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歎異抄(第十三章)その1からの続きです。訳文は次のようである。一、弥陀の本願には不思議な力があるからということで、悪をもおそれないものは、これはまた、本願ぼこりといって本願の寛大さにあまえ、それにつけあがるものであって、とても往生できるはずはない、ということについて。これは、本当のところ、まだ本願を疑うものであり、また、善悪の宿業ということを知らないものである。現在、こうして善い心がおこるのも、宿世の善がうながすためである。また、悪いことをたくらんだり実行したりするというのも、おなじく宿世の悪行がはからうためなのである。亡くなった上人のおっしやるには、「うさぎの毛やひつじの毛の先端についている塵ほどの罪をもふくめて、現にわれわれが犯しつつある大小さまざまな罪悪で、自分の宿世の思慮や言動に深く根ざしていないものは一つもないのだと知らなくてはならない。」とのことでありました。また、あるときのこと、「唯円坊は、わが親鸞の言うことを信じるか。」とのお言葉がありましたので、「はい、信じます。」とお答えいたしましたところ、「では、言うことに決してそむかないか。」と、かさねてのお問いかけがありましたので、つつしんで承諾いたしました。すると、「では、いまかりに、人を千人殺してもらおう、といったらどうだ。もしそれができたら、往生はまちがいないはずだ。」とおっしゃったので、「お言葉ではございますが、このわたくしの器(うつわ)では一人として殺すなどできそうもありません。」と申しあげましたところ、「では、なぜ、親鸞が言うことに決してそむかないなどと言うのだ。」と言われ、さらに続いて、「これでよくわかるだろう。何事でも、もし思うとおりにできるのなら、往生のため人を千人殺せといえば、すぐにも殺すはずだ。ところが、ただの一人でも殺すことのできるような、自分の宿世からの必然性がまったくないから、殺さないのだ。自分の心がけが善良だから殺さないというのではない。また反対に、いくら殺すまいと思っても、百人千人という多くの人を殺してしまうことだってあるにちがいない。」とおっしゃいました。このことは、われわれが自分で、心の善いのを往生のため「善い」と思い、悪いのを「悪い」と思ってばかりいて、ほんとうは善くも悪しくもひとはみな、本願の不思議な力によってたすけていただけるのだということに気がつかないでいることをおっしゃったのである。かつて、誤まった考えにとらわれた人があって、本願は悪いことをしたものをも救おうという願であらせられるからということで、自分から進んでわざと悪いことをし、これこそ往生のための行ないになるはずだなどと主張し、いろいろとよくないことをしているという評判がたちましたとき、お手紙に、「毒を消す薬があるからといって、好んで毒を飲むようなことをしてはならない。」と書かれてあったのは、その誤まった考えにとらわれているものを正そうというためであったのである。もちろん決して、悪は必らず往生のさまたげになるというのではない。「戒律をまもることによってのみ本願を信じることができるというのであれば、われわれのように戒律ひとつまもれないものはどのようにして生死の迷いから解放されたらよいのか。」ともおっしゃったのです。こうしたあさましく罪深いわれわれでさえも、本願にお会い申しあげることができるからこそ、ほんとうの意味でそれにあまえることもできるのです。しかし、だからといって、このわが身にそなわっていない悪事は、何としてもはたらくわけにはいかないものなのです。このことについては、また、「海や川に網をうち、釣をして漁業で生活するものも、野山で猪(しし)を狩り、鳥などをとって狩猟で生計を立てるものも、あるいは商売する人も、田畑をたがやす百姓も、すべておなじことなのだ。」とも、「どうしても、そうしなくてはならないような宿世の必然性が自分をゆり動かしてくれば、どんな行為をもするはずだ。」とも、親鸞聖人はおっしゃいましたが、このごろのものは、いかにも後世の往生を願うような顔をし、善人だけが念仏して救われるかのように、場合によっては念仏の道場に貼り紙までして、これこれのことをしたものはこの道場へ入ってはならないなどと掲示しているものもあるしまつ、これこそまったく、表面の姿だけはいかにも才知すぐれたものが善行にはげんでいるかのように見せかけて、その内実はうそいつわりの仮の姿に満ちているものではありませんか。本願を誇りにして、それにあまえ、犯してしまった罪悪といえども、それは今まで重ねてきた宿世の行為の導きによるものなのだ。だから、善いことも悪いことも、現在のこの生活はすべて宿世の行ないのむくいをうけているのだとその定めにまかせて、ただ一心に本願をお頼み申す、これこそ他力によって生きることであります。『唯信抄』という書物にも、「いったい弥陀のお力がどれほど大きく深いものであられるかを知っていて、罪ぶかい自分はとうてい救われがたいなどと思うのであろうか。」とあるではありませんか。悪人であっても本願の前にあまえるほどの気持があるからこそ、本願他力を頼る信心が不動になるはずのものです。だいたい、悪い行ないや煩悩をすっかり断ちきってしまってからでなければ本願を信じることができないというのであれば、本願にあまえることもなくてよかろうが、しかし、煩悩を断ちきってしまえば、それはそのまま仏となることであって、その仏となれば、五劫というとてつもなく長い間かかって、われわれ煩悩からはなれられないものどもを救おうという誓願を立てられたその願すらも、もう全く必要ないものとなってしまうわけではありませんか。本願にあまえるな、本願ぼこりするな、といっては悪人をいましめられる人々も、じつのところ、煩悩や汚れのことごとくを同じく身にそなえられているようです。そういうことを言っている彼らこそ、すでに本願にあまえているというものではありませんか。いったい、どんな悪を、本願にあまえるもの、本願ぼこりというのか。どんな悪が弥陀の本願にあまえないでいられるのか。本願にあまえるのをむやみに非難することこそ、かえって思慮のあさいことかと思われる。注釈には次のように書かれていた。1本願ぼこり ほこりは得意がること。本願をかさにきて思いあがりの心がわき、 それにあまえ、つけあがることをいう。2宿業 宿は現在までの長い過去の世で、前世ともいう。業はそこに積み重なる行為で、 それが原因となって現在の結果をもたらすこと。3もよほす うながすこと。4さんさふらふ そのとおりでございます。承知の返辞。 「さ」はそのように。「ん」は指定の助動詞「なり」の連用形「に」の音便。「さふらふ」は、その表現をていねいにする補助語。5領状 承諾。領掌とも書く。6ころしてんや 殺してもらおう。「てん」(てむ)は誘いをこめた願望。 「や」は感軌を表わす。7ころしつべし「つ」は強め、「べし」は可能。8こゝろのままにまかせる 思いのままになるの意。9すなはち すぐに。10業縁 他力による行為上の必然性を意味する。11そのかみ かつて。以前に12邪見 まちがった見解。邪はゆがんでいること。13やうやうに 様々に。14御消息 お手紙。この内容については、『末燈抄』(第十九書簡)に同意の文がある。15邪執 まちがった見解にとらわれること。16持戒持律 戒律を守ること。規律とは、ものを殺さない、盗みをしない、うそを言わない 等のだいじな生活規定。17げに ほんとうに。まったく。18よも まさか。下の打消動詞にかかる副詞。19しゝ けものの肉の意から、けもの一般をよび、さらに猪や鹿を指すようになった。 ここは、けもの。20当時 このごろ。現代。21後世者ぶり わざと来世(浄土往生)をねがう者のようによそおうこと。22道場 念仏者が集る場所。寺院でもなく一般民家でもない中間の建物。 釈尊の説教場は寺院ではなく道場であった。23なむなむ 何々。これこれ。24賢善精進の相 りっぱな仏弟子のすがた。賢善はかしこく善を行なうこと。 精進は一心にはげむこと。25虚仮 うそいつわり。虚は実の、仮は真の対語 26唯信抄 聖覚(しょうかく)法印(一二三六年没、法然門下)の著。 親鸞はこれを重んじ、『唯信抄文意」を著している。27五劫思惟の願 五劫という長い期間、人間のために思索を続けて立てられた弥陀の本願。28詮 しるし。効能。29さふらふげ 「さふらふ」ほ「いる」のていねい語。「げ」は、それらしいようす。30かへりて そんなことを言うのは、かえって。感想は歎異抄(第十三章)その1に書きます。
2010.04.30
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十三章である。(第十三章は長いので、本文と感想をその1に、訳文と注釈をその2に書く)本文は以下のごとし、 第十三章 一、弥陀(みだ)の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願(ほんがん)ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業(しゅくごう)をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも宿善(しゅくぜん)のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるゝも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛(うもうようもう)のさきにゐるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。またあるとき、唯円房(ゆいえんぼう)はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまふしさふらひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領状(りょうじょう)まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人(いちにん)もこの身の器量(きりょう)にてはころしつべしともおぼへずさふらふとまふしてさふらひしかば、さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし。なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁(ぎょうえん)なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。そのかみ邪見(じゃけん)におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて往生の業(ごう)とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息(ごしょうそく)に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされさふらふは、かの邪執(じゃしゅう)をやめんがためなり。またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律(じかいじりつ)にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死(しょうじ)をはなるべきやと。かゝるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業(あくごう)はよもつくられさふらはじものを。また、うみかはにあみをひきつりをして、世をわたるものも、野やまにしゝをかりとりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠(でんばた)をつくりてすぐるひとも、たゞおなじことなりと。さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進(けんぜんしょうじん)の相(そう)をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも宿業(しゅくごう)のもよほすゆへなり。されば、よきこともあしきことも業報(ごうほう)にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』(ゆいしんしょう)にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業(ざいごう)のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらふぞかし。本願にほこるこゝろのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定(けつじょう)しぬべきことにてさふらへ。おほよそ悪業煩悩(あくぎょうぼんのう)を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなはち仏(ぶつ)になり、仏のためには五劫思惟(ごこうしゆい)の願その詮(せん)なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるゝひとびとも、煩悩不浄具足(ぼんのうふじょうぐそく)せられてこそさふらふげなれ。それは願にほこらるゝにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ。いかなる悪かほこらぬにてさふらふべきぞや。かへりてこゝろをさなきことか。歎異抄(第十三章)その2に続きます。歎異抄(第十三章)の感想です。(その2からの続きです):字数制限の為。浄土真宗では、本来の寺を疎遠にして、道場(町の寺子屋的なものか)でのティーチインで行われていたが、「本願ぼこり」というのは、俺は、大学出だとでも言う輩のことであろう。最も最近の大学は、林立、乱立で、その優位性は何ら差別的なところはなく、敢えて、大学へは「青春を謳歌するために行くのだ」と臆面もなく言い放つ連中が数多いる、しかし、当時の寺は遙かに格式が高いものであったように思われる。世の中が、天変地異で満ち、人知の及ばない時とか、戦乱で如何ともしがたい状態の時は、大いに他力にすがる気持ちが自然発露的に起こり得るが、天下が泰平になるにつれ、何でも自分で事が成ると思いがちである。この事を親鸞は戒めているのであろう。第三章の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」とあるが、ここでハッキリと、「悪行をした者をこそ救う願であるが故に、わざわざ進んで悪を作り、往生の業と成すべきであるなどと言うのは間違った考えなのである」と述べられている。一寸安心という感じではあるが、親鸞が、唯信坊に「私が千人を殺せと言えばどうか?」と問うているが、何故宗教では、人を試す言葉を安易に吐くのであろうか?ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、そしてイスラム教でもその原典となる旧約聖書の「創世記」22で、神は、イサクに自分の子供を生け贄として捧げよと要求して、信心の深さを確かめている。これなど、最も忌み嫌われるべき教えではないのか、イサクは、正直に神に我が子を差し出し、晴れて口頭諮問に通った形だが、その必要があるのであろうか。イサクをして他の民の模範とすべくやったとしても、許されるべきではないと私は思う。歎異抄でも、唯信坊を試しているのは、やはり釈然としないものを感じる。オウムが、サリン事件など一連の凶悪犯罪を遂行したのも、そうするように教祖と名乗る狂人「麻原彰晃」に従ったからだ。そして、今正に世界最大のテロ集団「アルカイーダ」についても、小さな子供の時から、敵(非イスラムで、自らに同意しない者)を征伐するのがアッラーの教えであるという風にたたき込まれているかの犯行という意味もある。宗教は、決して弱い人間を試してはいけないし、また、積極的に自らの考えに引き込むようなことをしてはならないと考えるのである。迷える者や、痛んだ者を、静かに癒し、救うのが本来の姿であるべきでないのかと考えるわけだ。
2010.04.30
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連れ合いと、かねて計画していたルノワール展を観に出かけた。彫刻や、自筆の手紙などを含め全部で85点の出展であった。NHKの美術講座は、まだ印象派までは進んでいない。先月「名画の見方、読み方」という特別講座があり、受講したのは、この日のためにと言う謳い文句だった。従って、1841年フランスのリモージュ生まれなどと、予備知識は、十分授けられていた。ルノワールは、人間の画家と言われているが、風景、静物、花なども描いているということが、この展覧会でよくわかった。大阪中之島にある国立国際美術館での開催で、この美術館には、2年前にモディリアーニ展で出かけたことがある。モディリアーニは、エコール・ド・パリと言うから、印象派よりも遅い時期になり、若干のデフォルメが入ってくるが、ルノワールは、印象派らしい画家で、色遣いが素晴らしい。ブースは大きく4つに別れていて、第1章がルノワールへの旅、第2章が身体表現、第3章が花と装飾画そして第4章はファッションとロココの伝統という区別であった。ルノワールは78歳で生涯を閉じるわけだが、大きく分けて、19-38歳の間は「グレール画塾時代」で、39-50歳はサロンを離れて独立志向的になり、51-78歳迄は、円熟し、絵もよく売れて、豊穣の時であったという。しかしながら、晩年はリュウマチに苦しんだとあり、不自由ではあったろうが、他の画家に比べても、まずまず幸せな一生であったようだ。順序通り、絵の感想を述べても仕方がないことであり、私自身が、良いと感じたり、意外であったりした作品について書いてみたい。なんと言っても第1番に挙げなければならないのは、そしてこれは、連れ合いも異議無く同意見だが、俗称「可愛いイレーヌ」である。この作品さえ見れば、変な話だが、元は取れたような気になるほど素晴らしい絵であった。あまり名を聞かないE.G.ビューレ・コレクションが所蔵していると言うことであり、道理でパリでも出会わなかったはずである。後で知ったのだが、それがなんと、今回、大阪でのみ展示されているというではないか。貴重な機会であったことを幸運に思った。そう言えば、連れ合いなど、再び見ることはないだろうと言うことで、通り過ぎて又引き返し、時間を掛けてしばらく眺めていた。全てが幻想的であるが、洋服のスカート部分の青い色遣いは、清楚さを引き出すのに大いに効果的であると感じた。この作品は、1点だけ単独の区画に掛けられていて、多くの人が立ち止まって鑑賞していた。私が感じるに、ルノワールもこのような作品を描くのだという驚きであった。8歳の少女のあどけない中にも気品のあるこの作品を、母親は気に入らず、使用人の部屋に掛けていたと言うから、芸術を解さない人間はどこにでも居るものである。「団扇を持つ若い女」は人物画と静物画を合体したような素晴らしい作品であり、パリ万博で起こったジャポニズムの所産であるが、私などは、この団扇が絵の品位を落としているような気がした。ダンス3部作の内「ブージヴァルのダンス」のみ出展されていたが、事前に講義を受けていたとおり、男性の顔は隠れていて、女性は束の間の喜びを表していると言うが、私には、なにやら憂いを感じさせた。この女性が後にユトリロの母となるらしいが、妊娠中だと聞いていたものの、絵からはそのことは感じられなかった。「新聞を読むクロード・モネ」は入口近くの2番目に掛けられていたが、モネはこの作品をとても大切にし、生涯手放さず、息子によってマルモッタン美術館に寄贈されたと言うことだが、そう言えば我々もマルモッタンで見たような気がする。女優をモデルに描いた、「可愛いイレーヌ」に勝るとも劣らない、清楚さを感じさせる「アンリオ夫人」の肖像画は、ルノワールによい肖像画の注文が来るようになった作品の一つであるという。「可愛いイレーヌ」と違って、当時19歳前後であったと言うから、美しい女性盛りであったわけだ。柔らかな肌に白いドレスのデコルテの表現は、素晴らしい。この女優は、ちょうど我々が生まれた年に87歳で亡くなったと後で資料を見て分かった。モリゾとマネの弟の間の子供を描いた「ジュリー・マネの肖像」は、なにやら愁いに充ちた、長い髪の少女だが、16歳であろうか、この少女が、あの「猫を抱く子供」と同一モデルとは思えないほっそりした顔立ちである。第2章の身体の表現に掲げられた裸婦群は、これぞ私がイメージしていたルノワールであった。似たようなタッチと女性のふくよかさが穏やかに表現されている。必要以上にふくよかに描いているのではないかという感じである。この中の、「水の中の裸婦」については、説明ビデオが流されていて、X線や赤外線で透視したり、分析器で絵の具に含まれる成分を分析したりして、ルノワールが、いかなる筆遣いをしていたのかということを科学的に分析していた。次のブースで描かれた「テレーズ・ベラール」はパトロンとなる銀行家の兄の娘を描いた作品だが、13歳という若いが既に女性としての気品を備えた肖像画であり、これも青を基調として端正に描かれている。これと並んで鑑賞できる「縫い物をする若い女」は、モデルは特定でなく、ルノワールの女性像の集約的なものだそうで、明らかに、「テレーズ・ベラール」を描いた筆遣いと異なる、ぼやかしたような表現である違いがおもしろい。我々の間では、静物画についてはセザンヌには叶うまいと言うことになったが、中でも「花瓶の花」で、いろいろな色遣いをする中、しおれかけたのか黄色に白い花弁のマーガレットや、数輪の真っ赤な花がとても印象的であった。リュウマチに冒されてから、シャール・ギノと共作で、数点のブロンズを残していることも今回初めて知った。今回のルノワール展で、私が抱いていたルノワールのイメージにぴったりの作品群もあったが、8歳、13歳、16歳、19歳という可愛い少女の肖像画を観て、ルノワールの精緻な一面を深く印象づけられた。また、ルノワールはロココの伝統にも敬意を払い、印象派以前の神話の世界の構図にも挑戦しているというのを知ることが出来た。そして、ドイツの騎士タンホイザーが美の女神ヴィーナスの誘惑に負けて官能の世界におぼれるという場面を描いた2作品もまた、知らなかったルノワールの一面であった。事前講義で聴いたが、何しろ3,000点もの作品を残したと言うから、まだまだ知らない作品は山ほどあることになるだろうし、展示された作品の中でもここで触れられなかった多くの作品があるのだが、今回のルノワール展は、正直感動ものであった。
2010.04.29
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小沢一郎の資金管理団体「陸山会」の土地購入事件で、検察審査会が開かれ、審査員11人が全員「起訴相当」を議決した。この結果がどう進展するのかは、非常に興味のあるところである。プロの検察官は、時として権力者に緩やかなケースが多い。自分の立っている床を揺すぶるようなことに成りかねないからだ。工事現場の作業員が、何を血迷ったのか、不要と思った足場を切ろうとして、自らが乗っている側のバタ板(作業用足場台)を切って墜落したという笑えない話がある。変に追求して、時の権力者にたてつくことは、得策でないという心理である。このためかどうか、1948年に制定された検察審査会法で、一般の市民感覚を持ち込むことが可能となったわけである。元公設秘書の大久保隆規や秘書の池田光智、そして使い走りの議員石川知裕迄もが逮捕されているのである。企業での通常の判断を持ち出すまでもなく、それら、不正を働いたものの管理監督責任を持つ小沢一郎がその責を問われるのは当然のことであるが、この御仁は、ただ訳もなく「私はやましいことはない」の一点張りで通してきたし、これからもその方針は変わらないであろう。訳もなくというのは、訳を説明して、身の潔白を証明し得ないからに他ならない。どの程度のことをどう説明したのかということが、一般の国民に達して来ない。検察審査会の審査員も、1.小沢氏の供述は、不合理、不自然で信用できない。2.土地購入を隠蔽するなど執拗な偽装工作をしている。3.小沢氏には絶大な指揮命令権限があり、元秘書らとの共犯の成立が認定可能。4.「政治と金」で政治不信が高まっており、市民目線からは許し難い。5.法廷で真実と責任の所在を明らかにすべきだ。と、議決したのだという。この検察審査会は、地方裁判所と地方裁判所支部がある全国の149か所に、165の検察審査会が設置されていると言うことで、これまでに全国の検察審査会が審査をした事件は15万件にも上り,その中には,最近の明石花火大会事件での副所長の起訴相当とか、JR福知山線脱線事故における、遡って当時の社長を起訴にまで持ち込んだものや、水俣病事件,羽田沖日航機墜落事件,日航ジャンボジェット機墜落事件,薬害エイズ事件,豊浜トンネル岩盤崩落事件,雪印集団食中毒事件,といった社会の耳目を集めた事件もある。この検察審査会が審査した結論に基づいて,検察官が再検討した結果起訴した事件は,約1,400件程度であるというから、なかなかハードルは高いものの、これほど世間が注目し、真相を知りたがっているというか、政治家の悪事を暴くことを期待する国民の声がある限りは、検察も捨て置かれないであろうということだ。この程度のことは誰でも(議員ならば)ということで、自分だけが何故スケープゴートに成らなければいけないのかという、小沢側の論理があるだろう。同様の傷を持つ議員は、自民党の中にも大勢いる。従って、鋭い追求が出来ないという点もあるだろう。50歩逃げて、100歩逃げたものを笑うが如しで、議員とも成れば、「政治には金が掛かる」で何でも、何時でも終わりにしてきたわけだ。野党時代には、急舌鋒で迫っていても、与党になると、もごもごと急に歯切れが悪くなるのである。1,500万円の子供手当が「不起訴相当」となったので、やれやれと思っている鳩山総理ではあるが、こういった御仁に国政を託しているのかと思うと実に情けない気持ちになり、当然の結果として、内閣支持率というのは3割を割り込むことになるのであろう。名目の権力者と、影で操る闇将軍の2人とも「お金」の面で実に不明朗であるからだ。金を持ったものが力を持つという構図は、やくざの世界と変わらないわけで、おまけに人事権まで握っているのだから、鬼に金棒である。この構図を断ち切れるのは、選挙民だけなのであるが、「おらが故郷(くに)さの大先生」は、意外と地元地盤では盤石なのである。日本の田舎とは、国政を云々する前に、地方利益の代弁者で終わっていて、それで世界が回る仕組みになっているところから起こる現象である。私は常日頃、選挙権の中に拒否権を行使できるようにして貰いたいと言うことを考えている。即ち最高裁判所の弾劾裁判のようなシステムで、いやしくも国政に携わる議員を選ぶのだから、どの地方の候補者に対しても、どの地区からでも「この人だけには議員になって欲しくない」という人の名前を×印で入れることである。もちろん清き1票をそれに使うわけだから、自らの地区の候補者は選べなくなるのは容認しなければならないとうことになる。要は、身を挺してでも、きな臭い、いわゆる「悪人」を国政には送り込めないというシステムである。小沢一郎の場合、私が思うに、このまますんなりと検察が起訴するとも思えないわけで、今回の、JR福知山線脱線事故の如く、弁護士による強制起訴という結果になることも考えられる。公民権が停止されない限り、小沢一郎は、又地元の「みそぎ」を受けて再び同じようなことを、次回は、今回にも増して豪腕に行うだろう事は想像に難くない。お坊ちゃま宰相の鳩山由紀夫がアメリカからなめられて、さしの会談の時間さえも取ってもらえず、立ち話で、何万人も集まる集会の話をオバマ大統領に伝えられないのは何故か。昔から、お金持ちのお坊ちゃまは、ばあやが、何でもいうことを聴いてくれたから、どうもそのくせが残っているのではないかと思われるほどだ。今、政策決定は政府でと言いながら、結局は、キーポイントでは、小沢の裁定を待っている、何でも依存の鳩山民主党だが、小沢が辞めた後に民主党は舵を失った船のようになると懸念する向きもあるが、決してそのようなことはなく、必ずや、それに変わる適切な人物が現れるものである。もしそれでも、国を思う義士がない日本ということになれば、自らが掘った墓穴に入らざるを得ないのは、これまた「自己責任」ということであろう。
2010.04.28
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最近BRIC’sの中でも、特にインドの動きを大きく感じる。現在世界第2位の人口を有する国であり、中国が一人子政策を採っているので、2025年にはインドが世界一の人口数を誇る国家になるであろうと予想されている。また、核兵器を保有していることでも知られていて、大国である。国土面積も3,287,590km2で世界第7位であり、377,835km2の日本の約9倍近い面積を有している。とにかく、昔から、どでかい国であることは変わりないのだが、この国独特のカースト制度が経済の発展を妨げ、貧富の差を大きくしているとも言われている。ニューデリーを流れるガンジス河(ガンガ=大河の意)では、上流から人の死体が流れてくることも珍しくないという国であった。インド・ヨーロッパ語族の流れで、ヨーロッパ系とは別の道を歩んだ、アーリア系民族が現在のインドの元である。キンメリア人、スキタイ人、サカ人という最初の騎馬民族はインドの先祖でもある。スキタイ人は、戦闘で、長弓を使い、紀元前後には既に鉄の鋳造技術を持っていた。昔取った杵柄と言うわけでもないだろうが、インドでの鉄鋼は、このところ長足の進歩を見せている。中国は別格としても、日本や、アメリカ、ロシアといった国が、粗鋼の生産量が横ばいなのに対し、すさまじい上昇の中国とともに、インド、韓国も上昇を続けている。2008年の結果では、2007年比で、増加したのは、中国、インド、韓国だけである。インドの絶対量も、年産5,500万トンと、韓国やドイツを凌いでいる。さらに、国営で鉄鋼最大手のインド鉄鋼公社(SAIL)は2010年の生産量を2年後の2012年にはほぼ8割増しにするという計画なのである。民間企業で業界2位のタタ製鉄も、3位のJSWスティールも増産体制を確立しており、インド全体の鉄鋼業界の底上げの感は非常に大きい。鉄鋼業界も、自国だけというわけにはいかなくて、グローバルな展開を見せている。新日鐵は、タタ製鉄とJFEスティールはJSWスティールと提携している。世界最大の、アルセロール・ミタルは、インド中堅を傘下におさめているという具合だ。わずか6年前の2004年に世界の粗鋼生産量は10億トンを越えたばかりであるが、2012年には、世界の粗鋼の生産量は、19.8億トンに達する見込みだという、すさまじい勢いで、生産が伸びていることになる。昔は、世界の総生産量(10億トン)の10%を日本が生産(1億トン)し、その又10%が建築関係(1000万トン)に使われるといった大まかな常識数字も、昔のこととなっている。造船用鋼材である厚板などは、当然韓国や中国が多くなり、厚板だけに重量も嵩むといった具合である。また、自動車に関しても海外生産が増えた分だけ、日本での消費量に比して、インドなどの生産量が増えてくるわけである。自動車のボディーに使われる鋼材は、ますます薄く軽量化されているとはいえ、生産する台数が多いために鋼材の消費量も多くなるわけだ。「鉄は産業の米」という言葉は、日本からは既に姿を消してしまったが、韓国や、中国、又インドでは、正にその言葉が現在進行形なのである。自動車でも、古くからインドで生産展開しているスズキ以外にも、海外で製造を本格化しているトヨタやホンダも、インドの鋼板を使うことになっているようだ。一時リーマンショックで落ち込んでいたが、このところ、原料の鉄鉱石を産する、オーストラリアやブラジルなどのヴァリ(バーレ)やリオ・ティント、BHPビリトン等が一斉に材料の値上げを言い出しているが、一頃発言力のあった日本よりも、彼らの顔は、中国を初めとした、インドや、韓国の方に向けられているようである。我が国での近代製鉄の始まりは、江戸末期に始まる。製造の動機は、やはり戦争である。大砲を製造するために始められた、「たたら炉」がその始まりだという。それが高炉へと発展し、官営である製鉄所となって、それが民営化されて、今日に至っているのである。それらの技術が、中国や、インド、韓国に流れたのはいうまでもない。インドの製鉄所(SAIL)が国営であるのをみても、日本の後を追いかけていることは間違いなく、ただ、人口の差が、爆発的な差をもたらしているということが言えるだろう。一方、この鉄鉱石は後何年、いやどの位の埋蔵量があるのだろうか。ある記事では、約2千億トンとも言われているようだ。年間約10億トンを製造続けるとして、200年である。ただ、この鉄は、古いものを再利用して使うことが出来るのが良いところである。これら新興国が、今の日本のように、「コンクリート(鉄)から人へ」をスローガンにして、箱物を造ることを止めるのがいつになるのだろうか、そして、これらが達成された暁には、かつての暗黒大陸であるアフリカなどにその使途は流れていくのであろう。世の中の動きを鉄を通してみることも、歴史的な側面が理解しやすく、日本が主役でなくなって、中国、インド、韓国などに移っていく流れは、やがて世界中を席巻して、地球を鉄製品で覆い尽くすことであろう。ふとヨーロッパのことを考えると、彼の地は、元々鉄を使うよりも石材を使う方が多かったのではないかと思われるし、あの優雅な街並みの風景は、鉄ではあり得ず、それ故にヨーロッパでは鉄を必要とすることが少ないのかも知れないと思う。造船に始まり、建築鉄骨に関係し、鋼製の橋梁にも手を染め、最後はプラントの鉄骨に終わった私の鉄との関わりであるが、今その当時を振り返るに、大いなる変革に当時としては、このような事態が訪れるとは思わなかっただけに、感慨がひとしおである。
2010.04.27
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今日の新聞に、韓国のサムスン重工業が中型タンカー9隻をギリシャ企業から470億円で受注したとあった。アフラマックスと言うから載荷重量80,000~120,000トンの中型船である。このところ、液化天然ガス(LNG)を現地で生成する洋上プラントも活況を呈していて、造船市況にも回復の兆しが見えてきたと解説されている。この記者は、韓国の造船界のことを言っているのだろうか、それとも日本を含む世界的造船界のことを言っているのだろうか。ギリシャ船主は、あのオナシスに代表されるように、金に汚いことは私も早々に知ったのだが、そんなことは、今の造船界では問題にならない。日本は、確かに、洋上プラットフォームについては、日揮や、千代田化工がブラジルのペトロブラスから受注している物件もあるが、この場合は、サムスン重工業がフランスのテクニップと共同で、ロイヤル・ダッチ・シェルから受注した液化天然ガス(LNG)の洋上プラントの事を指しているのである。この、洋上プラットフォームは1基あたり50億ドル(約4740億円)程度とみられ、最大10基まで受注する可能性があるというからたいしたものである。今回受注した9隻のタンカーについては、工期短縮という言うことで、全船を2011年下期から2012年7月までに全て引き渡すのだそうだ。10ヶ月程度で、9隻を建造するというのだから驚異的な建造スピードである。私などは、通常の船台期間は短縮されたとはいえ、最低でも3ヶ月は掛かるのが常識だという観念がある。私の造船時代にやっと大型船舶が登場し、VLCC(Very large clued carrier)だとかULCC(Ultra large clued carrier)などの建造で、繁栄した時を思い出した。大型船を早期に(船台期間を短く)建造するのは当時でも命題であり、そのためロータリーシステムという船体を輪切りにしたブロック工法を発明したのである。その発明を当時の社長がしたことになって、そのため社長は工学博士号を得たと言うことを覚えている。こんな対象で博士号が取れるものかと思ったものだが、まぁ、当時としては画期的なことであった。名前は確か「ロータスシステム」と称したと記憶する。それでも、船台期間(尤も、この場合はドック建造であったが)は、やはり3ヶ月程度であった。日本は2000年頃に造船業トップ座を韓国に譲ったのだが、その後サムスン重工業は、着々とその地歩を築ずいている日本が歩んできた道をトレースするかの如く、又独自の努力もあるのであろう、ロボットを多用し、生産の自動化率を70%まで高めている。日本でしか出来ないと思っていたLNG船も2007年にはクリアし、さらには洋上プラントまで建造することが出来るまでになっている。そして、我々の「ロータスシステム」と呼ばれる短縮ブロック工法は「テラブロック工法」と名前を変えている。独自開発のように聞こえるが、おそらくコピーであろう。この、「テラブロック工法」を使い建造しても、通常では、それほどドラスティックに建造期間は短縮できないであろうが、この9隻は同型船だという。同じ船のコピー船を造るのだから、建造期間の短縮も頷ける。造船を仕事にしていた私などにとっては、日本の凋落は寂しいものがある。2006年までの予測の世界シェアでは、日本・韓国・中国だけで世界建造量の84.5%を占めていて、日本はその中で、約40%を占めているに過ぎない。即ち中国が如何に躍進してきたかを示しているのかが分かる。昔、日本は、造船世界一と華々しく書き立てられた時期もあったが、最近はとんと景気のいい話は聞かれない。2008年のデータでは、サムスン重工業の売上高は8,500億円を超え、当時我々が3,000億円の売上を何とか10年後には、1兆円企業に育てたいと意気込んでいたが、折からの造船不況に飲み込まれ、技術の海外流出と、所詮は労働集約的な産業構造から、コストの安い韓国に首位の座を奪われてしまったのである。従業員数も、サムスンは約1万2,000人であると言うが、私の会社も一時、1万7,000人を超えた時もあったが、今では、単独では4,000人を超えるところまで落ち込んでいる。日本人が高給を取り始めてからと、造船不況が重なったことで、今日のような状況になっていたわけだが、所詮重厚長大は、これまでかという感が強い。世界に伍するトヨタとは比べものにならないが、単独での売上高は8兆2,849億円で営業利益だけでも7,689億円と言うから恐れ入る。従業員数も、66,820人と言うから膨大な人数ではあるが、因みに1人当たりの売上高と利益を比較してみると、私の居た会社 :売上高≒ 9,100万円/人、利益≒ 323万円/人サムスン重工業:売上高≒ 7,100万円/人、利益≒ 418万円/人トヨタ :売上高≒12,399万円/人、利益≒1,150万円/人と言う具合である。私の居た重工業会社は、1人当たり売上高はサムスンよりも高いけれど、利益は低くなっている。まだまだ日本の方が、賃金は高めであると言うことなのかも知れない。比較することすらおこがましかった自動車の王者トヨタは、重工業の分野と比べて1人当たりの利益は、なんと3-4倍もあることが分かる。自動車が、世界中の隅々まで、最後には、その一人一人まで使われる幅の広い需要者が居ると云うことであるが、造船などは、1隻の製品は高いものの、注文生産であり、対象が限られていると言うこともあり所詮は勝負は見えているとも云える。今、大衆をターゲットにした衣料品のファーストリテイリングも、売上を伸ばし、店舗数も、このところ極端に増やしているという。これも対象は一般庶民であり、それはとりもなおさず世界人口全部を相手に出来るという最終目標があるわけで、太刀打ちできるものではない。しかし私は、鉄を相手にし、鉄と共に生きてきたという気持ちが強く、振り返っても、衣料を手がけたり、あの精密機械の集合体(今や電子機器の集合体)の自動車を相手にするよりも遙かに壮大な技術の集約産業にいたことを今でも誇りに思っている。
2010.04.26
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日曜日は通常テレビ三昧という日が多いのだが、今日ばかりは、その合間を縫って、買い物や、犬小屋の解体など、精力的に動いた。午前中は連れ合いのお伴で、近くのジャスコに、浄水器用のフィルターを買いに行った。この浄水器のフィルターはどうやら扱っている店が限られているという感じで、どこにでもないようだ。同じようなことが、洗剤でも云える。大概の洗剤は、共通に扱っているようだが、植物性で、手荒れを起こしやすい人用とかで、と言う風に特殊なものを求めるとなると、安直には置いていないようである。最近衰退の傾向がある百貨店と違い、大型スーパーは、食料品を買うついでに、手軽だと言うことも手伝って、よく訪れるが、スーパーによっては少しずつ品揃えが違うようである。しかしながら、洗剤一つ取ってみても、実に多様な種類があることに驚く。「一般用」「台所用」「トイレ用」「フロ用」等々使途によって分けてあるが、内容の成分まで見て買う人はいないようだ。とにかく「トイレ用」は既になにやら汚そうな感じなのであるが、一体どういう違いがあるのだろうか。従って、台所に「トイレ用」を使う人はいないし、その又逆もおそらくは居ないであろう。選ぶ基準は、とにかくラベルの商品名と何用と言うことで、さらに重要なことは、個人個人がその成分によってアレルギーを起こさないかと言うことであろう。成分の項を見てみると、どれも中性か、アルカリ性と書いてあるが、pH値までは書いていない。とにかくアルカリ性と言っても、それ程アルカリ度数の高いものではないのであろう。あの亀の甲の問題であるから全く分からないのであるが、とにかく共通して使われているのは「界面活性剤」である。どうやら、水になじみやすい部分と油になじみやすい部分を溶かすことによって、汚れを落とすというものらしい。そういう意味では、どこ用などと書いてあっても特にこだわる必要はないように思われる。それにメーカー各社が、ヒット商品を作るべく、テレビなどで名前を連呼しているが、ついつい名前を知っているということでそれを買ってしまうという傾向にあるようだ。これなどは、来るべき参院選挙などでも、知名度だけで、集票するのと何ら変わりはないのであり、参院選を洗剤に例えれば、落ちても落ちなくても関係はないと言うところなのであろうか。界面活性剤はその割合が高ければより良く落ちると素人は考えるのだが、衣類に対しては30数%含まれているのに対し、バスやトイレ用には、4~10%と案外低いのである。食品用と書いてあるものでも、15-16%とバスやトイレ用よりも高い%である。フレーバーだとか、ほかの混ぜもので、変わるのだろうが、取り敢えず汚れを落とすという意味では、この「界面活性剤」が効いているのだと思うわけだ。要は、「どこ用」などと言わずに、この数字を大きく書いて、使途は、小さい字で書く方が良いのではないかと思うほどだ。初めて石けん(シャボン)を手にしたときから比べると、一体どれがどうなのか、迷うほどに、種類が豊富なのである。こと洗剤だけに留まらず、商品の種類の多さについては、多種多様で、選択肢は広い。それ程まで必要なのかと思うと同時に、日本は、とても恵まれていると思うのである。そんなことを考えながら、連れ合いの後をついて回った。買い物を終え、お定まりのテレビ番組を観て、引き続きプロゴルフの最終日を観た。プレーオフの末、谷口を制して、藤田寛が優勝をした。童顔に見えるが、既に40歳の大台に乗っているベテランである。この2人が、プレーオフ3ホール目で決着した。藤田のグリーンエッジからのパターによるチップインバーディーがフィニッシュであり、劇的な幕切れであった。勝っても負けても常に話題の、まだ18歳の石川遼は、最後がたがたと崩れて、一気に順位を下げてしまった。ロングホール2オンも生かせず、3パットのパー止まりだったのが象徴的だった。破竹の勢いの18歳も、ここに来て、若干足踏みをしているようだ。ここ、山の原GCはパー71と言うから、距離としては短くて、飛ばし屋石川遼にとっては、得手でないのかも知れない。40歳が怪物18歳を倒したのであるが、藤田は優勝インタビューで、「私も40歳で優勝し、多くの人に勇気を与えられたことを・・・」的なことを言っていたが、今時、特にゴルフでは、40歳で、枯れたことを言うのは早いと感じた。還暦を前に、全英オープンで、惜しくもプレーオフで敗れるといった、トム・ワトソンも居るわけだし、岡山県出身の彫刻家、平櫛田中は、満百歳の誕生日を前に、30年分の材料を買い込んだといわれ、「四十五十は、はな垂れ小僧、男ざかりは百から百から。わしもこれから、これから。」と言ったとかである。終わって、連れ合いが可愛がっていた愛犬の小屋を解体した。この小屋は、結構大きな小屋であるが、当の本人(犬)は嫌がって1回も入らなかったということだ。当時大学生だった太郎君が、慣れさせるためにと、小屋の中に入り招じ入れようと試みたが、外でじゃれる愛犬に、ひょっとした拍子に鍵を掛けられてしまい、犬小屋に閉じこめられたと言うことがあったらしい。愛犬の葬儀も終わり、その悲しい思い出は残るものの、1度も主の居なかった小屋を放置するのもじゃまになると言うことで、今回撤去したわけだ。20年近くは経っているだろうか、まだまだ使えるような小屋は、ステンレスのビスで留めて造られていて、そのビスは少しもさびていなかった。昔の物は、良い物が多かったなぁと感じた1つであった。
2010.04.25
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楽天さんにお世話になっているこのブログを今日書こうと開いてみたが、エラーが出て自分の頁が開かないという事態になった。お気に入りに入れてあるのがどうにかなったのだろうかなどと色々やってみて、URLも直接何度も入力してみたが、駄目なのである。どこにも聞くことは出来ないので、楽天さんの大阪支社の欄を見ると何故か(意図的にか)電話番号が書いていない。東京本社の大代表しかないのである。困ったものだと、思うけれど、ここが単なるユーザーの弱み、難しいリカバリーについて書いてあることが分からない。しばらくブログは駄目かと思ったり、私が居なくなったら一体このブログはどうなるのだろうかなどと考えてしまった。以前に、80歳からパソコンを始められた人のブログとリンクしていたが、ある日を限りに更新されないままになっている。気になるが確かめようがない。話を戻して、今日の新聞に広告特集「活気あふれるドバイ」が半紙を使って宣伝されていた。ドバイと聞くと何故か反応してしまうのは、やはり駐在時の懐かしさであろう。このブログにも、フリーページの中に、後で写真を追加すると言いながら、そのままになっているが、気になっているところである。ちょうど去年の今頃もドバイについて同じような宣伝記事が載っていた。その頃は何の憂いもなく、私の滞在中からの、いけいけ、どんどんと言う紹介記事であった。曰く、「ザ・パーム・シリーズ」の椰子の実をイメージした人工島プロジェクト、189階建ての「ブルジュ・アル・ドバイ」(今は「ブルジュ・アル・ハリファ」と国王の名前に変わっている)、巨大な「ドバイ・モール」、建設中の「ドバイ・メトロ」等が華やかに紹介されていた。その後、急激にドバイ信用不安が起こり、多くのプロジェクトはなりを潜めた感じであったが、再び大きな宣伝を打っている。バブルがはじけたかに見えたが、持ち直したのであろうか。最近では、ドバイの鉄道工事の度重なる仕様変更で、日本の大手ゼネコンを初め関係会社は大きな痛手を被ったようである。ドバイから、私が通った南のジュメイラまで無人運転の鉄道を建設中であり、少しずつ出来上がっていく高架路を見ながら通勤していたわけで、懐かしさもあるが、なかなか複雑な気持ちであった。大きな仕様変更にもきっと、のらりくらりと神の思し召しである「インシャ・アッラー」などと言われたのではないかと勝手に想像している。ドバイ自身は、最近少し石油が出てくるようだが、元々はオイルマネーとは直接関係はなかったようだ。日本にいる限りでは、UAEを含め中東はどこも同じように潤沢に石油が出るものだと思っていたが、必ずしもそうではないことが分かった。記事にもあるように、ここドバイは、「国際的ビジネスハブ」なのである。ドバイは、湾岸諸国の通商、ロジスティック、ビジネス、観光そして金融を主導する中心地となっているのである。例えば、日本から、サウジアラビアに行くときでも、ドバイを経由することが当たり前になっている。中東諸国のいわゆる扇に要的な役割を果たしているのである。元々はイギリスの統治下にあってイギリスとは何かと縁が深いが、日本はそれに次いで、強固な通商関係を結んでいるというのだ。ドバイクリークの右岸沿いにあり、ドバイ銀行の、湾曲した鏡のような表面の建物と並んで、三角形をしたユニークな建物のドバイ商工会議所には民間企業の約10万社が加盟しているという。当時は、何気なしにその美しいフォルムを写真に撮ったものである。ここで注力している活動は、1.日本人観光客の更なる誘致2.インフラ整備、再生可能エネルギー分野とハイテク産業への日本企業の投資誘致3.湾岸協力会議(GCC)加盟国とその他地域に向けた日本製品の再輸出センターとしての地位拡大・強化4.ドバイ国際金融センターでの金融サービス、対日系企業サービスセンターとしての地位確立を挙げている。尤も、日本向けの広告だから、日本がやたらと出てくるのだが、現在170以上の日系企業が拠点を置いていると言うから、あながち誇張でもないだろう。第1番に観光を挙げているが、昨年の1年間で、ドバイを訪れた人は4100万人に達するという。さすがに、フランスを訪れた約7420万人には届かないものの、訪日した人が、最高の年でも800万と少しだと言うことから言えば、巨大な数字と言わなければならないだろう。UAEはその殆どがアブダビ首長国で又その殆どが砂漠であるが、ドバイの市街化区域の面積は、徳島県や、長崎県に匹敵するほどでさほど大きくもないし、人口は、長野県か、宮城県程度しかいない。そして、驚く無かれ、そのうちのアラブ人というのは1割にも満たないのである。上澄みをこれらアラブ系の人が占め、労働者や、一般マネージメントに携わるのは殆どインドを中心とした外国人なのである。アラビア湾岸地域への投資拠点としては、私がいた頃には気づかなかったが、ドバイ空港内には、ジュベル・アリ・フリーゾーンのような、経済特区の「ドバイ・エアポート・フリーゾーン」(DAFZ)があり、世界の主要会社1500社が集結していると聞く。こういった大胆な経済施策が、ドバイをして、世界からのアラブ諸国へのハブ都市とせしめているのであろう。観光に力を入れるとあるが、庶民の我々ではまったく手が届かない、「ブルジュ・アル・アラブ」という1泊何十万円から何百万円もする超豪華ホテルを筆頭に、高級ホテルが目白押しである。日本人カップルが、わざわざ新婚旅行に来て泊まると言うことも聞いた。因みに私などは、傍の海岸で遠目に眺めるだけで、入ったことがない。と言うのも、普通のホテルとは違いここに入るだけでも高いお金が掛かると聞いたからだ。UAEそのものは、砂漠と灼熱の国である。観光スポット言えばドバイ地区とデイラ地区をはさむクリーク周りにあるくらいである。ドバイのクリークを渡る「アブラ」に乗る心地よさは格別だが、遠出して、ラクダを見るか、オマーン国境のハフィート山に登るか、サンドバギーを楽しむかが関の山であろうか。巨大な、ゴルフ場をいくつも造るとの計画もあるようだ。引き替えて、日本の行政のなんと硬直化していることかと少しがっかりするのである。
2010.04.24
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昨年11月に第1回の「事業仕分け」があり、今回は2回目という事になる。パフォーマンスであるとか、思ったほどの節約が出来ていないとかいうそしりはあるものの、自民党時代には、全く垂れ流していた税金の使い道に若干のメスが入り、国民に公開されたという意味は大きいと思う。惜しむらくは、仕分け人には、強制執行という権限はなく、ただあぶり出して、国民の前にさらすと言うことだけである。その意味で、パフォーマンスであると言われても全く仕方がないことである。私も、民主党が野党時代に歯切れの良い活動を見て、期待もし、その結果の政権交代そのものに大いに意義があったと思っている。しかしここに来て、民主党のトップがこれほどまでに愚かしいとは想像もしていなかった。私の選挙での唯一の思いは、腐れ縁を切ること、そして「天下り」なるものを根絶すると言うことが第一義であった。そしてそれを今粛々と行っていこうとしているわけだが、なかなか難しいようである。自民党時代に冬柴という国土交通大臣が居て、その答弁が、奮っていたのを思い出す。「その人達にも生活がありますからね」に似た内容であったと思う。とにかく、何をする気もないという意思表示であり、内容まで覗こうとはしない(正にこれを腐れ縁という)姿であった。これも連立という悲しさか、年功により大臣になった部類の人であるから多くを期待できないのは分かっているが、余りにもとんちんかんなやりとりに思わず失笑してしまったのを覚えている。政治のことを書いても、所詮ごまめの歯ぎしりでしか無く、「出来るならやってみろ!」と言われているようで、言うだけで、何も出来ない自分自身が情けなくなるからである。もちろん正論としては、選挙権が有るではないかということになるだろうが、選挙後も以前のいわゆる「公約」と同じように、「マニフェスト」も時に応じて柔軟に対応されるという(要するに破られる)傾向である。「公約」が「膏薬」であり、選挙後は、はがしたらお仕舞いと言うことになっては何のための選挙なのか分からない。各家庭にも無駄遣いはあるだろう。この間テレビで、家庭の冷蔵庫を開けて仕分けしている番組があったが、普通の生活をしていそうな主婦だが、全く、異常な家庭をサンプルにしているようであった。冷蔵庫の中味を全て出すと、その1/3は全く使えないものばかりで、賞味期限は前の前のオリンピック時代に終わっているというものまで入っていたのにはさすがに驚いた。連れ合いなども、大学の同期の仲良し組で集まったときには、この話で盛り上がったそうであるから、大なり小なり思い当たる節はあるようである。しかし、それは1つの家庭内でのことであるから、そんなことで首が回らなくなると言うところまで行かないわけだ。もしそれを放置して、お金がないと言ってサラ金で借りるようでは、行く末は、家庭崩壊か、悪くすれば自殺にまで追い込まれることにも成りかねない。顧みて、国の場合であるが、今に「事業仕分け」のようなことは今まで1度も成されたことはなかった。しかし、恥ずかしながら、私は、「独立行政法人」が一体全部でいくつあるのか正確には知らない。インターネット上で、2010年の4月1日現在の独立行政法人は、104法人あるのだという。しかし、テレビで取り上げてわいわいやっているのは、そのうちのほんの一部でしかない。もとより仕分けする側も、万能選手ではないので、限られた時間で、微細なところまで無駄を洗い出せるわけではない。また、「公益法人」というのを調べると、出てくる、出てくる、204法人あるのだという。またその上に一般財団法人というのがあり、これには税金が投入されているのかどうか分からないなど、不明なところが余りにも多すぎる。これら法人を作ったのも役人だが、どうせ縦割りだから、よその省庁の所管のものまでは内容を把握してはいないであろう。要するに、日本の無駄遣い集団の実体をおしなべて理解している国民は居ないのではないかと云うことである。家庭の冷蔵庫で言えば、何段かある棚のそのまた一部のいかにもおかしなものを取り出して仕分けをしているだけなのである。国の場合は、お金が足りなくなったら、国債を発行すると言うことになっている。相手がサラ金ではないから逼迫感がないのかも知れないが、借りて積み上げたお金はやがて返さなければならないので、足りなければ即借りるというわけにはいかない。ジンバブウェのように、「お金が足りない?ではもっとお金を刷れば良いではないか!」とハイパーインフレを招くほど単純な人達は居ないのであろうが、現にジンバブウェでは、何度かデノミが行われつつも、2008年には100兆ドル紙幣という天文学的な紙幣が発行されたという笑えない笑い話があるのだ。こんな国の話を引き合いに出すまでもないが、日本とて、結構同じような歩みをしているようなわけで、「五十歩百歩」と言っても当たらないことはない。現に、ギリシャの財政破綻救済のためにEUは総出で、解決に当たっている。「ユーロ」を守るという命題があるからで、単独の「円」国家日本では、こうまでのサポートは得られないのではないだろうか。少し前の、タイ「バーツ」や韓国「ウォン」の暴落などが頭をよぎる。パーキンソンの法則というのがある。「役人の数は、その仕事の量とは何の関係もなく増え続ける」と言うものだ、正確には、3つの法則が言われているらしい。第一法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」第二法則は「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」第三法則は「拡大は複雑化を意味し、組織を腐敗させる」と言うものらしいが、役人(高級官僚)は歩いていても、たばこを吸っていても、仕事なのであり、それが、どんどんと膨張しても誰もその膨張を留められないし、自浄努力などが期待できるものではないと言うことだ。その昔、IHIの社長で、「会社に来てからトイレに行くのではなく、朝自宅で済ませてこい」などと言った笑えない話もあった。私の勤めていた会社でも、1作業の効率を計算し、コストダウンを図るために、ミニマム標準時間を算定した事があったが、その時にも、トイレは、何分間と決めて、時間数の中に入れていた。まさかそこまでの仕分けを直ちに求めるわけにはいかないだろうが、なにやら沖縄に世界に通じる大学を作る委員会なるものをわざわざ、ロサンジェルスだかの高級ホテルで行い、委員には手厚い手当とは別にファーストクラスのチケットが渡されるのだという事への回答が、ごく自然に行われているのを見ると、一々胸が悪くなるのである。
2010.04.23
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今日のゴルフコンペは雨のため中止になった。昨日は、芳しくないという天気予報にもかかわらず、とても良い天気で、且つ暖かく、一頃の冬に舞い戻った寒さから解放された気持ちの良い一日であった。今日のために一寸調整のつもりで、近くの天王山練習場に連れ合いを伴って出かけた。狭くて設備の悪い練習場だが比較的近いのが取り柄である。そんな旧式の練習場だが、入場料なる名目で300円也を一人ずつ徴収される。コイン1個での球数は、平日は80個である。平日でも午後3時以降に行くと70球と球数は減る。さらに、土日祝日は、それが60個に減るのである。毎日が日曜日の身の上であるから、当然平日の80球の時間帯に出かけることになる。ドライバーの練習では、向こう端のネットまで近いためにネットに当たる高さで大体の跳びを計算すると言った具合で、さらに左右も狭いために、真っ直ぐに飛ばさないと、どういった風に曲がっていくのかは推測できない仕掛けになっている。そこで連れ合いは、コイン1個、私はコイン2個を使った。都合240球である。連れ合いは、肩の痛さが若干は残るものの、相当に回復したので再開したくてしょうがない。少し前からブランクが続いているから、前に練習した打ち方を忘れてしまっている。思い出しながらの練習だが、なんと、打つスピードが私の3倍くらい速い。たちまち球80個は無くなってしまう。私は調整と言うことで、特にゆっくりと注意点を反芻しながら打つという具合だから、私の球はふんだんに残っている。そこで、新たにコインを使わず、私の方から5球。6球と持って行っては打つのである。前に良い当たりをしていたのを思い出させるのに私も時々アドバイスする。天気予報を見ると、今日は、雨だと言っていたが、昨日練習しているときや、夜遅く空を見上げても降るとは信じられないほどの良い天気だった。何とか今日は優勝をと内心思いながら、朝6時30分に我が家を出て、久しぶりに同じ組で、一緒にラウンドする友人をピックアップして高槻カントリーへ向かった。道々、さほど酷い降りではなかったが、だんだんと雨脚が強くなりこそすれ、小やみになる気配はなかった。いつもは軽蔑的に見る天気予報であるが、今日に限って、昨日のあんなに良い天気が逆転してざんざ降りになるのである。クラブハウスについて、道具を降ろし、駐車場に車を止めて、ハウスに駆け込む間もずいぶんと濡れる始末だ。そこには、幹事役の先輩達が待っている。「今日は、やる気がある?」と聞かれる。どうやら皆さん雨の中をやりたくないと云った風情である。私も、気持ちよくできないだろうし、余りやる気が無い旨言うと、どうやらそれまでに来た人は皆同意見であった。既に電話で、今日の不参加を申し出ている人もいたようで、我々は、幹事に敬意を表して取り敢えずやる気で来ているのだが、正直、余り楽しくないだろうと思っている。まだ遠くから来る人、が着いていないし、夫婦で参加している奥さんの方が結構やる気の強い人らしく、その人を待って結論しようと言うことになった。「もしやるなら、君も一緒に付き合え」と先輩の幹事は言う。さてどうなるかとくだんの奥さんを待って聞いてみると、皆の意向もあり、止めてもいいと言うことだった。これで、雨だけれど、晴れて、全員が、やらないと云うことになり、コンペは中止となったわけだ。同期の友人と、クラブハウスのコースが見えるレストランでコーヒーを飲んで帰ることにした。眼下に見える、アウト1番のティーグランドも、パター練習場にも誰もいない。他にもコンペが入っていたとかだがそれもキャンセルになったようだ。聞いてみると、一般のプレーヤーは誰もいなく、本日は全く誰もプレーをしないと言うことになったようだった。しばらく喋って、ゴルフ場を後にした。今日1日これから何をしようかと、空白になった1日に思いをやる友人だが、まぁ、することは何かと有るといいながら、別れた。私は、折角の身支度だったので、連れ合いを病院に送った後、昨日とは違って、八幡のゴルフ練習場に出かけることにした。ここは3時間打ちっ放しで、1800円(シニア)ということである。丁度2時間が無く1時間だと割高になるのでついつい3時間コースを選ぶ。雨にも拘わらずと言うか、何処かのコンペにあぶれた人達であろうか、2階ある打席の1階は殆どびっしりと詰まっていた。私は、2階を選んだが、そこには、女性1人が黙々と練習しているだけだった。私が始めると、2人、3人とだんだんと打席が埋まってきた。大体に於いて、我流でやり続けて来た人が多いのであろう、フォームはまちまちで、あれでは飛ばないだろうと思うのだが、意外に飛んでいく。かくいう私も我流であり、飛距離は出ない、スライスはするのだから、2階席がちょうど良いのかも知れないが、最近は、やっとまともに飛ぶ確率が高くなってきている。連れ合いは、大学同期の友達と月1回のおしゃべりの日だとかで、私は、3時間悠々と時間をつぶした。篠突く雨とは言うが、ゴルフ練習場は、ネットで囲まれただけなので、水なら悠々素通りで、打ちながら時々バケツをひっくり返したような集中豪雨に、ボールがどこまで飛んだか見失うほどであり、今日はコンペを中止とした選択は全く正しかったと思った。1球1球考えながら、打っていたので、終わり頃に、球数が少し少ないと気づき、やおら、アプローチの練習に切り替え、次から次へと打って、最後は382球となった。これで1800円である、1球当たりの単価は、4.7円となり、昨日の天王山での単価を計算すると、9.4円となって、約半分だと言うことになる。時間制限はあるというものの、日頃アプローチの練習は、なにやらもったいない気がするのが、ここでは、存分に打てるという気安さがあるのがさらに良い。ドライバーで、良い当たりで真っ直ぐ飛べば、170と書かれた向こうの端のネットにやっととどくことがあるのも気持ちが良い。今日は、夫婦(ふうふ:22)の日だとかで、二人連れだとさらに安くなるようだ。勤め人時代コストパフォーマンスを叩き込まれた私にとって、単価5円を切ることはなんとしても嬉しいことであが、やはり、よる年波には勝てず、体の節々が痛い。
2010.04.22
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昨日まで借りていたエジプト文学のターハー・フサイン著の「わがエジプト コーランとの日々」を図書館に返却した。アラブ文化に触れる機会が出来たきっかけは、サウジアラビアでの駐在経験があったからだ。世の中に正とされることがそのまま正ではなかったり、邪とは言わないまでも、余り好ましくないと言うことでも、さほど悪くはないと言った、文化の違いを知る良い機会であったと思っている。俗に「日本の常識は世界の非常識」などと言われた時代があったが、世の中が進歩し、トランスポーテーションも比較的簡単で安くなったこともあって、今日では、各種のツアーで海外を訪れる人も多い。海外への観光渡航が自由化された1964年には、わずか13万人だった海外旅行者の数が、1990年には1,000万人の大台を突破して、2000年には1,782万人と史上最高を記録するまでになった。その後若干数は減ったものの、依然1700万人は優に超えている。私が最初に海外出張に出かけたのは、1984年であり、その頃は、まだ渡航者は、500万人を下回っていた。それ以前の先輩達の海外出張は、水杯というのは少しオーバーだけれど、それに似た感覚であったようだ。私がわずか10日程度の出張に出かけるときも、何人かは、お見送りをしてくれたものだ。それから人生の後半で、サウジアラビアに出かけたのは、2005年で、既にその頃には、1700万人近い人が海外に出かけていた。従って、海外も一寸下駄履きで近所に出かけるという感覚で、ひょっこり出かけたり、ひょっこり帰る人が周りに大勢いた。さらには、1996年に出かけたジンバブウェでは、仕事の指示や報告はまだファックスであったので、時差の関係から、本社の仕事真っ直中の時は、丁度現地の朝の6時前という事もあって、いつももう少し寝ていたいのにと思う頃に、ファックス機が「トゥトゥ・・・」と鳴り出して、目覚めるといった按配であった。それ以降はIT革命と言うことも手伝って、インターネットが華やかになり、メールがリアルタイムでやりとりできる時代になったわけで、周りの人間の顔は確かに日本人ではないのだが、何かしら、海外にいる感じがしなくて、いつもメールに追い回されると言うことになったわけだ。それから後は、パソコンにカメラを付けると、日本にいる相手の顔を見ながらの会話(チャット)も可能になり、ますます海外が近くなったようだ。私自身は、ツアーで海外旅行をした経験は少ないが、中にわずかな自由時間があるとはいえ、添乗員に連れられて、お仕着せのツアーポイントからツアーポイントへの移動では、なかなかその国の情緒に触れることは出来ない。たどたどしい英語でも、話し込んでいく内に、相手の話し方の癖などが分かり、案外スムーズに英語で考え英語で喋るようになっていくから不思議である。残念ながら、私の場合は、英語を母国語とする国ではなく、共通のコミュニケーション手段として英語を使うとか、一時、アメリカやイギリスに占領されたり、植民地であったりした国が多かったので、流ちょうな英語で喋られると、未だについて行けないのだが。日本は長く鎖国していて、海外との交流は極限まで禁止されていた。今NHKドラマで「龍馬伝」をやっているが、坂本龍馬の名声に隠れ、余り目立たぬ役回りではあるが、武市半平太という「尊皇攘夷」の中心人物がいた。日本に対する外国の高圧的なやり方に、外国打つべしと凝り固まった男である。当時の幕府は、長い鎖国時代に自分より偉いもの、強い者が居なかったところに、急に得体の知れない文明国の「黒船」が来たから驚いて、手も足も出なかったわけだが、今では、海外を相手にしなければ自国の経済すら成立しないと言うまでに変化しているわけで、今の状態を坂本龍馬が見たらなんと言うであろうかと思う。「まっこと、えらい世の中になったぜよ」とでも表現するだろうか。紆余曲折の末、1858年アメリカのハリスとの屈辱的日米修好通商条約の締結をもって鎖国が終わるのだが、その時に、海外の状態を知ることができるのは極く限られた人達だけであった。それから10年、龍馬や、武市の活躍の後に、明治となり近代文明の仲間入りを果たしたわけであるが、それからまた待つこと100年近くでやっと、一般人の海外旅行自由化となったわけである。少なくとも鎖国の間は、海外から蹂躙されることもなかったが、それは、西洋という場所から一番遠い国であったからに他ならないであろう。ヨーロッパ大陸と陸続きであれば絶対に鎖国などと閉鎖的なことが出来ているわけではないし、とうの昔に武力で何処かの属国か何かになっていたであろう。その意味に於いて、日本は幸せな国であったかも知れないが、ここに来て、その百戦錬磨の外国勢と丁々発止とやり合える外交力というものが育ってこなかったと言わざるを得ない。5月末までに結論を出すと言う普天間基地問題も、デッドロックに乗り上げているようであり、幾ら「Trust me」と言ってももはや見向きもされないような、状態になっている。それもこれも、小さな国のコップの中だけのお山の大将でいた間は良いのかも知れないが、舞台が世界に移ると、極端にその無策と、外交術の無さを露呈してしまうのである。終戦後、「奇跡の発展」だとか、「驚異的な勤勉さ」とかで、世界中から日本の復興の早さとすばらしさをもて果たされ、私たちも、その礎として、昼夜の別なく働いてきたつもりだけれど、その結果何を残したのか? 国の運営を、一部良くできるキャリア官僚の欲しいままに任せ、国を憂うる人が少なくなる一方、自分さえ良ければそれで良いという極端な個人主義だけを遺産に、日本の全ての階層は抜け出せない奈落のスパイラルに巻き込まれつつある。どう贔屓目に見ても、日本が、中国をさしおいて、アメリカの興味の対象としてプライオリティーが高いとは思えないし、日本は、あくまでも、彼らにとっては、極東で端っこの国なのである。対米に何の切り札も持っていない国が、どうして、自国の有利に話を進めることが出来るだろうか。今更日本が社会主義国家になるわけもないのに、ほんの一握りの現実をふまえない社会主義者のお姉様を閣内に入れて、数あわせをしようとしたことが、ここに来て大いなる災いとなってしまっている。尤も自民党政権下で、「思いやり予算」などと称して、全く方向違いの負担金をも唯々諾々として受けてきた結果がこんにちであるから、野党も余り突っ込めないのであろう。恐ろしい考えかも知れないが、一旦アメリカの「核の傘」から出て見てはどうだろうかと思う。にわかに北朝鮮が、テポドンを打ち込むかも知れないが、自国を守るのはこの時とばかり、自衛隊に奮起して貰うのである。それでも駄目なら、まず東京か大阪は焦土と化し、古い頭の政治家や、役人(そして一般市民も含むのは当然だが)一掃されてしまい、新しい日本の建設が再び始まるのではないだろうか。そんな時でも、アメリカとして日本が、共産圏や、社会主義圏に取り込まれるのを、手をこまねいて見ているかどうかである。決してそのようなことは過去の歴史を見てもあり得ないことである。一度試してみてはというのは不謹慎のそしりを免れないだろうが、大きな犠牲を払うかどうかしない限り、今の日本を救う人なり集団は絶対に現れないであろう事も容易に推測が出来るのである。
2010.04.21
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NHK講座も新しい期を迎えた。内容は昨年後期からの続きで、アラブ世界を文学から見ようと言うことに変わりはない。今日はその第1回講座があった。取り上げられた本は、エジプトで有名なターハー・フサイン著の「わがエジプト コーランとの日々」というものである。姫の大学の図書館にはないと言うことで、町の図書館を通じて大阪府の図書館から取り寄せて貰った。図書館で簡単に見つからなかったのは、講師が教えてくれた本の名前は単に「日々」であったからだ。「わがエジプト コーランとの」が抜けているから、迷ったわけである。冒頭に講師に、その旨を伝えると、次の説明があり、納得がいった。講師は、この本を原書(アラビア語)で読んでいて、日本語の翻訳を見ていなかったというのだ。あのにょろにょろした、蛇の親子が、歩きながら卵を投げ上げているようなアラビア文字を原書で読むというのだからたいしたものである。当然外国語大学で「アラビア語学科」を選択したのが伊達ではないと言うことだ。その原書には「アル・アイヤーム」、英語では「The days」と言う題名であるから「日々」と訳されたそうである。図書館に問い合わせたときも、ターハー・フサインの著書で「日々」と名前が付くものはこれしか見あたりませんと言うことだった。ターハー・フサインと言う著者はいなく、タハ・フサイン著の「わがエジプト コーランとの日々」と言う長ったらしい名前のならありますと言うことだった。人名の読み方も長音になったり短音になったりするし、翻訳者の意向で、題名も変化すると言うところであろうか。ちょうど西洋映画を、日本で公開するときに一寸原題とは変えた表現をするという場合があるが、その類である。また人名も翻訳する人によって変わることがあるというものだ。この著者であるタハ・フサインは盲目でありながら、20世紀エジプト文学界の大立て者と言われ、「アラブ文学の支柱」とも又盲目故「闇の克服者」とも呼ばれている。大文学者だけではなく、教育者でもあり、最後は、文部大臣を歴任するなど、エジプトの重鎮であった。今回の「わがエジプト コーランとの日々」は著者の自伝とも言うもので、自伝としては全部で3部作となっているようだが、この本に納められているのは1部と2部だけである。第1部は、故郷の村での生活振りを書いたもので、第2部はカイロのアズハル時代を書いている。故郷の村は、カイロの南約200kmのマガーガに近い小村である。ここでひたすらコーランを主とした初等教育を行う寺子屋であるクッターブに通っていた。ここを出て、カイロのアズハルという最高学府に学ぶことになるが、彼の持ち前の反骨精神と、何事も、誰にでも歯に衣着せず自分の思うことをずばずば言うので、保守の教授達には疎まれ、逆に革新的な人の中では信望を得ていた。アズハルに在籍しながら創設されたエジプト大学(現カイロ大学)に通い、学位を得るに至る。それというのも、アーリミーヤと言われる学者になるための試験を受けながら、当時タハ・フサインを疎ましく思う教授の差し金で落第させられたためである。それ故にパリに留学してソルボンヌで博士号を得ると共に、フランス人女性を妻としている。こういった経歴の下、エジプトに帰り、エジプト大学で教鞭を執るが、エジプト-アラブ-イスラムと言った伝統よりも、西洋との結びつきを重んじる「地中海主義者」としての立場を採った。自国に留まっていては、発展はなく、エジプトのためにも、広く海外に目を向けるべきだということを主張した。自国のことを学ぼうとしても、当時ギリシャ語やラテン語で書かれた書物を読めなければ、自国の歴史さえ知ることが出来ないとも主張している。アラビア語アカデミーの会長や、現アレキサンドリア大学初代学長さらに文部大臣までも努めて、未だにエジプトに大いなる影響を残しているという。この自伝的小説で、彼は、幼少の頃の狭い生活空間の原風景を思い出しながら、エジプトの農民の生活や文化を伝えている。さらに、近くの砂漠から舞い上がる日常的な細かい粒子の砂塵の中で、間違った医療のため失明に至る過程や、盲目になりながら教育や教養を如何に身につけていったかを赤裸々に語っている。こうした幼少時代とも云える第1部を終わり、第2部では、アズハル学院時代の、頑迷な、保守反動の教授達の様子や、授業の風景等をリアルに描いている。日本もそうだが、明治維新には、散切り頭と羽織袴、そして、そんな中早々と洋装を取り入れたりしたのと同様に、タハ・フサインが生きていた当時は、歴史的なターバンを巻いていた中に、トルコ帽を被るようになった経緯を、革新という代名詞として紹介している。当時のシャイフ(家長のように権威ある人間)であるアブドゥは旧守のターバンは身につけているものの、革新派のタハ・フサイン達にも理解を示していた。ここで、アブドゥは私がサウジにいる間にエジプトから出稼ぎにやってきていた運転手の名前と同じであり、又、フサインも、スーダンから来た運転手と同じ名前であったので、何となく懐かしく読んだ。このように、トルコの民族衣装のジュッバやカフタンという、エジプトでの伝統的衣装が、トルコ帽と背広姿という服装への変化で近代化を象徴している。講師のレジメの写真の中では、タハ・フサイン自身1910年には民族衣装にターバン姿であったのが、1924年には、背広姿でトルコ帽という風に変化したことを表していた。この本で、講師が紹介してくれた、エジプトについての印象が、若干でも現実味を帯びて伝わってきたし、最初の歴史書である「歴史」を書いたギリシア人ヘロドトスがエジプトと称しているのは、ナイル河口の三角州の部分だけであり、この部分によって「エジプトはナイルの賜物」という表現が使われていると言うことであった。現在のカイロは、上流からのナイルが、多くの支流に別れて地中海に注ぐ扇の要のような位置にあり、カイロより北部(地中海に近い側)を農民根性の「下エジプト」と称し、それより上流部を保守的で、大家族的な「上エジプト」と称しているのだそうだ。エジプトは、紀元前3000年頃のファラオの文明から、一時ペルシアに支配され、その後、アレクサンドロス大王に征服されヘレニズム文化を花開かせ、やがて、ローマ帝国の属州となる訳である。現在のイスラム化の元は639年に始まり、その後500年以上に渡ってイスラムが定着するわけだ。ナポレオンに蹂躙され、フランスとともにスエズ運河を開通させたことで財政破綻を招き、そこをイギリスにつけ込まれ、名目上の宗主国であるオスマン帝国とも決別し、近代化へと向かうが、第二次世界大戦前後から度重なる中東戦争を経て、ナセルが現れ、スエズ運河の国有化など、だんだんと私の記憶に近づくわけだが、こういった、西欧と、アラブの接点に生きた国(今でもそうだが)の様子が徐々に分かるにつれ、世界の人口の4割を占めると言われるイスラム教徒の原点が少しずつに理解できる気がした。私にとって、「アラブ文学」も未だ、アラブの生活習慣や、その生い立ち、日常の様子を知る糧でしかない。
2010.04.20
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大きな数と小さな数については既に多くの人が一度は興味を持ったことであろう。日頃さほど大きな数も小さな数も関係なく過ごしていて、特別不都合なことはない。アメリカインディアンであったか、アフリカの土着の種族の話であったかは忘れてしまったが、「1」「2」の次は「たくさん」と言う具合に使う数はごく限られていて、それで自然を相手の生活に不自由してこなかったと言うことを読んだことがある。そのうち、人間には指が両手で10本有るということから1から10迄は、指折り数えることができるようになったのであろう。こうして、「ものを数える言葉」を起源とし、1 から始まる正の数である自然数が出来たのは自然の成り行きである。「0」と言う概念が出てくるのはずっと後のことらしい。従って「0」は普通自然数に組み入れられない。私は数学者ではないから、どちらでも言いように思うのだが、私が未開人類である場合には、おそらく「0」という存在は必要なかったであろう。「0」は何もないと言うことであり、即物的な考えでは、何もないものは、何もないのであるということで済んでしまうか、無いのだから、議論の対象にも成らなかったであろう。最近は、人類の起源について興味を持って調べている。アフリカのケニアで950万年前のサンブルピテクスという類人猿の化石を発見されたと言うところ辺りから、やがて類人猿→猿人→原人→旧人→新人と辿りながら現代に至っているという。ここで出てくる数字は、950万(9,500,000)である。指数表示で現すと、9.5×106ということになって、大略で指数部だけを見るとほぼ(7)と言うことになる。では、同時に興味を持っている、生物の誕生についてはどうだろうかと見てみると、約37億年前(37,00,000,000)と言うことになっている。単位が2桁違うが数字がそろそろ大きくなってきたので、前と同じように指数部分だけで見てみると、(9)である。では、宇宙の誕生はと言うと、加速度的に宇宙が膨張しはじめた(ビッグバン)のは137億年前だとされている。この指数は(10)である。宇宙が出てきたことから、我が太陽系で太陽から地球迄の距離をmで表すと、1.496E+11mで指数部は(11)と言うことだ。つい最近、太陽系の惑星から1段格下げになった冥王星までの平均距離を見てみると、5.91352E+12mで指数部は、(12)と言うことになる。もう少し大きな数と言うことで、今度は銀河系までの距離はと言うと、ごく大雑把に太陽系から2万7千光年であるということから2.5542E+20mとなり指数部は(20)と言うことになる。まあ、実際に一般人は、この辺りの数字は使うことがないだろうから、指数(20)というのは相当大きな数だと言うことになる。そこで、対象を変えて、私が今使っているパソコンのハードディスクの容量はというと、130GB程度であるから、バイトで言うなら、1.3E+11バイトということになり、それでも指数は(11)と言うことだ。最近は、パソコン売り場の店頭には、テラバイトと言う値もそろそろ出始めているので、テラはギガのさらに10の3乗であるから、指数は一気に(12)と言うことになる。何故このようなことを書いているかというと、大きな数を研究している人達はいるもので、それらを紐解くと、今までの最高だった指数(20)等というのはまだまだ小さな値であると言うことで、理論的には幾らでも大きく取ることは出来るわけだが、あの検索エンジンで有名な、グーグル社の社名は指数が(100)の「ゴーグル」Googol(=10^100)という大きな数字から取ったものだという。さらにはcentillionという名称で、10^303(アメリカ)、10^600(イギリス)などの数字もあるのだそうだ。では無限大(∞)はと言うと、これは古代ギリシア語で「尾を飲み込む(蛇)」の意味のウロボロス(Uroboros)から来ているのだそうで、蛇が己の尾を噛んで環となりねじれた形だと言うことなのであろう。それが、10の何乗以上なのかは全く分からない。数学者や物理学者にとって「0」という数字が、大変な数字であることは、いろいろな本に書いてあるが、「0」は「無」ではなく、位取りをするために「空」という概念のものを言うのだと理解している。これは般若心経の「空即是空、空即是色」の「空」に通じるのだそうである。「0」はそれ同士、足しても引いても又掛けても「0」であるが、「0」で割ることは許されていない。パソコンだと「#DIV/0!」と言うコーションが出てくる。ある意味、この値が無限大「∞」と言うことになるのであろうか、そうすると10のx乗のxにどんなに大きな数を入れようが、一番大きな数<∞、と言うことが常に成り立ち、頭でどれだけ大きな数を考えてもそれ以上に大きな数がまだあるという果てしのない泥沼に入っていくことになる。子供の頃に遊び友達とよく「俺の方が一杯持っている」とか言い始めて、最後には「お前の持っている物の100倍多く持っている」などとお互いに言い合って、果てしが無くなるのと似てくるわけである。「0」の話を物理にも数学にも強くない者がとやかく言っても始まらないが、大きな数については江戸初期の和算家吉田光由が表した「塵劫記」等にも書かれている。一(いち)= 1十(じゅう= 10百(ひゃく)=10^2千(せん)= 10^3万(まん)= 10^4億(おく)= 10^8兆(ちょう)=10^12京(けい)= 10^16垓(がい)= 10^20(じょ)= 10^24穣(じょう)=10^28溝(こう)= 10^32澗(かん)= 10^36正(せい)= 10^40載(さい)= 10^44極(ごく)= 10^48恒河沙(こうがしゃ)=10^52阿僧祇(あそうぎ)= 10^56那由他(なゆた)= 10^60不可思議(ふかしぎ)=10^64無量大数(むりょうたいすう)=10^68と指数(68)まで準備されているという。パソコンや計算機のない江戸時代に誰がそんな数を必要としたのだろうか。全く、不可思議(ふかしぎ)な事である。同じように、小さな数も「ミクロの世界」だとか、また「ナノテク」などと、10^-6とか、10^-9の話はよく聞くが、塵劫記では、10^-26の「涅槃寂靜(ねはんじゃくじょう)」という数字まで用意されている。塵埃(ちりあくた)の如しと言うが、これは10^-9が「 塵 (じん)」で10^-10が「 埃(あい)」ということで、見るからに細かいことを言うことになる。漠然としているという、「漠 (ばく)」は 10^-12と「埃」 より2桁小さく、曖昧模糊という「模糊 (もこ)」は10^-13でさらに小さい。ほんの少し逡巡し「ためらう」のは、「逡巡 (しゅんじゅん)」で10^-14であり、「瞬間的に息する」という短さの「瞬息 (しゅんそく)」は10^-16とさらに短いのである。そして「涅槃寂靜」より少し大きな数だが、「刹那 (せつな)」10^-18という数がある。刹那的な思いなどとは本の瞬間的なものなのであろう。因みにナノ(nano)の指数は(-9)であるが、この指数が(-24)となるとヨクト(yocoto)と呼ばれ、この数はほぼ「涅槃寂靜」に近い値である。ハードディスクの容量が、ヨッタ(yotta)=10^24のオーダーになったり、ナノテクがヨクトテク=10^-24の微細なものになる日が来るのだろうか?数遊びをしているとなかなかおもしろいものである。
2010.04.19
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今日は日曜日で、当家では日曜日は終日テレビを観ることが多い。連れ合いは、朝、放送が早くなった俳句の番組を観ることから始まる。そのままずっと日曜日独特の番組が続くのだが、今日は、買い物に出かけることになった。私の一番の目的は、脇机を買うことだ。昔から狭い家に住み慣れているので、机も、ライティング・ビューローとかいう、折りたためる物を使っている。そこにノート型とは云え、比較的大型のノートパソコンを置いているので、机の空きスペースが小さく、パソコンを操作しながら、何か書きものをしようと思ってもスペースが狭さに苦労していた。何とか右脇に机と同じ高さの一寸した台が欲しいとかねがね思っていたが、それを探しに行くことになった。私は、ホームセンター辺りで高さと面積が合えば良いぐらいに思っていたが、ホームセンターでも、比較的家具を専門に扱う「ニトリ」に行くことになった。感覚的に、コーナンは、いわゆる雑貨屋でありどちらかというと「Do it yourself」的な意味合いが強いのに比べ、「ニトリ」は家具店の延長という感じである。売上高に大差ないようだが、「ニトリ」に行くということは、コーナンよりは少し上等なこじゃれた家具を買うというイメージである。日本でも展開しているが、海外で巨大展開している黄色い「IKEA」等の感覚は、「コーナン」の延長線上のイメージである。「ニトリ」はテレビコマーシャルで「お値段以上、ニトリ」のキャッチコピーを何回も聞いているので、耳に染みついている。こんな時、テレビコマーシャルの偉大さを知る。ちょっと歩いて、とはいかない場所だが、車で行けばそれほど遠くない。午後からの行事を見越して、朝開店にあわせて出かけることにした。朝の駐車場は未だ車がそれほど多くはなく、入口のドア近辺に駐車することが出来た。店の中には既に何組かの客が商品を見て回っている。私は余り労せずして、適当な大きさの脇机を見つけた。初め一寸低いので、躊躇したが、なんと、その品は高さが何段階かに変えられる構造となっていた。想定していた物とほぼ変わらない形状であったので、すぐそれに決めた。少々難有りと言うことで、聞いてみると、さほど気にならないものばかりである。その分安くなっているのが有り難いくらいだ。日本人は贅沢で、それを家具として愛でるわけでもないのに一寸した擦り傷でも気に入らず返品してくるのだそうだ。いざ買おうとして、店員の姿を探すが、一向に見あたらない。レジに一人電話中の店員が居たので、終わってからお願いすると、朝は、なんとその広い2階のフロアーに2人しか店員がいないのだという。日曜日の客の出足のピークは午後2時頃だそうで、その頃には店員もあわせて増えるのだそうだが、何とも閑散としている。元々家具や寝具売り場はどこでもそれほど混んではいないものだが、これで商売になるのかと思うほどである。既に赤札が付いていたが、儀礼的に「もう安くはならないの?」と聞くと、やはり無理だという。最近はどこでもそうだが、こういった類の一般商品は、おそらく海外で、作らせて運んできているのであろう、ギリギリだというのだ。昔は、海外で作らせるのも、仲介業者が入っているとかして、未だ叩き所はあったようだが、昨今は、販売会社が直接海外の工場に作らせているので、マージンはないのだという。今、日本は、デフレに向かっている最中で、消費者にとってはこれほど有り難いことはないのだが、消費者は即勤労者でもあるわけで、安く買える分収入も低くなると言う、いわゆるデフレスパイラルというやっかいな局面にさしかかっている。お馬鹿キャラで、表面上は庶民の味方然としている、経済評論家と称する金満家のタレントや、鼻の広がった売っ子女性経済評論家と一緒になって、「デフレを克服するには、お札をすればいい」と簡単げに言っていたのをふと思い出した。ここで私がまた値切るようなことをすれば、日本の経済はさらに悪くなると言うのはオーバーだけど、少々難有りで既に値下げ札の掛かったままの値段で購入することにした。店を出るときには、結構駐車場も混み出していた。日曜日の出足がそろそろ本格化してきたのであろうと思いながら、我々は、途中のモールで買い物がてら、昼食でうどんを食べた。この昼食も大衆相手の店では、2人分の食事を、1人前の値段で出来るようである。最近の、吉野家、松屋、すき家の牛丼チェーン大手3社の異常なまでの価格競争は、逆に見ていて気の毒な気がすると同時に、体力勝負で決まるのだろうし、その前に、食の安全が問題にならないかと心配するほどである。ともあれ、今日は連れ合いの子供や孫達が参集する。今、この時代に企業戦士として一家を支える太郎一家と、ポスドクで、仕事ばかりは過酷だが、なかなか定職に就けない姫も一緒である。姫は、大学で140名程の学生を相手に初講義をしたという。太郎君の方は、「ニトリ」同様、海外で商品を作らせている身である。私の時代とは、産業構造も違うし、国民意識も違ってきていることを感じる。日本人は食の自給率は4割に満たないが、それなのに、飽食になり、使い捨てがさも美徳かの様な時代の真っ只中にいる中で方や職もなく、絶望的な生活を強いられている人達もいるわけで、なんとも変な国になってしまったものだ。夕食を共にした連れ合いの孫は、何日かの間隔で接するのだが、会う度に成長しているのが分かる。年中組となったお兄ちゃんは、今流行の「Wii」を買って貰って、我が家のテレビで、ポケモンキャラクターでロールプレイをしている。お父さんの太郎君も、息子に負けじと、取り合うように一緒に遊んでいる。2歳になったばかりの弟の方は、ご飯を食べながら「おいしいね!」と言って、連れ合いの作ったハンバーグを頬張っている。もうちゃんと言葉が話せるのだと、言うことに加えて、無意識であろうが、連れ合いの作った物をおいしいと言ったことで、ぐんと株を上げたようである。新聞や、テレビで、乱れた世相を喧伝する中、この二人の小さな子供を一手に引き受けて育てているお母さんも、幼稚園仲間の母さんや、近所のママ友と、仲良く子育てをしているようで、何よりのことだと思う。将来この子供達が、心穏やかに暮らせる日本であって欲しいと願うのである。一方、大学で講義をスタートした姫は、i-Phoneで外国語の発音が聞こえると言って自慢したり、新しくデジカメを買ったと言ってそこら中の物を被写体にして楽しんでいる。私にも早くi-Phoneを買うように勧めてくれるが、この先、使い道があるのだろうかと、ふと躊躇するのである。
2010.04.18
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アメリカの宇宙政策が発表された。2030年代に火星の軌道へ人を送り込むのだという。有人宇宙飛行を成功させた人類最初の偉業は、1961年のソ連によるボストークでのユーリ・ガガーリンであった。宇宙から帰還した後の会見で彼が「地球は青かった。」という発言は今でも覚えている。それから以降は、超大国と言われた、ソ連とアメリカの熾烈な宇宙開発競争が始まった。この時、水をあけられていたアメリカは、急追して、1969年のアポロ11号が月面に着陸すると言う偉業を達成したのである。この時は、ジョン・F・ケネディ大統領の演説で「1960年代の終わりまでに人類を月面に到達させる」という公約が実現し、アームストロング船長、コリンズ司令船操縦士、オルドリン操縦士が月に到達したのである。そして月面に降り立った、アームストロング船長は「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」と劇的な言葉を残したのである。宇宙は、ロマンをかき立てる。どの宇宙飛行士も、宇宙から地球を見たときに、国境線がないことを実感し、報告している。人々皆が、宇宙飛行士のような心境になれないものだろうかと考えることも多かった。既に19世紀後半には、ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」というSF小説を書いている。荒唐無稽と考えられたとしても、とにかく、人間が宇宙に行くのだという考えが、この頃からあったのである。さらに、1968年にはアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」という小説に基づいたSF映画が公開された。このように、人々の心は、見果てぬ宇宙に、どれほど期待していただろうか。今までに打ち上げられた人工衛星の数は、2006年のデータでも、日本の119基を含め、約5500基の多数が打ち上げられている。今では、廃棄されたり、破砕したりした衛星がスペースデブリとして宇宙には無数に存在しているのだという。そのデブリの数は約9,000個も存在し、1mm以下の微細デブリまでも含めると数百万とも数千万個も存在すると言われている。20世紀早々には、各種の衛星が打ち上げられ始めたわけだから、宇宙開発の歴史も既に100年間を経ていることになる。この間に日本の宇宙飛行士は、毛利衛さんから始まって、 2010年限りでの退役が決定しているスペースシャトルで最後の日本人宇宙飛行士として現在飛行中の山崎直子さんまで、女性2人を含め8人を数えるに至っている。その間、2003年に起こったスペースシャトルコロンビア号空中分解事故等悲惨に事故も経験しているが、人類の宇宙探査に対する情熱はそれに打ち勝つように、なおも前進をしているわけである。今でも宇宙旅行会社が企画して、2000万円を超える料金で、宇宙の無重力を体験するツアーを募集し、日本人のライブドア社長も申し込んでいるそうだが、庶民には、正に高嶺の花である。遊園地でジェットコースターに乗るのとは訳が違うのだが、フリーフォールで一瞬の無重力では飽き足らない人で且つお金の使い道に困る人たちが申し込んでいるのであろう。この企画に、約8万5000人から問い合わせがあり、既に200人が申し込みを行ったと言うことだから驚きである。映画「日本沈没」や、「2010」のように、地球が滅亡し、座して死を待つのでもない、単なる物見遊山である。明治初期の洋行のようなものであろうか。もし、地球が、核戦争などで、汚染され、地球上に住めなくなったとして、その昔、選ばれた生物が「ノアの箱舟」に乗せられて、数日間の苦行の末アララト山に漂着したというのなら、また話は変わってくるだろう。人間の命は限られている、出来ることであれば、海外で見聞を広めたいと思うことは、現在では至極当たり前で、当初に比べたら、信じられないほどの値段で海外旅行ができる時代であるが、宇宙旅行となるとそういうわけにはいかない。誰よりも先に行くことに意義があると考えるのであろうか、正に、スーパの開店に先頭に並んだり、何処かの高速道路開通日に前の晩から並んで待つといった心境と同じ感覚なのであろう。計画では昨年くらいから始める予定だと聞いていたが、実際に飛び立った一般人は今のところ聞いたことがない。しかし一定の体力があり、体に異常がなければ、ただ単に5分程度の無重力を体験することの実現性を疑う根拠はもはや無い。現在建設中の宇宙ステーションが出来、地球の表面から静止軌道以上まで伸びたる軌道を持つ宇宙エレベーターと言ったことも真面目に考えられているので、そう遠くない未来には、宇宙ステーションと地球往復の旅などというものが出来るかも知れない。そんな矢先の、アメリカ大統領の火星への旅実現のコミットメントである。203X年と言うから、30年代の初期であれば、私もその話を聞くことが出来るかも知れないが、おそらくは私自身は、もっと高いところから見物していることになるかも知れない。月に水があるか否か、未だ定かではない内から、2000年に、火星に水存在か?と騒がれ出し、2004年には火星の水の新たな痕跡があるとの無人探査機「スピリット」の報告があり、2006年にも、火星には今も水が存在し、時々地表面を流れている可能性が高いとのサイエンスに発表があった。2007年には立て続けに、アメリカのグループが火星に水流の痕跡を高解像度画像で確認したとか、火星にシリカを多量に含む土壌を発見したのは水の存在示す有力証拠だとの発表があった。さらには、2008年にも、米航空宇宙局(NASA)の探査機「フェニックス」が、火星に水が存在することを確かめた、というのだ。今までの映像判定とは違い、フェニックスは火星の表面から深さ約5cmのところで凍土を採取して加熱し、蒸気を分析した結果、水だと確認した、というわけである。従来は火星の衛星写真により、川が流れた跡のような地形が映っているなど、どれも「水がありそうだ」という状況証拠だけだったが、2008年には、実際に水を検出したというのである。今回の発表でオバマ大統領は、「これまで誰も行ったことがない月の先の小惑星などに行ける宇宙船は、2025年までに出来ると期待している」というのだ。その勢いで火星まで有人飛行を試みるのだという。地球から月までの距離は約38.4万kmであり、火星迄は7,834万kmと200倍以上の遠さである。大型ロケットを開発して、と言うが、そう簡単にいくものでもあるまいと思うが、何しろ、宇宙に行くことさえ考えられなかったときから既に100年足らずで、月に行っているわけで、ジョン・F・ケネディ大統領の演説でも予定通りに結果を出している。案外今回のオバマ大統領の発表は予定通り実現するかも知れないのだ。
2010.04.17
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NHKの講座も今日から4期目に入った。これから半年間は、ヨーロッパ美術の輝き(写実主義から印象派へ)の講義である。今日のテーマは「クールベとドーミエ」である。しかし講師は、ドーミエについては何一つ語られなかった。クールベへの導入に当たって、最初にジェラールの「アモールとプシュケ」が説明された。アモールはキューピットのことで、クピト、エロスとも呼ばれるギリシャ神話の神である。これは、トマス・ブルフィンチの「ギリシャ・ローマ神話」に詳しい。連れ合いとルーブルで疲れて腰を掛けたベンチの前にあった彫刻もこの二人だった。ともあれ、ジェラールは、ダヴィッドの流れをくむフランス古典主義の画家である。古典主義とは、アカデミーが保護し、国立美術学校などにも関係するいわゆる「アカデミズム」という語源になった一派である。当時の画壇は、ギリシャ・ローマ神話を題材にすることこそ高級であり威厳があるとされていた。アモールは母親の過干渉で、綺麗な女の子から遠ざけるように育てられたが、自分の矢で自分を傷つけて以来人間の少女プシュケに恋をしてしまう。この絵でアモールがプシュケのおでこにキスをしているのにプシュケがキョトンとしているのは、アモールが神故に人間には見えないと言うところが味噌なのである。次はアングルによる「泉」だが、アングルは、ダヴィッド亡き後の新古典主義のリーダーであった。彼は長くローマに滞在し、呼び出されて国立美術学校の教授になった。通常、泉は、女性の裸体を以て擬人化して表現する習わしであった。因みに、川はおじいさんで表現されるらしい。体重の大部分を片脚にかけて立っている姿を描いた、ゆったりと柔らかなS字を描いたコントラポストは美術手法としてはオーソドックスで、古代ギリシャのシヌエッサのヴィーナスを反転したものと比較するとその酷似性がよく分かる。当時ヌードを描くことについても、ギリシャ神話にまつわるものであれば、下品ではなく了とされていた。ここで、講師は、お堅いNHKが大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬に危急を告げるときにおりょうが裸で知らせるという時どう扱うかに興味があると話題になっていると話されていた。ブーグローの「ヴィーナスの誕生」では、子供のトリトンが見上げるヴィーナスもこのコントラポストが取り入れられている。次のジェロームの「法廷のフリュネー」では、裁判官達が居並ぶ中で、高級娼婦のフリュネーが神を冒涜した罪で裁判を受けているとき、左端の弁護士がいきなり彼女の衣服をはぎ取り美しい裸体をあらわにして「これほどの美に罪があろうか!」と叫んだところ、全員が無罪評決をしたという作品で、当時の世相の女性蔑視を現すものとして知られるが、ここでも、フリュネーはコントラポストの形で描かれている。ここで、ロマン派のドラクロワの作品である古代アッシリアの「サルダナパロス王の死」(前出)を引き合いに出されたが、アングルが、ドラクロワの同時代の画家で、常にライバル的存在だったと言うことだ。そしていよいよここから以降は特に断りがない限りはクールベの作品である。最初の「浴女たち」では、当時女性は美しく、古代ギリシャをモチーフにして描くというのが不文律であったところ、この作品は、普通のむしろたくましい農婦二人を描いている。この点で、既に当時のアカデミズムに叛旗を翻しているわけで、クールベの反骨精神の面目躍如という作品である。ナポレオン3世は、この絵を見て「醜い!」と言い、鞭で打ったと言うことだが、ここでもクールベは、「いっそ、キャンバスが破れれば皇帝を器物破損罪で訴えられたのに」と鼻っ柱の強さを見せたようだ。批評家ゴーティエをして、「ホッテントットのヴィーナス」と言わしめたそうだが、批評家の苦衷が分かる気がする。しかし、ドラクロワはこの作品を評価しているが、一言「手つきの意味が不明だ!」と言ったそうだ。この絵を描くのに、写真家のヴィルヌーヴの「ヌード写真」を参考にしている。このように、女性を、現代(当時)の世相のまま描く先駆けとなったのがクールベの先覚的一面である。「守・破・離」と言うところか。「オルナンの埋葬」はフランスのスイス国境近くでクールベの故郷オルナンでの一般市民の葬儀と埋葬場面を扱った3m×6mという大作で、サロンに出品したが、非難を浴びた。取り上げる題材が不適切だというのだ。ここでも講師はNHK大河ドラマを引き合いに、歴史ドラマが主題であるべき大河ドラマに現代劇を流すようなものとして受け取られたという譬えであった。フランス革命当時の世相では、世相がころころ変わっていたから「保守」か「革新」かを簡単に決められず、画家も慎重にならざるを得ない時期であったようだ。クールベが、見たままを素直に描く画家としてのエピソードに「私は天使を描けない、なぜなら天使を見たことがない」という言葉で端的に表現されている。通常「画家のアトリエ」とされているが、正式には「画家のアトリエ -我が芸術的生活の七年に及ぶ一時期を定義する現実的寓意画」というのだそうだ。この絵は、真ん中にキャンバスに向かうクールベが居て、後ろに裸婦(支援を意味する)=真実が立ち、見上げるいたいけな少年(純真無垢にクールベを評価)を配し、左には、クールベを受け付けない敵である、金に汚いユダヤ人、失業者達、アカデミズムを象徴するかのように裸で十字に貼り付けられた絵を配し、右には彼の支援者である、詩人ボードレールや思想家などが描かれている。しかしながら、大家ドラクロワはこの絵を評価している。「こんにちはクールベさん」は見慣れた絵だが、自慢のアッシリア風ひげを描いた自画像でもある。スケッチに出かけるクールベと、パトロンである銀行家ブリュイヤスとその召使いの朝の出会いを描いた作品で、自意識過剰で尊大なクールベ自身が描かれている。「傷ついた男」もクールベ自身の自画像であろう。傷つく自分に一種のヒロイズムを感じつつ、世間から受け入れられない道を敢えて選ぶということを選んだ自分自身の運命を描いた秀作である。「セーヌ河畔の娘たち」(夏)も、当時勤労者階級が激増し、働く合間の余暇を過ごすことが必要になってきた。この絵は、普通の働く娘達二人が、セーヌ河畔で、ピクニックをしていて、一人は、上着を脱ぎ下着姿になっている。現代なら、ごろごろ居るこういった娘達も、当時は、男を誘っているようで、ふしだらで、内容がないと非難が起こる。しかし、この絵画のモチーフは、マネ達後続の印象派に受け継がれていくのである。「眠り」ではレズビアンの2女性が絡まる絵で、妖艶な作品は、もはやポルノの類である。トルコの外交官であったカリル・ベイの注文による作品であるが、トルコはイスラムの国であり、その昔日本でもポルノが禁止されていたときに、海外出張した者が隠れて外国のポルノ雑誌を買って帰ると言うに等しいのであろうか。「世界のはじまり」は女性の陰部そのままをクローズアップし、描いたもので、もはやエロは通り越してグロの世界である。確かに世界はここから始まったのだと言うのもあながち嘘ではないが、批評家達の表情が目に浮かぶ感じである。同様の「ストッキングの女性」は殆ど全裸の女性が、陰部もあらわに右足を上げてニーハイ・ソックスを履こうとしている絵である。一般には眉をひそめるものであろうが、こういう絵は、いつの時代にもニーズがあったと言うべきだろうか。「波」は紹介された数少ない風景画で、たれ込めた暗雲、打ち寄せる大波。クールベの力量を感じさせる迫力ある作品である。「エトルタの海岸」は嵐の去った青空の切り立つ崖のある海岸を描いたもので、日本の東尋坊のような場所であり、観光の名所でもあるらしく、後にモネもこの風景を描いている。最後に「鱒」が紹介されたが、1871年パリコミューンに参加、投獄されたときに描いたとされるが、実際は出獄後スイスへ逃亡の折に描いたものであろう。釣り上げられ自由を失った鱒を、クールベ自身を鱒に投影し、悲劇的最後を象徴するような作品となった。この進取の気取りの作風は、少なからず、後進のモネ達に人気があり、影響を与えた。私が最初に抱いていたクールベの印象と違った感覚で、講義を聴き終えた。
2010.04.16
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前回からの続きです。訳文は次のようである。一、いろいろな経典やその注釈書などを読んで学問しない人々には往生はのぞめない、ということについて。これはまったく論ずるにもたりないことといわなければならない。真実の他力を信じることの正しい趣旨を明らかにしているたっといお教えの書は、どれもみな、弥陀の本願を信じ、念仏をとなえれば、それだけで仏になるのだといっている。そのほかに、なんの学問が往生にとって必要であろうか。ほんとうにこの道理に迷う人は、どのようになりと学問して本願の意味を知るがよいのである。経典やその注釈書を読んで多くを学んだとしても、たっといお教えの根本を体得できないことは、はなはだ気のどくなことである。文字ひとつ読めず、経典や注釈に書かれていることの意味さえ知らない人がとなえやすいようにとの名号であるので、この他力念仏を、万人のための易行という。これに対し、学問を中心とするのは聖道門で、これは自力を信じる一部の人のための難行という。「学問ばかりしながら、道をふみはずして名声や財物に心をうばわれている人は、今の一生が終り、次の世において浄土にうまれて仏になることはおよそ不可能であろう。」と教えられている確かな文書も現にあるではありませんか。このごろは念仏一本の人と聖道門の人とが争いをして、わが宗こそがすぐれていて、他の宗は劣等だなどというものだから、宗教上の敵があらわれてきて、そのため正しい教えに対する非難も起ってくることにもなる。だが、これこそまったく、自分で自分の宗門の教えを破り、ののしるものではないか。たとえ、どんな人びとが寄ってたかって、念仏など無力な者のためのものだ、あの宗門は浅薄で下等なものだなどといっても、けっして、そんな人びととは争わないで、われわれのようにうまれつき能力の劣った平凡な人間、文字知らずのものでも、ただ信じることによってたすかるというように教えていただいて、それをいちずに信じるのですから、うまれつき優秀な人にとっては、一向につまらないものであっても、このわれわれにとっては最高のお教えなのです。たとえほかの教えはすぐれていたとしても、能力がたりないので、自分にはそれに従って修行することなどできはしない。われもひともすべてこの生死へのとらわれから離れぬけ出ることこそが、諸仏の根本のお考えであらせられるのだから、決して仏の御さまたげはあるわけはないと固く信じて、かれらの挑戦に対し憎悪感などおこさないならば、だれがわれわれに敵対してこようか。そのうえ、「論争のあるところ必ずいろいろな妄念がおこってくる。智者は争いの場から遠ざかるべきだ。」と記された先達の言葉もあることです。亡くなった親鸞聖人のおっしゃるには、「この教えは、信じる衆生もあるし、けなす衆生もあるはずだと、仏がすでに説いておいてくださっていることであって、われわれは現に固く信じ申しあげており、その一方、信ずるわれわれのほかにそしる人々も現にいるというわけで、仏のそのお言葉が真実であったことがよくわかってくる。だからこそ、往生はますますもって確実だと思われるがよい。もしも、けなす人がいないとすると、どうして信じる人はあってもけなす人がいないのだろうと、必ず思うものがあるにちがいない。しかし、だからといって、人の非難にあまんじようというのでは決してない。ただ、仏は前もって、信じる人もけなす人も両方あるはずのことを御承知のうえで、教えについての人の疑いをなくそうとなさって、先のようなお言葉を説いておいてくださったということを申すのである。」と、こういうことでありました。ところが、今日では、学問することで、他人の非難をおさえつけておいて、もっぱら論議・問答を大いにやろうと身がまえておられるのでもあろうか。学問をつめば、ますます深く弥陀如来のほんとうのお心を知り、悲願がいかに広大なものであるかをもわかって、自分のような罪深い人間では救われようがないのではないかなどと不安に思っている人に、本願には善人・悪人とか清潔な人・穢(けがら)わしい人とかの区別がないということをも説いて聞かせるということであってこそ、はじめてそれが学者の学者たる価値というものでしょう。ところが、たまたま自らのはからいをはなれてすなおな心持ちで本願のおぼしめしにかなって念仏している人にむかってさえも、そんなことでなく学問してこそ往生の道もひらけるなどと言っておそれさせるというのは、其の教えにとっての悪魔であり、仏に楯つく敵である。そういうことを言いふらすものこそ、自身において他力の信心が欠けているだけでなく、考えちがいから他人をも迷わすことになるであろう。これは、あの親鸞のお教えに反するものであることを、つつしんでおそれなくてはならない。また、弥陀の本願からはずれているものであることを気のどくに思わずにはいられない。注釈には次のように書かれていた。1経釈 経は仏の説かれたことばを記したもの。釈は経の真意を明らかにするための高僧の注釈。2不定 おぼつかないこと。3すこぶる もとの意味は、「やや多く」「かなり」。転じて、たいそう、まったく。4いひつべし 「つ」は「いふべし」の強意。5むね 旨。おもむき。6正教 聖教と同じ。仏典についての正統な教えの書。7仏になる 「仏になると説いている」の意。8かは…・・や 「かは」という感嘆をこめた疑問、「や」という反語を重ねて、学問を最大級の強さで否定する。9まよへらん 迷っているであろう。「ら」は完了。「ん」は予想。10いかにもいかにも どのようにでも。くり返し語は強調で、その実に、その方法のありえないことを暗に示す。11ゆくぢ 行く路。すじみち。12名聞利養 名声をあげ、利益を得、財物をたくわえたいとの欲望。13順次の往生 今の一生が終り、次の世に浄土に往生すること。14いかゞあらんずらん どうであろうか(あぶないことだ)の意。15証文 証拠となる文。その事について確かな人がはっきり書いている文章。なお、この証文の内容については、親鸞の書簡集『末燈抄』第六書簡(親鸞から常陸在住の乗信房にあてたもの)に同意の文がある。16おとり「劣る」の名詞形。低級なものということ。17いふほどに いうので。「ほどに」ほ「だから」という原因・理由をあらわす接続助詞。18謗法 正しい仏の教えをそしること。19しかしながら とりもなおさず。まったく。20下根の凡夫 生まれつき能力の足りないただの人間。根は根機(仏の教えを受ける性能)の略。21さらに まったく。下の「いやしく」にかかって断定を強める。22器量 才能。力量。23にくひ気 にくらしいと思うようす。24諍論のところ・・…智者遠離すべき この証文については、これとほとんど同文のものが法然『七箇条起請文』(第二条)にあり、さらにさかのぼれば「往生要集』にも「宝積経」(第九十二巻)にもある。25学文 学問と同意。26やめ やめさせ。27法の魔障 仏の教えに対する悪魔のしわざ。28仏の怨敵 仏を敵にしてうらみがましく思うこと。29かねて 合わせて。とても長い文章だが、言いたいことは、次のようなことだろうか。1.いろいろ本を読んで勉強したとしても、それが何になる。ただ一重に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば良いのだ。2.他力(釈尊)に依れ、自力では解決しない。 自力=難行(難しい):聖道門、他力=易行(簡単):易行門3.他の宗教(考え)を悪く言うな、言えば自分自身を誹謗することに繋がる。→だから争いが起こるに尽きるかと・・・。親鸞は、世情の受けを狙って、簡単に浄土へ行けると説いたが、、これは当時の武家階級には不遜なことであると映り、追われる身のなる。要は、学問して東大に入ってエリート官僚になったから浄土に行けるのではなくて、生まれつき能力の足りないただの人間である下根の凡夫でも良いのだよと言うわけだ。一所懸命、学問=出世が命と、レールに乗れば後は天下って悠々自適と思っている輩にこんな考えは許されるわけはないでしょうね。親鸞は、寺院を認めず、世間に道場を開いたという。まぁ、学問の寺子屋のようなものだ。イスラム教でもこれに似た寺子屋(クッターブ)が沢山ある。ここで毎日クルアーンを教えているが、最近は、浄土へ行くには、敵を倒せとばかり自爆のすすめを教えているので困りものだ。法然の教えに、「浄土宗の人は愚者になりて往生す。」というのがあるが、愚者とは何かで又議論があろう。負けるが勝ち的愚者のことかと取り敢えずは思っておこう。また、「諍論の処、諸々の煩悩起こる。智者はこれを遠離すること百由旬なり。」と、争いからは出来るだけ遠ざかれと説いている。私を無にし、虚にして得られる浄土も良いかもしれないが、それでは、現世があまりに味気ないと思うのは私だけだろうか。
2010.04.15
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)今日は第十二章である。本文は以下のごとし、 第十二章一、経釈(きょうしゃく)をよみ学(がく)せざるともがら往生不定(ふじょう)のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの正教(しょうぎょう)は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる。そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこゝろえざる条、もとも不便のことなり。一文不通(いちもんふつう)にして経釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに易行(いぎよう)といふ。学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり。難行(なんぎょう)となづく。あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、順次(じゅんじ)の往生いかゞあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。当時、専修(せんじゅ)念仏のひとゝ聖道門のひと、法論(ほうろん)をくはだてゝ、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵(ほうてき)もいできたり謗法(ほうぼう)もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根(げこん)の凡夫、一文不通(いちもんふつう)のものゝ、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根(じょうこん)のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余(じよ)の教法(きょうぼう)はすぐれたりとも、みづからがためには器量(きりょう)およばざればつとめがたし。われもひとも生死(しょうじ)をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気(げ)せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離(ちしゃおんり)すべきよしの証文さふらふにこそ。故聖人(こしょうにん)のおほせには、この法をば信ずる衆生(しゅじょう)もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまひたることなれば、われらはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には、学文(がくもん)してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答(ろんぎもんどう)むねとせんと、かまへられさふらふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかゞなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なきおもむきをもとききかせられさふらはゞこそ、学生(がくしょう)のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごゝろもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文(がくもん)してこそなんどいひをどさるゝこと、法の魔障(ましょう)なり、仏の怨敵(おんてき)なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つゝしんでおそるべし、先師の御こゝろにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。字数制限の為、続きます。
2010.04.15
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NHKテレビが2週間連続で古代史ドラマ「大仏開眼」を放映した。今年は平城京遷都1300年にあたるということで、奈良に注目が集まっている。今までも、NHKでは「聖徳太子」「大化改新」と2作の古代史ドラマを放映してきており、今回の「大仏開眼」はその第3作目ということだそうである。平城京遷都1300年であるから、逆算するまでもなく、平城京に遷都した年が710年である。受験勉強などで、710年(なんと綺麗な平城京)などと語呂合わせで覚えていたものである。それから、784年、私の住む近くの長岡京に遷都するまでの74年間は奈良が都として機能していた。長岡京から10年で、桓武天皇によって平安遷都の794年(鶯なくよ平安京)となるわけである。藤原宮から平城京へ遷都したのは元明天皇である。この頃は、藤原氏が台頭してきて、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂ら藤原四兄弟が、政治を欲しいままにしていたが、天然痘が流行して、4人とも天然痘にかかり死んでしまう。九州での、藤原広嗣の乱が平定されるに及んで、一時的に藤原家に取って代わって、橘諸兄が政局を担うことになる。この時天皇は聖武天皇に変わっており、聖武天応は、橘諸兄の顔を立てる意味か、天然痘などの天変地異を避けるためであるのか、都を一時恭仁京に移してしまうのだが、吉備真備などの進言で、再び平城京へと帰るのである。飛鳥時代を経て、奈良時代となって、国の基礎も定まりかけてはいたが、相変わらず、豪族や貴族の政権争いは激しいものがあった。そもそも遷都は、いろいろな理由があるのだが、政権の交代や領土の拡大に応ずるもの、心気一新再出発といったケース、政治・経済状況の変化によるもの、戦時の都合などであるが、遷都を行ってもメリットが極端に出てくるわけでもない。現在日本でも、東京一極集中で、首都機能が混乱マヒしている中でさえも、容易に遷都することは難しく、かつ経済的にも大きな負担となるわけだ。外国では新しく広大な土地に遷都する場合が多いようだ。1960年にブラジルがリオデジャネイロから内陸部のブラジリアに首都移転をしたケースやアジアでも、スリランカ、ミャンマー等も首都の移転を行っている。政権交代などによるものとしては、2001年に移転が完了した統一ドイツのボンからベルリンへの移行が挙げられる。さてドラマの「大仏開眼」では、主役は吉備真備である。吉備真備は、名前が示すように吉備地方(倉敷)の地方豪族であったが、遣唐使として阿倍仲麻呂や僧玄ぼう(日偏に方)らと遣唐使として唐に赴き、儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、多くの典籍を携えて帰国したのである。帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、出世し、橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄ぼう(日偏に方)とともに重用されるといった具合である。この、真備や玄ぼう(日偏に方)を除く名目で大宰府の藤原広嗣が反乱を起こしたわけだ。ここら辺りはどうやら史実に忠実のようである。私の場合、藤原仲麻呂と、阿倍(安倍)仲麻呂を混同していた。藤原仲麻呂は、後に恵美押勝の名を頂いた、藤原不比等の流れをくむ豪族であり、政治を左右する立場にあったが、阿倍(安倍)仲麻呂は吉備真備、玄ぼう(日偏に方)と共に遣唐使として唐に行き、彼の地でなくなっているのだ。正月に良くやった百人一首で「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」と遣唐使に向かうとき故国を振り返って詠んだとされるのが安倍仲麻呂である。それはさておき、遣唐使によってもたらされた、思想と価値観により、日本では華やかな「天平文化」が開花したのであるが、一方では、天皇を支える貴族間の政争、また税と飢餓に苦しむ民の姿など混沌とした時代でもあったのである。財政難の折に、巨額の費用を要する巨大な盧舎那仏(大仏)造営には、最初、吉備真備は反対をしていたが、民衆の安穏と、利便さを求めて墾田開発や架橋などの社会事業に奉仕する行基の説得と、彼を慕う民衆のパワーを背景に、聖武天皇も盧舎那仏を造る詔を発するのである。また、聖武天皇の母であり、文武天皇夫人の藤原宮子が心的障害に陥り、そのことが、聖武天皇の心を大仏造りにより動かしたことになっている。この時、宮子の病気回復に関わった僧侶が玄ぼう(日偏に方)であり、橘諸兄のもとで玄ぼう(日偏に方)が権力を振るったのはこの功績によるものである。この作品では吉備真備が大きな位置を占めているが、史実では、どこまで介入していたのか分からないし、ドラマでも、最初は、経済的な理由で、この公共事業(?) に反対をしていたのである。でっかいことはいいことだと言いながら、ドバイでは、高さ1,400m、228階建のブルジュ・ハリファを建てているし、日本でも、墨田区に高さ634mもの東京スカイツリーを建設中である。天平の当時でも、小さな仏に祈るよりも、でかいほうが、よく希望を叶えてもらえると言うことだったのであろう。ドラマでは、民衆の自発的参加が大きな要素であると言うが、今時通じない話である。さらに、父・聖武帝には男子が出来なかったので、唯一の後継者として阿倍内親王(後の孝謙天皇)が早くから皇太子の位置に付いていた。そして、今の東宮大夫の役を担っていた吉備真備を慕う形で描かれていたが、実際は、藤原仲麻呂に心を寄せていたとされる。そして、藤原一門の衰微により、藤原仲麻呂が失脚するや、希代の怪僧弓削道鏡に全幅の信頼を置くようになると史実は語っているが、そこの所は一切触れられていない。大佛次郎の「悪人列傳」によれば、日本歴史の中で、20数名の悪人の仲間入りをしているような僧侶である。天皇の地位を、孝謙天皇から譲り受けると言うところまでの話があったとか言うから、孝謙天皇も余程力のいったことであろう。氏は、「孝謙が愛を道鏡に移したのは、押勝(藤原仲麻呂のこと)が多忙のために孝謙の要求に応ずる機会が稀になったからだと僕は思う」と書いている。その中で、兼好法師の「徒然草」を引用し「女の性は色深し」と言っているとも述べている。今回のドラマは、聖武天皇のひたむきさとか、阿倍内親王の純粋な愛情を淡々と描き、吉備真備はいかにも洋行帰りの博識を示し、藤原仲麻呂一人、藤原家を代表して悪役を演じている。ドラマとしての大仏の建立の背景にそれほどどろどろしたことは不要なのかも知れないが、あまりに甘っちょろい正義感で連ねられているのは、如何に遷都1300年を祝う宣伝番組としても、物足りない部分があるようだ。
2010.04.14
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今日は、二十四節気の「清明」の「次候」である、「鴻雁北」(こうがんかえる)にあたり、雁が北へ渡って行く頃だという。最近は、地球環境が、CO2による温暖化とやらで、変調を来しているから、昔の暦が、なかなか実感として分からないことが多い。二十四節気とは別に「三寒四温」という言葉もあるが、これは、本来冬季に寒い日が3日ほど続くと、そのあと4日ほど温暖な日が続き、また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象のことであり、朝鮮半島や中国北東部に典型的に現れる現象らしく、日本でも感じられる。暦の上では、今はもう春真っ直中だが、ここ1週間の天候が正にこの「三寒四温」のようなのである。先週の木曜日は、非の打ち所の無い好天気で、万国博覧会跡地の公園では、桜も満開であり、実に素晴らしかった事は前に書いた。そして、一昨日は、曇天ながらも、ゴルフラウンドにはもってこいの気候であったのが、昨日は1日中冷たい雨が降っていた。天候は変わるから「妙」があるわけだが、この頃のように温度差が、10℃近くもあると、体調を壊しかねない。このところ、ぐっと冷えてきたので、「鴻雁北」と予定していた雁がシベリアへ帰るのを躊躇させたのではないかと思われる。マクロには地球温暖化は進んでいるのかも知れないが、卑近な場所では、「もう春なのか!?」と疑うほどの冷え込みである。「清明」の初候は「玄鳥至」(つばめきたる)で燕が南からやって来るということで、燕が来たから雁は帰ろうという具合にバトンタッチをするわけだ。他所のマンションでの話だが、自転車置き場の直上にどうやら飛来した燕が巣を造っているようだった。マンションの管理人であろうか、2人ほどで盛んに上を見上げている。後で聞いた話だが、燕の糞が自転車に落ちるのを避けるために、ついにその巣を取っ払ったというのだ。なんと無粋なことをするものだと思った。世の中が合理的に走り過ぎて、何かを忘れているのではないだろうか。私の子供の頃は、燕は水稲栽培でも穀物を食べず害虫を食べてくれる益鳥として、古くから大切にされてきた。益鳥である燕をむやみに殺したり、巣や雛に悪戯をする事を慣習的に禁じ、農村部を中心に大切に扱われてきた。江戸時代には燕の糞は雑草の駆除に役立つと考えられていたし「人が住む環境に営巣する」という習性から、地方によっては、人の出入りの多い家、商家の商売繁盛の印ともなっているほどだ。確かにこのマンションで自転車を利用する人にとって、また自転車で訪れた人にとって、サドルに糞があるのは嫌なものかも知れない。強制撤去に踏み切った人たちは、「鳩の糞害」を想起されたものであろう。鳩も、西洋では、吉兆の鳥とされ、日本でも平和の象徴とされてきたが、それ故、人間による餌付けと、日本などでは、鳩を食べる習慣がないということから、むやみに増殖をして、現在では、駆除を考えざるを得ないという状態である。何処かの丸々と太って裕福な鳩2匹さえ駆除できないのであるから、鳩対策も難しいことであろう。ところが燕の場合は問題が別である。野鳥であり、飼育は鳥獣保護法によって禁じられているが、営巣を妨害することが許されているのかどうか良くは知らない。しかし、新宿とか大阪の地下のコンコースにホームレスが段ボールで仮の家を造るのとは訳が違うのであり、強制撤去が合法かどうかまでは分からないが、無慈悲であることに変わりはない。直接的な実害が生じるということは理解できても、もう少しおおらかな気持ちで見守ってやれないものかと思うわけである。何も自分は、クジラやマグロを食べないからといって、「シー・シェパード」のようなことをするつもりはないが、方や絶滅に近い「トキ」に対する温かい思いやりとの違いに、何とも理解しがたいものを感じた。話はそれてしまったが、「鴻雁北」とはいうものの、最近では、とんと、雁行さえ見たことがない。国定忠治が子分たちと別れる時に「赤城の山も今夜を限り、可愛い子分のてめえたちとも別れ別れになる門出だ。・・・雁が鳴いて南の空に飛んでいかぁ」と言ったというが、そんな風情は、コンクリートジャングルではお目にかかれないのであろうか。中国の「宣明暦」ではこの時期を「田鼠化為●」と称するらしい。熊鼠(もぐら)が鶉(うずら)になるという意味なのだそうだ。いくら春本番に向かううきうきした季節とはいえ、田鼠が鶉になる訳はないのにと、いつもながら中国人の誇張のオーバーさにビックリする。(●は如の下に鳥)そうは言いながら、桜は散り始め、そろそろ葉桜になる様子で、後から、新緑が芽吹いてきている。冬物もクリーニング屋に出している最中だとか、しまい込んだ冬物を、また出してきて、このところの寒さを凌ごうかとするとかだが、確実に向こうの方には、暖かな春が待っていると言うことで、続いて、「虹始見」(にじはじめてあらわる)と、雨の後に虹が出始める候に移っていく。紫のきれいな桐の花が咲くとか、虹が初めて見えるとか、いかにもすがすがしい明るい季節が目前に来るという、先人が経験してきた道を今年も歩んでいるわけだが、最近はやはり少しずつ季節感も「二十四節気」とはずれてきたような気もする。それにしても、寒暖差が10℃を越えるようなことがあっては、体調もおかしくなりそうで、早く安定した本来の良い気候に戻って欲しいと思う。
2010.04.13
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3日前の新聞に、「190万年前の猿人の化石」が南アで発見されたという記事があった。その時は言及しなかったので、今日考えてみることにした。前にも書いたが、私は、人類の歴史についても興味を持っていて、個人的に新聞の記事などを収集したり、関連の本を買い求めては読んだりして、楽しんでいる。又1ページそのライブラリーが増えた訳で、何となく楽しい。この問題は考古学者でなくても興味のあることではないかと思う。137億年前に宇宙が出来たといった途方もないことももちろんおもしろいが、生物はどのようにして生まれたかはさらに身近で興味深く、そして、喫緊の人類はどのように生まれ進化してきたかということになると、なお一層おもしろみが増す。今回の発見は、現代の人類である「ヒト」に別れる前の「猿人」ということらしく、「猿」→「類人猿」→「猿人」→「ヒト」という進化の過程で重要な位置にある。こういった研究は、とても根気が要ることであるが、一つ一つ過去の世界が足跡を残した跡を振り返って、今、我々がどのようにしてこの世に生活しているのかを考える上で非常に有意義なことだと思う。南アフリカの首都プレトリア近郊のマラバ地区にある洞窟から発見されたという。「猿人」にも沢山の種類がいるが、今回の化石は、新種の猿人らしい。見つかった化石は10歳前後の少年と20代後半から30代前半の成人女性の2人分で、頭や腰、腕、脚などの部分的な骨で、「猿人と現代人も含まれるホモ属をつなぐ鍵となるかもしれない」としている。想像される身長と体重は各々約127cmで約30kgだという。脳の容量は420~450cm3と小さく、どうも私の使っているゴルフのドライバーヘッドと同じか少し小さめのようである。小柄で、サルのように長く頑丈な腕を持っている一方で、顔や歯が小さいという、猿人としてはより進化した特徴も見られるのだそうだ。また、骨盤の背骨を支える部分の形などはホモ属に近いという。 主に上半身の特徴から、より古い時代の猿人「アウストラロピテクス・アフリカヌス」の子孫とみられているが、骨盤は180万年前ごろに登場する原人「ホモ・エレクトス」など初期のホモ属と特徴が似ているのだそうだ。このように、発見された新種の猿人は、ホモ属の起源である可能性があるとの意味を込め、現地のソト語の「水源=セディバ」という言葉にちなんで「アウストラロピテクス・セディバ」と命名されたようだ。発見された場所は、アフリカ大陸東部を南北に縦断する大地溝帯(Great Rift Valley)と呼ばれる巨大渓谷の南端部に位置している。大地溝帯周辺では南アの他にも、ケニアやタンザニアをはじめとして、人類の化石が多数発掘されている。火山活動による堆積物が大量にあり、化石が残りやすいからだと考えられているが、大地溝帯付近は、発見される人類化石の多さから「人類生誕の地」とも呼ばれているのである。今のところ最古の人類(猿人)は、チャドの600万年~700万年前の地層で発見されたサヘラントロプス・チャデンシスであるとされ、愛称は「トゥーマイ」(チャドの現地語で「生命の希望」という意味)とされている。アフリカには多数の人類の祖先が居るが、チャデンシスに次ぎ2番目に古いのが2足歩行をしていた証拠があるオロリン・トゥゲネンシスで、現代の人類に直接繋がる祖先であると考えられている。次に、約580万- 約440万年前の長きにわたって、エチオピア東部の現ソマリアに近い地域に生息していた原始的な人類(猿人)アルディピテクス・ラミドゥスとアルディピテクス・カダッバの2種がある。いわゆる「ラミダス猿人」と呼ばれるものだ。これらは、エチオピアのアファール盆地にある約440万年前の地層から1992年に発見された猿人(ラミダス猿人)の化石の発見を機に、1995年に新しい属として記載された種である。アルディピテクス属の発見により、それに次ぐ属となった、アウストラロピテクス属であるが、まず、アナメンシス(約440万~約390万年前)が現れ、次いで、アファレンシス(約390万~約300万年前)が現れる事になる。同時代には、「ケニアの扁平な顔の人」の意を持つケニアントロプス・プラティオプスや中央アフリカのアウストラロピテクス・バーエルガザーリ等共存していた時代を経て、300万~200万年前に生存した「南方のサル」を意味するアウストラロピテクス・アフリカヌスに続くのである。これらの人類の祖とも言える種は、お互いが直列的に進化を辿ったわけではなく、共存をしていたのであろうが、お互いの種同士の交配があったかどうかは知らない。この頃になると、脳の容量も420cc~500ccとチンパンジーの脳容量よりもわずかに大きくなってくる。今回発見された「アウストラロピテクス・セディバ」はアウストラロピテクス属のアフリカヌスの子供のように見えるというのだ。発見した南アの大学の研究グループは、アウストラロピテクス・アフリカヌスに比べて歯が小さいことなどを理由に、より、ホモ属に近いと考えているようだが、個体差の範囲ではないかとの見方も払拭されてはいず、アウストラロピテクス属とホモ属の間の「ミッシングリンク(失われた環)」をつなぐ化石とは言い切れないということらしい。アウストラロピテクス・アフリカヌスは説にもよるが、約250万年前まで存在されていたと考えられてきたが、案外もう少し長く存在していて、今回の「アウストラロピテクス・セディバ」は必ずしも、アフリカヌスよりも進化した種ではないのかも知れないという立場を取る学者もいる。今後、さらに発見される化石が増えれば、より詳細な結果が分かるであろうとごく当たり前の解説が付いていた。リチャード・ドーキンスの「祖先の物語」では人類は約600万年前に、猿人として、現在の猿とは別の種に別れ、独自の進化を遂げていった。約700万年前にはチャデンシスが発見されているから、ここら辺りの100万年は、少し曖昧であるが、それにしても、約600万年前を期に、「猿」と「猿人」は分離したようだ。今は、多くの研究者は否定的な立場をとっているが、「ルーシーの膝」を書いたフランスの人類学者イブ・コパンによる「イースト・サイド・ストーリー」という仮説では、アフリカ東部は、元来は現在のコンゴなど大陸中央部と同様、熱帯性の大森林に覆われた地域であったが800 - 1000万年前の大地溝帯の活動で周辺に高地や山脈を含む隆起帯が形成されて、大西洋側から大陸東部に湿った空気を運んでいた赤道西風が遮ぎられると、大地溝帯の東側は徐々に乾燥して森林が衰退し、やがてサバンナに変わっていったというものだ。この時、猿と共に、森林に住んでいた多くの類人猿は、この環境の変化に適応できずに絶滅したが、ヒトの祖先は木から木を渡り歩くことが難しくなり、樹上から地上に降りて、直立二足歩行する必要性に迫られた。この仮説は、一時は人類の起源についての定説となっていたが、大地溝帯からはるかに離れた中央アフリカのチャド北部で、サヘラントロプス・チャデンシス(トゥーマイ猿人:600 - 700万年前)が発見されたことにより、最も初期の猿人が大地溝帯よりも西の地域にいたことが明らかになって、コパンのサバンナ説は否定的に再検証されるようになったようだ。いずれにせよ、これからも多くの化石が発見されれば、人類はどのような経路を取って現在に至ったのか、又、今後はどうなるのかがある程度推測が可能になるのではないかと思っている。特に400万年―200万年の間には、系列的なのか、別の種なのか、今のところ多くの種が混在共存をしていたように見受けられこと考えると、白人、黒人、黄色人種などの差こそあれ、現在ホモサピエンスという大きな括りの1種類の現代人が、平和裡に共存できないわけはないと思う。人類が滅びるとしたら、それこそ人知の及ばぬ全球凍結や、巨大隕石の衝突などの天変地異が起こるときに他ならないだろう。最高の英知を持った人類が、自らの生命を絶滅させることがあってはどのような申し開きをしたらいいのだろうかと考えてしまう。
2010.04.12
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昨年末に三田27に出かけて以来、4ヶ月ぶりのメンバーでベニカンへ出かけた。昨年末から連れ合いは肩を痛めて、プレーはしていない。前回の三田27でも、ギャラリーとして同行したが、プレーはしなかった。今回は、最初から同行も断念し、その代わりに、もう1人定年退職された先生が加わっての4人のプレーとなった。そろそろゴルフシーズンになるということもあって、1週間ほど前に3時間打ちっ放しをし、昨日は今日のために、調整で少し練習をしてきた。朝7時49分のスタートということで、マスターズのテレビ放送もそこそこに、6時半には家を出た。何しろ、ベニカンは、我が家から最も近いゴルフ場であるから、20-30分で楽々着ける。7時前について、練習ケージで少し練習をした。また、パター練習場でもしばらく練習をしたが、急に空が黒くなり、雨がザーッと勢いよく降り出した。確か今日は、夕方か夜にかけて雨だとの予報であったはずなのに、山の上では様子が違うのかと、若干うんざりしながらハウス内で待機していた。なかなかパートナーの先生が来ない。もしや間違っているかと、スタート時間とメンバーを確認したがどうやら間違いではなさそうである。いつも早めに来られている先生方であるから少し心配になったが、雨も小雨になりかけたとき、遅れてこられた先生は、どうやら寝坊したようだ。初めて回る先生と初対面の挨拶を交わし、スタート時間が近づくと、放送で、我々の組の名前が呼び出しに掛かった。我々は、一寸した規模のコンペの後に付いたが、その後ろは、なにやら間が空いているようで助かった上に、雨もすっかり上がって、くもりながら、幸先が良かった。1番ホールのティーショットが試金石だと思っていたが、最初のくじを引いた初対面の先生は左に引っかけた。次の私は、何とそれと同じように引っかけてしまった。遅れてきた先生は最初のショットはまともに飛んだ。同じ組の紅一点の先生は、右にシャンクや、次にチョロをするなど、いつもの調子だなと思っていた。2打目で、リカバリーしたが、残る120Yをグリーンに乗せることが出来ず、4打目のアプローチもトップながら何とかオンし、1パットという、ボギースタートだ。オナ-は私に変わった。2ホールの打ち下ろしは、以前に大きくスライスし、右の池に入れたところだが、今回も右のガードバンカーに入れてしまった。あごの高いバンカーからは1度で出たがダボとなる。未だオナーである。3ホールは直前の池越えである。ティーショットは良く左のフェアウェーギリギリのラフだった。新顔の先生にオーバードライブされた。セカンドの155Yをダフリ、サードでトップしながらオンと又ボギーである。でもオナーは変わらない。4ホール目のティーショットは、難所の谷を越える位置まで飛んだが、右方向なので距離は一寸残った。上り145Yを5Iで打ったが、ほんの少し届かず、これまたあごの極端に高いガードバンカーに捕まった。力が入って、バンカーの脱出はグリーンをオーバーしてしまい、返すアプローチもこれまたトップで、グリーンを通過と散々だ。ミドルアイアンの下手さが悔やまれる。ここで、トリプルを叩きオナーを奪われた。5ホールは、ショートで、このコースで一番見晴らしの良いところだ。時あたかも、桜が満開である。山は少し遅めだから、本当に綺麗なうす紅色に囲まれている。紅一点の先生は、連れ合いが一緒でないことを残念がってくれた。オナーの先生は、張り切って力が入り、左に引っかけOB、2番手の私は、長めのクラブで軽く振りオンすることが出来た。続く新顔の先生は今度は右にスライスしてこれまたOBである。私は、バーディーパットが何と3パットに変わってしまい、散々である。でもオナーは取り戻した。6ホールのロングは、狭いが受け型の打ち降ろしだ。ティーショットはまずまずでも2打の当たりは悪く、残り90Yもトップ気味に入りグリーンをオーバーしてしまった。それからも、アプローチが悪かったが、1パットのボギーで終わった。新顔先生はここでもOBと連続OBだ。7ホールのミドルはこれも直前池越えである。ティーショットは高めだが、まずまずで、残り120Yを8Iで短かった。やはり7Iくらいで打った方が良かったかと後で悔やんだ。ここもボギーだったが、先生はOBを叩いていた。このホールはFWもアンジュレーションが大きい。この辺までは良かったが、8番のロングホールでは、私も結構良い当たりのティーショットだったが、先生に10ヤードばかり置いて行かれた。何しろこの先生の球筋は低く、パワフルで距離はランがかせぐという調子である。2打目が木に当たり3打がチョロ、アプローチではバンカーへといそがしく、おまけに3パットで、トリプルとなってしまった。ここで先生にオナーを奪われてしまった。フロント9の最終は今日一と言われるティーショットを生かし切れず、2打目を右のバンカーに入れ、脱出して又前方のバンカーに入れるなど散々で、しかも3パットと最悪だった。昼食時に紹介をして貰ったが、新顔の先生は、社会科の先生から校長までされ、今は、近くの企業に顔を出しているという。バックナインに入り、10番ホールは2打目でバンカーを越えグリーンの横までいったが、アプローチでチョロチョロし、ダボになった。次の11ホールでは、ティーショットは別として、2打目以降が、どうも湿っぽくダボとなる。社会の先生がオナーである。次の12ホールは、池越え打上であるが、ティーショットも真っ直ぐ飛び、比較的順当にいって、2オンが成らず惜しかったが、ボギーだった。社会の先生は直前の池に落としてしまい、打ち直していた。13番超打ち下ろし195Yのショートでは一寸グリーンを外れたかと思われるボールが、行ってみると、なんとグリーンにオンしているではないか。前の組が、グリーンに乗った状態で先に打たせてくれたので、どうも見誤ったようだ。しかしここでも折角の1オンを生かし切れず3パットのボギーである。14番ミドルは左に飛びあわやOBを免れる好キックとなった。残り160Yで、グリーンが空くのをじっと待っていたが、待ちチョロとやらセオリー通りに失敗、アプローチももたついてトリプルを叩く。オナーを再度取られ、臨んだ15番谷越えのパー3では、ワンオンしたものの、3パットで不本意だった。何しろ3パットが多い。打ち降ろし右ドッグレッグの16番ロングホールは、グリーン手前が池である。ドッグレッグの屈曲部までは届かないので、2打目を木越えで池前に落とすようにトライしたが、木に当たって果たせず、木の間を縫って、前方に出した。池越えの残り100Yを9Iで距離ぴたりにオンした。木に当たらなければパーは取れたかも知れない。このホールでは、先生は、何度か池にボールを打ち込んでいた。続く17番ホールはミドルで、ティーショットも良く飛び、2打目もグリーンにあわやオンかとのカラーである。パターでのチップインが決まり、初バーディーとなった。気分を良くした最終18ホールでは、少し力んだか、左に引っかけ、谷間のラフに落ちた。そこからのリカバリーはうまくいったが、やはり上がってみてボギーという結果だった。後半頑張ったので、トータルでやっと100を切ることが出来たが、このパーティでは過去95は出しているので、ベストとは言えず、一寸、アプローチとパターに問題を残した。紅一点の先生も、私の連れ合いが居ないので寂しそうだったが、以前に見たときよりもティーショットやFWウッドなども良くボールを捕らえていた。桜満開の時期の悠々とコースを桜鑑賞しながら回れるとは、贅沢なことである。それにしても雨が降らなかったことが最大の幸運であった。
2010.04.11
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今日はマスターズ2日目だ。日本の3選手が予選を通過出来ることを願いながら、見ていたが、どうやら片山晋呉も石川遼も、予選落ちということになりそうである。石川遼の場合は、最終ホールのパットをわずかに外しての1打差及ばずの予選落ちである。奔放そうに見えるこの若者も、15番ホール辺りから、自分が何をやっているのか分からないくらいに足が地に付いていないという感想を後で聞いた。これは若い故で片付けられるものではないだろう。ここまで、比較的順風満帆に来た彼のゴルフも、少し頓挫したというところだろうか、彼にはまだまだ洋々とした将来が待っている。これをバネに大いなる飛躍をしてくれることだろう。昨年マスターズ4位で日本を湧かせ、5度の賞金王に輝く片山晋呉も、今年は、当落線上にも顔を出さぬまま消えていってしまった。意気揚々と被ったカーボーイハットも、こんな時には何故か浮いて見える。東北訛りの池田勇太、力量は確かだが、尾崎將司を信奉し、3タックのオールドファッションのパンツながら、なかなか味のあるプレーで、予選をかろうじて突破した。いずれにしても皆、若い。今期、若いといえば、驚異的な大会史上最年少の16歳11ヶ月でイタリアから出場の、マテオ・マナセロがいる。この高校生も予選を通過したというから驚嘆する。方やベテラン組で還暦プレーヤーのトム・ワトソンは、驚異的であるし、優勝に絡んでいる50歳のフレッド・カプルスなどは、ゴルフが若さだけのものでないことを示してくれている。不倫騒動のタイガー・ウッズも好位置に付けている。彼のブランクを感じさせない好プレーに、ギャラリー(パトロン)は惜しみない拍手を送っている。彼のゴルフ外での行状は決してほめられたものではないにしろ、そこでプレーをしているのは、スポーツ選手で好プレーヤーである。その技の光るものに賛辞を贈るギャラリーも又立派だと言える。マスターズのテレビ放映が終了した後、連れ合いの実家の庭掃除に出かけた。何時もシルバーセンターに草ひきなどを頼んでいたのだが、ここに、時間を持てあましているシルバーというには少し若すぎる控え(私)が居ると云うことで、労力奉仕となったわけである。昨日は、大学の同期生との楽しい一時で、焼酎をしこたま飲んで、帰りの急行電車では一駅乗り過ごし、Uターンしたほどアルコール分が残っていたので、汗をかいてアルコールを抜くこともまた良しとしたわけである。年代を経て、落ち着いた風情の前栽に植えられた木や草花の周りは雑草や落ち葉で一杯である。分け入って、草をむしると柔らかな雑草は嘘のように簡単に抜ける。黒いビニール袋にどんどんと抜き取った草を入れて行くにつれて、庭は再生していく。美しくあるべきものが、その美しさを取り戻す、そんな助けをするということは、気持ちの良いものである。調子に乗って、前栽の掃除が終わった後、裏庭へと周り、のび放題の蔓物で長く伸びたランナーをたぐり寄せては抜いていく。巻き付かれていた本来の植生草花は、やっと巻き付かれた蔓の重みを脱ぎ去って、ほっと一息しているようである。そんなこんなで時間が過ぎると、黒いゴミ袋5つほどになり、又、不燃物も一袋集めた。最終の細かい手を入れるのは、又次回ということで、あらかたの作業を済ませ、明日のゴルフラウンドの調整にと打ち放し練習に行くことにした。かねてから、プラスチック製のゴルフスパイクがすり切れていたので、交換を頼むつもりで、新装開店した、高槻の「つるやゴルフ」に出かけた。3000円程でスパイクは交換出来そうだったが、調べて貰うと、ネジ部の山が潰れていたりして、一寸難しそうである。このシューズは、ドバイにいるときに急遽誘われてゴルフを再開したときに、一番安く、かつ一番小さい靴を購入した時のままである。スパイクの再生も中途半端であれば、一層新しく買うかという気になり、結局は、最新式のシューズを買う羽目になった。連れ合いも、息子からプレゼントされていたシューズが少し幅がきついとかで、広げて貰おうと持ち込んだのだが、出来ないことはないものの、道具を購入して、自分で広げるというやり方しかないようで、それも面倒だと、これも新しく購入することにした。未だ履いていない持ち込んだシューズを下取りという形で値引きを交渉し、気持ちだけ値引きに応じてくれたので、2人とも真新しいシューズを手にすることになった。スパイクの付け替えだけだと思っていたのが、とんだ散財となってしまったが、その靴を早速使おうと、打ちっ放し練習場に出かけた。今日は、連れ合いも長い間苦しんできた肩の痛みも若干和らいできたので、1籠程度は軽く肩慣らしのつもりで打った。私の場合は、5日前に3時間打ち放題で、散々練習をしていたので、今日は最後の肩慣らしと、2籠ほどを軽く打った。日頃は空いている練習場も、土曜日の午後となると大勢来ていて、狭い打席数の1階は空きがなかった。やむを得ず、2階に上がり、打つことにしたが、2階から打つということは、実際のコースの打ち下ろし感覚で、10-20ヤードは遠くに飛ぶように感じる。2階からのドライバーは向こうの端のネット上段まで飛ぶことがある。それも又気持ちの良いものである。明日のラウンドに向けて、大体の感触がつかめたので、練習を終わり、今日のスケジュールを一応済ませたということで、家路についたが、連れ合いも、数球打った感触では、余り肩に負担を感じられないということで、近いうちにラウンドしようと話ながら帰った。
2010.04.10
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4年間、一緒の教室で学んできた同期生の集まりがあった。この同期の会は、有ったというよりは、3ヶ月に一度定期的に曜日を設定して決まった場所に集まるというもので、ずっと続いているのだという。その時の都合で、誰も来ないかも知れないし、2人だけのこともあるのだという。要するに、日にちが決まっていて予約もなく都合の付くものが参集するという極めて自由な会なのである。私にとっては、昨年10月下呂温泉での同窓会に参加して以来の出席である。この会は、自由であるだけに、事前に確認とかが全くない。3ヶ月毎の第2金曜日ということと、場所が決まっているだけなのである。以前にその話はちらっと聞いたことがあり、この会にも過去1回参加したことはあるのだが、それ以降忘れてしまっていた。今回は、写真をよくする同期生が自らスペイン旅行で撮った写真を紹介した全員宛のメールの中に今日のことが書かれていたので気づいたわけで、それがなかったら又見過ごしているところだった。今日は、マスターズの開幕日である。昨日の「歩こう会」で20,000歩を越えて歩いた疲れもあってか、朝は、途中からマスターズの放送に気づいた。というのも、以前から自分の予定表の中には何故か14日が開始日と記入していたために見過ごしてしまったのだ。片山は出遅れているが、石川はかつかつ、池田も同様という感じの出だしである。さすがにタイガー・ウッズの活躍が気になったが、数ヶ月のブランクも殆ど感じさせないほどの快調な位置に付けている。中でも、トム・ワトソンは、60歳という年齢になってのラウンドを、技量でカバーする活躍振りである。トム・ワトソンはアーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーなど、ひところゴルフに釘付けになっていた頃の、若手で、帝王「ワトソン」と言われていたが、既に還暦を迎えているわけで、時の変遷を感じる。石川遼などは、19歳という若さだし、アマチュアで参加している選手等は未だ16歳とかで、自分も歳を取るわけだという感じである。マスターズを見終わって、連れ合いが学校に出かけているので、新聞などを読み時間をつぶした。また、190万年前の猿人の化石が見つかったという。この話は、また別の機会に勉強しようと思う。私は、人類の歴史についても興味を持っていて、個人的に新聞の記事などを収集したり、関連の本を買い求めては読んだりして、楽しんでいる。別に考古学者でもなく、何がどうであろうと、関係ないといえば関係ないのだが、宇宙が始まったとされる、ビッグバンとその後、こんにち、日本からは最後の宇宙飛行士が宇宙で作業をしている中、現在我々が生きているのは、その137億年前の宇宙誕生から、今アフリカで発見されたというヒトの一歩手前の猿人そしてホモサピエンスとしての現生人類と、極めて微視的なときに居合わせているわけである。人の一生というものはあっけないものだけれど、人それぞれに歩んだ数十年で、考え方も、趣味も違ってくるわけである。今回集まった中では、写真に凝っている人、俳句にはまっている人、まだまだ働いている人など様々である。今、未だ余韻で働いている人は、なかなか自分の過ぎし過去を振り返ることが少ないかも知れないが、もう上がりになってしまうと、いろいろなことが頭をよぎってくる。自分たちが、共に学んできた、「造船」についても、国家を支える基幹事業的な背景にある程度誇りを持って臨んできたわけだが、今や、韓国、中国などに生産量に於いても劣ってしまっている。それでも我々の時は良かったと思うと、誰かが振り返る。とにかく働く道はあったというわけだ。需給のバランスが取れていたのだろうが、今はその面影すらない。とにかく我々の時代はなにがしかのものを作って、それが国家の下支えになってきたと自負しているわけだが、現在では、他人の褌で相撲を取る如く、架空のお金を転がして、儲けようとの輩が増えてきたように思う。物作りも重厚長大から、軽薄短小へと進み、今では、扱うものも目に見えないものになってしまっている。かつては造船そのものも新聞紙上で取り上げられてはいたが、現在では、そういった内容は殆ど紹介されない。たまにあっても造船所での事故である。建造中の船舶の火災事故や、大型船の船尾ブロックが落下したとか、昨年初めには、建造中の造船所で、タラップが落下して死亡事故を起こすなどである。後は概ね、船主や用船サイドの問題と、輸送値段の外国との競合問題である。つい先頃も、「転換期を迎える海上コンテナ」という特集記事があった。一般の人にとっては、コンテナ船も、タンカーも、バラ積み貨物船も船であって、その違いは運ぶ物が違う程度の理解しか無く、構造的にどう違うかなどは、分からないし、問題とならないであろう。 リーマンショックという非生産的な金融の失策によって、世界中が大打撃を受け、海運でいえば、荷物の動きが激減した。正に「風が吹けば桶屋が儲かる」との逆で、「北京の蝶々」というカオス理論のように、北京で蝶々がはばたくと、遠く離れた、ニューヨークでハリケーンを引き起こす。といった現象が起こるわけである。コンテナ船は、コンテナを上から垂直に降ろすために、上甲板に巨大な開口が必要になる。もちろん航行の時にはこの開口はハッチカバーという物で塞がれ、さらにその上にもコンテナを3層程度積み上げるわけだが、この巨大開口があるために船体の「ねじり強度」が著しく低下し、昔は技術的に建造出来る国は日本にしかなかった時代があった。それが、今では、韓国でも、中国でも造る事が出来るようになったわけで、何処でも大量に造り出したが、リーマンショックで荷動きが減少し、それによるコンテナ船の過剰感から、削減を進めてきたわけだ。我々がしのぎを削って、高速コンテナ船を造り、3軸のコンテナ船で、40ノットという画期的な船を造り出したのだが、何と今やそれは仇になり、運行スピードを抑えて運用するなどの現象が起こっていたというのだ。そんなこともあり、何でも昨年1年間で廃船したコンテナ船の数は200隻にも達したという。市場原理の最たるものだが、景気が良く荷動きが激しいときには、大量運送手段である船舶は増強されるが、一旦不況になると、又ドラスティックに廃船して均衡を保つという具合である。昔私が造船会社に在籍した頃には、過当競争で、国内の造船設備が過剰となり、共倒れを防ぐために造船の設備そのものを削減したことがあった。鉄鋼が過剰供給になり、製鉄会社が高炉を休止するようなものである。こういった現象は、韓国、中国などの台頭で引き起こされた結果であり、今やアメリカ向けのコンテナ船の国別シェアは中国が断トツに多く70%を超えるというのである。日本は韓国よりも若干の優位を保っていたが昨年辺りで逆転される憂き目にあっている。続いて、10年前には歯牙にも掛からなかった、ベトナムのシェアが追従してきているというのだ。ベトナムなどの造船技術力は、日本が伝授したものであるし、正に今、軒を貸して母屋を取られるという状態が常態化しているのである。こんな事態になるとは思ってもいなかったが、時代の変遷というのはいかんともしがたいものがある。我々造船学科を卒業した同窓会でも、昔は良かったという話となるわけで「造船工学」という名の本があったが、そもそも造船工学などというものはなく、要素技術の総合化したものであり、韓国や、中国に追いつかれ追い越された今では、大学の学科名に「造船」なり「船舶」なりを残しておいたら学生は振り向かないということだ。いやはやという感じであるが、同時代に同じ道を志しで机を並べて学んだ者同士、会えばやはり懐かしいという感じである。
2010.04.09
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冬を挟み天候の加減で長い間、順延を重ねていた「歩こう会」が5ヶ月ぶりに決行の運びとなった。前回が、昨年の11月で、京都東福寺から智積院といった紅葉のコースだったが、今回の万博記念公園は、引き続き12月に催行する予定であったところ、雨天のため順延となり、1月、2月は寒いと言うことで、毎年パスをすることになっているため、3月に挙行される予定であった。ところが、3月4日万博公園の梅林をテーマに歩こうとの知らせを貰ったが、当日の雨の予報は変わらず、再び延期となり、今日の万博「桜祭り」となったわけだ。何しろ、「歩こう会」は11月の紅葉から、雪と梅を飛ばし一気に桜満開となったわけだ。「歩こう会」はずいぶん飛んだわけだが、その間に連れ合いとは、11月末に有馬温泉旅行を初め、1月は雪見で、鹿角・大湯温泉を巡る東北温泉旅行、2月には宮島・萩・門司・津和野を巡る宮島・萩・津和野旅行、3月には生まれて初めての「青春18切符」を使っての金沢は兼六園等をまわる日帰り金沢旅行、そして4月には「平成の大修理」前の姫路城をバスツアーで訪れている。今年は、存分に桜を見ている。今日はたまたま、連れ合いは入学式で、外せないということで、私1人が参加することになった。万博記念公園を訪れるのはもう4年も前になるだろうか、冬に連れ合いの教え子が万博公園を周回するマラソン大会に出るというので、応援に出かけたことがあるくらいだ。その時は冬ということもあって、花などは咲いてなく、日本庭園も立ち枯れた寂しそうな感じであったことを思いだす。そういった印象もあり、私はさほど万博公園には期待をしていなかったのが実のところである。先頃「エキスポランド」は、経営がずさんとかで、廃止となり、今は、農園にするということらしいということも聞いていた。今日は、朝から存外よく晴れて、むしろ快晴に近い行楽日和となった。10:00にモノレールの万博公園前に集合ということだったが、連れ合いが早めに学校に出かけるということで、一緒に家を出た。南茨木でモノレールに乗り換えるのだが、モノレールに乗るのは今回が2回目のような気がする。モノレールは、南は、門真の方まで行き、万博公園の先は、大阪伊丹空港へ繋がっている。万博公園駅からは、別途、阪大病院を経て彩都の方まで線が延びている。南茨木から万博公園までは、たった2駅であるにもかかわらず、240円と結構高い。そして到着時刻は、集合時間より1時間以上早く着いた。モノレールの南茨木駅もそうだが、万博公園駅内もゆったりと作られていて、休憩するテーブルや椅子はふんだんにある。持ってきた本を読みながら時間をつぶした。モノレールは文字通り、線路に相当するのはコンクリート製の1本の高架路である。万博駅の近傍は、その線が、4本入り組んでいる。どうやってクロスするのかを見ていると、クロス部の鋼製線路が回転するように出来ているのだ。初めて見るモノレールの転轍部に感心しながらしばらくすると、三々五々メンバーが集合した。今日は、女性方の参加が少なく、常連の人たちも用事があるとかで参加者は13名で、内女性は2名だけだった。中国自動車道を高架で跨ぐ橋を渡ると万博記念公園の正面玄関である。入場料は250円だという事だが、何故か、JAF(日本自動車連盟)カードを持っている人は1枚に付き5人まで50円引きだという。私も、連れ合いのカードを預かっていたので200円で入場出来ることになった。何故、JAFと関係があるのか分からないが、このような特典は各所にあるらしい。10時の公園は未だ早いのか、人影はそれほど多くなかった。「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎作の「太陽の塔」は最近、万博開催40周年を記念して夜短時間点灯するということで、目にはサーチライトのようなものが見えた。入場の際に、ガイドマップを貰ったが、太陽の塔を右に回り込んで、東大路という通りに出ると、そこは、桜のトンネルであった。正に満開の桜が道の両側に咲き誇り、通りの長さは2-300mはあった。その桜トンネルを往復し、庭園を西の方へ向かうと、途中は一面のチューリップ畑で、一部遅咲きの品種を除いて満開の状態であった。中には「モンテカルロ」という黄色い八重のチューリップもあり、チューリップにも八重があるのかと初めて知った。そこをさらに西に行くと自然観察学習館があり、無料ということで中に入る。そこには、私が子供の頃には近くの田んぼや小川に住んでいたごく自然な生き物が展示されていたり、飼われていた。「メダカ」「トンボ」「アメリカザリガニ」等々である。今の都会の子供達は、こういった生物を自然界で見ることは出来なくなっているのだということを改めて知った。出口には、自分の背丈を超えるヘビの抜け殻が展示されていた。そこを過ぎ西の端の花の丘は、小高い丘になっていて、数々の色のポピーが群生していた。中にひっそりと咲いているうす水色に真ん中が白の可愛い花があり、先輩の奥さんが名前を聞いていたが、帰るまで覚えていたのに、もう忘れてしまった。しばらく鑑賞の後に、北に向かって、園を西の端に沿って歩く。そこは、第二森林の試験場所とか書いてあり、うっそうとした、花の気配のない場所だった。灌木の幹に「?」マークがあり、その前には、「この木は何の木?」という問と、ヒントが書いてある。ヒントをくれても分からないものは分からないと思っていると同行した人が「パネルをめくると名前が書いてありますよ」と教えてくれる。なるほど、アルミ製のカバーを開けると、名前が書いてあるではないか。これは良いアイデアだなと思いながら、次々とめくって歩いたが、殆どどれがどの木だか分からなくなってしまった。北西の外れの「春の泉」という場所は、人口の流れと桜、そしてそこは広場となっていて、昼食を採った。連れ合いが昨晩丹誠を込めて作ってくれた、にぎりめしとさらに別のおかずの箱を開いて食べ出したが、「食べ過ぎないように残していいよ」といわれていたが、あまりのおいしさに全部平らげてしまった。同行の女性が「こんなところで食べると一層おいしいですからね」という言葉に全く同感だ。しばらく休憩して、国立民族博物館の横を回り込み、日本庭園に入った。しばらく話していて、カメラがないのに気づいた。「しまった!落とした。」と気づいて、先輩に先に行って貰うように伝え、一目散に、さっき弁当を食べた後、ゴミを捨てた場所まで帰ってゴミと一緒に捨てたのかと探していると、そこに座っていた老夫婦が、「さっき誰かが持って行かれましたよ、届けられているのではないでしょうか」ということだ。又再び小走りで、日本庭園前の駐車場の事務所で聞くと、何と届けられていた。やはり「日本は良いなぁ」と思った。過去、海外で、カメラや、携帯電話、果てはボールペンまで落としたことがあったが、一度も帰ってきたことはなかったからだ。心配してくれた同行者と合流後は日本庭園をほぼ1周し、次のシーズンのツツジの丘や花菖蒲田を回り込んで、日本庭園をほぼ1周して出た。そのまま東口ゲートまで歩いて、一旦解散し、それから、園内で開かれている余り良い物を置いていない「全国陶器展」を冷やかしながら、最初の東大路の桜トンネル道まで帰ってきた。ほぼ、万博記念公園を1周したことになる。来たときには、人影もまばらだったが、帰りには見違えるほどに多くの人たちが訪れていた。もと来た道を万博公園駅まで歩いて、そこで本格的に解散となった。万博公園に対するイメージが全く違った1日だった。快晴でもあり、各所に時期をずらして、四季に咲く花を配置してあるので、1年中(冬は駄目かな?)楽しめるようだった。連れあいが来られなかったことは残念だった。
2010.04.08
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今日は、いつもNHK講座とは別で単発の美術講座を連れ合いと受講した。「名画の見方・読み方~ルノワール」というもので、この度、4月17日から大阪・中之島の国立国際美術館で開催される「ルノワール」展があり、それを事前に講義で聴いておこうとする目論見である。講師は、京都大学の準教授で、現在、大山崎のアサヒビール大山崎山荘美術館で開催中の、カミーユ・コローの「大農園」について、日経の「美術逍遙」で解説をしていた人だ。コローは、印象派に先立つバルビゾン派に属する数少ない画家であるが、後で聞くと、大山崎美術館には、「大農園」1作品だけが来ているとかで、見に行く必要もないかと思った。さて、今日の主題のルノワールは印象派に属してはいるが、中でも比較的若手に入る年齢である。丁度我々よりも約100年前に磁器産業で有名なフランス中部の都市、リモージュで生まれたということだ。父は仕立屋、母はお針子という間に生まれ、子供の頃から、磁器の絵付の仕事などをしていたが、産業革命により、それらが全て機械化されたことにより、ルノワール自身失職することになる。そこで、画家の道を選んだということであるから、ここでも「人間万事塞翁が馬」ということかも知れない。ルノワールは几帳面な性格で、規則正しい生活の中で絵を描き続け、生涯に3000点とも4000点ともいわれる数多い作品を残したのだという。フェルメール全37点といった寡作に比べると、如何に絵を毎日描き続けたかということがわかる。(途絶すると腕が鈍るとかいったそうだ)21歳の時に絵の道に入り、78歳で亡くなっているというから、その間約60年弱である。少なめに見積もって、3000点を描いたとすると、1年間に50もの作品を描き続けたことになる。脇目もふらず1作を1週間で描いたということになり、本当かなと言う気がする。それはさておき、彼の几帳面さは仲間の中でも、つとに有名で、1日の作業が終わるとパレットも、筆もテレピン油で綺麗に掃除するということで、ゴッホなどのパレットと比べたら、相当に几帳面だということのようである。得てしてこういった真面目で一途な人間は、暗く、お宅っぽい感じを受け、精神的にも弱さを想像するが、ルノワールの場合は、全く逆で、貧しい中で、生活に行き詰まり、ピサロや、モネが自殺まで考えたというのに、彼は、終始陽気で、明るく振る舞ったのだという。そういわれてみれば、暗い陰湿さを感じる作品は彼の中に見たことがない。モネの「日の出」に代表される印象派は、それまでの、サロンと呼ばれる伝統的絵画の展覧会に出品するものの、なかなか評価が得られなかったようである。他の印象派の仲間との付き合いは良く、友人を大切にし、モネなどとは特に親しかったようである。ルノワールの場合は、過去と断絶して印象派の路線をまっしぐらというわけでもなく、伝統をも重んじていて、サロン出品にはサロン用の絵画を描き分けていたようである。画家の登龍門である、サロンに出品を許されること、そして自分の絵が、見に来る人の目に付きやすい所に置かれることなどは、当時の貧乏画家にとっては、大変重要なことであったようだ。印象派では、モネは風景を主に描き、ドガはパリの街の女性労働者に焦点を当て、シスレーはもっぱら風景画を、そして、気むずかしく、人嫌いのセザンヌは特異として、ルノワールは、花や静物画も描くものの、職人気質という育ちから、人間を大切にし、社交的で明るい複数の人たちを描いた作品が多い。この点ゴッホなどは、一人の人間は描いても、複数の人は描いていない。人を求めるのだが、激情が過ぎて、協調出来なかったということのようである。エミール・ゾラをして「ルノワールは人物画の画家である」という評されたほどである。こういった風に、ルノワールの交流関係は広く暖かかったようで、モネ、シスレー、バジールなどと知り合ったことで、自らの未来をより良い方向に切り開いている。長身で、好男子のバジールのアトリエで、仲間が集まることや、バジールによるルノワールの目つきの鋭いルノワールの肖像画からは、少し想像出来ない感じを受ける。ルノワールはまた、サロンに出品する為に古典的ローマ神話の「狩りをするディアナ」を描いているが、サロンの審査員たちが望む表現とは違い、女神ディアナの肉付きが良すぎて、健康的で豊満な裸体表現や、射られた鹿の生々しい描写などの独特の表現手法であった為、サロンでは落選の憂き目にあっている。その後、客から、その作品の中の鹿だけを切り取って売ってくれといわれて、断ったという逸話も残っている。逐一説明を受けた絵画を全てここに描くことは出来ないが、ルノワールの「カミーユ」とモネの「庭にいる女達」との筆使いや色彩の対比など、いつも行動を共にした彼らも、光から受ける印象はそれぞれ別の個性で表されている。「ラ・グルヌイエールにて」を描いたルノワールとモネの作品はルノワールが人を大切に描いているのとは対称的に、モネは水面に光る水を強く意識しているなどである。 色彩の画家といわれたドラクロワを好んだルノワールはサロン出品用にアラブ風の絵画「オダリスク」や「アラブの女達」を表したが、片方は入選したにもかかわらず、片方は落選するなど、当時のサロンの評価も一定していないという印象だ。モネの有名な「ひなげし」に対応する作品でも、ルノワールが「草原の坂道」として描くと、草いきれが漂うような感じに表現されて、また違った味になるという具合である。人物画の多いルノワールの作品としては一寸感じが違う。裸婦をよく描いたルノワールであるが「陽光の中の裸婦」は裸婦に射す陽光の木漏れ日を裸婦と、背景の調和として描いているが、当時の評論家に「これは完全に死した肉体の状態を示す、紫や緑の斑点が浮き出た腐敗しつつある肉の塊である。」等と酷評を貰っている。役人でありながら美術を愛好するショケ、この人の肖像画も、ルノワールとセザンヌでは全く違った雰囲気になる。モンマルトルのアトリエで描いたとされる、「ブランコ」には柔らかい暖かみのある人間関係が描かれており、フラゴナールの一寸ふざけた「ブランコ」との対比はおもしろい。ルノワールを代表する作品として「ムーラン・ド・ギャレット」があるが、当時パリに編入されたばかりのモンマルトルの田舎の片隅で、労働者達が憩う様を、実際よりも賑やかに描いている。ルノワールは可愛い女の子を描くことも多い。あどけなく可愛らしい女の子は、ルノワールにとって、格好の題材だったのだろうか。中でも「 イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」の清楚さは、誰にも真似が出来ないといった風である。また、マネの弟ウジェーヌとベルト・モリゾ夫妻の9歳の一人娘を描いた「ジュリー・マネ」の猫を抱くのどかで穏やかな表情からはブルジョワ家庭の落ち着いた様子が垣間見える。その他「レースの帽子の少女」や、ルノワール初期の作品である「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」等の清楚さも素晴らしい。可憐さを描くかと思えば、放漫な裸婦を描き、のどかな風景も描くというルノワールのオールラウンドな作品と、彼の人となりを聞いて、なんだか暖かな気持ちになる講義であった。サロンで高く評価され、そのために、多くの注文を受けることになった「シャルパンティエ夫人とその子供たち」はルノワールを豊かにした。さらには、「舟遊びをする人々の昼食」は彼ならではの作品であろう。そして、ダンスシリーズの「ブージバルのダンス」「田舎のダンス」「都会のダンス」なども落としてはならない彼の作品である。最後に、画商で、美術に理解があり、貧しい画家を支援した「デュラン・デュエルの肖像」は印象派の画家をこよなく理解した人として忘れてはいけないと思った。
2010.04.07
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「人民元改革と政治」と副題がついた日経のコラム記事が3日にわたってあった。もとより、経済音痴だから、詳しい裏のことまでは分からないが、超大国アメリカが、新興国中国に対して、極端な貿易赤字を解消しようと人民元の切り上げを迫っていることなのかと理解した。アメリカは、人民元が不当に割安に抑さえられているといい、中国は、人民元の相場は決して過小評価ではないと真っ向から意見が食い違っている。ここで分からないのは、資本主義の建前は「自由経済」で「市場原理」に基づくものであることとの関係である。アメリカが中国に求めているのは、為替の面でも「市場原理」に任せよと言うことなのだろうか。実質的には、イデオロギーが違う時代は終わったと思われるが、「共産」国の独裁的志向は未だに変わっていない中国である。そして、今や「新興国」とは名ばかりの経済大国になったわけで、その影響するところは強大である。中国は2枚舌を有効に使っている。「核」を保有し、国連でも安全保障理事国として「拒否権」を行使出来る大国でありながら、経済の面では、日の当たらぬ(当てぬ)内陸部の貧困を前面に出し、ODA等では対日被援助国となっているわけだ。アメリカの国債保有高でも、ついに日本を抜き、8890億ドルという超債権国となった。これに香港が保有する1466億ドルを加えるとゆうに1兆356億ドル(約98兆円)を超えるとてつもない額である。これは、日本の国家予算に匹敵する膨大な額なのである。そこでアメリカがいらだつのは理の当然であろう。4半世紀前のプラザ合意で、日本を相手にしたときとは環境が違うからである。当時日本は、たったの20分ほどで、円高を容認させられたわけで、フランスのフランが切り上がったのは、元々高めであったのが是正されただけで、日本のみが割を食うだまし討ちのような合意であった。今回の対中国はそう簡単にはいかないのであろう。中国は「市場経済原理」を導入していながら、政治的にはこれを「統制」し、また「統制」し得る国家なのである。正に経済戦争に突入する寸前である。戦争になれば、困るのはどうもアメリカの方らしい。しかし中国側にも弱みはある。実質的な、為替価値では2005年に1ドル=8元台半ばだったのが、5年後の現在は、1ドル=6.85元前後と約2割程度切り上がっているということだ。損切りではないが、ここで中国がアメリカ国債を全額手放すと仮定すると、約2割の損であるから、20兆円程度の損失となり、そう簡単には手放せないという構図になっているわけだ。この意味では、アメリカの、負けるが勝的な感覚である。そうは思っていないだろうが、「売れるものなら売って見ろ」ということかも知れない、等と考える。日本の持つアメリカ国債も8000億ドルに迫るわけだが、日本は、ほぼアメリカの言いなり(よく言えば、親密な友好国)であるから、アメリカとしても余り気にしていない。というか、プラザ合意の時も簡単に丸め込まれているわけで、日本与しやすしの感はどうしても拭えないわけだ。日本は外交下手というか、外交感覚の欠如している国だとよく言われるが、テレビなど数多出てくる経済学者もどきの連中も、日本の国策を左右する程までは優秀でないのかと憂うる。「眠れる獅子」といわれ、戦ってみたら案外そうでもなかったという、満州系の「清国」とは違う漢民族であるから、したたかさは、それ以上で、とにかく「自尊心」だけは異常に高い民族性である。この意味で、アメリカから、「通貨改革」を迫るのは得策でないとアメリカ側も承知している。その点は対日本のようには容易にいかないだろう。この辺からの駆け引きが私などにはとうてい分からないが、アメリカは中国を「為替操作国」に認定するか否かの判断を先送りしたという。いわゆる手みやげというのか、胡錦濤がアメリカを訪問する際に中国側の譲歩が得られる見通しが憶測されているからのようだ。どういった計算式なのかよく分からないが、アメリカの政治筋は「中国との不利な貿易の結果、2001年から2007年までに230万人の雇用が失われた」としている。この失業者数の内訳で、最大の影響を受けたのが、カリフォルニアの37万人、テキサスの19万人、ニューヨークの14万人だという。これに対して、中国も、今、人民元を切り上げると、相当数のリストラが必要になり、中国の曰く「アメリカが200万人の失業者に焦るのは分かるが、中国では職を求めている2億人がいる」といった按配だ。これが中国独特の、2枚舌のレトリックであるかどうかなのである。こういった時に中国は必ず「新興国」を前面に押し出す。私などから見れば、極端な経済格差をもっと是正し、ほんの少し、中国独特の「共産」の「統制」を利かせれば、雇用などは即座に改善されるとは思うのだが、そういったときには「市場経済」が前面に出てくるわけである。このように人民元は徐々に力を付けてきている。表向き人民元の国外流出を禁止し、特定国に限り流通を認めている人民元が、闇ルートでは市場に出回っているというのだ。ドル基軸に慣れたアメリカはこれに対して警戒感を強めている。また人民元が過小評価されているのに付随して、マレーシア、シンガポール、台湾などの通貨も実情より安く抑えられているというのだ。アメリカは貿易不均衡で一時日本をバッシングしたが、プラザ合意の時点で、アメリカの対中貿易赤字が600万ドルであったものが、24年後の2009年には2268億ドルと約3万8000倍に膨らんでいるのだという。一方その間に対日貿易赤字は3%縮小しているというから、如何にアメリカにとって対中政策が重要であるかが分かる。中国は、かつてのプラザ合意で、日本が詐欺的に円高を容認させられたことを教訓にして、したたかな計算をしているようだ。その点について、中国は「日本は経済の巨人だが、政治上は(アメリカ)から独り立ちしてなかった」と評しているが、耳の痛い話である。今「21世紀の基軸通貨」というシリーズの「ゼミナール」が日経紙に連載されている。それによると、覇権国と基軸通貨の変遷という内容で、14世紀から現在までの、世界の覇権国家と、基軸通貨について述べられているものがあった。それによると、覇権国―年―(期間)―基軸通貨の順で記載すると、 覇権国 年 (期間) 基軸通貨1. ベネチア 1381~1494年(113年間) ドゥカート金貨2. スペイン・ポルトガル 1494~1609年(115年間) 多種の金銀貨3. オランダ 1609~1713年(104年間) バンコ・グルテン4. イギリス・フランス 1713~1815年(102年間) ポンド、リーブル5. イギリス 1815~1919年(104年間) ポンド6. アメリカ 1919~ ( ?年間) ドルということであり、これによると、およそ基軸通貨は、100~115年程度で変わっているという規則性が見られる。この事から、1919+100=2019年、即ち、あと10年足らずで、基軸通貨が変わってもおかしくないということである。そしてその基軸通貨は、円でも、ユーロでもなく、ひょっとしたら人民元であるかも知れないのだ。
2010.04.06
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日経新聞に北緯23度アジア新経済帯(新たなフロンティア)と題するコラム記事があった。昨年夏頃から北緯23度新経済帯の話が出てきていた。北緯23度に沿って香港、ダッカ、コルカタ、マスカットなど交易拠点が位置するというものである。これらの背後には人口密集地域が控えるという点が共通しているという。それらが、交通や情報手段の発達で北緯23度の線に沿って横につながり、アジアから今ではアフリカにまで通じる広域経済帯を形成しつつあるのだ。余談だが、緯度で思い出すのは、朝鮮戦争中の38度線というラインだ。第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインであり、今も解決されないまま、北緯38度線は南北朝鮮を分断している。北緯何度とは関係ないが、韓国の李承晩は、朝鮮半島周辺(最大200マイル)を一方的に主権が及ぶと勝手に「海洋主権宣言」することにより、水域内に存在する、すべての天然資源、水産物を利用する権利があると一方的に主張した。子供心になんたる横暴と思ったものだが、未だに竹島問題等、未解決のままになっている。韓国という国は、過去の戦争で被害者側からの訴えは声高であるが、実際に不法に占拠した李ラインによる竹島は自分の領土といって憚らないのである。韓国といい、中国といい、こういった面での厚顔さは日本人の及ぶところではない。また、北緯50度線は日露戦争後のポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有するとした人為的なものであったが、その後国境紛争も起きていた。しかしながらいつの間にかソ連(現ロシア)に組み込まれており、北方領土は、不法にかすめ取られたまま、未だに解決を見ず、ロシア側のカードになってしまっている。日本は、国境に関する観念が希薄であり、おおらかというしかない。領土の狭い島国の日本の方が、もっと真剣に訴えても良いところなのに、大陸国であり、存分な領土を保有しているロシア(ソ連)側の方がこういったことに敏感なのは歴史感覚の相違かも知れない。こういったように、宇宙から見た地球には国境はないにもかかわらず、人間は勝手にモザイク模様の線を引き、いがみ合っているわけである。今回の、北緯23度新経済帯については、若干意味合いを異にする。北緯のベルトで見て地球上の23度線近傍の経済発展が顕著に動き出したということで、これは国境を越えての話である。広東省は香港の北にある中国一の工業地帯であるが、ここも北緯23度近辺に位置する。北緯23度から20度の間を西に進めばベトナム、ラオス、ミャンマーがあり、インドに抜ける。山岳地帯が続き、産業には不向きとみられてきたが、香港・広東から始まった経済発展が山間部の谷間に興った産業拠点と結び付いて、薪たな経済帯を形作りつつあるというのである。このように、台湾から、香港・広東を起点としてヒト、モノ、カネ、技術が北緯23度線上を伝搬して、東西に経済地帯を広げているわけだ。昔から、南北問題は貧困の問題として使われてきた。先進資本国と発展途上国の経済格差をめぐる問題で、気がつくことは、豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから南北問題は貧困問題を論ずる代名詞となってきたわけだ。この北緯23度は北の先進工業国と、人口が密集する南の新興国の境界ベルトにあたり、北の経済情報と南の労働力が融合しやすい地域ということであるようだ。農産品が主な輸出物である南の国は、先進国の近代化によるコスト安の農産品に取って代わられ、北を富ませ、南を疲弊させていった。衛星写真で撮ったのであろう、宇宙から見た夜の地球の写真がウィキペディアにあったが、白く輝き(電灯がともる)光っているところは、ヨーロッパ、アメリカの東西海岸、それに日本といったところで、他は、漆黒の闇のようである。例外的に、リオ、南アそれにサウジアラビアの東西両海岸沿いには白い点が多く見られた。冒頭の香港、バングラのダッカ、インドのコルカタ、そこから、オマーンのマスカットのラインが続いてアフリカにまで達し、スーダンのハルツームにまで及んでいるという。もちろんオマーンのマスカットからハルツームに至る間には、ソハールやドバイ、そしてカタールのドーハやサウジアラビアの東西海岸なども存在する。このところ、BRIC’sの中国、インドが、手を携えるように、アフリカ諸国に進出しているようだ。決して、質の良いとは言えない中国製品をインド商人が貧困の民に売りさばくという構図だ。インド系の製薬会社は、エチオピアのアジスアベバに進出しているという。アジアの人口は、現在39億3800万人で、世界人口の60.4%であり、2050年には52億6600万人に増加すると見込まれるが、世界人口に占める割合は約57.3%とわずかながら低下する。一方で、アフリカの人口は2005年に9億2200万人だったのが、2050年には2.2倍の19億9800万人になると見込まれ、世界人口に占める割合も14.2%から21.7%へと急増する見通しだ。これに比して、北部アメリカは3億3200万人から4億4500万人へ、ラテンアメリカ・カリブ海諸国は5億5800万人から7億6900万人、オセアニアは3300万人から4900万人へそれぞれ増加はするのだが、世界人口に占める割合はそれぞれ5.1%→4.8%、8.6%→8.4%、0.5%→0.5%とさほど変わらないという見通しが出ているようだ。さらに、出生率が低下しているヨーロッパは現7億3100万人から6億6400万人へ人口が減る見通しで、割合も11.2%から7.2%へ縮小するようだ。日の没することのない国(大英帝国)が惨めな姿になる日が来るかも知れない。そして、この先、アフリカが、地球における良好な市場になることは、間違いのない事実だろう。目をラテンアメリカに投ずると、北緯23度は丁度メキシコシティー辺りを通っている。メキシコは不安定な政情がいつまで続くか分からないが、中国やフィリピンからの企業の進出が始まっている。中国人は何処へでも行くから、驚かないまでも、フィリピン人は旧宗主国がスペインであったこともあり、スペイン語が話せるという人たちもいるので有利なようだ。再び地球を周り、元に返ると、東南アジアのメコン流域開発や、メコンーインド経済回廊なども着々と進んでおり、次第に発展する勢いが感じられる。水は高きから低きに流れる。私が関係していた造船も、世界一の座を韓国に譲り、それが中国へと渡り、やがては、東南アジアから、アフリカなどの国々に移るのではないだろうか。「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズは、人に優しく、福祉などの充実を意味しているつもりだろうが、ただ、今の日本は「コンクリート」=大型プロジェクト(これによる雇用創出)を断念しただけで、必ずしも「人に優しい」所までは及んでいない。日本もこういった海外プロジェクトに打って出てはいるが、政府は民間のこととして概して冷ややか、不干渉である。手をこまねいていてはじり貧になるのは間違いなく、人に優しくしようと思っても、紙くず同然の国債だけが残って、優しくするお金がないという事態になるのを憂うる。
2010.04.05
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NHKの番組で、ルワンダを特集していた。私は、軽いショックを受けた。ルワンダといえば、すぐにジェノサイド(大虐殺)を連想する。ところが、今日のルワンダには、復興に向けて前進している力強いアフリカの一面を見た。ふと、何の気は無しに、今のままの日本では、世界から遠く置き去りにされてしまうのではないかと日頃からの思いがよぎった。日本人でどれだけの人がルワンダのことを知っているのだろうか、また、民族対立とか、大虐殺に関して知っているのだろうかといったことを考えた。ルワンダという国についてもう少し詳しく調べてみた。放送では、四国くらいの面積だというが、もう少し広く、四国に熊本県を足したくらいの広さである。そこに今、1000万人弱の人が住んでいるのだという。この人口は、2008年のデータというから、現在はまた、少しずつ増加していると思われる。四国と熊本県を合わした人口密度は約224人/km2なのに対して、ルワンダは約380人/km2と日本の四国の人口密度よりは、遙かに大きな値であり、70%も混み合っているということになる。そもそもは、この過密人口が原因で虐殺が起きたという反面もあるようだ。尤も、人口密度を大都会、東京や大阪などと比べても何の意味もないが、日本でいえば、丁度奈良県の人口密度に等しいくらいである。このように、ルワンダはアフリカ大陸の中央にあり、西にコンゴ民主共和国、北にウガンダ、東にタンザニア、南にブルンジと国境を接している。アフリカの中でも国土が狭く、アフリカ大地溝帯の一部をなし、平均標高2,740mの中央高地から東斜面に向かいなだらかに平原、沼沢地、湖へと標高が低下する「千の丘の国」と呼ばれる国である。国自体が高地であるため、正に赤道直下でありながら、温暖な気候で居住に適しているとともに、首都キガリ以外は草地で、丘陵に小農場が分布している土地が肥沃で自然環境も豊かなのである。テレビで見る限りでも、緑豊かな自然は、居住に適した感じに見える。しかし、この国は、1948年に180万人であった人口が1992年時点でもその4倍を超える750万人にまで増加し、今では1000万人に達しようとしている訳で、アフリカで最も人口密度の高い国となっている。従って、農地などの土地不足の問題が発生し、加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況に迄になっていた。歴史的にも、この国は元々、ツチ族とフツ族の2つの民族が平和裡に共存していたが、西欧諸国の植民地政策に巻き込まれ、第一次世界大戦終結まではドイツ領東アフリカであり、以後はベルギーの委任統治下に置かれるという大国に翻弄されたブラックアフリカの1つである。ベルギーは少数派ではあるが、背が高く、鼻筋の通った、ツチの方が民族的優位にあると決めつけ、自らの支配する中間支配層に組み入れ、フツ族を管理する立場に決めてしまった。虐げられた多数派のフツ族の不満も高まり、当時の国王の死を契機にツチ族とベルギー当局の関係も悪化し、闘争を経て、やがて共和制樹立し1962年独立に至る。フツ族の永年の鬱憤は年を追う毎に高まり、クーデターなどで反ツチ色が強められ、1990年にはツチ族のルワンダ愛国戦線が組織されルワンダ紛争と呼ばれる内戦がおこる。一旦は和平に合意するが、フツ族出身の大統領が暗殺と思われる航空機事故で死亡したことを契機に対立が再燃した。この間に、暴徒化したフツ族によって、約80万人から100万人のツチ族が殺害されたとみられている。またこの時、大量ツチ族は難民として近隣諸国に流入し、国際問題となった。特に隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ政権はこのため崩壊した。このように、ベルギーの植民地政策に端を発したルワンダ紛争は、ツチ族のフツ族に対するジェノサイドや非人道行為、フツ族の復権によるツチ族への報復虐殺など、国内の民族同士が、血で血を争う結果となったわけだ。少なくとも私の認識は大筋でここまでだった。私の知るジンバブウェでは、黒人政権ムガベの横暴で、ハイパーインフレを引き起こしているのはつとに喧伝されるから、同じようにルワンダも未だに内戦の影響をもろに受けた、後遺症で苦しんでいると理解していたのだ。ところが、ルワンダ紛争時のルワンダ愛国戦線司令官であり、現ルワンダ共和国のカガメ大統領の政策よろしく、大復興大発展を遂げているという。いがみ合っていた当時は、ツチ族もフツ族もその出自民族を示すIDカードを持たされていたが、現在では、その区別を示す項が消えていると、誇らしげにインタビューを受けている「ルワンダ国民」が居た。フツ族の報復により難を恐れ海外に「ディアスポラ」(離散)したツチ族の人たちは、日本を含め、世界各国に於いて新しい技術や能力を身につけ、今続々と帰国しているという。政府が示す首都キガリの青写真と模型を見る限りでは、ここがアフリカかと思わせるような将来像が描かれている。今、アフリカでも最も悲惨であった国が、アフリカで最優等国に生まれ変わろうとしているのである。海外にディアスポラしたツチ族達は、頭脳と資産を持ち母国に帰還して、再建に取り組んでいるという。国民の80%以上を占めるフツ族には、農民出身者が多く、20年近く前の恐怖を引きずり、未だにツチ族に打ち解けられない人たちも大勢いるようだが、地道に国内を自らの手で統一しようという気概は素晴らしいものがある。日本も、ODAの無償援助などで、難民支援、食糧援助、保健・医療、電力、農業、輸送などの分野での技術協力等を行っているが、いち早くこの国に乗り込んでいるのはやはり中国であり、インドである。今やBRIC’sの時代であることがここでも明らかになっている。日本の与えるのだというODAのあり方も考え直す時期に来ているのではないだろうか。因みに、2007年時点で「中・高等教育の無償化」の条項を留保していたのは、ルワンダとマダガスカル、日本の3ヶ国だけだったそうだが、2008年にはルワンダはこの留保を撤回している。日本は今年やっとこの点でも追いつきそうな気配であるが、その現実を知らなかった私には、日本という国は一体何を目指し、何を大切だと思っているのかということを改めて感じざるを得なかった。ルワンダの中心的産業は農業であり、労働人口の約9割が農業に従事しるが、アフリカ大地溝帯に位置するため、海嶺型の鉱物資源のスズやタングステンまた金や天然ガスを産出する。従って、現在、輸出に於いても、鉱物資源のウェートが大きい。ここに、海外からの帰還者が、南部のチャンググ県に於いて、ツチ族とフツ族が共同してコーヒーのプランテーションを作り世界に輸出しようとの話である。フツ族の土地で、フツ族がコーヒーを栽培し、海外で輸出ノウハウなどを有するツチ族が工場を建て輸出するなどして、利益を折半にしようとしているのである。そして、ルワンダの最も重要な作物であるコーヒーの輸出で国を富ませるのと共に、ツチ族とフツ族の融合を図るという理想的な解決方向に向かっているのである。アフリカ大陸の丁度真ん中に小豆ほどに見える小さな国が、今、大変革を遂げようとしている。西欧列強の利己的な政策に翻弄されながら明日を気づこうとするルワンダに拍手を送りたい。一方では、ジンバブウェの強権暴政、セネガルでは、国民の飢えをよそ目に25億円も掛けて、銅像を建てるなどの暴挙、スーダンでの混乱等々、為政者によって、かくも変わるものかという印象は強い。振り返って、一体日本は何をやっているのだと他のテレビ放映番組を見る度に内心忸怩たるものを感じるのは私だけだろうか。
2010.04.04
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現在マンションは、非常階段の修理と言うことで、ペンキを塗り替えるなどの作業に入っている。防音カバーを巻いて万全の態勢でやっているようだが、元々音は、空気を媒体として伝搬する空気伝搬音と壁などを伝搬する固体伝搬音がある訳で、巻き付けられた防音と書かれたマットは、そのうちの空気伝搬音を多少は軽減する働きがあるのかも知れないが、個体伝搬音を軽減するものではない。と言った屁理屈はどうであれ、業者の単なるポーズという程度の効き目しかないようだ。私の部屋は、この非常階段のすぐ近くなので、とてもうるさいと言うことだ。ペンキを塗り直すには、下地処理が大事であり、その作業を「ケレン」という。私が造船にいた頃には、この「ケレン」という語源は、「Clean」であるということを聞いた。下地を綺麗にしてペンキをより鋼材面に付着しやすくするための重要な作業である。造船時代によく言った冗談に、「年増の厚化粧」というのがある。これは、如何に高級な化粧品(ペイント)を使っても、年増のように素地が痛んでいるところに塗ったのでは、どんなにペンキの厚さを増してもすぐはげ落ちるし、効果がないという意味だ。そのために下地処理(ケレン)作業は念入りに行わなければならない。正にそれを現在やっているわけで、その音のすさまじさたるや、たまったものではない。土曜日くらいは休むのかと思っていたが、何のその、朝9時から作業が始まった。途中一寸した休憩時間があると、世の中はこんなに静かだったのだと思うように少々の音などは気にならないくらいに静かに感じるようになる。そういうわけで、今日は連れ合いと、脱出を試みることになり、ついでに映画でも観ようかと言うことになった。それが「シャーロック・ホームズ」である。「シャーロック・ホームズ」はイギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルが生み出した、架空の探偵であり、いろいろな事件を解決する名探偵である。日本で言えば、横溝正史の作り出した、「金田一耕助」のような存在であろうか。また、アメリカの小説家エドガー・アラン・ポーの探偵「オーギュスト・デュパン」とも比されるかも知れない。そういえば、「オリエント急行殺人事件」で有名な、アガサ・クリスティによる「エルキュール・ポアロ」に相当するのかも知れない。このホームズは名探偵達の元祖的存在なのである。私も、「緋色の研究」や「四つの署名」などで、昔はよく読んだが、最近では、推理小説もとんと読んだこともなく、既に読んだものでも内容までは覚えていないのである。とにかく、「シャーロック・ホームズ」の属性的なことだけは、何とか頭の片隅に残っているという程度だ。彼は、天才的な観察眼と推理力を持つ私立探偵であり、ロンドンのベーカー街のアパートで、相棒のワトスン医師と共同生活をしていたという設定である。日本で今人気番組の「相棒」のように上司と部下という関係ではなく、対等な関係での「相棒」であるが、私の覚えている限りでは、ホームズの方が、ワトソン医師をリードする感覚であるが、ホームズが持っていないところをワトソン医師が補完するという間柄であったと記憶する。今回の映画では、そこが逆転というわけではないが、ワトソン医師の存在は大きくなっていた。物語は単純で、1890年のロンドンが舞台である。若干斜陽化が始まりかけたとはいえ、ロンドンは世界の中心地的な存在である。また、同時に巨悪が頻発する悪の世界の中心でもあるのだ。そのロンドンで、若い女性が次々と殺される。ホームズの活躍で、犯人で世界制覇をもくろむブラックウッド卿が逮捕され、絞首刑になるのだが、絞首刑になる前にいろいろな仕掛けをしている。その謎解きの内容は、事件解決時に流れるように一気に解き明かされるので、ついて行けないほどである。ブラックウッド卿は絞首刑の黒いマスクを掛けられるときに、不気味に「終わりは始まりである」と言い残して吊される。ワトソン医師が検視したのだが、これには種があり、墓場から復活して生き返るのである。このブラックウッド卿は、黒魔術を使い、人々を恐怖で支配し、失った大英帝国の植民地を取り返したり、南北戦争で疲弊したアメリカも手に入れ強大な大英帝国を再建して、そこに黒魔術による恐怖政治で君臨しようとの企てを持っていた。私が知るホームズと違って、映画のホームズは、格闘家でもあり、すこぶる強い設定になっている。推理と理詰めで、問題を解決していくという面よりは、派手な活劇が前面に出て、見ている方は結構楽しめる。舞台の中心は、ロンドンであるが、そこには、建造途上の吊り橋でしかも跳ね橋だという世界に類を見ないタワーブリッジがある。一方、造船所では外板が全てリベットで打たれた建造途上の鋼船が、ホームズを追い回す、大男の振るう大きなハンマーで、船を支える支柱を壊す中、船が滑り台に沿って滑走して進水するさまなど、産業革命の国ならではの先端(当時)の工業技術と飛躍的な科学の発達が表現されていて興味深かった。私も、船の進水も経験したことがあるが、船体を船台での建造終了後、船体の下部に設置した滑台を、固定台に乗せ、固定台に塗られたヘッド(油脂)の潤滑で滑走し進水するのだが、その点は、見にくい面もあるがそれらしく描けていたようだ。また、豚を解体する食肉解体工場等も大がかりで、そこで繰り広げられる、解体されそうなホームズの恋人でもある、アイリーン・アドフをすんでの所で助けるシーンなど、とにかく観客を楽しませる趣向が満載であるが、根本的な、ストーリーは荒唐無稽であった。黒魔術を使うとされ、人々に恐れられたブラックウッド卿が何故生き返ったか、それは、あらかじめ金で手なづけた死刑執行人が、彼を首ではなく胴体で支えるように細工していたとか、ワトソン医師が検死の時には、薬草を使って意図した仮死状態にあったとか、とにかく、黒魔術ではなく全て種のあるトリックだということをホームズが解きほぐすのである。天使、神、精霊など、「善なる存在」を召喚し、その力を借りて魔術的効果を期待する白魔術と対称的に使われる黒魔術は、悪魔や悪霊など、「邪悪な存在」を召喚し、超自然的な効果を及ぼそうとするものである。世界各国にそういった考えはあるようで、昔、フィリピンのネグロス島の近くのシキホー島には、黒魔術を使う魔術師が居るというので、現地の人間に脅されたことを思い出す。ホームズは、ワトソンに言わせると、植物学の知識が多様で阿片、毒薬に特に詳しいとされ、また、地質学の知識も結構造詣が深いと言うことで、化学の知識はそれらよりも彼の得意とするところらしく、そういった才能を随所に見せながら、おとぎ話のようなストーリーではあるが、随所にスパイスが利いたアクションストーリーだった。やがて、ブラックウッド卿は建造途中のタワーブリッジから、首に巻き付いたロープで本当に吊され終末を迎えるが、なにやら未だ背後に何かの存在を感じさせつつ、映画は終わった。
2010.04.03
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以前から連れ合いが申し込んでいた姫路城を見るバスツアーに出かけた。正式名称は「桜の博物館桜華園としばらく見納め姫路城日帰り」と言うものだった。平成21年4月6日(しろの日)から(実際は12日かららしい)、改修工事が本格化し、城全体が、大きな覆いをかぶせられるため、外観が拝めるのが残り少ないという状況でのツアーである。一旦工事幌をかぶせると、5年間は天守閣への登城はもちろん、外からもあの勇姿を拝めなくなると言うことで、連れ合いは未だ中に入ったことがないということもあり、出かけることにした。私はいつの頃か、1度中に入ったことがあるが、遠い昔で、もう忘れていたので丁度良い機会だと思った。生憎、天気予報通り早朝起きると外は、しとしと雨が降っていた。このツアーのもう一つも目的地に花見で、桜華園に行くことになっていたので、雨の花見は一寸残念な気がしていた。ただ一つの頼みは、午後には雨が止むという予報であった。7時過ぎの電車に乗り、梅田のおきまりのバスツアー集合地に早めに着いたが、既に大勢の人が集合していた。よくよく見ると、ありとあらゆるツアーの旗を持った係の人が大勢いた。「信州御柱祭り・・」「ミステリー・ツアー・・」「道後温泉一泊の旅・・・」等々である。混み合うが上にも大混雑で、集まった顔ぶれは、我々と同じか、それより年配の連中が殆どである。「姫路城ツアー」は結構な人気らしく、バス3台が出ることになっているようだ。我々は難波から来るバス3号車で、14組34名の構成であった。予定通り、8:30発となったが、最初の予定では、先に桜華園を見てから姫路城見学というのを、遅くなると姫路城での時間が取れなくなる恐れがあるので、先に姫路城に向かうことになった。結果的には、この変更は先見の明があった。阪神高速から中国自動車道に入り、途中加西SAで休憩を取り、福崎で播但道路に入って南下、姫路城近くまではスムースであった。姫路市内は早くも渋滞が始まりかけていた。添乗員が間を持たせるために「日本の城で国宝は3つあるがご存じですか?」と問うていた。答えは、「姫路城、松本城、犬山城」だと言うことだったが、調べてみると「彦根城」も国宝に指定されていた。どういう基準で国宝なのか、よく分からないが、他の城もなかなか良いところがあるのに、などと思って聞いていた。その国宝の中でも姫路城は、平成に入り「世界遺産」にも指定されたことから、見学者が多くなったようだ。特にこの時期は、桜とあと少ししか全容が見られないということも重なって、人出は、最高潮であった。まして明日の土曜日は、お祭りが催されるというので、おそらくは更なる大渋滞となるだろうとのことだった。10:40に姫路城の駐車場にバスは着いた。最初1時間半の見学時間を予定していたが、混み具合を見て、添乗員は、2時間の見学時間に変更した。一目散に、登城へと向かうが、場内に入ると既に混雑は始まっていた。上る人と下りる人は、分けられて、粛々と進んだ。中には外人さんが多く見受けられたが、聞こえる言葉からドイツ語や、スペイン語の人たちが多いような感じだった。彼らが持っているパンフレットは、もちろん英語であったが、日本人向けの物より大判で、表紙に写真も大きかった。城に入る前から、入場を制限しているらしく、時々場外で待たされ、城に入っても、階段が危険だと言うことから、一定時間待たされることになった。やっとの事で天守閣に上ったが、そこからの景観を楽しむ間もなく、再びせかされるように下りることになった。下りは割合空いていたが、これから上ろうとする人たちが待っているのとすれ違うのを見て、なにやら気の毒な感じがした。西の丸の百間廊下も修理中で、外観だけを見ることで場外公園に出ることになった。場内出口で、「外人用の英語のパンフレットを下さい」というと、「これは外国人用で部数が限られていますので駄目です」と言う。「何で?」と詰め寄ると、仕方なく1部わけてくれた。この姫路城の道路標識を見ると、皆英語だけで書かれている。「美術館」を「Art Museum」と言った類である。如何に外国人に親切であるかは分かるが、ここはやはり日本である、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんにも優しく、日本語併記出来なかったかという気がした。バスを下りるときに渡された弁当だったが、結局は、場内での飲食が出来ないので、ずっと持ち回って、やっと場外の公園のベンチで食べることになった。城内外の桜は満開とまではいかないが、丁度見頃という感じだった。如何せん、改修工事は既に始まっており、正面から見て右手に大きなトラス組の工事用設備が目に飛び込んで来るし、その上にクローラークレーンが長いブームを立ち上げているので、城とはどうもミスマッチである。本格的工事期間中は、すっぽりと城全体をカバーすることになるので、カバー自体に城の絵を描いてごまかそうなどと真剣に考えられているという。又期間中は、宮大工の仕事を見られるような企画も考えているのだとも聞いた。とにかくしばらくは勇姿が拝めない国宝で世界遺産を桜の開花時期に見られたと言うことは感激だ。次に多品種の桜が、全山に植えられているという桜華園を訪れたが、開花しているのはその一部であり、植林してから未だ日が経っていないこともあり、想像していたよりは、期待はずれの感があった。行程から言えば、中国自動車道から播但道路をしばらく北上するこの場所は、2番目になったことで、行ったり来たりという形になったけれど、もしこちらに先に来ていたら、おそらくは、姫路城はさらに混んでいたことが予想され、結果的には良い判断だったと思った。この桜華園もおそらくは、数年後に訪れたら、全山が種類の違った桜で埋め尽くされていて見応えがあるのかも知れない。桜華園を出て、次に向かったのは、赤穂である。赤穂では先に赤穂御崎で瀬戸内海の多島美を見、鏡のような内海に船が進む様を見ていると、なにやら懐かしい気がした。ここ赤穂は、相生市に近く、相生市には石川島播磨の造船所がある。東の彼方にそのかすかな影を見て、私もここより西の街で船を建造していたのだと思うと、遠い昔のこととはいえ懐かしい気分になった。赤穂御崎を出て、そのまま赤穂市に入り、最後の目的地赤穂城址と、大石内蔵助の大石神社を見学した。セメントで造った四十七士の一人一人の像や、わざわざ中国から取り寄せて一木彫した、恵比寿さまと大黒天を見たり、国歌、君が代の「さざれ石」が「いわお」になったと言うもっともらしい岩にしめなわが張ってあるのを見て、苦笑を禁じ得なかった。ここは、大石内蔵助が、四十七士を伴って、主君の仇を討ち果たし、大願成就したと言うことが前面に押し出されているのだが、ここに、明治時代に日本海軍を率いた東郷平八郎・連合艦隊司令長官の赤穂義士を称えて揮毫した「忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)」(忠義を重んじ守る心)の石碑が建てられていたのには驚いた。明治の英傑と言われた、乃木希典や、東郷平八郎の忠信の気持ちのルーツはここにあり、これがとりもなおさず毎年の如く年末に放映される「忠臣蔵」で飽くことなく日本国民から喝采を受ける原点なのかと思った。今、正に、東郷らの活躍を描いたNHKの大河ドラマ「坂の上の雲」の放送もあり、興味深く見た。今日は、心配だった雨も、姫路城に着く頃にはすっかり上がり、行程もスムースに済んで、帰りも早く着くことが出来、なかなか意義深い一日になった。
2010.04.02
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10日ほど前から白内障の手術のため入院していた姉が、今日退院することになった。入院前に、一緒に医師の説明を聞いたときは、私もさすがに少し緊張していた。白内障の手術は、その殆どが、成功すると聞いていたし、連れ合いからも、その知り合いの中に多くの成功事例を聞いている。中には、進んで手術を受ける人がいるという具合だ。とは言っても、手術は人の自然な体にメスを入れることになるわけで、やはり少し怖い。私の場合は、何十年も前だが、1度胆石の手術をし、腹に大きな開腹手術の後がある。その時も、手術の中でも、盲腸に次ぐ簡単な手術だと聞いていたが、入院中は割腹のことを考えて、心が動揺したことを覚えている。その時はもちろん全身麻酔で、手術室にストレッチャーで運び込まれて、いざ笑気ガスを当てられると、気がついたときには、もう手術は終わっていたというものだった。回復時の麻酔が切れてからはICUでしばらく、塗炭の苦しみを味わったのを覚えている。白内障そのものは、眼球の前方にある水晶体が、何らかの問題で白濁するというもので、加齢と共にそうなる事は一般の常識となっている。今回も加齢によるもので、濁った水晶体を取り除き、新しい合成樹脂製のレンズを挿入すると言う手術である。直径6mmほどの水晶体は、カメラのレンズのようなもので、こればかりは、外部からレンズを磨くと言うことでは対処出来ず、古い水晶体を超音波を当てて、吸い取ってから、その空洞部分に新しい水晶体に変わるレンズを入れるというものだ。眼球そのものや、フィルムに当たる網膜をどうこうするわけではない。単なるレンズの入替だと言うことは理解していても、万が一と言うことがある。術前の医師によるインフォームドコンセントは慎重を期している。昔なら、「先生様お願いします」で済んでいたが、最近の情勢はそれを許さなくなっている。患者の立場では、十分説明してもらえることは有り難いが、それだからと言って、万が一のケースを逃れられるわけではない。医師の説明も、この手術による合併症の可能性は2000人に1人くらいだと言うことであったが、話の途中では、100人やって、失敗は1人あるか無いかですと言うことも言われ、はやそれだけでも、0.05%が1%と20倍の差があるわけであるが、とにもかくにも余程のことがない限り失敗はないと言うことのようである。まれに、古い水晶体を吸引中に、水晶体の周りを包み込む膜が、破損し、出血することがあるらしい。そんな場合は、手術を中止し、周りの膜を元に戻してから再度行うのだそうで、その可能性がゼロではないと言うことだけだ。もちろんそんなことでも被手術者にとってみれば気になる言葉である。話を楽観的な方に移すと(姉の場合もその例だが)、新しく水晶体(レンズ)を選ぶわけであるから、視力は、随意に決められるわけだ。世の中には、この際と両眼を1度に施術して貰う人もいるようで、そんな場合は、極端には、全くの正常値である裸眼で1.5まで見えることにも出来るわけだ。姉の場合は、右目だけの手術なので、左目の見え具合と極端に違うとそれも調整が難しいと言うことで、左目の視力よりは良いが、そう極端に視力アップをしないことになった。眼球のレンズから底辺である網膜までの長さは、正常値で約24mmであるそうだが、姉の場合は、右目の方は、これが若干長いと言うことらしいが、この値をどうこうすることは出来ないのだそうだ。入れ替えるレンズの見本を見せて貰ったが、とても小さな物で、こんな小さな器官であっても、目が見える見えないを左右しているのかと、改めて、人体の不思議を感ぜざるを得なかった。レンズを入れ替えるだけだから麻酔は局所である。しかも注射をするといったものではなく、目薬を差すことで辺りの神経を麻痺させるのだという。手術後もこの目薬を点眼するのが、非常に大切らしく、それに対する注意が多かった。後は、かゆいからと言って、不用意に目をこすったりさわったりすることがないようにと、眼帯をするようにとの指示であった。とは言っても、歯医者の局所麻酔と同じで、目をいじっている事や、レンズを吸引していることなどの作業は感じられるのそうだ。連れ合いには、「入院の時も付き添うべきよ」、と言われながら、それほど大きな荷物もないだろうしと、行かなかったが、退院の今日は、奇しくも姉の誕生日でもあり、手術成功と誕生日のお祝いをと言うことで、病院に迎えに行き、大阪グランヴィアホテルのレストランで両方のお祝いの昼食を共にした。前回の手術前の説明時に大幅に待たされたのをクレームしたせいか、今日の退院時間は、ぴたりと時間通りにしてくれたそうである。約束の時間を少し過ぎたので、病床近くの待合いで待っているものかと、思っていたが、早々と会計を済ませているところだった。食事はいずれにしても病院食で、旨い物が出るわけではないが、最近の病院は、とても広々として、設備も良いのに驚く。この病院は、特にそうなのであろうが、入口を入るとロビーから2階の受付までエスカレーターで上がることになっていて、まるでホテルの様な感じである。2階の受付や会計の雑踏はさすがにここが病院であることを感じさせるが、その他は、白衣の往来や、看護師の制服を見る以外は、私が昔感じていた病院というイメージからは遠いものであった。そこがなんと1日2300円だという。もちろん3人の相部屋であるが、以前の部屋のように、ウナギの寝床的ではなく、ここのスペースも広く、カーテンではあるが完全に仕切られているのと、各ベッドに固有の窓を持った構造となっており、なかなか快適なようである。一般に町中のビジネスホテルの素泊まりでも、5-6000円はするし、ここまでの清潔感はない。昔に比べ、隔日の感があるが、だからといって、好んで、ここにやっかいになろうとは思わない。それに加えて、周りには病人が大勢いるわけで、眼科の病棟と雖も近所には別の科もあり、廊下を歩く人は、やはり、病人である。如何に快適とはいえ元気が一番である。世の中には、平均寿命を生きて入院はしたことがないという人もいるだろう。まして手術となると、皆が皆、受けるわけではない。人間の体は6兆個もの細胞で出来ていて、器官によって異なるが、生まれたままの姿で、生き残っている細胞はないとのことだ。今日の私の体は、生まれたときの体ではないと言うことで、こういったことを考えると、眼球の水晶体も、それなりにリニューアルしていても良いように思うのだが、加齢と共に濁るという。アポトーシスという細胞をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死と計画細胞の生成がこの場合は機能しないのかと少し疑問に思った。兎にも角にも、姉の目は再生されたわけで、迎えに行って退院後には、既に眼帯は不要だとのことで、今まで眼鏡を要していたことも裸眼で見ることが出来るととても喜んでいた。
2010.04.01
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