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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十五章である。本文は以下のごとし、 第十五章一、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の身をもてすでにさとりをひらくといふこと。この条もてのほかのことにさふらふ。即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言秘教(しんごんひきょう)の本意(ほんい)、三密行業(さんみつぎょうごう)の証果(しょうか)なり。六根清浄(ろくこんしょうじょう)はまた法花一乗(ほうけいちじょう)の所説、四安楽(しあんらく)の行の感徳(かんとく)なり。これみな難行上根(なんぎょうじょうこん)のつとめ、観念成就(かんねんじょうじゅ)のさとりなり。来世(らいしょう)の開覚(かいかく)は他力浄土の宗旨、信心決定(けつじょう)の道なるがゆへなり。これまた易行下根(いぎょうげこん)のつとめ、不簡善悪(ふけんぜんまく)の法なり。おほよそ今生(こんじょう)においては、煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言法花(しんごんほうけ)を行ずる浄侶(じょうりょ)、なをもて順次生(じゅんじしょう)のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行恵解(かいきょうえげ)ともになしといへども、弥陀の願船(がんせん)に乗じて生死(しょうじ)の苦海(くかい)をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性(ほうしょう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらはれて、尽十方(じんじゅぼう)の無擬(むげ)の光明に一味(いちみ)にして、一切の衆を利益(りやく)せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化(おうげ)の身(しん)をも現じ、三十二相(さんじゅうにそう)、八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう)をも具足して、説法利益(せっぽうりやく)さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本(ほん)とはまふしさふらへ。和讃(わさん)にいはく、「金剛堅固(こんごうけんご)の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)して、ながく生死(しょうじ)をへだてける」とはさふらふは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取(せっしゅ)してすてたまはざれば、六道(ろくどう)に輪廻(りんね)すべからず。しかれば、ながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。浄土真宗には、今生(こんじょう)に本願を信じて、かの土(ど)にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふぞとこそ、故聖人(こしょうにん)のおほせにはさふらひしか。訳文は次のようである。一、あらゆる煩悩のかたまりとしてのこの肉身のままで、すでにさとりをひらき、往生をとげるということについて。これは、とんでもないことであります。この肉身がそのままで仏になるというのは、真言密教の中心目標であって、それは手に印を結び、口で真言をとなえ、心に仏の姿をえがくことによって、修行者の身体・言葉・心を仏のそれとひとつにさせようとする修行の結果、仏になるということである。また、身心全体のけがれを洗い流して清浄にすることでその身心は自由自在なはたらきを発揮するとは、一乗教(いちじょうきょう)である法華経の説くところで、これは身体・言葉・心および誓願という四つの修行によって安楽な境地を体得するものである。しかし、これらはみな、生まれつきすぐれた能力の持ちぬしでなければつとまらないむずかしい修行であって、知的観念によって達成されるさとりである。これとは違って、来世でさとりをひらくのが、他力を信じて浄土に往生するという教えの主旨であり、これこそが信心を確乎不動のものとする道なのである。この教えは無能者もつとめることのできるたやすい行ないであり、それをつとめるならば善悪をえらぶことなくすべてを救ってくださるという教えなのである。だいたい、この世で、煩悩とそれからくる罪悪を断ちきろうとするのは、はなはだ困難であることから、真言や法華の教えで修行する聖僧たちでさえ、あのような修行のうえにさらに来世でのさとりを願っている。ましてや、このわれわれが、どうしてこの世でさとりをひらくなどと言えたものであろうか。戒律を守ろうとすることもできず、知恵をめぐらして往生しようとすることもできないわれわれであっても、弥陀の誓願という大船に乗って生死の苦海をわたり、浄土の岸にたどりついてしまえば、この煩悩の黒雲がたちまち晴れ、すぐさま真実のさとりの光も満月のように照りかがやき、あの、何ものにもじゃまされずに世界のすみずみまで残りなく照らす弥陀の光明と一体となって、迷っているものすべてに救いの恵みを与えるようになるだろう、そのときこそが、われわれにとってのさとりの実現となるのです。この肉身のままでさとりをひらくといっている人は、はたして、釈尊のように、いっさいの迷っているものを救うために、さまざまに姿をかえてあらわれ、大きくは三十二の、小さくは八十ものすぐれた仏特有の身体的特徴をもすべてみなそなえて、教えを説き、恵みを与えるとでもいうのでしょうか。そういう釈尊をこそ、まさに、この世でさとりをひらくものの模範と申すのです。親鸞上人の和讃に「金剛堅固(こんこうけんご)の他力の信心が、さだまるときをまって、弥陀の心光(しんこう)がわれらをおさめ護り、永久に生死迷いの世界から遠ざけてくださる。」とありますが、この信心がしっかりと安定しさえすれば、弥陀がいったん救いとってくださった以上、決してわれわれをお捨てになるようなことはなさらないのであるから、もはや、ふたたびもとの迷いの世界にまぎれこむようなことはないはずです。だから、生死煩悩の世界は永久に遠ざけた、ということなのです。このように本願によってのみ救われると理解しているものを、どうして「さとる」などと言いまぎらす必要があるのだろうか。気のどくなことではありませんか。「浄土真宗では、ただいまこの世では本願を信じ、浄土にいたってさとりをひらく、このように習いますぞ。」と、これが今はなき聖人のお言葉でありました。注釈は下記の通り1即身成仏 この肉身のままでただちに仏になること。2真言秘教 真言宗の教え。真言とは法身としての大日如来の秘術語のことで、これに直接会うことで、この肉身のまま成仏するという教え。密教ともいう。3 三密行業の証果 三密は身密(しんみつ)(身に印を結ぶ(手指を組み合わす))・口密(くみつ)(口に真言(まじない文句)をとなえる)・意密(いみつ)(心に本尊(仏像)を念想する)。この三種の神秘的な修行によって、この身を仏の身口意に一致させ、そのまま成仏の成果を証明すること。4六根清浄 六根は眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の器官で、身心全体の意。それらのもつ一切の汚れ(偏執)を洗い流して清浄にすること。その修行。5法花一乗 法華経に説く一乗(すべてのものを等しく成仏させる)の教え。天台宗はこの経に拠る。6四安楽の行 身(身体的行動)・口(言語表現)・意(行為への意志)・誓願(慈悲の行ない)、四種の修行。これによって身心を安楽にすることをいう。7感徳 修行の成果として感得する功徳(ありがたい働き)。8観念成就 観想や思念などの心のはたらきで成しとげること。9不簡 差別しないこと。簡は選択の意。10真言法花 真言宗の修行法および法華経による天台宗の修行法。11浄侶 清浄な僧侶。徳高く立派な僧の意。12戒行恵解 戒律による仏道修行と、知恵による仏についての理解(さとり)。13法性 仏のさとりの内容で、一切の存在の如実なすがた。また、それを把握すること。14尺十方 東西南北、四維(東南・西南・西北・東北)、上下の十方世界のことごとく。全宇宙。15一味 融合、一体化の意。また、そのようす。16応化の身 仏が衆生を救うために、人それぞれの能力に応じ、さまざまに変化して現われるすがた。応身ともいう。17三十二相 眉の間の白毛や頂上(頭)の肉髻(もとどり)など、仏のりっぱな体の特徴としてかぞえられる三十二種の面相。18八十随形好 音声の明朗、皮膚の美しさなど比較的細部の八十種のすぐれた様相。19説法利益 真実のありかたを説き教えることで人々を救うこと。20本 学びの本則から転じて手本・範例・模範の意。21和讃 和語讃詠(わごさんえい)の略。仏をほめたたえる七五調四句一連の歌。22金剛堅固の信心云々 親鸞の『浄土高僧和讃』(「善導大師」第十六)に収められているもの。23心光摂護 弥陀の大慈悲の心の光明が信心者のすべてを救いとって護ること。24輪廻 生まれては死に、死んでは生まれて、いろいろな世界(六道)をはてしなく迷い歩くこと。25浄土真宗 往生浄土の教えの真意。26かの土 この生身の現世ではなく、彼岸の浄土。この章は、とても難しい仏教用語が羅列されていて、原文(といっても口語訳文)を読んだだけではとうてい理解が及ばない。鎌倉時代の末世思想が行き渡った世に、このままではとうてい庶民が理解することは出来ないであろうと思う。ここで言いたいことは、この世に生きている生身のまま悟りを開いて仏になる(即身成仏)というようなことは、あり得べきではないと言っているわけで、あくまで、あの世(浄土)での覚りが待つのだと言うことなのであろう。それを平易に「南無阿弥陀仏」と唱えることで、一切の汚れなどが洗い流されると言うから、これほど便利なものはないと人気が出るのも当然のことのように思われる。鎌倉時代の、腐臭漂う生き地獄的な世では、非現実的な高邁なことを述べても意味が無く、こういった平易で、安易な、それでいて一種違った導き、教えにすがるのはごく自然なことであろう。現代は鎌倉末期の状態とは違うが、末世的様相である。違いは、殆どの人が、その末世的な状況を肌で感じず、よそ事のように思っている点である。現代に「親鸞」が再び現れて、何とか、この世のさまよえる悪(煩悩)を感得せしめてはもらえないものだろうか。
2010.05.31
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さて、東京旅行も最終日となった。今日の予定は、「オルセー美術館展」鑑賞である。オルセー美術館展は主催が国立新美術館と、オルセー美術館そして日本経済新聞社であるから、事前の日経新聞では、色々と前宣伝が大々的に行われてきた。パリのオルセー美術館は大修理をするとかで、この期に大量の美術品を貸し出している。初日の「マネとモダン・パリ」にも多数のオルセー所蔵品が出展されていた。国立新美術館は、2007年1月21日に開館した港区にある美術館で、東京大学生産技術研究所跡地に建設されたという。延床面積は、これまで最大とされていた大塚国際美術館の約1.5倍で日本最大となる美術館である。従来東京で美術館と言えば、上野の、「西洋美術館」が思い浮かんだが、これからはここが主役になりそうである。総ガラス張りで、曲面を生かしたデザインは黒川記章の設計によると言う。構造設計は日本設計で、私も鉄骨に関係していた時ファブとしてチェックを受けた経験がある。最初は「ナショナル・ギャラリー」とする予定だったそうだが、本来固有の美術品を持つ海外の「ナショナル・ギャラリー」とは違い、貸し展示場という意味合いが強いので、現在の名前になったというのだ。もう、3年経っているのだが、私は3年以上東京に出たことがないから、真新しく見えた。あの、淡路島の南端から四国に渡った徳島県にある大塚美術館よりも床面積が広いと言うことで改めて見直した。朝早く、ホテルをチェックアウトし、荷物を品川駅のコインロッカーに預け、身軽な服装で、向かった。美術館は六本木にあり、地下鉄のアクセスでも3つのアプローチがある。我々は、浜松町から大門を経て、大江戸線で行くのが一番近そうである。美術館の近傍には、モーニングを採るところはあるだろうということで、六本木に着いてから朝食を採ることにした。朝が早いのと、東京の街は、狭いので、地下鉄に乗ると六本木へはすぐ到着する。日曜日の朝は閑散としている。まだ活動するには早いのであろう。取り敢えず、国立新美術館に直接向かい、到着したのは8時過ぎだった。庭の手入れをしている人に聞くと開扉は9時半だという。庭の中にはいることも叶わず、では、六本木ヒルズの方に向かおうかと歩き始めたが、またまた、方角が違い大回りとなった。東京の街は、碁盤の目のようにはなっていないし、ぐるぐる回ると方向感覚が狂ってしまう。因みに、地下鉄の駅で出口を間違えると、とんでもなく風景が違い混乱することはよくある話である。かつて有名になったヒルズタワーを目印に、何とか、六本木ヒルズに到達した。途中六本木通りは多数の警官が出て、物々しい。一人に聞いてみると、中国の要人が来るからだそうだ。後でニュースを見てそれが温家宝首相であることが分かったが、おそらくは、迎賓館にはいるための沿道の警備であろう。六本木ヒルズも日曜であるから目覚めるのが遅い。大概は11時頃から店は開くのだそうだ。幸い、ヒルズの中に、スターバックスがあったので、簡単にパンとコーヒーで朝食することが出来た。もうそろそろと言うことで、美術館に着くと、開扉はすでにされていて、オルセー展の前には列が出来ていた。当日券を買う人は、さらに券売所で並ばないといけないから、二重に大変である。会場はあくまで10時である。どれだけ並んでいても決まりは決まりと言うことか、一寸くらい融通を利かせればいいのにと思いながら開くのを待った。オルセー展は、丁度115点の作品が展示されていた。作者だけでも全てを語るには多すぎる。正式名称には「ポスト印象派」(Post-impressionnisme)が付いているので、範囲は広範である。最後の印象派として、モネ、ベルナール、シスレーなどが「日傘の女性」や「睡蓮の池、緑のハーモニー」「モレの橋」等があった。「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」はモネならではの作品か、既に視力が落ちていた彼にはこれが精一杯なのだろうか。ふと「ルーアン大聖堂」の晩期の作品を思い出した。点描写で、小作品の多い、スーラのコーナーは、あまり魅力を感じなかった。敢えて言えば「ポール・アン・ベッサンの外港、満潮」は見慣れた作品である。次のセザンヌのコーナーでは、流石に連れ合いは長い時間を掛けて鑑賞していた。静物の中では「台所のテーブル(籠のある静物)」が好みのようで、帰りにその絵の入ったマグネットを購入していた。そして、勿論「サント・ヴィクトワール山」に見入っていたのは言うまでもない。出展されていたヴィクトワール山の作品は、沢山描かれているが、私も出展の作品が、どの作品よりも、なじみ深く、素晴らしいと思った。「水浴の男たち」もなかなか見応えのある絵画で、後ろ向きの裸の男性の均整の取れた体は見事である。ドニの「セザンヌ礼賛」は9人の画家と、ドニ夫人が、セザンヌの静物画をたたえている絵である。かなり大きな絵は迫力があるが、人々の顔の色は何故かさえない色であった。絵画は通常本物を見ることはなく、画集などで観ることが多いわけだが、その際絵の大きさは、大きいものは縮小、小さなものは拡大されているので、どれもこれも同じような大きさに見える。しかし実際には、号数の大きな絵画は、それなりに迫力があるものだ。必ずしも大きいことは良いことだとは言えないけれど、ギュスターヴ・モローの「オルフェウス」は多くの人によって描かれているギリシャ神話の物語だが、モローの、「竪琴でオルフェウスの首を運ぶトラキアの少女」の実際は、かなり大型の絵であり、美術本で見るよりも迫力のあるものだった。これに比べると、ゴッホの「自画像」は小型の絵画でありながら、筆遣いといい、ゴッホらしさを感じさせるものであった。ゴッホでは「アルルのゴッホの寝室」で、今回出展されている作品は、同じ寝室を描いた中でも何となく惹かれるものがある。素人が描けば、ちぐはぐなのであろうが、さすがはゴッホと言うところだろうか。また「星降る夜」は、これも美術本での紹介では味わえない、ガス灯と星のきらめきのすばらしさ、川の水面に映るガス灯の輝きなどは実物でしか味わえないであろう。もう1点小さな作品ながらゴッホの「馬車、アルル郊外のロマのキャンプ」は一寸した感動を与えてくれた。日頃この作品はあまりお目に掛からないだけに新鮮な感じがしたのかも知れない。他にも数え上げれば115点全てが感動的であるのだが、パリのオルセーでは見てきたはずの作品も、改めて展示されていると、また違った味わいの出るものである。感動の内に美術館を出て、東京ミッドタウンを散策し、乃木坂から千代田線で大手町を経由東京まで出た。新丸の内ビルで、駒形前川の鰻の昼食を採り、東京を後にして品川で、預けた荷物を出して、帰りは、のぞみ115号で、京都で降り、島本に帰り着いた時はまだ日が高かった。帰りの列車番号は、奇しくも、オルセー展の出品作品数と同じであったのをおもしろく感じた。こうして、東京旅行は満足の内に無事終了した。
2010.05.30
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今日は東京旅行の2日目だ。今日は、高校時代の友人が数人集まってくれて、ミニ同窓会と言うことになっている。連れ合いの親しい友人の女性2人が、他にも声を掛けてくれたようで、我々を含めて8人ほどの丁度話が見える規模の同窓会である。同窓会は、お昼を一緒にという事で、それまでには時間がある。連れ合いは、東京タワーにまだ上ったことがないという。それではと言うことで、東京タワーに上ることにした。ホテルのモーニングは、少し高い。品川駅までは、下るとすぐである。品川駅の港南口に近い側に、朝食バイキングがある。野菜もふんだんに食べられて、値段はホテルの半分以下であるから、言うことはない。朝食を済ませ、山手線を内回りして、浜松町で降りて世界貿易センタービルを横にすると、真正面に東京タワーが見える。途中には徳川家の菩提寺である「浄土宗大本山増上寺」がある。今まで、歌舞伎舞踊の演目の「娘道成寺」とこんがらがっていたが、全くそれとは関係がないことが調べて分かった。交通の隘路になっている、「大門」を抜けると、珍しいことに、いつもは開け放たれている日比谷通りに面した三門(三解脱門)が締まっていて、連絡板には、「薪能」が行われるとあった。少し東京寄りに回り込み、増上寺の横路を西側に向かうと、そこは既に東京タワーである。私は、造船時代の最後、工業技術院の大プロジェクトで、海洋ロボットに携わっていた折に、東京タワーの少し先の機会振興会館に何度か来たことがある。道はその頃と変わっていないので土地勘はあった。東京自身は、それ程大きなところではないのだが、有名な(よく知られた)名前が個別に繋がり無く頭の中にインプットされているので、お互いの関係はよく分からないことが多い。東京タワーに上ると、四方が見渡せる。中国人はもとより、西洋からの観光客も沢山上っているようだ。東京の街は、画一したところはなく、ビルも、様々な形の高層ビルが個性豊かに沢山ある。南の海側には螺旋のレインボーブリッジがあり、その先には、最近訪れたお台場がある。北東方向、浅草方面には、現在建設中で、電波塔としては世界一となる建設中の「東京スカイツリー」が遠望できる。最近東京タワーの高さを超えたというニュースがあったばかりだ。晴れていれば、西方向に富士山が見えるのだろうが、この日は、残念ながら薄曇りであり、富士山までは見えなかった。連れ合いは、気分が悪くなって、休憩をしながらであったが、何とか回復し、距離が、浜松町とそれ程変わらない待ち合わせ場所の新橋方面に歩いていくことにした。何年か通った、地下鉄御成門を過ぎ、日比谷通りから、JR線方向に入り待ち合わせの新橋の機関車前に着いた。近くのコーヒーショップで、時間待ちをし、約束の時間に降りていくと、三々五々残りの6人が現れた。揃ったところで、銀座方向に歩き、三井アーバンホテルで、中華料理を食べることになっていた。それぞれに経年変化はしているが、どことなく面影が残っている。おそらく一番変化が大きかったのは自分ではないかと思っている。顔を合わすなり、「太ったな、顔も大きくなったし、昔は男前だったのになぁ」と言われる始末。「今でもだ!」とはいうものの、皆、それぞれくたびれた顔になっている。それもそうで、還暦を遙かに過ぎ、アラ古希という方が近い感じになっているので、仕方がないことだ。奇しくも5月に誕生日を迎えた人が2人いたので、誕生日の特別サービスに預かっていた。私は、ミニ同窓会と雖も同窓会に出席するのは今回が初めてである。卒業以来顔を合わせることになるわけで、どういう感じかと思っていたが、やはり、高校時代にすぐワープできる雰囲気に同窓会というものは、なかなか良いものだと思えるようになった。私以外は1人がついこの間仕事を完全に退いたようだが、その他の3人は、未だに何らかの関係で働いているのだという。そう言えば、連れ合いも、臨時とは言え、まだ働いているわけで、私などは、何もしないで、ぼんやりと過ごして良いのだろうかと思う気持ちになる。JR関係から、建設関係の仕事をしている人や、つくばで、知財関係の仕事をしている人、また、化学会社関係で、ビタミンCがガンに良いのだとか皆に吹き込んでいる人、NTTの関連会社を退いた人などいろいろである。皆一応に、何か仕事をやり遂げてきたという自負が顔に表れている。ゴルフをやる人、卓球をやる人、ただひたすら走るのが好きな人などいろいろである。散発的に聞くのだが、既に何人かは物故している。早くから亡くなった人もいるし、現在闘病中の仲間もいるようである。まだ早いかも知れないが、とにかく元気で生きていられることが、それだけで幸せであるのだとようやく思えるようになった。後何回、同窓会に出席できるかは知れないが、顔は少し変わったとはいえ、すぐに打ち解けて話すことが出来る仲間がいると言うことは、幸せなことだと思う。食事が終わり、席を変えて、お茶を飲みに出かけた第一ホテルで、偶然人前結婚式に出くわした。最近のロビー結婚式は、オープンスペースで、だれと言うこともなく見ている人もいる中おおらかに挙式するケースもあるようだ。名残は尽きないが、つくばや、鎌倉と、遠いところから来ている人もいるので、別れることになった。我々は、せっかく来たので、有楽町のチャンスセンターで宝くじでも買って帰るかと、歩き始めたが、どうやら、方角を間違っていたらしく、行けども着かず、見えてきたのは反対側の浜松町であった。我ながら、方向感覚がこれほどまでになっているとはと嘆きつつ、仕方なく山手線に乗り、品川下車、夕食に寿司をつまみ、シャトルバスでホテルに向かった。バスの窓から、ふと東京タワーのライトアップがちらっと見えたのに触発され、ホテルについて、楽な服装に着替え再び東京タワーに向かった。浜松町から、大門を過ぎ、連れ合いが、携帯で、タワーのライトアップ写真を1枚撮って、2枚目を構えたところ、丁度8時になったからか、上部を残して、消灯してしまった。その瞬間に居合わせたことで、連れ合いは、なんだか感動していた。せっかく来たからと、もう一度タワーの下まで行き、引き返した。帰りに増上寺を覗くと、中で、謡をやっているところであった。元来た道を帰り、最終のシャトルバスでホテルに帰った。こうして、東京旅行2日目は終了した。
2010.05.29
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前から計画していた、美術館見学と、同窓会をかねた東京旅行に出かけることになった。最近のデフレのあおりなのか、東京往復の新幹線「のぞみ」指定席に加えて、東京高輪のプリンスホテルの宿泊込みで、安い設定になっている。折しも東京でしか開催されない「マネとモダン・パリ展」と「オルセー美術館展」の2つの美術館展と、東京在住の同窓生との再会と言うことで盛りだくさんな予定である。早起きが身についているので、朝起きるとすぐにでも出かけたくなる。連れ合いも最近はあきらめ顔で、早めに出かけるのに渋々付いてきてくれる。京都発は10:22の「のぞみ224号」であるが、自宅を出たのは、8:30である。ゆっくり歩いても、京都に着くまではそれ程時間は掛からない。案の定、京都に着くとずいぶんと時間があり、福知山線と関空直通の「はるか」が発着するホームの待合室で時間をつぶした。やがて時間が来て、新幹線のホームに上がる。私にとっては、久しぶりの新幹線である。格安の切符でも、シートは同じであり、N700系の車両は結構ゆったりしている。以前に乗っていた時よりも車窓を流れる景色が早くなったような気がする。見慣れない新しい建物が建っていた名古屋を過ぎ、浜松を過ぎ、窓外を見ると、雲がたなびく上に白い冠雪の富士山が見えた。一度、くっきりと見えたことを覚えているが、なかなか富士山を見る機会に恵まれないことが多い。何度かシャッターを切った。後は、サウジ行き以来世話になった横浜エンジのある新横浜をすぎ、品川に停車した。京都からの同じパックの一行は、そこで降りていった。我々は、今日の予定である、「マネとモダン・パリ展」に向かうべく東京まで乗った。東京駅は、どこもかしこも、大改修中である。所々むき出しの天井裏が見える。食事処を求めて駅舎の外に出ると、煉瓦造りの東京駅は、すっぽり工事用シートに覆われていた。丸の内側の丸の内ビルの5階まで上がり、簡単な昼食を採った。「マネとモダン・パリ展」は4時の指定時間入場と言うことでチケットを手配していたが、あまり時間がありすぎるので、直接会場に向かった。少し並ぶだけで、2時15分には、すんなりと会場にはいることが出来た。会場である「三菱一号館美術館」は東京駅のすぐ近くの丸の内に今年の4月6日に出来たばかりとあって、開場以来大人気なのだそうだ。今回は、マネを中心に151点の作品が集められていた。最後の日に「オルセー美術展」にも行く予定で来たのだが、三菱の館の方にもオルセーからの貸し出しの作品があったというよりは、こちらもオルセーからのものが多かった。フランス印象派のマネは1832年に生まれているが、会場のブースは、1.のスペイン趣味とレアリスム(1850-60年代)と、2.親密さの中のマネ(家族と友人たち)、3.マネとパリ生活との3つのカテゴリーに分けて展示されていた。つい先ほど見た絵でもすぐ忘れてしまう絵もある。一般に小作品は、やはり素人にはインプレッションは小さい。皆が、いい絵だとする絵画は、小さくても頭に残る、やはり審美感は人の評価によっても左右されるものかも知れない。スペイン趣味のコーナーでは、やはり、オランピアを背景にした「エミール・ゾラ」の肖像はマネらしさを感じさせる。スペインの民族衣装を着飾った「ローラ・ド・ヴァランス」はオルセーでは気に留めなかったような気がするが、結構な大作である。他には、オルセ-にはない、ボストンやワシントンの「死せる闘牛士」とか「街の歌い手」なども、大作である。「死せる闘牛士」はもっと広範囲に描いていたものをサロンで落選し、マネ自身が、カットして「死せる男」とした作品なのだそうだ。マネでは、高校時代の友人が自ら彫ったレリーフの「笛吹く少年」をくれたが、それは展示されていなかったし、オルセー訪館時に「草上の昼食」の奇抜さに感心したが、これも出展はされていなかった。マネはオランピアを沢山描いているが、最も有名な作品はなく、これも残念であった。また、マネは、ベルト・モリゾの肖像画を数点描いているが、最も有名な、「すみれの花束を付けたベルト・モリゾ」はやはり可憐な感じがして、素晴らしいと思った。しかし、残り4点のモリゾは、結構きつそうな感じであり、これが、同一人物であるのかとさえ感じた。マネの実の弟ウジューヌと結婚したモリゾであるが、数点の肖像を描いた後、「扇を持つベルト・モリゾ」を描いて以降はモリゾをモデルにすることはなかったのだそうだ。パリ万博前の、建造物を緻密に描いた意匠の設計図が数多く展示されていた。大阪万博もそうであるが、今の上海万博の会場は、殆どが仮設の建物であり、万博終了時には全て撤去されるのであろうが、どうやらパリの万博時代の建物は、サロンの会場になったり、他の建物として再生されるほど、建築そのものも価値のあるもののようであった。他の画家の作品もあったが、マネのオンパレードであった。マネは、サロンこそが、評価の対象として正当であると考えたのか、サロンには出展しているが、8回行われた印象派の絵画展には一度も出品しなかったのだそうだ。新しい美術館が出来るのは嬉しいことであるが、中には、自分がパリで見てきたことを吹聴したいのか、声高に仲間と作品について傍若無人に話す人がいる。これは、邪魔にこそなれ、聞きたくもない。ぜひ、止めて貰いたいと思う。「君の作品解説は、誰も聞きたくない」と思っている事を分からせたい気がする。3階から2階へと下りて、展覧会場を出ると、一寸した緑の空間が中庭として作られている。狭い日本だから、そこも人だかりで一杯である。せめて日比谷公園並みの広さが、周りを囲んでいたらどれほどゆったりするだろうか。いっそうのこと、皇居の真ん中に国立の美術館を建て、ゆったりとした気分で、芸術を鑑賞できたらどうかなどと思った。その時は、「メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑」のような物騒なことを伴わなくても良い緩やかな解放であっても良いのにと思った。美術展を見終わって、東京駅で預けた荷物を出して、山手線で、品川まで戻り、取り敢えずホテルに向かったが、道を間違えて、わざわざぐるぐる大回りし、やっとの思いで高輪プリンスに到着した。それから楽な服装に着替え、再び品川駅に出て、海側の高層ビル「アトレ」で夕食を済ませた。今度の帰りは駅前からのホテルのシャトルバスで帰り1日目が終わった。
2010.05.28
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最近の政治、社会何一つ取ってもまともさを感じたことはない。逆に言えば、それだけ自由奔放になったと喜ぶべきかも知れないが、やはり、相手のあることだからそおも言っていられない。どうも国のトップになる人間があまりに軽すぎて話にならない。思い起こせば、あのアジテートの巧い小泉内閣が、終わり、日本は良い方に向かったのかどうかさえも考えないで、自民党の時代が永遠に続くような錯覚を起こしていたような気がする。今にして思えば、あの時代から、国民の間には格差が拡大し、持てるものと持たざるものがはっきりと仕分けさせられたような気がする。大いなる失政のような時代が終局して、新たに、安倍内閣が出来た。過度の心労が元で、自ら政権を放り出した形になったが、今から思えば、嗚呼、あのときの方がまだ良かった、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの田沼の 濁り恋しき」的な感慨を覚えるのだ。それというのもその後が悪かった。いや、あまりにも悪かったのである。福田内閣は、拉致問題は何も進展せず、インド洋上での燃料油隠蔽の事実など、ろくな事がないうえに、アルカイダが友達の閣僚から足を引っ張られるなど、不運なども重なったが、如何せん、親の七光りだけで政権を運営することは出来ず「あなたとは違うんですから!」とさっさと辞めてしまった。続いて出てきた麻生内閣も、一体、これで日本人なのかどうか、テレビに出てくる芸能人よりもさらに漢字力がない全くの幼稚な首相であった。この人も、おじいさんがあまりにも偉大であったために、気位だけは高く、内閣も崩壊寸前になると、ぶら下がりインタビューでも、私情をむき出しにして不快感を表すなど、児戯に近いお粗末な内閣であった。そんな風に何代も、2世首相が続き、やることなすこと全くお粗末であったために、選挙で、民主党に大敗すると言うことになった。国民は清新?な民主党に大いに期待を掛けた。例の「マニフェスト」があまりにも良くできていたからだ。「子供手当」「高速道路無償化」等々耳優しい飴と、政治の腐れ縁を絶つということで、本当に政治は変わると思った人も多かったのではないか。ところが、この「マニフェスト」は諸事の事情で段々と後退をして、その言い訳に大わらわである。わずかに「事業仕分け」が唯一の目玉的要素になった。私などは、未だに、どれだけの独立行政法人と、公益法人など有るのか正確には分からないままである。何度かの「事業仕分け」を人は、パフォーマンスだと言うが、果たして、自民党時代にざぶざぶに、使ってきた無駄金と、とてつもない天下りと渡りで、巨利を得る、腐った官僚が居ることが分かったというか、そんな我田引水型の官僚ばかりが政治を左右していることが分かっただけでも良しとしなければいけない。自民党時代は、行政改革担当大臣を置きながら、改革を骨抜きにするなどして、結局官僚の良いように操縦されてしまった。民主党は、議員が主導権を握ってという心意気は良いが、隠れた官僚のサボタージュにあっている。来るべき参院選挙に勝利しなければ、政権運営がままならぬと、相容れぬ「社会党」や「国民新党」と連立を組まなければならなくなり、その結果、「郵政問題」は亀井大臣の言うがまま、沖縄普天間基地移設問題では、社会党の福島党首に引っかき回されっぱなしである。一方、野に下った自民党は、一人抜け、二人抜けと、虫歯が欠けるように離党者が出て、訳の分からぬ党がいくつも出来てしまった。谷垣・自民総裁は「みんなでやろうぜ!」と声を掛けても、誰一人呼応するものがないという体たらくである。やれ普天間への対応は「二枚舌」だとか、批判はするが、一体自分たちが何をしてきたのかと一言言われると二の句が継げなくなるわけだ。 では、内閣不信任案を提出すれば良いではないかと言うことだが、昔、数で押した、しっぺ返しが見えるだけだから、これもとても自民党のカードたり得ない。 大山鳴動してネズミ1匹も出なく、結局は「辺野古移転」しか手が無くなり、これに反対する社民党首の福島瑞穂大臣は、担当の消費者・少子化には関係なく閣内不一致を演出している。それ程合わないのなら内閣を去ればいいものを、ここでもまだ地位に恋々とする気持ち大なのであろうか。鳩山首相は、始めつかみ所が無く、結構不退転の決意かと思わせ、高い支持率であったが、結局は、小沢一郎の走狗とわかり、つるべ落としに内閣支持は19.1%と20%を切るまでになり、変わりに、襷掛けの如く、内閣不支持率は64.1%と過半を遙かに超えてしまった。表向きトロイカ方式であるが、結局は、小沢一辺倒の民主党も、内部には心ある人もいるわけで、これらの人たちがせめて大同団結してくれない限りはこの国の先は奈落の底に落ちるであろう。次期参院選挙を、すねに傷持つトロイカが引っ張っても、巧く行きようがないように思われるが、これに対する野党となった自民党も、実に情けない。全く為す術がないというのはこの事であろう。俗に平治に向いたリーダーと、乱におけるリーダーの資質は自ずと違うと言うが、自民党は、与党慣れして、狼のような鋭いところが無くなってしまっている。民主党も、自民党も、比例代表の票集めの客寄せパンダに、失礼だが、タレントやスポーツ選手を担ぎ出そうとしている。前回の民主党の多くの新人議員でさえも、まだ何もなしえない上に、新しく掛け持ち議員が出来たとしても一体どうするというのか。考えを疑うより、無性にいらだちを覚える。あの、いつも目をぎょろつかせているだけで、頭の中は空っぽなのではないかと思われる鳩山首相は、思いつきで、希望を述べるのではなく、しっかりと地に足が着いた考えと、方向性を出して欲しい。そうでないならば、もう1回、総理を経験したのだから、そろそろお引き取りを願っても良いのではないかと思う。来る参院選挙がどういう結果になるかは分からないが、民主党は今のままで選挙をして欲しくないこと、スポーツ選手などを引っ張り込まないことを最小限お願いしたい。政治は権謀術数では有ろうが、やはり何か先の見通しを持った1本筋の通ったものであって欲しい。政治を甘く見たり、自分のためにだけ扱うようなことだけは止めて欲しい。
2010.05.27
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明後日から久しぶりに東京に行く予定だ。最近は、旅行会社は何でも有りのようで、東京往復と2泊分のホテルの手配と言うだけの旅行パックがある。新幹線の正規料金だけでもその位はするだろうという金額で、まぁ、名の通ったホテルにも泊まれるということであるから驚きである。折しも東京では、「マネとモダン・パリ美術展」が東京駅近くの「三菱一号館美術館」で開催されているのと、「オルセー美術館展」が六本木にある「国立新美術館」で開催されると言うことで、その両方を見る傍ら、東京在住の高校時代の同期生の一部の人と会うのをかねて出かけることにした。「三菱一号館美術館」の方はなにやら、時間指定で混雑時でも確実に観られるチケットもあるということで、その分は少し高いようである。いつも感じるのだが、当日券と前売り券で2-300円の差があり、また最近では、ペア券といって、2人で観に行けば、当日券より800円(2人)くらい安いといった複雑な料金形態である。前売り券では、会期が始まっていても、チケット売り場で入手可能だという場合もあり、何のための差なのだか分からない。「マネとモダン・パリ」というから、マネの作品がメインなのであろう。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」がパンフレットの表紙にあり、紹介の一部には、オルセー美術館からの作品も数点混ざっているようだ。方や、「オルセー美術館展」は、名前の通り、オルセー美術館が大改修をするということで、大幅に絵画を移転する必要があり、それなら、ということで、日本に出稼ぎをしに来たと言うことだから、オルセー尽くしなのであろう。以前、オルセー美術館へは、連れ合いと訪れたが、パリ滞在期間中に2回は観たいと思っていたところ、2回目はちょうど休館日に当たっていたため、仕方なく2回目はルーブル美術館を観ることになってしまった。ルーブル美術館は、古代からとか、国別にとか、その収蔵品は大変なもので、逐一鑑賞すると、何ヶ月もかかると言われているが、オルセーは、若干展示作品は限られているので、鑑賞しやすい。とは言っても、じっくり見るとなると、かなりな体力がいることは確かである。今回は、115点が出品されているという。「マネとモダン・パリ」の何点かを合わせると、我々に馴染みのある作品が沢山観られると言うことになりそうである。115点の全てのリストがあるわけではないので、分からないが、新聞などによると、アンケートの結果、是非観てみたい作品の10傑が掲載されていた。それによると、5月20日までの得票率では(得票数から勝手に率を計算した)、1位 マネ「日傘の女性」 16.5%、2位 ゴッホ「自画像」 13.4%3位 ゴッホ「星降る夜」 12.5%、4位 マネ「睡蓮の池、緑のハーモニー」 11.4%5位 ゴーギャン「タヒチの女たち」 10.4%6位 マネ「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」 9.4%7位 シスレー「モレの橋」 7.6%、 8位 ルソー「蛇使いの女」 7.2%9位 セザンヌ「サント=ヴィクトワール山」 5.9%、 10位 ドガ「階段を上がる踊り子」 5.7%なのだそうだ。こういったアンケートは、意味があるようで意味はないのだが、自分以外の人はこんな風に思っているのかと言うことを知る上では、参考になるのかも知れない。どの作品もそれなりに心を打たれるが、ジベルニーで連れ合いが買った手提げにプリントされていた、マネの「睡蓮の池、緑のハーモニー」もなかなか良いと感じる。実際に実風景をこの目で見たという親近感がそれを助長するのかも知れない。緑の木と水面の睡蓮をアーチ型に跨ぐ橋は、描かれた当時のものとは違っているのだろうが、今もその面影を残している。連れ合いはなんと言ってもセザンヌ好きである。今回のアンケートには「サント=ヴィクトワール山」の名前が出ていたが、風景画で、プロヴァンスを描いた作品が特に好きのようだ。静物も好きで、「台所のテーブル(籠のある静物)」が気に入っているようだ。色々と静物を描く画家は多いし、セザンヌは、このほかにも同じような静物を何枚か描いているが、この作品が一番素晴らしいという感想である。セザンヌといえば、高校時代の教科書に「女性大水浴図」が有り、三角形で構成された云々との手ほどきを受けたことを思い出す。もちろん現地のオルセー美術館でも観たのだが、あちらは対象物が多いために、1品1品をていねいに観ている時間がない。基本的には、今回の作品群は全て観ていることになるのだが、やはり記憶に残っていない作品もある。オルセー美術館も、ルーブル美術館も、又他の美術館もそうだが、自由に作品を写真に撮っても咎められない。フラッシュはいけないのかと思い自粛していたが、案外平気なのに驚いた。ところが、これが、日本で展示されるとなるとカメラは駄目、シャープペンシルも出来たら、ゴルフのスコアシートを付ける時のような短い簡易鉛筆を渡される。自分のシャープペンシルだよ、万年筆やなんかだと、インクが飛び散る危険性があるという屁理屈も分かるのだが、こういったところはいかにも決まりですからと素っ気ない。カメラのシャッターなども、光に多く当たると、表面の絵の具が劣化するとか言って、許さないのはまぁ、分かるとして、ただ、かちゃりと音がするだけの写真は何故いけないのだろうか。帰りに展示物の冊子を2-3000円で売るためにやめておいて欲しいのだと思うしか浮かばない。オルセーでも、ルーブルでも、もちろん特別に許可された人ではあるが、イーゼルを置いて、有名な絵を模写している画家志望の人を見かける。こういった芸術に関する鷹揚さというか、門戸の開放は、日本はまだまだと言うことであろう。日本ではせいぜい、この絵は何億円もするから素晴らしいといった評価が多いのではないか。NHKの美術講座を受講しているが、この間やっと、写実主義のジャン=フランソワ・ミレーの講義を聴いたところであるから、後々、印象派の講義になった時には、講師の評価や説明がまた楽しみである。いずれにしろ、印象派や、ポスト印象派の画家は、19世紀初頭から、20世紀初頭に掛けて活躍した人たちであり、我々とそう時代がかけ離れているわけでもない。日本の画家で言えば、その頃活躍した人を殆ど知らないが、少し遅れて、竹久夢二や岸田劉生等が挙げられるのだろうか。そう言って考えてみると、やはり洋画家の方が名前も精通しているし、作品も何となく訴えるものを感じるのだが。
2010.05.26
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日経新聞に「曲がる大型ディスプレイ」という、8段抜きの記事が掲載された。副題には、「サムスンなど炭素素材で開発」「ポスターやパソコンに」とあった。そして、あのカーボンナノチューブの発見者である、飯島澄男教授が絡んでいるというのだ。カーボンナノチューブの凄さなどあまり理解していない者がとやかく言うことは出来ないが、この「曲がる液晶ディスプレイ」については、既に2002年に東芝が発表済みの件である。東芝の場合は、通常のプロセス温度で低温ポリシリコンTFTを形成したガラス基板を極限まで薄くし、フレキシブル基板と貼り合せる技術で曲げられるTFTアレイを実現したとある。今回は、グラフェンと呼ばれる炭素を材料にしたナノテク素材を使っているのだと言うから、内容は違っているのかも知れない。それにしても疑問に感じるのは、既に8年も前に開発されたと言いながら、寡聞にしてその実用化製品を見たことがない。何か、実用化には欠損したものがあるのだろうか。当時の東芝の発表では「本技術の採用により、現在の液晶ディスプレイに比べ厚さと重さを約1/4~1/5に削減し、曲面表示を可能にしたフレキシブル・ディスプレイを実現でき、携帯電話やパソコンなどのデザインに曲面を取り入れることが可能になるとともに、電車や建物の彎曲した壁面へも搭載できます。」とあり、また、「薄型・軽量のため、携帯電話やPDAなどのモバイル機器などにも最適なディスプレイ」だとの説明があった。それならば、既に携帯電話などに使われていても良さそうなものだし、建物の壁面湾曲部に見かけても良さそうなものであるが、あまり見たことがない。というか、そう言った宣伝は、テレビなどでもあまり見ないのである。今回の発表は、ノーベル賞に近い人物といわれている飯島澄男教授が絡んでいると言うことである。教授は、名城大学に在籍しいるが、NECの特別主席研究員でもあるわけで、サムスンといえば、巨大企業であるが、NECのコンペティターでもあるわけだ。何故NECで開発しないで、サムスンなのかが私には分からない点の1つである。素材が違うのだろうが、昨年、日経新聞に、曲がる有機ELパネルなるものが、東大とシャープが開発したという記事が掲載されていた。シリコンを使った、液晶に次ぐ次世代パネルと言うことであった。さらに、昨年8月には、同じ日経新聞に、「樹脂基板にシリコン素子」(軽くて折り曲げ簡単)という見出しで、帝人と、アメリカのVBが初めて成功したとあった。どの部分が、初めてなのか、この3者の違いが良く分からない私などは、用途が同じと言うことで、形成する素材が違うのかなと了解するだけである。例えば、「VHSとβの闘い」「ブルーレイディスクとHD-DVDの差」なのであろうか。今回の曲がる大型ディスプレイは炭素素材で出来ているとの解説で、名前を「グラフェン」と言うのだそうだ。炭素を材料にしたナノテク材料の1つで、電子を流しやすく、大電流にも耐えられるほか、強度が高いなどの特徴を持つのだそうだ。この「グラフェン」は、2004年に発見されたとかで、その方法は、鉛筆の芯の黒鉛から粘着テープではがし取る方法で作られたと解説にあった。別の説明資料では、色々と科学的名称が述べられていたが、鋼やアルミを主に扱ってきた私には、殆ど解することが出来ないのは残念である。近年グラフェンそのものに注目が集まってきて、2006年から研究発表が急増しており,ナノサイズのトランジスタや回路を形成する「ポストSi」の有望新素材として特に米国で研究が活発化してきたということであるから、シリコン製の半導体よりは進んでいるのかも知れない。炭素は、ありふれた材料で入手が可能であると言うことで、今までのように「希少金属」の「イリジウム」などを使っていたよりは一層廉価で造れると言うことが魅力なのだそうだ。そこまでは、新しい材料をしかも先端材料のナノチューブを元に製造するという画期的な、なにやら期待の出来ることであるが、何故それが、サムスンなのかということである。サムスングループといえば、サムスン電子、サムスン電機、サムスンSDI、サムスン重工業等々を統括する韓国のほぼ国営企業といってもおかしくないコングロマリットであり、2007年の売上高は1740億ドル、純利益 139億ドルでその、従業員数は263000人だという。日本のパナソニックとソニーが束になっても叶わないといった巨大企業グループであるわけで、そこに何故、日本の頭脳が率先して関与しているかなのである。新聞では、飯島教授は、名城大学に在籍であるが、韓国の成均館大学にも関係しておられたようであり、その関係からか、サムスンが丸抱えで、研究費用をふんだんに提供したと言うことのようである。学者は、より良いものを作ることに一生懸命であろうし、その研究に費用を惜しみなく出してくれるところは、有り難いことだと思う。昨今の事業仕分けで、「1番である理由は何ですか、2番じゃいけないのですか」といった愚問があった。言い方が、やや挑戦的であったが、答える方も答える方であり、釈然としない気持ちになったが、こういった科学に対する感覚や態度が、日本人全体に欠落し、優秀な頭脳を海外に流出させてしまうという結果になるのではないだろうか。日本の「ガラパゴス化」が叫ばれているが、その感覚をひしひしと感じている人がどれだけいるだろうか。最近でもやっとSIMロックの無い「SIMフリー」(あるいはSIMロックフリー)の携帯電話の話が出てきている。日本の総人口が、赤ちゃんまで、携帯電話を持ったとしても、高々1億3000万台や最高である。中国は13億人、インドは10億人などと考えると、日本国内だけを相手にして、勝った、負けたと言っている時代はとっくの昔に終わっているわけで、広く世界共通仕様にしなければ、やがて生き残れなくなるか、日本の会社でも、工場は皆、海外にあるということにもなりかねない。ドバイで、インド人が自国で使っていた携帯電話に、ドバイで買ったSIMカードを入れるだけで、同じように使っている。私の場合は、日本製の携帯電話であり、海外ローミング付きだと言うことで、国際電話は無理矢理話せないことはないが、非常に高いものに付いてしまうし、もちろんドバイ内での通話は「圏外」で使用出来ないわけである。日本は明治初期に鎖国を解いているわけだが、民族的には、小さく纏まり、且つ群れる傾向があるようだ。韓国は、このほかにも日本の優秀な頭脳の成果について強い関心を持って虎視眈々と狙っているようである。仕分けは大いに結構であるが、「天下り」「中抜き」「渡り」などといったことや、有ってもなくても良い「パーキンソンの法則」で増えた、ゴミを一掃することは必要だが、新規の研究成果を、商品化する点については、長い目でのコスト回収をする事も考えて欲しいものだ。国立大学の教授ではなくなって、私学に奉職しているとはいえ、税金から助成金が流れている以上、安易に、外国に設けさせるような鷹揚なことをしていては、日本の先はなくなると思う。
2010.05.25
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その昔、エネルギーといえば、石炭と石油のいわゆる化石燃料のことであった。この化石燃料は地質時代に堆積した動植物などの死骸が地中に堆積し、長い年月の間に地圧・地熱などにより変成し、人間の経済活動に必要な燃料として用いられているものである。これらはいずれも炭化水素エネルギーであり、燃焼すると、CO2が排出される。CO2が排出されると、地球の大気圏内に対流して、地球自体が、ビニールで覆われたビニールハウスのような状態になり、太陽熱が、内側に籠もって、放散しなくなるため、地球が、むやみに暖められるという結果となり、これを地球の温暖化といっているわけである。地質時代と一口に言うが、地球誕生から人類が発祥する以前までの間と言うことであるから、何十億年という単位なのである。この間に動植物などの死骸が堆積したと言うことだから、そうたやすく枯渇するようには思われなかったが、産業革命以降、徐々にエネルギーの使用は増し、20世紀半ばから、爆発的に使用量が増大し始めた。以前は、専ら石炭に頼るものであったが、20世紀半ばからは、石油の時代が来ると共に、徐々に天然ガスや原子力の使用もその割合を増していった。これらの配分は、国によっても違うわけだが、世界的平均で見ると、次のような順位になるようだ。1.石油2.石炭3.天然ガス4.原子力5.水力皮肉にも原子力アレルギーの国である日本では、エネルギー源を原子力に頼る割合が、先進国の中でもフランスに次ぐ2位を占めている。水力はもとより、原子力は、前述のCO2排出量が、石油や石炭よりは少ないので、世界的風潮(地球温暖化対策)には合致していることになる。日本では早くから炭坑の閉鎖などで、石炭を使うことは少なくなったものの、使用を止めたわけではない。いずれにしても、自国でまかなえるエネルギーはほとんど無く、全て輸入に頼らざるを得ない悲哀がある。人間というものは、一旦便利な事を経験すると、後戻りは出来ないのが普通である。洗濯を洗濯機に頼らず手洗いすることなど今では考えられないのと同じである。それは極端にしても、トイレの便座については、ある種驚きを覚える。冬場寒い時に、便座に腰を掛けるとひやっとして冷たく、一寸身震いをする。ほんの少し我慢をすると、自分の体温で暖まるので気にならなくなるのだが、ひやっとする一瞬のためにカバーに通電して、暖めて、待っていると言うようになったわけである。さらに驚くべきは、トイレカバーを開けるのも面倒というのか、便座の前に立つと自動的に蓋が開くというシステムにもなっているらしい。これなど明らかに行きすぎであると思うのだが、これに慣れた人間は、手でカバーを開けるなど考えられないと言うことになるのであろう。エネルギーの無駄遣いは、随所にあるのだが、最近の若い人は、自分自身のことであっても、なかなか節約するという事に慣らされていないので、ついつい鷹揚になるのである。今ここで少しの注意を払えば、例えば、100Wの電気を付け忘れて1時間経つと100WHというエネルギーを無駄に使うことになる。これを日本国民の1割(1000万人)がそうするとしたら、10億WHということになり、大型の原発1基分の出力を使い果たしてしまうことになるわけだから馬鹿にならない。しかし人間の性で、自分のやっていることは、ほんのちっぽけなことであり、例えば、それくらいの無駄なら支払能力内(電気代)であると考えれば、さほどの注意を払わなくなるものなのである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の考え方になるのであり、そんな小さな事をあげつらう前にもっとすることがあるだろうと言った、すり替え理論で自分を納得させるのが落ちである。最近は、エネルギー源を化石燃料に頼らない方向で、色々模索されているようであるが、経済ベースに乗るかどうかで、なかなか爆発的に普及する様子もない。風力、バイオマス、地熱、中小水力、太陽熱など色々取りざたされているが、どうも日本にはぴたりと来るものが無いのか動きが悪い。最近はシェールガスが注目されているし、メタンハイドレード等も遡上に上ってきている。幸い日本の南海には、このメタンハイドレードの鉱脈がたっぷりとあるということのようだ。確かにコストは掛かるようだが、日本の技術力で、コストを下げ、自前のエネルギー源を持つことを考えたら如何だろうか。話が変わるが、鳩山首相の結果的にそうなったら良いのになぁ的な「普天間問題」は巡り巡って、首相の「ごめんなさい」で決着しそうである。この人は、「宇宙人」と自ら称するだけあって、結果がどうあろうとも全く蛙の面に水的な、責任感覚の欠如を感じる。その首相が、国連気候変動サミットの演説で、「Japan will aim to reduce its emission by 25% by 2020, if compared to the 1990 level,・・・」と大見得を切ったのである。即ち、温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比で25%削減すると明言したのである。あの演説を聴いた時には、私なども「ほぉ、日本も世界にインシャチブを取る気になったのか」と歓迎の目で見ていたけれど、その後聞いてみると、あれは、根回しもない、単なる、首相の独断による根拠のない値(希望地)である事が分かり、愕然とした。時の経団連会長も、それ程分かった人間ではなさそうで、あの宣言で、どれだけ、日本が苦しむことになるかを知らなかったようである。(やはり電気屋では駄目なのか)その後「普天間問題」の経緯を見るにつけ、ますます暗雲が、たれ込めてくる気がした。「普天間問題」では、オバマ大統領に「Trust me!」と大見得を切って、結局は、あなたの言いなりになりますという意味だったのかと思うほど結果に終わり、日本国民に対しては「海兵隊が抑止力として、必要だということは、勉強すればするほど分かってきまして・・・」と全く児戯に近い答弁をしている。それでも、私は一生懸命やったのだと、子供が親に褒めて貰いたいかの如き有様であり、何をか況やである。「あ-ぁ、このために親は、内緒で(?)、月1500万円もの子供手当を与えていたのかと情けなくなる」2020年には、彼の姿は、表舞台にいないであろうから、言いたい放題で済むのだろうが、もし居たらどういう答えをしたのだろうか。「I am sorry but I couid not understand to reduce CO2 by 25% is very difficult, even by 1%・・・」てな事で、世界は許してくれないと思うのだが・・・。
2010.05.24
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<前回の続き>また五木氏の講演である親鸞、蓮如の話に戻るが、蓮如は「少しずつ念仏の話をし、決して大声で宣伝するべからず」と教えたそうである。今の世の中、何も出来ない者の方が、我も我もとしゃしゃり出るのを見るにつけ、この蓮如の教えは貴重な気がする。とはいえ、そのような連中が、蓮如を学ぶべくも無く、無い物ねだりに終わるのであろう。親鸞の750回忌が近いせいか、最近は「親鸞」が引き合いに出されることが多いが、これは今に始まったことではないと言うことは前に述べられたが、かつてはプロレタリア文学の小林多喜二の「蟹工船」が書店を賑わせ、続いて、新訳が出たと言うことで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が書店を覆った。(これは連れ合いも一気に読破していた)五木氏は、ロシア語を専攻されていたのでドストエフスキーは宗教世界作家という紹介をされ、もう一つの名作「罪と罰」について、この「罪と罰」は神に対してのことであると解説され、ロシア語を直訳すると「犯罪と計画」と言うことになるのだそうだ。2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、アメリカ同時多発テロ事件は、全世界に戦慄と衝撃を与えたが、あの後、一時、新約聖書「ローマ人への手紙12章19-20」を引用して、「復讐するは我にあり」という考えで受け止めようとした向きもあったようだが、結局は、かき消され、イラク戦争からアフガン戦争へと突っ走ることになるのである。「ローマ人への手紙12章19」にはこう書かれている。19:愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐するはわたしのするところである。わたしが報いをすると主は言われる。」アメリカ人の信仰もこの程度かという方が正しいのか、4千年前のハムラビ法典には「眼には眼を、歯には歯を」と書かれているし、さらに旧約聖書、コーランにも書かれている。神は、どちらを勧めているのか、あやふやな気がするが、1説には罪刑法定主義という意味合いから、現代では、「やられたらやりかえせ」の意味や「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」とする刑罰の限界を定めるというのが本来の趣旨であるとしている。人間とは、そもそも地球そのものにとって悪ではないのかということは、環境を破壊する先進国や、新興国に大いなる反省をもたらしているが、今の世界は、こういった諸悪と直面して生きていかなければならないということだという。五木氏は、今の世の中があたかも、平安末期から鎌倉時代に移った時と同じく末世の兆候であるという。たおやかな平安貴族に変わって、野卑な武家が天下を治めることになり、各地で、干ばつ、凶作、飢餓、地震、竜巻などが起こり、京の町は死人が溢れ、腐臭が漂うといった、正に地獄に生きるという感覚であり、飢餓草紙や、地獄草紙で見るような有様であったようだ。時に大雨が降り、上流から大量の水が、町を洗い死体を下流に持ち去ってくれた時に町の人々は一息ついたという。自殺も多数有り、中には自殺を予告し、興業化することもあったと言うが、人々は、これに群がり見物すると言うことも稀ではなかったようだ。母が子を食べ、野犬が人の肉を喰らい、その野犬を人が食うといった、事もあり、人をだますのはごく当たり前、人々の絶望感は頂点に達して、地獄を生々しく実感できたという。このような環境では、良い行いが出来るわけもなく、生きている今も地獄、そして、あの世には浄土もなく、無間地獄が待っているという末世思想である。これを慰めんと、人々の間では今様が大流行する。後白河法皇はこれをまとめて「梁塵秘抄」を著したが、その中に、「はかなきこの世を過ぐすとて、海山かせぐとせし程に、萬の仏に疎まれて、後生我が身をいかにせん。」という歌があり、五木氏はこれを引用された。「海山かせぐ」の「海山」は、この世に生きて生計を立てる者全てを代表していると言うことであり、はかない世を如何に生きようとも、全ての仏に疎まれてしまって、この先死んでからもどうしようもないと言った、落胆的な諦観の歌である。このような時に、法然は、ひとすじに弥陀に帰伏して念仏する「専修念仏」で衆生は救われるのであると説いたわけだ。難しいことは要らない、ただ、ただ「南無阿弥陀仏」を唱え弥陀にすがって、弥陀の力(他力)により、浄土に入れると説くのである。当時としては、正に革命的な教えであって、民衆は飛びついた。さらに、我が生きるために、他を押しのけて来たような悪人の行為であっても、救われるのだと言うから(悪人正機)、民衆は、その教えに一縷の望みを託すのも又当然であったろう。浄土宗・浄土真宗の教えは、書物に書かれたものからではなく、法然や親鸞の、肉声、姿、表情、身振り手振りにより感銘を受けるものである。正に、「梁塵秘抄」の、「弥陀の誓ぞたのもしき、十悪五逆の人なれど、一たび御名を称ふれば、来迎引接疑はず。」といったところである。法然―親鸞は、こういった教えは、南都北嶺(奈良の興福寺と京都の延暦寺)の如く、立派な僧侶だけが往生できるという差別感はなく、「一切衆生」というのであるから受けたわけである。話が変わって、五木氏は、岡山で、老女がひったくりに遭い、追いかけた高校生が捕まえてみると実は警官だったという笑えない話に、インタビューに答えた一人の高校生が「世も末ですね」と言ったという。高校生が、このような言葉を自発的に使うはずもなく、きっと家庭で常日頃「世も末」という言葉を使っているのだろうという話であった。それこそ、世も末の話である。先頃の新聞に「自殺、景気低迷の影濃く 昨年12年連続3万人超」という記事が掲載され、わたしも前に少し触れたが、氏は3万2826人の自殺者数は多すぎるし大変なことだと取り上げられた。統計に出てきただけで、3万人を超えているのであるから、隠れた数は5万人はいるのではないかという事だが、それは、あまりに極端としても、由々しき数字であることに間違いはない。未曾有のことであり、正に命のデフレーションであるといわれた。さらに、ヴェトナム戦争を引き合いに出し、1960年代のヴェトナム戦争で、10年間に死んだ米軍兵士と軍属の数は、6万数千人だというのだ。日本では、たった2年間で、しかも弾が飛び交う戦場でもないのに、同じ数の民間人が自ら命を絶っているのが現実である。何が間違っているのであろうか。人は誰しも、心の何処かで「真実の生き方」を希求しているのだという。生き方は即ち死に方に通じる。平成の末世の今、人は今、直接語りかける相手を失っている。戦後この方、現在までに、「慈悲」という言葉を忘れてしまっているのだというのだ。「慈」は慈しむなどという意味があるが、人間そのものであるといい、「悲」は嘆かわしいとか心が痛むなどという意味だが、うめき声的なことを含むという。親鸞は、悲しい時には「悲泣」せよと説いている。さぁ、一緒に泣きましょうと言うことである。自力で解決できると思うのではなく、素直に「他力」(弥陀)にすがれと言うのだ。また、ものの哀れを説いた、本居宣長の記した歌論書「石上私淑言」(いそのかみの・ささめごと)では、「人は生きている限り悲しみに出会う」という。その悲しみに横向くことなく正面から見据えて、声に出し、そして他人にもその悲しみを伝えよと説くのである。西田幾太郎の哲学をも例に出し、人生の悲哀に直面した時、哲学も又然りであるが、腹の底から笑えば、免疫力が増大すると言うだけではなく、必要なことであるという。金沢の兼六園の「雪吊り」の話を引き合いに出し、「雪吊り」は強い木であっても萎えない木に施すのだそうだ。柳のような木ならば、雪の重さに逆らわず、萎えるが、松などは、強すぎで、頑張りすぎ、やがて限界が来て折れるのだそうだ。人も同じで、頑張りすぎず、萎えようではないかと言うことだ。昨今の新興宗教は、人が病み萎えている時につけ込み金を儲けたり、悪を成したりするケースが多い。この事を憂えたりしながら、予定の時間を30分近くオーバーして講演は終わった。講演の会場は、むやみに暗く、陰気であり、五木氏の指摘にも明るさを増すことはなかったが、講演が終わった瞬間に、パット明るくなったのはどうしてだろうなどと話ながら、今日はいい話が聞けたと、終日バケツを返したような雨の中だが、来て良かったし、久しぶりに細胞が活性化する気がしたねなどと連れ合いと話しながら帰途についた。
2010.05.23
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長くなるので2回に分けて記載する。姫の紹介で、五木寛之氏の講演会があり、その内容は「親鸞とその時代」と言うことであった。最近文筆活動を中断していた五木氏は、先頃「親鸞」を出版されたばかりだ。いろいろなジャンルで活躍している極めて有名人であり、作家としては、直木賞を初めとして数々の賞を受賞している。連れ合いは、大変なファンであったが、最近抹香臭くなってから、その後の本はあまり読んでいないという。しかし講演は聴きたいと言うことだ。私は、小説はあまり読まないので、逆に抹香臭くなって「親鸞」の講演だという事で聞きたいと、変な接点で一緒に聴きに行くことになった。私は、1冊だけ「大河の一滴」を読んだことがある。氏が「二度自殺を考えたことがある」と書かれているので、共感を持った覚えがあった。ここで、氏の紹介をしても紙面の無駄である。講演の前置きは、呉の寒々しい古い建物での講演で老人を相手の「人生の無常」について語った時に、「どうせ最後は死ぬのだから」で講演を終了し、とぼとぼと還り行く老人達の後ろ姿を見送っていると、空しい気分になったが、方や、道路向かいの近代的な建物から若い人が大勢出て来て、皆、生き生きしている。どうやら、そちらは竹村健一の講演で「やれば出来る!」であったそうだ。講演の標題が悪かったのかと、次回の四国では同じ内容を「やって出来ないことはない」と変えたが、結果は一緒だったと笑わせた。現代は、人間の生と死についての講演内容が多くなったという。人生を真正面から真面目に見つめると、「あーぁ」とため息が出ることが多い。そして今何故「親鸞」か、と言うことについては、昔から変わっていないと言うことである。教員の子として生まれ、朝鮮に渡り、終戦を平壌で迎えたという。敗戦時に、軍の高官や、上級官吏は、いち早く情報を得、帰国の準備をしていたが、一般市民は、為す術もなくただ「ぼぉー」としていて、難民化していったのだそうだ。ようやく危険を感じて脱北を試み、ソウル→仁川→博多と逃げ帰ったと言うことだ。その間も、住むところが無く、倉庫に詰め込まれたり、死体は辺り一面に累々として、凍った川の氷に穴を開け、死体を落とし込むといった事までしたのだという。あの、強制収容所「アウシュビッツ」でなくても、同じ経験は出来るものなのだと戦慄したというが、何故か、全てを思い出すことが出来なくてせいぜい2-3割のことしか頭に浮かばないというのだ。嫌なことは忘れたいと、無意識に忘却していると言うことらしい。人間は追い込まれると、生きるために何でもやってしまうものだ、という例で、考古学者の大塚初重との対談で、大塚氏は海軍時代に3度沈没を経験し、その際、生きるために上甲板に上ろうと、人が人の足にすがりつく鎖状態になった時、自分が生きるために、すがりつく同僚を蹴落としている自分が居るということを話された。また、親友である野坂昭如は「二度と飢えた子供の顔は見たくない」というのに対し、五木は「二度と飢えた大人の顔を見たくない」と考えたのだそうだ。子供が飢えるのは、まだそこで止まるが、大人が飢えると、子供のものまで奪い取り、子供をないがしろにして生きようとする浅ましさが出てくるというからだそうだ。現代の子供の虐待や折檻は又別の意味かも知れないが、ルーツは同じ、「自分さえ良ければいい」という霊長類の頂点であるべき人間が、動物以下の獣になっているのだということを感じてしまった。戦後の帰還時の思いが尾を引いて、中・高生時代も心は落ち着かず、ロシア語を選択して早稲田に学ぶが、学費未納で、抹籍され(後に学費を全額納付し中退扱いになる)、就職したのだそうだ。その後、30代を前にして、ひっそりと田舎暮らしをしようと金沢に転居したが、書いた小説が新人賞を受けるに至って、にわかに脚光を浴びたが、氏としては、真に求めることではなかったと述懐されていた。当時の金沢大学は、旧金沢城趾内にある、環境の良いところであった。最近我々2人も青春18切符で金沢を往復したが、今は、城趾から大学も去り、集客のために城の門などを復元中であったことを思い出した。この金沢大学の図書館に、後に真宗大谷派の宗務総長を勤め、『歎異抄講話』を表した暁烏敏(あけがらす はや)のコーナーが有るということだ。ここによく通ったと言うことで、今日の著書「親鸞」はその時から暖めていたものであろうか。そこには、二葉亭四迷や、白隠禅師などの本があり、氏の興味は尽きないほどの場所であったようだ。私などは興味の対象は違うけれど、図書に囲まれて内容を想像する楽しさは共有出来る気がした。ただ、内容を読み、理解し、ものに表すという点で遙かに能力の差を感じるのはやむを得ないのは残念なことである。金沢はまた蓮如上人の影響が大きいところでもあるという。毀誉褒貶の大きな人であったらしいが「人は慣れると手ですることを足でする」とか「仏の前では平等である」とかの言葉を紹介された。話は下北半島にある「恐山」にまで及んだ。水子をまつる賽の河原には小石が積み上げられ、空にはカラスが舞うという光景は、私も一度訪れたが、あまり長居をしたくないところだし、地獄の入口とはこんな所かと思ったりもした。遠野辺りには昔から、「間引き」と言うことが当たり前のように行われていた。本来、間引きとは、植物を栽培する際、苗を密植した状態から、少数の苗を残して残りを抜いてしまう作業のことであるが、この場合は、生まれた子供をすぐに殺すことなのである。21世紀になって、いわゆる先進国では、親は一般に子を守り、扶養すべきものとされ、民法でも明確な扶養の義務が記載されている。ところが、その昔、江戸時代などでは、親が子を殺すということはそれほど珍しい事ではなく、親のために子を犠牲にするのは親の正当な権利として広く認められていた。当時の日本では生後間もない子を殺す事例が、必ずしも貧しさから起こるものだけではなく、生活水準を保つためにも行われていたようだ。またそれ以外にも、生まれてきた子供が奇形児や障害を持った子供であった場合に、産婆や母親が殺すケースもあったという。古代中国や、キリスト教世界でも同様の行為は行われていて、私が居たサウジアラビアのようなアラブの世界では、かつては、中絶、間引きは家父長の当然の権利であり、特に女児はよく間引かれたようだ。知られているようにアラブ世界では今でも妻を4人まで持つことが許可されている。闘いに明け暮れた歴史を持つ、過酷な世界では、男子は戦力として有効であるが、女子は全くのお荷物的考え方である。王などは、ハーレムに多数の女性を持ち、従って、子供も多いが、他人には、女の子供が多くいることを発表することは恥だ位に思っているのだそうだ。話は飛んだが、遠野の場合、子供に水を掛けて、布でくるみ外に放置するのだそうだ。最初は泣き声が聞こえるが、そのうち静かになり、朝にはすっかり凍てついているというのだそうだ。この場合は、主に貧困が原因であり、そのために、遠野辺りからの海外移民が多いと言うことであった。それに引き替え、蓮如が影響を持った、北陸地方(富山・石川・福井)では、蓮如の教えで、間引きの例は少ないのだそうである。移民先のマウイ島やブラジルなどでは、多くの卒塔婆が日本に向かって建てられているとか、といった例が紹介された。五木氏も、平壌から引き上げる時に、他を押しのけて帰還したといった経験をしていることが、幼少の頃から心に残り、自分も人間の持つ悪の性を背負っているという後ろめたさがあったそうであるが、50歳前後から、「人間の悪」はあっても生きていて良いのだという気持ちになったそうである。同時期に弟をガンで亡くし、鬱状態にもなったのであろうし、「大河の一滴」の自殺を考えた時は多分この時であろう。中・高生時代は、好奇心から「隠れ念仏」に興味を持っていたこともあったという。浄土真宗が長い間弾圧されていた九州生まれの氏の経験である。50歳になり、縁あって、龍谷大学の千葉乗隆(千葉りゅうと言われた)の講義を受けることになり、淡々とした千葉先生の生き方に共感すると共に、学生の頃は休講だと言っては喜んでいた自分が、50歳にして大学で学べる喜びを知り、講義を心待ちするようになったと言うことである。この点は私も、非常に共感できるところである。昔は、勉強をさせられていたという意識が強く、良い点を取って皆より抜きんでるべしとか、良い大学に入るとか、就職に有利なようにとかの謂わば邪心での勉強であった気がする。それが、現在、好きなことを、好きな時に学べるという尊さは、学生時代の渦中にあっては思いもよらぬ事である。あの、歌の「青春時代」で「青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの 青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」といった心境であろうか。私も海外出張で、鬱病を患ったことがある。死ななかったのは、死ぬ勇気がなかったからかも知れない。しかし、サウジアラビアに出張する時には、「行かされる」のではなく「私が行く」と気持ちを切り替えたのであるが、そうすると、今まで辛く思ったことが、どれもこれも得難い経験をさせて貰っている気がして、とても楽しく過ごすことが出来た。この時、連れ合いのメールでのサポートは大きな心の支えになった。<続く>
2010.05.23
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大阪万博の跡地に出来た国立民族学博物館で時々話題の映画を開催しているという。今回は第5回目の上映会だと言うことだが、メインテーマは、民族と国境とかにまつわる問題を取り上げている。今日、連れ合いは、友人の三回忌で、一緒に行くことが出来なかったのは残念である。中東において今、最もホットな場所における長い一日を描いた作品である。シリアとイスラエルの国境であるゴラン高原にあるマシュダル・シャムスという小村で暮らすモナという無国籍の女性が、国境を越えて、写真でしか顔を見たことがないという男性のもとに嫁ぐという一日を描いた映画である。そして、特異な事情として、無国籍の彼女は、一旦国境を越えると、愛する家族の居る、ゴラン高原へは帰れないという宿命を負っての嫁入りなのである。国境を挟んで行き来できないという特殊事情は、イムジン河を挟んだ南北朝鮮の分断家族で見たことがあるが、お互いに拡声器で呼び合うしかないという光景はよく似ている。主人公の花嫁になるモナはイスラム教徒でも独特の宗派であるドゥールズとして生まれたと言う特殊事情がある。ドゥールズの決まりとしては、イスラム教徒に科せられた「ハッジ(巡礼)」や「サラー(祈り)」などを厳格に守る必要がない変わりに、結婚は、同族同士でなければいけないという規律がある。従って同じイスラム教徒の中でも、異端児扱いされるという特殊な関係にあるという、孤高の民族である。ドゥルーズの居住地は、現イスラエルやシリアに分散して存在するが、この映画のゴラン高原地区のマシュダル・シャムス小村は、かつてはシリア領であったにも拘わらず、第三次中東戦争で、イスラエルの領土として組み込まれてしまったのである。イスラエルは、ドゥルーズに対して、イスラエルの国籍を与えるとしたが、ドゥルーズはシリア帰属のアラブ人としての誇りから、この申し出を拒否し、敢えて、無国籍の道を選んだのである。自らのアイデンティティーを捨て去ることは容易ではない。まして、ある日突然に帰属する国が変わるなど、我々日本人には考えられないことである。あの第二次世界大戦での敗北後も、実質的には、GHQのマッカーサーの指揮下にあったとはいうものの、日本人を捨ててアメリカ人になれとは言われなかった。そのことを考えると、このドゥルーズの立場が如何に過酷であるかという事が図り知れる。ここで、モナの長兄は、若い頃、このドゥルーズを捨て、ロシアに渡りロシア人と結婚して8年間も故郷に帰っていなかった。妹の結婚式と言うことで、長い時間を経た今、帰国するのである。又その弟は、無国籍のままイタリアなどで、勝手気ままな商売をして過ごしていたが、妹が結婚すると言うことでこれも帰国する。時あたかも、シリアの大統領が、親のアサド大統領から息子のアサド大統領に変わる時期と重なり、新アサド大統領は、ゴラン高原はあくまでシリア固有の領土という立場を変えない鷹派的な立場を取る。村中を挙げてこれを支持するデモが大々的に起こる。村の長老は、父親に対して、ロシアで異教徒と結婚して帰る長兄を受け入れるならば、娘の結婚のための見送りはしないという。これまでは、父親は、ドゥルーズの中でも重要な役回りをし、時には、警察に拘留される経験までしている。警備の警官からはブラックリストに載せられ、非武装地帯までの見送りさえ許さないといった立場に置かれている。最も妹思いの姉のアマルは、嫁いでしまったら二度と会えない妹に励ましと勇気を与え続けるが、悲しみは一筋縄ではない。警察によって見送りを許されない父親と、一方では世間体を気遣う父親によってロシア帰りの長兄も見送りが許されないのであるが、姉アマルは敢えて、みんなが送りに行く時をずらせて、追跡するのである。ところがここから又長い一日は一層長くなる。今やゴラン高原地区はイスラエル領であり、イスラエル側の移民官は、パスポートに今まで押印しなかった、「イスラエル出国」と言うスタンプを、規則の変更と言って押すのである。それを持って仲介の国連の事務官はシリア側の移民官に提出するが、シリアの移民官は、元々、そして今でもゴラン高原はシリアの領土だと言う考えであり、イスラエル出国というスタンプがあるパスポートを受け付けるわけにはいかないというにべもない返事である。言い分は筋が通っているわけで、シリア内部の移動にわざわざイスラエル出国とは如何なる事かという言い分である。何気なくでもないが、我々が出国する時や入国する時に、イミグレーションで機械的にスタンプしていると思いがちだが、深い意味があるわけである。特に、シリアはイスラエルを、イスラエルはシリアをお互いに国として認めていないのだから話は、ますます複雑である。お互いの係官の上司に電話をするが、何故か、どちらも夕暮れ前に事務所から居なくなっている。折しも自動車事故で起こった、アラブ人のイスラエルに対するインティファーダ(市民蜂起)の最中であり、国境の係官としても、おちおちしては居られないといった背景がある。為す術もなく、何度も両国のイミグレーション間を往復する国連の係官の女性も、いらだちを増している。こんな時の国連の存在などというものは、殆ど無力であると言わざるを得ない。上官を通り越して、大統領に電話を試みるが、電話は空しくコール音だけである。最終的に、シリア側の係官が、スタンプを消せば許可すると言うところまで譲歩した。皆の勢いに気押されたのか、インティファーダが気になるのか、イスラエル側の係官も修正液で、出国スタンプを消すことに同意し、白ペンでスタンプを消したのである。これで、万事解決と、皆の歓呼の「シュクラン(ありがとう)」のかけ声の中シリア側の事務所にはいると、何と、許可した係官は交代していて、引き継いだ係官は何も聞いていないので、修正液で消したようなパスポートは受領できないとまたまた振り出しに戻ってしまう。皆、がっくりと肩を落とし、非武装地帯のゲート近くからゾロゾロと引き上げるのである。今日うまくいかなければ、又最初からの手続きで、あと5ヶ月は掛かると言うことになる。皆が引き上げる中、妹は、一人門の前で椅子に腰掛け、じっと向こう側を見て押し黙っている。妹思いの姉がふと振り返ると、妹は、門を抜け、一人花嫁ドレスのまま、徒歩で、シリアの検問所に向かって緩衝地帯を歩き出しているのである。国より、国境より、先にあるべき個人の尊厳を、モナは体を張って貫き通そうとするところでこの映画は終わった。ゴラン高原は、今なお戦争状態であり、同じような場所は、インドーパキスタンや、クルド人問題、南北朝鮮と世界中に存在する。日本人としても、これらをよく理解して、世界を眺める時が来ているのではないだろうか。
2010.05.22
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4期目のNHKの講座の第2回目があった。前回は「クールベとドーミエ」と言うことであったが、ドーミエについては言及されなかったので、今日のテーマは先ずドーミエを取り上げ、続いてミレーと言うことになった。オノレ・ドーミエはクールベやミレーと共に写実派に分類される。マルセイユに生まれ、父親が詩人になりたくて一家でパリに移住するも、父は詩人になれず、ドーミエは画塾に通い、リトグラフの技法を身につけた。作品には、時の国王ルイ・フィリップの治世下で政治に批判的な風刺画(一口漫画)を描いて、投獄されるという目に遭っている、反骨精神旺盛な画家である。最初に紹介された絵は、「さあ君の話す番だ、延べたまえ、きみは自由なんだ」という長い名前のリトグラフである。この絵は、解説が要らないほどの作品であり、左に座る裁判長がにやりと笑いながら、罪人である人に問いかけている構図であるが、この罪人たるや、猿ぐつわをはめられ、官吏に抑えつけられているというもので、自由を容認するかの建前に対して、実は非常な弾圧があるという意味の風刺画である。次は、「カルガンチュア」で、時のルイ・フィリップ国王を、巨人で大食漢のカルガンチュアになぞらえ、どっかりと王座(実は便器を象徴している)に座っている。その大きく開かれた口に、下の方から次々にベルトコンベアに載って国民の税金が国王の口に運び込まれてゆく。王座の周りには、うまい汁を吸おうという議員や高官が群がっている。といった風刺画である。王の口に運ばれた税金は、王が喰らい、そして、王座と見立てた便器から排出される利権に群がる高官達というもので、現在の天下りの垂れ流し利権を思わせるような身につまされるものであった。この、政権の腐敗を痛烈に皮肉った風刺画は、検閲にひっかかりドーミエは禁固6ヶ月、投獄されるが、逆にドーミエの名を世に広める結果ともなった。王の顔が洋梨のように描かれているが、洋梨は、フランス語では「間抜け」という意味もあり、痛烈な風刺である。「トランスノナン街」は労働組合の禁止に抗議し決起した暴動がリオンに起こり、パリにも飛び火した際、建物から発砲した1弾が軍隊の一人に当たり、これに怒った軍が、その建物の住民を無差別に全員虐殺したという内容の絵である。現在でも、フランス人はすぐ暴動を起こすが、当時から血気盛んであったことを思い起こさせる作品である。これ以降、風刺画等全ての出版は検閲が必要となり、ドーミエもその煽りを食った。「話し合う三人の弁護士」では、前方で、今日の裁判のやりとりを勝った方と負けた方の弁護士同士、批評しながら談笑している絵で、彼らにとって裁判の結果などはどうでも良く、左奥で泣く女性のことなどは眼中にないといった絵である。「洗濯女」はパリに住む最下層の女性が、子供の手を引きながら、洗濯物を持って階段を上っているという構図であるが、ぼんやりと描かれた背景の白壁のパリの街にもこういった下層の人がいて、ドーミエは、そういった生身の人間をありのままの姿をたたえるという気持ちで描いている。新古典主義では、ドラクロワの如く、均整の取れた、神話から引用した女性こそ美しいとされていたのとは対照的にありのままの生活の中に生きる女性の尊厳を暖かく描いている。小説家バルザックは、この絵を見て「まるでミケランジェロのようだ」と言ったそうである。「三等列車」では、ぎゅうぎゅうに混み合った下層の列車に、乳飲み子を抱えた母親と、その祖母の3人に焦点を当て、貧しくとも毅然とした尊厳ある姿で居住まいを正している。下層ではあるが、堂々としている人間としての尊さを描いており、後に印象派などへも大きな影響を与えた作品で、人物画を描く上で、神話にある美から現代の身近な美しさへと変化する絵画の転換点ともなったと言われている。「サンチョとドン・キホーテ」はセルバンテス作の絵画化であるが、時代に追いつこうと、先走る老騎士ドン・キホーテにロバであえぎながら追いつこうとするサンチョ・パンサを描いているが、多くの同種の作品を描いているのは、ドーミエ自身をドン・キホーテになぞらえたものであるとの見方もされているようである。ここからは、テオドール・ルソーの作品で、「フォンテーヌブローの森の外れ(日没)」はパリ南方のバルビゾンにおける風景画である。当時、パリの喧噪を離れて、郊外に憩いを求める気風があり、後のミレーや、ルソーなどはここに住み風景画を描くことになる。パリから列車がフォンテンブロー宮殿まで敷かれているのも好都合だったようである。この時代は、各々の画家が、パリ郊外のバルビゾンを始めジベルニー、アルジャントゥイユ、オーヴェル=シュル=オワーズなどに出て行って、風景画を描くようになった。私と連れ合いは、モネの家があるジベルニーを訪れたことがあるが、パリを出るとほんの数時間内に、田園風景の広がるフランスはさすが農業国という感じでのどかである。森と、沼沢と、牛といった田園風景が好んで描かれたようで、自然を切り取って、部屋に飾ると言うことはこの頃から行われるようになった。 「ランド地方の沼」は半年間のスケッチ旅行の中から描かれたもので、ここには、木々と、沼沢、牛を中心に壮大な田園風景が見て取れる。トロワイヨンの「嵐の前」は、初めて聞く名前だが、犬を連れて郊外に乗馬を楽しむ姿を、大自然にとけ込ませた絵になっている。次にミレーの「落ち穂拾い」だがミレーは、ノルマンディー地方の代々農家に生まれる。写実派に属し、貧しい農民の姿を描き続けた。国立美術学校には通らなかったものの、私学で学び、結婚3年で妻を亡くし、再婚した召使い女を親から認められずといった生い立ちである。ドーミエ同様、貧農の中にも、美しさと威厳を見いだし、人間の尊厳を描いた画家である。同様の作品に「落ち穂拾い(夏)」がある。これはより以上に、貧富の差をまざまざと見せつける対比的な絵となっている。「晩鐘」は若い夫婦が、作業の途中に遠くから聞こえる教会の鐘の音に、慎ましく祈りを捧げるといった純朴な様子を描いている。一時アメリカ人が所有していたと言うが、フランス政府は、この絵を、フランス人勤勉さの象徴だとして、買い戻したという逸話も紹介された。「春」はシリーズで四季を描いた内の1作である。バルビゾンの風景を光と影のコントラストを活かして描いているが、大きな虹の中心に当たる点に人物が描かれている事について、色々議論はあるものの、明確な合意は得られていない。「井戸から戻る女」は水汲みという重労働を、日常のさりげない仕事として描いていて、木靴を履いた女性の純朴さが細かな配慮の元に表現されている。当時の美術批評家のトレビルガーに、この絵を描いた意図を詳しく書き送っている。男から見た女性の慎ましく従順である点を強調したいという意図が出ている。「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」は、マネが、「草上の昼食」でスキャンダルとなった時のサロンに出品した作品である。陰気だと言うことで、評判はあまり良くなかったようで、結局は売れなかったと言うが、1967年パリ万博には依頼された他の作品の8点と共に出品している。最後の、「種をまく人」マタイ伝13章3-8を引用し、種=信仰の種(尊さ)をダイナミックに表現した動きのある作品である。
2010.05.21
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2ヶ月ぶりに友人が来た。元々連れ合いの同僚であったが、大阪に来て、すぐに紹介されて以降は、共通の友人となった。数学の先生でありながら、大学院で心理学を学んだというまぁ、変わり種である。長く、発達障害の子供達を教えてきたというか扱ってきて、この新学期から、通常の学校に復帰したと言うことである。復帰したのだが、子供を直接教えるという授業を持ってないのだそうだ。第3者的に見れば、子供に授業しない先生が居ると云うこと自体が既に奇異な感じである。校長とか教頭とかであれば、管理業務一本で授業も無いだろうが、そうでもないというのだ。先生になった連れ合いと接して分かったことだが、現代の学校の先生というのは、私が子供の頃(小・中学生の頃)考えていた先生像とは全く違った世界が展開していると言うことである。「先生はとにかく学問を授けて、みんなの知的レベルを上げること」と言うのが、私などが抱いていた先生像である。ところが聞いていく内にそのような当たり前のことは、割合が低いのだそうで、むしろ生活態度や行動などと行った、躾要素的な問題が案外と大きなウエートを占めているようだ。以前は、「先生様」というのは一寸オーバーだが、親などは、子供が先生にしかられると、子供の方を叱咤するというのが当たり前の姿のようだったと思う。ところが、最近は、「モンスターペアレント」なる存在が出現していることをテレビなどでよく聞く。モンスターペアレントとは学校に対して自己中心的で理不尽な要求をする馬鹿な親を意味するのだそうで、一昔前はそんな非常識な親はまず、居なかった。どうやらこの言葉がはやりだしたのは1990年代になってからだという。その行動例は、教育評論家尾木直樹法政大学教授によると5つのタイプがあるとされている。1.学校依存型(子供を朝起こせ、学校で汚れたので洗濯してくれなど「何でも学校に押しつける」)2.自己中心型(劇の主役にしろ、習字の評価を高くしろなど「学校行事の日程変更なども要求」)3.ノーモラル型(夜中、授業時間でも電話してくる)4.権利主張型(義務教育なので給食費を払わない等)5.ネグレクト(育児放棄、虐待)型(食事なし、服や髪の汚れ)(By Wikipedia)多方面からいろいろな人が研究しているので、それ以上に首を突っ込むわけではないが、1990年に仮に中学生だとすると、その中学生を生んだ親は、22-23歳で子供を産んだとすれば、37~40歳くらいであろうか。1990年に40歳としたら、親の生まれ年は大略1950年という事になる。団塊の世代が1947年~49年に生まれたとされるから、団塊の世代以降の生まれで、名付けて「しらけ時代」と言うことになる。日本の学生運動が下火になった時期に成人を迎え、政治的無関心が広まった世代にあたる。生活自体がしらけきっていたのかも知れない。無共闘で、共通一次試験が導入され、新人類とも称された頃でもある。一方では、1980年頃から「ゆとり教育」なるものが登場し、勉強ばかりで、競争するのは如何なものかとの発想で挙げ句に、会社勤務のお父さんと同じく土曜日は休みで、週休2日を取り入れてしまった。私に言わせれば、この大きな失政で、日本国民の学力低下を招き、世界に伍して進めない危惧さえ生まれた。今正にその方針が見直されようとしているが、30年かかってずるずると過ごしてきた期間はそうたやすく取り戻せないと思われる。それでも、自分たちのDNAを引き継いでいることはすっかり忘れ、「鳶が鷹を生む」妄想にとらわれて、親は、学校を見限って私塾に通わせるようになる。ところが、学校では、義務教育という括りがあるから、授業をむやみに難しくすることも出来ず、英才教育などと言うのは、とてもではないが、行える環境ではないわけだ。そこで、授業を受ける塾通いの子供は、「あ!それは塾で習った」と言うことになり、学校と、先生を尊敬するに能わない存在としてしまったのではないか。そうなると、馬鹿な親は、学校をおろそかにするし、先生の言うことを聞かなくなると言った構図になったのではないかと思う。そこに持ってきて、昔は堂々と行われていた体罰が、全面的に禁止となり、子供もそれを心得て、逆に先生を挑発する形を取る者も出てくる。上に上げた5つのカテゴリーが法外であり、且つ常軌を逸したものであることが、親の頭からは抜け去っているのである。大部分の親は、常識的で問題はないのだが、一人でもモンスターペアレントが居れば、対象となった先生は、これに大幅な時間を割くことを余儀なくされるわけだ。1学期に2回それに実力テストさらには小テストと、先生のやる仕事は多い。さらに、先生としても、出世の事もあり、どういった教務主任、教頭そして校長の下に付くかで大きくやり方が制限される。こういった環境の中、子供の学力を○×式に向上させるのではなく、自ら考える力を養わさせるのは至難の業のようである。そして、その上で、昔の修身ではないが、道徳観念を植え付ける事が求められているのである。道徳→修身→戦前→戦争といった、トラウマが皆の頭に残っているようで、これを打開するには、ゆとりを持って自己の規律をゆるめた期間程度は掛かるのではないだろうか。道徳とは、難しいことではなく、朝「おはようございます」といった挨拶に始まり、世話になったら「ありがとうございます」と素直に言えたりすることなのである。子が親を殺し、親が子供の養育を遺棄するがごとき現代社会では、振り子をなかなか元に戻すことは難しい。自由を得た分、そして、昔、分からなかった奇怪な行動に病名が付くに及んで、世の中の多様性に加え、自分自身の多様性をどのように摺り合わせるかという点が、問われているのだと思う。昔は、例外を除き、等しく貧乏であった。今は、格差が極めて大きくなっている。同じ条件で学べ、励めと言っても無理なような気がする。
2010.05.20
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メキシコ湾で起きた原油流出事故が未だに納まるどころか、惨禍は広がっている。海底油田汲み上げ装置が爆発し、原油が流出し始めたのは、4月20日のことである。ちょうど1ヶ月が経とうとしているが、一向に収まる気配がない。ルイジアナ州の沖合メキシコ湾のど真ん中で事故は起きている。初動がお粗末であったのか、油田開発のBPは未だに重油の流出を止めることが出来ずメキシコ湾は汚染されるままになっている。アメリカ本土側と、ユカタン半島、フロリダ、そしてキューバにより囲まれたメキシコ湾の中で、流出した油は、身をよじらせるように汚染区域を広げているようだ。エネルギーの争奪が激しい中、陸上の油井からだけでは追いつかなくなり、オフショア開発がされ初めて久しい。最初は、海岸から近く、水深も浅い場所で掘削する、固定式プラットフォームが用いられてきた。私なども、少しは関係したのだが、ジャッキアップリグと呼ばれるのも同じ種類で、固定式プラットフォームは、コンクリートや鋼鉄でできた脚を直接海底に固定して、脚の上に掘削設備や石油の生産設備、作業員のための設備などを設置するデッキを載せて操業することになる。ジャッキアップリグはこのプラットフォーム自身が柱に取り付けた歯車装置で昇降できるようになっている。この固定式プラットフォームで掘削できる水深は、高々、150m程度が経済的であり、最深でも500mが限度である。しかし昨今では、沿岸区域での油井も底が見えてきたので、段々と沖合の方に出て行かざるを得ない結果となる。第1次オイルショックで民族意識に目覚めたアラブ諸国が、原油の輸出を手控えた頃、遠海における深海掘削の必要に迫られ、沖合進出に拍車がかかった。沖合に出て石油を掘削するためには、装置を海に浮かべる必要があり、最初に考えられたのが、今回の掘削に使われている、船型石油掘削リグという装置である。固定式プラットフォームと同じ装置を船の上に積んで、船のど真ん中に掘削のドリルを通すための穴を開けたものと考えたらいい。船型リグは、自航する能力(プロペラ推進能力)を持っているために、どこにでも簡単に移動することが出来、水深の深いところでも使えるという利点がある。この中間的な存在という位置づけになるのだろうか、セミサブ型(半没水型)というリグがある。私の造船人生の約半分はこの設計に携わっていたのだが、通常2つの大きな潜水艦のような浮体の上に柱を立て、その上に掘削のためのプラットフォームを置くというものである。これも結構深い水深までは稼働が可能である。今回のメキシコ湾の事故は、船型のリグ(エンタープライズ・ドリルシップ)により水深約1500mの海底から地中にドリルをねじ込んでいたようである。通常、ドリルの先に工業用のダイアモンドを埋め込んだビットと呼ばれるものを回転させながら海底を掘削していくわけであるが、これが、油井に当たると、油井に溜まっていたガスが一気に吹き出すことになる。これを止めるために、泥(マッド)を練った液体を流し込んで、そのガスの噴出を抑える手段が採られる。これらをコントロールする装置は、BOP(Blow out preventer)という噴出(爆出)防止装置である。今回の油の流出は、このBOPとドリリングパイプを結ぶパイプの付け根当たりからの噴出のようである。繰り返し使われること、常時海流の動きに晒されていること、そして、高い圧力を受けるために、コノコネックション部に無理がかかり、破断し傷口を広げていったようである。こうなっては、人間には為す術がない。陸上油田で火災が起こり、油田消火のプロが出かけていって、ダイナマイトでぶっ飛ばすという、あのスティーブン・セガールのような格好良くは行かないのである。深海にもあのプロのような人材がいれば、どうと言うことはないのだろうが、何しろ出火しているわけではないし、破れたパイプの継ぎ目に絆創膏を貼るという作業は、どう見ても無理なようだ。どういった爆発が起こったのか、遠隔の地で、しかも日本の新聞だけを通じては知る由もない。日本では、どこ吹く風と、深刻さを取り上げるでもなく、ニュースもさらりとしたものである。以前日本海で、ロシアの船が、座礁し、大量の重油流出に悩まされたときには、我が庭を荒らされたと大騒ぎをしたものだが、今回は、遠く離れた、メキシコ湾の奥深くであるから、日本には痛くもかゆくもないといった感じで、第3者的である。同じ地球が汚されているというのに、こうも温度差があるのはどうしたものだろうか。かのグリーンピースの「シー・シェパード」当たりはどう考えているのだろうかと一寸聞いてみたくなる。日本の大手新聞の社説なども、実に淡々と事実を述べている。アメリカのオバマ大統領も、押っ取り刀で現地に飛んでいった。初動の遅れで、ブッシュ代前大統領の轍を踏みたくないと言うことであろう。しかし、トップが現地に行ってみたところで、この噴出を留める手だてが生まれるわけではない。日量約80万リットルのどろどろした原油が、綺麗な海を汚しているのである。しかも、この数字も政府発表の控えめな値らしく、実際はその5倍の日量400万リットルという膨大な数字に上るらしい。引き合いに出されているのが、「エクソンバルディーズ号原油流出事故」である。事故が起こったのは、 1989年3月24日で場所は、アラスカ州アンカレッジの裏側に当たるプリンスウィリアム湾での座礁による原油流出事故である。流出全量は約4000万リットルと言う。既に今日までの流出量の合計は「エクソンバルディーズ号原油流出事故」の時を遙かに超えているように思われる。この時も、この事故はこれまで海上で発生した人為的環境破壊のうち最大級のものとみなされていて、交通手段はヘリコプターと船だけの遠隔地で、政府も企業側も対応が困難であり災害復旧対策の大幅な見直しを必要とされたとある。その教訓は生かされたのだろうか。今回の事故は、さらにやっかいな、150気圧もかかるような海底の事故処理である。思うようにROVを駆使してもかゆいところに手が届かない。こういった、今も原油は噴出を続けているのである。のど元過ぎれば、熱さ忘れるではないが、原発の件でも然りである。スリーマイル島の事故以来、ぱたりと原発から手を引いていたアメリカではあったが、この度は、30年ぶりに大幅な原発増強計画を推進中である。責任はBPにあり、損害賠償を云々と言っているときではない、全世界の英知を結集して、取り敢えず原油を止めなければどうしようもないのである。如何に手際よく対処できるか、これが正に危険と隣り合わせた作業を行う上での危機管理ではないだろうか。これもまた、20-30年経てば、過去のこととして、記録にとどめられるだけに終わるのであろうか。
2010.05.19
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NHKアラビア文学講座の2期目も第2回目となった。取り上げられた本は、前回に続いてエジプト文学のシャルカーウィー著の「大地」である。今回も姫の大学の図書館で借りて貰ったが、なかなかの大著で、頁数は451頁と膨大である。いつもながら、受講生であらかじめ課題の本を読んでいくのは、連れ合いと私の2人だけである。今回は、あまりの膨大なため、遅々として読み進まず、最終日には、徹夜して、ページに目を飛ばすだけのうわすべりな読み方になってしまった。例によって、著者の紹介とか、小説の書かれた背景の説明があった。著者の名前を敢えて、全部書くならば「アブド・アル=ラーマン・アル=シャルカーウィ」と長い。エジプトナイルの河口デルタ部のカイロに近い田舎ムヌフィーヤ県の地主の息子として生まれている。大学まで一貫してカイロで学び、父親の命ずるまま、法学を学んだが、本人は、文学への興味が強く、前回読んだ、エジプト文学界の大立て者作家である、ターハ・フサインにも師事している。そして、学生時代から反英的な政治活動を開始し、2度に亘る投獄生活を味わっている。オスマントルコがイギリスに追われた後、エジプトはイギリスの統治下にはいるが、この小説は、イギリス統治下で、苦しむ農民の姿を農民の側に立って、表現したものである。投獄を経験した人は、自伝的に投獄生活を描いた、凄惨な部分も多いのであるが、この物語は、そう言った生々しさは抑えられ、日頃農民が抑えつけられた状態に対し、素朴な反抗をするといった筆致になっている。講師は、エジプトの航空写真を示しながら、(自慢のi-PODをテレビに繋いで)写真を見せてくれる。エジプトは茶と緑のツートンカラーの国だと説明されるが、正にナイルデルタ部と一部の緑をを除いては茶色一色の95%に亘る砂漠が全てである。カイロから北(河口に近い側)を下エジプトと呼び、それから南を上エジプトと呼んで区別しているが、自ずと上エジプトと、下エジプトの人々の生活も気質も違うと言うことになる。下エジプトの農民のことは「ファッラーハ」(Fellah)と称するが、彼らは、上エジプトの人達を「サイード」(Saidi)と呼び分けている。作家の生まれたムヌフィーヤ県は歴代大統領を多く輩出しているが、世界的にロバの産地でも有名なのだそうで、ロバは別の意味で「バカ」という意味でも使われ、人々の間では、ムヌフィーヤはロバ(=バカ=大統領)の産地だと言って揶揄する向きもあるという。下エジプトはトウモロコシやエジプト綿、砂糖きび畑で有名であるが、その際にロバを使用することが多く、また用水路が張り巡らされていると言うことでも有名である。又用水路内には充血きゅう虫などの寄生虫がいて、風土病も多いと言うことである。「大地」は農村の状態を、農民自身の口で語らせ、農民=ファッラーハは一種、侮蔑の表現としても使われるが、エジプト人たる者は誰しも心の故郷として「農民」と言うところに帰結するのであり、エジプトを理解する上では、農民の姿を真に理解することが不可欠と言われている。一方農民の方も蔑称としての扱いもさることながら、農民としての矜持を持ち、それを謳歌する向きもあるというわけだ。立憲君主時代に、イスラームと、軍人により王制は打倒されるが、農民にとっては、支配する相手が変わっただけで、立場は変わらず、利権の先が変わり、農民は出先の小役人の横暴に相変わらずの理不尽な立場に置かれる。物語は、1930年代初頭、イスマーイル・シドキー政権(サアド・ザグルール政権ではないかと思うが)時代の下ナイル農民の話で、相手はもっぱら時の政権中枢部ではなく、彼らを直接管理する、役人や尊重などとのやりとりである。鎌倉時代に「泣く子と地頭には勝てず」という言葉があったが、農民にとっては、関東管領などが相手ではなく、地頭が相手といった構図である。この物語は、農業用水を巡る国の一方的な使用制限に端を発する話である。ある日何の前触れもなく灌漑用水くみ上げ許容期間が10日から半減し、5日に変わると言うところから始まる。これを巡って、時の政府に抗ったため左遷された、インテリの元教員が、文盲の農民に変わって、政府に嘆願書を書くのだが、その提出先である村長がこれを握りつぶし、内容を自分たちに都合の良い農業用道路建設申請に変えてしまう。その道路は、零細農民の農地を分断する過酷なもので、しかしながら、自分たちの農地は完全に迂回するという酷い内容であった。文盲であるが故に、内容も分からず、押印、署名させられ、道路は造られていく。理不尽さに対抗するにも農民バラバラのやり方では事が進まない中、用水路に落ちた、農耕用の水牛を助ける段に、農民が力を合わせて救出した結果、そこにお互いの連帯感が生まれるのである。物語の前半は、何ページもの間、農民の間で、お互いを罵倒する文章や内容が延々と綴られている。訳者は、これを理解するために、直接エジプトの農家に数ヶ月滞在して書かれた「アーンミーヤ」(口語)を学んだのだそうだ。そしてこの訳者は、やがて、エジプトの農村のあり方に見切りを付け、アラブ世界に移っていったのだそうだ。この物語では、ナイルとエジプト農業の関係、エジプト農民の精神的・物質的生活状況、農村における性のあり方、農村生活における宗教(イスラム)と宗教者の関係。また、村に暮らす様々な人物描写と権力関係のバランス、いわゆる農民と砂漠の遊牧民(アラブ・ベドウィン)の関係、農村と地方都市そして、大都会カイロとの地理的、社会的位置関係、さらには、河口デルタ部分の下エジプトと、ナイル上流のサイード(上エジプト)の明らかな違いなどがふんだんに織り込まれていて、エジプトを新たに発見した気分である。物語には色々知らない言葉が出てくるが、一例として、農民の憩いの樹である「グンメイザの樹」が出てくるが、講師の紹介写真で実に雰囲気がよく分かった。小さなびわの実が房になって実るようだ。また、農村の灌漑にはなくてはならない「サーキヤ」(揚水機)についても、写真による説明があったが、牛や、ラクダが井戸の周りを回りながら水を汲み上げるポンプのようなもので、日本の昔の水車は垂直であり人が踏んでいたものを水平にし、牛やらくだが引くと考えるとそう遠くはない。農村には農村の掟や、生活がある。日本でもそうであったのだろうが、まして異国のことでもあり、宗教(イスラム)が微妙に絡み、と言ったことは、なかなか理解しがたいところがある。ただ1つ、いずこの国も、小賢しい役人のずるがしこさは洋の東西、今昔を通じてあまり変わることが無く、頷けるところが、何ともやりきれない。
2010.05.18
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今年1月の国会における鳩山総理の施政方針演説を振り返ってみたいと思う。例の「いのち」を守りたい演説の件である。冒頭から「いのちを、守りたい。 いのちを守りたいと、願うのです。」と始まるこの演説では、実に「いのち」という言葉が31回も繰り返し述べられている。キーワードに「いのち」持ってきた手作り演説ではあるが、ここまで繰り返されると、その重みは軽くなる。この演説は、7つの章に分けられるが、各章毎の「いのち」の出番は、1章:はじめに・・・・・・・・・・・・・10回2章:目指すべき日本のあり方・・・・・・0回3章:人のいのちを守るために・・・・・・7回4章:危機を好機に・・・・・・・・・・・3回5章:課題解決に向けた責任ある政治・・・0回6章:世界に新たな価値を発信する日本・・7回7章:むすび・・・・・・・・・・・・・・4回と言う内訳である。このような格調高い演説に対してゴルフの例を引き合いにするのは適切ではないかも知れないが、数が多いほどそれだけ良いのだと言うことにはならない。ゴルフのパター数と同じである。グリーン上に載って通常は、2パットが標準とされるが、1パットで、バーディーと言うこともあり、7章(ホール)なら、標準で、7×2=14パット位が通常であるが、正にその倍をも凌ぐ、ゴルフなら、はちゃめちゃゴルフなのである。かといって、チップインか、ホールインワンであるノーパットホールが2つもあることに注目したいほどだ。2章の「目指すべき日本のあり方」と5章の「課題解決に向けた責任ある政治」には、「いのち」の引用が無いのである。標題だけを見れば、目指すべきは「いのち」を守ることではないのか? また、課題は「いのち」ではないのかということになるのではないかと思うのであるが。何となくちぐはぐさを感ぜざるを得ない。この演説に対して、民主党の仕分け人蓮舫議員は、「人の命を守る政治、この理念を実行に移す時です・・・ 友愛精神を掲げた鳩山総理の思いがこもった演説でした。」と手放しの一方、自民党の中川議員は「命を大切にしたいということに反対する人はいないだろうが偽装献金を基盤し、異論が封殺されている党に、命を大切にする政治ができるとは思えない。」と手厳しい。公明党の赤松議員は論語を引用し「巧言令色、鮮なきかな仁」と表現した。そして、今回無所属で当選した城の内議員は「いのちを守る根底は安全保障であり、普天間基地移転問題や対中外交をしっかりと取り組んでいただきたい」との注文を付けているが、今正にそのことで迷走中である。これをインターネットの投票で国民の声を聞くと、組織を越えた全ての人から0点だとの声が53%も有り、驚く無かれ、民主党支持者からも、5人に1人は0点だとの酷評である。その内容であるが、1章には、「働くいのちを守りたい。」「世界のいのちを守りたい。」「地球のいのちを守りたい。」と大上段である。「働くいのち」については、喫緊の課題として、「自殺」の抑制が挙げられる。昨年既に、12年連続自殺者数3万人を超えているのである。健康問題が相変わらず理由のトップであるが、病気になっても適切に医療機関にかかれない事による問題をどうするのか、また経済・生活問題に至っては、6割も増加し、職がない「失業」対策が待たれているのである。もちろん「世界のいのち」「地球のいのち」をおろそかにして良い筈はないのだが、あまりにも、総論的であり、各論論議の糸口が見えない。なるほど、世界には、1日を1ドル25セント(約117円)で生活している「極度な貧困」人口は2005年には下がったとはいえ13億7400万人も居るのだという。これは中国の総人口に匹敵し、日本の人口の10倍と極めて大きな数字である。しかし、その意味からすれば、たった1億3000万人ほどの国民を貧困から救えないのに、あまりに大風呂敷を広げすぎていると言わざるを得ない。「まず塊より始めよ」と言いたい。例えば、総理が月々気がつかぬ間に頂いていた子供給付金1500万円也の貯まった分を(当然知らなかったのだからあっても、無かってもお坊ちゃまには必要ないわけであろうから)日本中の恵まれない人々にサンタクロースよろしく配布するというのは如何であろうか。これぞ正しく、冨の再配分と言うことになると思うが如何だろうか。そうすると、31回「いのち」を叫ぶよりは、確実に「いのち」を守ることが出来ると思われるのだが・・・。また、それを見習って、前首相や前々首相の2世3世のお坊ちゃま宰相も、拠金に応ずるなどしてテレビ番組ではないが「こうして日本は平和になった」とならないだろうか。それしか、2世議員や、3世議員の必要とするところはないのではないかと思う。インドを訪問時、尊敬するマハトマ・ガンジー師の慰霊碑を訪れたそうだが、その碑に刻まれた、「七つの社会的大罪」を引き合いに出していた。曰く、 「理念なき政治」 「労働なき富」 「良心なき快楽」 「人格なき教育」 「道徳なき商業」 「人間性なき科学」 「犠牲なき宗教」 である。なるほど志しや良いが、どの一項目を取っても、今の政治がトレースできている項目はなく、何のためにわざわざガンジー慰霊碑を訪れたのか、単なる物見遊山ではなかったのかと言われても仕方がない有様である。「いのち」の件で、阪神淡路大震災の罹災者のことを、細かく取り上げて、命の尊さを強調していたが、そのことに反対する者はないのだが、では一体何が言いたいの、地震を止めることが出来るのと、極めて猜疑的、上滑り的に聞こえるのである。途中に、「政治家自ら襟を正す」の項では、「こうした改革を行う上で、まず国会議員が自ら範を垂れる必要があります。・・・」と講釈しているが、実は付け足して書いただけの画餅であることが、4ヶ月経った今既に馬脚が出ているのである。嗚呼、何時になったら、日本に本当の国士が現れるのであろうか。次回参院選挙に、客寄せパンダの集票人気投票議員候補が、各党から続々と名乗りを挙げさせられている。それを聞く度に、日本の実質的な地盤沈下は加速するだろうと思わざるを得ない。同胞国民の、毅然とした態度が望まれる。
2010.05.17
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予定通り行けば、日本で初の金星探査機「あかつき」がH2Aロケットにより明後日(18日)打ち上げられることになる。3日ほど前にトルコのボスポラス海峡の橋のことを書いたが、今日の夜空に、なんとトルコの国旗を横にしたような、三日月と、金星の近接した状態が夜空に浮かんでいた。今までにもあったのかも知れないが、私が気づいたのは初めてである。イスラム圏の国旗には、三日月が付くのはほぼ常識となっている。何しろ、かの国には、赤十字はなく(赤十字は西欧社会のものゆえ)病院などは三日月が掲げられているのである。一寸調べてみると、何故かシンガポールは三日月に5つの星であり、先述のトルコ国旗は、夜空の部分が赤地であることの違いである。パキスタンは45度だけ傾いていて地は緑だ。モルジブは三日月だけであり、アルジェリアは、トルコに似た形をしている。マレーシアは、イスラムの国旗に星条旗の縞をたし合わせたようになっていて、コモロは三日月と4つ星である。チュニジアもトルコに似た形の国旗になっている。昨日見たのはモーリタニアの国旗の緑地を漆黒にしたのと全く同じであった。アゼルバイジャン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなども、三日月を配しているのは同じである。国旗のいわれは知らないが、オスマントルコに由来するのではないかと思う。というのは、イスラム国家だから皆三日月を付けているのではない。イスラムの戒律が最も厳しいサウジアラビアなどは、剣とコーランの文字「アラーは偉大なり(アラ・ハ・アクバル)」などと書かれているのだそうだ。余談に走ったが、三日月に乗っかるような今日の星こそ、宵の明星と言われる金星ではなかったか。金星は、遠くから、日本の探査機「あかつき」が発射されるのを待ち望んでいるかのようであった。私がイスラム圏に関心を持ち出し、アラブ世界の歴史や、文学を勉強しているので、昨日のような減少を見ると、何故かどきっとするほど感激するのである。そしてその星へ、今正に向かわんとして準備が着々と整っているのだという。同様の探査機は火星にも飛んでいる。しかし、惑星の中では、地球から最も近いのが金星であり、その質量も地球とそれ程変わらないので、地球の兄弟星と呼ばれているくらいだ。金星には既に旧ソ連や、アメリカが多くの探査機を送り込んでいる。特にアメリカの「マゼラン」によって、多くのことが分かっているのだそうだ。太陽に近いこともあって、金星の表面温度はほぼ460℃程度であるという。灼熱の星にさらに二酸化炭素の割合が極めて高いのだ。地球の表面温度の平均は約17℃だと言うから、とてもではないけれど、人間が近づける場所ではなさそうだ。その昔、酸素が毒であった時代があったそうで、熱水鉱床に住み炭酸ガスを必要とする生物もいるくらいであるから、金星に、たこ入道のお化けのような、いわゆる宇宙人が居てもおかしくはないであろう。金星探査機「あかつき」は5つのカメラで、金星表面をあらゆる角度から写真を撮り、雷の発生や、硫黄の雲の深さ等くわしく観測するのだそうだ。また金星表面には金星最大の謎と言われる「スーパーローテーション」と呼ばれ、秒速100mにもなるという暴風が吹いているのだという。今まで、このメカニズムは明かでなかったのだが、これを明らかにしたり、何故雷が起こるかの原因が突き止められたら、地球上で、天体の状態を科学的につかめるというのがその目的だという。さらに今回は宇宙ヨット「イカロス」という小型衛星を打ち上げるという。この「イカロス」は宇宙に出たら、回転しながらその翼を広げて推進する。地球上のヨットなら、風を帆に受けて進むのだが、この「イカロス」は風の変わりに太陽光の光子を翼に受けて前進するというふうに設計されているのだそうだ。取り敢えず、今年の終わりには、金星に到達するというのだから、どれだけの新しい知見が得られるのか楽しみである。しかしながら、それらのことが分かったからと言って、すぐさま人類のために大いに役立つとは云えないであろうし、土台そんなに高温で、二酸化炭素と窒素ばかりで出来ている金星は、人類が住めるわけでもなく、分かっても、一体どうするのだろうというのが本音である。金星の英語名は「ヴィーナス」であり、ギリシャ神話の恋愛・美・豊饒の女神としての名前を持っている。これは、ひとえに、宵と明けの2回夜空に輝く星の中で、月を別にすれば、一番美しいと言うことから名付けられたのであろう。今回、日本は初めてその女神の謎を探ろうとするのである。ギリシャ神話では、ヴィーナスは天空神ウラヌスの生殖器を息子クロノスが切断した時、滴る白い泡が海に落ち、その泡から生まれたともされる。アレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」を思い出す。とにかく話題の多い女神である。日本も宇宙の探査で、先進国の仲間入りが出来るのは喜ばしいことだが、その結果が、地球上の何がしかの自然現象の解明に少しでも役だってくれればと思う。小型衛星である「宇宙ヨット」に何故「イカロス」と名前を付けたのであろうか。これもギリシャ神話によれば、クレタ島の迷宮を造った名工ダイダロスが、捕らわれていた島から息子「イカロス」と共に脱出を計った際に、二人はダイダロスが作った翼を蝋で身体につけ天空に舞い上がったという。しかしながら、父の警告を忘れ気分も舞い上がってしまった「イカロス」の翼は、太陽の熱で蝋が溶け外れ、イカロスは海に撃死してしまったと言うではないか。正に金星に飛び立つと言うことは、太陽に向かって行くわけであり、まさか蝋で付けた衛星ではないにしろ、やがて熱で溶かされ、墜落するという「イカロス」という名にしたのは何とも合点がいかないのである。
2010.05.16
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十四章である。本文は以下のごとし、 第十四章一、一念(いちねん)に八十億劫(はちじゅうおくこう)の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をまふさずして、命終(みょうじゅ)のときはじめて善知識(ぜんちしき)のをしへに、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念(じゅうねん)まふせば十八十億劫(とはちじゅうおくこう)の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念(いちねんじゅうねん)といへるが滅罪の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀(みだ)の光明にてらされまひらするゆへに、一念発起(いちねんほっき)するとき金剛(こんごう)の信心をたまはりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらゐにおさめしめたまひて、命終(みょうじゅ)すればもろもろの煩悩悪障(あくしょう)を転じて無性忍(むしょうにん)をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずば、かゝるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏は、みなことごとく如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。念仏まふさんごとにつみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(ねんぶつたいてん)せずして往生すべし。たゞし業報(ごうほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛(びょうのうくつう)をせめて正念(しょうねん)に住(じゅう)せずしてをはらん。念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをばいかゞして滅すべきや。つみきえざれば往生はかなふべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業(ざいごう)をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏のまふされんも、たゞいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは自力のこゝろにして、臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意なれば、他力(たりき)の信心なきにてさふらふなり。訳文は次のようである。一、いちど念仏をとなえれば、ただちに八十億劫もの長い長いあいだ苦しまなければならない重罪も消えてしまうと信じるがよいということについて。これは、十悪・五逆という罪を犯した人、しかも、ふだんは念仏をとなえたこともない人が、いよいよ息をひきとろうとするときになってはじめて、この道のえらい師匠の導きを頼み、一回念仏をとなえれば八十億劫のあいだ苦しまなければならない罪が消え、十回念仏をとなえればその十倍の八百億劫のあいだ苦しまなければならない重罪も消えて往生することができる、というのである。つまりこれは、十悪・五逆という罪がどんなに重いものかをわからせるために、一回の念仏あるいは十回の念仏がそれほどの罪をも消し去るという、念仏のありがたいはたらきを説いているのです。が、その説は、まだわれわれの信じるところとなっていない。というのは、弥陀の光明に照(てら)していただくおかげで、いちど念仏をとなえようと思いたったときには、ただちに、金剛のような尊くてしかも固い信心をお授けになるのであって、そこでは、すでにわれわれを、まちがいなく往生できるものとしての位置に御決定なさり、いのちが終れば、今までのあらゆる煩悩や悪からくる障害をとりのぞき、生死の迷いをぬけだした真実の世界に入らせてくださるのです。だから、もしもこの弥陀の慈悲による本願がおありにならなければ、このようなあさましく罪ぶかいわれわれは、どうしてこの煩悩からぬけだすことができようかと、ありがたく思い、また、一生のあいだずっととなえ続ける念仏は、すべてみな弥陀如来のこの大慈悲の恩にむくい、その徳に感謝するためのものだと思わなければならないのです。念仏をとなえるたびに、この自分の犯した罪を消してしまおうと思いながらするのは、それこそ全く自分の力で自分の罪をぬぐいさって往生しょうと努力することである。もしそうならば、人間一生のあいだにあれこれ思い考えることはすべて、煩悩に結びついている綱でないものはないのだから、往生のためには、息がたえるまで念仏をとなえとおさなければならないことになる。だが、宿業によって支配されている現在であってみれば、この自分の現在および将来を心の思いどおりに操縦することなどできることではない。だから、このさきも、どんなにか思いもよらない事件に出会うだろうし、あるいは病苦に痛めつけられ悩まされて、正気をうしなった状態で死にはてることもあるだろう。そんなときには念仏をとなえることはできない。そういう場合の罪は、ではいったい、どうやって消し去れというのか。罪が消えなければ往生はできないというのか。あらゆるものが等しく救われて捨て去られるもののないようにという弥陀の誓願を信じ、それにすべてを御依頼申しあげるなら、思いもよらないことでどんな罪を犯そうと、また、念仏をとなえないで死のうとも、往生はすぐさま実現できるはずのものだ。また、さいわいに臨終(りんじゅう)に際して念仏がとなえられる場合も、まさに往生し、仏になろうとするときが近づけば、いっそう弥陀によりすがり、その御恩におむくい申しあげるということでなくてはなりません。念仏して罪を消そうと思うのは、自力にたよる心であって、臨終に際しても心をみださず往生できるようにとねがう人のほんとうの気持でもあるので、そこには他力をどこまでも信頼する心がないのであります。注釈は次のように書かれていた。1一念に…信ずべし この一文と同意のものは、もと、『観無量寿経』(「下品下生」の部)にある。一念は一回の念仏。2十悪五逆 十悪は、殺生(せっしょう:生物を殺す)・偸盗(ちゅうとう:ぬすむ)・邪淫(じゃいん:姦淫(かんいん)する)・妄語(もうご:うそを言う)・両舌(りょうぜつ:二枚舌を使い、両者を離間し争わせる)・悪口(あっこう:ののしる)・綺語(きご:ことばを飾り立ててもてあそぶ)・貪欲(どんよく:むさぼる)・瞋恚(しんい:憎み怒る)・邪見(じゃけん:まちがった考えにふける)など十種の悪行。五逆は、殺父(せっぷ)・殺母(せつぼ)・殺阿羅漢(さつあらかん:立派な僧を殺す)・破和合僧(はわごうそう:(教団の和合一致を破壊分裂させる)・出仏身血(しゅつぶつしんけつ:仏の身体を損傷して出血させる)など五種の逆罪。逆はそむくこと。3軽重 重さ。(軽と重の意ではない。「多少とも」の多少が少の、「一旦緩急の時」の緩急が急の意であるのと同例)。4一念発起 一度の念仏をとなえれば、往生は可能であるという信仰に入るとき。ここの考えは第一章冒頭に照応するものであり、一念は本章はじめの「一念」を受ける。5金剛の信心 他力の信心の何ものにも侵されない堅固さとその尊さを金剛石にたとえる。6定聚 正定聚の略。かならず往生できることの決定した人々。7無生忍 無生法忍の略。絶対無(自力の邪見がまったく加わらない)の生(存在)をそのままに認知して不変不動の心を得ること。忍は認と同じ。8悲願 慈悲の願。慈悲とは弥陀が悩み多い衆生の苦を除き、楽を与えようとする深い思いやりの心。9われと 自分からこうこうしようとして、の意。 10退転 怠けてあともどりすること。11業報かぎりあることなれば 過去のありかたが原因となって現在の行為を結果させることは決定的なことだから。12不思議のこと 予期しないできごと。13正念 不動の信心。この章では、私にとってはなかなか理解しがたい矛盾のようなものを感じるのである。親鸞の意をていした、歎異抄の作者は、親鸞に帰れと言うことを言ってるのだそうだが、親鸞の教えは、法然の教え通り「専修念仏」と言うことであり、ただただ、「南無阿弥陀仏」との念仏を唱えることによってのみ衆生されると解かれてきたわけである。この章では、一念(1回の念仏)が八十億劫の重罪を消し、十回念ずればその10倍、千回念ずればその1000倍の罪科をも滅罪出来ると言うことのようであるが、このような考えは間違っているというのである。「劫」というのは、仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位であり、因みに、SI単位系で表すと、1.36×1017秒 つまり、1劫 = 43億2000万年と言うことになるのだそうだ。従って、80億劫は0.35×10^20=0.35垓と言う数字になる。その又10倍、1000倍も念仏を唱えれば、如何なる重罪も滅せられるという考えは、必ずしも当たらなく、そう言った考えは、自らが、念仏の回数によって、罪科を逃れようとする意図があり、それはとりもなおさず、他力に頼る意図から生ずるものだというのである。戦場で念仏する間も無く死んだり、山道で強盗に遭って殺されたりする場合などは、これもまた念仏する暇はなく、そういった人は救われないのかということになってしまう。でもそう言う人をも救おうとするのが、親鸞の教えであるというのだから、念仏を唱えよ、即ち救われるという言葉と相反することになるのではないかという疑問が起こるわけである。一念発起ということは念仏を唱えて仏にすがろうとした気持ちになった時のことを指すように思われる。そう言う気持ちこそが大切であって、念仏の回数でどうこうなるというものではないと解釈するのだがどうだろうか。しかしながら、十悪五逆の輩も全くの善良市民も死んでしまえば、皆同じ扱いというのは、どうにも間尺が合わないような気がするのだ。第三章における定義の「悪人」と言うことなら十分理解も出来共感も出来るのだが・・・。
2010.05.15
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今日は先週、雨と霧のため、ゴルフ場まで行きながらプレーを断念したリベンジゴルフである。向かうは三田27ゴルフクラブである。いつも通り、豊中で姉たちをピックアップ中国縦貫自動車道から、今日はしっかりと神戸三田ICで高速を降り、通常の道を通ってゴルフ場に着いた。スタート50分前程度には到着したが、我々の組の後ろに2人組と、常連組のカートがあり、後ろから追いつかれるのが嫌で、先に出て貰うことにした。結果的には、それが正解であり、のびのびとプレーは出来たが、スコアの方も伸び伸びのとんでもないスコアとなってしまった。にわか仕立ての再スタート2ゲーム目の連れ合いと、練習には良く出かけて、ティーショットなどはまずまずだが、結果が今一の姉と、このところクラブを握ったことがないという喜寿を迎えた女性との4人組であるから、仕方がないことかも知れない。昼から晴れるという天気予報だが、まだ朝方は雲が多い。時折覗く太陽は、今日の雨はないことを確証させてくれた。しかし、風がとても強い。谷間のホールなどは、まだ良いが、高台になると風が吹き抜ける。プロなどはこういった日は、クラブの選択とか、狙い目に苦労するのだろうが、我々老人チームにそんな思惑は不要である。とにかく、前に、前に打つのみであるからだ。ここ三田27は名前の通り、ホール数が27であり、各々9ホールに、東コース、西コース、南コースと名前が付いている。今日は、前半、西コースから回り、南コースが後半と言うことになった。いざ、南コースのティーグラウンドに立つと、まだ前の組がプレーをしているのが見える、それも数ホール進む内に全く置いて行かれることになる。三田27に来るのはこれで3回目であるが、いずれも100を切るどころではなかった。今回もホールバイホールを振り返ることは無意味なくらいチョンボが多く、1回もパーを取ることさえ出来なかった。第1回目に来たときは、雨の中を押してプレーをし、散々だったことで、2回目は何とかと思いながらスコア的には全く良いところがなかったのだ。しかも2回目は何故か、レギュラーティーよりは前の白ティーからプレーした結果だからなおさら調子が悪かったといわねばならない。今回は、男は私一人だったので、青ティー(レギュラー)から打つことにした。朝一番のティーショットは左に引っぱりすぎて、カート道のさらに左の道路を越えたラフに落ちてしまった。なんとかリカバリーをしたものの、3打目の9Iアプローチもダフり、その後のアプローチも散々で、上がればダブルスコアと惨めな結果であった。これが、今日の全てを暗示していたのかも知れない。なんと、連れ合いは、そこをダブルボギーで上がっているではないか、堂々のオナーに、今日はひょっとして、と感じさせる出来であったが、やはりそこまでで、後は続かなかったのは残念である。私の場合は概ねティーショットは、当たりも良く真ん中に飛ぶのだが、時々引っかけてOBとしたり、おかしな場面があった。これでは、次回のコンペでは心配なのだが、あまり力まないことがコツとしか言いようがない。フェアウェイウッドも概ね当たりは良いものの、時に気負うことがあり、ダフル事もあるのはいつも通りである。しかしなんと言っても今日の敗因は、アプローチだった。練習場では嫌と言うほどアプローチクラブを握り、自在に操れると確信していただけに、今日の体たらくには信じられない思いだった。延べ各ホール1回のミスをしたことになるほど手こずった。これだけで-18は可能だと言うことになる。しかしここ三田27は、めったやたらにバンカーが多く、数を数えれば、おそらく日本1ではないかと思うほどだ。それも面積の広いフェアウェイバンカーがフェアウェイに並行して配置されているホールなどは、真っ直ぐに飛ばさなければ、必ずバンカーだというホールもある。グリーン周りも、砲台グリーンが多く、その下にはあごの高いバンカーが待ち受けているので、一旦バンカーに入ると脱出は難しい。ヘッドアップをしないようにと人には言いながら、バンカーを気にして、ついバンカーに入るという結果になることもある。前半の最終ホールでは「狐の嫁入り」的な雨が降り、どうなるかとも思ったが、雨はその一瞬だけだった。風は強く、この時期にしては肌寒い陽気ではあったが、何しろ後ろから追われることもなく、前の組からは離されて、貸し切りのようなコースとなり、それ分ゆったりとプレーできたのは良かったが、緊張感が欠けていたのかも知れない。私にとっては、このままで終わりたくないという気持ちと、このようなトリッキーなコースではやりたくないという気持ちが半々であるが、何とかリベンジを果たす必要があるとは思っている。連れ合いの場合も、出だしのような良い当たりをつなげていくと、ゴルフも楽しくなるであろうが、バンカー脱出にはまだ少し練習とコツを学ぶことが必要であろう。一例として、前半最後のロングホールでは、第1打は会心の当たりではなかったが、2打目の絶妙な当たりに次ぎ3打目のクリーンな当たりは、得るべき所があったと思われる。特筆すべきは、南コースの4番ロングホールで、私の青ティーが450ヤードであり、レディースティーは、たった40ヤード前方の410ヤードであるにも拘わらず、私と同じダブルボギーでのホールアウトは実に見事であった。今まで使わなかった、フェアウェイウッドの11番を巧く使っていたことや、ティーショットで当たる確率が高くなったことなど、1年近いブランクを感じさせないほどである。練習量ももちろん必要であるが、ただ数を打てばいいと言うことではなく、考えて、正しく打つことを学べば、飛躍的に巧くなる要素はある。巧く当たればスコアも良くなり、スコアが良くなれば、又やる気も出ると行った具合によいスパイラルになれば、しめたものなのだが。私は、湿ったプレーの連続で、強いて言えば、ドライバーに若干のゆとりが出来たことと、フェアウェイウッドの当たりがまずまずであったことぐらいで、アプローチが散々だったことは既に述べたが、最悪の結果が最終ホールで待っていた。南コース9番ホールでのことだ。ティーショットは真っ直ぐに飛び若干ラフにかかった分だけ、2ンドではグリーン近くまでしか届かなかったが、次の70ヤードくらいの何の変哲もないアプローチで普通に振ったところ左脇腹に激痛が走り、それ以後クラブがまともに振れなくなった。これが、最終ホールであったから良かったが、帰ってからも、ねじったり、くしゃみなどすると響くくらいに痛く、次回のコンペへの出場が懸念される結果となったのは心残りである。アラ喜寿の2人の姉たちは、山並みの美しさと、貸し切り的なコースに満足しているようであったことは、せめてもの救いであった。
2010.05.14
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トルコはヨーロッパとアジアの接点であり、古くはオスマン帝国として強大な版図を築いた国である。現在のトルコはいわゆる中東に属する国であるが、EUへの加盟を目論む国でもある。尤も現在のEUはギリシャ救済問題で、それどころではないかも知れない。私は行ったことがないが、トルコは中東を勉強して行く内にどんどんと引き込まれるような気がする国でもある。地政学的に見ても、極東と近東の正に接点の部分である。アジアでありながら、ヨーロッパ入りを模索していて、悪く言えば、動物界の「コウモリ」のような存在の国であると言うことが云えるかも知れない。その、極東(アジア)と近東(ヨーロッパ)との両方にまたがって、首都イスタンブールはあるわけだ。ダーダネルス海峡-マルマラ海-ボスポラス海峡と、一つの都市を海が分断すると言うケースも珍しい。人は水無しには生きられないから、河川を中心に集落が出来、都市に発展するというのは自然なことであるが、それが海を隔てるというのは、あまり例がないだろう。フランスにセーヌ川があり、パリを分断しているが、多くの橋が自在に架けられている。ドバイなども、旧市街と新市街の間はクリークが分断しているし、プラハなどでも市内中心部をヴルタヴァ川が流れている。この両地を結びつけるのが橋であるが、対象が川であれば、その全長もたいしたことはないし、途中に橋脚も設けられるので架橋自体はさほど難しくはない。しかし今回のようにボスポラス海峡ともなると、橋の下を比較的大型船舶が通ると言うこともあり、径間が長くならざるを得ない。日本には、世界に誇れる明石海峡大橋という径間1990mの吊り橋を有しているので、例のないものではないが、それでもなかなかの大工事になる。ボスポラス海峡には、既に2橋の橋が架かっていて、第2ボスポラス大橋は日本のIHIを中心としたジョイントべンチャーの手によるものであった。今回計画のボスポラス第3橋は政府が資金負担をしない民活方式と言うから、日本企業が応札するかどうかは決まっていないという。第1ボスポラス大橋も、第2ボスポラス大橋も、径間は1000mを越えているので、第3ボスポラス大橋も、同様の規模になるであろう。総事業費が5600億円と言うから、日本のゼネコンにとっても美味しい話ではある。イスタンブールには、大成建設が、トンネルを掘り昨年か今年供用されているはずである。1つの都市が、川や海で隔てられると、必ず、交通渋滞が起こる。そのすさまじさは、想像を絶するものであることは、ドバイでの通勤で嫌と言うほど味わった。イスタンブールもおそらくは同じ悩みを持っているのであろう。世界中のモータリゼーションは、これでもかといった具合に増え続ける。その昔には、3Cと言われて、庶民のあこがれの的であった車も、やがて一家に一台から、一人一台を持つまでになっている。それ程、車は必需品であると同時に、昔に比べて値段もぐっと安くなり、多くの人が購入できるようになった。車がある生活は、人々の行動半径を広め、豊かなものにするのも事実だが、排気ガスをまき散らし、渋滞を引き起こすと、もはや、都市機能を麻痺させてしまうことにもなりかねない。ハイブリッドカーや電池自動車が普及しても、渋滞緩和という点ではなかなか妙手は見つからないのが現状である。海峡を破産での輸送機関は、船舶を於いてほかなかった。列車でも乗せられる連絡船などは昔の話で、そういった個所に架橋やトンネルが敷設されるようになったわけだ。日本の例を見ても、青函連絡船が、青函トンネルになり、本州四国間には、3本もの橋梁が架設されている。関門海峡も、おそらくフェリーがピストン運動で客を運んでいたことだろうが、今は、関門トンネルや、関門海峡大橋などがフェリーに取って代わられた。今回の第3ボスポラス大橋がどれだけイスタンブールの交通渋滞の緩和に寄与するかどうか分からないのだが、5年後の供用時期には緩和される以上に車が氾濫していないとも云えない。しかし、人は、向こうに陸地が見えたら、且つそれが自国ならば架橋したりトンネルを敷設したりしたくなるものである。そう言った試みは、国内だけに留まらず、海外同士でも計画される。エルサルバドルとホンジュラス間の橋などもそうである。元々陸続きであったところが離れて海になったりしているわけで、やがては、こういった海峡も狭まるか、広がるかするわけであるが、そのいずれの場合も、橋の耐用年数などは誤差の又誤差の範囲であるから、近視眼的に言えば、全く問題ではないのだが、やがてこれらの橋も地殻の運動などを考えると、やがて無用のものになるということも考えられるわけである。話は変な方に行ったが、イスタンブールの逼迫した交通事情が、この橋で緩和されるというなら、大いに結構なことだと思う。ボスポラス周りのインフラ整備は、皆日本が関係したと言うことになれば尚良いのだがと思いながら記事を読んだ。
2010.05.13
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連れ合いとほぼ1年ぶりに2人でゴルフを楽しんだ。場所はいつもの一庫ゴルフクラブである。最近手入れをしていて、少しは綺麗になっているのだが、所詮は、他のゴルフ場とは比べものにならない練習コースである。今朝は早くから、連れ合いの学校の修学旅行出発の日に当たり、島本駅まで見送りに行かなければならないと言うことで、朝5時起きとなってしまった。昨夜は、遅くまで雨が降っていたので、修学旅行もだが、ゴルフが出来るかどうか心配であったが、とにかく晴れて良かった。6時過ぎの列車が出発するのを見送って、そのままゴルフ場に向かったが、若干早く着きすぎてしまった。ここ一庫は、手軽な練習コースではあるが、最近の手入れのために、プレーフィーだけは、若干高くなっている。他に適当なところが見つからないのと、慣れていることもあって、つい簡単に選ぶことになる。いくつかのゴルフ場は、2人だけではプレーをさせてくれないところもあり、またプレーは出来ても割増金を取るなどといった所が多い。海外のように、フラッと出掛けて、ゆっくりと前後を気にせずに回るなどと言うことは全くと言っていいほど無い。とにかくスタート時間が決まっていて、心太のように押し出され、パー4の所では、前の組のグリーン上でのパターが終わるのをフェアウェイで待ったり、その時には、後続は、ティーグラウンドでショットを待つなどと言うことはしばしばある。一庫もプレーヤーを入れられるだけ入れるようだが、今日は、昨夜の雨のせいか、後ろを気にすることなく比較的楽にプレーできた。連れ合いは、1年前頃から、肩の痛みを訴えていて、去年の秋を最後にラウンドも練習も諦めざるを得なくなっていた。従って今日はほぼ1年ぶりのお試しラウンドと言うことである。先週、三田27ゴルフでのラウンドを再デビューと言うことで出かけたが、霧と雨とにたたられて、諦めざるを得なかった。すぐさま1週間後のちょうど明後日に再ラウンドの予約を入れて帰ったので、その手慣らし(肩慣らし)と言うことである。今日まで、何回か練習場でボールは打っていたが、実際のゴルフ場ではどうなのかという不安もあったようである。厳密に、成績を云々するところまではいかないが、ティーショットは、練習場の成果もあって、真っ直ぐ、比較的遠くに飛ばせるようになっていた。本コースでは、周りの風景が目に入るのと、実際のボールのライが、練習場のようにフラットではないので、なかなか思うようにいかない。特にバンカーがあったり、打上の場所だったり、池があったり等変化を感じると、どうしても顔が、ボールの行くえを追ってしまい、ボールを打つ前にいわゆるヘッドアップして、大抵はトップすることになり、バンカー越えが、必ず転がってバンカーに吸い込まれると言うことになる。そうすると、特にここのバンカーの砂は悪いのに加えて、前日の雨で占め固まっているので、容易に出すことは出来ず、嫌気がさすといった按配である。今日は、途中から急激な打上の砲台グリーンである苦手なインからのスタートであったが、連れ合いの朝一番のティーショットはスムースに飛んだ。復帰初打席としてはなかなかのものである。私は、今日初めて、コンペ用に置かれているティーから打つことにした。レギュラーティーよりは10-20ヤード後方で、バックティーと殆ど同じ場所である。ところが、このコースのヤーデージの表示は実にいい加減で、スコアシートに書かれている値も信用できないし、ティーグラウンドにも適切な表示がない。慣れているから出来るような所もあるわけで、それはそれでおもしろいのだが、ティーグラウンドの周りは掘り返して、赤土が出ているところや、フェアウェイに修理地が多い。途中にコースメインテナンスをかねて見回っている係の人と出会ったが、昨日整備したフェアウェイが、朝方イノシシによって、荒らされているというのである。前から鹿の糞が多いことで有名だったこのコースだが、その人の言によると、鹿はもちろん、イノシシ、アライグマ等何でも出るのだそうだ。鹿は見かけたことがあるが、その他は、幸か不幸か、お目にかかったことはない。連れ合いの成績は、大まけしたところがあるので幾らとは言いにくいが、ティーショットが安定してきたこと、比較的まともなショートホールでは、なかなか良い成績であった。打ち降ろしホールでは、1オンし、あわやバーディーかと思わせたが、3パットと、ボギーで終わったのは残念であった。プロならロングホールで、バーディーや、時にはイーグルが取れるものだが、素人は往々にして、ドライバーは飛んでもフェアウェイウッドが苦手だとかで、なかなか思うような成績にならない。私も前半はあまり良くなかったが、後半は慣れてきて、トータルで100を大きく切ることが出来た。多少打ちやすいところにボールを置き直すなどしたが、レギュラーティーからでなくて、この成績なら、まず良しとしなければならない。殆どが、ボギーペースで、時にパーが出るのだが、如何せん何を間違ったのか大叩きするところが出て、馬脚が現れるのである。天気も良くなり、コースが部分的に濡れているところはあったものの、お互いに何とかゴルフらしい結果となり、連れ合いの再デビューとしては、予想以上に良い結果ではなかったかと思う。何よりも肩が痛くならずに終われたことが良かったと喜んでいた。これで、明後日の三田27でのプレーがどうなるかである。私にとっても三田27は100どころか110さえもまだ切っていない、苦手なコースであるので、リベンジがなるかどうか、楽しみである。
2010.05.12
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「また新聞に、96億光年先、最遠の銀河団」という記事が出た。どういう事なのだろうかと訝る。東大や京大、ドイツの研究所などの国際チームが発見したのだそうだ。どだい「光年とは何か」から始めないといけないが、とてつもなく遠いところであることは一目して理解できる。しかし、そんな遠いところにあるものを一体どのようにして観測したのであろうか。そして、そこら辺には数百もの銀河が集まった「銀河団」があるのだというのだ。所詮一般の人間には確認のしようがないし、ただ一言「へー、そうなのか!」というのが関の山である。昨年11月には、「129億光年かなたに、最古級銀河22個発見」という記事も出ていた。これは日米の国際研究チームがアメリカのハワイ島の大型望遠鏡「すばる」で発見したということだった。今回もこの「すばる」による発見だという。今回は96億光年先と言うことだから、昨年発見した方がずっと遠いはずなのに、今日の記事では、「最遠の」と書いてある。昨年の記事は、「アストロフィジカルジャーナル誌」に掲載されていると言うから、まあ、確かなものであろう。今回の記者は、それを見過ごしていたのかも知れないし、また、科学者相手の言いなりのインタビュー記事なのかも知れない。そんな揚げ足を取っていても始まらないが、今回の距離測定は、赤外線やX線観測衛星のデータを元にしているのだという。96億光年も離れた銀河団は地球近傍の銀河団と比べて、年老いた赤色の銀河が多かったのだそうだ。太陽系の銀河団以外でも、高齢化が始まっていると言うことなのだろうか。また、昨年の記事に戻るが、「129億光年先で、宇宙初期の銀河がこれほど大量に見つかったのは初めてだ」とあった。その時も、今の銀河より巨大な星が集まってできていた可能性があり、宇宙の進化過程を解明する手がかりになりそうだ。と、いつもの決まり文句が述べられていた。さらに、しつこいようだが、2007年には、「最も遠い銀河を発見 地球から約130億光年」という記事もあった。一体どれが正しい(遠い)のだろうか。素人に言わせれば、96億光年よりは、129億光年が遠く、又130億光年の方がそれより遠いのは明かであるのに、今回の96億光年が最遠だというのであるから、やはり記者の間違いであろう。要は、そんなことはどうでも良いことであって、なにやら遠いところに星の集団を発見したと言うことだと解釈すべきなのか。この発見に呼応して、すぐさま、それまでに、すばる望遠鏡で最遠の銀河団を発見したという、日本の国立天文台などがコメントしていたが、日本が発見したのは、約128億8000万光年先の銀河だったのだそうだ。宇宙の誕生は約137億年前と考えられているので、130億年前最古の星となると、その時の発見が事実なら、「誕生直後約7億年後の銀河となる」と言うことであったが、どうも、光年=距離と億年=時間とを混同しているような記事であると感じた。宇宙のことを談じるのであるから、宇宙を飛び交う光や、電磁波によって時も、距離も測られると言うことなのかも知れないが、私自身には、どうも引っ掛かっている。1光年という定義を見ると、「太陽系以外の天体の距離を表す単位で光が真空中を1太陽年の間に進む距離」であるという。そして、わかりやすいかどうか1光年をSI単位系で表すと、約9兆4600億kmになるのだという。これは、メートルで表すと9.46×10^15 mと言うことになり、現在パソコンなどで出てきている、テラ=10^12のさらに10^3倍のペタという単位になる。これはとりもなおさず、1.0×10^16と言うことで、日本流に言えば、兆の1ランク上(10^3)の「京」という単位になる。と言うことは、地球誕生を137億年前と言うことを、目をつぶって、137億光年先と思うならば、137×10^8(億)×10^16(光年)と言うことで、1.37×10^26と言う、指数が26と言うことであり、日本流に言えば、「じょ」と「穣」の間の数字となり、とてつもなく大きな「無量大数」にはまだまだ届かないのである。何を言いたいのかと言えば、「無量大数」は頭の中で考えられた数であるにしろ、人間が考え出した数であり、宇宙が如何に深遠なものであるかを考える前に、人間の方がより以上に遠く、深いことを考えているのだと言うことに驚かされる。宇宙のことを考えると、深遠な気分になり、どのようにして、宇宙が出来たのか、「ビッグ・バン」とはいかにして起こったのか、そして、どこまで宇宙は膨張するのか、はたまた「ビッグ・クランチ」で一切が縮んで終局するのか、「ブラックホール」に吸い込まれるのか、吸い込まれた後はどうなるのか。考え出したら、私などには、どうにも収拾が付かないことになってしまう。しかし、宇宙物理学者は、これらのことを多くの仮説と、わずかな証拠によって、来た道と、来るべき道を開設し、予測するのである。そして、真実は、正直誰にも分からないというのが本当ではないのだろうか。こういったことに生涯を掛けて、研究に没頭できる人間は、実に幸せであると思う。その過程で、自らを振り返り、如何に人間というものは、小さな、塵芥のような存在であるかを知るのではないだろうか。私にはそう言ったことに参画する能力もないが、ある時同じようなことを考えるときに、自分という者を見つめ直す良い機会であるという気もする。多くのことを知って、全てが解明されることはおそらく永遠にないであろうが、ある種、普通の人のコンセンサスを得るような帰結というものは、徐々に定まって行くであろうし、その積み重ねが進歩であり、進化であるのだろうと思う。目に見える者、肌で感じるものだけを相手にするのではなく、時には、希有壮大なことを考えるのも頭の体操には良いのかも知れない。
2010.05.11
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5月7日の新聞に現生人類が絶滅したネアンデルタール人と交雑していた可能性があると報じられた。新聞によると、約3万年に絶滅した旧人「ネアンデルタール人」のゲノム(全遺伝子情報)を骨の化石から解読した結果、現生人類とわずかに混血していたと推定されるという研究結果がドイツなどの国際チームが発表したという。何故、現生人類が生き残り、拡大・進歩したのに、ネアンデルタール人は絶滅の道を辿ったのか、今後更なる研究が成されるだろうと言うことであった。旧人と現生人類がアフリカの共通祖先から分岐したのが数十万年前と言うことで、ある時期、地球上で共存していたことは知られていたが、混血していたかどうかの論争はあったものの、むしろ否定的であったようだ。クロアチアの洞窟で見つかった4万年前の旧人女性3人の骨粉標本を分析した結果、現生人独特のゲノムが、旧人である「ネアンデルタール人」にも存在していたと言うことが判明したというのだ。ヒトゲノムの解読が完了したのは、2000年であった。その頃から、「DNA」と言う言葉が氾濫しだして、万能薬のように使われ、時として間違った使い方により犯罪捜査で、冤罪を生むという事も起こっている。人類の源については、多くの古人類研究者が地道な研究を続けているが、証言者が現存しているわけではなく、もっぱら化石を相手の仕事なので、時間と努力が必要である。ヒトに繋がる類人猿は950万年前のサンブルピテクスの発見があるが、それ以前の猿との関係や、それ以降約700万年前のトゥーマイ猿人と呼ばれるサヘラントロプス・チャデンシスまでの250万年間は全く解明されていない。いわば、サンブルピテクスはギャップの中にある唯一の孤島だという状態である。その後、アルデピテクス属と呼ばれる「地上の無尾猿」の原義を持つ類人猿が興る。その後、急激な進化が起こり、アウストラロピテクス属と呼ばれる「南の猿」が取って代わるようになり、有名な、「ルーシー」と呼ばれる女の全身骨格が発見され、これは、東京で開催された「大恐竜展」にも出品されていた。やがてこの華奢型アウストラロピテクス属は頑丈型のパラントロプス属に変わられるというよりは、アウストラピテクスと呼ばれていた属が、新しい名前を与えられたという格好である。これらと、ラップするような形で、ホモ属(ヒト)が出現するわけである。例の2足歩行とか、脳の容積の大きさなどが、色々と研究の対象になったり、話題になるわけである。このホモ属も多様であり、ケニアのトゥルカナ湖で発見されて有名な「トゥルカナ・ボーイ」もやがて、100万年前頃には絶滅している。それと相前後して、ネアンデルタール人と共通の祖先から枝分かれし、独自に進化したと考えられ、デニソワ人と命名されたホモ属も約4万年前にロシア南部で生存していたことも分かっているが、これも絶滅している。 そして、ホモエレクトス(2足歩行)であった属から、20万年前に現生人類は、「ネアンデルタール人」と袂を分かつようになり、方やホモサピエンス(現生人類)として進化し続けるのである。しかしながら、「ネアンデルタール人」も分岐後すぐには絶滅したわけではなく、「人類の足跡10万年全史」によると、アフリカのヒト属と違った経路を取った、アフリカ以外のヒト属は現フランス南部の地域で、「ネアンデルタール人」と共存していたというのである。スイスのレマン湖からフランスのビスケー湾に至るこの地方にはちょうど中心部にラスコー洞窟があり、またクロマニョン人が発見されたというクロマニョン洞窟もある。この地方で、クロマニョン人と「ネアンデルタール人」が共存していたと書かれているが、その地域の範囲は、3万5000万年前から2万7500年前までの間に狭まっているというのだ。一方では、ネアンデルタール人は2万数千年前に絶滅してしまったとある。絶滅の原因はよくわかっていないと言うが、クロマニョン人との暴力的衝突により絶滅したとする説や、獲物が競合したことにより段階的に絶滅へ追いやられたとする説、そしてホモ・サピエンスと混血し急速にホモ・サピエンスに吸収されてしまったとする説など諸説があるそうである。今回の記事や、別の記事によると、「ネアンデルタール人」とクロマニョン人は数万年にわたって隣り合わせに暮らしていたことが分かっており、混血は、その間である7~8万年前にあったという事のようだ。中近東においても、「ネアンデルタール人」はクロマニョン人と隣人として数万年にわたって古い生活用具を使いつづけて共存していた証拠があるのだという。しかし,8万年前以降になるとクロマニョン人は「ネアンデルタール人」にこの地を明け渡し,どこかへ消えてしまってこの地にいなくなったようだ。最初は、隣人として共生していたが、クロマニョン人の進化のスピード(高度の文化)について行けず、絶滅したのか、当然、武器としての石器の類も進化した物を手に入れた、クロマニョン人の暴力行為で、いわゆるジェノサイドが行われたのか、古人類学者の更なる研究に待たなければならないが、もし、ジェノサイドであるのなら、ナチス・ドイツや、その他優性意識の強い白人という人種の持っている性(DNA)が何十万年も昔、即ちヒトが猿人猿からはなれ独自に人類としての道を歩み始めた頃から始まっていたのだと言うことになり、矯正しがたい白人優性社会の性(さが)となるのではないだろうか。脳が大きければ、有利(俗に頭がよい)と言うことでもなさそうな結果が出ている。「人類の足跡10万年全史」によれば、もちろん猿や類人猿よりもホモ属である旧人「ネアンデルタール人」の方が、脳の容積は大きくなっている。そして、猿からパラントロプス属と言われる類人猿までの間には、脳容積は格段に巨大化しているが、ホモエレクトスや、ネアンでルターレンシスでは、脳容積は漸増するに留まっているのであり、10数万年から現在までのホモサピエンス系統では、むしろ、脳の容積は減少しているのである。この記事を読んで、さらに人類の起源についての興味が増すと共に、ミッシングリンクと言われる、猿から類人猿への過渡的な解明と、さらに詳細な分析が待たれるところである。私が、東京で、電車に乗っているときに、眉弓が他の人より飛び出し、歯が、口ごと尖って飛び出している人を何度か見かけたことがあるが、あの人はきっと、「ネアンデルタール人」の血を引いているのではないかと思うことがあったが、必ずしもそれが、根も葉もないことではないような気がしてきた。
2010.05.10
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今日は試験を前にした学生の1夜漬けのように読書に没頭した。と言うのが、図書館で借りた本の返却期限が明日までと言うことで、今日中に読み上げないといけないという制約があったからである。1ヶ月前に、姫の大学で借用して貰ったのだが、まだ時間があると、しばらく放置していたもので、読み始めたのが20日前のことである。本の名前は「大地」というエジプト作家の作品である。この本はNHKの次回(5月18日)の「アラブ文学の世界」の講義対象になっているから、一通りは読んでおかないと、と言うことで、必ずしも楽しみながらという訳ではなく、読書のスピードも自ずと遅くなる。それだけではなく、450頁ほどの大作であるが、前半は、織りなす人間模様の実にかみ砕いた説明が、行きつ戻りつ書かれているので、なかなか物事が進展しないという内容である。連れ合いは、既に先に読み上げていて、文学好きの彼女もこの本だけは、なかなか内容が前に進まないのでいらいらしたと言っていた。私などは、夜、寝ぼけ眼で読んでいると、どこを読んでいたのか分からなくなると言うか、数頁飛ばしても又同じ事が書かれているといった印象を受けるほどである。次回の講義で、どのように説明されるのかが楽しみであるが、背景は1919年の「エジプト革命」前後のエジプトの田舎の寒村(エジプトだから寒くはない)での農民の生活を描いた作品である。内容の詳細は、講義を受けた日に書くことになると思うが、事前の感想などを書いておけば、文学を鑑賞する手だてになるのではないかという気持ちである。そもそも、文学とは、守備範囲が非常に広い。全てのジャンルを書くと冗長になるが、ここで言う文学とは、小説に絞っているわけで、それもフィクションや ノンフィクション等が含まれるという。他にも、日記、紀行、詩 、和歌なども文学である。学生時代「L」の徽章を詰め襟に付けていた友人を思い出すが、文学的素養のない私などは、文学の良さなどは、あまり意に介さなかったことを思い出す。私などの徽章は「T」と言うことで、どうにも文学的な香りが高いとか言う言葉を実感として受け入れることが出来ない頭の回路になっているようだ。強いて言えば、ノンフィクションという分野では、なにがしか、歴史的事実に拘わる根底があるので、理解しやすいというところがある。とは言いながら、子供の頃から、いろいろな物語に触れ、聞いて育っているので、知らず知らずのうちに文学に浸って生きていることは否めないわけだ。因みに連れ合いの徽章(付けたかどうかは知らないが)は「S」であるが、それにも拘わらず、文学とか西洋芸術に関する造詣は深い。又、俳句などに対するセンスもなかなかなもので、若い頃には賞を貰った事もあるようだ。絵画は、自分ではあまり描かないが、もっぱら鑑賞で、美術評論家と言うところか。「書」に関してもなかなかなもので、そのままやり続ければいいのにと言ってもなかなかやろうとはしない。「S」であっても、限りなく「L」の素養を持っているのである。その点私は、啓蒙されて、今回のNHKの「文学から見るアラブの世界」を受講しているわけだが、特に今回のエジプト文学については、過去にノーベル文学賞を得た1作家の本を読んだだけで、あまりなじみのないところに再び、新風を吹き込まれた感じで、それはそれでなかなか興味深いのである。歴史にしろ、地理にしろ、何事も人々の暮らしに基づいて形成されるものであると言うことは論を待たないが、例えば歴史の教科書に出てくるいわゆる「史実」は、お上の目線というか、政治的な色が濃いものになっているし、事実、その決定により庶民は動かされ、時には右往左往させられるわけであるが、時として、文学(小説)では、それを、民の目から見た感覚で描かれているので、歴史の教科書の裏側(真実)がよく理解できると言う意味合いがある。今回の「大地」はエジプト文学ということだが、エジプト文学で、ノーベル賞を取った作家がいることなど知らなかったわけで、その意味では、目の前が少し広がったということである。エジプトと言えば、「ピラミッド」「スフィンクス」そして「ファラオ」の時代などを思い浮かべるが、そこにも、昔から息づいた庶民(農民)の生活があったのだということを、当然のことではあるのだが、改めて認識するという具合である。450頁ほどの作品だが、集中して読むことがなかったので、延べ18日を要してやっと読み上げ、今日などはかなりなハイペースで読んだので、やっと1日辺りの頁数は25頁という具合であるが、放置しておいたら、もっと時間が掛かったであろう。この「大地」はエジプトがイギリス統治下の植民地であった時代に、独立の気運が高まった背景を描いている。経緯はよく理解できなかったが、ナイルの水を農民の畑に引き入れるという作業が、時の政府により制限されて、農民同士の諍い(水の分捕り合戦)が始まったと言うところから物語が進んでいく。農民同士の諍いは、やがて、その根本である政治不信に向けられ、お上の命令に背く革命へと繋がっていくわけであるが、「エジプト革命」と呼ばれるこの革命は決して暴力的な要素はなく、市民の不服従運動という形で展開されたとある。最初は読んでいて、日本の江戸時代の水獲得諍いを思い出すような展開で、いずこの国も同じような時代を経てきているのだと感心したものである。そして、金持ちと、小役人の都合の良いように道路を造ると言うことで、農民の畑は勝手に分断されるという話にまで至る。その間にも、兄弟の情や、友人のこと、男女の機微など、人間の営みは、洋の東西、古今を通じて、何ら変わることがないのであると言うことも改めて感じた。
2010.05.09
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全国14大学と清水建設などが共同で、海上に1000m級のタワー型人口都市の構築を目指すという記事があった。何処かで聞いたような計画である。1980年代のバブルがはじける前頃に、ゼネコン大手は各社とも、雲を突くような超高層ビルと言うより、3次元都市を目指した構想がぶち挙げられたことがある。その後バブルの崩壊もあって、構想止まりのまま今日を迎えているわけだが、又その構想に本格的に取り組もうという動きらしい。当時は、技術的に可能だというデモンストレーション的な様相を含んでいたと思うが、世界各地に超高層ビルが建設されるにいたって、にわかに脚光を浴びてきたのかも知れない。建築の理由としては、首都圏の人口過多対策と言うことが挙げられ、東京のウォーターフロントに海上都市を建設しようという計画であった。当時は、完全な人工地盤上の土地に、居住人口が10万人というとてつもない構想であった。職住接近、平面移動をエレベーターによる立体移動とする画期的と思われる構想で、人口過多、住宅問題等を一挙に解決できるものと期待させた構想であった。しかしながら、この地震大国日本に、雲を突くような高層建築物が、果たして実用に付せるかどうかにつては、問題があったように記憶している。現在日本一の高さを誇るのは、1993年に竣工した横浜ランドマークタワーであり、高さ296mで73階である。この構造は、基部が四角形のどっしりとしたもので、見ていて安心感がある。一方それを凌ぐ高さで計画されているのが、大阪の 阿倍野橋ターミナルビルと言うことで、高さ約300mの超高層ビルである。2009年に着手、2014年春の完成が予定されているのだそうだ。「何とかと煙は高きに上る」と言うが、まんざらそう言うことでもないだろうが、高いと言うことはそれだけ危険であることに変わりはない。映画「タワーリング・インフェルノ」でも見たように、高層階の火事も又心配であるし、地震がより心配になるであろう。私は、造船時代に、船上の円形台に載る結構高いクレーン台を設計したことがあるが、物を吊って旋回するときなど、強度的(壊れるか壊れないか:専門的には応力的には)大丈夫という計算であっても、スウィングするときのたわみが大きいと、クレーン運転手に不安感を与えるため、確か高さの約1/10のたわみ量に抑える要求が別途あった。撓わんでも壊れないから安心だと言うことではやはり済まないわけである。専門的に言えば、撓性上は大丈夫でも、剛性が不足していると、撓みやすいので不安だというのだ。剛性は、煎じ詰めれば、鉄骨材で言えばその板厚であり、コンクリートであれば、その厚みと言うことになる。昔の建物の1階を歩くと、やたらに太い柱が林立しているが、最近の(近代)建築では柱の数も少なく、且つ細い部材で済んでいると言うことに気がつく。これは、上部に構造物の重量を支えるために柱が大きかったわけではなく、地震に対しての考慮であり、昔は、地震の揺れを押さえるという「制震技術」で対応しようとしていたのだが、これだと、建造物が高層になればなるほど、下部ががっしりとしていなければ成り立たない。2004年10月に発生した新潟県中越地震では、ある程度の揺れは許容するという「免震技術」を採用した建物は揺れの程度が約1/4に軽減したことが判明した。しかし、ある程度の揺れを許すというのは、構造物にとっては、有効かも知れないが、こと居住者にとって見れば、揺れているけれど壊れませんと言っても限度があるわけだ。さらに、 東京湾岸など海沿いの地域や埋め立て地などでは地盤が軟弱なので、建物に免震技術を導入するのが難しいとされた。短周期の揺れには対応できても、長周期のいわゆる「ゆらゆら」揺れる地震には、この免震技術は万能でないと言うことである。その当時は、やはり清水建設が、そう言った軟弱地盤でも十分効果を発揮する「浮かぶビル」と言う構想であった。イメージとして、プールに建物を完全に浮かべることができれば、建物の重量の半分は浮力で支えられるため、地面にかかる荷重は半分になると言う発想なのである。そうすると、地震の起震源である地面と建物の間の、つながりが弱まることで、地震の揺れが建物に伝わりにくくなり、免震効果を引き出すことができると言う考え方である。実験では「震度7の揺れが4程度になる」との結果が紹介されていた。一方、大成建設では、免震ゴムと地面の間にステンレス板をはさんだすべり装置と、従来の積層ゴムを使った免震装置を組み合わせて建物の底に取り付けるという方法で、すべり装置では積層ゴムがステンレス板の上を滑って地震の揺れを摩擦熱に変え、長周期の揺れを防ぐというものだった。いずれも実験段階では効果を確認していると言うが、果たして、将来、予想される東海・東南海・南海地震などの大地震による被害を抑えられるかどうかが大きなポイントである。よしんば、地震の振幅や加速度が軽減されると言われても、実際に基部が浮かんでいるだとか、基部が滑ってゴムで制震しているなどということを知れば、技術屋であっても、二の足を踏んでしまう。造船などでも、十分な安全率を取って設計した、船が、思わぬ三角波に遭遇して敢えなく沈没するなどのケースは枚挙にいとまがないわけで、現在想定している地震が、設計者の想定内であればまだしも、想像を超える破壊力を有した場合には、やはり危険だと思うのである。今回の構想が、14大学と大手ゼネコンの技術力を結集したものであるという点では、それなりに安心なのかも知れないが、2025年に完成を目論む1万人から5万人の人口都市には、すすんで住みたいとは思わないのである。現在、アラブ首長国連邦のドバイ に今年竣工した、世界最高層のブルジュ・ハリファ (旧ブルジュ・ドバイ)はその高さは、当時ほぼ出来上がった姿を見た私などには、とても近寄りたいとは思わなかったほど、雲を突く高さであった。ドバイショックがなければ、引き続き高さ1000mのナキール・タワーを建造予定であったが、今は中断しているようだ。いずれにしろ、かの国は、プレートテクトニクス上でも「アラビアプレート」にどっかりと乗っていて地震の心配は格段に少ないと言うこともある。そして、余分なことだが、殆ど雨が降らないから、最上階にいても雲はないわけで、見晴らしも良いが、日本の場合は、最上階で、雲を下に見ている限りは、自分で外を見て、天気の判断が出来ないと言うこともあるわけだ。
2010.05.08
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先月末もゴルフコンペは大雨で中止となったが、今日のプライベ-トゴルフも連続で中止せざるを得なかった。ついていないと言えばそれまでだが、天気予報では、昨日と今日は、連続して良い天気だとは予報されていなかった。それでもせいぜい曇り時々雨という予報であり、楽観していた。増して、昨日の歩こう会では、雨の気配もなく、朝から上天気であり、夏のような気配も感じられるほど、暑い1日だった。歩こう会が終わり、電車で帰宅する夕方も、まだ今日雨が降ると言うことが信じられないほどの上天気であったわけだ。しかし前日の夜の予報では、雨は夜明け前から降り出し、午前中は雨で、時々集中して降るという予報に変わり、午前6時から12時までの降水確率は、80%と本当かなと言うほど、雨であることが確実な気配になってきた。2週間前も中止となってしまっていたので、そろそろコースに出たいと思っていたので、少なからず気落ちがする。連れ合いも長い間の肩の痛さがこのところやっと楽になったとかで、この日のラウンドを心待ちにしていた。前日寝る前の外の雰囲気も、今日大雨になるという感じはなく、普段と変わらぬ雰囲気であった。ゴルフ道具を揃えて、今日は早いので、前日早めに寝たが、前日の歩こう会の疲れもあってか、ぐっすり寝たが、5時頃目覚めた。早速窓のカーテンを引き、外を見るが、雨は降っていない。夜中の3時頃から降り始めるという予報は見事に外れていたわけで、何となく希望を持って出かけるまでの時間を過ごした。しかし、さすがに6時頃から雨がぱらつきだした。やはり、と言う感覚はあったが、この程度の降りであれば、さしたる雨具はなくてもプレーできるという感じであった。予定通り、7時少し前に出発して、大山崎から名神に乗り、吹田で降りて、姉と、その友達をピックアップに向かった。姉の家までは順調で、雨も小雨程度であり、まだ、ゴルフに支障はなさそうである。向かう三田27のゴルフクラブは、これが3回目で、前2回は、連れ合いの学校長とプライベートにラウンドしたことがあるコースだ。1年前の、最初の日も大雨にたたられ、スコアは散々であったし、2回目のリベンジのつもりだったときも、100は遙かに超え、とてもスコアにならなかった。雨の時は、フェアウェイが、水たまりとなるところが多く、ボールが転がらなかったことを思い出す。何しろフェアウェイが狭くバンカーがやたらと多いようだった。今回は、連れ合いが任意に選んだのだが、私としては3回目のリベンジと言うところであった。姉たちをピックアップして、池田ICから中国縦貫道に乗れば、すぐである。名塩辺りを通過する頃には、空も明るくなり、雨もほんの少しだが、小やみになったようで、何とかプレー出来そうだねと話ながら進んだ。話し込んで、神戸三田ICを通り越し、仕方なく、京都舞鶴道路の三田西ICで高速を降りた。案内標識の通りに進むと、神戸三田ICから降りていく道とはちょうど反対方向からゴルフ場への入口のアプローチ道路に着くことになる。その入り口から三田27のコースまでの道が、結構長い距離で、今までそれ程気づかなかったが、だんだんと標高が高くなり、山に登っていくのがよく感じられる。それにつれて、雨も又激しく降り始めた。山の天気は、平地よりも尚悪そうである。ゴルフ場に着く手前頃から、雲の中(即ち霧の中)に突入した感じである。クラブハウスに着いた9時過ぎには、土砂降りになってしまった。プレーしたい気持ちはあるが、これではどうにもという感じで、フロントに聴くと、キャンセルフィーはなくても中止は可能だという。2階のレストランでは、待機組のためにコーヒーなどのサービスがあるというので、取り敢えず10時のスタート時間まで待ってみることにした。コーヒーを飲みながら外を見ると、雨は衰えないばかりか、激しく降り、おまけに一面の霧で、30ヤード先が見えるか見えないかである。眼下にはちょうどイーストコースの9番のグリーンと、その右側に池があるのだが、グリーンのホールの旗が見えたり見えなかったりで、右の池は、池半分が見えるか見えないという混濁ぶりであり、とてもボールの行き先を追える感じではない。それでなくてもフェアウェイが狭いこのコースでは、全くゴルフにならないことは明かである。係の人に聴くと、朝早くに2人組が1組だけがスタートされて、何とかホールアウトされましたと言っていたが、朝はさほど霧はなかったのかも知れない。その後、我々と同じような待機組も、小一時間待ってのち三々五々帰るようであった。ボールが見えなくては、如何ともしがたいので、我々も残念ながら引き返すことにした。あまりに残念なので、来週の同じ曜日に予約を入れ直し、再度挑戦することになった。フロントの若い女性係長に、今日来た努力分で、何とか来週はもう少し安くならないだろうかと言ってみたが駄目だった。連れ合い達3人は、そのままバッグを預けて帰ることになった。せっかくここまで高速道路を走ってきたので、帰りに有馬温泉の立ち寄り湯に入っていこうと言うことになり、有馬温泉グランドホテルに向かうことになった。今日来た道の反対側へ向けて走り、国道176号線に合流、その道を真っ直ぐ、有馬方面に向かった。有馬グランドホテルは、連れ合いによく連れてきて貰ったので、近くに着くと様子が分かる。そこで、昼食の和食バイキングを食べ、野菜の生サラダを3倍もお代わりした。立ち寄り湯では、約2時間の約束で入ったが、私は、室内の銀泉バブル湯から露天の赤湯それから打たせ湯、そしてサウナとそのコースを3回通り回った。温泉を出る頃には、雨はすっかり上がり、天気予報通りの青空さえも出てきた。日頃天気予報が当たらないと、文句を言っていたからしっぺ返しを食らったようだ。くねくねと、有馬街道を東に進み、宝塚ICで中国縦貫道に乗り、姉たちを送り届けて、帰途についた。湯疲れか一瞬眠気が差したので、連れ合いに運転を代わって貰って、大山崎に着いたが、今日、コースは回れなかったけれど、少し打っていこうと、近くの練習場で、練習をして、来週に備えた。それにしても2回連続のラウンド中止など、過去に経験したことはなく、散々な1日であったが、久しぶりに有馬温泉でゆっくり出来たのは、良かった。
2010.05.07
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恒例の歩こう会に参加した。今日は、尼崎にある、近松門左衛門の記念館というところが一応のターゲットである。尼崎に墓所があることなど初めて知った。もともと人形浄瑠璃や歌舞伎狂言等を得手としないというか、あまり興味を感じなかったので、深く知ろうともしていなかったからだ。JRの尼崎駅に10時に集合と言うことで、朝は、比較的ゆっくりと連れ合いと共に、出かけた。島本駅が出来て便利になったのは、快速電車1本で尼崎まで行けることだ。高槻までは各駅停車だが、それから先、加古川まで快速となると言うことらしい。乗車時間は30分程度と言うことで、一寸早めに出たが、山崎辺りで、踏切のトラブルがあったとか、電車は13分の遅れで入ってきた。1電車早く乗る予定が結局、時間的には、予定していた時間の乗車となり、10時前には尼崎に着いた。東海道本線で、淀川を渡って大阪を経由し、又折り返すように淀川を越え、神崎川を越えると兵庫県で、すぐに尼崎となる。今日は、前回よりも盛況で、男9名に女7名の合計16名の参加である。まず、JRに沿うように、東の大阪方面に向かって歩く。弁当を買う人を待ち合わすために、神崎川の堤防下にある、一心地蔵尊の前で待つことになった。この一心地蔵のいわれは、碑に刻み込まれていたが、それによるとこうである。【神崎一心の戦 由来碑足利高氏 建武の中興の恩賞に不平 反逆して鎌倉に走る。新田義貞 後醍醐天皇より追悼の命を受ける。かえって高氏の反撃に遭い京都へと敗走する。京の都で再び激戦 今度は高氏軍が敗走する 高氏軍 山陰丹波の国を迂回兵庫に陣を占める。新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる楠正成軍 遅ればせながら参加 神崎の辺りから神出鬼没 一心をこめた戦法で圧勝 高氏軍は遂に九州へと逃が延びる 世にこれを神崎一心の戦いという】とあった。建武の中興後の話であろうが、残念ながら、高校程度の教科書にはこの戦いを詳しく述べていない。そのまま、神崎川の堤防に上り神崎橋に出る。それを越えて、向こう側の河川敷に降りて、河川敷を遊歩する。神崎川の右岸(西側)に沿って北上するのだが、いつの間にか、神崎川は東へ分岐し、我々は西に分岐した藻川に沿って歩くことになる。その藻川も、少し上流に行くと猪名川に分岐するのだが、我々は殆ど気づかずに藻川べりを歩くことになる。やがて名神高速道路の高架下をくぐり、そこから向きを西に変えて、市内道路を歩き始める。尼崎駅から直線的に北上すれば、近松公園は近いのだが、歩く目的と、神崎川の河川敷を通ると言うことで回り道をした格好である。途中、若王寺なる地名があったが、読み方は「わかおうじ」ではなく「なこうじ」と呼ぶのだと知って、所変わればと言うことを感じた。聖トマス大学正門前を過ぎ、今度は少し南下すると、そこが近松公園である。我々は、四角形の3辺を歩いたことになる。近松公園は、それ程大きな公園でもなく、桜も終わり、少し寂しい感じだが、北の端の藤棚の下で、昼食を採った。屋外でのおにぎりの味は又格別に美味しい。しばし休憩し、近松記念館に向かう。近松記念館の入場料は、200円であるが、15人以上は団体割引で、100円だという。ほんの小さな展示場であるが、ボランティアの人が熱心に案内説明をしてくれた。初めて知ったが、近松の出生地が、九州から福井まで、9個所の可能性があると言い競っているらしい。中でも、福井出生説がどうやら本命らしいが、何とも不可解である。館内には今は亡き人や、外務大臣時代の安倍晋太郎の色紙も飾ってあった。戯曲を書いたので、東洋のシェークスピアと呼ぶ人もいるとのことであった。当時、戯曲は大きく分けて「時代物」と世話物」があったが、近松は「世話物」で、特に心中物を多く書いている。72歳の生涯で150編も書いたというからすごいが、当時作家は最下層で、演じる側の黒子であったという。有名になった現在では、各所が、その出生地は我が町なりと名乗っていると言うことは最初に書いた。有名にならないと、何もならないというのは、現在も昔も同じようである。ゆかりの品を見て、隣の広済寺の近松門左衛門の墓所を訪れた。小さな墓碑には、夫人の名前も併記されており、亡くなった月は11月22日で、「いいふうふ」と言うことになっているのは、どうやら後世の人間が作った作り話のようでもある。近松記念館を後にして、帰路は、JR福知山線の「塚口」である。そこで、JRを使う人と、さらに足を伸ばして阪急に出る人と別れ、12名は駅前の喫茶店でしばし雑談をした。今日のコースは、下がコンクリートが多かったせいか、心持ち疲れが酷かった。明日は、三田27でラウンドする予定だが、どうやら雨が降るとの予報である。しかし帰り着くまでの青空が覗いているのを見る限りは、とても降りそうにないのだが、と一寸残念な気がした。帰りの電車では、先輩夫婦と、先輩と同期の人と5人で、語らいながら帰った。
2010.05.06
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2日ほど前の日経新聞に「研究進む『幸福の経済学』」と言うコラム記事があった。最近は、何につけても、経済に結びつくものらしい。一寸見て最近流行の新興宗教「幸福の科学」のことかと思ったが、どうもそうではない。この場合の経済学は、科学よりもより科学的であるかも知れない。もともと、「経済」とは「経世済民」から出た言葉であり、その意味するところは「世を治め、人民を救うこと。」にあるわけだから、何でも経済に結びつくのは当然のことなのであろう。むしろ、八百屋で物を買うとか、貿易額がどうだとか言うのは、「経済」の1側面でしかないわけである。経済でよく使われる言葉に、「業況判断指数」と言うものがある。これは、日本銀行が3か月ごとに公表する、日本の経済動向に関する統計調査である「全国企業短期経済観測調査」、略称「日銀短観」を示す指数で、その算出方法は、極めて、原始的である。すなわち、約1万社を対象にしたアンケート調査をまとめて、業況が「良い」と答えた企業の割合から、「悪い」と答えた企業の割合を差し引いた値であり、すべての企業が「良い」と回答した場合は、100となり、「良い」と「悪い」の回答が同数だった場合は、0ということである。これを判断するのは各社の社長の感覚であり、それはある程度売上高とか利益だとかに裏打ちされたり、又短期的にその会社がどうなるかの見通しであるから、それ程、はずれないのであろうが、言ってみれば、科学的根拠には乏しい感覚的なものと言わざるを得ない。これと同じように「幸福度指数」なるものがあるようだが、これまた計量的に判断することは極めて難しいと思う。私のような、金持ちでない人間は、「金さえあればきっと幸せになる」などと考えがちだが、必ずしもそうとばかりは言えないようだ。人々は豊かになっていくと、貧しいがゆえに健康を害したり、病にかかりにくくなったりと言うことになり、確かに豊かになると幸福になるということにはいえるわけだ。ところが、「イースタリンの逆説」といわれるものがあり、イースタリンという人は、豊かさも一定水準を超えてしまうと、豊かになるということと幸福になるということの間に相関関係がなくなるというのである。「お金が全て」と言う考え方に警鐘を鳴らしているわけである。鳩山首相のように、子供手当が、月々1,500万円もありながら、またそれがあったことすら永年気か付かないというような、摩訶不思議な世界は、別として、庶民から言わせれば贅沢な話だが、それでも、ある程度のお金という物は、必要なのである。イースタリンもそこの所までは言及しているわけではなく、際限なく、お金があれば、比例関係で幸福度も増すかと言えばそうでもないということを言っているのである。論理学でいう「命題」とその「対偶」、「逆」、「裏」という言葉があるが、ここで、命題=お金持ちならば、幸せである。とすると、対偶=幸せでなければ、お金持ちでない。逆 =幸せならば、お金持ちである。裏 =お金持ちでなければ、幸せでない。と言うことになるが、そもそも、命題自身が、必ずしも正でないことを考えると、「逆もまた真なり」などと言うことの反対で、「逆も又真でない」と言うことになる。ここでの、「対偶」や「裏」も又一寸ピントがずれているわけである。ブータンの現国王によって1980年代に唱えられたといわれている「国民総幸福量」(Gross National Happiness)と言う考え方がある。若き国王は、国民総幸福量の増大は、経済成長よりも重要であるとはっきりと述べている。幸福と言う概念は計量化することはなかなか難しい。これは、業況判断指数と同じである。何が幸せかという問いに対する答えは、人によってまちまちで、それを政策に取り込むことは不可能に近いというものだが、ブータンで初の国勢調査で「あなたは幸せですか」という質問に、多少戸惑った人がいたようだが、ほぼ9割の人が幸せであると答えたと言うことらしい。ブータンの政策での国民総幸福量には4つの主要な柱があるとされる。それらは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治、と言うことだ。経済開発に一辺倒になってしまい、自然環境が破壊されたり、伝統文化が失われてしまっては、何の意味のないというのが、この政策の精神であろう。散々近代化を進め、見てくれは幸せになったと思われる地球全体が、今や、その行き過ぎを反省し、「地球環境保護」を鳩首会談で解決しようとしているわけだ。「国民の幸福度」とか「地球幸福度指標」などが出されていて、どう違うのか私には分からないが、とにかくその両方共、日本の世界ランキングは、90位から95位なのだそうだ。全世界のちょうど半分位の位置である。「国民の幸福度」の上位でいえば、1位がデンマーク、2位がスイス、3位がオーストリア、だそうで、先進工業国は概して下位の方にランクされているようである。2日前の日経新聞でも国民1人当たりの所得と、生活満足度についての相関を示す図が書かれていたが、1人当たりのGDP増加に応じて、生活が満足であるといった相関関係は全く見られないと言うことである。1995年頃満足度が70%を越えていたものが、最近では60%程度に落ちているという事は示されているが、その傾向は、全くGDPの増加とは無関係なのである。既にこの事は昨年、筒井義郎阪大教授によって書かれているとのことだが、今回は共同研究者の阪大の大竹文雄教授のものであった。ここ数十年の間に多くの国で生活水準は改善したが、その割りに、国民の主観的幸福感はあまり変化してなく、所謂この「幸福のパラドックス」を説明するものとして筒井教授は以下の2つの仮説を挙げている。(1)相対所得仮説-幸福感は他の人の所得との比較で決まってくる。(2)順応仮説-人は生活水準の上昇にすぐ慣れてしまうので、所得上昇にともなう幸福感も頭打ちにになる。「物質的豊かさのもたらす幸福感は相対的・一時的なものであるから、精神的な豊かさこそ永続的かつ重要である」と短絡した考え方では律しきれないとしているが、(1)の「相対所得仮説」が有力だと言うことで、人々の幸福は、自分の絶対的な所得ではなく、比較対象グループとの相対的な所得のみで決まるというものだ。みんなが貧しければ我慢が出来るし、一致団結も可能であるといった戦後のような状態であろうか。少し寂しい気もするが、これほどの格差社会で、ろくに働きもせず、過去の栄光だけで、高給をはむ官僚の渡りなどは、自らの幸福度を決める上に置いて大きな障害であることも又事実である。
2010.05.05
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もはや恒例となった連れ合いの先生の別邸である美山の家でバーベキューをすることになった。朝、水無瀬駅で、連れ合いの同僚である2人の女性教師をピックアップし、いつも通り、混雑を避けて、洛西ニュータウンから森林本通りを抜けて、沓掛に出た。天候は申し分ないというか、気温は真夏日を超えたところもあったくらいの上天気である。連れ合いの友人の美山の奥にある別荘は、ご主人の生まれ故郷である。そこでのバーベキューは私にとっては2年前から始まって今日で4回目を数える年中行事になっている。毎年ゴールデンウィークにおじゃまするのだが、昨年は桜の頃にお邪魔したので4回目である。毎回少しずつメンバーは違い、昨年は姫と3人での訪問であった。確か、民主党の高速道路無償化の一環で、国土交通省による平成22年度高速道路無料化社会実験計画では、近畿地方の京都縦貫道(沓掛~丹波)も社会実験と言うことで、今年から無料化が始まる予定だったはずである。最近の民主化のマニフェスト破りがまかり通っているので、半信半疑であったが、やはり、無料化は実現していなかった。そればかりではない。ETCであれば、沓掛から丹波まで、2度に渡って、従前は、500円ずつ2回徴収されていたところ、最近では、半額になっていたのだが、事もあろうか、最初の料金所で、なんとETC専用レーンが、故障閉鎖となって、車が数珠つなぎになっていた。とっさに一般のレーンに切り替えたのだが、それが間違いであった。一般のゲートでは、相変わらず500円を入れないとゲートが開かないのだ。てっきり、係員が居て、ETC使用を訴えれば、250円で行けるはずと思っていたが、無人で、ごく機械的に500円払わないとバーが開かないのだ。もたつきながら、大口の徴収口に硬貨を入れたら100円が道路にこぼれてしまった。拾って最後の100円を入れるとやっとバーが開いたが、その時にはなんと、ETCレーンの故障も直っているではないか。みすみす、250円を余分に取られる羽目になった。これは明らかに詐欺である。2個所目の料金ゲートは、当然ながら、通常通り250円で通過できた。取り敢えずの終点である丹波で降りて、国道9号線から27号線に入り、途中から大野ダムの横を通り、162号線に出て、走った。途中、道路が整備されていて、あまりくねくねと曲がることなく結構スムースに走ることが出来た。ところが話に夢中になるあまり、途中で左折すべき盛郷を直進してしまい、堀越トンネルに入ってしまった。1km余はあろうかというトンネルを出ると、もうそこは福井県である。トンネルの中央が県境になっているようだ。そこから小浜までは20km程度である。あれあれ、福井まで来る気はないよと、Uターンした。見過ごした左折すべき地点に戻り、そこからは1本道で、いつもの別邸に着いた。今日は、連れ合いと同い年で定年退職した男性教師も来ることになっていたので、バーベキューの準備やら、ワラビ取りなどをして到来を待った。5年ほど前に来たことがあるというその先生も少し迷ったようだが、何しろ、その別荘付近では、携帯電話は「圏外」で、通話もメールも不可である。程なくして到着されたが、やはり少し苦労をされたようだ。全員がそろったところで、バーベキューは始まったが、今日は、ホストの先生の息子さん達が居ないので、準備していた肉が大幅に余った。若い先生でもアラフォーで女性だから、肉をばくばく食べるという程までにはいかない。帰りの運転があるので、私は早めにビールを飲んで醒めるまで待つという態勢である。件の男性教師は帰りの運転を考えて、ノンアルコールビールを持参で来られた。自宅の農園では、色々と野菜を作っておられるようだが、まだ適当な物を収穫していないとかで、収穫時には立ち寄るようにと誘われた。先生連中が集まると、仲間の先生の動向や、配属先のことなど話が弾むようだが、これはサラリーマンでも同じ事だが、女性先生(先生でなくても女性は皆そのようだが)のこの手の話は留まるところを知らない感じである。男性は、その別荘のご主人と、定年退職の先生と私の3人であり、女性は、連れ合いを含め、同行の2人と、別荘の持ち主夫人の先生の4人であるが、話の内容や、長さは、とても4:3というわけではなく、2乗3乗の比率で女性陣の方が多いのはどこも同じであろう。定年の先生は、一寸個性的な先生だったようで、なかなか風格がある。趣味で、A5程度のスケッチブックに、色々絵を描いておられて、そのうちの3冊を見せて貰った。色鉛筆で彩色しているとのことであるが、なかなか味のある、メルヘンチックな絵の内容であった。私も連れ合いに勧められて、サウジにいるときから同じようにスケッチを始めたが、鉛筆だけの仕上げであり、いつも「色を付けたら」と言われている。そのスケッチも、何くれと忙しいこともあり、今は頓挫しているが、写真で回想するよりも絵に描いておくと、その時の状況がより深く思い出されるので、なかなか良いものだと思っている。男性先生は、自宅の作物の水やりがあると言うことで、早めに辞去された。私は、別荘の主人のご母堂の墓参りと言うことで、自宅から少し山を登った墓に一緒にお参りをさせて貰ったり、その後、ワラビを再収集したり、山椒の葉をもいだりとなかなか楽しい一時を過ごさせて貰った。そのあと、私が部屋で仮眠をしている間中、女性陣は、何くれと職場の話題などの話に花が咲いていたようである。私は、昼間食べ過ぎたので夕食は食べなかったが、軽い夕食を済ませたら既に夜の8時を過ぎていた。外も暗くなったので、帰ることになり、もと来た道を帰るつもりが道を間違えて、園部に向かい、さらに高速道路への標識を見誤って、同じ所を1周するという不手際があったものの、同行した、2人の女性教師を京阪五条で降ろし帰途についた。帰りの京都縦貫道路での料金は、両方とも250円であったことは言うまでもない。行楽日の終わりだと言うこともあってか、沓掛の出口付近では4km程度の渋滞に巻き込まれた。水無瀬に帰り着いて空を見上げると、美山ではあんなにキラキラしていた星が、なにやら霞んで、精彩がない。普段水無瀬でも十分に自然があると感じては居たのだが、美山の携帯電話「圏外」は、都会の喧噪を忘れさせるばかりではなく、空気もなにやら美味しくて、今日1日なにやら心まで洗われた感じの良い日だった。
2010.05.04
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朝一番にゴルフを主催する先輩から電話があった。我々は出かけることが多いので、居るかどうかの確認の電話でもある。と言うのが、この間、プランター入りの「サニーレタス」を頂いて「新鮮なレタスをもいで食べるのは美味しいですね」といったのを覚えていて下さって、今日又、「サニーレタス」等届けるので、居るかと云うことだ。わざわざ高槻から、上牧まで届けていただくのは恐縮だが、先輩はフットワークが軽い。約束の時間に道路に出て待っていると、「サニーレタス」、「青じそ」「デージー」の3個のプランターに入った苗を頂いた。昨日の石川遼の驚異的スコアーが話題になったが、プロ同士が舌を巻くほどだから、コンペでいつも良い成績を収められる先輩も感心しきりであった。今日は、明日、連れ合いの友人の宅でバーベキューをするために買い出しに出かける用があったが、その前に連れ合いの実家の庭に毛虫よけの薬を撒く約束になっていた。袋一杯の顆粒を家の周りに撒くだけの話なのだが、極端に毛虫と言っても青虫が嫌いな連れ合いは、青虫がいる木がある傍を通ることさえも怖がる始末である。顆粒を撒くことは何の造作もなく終わったが、私は、前回の草引きの残りを仕上げるという気持ちがあったので、まず庭木の剪定から始めることにした。松の木だけは素人では駄目だというが、理屈さえ分かればどうと言うことはないのだろうが、今回は触れなかったが、後は、ツゲの木やその他の草木は、鋏を入れ放題で、既に基礎的な形は出来ているので簡単に飛び出した不埒な枝を切るだけで済む。あじさいの生命力の強さには恐れ入った。メインの枝が枯れていてもお構いなく、脇からどんどんと新しい枝が出て、鬱蒼としているのである。枯れた枝を整理すると、相当スリムになりすっきりとする。びわの木が、小さな鉢に鉢植えされていて、直に土の上に置かれていたが、なんとその根は、鉢底の穴を突き抜けて、大地にどんどんと入っているではないか。この位置が悪いので、引っこ抜いて、少し大きめの鉢に植え替え、場所も移動した。玄関先に植えられたモチの木はずいぶんと背が高くなっていて、そのうち手がおえなくなるであろうから、上部を切ることにした。隣の家にはアルミ製の梯子はあるが、こちらには高枝切り鋏もない。塀によじ登って剪定鋏の届く範囲で上部の枝を切り落とした。私は、植物の名前を知らないので、立派に大きくなっているのは、なるべくそのままにしておいたが、どうやら、あまり関係の無い木があって、それを切るように言われ、根元から切り落とすと、庭が若干すっきりとした。門前に植えられた「卯の花」が無造作に繁っているので、手を入れたが、私は初めて「卯の花」という木を見た。少し暗くなっては居たが、あの「卯の花の匂う垣根に、ホトトギス、早も来鳴きて・・・」と言う歌の木はこれかと思いながら、これもバサバサと無造作に切った。それにしても、植物の生命力には感心するばかりである。相手が動物なら、声の出方が弱々しいとか、元気がなさそうだとかすぐに判断が付くが、植物の場合は、枯れるか、新芽が出るかの違いでしか判断が付かない。尤も日常接していると、色が変わるとか、何か変調を察することが出来るのだろうが、たまに見るだけで、放っておくと大概の木は、虫にやられない限りはだんだんと成長していくものである。根は栄養を求めて、どこまでも地の中に分け入り、枝の方は、なるべく光合成をしやすいように光のある方向へと伸びてゆく。植物が生命を持ち、生きようとしていることがよく読み取れる。私も親父が存命の時に、一時庭にツゲとサツキを交互に丸く形作った庭木でデコレーションをしていたときのことを思い出す。同じ大きさの丸ぁるいツゲとサツキを少し間隔を置いて交互に植えたのだが、何年か経つと、ツゲは、両隣のサツキの領分を侵し、最後には駆逐してしまったのである。この時、植物にも弱肉強食の決まりがあるものかと感心したが、毎年綺麗な花を咲かせてくれたサツキには悪いことをしてしまったという気がしたものだ。この時からツゲは生命力が強い木であることを肌で感じたのだが、このツゲでさえも、選定の時期や、方法があることを後で知った。今回の剪定は、少し早めではあったかも知れないが、私は過去の経験から、何時でも良いのだという風に思っている。中にバラの木があったが、根は太いが、こじんまりとこまめに手入れしていないために、枝が極端に伸びて、その先端部分が息づいているという形になっていた。根元に近い部分からも新芽が長く伸びていたので、ひょろひょろと長く伸びた部分は、可愛そうだが、ばさっと切り落としてしまった。綺麗な花にはトゲがあると言うが、どうしてバラの花にとげがあるのだろうか。バラが綺麗だと言うことに異論はないが、その他の花でもこれは綺麗だという花はたくさんあると思うのだが・・・。植物に関して、何の素養もない私は、こんな時全く思考が先に進まない。花は自然に群生して咲くのを美しいと思ったり、周りに何もないところにぽつんと咲く花も美しいと思ったりするものだ。とにかく花は人の心を癒してくれる。先頃、あれほど綺麗だった桜もすっかり青葉に包まれて、その痕跡を残さない時期になってしまった。これからは全山青葉の候で、これは又素晴らしい光景だ。そんな中にも「サツキ」や「ツツジ」が彩りを添えることだろう。「年々歳々花相似 年々歳々人不同」というが、げに植物は正直なものである。自然保護が叫ばれ、異常気象がいぶかられる中、植物は自ら手を下すことは出来ず、その時々に順応して生きているわけで、これら植物のためにも、我々人間は、我々自身のこの地球を保護する立場にあることを改めて感じた。
2010.05.03
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昨日上海万博が始まった。これから半年間の興業と言うことになる。初日、中国国際放送局の発表では「夕方7時までにあわせて20万4千人が来場し、運営状況は全般的に穏やかだった」と報じたようだ。柵やチェーンがあろうがお構いなく、列があろうが関係ない、そんな国民性からすれば、上出来のスタートといえるのだろうか。それでも、まだ7つの国と国際組織のパビリオンが内装工事中だとの事である。中でもあの狂気集団(北朝鮮)がパビリオンを出していると言うから驚きである。一体何を博覧しているのだろうかと一寸興味があるが、さすがに人気はないようである。万国博覧会の付帯工事を含めた総工事費は5兆5000億円という巨大な規模であり、正に共産国家中華人民共和国の威信をかけた大事業なのである。世界人口の5人に1人は中国人で、GDPでも世界2位の地位を占め、「世界の工場」から、「世界の消費市場」へと変貌し、経済成長率も9%前後を維持するという驚異的な国である。額面上だけでは羨ましくも、素晴らしい国に見えるが、石原慎太郎も言っていたように、如何せん「民度」の点ではどうにも違和感を覚えるのである。ここで言う、「民度」とは国民の成熟度と考えている。即ち、「その地域に住んでいる人びとの経済力や文化の程度」とか、「国民・住民の経済生活・文化文明の程度」「人民の生活程度」そして、「国民・住民の生活水準や文化水準の程度」等のことである。その昔、日本は儒教国家の中国からは多くのことを学んだし、今でも、孔子、老子の教えや、書物は多数出回っている。日本人の精神的ルーツは、仏教にあらず、儒教にありと言わんばかりの浸透の仕方なのである。論語などは読むと頷くことが多い、「子の曰く、人の己を知らざる事を患えず、己の能なきを患う」等とある。常に自制をすることの多くを論語から学んだのであるが、今の中国人には全くそれが感じられないのは何故だろうか。世界中のどの国家も、文明の先端を走っていたところは、現在ではことごとく退廃したり、見る影もない状態のところが多い。こういった意味からすると、孔子が生きていた紀元前の春秋時代というのは、今の中国とは全く異なった性格を持つものであり、異質のものであると言うことなのだろう。上海万博を語るのに、まず、盗作の件が挙げられる。テーマパークの建築様式が、かつての日本のテーマ館の意匠と酷似していると言うことや、マスコット人形でさえも自分たちで考え出したものではなく、アメリカのマスコットの盗作版であると言われている。さらに、最近問題になったPR曲についても、全くのコピーソングであると言うことだ。晴れて国威を強調する場であるなら、何故コピーを使うのかと言う点が、既に理解に苦しむのだが、指摘され、誰が聴いても盗作と分かっても、絶対にその非を認めようとしない所など、腹が据わっていると言えば据わっている。「世界の国からこんにちは」と歌った、三波春夫の歌や、どでかい太陽の塔など、昔の大阪万博の時にはあまり洗練されていないかなと思っていたものでも、自前であると言うことや、今日残されている太陽の塔の巨大モニュメントを見ると、それはそれで、誇らしく、なつかしものを感じるのである。世界2位のGDPとなったとはいえ、人口が、13億人を超える国であり、ハイバー格差社会であるため、万国博会場近傍で、観光客が通る場所となる貧民街は全て3m以上に高い塀で囲い、くさい物には蓋的に扱っていると言うことだ。又「民度」の低さを物語るものとして、市民に対して、46項目もの「べからず集」を通達したというのである。わざわざ通達したと言うことは、とりもなおさず、そのことが恒常的に行われていたと言うことを意味する証拠である。かいつまむと、1.順番を待って順序よく行動すること、2.タクシーからつばを吐かない、3.パジャマでの外出禁止、3.海上から1km以内に洗濯物を干さない、4.ニンニク、ニラ、ネギなど臭いのきついものは食べてはいけない、等々である。特に2.3以外は、重大な問題とも思えないが、政府は、これを対外的に恥ずかしいものだと考えていると言うことなのだろうか。もっと問題なのは、中国お得意の偽造である。「パイレーツ版」などと言えば、少しかっこうよく聞こえるのかも知れないが、要するに、まるでコピー版で「知的財産権」などどこ吹く風と言うことがまかり通っているのである。万博会場に容易に入ることが出来る車両パスの偽造、もちろん偽造入場券は当たり前、等々、何でも偽装商品を128,000点押収したというから驚きである。会場混乱は、リハーサルで実証済みであるし、今後も、「べからず集」が守られることはないと言うことを承知の政府は、人民解放軍を含み警備員を4万6,000人も出動させている。チベットやウィグル地区のように、何でも力で押さえつけるという体質は、ここでもあからさまである。大阪万博では77ヶ国と4機関の参加であったが、今回の上海万博は、過去に万博に参加したことがない北朝鮮を含め国・地域、国際機関は246を数えるという。さらに大阪万博の予想入場者数が3,000万人であり、実際の入場者は6,400万人になったという事だが、上海では、7,000万人の入場者が予想されているそうだ。入場者の分布はどうだか分からないが、中国の東沿岸地帯の俗に言う、中産、富裕層の人口が日本の人口に匹敵していることや、参加国数が、3倍になっていることなどを考えると、この予想は少なめの数字に感じられる。おそらく、中国内陸部の人達にとって、万国博そのものは、百害あって一利無しと思っているのではないだろうか。私がアフリカにいた時、スポーツのアフリカ大会の会場建設が、会期が始まっても完成していないと言うことや、カタールに出張した時に、ドーハでのアジア大会でも同様の混乱はあったが、その点を考えても、日本人のマネジメント能力や、勤勉さは世界に誇りうると感じたものだ。今、残っている工事が完成するのは何時のことだろうか。福建省に滞在したことから推して、倫理感を無理矢理規制して押しつけたり、くさい物に蓋をする如く、恥部を隠す塀があったり、食べ物も信用が出来ない様な国には、万国博と雖もあまり行きたくないというのが本音である。
2010.05.02
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先月の末、ルノワール展を見に行った帰りにいつもは殆ど使わないJR線で帰宅することになった。私の住むところは、JR駅で言えば新しく出来た「島本」が最寄りである。いつもはほぼ並行して走る阪急電車のお世話になっているが、これで行くと「上牧」が近く、「水無瀬」でも歩けない距離ではない。JRの「島本」駅が出来て助かるのだが、新しくできた駅のせいか、JRは極めて不合理な料金体系になっているのに気づいた。前々から、そのニュアンスは知っていたが、今回確認した格好である。そして、殆ど同じ距離を走る阪急を使う関係で、あまり気にはしていなかったが、この時ばかりは、その違いを思い知った格好だ。運賃の基本的な考えは、距離に対応するのが原則であるわけで、この事に関しては、無理なく納得できる。これは、電車であろうが、タクシーであろうが同じであるわけだ。旧国鉄から民営化されたJRだが、旅客だけでも、JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州の6社に別れ、その各々のテレトリーは広範囲である。我々が遠隔地に移動する場合は、飛行機を使う以外は、JRに頼らざるを得ないわけだが、大都市の近郊地となると、競合する私鉄が走っている。これが、JR1社だけなら殆ど何も考えることなく、距離ベースで単純に律することが出来るのかも知れないが、それで算定されると、近距離の運賃は、格段に高いものになり、おいそれと郊外から都心に出ることが出来なくなるであろう。私の利用する阪急電車では、大阪(梅田)に出る場合、京都(河原町)に出るのに比べて1.6倍程度の距離の差があるが、幸いなことに、水無瀬駅と上牧駅の間は、ほぼ0.8kmと短いので、どちらの駅を利用しても、大阪(梅田)へも京都(河原町)への料金も変わらないという位置にある。そこで、大阪(梅田)から我が家に帰る場合をJR(大阪)からと阪急(梅田)からとで比較すると、次のようになる。JR :大阪→島本 (26.5km)450円阪急:梅田→水無瀬(28.1km)310円で私鉄の方が140円も安い。JRのこの料金は、料金ベースで決められたものより、特定近郊路線だと言うことで、割引した数字である。これを通常の距離ベースを適用すると、大阪→島本:26km以上30km以下で480円(30円割引である)この辺りまでは、JRが高いなぁと言うことで、まだまだ近郊地における私鉄各社との格差を縮める努力が足りないと言うことで終わるのだが、次のケースを見て驚いた。JRで大阪-島本間を一気に購入するのではなく、高槻を経由点として分けて考えると、JR :大阪→高槻(21.2km)250円高槻→島本( 5.3km)200円 という案分で、合計450円という事だ。ところが、一旦高槻で降りる手間をいとわなければ、JR :高槻→島本( 5.3km)160円となり、250円+160円=410円と大阪-島本間を一気に買うよりも40円安くなる。しかも、殆ど同距離である阪急を使うと、前述のように、310円であるから、細切れに買ったJRの利用よりも、阪急はなお100円安いと言うことになる不思議さである。この旨を、島本駅員に糺したところ、特に不都合はないという判断であるのに、又仰天した。明らかに矛盾が起こっていることに対して、仕方がないと言うことではなく、正当であるという見解なのである。言い分は、本来なら、大阪-島本間は26.5kmとなり営業キロベースでの運賃表をそのまま当てはめると、480円なのだから30円もサービスしているという見解なのである。あきれてそれ以上聴くことはしなかったが、通常「キセル」と呼ばれる行為を防止するために、「出発地点で目的地までの切符を買いましょう」と言われるが、この場合なら、大阪で、高槻までの切符を買って乗車し、乗り越し手続きと言うことで、車内精算か目的地精算をすれば、追加料金は、高槻-島本間の160円だけで済みそうに思うが、如何なものだろうか。当然延長だからとやはり200円を追加徴収されることになるのだろうか。そこまで突っ込んだ話をしたわけではないが、運賃は、国土交通省において認可され、時刻表に書かれているとおりですからと、にべもない返事には、どうも納得がいかなかった。親方日の丸意識が抜けないのか、一旦決めたら、矛盾点があろうが無かろうが、そのまま一般の声などどこ吹く風と取り合わない体質は、役人気質を温存している故であろう。思うに、西日本の事故についても、無理と分かっているノルマを社員に課して、矛盾なり一般向けのサービスをはき違えて大事故を起こした会社である。無理からぬ事かという気がした。JRは1987年4月1日に民営化され、はや23年も経っている。その間にいろいろな商品、(周遊、青春18など)のアイデアはあるものの、大都市(東京、大阪など)の近郊の他私鉄路線に比べると、遙かに見劣りがする。たった30km弱の区間での差が、140円も違うと言うことは、阪急に比べて、45%も違うと言うことで、この問題は、早急に解決すべきだと感じた。又、JRと阪急を比較した場合1部例外を除いて15kmまでの間は、JRの方が安いが、16kmを越えると俄然JRの方が、距離に比例する如く高くなり、その点阪急の方は上限が押さえられたようにその伸び率は少ないものとなっている。「この度は、JRをご利用いただきまして誠にありがとうございます」との車内アナウンスも空しく響くのである。一寸奇異な感じがするが、近郊ではJR有利、少し遠くなると阪急が有利、その後、従来の私鉄との競合が無い遠距離に於いては、JRの独壇場で、我々には選択肢が無くなるわけである。鉄道は、初乗り価格に比べて、長期間のれば乗るほどその率も連動して上昇するが、これは、タクシーなどとは別の考えで、タクシーは、100kmを境にして、初乗りに対する伸び率は1定の75%になるようである。尤もそんなに長距離にタクシーを使うことなど考えられないのだが。
2010.05.01
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