差別用語か?)に置かれないことが基本であると思うわけだ。
2010.03.09
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アメリカのオバマ大統領は就任当初から、核の廃絶について熱心に取り組んでいるようである。この度向こう10年間のアメリカの核兵器についての考え方を明らかにした。我が国は、第二次世界大戦において、唯一原爆を投下され、その惨状を未だに引きずっているのが現状である。原子力爆弾は、広島と長崎に、2度投下され、直接亡くなった方や、その後の原爆症でなくなった方々を含めると、犠牲者は40万人にもなるという。これは恐ろしい数字である。広島で1回目の投下が有り、それから3日後に長崎で投下されたわけだ。そして、今なおアメリカの多数の意見は戦争終結の為に、投下やむなしということである。勿論原爆を投下する前には十分な実験をしているはずであり、その威力が如何ほどであるかということも分かっているのである。直接的な破壊力は、広島の原爆でTNT換算15KTであり、長崎のそれは20KTということである。それだけでも、広範囲に、多数の人間や、建造物をことごとく破壊してしまうのであるが、加えて、後の放射能の被害は、これに輪を掛けたほどすごいと言うことである。そのような、大量破壊兵器を使って恥じること無いばかりか、正当性を唱えるアメリカ人の神経たるやどうなっているのであろうか。明らかに白色人種優性の思想の下に、日本人の如き劣等民族は、彼らにとっては、心の痛むところではなかったと言うことかも知れない。これが同じ枢軸国であったドイツに対してなら決して投下はされなかったであろう事はよく言われることである。第二次世界大戦後、突出した大国となった、アメリカとソ連は、何かにつけて対抗意識を剥き出しにし、民主主義対共産主義のイデオロギー対立となっていった。そんなとき、時のソ連首相ニキタ・フルシチョフはアメリカの喉元であり、同じく共産主義国家のキューバに、核兵器を持ち込むことをやってのけたのである。彼らにとって、広島・長崎の教訓は生かされていないばかりか、覇権の為なら何でもやると言う感じである。こうして、1962年に米ソ間の冷戦の頂点と言う時期に、戦後初でそして、世界で核兵器が、3度目の使用の危険性が実際に感じられた国際的緊張があったのである。時のケネディアメリカ大統領は一か八かの掛けに似た、封鎖行動をとり、この並々ならぬ決意に対し、フルシチョフが折れ、キューバからの核兵器撤去という顛末になったわけである。後にケネディ大統領は、勇断をたたえられ、さらに暗殺というおまけまであったので、英雄視されているが、この時フルシチョフがどう出るかによっては、最悪の大統領にもなりかねなかったわけである。その後1991年にソ連が崩壊し、各連邦構成共和国が独立して、ロシア連邦は、勢力をそぎ落とされた。共産国家が、市場経済を取り入れざるを得ないくらいに、経済が回らなくなったのである。その後は、アメリカの独壇場で、アメリカが世界を制するのだと言っても過言でないくらいに強大な覇権国家となった。旧ソ連の重みが取れた段階で、中東や、ソ連寄りであった国々の抑えが効かなくなり、冷たい戦争をホットな戦闘へと変え、それまで内在していた民族固有の独立運動が各所で蜂起するに至るのである。これらここの民族紛争を抑えるのは容易なことではなく、且つイスラエルの肩を持つ、アメリカという国に敵意を抱くアラブ系の国々は多かった。ブッシュ前大統領は、超タカ派であり、北朝鮮、イラン、イラクを「悪の枢軸国」として、名指しで非難するまでに至った。そしてついに2001年の「アメリカ同時多発テロ事件」(9.11テロ事件)で、4機の航空機をハイジャックされ、1機はペンタゴンへ、他の2機は例の貿易センタービルの中程の階に、猛スピードで突入したのである。そして、これを契機に2003年にイラク戦争に突入するのである。私は、これをビデオで見ていて、そのすさまじさに、どんなアクション映画もこれには到底及ぶまいと驚いたものであった。この時の死者は、2993人である。如何に象徴的であるとはいえ、広島・長崎の原爆の被害者に比べたらという数字である。広島・長崎は是(ぜ)で、9.11テロ事件が非(ひ)である理由など無い。勿論両方とも非であるのだが、程度が違うと言うことなのである。そこで、ブッシュ大統領は、この事件の首謀者から、「悪の枢軸」の内のイラクに的を絞ったのである。北朝鮮は、単なるならず者集団であるし、9.11テロ事件の首謀者が、アラブ系のテロ組織「アルカイーダ」のオサマ・ビン・ラディンが関係しているとして、これを匿う恐れなどを考え、且つ、イラクには大量破壊兵器があると断定したのである。大量破壊兵器とは、人間を大量に殺傷でき、また建造物や船などの人工構造物をも多大な破壊が可能な兵器のことで、生物兵器、化学兵器、核兵器、放射能兵器の4種類を指す。核を想定したのか、生物兵器なのか、とにかくブッシュは突っ走ったのである。売られた喧嘩は買おうじゃないかというスタンスである。与謝野晶子ではないが、「すめらみこと(皇尊)は、戦ひに、おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。」というが如く、ブッシュ自身は鉄砲を担ぐわけではないのである。一方のイスラム原理主義者達にとって、死は、獣の道ではなく、すめらみことはアッラーであり、聖戦に出でて、血を流して死んだ方が、より天国に近づけると幼い時から教え込まれた連中である。ここでは、与謝野晶子のメンタリティーは通じないのである。その結果、張本人のサダム・フセインを捕まえたものの、大量破壊兵器なるものは一切出てこなかったわけである。敵地に乗り込めば、いやが上にも反撃に遭う、反撃が怖いから無差別に住民を殺すの結果得られたのは、米軍の死者1000人弱、一般市民は100万人とも130万人とも言う、割に合わない結果となってしまったのである。正に仁義なき戦いであり、未だにアメリカ軍は、イラクに駐留をして、小競り合いが続いているし、毎日のように死者が出ている。昨日、時あたかも、イラクの選挙があり、妨害工作で、38名の人が死んでいる。自国を壊滅に追いやるのは何故なのか、終わりのないイスラエルーアラブ間の抗争に似たところがある。さすがにアメリカ国民も気がついたのか、これはいかぬと新しくオバマ大統領を選んだのである。オバマ大統領も、イラクからは引くものの、テロ集団の温床はアフガン北辺部だと決めたようで、今、軍を増員している。一方では、ソ連邦崩壊の年である1991年に米ーロ間で第一次戦略兵器削減条約(START 1)が結ばれており、核弾頭の数の真偽は分からないが、4割削減で各6000個以内に制限しようというものであり、この目標を7年で達成しようと言うことだった。さらに、START 2でもう少しつっこんで、2003年までに両国の核弾頭数を3,000~3,500発以下に削減することなどを決め、アメリカは批准したが、ロシアが批准を拒否したので話が頓挫していた。今回は、STRAT 3に相当する位置づけだが、核兵器をさらに減じて、各国とも1500個~1675個まで減じようというものである。今回のロシアは、キューバ危機の逆で、アメリカが、ロシアの喉元である東欧諸国にミサイル迎撃(MD)システムを配置したからずるいというものだ。要はロシアから撃てば打ち落とされるのに、アメリカから撃てば、これを迎え撃てないので不公平だと言うところであろう。ここで考えるに、昔のような大型で殺傷力の強い原爆(水爆)があるのかどうか、広島・長崎型は15~20KT(TNT)であるのに対して、数倍はおろか桁がいくつも違う原発が何故そのように必要なのかと言うことである。アメリカに大都市はいくつあるのだろうか、その全てに原爆を落とさなくても、アメリカの機能は止まると思うし、ロシアの方も限られた都市を壊滅するのにそれほどの数が必要とは思えない。昔は、どちらかが赤いボタンを押すと、それに呼応して、自分もボタンを押し、その連鎖で、地球全体を破壊しようとしていたのである。この馬鹿げた考えは、どうして馬鹿げた考えだと分からないのだろうか。今や、核は抑止力であり、使うものではないというコンセンサスが得られているようだが、何処かの超馬鹿者が、これを使わないとも限らないわけで、人はとどのつまり核を使うであろう事は、既に歴史が証明していることでもある。削減に前向きなオバマ大統領は評価できるが、如何せん、削減しても1500個程度の核弾頭はあるわけで、最近は、北朝鮮のような、稚拙なコントロール能力ではない狙えば当たるという代物だから、お互いの都市を全部壊滅させても、まだお釣りが来る方ではないかと思う。さらなる努力をして貰いたいし、それでこそノーベル平和賞に値するのだと思うのだが。
2010.03.08
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テレビで世界遺産の放送がある。毎回楽しみに見ているが、居ながらにしてお茶の間で世界の素晴らしいところに行っているようで、とても楽しい。今日は、ベネズエラにある「カナイマ国立公園」の紹介であった。何と、次回も後半があるのだという。前にも話題にしたことがあったかも知れないが、とにかく素晴らしく広大な自然が残されているところのようだ。とは言っても、一般の観光客が、そこに行くことはかなり難しいのではないかというような、秘境のように感じられた。1962年にベネズエラの国立公園に指定され、1994年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されているが、未だに人類未踏の場所が点在し、世界最後の秘境ともいわれる所だ。一帯は、ギアナ高地と呼ばれていて、プレートテクトニクスの影響をほとんど受けていないため、約20億年前の地質がそのまま残っているというのだ。マラカイボ油田などで日本にもお馴染みの国であるが、近年は、オリノコ川やベネズエラ湾内で、新たな油田が発見され、日本企業も多く進出している国である。カナイマ公園はベネズエラの南西部の一角、ブラジルとガイアナに近い場所であり、おそらく石油鉱区とはかけ離れた所であろうが、その昔は「エル・ドラード」(黄金郷)と呼ばれていたところである。私も男の端くれか、こういった謎とロマンに満ちた場所のことを聞くのは大好きである。15-6世紀の大航海時代、当時、スペインやイギリスの探検家が、新天地を求めて、冒険に出かけ幾多の艱難辛苦の後に、見つけ出した新天地の一つであったのだろう。ギアナ高地の「ギアナ」とは、現地語で、「水の国」という意味なのだそうだ。日本の中国地方ほどの広さのこの高地には、年間何と4000mmという、日本のおよそ倍の降水量があるのだという。プレートテクトニクス上殆ど影響を受けていないと言うことは、この国が、チリなどと違って、国全体が、南アメリカプレートにどっかりと載っているからであろう。とは言いながら、私の生まれるずっと以前には、地震により相当の死者が出たという記録もあるから、あながち安心していられるわけではない。それはともかく、テレビの紹介では、ギアナ高地自体は、その昔、低く、巨大な湖のように満々と水をたたえていたのだそうだ。勿論そこには、沢山の水生動物がいたのであろう。その湖が、地球の褶曲作用で隆起し、地上高く約千mも持ち上がったというわけだ。そして、そこに雨が毎年のように多量に降った為に、高地の比較的柔らかな部分が、流れて削り取られ浸食されたのだというのだ。その結果として、固い岩盤部分が残り、数多くの、ほぼ垂直に切り立ったテーブルマウンテンが点在するのだと言うことだ。テーブルマウンテンといえば、南アフリカを訪れた時に登ったことがあるが、そこは単発の山であった。また、ハワイ、オアフ島のダイアモンドヘッドは、火山により生成した物であろうから、ここギアナのテーブルマウンテンとは成り立ちが違うのであろう。むしろ、1979年に世界遺産に登録されたアメリカのグランド・キャニオン国立公園も、同じように、コロラド高原がコロラド川の侵食作用によって削り出された地形である点で同一の生成形態を持つと思われる。さらに、香川県、屋島の屋根状の平らな山も谷底に溜まった溶岩流が周りを侵食されて残ったメサ(スペイン語でテーブルを意味する)の一種であるということでミニチュア版のギアナ高地といえるのかも知れない。ギアナ高地のテーブルマウンテンの数は、100を超えるといわれているが標高の高いテーブルマウンテンは、ギアナ高地の内でもエセキボ川の西側に集中し、ネブリナ山(3014m)やロライマ山(2810m)などが有名である。エセキボ川の東側のテーブルマウンテンは比較的小規模で標高は1000m以下のものが大多数を占めているという。地質的には、ギアナ高地を形成する岩石は主に20~14億年前の先カンブリア時代に堆積した砂岩や珪岩からなっていて、擬似カルスト状になっており、降り注いだ雨の通り道である、浸食された巨大な縦穴が多く存在している。来週は、水が穿った「岩の神殿」など、地底ワールド(岩の迷宮)に連れて行ってくれると言うことのようだ。いずれにしろ、プレートテクトニクス理論によると、6億年前にゴンドワナ大陸が分裂し現在の南メリカ大陸とアフリカ大陸に別れたが、ギアナ高地付近は大陸移動の回転軸付近に当たり、ゴンドワナ大陸当時からほとんど移動していないと推定されている。ギアナ高地の面積は日本の中国地方に匹敵するという約3万平方キロメートルであり、この部分が、約3000m近く隆起したと言うことであり、岩の比重を2.5程度と見積もると、なんと、2.25×10^14トンというとてつもない重量物が動いたことになる。それがどれくらいのエネルギーなのか、ただただ唖然とするばかりであるが、この大地が隆起するに当たって、周りとの摩擦などを考えると、おそらく相当な圧力と同時に高温にも晒されたのであろう。従って動力変成作用の結果、この辺りには、ダイヤを初め、クリスタルなどの鉱石がふんだんに内蔵されているそうであり、金などの鉱物資源もまた豊富なのだという。「エル・ドラード」と呼ばれる所以である。このような広大な地殻変動の場所であるからであろう、最近では、冒頭に述べたように、石油や天然ガスの油田・ガス田が多く発見されているのが納得できる感じであるし、金属鉱物資源なども、上記の他、ボーキサイト、鉄鉱石、ニッケル鉱、リン等もを産出するようだ。ロライマ山は夢の国として「ロストワールド」で有名になった山であるが、こういった成り立ちによるものである事を初めて知った。そのロライマ山のほぼ西に、アウヤンテプイ山があり、この辺りの自然の壮観さに花を添えるように、世界最大の落差を持つ瀑布であるアンヘルの滝(エンジェルフォール)がある。この、エンジェルフォールの落差は世界最大というだけあって、何と979mもあるというのだ。一寸想像しても浮かんでこない壮観さである。そこは、現場にいるのと、多少大型のテレビといえども、映像で見る様子とは格段に違うであろう。エンジェルフォールに注ぐ川底はジャスパー(碧玉)や微細な石英の結晶が集まってできた鉱物が、酸化鉄や水酸化鉄などの不純物と混入して褐色を成しているというのだ。正に宝の宝庫にいる感じではないか。16世紀の探検家が「ここは、ダイヤを敷いたクリスタルの山だ!」といったのもうなずける。資源のない日本にとっては羨ましい限りである。なぜ、マルコポーロたる者が、日本をジパング(黄金の島)と言ったのか良く分からない。ギアナ高地にある最大のテーブルマウンテン、アウヤンテプイ山から流れ落ちる、このエンジェルフォールは落差がありすぎる為、滝下部では水が拡散してしまい滝壺が無いというのである。他にも、2段に別れた巨大な滝など、最後の秘境と言うにはばからない光景である。最初の方で、テーブルマウンテンの上に生息するカエルの紹介があったが、このカエル、昔水の底であった時、逃げ遅れて、そのまま持ち上げられ、今では、天敵もなく、泳ぐ必要がないということで、水かきはなく、且つ飛び跳ねることも出来ないのだという。ここにも、ダーウィンの「進化論」を裏付けるような、進化(適応)が存在しているのだと言うことも面白かった。
2010.03.07
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3日ほど前に、チリの大地震によって1日の長さが変化するという報道があった。米航空宇宙局(NASA)、ジェット推進研究所(JPL)のリチャード・グロス博士が発表したところによると、地球の自転が乱れて1日の長さが100万分の1.26秒短くなり、さらに、地軸の傾きも約8cmずれた可能性があるという分析結果なのだそうだ。岩板や地球上の物質など、質量を持ったものが移動すると自転に影響を与えるといい、リチャード・グロス博士は「火星や土星などに向かう探査機の管制には悪影響が出る恐れもあるが、変化はごくわずかで、一般の人には影響はない」と話している。当たり前だと直感では分かるし、朝日新聞などの標題が興味を惹くべく、「1日の長さ、チリ地震でちょっと短く…あなたは感じた?」などと書いている。「感じるわけ無いだろ!」とは思いながらも、書く方もそれを承知、また読む方も真剣にどうだったかなど気にしないという前提でのいわば、誇大広告である。最近のIT産業の発展はすさまじいものがあり、この間もヨドバシカメラを訪れて、新しいパソコンはどうなっているのかを聞いてみると、一昨年の7月、大枚はたいて買った、VISTA搭載の我がパソコンなどは、半ば化石化してしまっている現実に驚く。かつて、事業仕分けで、蓮舫議員がスパコンについて「2番じゃいけないのですか、1番でないといけない訳でもあるのですか?」などと、無知蒙昧なことを言い、顰蹙を買っていたように思うが、法学士である、彼女にその辺を分からせるのは至難の業であろうし、それが仕分け人として、このような発言をしていることに対して、反論とか、教えてあげる気にもならなかったであろう。 NASAにおけるグロス博士は、1番かどうかは知らないが、そのスーパーコンピューターを使って、今回の地震の影響を試算し速報値を出したようだ。蓮舫議員に言わせたら、「高い金を使って、そんな計算して何になるのですか?」と真顔で聞かれそうである。知らないことは強く、且つ又恐ろしいことである。俗に「めくら蛇に怖じず」(禁止用語かな?)というが、正に言い得て妙である。この「事業仕分け」の結果、2010年度の予算規模を40億円少ない228億円に減額したうえで復活する事になったように記憶する。因みに、2009年11月調べの「TOP500プロジェクト」発表によるスパコンの順位は、1位から3位まではオークリッジ研究所、ロスアラモス研究所、テキサス大学とアメリカが占め、4位にドイツのユーリッヒ総合研究機構が入り、何と、5位には、中国の国防技術大学の自国製作のスパコンが入っている。6位から10位までもアメリカのものであるが、今回グロス博士が使ったと思われるNASAのスパコンは、それまで、4位だったものが、今回は6位という位置づけである。勿論、日本はと言えば、性能ランキングでトップ30のランク外に転落したのである。先に述べた、中国やロシア、インドの躍進が目立つ一方で日本はこれほどの体たらくである。環境の問題、海流の状況、地震のシミュレーション、宇宙への人工衛星などの軌道計算等々、近くは、明日の天気さえも十分に出来ていないことを考えると、30位にも入れない日本のスパコンは今や、スパコンなどと入っていられないのではないか。このように地球レベルの気象予測を含め、原子力研究、半導体の設計、金融工学、化学反応の再現、DNAの解読、自動車業界では衝突実験やエンジン燃焼の模擬実験、航空機開発、創薬など用途は広い。特に、航空機開発では、機体の安全性に影響する小さな乱気流の発生具合を詳細に解析するためには、欠かせないわけで、これがなければ、大がかりな風洞を作り、実機のモックアップを作って、実験で確かめるなどといった、極めて高いコストが掛かることになるわけだ。それが、スパコンでは、モデル化した画面上での風洞実験で済み、機体の周りを流れる空気の動きを数mmごとに計算でき、空気の乱流による加速・減速時の影響、騒音の発生具合を正確に再現できて、安全性や経済性の向上に役立つのである。2番ならまだしも、普通の高速パソコンだと1000日以上かかる計算をスパコンなら、わずか1日でこなせるのである。防衛一つ取っても、アメリカの計算に基づいたICBM(北朝鮮のテポドン)などの、発射探知から迎撃計算まで、皆アメリカにおんぶにだっこでお願いしているわけである。「2番じゃいけないのですか、1番でないといけない訳でもあるのですか?」どころではなく、30番にも入っていないのですよと言いたいし、また説明する側の人間の不甲斐なさに呆れるばかりである。因みに、日本で従来の22位だった、NECの「地球シミュレータ」は31位に落ち、富士通製の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の「FX1」は28位から36位に後退したのだ。 これに反し、先述した中国・国防科学技術大学が自作したスパコンが5位に入り、石油探索や大型航空機の設計などに用いるのだという。それでも、ピーク性能と比べた実行性能の比率が著しく低いので、さらに国を挙げて開発を進めているのである。これで、中国脅威論はただただ政治や、経済に留まらないと言うことが少しは分かっていただけるだろうか。このほかにもロシアT-プラットフォームズが開発しモスクワ大に納入したスパコンが12位に入っている。 スパコンは、このように複雑で膨大なデータを超高速で処理するためのコンピューターであり、1秒間に1兆回を超える計算能力を持つものが多い。従って上記のような各種の計算には、必要不可欠なのである。一方では、複数のパソコンなどを接続してネットワークを組み、仮想的な高性能コンピューターのように計算させる「グリッドコンピューティング」も登場してきているが、情報漏れや管理面で難しく、運用費はスーパーコンより高くつくなどの問題がまだ存在するようである。今は小さい方では、ミクロ(10のー6乗)からナノ(10のー9乗)へ、大きい方では、ギガ(10の9乗)からテラ(10の12乗)と時代は進歩し続づけている。ヨドバシカメラのパソコンレベルでも、ハードディスク(HDD)の容量はテラの分野に入っているのだ。因みにスパコンはその上の、ペタ(10の15乗)以上の領域なのである。私が社会に出て数年した頃に、やっとHDD付きのパソコンが出たことなどを考えると、正に長足の進歩であり、例え1年でも欠伸をしていると、もうこの世界では、浦島太郎になるということである。話を元に戻すと、今回のチリ地震では、1日の長さが100万分の1.26秒短く、地軸の傾きも約8cmずれたということだが、同様に、2004年のスマトラ沖地震についても試算したところ、M9.3(M9.0といっているがM9.3のはず)を記録したこの地震で、1日が100万分の6.8秒短くなり、地軸の傾きは約7cmずれたということだ。地震のエネルギーが大きいスマトラ沖地震より、チリ大地震の方が地軸のずれが大きい事について、グロス博士は「中緯度で起きたことや、地震断層の傾きがスマトラ沖地震よりわずかに大きいことが、より効果的に地軸を動かした」と説明しているという。バンクーバーオリンピックのスキーやスケートは1秒違えば大きな違いであり、女子の3人でのスピードスケートは、0.02秒で金を逸したとのことであるから、あっという間ではあるが、地震による1日の変化のそれでも、30倍程度になるわけだ。また、フィギュアスケートの選手が繰り返し回転するとき、広げた腕を縮めると回転が速くなるが、今回の現象はそれと似た現象だそうだ。計算をしたグロス博士によると、計測限界は10万分の1秒程度で、チリ大地震による影響を実際に検出するのは難しいというし、また、1日の長さはもともと、月や太陽の引力や風などの影響で1日に千分の1秒程度揺らいでいるということでもあるそうだ。 このズレは1度起きたら修正は出来ないとかで、累積していくと言うことから、既に、これら地震に匹敵する大型地震を経験している人類は、このような、地震が続けば、時計調整が必要な事態が起こるかも知れない。
2010.03.06
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ヨーロッパ美術の輝き(19世紀の美術)の講義は一旦今日で終わることになる。NHKの講座は、一般に6ヶ月を単位に更新されていくので、美術の講義としてはまだ続くのである。今日は、さほど有名でない19世紀の画家達を集めて講義することと予定されていたが、講師は後で、ゴヤを入れておくべきだとの判断をされ、ゴヤについての作品についての講義となった。私もゴヤの講義を受ける方が良いと、とっさに思った。講師は先ず、映画になった「宮廷画家ゴヤは見た」(GOYA'S GHOSTS)の話から始められたが、講師は見ておられなかったとのことだが、我々は一昨年京都で見ていたので、一段と興味を持って聞くことが出来た。日本語題名は「家政婦は見た」と似ていて面白いが、英語名は、何かしら不気味さを感じる映画のようである。フランシス・ゴヤは1946年生まれのスペイン人であるが、私の聞き間違いか、ドイツのベルギーとの国境近くのアーヘン人という名前が出てきたと思ったが、何だったのだろうか。フランスは王制下にあり、スペインもまたそうであった頃、スペインの権威ある王立アカデミーを受験し2度失敗している。失意のもとでか、イタリアに渡っているが、詳細は不明であるとのことであった。有名人ではないので、消息を追うほどの人物ではなかったと言うことかも知れない。スペイン王朝衰退後に王立サンタ・バーバラ・タピストリー工場が設立され、ゴヤは、奥さんの兄のコネで、ここの下絵を描くという仕事に就いたのである。エリートコースとは言えないが、決して下積みの生活ではなく、時に貴族との接触もあるという身分であった。そこで描かれた作品「日傘」が最初に紹介された。タペストリーの下絵として描かれた風俗画で、ゴヤ独特の光の繊細さを表現していて、全体にロココ風の感じを受ける優しい絵である。「マハとセスティ-ナ」は、私が始めてみる作品だった。マハは、ゴヤの作品では後で出てくるようによく耳にする。元々はファッショナブルな若い娘とでも言うのだろうか。ここでのマハは、若い女性が春を売る商売(直接は書けない)であり、自慢で売り物の乳房を手すりに乗せ懸けて客を誘っている。その後ろでは狡猾そうなやり手婆がいるという構図である。「チンチョン公爵夫人」は侯爵ではなく伯爵という説明もあるが、ゴヤは、この夫人の幼少の頃や成人してからの肖像を描いている。チンチョン公爵夫人は、カルロス3世の末弟の娘であったが、修道院に入れられたり、また還俗させられ、18歳の時に、時の権力者のゴドイ宰相に嫁いだが、ゴドイ宰相は、晩餐会を開く時にも愛人を同席させるなど、夫人は幸せではなかった。ロココ調で優しく描かれたこの絵には、ゴヤ独特のシニカルさはなく、ゴヤ自身が夫人を親のような気持ちで見つめていたような優しさを感じさせるものがあった。「アルバ公爵夫人」はゴヤの愛人である。侯爵の生前からの愛人関係にあったという。この絵は、夫が亡くなって喪服を着ているのだが、意味ありげというか、何気なくと言うか右手指先が示す地面には「Solo Goya」(ゴヤだけ)と書かれている。これはゴヤが夫人に捨てられた後で腹いせに追加して描かれたという説もあるらしい。ゴヤは、やがてアカデミーの会員になり役付宮廷画家にまで出世するのだが、こういった風に俗物的な上昇志向の強い性格だったようだ。「着衣のマハ」と「裸のマハ」は比較して語られるが、通常ビーナスなどと比較されるようである。注文主は、宰相ゴドンであり、モデルはゴヤの愛人であるアルバ公爵夫人だとも言われている。この種の閨房図は、当時の貴族の間ではよく描かれ、寝室などに飾ったものなのだろう。いずれも、ベッドに横たわる女性の意味するところは、明らかに性的な行為を暗示したものである。今日のように度を超したポルノが出回っている時代から見ると、当時は、この程度で男は満足していたのかという感じだが、なかなかそれはそれで、感じるところがある。着衣の方は筆のタッチが荒く、明暗のコントラストが強いと言われるが、こればかりは、マドリッドに行ってプラド美術館で本物を見比べないと分からない。この絵の対照として、ゴドイが所有していたとされる、ベラスケスが描いた唯一の裸婦画「鏡を見るヴィーナス」が紹介された。当時は、カトリック教会の締め付けが特に庶民に対して厳しいときであったために、裸婦の絵はあまり多く描かれてはいない。次はゴヤの「ロスカプリチョス」(全80点)から数点の紹介があった。そもロスカプリチョスとはなんぞやであるが、これはスペイン語で「気まぐれ」、「思いつき」という意味である。最初の「理性が眠ると怪物が生まれる」は机の上に顔を伏せて眠っている男こそがゴヤの姿であると言い、頭が混乱して、眠ると頭の中を妖怪達がうごめくという、心理的内面を描いたものである。「理性に見放された想像力はありうべくもない妖怪を生ぜせしめる、理性と合体せしめられたならば、想像力はあらゆる芸術の母となり、その驚異の源泉となる」と紹介されているのだとか。「おじいさんもこうだった」では当時の貴族の旧守・退廃を、ロバに例えて、あてこすって描き、風刺し、大衆に販売しようとしたが、こういった聖職者や上流階級に対する風刺により、異端審問にかけられることを恐れ、わずかの部数を売っただけで、発売後数日にその大半を回収し、銅版とともに、売れ残りの作品の全てを国王に献上したということである。ゴヤのしたたかさであろう。「カルロス4世の家族」では、2.8m×3.3mの大きな作品で、1799年にゴヤが宮廷の首席画家に任命された翌年から1年近くかけて制作されたスペイン国王「カルロス4世」一家の集団肖像画である。皇族を一同に集めて立たせたまま絵を描くことは出来ず、各々のスケッチを元に1大作として仕上げたものである。画面中央には王制を堅持することを意図した、実質的な支配者である王妃マリア・ルイサを描き、少し離れて、愚鈍な王を描いている。ルイサが手を引く両脇の王子は、実は夫カルロス4世の子供ではなくゴドイとの間の子供である。さらに左には父と不仲で、母をも軽蔑する、後のフェルナンド7世が描かれている。国王の姉マリア・ホセファ、顔を背けた皇太子の未来の花嫁の若い女性ら、てんでんばらばらの家族の有様を描いている。そして、画面左側奥には深い陰影に包まれたキャンバスに向かうゴヤ自身の姿が描き込まれている。この作品は、大画家ベラスケスの描いた王族一家の集団肖像画「ラス・メニーナス(女官たち)」を意識して描かれ、ベラスケスへのオマージュとなっているが、ロココ風を基調としたふわっとした技法と少しぼやけた輪郭アクセサリー類をわざとぞんざいに描くなど、王族に対するゴヤの真摯で実直な観察眼による忠実的表現となっている。版画集の中の「戦争の惨禍」では、当時の世相を色濃く反映し、ピレネー以南はヨーロッパにあらずといったフランスなどの考えで、スペイン人をあたかも今のゲリラの如く扱い、国際戦時法の協定外だとして、捕虜を対象外としている様が残虐さの絵の中によく出ている。即ちスペイン兵は、正当な裁判もなく虐殺されてのである。ゴヤ自身スペイン人であるわけで、ゴヤのいたたまれない失望感をこの作品集は物語っている。「1808年6月3日」は副題を「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」と呼ばれ、マドリッド市民の暴動を鎮圧したフランス軍が反乱者達を銃殺する場面を描いたものである。今まさに刑が執行されようとしている反乱者たちは恐怖や怒り、絶望など様々な人間的感情を浮かべているなか、銃を構えるフランスの銃殺執行隊は後ろ向きの姿で描かれている。これがフランスに実体であると言わんばかりに、ゴヤ自身はスペインの味方であることを強調する、自分の保身上のことも考えたのであろう。「鰯の埋葬」は毎年2月上旬の四旬節を向える謝肉祭の最後の3日間にマドリッドでおこなわれるスペインの伝統的な祝祭の様子であり、不気味さを感じさせる笑い顔が描かれた大旗を囲みながら、動物、司祭、道化師、兵士、死神など思い思いの仮面を被り仮装をした市民たちが、祈り、断食、慈善など禁欲と節制の日々が始まる四旬節に備えて贅や愚行・享楽への最後の告別を目的に嬉々と踊りあかしている姿が躍動的に描かれている。末世思想の、「ええじゃないか」踊りを思い出させるところがある。最近はゴヤの弟子の手によると言われている「巨人」は、手前に描かれたキャラバンを襲うのではなく、一人、怒ったような顔をしつつ、去って行かなければならない、ゴヤ自身を、巨人の中に投影し、またその巨人は、かつて大航海時代世界の海を制したスペインの凋落する様を表象している。もう一つのこれはゴヤ自身の手により「巨人」はやはり凋落していくスペインとゴヤ自身をオーバーラップさせ、既に聴力まで失っていたゴヤは、寂しく去る運命なのだという意味を込めているのであろう。「砂の中の犬」はもう首まで砂の中に沈められた犬が、後幾ばくもしないうちに完全に埋もれていくだろう事を暗示している。頂点を極めながら、聴覚を失い、宮廷画家の地位を失い、妻は死に、フランス革命の余波で、残虐性を嫌と言うほど見たゴヤは、この犬のようにやがては沈んで死に行くのだと言うことなのであろう。犬は、忠実なるものを現し、それはとりもなおさず、スペインに忠実であったゴヤ自身なのだと言うことである。「我が子を喰らうサトゥルヌス」のサトゥルヌスはサターンとも呼ばれるが、ローマ神話の農耕・文化の神である。これはギリシア神話の時間を司るクロノスと同一であり、自分の子ゼウスに主権を奪われるとの予言により、生まれた子を次々に飲みこむが、難を逃れたゼウスにより、冥府に幽閉されるというギリシャ神話に基づいている。時の神「クロノス」の時とは、生まれてはやがて消えゆくものである事、そしてゴヤ自身もやがて消えゆくものだという退廃思想の絵ではないだろうか。最後の「ボルドーのミルク売り娘」は死の直前に書かれた作品で、画面左上から右上にかけて黄色から青緑色へと変化する繊細な朝の陽光の描写を始め、横顔から捉えられるミルク売りの少女の生命感に溢れる様子、身に着けるやや肌が透けた肩掛けの複雑に構成される色彩、画面下部のスカートに用いられる濃紺と陽光との対比、そして自由闊達な筆触や、おぼろげな形状描写などに示される表現的特長は、宮廷画家時代のゴヤの表現様式とは明確な差異を確認することができる。この作品が、後の印象派への架け橋的役目を担うのである。ゴヤほど、多彩で、広汎な絵を描いた画家はいないのではないかと思わせるほど作風が、多種である。来月からは印象派の講義と移りゆくわけだが、印象派がいかにして生まれてきたかが今まで以上に分かる気がしてきた。次回からの講義が待ち遠しい気分である。
2010.03.05
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「青春18きっぷ」を使って金沢まで日帰り旅行をした。連れ合いが、かねて仲間から聞いていて、通常の料金の半額程度でいけるという、「青春18きっぷ」を使って、急に金沢を往復することになった。この切符は、期間限定であり、しかも、5回が1セットで販売されている。2人連れで、金沢を往復すると、往復で4回分を消費し、後1回分が残るという寸法である。さらに、特急や急行には乗れない仕組みだ。金額は11500円であり、名称から、「18歳以下しか使えない」と思っていたが、どうやら年齢制限はないらしい。従って、近年は余暇を楽しむ中高年(即ち、停年を過ぎた人や、おばさん連中)の利用も増加しているとのことだ。元々は、青春のびのび切符と称して、主に学生などが休暇期間中に利用が出来るようにとの計らいで、JRが売り出した商品なのだそうである。因みに、通常の金沢往復の料金は、片道普通運賃は、4310円であり、2人で往復利用すると、この4倍の17240円となり、さらに1回の片道分が、余ると言う計算になるわけだ。仮に、残った切符を使ってまた一人が金沢に片道行くという計算なら、通常は4310円×5=21550円となり、11500円/21550円=0.53と大略半額と言うことになる。この計算は金沢が目的地であるが、もっと遠くで、宿泊するつもりであれば、宿泊料金を度外視すれば、普通電車の終電が走っている所までいけるわけだから、この割合はさらに大きくなるわけだ。一寸ついでに計算してみると、目的地を仙台と仮定すれば、我が家の最寄り駅から仙台までは、朝5時27分の電車に乗り、総走行距離896kmを山陽本線→東海道本線(含特別快速)→京浜東北・根岸線快速→常磐線→東北本線を乗り継いで仙台着は22時04分着となる事も可能であるわけだ。さて、今日は金沢まで、241kmを一日で往復、金沢では要所を見学するという計画で出かけた。始発の5時04分発に乗る為に、4時前には起きて用意した。私は、何時も朝は早いので、何ら普段と変わらない。連れ合いは、遊びとなるとこれも早いのは平気だ。無人の島本駅から、乗客もちらほらの始発電車で取り敢えず京都へ向かう。京都着5時21分で乗り換え時間は9分で、東海道本線米原行きが、5時30分発である。この頃になると、どうやら青春18きっぷ組がちらほら見える。湖東を走り、安土を過ぎる頃やっと空が白み始める。能登川を過ぎ、河瀬駅は意外に大きな駅だ等と新しい発見をしながら車窓を眺める。まだ行ったことはないが、幕末、「安政の大獄」の井伊直弼の居城である彦根を過ぎ、米原には6寺36分着だ。ここでの乗り換え時間は14分ある。ゆっくり東海道線から外れて、ホームを変えて、北陸本線に入る。米原6寺50分発で、急にローカル色豊になる。長浜を過ぎ、字こそ違うが、同じ読みの高月に着くと、降車する人が結構いた。右手には、おそらく伊吹山の流れであろうか、雪でまだらになった山々が見える。余呉に来ると、連れ合いの友人にサイクリングが好きな人がいて、余呉湖の周りは良いところだ等と話ながら車窓から余呉湖の一角を見る。湖西線との分岐点である近江塩津を過ぎると、すぐ敦賀である。敦賀着7時37分で完全に夜は明けていて、出勤客も乗り込んでくる。敦賀は、小浜線との分岐でもあり、次ぎに乗るホームは同じなのだが番線が4番から5番と変わり、ホームの前方の方まで移動である。思ったほど車内は混み合わない。何せ、出勤とは逆方向だからと考えていると、馬鹿長い北陸トンネルに突入だ。およそ10km以上はあろうかという長さだ。トンネルを出ると、川端康成ではないが、そこは「雪国」だった。畠一面が真っ白である。しばらくすると、聞き慣れた武生を過ぎ、鯖江を過ぎ、段々と北陸路を実感できるようになる。ダイア改正後の時刻表では、直接金沢まで走っていたのが、現在はまだ、福井で乗り換えなければならない。福井着8時33分8分、ホームが変わり、8分後の8時41分に福井を出た。九頭竜川を越え、森田、春江と続けての駅はまるで人の名前のようだ。この辺りの東側には、永平寺があるのであろう、看板に永平寺の名前が見える様になる。この辺りを過ぎると温泉郷に入る。芦原温泉を過ぎ、加賀温泉駅では左に大きな観音像が建っていた。どうもこういった趣味の人が多いようで、何ともそぐわない感じである。加賀温泉の次は「動橋」と書いて「いぶりはし」と読むらしい。珍しい名前だ。「石動」(いするぎ)と言うところもあるので、こう読めないこともない。粟津温泉や片山津温泉のある粟津はコマツの工場がある企業城下町である。友人が一時ここで働いていた頃に1度来たことがあるのを思い出した。しばらく走って、10時10分やっと金沢に到着した。早速観光案内所に飛び込み、今日一日効率よく金沢観光する方法を聞いたが、1も2もなく1日何度でも乗降可能な1日金沢周遊バスを紹介してくれた。通常のバス代は、1回200円であるが、この周遊バス券は500円である。少なくとも3回乗らないと元は取れない。パリのカー・ルージュのような感じである。このバスは、12分おきに市内を周遊しているらしく、そのまま乗り続けると1周して元の所に帰るのには45分程度掛かると言うから、少なくとも3台が走っていることになる。後で振り返ると、赤、緑、黄色の信号のようなレトロな小型バスであることが分かった。最初に駅前に到着したのは、赤色のバスであった。これに乗り、周遊の旅が始まった。連れ合いが予め調べていた、ひがし茶屋町までは、バス停の数で、6番目である。浅野川の大橋の手前で降りて一寸奥まったところに入っていくと、お香を焚いたゆかしい店(箔坐ひがし蔵」があり、その中で、思わず土産を買ってしまった。私には、金メッキの亀のお守りのような物で、金運、開運の「銭亀」、幸福を運ぶ神の使い「守亀」、無病息災、長寿の「福亀」と言うことだそうだ。他にもお香や、アクセサリーを買っていた。「お茶屋」とは、、今日では京都の花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のことをいうが、いわゆる、江戸時代の風俗営業と言った名残であろうか。さすがに北陸の小京都と言われるだけあって、京都祇園の花見小路のような雰囲気の場所であった。昔は芸妓が行き交ったりしたのであろうが、今は、ほんの少し街並みが小綺麗である以外には特にどうと言ったこともないところだ。そこから日本三名園の一つである、「兼六園」まではバスで3停留所であったが、何となく、金沢の街を散策とばかり、歩いていくことにした。途中の浅野川は、河の真ん中に道でも造るのかと言うくらいにダンプカーが瀬を作っている最中であった。兼六園に着く頃には折悪く、小雨がぱらつき始めた。雨は覚悟で、傘を持参の旅であったから、差ほど困ることもなく、小雨の「兼六園」もまた乙なものであった。「兼六園」の入場料は、一般は300円となっていたが、前期高齢者以上は無料であるという。証明書を見せて下さいと言われたということは、とてもそんな年には見えないのだろうかと、内心まんざらでもない感じだ。往々にして、年寄りほど若く見られてうれしがるものであるが、正に地でいっている感じだ。桂坂門から入った。優れた景勝の日本の三名園は、金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園であるが、これは、いわゆる日本の風物詩上の代表的な、雪月花を代表して、雪の兼六園、月の後楽園、花の偕楽園との対応から来ていると言われている。確かにここ、兼六園は雪の風情が何とも言えないところだそうで、松を雪の重圧から守る、雪吊りの名残はまだ残っていた。庭の中心に位置する霞ヶ池をバックに写真を撮ったり、計らずも古事記に出てくる、14代仲哀天皇の父である日本武尊の銅像に出会った。まぁ、西洋で言えばアレキサンダー大王が如き武勇の神であったらしく、西南の役の戦死者を祭った記念像だという。園の東南側に回り込むと、13代藩主前田斉泰の母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存している。名所ガイドに載せてあるので、さぞかし良いところかと思ったし、折しも、中では前田家伝来の「雛人形・雛道具特別展」が開かれていた。料金はここでは老人無料とはいかず、1000円を支払って入ったものの、人形は煤けているし、庭は工事中だし、加賀百万石、往時の華やかさは微塵もなかった。雛人形も、京都に於ける公家のそれとはまた違い、武家の人形は、概して質素であると感じた。そして、ここばかりは、今回の旅行の最大の失敗だと、2人苦笑いをしながらも、文句も言わずに出てきた。少し回り込むとそこは梅林で、三分咲き程度に赤や白の梅の花が、これから最盛期を迎えるべく待機している感じだ。そこから時雨亭の横を通り、瓢(ひさご)池の脇を通って、蓮池門から園外に出た。再び桂門に向かい、これで兼六園をほぼ一周したことになる。そこから、下の自動車道路をまたぐ跨道橋を越え、金沢城跡に行ってみた。ここは、豊臣五大老の一人前田利家の居城であったが、宝暦の大火で焼け、その後は、陸軍第7連隊が置かれ、その後も火災があり、陸軍第9師団司令部が置かれたりしたが、戦後は金沢大学のキャンパスとして使われていたようで、私はその頃訪れた記憶がある。その後、金沢大学が移転して城跡から出て行き、今は金沢城址公園として整備をしている最中で、新しい池垣と、真新しい白壁は、空々しい作り物の感じで、ただの公園である。石川門から入ってすぐ右になにやら盛んに建築中の大きな門があったのもなにやら違和感があった。再びバスを降りた停留所で、次のバスを待ち、坂道を1停留所上がると、そこは21世紀美術館前である。名前の通り、近代的な建物は以前テレビで放映していたものであり、その一角で遅い昼食を食べた。しばらく休んで、再び周遊バスで、金沢市の繁華街である、香林坊で降りた。ぐるっと遠回りして、犀川に平行に走った後、香林坊に着いたが、そこは、兼六園の真弓坂門からは直線で何ほどの距離もない位置関係である。香林坊で降りて、武家屋敷の方に向かうと外国の観光客や日本人の旅行客が、ちらほらと散策していた。前田家の中級武家の屋敷あとは既に民家として使われている。土塀の下から半分ほどを藁の薦で覆っていたが、家から出てきた人に聞くと、雪害から土塀を守るためなのだそうだ。一寸早めだが、予定していた所は行ったことになるので、また周遊バスで、一路金沢駅に向かった。予定していた時間より1時間早かったので、駅の案内に聞いて、青春18きっぷで大阪に帰る一番早い連絡を聞くと、直ちにパソコンで出力してくれた。1つ前の電車だと、帰りが約30分早くなりそうなので、そそくさとその指定された列車に乗り込んだ。勿論抜け目なく連れ合いは美味しそうな弁当「前田利家御膳」を買ってきてくれていた。構内放送では、下りの電車が遅れているという。サンダーバード26号は55分の遅れだというので少し気になったが、どうやら風が強く運転を1時止めていたようだった。金沢発15時26分の電車は、福井止まりである。何と福井では、48分も待ち合わせ時間がある。連れ合いは、その間に、またお土産を買いに降りたようだ。そこから敦賀に向かう電車は、よく見ると元は寝台車として使っていた名残が見えた。敦賀でまた乗り換えだが、敦賀からは新快速に乗れそうである。多分通勤の引け時だから込むに違いないと、連れ合いはしきりに気をもんでいたが、敦賀での12分間の乗り換え時間を行きと同じく駆け足で、京都行き快速乗り場に行くと、何とがらがらで、ちらほらしか乗客はいなかった。良い意味で当てが外れたのはラッキーだった。帰りは新快速で、小さな駅は飛ばすので、快適である。また長い北陸トンネルを越えて、聞き慣れた駅名が戻ってきた頃には京都に着いた。そしてわが町に着き、家に着いたのは21時半を少し回っていた。初めての青春18きっぷを使っての日帰り旅行にしては、スムース且つ楽しく行って帰って来られた。長い時間鈍行での旅行だし、朝は早いし、乗り換えは多いしで、疲れるかと思ったが、それほどでもなかった。
2010.03.04
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今日連れ合いには仕事がある。姉の友達が、久しぶりにゴルフをしたいという事で、天気予報を睨んでいたが、どうやら晴れるらしいと言うことで、今日3人で一庫に出かけた。朝9時22分スタートだが、だいぶ早めに家を出た。一寸の違いが、交通混雑を避けてスムーズに走れるからである。しかし姉の家に、あまりに早く着きすぎたので、姉の家の前でたっぷりと柔軟体操やストレッチ等をした。姉の友人をピックアップして、一寸余裕を持ってゴルフ場に着いた。パター練習も少しだがやる時間もあった。前の組は男性4人組で、スタート時に、垣間見ると先ずは普通だと感じたが、我々がスタートしてからは、前が詰まると言うこともなく、結構スムースに進んでいた。後続は、3人で、男性1人と女性2人であったが、皆そこそこの腕で、結構早く付いてきた。私は相変わらず、出だしの第1球は、どこに飛んだか分からない。比較的快音だったので、前方に飛んでいるだろうがと思うが、見つからない。姉は元より、その友人も目が悪いこともあり、他人のボールを見ようともしないわけで、勿論、全然方向さえ知らせてくれない。彼女達自身の打球も見えていないのであるから仕方ない。そんな中のスタートで、私は3つのボールを皆見ておかなければならない。「私の球はどこ?」と私をキャディと思っているかの如き言動に時々イライラするがこれも、老人孝行と割り切っている。しかしながら、自分が打った球が、何処に飛んたか分からないということは本当にフラストレーションが湧くものだ。周りを気にしているからという言い訳ではないが、時々ボールから目が離れて、トップしたり、ざっくりしたりする。このゴルフ場は狭いので、すぐOBになり、OBもどれくらいだったのかを確認しようとしてもなかなかボールは見つからない。しかし時には、OBした谷に降りていくと何個か新しいボールを見つけることができる。今日のティーショットは少し上に上がりすぎの感はあるが、概して狙い通りの所に飛ぶ。しかし寄せのアプローチクラブで2度ほど失敗した。雨上がりのフェアウェイは湿っていて、且つ芝も綺麗でない為、ざっくりと打ち込むのが怖いのでトップが多くなってしまう。ミドルアイアンは、選んだ番手ほど距離は飛ばない。どれで打っても同じという、結局は当たりがさほど良くないのである。一見広そうな打ち下ろしパー3でも、少し引っかけるとグリーンにはとどかず、アプローチで打ち損なって、上がってダブルスコアだったりする。打上後左ドッグレッグの7番ホールでは、1打目が一寸短めで、2打を木越えで狙おうとした時に、姉の友人が前方の自分の球を確認しようと視界に入る。歳を取ると我も我もで、他人のことや、周りの状況が読めなくなるようだ。前方に歩いていくのは良いのだが、後ろを一切気にせずぬすたすた歩かれると、私もどちらかと言えば方向が定まらないので、勢い声を出すが、普通の声では聞こえないのだ。気づかせて、よけさせるのもまた私の仕事である。後半の10ホール、あの苦手の2打目から打上では、少し問題があったものの、ボギーで上がれた。当たりは良くないが上がって見ればパーとか、その次ぎ、そのまま行けばいいのに、ティーショットで相当スライスし見えるところにボールがないこともある。OBである。自分で打ち、自分で軌道を追うのだから、少しヘッドアップ気味になる。一寸短めのサービスホールでは、初球は、フェアウェイの筈の当たりが、見えなくなった。どこか木に当たって跳ねたのかも知れない。次の名物ホールの谷越え、その後打ち下ろしでそこから左ドッグレッグの15番ホールでは、ティーショットは惚れ惚れするような当たりであったが、2打目考えられない右へOBだった。その後のショットではパーは間違いないとまで思ったのだが・・・。その後、ボギー、ボギーと上がり、最終18番では、会心のティーショットにも拘わらず、2打目をダフリ、3打目はこれまた会心のショットであったが、その後の上がりの砲台グリーンには、ほんの少しとどかず、傾斜がきつく壺のような下まで落ちてきた。そこからグリーンのフラグも見えず、打った球はバンカーへ、1度では出ずに、終わってしまったら、トリプルボギーだった。前半最後の方からは、ドライバーはまずまずの当たりで、ミドルアイアンが課題であることに間違いはないが、寄せのアプローチが全体に短めだったり、トップしたりと明暗を分けた。後何年、クラブを振ることが出来るのか、今燃えている姉と、その友人を見ながら考えてしまうが、私の場合は、少なくとも後10年は振れるだろうと言うことだ。湿っぽく芝生も手入れが行き届いていないフェアウェイ、修理地が多く球の移動が激しいフェアウェイ、ベントと言えば聞こえが良いが、何ともじっとりとしたグリーン、砂質が固く、岩のような小石が含まれているバンカー、工事で掘り返したままのグリーン周りの溝。これで良くも会員募集というのだから驚きであるが、安いし、比較的近いので、何となく通ってしまう気安いゴルフ場である。3月3日のおひな祭りに、老人3人が、コースを回ったわけだが、大概老人が多い中、今日は平日なのに、若い男性や女性をの組があったことに驚きをを感じた。取り敢えずは、けがもなく、時々曇りながら晴れた日であったことがラッキーであった。
2010.03.03
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日経新聞連載の十選で、「だまし絵名画」というシリーズがあった。中央大学の山口教授が選んだ10作である。(以下、敬称を略し山口とさせて貰う)だまし絵には実に様々なものがある、私も何度か目にしたことはあるが、それ自体で展覧会があるなどというほどポピュラーであることを初めて知った。元々だますつもりで書き込んだのもあれば、必ずしもそうでないものもあるようだ、山口が選んだ最初の絵は、レオナルド・ダヴィンチの「モナ・リザ」である。この絵は連れ合いとルーブル美術館を訪れた際に広い部屋にあり、大勢の人たちが見ていた小さな絵である。パリでもこれほどの人だかりかと言うくらいに多かったので、通常の絵のようにすぐ傍で見ることは許されず、2-3mの縄張りの外から、拝ませて貰ったものだ。(しかし我々は早朝の開館早々2回目にルーブル美術館を訪れた時には客も少なく、ほぼ独り占めできたのであるが)山口は、絵画そのものが、3次元の世界を2次元化して表現していることから既に、「だまし」の芸術であるという。面白い観点であると思った。だからこそ、その昔、私の絵について、連れ合いが、遠近感のない絵だと言ったのだろうか。キャンバスという物理的に2次元のものに3次元を書き込むことに絶対的に無理があるわけだが、そこに、遠近法を採用して、いかにも奥行きがあり、遠くのものは小さく見えるといった風に写実的に3次元を再現しようとしたのであろう。山口は認知心理学(cognitive psychology)の視点から解説をするという。認知とは、事物や事象について知ったり、またその過程のことだという。したがって認知心理学の対象は知覚、注意、イメージ形成、判断、記憶、推論、問題の発見と解決、言語の理解と発話、学習など「知」(cognition)に関連する諸過程が中心になる。即ち物理的現象の認識が主であったと言うことだろう。しかし近年では、心的活動の「情」(affection)的および「意」(conation)的側面もその中に入ってきており、人間の精神的・肉体的諸活動の基礎にある内的メカニズムを理解すること含めるようになってきているという。絵を見ての感動し、「あぁ、いい絵だな」という、心惹かれる絵とは何だろうかと連れ合いと話したことがあるが、簡単に「もう一度みたいと思う絵」という一面もあるわけで、ただ、有名だからだとか、皆が騒ぐからといった理由ではなく、これを認知学的に言うならば、「情」なり「意」を刺激するからなのであろう。俗に「あばたもえくぼ」とか「蓼食う虫も好きずき」などと言うから、各人各様にその刺激される対象は違っているはずである。しかし、レオナルド・ダヴィンチの「モナ・リザ」が世界中の人から評価を得るのは、人というものの基本的DNAはほぼ同じで、末節の部分が、多少違っているからだと私は思う。山口は、「モナ・リザ」がどこの位置からでも見る人の方を見ていて、その視線から逃れられないということを挙げている。このような例は、日本でも各所にあり、昨年歩こう会で訪れた、堺市の南宗寺でも、狩野信政の筆による、重文の仏殿天井の「八方睨みの龍」もそうである。迫力のある龍の目は、どの場所から見ても、見る人の方を見ていると感じるわけである。絵画の視点の行く先は曖昧であり、それを画家は故意に使うのだという。つぎのアルチンボルトの「ルドルフ2世」は顔と上半身を野菜や果物で顔を構成していて、心理学上も有名な絵であるようだ。一見すると変な顔だが、どことなく威厳のあるような顔である。鼻がひょうたんのような物であるとは、一見して思わない。顔と見るのが妥当なこの絵も、脳に障害のある患者には理解できないのだそうだ。意味は違うが、「ロールシャッハ」テストのようなものかも知れない。歌川国芳の「みかけはこわゐがとんだいゝ人だ」は顔をいろいろなポーズの人間の体で表現している。これなどは、変な絵だからじっくり見ると確かに人が寄り集まっていることが容易に分かる。この絵は、私にはだまし絵と言うにはあまりに開けっぴろげだと思うのだが。先の、アルチンボルトの「ルドルフ2世」と似たジャンルであろう。次にフランス西南部の「ラスコーの壁画」が取り上げられているが、ラスコーの無数にある壁画の内の1つである黒い牛の絵が取り上げられていたが、この描き方には既に遠近法が用いられていて、山口は遠くの馬と手前の牛を取り上げていたが、他にも、手前の黒い牡牛の角が長く描かれ、奥の角は手前の角より短く描かれていると言った具合である。これがだまし絵というジャンルに入るのか否か疑問だが、1万5千年前から既に遠近法が使われていたことに驚きと、感動を感じる。現在では映画「アバター」が3次元の映画として有名であるが、これなども、認知心理学の、「情」なり「意」を刺激しているのだろうか。さらに、次は、ゴッホの「アルルのゴッホの寝室」である。山口はこれを見てなにやら居心地が悪い気分になると書いている。確かにこの絵は遠近法をデフォルメしているのは違いない。成人してからの私にはこのような絵は描けない。確か昔(高校時代)の絵はこんな構図だったのかも知れないと思っている。ゴッホの絵だと言うからうっとりするので、私が描いたと言うことなら、全く評価は受けないだろう。しかし、虚心にこの絵を見ると、なにやら情感に訴えるから不思議である。ルネサンスや、写実主義をブレークスルーするとこういったことになり、今まで評価されなかった、「情」や「意」が心を打つのかも知れない。スーラの「化粧する若い女は」遠目には何と言うこともない絵である。山口は、右腕の明暗の肌を挙げているが、私は何故、木製のピノキオのような左腕を描かれたのかが不思議だ。さらにこの絵は、スーラ独特の点描であり、その点が面白いと言うことだろうが、これなど、ディジタルカメラやディジタルテレビのドット数の荒いものとして見れば、差ほどの感動的でもない。ただ手書きであると言うところはすごいと思う。ピカソの「泣く女」はピカソならではの表現である。キュビスム創始者であるピカソは、旧来の伝統的ルネサンスや、その後の印象派をも打ち破った作風を確立した。横顔と正面顔が同居した、この「泣く女」は顔であることを認識させると同時に、顔の持つ多面性を表している。山口は、この絵は生後5ヶ月の赤ちゃんには横顔が顔に見えないと書いているが、果たしてどうやってそれが認識できたかという方に私は興味がある。クレーの「駱駝」は、私にとって何ら興味が湧かないのでパスするとして、次のマティスの「赤い調和(赤い食卓)」テーブルクロスと壁が模様入りの同一の赤い色で描かれている。テーブルに置かれた物、一寸した直線やテーブル脇のクロスの端のたくれた表現が無ければ、壁とテーブルの区別は付かず、だまし絵的である。最後の印象派に疑問を持ち、抽象派を開いたカンジンスキーの「コンポジション8」など、私には全くと言って理解できず、論評を加える術さえ知らない。どこもかもが隠し絵のようで、カンジンスキー自身が、隠し絵的ではないかとさえ思う。私には、古典からせいぜい印象派までが、理解できる限度かも知れない。最後に、だまし絵で私が好きなのは、可憐な少女が向こうを見ているその耳が老婆の目に見えるという作品や、「婚前・婚後」という絵で、婚前のにこやかに向かい合う2人の顔が、上下180度回転すると、いがみ合う2人になるという類のものである。だまし絵もこうしてみると結構奥が深く、面白いものであることが分かる。
2010.03.02
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もはや2月は過ぎ、3月になった。毎年この頃になると「1月は行き、2月は逃げる、3月は去る」と言いながら、時の移ろいゆく様をことさらに言い立てるのであるが、特に、1月から3月までの時計の針が特に早く刻んでいるわけではない。私なりには、1月は、やれ大晦日が済みやっとくつろいだ正月気分で居たのに、もう出勤、もう1月も終わりかという気分からであろうか。2月は、28日と閏年でもなければことさらに他の月と比べて短く、逃げるように言ってしまうからそういうのだろう。3月は、卒業のシーズンでもあり、就職活動の詰め(今や、それでは遅いか)でもあり、4月からの新学期の準備や何やらで、これまた、去って行く感じなのであろうか・・・。誰でも感じることだが、何故、2月だけが28日(閏年でさえ29日)なのかと言うことだ。調べてみると、諸説あるようだが、最も納得のいく説明は、次のようなものである。現在使われているグレゴリウス暦の元はかのローマの終身独裁官で、我があこがれのユリウス・カエサルによるユリウス暦を元にしている。その時、すでに1年が365日と4年に1日の閏日で暦が成り立つことが、天文観測などで分かっていたようで、1年を12分割するのに、奇数の月は31日、偶数の月は30日にすることとした。この頃は何故か3月が1年の始まりであったことから、単純に、3月=31日 4月=30日 5月=31日 6月=30日 7月=31日 8月=30日9月=31日 10月=30日 11月=31日 12月=30日 1月=31日 2月=30日??と定めたのだが、ここで2月を30日にすると1年が366日になってしまう。そこで、閏年の2月は30日にするが、平年は29日にし、つまり1年の最後の月で調整したわけだ。このとき、そしてカエサルは自分の生まれた7月に自分の名前を残しました。5番目の月と呼ばれていた月をジュライ(ユリウスの英語読み)と改名したようだ。そしてこの時、更に年のはじめを、それまでの3月ではなく1月に変更し、このため月の名前と実際の順序とが2つずれてしまうことになった。とここまでならまだ良いのだが、カエサルの後継者で初代ローマ皇帝アウグストゥスも、同じように自分の名前を自分の生まれ月であるの8月に付けて残したいと思い、6番目の月と呼ばれていた月をオーガスト(アウグストゥスの英語読み)と改名した。さらに、困ったことに、8月は30日の月だったのだが、アウグストゥスの自尊心からか、自分が生まれた月が30日しかないのは不愉快だと思い、8月も31日の月にしたわけだ。すると、7月と8月は続いて31日となるので、それはまずいと、修正しようとして、次のようにしたわけである。1月=31日 2月=29日??3月=31日 4月=30日 5月=31日 6月=30日 7月=31日 8月=31日9月=30日 10月=31日 11月=30日 12月=31日2月が30日(閏年)から29日(閏年)になったのは、アウグストゥスに1日取られた分のしわ寄せで1日削られた訳である。何故か疑問に思っていたことが、これですっきりしたのだが、これは当初から考えると不規則で、昔我々が30日の日を「西向く士(にしむくさむらい)」覚えなければならないのは、彼らローマ時代の皇帝のせいなのだということである。話は変わるが、日本人は祭りがとても好きな民族である。世界中にも有名な祭りは沢山あるが、キリスト圏では、宗教がらみか、収穫祭などが主であるし、イスラム圏では、「アーシューラー」などが頭に浮かぶが、日本人は、「国家の安泰」「天下太平」「悪疫退散」「五穀豊穣」「大漁祈願」「子孫繁栄」「家内安全」「福寿増長」等と多彩である。しかし、不思議なことに、自然の力(地震など)を鎮める為の祭りは少ないようだ。(地鎮祭などはあるが)ハイチやチリの地震の後でもあり、また日本でも遠からず東南海地震が来ようとしている折、この際、もっと、自然災害に対するお祭りを増やしたらどうかと思う。お祈りするだけなら、神様も、何もしてやれないからと言う理由で怒るわけではないだろう。こういった日本の祭りは、1,2月と8月に多いようだ。秋や暮れの祭りもそこそこ同じくらいにあるようだが、1,2月の方が多いと言うことで、逆に言えば、祭りにかまけている内に、はや、1,2月が終わっていると言うことなのかも知れない。二十四節季流に言えば、雨水の末候で「草木萠動」と草木が芽吹き始めるころである。木の目立つ時でもあるわけだ。そして数日すると、「啓蟄」初候の「蟄虫啓戸」となり、冬蘢りの虫がもぞもぞと出て来る季節が来て、やっと春本番と言うことになる。過ぎし日を惜しむのではなく、来たる時が楽しくあるように、心がけていきたいものである。朱熹の七言絶句に「少年易老 学難成 一寸光陰 不可軽・・・」とあるが、今、既に老いてしまった私にはもはや学など成り立たなくても良いのだろうか。確かに、「一寸光陰 不可軽」ではあるが、遊び呆けることをもって、軽んじていないと言うことでもあるまいと戒めている。日本では1月を睦月と呼び、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとする他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説があるそうである。また、2月を如月と呼び、絹更月、衣更月と書くこともある綴ることもある)と呼び、由来は諸説有り、2月はまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)を更に着る月であることから「衣更着(きさらぎ)」とも言うらしい。そして今日から3月、弥生の月である、弥生は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力だそうだ。ローマ時代から言えば、今日が1年の始まりでもある。心新たに時を無駄なく過ごしたい。
2010.03.01
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