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高校時代のバスケットボール部OB会に出かけた。現役選手は1日中練習をしているというが、OBが集まって、交流試合をするのは13:00からと言うことだった。私は先輩に誘われて、幹事の役割を仰せつかっているので、早めに行くことにしていた。我々同期は今年で66歳になる。私が世話役をやっているので、特に用のない友人は、来てくれる。第1回目のOB会と懇親会は立ち上げ時のご祝儀もあってだろうが、60人くらいの人が集まった。今回は、出欠を取ったわけでもなく、ただ案内を出しただけだから、出席者はその場でしか分からない。私と先輩は13:30に学校に行くということで、待ち合わせて同行した。学校に着くと、同期の友人2人は、13:00には既に体育館に来ていたとのことだった。同期の友人の内ただ一人は、バスケットボールのスタイルに着替えて、ドリブルやシュートの練習をしている。これが前期高齢者かと思うくらいに元気なのである。もう一人は、ゴルフを共にするが、もはやバスケットボールは出来ない。私と同じである。自分たちが現役の頃を回想して、現在のような体育館があればどれだけ良かっただろうかと話し合った。当時の体育館は、剣道も、バレーボールも使うという過酷なスケジュールもさることながら、とにかく狭く、床は、一部根太が無くなっているのか、そこだけはドリブルのボールは上がってこない部分もあったほどだ。今日は酷暑ギリギリの暑い日であるが、昔もこんな日に炎天下の露天で、ダッシュと称して赤土のコートを縦に何回か走らされたり、兎跳びとやらをやったり、とにかくしごかれたものである。それでも誰もコーチを恨むでもなく、ぶっ倒れてバケツで水を掛けられ、再び走ると言うことをやっていたものだ。現在の学校で、そんなことでもしようものなら、おそらく父母が飛んで来て大問題になり、悪くすれば、担当教員は厳重注意と言うことになるだろう。私の見ている時も、やはりばてた生徒が二人、コートを離れ、風通しの良い出口で休んでいた。そんな風景を見る度に、自分たちはもっとしごかれたなぁと思い出すのだ。しかし、当時の担当教諭は、顧問という名前であっても、直接生徒をコーチすることはなかったが、その分勤め人の先輩が、コーチしてくれたり、大学生の先輩が来てくれたりしていた。そこには、先輩と後輩の絆というか、信頼関係が出来上がっていた。今はと見てみると、恒常的にコーチをしているのは担当教諭であり、若いOBは時々来る人がいるようだが、時々こういったOB会がある時に来るだけというような接し方である。私が着いた時には、若いOBと現役選手(3年は引退)が試合をしていた。大学などで引き続きバスケットボールをやっているものも居て、若いOBのボロ勝ちであった。これも自分たちの時代と比べると全く逆であった。現役の方がOBを負かすことが多かったのだ。オールドOBとでも言おうか、その中に入って、わが同期の65歳が走るのである。それより若い高齢者は、1周り若い人で、今でも市の大会などに出ているのだという。コーチの先生も再来年停年といいながらオールドOBに混じって走っている。もちろんシュートが入るわけでもないし、そうそう飛べるわけでもないが、ただあのコートを往復して走っている様を見ると、感心せざるを得ない。途中で、懇親会の出席人数を調べて歩いたが、なかなか参加する人はいないというか、集まるOBは少ない。会長を引き受けた男も、会計を引き受けた女性も、また幹事になっている面々も一人も姿を見せない。以前から苦々しく思っているのだが、何の断りもなく、勝手に休むので、会計の引き継ぎも出来ず、いい加減で腹立たしい。普通の社会人ならば、上手な嘘でもついて、来られないと言うことを伝えるだろう。ところが、日本の模範となるべき中学・高校の先生がその大人の約束事というか、礼節を守れないのである。如何に橋下がまくし立てようとも、生徒を指導する立場の先生が、こういった普通の常識が守れないのであるから、推して知るべしである。その会長は、忙しいと言うことらしい。世の中に忙しくない社会人が今時居るわけがない。植木等の時代ではないのである。よしんば、忙しいとしたら、会長を引き受けなければ良いではないか、また引き受けて、当日忙しいのならそう言い伝えれば良いではないか。そんな誰が考えても当たり前のことが、教頭になろうか(なりたいと思っているだけか)という先生だから驚きである。私は、無性に腹が立っているが、その男は、我が校の同窓生で、後輩なのである。先輩、後輩ととやかくうるさいことを嫌う世の中になっているが、先輩をなめているというか、そもそも先輩などとは思っていないという感じである。我々の時代は、企業に入っても2-3年年長の人が直接の指導をしてくれるシステムになっていて、その人を通じて、会社をある程度知るオリエンテーションになった。学校はどうやらそうではないらしい。ジェンダーフリーとか言って、男女も同権であるのはもちろんだが、一人一人の人格が、尊重されすぎているのではないかと感じられる。こういうと、教師である連れ合いなどは、それは、その人の人格によるのだといい、男の人間性が欠如しているのだというが、余程野放図に生きてきたに違いない。結局OB会の懇親会に集まった人は、男女の担当教諭を含み23名であった。そのうち、学生会員を除くと、12名という事で、一応の会合にはなったが、私なども40歳も違う学生会員と話が合うはずもなく、輪の中に入り話を聞いたが、一方的に喋る方が多く、時々、「説教しているようで悪いね」などと、断らねばならない始末である。中には、私の大学の後輩学生も居たようで、「次回は、仲間を連れて、また来てくれよ」と言うと、案外「そうします」と素直な答えが返ってきた。若い頃には、自分もなかなかこういった同窓会や、OB会に出かけるのは億劫だったから、気持ちは分からないでもないが、約束したことが守れない男も、女もいるという現実をかみしめる度に、先輩―後輩という関係を度外視しても、情けない気持ちで一杯になった。私の同期は4人集まっていて、他の年度を圧倒していたのは喜びである。若い頃は何とも思わなかったが、皆が元気でいることがこれほど大切なことかと言うことをこの歳になって初めて感じたわけである。
2010.07.31
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以前に前売りを買っていたボストン美術館展に連れ合いと2人で出かけた。美術館に行くのは、5月末に東京の三菱第一美術館でのマネとモダンパリ展と国立新美術館でのオルセー美術館展以来の事である。東京に行った時には、高校時代の同級生も数名集まってくれてミニ同窓会ということにもなったので大変有意義であった。今回は、地元の京都市美術館での開催であり、何時でも行けるという気安さから、先延ばししてきた。チラシには、ゴッホの「オーヴェールの家」とレンブラントの「ヨハネス・エリソン師」そして、モネの「アルジャントゥイユの自宅の庭のカミーユ・モネと子供」が誘いかけている。これらを含めて80点ばかりが展示されているという。今日も暑いけれど、前の1週間に比べたらまだ凌ぎやすいと思い、出かけたのだが、京都河原町で地上に出ると、京都独特の蒸し暑い熱気がむっと迫ってきた。京都は、いろいろ思い出の地であるが、盆地になっているために、冬は寒く、夏はまた蒸し暑いのである。平安時代、何故に京に都を移したのかと、底冷えの冬や、今日のような蒸し暑い夏には思ってしまう。夏ばてを防ぐために、土用の丑の日には鰻を食べるという習慣があるが、毎年、夏の暑い日は、段々と伸びてくると言うか、時期がずれてきているようでもある。連れ合いは鰻が好物である。今日こそ食べようと、目当ての店に入った。大満足で、場所を変え、前に来そびれた抹茶を振る舞う店に連れて行ってくれた。一服の抹茶は、疲れと眠気を覚ます効果があるようだ。昨日の雨中のゴルフで、心身ともに疲れていた身体にやっと活が入ったようである。バスに乗って、美術館に向かった。ここら辺りは、良く来るので、慣れたものである。寂れた「京都市美術館」の銘板がそのままで、何とかもう少し手を加えて欲しいものだという感じがする。館内に入るとどうやら8つのブースに別れている。最初は「肖像画」のブースで、16世紀のイタリアのモロー二の作品から19世紀のピカソの「女性の肖像」までが掛けられていた。美術の講座で習ったが、芸術は、元々イタリアが発祥のようで、16世紀はイタリアの画家が多く、それが17世紀にスペイン、フランスへと伝搬していることがよく分かる。最初のモローニの「男と少年の肖像」はモデルの威厳を引き出すと言うことで名声を得たとあるように、オールドマスターの典型といえる作品である。最後の方のベルナールの「画家の祖母」は両親には理解されなかったベルナールを助けて、見守ってきた肝っ玉おばあさんという風格が良く出ていて、ベルナールが余程信頼していたのであろう事が感じ取れた。最後のピカソの「女性の肖像」はキュビズムの真っ直中という感じで、私にはとうてい理解することは出来ないのだが、何となく、雰囲気を持った絵であることや色遣いなどが心に残る作品である。次のブースは「宗教画」でやはり筆頭は16世紀から17世紀にかけてのエル・グレコだろうか。「祈る聖ドミニク」は愁いに充ちた顔で手を組み祈っているのか横を向いている姿は、エル・グレコ自身の生涯をも投影しているかのようである。今回展示された中で、唯一ギリシャ生まれの画家であった。 35歳で夭逝した、ドミニコ・フェッティの「改悛のマグダラのマリア」は娼婦でありながら敬虔な信者というマリアをダイナミックな筆致で描いていた。連れ合いは宗教画にはそれ程興味を示さないが、ブーグローの「兄弟愛」は女性に抱かれた幼い兄弟が、可愛らしくキスする場面を愛らしく捕らえているのを見て、暖かいものを感じたようである。ミレーにこんな絵があったのかという「刈り入れの休憩」は、フランス農村の風景に我々にすっと溶け込ませてくれる。この作品はサロンで二等賞を獲得したという。3番目のブースは「オランダ室内」で、フェルメールに繋がる、ウィッテやホーホの作品が4点ほどあった。4番目のブース「描かれた日常生活」では、カミーユ・コローの「鎌を持つ草刈り人」「花を編む少女」19世紀初頭のフランスの農民の姿を表情的にも良く捕らえていると思う。後者の少女は「真珠の女」を連想させる少女像だが、背景に描かれているメディチ家繁栄の象徴のヴィラ・メディチはその後フランス・アカデミーの本部になったということである。アカデミーで一等賞を取ったというミレーの「馬鈴薯植え」は一目でミレーの作品であると言うことが分かる。牛馬に例えて申し訳ないが、牛や馬は常に地面に頭を下げ、草を食んでいると同じように、ミレーは農地に常に俯せるように農民を描いているような気がする。ミレーを観ると、フランスは農業国なのだと言うことを改めて思い出させる。ドガといえば踊り子と反射的に出てきていたが、「田舎の競馬場にて」は時々見かける一寸気になる絵画であった。その本物に出会ったが、想像していたよりも小振りの絵であった。この絵は、ドガとしては珍しい屋外での作品であるが、競馬に象徴される上流社会の家族愛的なものがテーマであるのだろう。ミレーとは正反対の社会風俗を垣間見られる作品である。モネの「アルジャントゥイウの自宅の庭のカミーユ・モネと子供」は恵まれた家庭のモネの家族を華やかに描いたものだが、私としてはさほど感動的でもなかった。第5ブースの「風景画の系譜」は私が好むブースだった。ライスダールやコローの作品はよく見る風景だ。コンスタブルの「ストゥア谷とデダム教会」は秋の壮大な風景を描いていて、気持ちが晴れる気がする。コンスタブルやカナレット達が活躍した18世紀は、ボストン美術館には作品が少ないのか、絵画の氷河期のように画家の数も少ない。巨匠の中には挙げられていなかったが、ラ・ペーニアの「祭りに向かうジプシーたち」は現在ではロマと呼ばれているが、放浪の民として、インド北部から東欧諸国などに拡散した民族であり、自然の中に溶け込み生活する彼ら民族を象徴的に描いていると感じた。さりげなく描かれたコローの「ピアッツェッタ、ヴェネツィア」は我々も見知っているサン・マルコ広場の昔を描いており、ちょっぴり懐かしい気がした。第6ブースの「モネの冒険」はモネ一色だが、私が気に入ったのは「ブールビル、ラ・カベの道」で、山の小径に挟まれた遠方の三角形に描かれた遠景の海の広がりには和みを感じた。同じく「小クルーズ川の峡谷」も心打たれるものがある。後者は、モネの作品とは感じられないほど、筆致がゴッホ的であったが、山肌と、一寸急な川の流れの調和が何とも言えなかった。この絵は、遠く離れてみる方が尚良いように感じられた。「アンティーブの古城」は幻想的な、少し霞んだ古城が、海と空、それにこれが何とも言えない冠雪の山並みに浮かんでいる様子は一度現地に訪れてみたいという思いがした。第7ブースの「印象派の風景画」ではピサロの「ポントワーズ、冬のジゾールへの道」、シスレーの「サン=マメス、朝」の眺望がシスレーらしく好きだ。連れ合いはシスレーの「サン=マメスの曇りの日」が構図的に良いと評していた。時に右側の建物と川の流れの調和が気に入ったようだ。わたしは、曇りの空が、少し重く、やはり晴の日の方が良いと思ったのだが。最後の特筆は、ゴッホの「オーヴェールの家々」だ。ゴッホらしい筆致は何とも言えず惹きつける、色遣いも大胆で、華やかさもある。恩になったガシェ医師との交流もこういった風景の中で行われたのかという感慨もある。最後のブースは「静物と近代絵画」だがラトゥールの「卓上の花と果物」以外は、私には理解を超えた作品であった。まだまだ取り上げたい作品は多数あるが、ボストン美術館には想像もつかない45万点ものコレクションがあるという。すごいだろうなと思うと共に、一々見ることなど出来ないだろうなと、ふと、ルーブル美術館を思い出した。
2010.07.30
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昨日の夕方、用事で出かけた時に久しぶりにぽつりぽつりと雨が降りそうな気配ではあったが、昨日まで熱暑、酷暑といわれた日本列島の炎天が、急変するという感じでもなく、少しは暑さも和らぐかといった程度で、歓迎する気持ちだった。朝起きると、外は、しとしとと雨が降っていた。あれ、こんな筈はなかったのにと思いながらも、今日のゴルフコンペに向かった。友人をピックアップして、なんと言うこともなく話ながら、それにしても、さほど激しい降りではないから、今日はやるのかなぁと言いつつ、いつものゴルフ場に向かった。このところの連続の暑さを考えると、少しくらいの雨は、気温も下がりむしろ歓迎かとも感じていた。しかしそれが大きな間違いであることを始まってから知ることになる。貰った組み合わせ表には、アウト、インスタートにそれぞれ4組ずつびっしりと32名エントリーされていたが、都合の悪くなった人や、今日の雨を予期してあらかじめ参加を取り消した人、さらには、出発前にゴルフ場まで来たけれど、今日のこの天候ではと止めて帰っていく人など合計8名が出場辞退となった。その時点でもまだ、傘をさす程度で良いかもしれないとか、やはり、カッパをあらかじめ着ていた方が良いのかなと言う判断に迷うような降りであった。この春には、開始前からの激しい雨で、中止となり、中止はこの会が始まって以来初めての事だと聞いていたが、その時の降りは相当なもので、誰もが中止に反対する人はいなかった。しかし今回は、小雨という範疇を超えていたが、何故か決行と言うことに決まった。我々は、アウトスタートの最終組だったが、第1組目がスタートする時には、既にかなり雨が激しくなっていた。途中で着用するのは面倒なので、カッパのズボンだけははいていた方がよさそうだと言うことで、皆さんに習って、着用してのスタートだった。スタート後は、雨は小降りになるどころか激しさを増す。それでも、やる気になっていたので、第2ホールまでは、いつもと変わらぬ出足で、まずまずだと思っていた。特に第2ホールでは、余り威張れたものではないが、初めてドラ短を取った、2打目の打上げ170ヤードばかりを4Wでグリーン近くまで会心のショットとなり、アプローチも良く、1パットで沈めることが出来た。とここまでは良かった。ところが、第3ホールで、ガードバンカーに入れたのが躓きの最初である。雨で占め固まったバンカーは、通常のエクスプロージョン・ショットなど出来るわけがない。1打で出ず、2打でやっと脱出したもののグリーンには届いてなく、平静さを失って、なんと言うこともない目の前のグリーンに乗らず、7打目でやっとオンする始末だった。その頃からスコアケースに入れていたスコアシートも、雨で濡れ始めスコア自体を記入するのも困難な程になってきた。次のショートホールでは、またバンカーに入れ、詳細は覚えていないが、クリーンに出すことを考え、グリーンをオーバーし、返しもチョロチョロと考えられないミスの連続で、ダブルスコア以上を叩いた。この辺りで、集中力はおろか、気分的にもちゃらんぽらんになり、ゴルフ自体を投げてしまった。更に追い打ちを掛けるように、次のティーショットでは当たりはまずまずと思ったが、誰もボールを追いかけていなかったようで、左に行ったと言うことを頼りに探したが、結局見つからずプレ4からのOB扱いとなった。このホールでは不思議なことに、快音でフェアウェイに落ちたはずの同じ組の人のボールも何故か見つからないのである。皆の気持ちはそちらに集中し、私のボールは忘れ去られてしまった。確か、何処かで、私が探し当てるのを待っていてくれたはずなのに。そのホールではグリーン前の池に放り込むやら、2桁のスコアになってしまった。そんな連続で、上がってみれば、過去最多打数の64という考えられない数字になっていた。ゴルフを始めた頃にはそんなスコアもあったが、最近では、目を疑うような数字だった。あとで、全員の結果を見たら、アウトでこのスコアを出したのは、私一人であった。前半を終わり、スループレーかと思ったが、皆食事を採っている。暑くて汗をかいているだけなら、全てを着替えにロッカールームに駆け込むところだが、着替えても最初のホールくらいは気持ちよくできるかも知れないが、あとはどうせ同じだと思い、そのままプレーを続行することにした。インに入って、少し、気持ちを取り戻そうとしたが、出だし3ホールはダボとボギーのスタートで、まずまずであった。4ホール目のティーショットはまずまずであったものの、2ンドでクリーンな当たりは、左手のOBラインの手前のカート道で大きく上に跳ね上がり、左にキックして消えてしまった。そのホールもメチャクチャ、次のショートホールも藪に入れOB、1つおいて、次のホールでも左へOBとほぼ3つ連続のOBは大波賞の目論見をも消し去ってしまった。それでもティーショットはまずまずの当たりであり、それ程悲観することもなく、上がり2ホールは3パットのダボと、ボギーで、やや元に戻ったものの結果は前半よりやや良かったという程度になってしまった。同じ組の人には、「私はコンペに参加しなかったことにしてください」と冗談を言わなければならない有様であった。このコンペには、ほぼ常連のブービーメーカーさんがいる。いつも歩こう会で一緒になる人だが、期待は、この人を超えブービー賞を頂くことしか残っていない。ところがどういう訳かくだんの人は大波賞を取り、ネットで1打差のブービーではないか。遂に最悪の事態になった。不名誉なメーカーになってしまったわけだ。悪いなら悪いなりに、あのときもう1打を大切にしておけば、良かったのにと考えるのは、こういった終了後の他の人のスコアを見て思うことである。自分に勝つことは難しいことであるが、結局は、ゴルフは自分との戦いである。一緒に回っている人が助けてくれるわけでもない。結果は甘んじて受けなければならない。苦い表彰式ではあったが、唯一のドラ短賞、参加賞などを貰った。友人は、雨の中、不本意な成績とは言いながら当然100を切り、7位入賞(賞品はスイカ)していた。更に当月賞も貰っていた。加えて、当日賞(これもスイカ)である29位を用意されていたが(当初32人のエントリーであったため)該当はなく、全員によるじゃんけんで、これも友人がゲットしてしまった。連れ合いに申し訳が立たないだろうと、そのスイカを私に譲ってくれた。雨のゴルフはこりごりである、長い一日であった。
2010.07.29
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昨今の新聞紙上では、日本の主にプラント業界や商事会社が海外の資源開発や、海外のインフラ整備に参入すべくいろいろ展開をしている。今日の新聞紙上では、企業と地方自治体が連携をして、海外でのインフラ整備への乗り出しが広がりを見せているようだ。今回は水道事業の展開と言うことだが、東洋エンジは大阪市と組んで、ベトナムにおける水道施設建設運営に乗り出し、三菱商事は東京都と、オーストラリアにインフラのノウハウを提供するという。また日揮は横浜市と組んで、インドでの水道事業プロジェクトに参入を計り、国際協力銀行は北九州市と組んで、アジアを中心に水道事業の運営と管理を売り出そうとしている。また、JFEエンジは川崎市と共に、オーストラリアの生活排水リサイクルに参入しようとしている。水ビジネス(水商売ではない)といえば、ウォーターバロン(水男爵)と呼ばれる巨大な水道事業であるフランスのヴェオリア・エンバイロメントやスエズ、イギリスのテムズ・ウォーターなどが挙げられる。アメリカのGEやドイツのシーメンスなどもこの範疇に入る。これら諸外国と比べると、日本の水道事業は、民営化の率が極端に低いのが現状である。というか、フランスや、イギリスに比べると殆ど民営化されていないと言うことだ。しかも水事業というものは上水道から下水道に至るまでの一貫した管理運営が必要であり、且つ、今回オーストラリアでの試みのように生活排水の再利用などについても考える必要がある。日本は水の豊富な国である。その点では我々は極めて恵まれている。夏に四国の香川県などが渇水で悩まされることはあるかも知れないが、全体的に見たら、水は豊富にある。水道をひねれば自然に蛇口から飲用に適した水が出てくれわけだ。こんな国は、そうざらにはない。従って、我々日本人は水のありがたさを知らないといっても良い。というのも、日本の水道普及率はほぼ100%に近く、年間使用量も、830億立方メートルに対し、潜在貯留量は4100億立方メートルとほぼ心配ない状況である。逆に、我々は車に乗っている時はガソリンスタンドで、リッター当たり120-130円のガソリンを購入するが、もはやガソリンの価格は、相手の言いなりで、上下する度に、甘受する以外に手はないのである。逆に中東諸国の砂漠地帯に行くと、ガソリン1リッター当たりは10数円で水を買う方が高く付くのである。実際今の社会では、ガソリン(車)なしで生活することは考えられないが、突き詰めて考えると、ガソリン無しの生活よりは生命維持するという点では、水の方が重要度は高いのだ。現実に車に乗らない人達は居ても、水を飲まない人達は居ないのだから。我々は、水道から出る水でもなにやら味が悪いとか、臭いがするとか言いながら、市販のミネラルウォーターを買って飲んでいる。東南アジアや、フィリピン、更にアフリカに於いては、そう言ったことも出来ずに、川の水をさしたる浄化もせずに飲んでいるところもある。日本は、あらゆるものに国のたががはめられているので、この規制を解かない限り、世界には打って出られないわけだが、今回の地方自治体との連携で海外進出することは、公益企業体を造り、そこに一旦出向してからなら公務員法に触れないのだそうだ。こんな事を聞くと、またまた、役人の天下り先を造ることになり、ゆくゆくは、当初の画期的な考え方も、一部の役人の巣と化し、真水を供給しているが、実は内容は泥水であったりするのではないかと懸念される。3年ほど前の水道ビジネス市場は36兆円であったようだが、これが、2025年には86兆円にもなるのだと予想されている。約2.4倍になるというのだ。今は泥水のような川の水を飲んでいる人達も、一旦真水を飲むようになれば、もう元には引き返せないようになる。この中で、工場等が使う工業用水の割合はたった7%と案外少ないようだ。中東の原油は出るが、水は出ないと行った国に対する商売の海水淡水化についても6%程度と、意外にその割合は少ないという事が書かれていた。水事業で主なものはやはり上水と、下水処理の関係である。わずかながら、上水関係が下水処理関係を上回っているというのが現状のようであるがいずれにしても50%に届こうかという関係で拮抗している。以前ふざけて地球上の水の量を計算したことがあり、やがて枯渇すると書いたら、ブログを見た人から過程が間違っているというコメントを頂いたことがある。その後の新聞で、水の惑星と呼ばれる地球上の水の量について説明があった。その説明によると、地球上の水は14億立方キロメートルあるのだという。しかしながら、我々がすぐに利用可能な水の量はその約0.01%に過ぎないのだそうである。以前の説明では利用可能な水の使途は農業用水が約7割で、工業用水が約2割、生活用水は約1割だとあったから、明らかに今回の数値と違う。今回の水の量の配分は明らかに生活用水が50%に近いわけで、これは、市場として考えられる量であろうかと思われる。いずれにしても、水が足りている日本であり、更に将来的に人口減が確実な日本での水市場は知れていることになるわけだ。従って、海外に打って出るビジネスとしては当を得ていると言える。日本政府は大きな政府になり、何かと自由経済の発展に歯止めを掛け、新規参入に大きな壁を造る。従って、規制改革を何とか進めようとするのだが、既得権益を一旦得た組織なり人間は、それを必死で守ろうとし、且つ増殖する傾向にある。いわゆるパーキンソンの法則というものである。水ビジネスでは東アジアや大洋州が目下のところ最大規模の市場だという。先に述べた、中東やアフリカ、南アジアなどもこれから伸びる市場である。また中国は世界人口の20%である13億の人間を擁しながら地球上の水源の約6%しか持っていないと言う書き方もあれば、中国の水資源総量は約28000億立方メートルであり、世界の第6位を占めるという表現もある。しかし国民一人平均の水資源量は僅か世界平均の1/4しかなく、世界では第88位であるということのようだ。いずれにせよ南部には水が比較的豊富だが、水資源の欠乏国に属しているとも言われ、長江や、黄河の水を利用する「南水北調」というプロジェクトも進行している。インドも又然りの状況で、世界の16%である10億人を擁する割合に対し、水資源の量は4%程度であるという。国の存立の究極の問題は水にあると言っても過言ではない。核爆弾を如何に有していようとも、世界中の鉱山・鉱石、資源をかき集めようとも、絶対的な水量が、少ないとなるといつか破綻が来るであろう。既に海外では問題になっているが、水の存在が、今後は一層重大なものになるであろう事は間違いなさそうだ。
2010.07.28
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6月以来の家族ゴルフに出かけた。今回も一庫ゴルフである。数えてみるとこのコースへは25回は通っている。最初に出かけた時からは手を入れて変わったところもある。チェリーゴルフに買収されるまでは、何となく雑なコースで手入れもなかなか行き届かないというのが現状であった。その代わり、料金は昼食付で1人5500円と安かった。安かろう、悪かろうと言うことだが、ショットの練習などでは、十分である。現在は、パターの練習も一応出来るが、昔は、砂だらけのグリーンもあり、とてもパターの練習までは出来なかった。いつも定例ゴルフコンペがある前には練習がてら回ることにしているが、この程度のところで練習ラウンドをしているとなかなか巧くならないかも知れないが、返って、グリーン上やバンカーショットを除くとティーショットはコースが狭いだけに真っ直ぐ飛ばすようになり良いのかも知れないと思っている。ここで、何とかフェアウェイをキープ出来るようなショットが打てれば、大概のコースではOBとなることも少ないであろうということだ。家族ゴルフは、姉と、連れ合いと私の3人だ。時々姉の友人の1名が加わることもあるが、年寄りが4人だと、動作も緩慢になるので、今回は純粋に3人だけで行くことになった。9時くらいのスタートで申し込むとちょうど良い。7時前に我が家を出発して姉の家には8時前、そしてゴルフ場へは、スタート前30分程度には着く勘定である。今回もその通りで行った。途中能勢町に行くまでの6kmの長い箕面トンネル(有料道路の総延長7.2km)が出来て、時間的にはとても便利になったが、ここは通行量が少なく、当初は、投資回収のためか、1回の通行に600円を取っていた。これを社会実験と称して今は400円という通行料になっている今までは、能勢町などへの道は、遠回りに池田市内を通らねばならず渋滞に悩まされたので軽々しくこの付近のゴルフ場に行くことは出来なかった。時間を金で買ったという意味では、この道路は大変便利である。400円になったのは有り難いが、それでも、これを名神高速の大山崎から京都東間の料金と比べると、km当たりの通行単価は1.4倍程度高いと言うことになる。いつもそんなことを考えながら、必要なら、使うと言うことになるのだと言うことだと思った。車の中で、姉は、石川遼がクラウンズで最小ストロークを出したというスコアシートのコピーをパウチングしたものをくれた。確かにアウト28、イン30のトータル58というすごい記録である。姉たちはこのスコアがハーフであってもなかなか届かないなどと話ながらの道のりであった。一庫コースは兵庫県になる。ダムで堰き止められた知明湖に囲まれた場所にある、山岳コースである。スタート前に到着すると、余り車もなく、人影もまばらであった。フロントで聞いてみると、今日のスタートは10組そこそこだというわけだ。連日の猛暑の中、このような日にゴルフをしようという人は流石に少ないなぁと感心すると共に、ラッキーだとも思った。何しろ季候の良い時には詰め込めるだけ詰め込むから、前の組を待ったり、後続の組に追いかけられたりと気ぜわしいラウンドとなるからだ。今日はウォームアップもそこそこにスタートした。各人が2-3本ずつ練習球を本コースで打ってからスタートした。一寸苦手のインからのスタートだったが、いつも苦労する最後の打上砲台クリーンに今回は何となく早めに載せることが出来たが、私も連れ合いも、2段グリーンの下から上までのパターで何回も往復するなど広くなったグリーンに手こずった。そんな中グリーン近くまで来るのに時間の掛かった姉はグリーン外から長いチップインを決めるというちぐはぐなスタートになった。姉のティーショットは何故か、チョロかシャンクか分からないほど、右前に飛ぶのである。途中から改善されたが、何回もまともに当たらないので、一寸腐っていた。しかし、身内のゴルフでスコアは余り気にしないわけだからどうということもないが、本人は至って満足がいかないわけだ。その代わり、グリーン周りからのアプローチやパターのタッチは絶妙で、1パットもあったり、殆どピン傍に付けOKと言うケースが多かった。これに反して、日頃はショットで悩む連れ合いは、ショットのキレは、なかなかなものであった。自分の得意クラブの他に、練習だからとフェアウェイウッドを多用していたが、以前に比べて、まともな打球が多かった。思い出せば、昔は、毎回変な方向に飛んだボールを拾いに走ったが、今回はそんなケースは稀で、3人揃ってカートに乗って移動することも出来る程度に余裕が出来た。しかしここがゴルフの奥深いところで、一旦グリーンに乗ると連れ合いのパターは全くのノーコンになるわけだ。方向と距離感という2つの要素のどちらも欠如しているわけで、帰ったらパター練習をしなくてはと自戒していた。私はというと、1週間前の3時間特打の成果か、ティーショットはほぼ満足のいく結果となった。良く飛ばす人達に混じると、これでも距離は負けるだろうなとは思うが、自分でも若干飛距離は伸びたような気がした。しかし、私も、パターで苦労した。ここのグリーンはグリーンのようだがそうではないから無理もないと言い聞かせながらであったが、なかなかコトンという快音が聞かれない。前回のコンペでは、下りのパターも良く寄ったので感心されたが、ゴルフはパターが良ければショットに難が出たり、またその逆だったりする。ショットだけでもウッドは良いがアイアンは駄目とか、またその逆だとか、日によっても違うことがある。でも、時々良いショットが出たり、パターがスコンと入ったりするから、次にまた行きたいと思ってしまうのだろう。今日は、後ろの3人組が最初は少し気になる程度だったが、しばらくするとその影も置いてきぼりにするなど、少なくとも3人の技術は少しずつ上達しているのだということを感じた。私は明後日に定例のゴルフコンペがあり、連れ合いは、私も含め友人夫妻や学校長とのラウンドが控えている。短期間の調整で結果が出ることもないが、始めた頃に比べると、随分とマナーも技術も向上したと思う。特に成績を競うというわけでもなく、楽しく回れることが一番なので、その意味では十分だとも言える。しかしゴルフは自分自身が気持ち良く出来るか否かが鍵であるからその意味でも出来るだけトントンと前に進みこつこつとカップインすることを望むわけである。上がって、スコアの計算をするまでもないが、あごの高いバンカーでライが悪く(もちろん砂も悪い)3回も叩いたこと、さらにはOBを2回もやってしまったことなどで、スコアは良くなかったが、満足のいくティーショットと、まあまあのセカンド、それに通常は、レギュラーティーから打つところをバックティーから打ったことなどを勘案すると、まずまずの成績だったといえるかも知れない。連れ合いもばててはいたが、何とか18ホールを乗り切れたようだし、後半はややゆるんだが、前半の猛暑、に良く耐えてプレーしたものだと感心した。
2010.07.27
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月末にOB会の2回目を行うことになっている。現在のOB会は昔の会が自然消滅的になったので、再立ち上げをしようとして設立したものである。現在の母校のバスケットバール部顧問の先生は、大学のOB会その他でよく活動されているそうである我々の高校の卒業生ではない。大阪府下でも古い伝統を誇る我々の高校のOB会が立ち消えになっているのはもったいない話であるし、現実に高校生を指導していく上で金銭的な援助も欲しいという両面から、私の先輩やその他に葉書を出されたのが発端である。F義に感じた先輩は、私を伴って、何度か母校を訪問した。そして若い連中が新しく始めたという別途のOB会があると聞いたわけだ。それもおかしな話で、昔の名前を何故存続させなかったのかという点で疑問であったので、それらを払拭するためにも会の名前を変更して再度進み出そうとしたのが1回目の総会に結びついた。この時会長を始め役員という形で発起人を決めたのだが、若い会をリードしていたという人に是非会長をお願いして、次世代に繋いでいこうというのがその原点であった。何度か会合を持ち、引き受けて貰うことにした。形は一応整ったのだが、一向に会長としての動きがないばかりか、こちらからのアプローチにも何の応答もないという状態が続いた。母校の顧問をされている先生は何かと尽力して頂けるし、実質事務局のようなことも引き受けてくれている。しかし当の会長は、それにおんぶに、だっこで、自らは余り関わりたくないという感じで推移している。私などは一旦引き受けたのなら、忙しい時には何かと融通し合うのはもちろんだが、こちらからの問いかけに答えないというのはどうも納得がいかない。人を人とも思っていない仕打ちである。増して、先輩後輩の感覚などみじんも感じられない。おそらく企業では成り立たないであろう。こういった先生が、中学生を教えているのだと言うことで、しかもその学校は、モデル校なのだそうだから、世も末だとか、教育が退廃しているとか、いろいろといわれるのではないだろうか。先生たる者が、約束を守らないというか、コミュニケーションも取れないとは一体何なのだと思ったわけだ。これでは、段々荒廃するのも当たり前だという風にも感じた。月末に2回目のOB会を開くが、尻すぼみになることは十分予想されるし、第1回目に続いて次回もこの会長は来ないだろうと思う。人選を誤ったことは我々にも落ち度があるが、一旦引き受けたなら、何とか意思表示をしたらどうかというのが正直なところだ。忙しいとは聞いていたが、ならば何故引き受けたのだと言いたい。子供ではないのだから、十分な理由があれば、何も無理強いすることはなかった。彼の気持ちを忖度するに、まぁ、年上の先輩連中が言うから、ここは形を作っておけば、実際の活動はなくても誰も文句は言わないという気持ちがあったのではないかと思われるのだ。要するにのど元過ぎれば、という感覚なのではないか。我々が、生徒や学生の頃は、それ程の仕打ちはなかったと思う。ただ彼のパーソナリティーによるのかどうか知らないが、積極的に足を引っ張ると言うよりは、消極的に足を引っ張っているのである。そこで、危機感を持ったので、次なる会長の引き受け手がないかと考えていた。年寄りが余りしゃしゃり出るのも若い者との断絶が出来るばかりで何ら効果はないだろう。そこで、現会長よりは年配だが、同業の学校長をされている方と会って、何とか会長を引き受けてもらえないだろうかと打診するために母校を訪問し、会合することになった。先輩や我々が、新しく立ち上げたOB会はどちらかというと現役支援で、その為のカンパ的な会費を支払ってくれる人を対象に名簿作成を始めたわけだが、依頼をしようとした先生は、どうもそのやり方に疑問を呈せられた。曰く、高校時代に部活動をした者は、是非もなくOB会員であるべきだというのである。もちろんそれはそうだが、それでは、経済的に合わなくなると言う意味もあり、発起した段階で、会員になると手を挙げた人から輪を広げようとのアプローチとは考え方が異なったわけだ。なにやら古い資料によると、わが部の創設は1922年に遡るのだそうだ。90周年も近いわけで、これに類する高校は、府下でも極めて稀なのである。いろいろな時期にいろいろな形で関わったこの部を・・、などと考えるのは歳を取った故かも知れない。しかし、依頼しようとする先生は、いずれにしろ、各人は、各人なりに学生時代の1時期にこの学校でバスケットボールをやったのだという証として、OB会は存在すべきなのではないかという考え方だ。全くの正論であるし、異論を差し挟む余地としては経済的な問題だけである。即ち、古い人はすでに居なくなっているが、現存する人達だけでも数え上げれば800名は居る。この人達に、悪く言えば、既にバスケットボール部に在籍したことを何とも考えていない人にとっては、どうでも良いわけで、毎回そんな人にまで葉書や会費納入のお願いを出し続けるのかという問題である。重要な問題ではあるが、OB会設立の建前としては、現役を積極的に支援する会という分派行動的になってしまうのは、受け入れがたいと言うことであった。学校の先生は、上下の繋がりは熟知されているもので、その意味では、この会を当面立ち上げ、継続するためには、線香花火で終わらせることなく次世代につなげて行くにふさわしいと思われる。やり方を少し軌道修正して、全員がOB会員であるという建前からの正攻法に方針替えをすることにして、その前提で、徐々に態勢を強化するべくお願いして4人だけではあったが、会合を終えた。この会合に参加して、思ったのは、アプローチは同じでも、人はそれぞれ考え方があるものだと言うことである。当たり前といえば当たり前なのだが、一寸した意思の疎通にズレがあると、話し合わなければ、その真意は分からないと言うことであり、その考え方もまちまちであるということだ。私自身には深い懲りはないわけで、古く気の置けない同輩や、顔見知りの後輩、さらには、指導して貰った先輩などと、年に2回程度顔を合わすことぐらいが楽しみと言えば楽しみくらいである。古い歴史を持つ高校のバスケットボール部のOBだからといって、特段のメリットがあるわけではないが、辿ってきた道であり、自分の証でもあるわけで、同じ趣味や趣向で集った年代を離れた人達というのは、それはそれなりに有意義であると思っているこの頃である。
2010.07.26
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ちょくちょく行く1駅離れたサントリー山崎蒸留所を再び訪れた。今回は有料セミナー受講と言うことで、「シングルモルト楽しみ方講座」というのを受講するためだ。参加費用は1000円也で、―もっと知りたい!ウイスキーの魅力―と題した、謂わば宣伝の一環である。もちろん受講対象は20歳以上で、車は元より、バイク、自転車で来た人は参加出来ないとなっていた。今日も暑いので、姫が車で大学に通うついでにサントリー蒸留所前で降ろして貰った。見ると暑い最中ではあるが、毎日恒例の見学会に人が大勢参集していた。夏休みの日曜日ということで多かったのかも知れないが、最近富みに人気が高いようである。講座の前にやはり一渡り工場見学という一連の見学ルートを回ることから始まった。定員が40名という事で、結構な人数であるから、通常の見学と同じように説明もさほど変わったところはなかった。先ず、ウイスキーとビール、焼酎の比較表が示されていた。夏場、暑くなるとビールの売れ行きが2割程度多くなると言うテレビでの話を聞いたところだった。ビールは大麦を原料とするところはウイスキーと同じであるが、ビールの場合は、仕込みと発酵の段階で製品になる。これに反して、焼酎は1回の蒸留過程を経て造られるのだそうで、ウイスキーは更にこの蒸留過程が2回行われるといった違いが説明された。そして最終段階では、醸成という過程があり、ウイスキーがまろやかに成熟するというのである。ビールは低アルコールであるが、焼酎やウイスキーの方はアルコール度数は高いが低カロリーであり、特にウイスキーは、プラス、ポリフェノールが含まれているという優れものだと言うことだ。私も最近ウィスキーを飲む機会があるが、確かに悪酔いしないという感覚を持っている。大麦を破砕し仕込槽に水と共につけ込む仕込み段階から次に発酵槽に移して、発酵させる工程を通る。酵素により麦汁中の味成分と7%程度のアルコール分を含んだ状態になる。そこから、蒸留過程に送られるわけだが、通路を挟んで、左右に6槽ずつの蒸留槽は入口から左が初留釜で、右が再留釜になっている。この釜も下部が膨らんだバルジ型と、直線的なストレート型があり、それらによって仕上がりの味が微妙に違うのだそうだ。再留を終えて得られたものを「ニューポット」と呼びアルコール度数が70%という無色の一寸きつい臭いがする製品が出来上がる。それをオーク材で作った樽に入れて寝かし、醸成するのである。このオークの樽は、ウイスキーの原酒を入れる前に、内面を焼くチャート呼ばれる作業がある。この樽には、いろいろ種類があるようだが、この蒸留所ではバーレルと呼ばれるポピュラーなものから、ボックスヘッドと呼ばれるバーレルを解体し大きな鏡板を用いたものや、パンチョンという北米産のオーク材を使った物、シェリー樽というスペインなどでシェリー貯蔵用として造られた樽などがあるのだという。日本産のミズナラ樽もあるとかで、樽によって、風味などがまた微妙に変わるのだそうだ。この貯蔵段階では、室内は一切空調を行っておらず、今日のような暑い日も外に比べるとずいぶん暑さは緩やかである。見本に、樽の鏡板のところをガラスにした4年貯蔵と12年貯蔵の樽が置いてあった。4年物は、まだ赤みを帯びて量も多かったが、12年貯蔵のものは、樽の半分より一寸多めと言うくらいに量は減っていた。夏は樽が蒸発するウイスキーを外に逃がし、冬は山崎の外気をたっぷり吸い込むという自然の営みをするのだそうで、永年の間に、量も少しずつ減っていくのだそうだ。この減少量のことをスコットランドでは「天使の分け前」と呼んで、旨いウイスキーを醸成する褒美に天使が少し失敬するのだという言い伝えがあるそうだ。その天使は、20歳を過ぎているのかな、などと考えてしまった。こうして樽毎に何年に詰めたかを示す年号を付して、暗冷室の貯蔵庫に眠るわけである。そして、これらの樽が、最高の状態になった時を見計らい、ブレンダーと呼ばれる人達により最高の組み合わせを探るのだそうだ。因みに山崎蒸留所では7名のブレンダーが居て、ウイスキーの銘柄造りを成しているとのことであった。聞けば1日に何と200~400種類の原酒をテイスティングすると言うから、幾らウイスキー好きといってもげんなり来るのではないかと質問してみたが、皆さんウイスキーはお好きなようですという当たり障りのない答えが返ってきた。講座のテーブルには「山崎12年」「白州12年」の日本産のものと、「ザ・マッカラン」「ボウモア」というスコットランド産のいわゆるスコッチが置いてあった。ブレンダーと同じやり方で、テイスティングをするが、22種類の代表的な香りに当てはめろと言われても、なかなかそれらしいものは見あたらないというか、謂わば名状しがたいという方が当たっているかも知れない。先ず、ウイスキーには「モルトウイスキー」と「ブレンデッドウイスキー」があるが、その差がようやく分かった。「モルトウイスキー」は単一の蒸留所で造られた原酒のみを使って作る大麦が材料のウイスキーであり、「ブレンデッドウイスキー」はトウモロコシなどを蒸留して造ったものを混ぜ合わせて(ブレンドする)造るのだそうだ。「山崎」や「白州」はシングルモルトウイスキーであり、「響」「オールド」「角瓶」などはブレンデッドウイスキーの範疇にはいるのだそうだ。「ザ・マッカラン」「ボウモア」はイギリスのシングルモルトウイスキーだという。実際にオンザロックや水割り、そして最近流行のハイボールを造って飲んだのだが、正直違いはなにやら分かるが、はっきりとどこがどうという風に表現する力はない。天然水の水割りを造る際には、氷をたっぷりグラスに入れ、ウイスキーを適量注ぎ、水をたさずに13回転半ほどかき回すのだそうだ。この微妙さが、何となくなるほどと思わせるところであろうか。その後氷が溶け込んだ分を補充する意味で氷をまたグラス一杯に入れるのだそうだ。そして天然水をウイスキーの2~2.5倍程度注ぎ、最後に3回程度軽く混ぜると美味しい水割りとなるのだそうだ。最初は作法を守ったが、連れ合いはそれ程飲まない分、私に回ってくるので、ほぼ2人分を飲んだことになり、昼間から一寸した酩酊気分であった。室内から外に出ると、おそらく35℃は超えているのではないかと思われるほど猛暑が待ちかまえていた。暑い中、阪急大山崎への途中にある「結風」という沖縄料理の食事処で、ランチを採って帰った。
2010.07.25
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国立民俗学博物館が主催する「みんぱくワールドシネマ」で無料の映画会が行われた。「わが故郷の歌」というクルディスタンの生活を描いた作品だ。5月に「シリアの花嫁」を上映したシリーズとして第6回目の上映会になるという。定員が450名で事前に整理券が配られ、定員以上になると打ち切られるとのことだったので、前回は10:00の整理券受取に早々と出かけたが、それ程早く行かなくても観られると言うことが分かり、今回は昼前に出かけた。連日の懇親会や、飲み会で出歩いたので連れ合いはグロッキー気味であったが、車でならと無理矢理連れ出した。それというのも、夕方には、連れ合いが最初に奉職した小学校の第1回目の卒業生による同窓会に招待されていることもあるからだ。外は相変わらず暑い。この熱波はどうしたことだろうといろいろ取りざたされているが、とにかく「暑い!」の一言である。駐車場も炎天下であり、流石に駐車している車は少なかった。1日置いて1200円というのはいかにも高いが、2人で電車を使えばやはり車の方が安くつくし、楽であるので車を選んだ。都合の良いことに、駐車場は、国立民俗学博物館のすぐ近くにもある。入場整理券をもらって、エスニック料理のある館内唯一のレストランで、連れ合いはうどん、私はサンドイッチを食べた。店内の様子は、こざっぱりしているが、何とも手際が今ひとつである。「わが故郷の歌」が始まる前に、「Dafダフ」という短編映画が、小さなブースであったので、途中から観た。「わが故郷の歌」と同じくイラン映画で、同じ監督の手による作品である。「ダフ」というのは、一寸大きなタンバリンのような形をした片面張りの枠太鼓でである。この「ダフ」作りを生業とするクルド人家族の様子を淡々と描いている。途中からなので、よく分からなかったが、「ダフ」はイスラム圏でよく使われる物だそうだ。今は合成樹脂を用いるようだが、本来は羊の皮をなめして使う。私が、この映画を観ようと思ったきっかけは、内容が、クルディスタンの物語だと言うことだった。クルディスタンは今は国ではなく、イランの自治州とされているクルド人が済む地域だ。以前、「クルド・国なき民族のいま」という本を読んだことがあり、興味を覚えたからである。しかし歴史的には、イランが絡むだけの簡単でもないようである。民族の問題は今なお世界中の大きな問題であるが、この問題を容易に解決したり、理解することは相当に至難である。日本のように、アイヌ民族や、琉球民族などの問題はあるにしても、ほぼ大和民族により単一国家を形成している国はまだ問題が多いとは言えない。クルド地区というのは、その最も複雑な形態の一つであろう。第一次世界大戦後オスマン帝国が崩壊して、このクルディスタンは、トルコ、イラク、イラン、シリアと旧ソ連(現アルメニア)の5ヶ国に分断され、今日に至っている。従って、独立意識の強い民族の一つである。隣り合うカフカス同様に、ディアスポラ(離散民)が多い地域でもある。同一民族が、大国の思惑で、勝手に国境を引かれて、バラバラになることほど惨めなことはない。アラブ文学でも、イスラエルによって、急に占領され、線引きされた、パレスチナ人達の話など、身近に聞いていて、この類は、世界中至る所に存在していることを知るわけだ。宗教は単一宗教ではないが、多くはイスラム教のスンニ派に属すると言うことである。そのほかにも古代宗教やゾロアスター教を信じる人達も多いという。中東における民族では、クルド人は、アラブ人、トルコ人、ペルシャ人に次ぐ中東の4大民族といわれるほどに多数いる。更に石油などの地下資源があるということも絡まって、紛争の絶えない場所でもあるようだ。クルディスタンは日本の面積の約1.5倍という広大な地域である。日本人(民族)は今道州制を論議しているが、日本が、この道州という言葉でなく外国により分断されるということを考えた時、実感は湧かないものの、感じはつかめるかも知れない。まぁ、大阪から東京まで行くのにパスポートチェックが2回くらい必要になるという感じだろうか。映画の物語は、1988年の元イラク大統領サダム・フセインによる18万人にも及ぶクルド人集団殺戮のアンファール事件が背景にある。イラン・イラク戦争の末期に独立を志向するクルド人がイラン側に接近したという理由で、行ったこの殲滅作戦では、クルド地区の4000の村を破壊し、女性と女子の子供を除いて殺戮して、キャンプに送り込むと言うこともあり、そう言った悲劇の中にもクルド人の生活が淡々と行われる有様を映画は、音楽という媒体を通じて紹介している。中東問題といえば、先ず挙げられるのが、イスラエルとパレスチナの問題であるが、このクルド問題もこれに並ぶ中東の火種であることは今でも変わりはない。日本にいて、平和を享受している我々には想像がつかないことも多い。米軍基地問題はもちろん重大な問題である。アメリカにおんぶに、だっこの姿勢も議論はあるであろう。アメリカのような大国は、過去にも二枚舌を使ういわゆる「ダブル・スタンダード」を平気で用いてきた。極東地域の安全の問題も、北朝鮮や、中国のプレゼンスの強大化で、何時崩壊し、日本が巻き込まれないとは限らない。安全と安心と言うことに今安住出来ているのは、どういった経緯であったのか、中東の、イスラエルとパレスチナだけではなく、このクルディスタンの民族独立問題も、深く示唆を与える問題であることを知る必要があると思う。この手の映画には通常ありがちな、悲惨な場面はほとんど無く、ただ、上空を飛ぶ戦闘機の爆音が不気味に平常でないことを暗示したり、近くの爆裂音がその効果を知らしめながら、映画は人間愛をテーマにして静かな反戦映画といえるようだ。ようだというのは、私は、不覚にも随所で居眠りをしていたようで、映画そのものの流れを理解するために、帰りの車の中で連れ合いの解説を聞く始末であった。クルド人内部にも、親ソの指導者や、親米の指導者の確執がある。要は、小国は、独自に道を歩くことが出来ないわけだ。クルド人自治区もクルディスタン民主党(KDP)とクルディスタン愛国同盟(PUK)が違った道を志向している。同じ民族の中での確執は、我々が想像出来ないくらい大きいものがあるようだ。違うようで同根の民主党と自民党の違いしか知らない我々にはとうてい分かり得ないことかも知れない。
2010.07.24
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恒例の高校時代のこじんまりしたミニ同窓会に参加した。毎年暑気払いと忘年会ということで2回計画される。同窓生の店に7人が集まるので合計8人という懇親会である。夕方5:30から集まった順にぼちぼち始めるという気楽な会であり、天六の商店街の中にある友人の店は、酒と肴が旨いことでも有名である。出かける前に私は、図書館に借用を申請していたパレスチナ文学の「私の旅」という女流詩人の本を受取りに行った。次回の講座の対象になる小説である。パレスチナといえばアラブでイスラム教徒だろうから、女性が作家であるということに漠然と驚いたことや、消費税が3%時代の本であることなど気がついて、文学の面ではアラブはやはり遅れているのかという風にも思った。といっても、右から書く文章(アラビア語)を翻訳する人はそう多くないことを考えると、近代のものが翻訳されているかどうかも分からないわけで、何ともコメントのしようがない。私と連れ合いは、一寸早めに同窓会場に向かった。5:00前に着いたので、着いた時には、まだ同期の店の主人夫婦以外はまだだれも来ていなかった。外は相変わらずうだるような暑さなので、取り敢えず、店の中に入れて貰い、腰掛けて待つのが良いと言うことにしたわけだ。この主人は、同期のゴルフ会の仲間でもある。あれこれ雑談をしていると、三々五々友人達が顔を見せ始めた。7人の会話に料理を出す1人の主人が遠くから会話に加わるという格好だが、良い酒を飲ませてくれることや、とびきり旨い料理を提供してくれる。値段も値段だから、とは思うが、まあ、他所ではお目にかかれないほどの料理である。この時期、鱧が有名で、友人の全ては鱧、鱧といい、楽しみにしている。私は、さほど鱧が食べたいとは思ったことがないが、よくよく聞いてみると鱧料理は関西の料理と言うことらしい。私も出身は関西人なのだが、高級鱧料理を食べられる頃まで居なかったというせいか、トンと思いつかなかったと言うのが正直なところである。鱧はいろいろな食べ方があるそうだが、湯びきした鱧の上に梅を載せただけの料理は、なにやらとろけるように美味しいと思う。いろいろな料理を出してくれるが、私は余りそう言った料理を食べたことがない田舎育ち故に、どれがどの料理名でということもよく分からない。それでも旨いか旨くないかは分かるわけで、とにかく旨い肴に旨い酒なので、ついつい飲み過ぎてしまう。日頃は日本酒を飲まないのだが、この日ばかりは日本酒(冷酒)漬けである。昔は、日本酒、二日酔い、頭痛という方程式であったが、良い酒は、二日酔いと言うことはないことを知った。今まで余程悪い酒を飲んでいたのであろう。話は多岐に亘り、他愛のないものなのだが、あと3年で、我々は高校卒業50周年になるのだという。従って、全体での同窓会をすべしと言うことを言う連中もいるわけで、その為、8クラスあった各クラスのまとめ役は誰が良いとか、全体のまとめ役はどうかとかの話になった。私自身は同窓会という同窓会は、今まで参加せずに来たので、その辺のところはお任せである。連れ合いによって、門戸を広げて貰ったわけで、今は、応対に追われるほどに昔の仲間と会う機会が多くなった。喜ばしいことではあるが、私が先輩に付き添わされて、高校のバスケットボール部の幹事役をやってみて、その大変さがよく分かった。皆同じように考えで集まる小人数なら纏まりやすいだろうが、65年も人生を生きてきたら、中にはいろいろな考えの人もいるから、大変である。一人、この会の招集役の友人に全体幹事はどうかと水を向けたが、乗り気ではなさそうである。全体での同窓会は、50周年ともなれば記念すべき事なのであろうが、私自身は、さほど熱烈に待つと言うほどでもない。その昔、それ程話をしたことがない相手に50年経ったら親しく話が出来ると言うこともないわけだが、意外に仕事関係が同じような場合などあって、打ち溶けると言うこともある。そろそろ、あの人は亡くなったとか、彼は早く逝ったとかの話も出てくる。そう言う時には、何となくはかなさを感じたり、こうして集まれる内が花だという気もして、一寸人恋しくもなるわけだ。多分大勢で集まっても、一つのイベントとしては良いのかも知れないが、話をするのはほんの数人に留まるだろう。人付き合いの悪いのもいるし、付き合い方を知らないものもいるわけで、皆が如才なく生きてきたわけではない。そんな時、客扱いに長けたものの気配りは、私などのように鉄を相手の仕事をしていたものから比べると巧いものであるし、且つまたツボを心得ていると言うところだろう。時間もせまり、散会の時間となったが、誰かが、カラオケに行こうと言いだした。前回そのような話があったようで、それではと2次会よろしく駅に行く途中のカラオケ店に向かった。先頭の2-3人が入って、シニアがどうのこうのとか言っている。中では、店の人が、皆さんが入られるのですかと聞いているようだ。そうですとか言って、話をしていたところ、その人は、「ここはポルノ映画館なのですが」といったのだという。酔っぱらっているとはいえ、隣のカラオケ店の看板が小さかったので、間違ってしまったようだ。あとで大笑いになったのは言うまでもない。向こうの人間としても、女性2人を含む7人が同時にポルノ映画を見るのかと真剣に怪訝に思ったことであろう。世の中いろいろなグループや人がいるので、まんざら間違ったとは言えず、確かめたのかも知れない。がやがや言いながら隣のカラオケ店に入り、歌いまくったのだが、ここでも考えたのは、カラオケも好きな人とそうでない人がいるわけで、嫌いな人のことを考えると少しはしゃぎすぎたのかも知れないが、そう言った細々な気遣いは、何処かで気づいてもなかなかフォローすることは難しいものだ。野放図に歌う人を扱っている方が、楽である。曲の注文も、精巧な機械がやってくれるし、時間が過ぎるのが早い。1回の延長をして、もうそろそろと切り上げることにしたが、一人は、最終電車にやっと間に合ったという。私と連れ合いは、終電ではなかったが、家にたどり着いたのは午前様であった。たまには良いだろうとは思うが、この歳で、午前様は一寸きついという気持ちもそろそろ感じ始めた。それにしても楽しい一時であった。連れの友人の奥さんはゴルフを始めたばかりだと言うことで、私と連れ合いとの4人のラウンドの話が纏まっていたようだ。次々と連鎖反応的にやることが増えていく。有り難いことである。
2010.07.23
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昨日から今日に掛けて最近になく多彩(多用)な日であった。昨日は、町の図書館を通じて借りていたアラビア(エジプト)文学の図書「黒魔術」を返却に行った。そして、次の講座の課題であるパレスチナ作家のファドワ・ドゥカーンの「山を行く旅」(「私の旅」という本しかなかったが)の借用の申込をした。今回は返却と同じなので図書館に出向いたが、ふと、「本の借用は電話では出来ないのですかね」と本の題名をメモ紙に書きながら呟くように聞いてみた。すると、「電話ではお受けしかねます」という返事だった。その理由というのが、電話では言い間違いや、聞き間違いが生じるからが主な理由だったようだ。「おかしいですね、漢字などは偏や旁を言うなり、何かの方法で分かるはずなのに」というと次は、「規則ですから」と来る。「では規則を変えれば良いではないですか、現に私は前回電話で照会し、用意出来たと言うことで取りに来ましたよ」というと。「そんなことはありません」という。筈はありませんではなく、断定的なのだ。その辺から私は少しむかっと来た。「現に私は電話をして、ここで借りたのですよ、では私が嘘を言っているというのですか」とたたみかけると、「それでは、その時の係の者が間違っていたのです」という。ずいぶん失礼な話ではないか。難しい書名をそんな会話の中で、メモに書いている手が震える。そして、書き終えて、これを借りたいのですがというと、所定の用紙を提示し、これに書いてくださいという。ずっと見ながら、書き終えてから提示するとは親切ではないねとまた言うと、書名は向こうで書くという。何ともそのやり取りは事務的なのである。木で鼻をくくったとはこういった事を言うのであろう。そんないざこざがあって私の対応者は2人になり、傍観的に聞き入る人が1人いるような格好になった。忙しいはずで、電話では処理しきれない位なのに、暇なのですねといっても通じない。こんなお役所仕事をしているから仕分けの対象になるのだと思った。図書館は何のためにあるのか、そして誰のためにあるのか、また係の人間は誰から給料を貰っているのか。正に個人店の商売なら考えられないことである。親方日の丸、時間内に決められたことだけをやっていれば対価が貰える仕組みで、そこでどれだけ親切心を出しても誰も評価しないどころか、同僚には、その規則を破った人が間違っていると言われるわけだ。私が前回借りた時は、規則違反をしているということになるわけだが、それで何か特段の不都合があったのだろうか。それを認めると言うことは電話での応対が増えて、パンクするというのであろうか。とてもそうとは思えないのである。確かに何人かは借り、何人かは返しに来ている姿を見たことは何度もあるが、受付カウンターに長蛇の列が出来たところはまだ見たことがない。インターネットでも手続き出来ますよと言うが、それは町の図書館所蔵のものに限られるのだという。これも改良(サービス改善)の余地はありそうだ。とにかく図書館員は、借りて貰って、町民の啓蒙や、教養の向上に資すると言うことは全く考えていないらしい。正に貸してやるの精神が脈々と流れている、お上体質なのである。因みに対応した女性は、中年の人で、最後に聞いてみるとアルバイトだという。規則というものを見せて欲しいものだし、そのよって来るべき根拠を是非聞きたいものである。仮に身体障害者が、本を借りて読みたい時には、自ら車いすを押して借りるまでに最低2回は出向かないといけない訳だ。何とも解せない規則である。図書館を後にして、姫がマイアミの学会から帰国するというので、連れ合いと共に伊丹空港に迎えに行く。今回は一寸ハードなスケデュールだったようで疲れた様子だった。翌日は、姫を大学に送りがてら、帰り道でゴルフの打ちっ放しに行った。毎月11日と22日は「いいふうふ」ということで、男女カップルなら半額になるという日である。(1Hrか3Hr)しかし実に暑い。それでも1階打席はほぼ満員で端の方にしか空き打席はない。2階で打ったのだが、連れ合いは1時間を待たず、冷房の効いた部屋に休みに行った。私は、休み休みだが3Hrを打ち続けた。時間制だから幾ら打っても良いわけで、日頃余り時間を掛けないアプローチを多く練習した。練習場のマットではうまく行くのだが、本コースの芝では、アンジュレーションもあり、なかなかうまく行かないことがある。今日の気温も40℃近くである。炎天下のドバイで、ふらふらになりながら1人でミニコースを何度も回ったことを思い出す。しかしドバイでは、湿気が少ないためか温度が異常に高いためか、かいた汗はすぐ蒸発するので私には苦痛が少なかった。今日の練習では、5-6枚持って行ったタオルを殆ど使い果たし、シャツも着替えて帰ったが、はいていたジーンズの腰回りまでぐっしょりとなってしまった。家で一休みして、今度は夕方から友人との約束の飲み会である。高槻駅下のビールレストランの生ビール半額券が10枚ほどあるというのでお誘いが掛かっていた。連れ合いと一緒に行ったのだが、その友人も朝方検査を受けるまでは禁酒をしていたといい、また明日からも禁酒するので、今日だけ狭間の1日でビール解禁としていたようだ。私もアルコールはなるべく控えめを心がけているが、同窓会や、友人と会う機会が多くなったのに比例して、アルコールも普段よりはよく飲むようになった。肝機能は回復しているので、安心はしているが、年齢を考えて控えた方がよいとは思っている。なにやら、腹が突き出てきたようで、褒められた体型ではない。友人は明日ゴルフがあるということで、早めに切り上げるつもりだったが、結構長時間話し込んだ。彼は人生を常に「知、体、徳」を考えてやってきたという。知は学問の意味で、体は運動、そして徳は人間関係だと端的に説明していた。特に「徳」が大切だというなかなか含蓄のある話になった。別れてそのまま帰らず、連れ合いのいとこがやっているカラオケクラブに行き、大声で、歌を歌い、体内のアルコールを発散せしめた。以前何度か顔を見た常連さん夫妻と久しぶりに会ったが、老けているように見えたそのご主人は昨日還暦を迎えたと言われたので思わず「え!」と反応してしまった。見たところ我々よりも老けて見えていたからだ。人は見かけによらぬものと思いながら終電前の電車で帰宅した。
2010.07.22
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自分自身が世界の情勢に対して余りにも無知であることに気づき、出来るだけ知ろうとするようになって久しいが、未だに何も分かっていないことだらけであることを知った。日経新聞では時々週末に「世界を読む」とか「世界を語る」とかが連載されている。主に政治経済のことであるのは、経済新聞故であろう。しかしこれらとは別に日曜日には「サイエンス」と言うコラムも掲載されているし、文化芸術のことにも触れている。あとは、「経済教室」とか「やさしい経済学」とかいろいろである。例えば「やさしい経済学」などと何故「やさしい」と付いているのか分からないほど私には難しい。元々経済の知識もない上に、金儲けにはトンと興味がないばかりか、目先のトレンドさえ読み切れないでいるから仕方のないことである。しかし、テレビに出てくる経済評論家とまではいかない、つまらないタレントの話す内容ほどは理解力がないとは思っていない。勤めを辞めて日長1日テレビを観ると、そのつまらなさがよく分かる。日本人が全てこういった番組で納得しているとは思えないが、どれもこれも一過性であり、それらいわゆる似非コメンテーターはその番組にコミットしていても、何ら責任は問われないし、気楽なものである。といっても、私などは、そんな番組にさえ出られないのだから何をか謂わんやである。自分が過去に心血を注いでやってきたことが、ちっぽけなことなのだと分かっても、では、これからスタートラインに立ったとして何をしたいかと問われると、言葉に窮する。たいていの人は、また同じ道を歩んでみたいというか、今までに味わったことのないことをやりたいとか、人それぞれだろう。私の場合は、もし、また同じ事をやりたいと思っても、日本ではもう無理なような気がする。私は船を造るための設計をしてきて、本来の仕事半ばで脇道にそれたのだが、ルーツはやはり造船だと思っている。昨日の新聞では、造船界でも老舗の佐世保重工の建造指揮を執る常務執行役員の韓国人の姿が映されていた。あのサムスン重工業の専務を務めた人と言うことだが、余程優秀であることは疑わないが、造船大国日本の老舗造船所に韓国人のトップリーダーが居るという現実に驚いたわけだ。一頃から韓国は造船に於いて日本の強烈なコンペティターだったわけで、世界シェアのトップの坐をしばらく争っていた。そして昨年のデータでは日本・韓国・中国が世界建造量の84.5%を占め、韓国はそのトップに立ったとか、また中国は2015年には世界一を目指しているというのだ。如何に生産性を上げ、コストダウンを行っても、労働集約的な造船業に於いては、賃金の安さが船価を決めると言っても過言ではないわけで、ゆくゆくは、日本における造船業は衰退するのみであろう。昔から造船業界はオープンな気質であり、小所帯ながら良いチームワークでやってこられた。船主の方もおおらかなもので、各系列海運会社はその系列の造船会社で船を建造するのが半ば慣行になっていた。しかし、同等の船が、船価が半分とは行かないまでも安く作れるのなら海外に流出するのは理の当然である。このようにして、日本の受注量は韓国に世界の座を譲ることになった経緯がある。だが、今、その日本の造船会社に韓国の技術のトップが座っているというのだから驚きなのである。しかもその記事には、社長が、社運をかけたLPG船の建造に是非に知恵を絞って欲しいと口説いて一本釣りしたのだと書いてあるではないか。そして、耳を(目を)疑うのはその次の下りである。来日したサムスンの元専務は、日本の造船会社のITの遅れに驚いたというのだ。韓国ではベテランの技能と知識をデータベースにするのは常識で、それが日本ではなっていないという意味らしい。私は、佐世保重工が遅れているのだと思いたい。CAD(Computer aided design)やCAM(Computer aided manufacturing)などはお手のもので、CIM(Computer Integrated Manufacturing)とよばれる、製造業で導入されている生産管理システムのコンピュータ統合生産なども、造船業界はいち早く取り入れているはずである。ここで言うベテランの技能を云々が何を言うのか分からないが、韓国の技術者にそう言われるようであれば、日本ももう終わりである(但し造船業界は)と言うことになる。ここで言うベテランの技能を、知識ベース化して人工知能を云々と言うことなら、少しは驚き感心もするのだが、よもやそこまでのことを言っているのではなさそうだ。日本の技術者が居なくなったのか、造船会社が日本の技術者を大事にしなかったのか、そこのところがよく分からないが、後者だから前者に繋がったということも言えるだろう。野次馬根性ではないが、この韓国技術者の給与が幾らなのかを知りたい。日本人と同等か、それより高い給与での処遇なら、日本は正に終わりであることは隠しようがない。しかし、安い金で、どうかしているということならば、さもありなんと思えるのだ。ソニーの会長がハワード・ストリンガーだったり、日産はゴーンだったり、いすゞの社長も日本人ではなかったりと、多数の有名会社が、外国人の社長ないしCEOを擁している。これらの人は給与も日本人社長に比べて破格のものであるらしい。そうなると、この日本には、若い人に働く場所を提供することも出来ず、高齢化したベテランという人達は、紙くずのように捨てられ、天下りではないが、海外から極めて優秀な人材が移入されるという正しくけったいな社会になってしまったようだ。同じようなことを、日本は今、中国や東南アジアでの出先で、やっているわけで、ホンダなどは、中国での労働運動による賃上げを求められて当てが外れているわけである。これらの会社はごく一部ではあるが、中には日本のトップ企業もいるわけで、日本の行く末はどうなるのだろうと少し心配になる。外国人トップは、おそらく能力主義を徹底し、販売に寄与出来ないところをドラスティックに切り落として行くであろう。彼らは日本がどうなるかは問題外で、彼自身が所属する会社がどうなるのかだけを考えている。それはそれで、情実に絡まぬ経営が出来るのであろうが、日本人が身につけた、知識や技能が活かされなくなる恐れがある。これらの企業が開かれた企業だと言うことは分かるが、それ程まで、日本人の有能な人間は居ないのかと思ってしまう。少子化による海外からの移民を受け入れるとしたら、やがて2割は中国人で占められてしまうだろうという見方もあるが、枢要なポストを外国人が占めてしまうという状況も考えられる。地形が変化し、また日本が無くなるかも知れないその前に、現在の日本が、先に無くなってしまうことになりかねない。お椀の中で威張る時代ではなくなっているが、経済発展に於いて、日本が過去に優秀な第1国であるという幻想はもう昔のことになっているという現実を知らなければならない。いみじくも蓮舫仕分け大臣が言うように、2番以下の道を既に辿り始めているようだ。
2010.07.21
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NHKアラビア文学講座の2期目も第4回目となった。講義が終わる頃にカルチャーセンターの係の人が来て、この講座は今期を以って修了するという通知があった。従って、この日の講座の後は2回を残すのみとなったわけだ。今回、取り上げられた本は、また、前回に続いてエジプト文学のムハンマド・ムスタガーブ著の「ノアマーン・アブドルハーフィズの秘められた歴史より」という長いタイトルの作品である。この小説自体は、80ページ足らずの短編で、外には、「黒魔術」、「首飾りと腕輪」そして「悪夢の問題」という3つの作品が収められていて、上エジプト小説集ということになっている。いつも、姫の大学の図書館で借りて貰うのだが、今回は町の図書館を通じて、大阪府立図書館から取り寄せて貰った。講師がエジプト留学経験をしておられるので、勢いエジプト文学が中心になるようだ。訳者の高野昌弘氏は、数年前に若くして亡くなられたようで、中東やアラブを語る人は少なくなっていると言うことである。この物語も、上エジプトを舞台にしたものであるが、話の内容は諧謔的というか、いきなり素人が読んでも意味が分からないというのが正直な感想である。上エジプトの名は何度か出てきたのでもはや説明の要はないのだが、カイロの北の巨大な三角州地帯の反対側でカイロの南側の主に砂漠地帯を言う。上エジプトは別名サイードとも呼ばれている。エジプトは都会である下エジプトと田舎のサイードというカテゴリーに分けられるようだ。上エジプトは、北はシリア方面、西はリビア方面から人が流入するので、多彩な面を見せていて、国際色豊かとも言える一方で、サイードは、ナイルの両側に肥沃な緑地帯がある以外は、殆どが砂漠地帯と言うことで、ルクソール、アスワン、アブシンベルなどよく聞く地方は皆砂漠の中と言うところだ。作家のムスタガーブが生まれたのは、サイードの中間からやや北寄りになるアスユート県のダイルート・シャリーフ村に生まれた、紛れもない田舎者であるわけだ。学業は優秀であるが、家庭の事情で高等教育を受けられなかったという。しかし最終的には、アラビア語アカデミーの事務局長になっていたというから素晴らしい。サイードの人の性格は、剛直、素朴、激しい気性というもので、全くの田舎者であることは、しゃべり方、衣服、顔の色、さらには文明に対する知識不足などで、下エジプトの人たちの笑い話に取り上げられるほどであるという。しかしながら、結束の固さや、恥辱をはらすための復讐心の慣行など、剛直と言われるだけのことはある。単なるふぬけの田舎者とは訳が違いそうだ。一族の名誉や、特に一族の女性の貞操を守るために発揮する名誉はガイラ(Ghayra)と呼ばれ、これを忠実に守る男は尊敬に値する者として評価される。また下エジプト人よりも寛大な心を有しており、旅人や客人には下にも置かぬもてなしをするのだそうだ。この件については、私がサウジアラビア人に聞いた、ベドウィンの気性と似ているところを感じた。客人が来たら、自分達家族は食べなくても客人に食べさせると言ったことがあるようだ。さて、「ノアマーン・アブドルハーフィズの秘められた歴史より」の最後の「より」は原文に忠実に訳したもので、日本語訳では長いので省略されているという。主人公である、ノアマーン・アブドルハーフィズは取るに足らぬ人間であり、生まれも曖昧にしてあり、比喩として引用される歴史的大事件や、歴史上の有名人の名前を、余り本筋とは関係ないところで使用している。正に、ヒーローとして登場しているが、実はアンチヒーローであるというパロディ的なところがこの内容を代表している。サイード地方の習慣や伝説、神話などを「正史」としてではなく、「秘史」または「稗史」として紹介しているとも言える。ただし、細々としたその日常の内容は、現在でも、なお行われていることであり、それを修飾するために、レオナルド・ダ・ヴィンチやアルベール・カミュを引き合いに出して、飾り立てていると言った具合である。ノアマーンは実は作者のムスタガーブではないかと思わせる。貧乏な家に父無し子として生まれたノアマーンは、裕福な夫人に引き取られ、一夜の不思議な体験(性的な意味か)をするが、やがて夫人のところを飛び出す。墓堀人の手伝いをするようになり、一人の女が、「尻のむくみと股間の炎症の治療」を求めてやってくる。墓場に穴を掘り首まで埋まって、塩水を九十九回撒くと治ると言うことで、始めるが、それは割礼をした清浄な男が行わなければならないとされていた。ところが作業中に女に股間を見られ、割礼していないと言うことを見破られ、騒いだ女性は逃走してしまう。やがて、ノアマーンは割礼をすることになるが、それも、ちゃんとした麻酔や、消毒が行われるわけではなく散髪屋が鋏で適当に切ると言うことらしい。ここでまた問題は、同じ部落の人間によって割礼をされなければいけないところ、他の町の人間に依頼したから、またまた騒動になり、中途半端のままのノアマーンは、赤い血を流しながら右往左往するのである。自分の村の連中と共に復讐という形で他の村に出かけるのだ、これまたすぐに和解してしまう。そうこうしているうちに、何となく割礼を終えたノアマーンは、やがて結婚することになり、ノアマーンは、隔離された小屋に花嫁と入り、白い布を指に巻いて、花嫁が処女かどうかを確かめるのである。その間中、親戚や、他の男達がドアをかまびすしく叩いて急かせるというのだからたまったものではない。確かめた白い布が鮮血に染まるとやっと、祝いとなり、戸外では、殆ど水平に近い状態で、空砲ではあるがマシンガンを撃ちまくるのだそうである。その時、歓喜がユースフ川に渦巻いて、突然スエズ解放の戦争中のナセルに、ある国の大使が来て、スエズ運河からの軍隊の撤退を求めて、容れられなければ、飛行場や住宅を空爆するという警告書を手渡すというのだ。読んでいてもどんどん理屈無しに(説明無しに)状況は変わり、何が何だか分からないというか、作者は何を言いたいのかが分からない。それをこうやって書いている自分も分からないのだから、読んでいても分かるはずがないと思っている。しかしながら、サイード人の気質や、慣習や、迷信などが垣間見られると共に、その時代背景はどうだったのかを、脈絡無く突如紹介していることで、何となく読者は、納得する。読後は、なんだか奇妙な気持ちになるのは私だけだろうか。
2010.07.20
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2日ほど家を空けていると、世の中は少し動いている。世界の営みは、私がどういう状態であろうとも動きを止めない。当然のことながら、少し奇妙な気がすることがある。考えなくても良いのだが、時々それを不思議と思うことがあるのだ。日本には、1億2000万人強の人口が居て、その一人一人が違ったことを考え、違った行動を採っている。また人それぞれの価値観も違い、感動する対象も違うわけだ。まして、世界の人口は69億人にもなろうかとしているので考え方の多様性はなおのことである。従って、こんな事がという驚きを以て知る内容も、隣の人には何の感動もないということが殆どだろう。最近の事柄で、リビアのガザ地区支援船が、イスラエル軍によって包囲され、強制的にガザ地区に近いエジプトのアリーシュに入港させられたとあった。現在イスラエル国となっている中に、ヨルダン川西側地区と、ガザ地区は、パレスチナによって実効支配されている。中東の講座を受ける前は、というか、サウジアラビアや、ドバイを訪れる前は、ここら辺りで何が起ころうとも余り注目はしなかったと思う。ガザ地区にはイスラム原理主義のハマスが武力闘争準備をしているという事で、140万人いる中の何人がハマスなのかも分からないまま、ほぼ2年前のイスラエルによる大空襲以降およそ半月の間に1000人の犠牲者を出している。空襲に次ぐ空襲で、ガザ地区の一般市民は、疲弊しきっているだろう。アラブ地区の国々が一斉反発したのも当たり前であるが、パレスチナ内部でも、アッバス議長派のファタハとガザ地区のハマスは反目しているという、極めて難しい情勢下にあるわけだ。オバマ政権は、比較的穏健なファタハを後押ししているが、強硬手段に出たイスラエルを諫めることはしない。2枚舌の使い分けの例である。しばらくは、我々日本人には何事もないような時間が過ぎていたが、最近ガザ地区への食糧や医薬品などの支援物資を積んだリビアの慈善団体の船がガザへの入港をイスラエルによって阻止され、近くのエジプトのアリーシュに入港させられたという。イスラエルの言い分は、援助物資が反イスラエルのハマスに渡り、ハマスを力づけるだけだというのが理由らしい。ところが、エジプトに着いた2000トンほどの物資は、陸路でガザ地区に運ばれるのだという。もちろん検査を受けて後となっているが、何故、海路は駄目で、陸路なら良いのだろうかと思う。我々の近辺にも同じ事が起こっている。北朝鮮は、日本人を拉致したことを認めているが、詳細は全く見えないし、何らの対応も取ろうとはしていない。それでは、北朝鮮のような国は、国家でもないので、経済制裁をしろと日本人は息巻く。もし、経済制裁しても、北朝鮮の一般国民の疲弊が増すだけで、金正日には、影響がない。難民が増えることも問題である。金正日などは不法なことをして得たお金は、おそらく何処かの銀行でマネーロンダリングをしていて、金正日は全く困らないというのが実情ではないか。そんなことを連想してしまう。アメリカも目下の的はアフガンのアルカイーダであるから、今回のイスラエルの行動に対しても、リビアに自制を促す表面上の言葉だけで何ら行動をしない。要は、自国民が危険にさらされることがないなら、アメリカは動かないと言うことであろう。取り敢えずは、イスラエル(ユダヤ)とパレスチナ(アラブ)の戦いであると静観していると言っても良い。テロは撲滅しなければいけないが、どこまでがテロ組織で、どこまでが、一般市民なのか判断が付かないのであろう。かつてアメリカはベトナム戦争で、コミュニストを相手に戦ったが、一般農民の格好をしているベトコンが、急に銃で反撃するといった場面を多く経験しているから、そのトラウマがあるのかも知れない。まして、イスラム教徒と、ユダヤ教徒を含むキリスト教徒は創世の時から反目し合っているわけだ。これを解決出来るのは、神以外の何者でもないだろう。神はただ1つであるはずにも拘わらず、ユダヤ教ではヤハウェと呼び、シナゴーグで祈る。キリスト教徒は、ゴッドと呼び、チャーチで祈り、イスラム教徒は、アッラーと呼んで、モスクで祈るという具合である。実際の神は、どこでどのように聞いているのだろうか。その点、我が仏教の釈迦は、余り好戦的でないので安心である。しかし、世界中で諍いが起こっていても、自らに関係がないと見るや何ら行動を起こさないし、声明すら発しないのである。これを賢明と言うべきか。イスラム教とキリスト教は地中海を挟んで、激しい攻防を繰り返した、深遠な歴史がある。儒教の流れを汲むとされる中国の、毛沢東は、1957年、政府代表団を率いて訪ソしたとき、「人口の半分をうしなっても中国にとって大きな損失とはならない、人間ならいくらでも生産できるのだから」と演説したという。当時中国の人口は6億人強であるから、3億人ぐらい死んだってどうって事無いよと言うことだ。現在の日本の人口の倍以上を犠牲にしても得るものは得るというのであるからすざまじい。イスラム教原理主義の教えでは、イスラム教に反抗する者は皆敵であり、これを倒す行為はジハード(聖戦)といわれてむしろ英雄視される。原理主義の指導者が、腹に爆弾を撒いて自爆する行為を指導的に行わせている。犯行の後に、我々にはこういった兵士が、何千人も控えているというのだから、毛沢東と思考回路は同一で、こういった紛争はなくなる余地がないことが分かる。腹に爆弾を撒いて死ぬ方は、現在の苦しみから早く抜け出て、神(アッラー)の思し召しのままに聖戦を行って死ねば、あの世で栄華が得られると教えられ、それを心から信じているのである。更に、キリスト教徒側も、聖書の教えである聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した十字軍も自らの信仰に基づいての行動である。ユダヤ教は、モーゼを預言者としてユダヤ人を大脱走させ、シナイ半島に渡ってきたわけで、彼らの神は、彼らに、現在のイスラエルの土地を与えるという風に約束したというのだ。こういった風に各宗教の信奉する神が、それぞれの民を自分の都合の良いように焚きつけているわけだから、これらに全く関係のないというか、もっと高い次元の神々で話し合いをして貰わないと、こういった民族間の悲劇は無くならないであろう。
2010.07.19
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夕べはとても楽しかった。その続きを少し書くと、宇高国道フェリーは私がまだ玉野にいた頃には、最短で19分おきに出ていた高松へ行く重要な海の交通手段であった。その頃はJRの連絡船もあり、外にも、日通フェリーや、四国フェリーなどが就航していた。1988年に本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業したことから、役目を終えた、本四の連絡船は、今は、玉野振興会館内の模型で忍ぶことが出来る。ホーバークラフトや、高速艇の運航も漸次廃止となり、宇高国道フェリーなどのフェリーも、一旦は廃止を申請していたが、瀬戸大橋の通行料が高額だと言うこともあって、フェリーは便数を減らして運行を存続することになったようだ。聞けば、19分おきだった便数は、約1時間おきと言うことで、高松までの所要時間約1時間を考えると、往復で2時間強は掛かることになる。往復の運賃一人分700円を購入し、船上に入った。「たかまつ丸」である。メインであるフェリーの車両甲板には、夜行のトラックが数台乗っているだけだった。夜中だから、乗客も少なく、流石に斜陽となった夜間のフェリーだと言う印象は免れない。ほろ酔いの火照りをさますように甲板に出ると、ひときわ輝く金星が見える。そして、しばらく見ていると、連れ合いが、「星が綺麗!」という。仰ぎ見ると、満天の星とはこういう事かと言うくらい、梅雨明けの空にはきらめくように星が輝いていた。私の住む、大阪では、これほど綺麗で、星自体が大きく見える星空は望めない。周りが明るすぎるからだ。京都大学の天文台も引っ越しを余儀なくされたとかの話を思い出した。星が綺麗に見える一方で、来た方面には、玉野の街の寂れた明かりが見える一方、向かう高松方面は、電灯の灯が海岸線に長く広がっていた。少し寒くなって、船室に入ったら、全英プロゴルフの放送をしていたが、私は、眠くなり寝込んでしまったようだ。つきましたよと言う船員の声に一旦高松の地に降りて、また同じ船に乗った。一時の栄華が衰退したのは、瀬戸大橋が出来たためで、自らの過去を振り返って、世の流れで光が当たっている部分に反して、その影では、いろいろな影響があるものだという事を改めて思う。そもそも本四架橋の構想の端緒は1955年に起きた濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突し、168人死亡する紫雲丸事故の発生が元だという。宇高国道フェリーがその直接の原因ではないが、自らが撒いた種が戻ってきたと言うことなのかも知れない。昨日の疲れで、今朝は7時30分頃までぐっすりと寝ていた。起きた時には、一瞬ここがどこなのか分からないといった感じだった。ホテルの窓から外を見ると、その宇野港と瀬戸内海、そして昨日宴会をした玉野振興会館が一望に見える。港には、昨日にも増して、3つのフェリー会社の船が行き交う。右には、かつて勤めた造船所の、紅白に色分けられたジブクレーンの林が見える。玉野の街は、港を始め、以前より小綺麗になっているようだが、昨日の職場の人たちに聞いても、寂れていく一方だという。昨日、職場の連中と別れて、造船所の横を通ったが、大型船が、船台に乗っていたようだ。一頃閑古鳥が鳴いていた船台に巨大船があることは喜ばしいと思うが、現役の課長に聞くところ、韓国などは、現在は付加価値の高い、コンテナ船とかLNG船に目を向けているらしく、日本は、そのおこぼれのバラ積み船などの利幅の薄い、効率化でしか稼げない船をやっていると言うことを聞かされ、一寸した驚きであった。船殻の設計を20年余やってきたので、未練な事ながら、船を見ると懐かしさを感じる。良いことは少なかったように思う、しかし、ここが私のルーツなのだという感は何処かにくすぶっている。現に集まってくれた元の職場の同僚の中には現役の課長もいるし、船の関係で仕事をしている人もまだいるわけで、少なからず、発展を祈りたい気分であった。遅めの朝食を採って、チェックアウトし、市郊外にある母の墓に参って帰ることにした。街はまだ動き出していない。シャッター通りを車で抜け、花屋を探したが、どの店も開いていない。取り敢えず墓所の近傍に何か無いかと車を走らせた。以前来た時には、墓の近くのスーパーで花を買ったから、それが開くまで待つしかないのかも知れない。墓は、「みやま公園」という広大な公園の近くにある。道の駅にもなっているその公園に花を売っているという幟が立っていた。入っていくと、連休中故か、駐車場は車で一杯だった。朝市のような形式で、いろいろな地産物が売られていた。連れ合いが、多少の野菜と花を買って居る間に、昨日のお礼の電話を数人に掛けた。今回の行事予定は、これからの墓参りを残すだけとなった。連れ合いが調達した花を携えて近くの墓に参った。昨年夏に来ただけなので、墓地の周りは、草が一杯生えていた。猛暑の炎天下、ひとしきり草を引いて、墓を清めて、(なにやら水を掛けるのは良くないとかという話もあるようだが)持参した花を活け、線香を数本焚いてから、また来るよと心で言いながら、辞去した。後は一路帰るだけだ。まさか、来た時ほどは混まないだろうと思ってはいたが、カーナビの指示通り、水島ICから瀬戸自動車道路に乗り、倉敷JCTから山陽道に入り、岡山ICを過ぎて来た道を帰った。帰りは、連休中日であったせいか高速道路は普段通り空いたが、宝塚付近はよく混み合うので、その前に龍野西SAで休憩を取り帰ることにした。その後も危惧していた渋滞も全く感じられないままに、大山崎IC迄帰ることが出来た。家に帰り着く迄に一寸遅い昼食を、食べて、マンションの駐車場に車を止めたのは、水島ICに入ってから丁度3時間であった。往きの5時間余は一体何だったんだろうかと思うくらい、帰りは快適であった。高速道路が渋滞して、速く走れなくなった時には、高速料金を還元するなどの手配をして欲しいものだと思った。しばらく休憩して、かねて懸案だった、点滅する電灯の交換や、バラバラになってしまった洗濯物を吊すハンガーなどを買いに、近くのスーパーに出かけた。今回の玉野行きは、沢山のミッションを同時に果たせた有意義なドライブ旅行であった。4半世紀ぶりに、元の職場の同僚達と歓談出来たこと、バスケットボールで共に汗を流した同好の士達とも会えたこと、母親の墓に参れたこと、昔ひょっとして連れ合いと乗っていたかも知れない宇高国道フェリーに共に乗船したことなどである。段々と歳を取っていく、自由に車で行ける日がいつまで続くのか分からないけれど、会ってその昔にすぐ舞い戻れるのは、一緒に苦労した仲間達だったからである。また行きたいと思いながら、今回の旅は終わった。
2010.07.18
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先月初めに以前勤めていた会社のバスケットボール部のOB会を始めて開くという連絡を受けた。場所は岡山の玉野市である。私は1967年に入社して殆どすぐにバスケットボール部に勧誘され、入部した。入社した時には既に部は創設されていたが、まだ1年足らずの若い部であった。何度も書くようだが、私が風邪を引き独身寮でうなっている時に入部の勧誘に来られた先輩が居て、誘われるままに、数日して、練習に出かけたのが始まりである。創部して2年間くらいは、鳴かず飛ばずで、大学時代に痛めた腰が回復したこともあり、バスケットボールを楽しむという程度だった。その後、年々1~2人の新入部員があり、陣容は徐々に整っていった。1970年には岡山県下の実業団の優勝大会で優勝するなどして、実業団の中国大会に出場する機会も数度経験したが、中国地区には、流石に強いチームが居て、なかなか優勝というわけには行かない。元々、趣味でバスケットボールをしていたとか、学生時代に少し経験していたとかの混成チームであり、仕事を終えてからの練習と言うこともあり、なかなか思うようにいかず、何度か廃部の危機にも見舞われた覚えがあるが、私が、玉野を去る時には、まだ部として存続していた。追われるように玉野を去ったので、その後は、年賀状で部の存続を確認する程度で、それで古き良き時代を思い出す程度だった。今回は、1973年、75年入部の2人の発起で初めての試みであるOB会をするということで呼びかけがあったわけだ。従来の私であれば、逡巡するところだったかも知れないが、連れ合いに、過去の殻をはがせて貰ったおかげで、心も緩やかになっていた事もあり、また懐かしい当時のメンバーに会えると言うことで、参加を決めた。初めは一人で会に出席するつもりだったが、同伴参加も可と言うことで、共に参加させて貰うことにした。OB会が、岡山でということなら、簡単に新幹線で日帰りをとも考えたが、場所は玉野で18:00からということで、日帰りは無理となり、泊まりで行くことにした。そう言う事で、せっかく玉野に行くのならと、年賀状で、毎年、今年は会いたいですねと言い続けてきた、旧の職場の人にメールや電話をしたところ、数名で歓談の場を持ってくれるという。無理を言い、昼食をしながら3時間ほどの間、話をしようと別の会場を設定してくれた。どちらも、最後に会話してから少なくとも四半世紀は経過している。年賀状とかのやり取りがなければ、とうに忘れていた存在かも知れない。懐かしさもあるが、皆同じように歳を取って居るので、どんなに変わっているかなど楽しみな気分もあった。玉野までは、250km程度だから、車で行き、会合の晩泊まれば、楽に往復出来るドライブ旅行と言うことだ。高速道路でもあり、過去の経験からも片道4時間も見ていれば、十分だというつもりで、12:00からの旧職場の懇談に間に合うように1時間の余裕を見て、7:00にマンションを出た。大山崎ICから高速に入り、中国自動車道に掛かるとすぐに、宝塚付近までなにやら渋滞という警告灯があり、すぐにのろのろ運転となった。宝塚辺りはいつも混むので、それ程大したことにはならないと思っていたが、事故も加わって、わずか30kmの間に、1時間の余裕時間は吹っ飛んでしまった。その後の山陽道は、通常通り走れたが、高速を降りるICの選択を間違ってしまった。岡山ICで降りたのが悪かった。ICを降りてすぐの国道53号線がこれほど混むとは考えていなかった。高速道路も、国道も、3連休の初日と言うこともあってか、やたらに車が多い。岡山ICを出たところでは、まだギリギリ間に合うかと思ったが、53号線の混み具合で、遅参は決定的になった。電話でその旨を伝えると、待っていてくれるという。到着したのはかれこれ30分は過ぎていただろうか、6人の元同僚達は、待っていてくれた。挨拶もそこそこに、互いに無沙汰の挨拶などしている内、既に20数年前にワープしている自分を感じた。顔かたちは、若干変わっているとはいえ、皆面影は残っているというか、そのままのような気もしてくる。「本当に何年ぶりかなぁ・・」と懐かしさで一杯だが、喜寿を迎えようとしながらもまだ働いている人や、還暦だという人まで、それぞれの年輪を重ねているようだ。一頃から消息不明であった私の過去を紹介したが、皆もそれぞれ職場を転々としている。1人だけ、現役の課長が顔を見せてくれた。ほかに2人は、定年後も働いていて、九州出張中で来られないとか、協力会社の社長となり付き合いのゴルフを抜けられないとかで、顔が見られなかったのは残念だったが、連れ合いを含め8人は遅れた時間を更に30分も経過するくらい、話は留まるところを知らず、楽しい一時を過ごさせて貰った。皆苦労をしているのは同じだが、私と同じく海洋リグに関わった、同僚は、私と同様、憤りを以て過ごしてきたようだ。深く話すことがなくても気持ちはよく分かった。この会を世話してくれた、もう一人の同僚も、「○○さんが会いたくない人もいるかと思って・・・」と気を遣ってくれていたのは嬉しかった。心の内を逐一語るには、まだ気持ちがこなれていない。これを潮に、また来ますよと言いながら別れを惜しんで、昼間の会を後にした。実に懐かしく、且つ楽しかった。一旦宿に帰り、荷物を置いて、休憩の後、早めに散歩がてら、宇野港先端にある玉野振興会館内のイタリアン・レストランでの、バスケットボール部のOB会会場に向かった。18:00前に到着すると、既に殆どの連中が集まっていた。この会合は創部以来のOB会と言うことで、渡された、40名ほどの内半数近くが集まっていた。OB会と言っても私を含め、停年になった人は、東京在住とかで来ていないし、現役としてプレーをしなくなった人たちといったところで、まだまだ職場を完全に退いた人は少なかった。連れ合いのおかげで、私は安気に過ごさせて貰っている。昔懐かしい話も、若い人とは、繋がらないところもあったが、創部当時から、私が現役で、またコーチとして過ごした期間の仲間達とは、愉快に話すことが出来た。お開きとなって、その足で、6名ほどがカラオケ屋に行ったが、歌を歌うのかと思いきや、1人が、やおらパソコンを取り出し、1985年当時の試合のビデオを流し始めた。怪我をして出場していなかった者も居たが、カラオケ屋に来た全員がそのビデオに映っていた。その中には、私が、現役の人数が足りないのを埋めるためにユニフォーム姿でコートを走り、入りはしなかったがシュートをする場面もあった。私が40歳の時の映像であり、頭髪の薄くなり始めていたことがよく分かったが、40歳になるまで走っていたのだと言うことを改めて感心しながら見ていた。結局カラオケは歌わずじまいであったが、楽しく別れを告げ、我々2人は、連れ合いの要望で、真夜中の宇高国道フェリーに乗り、満天に輝く星を見ながら、高松までの往復のフェリー(船)の旅を楽しんだ。
2010.07.17
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4期目のNHKの講座の第4回目があった。今日の画家はターナーとコンスタブルが中心である。講師は、最初にこの講座はNHKの主催のものであるが、昨今の情勢から、なかなか利益も上がらず、今後の口座数は、半減する見通しであるような話であった。従って、この美術講座も、どこまで続けられるかは分からないということのようである。受講者数が少ないというのが一般的らしく、一応営利企業であるから、自宅でいろいろ特集するテレビ番組などを見るので十分だという人たちが多いのかも知れないとのことだった。そう言った一寸後ろ向きの話の後最初に説明があったのはトマス・ゲインズボロの「アンドリュー夫妻の肖像」であった。18世紀のロココ風の肖像画と風景画をミックスしたような、華やかな感じの絵である。特に、描かれている夫人の肖像は、いかにも可愛らしいといった感じに描かれている。17世紀のアニーバレ・カルラッチの「エジプト逃避」の神話に基づいた、風景画と、18世紀のこの「アンドリュー夫妻の肖像」、さらには、19世紀のコンスタブルによる「乾馬車」の風景画が時代の変遷と共に変わっていくのを対比しての説明であった。ここで、エドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源についての哲学的考察」という紹介があり、エドマンド・バークは「美」は快く、幸福感を与えるものであるとし、ただそれだけでは飽き足らないとし、そこに「崇高(Sublime)」という概念を取り入れた作品が、より良いとした。「崇高」は強大とか力強いこと、また神秘的で運命を感じさせるものといった要素が必要であると言うことを言っている。ロココ風な風景画は可愛らしく、弱々しさがあって、何かその崇高さが掛けているが、17世紀の「エジプト逃避」にはそれがあるのだという。芸術というものは広さはあまりなく、繰り返されるものであるといった説明があった。イタリアにおけるルネサンスでも、中世の原点に戻ったり、古代に戻ると行ったことが見られるというのである。コンスタブルの「麦畑」では画家は自ら風景を描くのが好きで、使命であると言ったことを述べている。スケールの大きな絵で遠方に麦畑を描き、前方では、少年が水を飲み、牧羊犬が羊を追っている。コンスタブルの「司教の庭から見たソールズベリ大聖堂」は司教に依頼されて描いたものだが、これを機に多くの同種作品を残している。マーティンの「吟遊詩人」は奇岩の上に竪琴を持ち奏でる吟遊詩人という一寸当時としては新しい試みの雄大な想像画であるが、ある種恐怖を描いている点で崇高(サブライム)的であるが現代の我々は、CG等でもっと恐ろしい場面を見知っているためか、現在でのこの絵の評価は高くないという。いよいよターナーの作品である。(画家ターナーの名前は省く)ターナーは、ロンドンのコベント・ガーデンにある散髪屋の息子として生まれた下層階級であった。後にロイヤルアカデミーの教授にまで昇任したが、上流階級の娘と結婚するには出自が邪魔をし、下層階級の娘とでは、自分のステータスが許さないといったジレンマで、同棲はするものの、結婚はしなかったと言うことである。イギリスの強烈な階級制度を匂わす逸話である。絵画は、まず、「カルタゴを建設するディド」が紹介され、この絵はフランス古典主義のクロード・ロランを信奉するというだけあって、光の効果的描写や水面への反射などを含めロランの「港の風景」と全くと言っていいほど同じ構図である。当時地中海地方が美の中心とされており、フランス人もそうだが、イギリス人も、地中海と、古代へのあこがれを持っていた。ターナーは、クロード・ロランを通じてあこがれを描き、敢えて、ロランの作品と同室に飾ってくれることを条件に、美術館にこの絵を寄付したという話である。「戦艦テメレール号」は、フランスースペイン連合艦隊(無敵艦隊)が、イギリスをも支配下に置こうと攻め込んだ時に、トラファルガーの戦いで、イギリスのネルソン提督がこれを撃破した時の旗艦であるが、このような華やかな活躍をした戦艦も、木造船であり、産業革命後の蒸気船の出現により敢えなくスクラップされるために曳航されていく姿を落日と共に描いたものである。講師は、こういったケースは日本では該当がないと言っていたが、私には、日露開戦で、東郷元帥が乗艦した戦艦三笠の姿にラップして見えた。ターナーは、こういった絵の中に、光、水、雲、などの絵画では表現しにくい要素をキャンバスに写し混むことを好んだ画家といえる。これらの絵の流れが、後の印象派の光と色彩を生む原点にもなったということである。「トラファルガーの戦い」はその戦場の有様を描いたもので、多分に幻想的なものである。片目、片腕を失ったこの英雄提督の話は、私が、造船時代にカウンターパートの船主監督から聞かされたことを思いだした。「号砲一発」は帆船華やかなりし17世紀の戦闘を描いた、海洋風景画というジャンルに属する作品である。残念ながら私自身は帆船のなんたるかは知らないが、時々日本丸などの話を聞くと、ああいった船で海上戦闘を行っていたのかとその勇壮さに思いを馳せる。「夜に石炭を運ぶ男達」これも海洋画であるが、捕らえにくい、炎、煙、月明かり、雲、水面などを見事に表現しており、後の印象派の人たちから尊敬されたという。「国会議事堂炎上」は実際にあった火事の話を絵画で写し取ったものであるが、多少の誇張を含んでいるようだが、議事堂を包んだ激しい炎が、テムズ川に反射する様を激しい筆致で描いている。「吹雪、港を離れる蒸気船」印象派は元より、現代の抽象画にも影響を与えたと言われる。抽象には「冷たい抽象」と「熱い抽象」があり、モンドリアンやカンジンスキーなど、事象を煎じ詰めればこうなると行った要素的なことにまで対象を絞り込むといったものを「冷たい抽象」と呼び、自分の身体の中にある描きたいと思う心を身体全体の運動と共に発散するように描くのを「熱い抽象」と呼ぶのだという。「吹雪・・・」は後者に属するのであろう、私には意味が分からなかった。「雨、蒸気、スピード」ではターナーが初めて蒸気機関車に乗車し、その速さ(といっても50km/hくらいか)に驚愕して、機関車がばく進する様を描いたものである。感じたスピード感を絵画の中に見事に表現している。「ヴェネツィア風景」は連れ合いと行った場所であるが、彼は3度訪れたという。安藤忠雄が、一部を改造し美術館にしたとかの話があった。霧にかすむサンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂が幻想的に描かれている。先頃フォロ・ロマーノを描いたターナーの作品が、40億円で落札されたという話もあった。「日没」は第一印象で、モネの「日の出」を想起させる。ターナーはこういった作品をよく描いたが、何と15000点とも30000点あるとも言われている。「影と闇」は創世記の世界の始まりを描いたという後付の解釈があるとか、「光と色彩(ゲーテの色彩理論)」に影響を受けた、なにやら真ん中にゲーテか、神かを描いた、幻想的で且つ哲学的な感覚の絵画である。ゲーテは「闇からも光が生まれる」といったとか、哲学は難しい。
2010.07.16
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字数の関係で、その1からの続きです。訳文は以下の如し、 右にあげたいくつかの問題は、すべて本願他力の信心からはずれていることによっておこったものと思われます。故上人のお話によると、法然上人がまだ御在世のころ、そのお弟子は多数おられたが、おなじ信心にうちこむものが少なかったために、親鸞はその仲間たちとさえ議論することがあったということです。その議論のおこりは、「親鸞の信心も、法然上人の御信心も、少しもちがうものではない。」と親鸞がおっしゃると、それに対して、誓親房とか念仏房とかいった同門の仲間たちが、そんなことはもってのほかと、親鸞と言いあらそい、「どうして、法然上人の御信心と親鸞のそれとが同じだなどといえるはずがあろう。」ということになり、そこで親鸞は、「上人のものを見ぬくお力や判断するお力が広大でいらっしゃることと自分のそれが同じだといったら、それはたしかにまちがいだろうが、往生させていただくことを確信するという点では、まったく異なることがない。ただひとつである。」と返答なさったのであるが、それでもなお、「どういう根拠でそうなるのか、その意味がわからない。」といって疑問や非難の声がやまない。こうして結局、法然上人のいらっしゃるところで、自分と相手とどっちが正しいかを決定しなければどうにもならないということになり、事の詳細を申しあげた。すると、法然上人がおっしゃるには、「この法然の信心も弥陀如来からいただいた信心である。親鸞の信心も同じく如来からいただきなさった信心である。故に、それはただひとつのものである。これと別な信心をもっておられるかたは、法然がまいろうとしている浄土へは、おそらくまいられることはござるまい。」ということであった。このことからも、そのころ念仏にもっぱら励んでいた人々のなかにさえも、親鸞の御信心とは異なるむきがあったことがわかるのです。以上のことは、どれもこれも、今のような世の状勢となってはどうにもいたしかたのないことなのですが、言わずにいられなくて書きつけたのです。わがいのちも朝露がほどなく落ちるように残り少なくなり、からだも枯草のようにひからびた老人になってしまったので、いまのうちにと思って、自分のおともをしてくださるかたがたがよくのみこめずに困っていることを聞かせていただき、それについて、親鸞上人がおっしゃっていたことのだいじな点をお話して聞いていただいたのですが、この自分がやがて死んでからは、かならず、もっともっと乱れた世になることであろうと、なげかわしく思われます。そして、以上しるしてきたような誤まった説をいろいろと主張しあっている人々に、言いまどわされるようなことがあった場合には、故上人がお気にめして御使いになったこの道の文書がいくつもあるので、それらに書かれているお教えをよくよく御覧になるがよい。だいたい、仏教の文書には、真実をそのまま書いた部分と、その真実へ引きいれるための仮りの手段として書いた部分とがあるが、そのふたつがはっきり区別できない形でまじわりあっているものです。だから、その手段をすてて実をとり、仮りのものは、そのままにしておいて真をいかすというのが、教えを学ぶうえでの親鸞上人のほんとうのお気持であります。けっして、教えの文書をお読みちがいなさることがあってはならない。このことについて、だいじな証拠となる文章を、少少ぬきだし、信心の目標にと思い、この書にそえさせていただいたのです。上人は、いつも、「弥陀が五劫(ごこう)という長年にわたって考えぬいてこられた誓願は、よくよく考えてみると、それはまったく、この親鸞ひとりのためのものであった。だから、かぞえきれないほど多くの悪い行為を積んできたこの自分であるが、この身をさえも救おうと思いたたれた本願が身にしみてかたじけなく思われてならないのだ。」と、そのお心の内をおもらしになっておられたが、いままた、あらためて考えてみると、そのお言葉は、あの善導の、「自分は現に、罪悪を犯しつづけ、生死の世界でさまよっている凡夫で、久しい昔からずっと、たえず生死の世界に迷いしずみ、そこでの流転をくりかえしていて、どうにも迷いの人生を抜け出る手がかりのない身だと知らなくてはならない。」というたっとい言葉と、すこしもちがっていない。とすると、それは、もったいなくも御自分のことを例に引いて、親鸞御自身のこととしておっしゃることにより、われわれが自分の罪悪がいかに深いものであるかを知らず、また、如来の御恩がどんなに高いものであるかをも知らないで迷っていることを、われわれみずから身にしみてわかるようにというためのものであったわけなのです。ところが、じつに困ったことに、この如来の御恩というものを問題にしないで、だれもかれもが、善いことをしたとか悪いことをはたらいたとかいう現象的表面的なことばかりを議論している。しかし、聖人のお教えでは、「なにが善であり、なにが悪であるか、そういうふうにふたつに分けて考えることは、自分にはとうていできない。なぜかというに、弥陀如来のお考えにおいて、善しと考えられるところまで徹底的につきつめて、それを知ることができたとしたら、それこそ善を知ったともいえよう。また、おなじく、如来が悪いと御判断になる程度にまで徹底してそれを知りえたというなら、そのときはじめて、悪を知ったともいうこともできよう。けれども、あらゆる煩悩にとりまかれていて真実の見えない凡夫、しかも、火事でもえさかっている家のようにはかないこの無常の世界では、すべてのことがみな、意味のないそらごと、でたらめばかりで、真実なことがひとつもないのに、ただ、念仏だけが真実であられるからだ。」というお言葉もあったのです。たしかにそのとおりで、だれもかもが、意味のないことばかり、あれこれ主張しあっているそのなかに、ひとつじつに心痛にたえないことがあります。それは、念仏をとなえることについて、その信心のありかたをさまざまに議論するとき、また、ひとに説明するときにも、ひとにものを言わせず、ただ自分の主張を述べたてるだけで議論をうちきろうとして、まったく親鸞のお言葉になかったようなことをも、「これがお言葉だ」などとばかり言いはることで、これはまったく、あさましくなげかわしく思われることです。このことがどんなにまちがったことであるかをよくよく考えて、教えの意味を正しく心得ておいていただかなくてはなりません。これらのことは、けっしてわたくしの言葉ではないのですが、経典やその評論・注釈などのだいじな点に、あまりくわしくもなく、この道を教える書物の深浅を、深く理解したこともないので、きっと、おかしいと思えることもあろうが、なくなられた親鸞がお言葉をもってお教えくださったその言葉の真実のところを、その百分の一、ほんの一端だけでも伝えなければということで、思い出させていただくままに、ここに書きしるしたのです。じつにかなしいことではないか、念仏するという幸運にめぐまれながら、すぐさま浄土へと往生できないで、いったん、そのへき地にとどまるようなことになろうとは。どうか、おなじ念仏にうちこむわれわれ仲間から、ひとりも信心に反するものが出ないように、と願って、涙をぬぐいぬぐいこれを書いたのである。だからこれを名づけて『歎異抄』といおう。これはあくまでわれわれ内部での問題であって、決して外部の人々には見せてはならないものである。注釈は下記の通り、1右条々 第十一章以後を指す。2御ものがたり この話の内容は覚如『御伝抄にも出ている。3善信 親鸞の別名。4誓観房。勢観房 誓は勢の誤り。法然の高弟、源智(一一八二-一二三八)の号。平重盛の孫で、平家滅亡後、十三歳で法然門下となる。百万遍知恩寺の開祖。5念仏房 念阿弥陀仏とも号した(一一五六-一二五一)。法然の高弟。嵯峨の往生院を創建6才覚 学識・識見のこと。7ひがごと 僻事(ひがごと)。事実にあわない不当なこと。8源空 法然の別名。9当時 親鸞が法然門下にあったころ。10閉眼 口をとじること。死を意味する。11しどけなきこと 秩序が乱れてばらばらになること。12御聖教ども 聖覚『唯信抄』、隆寛『自力他力事』、同『後世物語』などを指すことが、その書簡集の記事を通じてうかがえる。13真実権仮 真実と権仮。権と仮はともにかりのもの、方便。14かまへて 必ず。決して。もと「用意をととのえて」からの転意。15みみだらせ 見乱らせ。読んでばらばらにさせることで、真意を読みちがえること。16自身はこれ…‥身としれ 善導『観無量寿経疏』のなか『散善義』にあることば。17曠劫 ずっと大昔。曠はほるかに久しいこと。劫は長遠な時間。18出離の縁 迷いの世界から離脱する手がかり。19さた 沙汰。評議して問題にすること。20火宅無常の世界 たちまちのうちに変ってしまうこの世界。「火宅」とは燃えさかる家で、『法華経』(比喩品)で苦悩の世界にたとえていることば。21外見 念仏仲間以外の人々に見せること。歎異抄の言われ、親鸞でさえ猜疑心で見られたことなど、を知ることが出来た。「念仏専修」、「善人なをもて往生とぐ、まして悪人をや」など、浄土宗を求める時代背景を見ながら、宗教の興った意味合いが少し感じられた。取り敢えず、「歎異抄」の勉強はこれで置くことにする。
2010.07.15
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十八章(補遺)である。字数の関係からその1(本文)とその2(訳文・注釈)に分ける。本文は以下のごとし 右条々は、みなもて信心のことなるより、ことおこりさふらふか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人(ほうねんしょうにん)の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞御同朋(おんどうぼう)の御なかにして、御相論(ごそうろん)のことさふらひけり。そのゆへは、善信(ぜんしん)が信心も聖人の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、誓観房(せいかんぼう)、念仏房(ねんぶつぼう)なんどまふす御同朋達、もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の御信心に、善信房の信心ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに一(ひとつ)ならんとまふさばこそ、ひがごとならめ、往生の信心においては、またくことなることなし、たゞひとつなりと御返答ありけれども、なをいかでかその義(ぎ)あらんといふ疑難(ぎなん)ありければ、詮(せん)ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげければ、法然聖人のおほせには、源空(げんくう)が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればたゞひとつなり、別の信心にておほしまさんひとは、源空がまひらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらはじとおほせさふらひしかば、当時の一向専修(いっこうせんじゅ)のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらふらんとおぼえさふらふ。いづれもいづれもくりごとにてさふらへども、かきつけさふらふなり。露命(ろめい)わづかに枯草(こそう)の身(み)にかゝりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをも、まふしきかせまひらせさふらへども、閉眼(へいがん)ののちは、さこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらひて、かくのごとくの義どもおほせられあひさふらふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるゝことのさふらはんときは、故聖人の御こゝろにあひかなひて御もちゐさふらふ御聖教(おんしょうぎょう)どもを、よくよく御らんさふらふべし。おほよそ聖教には、真実権仮(しんじつごんげ)ともにあひまじりはさふらふなり。権(ごん)をすてゝ実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまえて聖教をみみだらせたまふまじくさふらふ。大切の証文(しょうもん)ども少々ぬきいでまひらせさふらふて、目やすにしてこの書にそえまひらせてさふらふなり。聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれは、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐(ごじゅつかい)さふらひしことを、いままた案ずるに、善導(ぜんどう)の「自身はこれ現に罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぷ)、曠劫(こうごう)よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離(しゅつり)の緑あることなき身としれ」といふ金言(きんげん)に、すこしもたがはせおはしまさず。されば、かたじけなくわが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ、惣じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こゝろによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、たゞ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。まことに、われもひとも、そらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらふなり。そのゆへは、念仏まふすについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたゝんがために、またくおほせにてなきことをも、おほせとのみまふすこと、あさましくなげき存じさふらふなり。このむねをよくよくおもひときこゝろえらるべきことにさふらふ。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈(きょうしゃく)のゆくぢもしらず、法文(ほうもん)の浅深(せんじん)をこころえわけたることもさふらはねば、さだめておかしきことにてこそさふらはめども、古親鸞(こしんらん)のおほせごとさふらひしおもむき、百分が一(ひとつ)、かたはしばかりをもおもひいでまひらせて、かきつけさふらふなり。かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直(じき)に報土にむまれずして辺地(へんぢ)にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて歎異抄といふべし。外見(げけん)あるべからず。その2に続く。
2010.07.15
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在日フランス人のポール・ボネの作品のタイトルである。と今まで思っていたが、実は藤島泰輔と言う日本人小説家のペンネームであったと言うことを知った。在日フランス人の目から見た不思議な日本人の習性などを書いた本と言うことだったが、実は、日本人自身が感じた日本の奇異なところと言うのが正確なようだ。藤島泰輔は今上天皇のご学友であったと言い、在フランス生活が長かったようで、その時の経験から対フランス比較として日本人を軽く揶揄した軽妙な筆致の本である。1982年からシリーズで出された本は、若干の装丁を変えて、1993年頃まで続いたが、全部で23冊を数えたシリーズだそうだ。私は、半分ほど買って読んだが、最後はマンネリ化を感じたためか、読むのを止めてしまった。なるほどと思うところがたくさんあり、かなり共感出来たので、時々振り返ってみることにする。「過保護新幹線」という題では、新幹線の過剰サービスについて書いている。とにかく、外国の列車に比べて発車時刻の放送や、ホームの案内、車内販売の過剰サービス、何両編成で、何号車は指定席、ブッフェは何号車という案内、駅毎に降りる人に対して「お忘れ物なきよう、お手周りをお確かめ下さい」といった類のことである。確かに、初めて新幹線に乗る、田舎育ちの老人にとっては、この放送はありがたいかも知れないが、東京大阪間を出張で常に行き来するサラリーマンにとっては、これほど煩わしいアナウンスもない。私は、新幹線を使うことが無くなって久しくなるが、この間、東京で「オルセー美術館展」があると言うので、同窓生と会うこともかねて、久しぶりに新幹線に乗った。その時の放送は、殆ど昔と変わらなかったのか、それとも多少なりとも少なくなったのかは感じなかったが、ポール・ボネのこの件についてのコメントを見ると、やはりまだ過剰だったような気がする。しかしおかしなもので、それだけのことを言われても、当初はうるさいと感じたこともあったが、慣れっこになってしまって、BGM(バック・グラウンド・ミュージック)のように聞き流していることに気づく。外国は、自己責任でと言うことが徹底しているのか、こういった過剰な放送や案内がないのが普通である。フィリピンでPAL(フィリピン航空)に乗った時のことだが、先ず時間通りに発着が期待出来ないと言うことを経験した。地元の人間はPAL(Philippine Air Line)の頭文字をもじって、Philippine Always Late (常に遅れる)とかPhilippine Already leave(既に出発した)とか自嘲気味に話していたのを思い出す。とにかく、その時以来自分の行き先や、どのゲートで待つべきかについては、片時も忘れてはならず、機上するまでは安心してはいけないということを学んだ。さらに、サウジアラビアのジェッダ空港での話だが、ハッジの時にメッカを訪れる人が多いにも拘わらず、飛行場の面積は広大だが、ターミナルの建物は極めて小さな国際空港である。そして、ゲート数は少ないにも拘わらず、ボーディング・パスに書かれている搭乗口と、各ゲートに掲げられている行き先案内と、更に小さなテレビモニターに出ている案内とが全て同じでないと言うこともあった。そうすると、後は、放送を頼りにするしかないが、国際空港であるにも拘わらず、殆どがアラビア語での放送で、英語は瞬時しかないという有様であった。どうしたかというと、ゲート前に人が列を成すと、そこに行き、「バーレーン?」とか自分の行き先を聞くわけである。並んでいる人たちが「うん」と言えば、それで良し、そうでないとそれを繰り返すしかない。結局、ゲート表示は「to Doha」となっているところからバーレーンに向かって出発すると言うことになる。日本とは大きな違いであった。また、中国では、搭乗ゲートが、ちょくちょく変わる。北京空港で、福州行きを確認してそのゲート前で待ち、本でも読んでいて、ふと目を上げると、ゲート番号が何の予告もなく変わり、それも半端でなく遠い場所だったりする。やはり、しっかりとした案内の放送は少なかった。多分ポール・ボネはこういった経験を数多積んでいるのであろう、日本のやりすぎるくらい丁寧な(時に煩わしいほどの)案内放送を揶揄しているのであろう。新幹線がまだ珍しかった頃の話であるが、呼び声を出しながらの車内販売も昔に比べて少なくなったようでも、基本的なことは変わらない。。ポール・ボネはこれをサービスと感じていたようだが、私はむしろ、販売により売上を上げようとする以外の何物でもないと思っている。新幹線が相当に浸透しても、空の旅は、こういったサービスが未だに残っている。一昼夜も飛ぶ海外渡航ならばいざ知らず、2-3時間の空路で、離着陸の時間を除くとほんの1時間程度しかないのに、飲物のサービスがある。これも考えようによっては余計なお世話である。もし要らなければ、断るか、狸寝入りをする以外にはない。こういったことがサービスであるという感覚では、コスト削減は出来ないばかりか、多額の負債を抱えても平気でいられるのであろう。空の旅と言えば、小さく狭い席に閉じこめられ、自由にトイレに行くことも憚られる中、目が覚めると、食事を採らされる。差して旨くない食事でも、次は何時になるかが分からないからついつい食べてしまう。海外へ行くとなると、時差があるから、なんだか変な時間に食事をすることにもなるわけだ。最近の海外の格安航空会社では、こういった余剰と思われるサービスをしないという方向もあるそうだが、まだまだ全てそうはなっていない。話を元に戻すが、私は、海外で列車やバスのような乗り物に乗るのは苦手である。連れ合いによく笑われるが、やはり、何処に連れて行かれるのか(自分が正確に行き先通りの車に乗れるのか)が心配なのと、果たして、時間通りにやってくるかどうかが不安だからでもある。ポール・ボネが、言うように日頃から過保護な案内に慣らされた故に、私がそうなったのかも知れないと思った。過剰案内という意味では、私の住む近くの駅では、ホームは上下線が同じ1本しかないのにも拘わらず、(従ってエスカレーターは上下2本しかない)「向かって右側が昇りエスカレーターで、左側が下りエスカレーターです。」(見れば分かる)、そして昇りエスカレータに乗ると、「京都方面、梅田方面のホームへ向かいます」といったアナウンスが流れる。(これも其れ以外にはない)間違いようがないのに、何故?といつもそこを通る度に思うのである。
2010.07.14
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3日ほど前の日経新聞に「宇宙大航海時代」幕開けという記事が掲載された。日本の「はやぶさ」がトラブルを含め7年間の宇宙滞在で、総飛行距離60億kmというとてつもない航行を終えて6月13日に帰還したことからの特集となったようだ。これでJAXAの川口プロマネは一躍寵児となった。一方、先の参院選挙で、170万票を超える支持を集めた仕分け人、蓮舫大臣は、「一番でないと駄目ですか?」との名台詞を残したが、該当の宇宙航空研究開発機構(JAXA)に対しても、4月の仕分けの遡上で、2009年度の宇宙航空技術基盤の強化での国費投入額157億円に対してカバナンスの強化をもとめ、JAXAの広報施設については事業の廃止を要求した。「はやぶさ」の帰還があと2ヶ月早かったら、こういった要求はなかったかも知れない。何故人類は、地球自身の事も殆ど解っていないというにもかかわらず宇宙に出て行くのだろうか。単なるロマンを追うという理由でないことは明かである。「宇宙大航海時代」と言うネーミングはもちろん、15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を行ったいわゆる大航海時代によっているのだろう。サミエル・ハンチントンが言うように、人類の歴史上の問題は、文明の衝突の歴史だと言っている。15世紀中ごろからの大航海時代も人類出現以来、隣り合う文化文明が互いに交流し影響を及ぼしあってきた結果、その先に何があるのだろうという好奇心と、もちろん金儲けの野心、それに国としては、領土を拡大するという明らかな意図があった。古代ギリシャ人の地中海周辺の征服、マケドニアのアレキサンダー大王による東方遠征、古代ローマ帝国によるパックス・ロマーナの名の下の版図の拡大、ローマ衰退後のゲルマン人やノルマン人によるヨーロッパの席捲、一方イスラム勢力によるイベリア半島に侵入、これらに危機感を抱くキリスト教徒の十字軍遠征等々、歴史的に見て、人類の営みは、一つところに止まることで満足しなかった。いち早くレコンキスタを達成したキリスト教徒達は、エンリケ王子に始まる大航海時代へ突入し、西アフリカへの進出、続いてバルトロメウ・ディアスによるアフリカ南端到達、さらに、ヴァスコ・ダ・ガマのインドへの航路開拓と続く。そして、我らがコロンブスによるアメリカ大陸の意図は西回りインド航路を発見するに止まったが、アメリゴ・ヴェスプッチによる真のアメリカ大陸発見に至る。そして最後に、マゼランによって、世界周航を果たし、地球が球体であることを実証したのである。このように先行して大航海を先導したのはポルトガルとスペインであったが、イギリスやフランス、そしてオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕して、慎重かつ綿密な植民地経営で版図を広げていった。そして、イタリアなども加わった、ヨーロッパ人たちの新世界開拓も17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域に行き渡ることにより大航海時代は終焉を迎えることになる。こうして、太陽の沈まない国と呼ばれたスペイン帝国や続く大英帝国もかつての版図を皆返還し、今日に至っている。そう言った、大航海時代が、宇宙に於いて今始まろうとしているというのだ。この宇宙開発は、かつて、ソ連とアメリカの独壇場であり、開発の目的と利用は、ひとえに軍事的なものとされていた。弾道ミサイルや人工衛星など、軍事的利用が可能な技術の研究が競われる宇宙開発競争がその始まりである。1955年のソ連による人工衛星スプートニク1号を皮切りに、アメリカの有人月面着陸を成したアポロ計画の成功などを経て、今では、アメリカ、ロシアを始め、日本や欧州、中国、インドまで宇宙開発計画に参加している。しかし、宇宙計画は、地球上の新世界を開拓したことに比べると格段に費用が掛かると同時に高度な技術が必要となる。単なる、肝の据わった冒険者であるだけでは出来ない仕事である。現在日本は、欧州宇宙機関(ESA)と共同で水星探査計画「ベピコロンボ」と、月面探査の「かぐや」、金星探査の「あかつき」、更に今回帰還した小惑星「イトカワ」の分析に寄与出来るかという「はやぶさ」がある。その他の国も、アメリカ、欧州、中国、インド、ロシアなどで、水星、金星、火星の太陽系惑星と、月および、地球と火星間に存在する小惑星の探査を行っている。もちろんこのほかにも、太陽を始め、木星、土星、など太陽系惑星全てにまで、人工衛星を飛ばしている。さらには、地球から10数万光年から2万2000光年というとてつもない遠方の太陽系外の惑星にまでも観測の手を延ばしている。宇宙は果てしなく、一朝一夕に全貌が分かることもない。地球の誕生から46億年が経っていると言うが、人類がその祖先を含んで地球上に現れたのは、高々700万年前のことである。しかも現代の人類の直接の祖先とされるホモサピエンスの登場からはまだ20万年を経過しているに過ぎない。元より、科学という観点からは、その進歩の度合いは昔のそれに比べると比較にならない程度に速くなっている。しかし、過去地球上には大氷河期が、4回起こっているという。スノーボール・アースで言うように全球凍結してしまい、人間は元より、ほ乳類の生存はおぼつかないことになるだろう。今の宇宙計画は、代替地球を探すことも視野にあるが、概ねは、宇宙の成り立ちや地球の生成過程を知る糸口をつかもうというものだ。そして、これが最も実際的な目標であろうが、有用な鉱物資源の発見とその獲得という意味がある。中国などは、あからさまに鉱物資源の調査を目的とすることを謳っている。宇宙(月)にはチタンを含む「イルメナイト」や核融合発電の燃料としてのヘリウム3ガスも豊富に存在するとされている。政府の宇宙開発戦略本部の月探査懇談会の白井座長(早大総長)も、宇宙の資源に対して日本も貪欲になるべきだとしている。地球上の中国のやり方を見るにつけ、中国の力と、強引さで、宇宙(月)における縄張りを勝手に張り巡らせて、この範囲の資源はその取得の権利は中国に属するといった風なことが近い将来起こることが懸念される。宇宙での長時間滞在のための実験もアメリカや、ロシアでは行われているという。日本も、純粋技術的な先進性のデモンストレーションも良いが、やはり結果を出し、日本のためになる地に着いた宇宙開発に取り組んで貰いたい。因みに、宇宙船基地や人工衛星の発射場を保有している国は世界で、15カ国であるそうだが、先進国と呼ばれるG7の中で、カナダ、ドイツ、イギリスにそれらがないと言うことであり、その信憑性を疑う。もちろんBRIC’sと呼ばれるブラジル、ロシア、インド、中国はこれらを有しているのだ。宇宙開発は、平和裡に、人類全体の繁栄をベースに考えたいが、過去の歴史を見る限り、宇宙だけが特別という割り切り方はあり得ないだろう。SFに見る、地球全体の宇宙人の外敵が現れたら、ゴッドもアッラーも仏陀なども一丸とならざるを得ないのだろうが、それはそれで困った状態になるであろう。
2010.07.13
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京都大学の卒業生による公開講座に出かけた。中学校は試験期間で採点や成績整理などで疲れている連れ合いも付き合ってくれた。講演のタイトルは「戦略的外交の考え方」で副題に-世界の変化の中で日本はどうする?-であり、講演者は京大の卒業生で、元外務審議官であった田中均氏だった。場所は去年の暮れに来て以来の京大吉田講堂である。前回来た時よりも沢山の受講者が居たようで、館内はほぼ満席状態だった。田中氏は京都生まれの京都育ちで、父親は岩井産業(日商岩井の前身で、今は双日)の会長を務めた人で、紆余曲折、ペルーで交換捕虜要員用として拘束され、釈放後中国戦線から帰国した頃に生まれたという。生まれは、私より2つ若いようだが、流石に外務審議官を務めただけあって、知名度も、集客能力もすごいと感じた。ただ、同期入省には、外務事務次官が居たり、駐米大使が居たりと、東大卒がひしめいている。余談ではあるが、今更ながらに、官僚たるもの東大卒でないと、と言う感を強くした。読んではいないが、氏の著書に「東大vs」というのがあることからも推察出来る。父親の境遇から、人間は国策によって翻弄される運命にあると言うことを肌で感じ、ならば国策を作る側になろうと思ったのが、外務省入りのきっかけであるという。氏の経歴を知るには、他に幾らでも手段はあるが、生の声を聞くことから、歩んできた道や、思想の片鱗を知ることが出来た。配られたのはレジメに代わる、今年初めに日経新聞の「心の玉手箱」に執筆されたシリーズと、毎日新聞の「世界の鼓動」シリーズであった。京大でゴルフ部にいたと言うから、先ずお坊ちゃまだという感じ印象だ。友人から「お前はゴルフ以外に出来ることがあるのか!?」との言葉に発憤、公務員試験を受けることにしたと述懐していたが、おいそれと簡単に真似の出来ることではなく、やはり良くできた人なのであろう。これも余談であるが、外務省―ゴルフ-東大以外の卒業という連想ゲームから、つい守屋元外務事務次官を思い出した。その辺のことや田中真紀子に伏魔殿と呼ばせた外務省の事など聞きたいことはいっぱいあったが、本論では一切触れられなかった。わずかに機密漏洩事件の言葉が出たが、深くは言及されなかった。外交官の皮切りは、在インドネシアということだが、その時出くわした、インドネシアの権力闘争に起因した、ジャカルタ反日暴動やその前の日本赤軍によるテルアビブ事件などを通して、自分は何をやりたいかを確信したという。入省後5年という頃であろうか。その1つは敗戦後アメリカ追従であったこの国を変えたい。と言う思いと2つ目の平和を造りたい。と言うことであったという。日本の国を振り返るに、歴史的に見て、この国の外交は機能していなかったと言うことが思い浮かんだというのである。アメリカ追従という事実は拭いがたいことであり、そうではなく、日本が普通の国になりたいと感じたというのだ。その為に次の3つの命題を持ったという。1.市場の開放2.安全保障政策を変える3.過去をしっかりと整理するである。1.の市場開放は、正にアメリカとの経済摩擦による日本バッシングの最中であり、自民党政権下では既得権益を守ろうという勢力に抗しきれるものではないと感じたことと、その例として、1社しかないNTTの寡占で決められた、通信料をなかなか下げられないという例を挙げていた。今でも、NTTの影響が完全に公平に分配されているとは言い難いが、紛いなりにも通信会社は数社ある。2.の安全保障では、政権与党(自民党)はなるべく蓋をしようとし、野党はそれを公開せよと迫る構図で、「外務省密約事件」などもそれ故起こったのだが、氏は、1994年頃、北朝鮮を想定して、戦争の可能性は否定出来ないと感じたのだそうだ。そして戦争は何故起こるかについて、それは為政者の計算違いによって起こると言っていた。その例として、イラク戦争で、サダム・フセインは、クウェート侵攻をしてもアメリカが何十万の兵力を投入するとは思わなかった計算違いだというのだ。それ程単純なものではないかも知れないが、プリミティヴにはそう言ったことなのかも知れないと言うことも思い知った。では、ケネディがキューバ危機で取った行動には、勝算という計算があったのかどうか、極めて疑問である。いずれにしても、ヒーローとなるか、イーヴルになるかは、紙一重でもあり、神のみぞ知るということなのかも知れない。戦争の危機を感じて、振り返って日本を考えると、日本には全く危機管理的な備えがないことが判明したというのだ。戦争になったら、曰く、ソウルにいる日本人を如何に救済するか、曰く、25万人にもなろうという北朝鮮の難民対策は、曰く、新幹線、原発などの安全担保はどうか等々である。これらの諸問題の帰結は、「アメリカが何とかしてくれるだろう」といった漠然としたものが政治家の中に蔓延していたと言うことである。平和呆けと言われる日本人だが、政治家にしてそうだから、何故平和でいられるかを一時でも考えたことがある日本人がどれだけ居るだろうか。1996年北米審議官になった時に、今の普天間基地返還の基本合意を取り付けた当事者であるという自賛があったが、それはそれとして、日本は、核問題にしろ、朝鮮を放棄したことにしろ、全て外国に知らしめられた結果であるという指摘をしていた。(いわゆる外圧による自己認識と言うべきか)3.の過去の問題整理は、1995年の村山談話で初めて国家としての意思表示をし、後の歴代内閣はこれを踏襲しているが、皮肉にも自民党内閣が続いていたら、未だに歴史について語られることもなかったかも知れず、中国や、韓国、北朝鮮からの誇大な要求の対応に一層追われていたかも知れない。外交、即ち一般の交渉でも同じだが、Win-Winの関係でなければならず、それには力の背景が必要であること、また究極は交渉相手が信頼出来るかどうかに係っていると言うことだ。(ハルノートによる日本の開戦への誘因なども例にあるのだろうか)将来は、日本は孤立して生きるわけにはいかず、少なくとも東アジアにおける成長と共に共栄の道を探らなければならないのに、問題は、鳩山政権下で起草された東アジア構想も頓挫するなど、国内の諸事情にかまける余り、国家百年の大計(国家戦略)が無いということである。日(年)代わり内閣では、日本自身もそうだが、対外的に信頼を得るという原点も築くことが出来ないと言うことだろう。同期の外交官がまだ現役である中、早期退職をしたことについて、世論の啓発と人材の育成を挙げられていたが、そのことが本音かどうかは私には分からない。聴衆からの質問の中に、1.中国の軍事費増大と、その不透明さ、2.ODAのことについて、があったが、中国に関しては、経済面でのシェアが少なかった昔のソ連のような場合は無視し得ても、世界のGDPが2位となり、表向きの軍事費が、GDPの20%を維持している中国を無視して成り立つ国際関係ではないことは明かである以上、外交という手段で、その透明性を確保するための努力が必要であると言うことである。いささか画餅に過ぎないかとも思ったが、日本が生き残る道は、自分の足で立つと言うことだという帰結になるのだろう。ODAについては一頃に比べ、日本は毎年10%の減額を機械的に行っているのは、やはり問題であるという認識であった。日本が全くの善意で行っているとは誰も思わないが、アフリカなどに投資した無償ODAをせめて国連常任理事国入りの票集めくらいには使って欲しい。無駄とは言えず、人助けにはなっているというのだが、国民を疲弊させてまで、何故外国を救う余力があるのかが不思議である。中国のように、日本からのODAを有効に利用して、アフリカに投資し、資源をかき集めるがめつさが、人の良い(馬鹿な)日本人にもあっても良さそうなのだが、と思った。
2010.07.12
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普段の日曜日はテレビ三昧であるが、今日は、その中でも、参院選の開票速報が夕方8時から始まり、更に翌日にはなるのだが、サッカーのワールドカップ優勝戦(スペインーオランダ)を観戦するため大変忙しかった。最近、朝のライブではない討論会や、くだらないタレントが出て一週間を振り返りコメントするという番組は観ないことにしている。勤めを辞めてからと言うものは、時々刻々のニュースを見ることが出来るために、1週間まとめて総括する必要など無いからでもある。内容は、既に知っていることばかりで、それにくだらないコメントを加えられたところで何のありがたみも感じない。朝の内は、新聞などを読むのに充てる。私がテレビを観だすのは、昼の「新婚さんいらっしゃい」からだ。この番組は昔から観ているが、最近は笑えるカップルが少なくなったような気がする。しかし、時々意表を突くカップル登場に抱腹絶倒する時もある。続いて、「たかじんのそこまで言って委員会」を観る。最近の三宅氏は、もう終わりが近いのか、妙にいらだっているが、真面目が売り物だけに、あの機密漏洩費受領問題では、事の外ピリピリしていて、結果貰っていないことを知らなかったから許されるという論点に置き換えているようである。「馬鹿は許可を取ってから発言せよ」などとの暴言を許す番組になっているのは、終末状態であることを意味している。それからはゴルフ中継が続く。先ず男子で、今日は「レクサス・チャンピオンシップ」だった。兼本貴司のシーソーゲーム的な逆転、再逆転の優勝はなかなか見応えがあった。最終日、単独首位でスタートした兼本は途中最大6打差をつけられていた井上を再逆転し優勝した。ずいぶんおっさんかと思いきや、太郎君と同い年である。ゴルフと言えば石川遼しか居ないかの如き報道に渋い新風を呼び起こした。最終18番ホールでこのパターを入れると優勝というスライスラインを読み、長いイーグルパットを沈めた精神力は並大抵でないことを、ゴルフを経験したものならよく分かる。続いては女子プロゴルフだが、若手は、海外に出ているため、昔見慣れた不動の優勝で、これは半分くらいしか見なかった。後はNHK大河ドラマの龍馬伝を観て、武市半平太と、岡田以蔵の最後を見届けた。師と仰ぐ吉田東洋を暗殺させた武市達を追い詰める後藤象二郎の飽くなき追求や、山内容堂が下士である武市を如何に考えていたかを脚本家は良く表していたと思う。続いて即、参院選挙開票速報である。殆どどのチャンネルでも同じ内容である。当然と言えば当然だろう、向こう6年間の政治を担う議員を選んだ結果の公表だからである。時々刻々と121の改選議席(選挙区73と比例区48)が漸次埋まっていく。朝方7時31分最後の比例区が埋まり121議席が決定した。マスコミの巧みさというか、開票前からある程度のことが分かると言うから驚く。投票所前の出口調査とかいろいろなデーターで判断するそうだが、100%開票前でも当確はどんどん出て行く。結果は、与党である民主党の大敗北に終わった。改選前の54議席を10議席減らしたしまった。驚いたことにその反動は、自民党の躍進に繋がったという結果だ。改選前の38議席を13議席も伸ばして、51議席としたことである。のど元過ぎれば熱さ忘れるではないが、あれほど倦んでいた筈の自民党への回帰がもう始まっているという感じなのだ。目に付くのは、渡辺喜美を党首とする「みんなの党」の大躍進であろう。英語名はYour Partyなのだそうだ。自分たちの党ではなく、みんなの党なのだそうだ。他の既成政党や、新しく立ち上げた政党などはことごとく蹴散らされてしまった。日和見公明党は2議席(11→9)、現実離れの共産党は1議席(4→3)、普天間ばかりで押した社民党は1議席(3→2)、時流を見損ねた新党改革は4議席(5→1)、各々減らし、たちあがれ日本は結局車いすから立ち上がれず現状維持、名前もいかめしく再生日本を意図した日本創新党は結局浸透せず0議席、大口を叩いた国民新党は議席を失う(3→0)と言う正直な結果になった。もちろん他の泡沫党は論外である。私の見るところ、「みんなの党」の大躍進は頼もしいと感じる。他の日和見的な元自民党出身者は、決断鈍く、離党を選挙間際まで伸ばしたのがかえって反感を買ったと思われる。心から、今までの政治を変えるという気構えがあれば、早々に離党してしかるべきであった。この、優柔不断で時を見るに鈍な決断での選挙間際の離党が、かえって自民党の支持層に危機感を与え、結果自民党に有利に働いた気がする。それに比べると、「消費税よりも先にすることがあるでしょう」と自民党在籍時代、政治改革に熱意を燃やし、孤軍奮闘で、目に涙して改革つぶしをした自民党を見限った渡辺喜美の力は大きい。「官僚依存の自民党、労組依存の民主党とは違い、真の改革ができるのがみんなの党である」と訴え、政界再編の動きを見越して党を立ち上げたのが共感を得たようだ。民主党なら、官僚の天下りや、税金の無駄遣いを減らせると言った期待は、概ね裏切られた。多少の事業仕分けで、涙金を抽出することで満足している民主党に更なる希望を託すわけには行かないというのが本音だろう。政界の正にキャスティングボードを握った形である。何よりも、日和見且つ宗教がらみの公明党を凌いだ結果は嬉しい限りである。ここで、渡辺喜美の力量が問われる。国民新党の亀井静香の如き傲慢さを踏襲すれば、国民から見放されるであろう。正しく、与党の暴走を防ぐ役割を果たし、そして念願の理想的な新党にして貰いたい。それにつけても、気に入らないのは、柔道家の当選を初めとして、元野球選手、極めつけは元女優の3人の当選には目を疑う。ドント方式で当選した比例区当選者は、候補に選んだ政党が愚かしいのだが、秋田選挙区の元野球選手の当選には、秋田には他に人がいないのか、と思いたくなる。途中から、FIFAのワールドカップの決勝戦が始まった。日本を破ったオランダの活躍を期待する気持ちもあったが、世界最高のプレーはどんなだろうかと見ていた。オランダは古くから日本と馴染みが深い。プレーヤーはと見ると、黒人がかなり居ることが分かった。ゲルマン系のオランダ人以外が20%居ると云うが、イレブンの中の割合はもっと多かった。一方のスペインは、全体的に若さを感じた。動きが溌剌としているように見えた。激しいぶつかり合いと、懸命なキーパーのセーブ。イエローカード2枚で先に退場したオランダが10人になり、やがてスペインも10人になったが、延長後半でのなけなしの1点をキープしたスペインに凱歌が上がり、4年に1度の祭りの幕は閉じた。
2010.07.11
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今日は前からの約束で、連れ合いの孫と1日を過ごすことになっていた。明日は、参院選挙の投票日であるが、雨の予想もあり、朝方、期日前投票を済ますことにした。最近は、投票日の日曜日を避けて期日前投票をすることが多くなった。公職選挙法の改正で、以前よりも期日前投票が楽に出来るようになったからである。最近は、郊外に住むせいか、選挙カーの街宣車が通って名前を連呼するケースが少なくなったようで、今回も、何人かの車からの声を聞いただけで、選挙自体は淡々として進んでいたようだ。選挙は、元より、国民として、国政に参加出来る唯一の行為なのであるが、参議院選挙では1947年の第1回通常選挙の投票率は、61%程度と必ずしも高くない。最悪の投票率は、傀儡村山政権下での44%台という記録もある。衆院選挙でも、当初は、かなりな高率であったが、最近の選挙では、60%を割り込むこともあったようだ。「国民の声を国政に!」などと言いながら馬鹿な森喜朗は、悪くも、悪くも国政選挙への冒涜を行った。本音で「無党派層は寝ていてくれればいい」と言い出す始末であった。それが今なおテレビ等に出演して、もっともらしいことを発言しているのを見て、おそらく自民党を見限った人も多いのではないだろうか。民主党の小沢一郎も「政治の細かいことを知る必要はない」と発言したと言うから、政治家はどっちもどっちで、元々自分だけが正しく、国民の声を聞く気など無いのが本質であろう。投票率は首長選挙になると、都会と地方とでは大きく異なり、東京の港区当たりでは、わずか住民の1/4しか投票に行かないとか、無投票というケースも多い。先に当選した大阪府の橋下知事の例を取れば、彼の活動や、強気の発言のベースは選挙における1,832,857票という大量得票にある。これだけ多くの人が支持をしてくれていると言うことであるが、これでも、全投票者数の半分強であり、この時の投票率48.95%を考慮すると、全住民からの支持率は、26.4%と言うことになり、積極的には4人に1人しか支持していないという見方も出来る。如何に選挙に行くことが大切かと言うことが分かる。選挙に行かないと言うことは、無意識のうちに、誰でも良いと言うことであって、選挙後は、当選者を支持していると見なされても仕方がないというわけだ。1票の格差が叫ばれている中、地方と都心部の票の重さは、国政には繁栄されず、田舎の意見がまかり通ると言うことにも成りかねない。国民の三大義務は憲法により第26条の「普通教育を受けさせる義務を負ふ」と第27条の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」というに加えて、第30条の「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」である。これに加えて、選挙権を行使する義務を加えては如何なものだろうか。もちろん白票を投じることも権利であるが、とにかく正当な事由無しに、選挙権を行使しないことは犯罪とすると言うものである。政治に真剣に向き合ってこそ、国民が一丸となった、国家作りが出来るといえるもので、それでも、タレントや兼業議員を選ぶのであれば、甘んじてその結果も享受する必要がある。この時、私はいつも考えているのは、全国区はもちろん、区域を越えてでもこの人間だけには国会議員になって欲しくないという、最高裁判事の国民審査に等しい「この人、嫌の1票」を投じる権利を保有したいと思う。そんなことを考えながら、連れ合いの孫と3人で、「マイドームおおさか」の運動具店の年1回か2回の放出セールに出かけた。1万円を超える品が、2-3000円で買えると言うことだが、我々が向かった時には、買い物を終えて、大きな袋を持ち帰る人達にすれ違った。流石に、安売りの効果はすごいと感心したが、会場について更に驚いたのは、すぐ入れるかと思いの外、入場制限で、1時間以上待たねばならなかった。私もこういったところで並ぶのは好きではないが、5歳の子供にとっては、何らおもしろいこともなくただ黙々と待てというのは酷である。走り回る方に目を注ぐために物を見る暇もないし、開場と同時におそらく脱兎の如く入った人たちが争奪したのであろう、これはと言う品はもうすっかり無くなっていた。やっとの思いで我々のスニーカーと、孫用のシャツを買ったらへとへとになってしまった。帰り際に、通路を見ると、沢山の買い物袋(購入前の)を広げ、慎重に吟味している人たちが居た。そうか、何でも手当たり次第に先ず袋に入れ込んで、後でゆっくりサイズなどを合わせているのかと、その要領の良さに一種感服した。私には、良いものが安いというのだが、ろくな品は残っていないように思えた。靴など、馬鹿の大足、間抜けの小足と言うが、特大のサイズやこれではと言うほど小さなサイズしか残っていない感じだった。ともあれそこで購入した物をさげ、近くのレストランで食事をした後、私が密かに観ようと思っていた3Dの映画「シーモンスター」をやっているサントリーホールに向かおうとしたが、何時になく、孫は「お母さんの顔が見たい」と言いだし、連れ合いも、雑踏の中で疲れたのであろう、遠慮しておくと言うことになり、私一人で、地下鉄中央線に乗り、大阪港まで行った。会場に着くと、映画は今始まったばかりであったが、流石に3Dの迫力と、映像の美しさは、今までの平面的な映画と比較にならないほど素晴らしく感じた。ポケモン映画も良いが、やはりこういった時代の先端を行くものを見せてやりたかったと思ったが、なにやら海の怪獣といった先入イメージが強く、強引に連れてこなかったことを少し残念に思った。特殊なメガネが必要なのだが、今や家庭にも3Dテレビが出回る時代であり、昔我々が観た3台の映写機を使うシネラマなどとは比べものにならないくらい、遠近感と臨場感のある映像であった。アメリカの砂漠地帯で発見が相次ぐ古代海中の爬虫類の化石を元に、CGを駆使した復元想像画面は迫力あった。前に座っている人の頭の横を魚やクラゲが浮遊していて、自分の周りに来るとやっと視界から消えるという具合に、自分自身が、海の中にいる感じだった。今後のバーチャル・リアリティーはあたかもこう言ったことになるのであろうと推察出来る感じである。終わって、そそくさと帰ったのだが、連れ合いの方は、孫とポケモンコーナーでのキャラクター購入と、喫茶店でのアイスクリームを食べただけで帰ったという。最後に車でのトラブルさえなかったら、まぁ、1日普通に過ごせたのだがと言う1日であった。夕方、孫の両親が、マンションに来て夕食を共にしたが、両親と共にいるという安心感に、兄弟同士の嬌声は止まるところを知らず、ハイテンションにやや気押されする感じであった。孫が帰った後の静けさは、日頃はこれほど静かだったのかと思うほど、その落差は大きかった。
2010.07.10
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少子化、出生率、人口減など人口に関する問題は過去何度も問題視され、政府は下より、各研究機関は独自に警鐘と問題点を言い連ねている。現在もシリーズで「人口減社会の未来図」というタイトルで国立社会保障・人口問題研究所が解説している「ゼミナール」が日経新聞に連載中である。この研究所は、同じ内容で2002年頃にも「ゼミナール」を書いている。その題名は、「迫る人口減少時代」である。人口減とあるから、もちろん日本の話である。今回の解説の1回目に、日本における人口の長期的な推移のグラフが掲載されていた。1500年と言うから、室町幕府時代からの日本の人口変化をグラフにしている(歴史人口学の鬼頭宏による)。当時、役所が、国勢調査をしたのかどうかは知らないが、1500年から1600年の間の日本の人口は、たった1000万人で変化がなかったようだ。徳川幕府開幕の年から暫時人口は増加している。そして、おもしろいことに、何故か1730年頃、即ち徳川吉宗の時代から1868年の明治維新までは、また人口は一定していて、3000万人強というふうに読める。明治維新からは、急激な人口増が始まり、そのピークとなる2004年まで増え続け、最多時の日本の人口は1億2779万人だとされている。そこから先は、推定人口としているが、2004年をピークに、その年を軸として見事に正規分布的に2100年まで人口は減少していくと予想されている。そして、2100年の推定参考人口はピーク時の約1/3である4500万人強程度だというのである。明治維新を少し上回る、第一次世界大戦時の人口程度となると予想しているわけだ。明治維新までは、長い間の鎖国状態で、食糧も自給自足であったから、それはそれなりに生活もしていたのであろう。諸外国とは没交渉であったから、江戸時代中期の1782年に天明の大飢饉が起こり、東北地方を中心に、悪天候や冷害で農作物に壊滅的な被害が生じ、農村部の疲弊を増大し、全国で数万人が餓死したと言われている。こういった飢饉による惨状も、マクロ的人口の変化には顕著な影響とまでは行かなかったようである。しかし、水平であった人口変化が、1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされたため、若干曲線はへこみを見せている。この原因は、異常気象であるとされる。即ち、アイスランドのラキ火山やグリームスヴォトン火山の噴火に相呼応するように、1783年に浅間山が噴火を起こし、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆って、地上への日射量を激減させたための地球が低温化し、冷害などが起こったのが原因とされている。人口の悲惨な現象はこういった、天変地異によるものや、戦争によるものがあるが、明治維新以降の爆発的人口上昇と、2004年以降のこれまた爆発的人口減少は、これら天変地異のせいではなく、女性の出生率が極端に減少していったことだと言うから、如何にその意味が大きいのか分かろうというものだ。世の中には男女2種類の人間が居るわけで、マクロ的には、その割合は50:50であるように作られている。そして残念ながら、女性だけが子供を産むことが出来るように作られているのである。結婚して子供をもうけると言った時に、古くからの迷信で、丙午(私の知る限りは、1966年)に生まれた女性は気性が荒く、夫を喰い殺すなどと言ったことが言われて、極端に出生率が低下したという話を覚えている。その影響か、1966年近辺にひとかけらの人口減少が見られる。こういった特例は別として、戦後女性とストッキングが強くなったと言われ始め、女性が、男性へのパラサイトで生きているという時代が終わりを告げ、女性が社会へ進出することが容易になり、且つそれが当たり前になってきた。この事自体に異を唱えるつもりは毛頭無いが、女性が自活出来るようになり、社会的な能力も時としては女性の方が男性より上であるケースも出てきて、ために女性の管理職が出来るに及んで、世は女性上位の世の中になった。男は、「草食系」とか言われ飼い慣らされた如くになっている。生活力はと言えば、女性の方が上だと認めないわけには行かない。こうなると、何で、つまらない男と結婚をして、子供を作らなければならないかと考えるのもまた道理であるかも知れない。日本人は、もはや半ば一般動物の自然の摂理を忘れたかの如き状態になっているのかも知れない。せっかくもうけた子供を、自らの手で殺すなどと言う昔は考えられなかったことも、平然と行われている。誠に嘆かわしいことである。世界は、現在中国が世界一の人口多数国家である。大雑把に日本人の10倍の人口を抱えているわけで、頭の良いのも10倍居るだろうし、こすっからいのもまた10倍居て、非道の悪人もまた10倍居ると云うことになる。ところが、表向き中国は、一人っ子政策を採っているから、都会では、子供を「小皇帝」と呼ばれるように扱い、まともな人間が育ちにくく、人為的に制御されている。田舎では、一人っ子政策が、行き届かないとはいうものの、やはり影響は大きく、働き手である男子の誕生は、喜ばれるが、穀潰しの女は間引かれる運命にあると言うことも聞く。従って、今や、中国における婚活は、男子の方が困難な状況にあると聞く。世界2位の人口国であるインドは、そう言った人的政策を採っていないために、2050年には、中国を抜いて、世界一の人口多数国家になるとの見通しである。2050年には、BRICSと呼ばれる新興4ヶ国で、世界の人口の約40%を占めるまでになると言うことである。その時の日本はと言えば、高位推計でも1億人余りであり、悪くすると8000万人と言うことになりかねない。国の経済力やGDPは必ずしも人口に比例するものではないが、綺麗な仕事ばかりを求め、汚れた3K仕事を、移民に頼るようになるとすれば、本来の日本の姿はなくなってしまうだろう。これといった資源に乏しく、食糧自給率も40%を切る国で、何が日本を世界で1番にしてみせるというのか解らない。自民党にそんな手だてがあるのなら早くから、そうしておいて欲しかった。野党になって初めて言い、聞く言葉である。少子化担当相を置くには置いたが、お飾りのようなもので、どうやって、国力を増やすのか、また、数だけが問題ではないというなら、国民の幸福度数を、経済に於いてのみ考えないでやれるような国造りにして欲しいものだ。中国やインドに近いうちにGDPは負けるだろうが、一人一人の充実度が本当に優位にあると言うことが誇れる国になって欲しいものだ。人数がやたら多くても民意の低い国になるよりも、少数ながら高潔な心を持った日本人になって欲しいものである。
2010.07.09
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恒例の歩こう会に参加した。今日は、山崎にある、アサヒビール大山崎美術館の見学と宝積寺(宝寺)を通ってサントリーウイスキーの山崎蒸留所の見学ということだ。前回体調を壊し、参加出来なかった連れ合いも、今日は何とか持ち直して一緒に参加出来た。山崎は府境を超えてすぐの京都府になる。JRでも島本駅が出来る前は、山崎駅で乗り降りしていたと言うくらいだから、それほど遠くない。島本駅が出来てからは、実に便利になった。私は、山崎を通って、長岡天神まで何度か歩いたこともある、まあ、知り尽くしたコースだ。一人なら、集合の山崎駅まで歩くことも考えたが、連れ合いはとうていのってこない。今日も体調は万全とまでは行かないのか、歩くことよりも、前回不参加で、多くの方から心配していただいたので、是非会いたいという意識の方が強かったようだ。この歩こう会も、幹事が前任者の時は、歩くことに重きを置いた本来の姿だったようだが、年々皆さんが歳を取られていくので、歩く距離は少なく、顔を合わせておしゃべりをするといった方が主眼になってきたようだ。我々2人が最初に参加したのが、1年前の例年は寒いのでお休みとしていた2月の第39回の鴨川散策から京大レストランでの昼食というものであった。今回は第50回と言うから、記念の回でもあるわけだ。私自身も、ここ何回かは、自分で率先して歩くこともなくなったので、一寸歩くだけでも息が切れるという感じになることがある。しかし、我々が一番若い組なので、先輩方はさぞかしと思うが、案外元気な人たちが多い。ついこの間も、マンションから外を眺めていると、直下の道を何と100人を超える年配の人たちがリュックを背に歩いていく大集団が通った。まだかまだかと見ていると終わりが来ないくらいに長蛇の人たちであったが、あれだけ多いと、お話をすると言うことにもならないだろう。今日の参加者は、男性10名女性6名の16名だった。参加する人は時々入れ替わるが、大体が15-6名の参加者になるようだ。山崎駅に集合して、アサヒビール大山崎美術館迄は、一寸上り坂のため連れ合いは、無料送迎バスに乗ろうかと思っていたようだ。皆さんはどうするのかと見ていると、幹事の先輩が、「ここからバスが出ますけれどどうしますか?」と問いかけたら、一人の例外もなく、全員がバスで行くことになった。我々以外の数名もいたので、丁度バスは満員状態である。バスから見ると、結構急な坂道で、歩いた時よりも、距離も長く感じた。ここには何度か訪れたが、今日は「大山崎山荘名品展2010」と題して、かつてのオーナーであった加賀正太郎が、ユングフラウに登頂した100周年という事で、それに因んだ品が展示されていた。当時のお金持ちの桁は違うと驚嘆しながら改めて山荘の巨大さを見直した。同時に当時は洋行などというのはかなり珍しかったのだが、何度となく欧州を旅行しているという桁外れの人であったらしい。山荘に併設して安藤忠雄設計による美術館があるが、地下に作られた、展示室には、モネの「睡蓮」が飾ってあることでも有名である。ここのモネの作品は、モネの晩年のものであろう、10点ほどの内5点を、順次展示しているのだそうだ。我々2人は、モネが晩年を過ごした、フランスのジヴェルニーに行ったことがあるので、一寸懐かしさを感じた。1時間ほどの美術館内の見学の後、芝生を敷き詰めた中庭で昼食を採った。サンドウィッチの人や、おにぎりの人たち、手作り弁当の人がいたかどうか、とにかく我々は、連れ合いが前日から予約しておいてくれた、2段重ねの豪華弁当であった。「あれ! 弁当を忘れたか?」と言う隣の先輩が居たので、弁当を1つ譲ったが、すぐ、おにぎりが出てきたので、連れ合いは1つ貰って交換と言うことにしたようだ。楽しく語らいながら、食事を終え、そこから一寸登って、宝積寺に参った。宝積寺への道を反対方向に登ると1.1kmで、標高270mの天王山に至る。この会でも過去2回歩いたそうだが、今や誰も登ろうとしないようだ。宝積寺へのわずかな山道で、登山気分とし、大げさだが下山となった。この寺の墓地には、連れ合いの親友が眠っている。今、我々は、元気に語らいながら傍を通るのだが、その親友が元気であれば、一緒に歩いていたかも知れない。一緒に歩く人の中にも、連れ合いを亡くされた人もおられるわけで、わいわいと話ながらのこの会も、結構存在価値は大きいと感じる。JRの線路伝いに、サントリーの山崎蒸留所までは、数分の道のりである。13:00からの工場見学を予約してあるというが少し早めに到着し、ロビーで、名水などを飲みながら時がくるのを待った。見学開始時には、大勢の人が参集していた。私は前に1度、連れ合いは、何度か訪れているので、ウイスキー工場がどういったものであるかは知っている。工場見学は原料から、仕込み、発酵、2回の蒸留を経て貯蔵の倉庫へ至る、毎回同じコースである。今日の案内嬢は、声も通り、明瞭に説明をしてくれた。説明の後には、ウイスキーの試飲がある。サントリーの最高級の「山崎」10年物のハイボールが待っていた。更に、「山崎」の12年物、そして、山梨蒸留所での「白州」がおかわり自由であった。一人なら一寸遠慮がちになるが、大勢の勢いで、何度もお代わりをした。そして、各種のウイスキーが販売されているコーナー(連れ合いは、ウイスキーなら飲めると言って購入していた)を通って、外に出ると、やはりむっとした暑さが待っていた。私一人が、顔を赤くしていたが、「盗み酒は出来ないね」と言われながら、他の人を見ると、同じように飲みながら、結構平気な顔をしていた。山崎駅まで歩き、今日の歩いた距離を見ると、わずかに1万歩を超えるかどうかであった。通常は、2万歩を越えるくらい歩くことから考えると、今日の距離は短い。今日の会は「歩こう会」というよりは「アルコール会」という方が当たっている。そこで解散し、私と先輩は、かねて、今日は同行した先輩の同期生が、元気を無くしているからと、慰めと激励をかねて、高槻で飲むことになっていた。それ以外の人は、駅前の喫茶店で、散会後のお話を楽しんだと言うことだ。後何年生きるかなどと言うことは、まだ考えないが、皆さんと歩けるこの楽しみは、長く続いて欲しいものだと思った。たった1枚の案内状とその都度参加者全員の写真を撮るのが恒例となっていて、初回に参加したものからファイルして取ってあるが、既にいろいろなところに出かけている。来月は、更に暑くなるので1回飛ばすことになった。一寸残念なようだが、再来月が楽しみである。
2010.07.08
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先頃九州南部が豪雨に晒されたという記事があった。その後その豪雨は、関東地方にも相当な被害を与えたという。東京ではあの石神井川が氾濫したというのである。一般市民が何事かと思うのは当たり前のことであろう。世界中でも北緯30度から北緯50度当たりにベルトで、異常気象が発現しているという。気象予報士は、日本のどの地域に雨が降るか、どうかについて話を展開する。事故などもそうであるが、日本人はと言うか、日本の報道は、日本人が事故に巻き込まれたり、何か関係したかしないかで、大きく報道の論調が違ってくる。当たり前のことと言えばそれまでだが、例え、見知らぬ国で、何百人死んでも、それ自体は客観的に受け止めるが、その事件や事故に日本人が関わっているかどうかで、新聞の記事は、小さなコラムから、何段抜きの大ニュースになる。今回の九州南部の豪雨や東京地方を襲った豪雨は、国内のことであるから当然大きな扱いになる。考えてみれば、自動車事故や航空機事故などで、どの地点で、どの航空会社が事故を起こしたのかという情報や、日本人の死傷者の云々が問題になる事は解る。しかし、今回のような地球規模の異常気象については、日本がどうのこうのというのは単に表層的なことであって、根本的な問題提起とはなっていない。例えば10人の見知らぬ外国人が命を落としても、たった1人の日本人が負傷したことの方が重大なのである。異常気象が、国内における局所的な問題であれば、それも分からないわけではないが、今回の豪雨は、まさにグローバルな問題であって、局所的に語れるものではなさそうだ。事象としては、日本の南九州のある地域とか東京のとある地域に今まで例を見ない豪雨があった事実は、真実であり、その被害がどうだったかは、もちろん知りたがっている人も多いだろう。気象などと言うものは、まさに水ものと思っているので、その事象が、どういった因果関係で起こったかについては、案外語られる事は少ない。地震などと同じく、天変地異故に、原因をとやかく言っても始まらないという受け止め方が普通である。神様がと言うまでは至らないが、自然現象なので、対策が立てようもないし、月並みな対策では、とうてい凌げるものではない。ただ「この地方の方々は十分注意をしてください」と言うことで終わる。宇宙次元の話を一個人の注意の喚起で終わるような気象予報なら、正にあって無きが如しであり、どのように注意したらいいのか、全く指針がないということになる。今夏の日本における気象の異常さは、豪雨となって現れたが、北緯30度から50度間の上層の気流が、日本付近で通常よりも南に蛇行した結果起こっているのだそうだ。通年なら、北部の寒気団からの気流の流入が、抑えられて、逆に南方からの高温の湿った空気が大気下層に流入して起こった現象であるという。一方では、アメリカでは、ニューヨークの39.4℃を最高に、フィラデルフィアやワシントンなどでも軒並み38-39℃の記録的高温となり、冷房なしで寝ていた高齢女性が死亡したとあった。これら互いの関連は、1つの理論で片付くものでもなさそうだが、いろいろな仮説が述べられている。都市の気温が周囲より高くなる「ヒート・アイランド」現象がその一因であるとしたり、ペルー沖の海水の温度が上昇する「エルニーニョ」現象によるものだとする見解もあるのだそうだ。 「エルニーニョ」現象は南米ペルー沖の海水温度は2~7年周期で平年に比べ0.5~3℃高くなる現象のことを言うが、この結果が、世界各地に異常気象を招き、日本では夏の気温が低く梅雨時の降水量が増えるとされている。この「エルニーニョ」現象は1年前から予測可能だとされている。「エルニーニョ現象」が起きる前に、インド洋の海水温が変動することをコンピューター・シミュレーションで突き止めたというのである。インド洋の海面水温や雲の発生状況を人工衛星で監視すれば、エルニーニョ現象の発生を1年前に予測できる可能性があるのだというのだ。このシミュレーション計算の根拠は500年分に相当する変化を元にしているという。長い期間のように思えるが、地球起源や、地球や近隣宇宙の現象を論じるには、期間が短いと言うことも出来る。地球誕生から現代までの46億年間に、何度かの寒冷期を経験しているという。過去5億年間の気候変化だけを見ても地球上では少なくとも4回の大きな氷河期があった。こういった大きな波の中に、小さな波として温度変化があるわけで、その極めて微視的な(目先の)問題として、地球温暖化と呼ばれるCO2問題が位置付けられる。CO2問題が今回の豪雨に関係しているかどうかは、専門家にゆだねないと解らないが、少なくとも新聞記事による識者の判断の中には、入っていないようである。CO2排出問題が地球温暖化と関連づけること自体間違っているとする意見もあるくらいだが、少なくとも定性的に説かれると、説得力がある。地球は、内部でマントルが対流し、地表に噴出(火山)したり、近くを震動(地震)させたりと、言う現象を起こす。こういった大きな営みと、宇宙からの太陽光線による太陽熱などの影響がそれらを凌いでより大きなファクターになっているのであろう。長い波長の地球の気温(氷河期など)の中に、中くらいの波長の変動(エルニーニョなど)がありそれらに乗っかるようにして、短い波長の、日々の天候の変化が起こるのであろう。そこまで開き直ったら、気候自体を問題にすることは現時点で余り意味がないようにも思える。しかし、日常、雨に濡れたくないから傘を持つとかという卑近な例に始まって、出来ることなら、台風も避けたいしと言うことにもなる。気象庁では、異常気象についてと言う500枚にも及ぶレポートを出している。しかし、これらを以てしても、人間の営みが、自然の力に尚微々たる力しか持ち得ないことが解る。上に述べた「エルニーニョ」現象ということばの導入とその現象には言及があっても、何故にエルニーニョが起こるのかという根本原因について解説したペーパーを見たことがない。よしんば、ある仮説が成り立ったとしても、それ自体を止めることは出来ないわけで、あくまで対処療法的にならざるを得ない。従って、今のところ、豪雨などの局所的な天候異変についても、起こった後で、こういった理由で起こったのだという解説を聞くだけが関の山なのである。
2010.07.07
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レビアタン・メルビレイとは、南米ペルーの砂漠地帯で1300万~1200万年前の地層で見つかった化石で巨大な歯を持つマッコウクジラ類の頭骨化石の名前である。昨日の映画ではないが、パリの自然史博物館が提供したという想像図は、かなり衝撃的なものである。クジラと言えば、ザトウクジラでも体長は14-5mであり、シロナガスクジラに至っては25-6m、体重100-120tという巨大な、現在地球上で最大のほ乳類である。現在のマッコウクジラは雄の体長は18m、雌は11mで、体重も雄は45t、雌は15tとこれも巨大である。しかし、現在のマッコウクジラは上顎にはなく、下顎の歯も小さめであり、小型のイカ類を丸呑みしているという。あのシロナガスクジラでさえも、オキアミを髭で漉して食べるというもので、見た目よりは、優しい感じである。しかも、3日に1回程度の食事しかしないのだそうだ。この度ペルーの砂漠で見つかった化石は、頭骨の長さが、約3m、幅約1.9m推定体長は、13.5m~17.5mだという。となると、現在のマッコウクジラも体長的には遜色はないと思われるが、何とこの化石からは、顎の上下の歯の大きさは長さ、最大36cm、直径が12cmであると言うから驚きである。ナショナルジオグラフィックによる想像図からは、人間の身体そのまますっぽり口の中に収まることを示しており、その両顎から突き出た巨大な円錐型の歯は、ほぼ私の胴体くらいの大きさであり、人間など歯牙にも掛けないというか、人間1人2人では食糧として不足であることが容易に想像が出来る大きさである。そう言うことから見て、イラストの想像図は、すさまじいものを感じるのである。現在も海の殺し屋とよばれるシャチは、魚はもちろん、ペンギンやクジラさえ食べるというが体長は雄で9m、雌で7m、体重は雄で7t、雌は4tというから、このレビアタンは体長でこそ約2倍であるが体重に至っては、6倍強と、ややずんぐりむっくりの肉食巨大海獣と言うことになる。シャチは英語で、Orca, Killer Whale(オルカ、クジラ殺し)と呼ばれるのに対し、今回見つかった巨大マッコウクジラには、Leviathan mellvillei(レビアタン・メルビレイ)という名が付けられている。名前の由来は、旧約聖書のイザヤ編、ヨブ編、詩篇など随所に名前が出てくる、海にいる龍、曲がりくねった巨大蛇「レビアタン」と白鯨の作家メルビルに因んで付けられたのだそうだ。現生のクジラ類は、ヒゲクジラ亜目とハクジラ亜目に大きく分かれていて、ヒゲクジラ亜目にはセミクジラ、ナガスクジラ、コククジラ、コセミクジラなどが居る。一方のハクジラ亜目には、イルカやイッカクと並んで、マッコウクジラなどが居るわけである。以前は、こういったマッコウクジラ(ハクジラ)が同種であるヒゲクジラを襲っていたと言うことになる。サメやシャチにその名残を残すものの、何故マッコウクジラの歯が退化していったのか興味のあるところだ。同じ時代の同じ海域に生息していたメガロドンと呼ばれるサメがこのマッコウクジラのライバルだった可能性があると推測する学者もいる。この2つの巨大海獣が実際に闘ったとしたら、さぞかし壮絶であったろうが、どちらが勝ってもおかしくないと言うことらしい。その時代に生き、ホエール・ウォッチングならぬ死闘を見られたらどんなに興奮することだろうと想像した。発見された場所は、ペルーのイカ県であり地層は1300万~1200万年前と言うから、恐竜時代が終わり、地質学的には、新生代に入ったまだ新しい時代区分である。その頃イカの街は海底であったことになるわけで、我々は知らず知らずの内に、地球自体が変化していることを改めて知ることが出来る。2億6000万年前頃から地上に現れた恐竜は、人類が想像も付かない1億6000万年間地球上に君臨したとされるが、絶滅した原因はいろいろ取りざたされている。新聞による見解は、地球寒冷期に恐竜絶滅と同じように一旦絶滅したとしている。その後、温度変化の少ない深海に餌を求めた個体が、食糧の対象も小型イカ類になり、歯は退化(進化)して、無くなったという見方を紹介している。何しろ、巨大なレビアタンは捕食を短時間で済ませ、一気に腹を満たすために、恐竜のティラノサウルスの歯の2倍に相当する歯でもって、クジラを常食していたというのだ。現在陸上で狩りをするライオンなどのように、自分よりも大きな獲物を狙った可能性もあり、歯の大きさから見ても、レビアタンが他のクジラを餌としていたと考えるのは「妥当」な推論だが、この、「レビアタンの歯形が残ったクジラの骨を見つけなければ正確な結論は出せない」と主張する学者もいる。そして、「気がついていないだけで、そのクジラの骨は実はもう博物館に展示されているかもしれない」とも言っている。レビアタンの歯は過去に類を見ない大きさであることから、肉食動物がここまで巨大化していたのは驚異だとしているが、地球上における最大恐竜とされるスーパーサウルスは草食系であり、これをおくとすれば、肉食恐竜のティラノサウルスに比しても、このレビアタンは巨大であることが分かる。陸上におけるよりも浮力を受ける海水中の方が、巨大化しやすいということであろうか。昨年9月に発表されたナショナルジオグラフィックの記事に「首長竜に襲いかかる古代ザメ?」というのがあった。その記事では、8500万年前、巨大な海の怪物に向かって古代のサメの一団が襲いかかっていく。そんな光景が最新の化石分析で明らかになったと紹介している。1968年前、当時高校生だった鈴木直さんらが発見し、現在では「フタバスズキリュウ」と命名された首長竜を調査したところ、フタバスズキリュウの化石にサメの歯が80本以上埋まっていたとの発見があったようだ。化石に埋まったこのように多数の歯は多数のサメが、首長竜にとりついて食いついたのであろう。サメは、食いついたらその歯が抜け、また生えてくるので残されていたわけだが、サメの年齢層も様々であり、子供から生体の歯まで残されていたという。通常は、身体の大きな首長竜がサメに襲われることはないと言うことだが、少なくともその首長竜は手負いか、瀕死のか、既に死んでいたのでないかとも言われている。いずれにしてもサメは今でも「ジョーズ」などの映画に見るように凶暴であるが、当時のレビアタン・メルビレイも相当にどう猛であったのだろうと、その想像図と、有していた歯の大きさなどから思い至るのである。
2010.07.06
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母親の百箇日とかで、宇部から帰阪中の高校同期生と会うことになっていると連れ合いが言う。一緒に、小学校時代からの友人も加わるそうだ、と思っていたところ私もその中に組み込まれた。高校時代の同期と言っても当時は殆ど話したことがない友人達だったから、一寸逡巡したが、付き合うことにした。夕方集まると言うまで、どうせ高槻で会うのだから、その前に映画でも観ようと言うことになった。映画の題名は「アデル」である。この映画は、その謳い文句に引かされて観たいと思った。「エジプト・ファラオ」「ルーブル美術館」「翼竜プテロダクティルス」とその響きだけでもわくわくする。内容は、どうあれ、エジプトのナイル河を見ることが出来るし、パリのルーブル美術館へも行ける。そこに色付けで、恐竜が現れるというのだから、私にとっての娯楽物としては、最高だと思った。手短に言うと、美人作家のアデルが、寝たきりになった最愛の妹を救うためにエジプトのファラオ秘薬を求めてエジプトとパリを駆けめぐるというもので、女性版インディージョーンズの冒険と思えば当たっている。パリでは我々は行かなかったが、ノートルダム寺院の南東、セーヌ川を渡ったところに植物園があり、その一角に国立自然史博物館がある。その中の「進化のギャラリー」には、40億年前の生命の誕生以来の「種の変化の歴史」を再現し展示してある。その中の展示物の恐竜の卵が孵化して、翼竜プテロダクティルスが誕生し、パリの空を飛び回るといった奇想天外な場面も出てくる。このジュラ紀の恐竜を蘇らせた科学者によって王家の谷に眠るファラオを蘇らせ、その秘薬を使って妹を救おうと言うのである。ピラミッドを背景にしてラクダの背に乗って行くアデルがナイルの河畔に出ると言った一寸したエジプト旅行も楽しめる。そして、ファラオの谷という設定の場所で、ラムセス2世の棺を発見するというものだ。お定まりの宝物の山を前に紛争が起こるが、とにかくファラオの棺に到達するのだ。恐竜を蘇らせた同じ手法で、長い眠りからラムセス2世のミイラが蘇るのであるが、おつきのミイラ達も全てが漫画チックであり、恐ろしさなどはない。盗賊から逃れ、ラムセスの棺とともにフランスに帰り、ラムセスの侍医の秘薬で、見事妹を蘇らせるというなんと言うことはない娯楽映画であるが、ルーブル美術館の中の見覚えのある絵画の前を通り抜けるなどのサービスもある。エジプトのナイル河畔、パリのコンコルド広場など、観ているだけで結構楽しい映画であった。横で連れ合いが、声を出して笑っていたが、私は、若干疲れていたせいで、所々物語が飛んでしまった。最後に、ファラオら蘇ったミイラ達がルーブルの庭を見て、ここにピラミッドが有ればいいのにというフランス人独特のエスプリが利いていた。もちろん、現在中庭にあるガラス製のピラミッドのことをもじっているわけだ。単純な活劇冒険ストーリーは肩が凝らなくて良いものだ。待ち合わせにちょうど良い時間に終わり、旧友達と合流し、予約してあるレストランに歩いていった。私は、卒業以来おそらく初めて顔を見るので、一寸見分けが付かなかったが、向こうもそう思っていたに違いない。飲んで話していく内に、1人は、商社で、中東やアフリカの駐在経験があると言い、もう1人も、タンザニアに自衛隊の駐在警備官として駐在したこともあり、中東への関心も高かった。私も、連れ合いも中東(連れ合いにとっては特にドバイ)への関心は高く、いろいろと話が盛り上がった。友達の口から「インシャ・アッラー」の言葉を聞くとは思わなかったし、アラブのIBMと言う言葉が通じることが愉快だった。I(インシャ・アッラー:神の思し召しのままに)、B(ブクラ:明日)、M(マーレーシュ:どうでも良いじゃないか)と言うことを、彼らも経験してきているわけだ。その友人達も誰かにそんな話をしても「へーぇ」くらいで終わってしまうのが落ちらしく、偶然とはいえ、4人とも何らかの形で、中東に関係があり、話に花が咲いたことを喜んでいた。昔から、西洋文明に浸されて生きてきた我々にとって、アラブ圏の話は遠い別世界であったわけだが、中東に出かけてみると、西欧のことも、裏側から見ることが出来て、また違った視点が得られるものだ。連れ合いも、NHKの講座で、中東の話から始まってアラブ文学を引き続き受けていることもあって、以前よりは高い関心を持っている。砂漠と言えば、鳥取砂丘しか知らなかったことを思えば、映画で見たピラミッドが建ち並ぶリビア砂漠やサウジアラビアやドバイでも見られた、ルブアルハリ砂漠など不毛の地というのは、ここまでのものかと感心するわけで、それらを体得出来たことや、海外でのいわゆる外国人の考え方の相違などについても、知り得たことは、貴重だと思っている。海に囲まれた日本人は、農耕民族特有の気質で、とかくこもりがちであり、進んで外国を見ようとしなかった。今NHKの大河ドラマで龍馬伝をやっているが、尊皇攘夷という言葉で示されるように、「夷」とは未開人、蛮族をさし、それを、「攘」すなわち払い除くと言う政策を採ってきたわけで、わずかに事故で、アメリカを訪れることになった、ジョン万次郎や、ロシアにたどり着いた大黒屋光太郎など当時外国を知る日本人は少なく、且つ冷遇された。 とにかく、the exclusion of foreigners from Japanの精神が今でも生きているから、一般の人間が、英語を話すことも出来ず、政治家に於いても、外交のイロハを知り得ないわけだ。詰め込み坐学の英語だけでは、うわべの外国を知るだけに止まり、生きた英語にはならない。なのに何故か日本人は東南アジアの人間などと比べて外国では一定の評価を受けているのだろうかを考えると、勤勉さによる経済における強み故であったろう。ワールドカップのサッカー選手も言っているが、もっと外国に出るべきである。敵を知らなければ己の立ち位置も分からない。ジェフリー・アーチャーではないが「日本人は変化への柔軟性が欠けるところがある」と言われないようにしなければならない。飲み放題の酒が、話のおもしろさについつい気を取られ、帰りは連れ合いに抱えるようにして貰いながら家路につくほど飲んでいた。
2010.07.05
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いよいよ来週7月11日(日)は参議院議員の半数を入れ替える選挙だ。昨年夏の衆院総選挙で、2大政党を標榜し、政権交代を前面に出した民主党が308議席という地滑り的圧勝をしてから約1年が経った。実に64%の人が政権交代を望んだと言うことである。それはそもそも、前自民党政権が金と汚濁にまみれていた上に、宰相となる人間の無策無為、時には、自分たちよりも頭が悪いのではないか、と言う疑いまでがあったからではないか。謂わば、自民党であれば、党内で巧く立ち回ることが出来れば、総裁から総理へとベルトコンベアに乗れると言うことで、他を顧みなくなった故かも知れない。一方の野党は、万年野党的な発想しか出来ず、何でも反対とか、自民党の一寸したエラーを誇張し、喧伝するだけにとどまっていた。では何故前回政権交代となったのか、自民党への飽きと怒りが70%、民主党へのほのかな期待が30%と言うところかと思っている。しかし、政権交代をしてみて、鳴り物入りで就任した民主党党首の総理は、歴代6位という短命内閣で1年も持たなかったという惨めさであった。首相も、党の幹事長も共にお金の面で躓いている。変わったと思っても、やはり両者とも元々自民党体質であり、清新さはすぐに泥にまみれたという感じである。通常なら、政権交代を成した時の執行部で今回の参院選に臨むのが通常であろうが、流石にこのままでは、勝てないと感じて、両者とも交代となったわけだ。民主党のマニフェストと言われるものも、目玉のばらまきが無理だと露呈して、大幅に公約違反となっているが、一旦手中にした政権は、おいそれと渡せないと言うところだろう。また、追従する初の野党に下野した自民党も政権奪還の迫力はなく、且つ言っていることに対して説得力がない。従って、自民党から多くの離脱者を出すに至り、ますます政権奪回の道はなくなったようだ。曰く、「みんなの党」「新党改革」「たちあがれ日本」「日本創新党」などの乱立である。独り立ちは出来ない日和見の「公明党」や更年期を過ぎたおばさんの集まりである「女性党」、万年野党の居心地に慣れた「共産党」。入閣だけが喜びと、なりふり構わず、参院でのキャスティングボードを握っていることで存在感を示したい「国民新党」と「社民党」など、今回は多党乱立の感がある。もちろん、得体の知れない宗教で、国を牛耳ろうとする「幸福実現党」などと言ういかがわしい名前も見受けられる。日本の政治形態は、イギリスを手本とした議院内閣制であるが、そのイギリスも先頃の選挙で、13年ぶりに政権交代があった。最近のイギリスは、「労働党」と「保守党」のあたかも2大政党制であるかの様相であったが、今回は、「自由民主党」がその勢力を伸ばし、保守党との連立に加わる形となった。世界でも、変革の流れは確実に来ている。イギリスの元下院議員ジェフリー・アーチャーが日経の「世界を語る」で論じているが、イギリスの首相交代で、労働党から保守党連立政権に移行したことを、歴史的な転換だと言っている。保守党のキャメロン党首(首相)も自民党のクレッグ党首も共に43歳と若い。ジェフリー・アーチャー氏は「私のような年寄りが口を挟む余地がない」と謙遜しているが、まだ70歳である。氏自身は投資に失敗して、全財産を失って、政界を引退してから、作家に転じて、処女作である「百万ドルを探せ」で全負債を返済したという経歴である。自身は今回勝利した保守党の議員であったわけだが、時代が時代(サッチャー首相)なら連立などは考えられなかったであろうと述べている。元々、イギリスも、2大政党制ではなく、少数野党が山のように存在する。しかし、第1次世界大戦中の自由党のロイド・ジョージ以来表向きは、2大政党が、適当に交互に政権の座に着いている。それ故、2大政党制の世界的模範とされてきたが、氏は、「選挙集会に行けば、保守党と労働党の2大政党が如何に老いてきているかが分かる」とも述べている。国民を支える若い層にとっては、昔の名前で出ている「労働党」も「保守党」も知ったことかという感じなのであろう。集会参加者は、老人ばかりなのだそうだ。これから考えると、日本の政治家の年齢が如何に老齢化しているかが分かる。「たちあがれ日本」と言って立ち上がった人の平均年齢は、69.2歳である。本当に杖無しで立ち上がっているのかどうか疑わしい人もいる。今回は、行き場の無くなった、杉村太蔵氏を入れて、平均年齢を下げようとしているが。もちろん「若い=良い政治」が成り立たないことは理解できるが、本当に政策的に満足がいかないことがあるのなら、もっと早い時点で、新党を起党するという手段もあったはずである。自民党が野党になったからと言って、離党するのでは、旨い汁だけを吸って、あたかも自民党の旧弊醸成に自分たちは無関係であったやに行動するのは如何なものであろうか。けったいな姫(姫井)に退治された虎(片山)も再び出馬している。もし当選したら、残る任期の姫と同じ議場に立つわけだ。そんな野次馬根性は別として、労働党のトニー・ブレアも、現キャメロン首相と同じ43歳で首相に就任し、ジョージ・ブッシュのプードルと言われながら、大いなる功績を残し、引退後も世界の舞台での活躍が期待されている。日本は2大政党という今まで理想と考えられた政治形態にやっとなろうかとした時、既に、先輩格のイギリスでは変革が起こり始めている。世界中のリーダーをざっと見るに、平均年齢は、インドのシン首相(77)を別格とすれば、54-56歳程度である。今更70歳近い平均年齢の誰が日本を代表したとしても、世界の首脳との話しにくい違いが出ることは必定であろう。インドを始め、アジアの主要国では、年長者の首脳が多い。これがアジア独特のものか、仏教や儒教がそう成さしめているのかどうか分からないが、氏の見解では、日本は10~20年前に必要な変革をすべきところを怠ったために、今、大変な困難に直面しているという。そして最後に、日本人は時間に正確であり組織の強みがあったが、変化への柔軟性には欠けるところがあると締めくくっている。カリスマが要るというわけではないが、みんなが渡れば怖くない的な旧守迎合ばかりでは、未曾有の究極を乗りきれないと思う。組織力で勝ったサッカーのように政治も巧く機能できないだろうか。
2010.07.04
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一頃私は新聞の訃報欄を必ず見るという習慣があった。それが最近は、パタリと無くなっていることに気づかされた。先日も会った、高校のバスケットで同期の友人から朝早くメールが入っていた。「今新聞を見ていたら、死亡欄にSK=元東洋ゴム工業専務執行役員、64歳なるものがあったけれど、1年下のSK君なのかな?」といった内容である。正にその通りであった。前回の総会で、SK君の同期生から、アメリカ在住だと聞いていたし、内容的に間違いはなかった。再興したバスケットボール部OB/OG会に入会をと話していたところであるが、3年前に手術をしたのだとか聞いていた。私とは、当時それ程深い付き合いは無かったが、1級下の、小柄で朗らかな感じの人だった。バスケットの方では、1級下の学年は部員数も少なく男子は、彼ともう1人だけだった。我々の同期生が、団結し且つ強かったので、公式戦には余り出る機会はなかったようだ。新聞の死亡欄に載せられるとは、相当に社会的地位が高かったか有名であったという証であり、凡人は載ることはない。普通に生活していると、新聞沙汰になる(悪い意味で)事もなく、新聞は全く別世界のことを伝えているものだという感覚であるが、サラリーマンをやっていて、一部上場クラスの会社で、部長職相当以上になると、1回は必ず載るようだ。私などはそれもなく、新聞とは全く無縁である。「虎は死して皮を残す」と言うが、私には、世間的に生きた証はないわけである。と言うことはどうでも良いのだが、SK君の同期の男から夕方電話があり、事実を伝えておこうと言うことであったが、中途半端に早すぎる死であると思う。かねて療養中ではあったらしいが、この春に退職し闘病生活中だったとのことである。今まで、身を粉にして働いてきて、多少なりとも無理をしてきたのであろうが、これから自由に人生を楽しむと言う時に逝くと言うことは、家族は下より、自分自身もいかにも心残りであったろうと想像する。我々の同期でも、既に早世した者も何名かいる。一方では、まだ働いている者もいる。かつて吉田茂は、外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められ、特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問された時「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答したと言うことだ。それを知った時から、私などは、長生きできないなと思ったものだ。そこに行くと、かつて政治家連中には、ロートルが多かった。今でも老害を言われるが、政治家は、我々一般人がリタイアした頃からそろそろうごめき始めるという感じである。現在でもちょっと数えただけで、65歳以上の政治家は127人いるし、そのうち70歳以上が50人、80歳を越える人が3人もいると言うから驚きである。もちろん長寿は結構なことだが、「人を食う」だけが仕事であれば一寸考えていただきたいものだ。全体で言えば、国会議員の約2割近くの人は、一般サラリーマンの停年退職後、やっと年金が支給される資格年齢に達した人たちに相当するわけである。悪事をして自殺に追い込まれた人もいるけれど、一般には、選挙前だけ選挙カーに乗り、声をからすだけで、後は本国会でも居眠りをしたり、腹の底からヤジを飛ばしたりしていれば済むわけで、今回の参院選挙などでも、ここを踏ん張れば、あと6年間は余程のことがない限り、生活は保障され、安穏に暮らせる切符が手に入るわけである。中には、堂々と兼業を公言する柔道家もいる。心から「止めて欲しいと叫びたい」一方では、世界は、日本は危急存亡の危機であると絶叫するその傍らで、こういった人を公認しているのを見ると、本当にこの党は、国民のことを考えているのかと疑いたくなる。政治を志すなら出身は問わないというのは、極めて当然であるが、兼業はいただけないし、また兼業でなくても、自らの知名度(政治以外での)を生かして当選したいのなら、堂々と選挙区で出て欲しい。そして、それを国民が選ぶのならそれはそれで、自沈する軍艦のようなものだから、日本がどうなろうと仕方のないこととしなければならないだろう。アメリカでは、レーガン大統領のような俳優出身の政治家もいる。シュワルツネッガーもそうだし、クリント・イーストウッドも然りだ。しかし彼らは、人に言われて、人の影で政治をしていない。堂々と自らの意見を前面に出し、それで共感を得ているわけだ。少し日本のシステムとは違って見える。良きにつけ、悪しきにつけ、宮崎の東国原知事や大阪の橋下知事などテレビその他で知名度を高めてからの出馬当選者もいるにはいるが、前任者のあまりに汚濁に充ち、無策の政治に助けられた感はある。特に宮崎県では、前知事が官製談合・汚職事件で、事前収賄罪などに問われ、実刑判決を受けて上告中であった男の後の選挙である。如何に役人上がりの政治家には、汚職や利権の土壌があるかを実証した1例となった。その知事は、人気取り(ポピュリズム)で、女性を副知事にと元体操選手を副知事に登用した。何の施策もなく、ただ2度オリンピックに出たと言うだけで、之もまた客寄せパンダであった。後任の東国原英夫知事が、この女性副知事の留任を認めなかったのは当然であろう。客寄せパンダは2頭も要らないということである。良識の府、参議院も、今や非常識な、スポーツ・芸能会館になろうとしている。不要論とまでは考えないが、もう少しというか、議員定数を半減するくらいで十分ではないのか、と思う。それでも我が党のためにパンダが必要なら、それはそれで仕方がないことである。前任の宮崎県知事は上告中に69歳で宮崎市内の病院で死去し、刑事裁判は公訴棄却となった。晩年を汚したまま死んでいったわけだが、死因が、今回アメリカでなくなった、高校のクラブの後輩の死因である、悪性リンパ腫だったそうだ。せっかく営々と築いた過去を一挙に汚名で終わる者もいれば、惜しまれながら去る有能な者もいる。高校時代の顔と挙動を少し覚えているだけだが、早世した後輩に哀悼の意を表したい。
2010.07.03
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今日の新聞の小さな記事に「数学の難問解決 100万ドル賞金辞退」と言うのが目に付いた。アメリカのクレイ数学研究所が数学上の7つの未解決問題(「ミレニアム問題」)の解読者に100万ドルの懸賞金をかけているという数学の難問の1つである「ポアンカレの予想」を解いた数学者が受賞を辞退したとの話である。この賞は、2000年に発表されたのでこう呼ばれているそうである。凡人が、先ず驚いたのは、「数学難問解決」という言葉、「100万ドルの賞金」、そして「辞退」というまあ言えば、全ての言葉である。大学の受験前なら、数学と言われても、どんなものだろうかと言うことにはなるのだろうが、今となっては、私の頭の中には物語としてしか残ってはいない。先ずこの記事の数学者の名前は「グレゴリー・ペレリマン」と言うロシアの数学者である。44歳と言うから、数学者にしては、一寸年長なのかも知れないが、顔写真から見ると髭もじゃのギリシャ時代の哲学者的な顔である。何故辞退したかを簡単に書いてあったが、「予想の証明には別の研究者がより大きく貢献しており、受賞は不公平と考えている」と言うことらしい。数学者はそれ程お金持ちなのかそれとも相当に正義感の強い人なのか、はたまた、数学の難問を解くことにのみに快感を得ているのか、いずれにせよ私などにはさっぱり分からない。そこで、ペレリマンについてウィキペディアで一寸調べてみると、ポアンカレ予想解決はすでに、2002年から2003年にかけてされており、その検証に世界の数学者が時間を掛けたと言うことである。そして、2006年「数学界のノーベル賞」と言われているフィールズ賞を受賞したのだそうだが、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として受賞を辞退したというのである。フィールズ賞の辞退はもちろんペレリマンが初めてである。過去、日本人では小平邦彦、広中平祐と森重文の3人の方々が受賞している、気鋭の数学者(40歳以下との制限がある)個人に与えられる賞だそうである。このペレルマンは以前にも昇進や欧州の若手数学者に贈られる賞を辞退するなどした経緯があり、賞金に全く興味を示さなかったり、自分の論文をあまり公表したがらない性格でも知られていた。アメリカの雑誌の取材に対しては「有名になると何も言えなくなってしまう」と答えている、とのことである。私などは、もうその時点で十分に有名であり、有名の上塗りをしていると思うのだが、ペレルマンはそうは考えなかったようだ。フィールズ賞の賞金は、140万円程度と少なく、名誉の方が重いという感じだが、今回受賞辞退した「ミレニアム問題」の賞金は、100万ドルで現時点で、8787万3000円である。おそらく非課税であろうから、ごくりと生唾が出る金額である。もし私がこの金額を手に出来るチャンスと言えば、ひたすら宝くじを買う以外に道はない。では、ペレルマンがどれほど裕福な家庭なのかと気になるところだが、感じるところさほど裕福でもなさそうな(?)家庭で、数学教師だった母親により幼少の頃から数学の英才教育を受けたようで、16歳で国際数学オリンピックの出場権を獲得と言うことが書かれている。数学の教師の子供が、全てこうなるというわけでなく、また、子供の頃から英才教育をすれば、ゴルフの石川遼の如く、数学でも卓越した人物になるということでもないわけだ。そして、現在は故郷で母親と共にわずかな貯金と母親の年金で細々と生活しているらしいという事で、実際の消息は不明なのだそうだ。母親孝行なら賞金を受け取り、母親を楽にさせてあげたらと思うのだが、自身は、次の数学難問「ペレルマンケーラー・アインシュタイン計量の存在問題」とやらに取り組んでいて、数学者としての研究はいまだ放棄していないそうだ。趣味はキノコ狩りで、人付き合いを嫌い、ほとんど人前に姿を見せないなど変わった人物であるが、学生時代までは笑顔の絶えなかった少年として周囲から記憶されていると44歳にして、既に伝説的な人となってしまっている。ミレニアム賞を辞退した理由の、他の研究者の評価が低いというその研究者は、リチャード・S・ハミルトンだということらしい。日本では、特許取得の報酬を、皆の協力の下に成し遂げたことでも、個人が独占し、且つその評価額が少ないと言って、訴訟してでも巨額の報酬を勝ち取る世の中である。このペレルマンの行動はそのことに比べるといかにも不可思議である。ついでに数学上の難問についての知見を得た。7つの未解決問題(「ミレニアム問題」)と言われるものであるが、次の問題だという。1.リーマン予想2.バーチ&スウィンナートン・ダイアー予想3.P≠NP 問題4.ホッジ予想5.ポアンカレ予想(今回解決済み)6.ヤン-ミルズ方程式の質量ギャップ問題7.ナビエ-ストークス方程式の解の存在問題名前を聞くだけで、気が遠くなりそうだが、日本でも、これらの問題に真剣に取り組んでいる数学者達が大勢いるのだという。内容は分からないが、私も、過去にジョージ・G・スピーロの「ケプラーの予想」やサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読んだことがあるが、物語としてはおもしろいが、実のところ、それらが難問であることとか、それを解いたからと言ってどうなるのかなど、他愛のないことを考えるに止まってしまった覚えがある。昔大学で、「数学解析」という科目を教養時代に習ったが、その時、教授が工学部の私が属する学科などの博士論文は、中学生が書いた作文に一寸毛が生えたようなものであると言うことを言われたことを思い出す。ずいぶん無茶な話だが、当時は「へーぇ、そう言うものなのか」と思ったものだ。因みに、「ポアンカレの予想」というのは、「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S^3に同相である。」と言うことであり、これを、ペレルマンは、ほとんどの数学者がトポロジーを使って解こうとしたのに対し、微分幾何学と物理学の手法を使って解いてみせたと言うことらしい。一体何のこっちゃ!??
2010.07.02
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バスケットボールの先輩と母校の高校を訪問した。前回のOB/OG会が順調に進んだので、一安心だが、そろそろ夏の合宿に合わせた、懇親会を開こうかと言うこともあり、先輩も気にされていたようなので、母校の顧問の先生にメールしたところ、今日は都合が良いと言うことで訪問になった。学校は、試験シーズンであり、明日から始まるという。体育館は、誰もいなくシーンとしていた。まだ、暦の上では、夏至の次候で菖蒲華(菖蒲の花咲く)と言うことだが、梅雨の終結宣言もないまま、このところ猛烈な暑さに悩まされている。にもかかわらず、在校生がそれぞれ校庭を走ったりしている姿がちらほら見える。体育館は当時の場所とは違い、校舎も従前とは異なっているが、校庭を通ると何となく当時のことが思い出される。夏のこの時期は、私らもこの校庭で汗をかいて倒れるまで走ったのだと懐かしい。今は走ろうと思ってもとても駄目だ。当時は、体罰こそ記憶にないが、走ってのびたところにバケツの水を掛けられるといったことはしょっちゅうだった。今ほどモンスターペアレントは居なかったので、問題とはならなかったし、むしろ当然のことと思っていた。今そんなことをしようものなら、「うちの子を殺す気ですか!?」と言われかねないのだそうだ。昨日のブログに書いた学童見守りおじさんをやっている友人は、運動会前に怪我をした子供の親が、「運動会を止めてください!」と怒鳴り込むような時代なのだそうだ。顧問の先生にそのことを話すと、頷いていたが、どうやらそういった類は、私学関係の中高一貫校などには多いが、我が母校は、そのようなことはなく、府下でも模範的な学校であると言うことを聞いて安心した。母校の精神「質実剛健」が生きている気がした。そう言えば、我が母校は元々男子校であり、現春日丘高校が、女学校であったのだが、1948年の学制改革により男女生徒交流して、現在の形になったと聞く。私が入学した時には、まだその話が伝えられ、茨高生はバンカラで、腰手ぬぐいに下駄と言うことに憧れたものだ。一寸母校のホームページを覗いてみると、沿革にそのことは書かれていなく、春日丘高校の沿革には書いてあるのだ。しかも、校訓は「勤倹力行」となっており、あの「質実剛健」は見られなかった。意図的なのか、忘れているのか、一寸不思議である。当時を振り返りながら、連れ合いともここで出会ったのだなぁと感慨が深い。当時から汗かきの私は、バスケットの練習を始める前に着替える段階で汗をかいていたことを思い出す。それでも夏は好きだった。夏は、昇り行く若さの象徴的な逞しさがある気がする。今、晩秋にさしかかり、努力だけでは、衰え行く身体的老いに若さは取り戻せないが、精神的には、老け込まないようにしたいと思う。スタンダールが「精神の一番美しい特権のひとつは、老いて尊敬される事である。」と言うが、それは素晴らしいことだし、是非そうありたいと思う。 アメリカのヘンリー・デイヴィッド・ソローも「熱意を失ってしまった人ほど年老いた人はいない。」と言っている。1989年に流行語大賞となった「濡れ落ち葉」という言葉があったが、仕事ばかりに生きてきたサラリーマンが退職し、目標を失うと、とたんにそうなるらしい。私の退職は、ずるずるとした形で、終わったので、濡れ落ち葉にこそならなかったが、目標を無くした糸の切れた凧のようで、沈み込んでしまったことを思い出す。連れ合いが、再び私を救ってくれたわけで、おかげで現在は、かって落ち込んだような気には全くならず、その時のこんな人生は早く終わってしまえば楽だろうにといったネガティブな気持ちは消え去り、今は1日でも長く生きて人生を楽しみたいとまで思うようになっている。 箴言づくが、サミュエル・ウルマンは「青春の詩」で、次のように言っている。 「人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。 人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。」とにかく今は希望がある。従って、まだ若い(自分では)と思っている。こんな事を書くのも、同じく先輩で、商売をしていて、先頃、店をたたみ、老いてから市内に転居した方がおられるが、全く力が出ないと言うことらしい。高校時代と違い、年齢を重ねると、身体的なことはもとより、家庭の事情や、環境の問題などで、人間はずいぶんと変わっていく。人は、それを気の持ち方だと簡単に片付けるかも知れないが、自分の「気」で乗り越えられるか否かは、大変難しい問題であり、凡人にはなかなか克服しがたい。今こうして、母校である高校のバスケットボール部の世話活動を出来るという気持ちのゆとりが出来たことを感謝したい。私がこのように自己変革できたのは、連れ合いは元よりと、姫や太郎一家のおかげである。よく、「勇将の下に弱卒はいない」というが、家庭で言えば、すぐれて優しく、暖かみのある家庭には、いじめっ子などは育つわけもなく、私をそんな包容力のある位置にすっぽりとはめ込んでくれたことを感謝している。数えたら、もう残りの方が少なくなっている人生である。泣いても一生、笑っても一生、ならば笑って生きたいと願うのが人情である。学校でのOB/OG会のことは、顧問の先生の尽力で着々と進んでいる。我々は挨拶に行くだけだ。この先生、出身は、我が母校ではない。その上、後1年余で停年になると言うのだ。出身大学も、私とも先輩とも違う。バスケットボールというスポーツを通じての関係である。ワールドカップ帰国の挨拶にあったが、同じスポーツを通じて、仲間意識が生まれるすばらしさを述べている選手が多かった。マスコミや、国民の中には、勝つか負けるかで判断する向きが多い。負けても良いではないか、頑張って前よりも少しだけ前進したことが素晴らしいのだという気持ちである。帰り際に、同行の先輩から、ゴーヤやシソなど苗を貰った、帰ってそのままの勢いで、連れ合いの実家の庭にそれらを植えた。土いじりは得意ではないし、ノウハウもない。ただ、苗を土に埋めて、水を掛けるだけである。近くの雑草を引きながら思った。灌木に囲まれた雑草ほど強いものはない。健気にしかも力強く且つしぶとく根を張り、蔓を伸ばしていく。むろん雑草は生えない方が良い。摘み取る手間が省けるからだ。しかしながら雑草に見習う点は多い。摘み取られても、摘み取られても何処かに根を残したり、種となって再生する力強さがある。流れる汗をぬぐいながら、雑草を引いてなにがしか、雑草に愛着を感じてしまった。
2010.07.01
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