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三菱重工の社長・会長を歴任され、現在同社の相談役をしておられるという。三菱重工は、今や押しも、押されぬ大企業になってしまったが、私の入社した頃には、未だ肩を並べられそうな感じであった。やはり企業は、経営者の善し悪しで決まるものかと、思ったものだ。以前に、トップが語る21世紀というサブタイトルで、三菱重工の当時会長だった飯田庸太郎さんの「技術ひとすじ」を読んだことがある。どことなくヌーボーとして、大平正芳元首相に似た雰囲気の人だった。飯田さんにしろ、今回の西岡さんにしろ、皆技術畑出身である。飯田さんはタービン(機械工学)を専門とし、西岡さんは、飛行機(航空工学)の専門家だそうだ。ともに技術者である。「技術ひとすじ」が上梓されたのは1993年である。ゼネコン汚職で官界や民間も大きく揺れた年でもあった。私は造船工学を学び、船舶の設計に携わってきたが、三菱重工にも私の同期生が就職していた。そう言った意味で、私の会社も三菱重工もともに造船会社というイメージが強かったが、それは、私が勝手に思っていたことであって、中味は相当に違っていたようだ。いずれにしても、私がどうあがいてもタービンの設計や、飛行機の設計が出来るわけではないのは当たり前であるが、我が友人も又然りで、我々は、就社するわけではなく、就職するというのが正確なところである。同じ会社ではあるが、中味は、各技術別の小さな集団のコンソーシアムのようなものであった。日経新聞などで扱うケースで、造船の場合は、株式市場では、輸送機器に分類されるが、三菱重工やIHI、更に名前は日立造船だが、これら各社は機械に分類され、川崎重工や、佐世保重工などとともに、三井造船は輸送機器なのである。しかしその昔、造船重機労連を結成していた大手造船会社と言えば、三菱、三井、川重、IHI、住友重工そして日立造船と言うことであった。しかしその後、大手の下で甘んじていた造船会社は強手という名で力を発揮してきたのである。そしてあれよ、あれよという間に、三菱、川重、IHI、住重、三井、日造といった順に会社の規模が変化していった。どの会社も総合重機械工業ではあったが、下に造船が付く(今でも)会社は三井、日造といった2社だけである。造船が衰退したのは、経営上の問題もあろうかと思うが、第一に韓国の台頭があり、現在では、それに中国が加わり、世界一の座を奪われじり貧になっていった。造船に限って言えば、三菱は、イージス艦を設計することが出来、又客船の設計も国内では独占して行っている。LNG船は各社とも競合しながら建造していたが、客船や、イージス艦などは、寡占されていたのである。之は、三菱重工が、従来から官と大きく関わっていたことも大きな要素ではあろうが、技術力がその差の大きな要因であったことも又事実である。1987年には、造船の再編が叫ばれ、漸次造船が、本体企業から切り離されて、一部統合して、海外勢力と対抗しようとした。しかし、昇る朝日と、沈む夕日は、その軌道を逆転することはなく、造船業の衰退が始まってしまった。今年の4-9月の半期決算では、造船のカテゴリーに6社とあるが、この売上の中味を造船だけで比較することは難しい。結果の数字から1社当たりの単純売上高3600億円程度と出るが、これは他産業に比べて見劣りしないものである。製造業では、石油関連と自動車関連が、4桁と群を抜いて高い売上を計上し、次いで電気機器業界である。非製造では、空輸(ANA1社)と通信、電力両業界が桁違いに高い。如何に通信費用や、電気代が高額であるかが分かるというものだ。段々本題からずれたが、西岡さんの書いた履歴書の内容は、当然、氏の専門である飛行機の設計と販売に関するものが殆どである。以前から書いてきたように、航空をやる者は、造船をやる者よりも頭が数段上であるという言葉が今でも耳に残っている。要は、ベルヌーイの定理とアルキメデスの原理の違いであろうか。粘性の大きな水に鋼製と雖もお椀が浮かぶことは常識的に理解出来る。しかし、我々の周りにある、空気は、その粘性をあまり感じさせないので、ここにジュラルミン製と雖も、金属が浮かぶことが腑に落ちないのである。航空機のことばかりが並ぶ中に、1回の1/3程度の長さではあるが、船舶のことが書かれていた。当時日本の船舶の建造隻数は世界一を記録し、その中でも、三菱は群を抜いて、多くの建造実績を誇っていた。そのことが書かれているのと、2002年に長崎造船所で起こった引き渡し直前の客船「ダイヤモンド・プリンセス」の火災の件である。その後も三菱では、2004年にフェリー「はまなす」でも火災を起こしているがその件には触れていない。私の会社でも、1986年に千葉工場で、船体の船尾部が落下して8人が死傷するという事故を経験している。また、私の昇進を阻んだ(と考えている)クレーン船のリフティング容量のアップのための工事で、シアーズ(荷物を吊る門型部分)が折損した事故などがある。幸い死傷者が出なかったが、大いに後戻り作業を余儀なくされた。近年では、私と机を並べていた同僚が、出向した先で起こった南日本造船での工事用タラップが落下し、2名が死亡するという事故もある。幸か不幸か、友人自身は工場が違っていたので、その責は少なかったようだが、いずれにしても、何万トンもの鋼材を使う現場で一旦事故が起こると、それは大きなものとなる。一旦引き渡して、沈没し、深い海の藻屑となった場合なら、原因追及は、闇となるのであるが、建造中のことではそうも行かないのである。三菱では、事故後「もう客船は造るまい」といった意見も出たそうである。ここが西岡氏の良いところで、「失敗を次に活かせ」とだけ言って、技術の切磋琢磨に励んだと言うことだ。私が経験した事故では、当時の工場長が、1階の部屋から、設計室のある4階まで来て、直接の事故の責任者に「君は大学院まで出て、一体何をやっているのだ!」」と一括だけして帰ったことである。私は唖然としたのを覚えている。誰も事故を起こそうとして起こす者などいない。当時その担当者は、見えにくい古い図面の数字を見間違ったのだ。責めることは簡単である、担当者の上は、私であり、それも設計が進んだ段階での参入を命じられ、全く経緯は分からなかったわけで、その上が部長、そして工場長とヒエラルキーのトップにいる人間が、3段階飛ばして、担当者を直接叱責したのだから、その担当者は、程なく会社を辞め、故郷の九州に肩を落として、帰っていったのである。入社当時俗に「人の三井、組織の三菱」と、三菱はやや冷ややかな感じで、三井の方は、暖かさがあるのだという神話が、完全に瓦解した瞬間でもあった。当時の技術の粋を集めて解析に明け暮れたが、その原因は単純なものだった。しかし、その工場長は、真の原因を分かっていたのかどうかはなはだ疑問なのである。その工場長も技術屋であるわけで、技術屋なら、真の原因が何処にあるかを知った上で、次の策を練るといった行動が欲しかった。その辺が、西岡氏と違うところであろうか。考えてみれば、仕事が良くでき、多くの仕事をこなせばそれだけ、単純ではあれミスに遭遇する確率は高くなるわけで、一々それを咎めていたら、優秀な人材は、やがて底を突くであろう。そうした結果が、今日の低迷に繋がっていると言えなくもない。最後に氏は「人間の脳は目標までしか努力しない、したがって目標は出来る高くすべし」との言葉を大切にしているという。リチャード・ファインマンの「ファインマン物理学」全5巻を読破することを目標にしているというからさすがである。
2010.11.30
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3ヶ月おきに開催する高校同級生のゴルフコンペが三木よかわコースであった。今回は私にとって8回目の参加となる。初回は石山・南郷で、適当に付けられた、ハンディーのため(確か15)、メーカーとなった。その後是正されて2回目で2位になった。2回目のスコアが、過去1番良い成績であったが、どれも100を切れていないことは情けない。今日は、その時ホール・イン・ワンをした友人と同じ組でのラウンドである。その時貰った、記念の帽子を被っていくことにした。3回目からは、大叩きの4位、5位、9位と良いとこなしのラウンドが続いた。続いても、5位で賞品取れず、アプローチで苦しんだ。前回の花屋敷では、ドライバーの飛距離で辛酸をなめて、7位で悔しい思いをした。今回は、前日になって、私の車で行く予定の友人が治りかけの腰痛が再発し、悪化が心配とかで急遽辞退が決まり14名の参加であった。2人を乗せて、茨木ICから名神に乗った。前回と同じく、平日とあって、高速道路は何の渋滞もなく走ることができた。吹田JCTから中国道へ入り、心配した宝塚辺りの混雑もなく、嘘のようにすいすい走る。吉川ICで降り、カーナビに従って走ったが、途中新しい道路が出来ていて、カーナビは、急に指示を出さなくなった。前に行ったことがある友人が、Uターンが良いと言い、帰ると、再びカーナビが話し始めた。それからは迷うことなく、三木よかわコースにたどり着いたが、十分余裕を見ていたのと、一人脱落したので、スタート前1時間には楽々ゴルフ場に着いた。おかげで十分なウォーミングアップと、パター練習が出来た。やはり、平日に変わってから、良いことずくめである。三木よかわコースも27ホールがあり、今日は西コースと東コースを回ることになっている。他にも中コースがあるようだが、私は初めてである。コース案内によると、前半の西コースは起伏に富み、各ホールとも特徴があり戦略性が高く技巧派向きとあり、後半の東コースは広々としたフェアウェーで、池や谷越えがあり、メンタルで難しいホールもあるがスコアはまとまりやすいとのことである。今回は回らない中コースは距離がたっぷりあり、フェアウェーも広くフラットでロングヒッター向けとのことで、距離のでない私は、ここでなかって良かったと思った。14人が揃ったところで、朝の挨拶があり、私はトップの組の1番を引いてしまった。組み合わせはロングヒッターのAYo君、ホール・イン・ワンをしたRUe君、そして今回が初参加のTUe君の4人である。西1番はいきなりロングの打ち降ろし、右OBまでは230YDと問題はないが、左に引っ張って、せり出した山の中断付近に飛んだ。早速2打目をチョロする。3打目でFWに出し、4打目残り100TD上りを、一寸大きめのクラブで振ると、グリーンをオーバーしてしまい、5打でミスをし、やっと6打で2mに寄せたが、1パット目が弱く、2パットのトリプルスタートだ。みんなはダボ以内である。2番も、左に引っ張り、つま先下がりのラフに飛び、2打目はFWをクロスし、残り100の目印の左の木の下のラフに飛ぶ。3打目でも惜しくもグリーンに届かず、惜しい1パットも外れて、これまたトリプルである。しかし、この時は1人OBを出していたので、最後尾ではなかった。3番ショートは、距離はぴったりだが左の一寸ラフに落ちた。ピッチエンドランで、1.5mに付けたが、1パット目を3cm手前で入れ損ねボギーだ。4番はスタイミーなフェアウェイの大きな木を越す良い当たりだが左のラフに落ちる。残念ながらこの時ティーを無くした。他の2人はOBとOBまがいで助かるなど、私のが、一番状態は良かった。それなのに2打目をチョロして、ラフのまま残り110YDの地点までしか進まない。しかし上りを見過ぎて、グリーンを転がり向こうのラフに落ちた。返して2.5mにオン1パットのボギーで初めてオナーを取る。5番159YDのショートは、左からの風に乗せられたわけでもないが、右の林にOB。プレ4からの4オンをあろう事か4パットしてしまう。愚かしいとしか言いようがない。6番でも引きずってティーショットはフェアウェーだが飛びが悪く、皆に置いて行かれる。2打目も快音というには遠く、FWをキープしたのがせいぜいだった。残り140YDに打上の10YD足して、打ったが、もう少しでオンするエッジで止まった。ピッチエンドランで1.5mに付けたが2パットだ。7番は変則的なコースの打ち降ろしを、今日一番かという程の当たりで、FWのCRを捕らえた。何しろティーが横に落ちたのはあまりないことだ。しかし上には上がいてそれを越えて、右のラフに突っ込んだのが居た。グリーンを直接狙うには大きな池越えが必要である。もちろんレイアップなら、左回りで攻めることには出来る。当然残り140YDの池越えを狙う。先に打った友人は、当たりが今ひとつで、向こうの土手に当たり、池の中へ転がった。私のは、池を越えたが、一寸右にズレ、之もバウンド悪く横の池に落ちてしまった。1打罰の特設ティーから、オンし2パットで、ダボとなった。8番は打ち下ろして、打上というコースで、右からせり出した凸型の山が気になる。左OBを気にして、その山を越して、ラフに落とした。残り135YDと上り分の10YDでウッドを使ったが、何とトップして転がり、そのままガードバンカーに入ってしまった。いつものバンカーは軽くグリーンに乗せられるのだが、今回は脱出だけで、4オンとなり、せめて1パットで、ボギーとした。皆もパーとボギーだ。前半最後の9番は、又ロングだ。ティーショットは、やはりあまり良くない。セカンドを左に引っかけ、眼前が池という落ち葉が一杯のラフに止まった。脱出に5Iを使ったが、前の池が気になり、完全にヘッドアップして、池に転がり落ちた。打ち直してFWに出し、そこからオンしたが又3パットで7打と罰2打で、何と9も叩いてしまった。9番ホールで9とは洒落にもならない。我々1組目は妙に早く済んで、2組目が上がってきたのは相当時間が経っていた。私よりは、皆成績が良いのだが、誰も50を切ったものがいない。後半東コースの1番に立った。ボールを新しくして、臨んだところ、私だけがFWキープだった。しかしこのミドルは距離が長い。2打目をFWに置き、アプローチで、トップ気味に入り、グリーンをオーバーした。4オンで1.2mに付けたが、1パット目を縮こまってしまって2パットだ。ダボスタートである。2番は、当たり悪く、飛ばずに右にある木の下のラフだ。2打目をFWに出し、残り230YDとしたが、当然届かず、返って当たり悪く右のラフで残り90YDとなった。そこからエッジにニアオンし、3パットしてしまう。詰めが甘い。3番は2打目を全くのチョロで、3打目を右バンカーの手前に落としてしまった。嫌な予感通り前のバンカーに入る。すかさず「ヘッドアップや」と言われた。ここはトリプルだ。4番の長い178YD池越えショートはアイアンを持つのもいるが、私は、ウッドでないと届かない。ここでは、1人OB、1人は当たり損ない、1人は、グリーンで手間取る中、私は、グリーン横から2オン1パットのパーとした。オナーの5番はロングで、右ラフに飛んだが、皆は当たりが良いという。2打目まではまずまずだったが、3打4打と左足下がりの下りでチョロを続け、グリーン前の大木の手前に落とし、アプローチで木を越えたがグリーンには届かず、1パットながらダボであった。6番は大きな谷越えで、距離は短い変形ミドルの打上だ。またしても、ティーを無くしたがボールは良く飛び、2打目のアイアンも当たりは良かった。しかし、右に少しそれ、3打目のアプローチをヘッドアップのトップ、1パットながらボギーだった。7番は、之も大きな谷(池)越えで、当たりは良く右のラフに入った。2打でも届かず、30cmの3オンを1パットで沈め、ミドル初のパーである。強打の友人は、OBながら、ダボであった。8番のショートは右が崖になっており、まんまと吸い込まれてOB。打ち直しも乗らず、3オンで又3パット、罰打を入れて、大叩きだ。最終9番では、ティーショットが巧く当たらなかったが、3オン出来た。しかし7mのパットで、3パットはやむを得ないか、残念ながらダボ終了だ。表彰式に配られた成績表を見て驚いた、100を切ったのは優勝した1人だけで、私はハンディーの助けを借りて2位だった。タラレバではないが、ネットが1打差だったので、2打改良していたら、優勝だったという結果だった。
2010.11.29
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連れ合いの従兄が経営する、高槻では一寸高級なカラオケサロンが毎年チャリティー発表会をやっている。過去2回ほど参加させて貰い、食事だけ頂いて帰っていたが、今年で8回目を迎えると言うことで、何故か(以前訪れた時に酔って承諾させられていたらしい)歌う羽目になっていたようだ。連れ合いを頭に浮かべながら歌った千昌夫の「君がすべてさ」というのが良く合っているという評価に乗せられて、選曲までが既に決まっていた。カラオケサロンで不特定多数というか、酔客同士の間で歌うことには何の抵抗もないし、少々音外れでもどうと言うことはない。しかし、大勢の人の前で、ステージに立って、スポットライトを浴びながら歌うと言うことなど経験がないわけで、しらふになって聞いて、躊躇したが、事は真面目に粛々と進んでいるという。仕方なしに腹をくくり、i-PODに入っている「君がすべてさ」を、車を運転しながら何回もリピートして聴き、車内で大声を出して練習した。そこで、プロの歌手との違いを今更ながらに分かったのだが、随所で、歌詞の延ばし方、こぶしの入れ方、そして、曲の終わりの声の延ばし方など、多くを得ることが出来た。運転中なので、全感情を移入することは出来ないし、なかなかプロのように一朝一夕に歌えるわけがない。折角だから、やはり巧く聞こえるように歌いたいというのは人情である。ところが、一両日前頃から、風邪を引いたのか、咳がひどくなり、声が出にくくなった。そして砺波へのドライブ旅行で最高潮に達したのである。連れ合いに、「声が出ないから、出場辞退するように計らって欲しい」というと、「だめだめ、もう決まっているのだから、立っているだけでも良いのよ」ととりつく島がない。そこで、砺波のホテルのカラオケルームでの特訓となったわけだが、その時は、未だかすれる声でも何とか声が出ていた。その後何度も温泉に浸かったせいか、咳は良くなるどころか、段々悪化、通常の会話は、隣にいる人に話しかけても分からないと言うくらいにかすれて出なくなった。それでも出場を辞退することは出来ないという。別に命までは取られるというわけではないが、折角の芸能界デビュー?ならまともにやりたいと思うのは人情であるわけで、前日、咳止めは飲み、喉へのスプレーも掛け、シップをするなど万全を尽くして今朝良くなっていることを願いつつ起きた。しかし、良くなるどころか、ますます声が出なくなっている。その時になってやっと連れ合いは「事前にいつものようにアルコールを飲んでいれば歌えるよ、歌えなければ、その時断りを言えばいいのよ」と譲歩してくれたが、結局、歌うと言うことで、会場である高槻京都ホテルに向かった。2階の会場では、13時から始まっている人達が、既に歌っている。もう逃げも隠れも出来ないわけで、1階の喫茶店で、生ビールを1杯飲んだ。もちろんその位では、酔って理性を失い、その勢いで歌うと言うまでにはほど遠い。一寸喉を潤した程度である。もうそろそろ会場入りをしないと、と、連れ合いに促されて、ステージから2列目のDテーブルに着席した。テーブルには2-3人を除いて、既に着席していたが、ステージでは、私の出番の6番前の若い夫婦らしいのが、SMAPの「世界に一つだけの花」を熱唱中であった。会場は、未だ空席が見えるほどにしか集まっていない。フリードリンク・ディナーは18時からのことであるから、今までの我々のように、それに照準を合わせてくる人も多いようだ。ええい、こうなれば、なるようになれという心境ではあったが、何となく腰が落ち着かない。それからの人が何を歌い、どんな人だったかは全くと言っていいほど覚えていない。そのうち、「恋人よ」を女性が歌っている時、カラオケサロンでお手伝いをしている女性が、そろそろスタンバイしてくださいと伝えに来た。会場を横切って、入口側の前方にある衝立で仕切られた、控えのコーナーに行くと、私の前に歌う女性が座っていた。その女性が呼ばれてステージに立った時には、もう、逃げ場がないわけで、「君がすべてさ」ので出しである、「これきり・・・」の「こーー」の音が出るか、他には聞こえないような声で、何回も音程を探った。最初が出なければ、もうどうしようもなく悲惨であるわけで、風邪で喉が痛いのは忘れていた。いよいよ、私の出番である。前任者からハンディーマイクを手渡され、名前を呼ばれて、スポットライトに照らされた舞台に立った。カラオケを歌うと雖も舞台は舞台である。私が舞台に立ったのは、中学3年の時の文化祭で、狂言「ブス」を友人3人とでつとめて以来のことである。私の同級生では、グリークラブで大勢と舞台で歌い、時々ソロをしたりするのがいる。また、同じく、仕舞や謡で、小さな能舞台一杯に舞を披露する友人もいる。それらから比べるとどうと言うことはないのだが、やはり緊張する。そう言ったことがめまぐるしく頭の中を回るが、カラオケの曲は既に前奏を終わりかけている。「こーーれきり、会えなぁいー・・・」何となく出だしは、掠れ気味ではあるが声が出た、後は、この調子でと、前方の会場を見るが、逆にスポットライトを浴びているので、会場が見えないのである。多分テレビドラマで、追い詰められた犯人が、警察の包囲網からサーチライトを当てられたらこういった風に何も見えないのだろうなどと考えた。プロでないから、会場の雰囲気を知りながら歌う必要もないわけで、淡々と、之まで練習してきたチェックポイントを反芻しながら歌った。3コーラスを歌わせて貰ったのだが、コーラスの途切れで、お義理の拍手があるので、あー、前に観客が居るのだなあと感じる程度である。風邪を引かず、喉も痛くないベストな状態であれば、もっと奔放に出来たものをと思いながら、初芸能界デビュー(?)を飾れなかったのは残念ではあったが、3-4分程度の時間はあっという間に過ぎてしまった。テーブルに帰ると、同席の人が、拍手で迎えてくれた。連れ合いも「まぁ、まぁ、声が出て良かったね」と慰めてくれた。私の後も10名くらいの人が歌っていたが、その中には、同席の女性で、茨木でカラオケ教室の先生をしているという人の歌もあった。曲も様々、老若男女入り乱れてのカラオケは、日本国民の中に確固たる地位を占めていると改めて感じた。プログラムを見ると、歌った人は53人で、私は42番という事であった。余興が終わって、チャリティー寄付金の贈呈式や8回の開催を祝う舞や、プロの歌手の歌が終わって、テーブルセッティングの後、ディナーが始まったが、その頃には、連れ合いの勤める学校の校長さんも顔を見られた。談笑しながら、最終は、元松竹映画のトップスターであり、今はカラオケサロンの経営者である、連れ合いの従兄家族が、それぞれに歌を披露したり、トークしたりして楽しい(自分の番が済めば)一時を過ごせた。ホテルのバスに乗り込んで、メガネケースを忘れていることに気づき、連絡して確保して貰っていることを聞き、安堵した。何となく長い1日であったが、精魂込めて、1曲歌うだけでもなかなか体力が要ることだと言うことを改めて感じた。
2010.11.28
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ぐっすり寝たので、目覚めは良く、何時もと変わらず5時過ぎには目が覚めた。しかし、もう少しと目をつむると次に目が覚めたのは、1時間を経過していた。温泉に来た時の恒例で、朝風呂に入ろうと、連れ合いを誘うが、未だ寝ていたいという。一人で浴場に向かった。浴場は、前夜よりも大勢の人達が居た。まるで銭湯の脱衣場のような混み合いであった。その多くは、既に入り終わって、出ようとする人のようだ。朝は5時から開湯と言うことだから待ちかねてきた人達であろう。浴室にはいると意外と空いていた。朝はサウナが使えないので、そのまま露天風呂に向かう。温泉の効能書きでは、加熱、加温はしているが、白骨温泉で問題になった入浴剤など入れていないと表示してある。入る時は一寸熱いかと感じる湯温だが、体が冷えているためだろう。入っていると、ほどよい感じである。ぼこぼこと湧き出す仕組みにしてある、お湯の吹き出し口の後ろには、丸く一寸大きな石が置いてある。その石には「この湯は、飲用に適しません。」と大きく書いてあると同時に、そのことが中国語で書かれている。温泉が飲用可能であり、そんな温泉場もあるが、飲ませて問題になってもいけないのだろう、通常は、飲用不可としているところが多いが、ことさらに目立つところにそれを掛けておくのは、風情のないことと感じた。見れば、最近は何処も同じだが、入浴時の注意事項を日本語とともに、中国語やハングル語で書いてある。中国人は、家族(姻戚縁者300人くらいを指すらしい)は大切にし、信頼するが、其れ以外は概して、敵対心を持つぐらいに警戒するという。信頼などはしないし、公徳心という意味では、日本人以上に欠けているということだが、おそらくは、こういった注意書きは何の役にも立たないのであろうと考えた。尖閣列島問題や、最近の北朝鮮の韓国砲撃などで騒がしくなっていることもあるが、元来こんなところまで中国人が来るのだろうかといぶかしく思った。中国人の来日観光コースは、関空から、京都、名古屋を経て東京で買い物して帰るというのが相場であると聞いていたからだ。前日にも書いたが、ここは、チューリップの綺麗な公園があり、おわらが近いという以外は、全くと言って中国人の興味を惹くところなどはないはずなのだが、と思ったわけだ。まあ、それはそれとして、一風呂浴びて部屋に帰ると、連れ合いは、スタンバイしていた。一寸遅れて、朝食のバイキング会場に向かった。このスタイルは、何処のホテルでも同じである。経費を切り詰めるのには、このやり方が今のところベストと考えられているのだろう。目が欲しそうなものがいろいろ並んでいるが、実際にはそれほど旨いものはない。しかし、パンを食べながら味噌汁を食すといった変則的なこともやろうとすれば出来るわけである。食べ溜をすることも出来ない上、メタボを気にしなければいけないので、それほど野放図に食べるわけにはいかない。スポーツをしていた若い頃ならと思うのが常である。朝食を済ませても、未だ時間はある。連れ合いはこれから、朝風呂に入るという。それではと又付き合って、私も入ることにする。さすがに浴場には、子供が一人と露天風呂に大人が一人と閑散としていた。おそらくゴルフに出かける人達は、朝飯も早めに食べて今頃スタートしているのではと思いながら、又露天風呂に入った。透明であるので、それが温泉であるかどうかは、私には正直分からないが、湯が何となくしっとりしているのは、あながち気分的なものだけではないだろう。効能書きの成分にリチウム○○ppmなどと書いてあるから、レアメタルはこんなところにも含まれているのかと、日頃の新聞記事を賑わす化学成分のことを思った。リチウムは、炭酸リチウムとして、「うつ病」にも効く薬である。しかし、朝風呂にこんな贅沢な気分で浸かることが出来る気分なら、うつ病などになるわけはないと感じた。一人で居れば、こんな贅沢は出来ないだろうし、来る気にもなれないところだが、連れ合いがいればこそと、一寸ありがたさを反芻した。今回は4回目の風呂を早めに出て部屋に帰ったが、連れ合いは入念に入っているらしく、未だ帰っていなかった。11階の通路を先端まで歩いていくと、通路の窓からの景色は変わる。眼前には庄川が横切っている。庄川は岐阜県北部と富山県西部を流れる一級河川である。上流には、合掌造りの白川郷や五箇山などがある北陸地方では有名な川だ。ホテルは、砺波ICを降りて、この庄川を渡った東側にあるので、庄川が見えると言うことは、立山連峰は背中の方で、白山は、左手方向になる勘定だ。ホテル内の案内にも、富山はもともと外山と呼ばれていたと説明がある。京の都から言えば、山の外側だと言うことだ。更に説明では、大和時代には五畿七道のうち北陸道の一つとし、越国と呼ばれ大化の改新の後、越前(こしのみちのくち)、越中(こしのみちのなか)、越後(こしのみちのしり)の三つに分割されたとある。そして、越中国の国司として、万葉歌人である大伴家持が赴任したとあった。私は、越前、越中、越後の3区画は、てっきり江戸時代に制定されたのかと思っていたので、一寸した驚きであった。今でも冬場、食べに行こうかという越前のカニ、子供時代には、行商の人が大阪辺りにも来ていた越中富山の万金丹、そしてテレビの水戸黄門でお馴染みの、越後のちりめん問屋と、福井、石川、富山、新潟は私にはそういった感じでインプットされている。しかし昔の人は、どのコースを採ったのか、白山山系の裾と雖もなかなか険しく、伊吹山系も簡単ではないのに、京都まで、良く商いにやってきたものだと感心する。「源義経」には必ず出てくる、平安時代末期の商人、金売吉次も東北地方産出の金を京で商ったと言うから大したものだ。それ位のことをしないと、肝っ玉のある商人とは言われなかったのであろう、江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は、荒れる海路に紀州から江戸迄危険を冒して、ミカンなどを運び財を成している。それにも似た感じなのであろう。現代の我々は、そこを3時間くらいでやってこられるのだから、やはり文明というのは、大したものである。そう言えば、姫は、今頃、カタールのドーハを発って、カイロへ向かっている頃ではないか、こちらの方は、もっとグローバルである。そんなことを考えていると連れ合いが風呂から帰ってきた。しばらく部屋でくつろいで、10時過ぎにホテルをチェックアウトした。そのままもと来た道を帰るのも変化がないと、何処かによって帰ろうかと話したが、特に行きたいところもない。敢えてと言って連れ合いが、かつてバス旅行をした時に印象に残っている越前の「総持寺」を回って行こうとカーナビをセットした。カーナビは、冷えている時は、タッチパネルが言うことを聞くが、熱くなると、あらぬところを指したり、タッチパネルが反応しなくなる。砺波ICからやはり金津ICで降りるように指示してくる。金津ICを降りたら眼前の標識に「東尋坊」という名前が見えた、幸い空は晴れている、総持寺へ行く前に東尋坊に寄るかというと、そうしようと言うことになり、標識に従って走りるが、相変わらずカーナビは総持寺に誘う。止まって修正も出来ない。そのうち標識も見失いぐるぐる同じところを回ってしまう。そうしている打ちに又雨が降ってきた。之では東尋坊も意味がないと、いっそう帰ることにした、今度はガソリンスタンドを探すのに一苦労。金津ICに入ったのは、午後1時前だった。そこからはただひたすらに帰りの道を突っ走った。雨が降り、前方の大型トラックの飛沫を浴びたり、それを嫌って追い越し最前部に出たりして、今庄-敦賀―越坂と連続した長いトンネル群を抜けると皮肉にも天候は一変、陽が射すようになっていた。それから先は、良い天候の中を、一路自宅に向かった。全走行距離約705km、消費ガソリンは59リットル、リッター当たり12km足らずといったドライブ温泉旅行であった。
2010.11.27
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連れ合いのカードの関係で、ロイヤルホテル宿泊の案内があり、紅葉を見に大山へと計画していたが、大山の紅葉は早く終わり、申込みも遅れた関係で、断念し、今日、砺波へドライブがてら、温泉に浸かりに行くことになった。今夕は、姫もカイロ出張へ出発する日である。いつもなら伊丹までは送るところだが、今日はそんなことで、送ることは出来ない。砺波はチューリップで有名であるし、近くには「おわら風の盆」で有名な場所もある。しかし、そのどれもシーズンを外れているし、連れ合いはどちらへも、行ったことがあるという。特に「おわら風の盆」等は行くものではないという話だ、前に友人と列車で行ったときに、日頃はちっぽけな駅が人並みで溢れ、盆おどりを鑑賞すると言うどころではなかったそうだ。さもありなんとは思うが、ただ車を走らせるだけでは、変化がないのでと、途中東尋坊でも見ていこうかと言うことにして取り敢えずは出発した。あまり早く着いても仕方がないと言うことで、出発したのは10時であった。今日は車の燃費をチェックしてみようと、出発時にトリップメーターをゼロにし、水無瀬の駅前で車のタンクを満タンにした。大山崎ICから名神に入るのはいつもの事だが、連れ合いは何故か、そこから大津間の名神は、なんだか好きでないという。そこで、比較的空いている京滋バイパスを走ることにした。京滋バイパスは、時々姫を大学まで送る時に通るコースだから特に変化はない。しかし、トンネルを抜けると連れ合いが、一寸感動したような声を上げた。紅葉が、綺麗に山肌を飾っていたのである。未だ陽光はうららかで、良い天気であった。瀬田東JCTで名神と合流する。そこからは、都会の雑踏から解き放たれた気になり、ドライブ旅行をしているという気分になってきた。すぐに新名神で、伊勢方面に行く分岐点があるが、今回は、直進である。栗東、黒丸、竜王と見慣れた名前のICやPAを通過する。この辺りまでは、ゴルフで来たこともある、関西のゴルフ圏内と言うところだ。天気予報では、今日は曇りとなっていたが、そろそろフロント硝子に水滴がつき始めた。それでも未だ空は明るい。昔のことなどいろいろ話ながら走行していたが、渋滞はなく非常に快適である。休憩のためにPAに止まったが、そこは伊吹PAである。待てよと良く地図を見ると、北陸自動車道路の分岐点である関ヶ原JCTをたった今通り越して名神を走り続けていたことにやっと気づいた。では、もう少し行き、一宮JCTから東海北陸自動車道に入って走ってもさほど距離は変わらないと話したが、いろいろ迷った末、次のICで降りて、北陸自動車道路の方に帰ることにした。同じ道を帰るのもしゃくだから、関ヶ原ICで降りて、一般道路を、北陸自動車道路の木之本ICに照準を当てて向かうことにした。途中伊吹山ドライブウェイを横目に見ながらであるが、連れ合いは、若い頃は良くこの山などでスキーを楽しんだと言うことである。今回は、山を右手にR365を北上するのだが、狭い道で、前にタンクローリーがゆっくり(制限時速通り)走っている。このまま木之本まで走ると、時間が掛かるので、途中の長浜ICから北陸自動車道路に入ることにした。その頃から空は雲が増し、少しずつフロントグラスの雨滴も多くなりだした。従って、東尋坊を入力していたカーナビは、金津ICで降りることを指示するが、曇った東尋坊は、つまらないという事で、そのまま走り続けることにした。カーナビは、我々が心変わりをしたとは気づかないわけで、あくまで東尋坊に誘うように次の加賀ICでも降りるように指示してくる。更に行きすぎるわけだが、片山津ICくらいまでは、降ろそうとして努力してくれる。その先は覚えていないが、尼御前SAで休憩をと思いながら、またまた通り過ぎ、小さな徳光PAで休憩のため止まった。連れ合いは、姫にメールを打ち、様子を伺うが、出張前の姫は忙しそうで、未だ大学にいるとのことだ。少し眠気が来たので、そこから連れ合いと1区間だけでもと運転を代わって貰った。20分程走っただろうか、小矢部SAで再び運転を代わり、5-6分走って砺波ICを降りた。そこからは、カーナビの指示通り走ったが、目的地のホテルは、遠くから見ることが出来る。程なく砺波ロイヤルホテルに到着、まわりは山で、他に何もないところであった。近くにゴルフコースがあるので、その為に泊まる人も多いようである。出発から3時間半ほどで到着した、340kmのドライブであった。駐車場は、十分な広さで、一角に教会が作られていた。ご近所の人が、ここで結婚式を挙げ、隣のホテルで披露宴というのが定番のコースなのであろう。ホテルに着いたといってもまわりは殺風景なところである、時間の潰しようがない。部屋で少し休憩し、夕食までに一風呂浴びる事にした。まあ、それが目的の旅であるから、迷わず温泉に浸かった。私は、温泉では、露天風呂にはいるのと、サウナにはいるのが通常である。露天風呂の岩組はなかなか凝っていて、広さも十分にあり、良い雰囲気だった。サウナでは、6分入っては水風呂に入り、又露天風呂に入るというサイクルを3回ほどしてたが、サウナで居る人がその知り合いと話をしているのを聞いて、最初何を喋っているのか分からなかった。はじめは外国人(中国人)かと思うほどだが、良く聞いてみると、中国語特有のイントネーションではない。かなり訛りがきつく、どうやら地元の人のようでもある。詳細は分からないが、どうやら日本語であることは分かった。そんな声を後に、浴室を出て、そのまま夕食会場に行くと、テーブルの上には、7組程度の準備が為されていた。明日ラウンドするのであろうか、男性4人組がテーブルを囲んで談笑しながら食事をしていた。夕食は、和食で、少量が少しずつ出てくる。上品な盛りつけに日頃と違って、何処に入っていくのだろうかという感じだったが、それでも最後の釜飯を食べる頃には結構お腹が膨れていた。食事後カラオケを2時間ほど楽しんだ。楽しんだというか、明後日の日曜日、連れ合いの従兄が高槻京都ホテルで毎年恒例のチャリテョー・パーティーを主催する。今回はその時の余興の部でカラオケを歌うことになっている。その為の練習をと言うことで、ホテルのカラオケルームで、歌う候補曲を含め、2時間に亘っての特訓練習だ。どうでも良い時に歌うのでなく、大勢の前で歌うと言うことで、まるでオーディションを受けるために歌う新人歌手のように、1曲唄うだけでもとても体力が要ることを知った。これをプレッシャーというのであろうか。ところが前日辺りの風邪のためか、声がかれて巧く出ない。所々声がかすれて、息が続かないのである。辞退したいが、それも出来ないという。急に気分が重くなった。それでも目一杯練習をして、声もかれきって、カラオケルームを出て、部屋で休憩、寝る前に、再び一風呂浴びることにする。ほんの少し浸かるだけのつもりが、サウナもまだ入れたので、1回だけ使うと、予定の時間をオーバーしていた。入る前に連れ合いと30分という約束をしたのだが、その時が15分頃だったので、連れ合いは時計で30分になるまでと解したらしく私の30分の間というのと違っていたために外で待たせることになってしまった。部屋に帰ると、何回も風呂に入ったり、カラオケでも疲れたりしたので、睡魔が襲ってきて、テレビ番組もそこそこにベッドで、すぐに眠りについてしまった。
2010.11.26
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定例の高槻カントリーでのゴルフコンペがあった。前回はジャンケンで優勝という事になり、ハンディは、20を切ることになったので、その意味では、今回が何処までやれるかと内心は思っていた。ところが、である。その後、瀬戸大橋カントリーで、旧知の同僚とラウンドしてからと言うもの100を切るどころか、110をもオーバーするという悲惨な結果が続いている。何のことはない、どうも、ティーショットが、またまた、滅茶苦茶になってきたというのか、安定しなくなってしまったのだ。之ではゴルフにならない。今日はそんなことを払拭したいと思ってのラウンドだが、結果は110を切るだけに留まった。だいたいが優勝すると大幅にハンディは削られるので、優勝の次のコンペはだいたいブービーと相場が決まっているとのことだ。朝友人を乗せて、ゴルフ場に向かうが、友人は昨日もラウンドしてきたと言う。まぁ、年に60回程度はラウンドすると言うから、週1回のペースよりは多い。私はというと、好きではあるが、昔、なかなか行けなかったが、最近よく行きだしたと言っても年間で多くて40回程度である。そこからして、届くわけはないのだが、加えて、元々我流なので、調子が狂い出すと、どう治して良いのか分からないというのが実情である。因みに、前回、猪名川のラウンドで、同組で回った、シングルと称する人は、年130回程度だというから驚きだ。そこで、今朝、着くなり、このコンペでシングルの人に、聞いてみると、多い時もあったが今は年80回程度だという。何もやることがないしね、とさりげない。その人曰く、中小企業の社長をしているよく同行する御仁は、年320~330回とほぼ毎日行っているのだという。もちろんシングルだそうで、クラブチャンピオンになったこともあるらしい。いやはや参ったとしか言いようがない。そんなことで、今日のラウンドは、成績の期待は出来ないことは承知だが、やはり100を切るという目標は達成したいとは思っていた。インからのスタートである。我々の組は2番手のスタートで、ハンディが私と同じくらいの女性と、ハンディが倍近く違う男性の3人である。前の組の1人が眼前の池に入れるというのを見て、一寸落ち着いた。人の不幸で落ち着くとは情けないが、後続が見守る中、私の組になり、先打を引いた私は10番のティーショットを打ったが、まずまずの飛びで、右のラフに落ちた。左足上がりのセカンドは、あまり良くなかったが、3オン出来た。しかし下りに乗せたので、2パット目が惜しくも外れ、3パットの出だしだ。11番のショートは、当たり損ねてバンカー。ナイスアウトで1.5mに付けたが、2パットとしてしまった。12番はサービスホール。前方クリークを避けて、ドラーバーは持たない。当たりは今一で、右のラフだ。2打は、ニアオンのカラー。パターで3オン1パットのボギー。13番は、FWに出たが、当たりが悪くスライスして、距離が出ない。従って第2打で惜しくもグリーンに届かない。ところが、何の変哲もない10ヤードほどのアプローチをチョロして、ダボになる。この辺から次第におかしくなる。14番打ち降ろし池越えショートでは、風のせいか、失速し池ポチャとなる。特設で第3打をこれまたヘッドアップでチョロし4オン2パットのダブルスコアとなった。いい加減自分が嫌になる。15番は、ティーショットが天ぷら気味で上がりすぎ距離は出ず右ラフへ。2打目はクロス方向に良い当たりで、バンカーに入るも勢いで前方に出た。しかし第3打で当然乗せるべきところをショートし、次に乗せたのが下り1.5mが残るパット。あろう事か、カップを通り過ぎて、元より距離が遠くなり3パットした。16番ロングは、飛びが悪く、右のラフに入る。2打目は、まずまずの当たりだが、やはり右のラフのままだ。つま先上がりの残り180YDを3打で、グリーン前にある池の手前の左足下がりに運ぶ。4オンで2パットとボギーだ。17番は之も当たりが今ひとつで、なかなか芯を捕らえられない。しかも取り返そうと、2打目を力んでダフってしまう。3打目、打上をグリーンに届かず、4オンとした。6mのパットはあと少しで、カップに蹴られて2パットだった。前半最終18番は当たった音は良かったし、感触もまずまずだった。パートナーはナイスショット、今日一かという声もしたが、実際はよく見ていなかったようで、今日一の「日」がない今一だった。2打目も右ラフから左ラフへのチョロ気味、3打で木越えのFWで、4打目最終池手前のラフ。そこからのアプローチは、ナイスオンだが2パットで、ダボ終了だ。50は切れない。軽くソバで早めの昼食を採り、後半の1番スタートした。2打目で、前の組に散々待たされ、2打3打をチョロ、又バンカーへの放り込み、そこから脱出に2打、パットも2で、ダブルを通り越してしまった。もうやる気がないと投げ出してしまいたかったが、そうも行かず、そのままずるずると、次のホールへ向かう。2番のミドルでは、右のラフに飛んだが、まずまずの距離は出た。それでも、2打目はグリーンに30cmほど届かず、パターでアプローチを打ち切れず、結局2パットで、パーを逃した感じだ。3番は今日初めて納得のティーショットで、FWのセンターを捕らえた。2打目は一寸ダフリ気味だが、結果はまずまずで、3打目はバンカーの手前ギリギリのエッジに止まっていた。そこで、トップして、グリーンオーバー、5打でやっと乗って、2パット。必ず何かへまをする。4番ショートは、距離はぴったりだが左に外し、ピッチエンドランで、ピンを2m越えてオン。ボギーだった。5番もティーショットは左のラフ、返す2打目はクロスの右ラフへ。左足下がりの3打をチョロ気味のゴロでFW、4打目でやっと残り110となり、5打でオン、2パットのダボだ。6番ではFWに置きに行くようなショットになってしまう。2打目はクリーンに残り60YDに運んだが、何と3打目を完全ダフリで何をしているのか・・。4オンの2パットである。7番は引っかけて左のラフへ、2打は、ジグザクで右のラフへ、3打目は20YD届かず、4オンするも7mを残す。2パット目はカップをかすめるが入らない。3パットのトリプルである。8番ショートもお恥ずかしい限りだ。一寸右には出たが、1m届かずラフだ。そこから、何と又チョロで、グリーンに乗らない。3打目でやっと乗って、そこからまたまた3パットのダブルスコア。何をやっているのか!最終の9番ホールに来た時、もうこれまでかと、一向に納得のいかないショットとパットで、ブービーメーカーさえも想定内だ。最後のティーショットも、納得のいかない当たり損ないのFW。2打目の当たりはクリーンだが、右のラフに入り、左足下がりになっている。それでも何とか3打目をアプローチゾーンに運び、やっとの事でオンしたが、細長いグリーンの手前の方に乗り、7mを残した。思い切ってパッティングと打ったが、スライスラインを読み切れず、2パットとなった。上がって、前半よりも5つもスコアを崩し、100を切るどころではなかった。もうゴルフが嫌になるといった後味の悪い結果だ。ブービーでもメーカーでもなく30人中28位の体たらくだった。従って、ブービー賞も、当月賞も、当日賞もドラコン、ドラ短、ニヤピン、バーディーと一切の賞はない。ただの参加賞だけで、すごすごと引き返した。あーぁ、ゴルフは疲れる。
2010.11.25
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今日は、連れ合いが期末試験を作成する手伝いをした。彼女が一生懸命に問題を作成し、その最終仕上げでパソコン入力が私の役目である。自分も、会社時代には、商品の技術マニュアルをパソコンで作ってはいたが、図などはコピーして貼り付けるというものだった。従って、あらかじめ図面のスペースを空けておき、一旦アウトプットした文字の空きスペースに別途作成の図面を貼り付けて又コピーを取るという原始的な方法だった。人間窮すれば通ずで、そんな手間の掛かることでは仕方がないと思っていたが、最近は、図面や絵をスキャンして画像データとして保存できるので、そのまま貼付、大きさは自由に調整できると言うことを知った。こういったことは、知っている人にとっては造作もないことなのだが、初めて知る人にとっては(かつての私などのような)随分と手際が良く映るらしい。連れ合いの人使いの巧いところは、「へーぇ、こんなことが出来るの、素晴らしいわ、まるでマジックみたい!!」とか何とか、私をおだてるのである。今となっては簡単なことなのだが、そう言えば、私も昔は手間の掛かることをしていたものだと振り返って、そう言う目で見れば素晴らしいことに見えるのかも知れないなとまんざらでもなくなるわけだ。まあ、そんなこんなで、お手伝いをしていると、今の中学生のレベルが見えてくる気がする。自分の昔のことはなかなか思い出せないが、連れ合いを通じて聞く中学生は、どうも学力低下が著しいと感じる。それもそうだろう、大学生でさえも分数計算が出来ないとか聞いたことがあるくらいだ。分数でも仮分数や帯分数になったらさっぱりお手上げだと言うことも聞いた。それは、中学生ではなく大学生なのだ。そこで改めて「ゆとり教育」の罪を考えてしまった。功罪と書きたかったが、功の方は全くなかったのではないか。学歴偏重社会で、学歴が将来を決めるといった時代では、猫も杓子も大学に行き、本来なら大学教育について行けないものまでもが「学士」の名前欲しさに大学に行くのである。「ゆとり教育」というのは、知識重視型の教育方針の詰め込み教育ではだめで、これを改め、体験重視型の教育方針と授業時数削減のゆとりある学校をめざそうと言った趣旨の教育のことであった。名前は実に綺麗で、いかにもゆったりとした人格形成にはこうでなくてはと思わせるような響きである。「ゆとり教育」の端緒は1980年くらいから始まったようだ。その種まきは1970年代に日教組辺りから声が上がったという。曰く、「今のようにギスギス、ガツガツした教育で、ただただ知識を詰め込むだけの教育は、随所に弊害を醸し出している」というのがその根底にあったようだ。もっと「ゆとりある学校」にしなければと、当時の中曽根内閣主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で審議され、ゆとり教育への流れが確立したとされる。それに基づいて、文部省や中教審が「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入して、2002年度から実質的に開始されたとのことだ。しかし、学童はどんなゆとりを持ったのだろうか。会社側としては雇う時に、余り知識はないが、ゆったりとおおらかに育った人間を先に雇い、ゆくゆく会社に必要な知識はオン・ザ・ジョブ・トレーニングで行おうと言った悠長な企業など何処を探してもない。現在では、大学は出たけれど、就職できない超氷河期と言われた頃を更に下回る、就職内定率57.6%にまで低下しているという。ほぼ4割が就職できないのだ。かてて加えて、諸外国との学力差を比較される時、日本の中高生の学力の低下が著しいと言うことが分かった。事業仕分けでお馴染みの、蓮舫大臣なら「何故1番でなければいけないのですか、2番3番ではいけないのですか」と言われるかも知れないが、果たしてそうだろうか。ゆとりを与えられた(学校の教育時間が減り、土曜日に親子のふれあいをと目論んだ)教育では、親父殿は、土曜出勤があり、子供は学校では受験に直結しないので、塾に通うことになり、そう言ったことに関心のないものだけがゆとりを持って、親を殺すなどの結果になっただけではないのだろうか。今はその反省の上に立ち、中央教育審議会に対し、学習指導要領の見直しが要請され、事実上「ゆとり教育」の弊害が認められた格好で、「脱ゆとり教育」と称する方向に動き始めている。私もテレビで見たのだが、教科書が、例えば100ページのものが130ページとかに増やされ、元の教育(詰め込み)が復活したようだ。一例で言うと、ゆとり教育では、「授業」のことを、「じゅ業」と書いている。それが、「脱ゆとり教育」では、「授業」にルビが振ってあるのだ。「じゅ業」の教科書で習った子供は、当分の間「授」という字を知らないまま過ごすわけで、何とも恐ろしいことだと私は思うのである。新聞記事も「じゅ業」で通すならそれも良し、世の中から漢字を無くすならそれも良いかもしれないが、やがては知らなければならない漢字を先送りして、その間にどんなゆとりを授けようというのだろうか。企業に体験入社するとか、社会勉強と称して、いろいろなところを見て回るとかあるようだが、それで一体学力低下に見合うと言えるのだろうか。インド人は、2桁の九九を覚えるという。インド系のアーリア人は、数学が得意で、ドバイにあるマイクロソフトの社員は殆どがインド人であるという。最も母国人よりは1/4程度の給料で済むからでもあるが。例えば韓国人や中国人では、世界に羽ばたくために英語が必要と分かっているから、しゃにむに覚えるし身につける。一方日本はと言えば、遅ればせながら数社では、英語が出来ないと出世の道が閉ざされるといった強硬手段を執っているようだが、昔人間の我々世代やもっと以前の世代では、英語は「敵性言語」として使うことすら禁止された時代があったという。野球のストライクは「よし」、ボールは「だめ」等と言わなければいけなかった時代を想像して欲しい。今消えようとしている「ゆとり教育」は正にこの変形と言わざるを得ない。考えてみれば、我々は、英語を、中学から始め3年間、高校3年間、大学4年間と大学卒なら最低10年間は英語を学んできているはずである。にもかかわらず、私がフィリピンに駐在した時、大学卒の男が、現地のフィリピン人が英語で話そうとすると、「エイゴ、ノ、ノー」と言って逃げる始末である。その大学名を聞いて恐れ入るが、東京都の超有名大学なのである。それはまぁ、例外としても、おそらく大半の人は英語が巧く話せないというのが正直のところではないか。かく言う私も的確な英語が話せるわけではないのだが、くそ度胸だけは付いている。日本が陸の孤島(いや鎖国下の島国)であり続けるなら構わないが、盛んに「グローバル」をと叫ばれている時に、やはりゆとり教育はないだろうと思う。物心付かない子供の内には、とにかく詰め込むことが必要だとある評論家は言っていたが、一理あると思う。余り関係はないが、私も子供の頃、母や姉から百人一首を教えられて、そらんじたが、その内容は、殆ど分かっていなかった。しかし今では、その意味が分かるとともに、子供時分に覚えていたからこそ、興味も湧くものだと考えた。「π」の数字を100桁も言える子供もいる、全国のJRの駅名を言う子もいる、世界の国名とその首都を言える子供もいるわけで、子供はどんな方向にむいているのか、早々と決めつけるのは早計であると思う。追記:ゆとり教育は、日教組の要求から端を発したと理解していたが、今回の行きすぎた内容を前提にしたものではないようだ。ILO辺りから日本は働き過ぎとの批判をかわす為に、取り入れたものが、寺脇研に代表される超エリートによって、曲げられ、ゆとり→子供の自主性(そんなことが出来るなら苦労はない)→教科書削減(漫画本みたいになる)→学力低下という経路をたどったようで、土曜に休みを取る為、主要教科の時数削減→教科書ページ数の削減となったようである。今になって「脱ゆとり教育」を云々しているようだが、生徒の学力を低下せしめ、国際的にもみすぼらしい結果を招いた、寺脇研などは亡国の徒であり、この際厳しく断罪すべきであると考える。
2010.11.24
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暴力団「金正日組」が代替わりをしようとしている。それを各国に認めさせようというのか、また組内部の引き締めを計るのか、とんでもない行動に出たのである。つい8ヶ月ほど前の3月26日、韓国海軍哨戒艦の「天安」が北朝鮮によって沈没させられたばかりである。この時も盛んに識者や専門家が出てきて、ああでも無いこうでも無いと解説してくれた。この時も、国連安保理へ提起して云々と気長な話であった。オバマ大統領は就任当初、甘過ぎとも言える、後期ブッシュ政権の融和的な北朝鮮外交を踏襲していた。哨戒艦沈没事件後は、少しは、ハードになったのかも知れないが、全く、暴力団「金組」を抑えつけることは出来ていない。正にやりたい放題である。子供というか、幼児期には、自分の意図したことが通らなければ、泣き続けてでも良識ある大人が困って譲歩するまで泣くのを止めないという事がしばしば見られる。その時の幼児は、必ず大人の様子を伺っているものだ。完全に無視をすると、そのうち疲れて止めてしまうのだから、放っておけばいいと思うのだが、この暴力団「金組」それを許さない。もちろんいろいろな問題を抱えているからであるが、先ず第1に、核開発が着々と進んでいると言うこと、さらには、日本を含む各国からの拉致被害者を拘束していると言うこと、などが挙げられる。冷戦が終わったとはいえ、共産主義国家と、資本主義国家間の水面下での確執は根強いものがある。こういったならず者暴力団「金組」と雖も、共産圏から見れば、対資本主義圏の橋頭堡なのである。一方、自らを振り返れば、韓国は、日本同様、資本主義国家の橋頭堡化されているわけである。ロシアの技術を用いて、かつては「ノドン」や「テポドン」の弾道ミサイルを開発してきて、その到達距離は、「ノドン」の射程1300kmから「テポドン1号」の射程1500km以上とその距離を伸ばし、「テポドン2号」では射程6000kmと飛躍的に、長射程化が進んでいる。未だ、記憶に新しい、我が国上空を通過していった弾道ミサイルも、「テポドン2号」とも推定されている。さらに、「金組」が創立して75周年の記念パレードに登場した「ムスダン」は「テポドン」型を改良したものであろうか、全長は約12メートルとされ、推定射程距離は2500~5000kmということである。子供は、自分が欲しい物を手にしたら、先ず使ってみたくなる。額に飾って、眺めて悦に入ると言うことでは済まされない。こうなると、日本本土はもとよりグアムの米軍基地、アラスカ州にも届く射程距離であるから驚異なわけだ。こういったように、背後には、ロシアが、そして、目に見えて中国が、陰に陽にこの暴力団を用心棒替わりに雇っているという感じなのである。全人口が2400万人足らず、その殆どが、零細な農民であり、軍人が100万人を遙かに超えているのである。自前でこういったミサイルや、核開発を行えるわけがない。にもかかわらず、国連も、アメリカも、EUでさえも、「極めて遺憾である」と言うだけで、成敗しようとはしない(出来ないのである)私は、日本に暴力団が存在するという事実があり、その暴力団を、よからぬ事を起こすと予想されても、事前に取り締まることが出来ないことを極めて不思議に思っていたが、それと同じ事である。この間、山口組系のナンバー2が逮捕されたとあったが、これも、みかじめ料名目で現金4千万円を脅し取ったと言う不法行為があったからである。警察は、暴力団根絶と言いながら、水面下での巧妙な動きまではつかめないのと全く同じ構図なのである。しかし、今回は、識者や、専門家も、必ずしも「想定内」であったとは言っていない。皆総じて、寝耳に水である。日本の菅総理などは、之から「事実を究明して事に当たる」と暢気なことを言っている。もちろん暴力団「金組」とおつきあいはないわけだが、何かをしでかしてから事の真相を調査するでは、遅すぎると思う。昔、陸軍中野学校というものがあり、諜報活動を行っていたが、そこまではどうかという気もあるものの、先頃ロシアのメドベージェフ大統領が急遽我が国北方領土を電撃訪問すると言うことすら読めないような大使や公使だけでは全く心許ない。今回の暴力団「金組」の突然の韓国砲撃は、大方、寝耳に水だと表現している。中国でさえも、用心棒の行きすぎを、表面上は余り肯定していない。ロシアにあっても然りである。しかし、これらの国が、心底どう思っているかを知ることは難しく、如何に専門家、識者と雖も、「狂人」の心を読み取ることが不可能なのと似ている。韓国哨戒艦沈没事件以降、国際社会の暴力団「金組」に対する包囲網づくりが進められていると言うことであったが、せいぜいアメリカが、韓国に全面的な支持を打ち出すと表明しただけである。我が国などは、喉に刃を突きつけられているにも拘わらず、一旦呼吸を整えて、アメリカの動向をうかがった上で、大した事をする予定は無く、対抗措置とか言って、輸出入の部分的停止で制裁と変えると言った具合であろう。アメリカのオバマ政権は、我が国の前鳩山政権と同じく、全くお人好しで、脆弱な発想しか持ち合わせていなかったようだ。「まさか、そこまでは・・・」と言う見積もりではなかったろうか。暴力団「金組」はとことん無視されることを嫌い、むりやり緊張を作り出して、自分の考えを進めようとする児戯にも似た方法を取り続ける。それをまた日本のマスコミなども「瀬戸際外交」と言って、一定の固有名詞でその方法を是認しているかのようだ。そして、それが過去、うまくいっているので何度も使うわけだ。之が正に幼児の大泣きに相当する。前回の韓国哨戒艦沈没事件のときも、アメリカは独自行動を起こす大義名分を得られたわけで、韓国をその前方に立て、日本、欧州連合(EU)を巻き込んだ“有志連合”を形成して対応すべきだという結論であったが、ナイーブ(認識の甘い)なオバマ政権は適切な対応を取れなかった。その後オバマ政権の「金組」政策は、かなり強硬になってきたと言われ、それゆえに、「金組」の挑発戦略が再び奏功する可能性は低いとの判断であったのだが・・・。指定暴力団「金組」は今回も韓国や、アメリカは、何もしないと考えている。何か始めても、中国やロシアは、表面上の遺憾の意に反して、実際の行動を起こすとは考えられないし、もしかしたら、この「金組」はすでに中国の了解は取っているのかも知れない。国連安保理がどうと言っても、中国もロシアも、拒否権というものを持っているわけで、大事に至る前に拒否権を行使することが十分予想されるからだ。今回のような、挑発行為の立案と行使については、すでに、韓国哨戒艦沈没事件の後の観測でも、可能性があることは一部では予想されていたようである。今回指定暴力団「金組」が、砲撃したのは、北方境界線(NLL)の韓国側であると言うことだが、「金組」は独自に境界線を、もっと下に引いていると主張するわけで、自国内に爆弾を打ち込んだ、内政問題という事とも言い抜けるつもりである。之は正に、尖閣列島における、我が国主張の境界線と、中国主張の大陸棚説による境界線の違いに酷似しており、屁理屈を付ければ如何にでも言い分けられると言うことであろう。アメリカが、今回のこのNLLにコミットするならば、日本が主張する、尖閣列島での排他的経済水域についてもコミットして貰いたいものである。
2010.11.23
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いつ頃から日本はこういう国になったのだろうか。私がもう少し若い頃には、こんな事はなかったのにと思うようなことが相次いで起こり、名言・珍言に対し、言論集中して、迷走、時間を空費して、結局はその間が無駄に過ぎていく。今問題になっているのは、柳田法務大臣の失言(まあ、本音)である。即ち、「法務大臣というのはいいですね。二つ覚えておけばいいですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と、あとは『法と証拠に基づいて適切にやっております。』この二つなんです。」と言う言動だ。それとついでながら、仙谷官房長官の「自衛隊は国の『暴力装置』であるから」との言。昔の学生運動のアジ演説時代の延長線上での発言のようで、別に嘘を言っているつもりもないわけだ。このようなことをあげつらうと、枚挙に暇がないのである。と言うことは一体どういう事かというと、まさに、日本にはもう人材は居ない、と言うことである。之は、政治家(屋)の話であり、之に関わる関連企業(似非評論家、かっこよく横文字でコメンテーターと呼ばれる輩である)の人種達の話である。昨今は、正義の先方であるマスコミも、政治に荷担する者が多く、右顧左眄が著しいと感じる場合は多い。手前味噌ではないが、私は、幸か不幸か(幸は、このように痛ましいくらいにお粗末な同類でないという意味と不幸は、これほど軽くても、又復活できたり、多額の収入が得られたりするというメリットがない)工学系(もの造り)の道を歩んできたことだ。自分で言うのも何だが、父親の背中を見て育ってきて、終戦直前に生まれ、長じた時には、鉄は産業の米と、重厚長大が持てはやされ、胸を張って自分のため(天下国家のためとは殆ど意識していなかった)一所懸命に頑張ってきたわけだ。もちろん食べるためではあるし、現在のように、サーチ理論による売り手と買い手のインバランスでの取引相手が見つからないと言う結果の失業率が悪い時でもなかった。この件に対しても、あるコメンテーターは「あいつら、えり好みをしとるからや、働き口ならなんぼでもある」と極論を吐いていたが、之が政治家であれば、また問責問題になるかも知れない。テレビで映し出されることが本当であるとは限らないが、平均的であると思われるある学生は、「もう40-50社面接を受けました。いまはただ1社でも内定が欲しいです。」と応えていた。最近は、理工科系に進む学生数が以前と比べて割合が減少しているという。安易に政治を目指す者は居ないと思うが、額に汗するよりも、口先三寸での仕事の方が、楽で、格好が良いと思っているのだろうか。一つには、喜ばしいことではあるが、日本人の生活レベルが大幅に改善されたことに起因している。他の東南アジアや、中東、アフリカに比べて、格段に一人当たりのGDPが増加し、可処分所得も増加している。しかし、何故、高齢者が、金を貯め込んで使わないのか、棺桶に入れて持っていくことは出来ないのにと考えると、之はもう、子孫に美田を残す意味でしかないわけだ。先の首相を務めた、麻生、鳩山両氏は、正に、その美田を受け継いで、しかも選挙地盤と、ネームバリューを活用して頂点を極めたのである。それ以前もろくな首相を輩出してこなかったが、いったい、日本が弱体化したターニングポイントはどの辺なのだろうか、失われた20年というと、宇野宗佑、海部俊樹辺りであり、失われた10年と言えば、森喜朗からこちらである。何がどう変化したのか、つぶさには思い浮かばないが、1980年代から日本の産業構造は「重厚長大」から「軽薄短小」へと転換し始めたと言え、コンピュータ,光ファイバー通信,セラミックスなどに代表される先端技術産業への転換であった。更に現代では、通信、ゲーム、金融、小売りなどの非製造業に軸足が移ってきた。海外の安い労働力に依存し、国内が空洞化するという日本の政治のミスリードによるものが大きい。私の見るところ、製造業に従事する者達の気持ちは、昔と変わらないが、政治の堕落が今日の日本の地盤低下を招いたと言うことは明かである。まさに、「技術は1流、政治は3流」である。民主党政権に変わって、何が良かったのか、私の意図したことは、殆ど変化がないと言うことで、最近では、政権を担う気概を持つ政治家が居ない上に、経験もないといった2重の弊害が露見している点である。小泉政権時の「自民党をぶっ壊す!」といった威勢の良い、アジテーターで、結果は、2極間格差即ち、貧富の差が大きくなっただけに終わった。後を引き継ぐ、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎ではどうしようもない。志の前に徳川末期の家督相続的状態であった。国民の恕限度もここまでと、政権交代をなし、民主党の鳩山由紀夫が颯爽と出ては来たが、「みゆき!」と一言言っただけで、日米関係はぶっ壊すは、北方領土は返ってこないは、拉致被害者には一顧もしないはで何が宇宙人だという体たらくであった。かといって、松平定信の寛政の改革ではないが「白河の清きに魚のすみかねて もとの自民の濁り恋しき」とは迄は行かない。事業仕分けも、志は是としても、一向その実が上がらない。私が最も期待した、既得権益との決別、天下りの根絶は、何やら画餅に終わりそうな感じであるのは情けない。対外的にも、中途半端に対米の軋みを増し、対中国では、侮られて、漁船(形はそうだが、政府の差し金の工作員であろう)に保安庁の巡視艇に体当たり攻撃を掛けられ、為す術もなく引き下がっている。You-Tubeで流れなければ、頬かむりするつもりであったろうが、中国政府(サウジアラビアなどイスラム圏でもそうだが)が、言論統制に躍起になっていると同じように、今の世の中言論を封じ込めることは不可能になっているのだ。中国の横暴は、北朝鮮の増長に繋がる。一例で、柔道のアジア大会女子63キロ級で北朝鮮のキム・スギョンにボクシング紛いで、3回も殴られた上野順恵の話である。上野はかろうじて金メダルを獲得し、全日本柔道連盟は国際柔道連盟に検証するよう文書を提出するとのことだが、事はそれ以前の問題であろう。中国は、自分より悪玉を作ることで、矛先を鈍らせようとしている感がある。そもそも、北朝鮮を国家と呼ぶにふさわしいかという問題である。プラトンの「国家」によれば、 「しかるに、その支配階級というものは、それぞれ自分の利益に合せて法律を制定する。たとえば民主制のばあいならば民衆中心の法律を制定し、僣主制のばあいならば僣主中心の法律を制定し、その他の政治形態のばあいも同様である。そして、そういうふうに法律を制定したうえで、この、自分たちの利益になることこそ、被支配者たちにとって<正しいこと>なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する。 さあ、これでおわかりかね?わたしの言うのは、このように、<正しいこと>とは、すべての国において同一のことを意味している。すなわち、現存支配階級の利益になることにほかならぬ、というわけだ。しかるに支配階級とは、権力のある強い者のことだ。したがって正しく推論するならば、強い者の利益になることこそ、いずこにおいても同じように<正しいこと>なのだ、という結論になる」と書いている。因みに、僣主とは、古代ギリシアで貴族制をとるポリスにおいて政治的影響力を増大させてきた平民の支持を背景に、貴族の合議制を抑えて独裁的権力を振るった政治指導者。とあり、中世後期のイタリアなどで共和制国家のトップながら独裁制をしいた指導者などにも同じ訳語が与えられている。とのことだが、私は、北朝鮮は、ひどく物騒な武器(核兵器)をちらつかせる暴力集団でしかないと思っている。
2010.11.22
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連れ合いの同僚に、沖縄出身の先生が居られる。その先生からのお誘いで、琉球音楽(三線)の発表会があるというので、茨木のユーアイホールに出かけた。午後から開演と言うこともあり、昼食を済ませて電車で行くことにした。阪急の茨木市駅は、我々が通った高校があり、勉強したり、運動したりと、仲間と時を過ごした懐かしい場所である。私はバスケットボール部に入っていた関係で、最近は、そのOB会を立ち上げる手伝いをし、その為に高校へも何度か通った。大阪に帰ってから、私の交友関係が急に広がったのも、この高校有ってのことである。しかし、当時と同じ場所に駅はあるのだが、駅前と言い、高校といい、全く雰囲気が変わっているので、懐かしさもほどほどである。駅で降りて、連れ合いは、出演の同僚さんに渡す花束を買うために商店街を通った。ここは通ったことがあるのだろうか、殆ど覚えがない。茨木神社を通ると、七五三で、着飾った子供達がちらほら見える。当時は、我が母校に受かるためにとわざわざこの神社に参った人もいるとの話だ。茨木神社の神主は当時連れ合いの高三の担任であった。それから川端通りを尽ききるとそこにユーアイホールがでんと見える。思えば、この川端通りは、未だそれほど車もなく、護岸工事も進んでいなかった。バスケットボール部で体力を付けることを目的としたランニングをこの川沿いにしたことや、体育祭のマラソンコースにもなっていた土手である。しかし現在は、車通りと化し、昔の風情は一切感じられない。ユーアイホールは(You I Hall)と言うことで、特に考えを凝らした名前のようではない。ここは、財団法人茨木市文化振興財団に所属していて、茨木市で催される各種のイベントを一手に引き受けているという感じである。今回のイベントの正式名称は「吉永安正 琉球音楽研究所 第3回発表会」と言うことであった。3年ほど前に厚生年金会館での沖縄音楽講演会に招待いただいて出かけたことはあるが、規模は今回の方が大きな感じを受けた。ユーアイホールは収容人員が1000人であり、幅は若干小さめではあるが、高さは高い。1時30分開演であるし、それに間に合えばいいと位に考えていたのが甘かった。着いたら、舞台近くの席からずっと後方まで、空席はないのである。座っていないように見えても、席取りの何かが置いてあるわけで、結局2階席の方に回ったが、そこも後方に向かってぐっと迫り上がっていたので、座った位置的5階から舞台を見下ろす形となった。今回は、琉球音楽研究所主唱する吉永安正氏が今回で活動を引退すると言うことも有ってか盛況を極めているようだとも聞いた。氏は1929年に久米島に生まれて、幼少を過ごし、1969年関西に移住したのだそうだ。大阪、兵庫には沖縄出身者が特に多いようで、連れ合いの同僚先生もその中に入ると言うことだ。遠く故郷を離れ、異国に近い感覚での生活で、心を癒してくれる唄・三線は彼ら「しまんちゅう」にとって、日々の生活に欠かすことのできないものだったようだ。 そこで、1975年、沖縄の伝統文化を関西の地に息づかせ、広げる事を目的に、研究所を設立して、沖縄民謡、古典音楽、琉球舞踊、エイサーなどを広め始めたのがきっかけだそうである。沖縄の気候風土や文化、現状、平和の祈りなどを三線に込めての弾き語りするほか、民謡の解説も行うというものだ。今回は、その活動の一環であり、81歳を超えられた師匠の引退公演的な要素もあって、場内は満席であったわけだ。そう言えば、私の学生時代の友人で、三菱重工で活躍、最後に沖縄勤務をした同期生も、この間も、同窓会企画で飛騨高山に旅行した時、関西から三線を持参で、ひと語りしてくれたことを思い出す。沖縄の歌は、口笛(?)で囃したりする独特の音調である。公演の中にもあったが、夏川りみの「涙そうそう」などは良く聴く。沖縄出身の人は多い。昔の仲宗根美樹を知る人は少ないかも知れないが、ボクシングの元世界チャンピオンの具志堅用高、渡嘉敷勝男も沖縄出身であるし、ゴルフでは、宮里藍、宮里美香、諸見里しのぶ、上原彩子等女子選手が気を吐いているが、友利勝良、宮里聖志、宮里優作らも沖縄出身である。公演は3部に分かれていて、音楽研究所の歩みや、民謡、沖縄の歌遊び、そして、平和の祈りを三線に込めてと言う構成であった。沖縄民謡の「南洋浜千鳥」は三線では良く聴く歌であるが、基本的には、抑揚の少ない単調な三線をバックに、歌い手は、裏声を交えて歌う、哀愁に満ちたものである。最初は「けふのほこらしゃや なをにぎやなたてる つぼでをる 花の露きやたごと」という、「かじやで風節」で、意味は今日のうれしさは、何にたとえようか 花のつぼみが朝露をうけて 満開するようだといった、発表会そのものの気持ちを唄った古典舞踊とともに始まった。歌の泉(うたぬいじゅん)では、最後のスラヨーのかけ声がいかにも沖縄らしい。民謡では、石垣島の「繁盛節」などが歌われた。世も世、中国漁船が、石垣島近くの尖閣列島を我が物顔に通過しているわけである。沖縄の人達(しまんちゅう)は、本土の人(やまとんちゅう)をどう思っているのだろうか、沖縄は琉球王国として、清時代から、中国大陸と日本の文化の両方の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けながら独自の文化を築き上げて来たわけで、日本に帰属して、前門の虎(アメリカ)と後門の狼(中国)に挟まれて、苦難の歴史を辿っている。そう言った気持ちが、この舞台でも披露された。「平和の琉歌」である。その歌詞を1番だけ書いておくと、「この国が平和だと 誰が決めたの? 人の涙も渇かぬうちにアメリカの傘の下 夢も見ました 民を見捨てた戦争の果てに蒼いお月様が泣いております 忘れられないこともあります愛を植えましょう この島へ 傷の癒えない 人々へ語り継がれて ゆくために」 又涙そうそうは、余りにも有名になったが、沖縄出身の人達が合唱するのは又別の味わいがある。「かりゆしめんそーれ」(観光小唄)では現在の沖縄に是非来てくださいと、沖縄の良さをアッピールしている。沖縄の風光明媚な場所や人々の生活文化などが歌に織り込んであり、南洋情緒を誘う歌である。現実の社会を生き抜いていかなければならない沖縄は、それでもこういった歌が一番似合いそうな気がする。「エイサー」は沖縄独特の勇壮な、太鼓を叩きながら唄い踊る伝統芸能である。沖縄県では、通常お盆の時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するために踊られるようであるが、現在は観光化している。エイサーの由来は、浄土宗系の念仏歌に挟まれる囃子の一つである「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」から来ているとされる。連れ合いの同僚は、之にも大太鼓を抱えて壇上で踊っていた。旗頭をするべき人が、なにやら赤褌姿で、全体を仕切っているかのようにコミカルに踊る様は、大変面白く、遠くから見れば、でん助か、加藤茶が踊っているようでもあった。想像していたよりも楽しい舞台であった。こんな事なら少し早く来て1階の良い席で見たら良かったとは私の感想である。
2010.11.21
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66回目の誕生日を迎えた。長いように思えて、短い期間だったようでもある。連れ合いは、私より9日間早く生まれているので、昨日までの9日間は、お姉さんだったが、今やっと追いついた。若い頃は、誕生日は、人の能力に関係なく、訪れるものだと思っていたが、最近になって、仲間内でも早世したりするものも出るに及んで、能力ではないが、誕生日を年々迎えられることに感謝しなければと思うようになった。今までの習性で、誕生日だからと言って、特に感慨はないのだが、昨年から前期高齢者と区別されるようになってからは、いっそう生産に従事することもなく、従って、積極的にGDPの成長に関与することもなく生きているわけだ。従って、何となく、罪の意識ではないが、老いていくことを、より一層意識するようになった。人の寿命は、年々伸びているので、ただでさえも高齢者の数は増え、一方では、少子化のために若い人口が、増えないという最近の情勢である。この傾向は、特別な方策を立てたとしてもにわかに変わりはなさそうである。我々が生まれた頃の人口分布は、若年から高年そして老年に行くに従って、二等辺三角形の形を保っていたが、現在は、段々と老人が死ななくなり、新しい生命の誕生が少なくなったと言うことで人口分布は、逆台形型に近づいている。現在の日本は、どう見ても、物が余り、生活は豊かになっている。先ず、一頃のように、食べるものがないと言うことはもはや考えられない。賞味期限が切れる少し前から、物は廃棄するというようなことも聞き、大量の食物が、無駄になっているのだという。少し前に、100歳以上の幽霊老人が沢山出るという変な現象があったが、まさかそれによって、平均寿命が伸びていると言うことではないだろう。高齢という線引きは曖昧且つ主観的な部分があり、判断は容易ではなかったので、国連の世界保健機関 (WHO) では、65歳以上の人を高齢者と定義している。特に、65~74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者、85歳以上を末期高齢者と呼んでいる。之に従って、企業での定年退職年齢を従来の、60歳から65歳にする方向である。未だ完全に65歳停年になっているところは少ないようだが、徐々にそうなって行くであろう。日本の平均年齢は世界一であり女性は、86歳余、男性は79歳余であるという。平均寿命は、0歳児の平均余命と言うことで、私の場合、平均的に見て後どれだけ生きられるかというと、13年余という事になる。これから先は、生まれてから小学校を卒業する期間分だけに相当する。元気に生きれば、年寄りも長く使えるのだが、日本という国は、年寄りを巧く使うという事が下手である。庶民の定年後の生活は、マンションの管理人か、警備のおじさんか、と言うことで、なかなか知的業務とかいった仕事は準備されていない。最近は、やっと、そう言ったことを問題視して、何とかベテランに仕事をさせる方法はないかと考えているようだが、なかなか知的好奇心を満たすような仕事はそうそう無い。昔の人は、数え年とかいう年齢の数え方をする。昔は、その数え方が余りよく理解できなかったが、要は、生まれた時点で基点となる最初の年を「1歳」とするわけで、それ以降元日を迎えるごとにそれぞれ1歳ずつ歳を取ると言うことらしい。之に依れば、元旦が、年を重ねる時期であり、誕生日とは関係が無くなるのである。即ち、私の場合は、今日(11月20日)が誕生日であるから、満年齢で言えば、お誕生日おめでとうの、66歳という事だが、数え年では、今67歳をランニング中で、後1カ月余の正月に68歳となるわけである。従って、誕生日だからと言って、ことさらどうと言うこともない訳で、昔は皆どういった気持ちで誕生日を考えていたのであろうか。私の歳では、もう数え歳で言う人も少ないから、そのうち満年齢だけの計算になり、数えで幾つと言う人は居なくなるであろう。しかし我々にとっておじいさんという人達は、数えの方がなれているという人もいるわけで、元旦が、全国的に年齢加算するという一括したものとなる。数え年の考え方を採用した理由には、宗教的な考えに基づくとする、胎児が母親の胎内にいる約1年という期間も年齢に加算すると言う考え方と、昔は太陰暦を使っていたためグレゴリオ暦に対して約3年に1回の割合で閏月を挿入する必要があった為、1年の長さが年によってことなり、満年齢を用いると問題が生じる事になったため、これらのことを勘案して、考えられたものであるという。私などは、0歳という「0(ゼロ)」の観念が、ずっと後になって考案された特別な数字であることから、生まれた時を1歳(始め)としたのではと考えた時もあった。従って、昔は、正月が、全国民こぞって年を重ねると言うことになり、現在のように、生まれた日が云々と言うことはなかったわけである。そのせいか、私は、幼い頃に、誕生日だからと言って祝って貰った覚えは希薄なのである。私の友人に誕生日が1月1日という極めておめでたいのが居るが、彼などは、単純に年を重ね正月が来ると数えは常に満年齢のプラス1歳になると言うのだから数えやすい。日本は、地方によっては、自分の誕生日を正確に知らない人も居て、「儂は隣の田子作より2つ若い」等と相対的に理解していた人も多いと聞く。私が、経験した、季節の差があまりないサウジアラビアなどのアラビア半島社会では誕生日を自認している者があいまいな人が多い国もあるようだ。人間も木と同じで、寒さと暑さが交互に来て年輪が出来るわけだが、常夏の国などでは、シュロに年輪がないように、人間も年齢を重視しないと言うことなのだろうか。従って、サウジアラビアのパスポートでは生年月日の記載は任意項目となっており、記載されていない人が大半だそうである。 特に、イスラム教では預言者ムハマンドの誕生日に関する記録が曖昧であり、特にムスリムは、ヒジュラ暦というムハンマドが、メッカから、メディナに移住した時が幕開けと言うことで、太陽暦よりも、1年が11日短いという特殊性もある。その昔の日本のような状態になるので、誕生日などは曖昧になっているのかも知れない。連れ合いは、昼は、実家の片付けを一家総出でやったが、夕食を私の誕生日(連れ合いの誕生日も兼ねて)のために、太郎一家や、姫が同行して祝ってくれた。尾羽打ち枯らすかも知れなかった、私の第4コーナーを回ってからの人生の直線コースで、かくも豊かな気持ちにさせて貰って、ほんのりとした気分になった。「人間万事塞翁が馬」正に、待てば海路の日和ありと言うところか。連れ合いの孫も、なかなかしっかりしてきた。2歳の弟が、私の顔を見るなり「ヨシクン!」と呼んで、親しげに抱かれてくれる。之もまた嬉しいことである。この弟君、パンが大好きなのか、レストランで次々出される小さいが美味しいパンを、何個も食べ尽くすという豪快さである。5歳になる兄貴の方は、恐竜のDVDを、連れ合いが、私からあげたと言うことにしてくれているので、以前に買ってあげた、恐竜の本を一緒に見ようと、再三のお誘いをしてくれた。夜も遅いので、又今度と言うことで分かれたが、生まれてこの方(昨年もそうだったが)誕生日をこれほど心楽しく意識したことはなかった。
2010.11.20
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NHKの美術講座の5期目、第2回目の講義があった。今日は印象派(2)の講義である。珍しく講師は早く来ておられたが、受講者は三々五々と集まり、時間きっかりに淡々と始める講師が講義を始めても遅れてくる人が居た。新しい講座会場の梅田阪急ビル・オフィスタワーに昇るエレベーターは、面積が4畳半は有ろうかという広いもので、数台が並んでいる。例によって、それで15階まで上がり、小型のエレベーターに乗り換えて、17階まで昇ることになる。講義は、前回のドガの続きから始まった。この講師は、全く無駄口を叩かない、実に淡々としている。ドガは研究熱心で、写真撮影だとか、パステル画材の研究だとかにも熱を注いだようだ。その一端として粘土から、ブロンズ像までを手掛けた、ブロンズ像の作品で、「グランド・アラベスク」の紹介があった。「カフェにて」はパリの場末のカフェでの日常の一こまを切り取った作品で、何処にでもいる、下層階級の夫婦とおぼしきカップルが、鏡を背にソファに座り、違った飲物を飲みながら、お互いの目線は違った方向を見ているという作品だ。第4回の印象画展に出品されたが、退廃的だとの酷評を受けた。絵の構成もバランスを欠き、男の右側は半ば切り取られて窮屈なのに比べ、女の左側は冗長で間延びさえ感じる。更に女の飲物は、毒性を有するニガリヨモギ(アブサント)である。聖書の黙示録にも出てくるもので、かの原発事故を起こした、チェルノブイリという町の名前は「黒い」を意味するチェルノと「草」または「茎」の意味のブリヤとを組み合わせたものだと言うことで、ヨーロッパ人には暗い印象で受け止められるのだそうだ。しかし、こういった貧しい人の絵は、ドーミエやロートレックも描いている。「アイロンをあてる女」の右側の女は、職務に忠実に両手で体重を掛けアイロンを掛けている反面、左の女は、アルコールを片手に、大あくびをしているという対照的な場面を描いている。アルコールが、当時の社会を退廃させたことを象徴的に描いている作品である。「たらい」は本来の遠近法を打ち破る意図で描かれていて、見る者を落ち着かせない。当時は、田舎からパリに流入する人口も多く、パリの安宿は、風呂もなくシャワーさえもない状態であったという。ベッドが見え、テーブルがある狭い部屋で、若い女が、たらいに入り、あらかじめ用意したお湯で体を拭くのか、髪をほどいている場面である。古くは、女体のヌードは、神話などに限定され許されていたが、ここでは、既に日常的な形で表現されている。モリゾの「かくれんぼ」は母親である姉と、姉の子で3歳の少女を優しく描いた女性ならではの作品である。パリコンミューンも終わり、女性や子供達も安心して戸外に出られる開放感と平和を描き出している。女性が女性らしい絵を描くことや、一般市民が、趣味として絵画を描き始めるという時代背景が形成されつつある。モネの「ひなげし」などとも対照してみると面白い。またマネの描いた「モリゾの肖像」からも分かるように美人で、知的なモリゾは、時として諍いの起こる、画家の中にあって、潤滑油的な働きもしていたと言われる。「召使いの女」は「食堂にて」とも紹介されているが、自分が使っていた17歳の召使いの肖像を描いた作品である。窓から入る採光、窓越しに見える隣家、作業の一こまを切り取った瞬間を荒いタッチで躍動的に描いている。モネの「ボルディゲラのヴィラ」はルノワールに誘われて、南仏に出かけて描いた作品である。フランスでは鉄道がマルセイユまで開通し、画家も移動がしやすくなってきた時代である。モネは南仏の明るさに感動し、光をピンクや肌色で描き、影を青色で表現した。日本の黒田清輝などにも影響を与えた印象派の画風が、正に開花しようとした作品である。「つみ藁」シリーズでは、目で見た農村の風景の美しさを連作として仕上げている。日没のつみ藁、「ジベルニーのつみ藁、夕日」そして「積み藁、冬の効果、夕日」が紹介されたそうだが、私は丁度「・・冬の効果・・」の説明の時には完全に寝ていたようで、ノートはそこがすっかり抜けている。連れ合いにつつかれて起きた時には次の作品に移っていた。多数の連作が描かれているが、私は、「積みわら、霜の朝」と言うほのぼのとした夜明けの作品が好きだ。「ジベルニーのポプラ」では冬枯れの数本立つポプラそのものはあまり意味が無く、ポプラの持つ色の美しさや、美しい物を描きたいと思う気持ちの表れであり、之が、印象派への必然的な経過点である。「ポプラ、四本の木」は川沿いに立つ4本のポプラをそれ自身が、河に投影する写像と上下対照的に描かれている。これもポプラ自体にはあまり意味が無く、水際の下草を介して、水面に映るポプラを同時に描くことによって、醸し出される効果を試した作品である。ルーアンの大聖堂を描いた連作がオルセー美術館に5点有る。連れ合いとパリを訪れ、オルセーで見たことを思い出すが、これらの作品の前で、様々なルーアン大聖堂を見た時に、モネの描きたいところは何かと考えたが、講師の話で、その意味が分かるような気がした。モネは、1892年から1893年の間、ルーアン大聖堂に面した筋向かいの宿の1室を借り、硬いゴチック調の大聖堂を、見たままではなく、自分がどう感じ取ったかを描くためにいろいろな時間、いろいろな手法で表し続けたのである。この時友人に、「このルーアンを完成すると言うことはないであろう」という意味の手紙を送っているが、それは、自分の気持ちや表現方法が、之で良いという気持ちになることはないという証であるというのだ。彼は、友人に「私は、感じたものを表現するのが下手だ」と書き送っている。威風堂々たる大聖堂を、ただ正確に緻密に描くという意味ではなく、自分がどう感じるかという意味では完成と言うことはないという意味である。夜明け、昼、夕暮れ、と同じ場所から、光の差し具合や、その時の自分の気持ちを、ルーアン大聖堂という対象にぶつけた2年間であったわけだ。ここら辺が芸術家の芸術家たる所以であろうかと私は感じた。「ロンドン国会議事堂、霧の中の日差し」は当時から既にあったロンドン特有のスモッグに霞むテムズ川沿いの国会議事堂を、モネ自身の感覚で捉えた作品である。この作品のサロンでの評価は知らないが、おそらくは、あの「日の出」に見られたように、旧守派の画家達は、絵画として稚拙であるといったのではないだろうか、正直これなら私にも描けるぞという気持ちだが、実際このような色遣いをオリジナル作品として出せるかと自問すると、おこがましい気持ちになる。印象派の印象派たる所以のルーツがここら辺にも表れているのではないか。「睡蓮」も又モネの連作と言うより、終盤のモネは、之しか描かなかったのではないかと思うくらいである。我が家の近くの、アサヒビール大山崎山荘美術館にも数点収蔵されているが、パリのオランジェリー美術館には、睡蓮のオンパレードのように多数の睡蓮が展示されている。講師の紹介は「睡蓮」とだけあったが、詳しくは「睡蓮の池と日本の橋」という名であろう作品は、我々が、モネの晩年の住処であるジベルニーを訪れた時の庭に架かる太鼓橋を描いていて、連れ合いが、その太鼓橋に立ち、写真を撮ったそのものであった。この作品をプリントした手提げバッグを記念に購入するほどお気に入りである。この作品は、ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されているようだ。今日の最後の「睡蓮」は東京のブリジストン美術館にあるという作品で、池に浮かぶ、実像の睡蓮群の中に水面に写像として映る柳が被さるように影を投影しているといった作品である。空間のトリックと称されていた。同様の作品がイスラエルの美術館にもあるようだ。明日は私の誕生日である、9日間年上の連れ合いに追いつく、2人で、一寸お祝い気分で食事をして帰った。
2010.11.19
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前に亀岡GCでラウンドした友人夫妻と再度プレーすることになった。昨日にわかにクラブを70球ほど振ったのだが、その成果や如何にというところだ。前回もそうだったが、亀岡GCへは、通常、ナビは、京都沓掛まわりのコースを指示してくる。そこで前回は、もう少しなれた道と言うことで、箕面方面の有料トンネルを経由しての分かりやすいルートを採った。しかし帰りは、高槻カントリーを通る道を採ったので、今朝もそこを通ることにしたが、カーナビの5ルート検索では、どうやら茨木まわりを指示してくる。構わず前回の帰り道を辿る道を選ぶと、最終的にやっとカーナビも折れて、亀岡GCへの道を教えてくれる。まあ、カーナビにインプットされてデータベースは、人間のそれには未だ叶わないと言うところだ。とにかく今日も早めに出た、私は朝早いのは厭わないが、連れ合いは、一寸苦手である。その連れ合いが、行く気満々だから、勢い早めのスタートになるわけだ。くねくねと山道を回って、到着したのは、スタートして約1時間後の8:30頃であった。スタートは前回と同じ、9:59なので、今時、そんなに早く来る人はいない。しかし、駐車場はといえば、結構満車に近いくらいで、クラブハウスから遠いところに駐車しなければいけなかった。しばらくすると友人夫妻も到着した。夫人の話では、友人は、1年間の歩行だけで、5kg減量したと言うから、確かめると「5kgまではいかないよ、まぁ、4kgかな」という返事だ。それじゃあ同じじゃないかと思ったが、しかし雨の日以外は毎日約1時間~1時間30分の歩行を欠かさなかったというから、その意志力はすごいと感心した。早く来たから当然早くパター練習をするわけだが、之が全くラウンドに活かされないのが、不思議である。アウトコースからはコンペの連中がスタートしていたようで、我々インスタートも、約10分遅れということで、10時過ぎのスタートだった。ここからが私の一寸いい加減なところになるのだが、如何に友人と雖も、最初の手合わせの時は、多少は緊張して、それが良い方向に行く場合と、駄目になる場合があるのだが、前回は、良いようにリードして貰ったおかげで、自分としては良い成績で回れた。今回は、昔からの友人という気安さが一気に出て、ゴルフがちゃらんぽらんになってしまったようだ。別にそうしようという気があるわけではないが、結果そう言うことになるわけで、如何にゴルフはメンタルな面の影響するスポーツであるかということは私には良く当てはまる。スタート10番では、左のネットを避けて、右に打ち出すべしと言うところを何故か左に引っかけて、そのネットに当て、落下するという何とも情けない出だしである。記録するのも情けないが、2打目は、1ペナ杭を少し越える対角線ヒット(之は前回も同じで学習能力ゼロである)で、FWに戻して打ったが当然グリーンには届かない。残り100Yをまたトップしてグリーンオーバー返しももたついて、結局7オン、1パットとなりトリプルボギーを叩く。(前回と同じだ)つられて友人は、前回バーディーのところボギーとしていたが、連れ合いは、2桁スタートである。夫人も4パットで、私と付き合ってくれた。今日のラウンドは、この出しで象徴されるものとなった。11番は書くもおぞましいが、第2打を、2回連続して、右の谷に落としてしまい、散々である。友人もスライスして、OBを付き合ってくれたが、2回までは付き合ってくれない。アプローチをまたまたトップで、どうなっているのかと、日頃連れ合いに頭を上げるなという割に自分は出来ていない、まあ、それがゴルフだと痛恨の2桁は連れ合いと同じだ。友人もトリプルだった。こんな風に12番も2打目チョロやバンカーからもグリーンオーバーとトリプル。必ず1打以上は友人に置いて行かれる。やっと13番のショートで、すんでの所1オンを逃しバンカーに入れたもののボギーとし、初めてオナーを取った。しかし、友人の夫人は何とパーで上がっている。連れ合いも頑張って、ダボで、表面上はゴルフになっている。夫人は之から3ホールは私に勝るか。私と同じスコアである。連れ合いは、着実に少しオーバーで私に付いてくる。やはり私が良いスコアを出さないと、引っ張れないと感じた。14番アイアン指定ホールでは、左の池が気になり、右に出たが、なんだか高く上がりすぎ140Yも残し、バンカーに入れて、3パットのダボ、ボギーの友人にオナー返上だ。15番では左土手からFWに出たものの飛距離はなく、残り160で、2打目をトップしてゴロでグリーン手前まで行った。結果良しで、3オン2パットのボギー、友人のダボに勝った。16番ロングでは、まずまずのティーショットだったが、3打目をバンカーに入れ、ボギー。友人はパーでまたオナー交代。ここまでが限界で、17番の距離のある打ち降ろしショートでバンカーからの2オンまでは良かったが、2パット目がカップに1cmで止まりダボ、友人は、ボギーだった。連れ合いは、私と同じだ。最終18番では、2打目のチョロ、バンカーの失敗などで、トリプル上がりだった。友人はパーで悠々と、50を軽く切る。私は、夫人と同じ58も叩いた。連れ合いの方は、とにかく叩いたとだけ書いておく。45分の昼食時間が短く感じられるほど、リベンジをと思っていたが、後半が始まる前に雲行きが急に怪しくなってきた。前半で前の3人組が超スローペースであり、いらいらしているところに後ろはぐんぐん迫ってくる。こういう感じに私は弱い。後半スタートでも前の連中は、傍若無人な遅さである。それに加えて、にわかに雨が降り出した。1番のティーショットでは、激しい雨の中を打たなければならなかった。それでもティーショットはまずまずだったが、アプローチ失敗で、3オンすべきを、5オンだった。友人はボギー。2番は私が3パットでその分友人よりも1打多い。3番の超打ち降ろしのショートでは、友人のボールはグリーンを捕らえたが、すんでの所で向こう側のバンカーにこぼす中、私は、余裕を持って打ったつもりが、左に出て、カート道で大きくはね、無惨にも左の谷へと消えていった。打ち直し、左ラフからの2オン2パットも2打罰のダブルスコア、友人も珍しくバンカー脱出に手間取り同スコアだった。このホール、何と、連れ合いも夫人もダボで上がり、男女入れ替わったスコアになった。4番は途中のチョロ、3打目のあわやOBを乗り越えて、ボギーで上がれた。連れ合いは、フェアウェイバンカーから、良いショットで脱出、前方に気持ちよく飛んだのだが、ヤーデージを示す杭に当たり、はね返るというアンラッキーで、距離をロス、こんなのは見たこともない。5番では、フラットなショートで、ハンディキャップ17のやさしいホールだが、バンカートラップでボギーだった。友人は何故かショートでボギー、連れ合いは、良いショットで球も上がったのだが、運悪くガードバンカー直撃、夫人と同じくダボであった。6番は、今日一かというティーショットで、2打目が乗ったかと思ったが、少しショート、パターで突っ込みきれず、3パットと、ダボである。友人はこのホールから3連続パー、上がり1ホールをボギーと、安定したゴルフである。一方私は、7番では、比較的良い振りが出来たと思ったが、よくある天ぷらだったようで、私の眼前からボールが完全に消えていた。右方向だったとの声を頼りに探したが、隣との垣根の高いネットを越えて上のコースに入ったのか、結局ロストOBで、プレ4もグリーン越えおまけに3パットのダボ。何と連れ合いと同じスコアだ。8番では、ティーショットが高く上がり、友人からは、50Yも置いて行かれた。勢い2オンは出来ず、更に3パットで、ダボ。最終9番では当たり損ないで、右の小山のラフ、2打目左のラフ、3打目右のラフと折角のフェアウェイを使うことなくジグザグで、3パットも手伝って、ダボ上がりである。夫人も有終の美で、友人と同じボギー上がりであった。後半は雨が降ったり止んだりで、友人は雨のせいだからといいながら、前半のスコアを4つ伸ばしていた。今度は、場所を変えてリベンジ(なるか??)戦をすることを約束した。「ゴルフはこんなもんだよ」と言いながら、悠々としたゴルフをして、私を含め、下手な連れ合いとも嫌な顔ひとつせず回ってくれる、良い夫妻である。
2010.11.18
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島本町には、大きな会社が3-4社有る。その内の積水化学は、連れ合いの中学校に時々理科の実験を披露しに参加させて欲しいと申し出があるようだ。積水化学のCSR(Corporate Social Responsibility)活動として、地域活動を行う上で、中学校や小学校の生徒・児童に理科への関心を持って貰いたいという意味合いがあるようだ。島本町にあるのは、積水化学の研究所で、特にプラスチック関係の検査や、開発を担当し研究しているようである。積水化学が、日頃学校に出かけて、授業の一端を担っているという関係で、今日は、夕刻に学校の理科先生を対象に研究所の説明と見学を引き受けてくれたと言うことである。私は、何の関係もないが、連れ合いが、行こうというので、化学会社の研究所とはどういうものか、後学のために見学会に参加させて貰った。F16:00に門の前に集合と言うことで、出かけたら既に参加者は、20名近く集まっていた。所長の挨拶と、会社の概要の説明があった。積水化学といえば、阿部寛の「暖ったかハイムが待っている・・」で宣伝しているように、住宅が有名であるが、他にも、環境ライフラインカンパニーと高性能プラスチックカンパニーと3つの柱で成り立っているとのことだ。研究所は専ら、高性能プラスチック関係のことを手掛けており、他の研究は、別の機関が担当しているとのことであった。IT電子関係とAT自動車関係、MD医療関係さらに建築材料の柱があるのだという。いろいろ説明されたが、セロテープに代表される接着材料関係や、車のフロント硝子が割れても飛び散らないように内部に入れる物質や、医療のバンドエイドなどと行ったものは身近で理解できるが、それ以外は、全くの畑違いでただ聞くだけである。積水化学といえば、住宅かというのが頭に浮かぶわけだが、このようにエンドユーザーに直接繋がっているものは我々にも分かるが、企業に材料として供給しているものに関しては、なかなか内容は見えてこないものである。積水化学の資本金は、1000億円で、馬鹿でかいという感じはないのだが、従業員は、19000名ほど居るらしく、売上は約1兆円に少し満たないと言うところだそうだ。昔の勤務先の売上高を優に超している。子会社は194社有るようだが、海外に多く、70社ほどが点在しているとのことである。グローバル企業と言っていい。研究部門の人員は、約800名居るようだが、その内の200名が、島本の研究所に在籍しているとのことだ。世界のトップシェアーを誇るものもあり、車のフロント硝子に挟まれている中間膜車内装品のフォームスポンジなどがそうだという。他にも2点ほどの説明を受けたが、難しく、何処に遣われているか理解が出来なかった。一渡り説明を受けてから、研究室の何室かを案内され、見学することが出来た。研究室内は、だいたいどこも同じような風景である。中にナノレベルまで計測が可能な高性能顕微鏡などもセットされている。同行した先生の1人が、「因みに幾らですか?」と聞いたところ、それは初めて導入された顕微鏡で、それ以降の販売に対するモデルとしてのデモンストレーションなどをする時使わせるとの条件で安くして貰って、1億5000万円くらいかかっているのだという。そう言った電子顕微鏡が数台おかれていた。化学(俗にばけ学)は、私の最も不得意なところであり、亀の甲などが出てくると、もうそれ以上は、読み進んでいけないといったアレルギーがある。中には、クリーンルームという、1立方m当たりのゴミが、100個以下だとか言う部屋もあり、中で働いている人は、白装束に全身を包んで、窓には、紫外線をカットする、黄色いフィルムが貼ってあった。連れ合いなどは、こんな中で、日がな1日それも毎日、よくも過ごしていけるものだと感心していた。私は、生もの(生徒)を扱うのも大変だろうなと思うが、人それぞれに携わる仕事は変わっているのが、面白いと言えば面白い。私などは、専ら、スチールを扱ってきただけに、目に見えないものや、ふにゃふにゃやした物等はあまり得手ではない。ここは、機械性能試験室だと言われる、引っ張り試験機や、曲げ試験機を置いてある部屋でも、相手がプラスチック故に小型であり、スチールを相手のような豪快なものはない。最後に射出成形の部屋を見学したが、ペレットと呼ばれるプラスチックの小さな玉をホッパーから入れ、200℃に熱して、スクリュー状のピストンで押し出すのであるが、その力は500kg/mm2であるといい、その反力を取るために、160tonの力で、反対側からジグで押しつけて支えているのだそうだ。その装置で作り出されるのは、DVDディスクや、もっと大きな機械では、車のバンパーなども作っているようだ。微細粒子技術、単分散粒子、多孔中空粒子光反応と接着力などと説明されても、全くイメージが湧かないのだが、学校の理科の先生は、それでも熱心に聞いている。中学校では以前、鉄球を落とし、車のフロント硝子を破壊する実験を行った時に、生徒は、とても喜んだというので、この次にもそう言ったデモを計画しておられるようだ。なんとか、CSRという取り組みで、子供に何としても化学に興味を持って貰いたいという気持ちでやっているのだそうだ。最後に案内してくれた、中堅どころの若い研究者に「積水」の名前の由来を聞いてみた。私はあらかじめインターネットで調べておいたのだが、「勝者の戦は、積水を千仞(せんじん)の谿(たに)に決するがごとき、形なり」と中国兵法書の古典「孫子」から来ているのだという意味だと書いてあったが、その研究員は、「孫子の・・・」と応えたので、さすがと思ったものである。意味は、「満々とたたえられた水を深い谷底に切って落とすような激しい勢いで一気に決めるのが、勝者の戦い方」と言うことだが、そこから、問題や課題に直面した際には市場の動向を見極め、十分な分析と体制を整備した上で果敢に攻勢をかけるのが「積水」の精神だというのだ。私は初めて知っただけにそう言うことかと、感心していたが、社員にまで徹底されている(当たり前のことだが)のは大したもので、私はそう言う意味だったのかと初めて知ったわけだ。積水化学の研究所を再び見学する機会はないだろうが、貴重な体験をさせて貰った。外も暗くなって辞去したのだが、明日は、友人夫妻とゴルフのラウンドがある。前回は、ついて行けたので、何とか形にはなったが、このところクラブを握る機会も少ないので、打ち放しの練習に出かけ、連れ合いと互いに70球ずつを打った。最近は良いところが無く、連れ合いも永くクラブを握っていないので、一生懸命打ったが、所詮は我流なかなか思うようにはいかない。明日のことが気になりながら、消化不良で帰途についた。
2010.11.17
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はやぶさが小惑星「イトカワ」の微粒子を持ち帰っていたことが判明した。アメリカの人工衛星「アポロ16号」が月の石を持ち帰って以来、宇宙の惑星の物質を持ち帰ったのは日本が最初であるという。月の石は、大阪万博で展示され、長蛇の列を作ったが、素人が見る限りは、地球の石と何ら変わるところがないようにも見えた。当時は地球から約40万kmも離れた宇宙の、しかも、何時も夜になると空に浮かんでいるあの月から持ち帰ったのだと言うことで、大いに興奮したものであった。今では、日本でも、多数の宇宙飛行士を排出し、国際宇宙ステーションを建造するために活躍している。そして、現在はいろいろな惑星や、恒星など宇宙の調査のために世界中で多くの人工衛星が打ち上げられている。少し古いデータかも知れないが、主な国では、アメリカは142基、ロシアが89基、欧州が54基、中国が39基そして日本が35基という数の人工衛星を打上、現在宇宙を飛んでいるのだそうだ。それだけなら、この広い宇宙のことだからお互いに接触事故など起こらぬように思えるが、衝突事故などは何度か起こっており、昨年はアメリカとロシアの衛星が衝突して、宇宙に破片を飛散させたという事故も起こっている。ロシアの衛星は、役目を終えたもので、且つ制御は既に不能となっていた、宇宙に捨てられたゴミ(スペース・デブリ)ということだ。そう言ったことを考えると、旧ソ連がスプートニク1号を打ち上げて以来、世界各国で4,000回を超える打ち上げが行われ、その数倍ものデブリが発生し、今では、4,500トンを越えるほどだという。世界中で、このデブリの観測が行われていて、登録されたデブリの数だけでも約9,000個に及び、1mm以下の微細デブリまでも含めると数百万とも数千万個とも言われる。そんな中、小惑星探査機「はやぶさ」は7年前の2003年5月9日に打ち上げられ、つい5ヶ月前の2010年6月13日に7年もの飛行の末、オーストラリアの砂漠に着地帰還したのである。そして、帰還翌日の新聞には、この事が大きく報じられたのは記憶に新しい。「はやぶさ」は、地球から月への750倍もの距離(3億km)にある「イトカワ」に着陸し、表面の砂を採集するミッションを負っていた。途中故障で、コントロール不能になったりしたので、帰還した時には、宇宙を60億kmも飛んでいたことになるのだそうだ。「はやぶさ」は一時、小惑星「イトカワ」に着地できなかった可能性の高いと言われていたが、その後約30分間着地し、そして世界で初めて、離陸まで果たしていた事が分かった。主目的の岩石採取は、金属弾など必要な装置が起動せずに失敗したと発表されていた。 「はやぶさ」は着地と同時に、地表に金属弾を発射し、舞い上がった砂ぼこりを採取装置で取り込む計画だったが、金属弾は発射されなかったようなのだ。しかし、「はやぶさ」が着地する際の衝撃で、イトカワ表面の砂が舞い上がり、採取された可能性もあると報道されてきた。この発表が打上2年後であり、その後一時制御不能となり宇宙を放浪していたことになる。しかし、日本の航空・宇宙技術の粋を集めた、バックアップ機構が働いて、最終的には、スペースデブリになることもなく、無事回収されたことになる。最後に帰還したのは、「はやぶさ」本体に取り付けられた、カプセルだけで、本体は、地球突入時に満月の3倍の明るさを放ち長い尾を引く彗星のように燃え尽きてしまったと言うことだ。幾多の困難な局面を乗り越えた「はやぶさ」は一躍ヒーロー(衛星だからヒロインか?)になった。考えてみれば、地球から3億kmもの距離にある、535m×294m×209mという落花生状のちっぽけな「イトカワ」にピンポイントで到達、着陸、離陸をすることなど、老眼鏡を掛けずに針の穴に糸を通すことの何倍も難しいことだと素人は考えるわけだ。それほど遠い距離になると、コントロールする電波が届くまでの時間も約40分程度掛かるのだそうで、之も服の上から背中を掻くようなもどかしさがあったであろう。陽に陰に、このプロジェクトを成功させた、日本の製造業に多大なるエールを送りたい。私は造船に携わっていたが、大学時代に船より飛行機をやる者の方が、頭が良いなどと言われたことをなるほどと考えながら又思い出した。「はやぶさ」が持ち帰った砂が、宇宙の「イトカワ」のものであるかどうか、又持ち帰っていること自体を確認するのにも時間が掛かると言うことで、一時、一般の目は、これらの作業から離れていた。先ず、砂がカプセルの中に入っているかどうかを確認するために1ヶ月は掛かり、又その砂が、「イトカワ」のものであるかを確認する分析作業には、数ヶ月から半年は掛かると言われていた。そして、今日やっとその結果が出て、採取した微粒子が「イトカワ」のものであることが確認されたというのだ。放映された、プロジェクトリーダーの川口氏の破顔がとても印象的であり、7年に亘る経過を振り返り発した、その言葉「夢以上の成果。これが正夢なんて信じられない」は十分に頷ける。採集された1500個の微粒子は、10μmというから、1/100mmということで、とても肉眼では見えない。しかし、電子顕微鏡と分析技術は、その微粒子が地球上のものではないことを明らかにしたのである。従って、帰還着地時に拾った、オーストラリアの砂漠の物質でもなかったということだ。なにやら鉄(Fe)とマグネシウム(Mg)の割合が地球上のそれとは違うのだそうだ。私などは、現在確認されている111~113の元素周期律表にはない何かしら新しい元素が発見されるのかと思っていたが、どうもそうではなさそうである。宇宙というのは、46億年前にビッグバンが起こり創造されてということになっているその過程で、宇宙全体から見れば、ごく近い地球と「イトカワ」の持つ成分にそれほどの違いがないのはごく当たり前のことかも知れない。地球や火星などの大きな惑星は「イトカワ」のような小惑星が、衝突して一体化したり、分離したりして出来上がっているようなもので、そう言った意味では「イトカワ」は「宇宙の化石」であるという解説であった。素人には分からないが、アルミ粒子の人工物に混じって、「かんらん石」や「輝石」の映った顕微鏡写真が掲載されていた。アメリカとロシアが気を吐く宇宙の舞台で、日本が、低コストで運航可能な、無人探査機を駆使して、頭脳で競い、見事その成果を上げたわけである。昔風に言えば、国威掲揚の発露である。願わくば、これで、沈滞した日本の国に新風を吹き込んで貰いたいものだ。「技術は一流、政治は三流」のこの日本で、やはりその言葉は正しかったのだと言うことが証明された一端でもある。続いて、「はやぶさ2」のプロジェクトが始動しており、2014年に「イトカワ」の近傍の有機物が多いと予想される小惑星「1999JU3」に向け打上の計画であるという。2020年には帰還するとの計画であるから、また私は、その快挙に再び接する機会があるようだ。連れ合いから、「ほんとに宇宙ってどんな風にして出来たのだろう、地球ってどんな風に出来たのだろう」などと、若い中学生の中にも真剣に悩む生徒が居ると聞くと、なにやら日本もまだまだ捨てたものでは無いような気がする。
2010.11.16
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1ヶ月に1度定期検診的に近くの病院に通っている。そもそものきっかけは、サウジアラビアの出張滞在から帰って、健康診断を受け始めた頃からである。サウジでは、全て外食とファストフードで過ごしてきた。まあ、そうするしかなかったわけだが、一番の問題は、朝食で、たっぷりと食べ過ぎた上に、デーツというナツメヤシのシロップ漬けなどを美味しいことに任せて食べ過ぎたことが大きな要因となって跳ね返ってきたわけだ。しかし、デーツは、健康食品でもあり、サウジのベドウィン族の間では貴重な食料なのである。今は、サウジの輸出品の1つとして、何処でも買えるようだ。しかし、老舗というのはどの国でもあるようで、そこに行くと多種多様なデーツにお目に掛かり、値段もピンからキリまであるのだ。ともあれ、昼食はサンドウィッチのような物で済ますし、夕食も、ピザか、アルバイックというフライドチキンか、パキスタン料理などのテイクアウトで済ます事が多いのでホテルで食べる朝食がスタミナ源であった。そんな生活を1年ばかり続けたので、体はぼろぼろになっていたのだろう。しかし、自覚症状などは全くなかった。アラビア半島最大のルブアルハリ砂漠の砂嵐の中で、喉をやられたので、帰国後、診て貰いに行ったのがきっかけである。ついでに血液検査をしたところ、あらゆるところが痛んでいることが分かった。それをだましだまし、しながら、3年ほど前にドバイから帰ってきて、再度検査に行くと、血糖値が基準値の2倍以上高いことが判明した。その時は食事後1.5時間経過していたので、多少は高めになるということだが、その後も一向に値は改善しない。更に加えて、血圧も高いと言われ、且つ高脂血症であるとも宣告された。生活習慣病の3冠王である。この3冠王、どれを取っても、世界新記録というようなものではなく、基準値をわずかながらオーバーしているのだ。そろそろかかりつけの医者を持っていた方が良いですよという歳になったので、近所の医院にお世話になることにしたわけだ。島本町を含む、高槻市は、医療のネットワークが充実していて、個人の病院が手に負えない時には、その問題を解決できる大きな病院に繋げるというシステムが出来上がっているのだそうだ。最初は血糖値を下げる1番軽度な薬の服用から始め、加えて、高脂血症の対策薬、血圧を下げる薬と徐々に薬の量が増えていった。しかし血圧は、思ったよりも下がらない、2段階目と称する薬を調剤された。そんなことで、1年を経過したが、検査の値は少し良くはなったが、未だ基準値内と言うところまでは入っていない。3ヶ月毎に血液検査をしましょうということになっているのだが、普段の生活に全く支障がない上、自覚症状も無いので、ついつい検査のことは忘れたり薬を飲み忘れたりの毎日である。今朝は通院する日だとは覚えていたが、採血日だと言うことをすっかり忘れていた。それでも待つのが嫌なので、早めに通院する(家から歩いて5分程度)事にしたので、パンを一口かじったもののそのまま出かけた。別に焦っていたわけではないが、自宅の鍵を持って出るのを忘れてしまったのだ。未だ連れ合いが、学校に出かける前だったので、後は任せて出てしまった。連れ合いもその後しばらくして学校に行ったのだが、当然鍵を掛けて出ている。血圧を測り、採血された。血圧の件では、私が高血圧気味だと知って、姉が血圧計を贈ってくれたのだが、その血圧計で測ると、全くの正常値になるのだ。私は昔から血圧は高めで推移しているので気にもしなかったが、計器の差がこれほどあるとは思えない。特に白衣高血圧の傾向もあり、又ゴルフのスタート前にゴルフ場に設置された血圧計で測ると、必ずと言っていいほど高い値を示すのである。医師に家庭での血圧計測の結果を話すと、病院のと同時に計ると良いですねと言われ、家庭では、2-30は低めに出ることもあるというのだ。では全く問題無いのではないか等と考えるが、どうも釈然としないし、病院に置いてある血圧計は高めに出るように設定してあるのかとも疑いたくなる。血圧が高いと、利くか利かないかと言った軽度の血圧降下剤を投与して、点数を稼ごうとしているのではないかとまで疑ってしまう。ともあれ、降下剤の効き目が有ってか、低い時の(血管膨張時)血圧だけは低く、十分基準値をクリアしている。血液検査の結果は、翌日でも分かりますよと言うことだが、嫌な宣告は先延ばしにする方が良いので、1ヶ月後の定期診断時に聞くことにした。なんだか、ほとぼりが冷めるまで、臭い物に蓋をする政府のやり方に似ているなと苦笑しながら帰途についた。玄関の扉の前で、鍵を持って出るのを忘れたことに気づいたわけだ。当然鍵は掛かっている。マンションの泥棒は一体どうやってはいるのだろうかなどと考えても、入る手だては見つからない。之が一軒家だと、2階によじ登りとか方法はあるのかも知れないが、マンションでは普通無理である。仕方なく、連れ合いの携帯に電話したが、当然授業中だからでないし、メールを打っても見てくれるかどうかである。特に今日は、帰りが遅くなると言って出て行ったのを思い出した。中には、食べる途中で残してきた朝食のパンや、冷たくなったコーヒーが待っているのに、こちらは腹ぺこである。諦めて、近くのふれあいセンターまで歩いて、読書でもして待つしかないと、とぼとぼと歩き始めた。島本駅を通過する頃、運良く電話が掛かってきて、鍵を学校の車に入れておくと言うことだ。急遽方向を変更し、鍵を取って帰ることにした。ついでにボールペンのレフィルを買いに水無瀬駅のガード下の商店街にある文房具屋に寄り、空になったレフィルを見せたが、規格が沢山あるようで、同じメーカーでも違うのだという。それでも日頃扱っているだけに空の芯の外に刻印がしてある字を、色を塗って読み取ろうとした。ざっと見ただけでは刻印があることなど気づかぬ位だが、流石と思いながら見ているが、どうも目が細いらしく、虫眼鏡で見ても判読が出来ない。こっちも同じように近距離は見えない。それでも虫眼鏡の力を借りると何とかゼブラという文字と型番が見えた。値段は安いものだが、いろいろと苦労する。何故ボールペンがおもちゃのように多くの種類があるのか分からないが、せめてメーカーが同じなら、芯の部分くらいは同じに出来ないのかと考えさせられた。そうこう言いながら、駅まで歩いて、散歩の代わりになったわけだ。一寸したことでもリズムが狂うと、思わぬ結果になる、そんなことが段々と多くなるのではないかと考えながら鍵を開けて部屋に入った。
2010.11.15
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連れ合いが京都での買い物ついでに競馬に行こうという。エリザベス女王杯は淀競馬場で出走する。淀競馬場へは太郎君達と何度か来ているし、すぐ近くなので行こうかという話になったが、多分大勢の人だろうからと逡巡していると、では、場外馬券を買おうと言うことになり、京都の場外馬券売り場に行くことになった。烏丸で用を済ませて、そのまま、河原町方面に向かい、場外馬券場のある、花見小路の奥まで歩いた。場外馬券場は祇園歌舞練場の隣で、建仁寺とは筋向かいにある。近くの料亭加陵には来たことはあるが馬券売り場は初めて行った。連れ合いも初めてで、人に頼んで買って貰ったことはあるので、場所だけは知っていた。私は何事も少しは経験したが、すぐに止めてしまうと言うところがあり、元々ギャンブルは得手ではないので、競馬に行ったのは、海外で1回、国内で中山競馬場1回という具合だ。連れて行ってくれたのは、宇宙人(鳩山ではない)と称する人で、独特の競馬感を持っている人であった。何しろ競馬場に行っても馬を見るとかは、一切しないのである。ただ、刻々と変わりゆくモニター画面のオッズを見ているのだ。オッズは、勝馬の人気投票結果だ。従って、多くのファンが付いている馬は、気が集中して、とにかく強いというものである。それなら素人でもわかりそれ故に勝っても配当が少ないという結果であるから面白みはない。しかし、2番手の買いが、彼独特の理論があるようだ。不幸にして、その理論は覚えていないというか、理論を1度聞いたが理解できなかったという方が正しいのかも知れない。とにかく宇宙人は、出走の間際の馬券(勝ち馬投票券)が買えるギリギリまで待つのだ。そして、その理論で馬券を買い、モニターで観戦すると言うことを、終日やる訳だ。私の競馬に対する認識は、殆ど何もなく、出かけた競馬場で出走する競馬以外の他競馬場でのレースは見られないと思っていたのだが、モニターで全国の競馬を朝から映し出しているのを知ったのも中山競馬場でのことである。モニターは、競馬場に出る必要はなく、室内の馬券売り場近くに何台も置いてある。4年ほど前に、東京競馬場に世界最大スクリーン「ターフビジョン」が設置されたという記事を読んだことがある。高さ11.2m、幅66.4m、面積は744平方mというから、テレビなら2651型にあたり、ギネスブックにも認定されたのだそうだ。時の先端商品である輝度の高い発光ダイオード(LED)を約476万個使用したとの謳い文句であった。これまでハイビジョンで世界最大であった、アメリカ、アトランタのターナーフィールド球場にある21.8m×24m最大)を遙かに凌ぐ大きさである。客は、その迫力ある画面を見ながら、日曜日に各地で行われる競馬を次々に見ることが出来、且つ馬券も買うことが出来るというシステムである。その昔は、競馬場に行く人は例外なく、競馬新聞を片手に予想欄をにらみながら、ちびた赤鉛筆で印を付けているおっさんが多かったように思うが最近の競馬場は、昔と違って、随分と綺麗になったようで、女性やカップルの姿も増えているのだという。私も1度パドックで回る競走馬の姿を実際に見たことがあるが、馬というのは美しい生き物だと改めて感じたものだ。よく分からないのだが、昔はアラブ馬が競馬に出ていたことがあったが、最近は、競馬といえば、サラブレッドだけになってしまった。武豊もアラブ馬に騎乗していたから、アラブ馬が消えたのはごく最近になってからであろう。アラブ馬のブリーダーが減り、出走頭数が減ったことにも依るのだろうが、それにしても、現在の競馬は、商業主義に走りすぎて、美しい馬よりも勝つ馬、金になる馬造りが増えたためかも知れない。サラブレッド(Thoroughbred)の意味はThorough(徹底的に)+bred(改良された品種)ということで、オリンピックの馬術競技で活躍する等を含めて、競走用に徹底的に品種改良された軽種馬なのだそうである。18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)等から派生し、現在も、競馬で勝つことのみを目的とし日々交配と淘汰とが繰り返されており、人が創り出した最高の芸術品とも呼ばれている。騎乗、つまり50数kgの重量を背負った状態で、数分間継続して60~70km/hの速度で走ることができるように作られている。世界では毎年11万頭ほどが生産されていて、血統のよい馬や優秀な成績を残した馬は億単位の価格で取引されることもあるというから、並のサラリーマンには及びも付かない話である。帰って、太平洋マスターズを見たが、優勝した石川遼などは、ゴルフ界のサラブレッドと呼ぶにふさわしい、ブリーディングされた人類なのであろう。アラブ馬は競馬界では淘汰されたが、かのアラビアのロレンスに出てきた馬はアラブ馬だったのだろうか。サラブレッドがエキストラとして徴用されていたのだろうかと考えてしまう。又世界的なレースであるドバイ競馬も、アラブ圏にありながら。サラブレッドが走っていることになるのだろう。ついでに調べてみると、アラブ馬は、見事な曲線美のアウトラインと豊かな長毛、ノーブルかつ情感豊かな顔つきで、毛色は芦毛がスタンダードのようである。またマーキングも多いとある。 一方のサラブレッドは、アラブに比べてアウトラインが直線的で、筋肉の量が多く、反面脚が極端に細いので、バランスが危ういようだ。スタンダードな毛色は鹿毛でマーキングはアラブより少ない。 パドックで見るサラブレッドの足首は、実に細く、ここまで洗練され走ることを追求した形はないのではないかと思われるほどである。因みに馬のマーキングとは、馬の性別、毛色、白斑、旋毛及びその他の特徴のうち、性別、毛色を除いた、馬それぞれが持つ特徴のことであり、これで馬の個体識別をしているのだという。エリザベス杯に戻ると、場外馬券場は、先ず、京都の町にそぐわないという感じだ。馬券場内にはいると、むっとするたばこの煙と、散乱する馬券購入用のマークシートである。日本競馬会がいかに儲かっているかを示すように、多くの女性達が、初心者向けにいろいろと案内をしてくれる。ただこの馬が勝つという投票が、「馬単」といわれるもので、おそらくは、競馬の投票は、この単純な形から入ったのではないかと想像する。今回で言えば私が買った「アパパネ」である。結果アパパネは3着だったから、掛け金は胴元(日本競馬会)に吸い取られるという仕組みだ。しかし之では、丁半勝負にも似ていて面白さがないということで、「馬連」「枠連」などと、楽しみを増やしていったのだろう。この馬券購入用マークシートも様々な種類があり、初心者には介添えがないととても買えないようである。それでもと書いて機械に入れると、マークシートにはある100円、200円は場外では買えないのだそうだ。いやはや、もうけ主義も徹底していると、アパパネのいる3枠と、京都大賞典で勝っているメイショウベルーガの5枠を入れて「枠連」3-5を買ったら、3枠のスノーフェアリーが1着で3-5が入ったわけだ。勝つには勝ったが、一寸フェアーではなかったかも知れない。しかし、配当は少なかった。
2010.11.14
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最近はやたらと難しい、略語が増えている。TPPもその1つだが、日本名は環太平洋経済連携協定(Trans-Pacific Partnership)の頭文字を取っている。Transは「越えて」とか「横切って」などと言う意味で、太平洋を横切って提携協調しようと言うことで、もっと詳しく言えば、Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementということで、ここで初めて経済と言うことと、協定という言葉が入ってくる。今回の経済協定は当初2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国の加盟で発効した自由貿易協定であり、例外品目のない、完全なる関税撤廃をめざしている。ここにTrans-Pacific(環太平洋)という名の下に、アメリカが強引に入ってきたという構図になっている。日本は江戸時代まで鎖国政策を続けていて、世界に目を開かなかった。そこに強引に乗り込んで来たのはペリーであり、やがてハリスがやってくる。そして結ばされたのは、日米和親条約に続く極めて不平等な、「日米修好通商条約」である。この条約が我が国として外国と結んだ経済協定のはじめである。この条約の内容には、「治外法権で領事裁判権をアメリカに認める」とか、「自由貿易」とか、「関税自主権がない」「日本に不利な銀貨幣による決済」とか言った諸々の不平等な内容が含まれていた。この不平等条約の下、日本は約30年間を、諸外国に有利なように貿易をせざるを得なかった。その後、明治、大正、昭和と時は移り、ようやく大人の仲間入りをした日本である。続いての貿易協定としては、貿易国双方が2国間で関税を個別交渉によって協議するというGATT(関税および貿易に関する一般協定:General Agreement on Tariff and Trade)が挙げられ、1947年ジュネーブの会議で調印された。これは、1930年代の世界的な恐慌の苦い経験を繰り返さないために国連の下部機構となる国際貿易機構としての発足である。世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省だけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があったわけで、内容的には、通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるために為替相場の安定が計られたのである。この時具体的に設立されたのが、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)である。今は昔、日本円が1ドル=360円に固定された時でもあった。この体制下で日本を含む西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本の高度経済成長は「東洋の奇跡」とよばれ、安定した自由貿易の利益が先進工業国全体の経済を改善したのである。しかしながら、この体制も長くは続かず、 アメリカ経済の拡張的な姿勢によりドルのインフレが進行し、ニクソン政権により、通貨価値を保持することを放棄 (金本位制の放棄)する に至り、いわゆる1971年のニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止した。その後、世界は、変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、GATTは1995年に「協定」から「機構」へと、より広い意味での世界貿易機関(WTO)へと発展的に解消したのである。日本は、発足当初から之に加盟しているが、GDP世界第2位となった中国は、遅れて2001年にやっと加入している。WTOに入れば、勝手な振る舞いは許されないし、紛争の調停機構なども備えているが、中国は、正に独自を行くという具合に、海賊版を出したり、模造品を出したり、最近ではアンフェアな、レア・アースやレア・メタルなどの輸出規制を平気で行っている。こういった面を捕らえて、糾弾すべきではあるが、なかなか大国化し、既成の事実を作り、取り繕うことの巧い中国には何の規制にもなっていない。東南アジア諸国連合(ASEAN)は元々、インドシナ半島の共産主義勢力への対抗を目的とする安全保障の枠組みとして発足した10ヶ国で構成されていたが、政治目的を越えて、現在では経済・社会・政治・安全保障・文化等全ての面での地域協力機構として存在価値を高めている。之にプラス3ヶ国という事で、日本、中国、韓国を入れた13ヶ国で域内の問題を解決するといった状況にある。中国は、むしろ、このASEANを軸に、存在感を高めようとしているようであるが、この機にアメリカが積極的に展開しようとするTPPにも強い関心を抱いていることも事実である。GATT設立の目的は、各国がブロック経済圏をつくり地域内のエゴに走らぬようにとの点にあったが、ここに来て、多くの経済協定が乱立することになる。この度のTPPは例外なく完全な自由化を目論んでおり、物だけではなく、サービス、知財などの範囲についてもその協定は及ぶと言うことであるから、大勢に於いて貿易自由化即ち関税の撤廃はするが、自国が弱い部分は、高い関税を掛けて保護するということがまかり通っていたWTO時代とは違った厳しい決意が必要である。WTO時代でも、日米間でも再三貿易摩擦を起こしたことは記憶に新しいところだ。日本で今一番に問題になっているのが、農業である。現在は完全な保護貿易下に置かれて、何とか凌いでいるというありさまで、常識では考えられない700%もの関税を掛けて、外国産の米などの輸入を拒絶しているのが現状なのである。「農業人口260万人を路頭に迷わせるのか!」というのが農家の主張である。一方、反対に、製造業に関係する約1100万人もの人口を構成する側は、このままでは、立ちゆかない、技術の海外流出もやむを得ない状況に追い込まれると、声高にTPP加盟を促している訳だ。正に、菅首相が「平成の開国」と称しているのがその辺りにある。しかしながら、今まで日本は、対農業政策を無視し、何ら改革的なことを行ってきていない。自民党の所謂族議員の責任たるや甚大なものがある。私のマンションから外を見ると、未だ田んぼが見える、この田んぼは、一見して見渡せる範囲ですら、何区画にも分かれていて、それも真っ直ぐではなく曲がりくねったいびつな形をしているのである。諸外国の農場をつぶさに見た訳ではないが、アメリカの農家の映像を見る限りでは、大型トラクターが稼働し、地平線までも一挙に耕すなど明らかに効率化された様子が見られる。我々が、フランスを訪れて、パリからジベルニーに行くその途中でも、流石農業国といわれるだけあって、広大な面積を有している。こういった立地条件の中でも日本の農業は、健闘していると言える。ただ、如何せん、自然と天候に左右される1次産業にドラスティックな改革、効率化は望めない。増して、農耕を主として生きてきた、日本の歴史には重いものがある。ここに来て、農業の門戸を開くことは、大いなる犠牲が要るだろうが、ここで鎖国を続けるなら、近い将来に禍根を残すことになるであろう。貿易の自由化は一般的に自由貿易協定(FTA:Free Trade Agreement)がベースであり、地域ごとにその名前を変えて多数存在する。アジアに於いては基礎となるAPECの上に、ASEAN+3という枠組みと、ASEAN+6という枠組み、更に、今回のTPPという形があり、それらはやがて、FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)としてまとめられる道筋も見えている。機会損失という言葉がある、正にこの機会は、これを逸すれば、国家百年の計をも危うくするかも知れない。農業大事(いや農家の票大事)と無策であった政権の続いた日本の正念場が見えてきた。
2010.11.13
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足かけ4ヶ月前にスポーツジムで骨折してから、次の月の8月3日に胸部も骨折しているとの詳細が判明して、入院が決まった。以来何度か、豊中の病院まで足を運んだが、先月25日に無事退院の運びとなった。入院期間は3ヶ月という事だった。その間いろいろなことがあったが、無事退院できたことは喜ばしいことである。病院の食事はまずいと相場が決まっているが、最初の内は、いろいろ不満もあったようで、そのうち仕方がないと諦めてしまったようだ。ただ、一緒に食べている人の中には、認知症にかかっている人もいるようで、まともな会話も制限されていることが苦痛の1番目であったのかも知れない。痛さも峠を越え、リハビリに励む頃になると、そう言った会話のない入院生活は退屈なものとなる。逆に「うん、うん」うなるほどの重傷であれば、そんなことも言っては居られないのだが、骨折も一段落すると痛さもそれほど感じなくなると言うのだ。入院した病院は、リハビリ施設が充実していたのと、担当して貰った理学療法士の方が親切で優しい人だったようで、その点では随分と感謝している。同じ療法士の中には、リハビリと称してはいるが、おざなりに体をなでるだけの人もいるらしく、姉の場合は、幸運で、他の患者さんにうらやましがられたと言うから、いろいろである。姉の場合は、骨折に合わせて、軽い脳梗塞が併発したので、その方が心配であった。聞けば、看護婦が、間違って注射をしようとしたらしく、その時、頭が正常でなかったら、看護婦の重大ミスに繋がり、下手をすると命まで取られかねないと言ったことになっていただろう。病院からの謝罪があったようだが、謝るだけなら誰でも出来ることである。昨今の医療ミスというのが起こるのはほんの些細な間違いがきっかけなのであろう。まあ、そんなことをクリアーしながら、今年の夏の猛暑日を完全に病院で過ごせたと言うことは、案外良かったのかも知れない。暑い最中、病院食ではさぞ果物などが食べたいだろうと、連れ合いが積極的に果物を保冷具の中に入れて運ぶことを勧めてくれ、付いてきてくれた。中でもブドウで、皮ごと食べられる品種は、とても美味しかったようで、感激していた。そんな暑い8月の最中に、見舞いで言った時には、未だ手の痺れなどがあり、胴にもコルセットを巻いていたりして、痛々しい限りであった。そんな時、試しにサインを書いた字が残っているが、ウォーターゲート事件後、辞職を余儀なくされた、ニクソン元米大統領のサインよりはましであるが、未だ元通りの達筆にはなっていなかった。入院期間も3ヶ月となると、いろいろと友人知人が見舞いに来てくれたようだ。あまり公にしては居なかったようだが、近所の人で、元気な時にはゴルフを一緒にした人とは、たまたま見舞いに来てくれた日が同じだったこともあった。8月には車いすでの移動であったのが、9月に入ると、自由に歩行することが出来るまでになっていた。年齢は我々よりも10歳上なので、心配はしたが、元々一人暮らしに離れているので、たまに訪れる見舞客と、我々が行くことで、まずまず平衡を保っていたようである。血圧が少し、高いと言うことだが、自分で買った血圧計では、先ず正常値内に入っている。そこで初めてADL(Activities of Daily Living)評価基準なるものを知った。アメリカの医師と理学療法士によって提起されたもので、身体機能に障害を持つ患者の機能的活動をより客観的に測定するため、関節可動域や筋力だけでは測定しえない、人間の日常的な活動能力を測定しようという試みから提起されたのだということだ。1976年の日本リハビリテーション医学会評価基準委員会によると「ADLは、ひとりの人間が独立して生活するために行う基本的な、しかも各人ともに共通に毎日繰り返される一連の身体動作群をいう。この動作群は、食事、排泄等の目的をもった各作業(目的動作)に分類され、各作業はさらにその目的を実施するための細目動作に分類される。リハビリテーションの過程や、ゴール決定にあたって、これらの動作は健常者と量的、質的に比較され記録される」などとなっている。MRIの検査もしたというが、CTでは分かり得ない小さな曇りがあると指摘されたが、これを薬で溶かすとかするたことの出来るものではないらしい。医者の見立ても判然と馳せず、原因に精神的な要素もあるような話であった。思い起こせば、看護婦の誤注射寸前で、極度に興奮していたとも思われ、そう言ったことでも血流障害を起こすことがあると言うことだ。餅は餅屋というが、脳の専門的な話になると、入院先の病院では、詳細は分からず、又投与する薬も的確かどうかについても専門医に見せに行くべしと言うことになり、別の病院の門を叩いた。その結果は、現在服用中の薬でよいということであり、細かな曇りについては、CTでは判明しないケースもあるので、MRIを定期的に受けた方がよいとの指示を受けたようだ。入院中、行きつけの美容室に連れて行くよう頼まれた。歳は取っても女性である、そこらの理容室では駄目らしい。取り敢えず、病院から比較的近い場所だったのは幸いだった。そんなことを経て、リハビリも順調に進み、10月25日、晴れて退院の運びとなった。連れ合いは丁度テストの最中であり、私だけが迎えに行ったが、少し遅れて病院に着いた時には、すっかり帰り支度が整っていた。退院できる時には流石に顔も晴れ晴れとしていた。やはり、人間健康で笑って過ごせることが一番である。一寸した体の不調でも笑顔を忘れてしまう。入院ともなると、気が重いものである。しかし今回は、結果的には良い病院であったようで、リハビリの充実がなんと言っても姉の体調を整えるのに効果があったようだ。そして、今日延び延びになっていた退院祝いと、連れ合いの1日過ぎた誕生祝い、そして、もう少しで誕生日が来る私の祝いをまとめて食事をしようと言うことになり、梅田の和食処を予約し出かけてきた訳だ。姉は快気祝いと、私には、血圧計をプレゼントしてくれた。そして、食事代も支払ってくれた訳だが、日頃締まり屋の姉にしては余程恩に着ているのかも知れない。私としては、車での送迎にしろ、果物を買うにしろ、又根本的には、見舞いに行くことを促すのも皆連れ合いがあってのことである。連れ合いに手厚く礼をして貰いたいとは思ったが、そこが我が姉弟の駄目なところで、細かなことに気が回らないと言ったところである。連れ合いの方も私を見ているので、そこのところは理解していると思うが、まぁ、年寄りが生還したのであるから、喜んでおくことにしよう。早速ゴルフのコンペがあるから練習ラウンドをしたいという始末で、服装も頭も整えて来たので、之があの入院中の年取った病人であるのか目を疑うほどであった。本音のところ、私の両親も骨折が原因で寝たきりになってしまった訳で、今回は心配であったが、今日の姿を見る限り未だ大丈夫だという気にさせてくれた。
2010.11.12
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今年の天候は、やや変調で、その兆しが現在も残っていて、11月にしては未だにそれほど寒くはない。従って紅葉も今ひとつといった感じではあるが、今日は絶好の快晴である。恒例の歩こう会も52回を数えるに至ったとのことで、なかなか長寿である。幹事の先輩の苦労が忍ばれるというものだ。今日は「大津の山の手と湖岸を歩く」ということで、連れ合いと2人で参加したが、同行した人は15名であった。大津駅に集合と言うことで、島本駅が出来て本当に便利になった。何しろ天下の東海道本線1本で行けるのである。何時も早すぎると言われながら、連れ合いも心得たもので、少し早めの9時に家を出た。通勤時間帯はとっくに過ぎているにも拘わらず、電車では立つことになる。何しろこれから歩きに行くのだから、立つこと自体は未だ問題はない。それでも京都駅に着くと席は空いた。それからは、山科、大津と2駅目である。着いた時は、未だ集合30分以上前だったが、既に幹事のご夫妻は到着されていた。神戸方面から、少し遅れて到着された、ご夫妻を待ち10時40分頃にJR大津駅を出発して歩き始めた。大津赤十字病院の前を通ったが、病院の駐車場に入れるために長蛇の車が並び、それを捌く警備員が沢山出ていた。大津の駅前を歩くのはおそらく始めてである、何となく新しく切り開いた広い道がある割には、駅前の商店街は、所謂シャッター通りと化していた。三井寺と如何なる関係にあるのか、長等神社の立派な朱の門が我々を迎えてくれた。境内に入り、一回りした、そのまた一角に馬神神社がある。馬の神様だと言うことで、この日曜日のエリザベス杯のことが話題になった。長等神社の境内には、平忠度が、西国に落ちる時に清盛を思い歌ったと言われる「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」の碑が山から降ろされて、置かれていた。長等神社と道を挟んだ隣が三井寺(園城寺)である。長等神社も三井寺をまつるために建てられたという説明もあり、一寸不思議な気持ちがした。神社というのは、神をまつるものであろうに、寺は、後に興った真言の雄であるにせよ、格は違うはずなのだがと、愚にもつかぬ事を思った。何しろ馬をまつる神社もあるくらいだから、そこら辺は割り引いて考えないといけないかも知れない。参る人や、観光客はそのようなことは一切考えていないようだ。また途中には兎歳の神様であるという、三尾神社がある。馬や、兎と忙しいことである。卯年の姫の良縁を願い参った。伊弉諾尊(イザナギノミコト)が長等山の地主神として降臨したのが縁起であるという。全国的にも兎にゆかりのある神社は珍しい。先の長等神社も、この三尾神社も王政復古を進めようとする維新政府により、神武天皇以来の治世を理念として、「祭政一致」を宣言して、神道を国教化し、神仏の分離を謀った際に分離されたとのことである。その昔仏教が伝来した時には、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために神仏混淆が唱えられたたりしたが、明治政府が神仏分離政策をとり、神道に一本化しようとした訳である。現在は、明治政府の意志に反して、仏教派生の宗教が大いに幅を利かせ、政教分離とは名ばかりの政党まで現われていると言う時代だ。隣のというか、そこが目的地の三井寺の境内は、極めて広い。近くにある皇子山ゴルフコースの面積と同等といえば分かりやすいかも知れない。境内へは総門からも入れるようだが、一応正門である、仁王門から入ることにする。仁王門を入るとすぐに石段が待つ。そこを上り始めると、国宝である金堂の側面の入母屋が見えてくる。何しろ天台宗総本山だけあって、なかなかどっしりした建物である。この金堂は、国宝に指定されていて、他にも仏像を含め国宝を合計8点所有すると言うことである。金堂には、入ることが出来るのだが、肝心の本尊である弥勒菩薩(不思議なことに本尊は国宝ではない)は御簾の奥深くに隠れていて、ご尊顔を拝むことは出来ない。周囲に木彫りなどの仏像や、阿砂利などの像が陳列してある。中に、「金色不動明王」で黄不動とも呼ばれる「絹本著色不動明王像」は、高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」とともに日本三不動の一つに数えられ、古来著名な画像であり、ともに国宝の指定を受けている。青蓮院の「青不動」は既にライトアップされた夜に連れ合いと見ている、不動明王は、実に恐ろしい顔と光背にあたる部分は火炎である。大日如来の化身とも言われ、また使者であるとも言われて、特に日本において根強い信仰を得ている。大阪にも水掛不動さんという親しみ易い御不動さんもいる。金堂の西側奥に金堂と接して閼伽井屋が建っている。この内部には三井の霊泉と呼ばれる井泉が湧き出ている。耳を澄ますと「ゴボ、ゴボ」と水が湧き出る音がする。この湧き水で、天智・天武・持統天皇の三天皇が産湯に使ったと言うことが三井寺の名前の由来になっているのだそうだ。正面三間、側面二間の小さな館であるが、ここに、再興時に北の政所が左甚五郎に彫らせたという龍があり、夜な夜な、琵琶湖方面で悪業を重ねると言うことで、甚五郎自身が目に釘を刺して止めたというまことしやかな話が残っている。三井の梵鐘は弁慶の引きずり鐘の跡を継いで奉納されたそうだが、代表で叩くのに300円も取るのだ。先輩幹事が代表で叩いたが、その余韻はなるほど素晴らしいものだった。しかし、1回300円は暴利を貪っていると言える。(当然之には消費税はかかっていない)皆さんは未だ残っておられるのかと待っていると、先に進まれていたようだ。迎えに来てくださった先輩の奥さんの言われるまま、三重の塔を見てきた。三重の塔は、仏舎利を納めるところで、全国にあるが、13の塔が国宝に指定されていると言うことだ。ここの三重の塔は重要文化財であるが、なかなか威厳の有る良い塔である。何時も行く、大山崎にある宝積寺の三重の塔も重要文化財であることに変わりはない。修復中の微妙寺の横を通り毘沙門堂から観月舞台に上り、西国十四番札所である、観音堂に参ったあと、琵琶湖が眼前により良く見える、高台に上り、各自持参の弁当を広げた。いつもは出来合いの弁当を買うのだが、今日は、前日に連れ合いが一生懸命2人分の弁当を作ってくれた。その意識が有ってか、今日の弁当はとても旨かった。10年前までは、このようなことは考えることすらおよびもしなかったが、ピクニックで、連れ合いの弁当を食べるありがたさをしみじみと感じながら食べた。我々だけが、日の当たるところで座り込んだのだが、皆さんは一寸離れたところに固まって座った。今日は、連れ合いの誕生日である。そのことを、食後のお菓子を配りに来てくれた同行の女性に話すと、「おめでとう!」と言って帰って行ったが、しばらくして、向こうに座った全員が「ハッピバースデイ トゥー ユー・・・・」とコーラスを始めたのには驚いた。男性も手を叩きながら連れ合いの誕生日を祝ってくれた訳で、有り難いことだと思った。老年の域に入ったとはいえ、皆さんちょっぴりお姉さんやお兄さん方であるので、何かと可愛がって接してくださるのが又嬉しい。そこから、琵琶湖湖畔の「我は湖の子」の碑を通り、湖岸散策は省略し、大津港を左に見ながら浜大津の駅に着いた。浜大津で、3人が分かれて帰途についたが、JR組は元来た大津駅まで帰ることになった。途中、殆ど降りたシャッター通りに1軒のコーヒーショップを見つけ、しばらく話した後、散会した。快晴の楽しい1日であった。
2010.11.11
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日経新聞に掲載されている十選で、前(10月11日)の続きで取り上げた。ランダムに気に入ったものを取り上げ、また鑑賞していく。まず、「静かなる構図」として掲載された作品である。前回も気になっていたが、ジョットの「宮詣り」という作品が紹介されているのだが、インターネット上では探し得なかった。キリスト教の原点のような作品で、「七つの祭壇画」の一部だという説明だ。真ん中の赤子(キリストであろう)中央の建物で受け渡しをしているように見える。これが日本の宮詣りと同じような意味を持つ、違った儀式なのであろう事が、描かれている人物の厳かさから感じ取れる。次は、フラ・アンジェリコの「受胎告知」である。受胎告知は多くの画家が手がけているが、フィレンツェのサン・マルコ美術館に収蔵されている作品で、連れ合いとイタリア旅行時に見て、感動した作品でもある。羽を付けた天使ガブリエルが、椅子に腰を掛け少し前屈みで、座るマリアに受胎を告げている構図だ。聞くマリアは、ガブリエルの声を聞きやすいように顔を少し傾けているようであり、ともに胸の前で手を交差している図である。ガブリエルは、旧約聖書「ダニエル書」に出てくる天使でユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれていく天使である。西洋美術においては時に優美な青年として描かれているが、この作品のガブリエルは女性である。いずれも厳かな雰囲気であり、懐妊を喜ぶお祭り騒ぎでないことは確かである。続いて、ラ・トゥールによる「悔悛するマグダラのマリア」である。ラ・トゥールは多くの悔悛するマクダラのマリアを描いているが、ここで取り上げられているのは、「聖なる炎の前のマグダラのマリア」と呼ばれる作品で、1本のろうそくを見つめながら膝にはしゃれこうべを抱えている奇妙な構図である。闇に光ろうそくの炎が印象的な絵である。静かなるものとして、フェルメールの「青衣の女」が取り上げられている。作品数が少ないことで知られ、しかもその意味故か人気の高い画家である。彼は風景画を2点しか描いて無く、後は室内の特に働く女性の姿を捕らえている。「青衣の女」は妊娠しているとも見られる女性が左の窓から差し込む光を頼りに(夫からの?)手紙を読む静かな一時であろう。座っていないのは、座れば光が届かないほどの暗さかも知れない。そして、ミレーの「羊飼いの少女」である。ミレーは、農民の、しかも貧農で敬虔な農民を描くことに終始しているが、当初サロンからはこっぴどい評価しか受けていなかった。羊の群れを背に敬虔に祈るこの少女を描いた作品頃からサロンでも評価されるようになってきたと言うことだ。通常の画家は、地平線を画面の下から1/3くらいに描くが、ミレーはその逆で、地平線を下から2/3と高い位置に書くのが常であった。この羊飼いの少女の地平線は2/2よりもやや高い感じであるが、こういった意味は、ミレーが如何に大地を大切にしそれを描いた画家であることが分かるというのである。他にも静かな作品は多数有り、十選に選ばれてはいるが、モンドリアンなどのシュールな作品は私にはどうも理解の範囲を超えているようだ。アメリカ文学に生きる「響き合う言葉と美」という十選では、エル・グレコの「トレド風景」が選ばれていた。現在のトレドも知らない私であるが、16世紀のトレドはこういった状態だったのかと、それでも信じられない気のする、暗雲がたれ込めたような、一瞬くらい印象を受ける作品であるのだが、そこには、何か惹きつけるようなものがある。セザンヌのお馴染み「サント・ヴィクトワール山」が紹介されているが、何枚も描いた中で、私や連れ合いが最も好きな構図の作品ではない。紹介された絵では、サント・ヴィクトワール山そのものは、眼前の木で遮られている。むしろこの手前の木が主題ではないかと思わせるほどである。遠く、マンソンリー(石造り)の橋が見えるが、いかにも西洋風という感じである。もう少し描く場所を右に場所を移した同じ絵が、最も好ましい絵だと感じている。マネの「オランピア」は、ゴヤの「裸のマハ」やティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」がベースにあるとされる。この娼婦の一糸まとわぬ裸婦像は、サロンに入選するも、露骨に娼婦を描いた卑猥な作品として1863年の「草上の昼食」以上の大きなスキャンダルと物議を醸した。この作品は、オルセー美術館でも通路の真ん中の壁に1つ孤高を保つように飾られていたことを思い出す。ウルビーノのヴィーナス」では足下に「従順」を象徴する犬が描かれているが、「オランピア」では高ぶる性欲を示す、尾を立てた黒猫に変わっているところが、この絵が娼婦であることを如実に表している。ドイツの画家、ハンス・ホルバインの「大使たち」は左に駐英フランス大使、右に友人の司教を描いた作品で、威厳のある大使と、学識有る牧師の表情を鋭い筆使いで描いている。雑多に配される、弦の切れたリュートや棚の上に置かれた物はそれぞれ寓意的な意味を持っているという。中でも床に描かれただまし絵的な変形した頭蓋骨は有名で、之は、権力の危うさと死が予言されているのだという。ジョットの「聖フランシスコ伝 小鳥への説教」は全部で28場面ある「聖フランチェスコ伝」の一場面である。私たちはいけなかったが、イタリアのアッシジに建てられた教会のフレスコ画で、13世紀の権力と冨への執着によって腐敗したカソリック教会を批判した作品である。「母性と女」を題材にした中で、西洋美術に関してのみ取り上げると、まず、ドラクロワの「激怒のメディア」がある。神話と、宗教がかったドラクロアの激しい絵画は私の好むところであるが、このメディアは英雄である夫イアソンが心変わりして、浮気をしたイアソンへの復讐心と嫉妬と狂気が入り交じった凄まじいもので、抱えている二人の子供はイアソンとの間に出来た子であるが、女の部分が、母性を遙かに凌ぐという、現在の風潮にも似た、普遍的意味を持つ絵画である。ボッティチェリは何枚もの聖母子像を描いている。ここで取り上げられているのは、「バラ園の聖母」と名付けられた作品で、ドラクロワの「激怒のメディア」とは対照的な、穏やかな母子の情愛が伝わってくるやさしい絵である。ボッティチェリといえば「ヴィーナスの誕生」や「 春(ラ・プリマベーラ)」があまりにも有名であるが、こういった一連の聖母子を描き続けたボッティチェリの心の動きの投影ではないかという見方もあるようだ。この絵の目を閉じた母親と、やや大人びて、ふくよかの子供の仕草は分かるが、傍でこちらを横目で見ている少女の役割は何なのだろうと思う。最後に、クリムトの「人生の三段階(女の生の三段階、人生の三世代)」が取り上げられている。幼少期、若年期(青年期)、老年期と人間の人生における段階を集約して表現した作品である。ここでは女性の人生の3段階が描かれており、若年期を表す、若く美しい女が、幼少期の女の子供を抱き、その背後に老年期となる醜く老いた老婆が配されている。若年期と幼年期の2者は瞳を閉じ、穏やかな表情を浮かべながら互いを慈しむように抱き合っている。これらは若年期と幼年期の輝く若さと純潔性、そして未来への喜びを意味しているのだが、一方、左手で顔を覆い、うな垂れるかのような姿態の痩せ衰えた老年期の老婆の姿は、若年期と幼年期の若さと希望に満ちた姿とは対照的に、否応なしに訪れる人生の終着「死」を予感させる。題材として女性が描かれているのは、男性に比べ、その華やかな時と老いて醜悪になる時の落差が女性の方が大だからだろうか。私などの場合も、客観的に老いることと外観上のやや醜悪になることは否定し得ない事実と知りながらも、老境に入って尚、内面的には輝き続けたいと思うのである。人生の終末を如何に過ごすかは、それこそが重要なことではないかと考えるのである。
2010.11.10
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高校時代の先生が主催するゴルフコンペに初めて参加させて貰った。恩師といっても、担任でもなく、授業も受けたことはなかったが、在校時代に先生をしておられた。正確には、私の友人の担任だった先生で、友人を通じて誘いが掛かったという訳だ。もう一人初めて参加する野球をやっていた友人も初参加だった。場所は猪名川国際CCで、良く出かける一庫GCより少し西にある。朝は6時30分に家を出て、友人をピックアップ、野球の友人は、JR高槻駅で待っていると言うので、そこでピックアップして、ゴルフ場に向かった。私の提案で、何時も通る一庫GCへの道から抜けていくことにして、R171を走った。いつもの箕面有料トンネルを抜け、止々呂美からときわ台、光風台と通っていく山道を経由し最後は、能勢電の日生中央を経由していくコースだ。残念ながら、時間的には余り早くないと言うことだった。持ち寄った品を賞品にするというシステムであった。参加する人数は昔、30人近かったようだが、今回は14人という事で、女性は3人だった。私は、同級生2名と、シングル・ハンディーの人4人で回った。手の内が分かっているのは、何時も一緒するバスケット部だった同級生だ。新しいコンペで初めての人と回るのは、やはり少し緊張する。インからのスタートで、10番は、打ち降ろしの広い感じだ。左のラフに入ったが、距離は235Yくらい飛んでいる。まずまずの打ち出しだ。2打で、左バンカーに捕まり、3打で出すだけのダボだ。シングルの人は、バンカーからクリーンにヒット、オーバーのOBで、私としてはまずまずの出足だ。11番池越えショートは少し打上で、グリーンを少しオーバーしてしまった。パターで寄せパーとし、オナーとなった。12番は打ち降ろしから打上のロングで、左の木の張りだし気になる。少し右を向いていたのであろう、ティーショットの落ちるのを見て、OBといわれた。しかし、飛距離が出ていない(まともに当たっていない)から土手を越えず跳ね返ってラフにあった。2打目を対角の左ラフに入れ、3打目で、グリーンを狙えるところで、ダフリ、結局4オン、しかも3パットと、オナーをもぎ取られた。13番直線のミドルだが、ティーショットが上がりすぎて、ほんの少しフェアウェイに出ただけだ。ここらで、他の3人とドライバーの差を感じ出す。峰まで届いていないから、2打から打ち降ろしであることを打ってから知った。3オンは確実という距離で、痛恨のダフリ。4打目もグリーンオーバーで5オン1パットのダボだ。14番、谷越え打上のミドルは、眼前の谷がやたらに長く感じた。フェアウェイに届くギリギリで、2打を右の山に打ち、あわやOBが助かる。3打目も、スタイミーなグリーンを狙った訳ではないが、前の林に当たって、前方のラフに落ちた。念のためと暫定を打っていたが、助かっていた。そこからオンの2パット又ダボである。続く15番は打ち降ろしだが、2打目が谷を越える変則的なコースで、ティーグランドから谷間では200Yを切るので、ドライバーはもてないと言うことだった。手加減をした訳ではないが、谷間で少し距離を残してしまった。2打目を打ちそこねて谷へ。前方プレ5で、何だかだと結局7オンとなり、2パットの9打を叩いた。最悪のホールだ。他の友人も最初OBと私と同じく2打目を谷落ちだったのだが、両者に負けてしまった。16番はフラットやや下り気味のショートで、この時アゲンストの風が吹きまくった。3人とも風に押されてグリーンに届かないか外れる。私の時は少し風が緩んだのか、1オンすることができた。ここもパーである。17番打ち降ろしのミドルで、之も2打目が池越えである。ティーグランドは、右の林に向かってマークが置いてある。別にそれにつられた訳ではないが、やはり前方の谷のことが気になったのか、ティーショットは、真っ直ぐに右の林の中に吸い込まれた。プレ4は池手前ギリギリのところから、グリーンまで、130Y程度だが乗せることが出来ず、5打目もトップし、グリーンオーバーで、6オンとなった。しかもパットは1打目を打ち切れず、何とそこで、4パットをしてしまう。今までなら、十分OKが出るところをカップインのルールなので、随分カップに嫌われた。前半最後の18番は緩やかな打上で、17番の鬱憤を晴らすかのように今日一番のティーショットとなった。前下がりの2打目を逆に意識しすぎて左に引っ張り、OBすれすれのラフに入った。取り敢えず暫定を打ったが何とか助かっていたので安堵した。折角3オンまでしたのに又3パットとふがいないダボで終了した。後半のアウト1番は2打目でグリーン近くまで行ったが、ダフリで4オン、1パットに救われボギースタートだ。前半にも1回有り、之で2回目のダフリチョロだ。これを直さなければいけないのと、アプローチでのトップしないことが、私の要点だ。2番の池越えロングは友人の飛距離に勝てた。2打目を右ラフに入れ、3打目をまたまたチョロしてしまう。又つまずきの5オンしかも3パット今日のロングは、やけにみすぼらしい結果だ。3番打上では、2打目のクラブ選択を誤り、30Yを残し、3オン。1パット目が実に惜しかったが、結局ボギー。4番打上のショートで、左は山が被り、前が見づらい。アイアンに自信がない私はウッドで攻めたが、5Y届かなかった。7Iのピッチアンドランで、寄せ、1パットで、パーとした。之で、最後の1ホールをパーであれば、ショートは完全制覇なのだが、と意識した。5番打ち下ろして打上のミドルでは、右カート道ギリギリのラフ。2打目少し左に引っ張り、2オンを逸する。しかもこの日2回目の4パットだ。1パット目の上りを打ち切れず、何とも歯がゆい気持ちになった。ショートでパーの後は、何故か調子が悪い。我ながら情けない流れだ。6番の超打ち降ろしであるが、左右の山が迫っていて、かなりなプレッシャーになる。こういったところで、プレッシャーを感じるのは、自分のボールの飛ぶ方向に自信がないからである。極端に言えば、パターで転がしても相当なところまで転びそうなホールなのだが、思い切り左に引っかけてOB。プレ4を長めのクラブでオンし、おしくも2パットのダボになった。7番は今日最後のショートだ。左はすぐにOBラインとカート道。グリーン左のガードバンカーもあるというので、右目を狙うがウッドをダフり気味で、一寸届かず、1.5mのパーパットとなったが、プレッシャーに負け2パットしてしまい。ショートホール初めてのボギーだった。8番ホールの右は広いが、左は山がせり出している。ティーショットは、他の3人が良い当たりで、私の2倍くらい飛んだ気がした。私のところからも2オンの可能性はあったようだが、バンカーに捕まった。しかしバンカーショットで、見事グリーン上に載せ、1パット目のパーを逃したのは惜しかった。最終9番は2打目から打上で、やや谷になっている向こう側の土手を越えないと苦しいことになる。力が入ったのだろう、左に引っかけ気味に棚に届かず、コトコトと落ちる様子が分かり、それはOBになってしまった。プレ4は打上150Yということで、ウッドでのショットは良く当たり、グリーン近くまで飛んだ。残り20Yのアプローチは攻めきれず、5オンはピンから7~8mであり、2パットとなった。計算すると、同期3人は同じ50であった。シングルプレーヤーは37である。パープレーというのはこういうものかとただただ感心するばかりだ。終わって表彰式では、和気藹々のうちに終了し、我々同期生と先生の4人で記念撮影をした。2打目谷越えが2ホール有るのは何となくプレッシャーだが、なかなか面白いコースだと思った。帰りは、川西能勢口経由、名神豊中ICに入り茨木ICから順次友達を降ろし、帰宅した。
2010.11.09
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以前に日経新聞の自由意見欄である、「領空侵犯」にこんな見出しが載っていた。要は、消費税の増税ではなく所得税の累進制強化を主張する東京工大上田準教授のインタビュー記事である。主張の根源は、徴収された税が社会の適切な個所に分配されていないという不満である。近来まれに見る主張であり、私も、消費税しかないという風潮に、仕方がないということを感じる反面、日本も弱者に優しくない国になってしまったものだと感じていただけに、こういう意見を紙面に堂々と載せる人が居ることに一寸気を引かれて。所得税が多いと、金持ちは税金の安い外国に逃げていくといわれるが、その点について何か打開点がありそうだという訳だ。もしそう言うメンタリティーなら、そうすればいい、日本を捨てて海外で生活できるのならそれも良いというのだ。上田氏は、52歳で宗教人類学者だとか紹介されている。そもそも、経済の機構が、世界の全ての尺度になっている世の中への警鐘とも受け取れる意見である。とにかく仲間を大切にする意識が富める者の義務であるという意見なのである。私は初めて聞く理論で、文化人類学には「交換理論」というものがあって、2者の間の貸し借りを直接やり取りするのが、「限定交換」というのと、多人数の間で、自分がもらった相手と与える相手が対応しないで、この収支が見合うまでには時間が掛かる、「一般交換」があるのだそうだ。ギスギスした貸し借りゼロの追求社会であっては信頼喪失を招くというのだ。新自由主義という言葉を使って、アメリカなどの例を引き、アメリカや西欧諸国では、社会的な競争の敗者(これを負け組と称するのだろうか)を全人格的に否定しない社会であるというのだ。まずその根柢にあるのが、宗教なのだそうで、日本はその点が希薄になっていると言うことのようだ。日本でかつてあった、隣組のような、助け合いの精神が、最近は薄れていると言うことなのかも知れない。共同体の安全ネットが、今の日本では、弱体化し、欧米化した新自由主義に走っているが、弱者を思いやると言うことを忘れた繁栄に酔っていると言うことなのかも知れない。構造改革などで、規制を解いた故にとりわけ弱い立場の人間を追い詰めて居場所を無くした結果となっているということだ。氏は、これを信頼社会の崩壊と呼び、太平洋戦争の敗戦、バブルの崩壊による経済的敗戦に次ぐ、戦後日本の第三番目の敗戦だという。之に対処するために、信頼社会の再構築が、必要で、そう言ったか観点から税制改革を見ていくべきだという話だ。信頼社会の回復では、先ず勝者である金持ちが、利己的であるのを止めることが必要だというのである。富を得、膨らませた原因は、色々あるだろうが、自分一人で成し遂げた訳ではなく、社会の中で行われた行為であるから、そのお金を、社会に還元すべきだというのが、その意味ではないかと読んだ。紙面だけではなかなか理解しにくい面もあるが、例えば、前首相の鳩山一家にあっては、いみじくも「私は裕福な家に生まれたから・・・」と平然と言いながら、リーマンショックでは、何十億もの損失を出したと、馬鹿な弟が、暴露するなど、金に関して無頓着で、敗者の心を逆なでするものであった。一国の総理が、そう言った感覚では、調和と秩序が保てる訳がないと感じたものだ。西洋には、ノーブレス・オブリージュ (仏語=高貴なる義務)という言葉があり、英語では「ノーブル・オブリゲーション」と言うのだそうだ。一般的な意味では、財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを言うのだそうだが、その一方で、実際の歴史では、貴族などの特権と贅沢を正当化する隠れ蓑となった側面もあるのだという。この言葉の起源は聖書 「ルカによる福音書」12章48節に由来しており、そこには、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」とある事による。宗教的な基盤が厳然とした彼らの生活の中には、こういった精神が脈々と生きていると言えるのかも知れない。日本では、明治以来の華族制度は表面上ではなくなったが、富の偏在という形で、脈々と生きている。一旦富を手に入れれば、権力も手に入れるし、それが後先でも、同じである。時が権力を得たり、権力が富を得たり、そうして出来上がった構図は、自己増殖的に増え続ける。国民が、疲弊し、喰うものに困っている場合でも、彼らは、制度を云々するだけで、率先して、「求められる多くのこと」を為していない。例えば大災害に見舞われた場合でも、必ず、不特定多数の国民に、少ない拠金を求めるだけで、大金をはたいて、援助する金持ちの存在をあまり聞いたことがない。日本で最もノーブレスといえば、国民の象徴である天皇である。天皇家の歳費の何パーセントかを削って、こういった災害に拠金したなどと言うことは、過去に記憶がない。もしそう言った率先垂範が有れば、「赤子」の内の富者は黙っては居られないと思うのだが如何であろうか。先のアメリカの中間選挙では、オバマ大統領率いる民主党は共和党に大敗し、アメリカ議会もねじれ議会となってしまった。オバマ政権は、貧者側の論理で、医療費問題や、所得格差縮小問題に焦点を当て、高額所得者の減税措置を廃止する法案を打ち出し敗北した。共和党の言い分は、「高所得者は懸命に働いて得た結果得た報酬であって、そう言った努力の結果である報酬を税金でより多く強制的に徴収するのは個人の所有物を略奪するのと同じだ」という本来自由主義者としての哲学故である。日本では、「所得税」を口に出すと敗者になり、アメリカでは「高額所得者増税」を口にしたら負けると言うことだ。洋の東西を問わず、合法的であろうが、多少力ずくであろうが、既得権益を得たものが、それを手放すことは、先ず大きな抵抗に遭う。今NHKで「龍馬伝」を放映しているが、明治維新における「大政奉還」程、難しいことはなかったのではないか。薩摩、長州そして土佐はこれを武力でしかなしえないと思っていたが、一人坂本龍馬が説得してこれを為したとあるが、それほど生やさしいものではなかったと思う。私が民主党を支持していた根拠は、自民党時代に営々として築き上げられてきた、負の既得権益など、理不尽で勝者に有利な例えば天下りなどについて英断をふるってもらえるからとの期待からだ。ところが、こういった壁はにわかに変わることがないようだ。元々政治家が立てた国であっても、過去何十年も、優秀な官僚が営々と造り上げた社会である。ろくに政治や歴史の勉強もせず、哲学を持たないただただ、知名度があるというだけで選ばれた政治家に何も出来ないのは至極当然のことである。一般の国民は何故、このような人間を選んだり、又自らの意思表示をしない(棄権)するのだろうか。国の歪んだ財政を、簡単に「消費税増税」が駄目なら「国債」の垂れ流し発行で済まそうとしないで、本当に深部にメスを入れて改革を断行できる人物が出ない限り、救いはないと思っている。
2010.11.08
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東洋英和女学院大学学長の村上陽一郎氏が日経新聞の「あすへの話題」で老いると言うことについて書いていた。氏のご母堂は、あと1ヶ月ほどで106歳になられるという。それだけでも驚異的であり、私の友人の父親が、ついこの間102歳で眠るように逝って、通夜式に参列したばかりである。最近、100歳を越えた幽霊老人が大量に出て、日本は一体どうなっているのかと危惧していたが、本当に長寿の方も大勢おられる。私の両親は、80歳と79歳でなくなったので、我が家の家系としては、DNA的にも、ほぼその程度だと思い、且つ友人達にはそう言ってきた。「なるほど」と聞いてくれる友人もいれば「それまで生きられるかな」という友人もいる。死んでしまうことを想定して日々生きている訳ではないが、段々とその時が近づいてきていることを感じることも多くなった。私の場合は、9人兄弟の末っ子であり、親父は今で言うおじいさんのような存在であった。同年代の友人が、長男であって、親父さんが長命であれば、随分と長い間親と付き合うことになるのだと、当たり前のことを改めて感じることが良くある。私の母親も骨折を機に寝込んでしまったが、村上氏の母親も90歳代で2度転んで、骨折を重ね、車いす生活だという。その上視力も弱くなっているので、テレヴィジョン(テレビといわないところが村上氏らしいところだ)が慰めにならないのがつらいと書かれている。そして頭がしっかりしている時はごく普通のやり取りになるのだが、意識が多少混濁すると、自分の息子でも兄と弟の区別が付かなくなるのだそうだ。そして、氏もよく分からない昔の話になると曖昧な答えを返すことになるのだという。そして、氏は、老いるという意味を、「あの時こうだったとか、悲喜こもごものことについての体験を共有する相手が居なくなること」だと感じられたのだという。そして、やがて、自分にもその時が訪れるのだと結んでおられた。氏の専攻は、科学史・科学哲学といった難解な分野であり、東大先端技術科学センター教授を退官され、現職をされている。1936年生まれだからまだ74歳である。人間は一体いつ頃から死というものを見つめ始めるのだろうかと思う。もちろん私も心を病んだ時には、ただ生きていることに何の意義も見いだせないと感じ、生というものへの執着もなく、死というものを真剣に考えたこともある。しかし、病気を克服した以降は日常、死を考えることもなくなった。そして、現在、大阪に帰って、連れ合いと暮らし始めてからは死を考える余裕がないくらいに愉快で楽しい日々を過ごさせて貰っている。村上氏は、死ではなく老いについて語られているのだが、私には、老いと死を分離して考えられない。特に知人の死であるとか、友人の病、自分の体調と、健康管理上の諸数値の異常値などが見つかると、何とかしなければと考えるのだが、なかなか意志が弱くて、継続して健康管理のための努力を怠りがちになる。100歳を越えた人なら高齢者といっても何ら抵抗はないのだが、高齢の線引きは実に曖昧である。また、主観的な部分もあって、何時を持って高齢の始まりかと言うことにもなり、判断は容易ではない。会社を定年退職したら高齢者と言うことになるのかといえば、では、役員までになって、一般より長く働いていれば高齢者ではないのかというとそうも言えない。国連の世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としているようで、65~74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者、85歳以上を末期高齢者と言った定義をしているようだ。現役世代というのは15~64歳までの生産年齢人口をいい、65歳以上は高齢人口という事で片付けられてしまうようだ。ところが、政府も勝手なもので、少子高齢化が進み、1950年代には、理想的ピラミッド型だった人口分布が、将来は、トップヘビーな逆台形型になるということから、高齢者を如何に活用するかと言うことを言い出している。高齢者も元気なのだから医療費も応分の負担をしろといって「後期高齢者医療制度」を始めたが、所詮抜本的な解決にはならないと、修正を余儀なくされている。客観的尺度が必要であることは分かるが、老いというものを規格化して考えることには無理がある。アメリカのサミュエル・ウルマンは「80歳の歳月の高見にて」の中の詩(青春)で、『人間は年齢を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである。・・・・六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子供のような探究心・人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることができる限り、その人は若いのだ。感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、人間は真に老いるのである。』といっている。ダグラス・マッカーサー元帥や松下幸之助も座右の銘としていたと言われている。そう言った意味では、今の私には老いは関係ないものと考えている。というか、自信、希望、勇気そして、飽くなき知への関心・興味こういったことを失わないで生きていきたいと願っているからだ。くすんだ年寄りには絶対になりたくない。何時も気持ちを柔らかく、何でも好奇心を持って、目はキラキラと輝いていたい。今日の日経新聞に「高齢者にお友達ロボット」という特集があった。人と会話したり、コミュニケーションを取ったり出来るロボットが、痴呆にかかった老人の話し相手になり、その老人に笑顔が戻ったり、表情が豊かになったりするのだというのだ。その技術たるや、素晴らしいことだと素直に思うし、もっと進んだプログラミングをされたロボットが痴呆老人や、そうなりかけた老人の心を癒すことが出来れば素晴らしいと思う反面、一体誰が、そしてこの世の中が、そんなに寂しい老人を排出してしまったのかを基本に返って考えてみるべきではないだろうか。技術の進歩は良い、時には対処療法も又必要であるが、もっと根本的に独居老人や、寂しい老人を作る社会を改めるための施策が必要になるのではないだろうか。
2010.11.07
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連れ合いが観たい映画があるというので京都に出かけた。烏丸にある京都シネマで、何回か来たことはあるが、通常の映画館では興行しない一寸変わった種類の映画を放映している。題名は「マザーウォーター」で、京都の町を舞台にしたストーリーのない映画だと言われ、いびきさえかかなければ寝ていても良いよと言うお墨付きを貰って観に行った。小林聡美と小泉今日子が初共演すると言うこととか、小林の出演作「かもめ食堂」等のシリーズ作の第4弾目だという。説明を拾うと、人と場所の関係性をテーマに製作してきたプロジェクトの第4弾ということだ。作品には、京都を貫く鴨川上流の加茂川か高野川の畔が背景を流れる。京都にはまた、湧き水の湧く個所もあるようで、そんな水に接した京都の街を舞台に、物語は展開していく。ウイスキーしか置いていないバーを営むセツコ(小林)、コーヒー店を営むタカコ(小泉)、豆腐屋のハツミ(市川)の3人の女性と、その周辺で彼女らにかかわる人々の日常を描いていた作品だ。特にどたばたしたストーリーがある訳でもなく、映像は、淡々と日常の生活を追っていくだけである。私は案の定、途中から寝ていたようで、内容はからっきし理解できなかった。後で連れ合いに解釈を聞いて、「なるほど」とは思っても、何でこんな映画がはやるのか分からなかった。私たちが入ったのは、12時過ぎの2回目の公演であったが、1回目は満員、2回目も空席はなかったように思うし、終わって会場の外に出たら、次の回の入場者でごった返していた。京都シネマで、これほど繁盛している映画は過去に記憶がない。監督は松本佳奈という女性でそれを見て、なるほどと勝手に考えた。多分男性監督では、作れない作品かも知れないと感じたからだ。3人の女性は、皆、独り身の生活のようで、お互いの出身は分からないが、とにかく現在、京都で生活をしているということ、それが水にまつわる仕事であることといった共通点があり、言葉少なに互いが、淡々と交流するという平凡な生活を描いている。横糸には、半ば痴呆がかかり始めた年配女性(もたい)や、若い青年、風呂屋の男性といった人が登場する。中でもひときわ映画を盛り上げている赤ちゃんの演技(?) がこの物語を盛り上げていると感じた。名前は聞いたことがあるが、1作目の「かもめ食堂」はフィンランド、2作目の「めがね」は与論島、3作目の「プール」はタイが舞台だということだが、今回の「マザーウォーター」は京都である。題名も水に関係しているが、京都近くの山崎には、サントリーの工場があり、バーを営むセツコが扱うウイスキーは皆サントリーであること、何気なく置かれたビールの缶もプレミアムといった風で、サントリーが、スポンサーなのかと思った。日本の古都京都の鴨川べりに咲く桜の美しさは、群がる花見客とは無関係に楚々として美しい(実際は人出が多く映画のようには行かないが)。松本監督が京都と水を絡めたテーマを採用したのは、分からぬでもないが、水と言えば、大阪だろうという気になったりした。何しろ、八百八橋といわれる水の都は大阪で、大阪ほど水路や川が縦横に張り巡らされているところがないと思うからだが、この映画は大阪では成り立ち得ないだろうと言うことだろう。小林は「東京とは違う、ゆったりとした時間が流れていて、京都は奥が深く素敵な街だ」というが、確かに東京と違う個所が多いのは確かだが、町の中心は何処も均一化されてきてるので、何とも言えない。「三丁目の夕日」は確か東京の下町での話だったろうから、どの町でも、文化の均一化を拒否する場所はあるのではないだろうか。しかしやはり京都は、すてきな町だと思う事に異論はない。おそらく3人の女優が感じたことを、身近に感じることが出来る我々は、幸せなのかも知れない。とは言っても、終わって連れ合いの解説を聞かなければならないとは、やはり私にはこの類の映画を見る素養はないのかと考えてしまった。男性の観客も居たが、少数で、私の感じるところ、女性に促されて同伴したに違いなく、その人達もきっと居眠りが付いたのではないかと感じた。京都に出てきたついでに、「えき美術館」で「ブリューゲル版画の世界」を見ることにした。こちらは私が連れ合いを引きずり込んだ形で、私の頭の中には、「バベルの塔」があった。今回は版画と言うことで、期待していた絵画は見られなかったが、版画は版画で、オランダの当時の事とか、神話に基づく諺などが学べて別な意味で有意義であった。最初のコーナーでの景色を描いた中には川と岩山、森を描いた雄大なものが多く、細かな作業を、逐一見ている暇はないほどである。その他は、一貫した宗教神話に基づいた作品が多く、私は初めて「罪源」という言葉を知った。元々キリスト教の用語で七つの大罪とも呼ばれるものだという。「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があるとみなされてきた欲望や感情のことを指しているのだそうで、「原罪」とは意味が異なる。「罪源」はいろいろな説もあるが、現在は「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」が挙げられるようだ。その各々を、風刺的に描いた版画が、多く描かれていた。「罪源」は仏教界における「煩悩具足」の108の煩悩を、整理して7つにまとめたということと考えて良かろうかと思う。こういった、「罪源」を、風刺を交えて描いたブリューゲルの作品は、もっと詳細に観察するに値するのではないかと感じた。一方の「原罪」はこれも、キリスト教において、ほぼ共有される思想であり、エデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが最初に犯したとされる罪のことである。その罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという、戒めである。この原罪についても、ブリューゲルは描いている。そもそも、バベルの塔自身が神をも恐れぬ人間の所業についての戒めの絵である訳で、旧約聖書創世記 第11章に記されている内容の具象化である。神話と現状の世界をそれとなく繋ぐ橋渡し的な絵画は、私の好むところのものである。「罪源」にしろ「原罪」にしろ、日頃我々人間が陥っているか、陥りそうな事柄について、分かりやすく表現した、大人の絵本的な要素がある作品だ。この「ブリューゲル版画の世界」の表紙は「聖アントニウスの誘惑」で、旧約聖書 の「詩篇」第34編-19に書かれている、箴言・寓話 「正しき者は災い多し、されど主はそのすべてより彼を救い給う。」から取られている。又、見開きの版画は「罪源」の一つである「傲慢」についての説明書きがある。また、「大きな魚は小さな魚を食う」については、アニメーション動画も放映されていたが、これは、フランドルの諺で親が子供に言い聞かせた風に書かれている。この事は、長いものには巻かれるのだと言ったことを言いたかったのかも知れない。とにかく風刺の効いた絵画では味わえない別のおもしろさを感じた。
2010.11.06
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日経新聞と米戦略国際問題研究所がシンポジウムを開いたと報じられている。東京にいた頃には、経団連会館の隣にある日経新聞社に良くこういったシンポジウムなどを聞きに出かけたものだが、大阪にはなかなかやってこない。第一線の政治家や、研究者が集って議論する、その肉声を聞くことはやはりためになるような気がする。とは言いながら、拝聴するだけなのだが、頭の中の問題点整理には役立つし、世界との関係を遮断せずにいるためには、こういったパネルディスカッションなどを聞くのも又有用だと考えている。今回の出席者で、特に惹きつけたのは、アメリカを代表するリベラル派の国際政治学者のジョセフ・ナイ氏で、国防次官補を勤めた経験を持つ知日派として知られる人だ。日米関係に比較的冷淡だったクリントン政権を東アジアへ向けさせ、対日関係を重視していく重要な契機を担った人物である。田中真紀子が、面会を断った、元国務副長官アーミテージ氏らと共同して、「第二次アーミテージ・レポート」を作成し、日米同盟を英米同盟のような緊密な関係へと変化させ、東アジア地域の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むことを提言している人物である。オバマ政権で、オバマ大統領の友人であるルース氏が駐日大使でなければ、このナイ氏が駐日大使になっていたと言われている。アメリカ衰退論に対し、ハード・パワーではなくソフト・パワーという概念を導入し、「文明の衝突」を表したサミュエル・ハンティントンに批判的立場をとっている。氏の中国感は、中国の成長を認めつつ、中国の表層的経済規模は20年ほどでアメリカに匹敵するだろうと予見している。この段階で、国営企業も民営化や、格差是正、政治的不安定などの障害が多く、「大きな中国」を心配するよりも「弱い中国」を心配すべきだという。中国は中華思想がベースの、しかも6世紀頃から世界最大の国であったことは事実であり、潜在的に覇権国家である体質に変わりはない。そこに来て、10%近い成長率を維持するためには、工業資源の確保や、囲い込みが必要になるため、かなり無理な行動でも敢えて行っている。今回の尖閣列島を巡る、中国漁船の体当たり事件は、その良い例であろう。日本が、臆病な国であることを露呈させたことで、中国は一定の成果があったと考えているのではないか。何故日本が、海上保安庁の衝撃フィルムをオープンにしなかったのか、十数人の関係者(?)とやらの内部だけで処理しようという姑息なやり方が、案に相違して、機密漏洩、ガバナンスの欠如といった思わぬ方向にすり替えられている。このシンポジウムの本来の目的は、日米安保の今後についての検討であろうが、中途半端なアメリカ離れを画策したとして、一体何処と提携をするつもりなのか、現在のところ、現実路線は日米安保の堅持が必要であろう。沖縄の問題、基地の問題など有るが、先ずは、日本が国防費に掛ける予算軽減に対する応分の負担はやむを得ないとしても、不平等な地位協定などを撤廃するなど、本来の言うべきは言うという姿勢は取り戻すべきであろう。アメリカとて、中国の第1列島論から続いて第2列島論に至る遠大な中国の太平洋進出計画に対して、ある種驚異を抱いていることは間違いのない事実である。そう言った意味で、日本が沖縄の基地を提供しなくなると言えば、アメリカとしては窮地に立つことになるし、日本もそうなれば、アメリカの援助無しで国防を完全に担わなければならなくなる。これを利用して、巧みに、お互いの互恵関係を保つように持っていくのが、外交手腕と言うことに成るであろう。もう一人のデニス・ブレア氏は、最近までオバマ政権の国家情報長官を務めた、バリバリの軍人上がりの人だが、テロ対策で、国家情報長官を降りたとも言われるが、氏は中国よりも北朝鮮の、原爆保有に対して憂慮を示し、これに対して、中国は応分の働きをしていないという考えのようだ。日本が、日米の同盟関係維持を望むのなら、もっと応分の働きをすべきであり、それはとりもなおさず日本の防衛費予算の増額に繋がるであろうと言うことだ。正に現場上がりの実に明快な考え方である。もう一方の主催者側としての米戦略国際問題研究所所長、ジョン・ハレム氏は、最近の北東アジアの緊張がこれほど高まったのはここ20年の間無かったことだという。やはり話題は、先ず北朝鮮問題であり、それは拉致など人権問題よりは核兵器保有に関する危惧である。中国の殆どの人間は、北朝鮮を嫌っていると言うが、自国との国境問題に火が付くことを恐れて、生煮え状態の扱いしかしていないと分析している。強大な権力を有する共産党国家は又、国民の民主的選挙で選ばれた訳ではなく、常に国民の考え方に注意を払っている。何か事が起これば、又天安門事件のように武力鎮圧をするのであろうが、それを続けていく訳にはいかないだろう。中国のネット普及率は今や30数%と順調に伸びている。又ブログも発達しており、中国当局の歯止めも、やがては限界が来るのは必至である。グーグルを追い出したことで、中国国民の間でも不満は醸成されている。今回の漏洩した、尖閣列島での「よなくに」「みずき」への中国漁船のビデオは、中国の留学生の間でも、明らかに中国側の意図的体当たりであることを認めているし、流石に憂慮の声が聞こえてくる。日本として、この問題を隠す必然性が何処にあるのか、私などには分からないが、ただ世界的には、日本が軟弱な国であるという印象と評価を与えたことでは間違いはない。因みにこの「よなくに」と「みずき」は私の元同僚が設計したものだという。正に渦中の船である。今回のシンポジウムでは、ロシアの北方領土の関係は述べられていない。対中リスク回避を如何に行うかという点に注目されているためで、我々にとっては、対ロ北方領土問題も又重要なアイテムである。ロシアという国は、実に狡猾な国であると思う。ロシアと中国は、その昔は親密さをアピールしていたが、中国の劇的な発展に隠れて、あまり取りざたされなくなった。その昔、日清戦争では、中国を負かし、日露戦争では形の上ではロシアを撃破した国として、日本は国際的には、極東の勇気ある国としての評価を得ていたのだが、最近の一連の不祥事処理についての優柔不断さが、腰抜け日本を世界に喧伝してしまった。日本では野党となった自民党は、この緊急時に於いても、妥当民主党ばかりを意識した発言に終始しているようだ。何も大政翼賛会的なことを今回要求している訳ではないが、日本国が一致団結して、右も左も我が国の統一した次元での方針は変わらないと言えるように協力することが出来ないのだろうか。「小さな事に拘泥していては、大事は成せんぜよ」と坂本龍馬なら言うかも知れない。
2010.11.05
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昨日は楽しい一時を持て、昔の仲間とよく飲んだ。帰りには、明日ラウンドする元同僚の奥さんが迎えに来てくれた。皆さんと別れを告げ、ホテルまで送ってもらい一風呂浴びる頃から、ぼんやりとしていて、部屋では鱶のように眠ってしまった。朝は何時も通り早く起きた。目覚ましは不要である。連れ合いが朝風呂に行くと言うから、私も入ることにした。簡単に露天風呂に浸かり、体をほぐすように心がけた。しかし、昨日のアルコールは未だ残っているようだ。時間には少し早いが、朝ご飯を頂いて、チェックアウトし、すぐゴルフ場に向かった。車で数分のこんな環境は羨ましいと思ったが、ゴルフばかりをしている訳ではないので、羨ましさもほどほどである。1時間以上早めに着いたが、このコースと「おもちゃ王国」を統率する私と同期入社の社長が、出迎えてくれた。プレイリストから見つけたのか、ひょっとしたら会えるかも知れないと思っていたが、待ってくれているとは思わなかった。少し立ち話をしたのだが、このコースでは、昔の造船所の連中とか、同期の連中とかがコンペをしているのだという。是非参加をといわれても大阪からではねと言うことになる。同期だからといって、特別安くしてくれる訳ではないのは当たり前である。アウトスタートのカートが数珠つなぎに並んでいる。未だ時間があったので、パターの練習をしたが、なかなかアンジュレーションが読み切れない練習場であった。そうこうしているうちに、一緒にラウンドする元同僚2人もやってきた。聞いてみると、90を切るか、90台の前半で回る人達ばかりだという。昔回った時には、そんなに差があるとは思わなかったが、今ではここの会員になっていて、クラブハンディーは10だという。私のゴルフは波があり、大叩きをしたり、そこそこの成績で回れたりが極端である。そこそこの成績といっても95程度なのだから太刀打ちできそうな相手ではない。別に勝負に来た訳ではないから、それで良い訳だが、スタート前からなにやら自分に力みが入っているのを感じる。アウト1番では、遠来の人がお先にと言われ、私が最初にグランドにたった。それが間違いの始まりだったかも知れない。トップしてチョロチョロとフェアウェイまで届かないという体たらくである。フェアウェイウッドは何とか打てたが、アプローチはトップ、トップの連続で、グリーンを1往復半する羽目になった。2人のドライバーの飛距離は目が覚めるように良く飛ぶ。そして、アプローチもそつなくボギースタートである。私はダブルスコア以上を叩き、本日の勝負は決まってしまった。何と連れ合いにも負けるというふがいないスタートとなった。2ホールのショートはやはり1オンはせず、アプローチをトップし、ダボである。打ち降ろしの3番ロングは、3打目がトップで、グリーンに届かず、ボギーだった。4番も最終アプローチがトップしてしまう。余程打ち急いでいるか、三半規管がおかしくなっているようだ。5番は2オンこそ逃したが、寄せ1の30cmほどのパットを外してしまい悔しいボギーであった。続く6番も、オナーがあまりに良いドライバーを打ったので、多少の力みだったのが、より以上に力が入ってしまい、何とOBしてしまう。そこから打ち直し、させて貰ったが、やはり当たりは良くない。こんな筈ではなかったのにと思いながら、左のバンカーに入れるなどの苦労をして、やっと5オン2パットプラス罰2で9である。つくづく変な気持ちであった。7番のショートも、2人が1オンするところ、私のは少しショートで、ボギーである。いつまで経ってもオナーになれそうもない。8番のミドルは、ドライバーを打った瞬間に「何処に行った」という感じで、何と、連れ合いが前方から打った落下地点のラフよりも未だ手前のラフ(フェアウェイ手前)に大天ぷらで落ちて居るではないか。どうしてこんなに力が入るのだろかというほど、ごちごちである。最終9番ホールは又OBで、上がってみると、60までは行かなかったが、何とも言えず、良いところ無しの前半であった。後半が始まるまでの昼食では、ゴルフ以外の話題も出るなど、やはり何処か緊張感が欠けた甘えのゴルフスタイルになっている自分を感じた。とにかく旧知の同僚と回っていること自体が楽しい、その彼らが、遙かに自分よりも巧みなゴルフをする。負けまいといつも以上に力が入る、ゴルフにとっては、最悪のパターンである。2人の内、気の良い1人は連れ合いに尽きっきりでコーチをしてくれる。連れ合いの方は、ナイスショットが出たり、いつもの癖で、トップしたりの連続であるが、とにかく足を引っ張るまいと必死であるが、2人は一向に気にすることはありませんよと言いながら気長に付き合ってくれる。しかしグリーン上に載ると、この日の連れ合いのパターは人が違ったようにタッチが素晴らしく、中距離のパターを気楽にカップインするケースが多かった。30cmほどの簡単なパットを2回外した私とは好対照である。後半のインでは、出だし又OBである。自分自身も呆れたが、之で3度目のOBだ。続く11番ショートでは、男3人は全て1オンであったが、私一人が何と4パットであり、結局3オン1パットの連れ合いに完全に負けてしまった。12番もダボ、そしてあろう事か、13番から15番までの3ホール連続のOBであり、この日の合計OBは6個となってしまった。サードショットでもOBするなど、もうメチャクチャなゴルフである。野球やスポーツ万能の連れ合いの面倒をよく見てくれた人も、3連続OBするなど、日頃にない結果を出させてしまった。足をひっぱって申し分けないと言っても、気の良い彼は一向気にしない。しかし、上がり3ホールは疲れた様子であった。上がってみれば、ボギーが最高で、バーディーは元より、1個のパーもなく、情けない結果で終わってしまった。他の2人は、パーが5つと6つといった具合で、なかなか足元にも及ばず、完膚無きまでに打ちのめさせられてしまった。ここをホームコースとして、しかもクラブハンディーが10というのだから、負けて当然ではあるが、大阪のコンペでこのほど優勝してハンディーを18に下げて貰った自分としては、8ストローク内では付いていきたかった。それがあろう事か、ハンディーをまともに考慮したとしても14ストロークの差が付いた訳で、何とも後味が悪い結果だ。之が実力と思われるのはしゃくなので、又近いうちにリベンジをしに来なければと話した。何時でも待っていますよと言う余裕の返事である。しかしこのホールの最終18番は、コース中で最も美しいと言われるだけあって、広いフェアウェイの正面には綺麗なクラブハウスが見えて、成績のことを忘れさせるほど気分が良くなる。親しい元同僚ともっと互角に近くプレーしたかったけれど、力の差は、ラウンドの回数でもある。途中ちゃらんぽらんでなく一生懸命やっていたら私ももう少しはましになっていただろうにと思う。それでも昔のデータを紐解いてみると、今回の成績は昔4回プレーした中で、もっと良い成績だったのだから驚きであると同時に、その頃から少しも上達していないのかと一寸愕然とした。しかし楽しいラウンドだったことは間違いなく、風呂を3人で浴びて、最後にお茶を飲んで帰宅する時には、名残惜しかった。
2010.11.04
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今年の7月17日に続いて今日も玉野を訪問した。前回、玉野を久しぶりに訪れて、昔の職場の同僚達と会ったのだが、前回来た時に声を掛けて集まって貰った人には今回は声を掛けなかったと言うことで、集まった人は、明日ゴルフをする2名と新たに2名の4名で、私と連れ合いを含めて、6人のこじんまりした集まりである。今回訪玉の目的は明日瀬戸大橋カントリーでゴルフをすることだった。今日は、夕方に一寸飲み屋で話すと言うことで、出発は遅くても大丈夫だったので、10時少し前に自宅を出た。大山崎ICから名神に入り、天王山トンネルを越えた頃がちょうど10時を回っていた。中国自動車道に入り、しばらく行くと、例によって宝塚辺りが渋滞していると電光掲示板に出ていたが、10kmという程度だから、それほど心配はしなかった。予告通り、宝塚にさしかかる頃、渋滞は始まったが、今回の渋滞は、さほどでもなく、何時もぎっしりで動かなくなるトンネル前辺りから車は走るようになった。後は、何のトラブルもなく車は山陽道に入り一路岡山方面に向かう。三木SAを過ぎた頃に出発から1時間を経過していたので、一寸休憩をということで、権現湖PAで休憩した。どういった基準でSAとPAを分けているのか知らない、PAにはトイレとほんの少しの売店があるだけで、駐車スペースも狭い。又本線に戻り西に向かう。今日は、祝日と言うことで、高速料金も安くなっているはずである。ということで、何処まで走っても同じと言うことならばと、前回岡山ICで降りて市内を通る時に、渋滞で時間を足られたことを思い出し、瀬戸大橋の手前の児島IC迄走ることにした。午後1時前に児島ICを出た時には、2050円と料金が出たが、どういう計算なのか未だに分からない。とにかく都市圏(西宮北IC)までは、何割かの割引で、それ以降は何処まで行っても1000円という事の筈だが、岡山JCTから瀬戸中央自動車道に入ると別料金だという人も居てよく分からない。インターチェンジを出ると計ったように、今日飲み会で会う予定の人から電話が掛かった。投宿する瀬戸内マリンホテルと玉の市内は一寸遠いため、会合前に迎えに来てくれるという。彼の家はホテルから歩いても数分の場所で、しかも奥さんが運転してくれると言うことらしい。有り難く、受けることにして、取り敢えず、児島の回転寿司屋で昼食を採った。前にも入ったことがあるのだが、海べり寿司屋は何故か魚が新鮮な気がして美味しい。未だチェックインまでは時間があるので、明日の瀬戸大橋ゴルフクラブを見に行くことにした。後で知ったのだが、ここに上るには、どうやら3ルート有るようだ。昔からあったかどうか記憶がないのだが、その内の一つ、最も児島よりのルート(之は昔王子ヶ岳に上る一般の道路だった)から上った。くねくね道の頂上は瀬戸内海を一望できる王子ヶ岳である。気持ちよさそうにハングライダーに乗っている人が居るが、昔はそんな風景は見られなかった。そこから一峰越えたところが、ゴルフ場である。ゴルフ場に併設して、「おもちゃ王国」があるが、そこに私より10歳上で、共に机を並べてきた人が、未だ働いている。「おもちゃ王国」は山の頂上にあり、交通の便は車しかないようだが、駐車場は結構満杯に近かった。今時役員でもなく、76歳にもなって働いておられると言うことは、余程その道の能力があるのだなという感じだ。ご自分でも、そのことを誇りにしておられる事を前に来た時にも話しておられた。隣のゴルフ場も休日でもあり、お昼を過ぎたばかりと言うことで、駐車場は満杯である。垣根越しのコースが垣間見られるが、明日ここを回るのだと言うことで、一寸楽しみな気分になった。ゴルフ場は、おもちゃ王国と同じ時期に出来たということで、平成元年に開場している。ちょうど私が、造船部門を出た時のことだ。従ってここを回ったのは新しく研究部門で出会った人達と経験があるということで、明日回る、造船時代の同僚とは実は初めてなのである。ゴルフ場を後にして、ホテルに降りるのだが、来た道を帰るのは遠回りになる。違う道を通ると、意外にすぐ海岸通りに出た。そう言えば、こんな道もあったなと言うことをうっすらと思い出した。3時にホテルにチェックインした、迎えに来てくれる4時40分までに、折角のラドン温泉を楽しむことにした。本当は源泉が25℃以下なので加温してあり温泉とは呼べないとのことだが湯質は良いらしい。男性湯の方は、内風呂は、大して大きくはなく、露天風呂も小さいが、岩組の露天風呂は風情がある。ここは、外から湯だけに入りに来ることもできると言うが、1200円と高い。後で聞いたのだが、ホテル側は、近所の人が来てお湯が汚れるとか、騒々しくなって格が落ちることを懸念して、なるべく近所の銭湯替わりの温泉にはしたくないといった方針なのである。岩風呂の上には竹のフェンスがあるが、向こうを覗くと、白砂の渋川海岸が見渡せる。配置上、もう少し上に有れば、瀬戸内海と、瀬戸大橋が見える良い景観なのにと思った。昔の同僚の奥さんの運転で、約束の時間に飲み屋に出かけたら、明日回るもう一人の人と、未だ現役の人、更に少し遅れて、もう一人が集まってくれた。前回、用があって、来られなかった2人と懐かしく話が弾んだ。56歳になるという若い人は、1年か2年かで、7kg痩せたと言うことで、心持ちほっそりしていた。娘さんが、もうすぐ結婚するというのだから、随分と歳を取ったものだと、感じた。頭には白いものが混じっている。もう一人の仕事上よく世話になった人も、頭は真っ白に近くなっている。今でも現役で働いていると言うから、皆よく働くと思った。大分の臼杵に南日本造船があり、そこにも私の1級上の同僚が役員として、未だ働いているということで、そこに指導に出かけると言うこともあるようだ。飲むほどに話すほどに、私が喋りすぎてしまうので、後で連れ合いにたしなめられるわけだ。それでも3時間ばかりの懐かしい話は、あっという間に過ぎてしまう。実際何を話したのかは殆ど覚えていないくらいだが、初めての職場で、共に苦労をしてきた人達との打ち解けた時間は楽しいものである。比較的若い(私より)2人は、離れた団地に住んでいる。バスもほとんど無いとか、JRの駅からも遠いという不便な中お酒を飲むので、車にも乗らずにやってきてくれたことは有り難いことである。現在の職場は、昔のそれとは様変わりしているという。それもそうだろうと聞いていると、何かと、世相の変化を感じることが多い。我々が居た時代は、景気も悪く、晩年には、首切り旋風が起こったあまり楽しい終わりではなかったが、それでも、それまではこのように楽しい仲間と共に仕事が出来たと言うことを誇りに思える。当事者は、現在の状況をややもすると不満で塗り固めることが多いかも知れないが、そのホットな時期を過ぎてしまうと、懐かしく、素晴らしかった思い出だけが蘇ってくる。それというのも、現在を満足して過ごしているおかげだと現在の状況をとても有り難く思う。なにやら奇病にかかり、体を壊している人もいるなどと聞くと、我が身が病んだことを思い出して、早く良くなればいいのにと思う。病気は、何時襲ってくるか分からないし、交通事故の可能性だってある。とにかく、老いも近づきつつあることは確かなのだし、「カルペ・ディエム!(今を捕らえよ)」といわれるように、今の一時一時を楽しく素晴らしいものと感じ過ごしていくことが大切だと思う、久しぶりの再開であった。
2010.11.03
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改めてBRIC’s最近話題に上る国は、やはりBRIC’s諸国が多い。なんと言っても、お隣の国中国(C)は我が国、日本に最も影響を及ぼす国の1つである。そして、先頃話題にしたインド(I)、そして、慣例を破って北方領土に無断で入国したメドベージェフ大統領のロシア(R)、そして、先月末にジルマ・ルセフ氏が初の女性大統領になったブラジル(B)というところである。この4ヶ国の中で、地政学的に日本と最も遠い国はブラジルであるが、ブラジルの遠い昔は、おそらく何万年も前にベーリング海峡を渡ってアジアからグレートジャーニーの末行き着いた人々であろう。彼ら(我が祖先も同じ)は、長い時間を掛け、紀元前8000年頃、現在のブラジルの領域に到達したと考えられている。南米に入った祖先は、東海岸でインカ帝国を形成し、西海岸ではそれとは違って先住民族として生活していたようだ。彼らも又、ヨーロッパ人によってインディオ(インディアン)とよばれた。既にこのインディオ達は、沿岸部だけで200万人程度が生活していたと言われている。そこから、コロンブスに代表されるヨーロッパの大航海時代が始まり、これら先住民族を駆逐してしまう訳である。このブラジルの日本との関係でいえば、1895年の修好通商航海条約調印から始まり、第二次世界大戦中で一時断交状態となったが、20世紀初頭に笠戸丸で代表される本格的な集団移民が始まり、現在の日系ブラジル人は、5世、6世の世代になっていて、完全にブラジル社会に溶け込んでいる。日系ブラジル人は政治や経済などで、高い地位につくものも多い他、特に長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ている。我々が誇る、日本人のDNAの成せる技であろう。冒頭に書いたように、彼らは、我々日本人の祖先とルーツは同じであり、グレートジャーニーを経験した更に洗練した民族なのかも知れない。ある意味では、先に到着した、200万人の先住民の末裔と、20世紀に船というツールで渡った、後続のチームが合流したと言うことにもなるわけだ。そのブラジルも、1825年にポルトガルから独立を果たすが、最初はご多分に漏れず、王制を敷いていた、1889年共和制となり、現在のルラ大統領まで35代を数えるが、36代目大統領として、初めて女性が大統領の地位に就いた訳である。ブラジルは大統領制を敷く連邦共和制国家であって、大統領と副大統領の任期は4年とされており、1度限りしか再選が認められないという憲法上の規定で、ルラ大統領の任期切れによる交代劇である。同じく3選を禁止したロシアのように、3選を狙うプーチンは、メドベージェフをリリーフ的に投入したと言われているが、ブラジルではそう言ったこともなさそうである。女性の進出が世界的になってきた割に、日本は傑物が居ないという感が拭えない。草食系と揶揄されるようにこれほど男性が、弱くなっているにも拘わらず、それに変わる女性の台頭がないのは不思議なくらいである。中には、偏狭的な女性主義者という人がかなり女性の品位をおとしめているという感じの人もいる。首相にしたい女性ナンバー1も日替わりになり、今では、仕分け人である蓮舫大臣が最右翼とされている。日本人は、実にマスコミに支配されやすく、ピーマン的な頭しかないのかと疑いたくなる訳だ。この国の人種ほど、マインドコントロールに掛かりやすい国民性はないのではなかろうか。ともあれ、女性が国家の最高位を占めた国は、先ず、イギリスの女王と、サッチャー元首相が思いつく。現在では、ドイツのメルケル首相もそうであるし、アルゼンチンのキルチネル大統領は、夫の後をついでという特殊環境であるが女性である。オーストラリアのギラード首相も挙げられる。他にもインドネシアのメガワティ元大統領や、フィリピンではアロヨ前大統領や、コラソン・アキノ元大統領などなどである。フィリピンは、男性が働かない国として有名で、大統領が女性といってもあまり驚かないのだが、イギリスや、アメリカ(クリントン女史は敗れたが)でも女性の台頭が著しい。之から伸びようとする国ブラジルの舵取りを任されたのは、62歳の女性である。こうなった経緯は、現大統領のルラ氏が、根強い人気を誇っているからである。就任以来高い支持率を誇り、昨年の金融危機時に於いてもその人気は衰えるどころか、最高の84%であったと言うから驚きである。貧困対策が実に有効的な結果を生んでいる。日本の首相が聞いたら、羨望の念で一杯になるだろう。そのルラ大統領も、憲法の規定には勝てず、3選出馬は出来ない。そんな中、もし出たら20%を越える人はそれでも当方すると言うくらいだ。しかしロシアのように一旦身を引いたように見せかけ、自らが定めた憲法の目をかいくぐって、次を狙うといったところもなく、何となくすがすがしい感じがする。人は権力を握りたがり、一旦その味を占めると手放したくなくなるのが常である。そう言った意味では、ロシアには独裁者が生まれる土壌が有るということだろう。現ブラジルのルラ大統領の力を背景に、今回のルセフ女史が大統領になった言う経緯がある。如何にルラ路線を継承できるかが鍵と言うことになる。ブラジルの最低給与は10年間で約3.5倍に増えていると言うことだ。インターネットの普及率も、ロシア、中国を抜いて6倍近くになっているという。原油の需要も中国は元より、ロシアやブラジル、インドで甚だしく増大している。貿易に於いても、ブラジルとアルゼンチンは、ドル抜きの決済を可能にして、4%程度のコスト減としているし、中国も元決裁圏を増やしている。ブラジルには、ペトロブラスという巨大な石油会社があり、そこの船を、私も設計をしたことがある。この春には、リオデジャネイロから、カンピーナスを結ぶ510kmの高速鉄道が計画され、日本勢が受注の運びとなるようである。このような大型プロジェクト着手のため、インフラ整備として、48兆円の投資を行っている。こういった、ルラ大統領の功績をそのまま踏襲しながら独自色を強めていかなければならない訳で、難しい舵取りを迫られると言うことになるだろう。既にBRIC’sは力を付け、独自の道で、大きく飛躍していこうとしている。之に続こうとしているのが、VISTA(ヴィスタ)と呼ばれる国々で、ベトナム(V)、インドネシア(I )、南アフリカ(S)、トルコ(T)、アルゼンチン(A)がこう呼ばれて、段々に注目、投資が始まって居る。こういった世界的な大きな変革を前に、日本国内のことを論じるにはあまりに程度の低いことが多すぎる感じである。こういった新興国が力を付けると、人口の多さ、国土の広さ、資源の豊かさなどにおいて、日本を凌ぐ国力になることは遠からずやってくる。日本は、初心に返り謙虚な気持ちで、国をもり立てていくことが必要ではないだろうか。
2010.11.02
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尖閣列島に続き、北方領土で、一体日本という国はどうなっているのかを問い直す。私は歴史が好きで、しかも世界史が好きである。日本史というのも、世界の歴史の中の一部であり、当然それを知らなければならないところだが、如何に島国とはいえ、日本は日本だけで始まり終わることはない事は、今なら誰でも知っている。ところが、江戸時代の後半まで、即ち、ペリーの黒船が来日する辺りまでは、日本は全くと言っていいくらい、世界の情勢に疎かったというか、分からなかったわけだ。私は、カエサル(シーザー)が好きで、古代ローマ時代に興味があり、塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」も全巻読破した。現在ひょんな事からビデオショップで、連れ合いが、「ROME(ローマ)」というシリーズのDVDを見つけてくれた。以来今日まで、全11巻22話中の18話「フィリッピの戦い」まで見終わった。もちろん史実と全く同じという訳ではないが、局所的クローズアップや、誇張は感じられるものの、大局的には、史実に基づいている。この話はまた、次に譲るとして、西欧では、ギリシャ・ローマの時代から、あの狭い地域に繰り広げられた版図の変化は、めまぐるしいものがある。現在でも、局部的には、やや不安定なところもあるというのが実情である。世界地図を眺めてみると、北方のスカンジナビア3国以外のヨーロッパは実に小さな区域であることが分かる。ロシアは元より、中国のそれよりも面積が狭いくらいである。それらの国が、ある時は支配し、ある時は支配されといった歴史を繰り広げてきた訳で、そこの住民に聞いたことはないが、祖国を愛するという点では、日本人よりも鋭敏であると感じる。というのが、世界の中における、日本の歴史を振り返ると、映画の「ローマ」の時代には、やっと邪馬台国がどうこうと言った段階で、隣国、中国の漢民族国家「魏」「晋」辺りと外交らしきものを行っていたようで、その頃から、尖閣列島の帰属はどうなっていたのかと言うことなど、いろいろ研究は成されているところだが、その頃から、外向的には、昔の中国に従属的なDNAを植え付けられたのかも知れない。その後、大和朝廷が興り、奈良時代から平安時代と経て、遣隋使や、遣唐使で、せっせと貢ぎ物をしていた時代もあった。今日の小沢集団が、中国胡錦濤を訪問したのは、正にこのDNAが成せるわざとしか思えない。さらに下って、江戸時代崩壊寸前時には、アメリカのペリーと1854年日米和親条約、1858年日米修好通商条約と立て続けに、国を開かされ、且つ屈辱的な不平等条約を結ばされている。この屈辱対米DNAが今日の沖縄基地問題を解決せざる方向に導き、且つ、「治外法権」「思いやり予算」などといった、不平等を甘受することに繋がっている。それというのも、日本は、第2次世界大戦で大敗北を喫するまでは、地政学的に、ヨーロッパや、アメリカから遠く、所謂極東(極めて東の果ての国)といったことで、ヨーロッパ列強の餌食となるのを免れてきた経緯がある。もし日本の位置が、中東辺りであれば、もっと血なまぐさくなっていたことは予測されるし、その分、対外交手腕は、ある種狡猾なテクニックも身につけていたかも知れない。ところが幸か不幸か、「人間万事塞翁が馬」と言うが如く、良いと思っていたら、それが災いし、災いと思っていたらある時、之が幸運であったと言うことになるように、現在は、その全てが裏目に出ていると言うことなのかも知れない。日本は、神代の昔から、万世一系の天皇これを支配すと、神懸かり的なことを考えていて、それが故に、ヨーロッパ並みの混沌から免れていたと信じている向きもあるようだが、実際は、先に述べた、地政学上の問題から、ある種蚊帳の外で過ごすことが出来たのだという方が当たっている。では、敗戦後、昭和天皇が「人間宣言」をした後は、一体日本がどうなったかというと、つまらない自尊心と、神聖な日本などという、内容も、力も伴わない、観念的で、依存的な体質のみがDNAとして残存しているに過ぎない。ただ一つ、日本人が誇れることは、勤勉で、且つ優秀な頭脳を持つ集団であったことだ。あったと過去形でいうのはあまりに言い過ぎかも知れないが、現在の世情を見るに、政治家は元より、一般の国民の中にも、愚かしさが蔓延し、要らざる新興宗教が、小金持ちから小銭を巻き上げて、国体を揺るがすことに大いに寄与しているのが現状である。ゆとり教育とか称して、狭い範囲での安穏を求め、広く世界に出て行けば、言葉さえろくに喋れないといった無様な結果を招聘した。今回のロシアのメドベージェフ大統領の、敢えての北方領土視察は、かの、日ソ中立条約締結にも拘わらず、ソ連が対日宣戦布告をしたことの再現である。この際、同盟国アメリカは、何をしたのか。仲介するでもなく、ただただ静観するのみである。かの日ソ中立条約にも拘わらずソ連に対日参戦を許した時もアメリは、静観していただけで、既に彼らの間では、お互いに話し合いができていたと言うことである。その結果、日本固有の領土である、北方4島は、むざむざと非合法的にソ連の実行支配下に置かれてしまい、ソ連が崩壊し、ロシアになった時もこれを取り戻す努力さえ放棄しているのである。世界各国から、日本与しやすしとみなされるのは、歴史を紐解いた人なら誰でもそう考えるであろう。多数の拉致被害者を出した巨大暴力団(国とは言えない)、北朝鮮から、被害者救出さえ出来ないのは、どういう事なのか。日本自身が、大きな声を上げて、叫ばない限りは、他の国も動かないし、アメリカも然りである。ただ、返せ、戻せと言うばかりでは駄目で、協力するべき相手国の弱みや、それが喜ぶ何かとバーター的に外交交渉をするしかない。提示する何か強いカードがなければならない。アメリカを動かすには、アメリカの弱みか、アメリカに何か利する玉を持って話さないと、ただただお願いベースでは、動かないだろう。日本も、もう少し狡猾にならなければ、技術は1流、政治・外交は3流というレッテルは容易に剥がせないだろう。日本人は、勤勉、真面目であるのは事実であるが、その上に「○鹿」という2文字が付くくらい極端である。映画「ローマ」を見ていても、1つの約束を律儀に守るだけでは、混沌とした世界で生きていくことは、不可能であったようだ。カエサル暗殺の時も、カエサルが無防備であったかというとそうでもないが、彼が既得権を揺るがすように、貴族層に辛く、平民を取り立てたり、蛮族であるガリアの長を元老院に迎えたりという、改革開放政策は、既得権を持つ貴族には耐えられないことであった。独裁官カエサルは、いかにも強固な権力を持っては居たが、これを不満とする元老院議員(貴族) 兎のように弱いと見せかけ、団結して、カエサルをだまし討ちにしたのである。こういったことは、倫理観の強い日本人では考えられないのかも知れないが、ヨーロッパ辺りでは、極めて常識的なことなのであろう。日本における、既得権構造の典型である「天下り」が無くならないのは、正に、自らが、既得権の中にどっぷりと浸かっている人間が多いからに他ならない。現在の官僚の殆どは、映画「ローマ」の多数の元老院議員のようである。昨日の番組で、最近松下整形塾を卒業した、政治家が増えてきたが、政治というタクティクスは学べても、真の政治家にはなれないと言う意見が出ていた。論語に言う、「巧言令色鮮なし仁」である。確かに、彼らは、政治や経済のことをよく勉強し、舌を巻くほどによく知っている上、昔の政治家にないさわやかなプレゼンテーションは上手に出来るようだ。しかし、そこには、ハートがないし、気概もない。如何に物知りの政治家であっても「志がない」政治家は、全く使い物にならないか返って災いを招くということである。今のままの議院内閣制なら、ない方がましで、一層大統領制にし、大統領に託すべき人間を選び、それが駄目なら日本は潰れるといったぐらいに背水の陣を引かない限り、日本の再生はないであろう。それとも長い間に醸成されたDNAを入れ替えないと治らないのかも知れない。
2010.11.01
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