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今日は朝から雨でどこにも出かけなかった。『ウナギ「完全養殖」へ前進』との記事があった。何年か前からその生態を研究し、なかなか実態の把握が出来なかったのがここに来て急速に明らかになってきたようだ。我々が食べているウナギはそのほとんどが「養殖」ウナギで、これも、ウナギの稚魚である「シラス」を捕獲して、生け簀で育てたものが殆どだという。このように人工的でない、全くの天然ウナギというものは非常に稀少で1%程度だという。ウナギは、「eel」(イール)と言うが、外国人に話すと、「え、そんなものを食べるのか」と一様に驚かれる。食文化というのは、国によって違うのはその歴史に大いに関係すると思うが、彼らにとっては、蛇を食べるくらいの感覚なのかも知れない。実際に蛇を食べる国もあるだろうが、逆に、日本人から見ると少し考えられないという感じだろうか。今では、日本でも一般的になったのかも知れないが、フランス人がカタツムリを食べるのを、ある意味では、殻を持つナメクジを食べると考えるのと似た感覚ではないだろうか。俗に中国人は、四つ足なら机以外は何でも食べると言うことを聞くが、以前「ハクビシン」を食して問題になったことがあるのを思い出す。ただ、中国や香港の裏通りなどでは、つり下げられた肉は、トカゲなどもあり、それが日常なのである。私などは、おぞましいと思うが、日本も含め、世界中で、カニバリズム(人肉嗜食)の話があるのだから、中国人ばかりを特異とすることはないのかも知れない。カニバリズムと言えば、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」の絵を思い出すが、あれほど生々しいことはないであろう。最近のオーストラリアの「シー・シェパード」という蛮行の輩がいるが、鯨を食する文化のない者達にとっては、哺乳動物で、害のない、鯨を食べるなどとは考えられないことかも知れないが、牛や羊は良くて、何故に鯨は駄目かという議論にもなる。やたらに捕獲し、絶滅まで追い込むなら許されないが、計画捕鯨で捕獲をコントロールし、均衡を図るのであれば、何ら問題はないと思われる。しかしどこにでもおかしな連中はいるわけで、「シー・シェパード」の連中にとっては、今や鯨のことなどはどうでもよく、単なる口実に過ぎないと思われるふしが見られるのは残念なことだ。話はウナギから大きく外れたが、ウナギの天然稚魚である「シラス」の漁獲量が、激減しているのだという。農水省のデータでは、50年ほど前には、捕獲量が、200トン程度だったのが、漸減し、20年ほど前からはその約1/10程度になっているのだという。これでは、夏の精力剤として食べてきたウナギの蒲焼きや、うな重などが食べられなくなるのではないかと言うことである。マグロと同じような危機的状態になると言うことだが、マグロの方は、近大で養殖を試みている。ウナギの方は、水産総合研究センターで「完全養殖」の道が開かれようとしている。たかがウナギされどウナギであり、新幹線で浜名湖脇を通るときに何気なしに生け簀で回る水車を見る事があるが、ああいったシラスウナギから育てること無しに、卵から育てることが出来るようになれば、安定的にウナギが食べられ、有り難いことである。ウナギの稚魚の回遊経路で特に成魚が南下するルートなどは、まだ完全に解明されていないらしく、グアム島近辺が産卵場所で、北赤道回流に乗って西進やがて黒潮に乗って日本に辿り着くのだという。サケの回遊も、また謎ではあるが、サケにしろ、マグロにしろ、そして今回のウナギにしろ、日本人の食材としては重要な位置を占めているわけで、これらを乱獲することは、自分で自分の首を絞めているようなわけである。地道に食の資源を守ろうとする人たちに敬意を表したい。しかし、考えてみれば、養殖はまだしも、人間でも人工授精をしたり、クローンを作ったり、iPS細胞で、身体の臓器を再生したりする技術は目を見張るものがあるが、人間がやがては神の領域を侵すことになり、神の逆鱗に触れ、大いなる災害が起こらなければ良いがと思う。人間生まれてくるのは偶然、死んでいくのは自然、あるがままに生き、あるがままのものを食し、偏食、乱食をしなければ、自然との調和を保つことは可能なのであろうが、それが出来ないのは何故だろうか。その答えは、それが人間だからであろう。いわば、知恵と、技術を持って食物連鎖の頂点に立つ人間こそが、バランスを考えないといけないのだが、昨今の地球温暖化でのCO2排出についても、人間故に解決できず、それ故に滅びていく道を選んでしまうのではないだろうか、とふと考えてしまう。
2010.01.31
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第二章である。(少し長い)本文は以下のごとし、第二章一、おのおの十余ケ国のさかひをこえて、身命(しんみよう)をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御(おん)こゝろざし、ひとへに往生極楽(おうじょうごくらく)のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知(ぞんち)し、また法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくゝおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゝしき学生(がくしよう)たち、おほく座(おわ)せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要(よう)よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおぼせをかふむりて信ずるほかに、別の子細(しさい)なきなり。念仏はまことに浄土(じょうど)にむまるるたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。惣(そう)じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずさふらふ。そのゆへは、自余(じよ)の行(ぎょう)もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、どても地獄は一定(いちじよう)すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば釈尊(しやくそん)の説教虚言(きょごん)なるべからず。仏説(ぶつせつ)まことにおはしまさば善導(ぜんどう)の御釈(おんしやく)虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば法然のおほせそらごとならんや。法然のおはせまことならば親鸞がまふすむねまたもてむなしかるべからずさふらうか。詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々(めんめん)の御はからひなりと云々。訳文は次のようである。一、それぞれのかたが、関東からはるばる十以上もの国々の境をふみこえ、命がけでここまで御来訪くださった志は、ただただ極楽往生の道を問いただそうがためである。ところが、もし、念仏のほかに別な往生の方法をも知っており、また経典のだいじな文句などをも知っているのではないかと、なにかこの親鸞を奥ゆかしい別なものとしてお考えになっておられるのでしたら、それこそ大きなまちがい。もしも、そういうこむずかしい教理でも聞きたいということであるならば、あの奈良や比叡の寺々にも、さも御立派そうな学者たちが大勢おいでになることなのだから、そういう方々になりともお会いになって、往生の要領をとくと聞かれるがよい。この親鸞にあっては、「ひとすじにただ念仏をとなえて、弥陀におたすけいただくこと」といわれた、わが師法然の言葉を言葉そのままに聞き受けて信じるだけで、そのほかに格別いいたてるような事柄ほないのである。「念仏は、わが一門がずっと言って来ているようにまちがいなく浄土に生まれるためのありがたい要因たりうるものでしょうか。それともまた逆に世の他の宗派の言いふらしているように、地獄に落ちなくてはならない行ないにすぎないのでしょうか。」そんなせんさくなど、まったく自分のあずかり知らないところなのである。それだから、かりにも万一、法然上人のお言葉にだまされて、念仏をとなえ、地獄に落ちるようなことになったとしても、なんら後悔などすることはないのである。というのは、もし、念仏いがいの修行にはげむことで仏になるほずであったものが、念仏をとなえることで地獄に落ちたというのであったら、これこそ、「法然上人の言葉にだまされてしまって」といった後悔も生まれようが、どんな修行もいっさい不可能なこの自分のこと、どっちにころんでも地獄こそが、すでにきまってしまっているわが住み場所というものなのである。弥陀の本願が真実であらせられるからには、釈尊の説かれた教えがいつわりであるはずはない。仏としての釈尊の教え説かれた経典が真実なものであらせられるからには、それにもとづいた善導の経典注釈がまちがったことを述べているはずもない。善導のその注釈がほんとうであるからには、どうして法然のおっしゃったことばがいつわりごとになりえようか。法然のおっしゃったことがほんとうであるからには、ただいまこの親鸞が申すことも、これまた、決してむだであるはずはありますまい。要するに、この親鸞の心に信じるところでは、以上に申し述べたとおりなのである。だから、これからあとは、念仏を自分のものとして信じ申されようが、または捨てさられようが、それはみなさんめいめいの御決断しだいだということになる。―――このようなお言葉であった。注釈には以下のように書かれていた。1十余ケ国 関東から京都へ行くときの通り道であった、常陸・下総・武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・近江・山城など十二にわたる東海道すじの国々。2往生極楽 「極楽」は浄土と同じで、苦悩をさって、すべての楽しみを受けられる国。十万億のさまざまな仏の国を越えて、さらに西方のかなたにあるという。3法文 仏の教えを文章に書きとどめたもの。4こころにくゝ まだ何か深い考えがありそうに、東国から来た人々には見える親鸞のようす。5南都北嶺 南都は奈良の興福寺、北嶺は比叡山の延暦寺を指す。京都を基準に南北という。6ゆゝしき学生 りっばで普通でない学者。しかし、このわれわれの苦悩をどうするかにほあまり関係のないことをやっているという疎遠感を底にひめている。7よきひと 法然のこと。「よき」とは深いところで直観的に師弟が結びつくところから出てくるもので、ここには、その敬愛にみちた追慕の念が感じられる。8地獄 生前悪いことをした者が死後に落ちてさまざまな苦しみを受ける所。9業 単なる行為をいうのが本来の意味であったが、因果思想と結びついて、一つの行為はかならず善悪・苦楽のいずれかの結果をもたらすという、行為とその将来の結果とのつながりに重点がおかれるようになった。10法然聖人 法然は号、実名は源空。長承二(1113)年から建暦二(1212)年までの人。承安五(1175)年浄土宗を開く。主著は『選択本院念仏集』。11すかされ だまされ。おだてられ。12とても とてもかくても(とありてもかくありても)の略。どっちにしても。13一定 一方にきまった。決定的な。14釈尊 釈迦牟尼世尊の略。仏教の開祖。釈尊は教えを文章としては一字も書き残さなかったが、亡くなるとすぐ、迦葉(かしょう)を中心とする阿難(あなん)・憂波離(うばり)などの弟子にょり、経・律としてその教えがまとめられ制定された。15善導の御釈 善導(613-681)は唐代の高僧で、中国浄土教の大成者。「釈」とは、仏説である経、菩薩の著述である論につぐ、高僧の著述という意味で、ここでは『観無量寿仏経疏』(四巻)を指す。この著が日本浄土教を生むはたらきをしている。16愚身 謙遜の自称。逐次訳は別として、要は、みんなが、天国へ行くための方法を聞きに来るのだが、念仏より他に何か方法があるのだろうと思っているのならそれは大きな間違いで、そんなことがあるなら、奈良の興福寺や京都の延暦寺に偉い坊さんに聞いたらいい。とにかく念仏を唱えなさい、其れ以外にはありません。そしてそれが唯一の道であり、よしんば私の法然師匠が間違っていたら、それは弥陀のみが知ることで、それ以上言いようがない。あの釈尊が説かれた「弥陀の本願」に誤りはないのだから、それを説く経典が間違っているはずもない。従って、それを基にした善導の解釈も嘘ではなく、従って法然の教えも又間違っては居ない。したがって、この私(親鸞)の言うことが間違っていないのです。と言う具合に三段、四段論法で正しさを証明しているのだが、念仏することがよいか悪いかはみんなで判断して下さいと言っている。寺からまた「如是」が送られてきた。冒頭、真宗大谷派改革の推進者、訓覇信雄師の話が載せてあった。晩年に、「もう長くない人生、自己とはなんぞやと言う人生の根本問題を探る道を歩んでいきたい。同和問題や靖国問題に関わっている暇はない」と言って物議を醸したそうだ。寺は批判的な論調であったが、所詮は坊主、自らの煩悩を払えず悟り得ていないということを告白しているわけで、正直と言えば正直だが、これが無常というものかと思う。
2010.01.30
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「トヨタ 大規模リコール…中古車店で販売中止も 米国」これは大変だ!と思った。これはひょっとして大問題になるかも知れないと思った。当然のように株価も下がっている。これが親方日の丸の日航のような体質だと完全にダウンは間違いないだろう。しかしここでトヨタが折れてしまったら、一体日本はどうなるのだろうか。おそらくは日航どころの騒ぎではないだろう。私が海外で先ず感じることは、大方の車がトヨタを初めとした日本車であると言うことだ。もっとも出かけた国が自動車産業がない国ばかりで、輸入車に頼っている国ばかりであるからだが、とにかく走っている車の殆どが日本車なのである。フィリピンの田舎道で見かけたピックアップも「TOYOTA」または「DATSUN」という大きなロゴを後部に書いた車だった。アフリカの高速道路を走る車も、トヨタ、日産、マツダが圧倒的に多い。サウジアラビアでは、もっぱらトヨタの「カムリ」が多かった。その頃日本では「カムリ」は人気のない車と言うことを聞いていたが、とにかく走っているタクシーはすべて「カムリ」だったように記憶しているほどだ。サウジアラビアは、アメリカと必ずしも良い関係にはないけれど、アメリカのシボレーが走っていないわけではない。現に、私の運転手をしてくれた大学生も、日本では聞かない「クレシーダ」と言う日本車に乗っていた。それも何年製かと言うくらいに古い車で、殆ど故障しないので信頼して使っているのだと言った。その車も事故にはかなわず、弟が運転中に事故で大破させたと言うことで新車に買い換えたが、今度はシボレーだった。その時も日本車にしたかったが、新車はイニシャルコストが一寸高すぎると言うことで小型のシボレー「オプトラ」を買ったと言うことだった。その「オプトラ」もこの間、1日で年間降水量超すというサウジを襲った大洪水に見舞われ、106人が死亡したと伝えられたが、その時半水没した車の写真を送ってきてくれた。ドバイの街にはさすがに世界の大富豪と言われる連中が多いだけに、日本車以外にもメルセデスやBMWも多く走っていたが、トヨタの「レクサス」や日産の「ムラノ」がそれらに呉して超高級車として走っていた。もちろん私が使っていたレンタカー会社の車も日産製だった。我々が海外で仕事をするときに、一番目立つのは車ではないだろうか。それぞれの商売の分野で仕事はしていても、それを一般の人が知ることはそうそう機会があるものではない。最近は、鉄道の大プロジェクトが、中国、アメリカ、ヴェトナム等で動き出しているが、これとて、工事中などで、どこの会社がとかどこの国が携わっているかを知ることは出来ても、それを利用する一般の人が利用するときには日本製だ等と感じながら乗る事はないだろう。ところが、自動車の場合は、もろにそれが分かると同時に、そのシェアさえも、歴然とするのである。100台の車に出会って、半分以上が日本製だとさすがに、自分のことのように嬉しい気がする。良くドライバーに聞くのだが、日本製が何故良いのかは一重に性能と安全性だという、壊れないし、性能に対する信頼性が高いというのだ。勿論燃費がよいとかが続くのだが、先ずこの信頼性が一番に挙げられ、イニシャルコストは少し高くても、長い目で見れば有利なのだという。日本のように、車検ごとに車を買い換えると言うことがないので、永年持つことが何よりも優先するらしい。そんなとき、韓国の車等は評判があまり良くなく、安いがすぐ故障するというのだ。開発途上国や、新興国で、我々が働くときに、日本人であることに誇らしさを感じさせてくれるのは、こういった、自動車産業の浸透が挙げられ、しかもその評判が良いことを聞くときだ。自分は大したことをしていなくても、「ジャパニーズ」とか、「おー、ヤバニー」と尊敬の目で迎えてくれるわけだ。そんな中、日本の先兵トヨタがアメリカで大量のリコール車を出したと言うのだ。トヨタは4年前には昨年頃から稼働を目論見んだ、北米に第8工場と第9工場建設を大々的に報じていた。ところが今回のリコールでトヨタが世界で販売した台数にほぼ匹敵する700万台がリコールの対象である。問題が、アクセル関係の不具合で、アクセルの付け根のフリクションバーが不具合で、引っかかりが起きアクセルが戻らなくなるものと、同じくアクセルペダルがフロアマットに引っ掛かって戻らないのとの2ケースがあるらしい。さすがに、マットに引っ掛かるなどは基本中の基本のようにも思え、何故このようなことが起こったのか不思議である。フリクションバーについては、おそらく何処かの外注先での製作であろうから、設計段階でミスが生じたものであると思われる。天下のトヨタともあろうところがと言う感は否めないが、何十種類の車種、かつて、億を超す台数を生産してきた中で、何故このようなことが起こったのかに興味が湧く。昨今のハイブリッドカーやエコカーと言った先進技術を云々する以前の問題である。それとも、新規車種に注力するあまり、過去の実績で問題なくやれてこれた部品についての検証がおろそかになったのかのいずれかであろう。既存の車は、勿論常にコストダウンを強いられ、私が最初に車に乗り始めたときの車体鋼板の厚さは、実に厚く、丈夫であったし、バンパーなども鋼製であったのに、現在は、プラスチックなどを使い、出来るだけ軽くして、燃費や速度を上げることに血眼になってきたのである。よもや、技術屋が、手を抜いた結果ではないとは思うが、生じた結果はそういうことになっているわけで、上手の手から水が漏れたと言うことかも知れない。トヨタへの不信感は、ただ単にトヨタ自身の信用失墜に留まらず、同業他社への影響は勿論、日本製という名の信頼感を著しく傷つける結果とならないか、大変心配である。3年前には、日本企業初となる営業利益2兆円超す企業となり、同じく生産台数でもGMを抜き2007年の年産計画で942万台となるとの記事が踊ったばかりである。リーマンショックの影響がここまで来ているのかというのは、とても技術者の弁明としては聞き捨てられない。 問題は中国でも発生しているようである。中国の品質を云々する立場から、中国人にトヨタは等と後ろ指を指されるのは大変不名誉なことだ。どこまで波及するか分からないが、2009年の販売台数約700万台で、アメリカでのリコール対象が、全米販売台数約200万台の内の半分を占めるという。ジャパン・アズ・ナンバーワンが消えてしまわないように、政治でのプレゼンスが期待できない今、経済と技術で世界に席を譲って貰いたくないものだ。
2010.01.29
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今日は、特に何とはなく一日を過ごした。机の上のほこりを払ったのは久しぶりのような気がする。何を書こうかと思っているうちに時間だけが過ぎたという感じだ。たまたま、テレビのNHKで「迷宮美術館」なる放送をしていた。通常はBSハイビジョンでの放送らしいが、再放送と言うことで、昼間放送されていたものだ。今回は、理想郷を追い求める画家と言うことで、クロード・ロランの世界を紹介していた。彼は、1600年頃生まれと言うから、バロック時代に生きた画家である。フランス人で、ロレーヌ地方の出身と言うから、奇しくも、この間読んだ本の「物語ストラスブールの歴史」で紹介された隣の地方で、フランスとドイツの国境近辺の、今はルクセンブルグやベルギーに近い地方である。どちらも、古代ローマ人が、北東辺境地として征服した、ゲルマン民族との接触点に当たる地方である。いずれにしても、帝政・共和制ローマ時代を通じて、ローマ人にとって、この辺りは、既に蛮族の住む世界だったところである。もっとも、それは、クロード・ロランが生まれるずっと以前ではあったが、ロレーヌ生まれ故にロランという名となったという。クロード・ロランもご他聞に漏れず当時の芸術家が集うイタリアでその生涯の大半を過ごしたという。我々が西洋美術の講座を受けている中には出てこなかったように思う。彼はニコラ・プッサンと同時代に活躍したとあるが、同時代にはあのフェルメールもいる。クロード・ロランが描き続けたのは、この世の理想郷で、代表作には、「海港 シバの女王の船出」が取り上げられていた。これらに刺激されて、当時のヨーロッパでは理想郷ブームが起こったと言われている。トーマス・モアの理想郷や、エル・ドラードなどにも関係していたのかも知れない。17世紀までは、まだ風景画が芸術として認められたジャンルではなく、もっぱら、神話や、聖書、さらにはパトロンの肖像画を如何に素晴らしく描くかと言うことが主題であった。先日の「The パプスブルグ」展をみても、風景画は、数点しか無く、まだその位置づけも確固たるものではなかったようだ。プッサンと交友があり、一緒に旅をしたこともあるようで、歴史を背景にした風景画として、その作風を作り上げていったようである。代表作の「海港 シバの女王の船出」では伝説の女王シバが、港から船出しようとするところを描いており、この作品は、近景、中景、遠景を描き分け、巧みな遠近法を用い、その消失点に輝く太陽を配置するといった技法が用いられている。その太陽は、燦然と輝きを放ち、かつてはそのような表現が見られなかったほどの筆致である。この作品で、彼は、現世から旅立ち光り輝く理想郷へと向かうことを暗示しているかのようで、プッサンに見られるように、人物の背景としての風景画ではなく、逆に風景を主体とした中に人物を添えて描いているという作品である。これらの風景画は、やがてターナーやそして又コローへと受け継がれていくのである。光の描写を取り入れた点は、従来のフレスコ画にない新鮮さで受け止められたことであろう。カラヴァッジョの光の取り入れ方や、フェルメールへの影響もあったのではないだろうか。そしてやがては、モネの「日の出」に代表される印象画へと移行するのである。今までポイント、ポイントでの絵画鑑賞をしてきたし、それぞれが、素晴らしいとは感じるものの、一連の西洋絵画史をベースに鑑賞するとき、今まで知らなかった絵画の流れが整理されていき、頭の中が、ある程度ソートされていくのが面白い。クロード・ロランは同じような構図の絵を何枚も描いている、いずれも建物に囲まれた港に船が出入りするといった海景画が多く、その向こうには輝く太陽があるという具合だ。しかしプッサンとの旅行を通じてか、田舎での牧歌的風景をも描いている。当時の理想郷とは、光り輝けるものであると言うことと、一方では、素朴な田園風景を指すのか、とにかく、人気の高い画家であったようだ。理想郷と言えば、日本人でも理想郷を求め続けた巨匠がいる。池大雅である。私はこの名前をわずかに聞いたことがあるが、特に有名な池大雅の作品に、国宝でもある「十便十宜図」(じゅうべんじゅうぎず)の「釣便」がある。この「十便十宜図」は清の李漁が、山麓の草蘆に住み、門をとじて閑居したところ、訪問した客が「静は静であろうが、不便なことが多いであろう」といったのに対して、便と宜とそれぞれ十則の詩をつくってこたえたというものであり、この話に基づいて池大雅が「十便図」、与謝蕪村が「十宜図」を描き、合作したものが「十便十宜図」だという。池大雅の十便とは耕便(こうべん)、汲便(きゅうべん)、浣濯便(かんたくべん)、潅園便(かんえんべん)、釣便(ちょうべん)、吟便(ぎんべん)、課農便(かのうべん)、樵便(しょうべん) 、防夜便(ぼうやべん)、眺便(ちょうべん) と各々素朴な南画を言うのだそうだ。池大雅は、初めは水墨画の模倣的技法だったが、西欧の絵画を見て、開眼し、水墨画に遠近法を取り入れるなど新しいジャンルを開いた。そしてひたすら理想郷を追い求めたのだが、理想郷は畢竟、深山幽谷の手の届かぬ所にあるのではなく、この「十便図」に示したように、日常の何気ないことにあると悟ったのである。最後の、「眺便図」は、老人がただぼんやりと山を眺めると言うだけの図である。そんな中にも、理想が存在するのだと絵画をもって示したものである。また国宝である「釣便図」は親しき友と酒を酌み交わすとき、肴を得ようと窓外の河に糸を垂れると言ったのんびりした風流さである。これら「十便図」は、我らが高校時代の大先輩である川端康成が、家を買わずに手に入れよく眺めたという話であり、川端記念館にあるとのことらしいが、何故か一般公開はして居ないとのことだ。見せて欲しいと思った。
2010.01.28
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「毎度お騒がせをしております。小沢一郎でございます」。つい最近、何処かの会合で人を食ったような小沢一郎自身の挨拶の第一声である。正に日本国中を騒がせているから至言と言えば至言で、どうにも言いようがない。また、彼は「不徳の致すところで・・・」という言葉を使った。「徳でない」と言うことであると認めているわけである。「不徳」を広辞苑で引くと1.特にそむくこと。不道徳。2.徳のたりないこと。徳を備えぬこと。とあり、大辞泉では、1. 身に徳の備わっていないこと。2. 人の行うべき道に反すること。また、そのさま。不道徳。とある。そして、「不徳の致すところ」とは、自分の不徳のため引き起こしたこと。失敗や不都合のあったとき、謝罪の意味で使う。とあるのだが、この人の場合は一切そのような風情も、いやそんな謝罪の気持ちなど無いのである。ただ、こういった騒ぎを起こすとき誰もが常套句のように使っているから使ったまでのことであろう。何となく悪いと思っているけれど悪くなんか無いよと言うのが本音のようである。ところが、新聞を見たり、テレビで報道されたり、インターネットで見る度に段々と色が黒くなってきているようなのである。では「徳」とは一体何なのだろうか。これも広辞苑で引いてみると、【徳】1.(1)心に養い身に得たところ。人道をさとって行為にあらわすこと。道徳。善道。 (2)正義が行為にあらわれること。2.道徳的に善い行為をするような生活の習慣。3.生来有する性質。天性。品性。4.人を感化し、また敬服させる力。名望。徳化。5.恩恵を施すこと。また、それを受けること。めくみ。おかげ。6.幸福・財産を有すること。冨。富裕。7.利益。得分。もうけ。と長ったらしい。この意味から言うと、彼が「不徳」と言うのは殆ど当たっていないのである。当然そんなことまで考えて使っているわけではないだろうが、この意味で彼を逐次的に見ていくと、1.(1)心に養い身に得たところ。人道をさとって行為にあらわすこと。道徳。善道。では、人道、道徳、善道とあるが、そのどれもが、少しずつずれているような感じである。1.(2)正義が行為にあらわれること。これなどは全く逆な気がする。2.道徳的に善い行為をするような生活の習慣。この人には、良い行為とはどういったことなのか理解しているのだろうか疑問である。3.生来有する性質。天性。品性。これは広辞苑の間違いであろう。下品も品だから、この説明では誰でもが徳を持っていると言うことになる。4.人を感化し、また敬服させる力。名望。徳化。確かに感化しているが、敬服させているかと言えば半々で、むしろ、驚服であり、名望は迷望、徳化は得化の間違いだろう。5.恩恵を施すこと。また、それを受けること。めぐみ。おかげ。これは完全に一致している、「あなたはこの意味で不徳の致すところではありません」6.幸福・財産を有すること。富。富裕。これも5.同様です。7.利益。得分。もうけ。これも5.同様です。これらから見ると、彼の場合は、大きく7つのカテゴリーの中で、3つまでは「徳」を有していることになり、決して軽々しく「不徳の致すところ」という言葉は使えないのである。ここで問題にされるのは、法治国家に於ける法への抵触の是非であろう。違法とされる企業献金が西松建設からあった。それを強制したのは公設秘書の大久保隆規被告であり、その走狗となったのが、石川知裕議員であり、池田光智元秘書の各容疑者たちである。小沢一郎の言い分の中に、「このような記載ミスは誰でもやっていて、訂正で済んでいるのに何故自分だけが」というのがある。ここまで言える不遜さを、一体誰が作ってきたのか、14回も当選させた岩手の人たちの責は大きい。北海道も然り、鈴木宗男は、北海道ではヒーローであり、彼の言では「検察が絶対正しいわけではない」と言う。我々も検察の横暴による誤認逮捕や、司法の誤審を数多く見てきている。それ故に慎重に事を進めているわけであるが、問題は、一般の犯罪のように「疑わしきは罰せず」を、国政に参与する人にも当てはめて良いのだろうかと言うことである。予断ではあるが、テロリストの元締めと言われる「オサマ・ビン・ラディン」は絶対的巨悪の元かというとそうでもなく、サウジアラビアなどでは英雄なのである。説明責任を果たしていて、潔白だというのは本人だけで、世の人の殆どは彼のどきどき恫喝的な説明に納得していないし、きな臭さを感じている。と言うか、もう火の手は上がっていると言っても過言ではない。これを擁護するのは、「驚服し、迷望する」同士であるという、現在の鳩山総理大臣なのである。その気持ちは分からないでもない、自分も「知らなかったから許して」と、母親の子供手当を受けて、野党時代の大見得を反故にする男なのである。彼も大きな意味での小沢一郎の走狗であるとしか思えない。知らなかったから許される法はこの世にはなく、知らない方が悪いことになっているのである。国民が政権交代を願ったのは、あまりに汚れた自民党の腐れ縁を断ち切りたいがためであり、自民党の2番煎じを望むものではない。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と言う狂歌も、この場合は、白河が差ほど清いものではなかったことや、もとの濁りの田沼を恋しいとは思わないのが、つらいところである。この寛政の改革の松平定信も幕府の重臣に金品を送りつけ、田沼意次の失脚を図ったという。贈収賄は江戸時代から(いやもっと昔からであるが)改革を謳う裏に潜む日本での重大な社会問題であったわけで、甘い言葉で、善政を歌う裏には、やはり、汚職があると言うことは、歴史が物語っているというわけだ。「百の情況証拠があっても、一の確証がなければ」と言う具合に、検察も慎重になり、「十人の罪人を逸するも、一人の無享(むこ)を罰するのは、法の恥」とでも言うのか、見ていていらだちを感じる。権力を握ると言うことは、「邪」を「正」にする力も時にはあるのが歴史である。汚れた沼に住んでいた自民党から「自浄努力を!」と叫ぶのを聞くのも業腹である。小沢一郎は、自著の「日本改造計画」で「一億二千万人の目で政治資金を監視」という事を書き、「政治資金の出入りを一円まで公開、透明にし・・・」などと書いているが、本当に自分が書いた物なのか疑いたくなる。今回の件でも領収書を記者団にかざすだけで、そのコピーも出せないというのでは、公開、透明と言うには当たらないと思うのだが・・・。小沢氏も総理もこの際お引きいただいて、他の民主党の人たちにバトンを継がれたら良かろうと思う。それで潰れるような日本であれば、やむを得ないとしか言いようがない。「論語」里仁には、「徳不孤・・」(徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が必ず現れる。)と言うことか、でも、チルドレンの皆さん、同じく「論語」憲問には、「有徳者必有言、有言者不必有徳」(徳ある人はきっと良い言葉があるが、良い言葉のある人に徳があるとは限らない)とも言っている。折角国民が目覚めた政界浄化の道を元の木阿弥に戻すようなことだけはして欲しくないものだと思う。
2010.01.27
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急に思い立って、映画「ヴィクトリア女王」(世紀の愛)を観に行った。連れ合いは、前から見たいと思っていたらしい。映画は梅田スカイシネマで、この間の「赤と黒」を上映した、つい上階の映画館であった。こんな近くに、少しマニアックな映画を上映する映画館が2館もあるとは一寸した驚きである。「ヴィクトリア女王」は言わずと知れた、英国の近代の賢帝である。イギリスの王朝の歴史は、神聖ローマ帝国時代に遡るわけだが、王室というものがいかにして出現したかは、ずっとずっと昔に帰らなければ知ることは出来ない。そういったことは既成の事実として、近代に於ける基礎を築いたと言っても良いヴィクトリア女王のそれもラブロマンス的な話である。歴史的なことを知ろうとするには、あまりにそれらが脇役に回っていることに、消化不良を起こすかも知れない。映画の中で、ザクセン・コブルク家と言う名前が出てくるが、元々英国王室は、大陸の神聖ローマ帝国に根ざしているわけで、その時代の最大版図を持つ貴族がザクセン・コブルク家と言うわけである。「平家にあらずんば人にあらず」といった感じであろうか、そこら中にザクセン・コブルク家の貴族が分散していたのである。16世紀ローマン・カトリックの支配下から完全独立を意図し、プロテスタントを確立した時代の、イギリス、テューダー朝のヘンリー8世のように、王権が絶対的であり、「予が憲法である」といった絶対王制である、所謂封建時代は過ぎていた。ナポレオンなども「朕が国家なり」と言ったし、後白河法皇などもこれに近い表現をしている。野球の二出川が「俺がルールブックだ」等と言った可愛い問題もあるが、共に、かつては王や皇帝なるものは、絶対的な権力を持っていた。そういった時代を経て、ヴィクトリア女王が即位したのは、ハノーヴァー家最後の19世紀も半ばになろうとする1937年である。イギリスの王室は、日本の皇室とは違っている。日本の場合、宮崎県の高千穂峰に天孫降臨して以来万世一系の天皇がこれを統治していたわけだが、どこでどう転んだかは知らないが、その昔は随分無体なことをしていた神様もあるらしいし、南北朝で、どちらが正当かを争った形跡はあるのだが、イギリスの場合は、血が途絶えると、他家が実権を握るなど、脈々と続いてきているわけで、ヨーロッパ中が、果てしなく姻戚関係である。19世紀のイギリスは、大英帝国と呼ばれ、ほぼ地球の4分の1を支配して、「日の沈むことのない帝国」といわれていた。そんな頃、ヴィクトリア女王はハノーヴァー家の第3代国王ジョージ3世の4男であるケント公エドワードを父としてが生まれた。その父はヴィクトリアが生まれて1年も経たぬ間に、肺炎をこじらせてあっけなく早世し、続いて祖父のジョージ3世も精神錯乱で死亡するという混乱の中に生まれたわけだ。次の国王である伯父ジョージ4世はヴィクトリアが10歳のとき、子供を残さずに死去し、弟ウィリアム4世が王位を継承した。ウィリアム4世にもまた、子がなく、ヴィクトリアは推定王位継承者となるわけである。そのころから、ヴィクトリアを毒殺しようとする計画があるとの噂がある中、母は、つねにヴィクトリアにボディガードをつけ、ヴィクトリアが1人で外出することなどを決して許そうとしなかった。ヴィクトリア女王の母もまたヴィクトリアと言い、英国での名前は、性格に述べないと極めてややこしいのであるが、この母を利用して、愛人である伯爵が、ヴィクトリア女王を支配下に置こうと、摂政令にサインを迫る。15歳までの皇位継承者は、幼いと言うことで摂政を置くことが出来るという規定を利用して国政を牛耳ろうとの企みであるが、ヴィクトリアはこれに応じようとはしない。もしこの時点で、この摂政令にサインをしていったならば、英国の運命は大きく変わっていただろうと思われる。世にいう歴史のターニングポイントである。伯父のウィリアム4世はその企みを知ってか、母親の奢侈を嫌ってかヴィクトリアの母を毛嫌いする。元々母がドイツのザクセン・コブルク公の娘であり、ドイツ系の出身であることを快く思わなかったのかも知れないが・・・。その、ウィリアム4世の死後、ヴィクトリアは18歳で即位し、華やかにイギリス女王の地位に就くのである。世が世であれば、お鉢が回ってくる予定ではなかった王位が巡ってきたのである。ヴィクトリア女王は即位当初から国民の熱狂的な歓迎を受けた。それまで、イギリス国王一族といえば、スキャンダラスな異性問題(今でもそうらしいが)や金づかいの荒さで知られ、国民からは完全に乖離していた中、ヴィクトリアは王たる者の義務を体得し、これを着実に実行していったのである。この事は、幼い女王が見初めた、女王と同い歳のいとこにあたる最愛の夫アルバート公との結婚で花が咲いたと言わなければならない。女王にとってはまたとない伴侶であった。映画は、この世紀の愛を通じて、当時の英国の内政の状況や宮廷の状況を垣間見せるが、そのどちらも中途半端な感じで終わっている。16世紀の絶対王政時代とは違い、立憲君主制になったイギリスでは、王の権力は、ある程度制限されていた。元々、ドイツ系のハノーヴァー家のジョージ1世は、イギリスの政治向きには興味が無く、この間にイギリスの政治体制は立憲君主制を敷き、女王は「君臨すれども統治せず」という立場を取った。イギリスでは、この時から、ホイッグ党とトーリー党という2大政党が立つことになり、今の労働党と保守党に繋がる礎であった。「七つの海を支配する」とか「太陽の沈まぬ帝国」とかの名称で全世界を席巻視した、イギリス絶頂の期である。ヴィクトリア女王は、この時から植民地下であるインドの女王にもなっている。女王はまた、ピール首相を遠ざけるなど、個人的な趣向での振る舞いなどもあったようだが、概してその癖は緩やかで、首相メルバーン子爵や夫の助言により政治を行い、国内政治でも男子普通選挙制の実現、教育制度の整備や労働組合の承認など、自由主義改革を推進することにも尽力している。42歳の時に、同じ年のいとこである夫をチフスで失ってからは、政治への関心も薄れ、一生喪服を愛着したとあるが、首相ディズレーリーの要請もあり、政界に再復帰するという一生で、81歳まで生きたという。夫との間の、9人子供達は、ドイツを中心としたヨーロッパ各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至ったようである。しかし女王自身が血友病の因子を持っており「ヨーロッパ王室の悲劇」なる本を記しているが、そのことには触れられていない。夫が政治的に介入しすぎ、自らの領分を侵したことを攻めている最中に、夫とパレード中に暴漢に狙撃され、女王をかばって凶弾に傷ついた夫に、女王の「何故私をかばったの?」と問うのだが、1つには、「僕の変わりはいるけれど、君に変わる人がいない」と言うことと、もう1つは「君がただ一人の妻だから・・・息を引き取るまで君を守る」と言った。かくも気障っぽく傷ついた身で、言えるところが、映画かなぁと思った。
2010.01.26
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連れ合いたちが永年飼ってきた愛犬が亡くなった。20歳を目前の大往生である。犬の年齢の話になると何時も、人間だったらと比較されるが、それはそもそも人間中心の不遜な考えであると言うことを何かの本で読んだことがある。それはそれとして、犬の一生について論じるときに逆に人間の歳に換算すればという事との方が分かりやすいことも事実だ。愛犬は今年の4月で丁度20歳になるはずだったというから、小・中型犬の計算法では、人間で言うと、96歳になると言う。白寿に今一歩の、正に大往生と言う事になる。「ゾウの時間・ネズミの時間」という本では時間は体重の1/4乗に比例するとあるが、それにはあてはまらないようだ。また、IT用語で、「ドッグイヤー」という言葉があるが、文字通り、ドッグイヤーとは「犬の年」であり、IT業界は技術革新などの変化が早いことを意味する例えとして使われ、この場合の犬の1年間は人間の7年分の出来事に相当するとしている。この計算で行くと、140歳目前と言うことになるが、とてもそれほどには生きられない。よく使われる換算表では、犬は1歳になるまでは幾何級数的に成長し、犬の1歳は人間で言えば17歳と子犬期を脱する頃であり、それからも、2歳になるまでは、かなり早く成長し、2歳では人間の23歳というからもう立派な成犬である。それから先は、成長の速度は落ちてくるのだが、それでも人間に比べると約5倍程度の成長率であるようだ。私が、連れ合いの愛犬と最初に会ったのは、大阪に越してきて2日目のことだった。3年半ほど前のことになる。既にその時は人間で言うなら80歳を優に超えていたわけだが、まだ足腰はしっかりしていた。既に高齢期にさしかかっていたのだけれど、散歩に出たがるのは変わらない。連れ合いに聞くと、最初に出会った人に対しては、結構吠えたり、気に入らないと、何時までも吠えるのだそうだが、私の場合は、何故か最初からしっぽを振って近寄ってきてくれた。私も、子供の頃には犬を飼いたかったという記憶があるが、家の事情で、それは出来なく、ひよこや、リスなどを飼ってその代替としたことを覚えている。犬を飼うことはとても大変なことであり、毎日毎日の愛情ある接触が必要で、人間の都合だけで可愛がったり放っておいたりすることは当然許されない。私は性格からして、それほど犬好きではない、と言うか、細やかな愛情を持ち続けることが出来ないという事を感じ出し、犬を飼うことは諦めたのだが、その後は自然と、逆に犬があまり好きではなくなっていた。犬の方でも、そのことは分かるらしく、今まで、うち溶けてくれた犬はあまりいないし、私の方も犬が何を考えているか分からず、一寸怖いので遠ざけていた。極めつけは、アフリカ駐在時に同僚が拾ってきた犬である。拾ってきたから「バスター」という名前にしたのだそうだが、これが極めて馬鹿な犬であり、食事の「待て」が何度教えても出来ないのはおろか、裏庭のテニスコートのネットをずたずたに引き裂いてしまうような馬鹿犬だった。その時に商社の人が1頭の大型犬を飼っていたが、そこに行くのが怖かったことを思い出す。そのご夫婦は、日本にもう一頭シェパードを飼っているとかで、そのシェパードもアフリカに連れてきたものだからたまらない。犬は、上下の意識が強いらしく、犬同士の熾烈な戦いがあったようで、ついには、そのシェパードは飼い主の奥さんに噛みつくということにまでなった。従って処分されたようだが、これなどは人間の勝手な行為が招いたと言っても良いだろう。その点、連れ合いの愛犬は、まれに見る幸せな犬であろう。20年前に友人の犬に子犬が4頭生まれたとかで、その1頭を赤ちゃんの時から貰い受け、家の中で飼ってきたのだという。毎日のように待ちかまえて、家の近くに帰るともうその気配を察して、「ワン、ワン」と吠えながら走り回って喜んでいたという。その代わり家の中は、ひっかき傷などで大変だったようだが、太郎や姫も小さな頃は良く面倒を見たり、河原で走り回ったりと愛情をいっぱい注いでいたようだ。私と初めて会ったときは人間で言えば80歳の老人だったのだが、短い距離ではあったが、100mばかりを軽く走ることは厭わなかったし、とても楽しそうであった。正直、私は、犬というものはとても可愛いものだとその時初めて思ったものだ。連れ合いも、どこに出かけるときでも、面倒を見てくれる人をお願いし、日帰りなら朝晩に必ず顔を覗かせ、食事を作ってあげるという熱心さである。勿論、緊急の場合のドッグフードは置いてあるものの、愛犬も好き嫌いがあるらしく、嫌いなものは食べなくて、必ず、調理したものを食べるという育て方である。最近の人間の親子関係でも、ここまで大切にして貰っていない子供が沢山いるのを聞く度に、この犬はとても幸せだなぁと思ったものだ。連れ合いの中で、私よりはプライオリティーが高いのは間違いない。曰く、「犬は口がきけないから」と言うわけだ。と言うことは、私は必要以上に口うるさいという訳か、等と思ってしまう。私が記憶にある大事件は、1年半ほど前、のことで、この愛犬が一寸した隙に門の外へとぼとぼと歩き出たのだ。その時は人間で言えば90歳ほどのおじいさんである。あわてて、近所を探し回ったり、大体のテレトリーを見て回っても見つからない。普段の散歩コースにもどうやら気配はないのである。やむなく、市役所に電話して捜索を依頼したところ、いつものコースとは違った道で、迷い込んで、高いところから下の田んぼに落ちていたのである。幸か不幸か、稲が成育中で、田んぼにはある程度の水があり、土は軟らかかったので、落ちた際にも、たいしたダメージはなかったようだが、その代わり身体はぐっしょりと泥まみれである。近所の人に梯子を借りて田んぼに降り、助け上げて車に乗せて連れ帰った。家の風呂場で泥を落とし、そのまま犬猫病院に駆けつけたのだが、一寸衰弱していたものの、その後元気を回復した。その後も、距離は短くなったが、少しだけの散歩に付き合ったり、やがては、玄関先まで出るのがやっとになり、ここ1週間ほどは、時折連れ合いが口に持っていく水をなめるだけで、ついに何も食べなくなった。覚悟はしていたようだが、昨日の朝早く、姫から電話で、息を引き取ったという連絡が入った。与えられた愛情をそのまま素直に受け止め、亡くなるときも痛がるわけでも、苦しむわけでもなく、静かに眠るように息を引き取ったようである。愛情を貰った分、こういった形でお返しをしていったのかと、一寸うるうると来た。私も自分自身、こういった形の終末が、望ましいと思っているが、世の中はそんなに甘くはない。人間社会も、殺伐としているが、最近のテレビでの犬の扱われ方、人間のエゴだけで犬を良いときだけのペットとし、不要になれば処分するという内容を見て、慄然としたものを感じたばかりだ。人間の不遜さが、こんな所にも出ているわけで、それに比べて、連れ合いの愛犬は、おそらく人間よりも幸せで豊かな一生を終わったのではないかと思う。夕方、犬の葬儀屋が車で訪れて、線香を上げて、最後の見送りをした。連れ合いの孫も訳も分からず可愛い手を合わせていた。合掌
2010.01.25
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一昨日「The ハプスブルグ」を見た帰りに京大の時計台記念館で行われた市民フォーラムに参加した。博物館から、京阪の四条に出て、そこから京阪電車の終点、出町柳まで乗った。そこから少し南東に下ったところに京都大学時計台記念館はある。ずいぶん前に、「歩こう会」で訪れたところである。夕食には一寸中途半端な時間で、早いのだが、講演前に食事をと言うことで、記念館前の食堂で近所では有名だという、「総長カレー」を食べた。今日の講演題目は「21世紀の美術館」であり、講師は、京都大学の法学部を卒業し、東京芸術大学の美術研究課程に進まれたという、変わり種の長谷川祐子という先生であった。肩書きは、東京都現代美術館のチーフキュレーターであり、多摩美術大学の教授と言うことである。私は初めて聞くが、キュレーターというのは博物館・美術館などの、展覧会の企画・構成・運営などをつかさどる専門職であり、また、一般に、管理責任者ということらしい。美術館に在籍する学芸員とは本質的に異なると言うことであった。最近は、私と連れ合いのブームに、芸術がある。かといって、その大部分は一貫して、絵画と言うことになるわけだが、今回のテーマはその絵画を展示する美術館のあり方について先鋭的な話が聞けそうだという漠然とした気持ちからの参加であった。会場の時計台記念館内の百周年記念ホールは収容人員が500名というかなり広い講堂であるが、講演時の会場は、ほぼ90%以上の満席に近い状態であった。どこにそのような魅力があるのか分からないが、とにかく講演は始まった。講演の出だしは「3Mから3Cへ」という、一言では何のことか分からないキーワードから始まった。20世紀のキーワードを3Mとすれば、21世紀のそれは、3Cであるというのだ。そこで、3MとはMan, Machine, Materalismのことであり、3CはCollective interigence, Co-existance, Consciousnessであると言うことらしい。今までの美術館というものは、3M即ち男性主義、拝金主義、物質主義であったというわけだ。私はそういった定型で括れるようなものではないと思うのだが、とにかく講師はこれからの21世紀は、これら3Mから3Cに変わらなければならないと言うことなのだそうだ。即ち、「共生」、「集合知」、「意識」というキーワードである。2001年にイスタンブール・ビエンナーレに関係していたと言うことで、イスタンブールを例に挙げて、この街が、西洋と、東洋との中心にあって、西洋主体を東洋的共同体と融合する街とすることで、共生という概念を具体例として紹介していた。この手の講演でも、ややもすると先端であるかを誇示する人が使う造語で、「Egofugal」と言う言葉を用いていたが、意味は、今まで自我中心であったものから四方に拡散することを意図しなければならないと言うことらしい。講義は、イスラム教やキリスト教の1信教とインド、日本に見られる多神教の融合などを如何に考えていくかなどにも言及があった。講師の専門である、美術館のあり方についてでは、2種類のアプローチがあり、1.外観、フォーム(形)を重視する建築、ランドマークとして文化観光に貢献するという考え方、機能的使いやすさの追求というハード主体型の考え方のアプローチに対して、2.プログラム重視建築ということで、展示プログラムや、観客の視点からの建築、社会的状況重視の建築などの所謂ソフト志向型との違いを述べられた。近代美術館の典型例として、ニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art:略称MoMA(モマ))や我々が、元々、近代美術は対象外として行かなかった、パリのセーヌ川右岸にあるポンピドゥー・センターを挙げられていた。このポンピドゥー・センターの紹介は私の予想通りであった。外観が、ガラス張りで、外部からのアクセスが館を斜めに大きくよぎるエスカレーターで構成されている。いかにも近代的という感のする美術館であったからだ。講師は、SANNAの設計による、金沢21世紀美術館にも関係されていたようで、基本を「From 3M to 3C」と言うことで、公園のような美術館、都市は美術館であり、美術館は都市であるという思想の下、美術を記憶の保管庫としてではなく見るものとの共存する場所であり、ネットワークと新たな創造の拠点となる実験室として捉えるという斬新な試みを持ち込んだのだという。美術館の詳細なキーワードとして1.開放性、2.透明性、3.フレキシビリティー、4.啓蒙と言うことを考えることにあるという。即ち、バブルの頃は、イケイケ、ドンドンとそれこそ何も考えることなく300もの多数の箱物美術館を生産し、閑古鳥が鳴く廃墟を多く作ってきたが、これからの美術館は、そこにいて、安らぐとか、公園的発想だとか、金沢市長の発言という「割烹着で来られる」美術館であるべきだというのである。また、金沢よりは小規模ながら、私もその存在を知らなかった、瀬戸内海にあり、明治期の銅の精錬所だった、岡山市でただひとつの有人の小さな島の犬島の美術館にも関係していたと言うことである。その後も、いろいろ難しい概念を並び立てられたが、それ以上はなかなかついて行けなかった。美術館のあり方で、足下の京都美術館のお仕着せで、何ら研究がされていない存在を考えるとき、こういった先鋭的な美術館の存在は必要とは思うものの、私にとっては、ソフトである美術(特に絵画)の存在を抜きにしては考えられない。空間の美術、動くオブジェ、絵の具を撒き散らしただけの絵画、靴を沢山集めた芸術品等々は、どうも私がイメージする美術館とはやはりほど遠いものを感じるわけだ。企業がフィランソロピーの一貫として各所に独自の美術館を持っているし、これらはどれも魅力的なものが多いように思う。役人や無粋な政治家が考える美術館でなければ、そこまで先鋭的なものにする必要があるかどうかは私には分からないが、ただ、麻生政権が倒れ、漫画の殿堂が頓挫したことだけは良かったと思っている。
2010.01.24
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連れ合いの孫とほぼ1ヶ月ぶりにデートすることになった。今回のデートは、初めて、映画を観に行くということである。なにやら、前に遊びに来たときに、テレビで宣伝をした「かいじゅうたちのいるところ」という、いかにも子供が好きそうなぬいぐるみが出てくる映画が来ると言うことだったので、私が、つい「観に行くかな?」と口走ったようだ。それをよく覚えていて、親に、「何時行くの?」と急かすらしい。それではと言うこともあり、今日出かけることになった。私も、子供時代によい映画を観ると言うことは、とても印象に残ることを体験しているので、なるべく良い映画が有れば、見せてあげたいと思っていた。私自身は、今、ゴルフに時々一緒に行く姉が、昔、よく映画に連れて行ってくれたことが、今でも印象に残っているからだ。覚えている映画は、「砂漠は生きている」とか「オズの魔法使い」さらには、「ピノキオ」や「白雪姫」などである。「砂漠は生きている」では超高速度カメラを使って、砂漠に生きる花が開花するのを短時間で映し出すところや、砂上に独特の砂紋を残すガラガラヘビなどの画面をかろうじて覚えている。「オズの魔法使い」では、大竜巻に巻き上げられた少女ドロシーが夢の国オズに辿り着き、臆病者のライオン、脳のないカカシ、そして心のないティンマン(ブリキで出来た男)と共に冒険するというものである。この時の主題歌「虹の彼方へ」(オーバー・ザ・レインボー)は今聞いてもその時のことが思い出され懐かしい、と言った具合である。今回の映画は、何も下調べることなく選んだので内容はあまり知らなかったが、なにやら楽しそうなぬいぐるみが出てくる宣伝と、映画の題名に惹かれていこうかということになった。出かける直前に、連れ合いは、私が孫に見せたらどうかと思っていた、「オーシャンズ」という海洋生物がふんだんに出てくる映画も出来たら見ようかと言っていた。お父さんは風邪を引き、お母さんも体調が良くないというのもあって、孫を連れ出すことになったのだが、マンションから降りてきたときは、喜色満面で、「こんにちは!」と大きな声で、挨拶が出来るようになっている。相変わらず、「持っとく!」精神で、背中には不釣り合いなくらいの大きなバッグと、首から掛けた財布という出で立ちである。孫の魂胆は、第1に「おもちゃを買う」と言うところにある。もうすぐ5歳になるとはいえ、まだ4歳である、映画も我々と行くのは今回が初めてであり、どうやら興味の対象としては、2番手であるらしい。しかし、今回の「かいじゅうたちのいるところ」と言う映画は、モーリス・センダックの名作絵本を映画化したもので、既にその絵本は、お母さんに読んで貰って知っているというのだ。とんだお見それである。それならと、一層期待を膨らませて出かけることになった。JRのホームで電車を待っていると、一寸遅れて列車が入ってきた。ホームの乗車位置に、ハンディキャップ者用の説明が書かれているのを見て、「これは何?」と聞くので、説明をする。緑色(杖をついたおじいさん)、黄色(松葉杖の人)、青色(妊婦)、赤色(子供を抱いたお母さん)の4種類がある。その説明を聞きながら、松葉杖は一寸わかりにくいが、一応納得する。電車に乗り込むと、車両の端は、その絵が描かれた優先座席である。そこに座る。私は、絵に描いてある人がいたら、この席は譲らないといけないのだよ、そして連れ合いと孫は、その対象なのだよ、と言うと、連れ合いが私もだと、猛然と反論してくる。孫に、私はどの色になるかと聞くわけだ。孫は「緑色」を指さす。まだ杖はついていないと言うが、どうもそのカテゴリー(おじいさん)だと理解しているようだ。では連れ合いはと言うと、「緑色」は既に使ったし、それが男性と認識したのか分からないが、黄色ではないし、子供を抱いたお母さんでもないからと言うことで、「青色」だという。そんな馬鹿な、と大笑いとなる。そんなことを話すうちに、既に高槻に着く。映画は昼食時間を挟んで中途半端な時間になるので、連れ合いは、パンを買いに入った。孫は躊躇無く「カレーパン」を選ぶ。そんなにカレーパンが好きなのかなどと感心しながら、映画館で食べるべく持ち込む。さすがに子供連れが多いが、特に混んでいるわけではない。なにやら他の人たちは、黄色いボックス型の台を持ってきて子供はその上に座っている。初めて子供用台が有ることを知り早速孫をその上に乗せて、映画が始まった。先ずは、予告編だ。その中には、ディズニーのアニメ映画の予告編もあった。私はてっきりそれに近い内容、画面を想像したが、始まった映画は、通常の家庭の場面からである。マックスという主人公の少年はどうも、小学校に通う8歳前後の子供である。寂しがりやで、一人で遊ぶ空想好きの少年らしい。ティーンエイジャーの姉はボーイフレンド達を呼んで、なかなか構ってくれない。雪のある日、かまくらを作って自分の城にしていたが、姉にかまって貰いたくて、姉の友達に雪を投げて、雪合戦を挑むが、逆に自分の城を潰されてしまう。傷ついたマックスは姉の部屋を無茶苦茶にし、自分がプレゼントした工作も粉々に破ってしまう。働きに出ている母は忙しく、なかなか構ってくれない。そして、いつも何かモヤモヤしているという出だしが長く続く。私などは、いつ「かいじゅう」がと気が気ではない。と言うのも、孫には、この伏線は到底理解できないと思ったからだ。マックスは狼の着ぐるみを着るとなんだか違う自分になれた気がするのであろう、大声で駆け回る。ある時、仕事で苛立っている母親を戯けて笑わせようとする面も持ち合わせる。母親が、「もう夕食の時間だから。テーブル上を片付けて!」という声に、観ていた孫は「うちと同じ事を言ってるね」と言ったのには笑ってしまった。母親は、離婚して、働きながら姉とマックスの2人を育てていたが、新しい恋人が家に訪ねて来たとき、マックスが話しかけても上の空で、母親が、恋人を呼んで夕食の支度をしていると、マックスはオオカミの着ぐるみを着て母親に反抗する。そしてついには、テーブルの上で暴れ出すと、母親の怒りは頂点に達し、夕食抜きを宣告されることになる。マックスは取り押さえる母親の肩に噛みつき、泣きながら家を飛び出すのである。マックスは学校の授業で、太陽もいつかは消えるという話を聞いていた。家を飛び出したマックスは、追いかける母親を尻目に、森を抜け、見知らぬ浜辺にたどり着く。そして、目の前にあったヨットで海に漕ぎ出し、おそらく何昼夜かの後、不思議な島にたどり着く。マックスが島の奥に入っていくと、体の大きなかいじゅうたちを見つける。そのなかのひとりでリーダー格のキャロルは怒りにまかせて、自分たちの小屋を叩き壊していた。仲間のひとりであるKWが新しい友達を作って出て行ってしまったことに腹を立てているらしいのだが、マックスはお構いなしにかいじゅうたちの輪に入っていく。そしてキャロルを手伝って一緒に、小屋を壊し始める。突然の見知らぬ子供の出現にかいじゅうたちは驚くが、キャロルは助っ人の登場に目を細める。しかし他のかいじゅうたちは、マックスをKWの新しい友達ではないかと疑い、食べようとする。マックスは食べられないために、自分には力があり、前にいたところで20年間王様をやっていたと嘘をつく。キャロルは王様の力があれば、仲間が再びひとつになれると考える。すると王様の威力が現われたかのように、KWが現われる。KWは実は忘れ物を取りに来ただけだったが、キャロルはマックスを王様と認める。かいじゅうの王様になったマックスはかいじゅうたちに、“かいじゅうおどり”をするように命ずる。毛むくじゃらの「かいじゅう」たちは森の中を走りまわり、身体をぶつけあう。マックスも「かいじゅう」に放り投げられたり、土玉をぶつけあって大喜びするのだが、ふかふかの毛皮に抱きつき、押しつぶされ、みんなの臭いを感じながら眠る。それは空想家のマックスが描いていた理想の世界だ。映画の冒頭で、マックスは姉のボーイフレンドたちといつまでも雪合戦で遊び続けたかったのだ。そして、疲れたら母の胸に抱かれて眠りたかった。そんな願いを「かいじゅう」たちはかなえてくれたのである。やがて、かいじゅうたちの所にいても、さびしくなったマックスは王様をやめ家に帰ることになるのだ。「行かないで」と言うかいじゅうたちを振り切って、もと来た海岸から、ヨットに乗ってまた数日の後、叫び声を上げながら、帰宅するのである。帰って来た家では、母親が、何も言わずマックスを抱きしめる所で映画は終わる。この解釈は、5歳に届かぬ孫には難しすぎる。怪獣達が、良くできたぬいぐるみであり、それが、サルや、牛、鳥や羊の形をしていて、何ともファンタスティックであるから、子供はまだ見ていられるのだろうが、底流に何を言いたいかを理解するには、一寸難解すぎたと思う。最後の頃は、映画の終わりを待ちかねるという感じになるのも当然である。食事の後、次に、「オーシャン」を見ようかと言っていたのだが、先ず食事をそそくさと済ませると、おもちゃ売り場に直行、さんざん物色するが、なかなか思うようなものがない。今回は幼い弟におもちゃを買ってあげる余裕も出てきた。試しに、私もポケモンキャラクターの「ポッチャマ」が欲しいので買って頂戴というと、意外にあっさりと買うことを承諾してくれた。少しずつ成長しているのを感じる。目当てのおもちゃのお買い物が済んだとき、孫は「ねぇ、本当のことを言って良い?!」というので、「良いよ、何?」と連れ合いが聞くと、「僕、早く帰っておもちゃで遊びたいんだ」とのことだった。それが正解と、一路帰ることになったが、映画の選択が、一寸まずかったのかも知れないと反省もした。
2010.01.23
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京都国立博物館で開催されている「The ハプスブルグ」に出かけた。今日は、夕方から「京都大学未来フォーラム」を聴講するので、それに合わせて、遅い時間に家を出てた。JRで行くつもりが、いつもの癖で阪急電車に向かっていた。京都国立博物館は、七条にあり、京都駅から歩くのも良いかなと言うことを話していたばかりなのに行動はそれに伴っていないのである。まあ良くあることなので、阪急で四条河原町まで出て、四条から京阪電車で七条まで降りて歩くという回りくどい経路を取った。博物館の入口で、入場券を買おうとしたら「当日券は左の自動販売機で買って下さい!」といわれ、自動販売機にお金を入れたが、なかなか出てこない。あれこれいじっているうちにやっとお釣りだけが出てきた。待てども入場券は出てこない。隣の受付に言うと「待って下さい」と中の人に連絡しているが、これもトロトロして、思わず「早くして下さい!」という始末。その間に他の人たちは、3台ある他の2台からは順調に発券されているのである。隣の人から「何かトラブルですか?」と案じて貰うほどのスローペースであった。前売り券を買わなかったのは、当方のミスであるが、高いお金を払っている方が、なにやら待たされるというのも間尺に合わない気持ちだった。そんな気分での入館だったが、美術館に入ってからは想像以上に素晴らしいので、嫌な気分はすっかり吹っ飛んでしまった。今、私は連れ合いとNHKの美術の講座に通っているが、始めたのが17世紀の美術からであり、今回の「The ハプスブルグ」は13世紀以来、600年以上の長きにわたってヨーロッパに君臨したハプスブルク家が所蔵する、芸術品をオーストリアのウィーン美術史美術館とハンガリーのブダペスト国立西洋美術館が所蔵する中から絵画75点を含む120点を展示するというものである。展示作品には工芸や、日本から贈られた、浮世絵などの里帰りしたものもあったが、なんと言っても、お目当ては、絵画である。ハプスブルグ家の隆盛を物語るように描かれた時代は16世紀から17世紀が主で、18世紀の作品も含まれていた。徳川が250年と言うから、このハプスブルグ家が如何に強大な力を有していたかがわかろうというものだ。そのハプスブルグ家が力を入れて収集した芸術品であるから素晴らしい。ローマ帝国が東西に別れ東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれ、我々が別途学んでいるアラブ諸国と、十字軍などで、関わっていくのだが、一方の西ローマ帝国が滅び、過去の夢よもう一度と起こったのが、今のドイツを中心とする神聖ローマ帝国である。この神聖ローマ帝国で、実質的に権力を持ったのがこのハプスブルグ家で、その覇権はスペインにまでにも及ぶ。従ってこの展覧会はイタリア、スペイン、ドイツ、オランダの現代の国家別の展示室ごとに配置されていた。中にはハプスブルグ家の所有ではなかった、各国所蔵の作品も併せて展示されていた。入口を入ってすぐに明治天皇寄贈の浮世絵展示室があったが、そこは素通りである。イタリア絵画が最初の3室を占めていた。さすがに、芸術の故郷とも言うべき、イタリアだと、これはNHK講座の受け売り的に感じた。16世紀は、講座としては受けていないが、17世紀辺りまでは、神話、聖書を絵画化して信仰をかき立てていたが、このハプスブルグ家の作品には、もっぱら肖像画が多くを占め、宮廷画家といわれるお抱えの画家達は、パトロンの肖像を如何に威厳を持って豪華に描くかに力点が置かれているようであった。この宮廷画家の中には、ハプスブルク家ゆかりの巨匠である、デューラーやティツィアーノ、ベラスケス、ルーベンスらがおり、これらの画家と共に、クラナッハ、ラファエッロ、エル・グレコ、ゴヤ等の画家の手になる作品も見られた。イタリアのコーナーでは、新聞記事の「美術逍遙」で紹介されていた、ルーカス・クラナッハ(父)による、「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」もあった、猟奇的なこの種の絵画は他にも、ヨーハン・リスやヴェロネーゼが描いた「ホロフェルネスの首を持つユディット」があったが、どちらのユディットもあの、クリムトが描いた顔とは違っていた。「死」と「官能」が同居するカテゴリーであったというのが不思議なくら平然と飾られていた。さらに、NHK講座とのつなぎの作家となる、ラファエロの一寸左に目をやる「若い男の肖像」が最初に目に飛び込んだ。さらに、ティツィアーノも我々が学んだ画家で、その「聖母子と聖パウロ」も、「聖母の聖天」の作風を思わせるものであった。神話的様相のジョルジョーネの「矢を持った少年」なども、イタリア室にあった。ドイツ室では、先ほどのクラナッハに並んで、デューラーの作品があったが、私が知っている、あの画面いっぱいの「自画像」ではなく、「若いヴェネツィア女性の肖像」等3点であった。オランダ・フランドル室では、ヤン・ブリューゲル(父)の「森の風景」やルーベンスの「悔悛するマグダラのマリアと姉マルタ」等が目を引いた。ブリューゲルの「森の風景」などは肖像画全盛のこの時期にあって、森を神秘のを対象として自然を描いており、自然を描いた作品としての珍しさもあり良い絵だと思った。ルーベンス「悔悛するマグダラのマリアと姉マルタ」は聖書の世界である、マグダラのマリアが在野での懺悔をするというところを姉とされているもう一人のマリアが涼やかに見つめているという作品で、これなどは、聖書を読まないと背景は理解できない作品であろう。スペイン室では、なんと言っても、巨匠ベラスケスであろう。ディエゴ・ベラスケスの「白衣の王女マルガリータ・テレサ」と「皇太子フェリペ・プロスペロ」という似たような、幼児の肖像画が並んで展示されていた。一方の王女マルガリータの方は、幼くして既に貴族であるという当時の様子が垣間見られる一寸高慢ちきな感覚であるのに対し、皇太子フェリペの方は、虚弱で、か細い感じが良く表現されていて、説明にこの王子は肖像画完成後2年で逝去したこともうなずける感じであった。そのほかにも、18世紀にかけて活躍したムリーリョやエル・グレコらのスペインを代表する画家の名作もまた、素晴らしかった。しかしなんと言っても、この時代で素晴らしいのは、肖像画である。中でも、連れ合い共々感動した作品に、フランツ・クサファー・ヴィンターハルターの「オーストリア皇妃エリザベート」を挙げなければいけない。作品は壁面いっぱいの大きな絵画であるが、その顔たるや絵の何パーセントを占めているかというほど小さなものである。 しかるに、この皇妃エリザベートの気品はどこから来るのであろうか。説明書きに、「見合いをする姉と同行して行ったが、相手はこの妹のエリザベートに気持ちが奪われ・・・」とあった。それもうなずけるが、姉の悔しさはいかばかりであったろうかと思ってしまう。さらに、目を引くのが、かの有名な、断頭台の露と消えた、マリー・アントワネットの母である、若き日の「11歳の女帝マリア・テレジア 」である。画家のアンドレアス・メラーの名はあまり聞いたことがないし、私などは、マリア・テレジアといえば、泰然としたオーストリアの母后という絵しか見ていなかったので、その若き日の清純そうなこの絵は、清涼感が有りよかった。また、フランツ・シュロッツベルクによる「オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世」はその威厳もさることながら、絵画的にも、身に纏った、外套の立体感と質感、さらには、その上から掛けた装飾の首飾りなどの立体感は、あたかも絵画の上に本物の首飾りを貼り付けた如く立体感を与えていて、当時の肖像画の力の入れようというか、完成度に驚きの気持ちであった。連れ合いも、これにはビックリしたようで、横に回って、「やっぱり描いたものだわ」と言ったほどである。バルトロメ・エステバン・ムリーリョの「悪魔を奈落に突き落とす大天使ミカエル」はムリーリョの作品としては初めて見るものであった。大天使ミカエルと言えば、「受胎告知」であるが、この展覧会にも2つの受胎告知があった。1つはエル・グレコの「受胎告知」であり、もう1つは、ベルナルド・スロッティの「受胎告知」である。我々は、ウフィツィ美術館のレオナルドダヴィンチによる「受胎告知」など様々な「受胎告知」を見てきたが、連れ合いは、ベルナルド・スロッティの「受胎告知」が良いと感じていたようである。その他挙げればきりがないが、私は、風景を描いた、ベルナルド・ベロットの「フィレンツェのシニョーリア広場」を懐かしく見た。正にイタリアに行ったときに通った広場だったからである。また、遠近法的にも、素晴らしく描かれており、18世紀半ばの状態が今もそこにあるという点でも、素晴らしさを感じた。日本では真似の出来ないことであると感じた。もう一つの風景画であるサロモン・ヴァン・ライスダールの「渡し舟のある河の風景」は、帰って調べてみると、この人は、NHKで学んだ17世紀オランダの風景画家で、ヤーコブ・ファン・ロイスダールの伯父とのことである。同じような幻想的な筆致は、やはり血のつながりかと思いながら、その細やかな風景描写にオランダを垣間見るようであった。博物館を出て、夕方からの京大講座に出かけたのだが、その内容は別の日に譲ることにして、ひとまず、「The ハプスブルグ」に酔うことにする。
2010.01.22
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人は誰でも運命を知りたがる。というのか、運勢がどうなのだろうかと気になるわけである。しかしながら、それを頭から信じて、その通り行動したり、生活規範を拘束するなどと言うことはあまり聞いたことがない。男性と女性では、心持ち女性が、運勢はどうか等と気にする向きが多いように思う。私なども今年の運勢はということで、毎年初詣に行くとおみくじを引くのだが、「大吉」と言われて、すべてが丸くというご託宣を引いたら、その時の気分は良いものの、「凶」を引くと、なんだか憂鬱な気になるのは何故だろうか。前にも書いたが、初詣は、俗に三社詣でというが、今年の正月は四社に詣でた。地域によって「一日のうちに三社に詣でなければならない」等と言うところもあるようだが、特にそのようなことは気にしていない。三社詣での由来についてはいろいろな説があるようだが、1つには、朝廷が伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社の三社に参ったのが庶民にも風習として広まった、という説と、もう1つは先祖代々の守護神である氏神様、出生地の守護神でありその人の一生の守り神である産土神様、現在住んでいる地域の守護神である鎮守神様の三つの神様への挨拶との意味で三社詣でとなったという説があるのだそうだ。そこではムスリムの言う、「イラーハ・イッラッラー」(神は唯一ただ一つ)というのではなく、またクリスチャンが言う、「神と、子と、精霊」でもなく、神道は八百万(やおよろず)の神なのである。浄土真宗に組み入れられている私なども、正月には、必ず「神道」になるわけである。海外旅行などで、入国ビザの用紙にある、Religionという欄にどう書こうかと迷うのだが、時々は「Buddist」であり、気が向けば「Shinto」と書くのである。八百万というのは沢山という意味であって、それほど沢山の神々が居るわけではない。また嘘八百と言うが、その八百とも違う。とにかく日本の神様は分業制になっていて、仕事別に神様が居るようである。いわゆる大きな政府で、福祉関係に十分目が届くようにといった体制なのである。また、昭和天皇が「人間宣言」をする前には、天皇は皆、神であったわけで、少なくとも第123代の大正天皇迄は神であり、最初の神の伊邪那岐神や伊邪那美神そして、天照大御神等々を加えると、結構沢山の神様が居られることは間違いない。従って、最低は3つの神様にお参りしておかないと、お役所仕事のように、そんなことは聞いてないよと言われる恐れがあるからなのかなと思うのである。それぞれの神が何を所掌しておられるのかはよく知らないが、私が参った、近所の若山神社や、八坂神社は、「素戔嗚尊」を祭り、もともと、海を司る神なのだそうである。城南宮は、大地を司る、「大国主命」やその他自然神の「天照大神」などが居られるという。では平安神宮はというと、ずっと下って、第50代の「桓武天皇」と第121代の「孝明天皇」を祭っているのだという。で、その所掌はというと、わずかに桓武天皇が、軍事関係のことを所掌しているのかなと思わせるだけで、定かではない。そんな由来などは知らず、今年などは、延べ3日で上記4社という変則的な初詣であった。その行く先々の神社、神宮でおみくじなるものを引いた(購入した)訳である。おみくじは「何度も引くものではありません」と姫などに言われたのだが、余興のような気分で引くわけである。引いた先々では、「大吉」→「吉」→「凶」→「大吉」という具合であった。同じ素戔嗚尊が、何故「大吉」と「凶」を出されたのか、分からない。こんな風に、日頃信心らしいことをしていない、私などについては、神も至れり尽くせりとはいかないのであろう。柏手(かしわで)は両手を合わせ、音を出し、願いをかなえるために神を呼び出すという意味もあるのだが、全国各地で、何十万いや何百万の人が一斉に柏手を打つお正月などは、神様もてんてこ舞いなのであろう。音を出さない柏手は今までにも、仏教関係で、お葬式に何回も経験しているが、音を出す柏手は、先ず、年に1回がせいぜいである。サウジアラビアにいた頃には、ムスリムは、日に5回もお祈り(サラー)をするわけで、安息日の金曜日には、近くのモスクで特別礼拝をする。今の私のマンションの近くには教会があるが、クリスチャンの場合、週1回のミサがあるようで、時刻を告げる鐘が響くのでそれと分かる。そこに行くと、仏教徒であり、神道でもある私などは、お願い事を、年1回のお祈りで聞き届けて貰おうとするのだから霊験があらたかなわけはない。ムスリムのように、日に5回も拘束されることを考えると、とてもラッキーな気もするが、運命を良い方向に導いて貰うように祈願するなどは、どうも虫が良すぎる気もする。ピアスの「悪魔の辞典」によると、「運命」とは、「暴君が悪事を行うときに利用する典拠、愚者が失敗をしでかしたときに持ち出す言葉」とあり、「祈願する」とは、取るに足らない存在、と自ら認めているたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則が破棄されることを願う」とある。正に言い得て妙という感じである。こういったことに拘わらず、連れ合いなどは、朝一番のテレビでの星座による運勢を、真剣な眼差しで見ている。私も連れ合いも同じ「蠍座」であるわけで、星座は12有り、順位は、必ず1~12番と決まっているのだ。1番になったら何か良いことが起こりそうな気もするし、12番なら、出かけるのは止めようかなどと考えたりもするが、結局はそれに左右されるということはあまりない。私は私で、姫がくれた、小さなコカコーラの缶を形取った中に入っている棒に書かれた運勢を毎朝のように引いている。その中には、「大吉」と「中吉」と「小吉」しか入っていないようだ。それでも「大吉」が出ると、「よし!」と思うから不思議である。連れ合いの学校で、なにやら易学に凝っている人がいるらしく、「四柱推命」だとか、「エンジェルナンバー」だとかで、連れ合いの分と私の分をそれぞれ占ってくれた人がいて、その結果を持ち帰ってくれたので見てみると、なるほどよく当たっているのである。私の場合は、「真面目堅実家」であり、「責任感の強い正直者」「成果がハッキリする仕事向き」で、注意すべきは「四角四面で問題を抱え込む」とのことであった。これに対し、連れ合いの方は、「人々に夢を与えるカリスマ」で「真面目な変わり者」「常に一つ高い視点で若くして頭角を現す」であるが、注意すべきは、「変人であることを認めよう」であった。私は、「うーん」と唸ったが、最後の、「変人であることを認めよう」はそう自覚してくれたらと少し思うことがある。しかし当たるも八卦、当たらぬも八卦と言うところか・・・。
2010.01.21
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日経新聞記事に「水を得た韓国CEO大統領」という記事があった。時々掲載される不連続の「地球回覧」というコラムである。内容は、各国に派遣されている特派員がその時々の駐在国の状況をレポートしたものであり、時々面白い記事が載っている。私はつい最近の2002年頃からスクラップしてきたが、様々な国の事情が分かって興味深く読ませて貰っている。今回は韓国のイ・ミョンバク(李明博)大統領のことが書いてあった。韓国の特派員というか支局長は2年ほど前に変わられたのか、名前が違っていた。交代された特派員が最初に書いていたのもイ・ミョンバク大統領のことだったと思う。丁度、イ・ミョンバク氏が大統領になった年に特派員も変わったようだ。2008年の末の記事は、「李大統領、金融危機でツキ?」ということだった。大統領は、「私は運が悪いように見られるが、結果的にはいつも運が良い」と側近に漏らしたという内容であった。米国産牛肉輸入に踏み切ったことに対する韓国民の大反発で、就任当時、48.7%であった支持率が、一時10%台迄急落し、大統領が公約に掲げた「747政策」はもはや紙切れのようになってしまった。「747政策」とは、「毎年平均7%の経済成長、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界7大経済大国にする」とぶち挙げた内容である。その後の金融危機で、株安、ウォン安に見舞われ、一時危機的な様相となったが、アメリカや、日中との通貨交換(スワップ)協定の合意などで、乗り切り、財界出身の大統領の強みを発揮、「再建設規制の緩和」や「投機規制の緩和」「公共事業の早期執行」などの矢継ぎ早の政策で凌ぎ、金融危機を転じて福と成したとある。前大統領のノムヒョンは北朝鮮との宥和政策である「太陽政策」のもと、日米を敵視することで、民族意識をあおり、かろうじて支持率を保っていたが、不正献金疑惑 側近・親族が相次いで逮捕される等の不始末が続き、2008年11月、ノムヒョン政権の側近の一人が贈賄容疑で逮捕されるに及び、そして、これらを苦にして自殺の道を選んだと言うことである。イ・ミョンバク政権は、一時そのノムヒョン政権末期の支持率27.9%を下回るほどの支持率となり、鳴り物入りの大統領もここまでかと思わせたものだ。最近では、その支持率を、当選当初の48%にまで回復したというのだ。大企業のトップを経験した「企業家精神」がここに来て実を結んでいるとの評価である。「現場主義」に徹し、自らが現場を歩き回るという意志の下、形骸的な外部情報を得る組織の設立を認めなかったというのだ。(官僚に頼らない?)これを知って、日本との大いなる違いを感じた。口先ばかりの現鳩山政権は、裏で、小沢一郎が操る傀儡政権であることはもはや自明の理である。大統領が一手に権力を持ち、且つ全責任を負う大統領制と、議会制民主主義の悪い意味での差が出ているように思われる。アメリカの大統領府を「ホワイトハウス」というように、韓国の大統領府のあるところを「青瓦台」と称するが、日本のそれはただ「官邸」である。その「官邸」が「民主党」という、「党」に牛耳られているのである。これは、議会制民主主義の悪い面を小沢一郎が悪用しているに過ぎない。即ち我々国民は、「自民党」による55体制以降の、腐敗、疲弊、金、世襲、天下り等々数多の悪行に見切りを付けて、「民主党」を選んだのである。そこにつけ込んだのが小沢一郎であり、国民が「民主党」を選んだのだから、「党」の声=国民の声という構図をすべての問題に当てはめ、すり替えて行動をしているのである。そういった覚えは国民にはないのであって、まさしくかけ離れた、論理が、まかり通っているわけだ。「官邸」が傀儡で、「党」が優先するという構図は正に共産主義国家であることの裏返しである。小沢一郎の目標は次なる参院選挙にしかない。ここでまた圧倒的多数を取れば、それは、独裁政治を容認することになるわけだが、如何せん、長年ぬるま湯に浸かってきた、談合体質の「自民党」に政権奪回の気概もなければ、その政策もなく、且つ野党慣れしていないから、全く迫力を欠く議論にしかならない。この話を書き出すと留まるところはないし、無力感を感じるだけであるから止めるが、日本にも大統領制を敷くべき時が来ているのではないかと感じる。鳩山首相のパフォーマンス的である、地球温暖化対策に対する世界公約25%のCO2削減は実にスマートで、格好良く映るけれど、何らの裏付けもなく、というか、CO2排出権を海外から買うというだけで済まそうとするもので、地球的見地からの環境保全を意味しているのではないことは明らかである。しかし、この事をもって世界をリードするのでは有ればまだいいが、それも曖昧で「鳩山イニシャティブ」とか称する、自国民の犠牲(税金)の下に一人勝手なパフォーマンスを試みているに過ぎない。排出権を買うためには莫大なお金がいることをよもや知らないわけはないはずである。話は戻るが、このイ・ミョンバク大統領は、企業のトップを務めてはいるが、非常な貧困から立ち上がっての努力家であり、成功者である。それ故に、現場を大切にし、現場の意見を真摯に採り上げる勇気と力と必要性を感じている。そして、自国の景気対策のためなら、トップセールスをすることを敢えて行うのである。この度、アラブ首長国連邦(UAE)での初の「シーラ原子力発電所」の建設で国際入札で不利が伝えられるや、自らトップセールスで、これを跳ね返し受注にこぎ着けたのである。競合した日本だが、その時、鳩山首相は何をしたのか、正に自らの母親による子供手当の弁明に追われ、何ら成すことをしなかったのである。そして、400億ドル(約3兆6000億円)もの商談をふいにしたわけだ。黒幕の小沢一郎にしても、民主党議員143名と一般参加者など483名を引き連れて、中国胡錦濤に朝貢外交をするばかりで、税金を垂れ流し、自らの地位の保全を図っただけである。正に今火がついている公設秘書などの逮捕でも、何ら説明ともつかない答弁を、見下すような記者会見で発言するなど、どこに、国民のための政治が潜んでいるのだろうか。今までも、日本の首相が、国家のために商売の手先になるようなことは少なかったし、有ったとしても甘い見返りがある場合に限られていた。今回のイ・ミョンバク大統領の行動は、範とすべしと思う。自ら進んで、相手国の皇太子と電話会談をしたり、必要とあらば、電撃訪問をして、造船・半導体などの政府間の産業協力も約束してきている。「成長重視」をモットーに、「最高の福祉は雇用だ」と力を入れているという。モットーは同じであるが、持って生まれた「裕福な家庭環境」に育った、お坊ちゃま宰相と、苦学の上、民の痛みが分かる大統領との差が出てくるような気がしてならない。
2010.01.20
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文学から見るアラブ社会の第4回講座があった。今日も、前回に続いて、パレスチナ文学であるが著者はエミール・ハビービーで「悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事」と長い名前である。内容的には、非常に難解であり、イスラエル・パレスチナ問題をある程度理解しているベースがなければ、その真意を読み取ることは難しいという作品である。従って、講師は小説の内容についてよりも、むしろそのバウンダリーの状況を解説することで、本作品を紹介するという形で話を進められた。著者ハビービーはパレスチナ人の政治家であり、作家、劇作家、ジャーナリストという多面的な顔を持つ。前回のガッサーン・カナファーニーもパレスチナの作家であるが、カナファーニーが「ディアスポラ(離散)」したパレスチナ人代表とするならば、ハビービーはイスラエル建国後も、イスラエルに留まった(取り込まれた)アラブ・パレスチナ人を代表する作家の一人と言える。講師の梗概の説明によると、離散の地(イスラエルによって占領されたパレスチナ人の土地)のパレスチナ人に注目が集まる中で、今やイスラエルとなった土地に住むパレスチナ人の状況やそういった境遇の人たちは、長らく国際的に忘れられてきたとのことである。この本が邦訳されたことにより、日本でも、ハビービーたちのように、イスラエル建国後に、イスラエルに取り込まれる形で残ったアラブ・パレスチナ人が生きてきた極めて複雑な状況・苦境の一端が知られるようになったということだ。私なども、イスラエルという国家を急造した中に、まだら模様でパレスチナ人が居住する地域が散在することは知ってはいたが、今回の講義でハビーピーの作品を知ることにより一層、その複雑な関係に対し理解が深まった。ハビービーは、英国委任統治時代からパレスチナ共産党員であり、イスラエル建国以降はイスラエル共産党(マキMaki)の創立メンバーの一人として活動をしたという。その後、同党が分裂して以後、新共産主義者リスト(ラカハRakah)党員となるがやがて離党する。また、足かけ20年近くイスラエルの国会であるクネセトの議員を務めた後、執筆活動に専念するため、議員生活に終止符を打ったという経歴を持つ。それまでにも、政治活動のかたわら、執筆・発表をしており、始めたのは、第二次世界大戦中にさかのぼる。小説家としては寡作な方だが他にも「六日間の六部作」という短編集や「イフタイエ」、「グールの娘サラーヤーのお話」など国際的にも評価の高い作品を世に送り出した。それらの作品では、生まれ故郷のハイファを中心にして、故郷にいながらよそ者のごとき境遇を味わうことになったパレスチナ人の運命を様々な歴史的事実を織り交ぜながら描いている。それも、単純率直なリアリズムや安易なセンティメンタリズムに流れることなく、しばしば独特のユーモア文体を駆使して作品を仕上げている。本の題名の「悲楽観屋」という名についても、ハビービーが作ったアラビア語の造語である。アラビア語では、悲観主義者のことを、ムタシャーイムといい、楽観主義者のことを、ムタファーイルというのだそうで、「悲楽観屋」はこの両方を取って、ムタシャーイルとしたということだ。勝手な例だが、英語で言えばペシミストとオプティミストの造語「ペシオプティスト」といったところだろうか。また、「サイード」という主人公の名前も、実は「サイード・アブ・ナフ」という名前であり、「サイード」は「幸せな男」を意味し、「アブ・ナフ」は「不幸な父親」を意味するのだそうだ。さらに、「失踪」という言葉も、本来は、パレスチナ人がパレスチナ人の土地にいることはごく当たり前のことなのだが、それがある日を境に土地そのものが、イスラエルになり、追放されたパレスチナ人は、闇に紛れて自分の国に帰り、そのことが失踪という言葉となったという、イスラエル在住するパレスチナ人の心情的不条理さと複雑な関係を、如何に表現すべきかで作家ハビービーは、風刺とパロディーで付けた題名なのだそうだ。この標題に込められたハビービーの気持ちが、すべてを物語っていると言っても良いだろう。この作品で、PLOから「エルサレム賞」を受賞したが、2年後には、イスラエル国からもイスラエルにおいて最高の栄誉とされている「イスラエル賞」を受賞したのである。イスラエル賞は、毎年、イスラエルの「独立記念日」に、彼らが勝手に首都と呼ぶエルサレムで、大統領以下のお歴々が臨席して授賞式が行われるという、イスラエルにとっては極めて重大な賞なのである。この賞を事もあろうか、アラブ人作家が受けたということで、アラブ世界の知識人のあいだで広範な批判・議論が巻き起こったのは言うまでもないが、一方では、イスラエルのユダヤ人の中にもハビーピーへの授賞に反発する者が出て、中でもイスラエルの物理学者などは自身が以前に受賞していたイスラエル賞をハビービーが授賞したことに抗議して返還したのである。複雑な人種関係を如実に物語る行動である。しかし、イスラエル国家の内部の故郷ハイファにとどまって生きてきたハビービーには、パレスチナ/イスラエルにおいてはアラブ人とユダヤ人の共存しか、もはや歩むべき道はないというビジョンがあり、自らの受賞が現在のイスラエル国家のあり方を承認することにつながるという批判を退け、むしろアラブの文化的成果がイスラエルによって承認され、イスラエル・パレスチナの和平に資するところがあると主張して積極的に両方からの賞を受賞したのであった。私は、こういった考え方をするパレスチナ人が居ることを知らなかったので、一寸した驚きであった。「石や銃弾によって行われる対話より、二つの賞によって行われる対話のほうがよい。受賞は、イスラエルにおいてアラブ人が民族として認められたことの間接的な証だ。これは一個の民族文化が承認されたことを意味している。土地に根ざし、ユダヤ人と同等の権利を獲得するために闘っているアラブ市民のためになることなのだ。」これがハビービーの考え方なのである。このように、今となっては、混じり合った2つの異民族が溶け合うのは、1つの国家案しかないという現実路線を取ると言うことであり、今や文化人の間からも、こういった発想が出てきているとのことである。私などは、というか、大方のアラブ人などにもこういった寛容は許すことが出来ないであろうと思う。例えば、ある日、突然に日本という国が、他国に占領され、海外に追い出された日本人は、何処かの浜辺から密入国し、元々日本であり、自分の故郷である土地で、外国人の支配の中、2等~4等市民として細々と小さな地域で生きることを考えればその気持ちが分かろうというものだ。ハビービーの場合は実際的に生きる道としてこれを受け入れたと言うことである。彼はこのとき受領した賞金をパレスチナ人の医療センターのために寄附したということだ。昨年2月、作家村上春樹が「イスラエル最高の文学賞」とされるエルサレム賞を受賞したのは耳新しいことであるが、このとき、日本のあるNGOが彼に対して賞を辞退するよう勧告したことがマスメディアでも大きく取り上げられた。このニュースはアラブ諸国を含む海外のメディアにも流れ、そうしたメディアの中には受賞辞退勧告を賞賛するものもあった。時あたかも、イスラエル軍がガザを攻撃し、民間人多数を含む1300人以上のパレスチナ人が犠牲になった直後のことだったので、そのような反応が起きるのも無理からぬことであった。また、皮肉なことに、エルサレムは昨年ユネスコの「アラブ文化の首都」に選ばれてもいたのだ。他方、逆にNGOの辞退勧告を批判した人もいた。村上は逡巡の末、同賞を受けることを決意し、エルサレムに赴いて演説を行った。村上春樹が、どれほどパレスチナを理解しているかについて私などが忖度することは出来ないが、日本のメディアは概して好意的な論評を行っていたように思われるものの、たとえばある汎アラブ紙に掲載された論評は受賞を「うかつな過ち」として村上に対する失望を表明していた。反対に、イスラエルを支持する人々の間では、イスラエルの賞を受けておきながら、同国を批判するようなことを口にしたとして村上春樹を批判する人もいた。いずれにせよ、自らの政治的立場を問うことになる同賞の「踏絵」的な性格のものは踏むも問題、踏まぬも問題であり、なかなか、日本人が理解出来る範疇を超えるものではないかと考えてしまう。ユダヤ系作家で、同賞を受けた、スーザン・ソンタグやアーサー・ミラーたちは、同賞を受けた上で、授賞式においてイスラエルに批判的なメッセージを発しているがエミール・ハピーピーに言及して議論されたことはなかったようだ。この本は3つの章から成り、第1の書「ユアード」というのは、取り戻される者の意味で、イスラエルにより引き裂かれたサイードの初恋の相手を意味している。第2の書「バーキア」は残るとの意味で、アラビア語では女性名詞であり、それは、残った女、即ちサイードが結婚した女性を指す。第3の書「ユアード、再び」で締めくくられている。本の内容は、諧謔、風刺、パロディーで満ちているので、解釈は極めて難しい。最初と最後を抜粋すると、第1の書2節、『2 サイード、イスラエルで生きられたのはロバのおかげと公言 では事の始めから始めよう。わが人生はすべからく奇々怪々であった。数奇な一生は、こんな数奇な結末しか迎えようがない。「どうして庇護してくれたんです?」と宇宙からの友(ファダーイ)に尋ねると、こう答えた。「ほかに手があったかね?」 始まりはいつだったか? ロバのおかげで第二の生を授かった時、それが始まりだった。 ゴタゴタの最中、奴らは待ち伏せして銃弾を浴びせた。それで親父は殺された。彼に神のお慈悲あれ。ところがふらりと迷い込んだロバめが俺とやつらのあいだに割って入ったもんだから、ロバはやられて身代わりに息を引き取った。その後イスラエルで過ごした一生は、この哀れな四つ足のおかげというわけだ。そんなおいらの人生を、どう値踏みできたもんです、先生?』ファダーイーは宇宙(ファダー)とパレスチナ抵抗戦士(フィダーイー)の造語パロディーであり、ロバは間抜けの象徴で、哀れむべき者として自分を茶化している。ゴタゴタの最中とは、第一次中東戦争を指していると言う具合に、のっけから意味がよくつかめない。第3の書の冒頭第1節では、『1 サイード、頭の無いハーズークに座る ・・・ いつの問にか円形のつるつるした冷たい地面に座っていた。円の直径は腕の長さ程しかなく、風は轟々と、地面は茫々としている。まるで秋にへちまの実がぶら下がるように、両脚が底なし穴の上にぶら下がっていた。背中を休ませたくとも、後ろにも前と同じ深淵が広がっている。あらゆる方角から奈落が取り囲んでいた。少しでも動けば落下だ。そのとき自分が先の無いハーズークの天辺に座ってるんだと確信した。「助けてくれ」と叫ぶと、その一音一音がこだまとなって戻ってきた。それで自分がとんでもない高みに座っていると知れた。今度はこだまと言葉を交わし、寂しさを紛らわせようとしてみた。そのやりとりがあんまり可笑しかったんで、深淵すら微笑を禁じえない程だった。それはしかめっ面にも似た、くすんだ夜明けのような微笑だったが。「俺は一体、何をしてるんだ?」 ・・・・夜、自分のベッドで寝ていたものが、起きたらハーズークの上なんてことがあるもんか。こんなこと、自然の法則にも論理にも反するだろ。ってことは、これは夢に違いない。夢にしちゃ、ちと長いが」』という具合である。因みに「ハーズーク」とは、先端を尖らせた杭状の刑死道具。上に囚人を座らせ、体を刺し貫く。とある。このようなイスラエル・アラブ人は約150万人存在しているという。イスラエルを中心とした、中東の火薬庫といわれる所以を垣間見ることが出来る気がした。
2010.01.19
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最近本を読むスピードが極端に遅くなった。目が悪くなったせいもあるが、読む時間がないくらい忙しいからかも知れない。また一つには、分厚い本を読んでいると、終わるまでに違う本が気になりそちらをつまみ読みするなどということをするからかも知れない。この本の出版を知ったのは、昨年の夏の終わり頃である。新聞の紹介欄で目に付いたのだが、どうやらチャンドラセカールの事らしい。チャンドラセカールといえば、インドの偉大な物理学者である。私がチャンドラセカールの事を知ったのは、以前に、偶然本屋で見かけた『「プリンキピア」講義―一般読者のために』という単行本を見つけたときからである。「プリンキピア」は科学の歴史における古典中の古典であり、万有引力の法則を導いた古典力学の巨匠ニュートンが自然哲学の数学的諸原理について書いた物理学の書で、超難解なことでも有名である。アインシュタインの「特殊相対性理論」だとか「一般相対性理論」だとかにはとてもついてはいけないけれど、分かろうが、分かるまいが、私は、ニュートン力学の入口で生活をしていた端くれであるから、何となく親しみを持ってその本を手に取った。その本の作者ががまさしく今回の「ブラックホールを見つけた男」の主人公なのである。その「プリンキピア」講義には、「天体物理の泰斗でノーベル賞物理学賞に輝くチャンドラセカールが10年近くの歳月をかけて完成し、この種の著述が今までどうして現れなかったのかと待ち望まれた書である」と素晴らしい評が書かれていた。勿論、日本語版であり、その訳文にも一般読者のためにかみくだいたものとし、詳しい訳注を付け、さらにいっそう輝かしめる本としている。という風に書かれていた。一瞬この本を読むとニュートン力学のすべてを理解できるのかも知れないと錯覚を起こすような書き方であったように記憶する。全体が灰色基調で、標題の部分がブルーで縁取られたボックス入りの書物であった。この本が置かれていた場所は物理学か、数学の専門書のコーナーだったのだが、手に取るとずしりと重い感じだ。そろりと中を開いて、内容を拾い見たのだが、天体の運行に関することが記されていたような記憶がある以外は忘れてしまった。読んでも何を書いているのか分からなかったというのが実情であり、本屋の立ち読み程度で分かるわけがないのも至極当然のことである。私はその本が欲しくなった。とにかく飾りとしてでも良いから欲しいという気になったのだ。本の裏を返して値段を見ると約1万円だったことを思い出す。とても手が出ないわと感じて一旦は立ち去る。インターネットなどで調べると、6-7000円の新古本があるという。それでも迷った。何回か本屋に行くと、その本をぱらぱらめくるのが楽しみになっていたが、結局は買わずに済ませてしまった。本は実に高くなった。その本が、今では6割近く値上がりしているのである。このデフレ、活字離れの時代に本だけはどうしてこんなに高くなるのであろうか。そんな気持ちは置くとして、その「プリンキピア」を優しく読み解いたのが、チャンドラセカールで、その人の伝記ともいうべき本が「ブラックホールを見つけた男」である。チャンドラセカールはインド生まれで、後にアメリカに帰化した天才的な物理学者である。正確には「スブラマニアン・チャンドラセカール」という名前である。というのが、彼には、「チャンドラセカール・ラマン」という名前の叔父がいて、その叔父も「ラマン効果の発見」で1930年にノーベル物理学賞を受賞しているのである。不用意に物理学者という括りでは言い表せないくらいに、物理学の中には、理論物理だとか、天体物理だとか、一般物理だとかがあるらしい。チャンドラセカールは1930年、弱冠19歳で、渡英する途中のアラビア海にかかる船上で「ブラックホール」なるものの存在を計算で算出し、予告したのである。物理界の石川遼といえば言い方が反対なのかも知れないが、とにかくすごい男である。私が知るインド人やインドに関する印象は、先ず、サウジアラビアで、仕事上で関係した、10名の人たち、中には、タミール語を教えてくれた、ラジュウという青年もいた。UAEでは、運転手をしてくれたラスール君や、仕事関係では、GMのドラニ氏や工作担当のアヌープ氏などが居る。中には、ずるがしこいのもいたが、総じて、皆真面目な人たちであった。インド人の数学は見るべきものがあるということはよく聞く話だ。「たけし」のクイズ番組などでも紹介されているが、独特のインド式計算方法があるとか、二桁の九九(九九とは言わないのか?)を諳んじているとかである。ドバイにも、マイクロソフトの社屋があるのだが、ここの従業員は、殆どがインド人であると聞く。また、ビル・ゲイツは、コストの安い、しかも数学や物理に優れた頭脳を持つインド人を多数雇っているという。中国13億人というが、11億人のインドは、産児制限もないため、2050年には、中国を抜いて世界一の人口を抱える国になると予測されている。この国はまた、BRIC'sの名で呼ばれるように、新興国の目玉国として最近冨に話題に上ることが多い。しかるにこの国の問題は、貧困国であり、日本以上の格差社会であると共に、インド独特のカースト制度による大いなる人種差別感の存在である。私が会ったのは、大体が、昔で言う「クシャトリア」とかせいぜい「バイシャ」と呼ばれる階層で、極めて貧しい「スードラ」という部類の人たちではない。さて、チャンドラセカールは英国のケンブリッジに留学をするとか、叔父も偉大なる物理学者であることから、インドでも恵まれた階層に育ったようである。留学することになったのも、インドにいては、その才能が伸ばしきれないと言うことであり、何処かの国のように、海外の学校を出たらそれだけ箔がつくというさもしい発想からではない。この本の内容を云々するほど、私は理解しているわけではないが、当時、白色矮星は、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つであると考えられており、質量は太陽と同程度から数分の1程度と大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小しており、非常に高密度の天体であるという認識であった。チャンドラセカールの計算結果は、この白色矮星の質量には上限があるということを計算で示したのである。その上限値よりも大きな質量で一生を終えた星は何の活動もしないで、岩の塊として一生を終えるのかという疑問を解いたのである。星自身の重力に押しつぶされて、理論的には体積ゼロの超高密度な特異点になるという考えだ。それがやがて40年ほど経って「ブラックホール」という名前を冠せられてよみがえったのである。その間は放置されていたわけで、最近の「CP対称性の破れ」という現象を説明する理論でノーベル賞を受賞した、益川・小林両氏の場合と似ている。どうやらノーベル賞というものは時間が掛かるものであるらしい。チャンドラセカールの渡英は、必ずしも順風満帆ではなかったようだ。彼の理論は、当時の英国物理学会の重鎮アーサー・エディントンに徹底的に批判され続けたのである。エディントンは、アインシュタインの一般相対性理論を英語圏に紹介した事でも有名で、彼は皆既日食を観測中に、太陽の近くに見える恒星の写真を撮影し、一般相対性理論による「遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力場によって光線が曲げられる」ということを発見して、アインシュタインの相対性理論を証明したのである。エディントンはチャンドラセカールが主張する、星が自身の重力に押しつぶされて、理論的には体積ゼロの超高密度な特異点になるという考えについて、さしたる理由もなく、「そんな馬鹿な振る舞いを止める何らかの法則があるはずだ」といって、感覚的に否定し、罵倒に近く、認めようとはしなかったのである。これは、想像するに、白人の有色人種に対する、染みついた優越意識がなせるものであるかと感じた。特に、天文学界の重鎮であるところから、チャンドラセカールに賛同する意見を持つ者も、表だって、エディントンに反対する事も出来ないと言ったようである。科学の世界でも、正を正と言えず、長いものに巻かれると言うことがあるものなのだという典型であろう。そこに行くと、今の民主党幹事長にたてつく民主党員が出ないことは至極当然であると言えよう。政治の世界は、議員で居てなんぼのものであるからだ。科学の場合は、やがて、その正否は、歴史が証明してくれるわけで、良いと言えば良いことなのかもしれないが、何十年も放置され、死の間際頃に、認められてもと、私などは思うのである。チャンドラセカールは、私が生まれて2日後になくなっているのを知って、全く関係はないものの、自分勝手に少し因縁を感じた。この本には、他にも、学者仲間である、ファウラー、ミルン、ボーア、オッペンハイマー、フェルミ、シュレージンガー等々多くの聞き慣れた、物理学者の名前も、今更のように懐かしい感じで出てきた。また、NASAのX線観測衛星「チャンドラ」は、彼にちなんで名づけられたものであり、意外なことに、著書に「真理と美 ― 科学における美意識と動機」があって、科学者でありながら、美術に対する造形も同時に持ち合わせていたと言うことである。お気に入りだったのはモネで、「積みわら」や「ルーアン大聖堂」の絵を眺めながら、華やかな色彩と光に彩られた表面の背後に、不変のオブジェを見て取ったとしており、「画家達は心眼で色や輪郭や対称性を捉えるように科学者達は見かけの背後にある真の姿を記述する手段として、幾何学と方程式を使うのである。」と称している。彼は心筋梗塞に襲われ、続いて、ひどい鬱で落ち込んだという。しかし、ピカソのように、仕事で忙しくしている間は死ぬことはないように思うと、科学者らしからぬ心境になったという。人生の終局を迎えたチャンドラセカールは、死ぬ前にやっておきたいことが二つあると言い、1.わが意を満たすために、自分なりのニュートンへの賛歌を書いて出版社に送ること。 2.入念に下調べをして、適当な機会に「クロード・モネの連作と一般相対論の特徴(ランドスケープ)」についての講演ができるようにすること。を挙げている。科学的内容は深く記載されていないのは読みやすいし、ブラックホールの生い立ちが知れたことはとても有意義なことであった。やがて、地球もブラックホールへと吸い込まれるときが、それこそ何十億年という先には起こりうることを考えると、誠に希有壮大な気分になる。また、彼の人生は、妻ラリータと共にあったということも書いておかねばならないだろう。
2010.01.18
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先日、映画「カティンの森」を見た。1月4-6日と東北を旅行してきたので、その後、約10日間ほどは、自宅でごろごろと時を過ごしてきたが、観たい映画が溜まっていたこともあって、連れ合いと2日連続で映画鑑賞に出かけることにした。この映画は、近くの高槻の映画館では上映されていないので、梅田まで出る機会についでに見ようということで、機会を待っていたが、NHKの美術の講座の日に観ることになった。f梅田でも一般の娯楽映画が上映される映画館では興行されていない。知る人ぞ知る映画だという感じである。興行していたのは、「シネ・リーブル梅田」という映画館で、場所は、梅田スカイビルの中にあった。ツインタワーの上に空中庭園があるという建物であることは、電車から見てよく知っていたが、我々2人とも梅田の北側には余り出かけたことがない。この地区は、現在、JR梅田貨物駅として、使用されているが、2004年7月からの「大阪駅北地区まちづくり基本計画」に基づいて、大変革を遂げようとしている最中で、「北梅田ナレッジ・キャピタルゾーン」を含む工事が、着々と進められつつある状態だ。映画の題名は、英語で書けば、“Katyn massacre”であり、訳せば、「カティン大虐殺」ということになり、大虐殺がカティンという森で行われたということである。カティンは、現ロシアのスモレンスクの西方約20kmのベラルーシとの国境に近い場所にある。(虐殺が行われたときには、この辺りはすべてソ連圏内であった。)映画パンフレットの紹介ではその惨事を、簡潔に次のように書いている。「1939年9月、ドイツ軍とソ連軍に侵攻されたポーランド。1万5千人のポーランド人将校が忽然と行方不明になった。そして1943年春、カティンで数千人の遺体が発見され、「カティンの森」事件が明らかとなる。」である。最終場面でのポーランドの将校達が、KGBに次々と頭部を銃で撃ち殺されるシーンは、思わず目を背けたくなる。物語は、1939年ドイツがポーランドに侵攻した時から始まる。第2次世界大戦の開始である。この戦争では600万人のポーランド人が犠牲となった。全ポーランド人口3000万人余りの中で、5人に1人が死亡し、3人に2人が被害を受けた事になる。この中には270万人のユダヤ系ポーランド人が含まれていて、戦前のユダヤ人人口が330万人であるから、助かったユダヤ人はたった60万人という事になり。戦慄すべき数字である。ドイツがポーランドに攻め入った最大の理由は、ドイツがポーランドそのものをドイツ人より劣った、劣等民族としてみていたことにある。また、ポーランドを国家として認めておらず、従って、ポーランド人が独立した文化的存在を持つことを許さず、計画的に抹殺しようとしていたという背景があった。そこで、ポーランド侵攻の口実として、ポーランド在住のドイツ人が迫害を受けているという根も葉もない虚偽に基づいて行動を起こした。このような背景で、ドイツがポーランドに侵攻するや、日をおかず、ソ連が独ソ不可侵条約に基づいてポーランド東部に侵攻し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されることになるのだが、その辺りから映画は始まる。ポーランド人にとっては、正に前門のオオカミ後門のトラというところである。ドイツの侵攻により、ポーランドの首都ワルシャワから逃れる住民の群れが、橋の上にさしかかったとき、向こう側から逃げ来る人たちが「戻れ!ソ連が攻めてきた」という場面が象徴的である。ポーランドは、ドイツ(ナチス)とソビエト(KGB)によって挟撃され、やがて分割統治されることになる訳である。ポーランド東部を制圧したソ連軍は、占領下のポーランド軍を解体し、その将校全員を捕虜として拘束した。その後、ポーランド軍将校たちは1940年の夏までにスモレンスク周辺のスモレンスク、ベルグラード、カルコフの3つの収容所に収容されることになる。ポーランド将校アンジェリの妻アンナと、その娘ニカは、父親を追って、その居留地まで会いに行く、しかしながら、4000名ものポーランドの将校達は、ソ連軍の貨車に乗せられて、有無をいわさず収容所へと運ばれていくのである。連行される前に、逃げることを勧める妻に、夫は、妻への愛と、軍への忠誠の間で苦しむが、ポーランド人将校としての道を取る。夫が連行される際に妻はそっと夫のポケットにロザリオを忍ばせるのであるが、このロザリオが、カティンの森で射殺されブルドーザーで土をかけられる夫の手に握られている場面のクローズアップに、何とも言えない気持ちになる。将校達を乗せた貨車が走り行く後方から、娘が「タトー(お父さん)! タトー!」と呼ぶ声が切なく耳に残る。収容所では、ソ連のモロトフの声で、「ワルシャワはもう存在しない」という放送を聞かされた将校達は、武器こそ有れば戦いたいなどと、ポーランド将校の気概などが静かに描かれるのだが、うすうす先が読め始めたときにポーランドの大将が将校を集めて演説し、皆で、低い声で、おそらく国歌であろうか歌を斉唱するのである。この映画の監督である81歳になるアンジェイ・ワイダ監督自身の回顧を含めて、自身が、その娘の心境であったことを述懐している。ワイダ監督がこの映画を作ろうとした動機は、1つには、父親も犠牲になったこの1940年の大虐殺の犯罪を映画として残しておかねばならないという気持ちと、2つには、社会主義、共産主義の嘘、ドイツやソ連の犯罪を看過してはならないという点にあるという。ポーランド人将校が連行される前に、ソ連の将校がドイツの将校と話す会話の中に「ナチスは千年帝国を、そして共産主義は永遠である」との言葉が出てきたが、実におぞましく聞いた。この大量処刑の情報を知ったナチスは、当時まだドイツの占領下にあったカティンの森の遺体埋葬現場を発掘したところ、約4000人のポーランド軍将校の遺体が横たわっていたのである。ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスはこの事実をドイツのラジオ放送を通じて発表したが、ソ連側はこのドイツの発表に直ちに反論し、逆に、ナチスがこの大量処刑を行ったと主張したのだ。ドイツのこの大々的教宣報道の裏には、自らの別の場所での残虐行為を隠蔽する隠れ蓑としての意図も伺える。ポーランド政府はスイスの国際赤十字にこの事件の調査依頼をしたが、当時、ソ連は国際赤十字に加盟しておらず、捜査する段階にまでには至らなかった。国際連盟にしろ、国際連合にしろ、加盟していなければ何の効力もない、自国の尊厳は自国で守らなければ誰も相手にはしてくれないということである。勝てば官軍ではないが、1945年に第二次世界大戦がドイツの敗戦で終結したため、ポーランドは実質上ソ連の支配下に組み込まれ、赤化した。一方、敗戦国ドイツは分断され、ソ連圏に組み込まれた東ドイツも、ナチス時代を全否定し再出発を誓う西ドイツも「カティンの森事件」の真相究明をソ連に迫ることが出来ず、長年の間この事件は歴史上のタブーとなった。これが、「カティンの森事件」が長年ドイツの犯行と言い続けられた理由である。この映画の途中では、ポーランドのクラクフにあるヤゲウォ大学では、アンジェリの父親を初めとする全教官がドイツの博士の講演を聴くという名目で、一カ所に集められ、有無を言わさず逮捕された場面があったが、この時期にポーランドの大学教官や医師や裁判官・弁護士、教師、技師、聖職者などの相当数が壊滅的な状態になるまで殺戮され、一部地域ではポーランド語を話すことさえ許されなかった。今回の映画「カティンの森事件」はソ連による蛮行である。しかしナチスドイツもポーランドに対して同じような卑劣な行動に出ている。戦争にまつわるナチスドイツの非行を挙げればきりがないが、この戦争では、250万人にのぼるポーランド人が土地を奪われ追い立てられ、また無差別に徴発され、ドイツの工場などで重労働をさせられて死亡した記録もある。カティンの森に送られたはずのポーランド将校アンジェリの友人の場合は、何故か生還して大尉から少佐へと昇進している。彼が、夫の帰りを待つ妻のアンナ達に夫の死を告げて廻るのだが、何故に生還したかは明らかには見えず、おそらく、共産主義の手先となって、働くことで命を拾ったものであるようだ。やがてその彼も、自分の気持ちを恥じたのか、酒をあおって歩きながら拳銃自殺を遂げるのである。「カティンの森」での生々しい銃殺場面は延々と10分にも及ぶ。何名かの将校が、後ろ手に縛られたまま、背後の至近距離から、後頭部を拳銃で次々と殺されていくわけで、それも、ポーランドの時代を背負う、将校ばかりということであるから、いかにソ連がこれらの人たちが今後とも敵対勢力になることを恐れていたかが解ると共に、残虐さと、非情さが、淡々と描かれている。ナチスドイツが起こしたのか、ソ連のKGBが起こしたのか後に調査団が入り調べることになるのだが、そのために墓地に埋められた将校達は3度も掘り返されるというさらなる死者への冒涜となるわけである。調査の結果は、後頭部を撃つ手口は、KGBのものであり、銃弾はドイツ製であったものの、後にドイツからソ連に輸出されていることが判明するなど様々な事が明るみに出でて、ソ連の仕業ということが明確になるのである。戦争という狂気が、また、時として、同時期に権力を握ったスターリンや、ヒトラーの狂気が、かくも人間性を破壊し、心というものを失っていくのかということをおぞましく感じた。日経新聞の「私の履歴書」で細川元首相が引用しているように、江戸時代の学僧、清厳宗渭がいう「狂人走不狂人走」が悪い形で起こった結果である。「狂人走不狂人走」という意味は、「世の中は一人の狂的とも言える熱情を持った人間が走り出すと、世界もそれによって動かされていく。」ということだそうである。1990年にゴルバチョフが正式に非を認めたものの、この事実は消せないわけで、監督の意図するところ、ロシア人を恨むという意味ではなく、こういった非情さは人間の誰しも持っているものであり、他国の戦争経験国の皆は、等しく権力が真実を曲げ自滅の道を辿ることを戒めなければならないとしている。我が国の場合も、同様な経験をしてきており、自らを戒める側にもあるわけで、耳の痛いことではあるが、未だに世界中で、大量虐殺が行われている事実を考えてみなければならないと感じた。
2010.01.17
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連れ合いが長年、観たいと思っていた映画が再び上映されるというので観に行くことにした。映画の名前は「赤と黒」。19世紀中期のフランスの作家であるスタンダールの長編小説を映画化したものである。私は、恥ずかしながら、文学については得手としないので、この物語も題名と、作者は知っているが内容は、知らなかった。有名な作品であることや、主人公のジュリアン・ソレルの名前などは記憶にあるから、なにがしかで触れたことはあるのだと思う。題名が「赤と黒」というのもなにやら惹きつけるところがある。映画の復刻は、主人公を演じているジェラール・フィリップが没後50年を迎えるというので特別に企画されたシリーズの内の1つであるそうだ。ジェラール・フィリップは1959年に36歳の若さで没した、今なおフランス映画史上に燦然と輝き続けるハンサムなスターである。原題は「LE ROUGE EY LE NOIR」で制作されたのは1954年とあるから、ジェラール・フィリップ がまだ、31歳というみずみずしい時代の作品である。最近の映画は、我々シニアは1000円と決まっているのに、この作品では、その特権が許されず、1500円を支払うことになった。途中で、5分程度の休憩が入るという、上映時間が3時間9分にも及ぶ大作だからかも知れない。後で知ったが、元の映画にない9分間の部分がこの復刻版には追加されているというのだ。之に対するプレミアと考えれば納得すべきであろう。連れ合いの話では、この映画は、フランスの映画界におけるヌーヴェルヴァーグ(新しい波)時代に入る直前の古典的な作風と、色彩的にも柔らかで美しいと評判であった作品ということで、若い頃に観る機会を失したので是非観たいと前々から思っていた作品だということだ。今回は、ジェラール・フィリップが没後50年ということに併せて、映画フィルムをデジタルリマスター化し蘇ったということらしい。「赤と黒」の他にも、ジェラール・フィリップが主演したスペクタクルロマンの「パルムの僧院」、高校生と人妻の道ならぬ恋を描いた「肉体の悪魔」、夭逝した天才画家、モジリアニを描いた「モンパルナスの灯」などの映画が、相次いで復刻し、公開されている。フランスの映画俳優で、美男子といえば、その双璧として、アラン・ドロンが挙げられるが、ジェラール・フィリップはその一世代前のフランス映画界の二枚目スターである。夭逝しただけにその人気は未だ衰えずというところで、日本でいえば、赤木圭一郎などが之に当たるのかも知れない。だが私に言わせれば、比較にならないくらいにジェラール・フィリップの名前を挙げたい。連れ合いも、この「赤と黒」の主役青年ジュリアン・ソレルの役はアラン・ドロンではこなし得ず、やはり、ジェラール・フィリップであろうとのことであった。映画を見終わって、なるほどと頷かせるものがある。映画といえば、私などは、ジェラール・フィリップが生まれた年に亡くなった、これもハンサムなスタートして有名な、エロール・フリンの「ロビンフッドの冒険 」や「ドン・ファンの冒険」など観た記憶がある。また、女優では、数カ国語を操る知的美貌女優の、イングリッド・バーグマンが思い出され、彼女が、ユル・ブリンナーと共演した、映画「追想」(アナスタシア)は内容こそ忘れたが、何故か、今でも連れ合いの若い頃と共に、連鎖的に思い出すのである。スタンダールの小説そのものを読んだことがないので口幅ったいが、内容は、道ならぬ恋に出世という横糸を絡み合わせた、似たような作品が多いようだ。物語は、1820年代というから、5年前にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、フランスに王政が復古した時代が背景である。映画のスタートは法廷シーンから始まる。ジュリアン・ソレルが、殺人未遂の罪で、陪審員裁判で裁かれるという場面である。これを観ていると、1820年代のフランスの法廷が垣間見られる。もちろんに日本における裁判員制度の参考にはならないだろうが、ともかくも、6人ほどの裁判員が参加した民主的な(?)裁判である。ダニエル・ダリューが演じる、貴族の人妻(レナル夫人)と道ならぬ恋に落ちた、ジュリアン・ソレルが、そのレナル夫人に銃弾を2発、発砲し、弾はそれてというか、そらしたのであろうが、その殺人未遂罪で裁かれるというシーンである。ここで、当時のフランスの世相が強く印象づけられる。すなわち、ナポレオンが倒れて後、フランスでは軍人に代わって、僧職が重きを成し、貴族社会が、世間を支配する時代となっていた。ジュリアン・ソレルは世が世ならば(ナポレオンの時代が続いていれば)軍人として活躍出来ていたであろうが、こうなった今は、出世の道も尋常では成らないという鬱屈したものを持っているわけで、法廷での最終意見陳述でも、そのことを堂々と述べている。すなわち、その最終意見陳述は、「法廷や裁判長に対して自分は許しを請おうとは思っていない。ただ、自分の罪は下層階級である自分が貴族階級の仲間入りをすべく、這い上がろうとしたために起こしたもので、之に対する断罪は下層階級全体に対する、貴族社会の断罪だ」と断言するのである。このインパクトは大きい、まず罰ありきの当時の裁判の様子が知れるわけだ。映画の最期では、絞首台に向かうジュリアン・ソレルが映されるが、殺人未遂で、何ら相手を傷つけていない事件で、死刑はないだろうという感覚である。それが当時のフランス社会であったのだと思い知る。ここから回想的に物語は始まる。貧乏で平民出身ながらもラテン語を得意とする聡明な青年ジュリアンは、司祭の推薦で町長であるレナル家の家庭教師となる。そもそもは、レナル夫人の好感触を感じ、ある夕涼みの庭で、夫のレナル町長の目を盗んで夫人の手を握る所から始まる。それを実行してしまうと次はレナル夫人の寝室に忍び込むという行動に出るという風にエスカレートする。この事を、レナル家の女中で、之もジュリアンに思いを寄せる女中に見られたから話がややこしくなる。レナル夫人も燃え上がり、二人はいつしか人目をしのぶ恋仲になる。しかし、レナル夫人の子供の病気をきっかけに、また、匿名の誹謗レターがレナル町長に届いたことなどから、葛藤の末、ジュリアンはスキャンダルが大きくなるのを嫌い、出世の近道である神学校へと旅立つ。神学校を出て、再び司祭の紹介で、侯爵家の秘書として採用され、好感を持って迎え入れられる。この侯爵家でも、高慢ちきで奔放な侯爵令嬢マチルドの誘いに乗り、「ハシゴで2階の私の部屋まで上がってきて」というメモの指示するまま、半信半疑でジュリアンは、それを敢行するのである。それも、曲折はあるものの成功し、マチルドは自らの髪を切って愛の証としてジュリアンに渡すまでになる。この辺りの恋の駆け引きは、何とも見ていてはらはらするが、心理葛藤がさすがに巧く描かれていて、スタンダールの一面を見る感じがした。侯爵令嬢マチルドの当時としては大胆な生き方は、一寸した驚きで、恋は地位・権力や金に勝るのか、と単純に思わせるところが一寸くさい感じである。ジュリアンとマチルドの共同戦線がスキャンダルを恐れる貴族社会の旧弊を利用した形で、ド・ラ・モール侯爵を何とか説得してしまう。ジュリアンとマチルドの恋が成就し、ハッピーエンドとなるのであれば、この作品も駄作になるのであろうが、最後にもう一波乱がおこる。ジュリアンを得意の絶頂から地獄の底へ突き落としたのはレナル夫人の過去を告白して、ジュリアンを誹謗する形の手紙を侯爵家に送りつけたことである。なぜレナル夫人はそんな手紙を書いたのだろうか。そこには、レナル夫人の告解を聞く顔を見せない神父の姿が映る。キリスト教における、懺悔、告解のシステムを知らない私などには、その意図がよく分からないが、おそらくレナル夫人は自らが犯した不倫の罪について神に許しを請いたかったのであろう。しかしながら、夫人が用意をした懺悔文を、告解を聴く側でありながら、ジュリアンの順調な出世振りに嫉妬する神父の思惑通り書き換えさせられていくうち、夫人も、侯爵令嬢とジュリアンとの間に嫉妬心を持ち結果的にはジュリアンを陥れる結果となるわけである。そして、冒頭のジュリアンの判決の日に繋がるわけだ。そこに、ルイス夫人は夫と子供を伴って裁判所まで来るのである。法廷内には入らず、馬車の中で、密かに様子をうかがううち、ジュリアンへの死刑判決を知る。ジュリアンのピストルによって危うく殺されそうになったのに、ルイス夫人はジュリアンに対して恨みではなく、なお愛情を抱いている。馬車を降りてジュリアンの所へ向かおうとする夫人に、夫は「ここで馬車を降りることは、自分や子供たちと永遠の別れを告げることになる」と強く諭したのだが、ルイス夫人の意志は硬く、馬車を降りるのである。何故私は傷つかず、生きているのにジュリアンは死刑になるのか。彼女はショックを受ける。司祭は、ジュリアンへの特赦の手がかりを得るため、牢に赴くがジュリアンはかたくなに死を選ぶ。司祭に頼み込み、夫人は何とか説得すべく独房に入りジュリアンと話す。もはや2度と夫人と会うことはできないまま死刑になるものだと覚悟していたジュリアンは夫人の姿を見て驚き、感動するが、ジュリアンの気持ちはやはり変わらなかった。自分の才覚と美貌を最大限活用して貴族社会に這い上がることを唯一の目標としてきたジュリアンに取っての戦いは幕を閉じたのである。フランス社会に限らず、身分階層を打ち破ることの難しさは、何処の国でも同じである。結局平民は貴族に勝てなかったということか。この間の美術の講座で、フランス人は、何かあると、過激なデモなどで、アッピールするが、日本はその点極めておとなしいとの話があったが、フランス人の魂の根源を窺い知るような結末であった。ジュリアンは、「私が死刑になっても、あなたは生き続けるのですよ」と夫人と約束を交わし、夫人は、約束通り、自ら命を縮めることこそ無かったが、死刑執行の丁度3日後に息を引き取ったという結末であった。題名の「赤と黒」とはどういう意味なのか、「赤」が象徴するものは「情熱」あるいは、フランス将校・士官の真っ赤な軍服ということなのであろうか。「赤」すなわち、平民となったジュリアンが、ナポレオン時代なら出世したであろう軍人の象徴という意味なのかも知れず、一方の「黒」は貴族と共に当時の特権階級にあった僧侶の服の色そのものである。その当時の「黒」は権威の象徴であったのかも知れない。映画の場面で、司祭の前に跪き、栄誉を受ける国王の姿が少し出てきたが、かの「カノッサの屈辱」なるものを思い出し、西欧社会でのキリスト教と、俗界の国王との権力闘争が、華やかなりし事も併せて感じたわけである。
2010.01.16
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今日はドラクロアの1回目である。ドラクロワの正式な名前はフェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワと随分長い名前である。ドラクロワは1798年に生まれた、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家である。パリの近郊に父を政治家、母を国王お抱えの宮廷指物師の娘として生まれ、結構裕福な家庭に育った。政治家の父は、フランス革命前から後に掛けて力を持ち続け、知事、国会議員、大使、外務大臣などを歴任する大物である。また、本当の父親は、ナポレオンの副官を務めたタレイランという話も噂されている。このタレイランは、フランス革命後ナポレオン帝政下で外務大臣を務め、ウィーン会議のフランス代表を勤めたこともある大物である。タレイランが父親だとする根拠には、単にタレイランの女性関係が派手であったばかりでなく、ドラクロワの母とも関係があったことや、ドラクロワの父は、手術後子供が作れない身体であったことが挙げられる。ドラクロワは、4人兄弟の末っ子として育ち、母が亡くなった後は、年の離れた姉に育てられたという。パリ名門のインペリアル(帝国)高校に入り、新古典主義の画家ゲランに入門した。その師、ゲランが美術学校の教授になり、その美術学校に入ることとなった。ジェリコーに影響を受けたが、ジェリコーが夭逝したことを悼んだという。彼自身は、ナポレオン戦争の終了後、9年目に生まれたために、戦争の経験は無く、軍隊経験のないことに、何となくある種の引け目を感じていた。それが、勇ましい絵である「民衆を率いる自由の女神」といった作品に代謝して現れることになったともいわれている。先ず紹介された絵画は、「座る裸婦・ローズ嬢」というデッサンで、誰でも画家が初めに取り組む習作のようなもので、ゲランに師事していた初期の作品である。特にドラクロワの作品としては変哲もない作品である。「ダンテの小舟」は当時の画家がすべからく、イタリアへの遊学が登龍門のようなものであったが、ドラクロワの場合は、イタリア語を熱心に勉強して、難解なダンテの「神曲」を翻訳するまでになっていた。この作品は、サロンに出品されたが、その時の正式名称は「フレギアスに導かれて地獄の町ディテの城壁を巡る湖を渡るダンテとヴェルギリウス(罪人たちは舟にすがりつき、あるいは乗り込もうとする。ダンテはその中にフィレンツェの人を認める。」と長ったらしい。ダンテに影響を与えた、ローマ詩人ヴェルギリウスを先導役として、「神曲」の中の地獄・煉獄を巡るという内容の作品であるが、当時は、こういった細かい説明を付けないと作品の焦点が分からないくらいの内容であった。小舟にまとわりつく罪人や、囚人などの描き方はジェリコーの「メデューサ号の筏」の筆致を思い起こさせる。この作品の賛否は2つに分かれ、批判的な評では、新古典主義としては筆致が荒っぽすぎるといわれ、また一方ではそれを力強い描写として評された。いずれにしてもこの作品は、国家買い上げ作品となり、国家買い上げは金銭的には良い条件ではないものの、一定の権威付けが成されたということで、現代絵画の主流を作り上げたことになる。「ヒオス島の虐殺」はキオス島ともいわれているが、トルコのイズミールの西方のエーゲ海に浮かぶ小さな島で起こった、ギリシャの対オスマントルコ独立戦争時の惨状を描いた作品である。独立戦争中に、1万のトルコ兵によるキオス島の急襲と虐殺の状況を描いた作品で、ギリシャ系の民衆2万人が犠牲となり、数万人が奴隷にされた事件を描いたものである。とは言いながら、南京虐殺事件などにも見られるように、犠牲者の数は、当時の市民の数を遙かに超えた誇張であることも分かっている。この作品に対して、グロ辺りからは「絵画の虐殺だ!」との酷評も受けたが、結局は2等賞として国家買い上げが成された。こういった点でもドラクロワは親の七光り的な有利さを持っていたようである。「ミソロンギの廃墟に立つギリシャ」も、対トルコ独立戦争時代のギリシャ内部の内戦を擬似的に描いた作品である。ミソロンギは、ギリシャの要塞で、真ん中の女性をギリシャを、擬人化した形で表現し、後ろに立つ浅黒い傭兵はモロッコ人である。この戦いには、イギリスの詩人バイロンが、義勇兵として参加し、この要塞で戦死している。右下の要塞の石の下から除く腕は、バイロンそのものを暗示しているといわれ、今でもギリシャの英雄としてたたえられている。一高寮歌に「バイロン、ハイネの熱なきも・・・」とあるバイロンである。「サルダナパロス王の死」はサロン出品用に描かれた、大型の作品で、古代西アジアを描いた作品である。アッシリア王(一つにはバビロニア王との説もありややこしくなっている)は放蕩の限りを尽くし、民衆の反乱に遭う。その時、潔く死を選ぶまでは良いのだが、死ぬ前に、過去に寵愛した女性や愛馬、それに集めた財宝のすべてを焼き尽くし、それを愛用のベッドからけだるく眺め、やがて自らも死んでいくという内容である。従来の正義や秩序のための死ではなく、自分の利己的な生き様を貫いた、残酷な美しさという点が従来の新古典主義と隔絶したところである。ドラクロワが影響を受けた作品として、ジョン・マーティンの「ニネヴェの陥落」、ティッツァーノの「聖母の聖天」やルーベンスの「レオキッポスの娘達の略奪」さらにはティントレットの「最後の晩餐」等の鮮やかなオレンジの配色や、斜め対角線上の構図の取り方などが挙げられる。「十字軍のコンスタンチノープル入城」は背景にボスポラス海峡を臨む、コンスタンチノープルに第4次十字軍が入城してくる様を、フランスのルイ・フィリップ王の注文で描いた作品である。中央の勝ち誇って馬にまたがるのはボードワン王である。「民衆を率いる自由の女神」はドラクロワの作品の中でも最も有名な作品であろう。自由の女神とあるが、原文ではリベルテ(仏)=自由の意味で女神という訳は当たらない。ただ、リベルテは女性名詞であるから、自由を擬人化したときには、すべて女性となるわけで、ここに男の出番はない。俗に、この絵はフランス革命を表すと勘違いされているが、実は7月革命時のものである。圧政に苦しむパリ市民が、反動的国王シャルル10世を追放し、リベラルな、オルレアンを国王にしたときの作品である。この作品の中にドラクロワをシルクハットを被った銃を持つ男として描き込んでいるという説もあるが、この時もドラクロワは実戦には参加していなかったようである。ドラクロワは、この絵をパリの大学区の方面からパリ聖堂を見る形で場所を特定して描いている。自分が、戦いにはついぞ参加したことの無かったコンプレックスが、この絵にも描かれているのだが、戦いのどぎつさを自由の女神を模した女性をを中心に据えることで、戦争の悲惨さを和らげている。ここに描いた死体などは、ジェリコーの「メドゥーサ号の筏」でのそれと類似した手法であり、自由の女神の横顔は「ミロのヴィーナス」を彷彿とさせ、右手を高く掲げる様は、「サモトラケのニケ」のフォームを模していると見られる。実はこの女神は、戦いに出た弟を、ペチコート姿で探す女性を描き込んだという説もあるようだ。絵画を見る見方が、段々と変わっていくのを感じる。
2010.01.15
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ハイチで巨大な地震が発生した。大地震が起こる度に考えることなのだが、今回の地震はマグニチュードは7.0というから、地震のエネルギー的には、過去の地震の例から言ってもとてつもなく大きいものとではない。ところが段々と被害の度合いが激しくなってきて、世界を震撼させるような事態になっている。我が国でもあと3日で、あの忌まわしい阪神・淡路大震災から15年が経とうとしている。正にそんな折に発生した遠い海の彼方のハイチという島国の出来事であるが、地球は一つであることを感じさせる事態となった。「烈震」や「激震」の名称はなくなったとはいえ、正に最上級の破壊力であったようだ。未だに、正確な数字はわからないのだが、BBC等によると、死者は約5万人とも言われ、被災者は300万人とも言われている。一方では、ハイチ政府は、数十万人の死者も予想されていると言い、ハイチの人口が約1000万人であるから、これは途方もない数字である。阪神・淡路大震災に仕組みが似ているという。先ず震源の深さが10km程度と浅いこと、どちらの地震も、断層の岩盤が左右にずれる「横ずれ型」で、ずれた断層面の長さは約40kmということだ。ハイチの面積は丁度近畿地方の面積並みである。首都のあるポルトー・プランスは人口200万人と言うから、市内はほぼ全滅であり、写真などによると、大統領府や、カセドラルなども全くの壊滅状態であるという。阪神・淡路大震災で、死者の数が増えたのは、火災によるものが多いとあったが、今回見る限りでは、簡単な煉瓦造りに化粧モルタルを塗りつけたような耐震構造とはほど遠い建造物の崩壊による被害が殆どのようである。現地時間の午後5時に発生したとあるから、夕食の準備を始めていると思われる頃である。阪神・淡路大震災が、夜明けの5時に起きたことを考えると、今回の地震が日本で起こっていたなら、もっと災害の状態は大きくなっていたかも知れない。日本が、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレートとフィリピンプレートの4つのプレートの端境期に乗っているのと同じく、ハイチ辺りは、北米プレートとカリブプレートの両方にまたがる形で存在している。今回は、このプレートの狭間でハイチの地殻で東西に延びる「エンリキロ断層」が横揺れしたことに依る、剪断変化の地震であるという。この地方に、過去5000年間にマグニチュード7以上の地震がたびたび起きたと言うことでもあるが、さすがに今回の地震は、最近の100年間での最大規模であるという。日本では、教訓を生かし、耐震補強を施しつつあるが、それでも間に合わない建物は多い。特に古い建物については、なるようになるのを待つしかない状態でもある。これと同じように、また特にハイチでは貧困も手伝って、地震対策も思うようにいかないと言うことだろう。今回は、国の象徴とも言うべき大統領パレスも完全に崩壊し、大統領自身も、住む家が無く空港をさまよっているという放送がなされた。しかし一国の元首である、このような場合も国民を助けることを常に考えているというメッセージであった。地震のエネルギーの大きさを示すマグニチュードにもいろいろあり、1.リヒターのマグニチュード( Ml) 2.表面波マグニチュード( Ms)3.実体波マグニチュード(mb)4.モーメント・マグニチュード(Mw) とそれぞれの特徴を示しているが、最近は一般に、モーメント・マグニチュード(Mw)で表すことが多いようである。このモーメント・マグニチュード(Mw)での過去最大の地震は、1960年のチリ沖地震であろう。Mw=9.5 という未曾有のエネルギーであり、死者は2342名だと記憶している。これによる津波は日本にも累を及ぼし、日本でも142名の犠牲者が出たほどである。2004年のスマトラ沖の地震と津波では、Mw=9.3でこの場合は、津波による被害が甚大であった。そのため、桁違いの22万6000名もの犠牲者が出たと記録されている。このようにマグニチュードが9.0を越える地震は稀であるが、過去に、アラスカや、カムチャッカ沖でも起こっている。マグニチュードが高い割には、チリ地震の直接の被害者は意外に少なかったと言える。このように地震のエネルギーが大きいからといって必ずしも被害が比例するとは限らないのは当然で、阪神・淡路大震災や今回のハイチの地震のように、地震の震源の深さや、震源地からの距離に比例してこの数値は変わるわけで、所謂応答であるところの震度が問題になるわけである。これらはすべて、プレート・テクトニクス論による地球表面のプレートの接するところに起こっている。数え上げればきりはないが、プレートのぶつかり合う地域である、チリや、パキスタン、トルコ、イラン、ギリシャ、中国なども地震の被害の多い国である。プレートの上に完全に乗っている国、例えば、サウジアラビアや、アフリカ、北米や南米の中心では大きな地震が起こったことをあまり聞かない。地球環境で温暖化が叫ばれ、CO2がその元凶であると喧伝されて、この排出を如何に抑えるかで、世界中が先進国と新興国また途上国に別れて喧々諤々やっているが、世界中で、地震を無くする方向で技術力を集中するような話はないものであろうかと何時も思うのである。世に、怖いものは「1.地震、2.雷、3.火事、4.親父」の順と教えられてきたが、力が弱くなったのは親父だけで、地震も最近の親父のように非力に出来ないものかとつくづく思う。分かっているようで、何もわかっていないような地球の地震発生のメカニズムである。もし、大手を振って地震のメカニズムが、教科書通りに起こると分かるのなら、その予測さえも出来ないのは甚だしく理不尽に感じる。どうせ地球を相手の戦いに勝てるわけはないということなのであろうか。我々地震国として知られている国は、座して来たるべき大地震を待たなければ行けないのだろうか。つい最近も、政府の地震調査委員会により、東海地震についての予測がされていて、静岡県中西部、駿河湾一帯を想定震源域とするプレート境界型地震が起こることが予告されている。「この地域はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの2つのプレートがぶつかり合っていて、負荷に耐えきれずにプレートが跳ね上がると大きな地震が起きる。」ということである。この地震が、今後30年以内に起きる確率は87%、東海地震が発生すると約7900人の死者が発生、経済損失も32兆円だと試算している。この地震は、「専門家が唯一、予知可能な地震だとしており、大規模地震対策特別措置法に基づき、ほかの地域よりも手厚い観測網を敷いている。」というのだが、それ以上は、どうしようもないのである。予測は出来ても回避は不可能で、座して8000名近くの犠牲者を出すのを待っているような状態なのである。気象予報士とかいう資格があり、多くの天気予報おじさんや、お姉さん、お兄さんが居るが、これが当たった試しがないというのは言い過ぎだが、大概、前日くらいの予報が当たる程度と実にお粗末なわけである。この事から考えても、地震の回避はおろか、予知すらも出来ず、神のみぞ知るというのが本音なのかも知れない。被災した人たちは、賛美歌で気持ちを紛らわせているという。何を賛美しているのであろう。神は何をしてくれたのであろうか。いっそう、「なまんだぶ」と唱えるように教えてあげる方が良いのではないか。日本政府も金だけ出して、後は、NGOやNPOに任せるのではなく、自衛隊の派遣でもして、救済することを考えたら如何なものかと思う。
2010.01.14
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造船にいながらあまり海運のことを勉強することがなかった。私が造船を志したのも、あまり純粋な気持ちからだとは言い難いが、一旦その世界にはいると、たやすく職を変えることは出来ないのは当たり前で、その職を好きになる以外にない。大学時代に就職の件で、一度、教授の一般的な話を聞いたことがある。当時は、現在ほど就職が逼迫していたわけではなく、余程無理をしない限り、学生間の談合で、就職先は大体が造船所と決まっていた。この事は既に、「大学時代」に書いたかも知れないが、とにかく、就職先がかち合うと話し合いか、ジャンケンかという感じで決めていたように思う。教授の曰くは、「就職したら10年は我慢しろ、それでも駄目ならその時には相談しに来い。」であったと思う。10年もしたらその先生はどうなっているかわからない、ということは、一旦決めたら全うせよとのことであったと理解している。今の若者は定職に就かない、また就けないというのとは格段の相違である。だれが悪いのか、それが今、日本の社会が直面している喫緊の課題の一つであろう。幸いなことに、私の場合、何かを手に入れると、余程のことがない限り、それが一番良いと思うし、好きだと思える性格である。従って、造船を選んで、良かったと思っている。今から振り返ると、他にも多々やりたいことはあったと思うのだが、果たしてそれが出来たかどうかについては、あまり自信がない。船を造ると言うことは即ち物を運ぶと言うことである。島国日本であればこそ、海運に頼り物品を輸出入するための大量輸送は船でしかないわけで、とにかく船は欠くべからざるものであり、絶対に無くならないものである、との漠然とした認識であったと思う。造船といえば元々イギリスのお家芸であったが、私が造船を選んだ頃には、既にイギリスは凋落し、日本のお家芸といわれるようになっていた。世界一の造船大国といわれ、その業界にいることで、某かの優越意識を感じていたこともある。何しろ今の自動車産業のようなもので、自動車無くして世界はないというように、当時の造船業は、そこまでは行かないものの、とにかく世界一であったことは間違いない。私が造船会社に就職したときは、正にその絶頂期で、それから10年足らずの間は、世界一という冠がついて回った。しかも、世界シェアは半端でなく50%を超えていたのである。重厚長大華やかなりし頃である。今や郷愁を覚えるまでに遠い昔になってしまった。1980年頃から少しかげりは見えてきたものの、まだ世界に冠たる地位は保っていたのだが、その内実は様々であった。2000年頃から、韓国の台頭が始まった。そして抜きつ抜かれつの時代を過ぎ、今や建造量は韓国に世界一を完全に譲ってしまった。さらに現在では、中国の造船業界が盛んになり、2015年までに世界一位へ」という彼らの目標の達成が、現実味を帯びてきた。まあ、歴史的なことは今更とやかく言っても始まらないわけで、私など、比較的景気の良い時代に始まって、奈落の底までを一貫して味わったことを顧みると、負け惜しみもあるが、なかなか得難い経験であったという気もしている。重厚長大が軽薄短小に負け、図体が大きいだけで、中身のない造船業などは顧みられなくなり、労働集約的産業は、次第に新興国や低開発国に移管する運命にあったわけだ。鉄鋼業なども然りで、営々と築き上げた、技術の蓄積を、韓国や、中国に技術援助と称して供与し、やがて屋根を貸して母屋を取られるという憂き目に遭っているわけである。現在では、大学名でも「造船」とか「船舶」とかの名を付けていたのでは学生が集まらないのだそうで、我が校でも、工学部、「地球総合工学科」という風に名前が変更になり、その中に、わずかに、「船舶海洋工学科目」 として「船舶」の名前が残るだけになっている。生物分類体系フレームの界、門、綱、目、科に例えれば、かつては、造船(界)、大学(門)、工学部(綱)、造船学科(目)、造船(科)であったものが、造船(界)、大学(門)、工学部(綱)、地球総合工学科(目)、造船学科(科)という具合に一つランクが下がり細分化の一つになったという感じなのである。造船の技術的なことは置くとして、船舶は、船主により保持され、運用されて初めて用を為すものである。その船主も、運ぶ物がなければまた用を為さないのは理の当然のことである。鉄鋼・造船が華やかなりし時には、鉄鋼会社が自社の鉱石を運ぶという前提で建造する船舶もあった。現在世界で運行されている船舶数は、タンカーやコンテナ船などの一般貨物船が約52,000隻弱で、その他の商船は、46,000隻弱であるという。一般貨物船の内で、液状の資源エネルギーを運ぶタンカーは約7,000隻強で、乾いた資源のバラ積み貨物船はやや多く7,500隻である、その他は一般貨物を運ぶコンテナや自動車運搬船といった船種の貨物船で、約37,000隻弱だという。私が関係した船舶はこの内のほんの数隻であるし、既に転売されたり、廃船になっている船も多いことであろう。内実はどうあれ、華やかなりし頃に華やかなることに携われたことを幸運と思わねばならない。話は戻るが、船舶による運賃は、資本主義の世界では、市場によって決められるわけで、勝手に定価を定めるわけにはいかない。海運会社が船主から船舶を調達する用船料には、大きく分けて、タンカーなど油を運ぶものと、乾いた貨物(ドライカーゴー)を運ぶものの2種類がある。タンカーの用船料は、ワールドスケール(WS)なるものが使われる。これは船の大きさや、航路などによっても異なり、一概に比較は難しいので、指標として用いられ、WS=100が基準値である。以前はこの値が50が良否の分かれ目といわれてきた。2000年頃までは、この値も50を前後し、殆どが100未満であったが、一時は300を越えるくらいに上昇したこともある。現在はまた沈静化しているようである。石炭、鉄鉱石、穀物などのドライカーゴーの運賃は、バルチック海運指数(BDI)というものが使われていて、1985年の値を1,000として、これを基準値にしている。2007年後半からこの値が10倍の10,000を超える値を示すようになった。これらのタンカーや鉱石運搬船はことごとく中国向けと言うくらいに対中国に向かう船舶は急増している。なりふり構わぬ資源外交で、中国のここ10年近くの原油と鉄鉱石の輸入量は、毎年10-40%と伸び続け、現在では、鉄鉱石は、6億トンを超え、原油も、2億トンを遙かに超えることになった。船舶運用の用船料も中国の存在が大きく影響して、乱高下していると言っていいようだ。用船料という一つの切り口ではあるが、私が関係していた造船という深層には、こういった内容があるのだと言うことを改めて認識した。技術屋が、技術だけにかまけているうちに、世の中は古い技術者を置き去りにして、どんどんと前に進んでいるわけだ。中国はGDPも、近々アメリカに次いで世界第2位に躍り出ようとしている。なにか強大な異変が現実に起こりつつあるようだ。技術屋も、バランス感覚を失うことなく、世の中を見ていかねばと、ふとそう思った。
2010.01.13
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中国の前漢、武帝の頃の思想書「淮南子(えなんじ)」にある言葉である。「淮南子」は巻二十一の「要略」迄が伝わっているのだそうで、「人間万事塞翁が馬」はその巻十八「人間訓」に書かれている。「淮南子」は淮南王の劉安が学者を集めて編纂させたという紀元前の書だということである。日本では弥生土器をひねくり回していたときでありまだ邪馬台国が出来る前だと言うから恐れ入る。私は、この言葉、「人間万事塞翁が馬」の意味が好きであった。というか、好きに成らざるを得ない境遇をたどったからかも知れない。今のところこの言葉通りになっている。従って時々この言葉を思い出す。こうは言うが、恥ずかしながら「淮南子」という原本を見たこともないし、その解説本も手にしたことはないのである。また、この読みを「にんげん ばんじ さいおうがうま」と思っていたが、どうやら「にんげん」ではなく「じんかん」と読む方が正しいらしい。「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味で使われているそうだ。しかし、「中国故事物語」では「にんげん」の項に掲載されている。そこを抜粋すると、【昔、中国の北方に住む異民族を総称して胡といい、漢民族から大変恐れられていた。これはその胡の地との国境に位する城塞のあたりでの話である。 この地に占術などに通ずる老翁が住んでいたが、あるときいわれもなく翁の馬が胡の地に逃げてしまった。南船北馬(この場合は北では良い馬が多いという意味か)といわれる北地で馬を失ったことを、近所の人が気の毒がって慰めに来てくれた。すると翁は一向気にとめる様子もなくいった。「これがどうして幸福に転じないことがありましょうぞ」 はたして数カ月もたつと、その馬はどうしたわけか胡の良馬を引き連れて帰って釆た。人びとはさっそくお祝いの言葉をいいに来たが、「これがどうして禍に転じ得ないと申せますか」と、少しもうれしそうでなかった。 翁の家は良馬に富むようになったが、やがて乗馬の好きな息子が、馬から落ちて股の骨を折ってしまった。びっこになった息子をかわいそうに思った村人は、また翁を慰めにやって来た。「いやいや、なんでこれが幸福にならないことがありましょうぞ」 翁は依然として平気のへいざであった。 その後一年たったころ、胡人が城塞になだれ込んで来た。村の若者という若者は弓を引いて戦い、十人のうちで九人までも戦死した。しかし翁の子は不具者であったため戦争に駆り出されず、父子ともに無事であったという。】ということである。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」(『史記』南越伝など)と類語であり、「人間の吉凶禍福は定まり難いこと」を意味している。「淮南子」の本意は「偶然と見えることも皆人間が自ら招くものだ」というところにあるらしい。「人間訓(じんかんくん)」の書き出しの一部に、「それ禍の来るや、人自らこれを生ず。福の来るや、人自らこれを生ず」とあるからである。「禍福は糾える縄の如し」は『史記』南越伝の『因禍爲福。成敗之轉、譬若糾墨。』から出た言葉で、意味は「禍いに因って福と為す。成功と失敗が転変するのは、譬(たと)えばより合わせ縄た墨(縄)のようなものである。」 ということである。これに類する言葉は、他にも多く見られる。『老子』、『戦国策』、『荀子』、『説苑』、『十八史略』などである。学んだついでに、「淮南子・人間訓」の原文と多少の意訳を書いておくと、【近塞上之人、有善術者。(国境近くの塞に住む人、占術を善くする者あり。) 馬無故亡而入胡。(馬、胡に入り亡(に)げた故、無くした。) 人皆弔之。(人皆之を弔(ちょう)す。) 其父曰、此何遽不為福乎。(其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)福(さいわ)いと為(な)らざらんやと。) 居數月、其馬將胡駿馬而帰。(居(お)ること数月、其の馬、胡の駿馬を將(ひき)いて帰る。) 人皆賀之。(人皆之(これ)を賀す。) 其父曰、此何遽不為禍乎。(父曰く、此れ何遽、禍(わざわ)いと為らざらんやと。) 家富良馬。其子好騎、墜而折其髀。(家良馬に富む。其の子乗馬を好み、堕ちて其の髀(ひ:股)を折る。) 人皆弔之。(人皆之(これ)を弔す。) 其父曰、此何遽不為福乎。(其の父曰く、此れ何遽 福 いと為らざらんやと。) 居一年、胡人大入塞。(居(お)ること一年、胡人大いに塞に入る。) 丁壮者引弦而戦。(丁壮(ていそう)なる者は弦を引きて戦う。) 近塞之人、死者十九。(塞に近きの人、死する者十に九。) 此獨以跛之故、父子相保。(此れ独り跛(は)の故(ゆえ)を以て、父子相保つ。) 故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。(故に福いが禍いと為り、禍いが福いと為 り、化することは極むべからず、深きこと測るべからざるなり。)】とまあ、長々と書いたが、今回の日航問題を考えるに、正にこの事(禍がやってきた)を言うのかと思い至るわけである。日航OBにしてみれば、さんざん良い思いをしてきたわけで、これは息子が乗馬に失敗して股を折ったという時点であるのかも知れないし、日航の現役にとっては、日の丸航空の栄光ある過去しか知らず、晴れ晴れと入社を果たしたわけで、今、股を折ったのは、自分のせいでもないだろうが取り敢えずは痛いわけで、この先3年間で13000人が馘首されるのだと考えると、おちおちしては居られないだろう。これに対し、銀行筋の債権放棄は、大きく見れば、特に何の痛みもないであろう。傾けば、また公的資金に頼れるからである。ところが、一般の株主はそうはいかない。親方日の丸を信じ、優良であると信じ、よもや倒産などとは考えても居ないその良馬(この場合良翼)が、胡に逃げて行ったようなものである。今回は、数ヶ月程度待っただけでは、良馬を引き連れて帰ってくるとは思えないのだが・・・。良馬とはいえ、乗りこなせなかった株主側にも、株価が水泡に帰するという、限定的「株主責任」とやらが問われるわけであるが、今日このように、腐りきるまで放置して置いた、経営者側や、国のごり押しについては何時も不問なのである。この度の経営者が総退陣することは当然の結果の1つであるが、西日本の列車事故などのように、こうなる道を敷いてきた過去のトップや経営陣にまでには類が及ばないようになっているのがどうにも間尺に合わない気がするのである。何時もこの点が私などには腑に落ちないわけだ。そして、そういった重大な責任を一番感じなければいけない連中は、常にその責を問われることもなく、今後も、のうのうと暮らしていくわけで、その点を考えると、あざなえる縄は、どうも1本ではないらしい。「天網恢々疎にして漏らさず」と言うが、本当だろうかと思う、そういった案件、事件は、世の中に山とある。近くは社保庁のトップ連中、対首相への子供手当、恫喝、居直りの民主党幹事長等であるが、悪意の行為かどうかは神のみぞ知るで、司法の暴き得ざるところであろう。日航の場合も明らかに、過去のトップの「無能」にあると考える。右肩上がりの時代には何もせず、「無為」で進めたのかも知れないが、乱世となった右肩下がりの時代になっては、過去のままの「無為」では済まされなかったわけだ。「論語」の第八巻、衛霊公第十五・五において言われるように、「子曰く、無為にて治まる者はそれ舜なるか・・・」、何もしないでいてうまく治められるのは、 古の舜賢帝だけであろうということだ。先ず、日航のトップに舜が居なかったことだけは確実で、現在、白羽の矢が立とうとしている、京セラの稲盛会長は、乱世を仕切れるのかどうか、大いに注目すべき所である。
2010.01.12
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日本航空(以下JAL)が存亡の危機に立っている。私は、アウトサイダーではあるが、少なからず関係しているので、いくらか気になるところである。JALは1951年に呱々の声を上げた、官制航空会社である。勿論当時はプロペラ機であり、まだアメリカ軍の管理下にある羽田飛行場を使用させてもらう形でのスタートであった。1960年代に入ってジェット機が登場し、主にダグラス社製の機体を使用してきた。東海道新幹線が開通したのは1964年であるから、飛行機の方が、ずっと早く東京大阪間を結んでいたことになるが、我々庶民の手の届くところにはなかった。第1次石油ショックのころ、ハイジャックされ、爆破されたのもJAL機である。成田空港が開設し、本格的国際路線に参入、乗客が1億人を超えた頃でも、私にとって航空機は無縁のものであった。第1次石油ショックで、メジャーが、新たなる石油資源を求めて、石油掘削リグ建造の気運が高まったのはこの頃からである。海外へ観光に出かける日本人が400万人を突破した頃、私は、石油掘削リグの設計をせっせと行っていた。そして、 成田空港が開港後、約6年での国際旅客数が5,000万人突破した頃、初めて私はJALのお世話になった。尾翼の鶴のマークを付け、今でも面影を残すが、当時の機長や副操縦士などの乗務員や、スチュワーデスの華やかだったことを思い出す。1984年初めて海外出張を仰せつかり、ノルウェーのオスロに飛ぶことになった。当然その時点では、海外へ行くのにはJALしか考えられなかったようだ。全額でいくらだったかは、事務が扱っていたので、よく覚えていないが、当時の上司からは、「君はフル・フェア・パッセンジャーだから胸を張って行ってこい」という趣旨の言葉を戴いた。当時は格安航空券などはなく、往復では、目も飛び出るくらいの金額だったようで、それを全額値引き無しで買ったという意味であり、しかもビジネスクラスと来ていたから、とても贅沢に感じられたものだ。当時は、コペンハーゲンや、ましてオスロへの直行便などはなく、給油の関係もあり、必ずアラスカのアンカレッジ経由でのヨーロッパ線だった。ビジネスクラスの搭乗者は少なく、従って、スチュワーデスのサービスもきめが細かかったように思う。これに対して、その頃、国内線を基盤にした全日空(以下ANA)はあまり目立った存在ではなかった。両社M&Aを重ねて、今日では、2大政党ならぬ、国際航空業界の日本に於ける2大会社となった。ここに来て、積年の膿が出てきたのであろう、JALが存亡の危機に立たされている。当時、華やかな機長クラスがどれほどの給料を貰っていたのか詳しくは知らないが、重厚長大に育った、私などとは比べものにならないくらいの高額であったことに違いはない。従って、退職金組み込みであるとか形態は様々であろうが、年金額でも月額50万円を超す人さえいるという。我々にとっては、目の玉が飛び出るような金額である。ところが一方、地上勤務者などは、割合恵まれず、社内の給与格差が異常に多いのもこの会社なのではないだろうか。巨大な航空機の、ややこしい計器を操る技量に対して、ある程度の差はあるべきかも知れぬが、それとて、整備士や、地上勤務者が居なければ成り立たないわけである。その、JALが今期末で、8000億円を超える債務超過が予測されていて、普通株の価値はゼロに近くなるのだそうだ。東京証券取引所への上場廃止も検討されていると報じられている。JALの株券が“紙切れ”になることも十分考えられる訳だ。もっとも、株は皆、電子化されているので、紙切れにはならないという駄洒落もあるのだが・・・。破綻銀行を救うという名目と同様に、日本の航空会社を救うことは、国是に近いという感覚のことが取りざたされている。海運業界もそうなのだが、空運業界にもアライアンスと呼ばれる企業連合がある。空運業界では次の3つのアライアンスがある。1.スターアライアンス(UA,ANAなど)2.スカイチーム(AF,デルタなど)3.ワンワールド(AAL,BA,JALなど)上記アライアンスに入っていない、その他の航空会社も多数有るが殆どは3つのアライアンスが占めているという。JALとは連合が異なるデルタがJAL救済に名乗りを上げているという。アメリカンエアライン(AAL)は、同じワンワールド内での救済の意志があるようだが、アメリカの会社に救済を求めるようなことがあっては、日本のそれでなくても脆弱な航空業界は壊滅する危機に見舞われる。例えば、デルタがJALを救済(ありていに言えば吸収)すれば、JALには一部東南アジアの国際線と、国内線が限定的に割り当てられ、太平洋航路などのドル箱路線は皆デルタかまたはAALが取ると言うことになるだろう。そして、限定した業務内容に見合って、大胆なリストラを行ってくるに間違いはない。だだし、かろうじてJALという名前だけは残るのであろう。これに対して、ANAと合併して、日の丸路線を残せという考え方もあるようだ。しかしこの考え方は、独占禁止法の観点からも難しいのではないか。又、よしんば、この方式が成ったとしても、利用客には、大幅な不利が生じることが予想される。他国の航空会社との競合と言うことになるのだろうが、昂じると危険な結末を招きかねないと危惧する。国が、JAL救済に逡巡するのは、前にも述べた、JALのOBと現役に対する年金問題である。国の救済はとりもなおさず公的資金という美名の下、我々の血税を注ぎ込むことである。何で、我々の倍以上の年金を貰っているJALOBを我々が助けなければならないかという素朴な憤りがある。年金基金の規定では、給付削減を実行に移すには、受給権者全体の3分の2以上の同意が必要であるという。このままほおって置いたら元も子もなく、給付削減の同意がなければ企業再生支援機構は、年金基金の解散も検討しているといい、解散されることになると、JALのOBに支払われている企業年金の削減率は現計画の約30%から約60%に跳ね上がるというのだ。にもかかわらず、現段階では9000人のOBからの同意取り付けは難航していて、4日時点で約3000人、9日でも約4000人に留まっているのだそうだ。現状では大幅減額の実行が困難な状況のようである。一方、企業再生支援機構が銀行団に提示した再建案の骨格は「会社更正法適用申請で株主に一定の責任を負わせる一方、銀行団に3000億円の債権放棄を要請する」というものである。この点についても銀行側は難色を示しているようだ。自分が助けられるときには喜んで何でも応じたのに、他人事となると厳しい。企業再生支援機構は「DIPファイナンス」という形で、当面の融資2000億円を決めたという。国土交通大臣も、JALは潰さないと言うことを言っている。三方一両損になるのか、やはり、JALOBの粘り勝ちになるのか、株主に一定の責任を負わせるという下りが気になるところであるが、日本の空を、外国の特にアメリカの航空会社が飛びまくるのを見るのは戦時中や、戦後に戻った気がして、あまり気持ちが良いものではない。
2010.01.11
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ITはアイティーと読み、情報技術のことを言いコンピュータやデータ通信に関する技術を総称的に表すことばである。英語のフルスペルはInformation Technologyと書く。インフォメーションは「情報」、テクノロジーは「技術」を指すので、総合して「情報技術」ということである。私が英語を習い始めた、半世紀前にはそんな意味のITはなかった。ITといえば、その後にisが続く「それ」という意味で使われていただけであり、その後一寸色気づいた頃には、Itには俗に性的魅力という意味もある事を知り、そういう意味で「イットがあるな」とか使った時期があった。話を戻して、このITは実にすさまじい発展を遂げてきた。何時も書くことだが、私が会社に入った頃には、パソコン(パーソナルコンピューター)はまだ存在していなかったように思う。もっぱら大型計算機IBM360という怪物が、人間よりも大切にされた空調環境で発熱を抑えながら地道に一晩中動いていたのを思い出す。当時のソフトといえば、COBOL(コボル)という事務専用のソフトと、FORTRANという技術専門のソフトがあり、私はFORTRANと格闘したものである。簡単な技術計算は、メインの1本道で済ませられるのだが、複雑になると、メインだけではややこしくなり、部分部分をサブルーチン(脇道)として計算して、メインに返すという手法が採られた。メインとサブルーチンのやりとりが、結構面倒くさかったことを思い出す。何しろ、「0」と「1」の組合わせで計算するノイマン型計算機では、それこそ1字一句でも違っていたら、結果は「×」である。現在のインターネット検索などでは、1字違いくらいだと、「○○の間違いではありませんか」と親切に教えてくれるがコンピューターの最初の頃はそういったことは考えられず、その間違い1字を探すのにさえ苦労したものである。その後、人間の認識のあいまいな部分をコンピューターで処理する技術として、「ファジー」(曖昧さ)という技法が取りいれられ仙台の地下鉄に使われたとかという話を聞いたことがある。オン、オフという「1」か「0」ではなくて、もう少しゆっくりとか、もう少し早くとか言う曖昧な制御が出来るようになりスムーズな運転と、消費電力量も軽減されたと聞く。パソコンが導入されて、最初に目にしたソフトがBASIC(ベーシク:Beginner's All-Purpose Symbolic Instruction Code)というソフトである。このソフトはビギナーズといわれるだけあって、比較的取り組みやすく簡単な技術計算にも使えた。私が買った最初のパソコンは、このBASICをカセットテープで読み込ませて(ロード)から使うというもので、今のギガ(G)という単位からすると10が6つも少ないキロ(K)の容量でしかなかった。当然ハードディスクなどはないわけで、いちいちフロッピーを出し入れする苦労をしていたのである。パソコンが何度も新しくなる度に、パソコンが早いとか遅いとか、容量が大きいとか少ないとかで、心待ちにするようにして最新高級機種(ハイエンドモデル)を買いたくなったものだ。その延長で、私などは数年を過ごしてきたのだが、それまでは、コンピュータを他のコンピュータと接続せずに利用する、スタンドアローン(stand alone:自分のパソコンだけでソフトを使う)での利用であったが、会社では社内LANが普及し、ついには家庭でもパソコン通信を経て、インターネットに接続することが当たり前になってきた。初めは、電話回線を使っての接続であったために、接続と同時にダイアルを回している「ジーコ、ジーコ」という音を聞いて、その後「ガーーーー、ピーーーー」という音の後に繋がるという代物だった。それが、広帯域総合デジタル通信網とかいう名前で高速化し、大容量の写真や動画を瞬時に送られるようになった。以前写真をダウンロードするために、少しづつ走査線が流れるに従って写真が出てくるといったことを懐かしく思い出す。ブロードバンド(広域帯)ということで、例えて言うなら、1車線の農道が、いきなり片側3車線の計6車線高速道路になったようなものだ。それは渋滞もなく「早い」を実感するに十分である。このようにして、インターネットによるネットサーフィンで、世界中のどこにでも飛んでいける気軽さと便利さを味わうことになった。パソコンの前に座っていると、殆ど何でもわかるというものであり、これがややもするとパソコンお宅と言われる事になるのかも知れない。「あの人はパソコンが趣味だから」というのは、先ず、こういったことを楽しんでいる人達のことであろう。もっとも私に言わせれば、お宅とは別な意味を持っていると思っている。それにしても、私などは与えられた範囲での高性能な機種を選び、使用するだけなのであるが、中には、自分で部品(キット)を買って自作のパソコンを作る人がいるのだと言うから驚きである。ところが、机の前で線に繋がれたパソコンを利用するのでは、そこにいなければ出来ないわけで、それも面倒なことに思えるようになった。そこで、無線通信によるパソコンの利用が可能になってきた。いつでもどこでも使えると言うことは、便利なことである。今では、小さな携帯電話やスマートフォンでそれが可能な時代となってきた。若い人は、躊躇無くそれを使いこなす。仲間の中には出先で、気になる今日のプロ野球の結果なり、ゴルフの結果をリアルタイムで手に入れるまでになっている。それはとても便利なことであるのだが、やはり歳と共になかなかついて行けなくなるのである。元々パソコンなどの恩恵に浴してこなかった人は、差ほどにも感じないだろうし、過去に、私の会社の馬鹿な上司は「俺など、一度もキーボードすら叩いたことがないからなぁ」と自嘲的でなく呵々大笑していたものがいたが、自分もあながち笑えないことになってきたのかと思う。今日では、「グリッドコンピューティング」や「クラウドコンピューティング」と言うことが先端で謳われている。「クラウドコンピューティング」等は、自分の端末には使用するソフトは置かずに、雲のような彼方にある、あらゆるソフトや機能を駆使して、出力を得るというものらしい。自分は入力するだけで、ソフトは、人任せということだ。そこがブラックボックスになるわけで、よくコンピューターで計算を始めた頃には「これは、コンピューターが出した結果ですから」と言い、自分が入力した値や、環境条件などは度外視して、自慢げなことを聞いたが、このように自分で判断できないようになってしまい、出てきた意味合いを理解せずに信奉してしまうこともあったようだ。又私の例では、仮想ハードディスク(HDD)をソフト会社が提供してくれていて、そこにデータをためていたのだが、早、それがどうなったかさえ忘れてしまったり、つい最近は検索会社が無償で提供してくれていて、海外での通信で便利に使っていたメールが、国内で開いてみようとしたところ、「あなたは4ヶ月間これを使っていないので、データはすべて消去され、復旧することは出来ません」と木で鼻を括った様なメッセージの画面が出てきた。海外で知り合った人たちとの交流の結果すべてがパーになってしまったのだ。もう少し、きめの細かい、サービスであって欲しいが、それを望んでも仕方のないことである。銀行などでは、うるさいほど通知がダイレクトメールなどで送られてくるのだが、こちらの方は、無料で使わせてやっているというおごりがあるのであろうか、私には前触れ成しに突然データが消えてしまったのである。ITの将来は、便利で、心地よいものばかりではないだろうことが垣間見られる。アメリカの国防総省が、日本の防衛省が、突然マシンダウンしたらどうなるのか、社会インフラだから、壊れることもある、橋梁だって、道路だって壊れたり土砂崩れすることはある。まして目に見えないものである、最近は停電が起こることは稀だが、それでも起こらないとは言えない。これと同じようにクラウドが破損したらどうなるのだろうかと、杞憂してしまう。かつて、漫才家であった春日三球の「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」では済まされないくらい、心配で夜も寝られなくなるのではと考えるのは私だけなのだろうか。
2010.01.10
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時々思い立って歎異抄を読むことにする。(これは、野間宏さんの本から引用している)暮れに第三章を読んだので、今日からは第一章に戻る。本文は以下のごとし、一、弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、 念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、 すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、 たゞ信心を要とすとしるべし。 そのゆへは罪悪深重(しんじゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を たすけんがための願にてまします。 しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。 悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。訳文は以下の通り、一、弥陀の誓願の不思議な力におたすけいただいて往生をとげるのだと信じ、 念仏をとなえようと思いたつ心がおこった時、 その時ただちに、その人はすべてを救いとって誰一人として捨てることがないという その大恩恵に浴することができるように、弥陀はしてくださっているのである。 弥陀の本願は、老年少年、善人悪人などの差別を少しもなさらず、 ただ信心一つを肝要とするものだと知るがよい。 なぜかというと、それはまさに、罪深く、ただただ悪を重ね、 煩悩のもえさかってやまないわれわれ衆生を救いとろうとする 願であらせられるからなのである。 だから、本願を信じさえすれば、 そのうえさらに善の行ないを積み重ねるなどという必要はまったくない。 念仏よりもすぐれている善などというものは絶対にありえないのだから。 また、自分の悪行をも少しも恐れてはならぬ。 弥陀の本願による救いを妨げるほどの悪などどこにも無いのだから。 ――このようなお言葉であった。注釈には以下のように書かれていた(抜粋)誓願不思議:修行中我々すべてを救うための願を立てられ、これが成就しないうちは成仏しまいと誓われた。この誓願は我々凡夫の思慮ではとても及ばない不可思議なものであるという。たすけられまひらせて:尊い誓願不思議に近づきのぼる気持をいっている。往生:この世で未来成仏する身に定まること。摂取不捨の利益:弥陀の慈悲の光明が迷い苦しむ者すべての人々を、念仏を媒介として救いとること。「利益」は、弥陀から与えられる救いの手(恵み)であり、自力で勝ち取るものではない。本願:弥陀が仏になる前の修行時代に立てられたもの煩悩熾盛:心身を苦しませたり悩ませたりする精神作用(貪欲・瞋恚(しんい:いかりにもえること)・愚癡(ぐち:おろかなこと)などを指す。熾盛は、燃えさかる火のようにはげしいこと。自らは無力、ただひたすらに、他力に頼り浄土の門に至れと教える、親鸞の神髄が窺い知れる。それには念仏を媒体とせよ即ち「なまんだぶ」による念仏専修でやるのだというわけだ。特に善悪は、問わないのだという。この章が初めに来るから、少し迷うところがあるが、悪人とは、俗に言う悪人とは違うのである。(第三章参照)宮本武蔵の言葉に、「神仏は敬えど頼まず」があるが、ここでは、仏に無理に頼む必要など無いのであって、弥陀の本願は、老年少年、善人悪人などの差別などはなく、信心一つでわれわれ衆生を燃えさかる火のようにはげしい煩悩からも救ってくれると言うことなのである。善人ぶる必要も、ことさらに善行を行うことも必要はないよと、弥陀はそっと悩める我々の肩に手を優しく掛けてくれるのである。合掌
2010.01.09
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昨日の続きである。やはり大変な情報量が3日の間に流れていたことを痛感する。昨日も、今日の新聞内容を一部先取りしたところがあったが、今、私に取って焦眉の急である糖尿病の記事があった。糖尿病リスクの遺伝子を発見したということだ。この間参加した医学教室で初めて糖尿病に2つの型があることを知ったばかりであり、差ほど気にもしていなかったのだが、それ以来、少しだけ勉強した。1型はインスリン依存型糖尿病ということで、小児期に起こることが多いようである。自分の体のリンパ球、自分自身のインスリン工場である膵臓のランゲルハンス島の大部分を破壊してしまうことで発病するいわば先天的なものらしく、その割合は5%程度であるとか。私のは、ご他聞に漏れず、大半の95%を占める、2型糖尿病である。この病気は、サイレント・キラーといわれるように、自覚症状が無く病気の結果が突如襲ってくるということなのだそうだ。予兆がないとは、どうも私には信じられないのだが、まあ、医者の言うことだから、注意に越したことはない。今回、この2型糖尿病の発症に関わる新しい遺伝子が発見されたというのである。そもそも、この2型糖尿病は、生活習慣病であるといわれ、食べ過ぎ、運動不足が、摂取エネルギーを消化できず、またインスリンでは処理しきれなくなり糖が溜まるようだ。所謂メタボに関係してくる。私の場合は、BMI(ボディ・マス・インデックス=体格係数)が正常値の25をわずか1%上回っているだけである。だが、機械的に医者は太りすぎだというわけだ。悔しいから、食を減らすとか、糖分を控えめにするとか、毎日のお酒は飲まないとか、ウォーキングするとか努力はしているが、一旦身についた贅肉はなかなか落ちない。一方では、痩せている人の方が太っている人よりも寿命が短いなどと書いてあるものもある。一体どっちなのだと言いたいのだが、まあ、節度ある身体、数値的には、標準範囲に入っているjことが望ましいことは言うまでもないことだ。今回発見された糖尿病の発症に関わる新たな遺伝子を持つ人は、健康な人の約1.7倍なのだそうだが、何と、その中でも、やせ形の人は約2.5倍だったのだそうだ。一寸話が違うんではないかと感じたが、それ以上のデータは当然私は持っていない。2型糖尿病は加齢なども原因すると言うから、こればかりはどうしようもない、努力して歳を取らないというわけにいかないからだ。しかし、巷間、言われている糖尿病といわれる人で、強く疑われる人は、数字の幅は広く、推定690万人~820万人に及ぶと言い、糖尿の可能性が否定できない人は約1050万人いるというのだ。老若男女を入れたとしても、国民の1割近くが糖尿病と名が付くことになる。血糖値の検査も、今では、空腹時血糖値ではなくても良いのだそうで、食後経過時間が分かっていれば判定が付くようだ。私の場合は、過去の計測値は完璧に不可のゾーンであったが、昨年末の前回計測値は、食後1.5時間を経過していて、若干空腹時の基準を上回るという値だった。医師はその時、もう少し様子を見ましょうと言ったが、私の診断というか、別途貰った資料の食後2時間経過の値では可の上の良ギリギリの範疇に入っていることに気づいた。医者もいい加減だ。私は、従って、自分では、糖尿病の準会員程度で1050万人の中に入るかどうか位だと思っているが、注意に越したことはないだろう。厄介もので嫌われものに中国から来る黄砂があるが、意外な一面を持つと言うことが記事になっていた。黄砂は、中国のタクラマカン砂漠の砂塵が舞い上がり、偏西風に乗って日本に飛来するのであるが、ひどいときには、町中が暗くなるほどのこともある。連れ合いなどは、ベランダに出ただけで、敏感に感じ、顔がひりひりするというのだ。私も、サウジアラビアのジェッダにいたときには、この現象にはよく遭った。とにかく周りが巨大なルブアルハリ砂漠やネフド砂漠にとり囲まれており、西は、遠くアフリカのリビア砂漠の影響もある都市であるから仕方がない。この砂漠の中で、マスクをせずにいて、ぜんそく気味になったことがあった。意外な一面とは、酸性雨の中和作用と言うことらしい。黄砂を構成する粒子である硫酸カルシウム(石膏)と炭酸カルシュウム(カルサイト)が新疆ウイグル地区のアクスで計測された値に比べ、偏西風で東に流される内、途中の青島ではカルサイトが硫酸と中和し、その量が減り、日本のつくばに着いた頃には、完全に石膏成分だけになっているというものだ。5300kmの空間を漂ううちに、pHが0.5~1程度低くなり中和されているのだという結果だ。この点では、環境に言い面もあるのかと思うのだが、黄砂の激しい日にはやはり外に出るのをためらうほどだ。黄砂だけならまだしも、かの中国が、工業生産過程で、いかなる有害な物質を大空にまき散らしているか知れないからだ。その点については、何ら触れられていなかった。環境といえば、地球温暖化の元凶としてかまびすしい、二酸化炭素(CO2)であるが、このCO2を分離・回収し、地中や海底に閉じ込めようとする研究は、CO2の地下貯留(CCS)という形で、世界中で研究されている。今回の記事は、このCO2をエネルギーとして再生しようという目論見である。場所は、褐炭層があると言われる、下北半島沖の海底である。ここに、CO2を封じ込めるという発想までは同じであるが、これにメタン生成菌を作用させて、封じ込めたCO2をメタンガスに変換しようという計画である。火力発電所などで排出したCO2をそのまま海底に送り込み、メタンガスに変えて、それを採りだし、又火力発電所などでエネルギー源として燃やそうという完全なリサイクル系である。地球深部探査船「ちきゅう」による地層の計測開始は2013年と未だ先であるし、CO2からメタンガスに変えるメタン生成菌の能力アップの課題など、実用化はずっと先の話であるようだが、なんと言っても、発想といい、目の付け所が日本らしい。日本の年間のCO2排出量は13億トンあるという。下北半島沖には、その100倍ものCO2が封入でき、それが巨大なメタンガスのタンクになるわけだ。こういった前向きな解決策に注力して欲しい。この間、仕分け人の蓮舫議員が「1番、2番議論」をしていたが、科学技術とか未知の世界の探索とかには、時間が掛かるし、最上のツールが必要なのである。彼女のように、ポット出て、お茶の間の人気者になり、科学技術の何たるかを知らず、役人の口車に乗せられ踊らされているようでは、やがて、この国の将来は立ちゆかなくなると思う。先を見る人がいれば、来し方を研究する人もいる。ポーランドでは4億年前の地層から、最古の四足動物の足跡を残す化石が見つかったという。ヤモリかトカゲのような想像図が描かれているから分かるが、素人目には、その化石の跡がよもや最古の四足動物の足跡とは分からない。専門家には分かるらしいし、動物が、水から陸に上がったという傍証になるとのことだ。日本でも、これはそれほど古い話ではないが、奈良の、3世紀末から4世紀初めにかけての桜井茶臼山古墳から81面もの多量の青銅鏡が出土したという。国内最多の同時出土で、中には「卑弥呼の鏡」とも言われる三角縁神獣鏡が26面も含まれていることから、またまた大和政権は奈良に在りの勢力が声高になることだろう。面白い地球に面白く生活させて貰っているが、一方では、パキスタンではタリバン勢力によると思われる自爆テロで、95~100人もの人間が殺されているし、遠くスーダンでも、未だに相次ぐ民族間の紛争で、相次いで300人以上の人が殺されている。本質は異なるのかも知れないが、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツは「戦争論」で「粗野な好戦的国民」なら誰でも「好戦的精神」を秘めているが、「文明国民」ともなると必要に迫られてやむなく戦争にかかわると書いている。彼らが、文明に浴さない人達であろう事は想像に難くないが、粗野で好戦的なのは国民や、民族ではなく、彼らをリードする指導的立場の人間性に依ることであることも又忘れてはならないと思う。
2010.01.08
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今日は旅の間に溜まっていた新聞をまとめて読み、書けなかった日記をまとめて書いた。旅の思い出を帰ってからまとめるのは、2度旅をする気分で、とても楽しい。グリコの1粒で2度美味しいという感じである。しかし、歳を取ったせいか、また、途中のバスでは寝てばかりいたせいか、たった3日のことなのだが、前後関係が怪しくなっていることがある。時に出かけた温泉の名前さえいい加減に覚えていると言ったことだ。多分、後であまり見直すこともないだろうが、バスでポイントーポイントを連れ回される受動的な旅は、楽だけれど、頭に残らない場合が多い。地図を横に置いて足跡を振り返ってみると、なかなか味のあるものである。さて帰ってみると、新聞が溜まっている。これも読まなければならない。別に読んだからと言って世の中が変わるわけでもないのだが、サラリーマン時代からの癖でついつい新聞を読まないと時代に取り残されていくような強迫観念がある。最近はインターネットで、新聞を読むことや、簡単なニュースなどの梗概はどんな田舎へ行ってもテレビで放映してくれるので、3日程度では時代に遅れるわけはないし、テレビなどはスイッチオンでたちまち全国ほぼ共通のニュースを見ることも出来る。しかし、全国どこでも、くだらない賑やかな番組が流れているのは、旅の情緒を薄めるので、閉口する。3日間の新聞を見てみると、いろいろな出来事が起こっている。記事の大小や順番はバラバラだが、目に付いた内容を拾ってみると、様々である。地球から約40光年離れた宇宙に地球の2.7倍の大きさの大半が水で覆われた惑星があることが報告されている。太陽系外で、地球と質量の大差ない惑星(スーパーアースという)で大気がある星が見つかったのは初めてだという。同じく宇宙では、太陽に向かって飛び込む彗星の画像がNASAとESAにより公開されていた。太陽観測衛星「SOHO」が捉えたらしい。彗星が飛んで火に入る夏の虫の如く太陽に吸い込まれていく様子がうかがえた。正に宇宙は希有壮大である。一方地球では、ドバイショックをもたらした、UAEのドバイに、ついに世界最高層ビルが完成したようだ。私が居た頃はまだ高さがどれほどになるかは明確にされていなかったが、ベールを脱ぐと、高さ約820m、約160階建てに収まったという。技術的な観点から、基礎工事や途中階の建造が進行中の段階で、そうそう、たやすく階層を増やすことが出来るのかいぶかったが、そんなことは私のとやかく言うことではない。「ブルジュ・(アル・)ドバイ」という名前で建築されて来たが、この度、「ブルジュ・ハリファ」と名前を変更したようだ。この名称変更の裏には、ドバイ経済危機に対して、隣の首長国であるアブダビからの支援があったからのようで、ハリファは、アブダビの首長、即ちUAEの大統領でもある。まあ、大阪の橋下知事がおおぼら吹いて、破綻しかけたところ、国から援助が出たので鳩山さんの名前を採ったと言う例えに近い関係かも知れない。約5年の歳月を費やし完成した、この巨大な箱物は、約1400億円かかったそうで、目論見では、建築に関わったUAEデベロッパーであるナキール社の四半期の売り上げを1000億円近く押し上げると期待されているようだ。テレビで見た完成式典での各階層から放射される花火は、壮大なもので、いかにもドバイらしい感じだった。その反面、ドバイの大型プロジェクトに関係している日本の商社やゼネコンは、度重なる設計・工事変更や、代金支払いの遅延のための防御策として、鉄道工事などの中断を決めたようだ。ここで、代金が滞っては、日本側は大損失を被ることになるので、共同で工事中止に走るようだ。彼らの「インシャ・アッラー」で進められてはかなわないと言うところであろう。一方、ベトナムの高速鉄道建設プロジェクトは、2020年の完成を目指し、鬼が笑う、来年(2012年)に試験線の工事に着工することが決まったようだ。現在、北のハノイから南のホーチミンまでの1560kmを30時間かかっていたところ、6時間で結ぶというものだ。日本で言えば、北の青森から、下関を越えて九州まで一気に新幹線というくらいの距離である。誰も一気通貫で利用する人はいないだろうが、大変工事であることは間違いない。北と南の格差を無くすとか、南北の境界線であった中央付近のフエ-ダナン間を先行して結び、この地域にある文化遺産に多くの人を呼び込もうとしている。今回は、ノイバイ国際空港からハノイ中心部の45kmを先行試験線として建設予定だとか。私は日本で1度だけベトナムの若い役人さんと接したことがあり、東京の鉄道記念館などを案内したことがあったが、社会主義国家のせいなのか、とても几帳面で、真面目な人だったことを思い出す。相手も英語は得意でないので、片言の英語と、漢字の筆談ではあったが、何とか用は足せた記憶がある。連れ合いの息子の太郎君は、ベトナムでOEM製造を委託しているらしく時々訪越しているようである。人間の脳についての記事もあった。ヘアバンド型のセンサーを頭に装着して、家電やロボットを自在に動かすというものだ。所謂BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)というもので、人と機械の仲立ちが、段々と形を変え頭で考えただけで、用が足りるという、ETの世界に近づいてきていると言うことだ。これも連れ合いの娘の姫は、この部門を専門にするドクターであるが、私などがついて行ける内容ではもちろん無い。昔、造船時代に、同僚が、引き渡し前の船の公式試運転で、低速時の船速を計測するのに原始的に船の前方船側から木片を投げ、船の前後に儲けられた点の間をその木片が通過する時間を計測し、船速を計算するという作業があった。その時、ブリッジからの指示が分からず、木片を一度に全部海に投げ込んで、大目玉を食らっていたことを思い出す。その時彼が言ったのは、「頭の中で考えただけで、思う通りに出来たらいいのに」と夢のようなことを言っていたのだが、今やそれが夢でなくなったということだ。また、自閉症に対しては、神経伝達物質「セロトニン」が関係していること、「セロトニン」が少なくなると、この傾向が出るらしく、自閉症の人は約3割低いのだそうだ。「セロトニン」は、他の神経伝達物質である喜びや快楽に関係する「ドーパミン」や恐れとか驚きに関係するノルアドレナリン等と共に感情情報をコントロールし、精神を安定させる作用があり、この物質濃度が低下すると、不安やうつなどの精神症状を引き起こすといわれている。 私も、この「セロトニン」低下により、黒い犬がやってきたのを何度か経験しているので、なんとなく名前だけは忘れられない。また遺伝子にかかわるもので、4000万年前の「ボルナウィルス」というウィルスが発見されたということだ。ヒトゲノムの中にその痕跡が見られたのだそうだ。これらは「ウィルス化石」と呼ばれるものなのだそうだが、4000万年前だということは、ヒトがまだヒトに成りきらず、進化の途上であるわけで、現在居る、マウスやアフリカ象、チンパンジー、ゴリラ、アカゲザルなどとも、このウィルスを共通して持っていたことになる。よくもまあ、物持ちの良いことだと思うが、ヒトゲノムの8%を占めているようで、この「ボナウィルス」によるボナウィルス病に掛かったら、ワクチンなど特別な治療法もなく約80%は死に至ると言うことだから恐ろしい。今回は、その痕跡だと言うことで直接は関係しないだろうと安心はしているのだが。明日もこの続きになると思う。
2010.01.07
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東北温泉旅行3日目の最終日となった。今日は、ひたすら帰るだけの行程である。当初の計画では、最初に、大阪から大館能代空港に着き、その足で、十和田を回り、大湯温泉へと言うことであった。そしてゆとりの5時間滞在のふやけるまでの温泉三昧と予定されていたが、計画が変わったようだ。大館能代空港であれば、バス移動も少なく、体も楽であったと思うが、仕方のないことだ。結局は、仙台空港から発して、帰りも仙台空港と言うことで、今日1日はバスでのドライブ旅行になってしまった。東北弁で「がいって、がいんが?」(如何ですか?)と問われても返す言葉はない。8:30にホテルを出て、十和田ICに着いたのが15分後だった。そこから、ひたすら東北自動車道を南下する。岩手山が右手に見えるはずの所を通過する所までは出発して、1時間半ほどだったが、小雪が舞い落ちる周りは相変わらず一面の銀世界で、どんよりとした寒空の向こうには、岩手山を望むことができなかった。雪にまつわる話で、ガイドは、八甲田山の雪中行軍事件を紹介してくれた。私も新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を読んでいたので、興味深く聞いた。事件は、日清戦争での冬季寒冷地での戦いに苦戦した日本軍が、さらなる厳寒地での戦いが予想される対ロシア戦を想定して、訓練のため、雪降る八甲田を縦走する内、道に迷い、訓練に参加した(させられた)将兵210名中、199名が死亡するという、日本の冬季軍訓練史上最も多くの犠牲者が出た事件である。その後も病院などでさらに4名が死亡したのだとガイドは説明していた。原因はいろいろ言われているが、指揮官の指導力不足や気象予測の甘さ、冬山に対する知識の低さなど様々取りざたされている事を読んだことを思い出した。昨今の片山右京などの雪山遭難事件が多発する中、冬山の恐ろしさを知らない私にも容易に想像が付くことである。そんなことと比較しながら、今回の冬場の温泉巡りは、何と気楽なことかと思った。バスはひた走り、盛岡を過ぎて、紫波SAで20分のトイレ休憩を取った。再び走り出すと、秋田方面に向かう北上JCTを通過する。この辺りは花巻市で、今度は、甲子園球児の菊池雄星君の話になる。JCTを越えたすぐ左側が、花巻東高校で、菊池君の母校(まだ卒業してないが)であると説明してくれる。この辺りも一面、雪がびっしりである。さらに東北の有名人の話になり、10年ごとに傑物が出ていると前置きして、明治9年生まれの野口英世、明治19年生まれの石川啄木、そして明治29年生まれの宮沢賢治を紹介していた。野口英世こそ52歳でなくなったが、石川啄木は27歳、宮沢賢治は38歳と皆、早世である。いたずらに長生きするだけで、何事も成さない自分と比べて、情けない気持ちにもなる。貧しいと思われがちな、宮沢賢治は、実は裕福な雑貨屋の息子であったが、近隣の子供と合わせるために、粗食を敢えて実行したのだそうだ。ある時、自分の弁当のおかずになす6本が入っていたのを隣の友人が見つけ、「賢治は良いなぁ、なす6本も食べられて」と言ったとかで、その後賢治は、なす1本だけにしたのだというエピソードも紹介してくれた。又ご飯だけで、自然のにおいをおかずにして食べたとの逸話もあるそうで、何処かの総理兄弟に聞かせてあげたい話である。又江戸末期から明治に掛けて水沢の三偉人と称された、医師で蘭学者の高野長英や首相になった斎藤実、初代の東京市長で「大風呂敷」と言われた後藤新平の話など殆ど絶え間なく喋ってくれる。高野長英などは、てっきり長崎辺りの出の人かと思ったが、意外だった。さらに南下を続け、ホテルを出てから2時間半が経つ頃には、北上市に入り、東北三大桜の紹介をしてくれた。1.北上展勝地、2.角館、3.弘前城公園である。春にも東北に来て下さいとのちゃっかりした宣伝が入っていたことは言うまでもない。ここで比較対象の日本三大桜についても説明してくれた。1.1300年の樹齢を誇る、福島県の三春滝桜、2.樹齢1800年の山梨県の山高神代桜、3.樹齢1500年の岐阜県の根尾谷淡墨桜である。さすがに東北生まれのガイドさんは、三春滝桜へは何度か行ったそうである。まぁ、よく勉強していることである。国会の大臣答弁も、これくらい原稿無しで喋れたらいいのにと思わず思ってしまった。平泉藤沢辺りで、空は青空になり、一旦雪が消えた。バスは乗用車が、左車線を走る中、追い越し車線をスイスイと抜いていく。外は晴れていても、屋根に積んだ雪が溶けるのであろう、窓は常に雨滴が斜め上から後方にガラスを伝って落ちてくる。一関を過ぎ、金成付近で、再び周りは雪の名残が多くなった。長者原SAで15分のトイレ休憩だ。そこから先大和ICを降りる頃には、あの雪は何だったのだろうかというほどに雪は姿を消してしまっていた。やはり東北は南北に長い。こんな経験は、関西にいては出来ない。やはり今回来て良かったと思う瞬間だ。昔各SAに置いてあった、無料の高速道路地図は、変な小冊子に変わり、綺麗なその地図は、300円也と有料になっていた。高速道路無料化と言いながらなかなか果たさないのにこちらの方はさっさと端折ってしまっている。なかなかやるものだと思った。東北自動車道に別れを告げ、有料道路の県道3号線を南下、仙台が近づくにつれ、七夕の彦星と織姫の話に変わり、恋にうつつを抜かし、仕事が手に付かなくなった織姫は、彦星から切り離され、哀れだからと年1回の逢瀬を許したとの例のおとぎ話である。又この辺りは荒川静香の故郷でもあり、もう一人の有名人が出ていると、自らの出生地をユーモア混じりに紹介していた。最後に七夕の飾り物の意味を紹介してくれた。1.トップの紙衣は、着物が巧く縫えますように、2.吹き流しは天の河を示し、3.短冊には願い事を書き、4.巾着はお金が貯まることを祈り、5.投網は豊漁を願い、6.投網袋を逆さにした物は、折り紙のリサイクルであり、物を大切にする心を表し、7.折り鶴は、その地方の長老が元気で長生きするようにと、歳の数だけ折るのだそうだ。1時近くにようやく鐘崎のかまぼこ工場に着き、昼食にありつくことが出来た。笹かまぼことして有名なかまぼこは、当初、仙台かまぼことか、木の葉かまぼことか言われたが、鐘崎のかまぼこ屋が、伊達藩家紋の竹と雀からヒントを得て、笹かまぼことして商品化した物が、そのまま固有名詞になったのだとか言うことだった。1時間足らずの間に昼食を済ませ、隣の七夕館をそそくさと回って再び車上の人となり、仙台空港に到着したのは、出発予定の2時間15分ほど前であった。最後の土産物を買い、15:20発の大阪伊丹空港行きの飛行機は、ANAで来たときよりやや大型のボーイングB767-300であった。予定通りの飛行で、帰りは窓外に富士山を見ることが出来た。伊丹着は、まだ日が落ちていなくて、遠く梅田のビル群や、淀川、神崎川のうねりがよく見えた。ここを廃止すると息巻いている橋下知事を少し思い出した。よしんば実現したとしても、その頃には我々は飛行機旅行はおぼつかなくなっているだろう。大阪について連れ合いと話したのだが、このツアー参加者は、40名で、1家連れの4人を除くと、18組の夫婦連れであったのだが、比較的若い夫婦連れの1組を除くと17組は老夫婦である。愛想の良い夫婦、仲の良さそうな夫婦もいれば、夫が威張っている夫婦、一向に仲良く話しているのを見たことがない夫婦、等々、正に積年の結果が凝縮されているようで、興味深かった。さて我々は、勿論極めて仲の良い夫婦と見られたことだろう。一寸寒かったが、冬の東北温泉巡りも無事に終了し、足取りも軽く帰宅した。
2010.01.06
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東北温泉旅行2日目の朝が明けた。当然の如く開始早々の朝風呂に向かう。窓外は一面の銀世界である、薄墨を垂らしたような墨絵の世界は、また何とも言えず風情がある。そんな積雪の中、たっぷり1時間、朝の露天風呂を楽しむ。食事はいずこも同じバイキングスタイルだが、何となく品数も多く豪華な気分になる。ついつい食べ過ぎるのを抑制するのが、一苦労である。朝のバスの出発も早いので、湯上がりで火照る中、そそくさと支度をし8:00には開湯650年の鶯宿温泉のホテルを後にした。粉雪が舞い散る銀世界の中をバスは進んでいく。向かうは、今回のツアーの目玉の一つである、駒ヶ岳の麓の乳頭温泉郷である。こちらは開湯800年というから古い歴史を持つ。朝風呂を浴びて、ぬくもりが取れぬうちに昼風呂に入ろうという寸法だ。9:30には乳頭温泉郷の休暇村に到着した。しかし時間的制約があるのでそうもゆっくりしていられない。2時間足らずの間に行ける温泉は限られている。我々は、一番近い妙乃湯温泉が火曜日の定休日であることからパスをし、さらに大釜温泉も通過して、蟹場温泉まで足を運んだ。これが今回の限界だ。足下の雪はしまり、固まっているが、粉雪故に、心配した靴も案外汚れない。休暇村から徒歩約10分で到着した蟹場温泉はいかにも秘湯という感じがするが、この乳頭温泉郷は休暇村を入れ、7つの温泉から成り立っていて、後は、黒湯温泉、孫六温泉、鶴の湯温泉とあり、これらはかなり離れている。聞けば、各温泉とも温泉の色が微妙に違うとかで、鶴の湯が良いという人が多かったが、とても遠くてそこまでは行けなかった。2時間足らずの雪中の蟹場温泉での入浴も、瞬く間に過ぎ集合時間が近くなった。親子連れの若い父親は、こうすると気持ちが良いですよと、新雪に裸で体を沈めたりしていた。年寄りが真似ると、気持ちが良い前に心臓麻痺を起こしそうであるので遠慮した。再び元来た道を帰ることになったが、来たときよりは、路面の雪は車の轍の跡の所だけ、若干少し茶色に変色していた。バスは田沢湖の見える水沢温泉郷の近くを通り、一旦盛岡方面に引き返す。田沢湖付近では、ガイドが、龍と化した辰子伝説を話してくれた。「辰子は類い希な美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。辰子はその願いを胸に、村の背後の院内岳の大蔵観音に、百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。その水を飲むと願いが叶うとのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。狂奔する辰子の姿は、いつの間にか龍へと変化していく。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった。」というのである。何事も願いはほどほどにしておけという教訓であろうかとはガイドの弁であった。又、続けて、「辰子の母は、山に入ったまま帰らない辰子の身を案じ、やがて湖の畔で一時人間の姿に戻った辰子と対面を果たした。辰子は変わらぬ姿で母を迎えたが、その実体は既に人ではなかった。悲しむ母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入ると魚の姿となった。これが田沢湖のクニマスの始まりという。」とこれも丁寧に教えてくれた。また、田沢湖はカルデラ湖であり、日本第1位の深度を誇り、最大深度は423.4mであるということもガイドしてくれたことは言うまでもない。第2位は支笏湖であり、第3位はこれから向かう十和田湖である。盛岡ICから再び東北自動車道の人となり、北上した。途中、岩手山SAでトイレ休憩をして、すぐ又北上、安代JCTで、青森方面に道を取った。殆ど岩手県をひたすら北上してきたわけだが、秋田県から青森県に入り、しばらくして十和田ICで東北自動車道を降りた。時間調整のためか、今晩のホテルである、大湯温泉を通り過ぎ、青森県に入り、十和田湖畔まで足を伸ばした。十和田湖畔では、雪深いためにブロンズの乙女の像の所まで行くことは出来なかったが、ここでも見渡す限り、幽玄の墨絵の世界を見る事が出来た。ガイドの話では、十和田の語源は、アイヌ語で、「ト」は水、「ワタラ」は岩と言うことらしい、これが訛って十和田となったということだ。十和田湖もカルデラ湖で、かつては魚が住まぬ湖であったが、今はヒメマスが生息するという。和井内氏が苦心の末、ようやく十和田湖のヒメマス養殖に成功し、湖の彼方から小波のように押し寄せてくるヒメマスの大群を見て感激のあまり、「我、幻の魚を見たり。」と叫んだのだという逸話も紹介してくれた。これは映画にもなったらしい。十和田を出ずる唯一の奥入瀬川は、高知出身の逍遙詩人、大町桂月により 「住まば日の本、遊ばば十和田、歩きゃ奥入瀬の三里半」とに讃えられ、この渓谷を全踏破するには、約4時間半を要するという。十和田湖を出る頃は、辺りは少し暗くなり始め、大湯温泉のホテルに着いたときは、日は完全に落ちていた。大湯温泉は鹿角市の一角にあり、山の上から見た川が、鹿の角のような形をしていることことからこの名が付いたのだという。ついでに、秋田も、「アクタ」の訛ったもので、昔は火山灰に覆われ、田畑が荒れていたのだそうだ。話は東北四大祭りにも及び、1.青森のねぶた祭り2.秋田の竿灯祭り3.山形の花笠まつり4.仙台の七夕祭りが挙げられるのだとか。大湯温泉でも、夕食前の露天風呂を楽しみ、夕食は、座敷での膳を前に大広間で採った。食事後は、特に何の催しも無かったので、再度早めに温泉に浸かった。露天風呂に降り来る雪を頭に感じながら、この世の天国とはこのようなことを言うのかなどと贅沢三昧の気分に浸った。雪国の温泉も又格別なりである。私は、風呂にはいると、必ずサウナにはいることにしている。多いときは、3回入る。1回は10分程度で、サウナを出ると水風呂に入りそれを3回繰り返すのだ。温泉に来てサウナもないのだが、何故か、サウナが贅肉を落としてくれるような気がするからである。しかし結果は、差ほどの効果は感じられず、ただ、体内の老廃物が出て行ってくれるようで、これだけは止められない。後で聞いた話だが、湯上がりに連れ合いと館内の土産物店を見て回ったせいも有り、又部屋の空調も適当ではなかったせいか、可哀想に、その晩は、連れ合いの調子が崩れ、咳き込んで寝られなかったと言うことだった。今日は、前の鶯宿温泉の朝風呂、乳頭温泉郷の蟹場温泉の昼湯、そして、今日の大湯温泉の2度湯と、4回も温泉に浸かったことになる。これで湯あたりしたのかも知れない。
2010.01.05
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昨年から予約していた東北温泉旅行に出かけた。予定は1日目と2日目が入れ替わったが、先ず、今日の目的地は、盛岡の鶯宿温泉ということだ。伊丹空港を8:00出発の飛行機である。一寸余裕を見て、早起きし、5:45の阪急電車に乗り、途中南茨木でモノレールに乗り換える。朝食は、空港に着いてから採ることにした。カウンターで搭乗券を機械的に受取り、集合は仙台空港と言うことであった。同じツアーが年末年始であれば倍以上の金額が掛かるということだ。正式には、「あこがれの豪華ホテルと東北名湯ゆとり旅」3日間ということで、温泉と、旅館が良いのが特徴というゆったりとした旅である。従って、これと言って、名所を見物することもあまりない、というか、雪の東北で、あちこち回れないだろうというものだ。久しぶりの飛行機は、ANA唯一のエアバスA320で、ツアー客に割り当てられた席は当然機体の最後部である。いつもは姫を送り迎えする空港だが、今日は久しぶりに連れ合いと2人で機上の人となる。国際線就航機に比べて、若干小型ではあるが、それでもジェット機であることに変わりはない。このエアバス、両側2席と真ん中3席で、一列は7席であるが、我々は通路を挟んで隣り合わせだった。外の景色がどうこう言う暇もなく、又朝が早かったので、少し眠る間に飛行機は既に富士山上空の横を通過、仙台空港が近づいていた。離陸したかと思えば、水平飛行も束の間、すぐに着陸態勢にはいるというほんの一飛びのフライトである。仙台空港、到着時刻は予定通り9:10と1時間余の飛行時間で遙か東北まで到着するのである。仙台空港に降り立つと、出口には添乗員とバスガイドが迎えてくれた。大物荷物をバスの格納室に預け、そのままバスで走り始める。仙台南ICから東北自動車道に入り、ひたすら北上すること1時間、一関ICで一旦降りて、「サハラガラスの里」というドライブインで昼食を採ることになった。ここは、一関市、近くには中尊寺の金色堂があるというのに、何故かそこには行かないのである。バスガイドが「この道をまっすぐ行くと中尊寺です」という道は、雪で埋もれていた。積雪のために組み込まれていないのだと良心的に解釈したが、何とも惜しいことである。ガイドから、藤原三代の話や、義経の話を聞いても、本物を見ないと納得がいかない。ドライブインはガラス工芸品が沢山あり、それでガラスの里なのだろうが、何故にガラス工芸品が多いのかの説明はない。近くには「厳美渓」と呼ばれる、名所があるのだが、雪に覆われた両岸の間を流れる、川はほんの少し望めるだけである。そこから、酒造工場の「あさ開」を見学した。酒の出来るまでの行程を簡単に工場を周りながら教えて貰った。酒林(さかばやし)とか久寿玉(くすだま)とか呼ばれる緑色の杉玉が、今年の新酒が出来たことを示して、酒蔵の軒先きに吊されていた。さぞかし美味しい酒が出来たのであろう。販売店に立ち寄ると、小さなカップではあったが、試飲をさせてくれ、何度か回って結構良い気分になってしまった。昼過ぎにそこを出て、再び一関ICから東北自動道にはいる。この道は開通の頃に下北半島に行くために通ったことがあるが、雪の道は初めてである。ひたすら北上するにつれ、辺りは一面の雪景色に変わっていく。30万都市、盛岡ICに降りると、雪がある以外は一見して他の都市と変わらない感じである。仙台育ちのガイドによると、ここも、森の都と言われたり、水の都と言われているらしい。盛岡市はまたの名を不来方(こずかた)といったとのことである。ガイドの説明に依れば、「かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。」これが「岩手」の名の起こりで、「不来方」という地方名は鬼が神に二度と来ないと約束したことにちなんでいるという。今は地方裁判所の庭にある、「石割桜」は周囲20mほどの岩に食い入るように桜が立っていることからそう呼ばれたようで、文化財の指定を受けているとか。火事の時も、建物よりも桜を守れといった案配に大切な石割桜なのだそうだ。勿論冬の桜ほど寂しいものはない。そこから、一寸内陸部の雫石町にバスは入っていく。この辺りは八幡平に掛かる地方で、雪で曇っていなければ、北の方角に岩手山が望めるのだそうだ。こういった具合に、外は雪ばかりで、周りの遠方景色は想像する以外にない。ガイドによると東北地方で3つの高い山と言えば、第1位が燧ガ岳の標高2346mで福島県の尾瀬の近くなのだそうだ。続いて秋田、山形県境の日本海側に位置する鳥海山で標高は2236mとあり、第3位にこの八幡平の一角の、岩手山ということになるのだそうだ。標高2238mのこの山は、変型コニーデ山で、片富士とも呼ばれているようで、曇っていなければこの方角ですとガイドは教えてくれる。真っ白に雪で曇る周りには何も見えないが、ガイドの機転の利いた説明で、何となく想像しながら聴いている。北上川の支流雫石川に沿って内陸部に少し入ったところが、今晩のホテル「鶯宿温泉」である。併設されてケンジワールドというレジャー施設があるようだが、ここも当然閉まっている。鶯宿温泉とは反対側の北側には、小岩井農場とよく聞く名前の牧場があり、ここの一本桜も、NHKの朝ドラで有名になったところであり、春には大勢の人が列を成すという。この小岩井農場は山手線で囲まれるくらいの広さがあり、名前は3人の共同創始者である小野、岩崎、井上の三氏の頭文字を採ったものだという。あれこれ説明を聞く内、15:30過ぎにはホテルに到着した。今回の目的は、温泉である。早速一風呂浴びに出かけた。このホテルは計画的に造られたのか、それとも継ぎ足し継ぎ足しされたのか、3つの大きな館に別れていて、我々の部屋から風呂までは、エレベーターを2度乗り継ぎ長い廊下を歩かなければならなかった。夕食は洒落た大きめのテーブルにゆったりと腰掛けて食べることが出来たのは良かった。夕食後、ホテルの独自イベントで、大太鼓や、民謡、最後はビンゴゲームなどがあったが、ちびっ子が一生懸命民謡に併せて踊る様はなかなか可愛い。一番先に、最前列に近い場所を占めて、正面に積まれたビンゴゲームの賞品をゲットすべく待ったが、狙っていた大きなぬいぐるみは、最初にビンゴのおばちゃんがゲットし、我々には最後まで、賞品は何も貰えず終了してしまったのは悔しかった。かくして、再び露天風呂に向かったのは言うまでもない。露天風呂の一角には、石造りの招き猫と碑が建てられていて、その碑には、次のような歌が彫り込んであった。「寂しくなったら空を見ろ、大空いっぱい君がいる、右の手高く福招き、左手挙げて大笑い」作は鶴行軍団、歌、天童よしみとあったが、今まで聴いたことがない。翌日入れ替えになった別の風呂では、「左手挙げて医者いらず」となっていた。温泉はなかなか良いもので、「よくぞ日本に生まれけり」という感じである。旅の疲れと相まって、その夜は早めに床についた。
2010.01.04
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元旦は、深夜に参詣をしたが、俗に三社参りだと言うこともあり、昨日は、車のお祓いを兼ねて、城南宮に出かけた。今日は、又その残りと言うことで、京都方面に足を運び、八坂神社から、平安神宮をお参りして周り、十重二十重といろいろな方向から神様にお願いをしてきた。毎年恒例になっている城南宮の車のお祓いは、沢山の車が方々から来ていて、10台位をいっぺんに神様に「かしこみ~、かしこみ~、申~す」と車の安全祈願をお願い申し上げてくれるわけである。その際に、住所と名前と生年月日並びに車の車両番号を書いてお願いしておくと、どこどに住む誰べえ○十○歳の名前と、個人個人の車の番号とを挙げ、まあそこだけ個人個人の車についてお祈りをして貰い、後は決まり文句で神様に伝えるという段取りである。その際に読み上げられる年齢は「満年齢」ではなく「数え年齢」となる。従って、私の場合は、誕生日前と言うことで、2歳加算される結果となり、読み上げられると「もうそんな歳かよ!」といぶかる事になる。法律で、「年齢は満年齢をとなえるように努めなければならない」と謳われているにも拘わらず、どうも、こういった正月や厄年、葬儀の時などというものについては、数え年を使う風習が、未だにまかり通っている。享年何歳とか言われるときには、少しでも長生きしたと言うことで、まあいいのかも知れないが、正月早々、2歳も老けたと言われると、少し「む!」と来る。皆同じ条件なのであるが、私などは、ここのところ微妙な歳であり、やや受け止め方が違ってくるのは、嫁入り前の女性が、年齢を気にするのと同じ心境では無かろうか。何も正月早々そんなことを言わなくてもと思ってしまうのは私だけだろうか。そういうことを考えながら、聴いていると、若い神主の朗々とした声が止み、御幣(ごへい)をさっさと振ってお祓いをしてくれるのである。お祓いは、過去1年になにやら犯した罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くためらしいのだが、車に関しては、無垢の人もいる訳で、ここではやはり人が有する、原罪を払うと言うことかも知れない。でないと、免許証がゴールドであろうが無かろうが、同じ修祓(しゅばつ)ではあわない人が出てくるような気がする。もう少し個別の祈祷があって然るべきと考えるのだが。まぁ、そんなことは、神様は別として、神社側にとっては、どうでも良いことで、10台集めて、「さっさと」振れば、それで済むわけである。これだけで、車に貼る神宮の名前入りのワッペンと、車に振りかける多少の塩の材料費が掛かるだけで、後は、ものの10分もかからぬ間に5万円ほどの売り上げになるのだから、時給にしては驚くほどの高額になる。そんな罰当たりなことを考えながらであるから、神も霊験新たかではいられないのかも知れないが、昨今の不況で、年越しそばさえ食べられぬ人たちにとっては、「神も仏もあるものか」という気になるであろう。車のお祓いを済ませ、本殿に向かうも、これまた長蛇の列である。係の人は「端が空いています、端からお参り下さい」という。折角来たのだから、正面から堂々と参らせて欲しいと思い、一寸長めの列の正面で待つ。なにやら後ろで黒人と日本女性が話しながら並んでぺちゃくちゃと喋っている。「SintoがどうのTraditionalがどうのこうのと、その黒人は聞いて、それについて女性はいちいち応えている。「そのようなことは、ここに来る前に説明しておけ!」と、もう少しで私の参拝の番になりそうなので、私の順番の時にまだ喋っているようであれば、注意しようと思っていたのだが、さすがに静かになったので、正月一番声を荒げることもなく、お祈りを済ませることが出来た。帰りに、ここでもおみくじを引いた。「吉」だった。元旦は「大吉」を引いたので、少し下がったわけである。2日は出かけるのが遅かったので、そのまま京都方面に向かうには、時間がなさそうで、八坂神社と、平安神宮は3日の今日になってしまった。京都は車の出が多いだろうと、電車で向かったのだが、四条河原町について四条通を歩くときは、案の定一杯の人出であった。何しろ四条通を、自分のペースで歩けないくらいで、人の波に従って歩くしかないほどである。京都には、日頃何度も来ているので、人波をかき分けるように、八坂神社に向かうのだが、人皆正月の華やいだ気分で談笑しながら歩いているのに、そもそも、何故こんなに急ぐ必要があるのかと苦笑するくらい急ぎ足になった。八坂神社は正面の化粧直しも終わっていたが、何しろ階段を上がってからの参道というのが、一寸曲がっていて、そこに出店がずらりと並んでいるから、狭い上に混雑する。ここが何とかならぬものかと、思いながら拝殿に向かい、又同じ事をお祈りする。後ろでは、舞台で、百人一首のカルタ会をやっているようで、「哀れとも言うべき人は思を得で 身のいたずらに成りぬべきかな・・」等とのどかな声が聞こえてくるが、その周りは黒山の人だかりで、後で、テレビ放送でも見たのだが、テレビ局も来ていたようだ。正月の年中行事らしい。そこで又、おみくじを引いたら、今度は事もあろうか「凶」であった。連れ合いに「何度も引かずに元旦の分だけにしておいたら良かったね」と言われたがもう遅い。おみくじは引く度に段々悪くなる。これでは何を信じて良いのかと思いながら、今度は歩いて、平安神宮に向かう。寒い正月だが、八坂神社から平安神宮への道は、いつもより明るい雰囲気である。平安神宮につくとここも華やいだ雰囲気で、大極殿前の、左近の桜は枯れ葉さえ落ちて、枝は寒そうだったが、右近の橘にはわらで作った幌がかぶせられていた。ここでも大極殿の前は、人が大勢並んでいたが、早速、七舛有る柱の真正面の舛のから正面から今度は時間を掛けて、念入りにお参りをした。参拝を終えて、ここでも又おみくじを引いた。今度は又「大吉」が戻ってきた。巡り巡って、「大吉」→「吉」→「凶」→「大吉」となったわけである。今回は、奇しくも、予め筒の中から番号の書いた竹串を引くのだが、その番号が、別の所で引いた連れ合いと同じ15番だった。そして、結果は両者とも「大吉」である。おみくじで何が出るか分からないという事は、物理的には、至極当然のことで、だから何となく引くのであろうが、帰って、連れ合いが姫にその話をすると、「ご存じとは思いますが、おみくじは何度も引くものではありませんよ」といなされた。しかし、神が、私に対して属人的に今年の運勢を与えるというのなら、どこの神社や、神宮でも同じ結果を出してくれるはずであるが、違うと言うことは、まあ、単なる余興かと言うことになる。しかし、とは言っても、近来出たことのない「大吉」が5割の確率で出たと言うことは、今年一年は、きっと平和裏にすすむのだろう事を示唆しているものと受け止め、「凶」は、時々は心せよという具合に神様が戒めているのだと言うことで、自分に納得させた。困ったときの神頼みしかしてこなかった私にとって、神様に参るのは、1年で正月くらいのことである。一寸遠かったが、連れ合いと「平安神宮まで来て良かったね」などと話ながら、家路についた。
2010.01.03
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日本は、今年からはどうなっていくのだろうか。民主党政権になって、ハネムーンの時期が明け、出てきたものは、またまた「政治と金」、さらには「米軍基地の問題」等々と、鳩山内閣設立の当初、80%近かった内閣支持率が急激に落ちて、今は50%を割る状態になっている。そんな中、昨年の末に、新成長戦略なるものが発表され、その内容が、新聞紙上にその要旨が掲載された。1.「新需要創造・リーダーシップ宣言」2.6つの戦略分野の基本方針と目標とする成果3.豊かな国民生活の実現を目指した経済運営と今後の進め方の構成となっており、2.の6つの戦略とは、(1)グリーン・イノベーションによる環境・エネルギー大国戦略(2)ライフ・イノベーションによる健康大国戦略(3)アジア経済戦略(4)観光立国・地域活性化戦略(5)科学・技術立国戦略(6)雇用・人材戦略からなっている。この戦略の中に2回の大国と2回の立国という言葉が出てくる。まず、ことさらにこのような修飾語を付けることの意味はどこあるのだろうかと考えてしまう。1.のリーダーシップ宣言は笑ってしまう。今までの自民党政権を揶揄するためであろうか、今までの失敗の本質は政治のリーダーシップ、実行力の欠如にあると先ず反省の弁を述べているというか、民主党による政治主導ということをことさら印象づけるために用いられている。政治主導について、元首相の中曽根康弘氏は「官僚と政治家が同格という発想から出る言葉であり、政治家たる者は官僚に温かい情を持つ一方で峻厳に理性的な政治判断を下すことにより醸成されるものである」と述べている。それを聞いたとき、現在の政治家の中で、それが出来る人材はどれほど居るのか、即ちそれが可能なのかどうかの根本が問われると思う。政治主導のパフォーマンスとして成され、目立ったのは、「事業仕分け」であろう。対象事業予算額合計7099億円の仕分けの結果、改善額は1847億円、改善割合は26.2%と言う結果だった。大山鳴動して鼠1匹という感じである。一部予算の決定過程が公開されるという政治ショーで、国民が予算編成に対し、少し関心を持てたという事は評価して良いと思うが、如何せん、重箱の隅をほじくるような結果に終わってしまった感じはぬぐえない。世の中に特殊法人と呼ばれるものの数は77あり、公益法人と呼ばれる数は26,000もあるそうだ。あまりの多さに仰天してしまう。そして、その関連企業は約3,000を越すと言われ、これらを維持するのために各々、毎年40兆円と251兆円の血税が流れているという仕組みだ。これら特殊法人、公益法人は強いパイプで各省庁に連結しており、省庁上がりの人たちの所謂「天下り先」になっている。私は、この「天下り」であるとか、それらを繰り返す「渡り」という仕組みに憤りを感じてきた。今回は、当然すべての法人を俎上に上げ、その要否を論ずるのかと思いきや、それは成されないと言うことで、先ずがっかりしている。また、第三の道を歩むと言うことだが、今ひとつそれが何を意味するのか分からない。行きすぎた市場原理主義という言葉も挙げられているが、資本主義は即ち市場経済であり、市場経済は、理屈抜きに利益の追求、格差の醸成に繋がるわけだ。第三の道がこの事を言うのであれば、経済門外漢の私も、ある程度理解できる。共産主義国家や、社会主義国家が経済面で行き詰まり、統制経済から市場原理を導入してきたのが現在の姿である。今回の日本は、それを逆行しようというか、ある種の統制を掛けようとした動きであろうか。格差の是正に対応するためには、そういった手法もありではないかと思うのである。ノーベル経済学書のジョセフ・スティグリッツは銀行への公的資金の導入による救済に触れて、「盗人に追い銭」とまで言っているし、また、「政府というものは、普通、富裕層から貧困層へ冨を移転するもの」だと考えていると言っているが、正に政府はそのような働きを持つべきだと、私は、我が意を得た気がした。今までの自民党政権は、特に小泉ー竹中時代に、この格差を肯定する方向の路線をとり続け、世界に伍して行こうとの事であったが、結果は、最悪の格差だけが残り、富める者から貧困者への冨の再分配は成されなかった。郵政改革を筆頭に、民営化で自由競争原理を追求すれば、無駄が無くなり効率的に事が運ぶと、ここまではシナリオ通りであったかも知れないが、市場は、弱者にそれ程優しくはなかったと言うことである。またスティグリッツに言わせれば、「銀行の救済はどんなに理不尽であろうと、融資の回復に繋がる」という前政権が採った目論見は見事に外れ、「救済とはかけ離れた、自己保身となり、偽善を白日の下にさらした格好になった」と述べている。(1)のグリーン・イノベーションで2020年までに50兆円の環境市場と、140万人の雇用確保を唱い、(2)のライフ・イノベーションでも、医療・健康関連事業の新規市場を45兆円と目論見、ここでも280万人の雇用を確保するとしている。現在の失業者が一体どういう数なのか、潜在失業者を含めてその数がいくらなのか数字を追い切れているわけではないが、一部では、昨年半ばで、347万人にも上るとされている。数字上では、これらの施策が思惑通りに行けば、何の問題もないのだが、ただひたすらにこの新戦略が画餅に終わらぬ事を祈るばかりである。(3)のアジア戦略では鳩山首相は、「鳩山イニシャティブ」と称して、東アジアを初め東南アジアで東アジア共同体の構築を目指し、アジア外交を強化する目論見であるが、既に熾烈なまでに中国や韓国の、この地区に於ける主導権争いは激化し、日本の思惑通りにはいかない可能性が高い。東南アジア鉄道網やベトナムの鉄道、インドシナ半島での「メコン総合開発」や、ASEAN南東部の「海の経済圏」づくり等々も動き出している。ベトナムで日本の新幹線が走る日も遠くないという、その勢いをかって、他のプロジェクトでも主導権を握って欲しいものだ。特に外交音痴の我が国では、狡猾な中国にまんまと出し抜かれるのを注意しなければならない。(4)観光に力を入れ、地域を活性化し、食糧自給率を50%まで上げる目論見である。食糧自給率は、国民の死活に関わることであり、何とかここに資本を投入して、この戦略を達成して欲しいものだ。観光による波及効果は、10兆円と見て、ここでも新規に50万人の雇用が見込まれているという。(5)の科学技術立国では、スパコン問題で、蓮舫仕分け人が、「何故1位でなければ行けないのか、2位では駄目なのかと」と詰め寄っていたが、技術開発を算数化するこういった態度では、技術立国にはほど遠いと言わざるを得ない。ただ、技術者側も、野放図な開発予算を漫然と使うことは許されないと言うことを気づき始めているところもあり、象牙の塔が如何にあるべきかに1石を投じたと一定の理解は持っている。ただ、連れ合いの姫が、工学系の博士号を取得しながらも、正規の職に有り付けないという点など、今回の戦略でのこういった問題の解消を目指すと言うことに期待を寄せている。(6)雇用・人材では、ニートの解消や、女性、高齢者の活用など、将来の少子化対策とも相まって、なかなか一鳥一石と行かないところであるが、多用な人材を、ただ眠らせるばかりの現時点のシステムは、改善の余地が大いにあると考える。教育問題でも、へんてこりんなゆとり教育のはき違えで、児童、生徒の学力低下を招き、世界に冠たる技術立国とはおよそ逆行している感がある。ここに盛り込まれている教員の質の向上は切に望みたいが、一方、奇っ怪な、モンスター・ピアレンツ対策など、教師をサポートするシステム作りも必要ではないかと思う。こういった新しい成長戦略の下に、2020年度迄に物価の影響を含む名目GDPを2008年度の498兆円から650兆円まで持っていこうという大胆な構想である。どうやら華々しい花火ではあるが、これがどういった根拠に基づくのか、私には分からないし、10年後に私がこれを云々することはないであろう。この実効工程表は何と今年の6月にならないと出来上がらないのだそうだ。気の長い話である。正月2日目の今日は、車のお祓いを受けに毎年訪れる城南宮を参拝してきた。
2010.01.02
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穏やかに正月が明けた。外はもう昨年となった昨日と同じように寒い。地球温暖化を疑うような寒さだ。連れ合いと、初めて元旦の真夜中に初詣のため、近くの若山神社に参った。身を切るような寒さの中、着られるだけの防寒着で身を固めて、徒歩で出かけた。若者達や、年配の人、家族連れなど、この寒い中、結構な人が歩いたり、車に乗ってお参りに来ていた。線路脇の道を歩いていると京都に向かう電車が通り、列車内には普段の昼間と同じくらいの人が乗っていて、中には着物姿の女性の姿もちらほら見えた。阪急電車もJRも大晦日から元旦に掛けて、夜通し運転をするというので、おそらくは京都辺りは結構な人が集まっていることだろう。連れ合いに教えられ、見上げると、空には北斗七星が確認できた。丁度柄杓の根っこの部分の星の輝度が小さかったので、見分けにくかったが、確かに北斗七星であり、大都会では明るくなりすぎて最近では星すら見えなくなったのに、一寸嬉しかった。柄杓の先端の2つの星の間隔を7倍程度するとそこには小さいが北極星も確かに見えた。神社への道は、以前に昼間歩いても、そんなに遠くも、きつくも感じなかったが、今日だけは、寒さのためか、神社前の階段で何度か小休止をしながら山道を登った。特に連れ合いは階段の上りが苦手だということで出かける前は乗り気ではなかった。喘ぎながらも階段を上りきり、神社の鳥居をくぐるころには、少し汗ばむ程度になっていた。作法は詳しく知らないが、手水を使うと、柄の部分がつるっと滑る。どうやら凍っているらしい。作法では、確か、口も漱ぐとあったが、この辺りはムスリムがサラー(お祈り)の前に口や手足を洗うのと似ているなと感じた。神はいずこも同じか。若山神社は、行基が創建したと伝えられ、主祭神は素戔嗚尊だとのことである。昼間なら、小さな本殿前の庭の木立の間から、眼下に男山や桂川、宇治川、木津川の三川合流地点を眺めることができる。暗闇の今日は、その辺りの民家や、マンションの明かりが綺麗に見える。すでに、その本殿前の庭には、火が焚かれており、若者達が暖を取りながら、車座で談笑していた。本殿で、作法通り、二拝二拍手一拝を祈念を込めて行った。工場で、鉄骨を製造しているときには、毎日儀礼的に行ってきたものだ。今年は沢山お願いすることがあるので、混み合う神社では気が引けるのだが、夜の神社は、神様を独占することが出来た。基本的には、本年も健康で楽しく過ごせるようにということだが、その他の願いは、ここでは省略することにする。お参りが終わり、恒例のおみくじを引く段になったが、何とおみくじの自動販売機(販売機とは言わないのかな)が置いてあるではないか。なにやらそれまでの荘厳さとは違って、無味乾燥なものを感じたが、おみくじの自動販売機は、ここだけの特別なものでもなく、コインを投じて、販売機下から出るおみくじを開いた。近年まれに見る「大吉」であった。特にゲンを担ぐ方ではないが、大凶や、凶などよりも遙かに気分が良い。大阪に帰って3度目の正月になるが、これまでは、凶があったり、せいぜい吉や、末吉止まりであったから、まあ、今年の出足としては大変喜ばしいことである。おみくじには、誰の歌か知らないが、「かき曇る 空さえ晴れて さしのぼる ひがけのどけき我がこころかな」とあった。また裏面には、神の教えとして、次のように書かれていた。「過ぎたくり言、とり越し苦労、神の授けの身をやぶるとり返しのつかぬ過去の事を、くり返して思いなやんだり、どうにもならぬ将来の事を案じ煩らうのは唯心をいため身を害なうだけで、何のやくにも立たぬ愚かな事である。今日は唯今日の事を、面白く楽しく、神様を念じつゝ正しい心でやって行く。禍も転じて幸(さいわい)となる。」と有り難いご託宣であった。正に、ローマの詩人ホラティウスの言う、「カルペ・ディウム」(今を捉えよ)と同じではないか。「明日有ると思う心のあだ桜、夜半に風の吹かぬものかは」である。「少年易老學難成 一寸光陰不可輕」というではないか。まして前期高齢者になった今、どん欲に且つ恬淡と、「今日は唯今日の事を、面白く楽しく」やるべしと言うことであろう。また、「こころをすなおにし身もちを正しくすればますます運よろしく何事もおもうままになるでしょう 欲をはなれて人のためにつくしなさい」ともあった。人の役に立てるかどうかは別として、今まで欲得で人に接したことはないので、これも合格だと思っている。まだ60才半ば故、孔子の言うように、「七十而従心所欲、不踰矩」にはまだ早いが、そう無茶をしなければ、矩を越えることも無かろうと言う具合である。願望も、「思い通りですが、油断するなと」あった。それほど高望みをしていないから、これも又良しと受け止めよう。お参りしての帰りは、下り階段と下り道である。参る時のしんどさはなかったものの、少し上気した心と体は、しんどいながらも一生懸命、登ったことによって、返ってすがすがしいものになっていた。軽くなった足取りで、連れ合いは、これも近所にある、名泉水が湧くことでも有名な、水無瀬神宮にも参ろうかと言ったが、こちらは明日以降いつでも行けるということで、帰宅することにした。水無瀬神宮は、第82代の後鳥羽天皇や第83代の土御門天皇それに第84代の順徳天皇を祭ってあるとかで、それらの天皇よりもずっと大先輩の神々の中の神、「伊邪那岐神」から直接生まれたとされる、あの八岐大蛇を退治したということで名高い、「素戔嗚尊」にお参りしたのだからもう良かろうと言うことになったわけだ。因みに京都の八坂神社なども、「素戔嗚尊」をお祭りしているのだそうだ。明日以降の三社参りには訪れるつもりである。お腹が減ったので、帰宅して、まだ日も明けやらぬ内から、お雑煮を食べた。近来にない正月が始まった。
2010.01.01
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