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日経の私の履歴書で、月桂冠の相談役である大倉敬一氏の掲載が終わった。私は今まで、感心がある人のものは読むが、それ以外は目を通すこともなく過ごしてきた。本来なら、酒屋の話など見ても聞いても参考にはならないし、それによって一層酒を愛することにもならない訳で、従来で行けば素通りして次の人の履歴書を待つと言うことになる訳だが、今回は、何故か読んでみることにした。大倉氏には悪いが、結果は、思った通り、あまり興味の湧く面白いものではなかった。何故酒屋の履歴書を読もうと思ったかというと、私は、つい最近迄知らなかったが、高校の同級生に関西の酒屋の社長をしている人物が居ると聞いたからだ。高校時代はもちろんそんなこととは知らなかったが、良くできる男だったという記憶だけはある。日本酒の会社というのは、月桂冠もそうだが、同級生の会社も株式会社ではあっても上場をしていないのが一般的である。私などが考えるに、旦那と番頭そして丁稚の延長のような人達の集まりだと認識している。最近は、バイオなどという興味有るテーマが出てきたので、そっちの方向に向かう会社が多いようだ。私自身、最近は日本酒というものをあまり飲んだことはない。日本酒の冷や酒は時々うまいといって飲むことはあるのだが、どうも翌日が良くないのである。飲み過ぎると必ず二日酔いをするからだ。日本酒は醸造するからで、そう言ったことを聞いてからは蒸留の焼酎党に変わり、そして今は、ウイスキーという具合に変わってきている。もちろんワインも飲むのだが、之も醸造酒であるために飲み過ぎるとあまり調子は良くない。大倉氏も言っているように、元々造り酒屋であった訳で、現在83歳で、なおかくしゃくとして活躍しておられるようだ。現在のIT企業などでは、箸にも棒にもかからない年齢であろうが、業種が違うとこうも違うものかと驚く。自ら「老舗のぼんぼん」と称されているようだが、全く当たっているようだ。取り敢えず大学院を出て、企業か銀行に勤め、その後頃合いを見計らって、親父の会社に入り込み、そして、生え抜きの番頭さんを飛び越えて社長に座るというパターンである。こういう人の履歴書を見ていると、2世がどうのこうのと言っても始まらないと言うことを感じる。かのパナソニックでさえ、松下家の復権だとか、つい最近までは創業者の末裔だと言うことだけで、評価されていた訳だから、資本金が5億円に満たない会社では、想像に難くないのである。もちろん職種も扱う内容も全く違う訳で、比べる天秤がある訳もないのだが、私がいた会社などは、ただ少し見てくれが大きい企業であるし、多様な職種の集合体である訳で、その個々の部分に分解して、小さな部隊にしてみると、本質は変わらないのかも知れない。企業に勤めていた関係で、資本金や売上高、そして経常利益などの言葉はよく聞くし、従業員数なども気になる数字である。例えば、中国のGDPが世界第2位であるというが、いろいろなデータがある中、1人当たりのGDPは日本の1/10程度しかない。之は、如何に大企業で、稼ぎ高(売上高)が多くても、1人当たりではそれほどでもないということで、効率が悪いか、富の偏在、格差が大きいと言うことにもなる。因みに、国民1人当たりのGDP世界1はルクセンブルクで、2位はノルウェー、3位はカタールなのだそうだ。ルクセンブルクはフランスとドイツに隣接する、人口45万人程度の小国に過ぎず、この数値は驚異的だと言える。之は、小さいと雖も侮れないと言うことでもある。そう言った意味では、会社の規模が会社の序列を決めることにはならない訳で、これを私の勤めていた会社と比較すると、1人当たりの売上高は、今は少し上向いているようで、9400万円/人である。月桂冠では、この値が5700万円/人程度で、やや低いものの、他の同業者に比べて、多いようだ。因みに同級生の会社のものを見ると、規模も小さく且つ、3800万円/人と1人当たりの売上高も小さい。しかし、大所帯になればなるほど、かかる経費は大きくなる訳で、一人当たりの売上高も単なる指標に過ぎない。話を元に戻すと、大倉氏のように、先祖伝来のオーナー社長会社では、それなりの苦労はあるものの、若い頃から、コースは決まっており、普通に勉学していれば社長になることが請け負われているのである。私は、そう言った環境で育った人を何人か知っているが、余裕が違うことは、常々考えさせられた。はじめから人生のゴールがほぼ定まっている訳で、学生時代から目標とするものがはっきりしていて、方向を定めやすいだろうと思う。さらには、そう言った立場の人は親しくなる友達なりも同じ境遇の人が多いわけで、「類は友を呼ぶ」式に分厚い上流での交際が広がることになり、一般社会の感覚から外れてくるのではないか。氏も述懐されているが、最初に入社した銀行も、コネ入社であり、居並ぶ俊英を見て身が引き締まったとあるが、どんなに苦労をしていても、後には帰るところがあるという絶対的な安心感があっただろう。このような気持ちで過ごせたら、もっと良い仕事が出来たかも知れないなどと私なら考えてしまう。入行当時から会員制のゴルフ練習場でゴルフをしていたと言うから、私と同期入社の友人を思い出す。当時ゴルフといえば、社会的ステータスの高い人間しかできないようなスポーツであった。今のように1ラウンド1万円を切り且つ昼食まで付いていると言ったところはまともなゴルフ場ではなかった。そう言ったことの出来る心の余裕もある訳で、俗に、「運・根・鈍」といわれる「運」は既に持ち合わせていたと言うことで、あとは、適度に根気が強くて、かつ、鈍さ(鷹揚さ)を持ち合わせればいいという訳だ。とはいっても、物事に成功するためには、先ず優れた資質が必要である事に変わりはない。先祖伝来の創業家の息子と言うだけでは、済まないのも当たり前だが、特に秀でてどうこうするという必要がないのも又然りである。むしろ「鈍」な方がうまく行くのではないか。造り酒屋に学問は要らないと言うことか、最初、従業員には大学を出た人は居なかったと云うことだ。所謂理屈をこねても、旨い酒が出来る訳はないと言うことなのであろうし、又その必要もなかったのであろう。日本酒の世界も、作れば売れるという時代ではなく、消費者の趣向も多様化している。述べられては居ないが、現在の社是は、何故か英語で「Quality Humanity Creativity」となっている。日本酒も日本国内だけを市場としていたのでは駄目だということなのだろう。
2010.10.31
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東京から帰って以来、珍しいことに1週間は連れ合いと一緒には外出しなかった。東京に出かけた時のブログを書いたり、その間の新聞をまとめて読んだりと気ままに暮らした。その間、週の前半は、連れ合いは学校に出かける。授業だけとは言いながら、職場に立つと言うことは、なかなか大変なことのようで、よく頑張っていると思う。家の中では疲れた風でも、一旦学校に出かけるとなると、急にしゃきっとした姿に変わるから、永年の蓄積はすごいと思う。連れ合いには子供が2人いて、孫は2人である。孫は太郎君の子供で、上は現在5歳半、下が2歳半というところだ。私が大阪で暮らし始めたのが、4年少し前のことであるから、上の孫は1歳を少し越えた頃で、初対面は2歳を過ぎた時分であった。自分自身がどうだったかは忘れたが、おそらくはっきりと人見知りをする頃ではないかと思うが、初対面からそう言った事を感じることもなく、ごく自然な出会いであった。人見知りとは、最近では大人についても使うようだが、子供の場合の意味は、いままで自分の養育にあたってくれた親しい人、とくに母親と見慣れない人とを区別する能力が発現することである。この人見知りは、通常生後6か月前後だというから、そのときの私は十分その対象であるし、異種の人と移ったに違いない。見慣れない人だとはっきり区別されていたはずである。もちろん生理的には視覚の発達に依るものとされるが、社会性の芽生えとともに、感情が情動から情緒へと発達したことを示しているのだそうである。ここで、亡くなった連れ合いの愛犬を引き合いに出すのは、失礼に当たるかも知れないが、既に老犬に達していた愛犬は、初対面の私にごく親しくすり寄ってくれたのだ。中には、気が合わないのか、いい顔(?)をしない相手も居たというのだから、嬉しいはずはない。初対面の孫君も、すんなりと私を受け入れてくれたようだ。最初から私の膝の上でくつろいでくれるなど、有り難いことで、私もおじいちゃん(本人はまだまだ若いと思ってはいるが)気分を味わわせてくれた。以来何回となく、彼が言うデートを重ねている。もちろん、連れ合いと一緒で、3人でのデートだが、最近では、彼と2人だけでも自然に過ごせるような環境になったのではないかと感じる。現在は幼稚園の年中組だが、聞くところに依るとなかなかもてているようである。しかし最近は、あまり安易にそう言った事にうれしがって対応するのは格好が良くないのだと、結構自分を抑えているのだと言うから恐れ入る。1年1年が、このように変わっていくものかと感心して聞いた。毎日子育てをしている、お母さんは、なかなか大変なことなのだといろいろなエピソードを聞く度に感じるのだ。というのも、私の場合は、幼稚園の経験もないし、3歳で転居、5歳か6歳で転居と子供の頃のことは殆ど覚えていず、その間に母親と何をしたかなど全く覚えていないからである。父親からも何の規制も受けた記憶はなく、とにかく自由奔放に生きてきたという感じなのだ。幼年時代にしかられたエピソードの1,2件は、別に書いてあるが、其れ以外は、全く自由放任主義であったようだ。もっとも、大人数の兄弟の末っ子だから、かまう余裕もないことや、既に、子供というものは、放っておいても適当に育つというノウハウを十分得ていたからかも知れない。現在は、望まぬ競争や、核家族化した中に、孤立した母親が子育てに悩むケースなど昔に比べて格段に多くなったようで、母親の気苦労も想像以上のものがあるようだ。そんな中、一生懸命に子育てをしている母親は、とにかく勉強家のようだ。そんな風に、上の孫とは、公園で遊んだり、恐竜博に出かけたり、と何度もデートを重ねている。そのうちに、連れ合いには再び、2人目の男の孫が出来、その彼も今や2歳半というところだ。上の孫と私が最初に出会った年齢に達したということである。もちろん生まれてすぐから、2人の孫は我が家を訪れているから、下の孫も、物心付く前から、何となく私の顔はそれなりに、認識して、唐突な出会いではではない。こちらも子供の気持ちを推察するという心得を忘れて久しいために、下の孫とはどういう接近が望ましいのか実のところ分かりかねていた。お兄ちゃんの方は、段々自己を出すようになっているし、毎日心の変化を見ている訳でもないが、完全に成長していることは分かる。弟は、兄の育った環境を見ながら、事の是非を判断するという特殊技術を身につけている。世に総領の甚六とか、言うが、長男と次男の精神構造は、こういった違いかと言うことを、目の当たりに観察するようで、なかなか興味深い。その弟、なかなか指をしゃぶる癖が抜けないのだそうで、指に苦い薬を塗ろうかと悩むお母さんである。私は、放置しておいて何ら問題はないと思うが、連れ合いは、何か精神的に欲求が満たされないのだという判断を下しているようだ。今日は、一家で来訪するなり、初めて、弟君に手を差し延べ、抱っこしようかと誘いを掛けた。お父さんからこちらに来てくれるかという、ある種賭け的な面もあり、それはそれで一寸緊張したが、すんなりと抱かれてくれた。この時は、一寸安堵すると共に、喜びを感じたものだ。大げさに言うなら、物心付いた1個の人間が私を認知し、危険がないと判断した瞬間だと思えたからだ。之で、以降は、弟も含めたデートも出来るようになりそうだが、連れ合いの方は体力が持つかどうかを既に心配している。若さという違いはあるが、お母さんは、むずがる時も、飛び跳ねる時も2人を同時に見守っているのだと思うと、大変な仕事なのだと思う。部屋にいては、お兄ちゃんの方は、既に勝手知ったるところで、自分で適当に遊ぶことが出来る。今日は、弟の方と集中的に接してみた。持参したアイスクリームコーン型のおもちゃは、アイスクリーム部はごく柔らかいスポンジで、コーンの部分のスイッチを押すとアイスクリーム部のボールが飛び出すという仕掛けのおもちゃだ。スイッチを押して飛び出したボールを受けると喜ぶ、自分が取る方に回ると、ボールが来る前から、飛び上がって小さなボールを抱きかかえるようにしてつかもうとするが、取れない。しかしその行為がとても楽しいらしく、何度も何度も繰り返しては、「きゃっきゃ」と喜びの声を上げるのである。之が幼児なのだと言うことを知る。全く飽くことを知らず、何度も何度も同じ事で喜びを感じているのである。私が疲れるだろうからと気を利かして、お父さんが、私に変わって、相手をしだした。普段暗くはない部屋だが、子供の無邪気な笑い声などは聞こえない部屋に充満するうれしさ溢れる声に、少し華やいだ気分になる。世間で言う、孫は可愛いものだと言うことを、味わわせて貰い、帰り際にドアの外で手を振る弟君の喜色満面さに、こちらの疲れは吹っ飛んでしまった。
2010.10.30
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最近の新聞や、テレビのニュースで、中国に関する記事が無い日は無い。中国の真の意図が那辺にあるかを考えた時に、単なる、資源欲しさの尖閣列島ではないという感が強くする。もちろん我が国固有の領土である尖閣列島を中国人民は、どれくらい理解して騒ぎ立てているのか、それすら分からない。私などは、中国政府が中国共産党の配下で動いていると言うことを、ややもすると忘れがちであるが、この点をしっかりと踏まえなければ中国を正しく理解することは出来ないだろう。中国共産党のトップは、総書記と呼ばれ、現在は胡錦濤がその任にある。之が、中国共産党中央委員会のボスと言うことになる訳だ。日本では馴染みがない1党独裁を、昔の人なら大政翼賛会を思い出せば若干のニュアンスが通じるかも知れないが、むしろ現代に於いては、小沢一郎を頭に置けば分かりやすいかも知れない。もちろん飛ぶ鳥を落とす勢いの民主党幹事長であった頃の話だが、民主党が圧倒的多数で、政権奪取したあと、担ぐ見越しは軽い方が良いと言って、鳩山に白羽の矢を立て、裏で操るという構図を採った。この民主党のボスが、中国共産党のボスに匹敵し、政府のトップである鳩山首相は、完全にその配下であり、ボスの顔色を見ながら政治をしなければいけないという感じ(あくまで感じ)である。中国共産党中央委員会の下部組織として、中央政治局と、中央軍事委員会の2つの部門があるが、その部門も名目的なもので、軍が党を支配するという形がより分かりやすいだろう。この事は日本における1930年代の軍部ファッショに通じるところがある。当時は、陸軍や海軍の意向を無視して、政権は成り立たない(どちらかが大臣を政府に送らないと決めれば、その内閣は成り立たない)と言ったことが、中国では現在もというか、毛沢東の共産党革命後ずっと体制として、続いている訳である。如何に異常な国であるかはこの事を見ても分かる。我々は今中国と呼ぶ国は、正式には中華人民共和国と称する。現在の中国になる前は中国もやはり皇帝を有した、帝政であったことを忘れてしまっている人も多いのではないか、更に現在民族問題とされている、チベット、ウルムチ、モンゴルなどは、中国の歴史の中では、独立して時代を築いていたのである。中国には、多くの弱小民族がいるが、現在支配している「漢民族」の他、元寇の役で日本を悩ました蒙古系やチベット系、また日本が独立を画策した満州系の民族が併存していた訳で、時として政権の中枢に代わる代わる付いていたことになる。最後の清国が、日本に敗れるなどの後、辛亥革命で、その清朝も倒れ、初の共和制がひかれて、中華民国になったが、毛沢東率いる共産軍が、国民軍を台湾に追い出し、現在に至っている。この毛沢東が革命を成したのが1949年で、私などよりも未だ若く、ついこの間国として還暦を迎えたばかりである。中国孔子の論語によると、「子の曰わく、吾れ十五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」とあるが、果たして、今、中国に耳順の気持ちがあるのかどうかだ。広辞苑などによると、耳順(じじゅん)とは「60歳の異称であり、その意味は、修養ますます進み、聞く所、理にかなえば何らの障害なく理解しうる意」とある。今の中国は、わがまま一杯の、排他的であり、表面と内面が大きく剥離した状態である。あと10年で、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えずと迄はいかず、ますます軋轢を増して、押しも押されぬ、世界の異端児になっているやも知れない。その昔は、10里の道をこつこつと歩き、情報を集めたりしていたところ、今ではいながらにして世界のあらゆるところまで覗けるようになっている。中国がGDPで世界第2位になったことは明白であるが、13億の民、全てが裕福になった訳ではないことは周知の通りであり、金持ちはほんの10%弱だという。10%でも、日本の全国民が裕福になったと同じ数であり、貧富の格差はというと日本などとは桁違いに大きな格差となっている訳だ。そもそも、「共産主義」とは、「共同体主義」ということで、大きな資産や広い土地を共同で使用し、利益を共同体で共有するという意味である。そこには「ブルジョアジー」(資本家階級=生産手段を持っている人たち))も、「プロレタリアート」(労働者階級=生産手段がなく賃労働をする人たち)も差が無く、平等というのが本来の趣旨である。今の中国がそうかと言うと全く相反する行動や、相反する道を突き進んでいて、建前と、実際の違いがこれほどはっきりとした国はない。やむを得ず、経済だけは、資本主義とは言わず、市場経済という名の自由経済を取り入れることによって、国全体を運営していることになる。いつまで、農民階級(本来の共同体ではあり得ない言葉だが)が現状で満足するか疑わしい。というか、現在でも既に、国民の殆どが、疑問を持っていて、内紛やデモが後を絶たない。今までの内紛は、漢民族以外で無理矢理併合した他民族のものが多かったが、そろそろ漢民族の貧しい農民が不満を募らせていることが分かる。表だって、異を唱えれば、天安門事件のように大量虐殺が再び起こりかねない。何しろ毛思想で、人は13億人いるから何百人死のうが影響はないということなのだから。現実に体制を批判する中国作家「劉暁波」がノーベル平和賞を受賞すると言うことで、内情を暴露され、国民の広く知ることになるのを恐れた中央政府は、これを拒否し、授与側のノルウェーとの国交も怪しくなって来ている。人口13億人の大国に対して、ノーベル賞は過去1度も与えられた人はいないのである。考えられないことだが、普通は与えられることを喜ぶべき事かとも思うが、本当かどうか、中国国民は、作家「劉暁波」の名前すら知らないばかりか、ノーベル賞の何たるか迄、知らないといった有様で、先ず、世界の異端児の名を欲しいままにしている。中国の温家宝首相が、突然何の前触れもなく、菅首相との会談を拒否したり、楊外相が握手をしないとばかり手をポケットにしまったりといった、児戯にも等しい行為は、中国の世界での孤立化を招く元になるであろう。中国の真の野望は如何なるところにあるのか、世界史を紐解けば、古代はエジプト、そしてアレキサンダー大王、ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハプスブルグのオーストリア、大航海時代と帝国主義のスペイン、イギリスそして今日のアメリカに変わる世界制覇を夢見ていることであろう。中国大陸を制し、やがては全地球を制した中国朝廷(共産国家は仮の方便)が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族(台湾、日本、果てはアメリカや、ヨーロッパ)などの独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす伝統的な思考法である中華の思想の完結にあると思われる。軍事の増強は、正に軍事国家で成り立ち、他国を征服することによって領土拡張した国家思想の端的な表れであろう。さて、日本は、その1番目の属国となりはてるのか、ここに、真の外向的手腕の問われるところであろう。
2010.10.29
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以前から約束していたゴルフの予定だったが、昨日の天気予報で、台風の接近もあり、今日は朝から雨であることがほぼ確実となって、連れ合いが一番にゴルフ場へ、キャンセルの電話を掛けたが、気持ちよくキャンセルに応じてくれたと言うことだ。昨日までは、寒くなったとはいえ、天気は良かったのだが、今日は、スポット的に雨が降るという予報だった。一緒に行こうと約束していた連れ合いの従兄も、昨日は久しぶりに打ち放しの練習場まで行って、最近は、ボールが飛ばなくなったと言っていたが、やる気は満々で、道具一式を車に積んでいたとのことである。もちろん私たちも準備はしていたが、天気のことは楽観視していた。電話での確認で、慌ててパソコンで調べると、午前の降水確率は60%だという。降水確率が40%だと必ず雨が降るようだ。そして、どれくらい降るかの量的なものについては、アメダスで分かるようになっている。今日は60%だというから必ず降るのは確実そうだが、量の方もアメダスではかなり降りそうだ。少々のことなら、強行も有りかと思うが、雨具を着てのゴルフで、結果が良かった試しはない。従って、今回は中止することにしたわけだ。天気予報で傘マークと、雲マークの間に「|」と「/」の違いがあるが、凡例によると、「/」はのち、「|」は 時々または一時という意味である。そして、その予報の信頼度を、確度が高い順にA、B、Cの3段階で表している。時々とは、どれくらいの期間なのかわからないし、のちといえば、一旦雨が降り出したらずーっと雨なのかも定かではない。それに確度が3段階になっているわけだから、殆ど感じでしか分からないことになる。今日の場合は、朝からしとしとと降り出したようで、やはり中止にして良かったと言ったところである。昔姉の連れ合いは、天気図を見るのが好きで、天気を自分なりに予測していたのを思い出す。今はアメダスという便利なものがあるので、素人でも天気を予測することは比較的簡単にできる。アメダスとは、日本国内約1,300か所の気象観測所で構成される、気象庁の無人観測施設「地域気象観測システム」の通称だということだ。アメダスは(雨だす)のことかと思っていたが、正式には、AMeDAS と書き、英語の Automated Meteorological Data Acquisition Systemの頭文字を取って名付けられている。直訳的には、自動化された気象学上のデータ取得システムということになる。便利なことに、雨の量などが、何処でどの位降るのかを動画で教えてもくれるのだ。これが有れば、多くの気象予報士などは不要だと思うのだが、相変わらず、どのテレビ局でも、いろいろ品を変えて予報を競っている。気象予報士は、鳴り物入りで登場し、取得は結構難しいとは言いながら、巷に予報士は沢山いる。気象予報士の資格を持つからと言って、就職が安定するかと言えば必ずしもそうではないらしい。従って、テレビでいろいろ説明してくれる予報士などは良い方なのかも知れない。気象予報を必要とする商売も沢山あるようで、コンビニなどでも雨が降るか降らないでは、売れ行き商品も違うと言うから驚きである。私のように、ゴルフで気象の予測を必要とする人のように、アウトドアでは、大いに、且つ直接的に必要になるから利用価値も多いと単純に思うのだが、それだけではないらしい。気象予報士が、アメダスなどで、自動的に取得したデータを個々に利用することが出来るのかどうかは知らないが、個人個人がスーパーコンピューターを持っている訳ではなく、過去何十年ものデータを駆使して、現在のデータと付き合わせて、計算するなどといった芸当は出来ないわけでないので、詰まるところは、同じデータと同じ計算機によって出された結果を、予報士が如何に判断するかと言うことな訳だから、結果は変わらないのが当たり前である。従って、どのチャンネルを選んでも、一方が雨で、一方が晴れなどという極端な違いは存在しない。加えて、自分が生きてきた町や村では、雲の経常や、風のながれ、等を勘案して自ら判断する人も多いだろう。日本の上空では、偏西風が吹いている関係で、一般に天気は、西から東へと移っていく。よく、「夕焼けは晴」というのも、夕焼けが見える時は、その西空が、明日にかけてやってくるので、明日は晴れということになる。しかしこれも、すじ雲やおぼろ雲などが浮かんでいる夕焼けでは、悪天になることも有るということだ。一方、「朝焼けは雨の兆し」と言われることがあるが、之は、偏西風から考えると、若干奇異な感じがする訳だ。こういったことも、地方によって違っていたり、その時の雲の様子などで判断したりした方が良さそうなのだそうだ。ことわざに「朝日の出づる時、雲青く見ゆるは雨の兆し」と言うのがあるのだそうだが、これも又参考になるのだろう。最近は、ゲリラ豪雨だとか、予想以上の雨量とか言った言葉が聞かれるようだが、之は、過去30年以上のデータが役に立たない場合が多いこと、即ち地球上で、経験則が通じないような事態が起こっていると言うことなのだろう。歌舞伎などでは、「一天にわかにかき曇り」等という言葉があるが、今は正にそのような時期に来ているのかも知れない。最近では、新疆ウイグル自治区のウルムチ市で、突然、突風が黄砂巻き上げ、にわかに空が薄暗くなったということが起こったのだそうだ。日本のように、乾燥した砂漠地帯もなく、突然の天候変化はあまりない国ではあるが、それでも流れる偏西風が蛇行することに依る、この夏の異常気象などは、おそらく誰もが予想し得なかったのではないだろうか。今の予報が役に立っていないとは言わないが、気象予報士が如何に難関であると雖も、日本中に8000人を超える予報士が必要であるのかといえば大いに疑問がある。国家の資格として、大量の占い師を出しているに過ぎないと感じることがある。ただ取得しておくと言うだけの資格なのか、天体や、天候を通して、地球の変化を知ろうというのか、別に考えることがあるのであればいざ知らず、タレント稼業のあいまに予報士ですと言われてその言葉を信じるよりも、自分を信じる方が、もっとすっきりする。日本人だけが天気予報が好きなのかと言えば、そうでもないらしい。ジンバブウェにいる時にも、ニュースの終わりに、必ず天気予報を流すのである。流石にアフリカだけに、地図はアフリカ全土を表しているが、風のながれ、雲の動き、等々いろいろ説明した挙げ句に答えは、結局「晴」なのだ。日本と違って、雨の量の多寡はあっても年中雨が降る可能性がある国と違って、雨季と乾期がはっきりしている国では、何を言おうとも、結局乾期は「晴」雨期は「雨」と決まっている訳だ。ゴルフの話だが、昔は、雨が降ろうが槍が降ろうが(槍が降る訳無いが)一旦決めたら何が何でもやるという時代と違い、激しい雨なら、プロでも中止をするくらいだから、楽になったものだが、1週間を超えた予報が、かなりな確率で当たる予報が、出来ないものだろうかと思っている。
2010.10.28
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インドといえば何を思い出すだろうか。思いつくままに何点か挙げてみると、巨大人口を抱えた国、面積も結構広い国、貧しい国、ヒンズー教の国、核兵器保有国、多くの言語を話す国、パキスタンとのカシミール紛争、カレーの国などなどである。人で思い出すのは、ガンジーとネルー、インディラ・ガンジー、そして、現在の首相シンであろうか。この国の西には、世界4大文明の1つであるインダス文明発祥の地もある。タージ・マハールやモヘンジョダロといった世界遺産も思い出すだろう。玄蔵法師が訪れた地の果て天竺という感覚もある。また、イギリスの属国となった時代もあった。最近では、経済成長率が芳しくない先進国を尻目に、BRICsと総称されるように、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)という国に注目が集まっている。中国に関しては、領土問題をはじめとして、多方面で芳しくないニュースが、我々の耳にはいることが多いが、その他の3ヶ国の中で、特に注目すべき国は、インドと言うことになるだろう。BRICs(ブリックス)とは、アメリカの証券会社ゴールドマン・サックスが、2003年に投資家向けレポートで初めて使用してから広く使われるようになったと言うことだ。「brick=レンガ」をもじった名称のようだが、このうちの中国に隠れて、インドの存在は、必ずしも、我々国民の間には浸透していないのではないだろうか。中国が、世界の工場、世界の市場と言われる中、1党独裁で、民主主義とはほど遠い国であることは、昨今認識を新たにしたところだが、インドは、その点、民主主義を標榜している国である。インドは2009年の総選挙で現在のシン首相の政党連合が勝利して首相の続投が決まり、第二次政権をスタートさせている。日本と違って、年替わりというか月替わりの政権交代とは雲泥の差がある。初代のネルー首相以来、続投する2人目の首相となったわけで、あの広大で多様なインドではネルーが首相になってからシン首相までの63年間でたった17人の首相しかいない。日本では、その間に48人という首相が入れ替わっているのである。中国のGDPが今年で日本を抜き去り、アメリカに次ぐ世界第2位となったが、元々人口が多いのだから、当然といえば当然の結果であろう。では、中国13億人に次いでインドは10億人と世界2位の人口が多い国である。一人っ子政策を採っている中国に比べ、インドは人口政策を行っていないから、アメリカの調査機関PRBの世界の入口統計予測では、2050年までにインドの人口は16億人を超え、14億人強の中国を抜くとの見通しを示している。さらに、国内総生産(GDP)でも、2050年には中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順番でインドが2番になっていると予測していた。中国が日本のGDPを抜くのは2015年としていたから、既に5年早まるペースで世界は変化していると言える。ロシアの動向や、ブラジルの動向は、あまり見えてこないが、インドに関しては、着々とその予想される経路を辿りつつあると言えるのではないだろうか。何しろ、中国がそうであったように、インドも人口規模が大きいので、所得水準が高まれば国内消費が爆発的に伸び、先進国などへの輸出が拡大することが予想される。あれだけ、粗悪品を排出したり、模造品を堂々と生産したりしていても、中国は、自身の購買力を少しずつ高めていき、やがては、全体の所得の向上へとつなげている。インドはワイパーやバックミラーが片側だけといったタタ自動車に見られるように、自前で且つ、身の丈にあった製品の需要で取り敢えず満足している。日本など、高額の、昔流に言えば、ラグジュアリーな製品を追求し、且つ必要以上の使いもしない仕様を付けるなどしている国柄とは違っている。実質を重んじていると感じるわけだ。為替などの問題があるとしても、インドは、中国と違い、民主的、資本主義的な中での健全な発展を遂げるであろう事が想像できる。もちろん、インド内部の政治的な対立も存在するであろうが、中国や北朝鮮のように、軍を背景にした、豪腕なやり方は、いずれ通用しなくなることは、国際的にはもちろん、国内的なほころびを見ていても明らかであろう。1991年に誕生したラーオ政権はそれまでの社会主義的経済をすて、その政権で経済改革を主導した経済学者でもあるシン元財務相が2004年の総選挙で新しい首相に任命されたことにより、金融市場に安心感を与えたと言われている。日本のように、自ら勉強することもなく、親の七光りを頼りに世襲する内閣ではとてもこうはいかないであろう。従って、眠れる日本が、失われた10年、20年を脳天気に暮らしている内に、インドなどの新興国は着々と自力を付けてきたわけである。インドは、イギリスの統治下にあったことを、「塞翁が馬」に言われるように有利に利用することになっている。先ず、アメリカのシリコンバレーに相当する、バンガロールでの、ソフトウェア産業の急成長は安価で豊富な労働力というだけではなく、準公用語が英語であることがインドの強みとなっているわけだ。ドバイにいた時に聞いた話では、在ドバイ辺りのマイクロソフトの従業員は、その殆どがインド人で占められていると言うことだ。インドでは、チャンドラセカールをはじめ、数学や、物理学に秀でた人が多く、且つ、インド式算数などと良く聞くように、2桁の九九が暗唱できるといった話もあるくらい、アーリア系の優秀な頭脳を有している。今後ともアメリカの企業の対インドへの業務委託は継続されるであろう。このように、アメリカ一極集中の経済動向は、リーマン・ショック以来世界中に分散されると共に、ギリシャなどを抱え込んだユーロの弱点も相まって、ますますインドなど新興国にシフトし始めている。アメリカ一辺倒ではなくなる日が、刻々と近づきつつあり、多極化の流れへと進んでいる。インドは中国同様、巨大市場の潜在力、に加え、ピラミッド型の理想的人口構成を有しており、之からの発展が大いに期待されるところである。中国のレア・アースなどの輸出制限などに見られるような、国際慣行やWTOを無視した、共産主義丸出しの我利的な行為は、やがて破綻を迎えるであろう。日本企業も、13億人市場に目がくらみ、目前の利を焦るばかりに、今にいたって大いなるほころびを来たし、外向的にも中国にカードを握られたままである。日本もインドなどとも協力して、レア・アースの寡占化を阻止しなければならない。中国は埋蔵量の3割であるということだが、未だ7割の可能性が残されているわけである。自動車で言えば、先見性を有したスズキのインドへの早くからの参入、住金やJFEによるインドでの高炉建設、アウトソースとして海外で勤務する人達が多い故か、携帯電話部門での突出した需要、1兆円基金設立によるインドにインフラ整備、インドの対中国輸入超過の歯止め、などもあり、日本企業の投資先が、中国からインドへと移ったことは、良い方向の表れだと思う。日本がインドとの経済連携協定(EPA)の締結で合意したことも中国の独走を許さぬ上での、良い布石といえる。「デリー・ムンバイ間産業大動脈構想」や「メコン・インド経済回廊」等のビッグプロジェクトへの参画と支援をODAの有効的活用として行う必要があり、東南アジアとの連携を密に取ることが必要である。何故、中国にこけにされるまま、未だに対中国ODAを行っているのか、理解に苦しむところである。
2010.10.27
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先輩が主唱するゴルフコンペがあった。私は、今回で22回目の出場である。そのコンペで久しぶりに2度目の優勝を果たすことが出来た。もうそろそろと考えていたが、終わってみて同じグロスで、ハンディーも同じという人がもう一人いたのである。全くの偶然であるが、その人とは、歩こう会でも一緒になる人である。過去に例がないこともあり、ジャンケンで勝敗を決めることになった。表彰式では、隣の同期の友人が、ジャンケンの予行演習をしようと促した。その結果、私が一回で運良く勝ち、優勝をものにしたのである。私の最初の参加は、2年前の夏で、小雨が降る天候であった。先輩と同期ともう一人は先輩の義弟に当たる人とのラウンドであった。初参加はダブルペリアでハンディーを決めることになっていて、私は何と、120を叩き、之がゴルフかと言うくらいな惨めさで、ハンディーは31を頂く羽目になった。しかし、ブービー賞を貰い、いきなり賞品とは良かったと褒められたものだ。第1回目の多大なハンディーのおかげで、3回目に100を切った時には、最初の優勝を果たすことが出来た。グロス99でネット67の、5アンダーという結果だった。その時準優勝の人と今回は同じ組であった。友人は、私より遙かに腕は上だが、未だに優勝はないという。2位まで行ってアンダーであるためその都度ハンディーを大幅に減少させられるという循環なのだそうだ。その点私は、初回に大叩きをしたおかげで、3回目の出場で優勝をさせて貰ったことになるわけだ。その次には、ルールに従って、ハンディキャップは22となった。従って、優勝の後のコンペでは、ブービーメーカーは免れたものの、下から数えて4位になってしまった。その次のコンペではブービー賞であり、賞品は貰ったものの、何となく釈然としない結果だった。初めて1年、アンダーパーでなければ1つずつハンディーが上がる決まりのこのコンペで、ハンディーが29になった時、ネットで首位に立ったが、同じネットの人が3人になり、ハンディーが一番多い、私は3位となってしまった。その2回後では、わたしのベストスコアが出たものの、之も同じネットで、ハンディーの少ない人に優勝をさらわれ、2位で甘んじてしまった。更にその2日以後ハンディーが21になった時、再び私のベストスコアが出たのだが、4位に終わってしまった。その後は、低迷が続き、ついにはブービーメーカーになるなど、どん底のコンペの連続であった。1コンペ毎に1つずつハンディーが上がり、もう後30まで数えるほどしかないというハンディー28の今日めでたく優勝となったわけである。今日のスコアは自己ベストではない95である。何が何でも100をコンスタントに切りたいと願う私のゴルフである。スタート前に友人から「今日の目標は?」と聞かれ、取り敢えず100を切ることだと答えていた。いつもは一緒に回るその友人とは、今日は別の組であった。アウトスタートの第2組目である。くじで1番のティーショットを引き、緊張してしまった。しかし、飛距離は、前から打った女性を含め、一番飛ばなかった。しかしセカンド以降が良く、他の人を尻目にパーで上がれた。その後2ホールは5mを3パット、3ホールはジグザクとボールが振れ、アプローチもオーバーといった普段に戻ってしまった。しかし続く4ホール、5ホールはパーと順調だった。しかし、6ホールで又3パットをしてしまった。7,8,9ホールはダボ、パー、ダボと続いたが、8番ホールでは、ニアピン近くワンオンしながら、痛恨の1パットは、カップに覗きかけの惜しいパーだった。前半を終わって、47は私としては好成績であった。昼食時、友人は、午後52以下で上がらないと100を切れないぞとハッパを掛けられてのスタートだった。午後の10ホールでは、何とシングルのハンディーのオナーが、事もあろうか、シャンクして、前方の池に吸い込まれOBを出した。私は、4オンながら、1パットで沈めてボギーである。ここでオナーを取り戻し、11ホールのショートで1パットのパー、続く12,13ホールはパー、ボギーとオナーを堅持した。しかし、次の14ホール、推定160ヤード、超打ち降ろしのフォローでは、最初に打ったのだが、左から張り出た枝に触れ、池の手前に落ちてしまった。その後のアプローチは良かったが、3パットを出してしまいダボになった。ここでオナーをまた譲り渡し、15ホールではティーショット、セカンドともまずまずクリアに当たって、40ヤード程度のアプローチを何と、グリーン奥にOBしてしまった。これだけは、痛恨の極みである。結局トリプルを叩いてしまった。今日2度目のトリプルだったが、このトリプルは、大きな魚がびくから逃げたような気分になった。続く16ホールでは70ヤードのアプローチをオンして、「之は巧いなぁ」と言って貰った。ボギーではあったが、納得行くものだった。上がり前の17ホールでは、セカンドで、40ヤードまでに付けたが、そこからチョロチョロと2回も遊んでしまい、痛恨の今日3回目のトリプルである。本当に馬鹿な、チョロで、昔の私の再現フィルムの中にいるようだった。最終ホールは、気を取り直して、今日一かというくらいにドライバーショットが打てた。フェアウェイ真ん中に排水溝があるが、この排水溝の網に引っ掛かり、ランがそがれてしまった。セカンドは一寸芯をそらして右ラフに出したものの、120ヤードを残し、グリーンの手前が池である。いつもはここで失敗することが多いのだが、同じ組のベテランさんが、先に池に入れてくれたので、気分的に楽になり、3オンを果たすことが出来た。しかし、池が怖いために、乗った位置はピンから一番遠い、しかも2段グリーンの下側であった。それまで、ややもするとファーストパットが緩んでいたので、思い切り打つと、距離的には申し分なくて、フックラインも読んだのだが、予想以上にフックが効いて、ピンの下側30cmくらいに付いた。上り直線で、どう見ても2パット目で沈められるはずが、何故か、カップの左を通り過ぎて、3パットとしてしまった。後半は48と、前半より1ポイントビハインドである。トータル95は、私に取っては好成績である。ハンディー28もあるから、ネットは67と5アンダーとなり、確実に優勝圏内であるといわれで、風呂の中で優勝スピーチを考えるように囃された。ところが上がってみたら、同スコア、同ハンディーの人が居たので、一寸がっかりした。思い出すのは、上がり2ホールで、17ホールの考えられない2回のチョロと18ホールの上り30cmのパットである。その前に痛恨のOBなど、タラレバの話はいくつもあるのだが、もったいない結果となってしまった。これらさえなければ、ぶっちぎりの優勝である。しかし、ともかくジャンケンに勝って、優勝することが出来た。今回の2回目の優勝はスリリングなものであった。次回からは、待望の10台のハンディーである18となる。優勝は難しくなるだろうが、やっとゴルファーの仲間入りをさせて貰った気がして、別の意味のうれしさがこみ上げてきた。
2010.10.26
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事は3ヶ月前に始まる。スポーツジムに通っていた姉は、私より10歳年上であるが元気であった。連れ合いと3人でとか、姉の友人と4人でとか、ゴルフのラウンドもこなしていたが、ジムでエクササイズの途中で、転倒し、左手を骨折してしまった。その時は、未だ、骨折とは気づかず、手首の痛さを感じる程度だったようだがすぐさま中津の済生会病院を受診した。中津済生会病院は、つい先頃、白内障の手術で、掛かったばかりである。整形外科の門を叩くと、なにやら、専門の医者が不在とかで、4日後に再来院するようにとのことであった。大病院が何故と不審に思ったが、仕方ないので出直すことにした。姉の症状はレントゲンを撮ることで、誰でも分かることではないのか、分かったとしたら、それほどの専門医でなくても応急の処置は可能なのではないかなど疑問に思うことばかりである。4日も放置すれば、骨折部位に筋肉が巻き付き、結構面倒になるのではとも思うが、か弱き患者の身ではどうすることも出来ない。仕方なく4日後の8月3日、再び整形外科を訪れた。案の定転倒後2日目当たりから、寝起きする度に腰の痛みを覚えるようになったという。ところがどういう事か、約束の日の10:00の受診と言うことで訪院した(もちろん訪院はその30分前には手続きを済ますべく早めに行ったのだ)のだが、待てど暮らせど、声が掛からない。姉は、硬い椅子に座って居たが、段々と痛みが増してくるようだ。診察室には、1時間遅れと看板が出ているが既に2時間以上は経過している。私は業を煮やして、何のための時間予約なのかを質すが、一向に拉致があかない。この事は既に書いたかも知れないが、現実を少しでも多くの人に認識して貰えるならと、敢えて再び書いておく。2時間10分待たされて、レントゲンを撮った結果、腰の骨も骨折していると言うことが分かった。入院を要するが、ここでは入院を受け付けるわけにはいかないと言うことだった。済生会病院で手術をしたなら可能だが、手術をしない患者の入院は駄目だというのだ。こうして、豊中平成病院に移ることになり、そこで入院すると言うことになったわけだ。最初は、なにやら頼りなさげな病院に感じたので、先輩のつてで、近くの病院を当たって貰ったが、結局は、豊中平成病人に入院治療することになったのだ。この病院は、リハビリ機能が充実していると言うことで、外来でリハビリを受けに来る人もいるという。姉のリハビリは8月9日から始まった。目標は再びゴルフクラブを振ることである。そのうち、目の手術後の経過を見ると言うことで、再び済生会病院に行くことになった。流石にこの時は、以前に遅いとクレームした効果かどうかは分からないが、待ち時間はほとんど無く受診することが出来た。往きにも少し感じたが、帰りには、姉の呂律が回らなくなった。何処でどう間違ったのか、血糖値が低いと判断されて、間違ってインシュリンを注射されることになりかけた事を思い出したというのだ。それが余程ショックだったのか、涙ぐむほどであり、それを思い出して、脳に異常を来したのかも知れない。脳梗塞の疑いを真っ先に感じて、豊中平成病院で、経過を説明し、応急の処置をして貰った。こうして、最初は高々、左手首の骨折かと思っていたのが、腰も骨折してコルセットを付けなければいけないし、果ては脳梗塞の心配まで出てきたわけだ。之では、ゴルフが出来る、出来ないと言う話では済まない。しかし脳梗塞については、CTスキャンでは見つからない程度に小さなもので、MRIを撮ってみることになった。それまでは、腰と手首の骨折に対するリハビリを、本当に誠心誠意して貰っているようだった。後で聞いた話だが、理学療法士の中にも、おざなりにリハビリをすます人もいるらしく、姉を担当してくれた療法士の方は真に親切であり、熱心に回復に向け尽力してくれたという。こんなところにも患者側に、運不運があるのかと、之が逆なら、どうなっていたのだろうかと、考えざるを得ない。最後は人と人の世界である、今は医者が不足しているとは言うが、単に金を儲けるためだけに医者になっている人は居ないと信じたいが、現実にはそう言った人が多いように感じる。私の場合も、掛かった医者の数は知れないが、ただ1時間待って3分の診療で、しかも薬は出し放題で、その薬が該当しなければ、薬を変えて又様子を見るといったやり方の医者も居た。患者は医者を選ぶことは出来るが、果たして、世話になる医者の技量は如何かと言うことに関しては、全くインフォメーションがないのが現状である。国家試験を通り、一応医者になってはいるが、本当に医者としての適正や技量があるかどうかについては、全く別問題であることも又事実である。祖父も、父も医者であったからといって、適応は無視され、ただひたすらに医者になるために進まされ、最終的には高額の金をつぎ込み医者になると言ったケースも良く聞くわけで、そんな医者は、投資の回収に血眼になることは十分に考えられるわけだ。政治家、芸能人、医者は、特にそう言った傾向にあるようだ。オプションの多さでは、多数を占めるサラリーマンを置いて他はない。サラリーマンは、自分の仕事を子供に嗣がせようなどと考えている人はそんなに多くない。そのことを考えると、サラリーマンはやはり一介の雇い人であるわけで、雇い主によっても大きく左右されるのだが、そこが、政治家や、芸能人などとは大きく違うところである。サラリーマンが親と同じ道を通ろうとしても、必ずチェック機能が働くが、例えば医者などについては、さしたる適応性もないにも拘わらず、親の財力で無理矢理証書を取ると言うこともあるのだろう。話はそれたが、リハビリに尽力して貰ったおかげで、左手首は早々に回復し、腰のコルセットも外せるようになったわけである。入院当初は自分の名前をサインする手もおぼつかなく、リチャードニクソンがウォーターゲート事件の渦中にあってサインしたと同じように、力ないサインであった。しかし、段々と、しっかりした字が書けるようになり、呂律も元通りに回復し、持ってきてくれと頼まれたゴルフクラブを、リハビリ担当療法士の許可の下、振ることが出来るようになったのである。正直三重苦のような状態であったから、何とか回復してくれることだけを願っていたが、想像したより遙かに速いスピードで、回復できたことに驚きを感じたほどだ。本人の心は、もうすでにゴルフ場に向かっているが、之から寒くなる一方だし、来年暖かくなったらまた行こうと言うことで、取り敢えずは納得しているようである。目標を高くしたおかげで、早く回復もしたし、リハビリにも精を出したことであろう、取り敢えず、本日、不便な病院から脱出することが出来たのは嬉しいことである。
2010.10.25
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職場の先輩との懇談会、高校同期の同窓会の行事を終えて、大阪に帰ることになった。帰りの時間は、16:30の羽田発である。それまで特にすることもなく、最上階のお風呂で朝風呂を浴びたら、部屋でくつろぐと言うことも出来ず、早々にチェックアウトした。チェックアウトは実に素っ気なく、前払いで宿泊料を払っているので、預かったキーを返すだけである。これぞビジネスホテルという感じだ。それはそれで、仕事に出かけるものにとっては、好都合である。さて、外に出て、大井町のコーヒーショップで、好みのパンとコーヒーで朝食を済ます。最近都会にはこういった、パンを売る店と、コーヒーショップが併設されているところが多く、便利である。来る時にどうしようかと迷っていた、「ゴッホ展」を、時間があるから観に行こうかと言うことになった。都合が良いことに、羽田に向かうモノレールの終点、浜松町で、重い荷物はコインロッカーに預け、地下に潜って都営大江戸線の大門駅から六本木までは3駅程度である。東京の地下鉄は、出来た順に段々と深くなって、縦横無尽に張り巡らされている。何処をどう通るかは、成り行き任せという感じで、到着駅の出口番号を間違わなければ、いとも便利な乗り物である。「ゴッホ展」の新国立美術館は、六本木から歩いて10分足らずである。5月の終わりに、「オルセー美術館展」が催されたが、この時も高校同期の何人かの友人と会った。今回は、ゴッホ没後120年を記念しての開催と言うことである。ゴッホに影響を与え、ゴッホが、貧しい農婦を描くきっかけを作った師がミレーであることが語られていた。連れ合いが最初に目を留め、立ち止まったのは「曇り空の下の積み藁」である。手前に池があり、積み重ねられた藁は、あたかも山のようである。連れ合いは、そのずっと向こうに引き込まれるようなものを感じると評していた。カラスが舞う収穫後の農場風景画ゴッホの筆致で描かれていた。私は、この色彩にややゴッホらしいものを感じた。全ての作品ををここに書き切るにはスペースがない。そう言えば、ミレーが描いた題材とゴッホが描いた題材は、当初は似ているものが多い。ミレーはエッチングで「掘る人」を描いているが、ゴッホは鉛筆で、「掘る人」を描いている。ミレーの精緻さに比べ、ゴッホのそれは、なにやら荒削りなものを感じる。種をまく人でも、ミレーのそれとゴッホの作品は、味が違う。しかし、素描で描いた種まく人に色彩を施した、何となくゴッホらしい色彩が横溢した、ゴッホ自身も自ら認める力作となっている作品がある。プルシャンブルーの木を中心に種まく人と大地、川、そして遠景には夕日。この絵には、ミレーにない力強さを感じる。鉛筆にリトグラフ用クレヨンで描いた「防水帽を被ったあごひげの漁師」に目がとまった。人物をここまで精緻に描けるのか、そしてそれは写真では表せないだろう雰囲気の絵画である。一寸猿に似た漁師の顔であるが、何となくインパクトのある作品だ。ゴッホが、ゴーギャンと共に過ごしたことはつとに有名であるが、その「黄色い家」の再現が、モックアップで展示され、且つ精緻な3Dでビデオが流れていた。ここで、ゴーギャンの記憶と想像による作品を描くように進められたゴッホだが、自らは自然観察に基づいた作品を追求する姿勢であったために、共に暮らす軋轢が生じわずか2ヶ月で破綻するというのだ。おそらくはゴッホ側に問題があったのだろうと思われる。直接の別離は、ゴッホが思いあまって、自らの耳をカミソリでそぎ落とすという事件があったからである。ゴーギャンはそれ以降タヒチに向かうのであろう。ゴッホは、サン・レミの療養院に収容され、病気が癒えるまで幽閉されたと言うのだ。連れ合いは、「セーヌの岸辺」にも目を留めていた。中央の赤で描いた、柵のようなものが、特に印象的だ。ゴッホの絵には、こういった風に、原色の赤が、ところどころに強烈なアクセントを残している。「ヒバリの飛び立つ麦畑」の赤い花のようなものもその類である。又別の「マルメロ、レモン、梨、葡萄」は全くその果物の色は用いずに、全部黄色い色調でまとめている。額縁も、彼自身が絵に合わせて色調を決めたとあるから、全部が黄色いトーンなのである。これを俗に「トーン・オン・トーン配色」と呼ぶのだそうだ。色相がそろっていて、色調(トーン)に差のある配色のことらしい。ゴッホではないが、モネの作品の「ヴェトゥイユ」の作品の構成と色調は、強烈なゴッホを見続けた時の一服の清涼剤のようにも感じる。ゴッホは、それまでモネの作品を見たことがなかったそうだが、この絵をみて、ゴッホは深い感動を受けたという。モネの風景に対する道をゴッホは、人物画に追うようになるのだという。モネの印象派の限りなく柔和な色彩を、ゴッホも取り入れるようになるが、それはゴッホ自身の解釈による色彩の導入である。黄色い家以来、色彩を導入したゴッホは、更にアルルの町で、色彩の絵画を開花させる。残念ながら、私が見たかった「アルルのはね橋」は今回の展示作品にはなかったが、なんと言っても目を引いたのが「サン=レミ療養院の庭」ではないだろうか、左に配した療養院の黄色い壁は、ゴッホが勝手に色付けしたのではないかという感じで、之が、何とも強烈に印象に残る。草の描き方もゴッホならではの筆致だが、燃え上がるような木々とその先の実であろうか、赤の配色はゴッホ以外には表せないだろうという気がする。私が感じるゴッホの凄さは、この一点にも尽きる感じだ。連れ合いも、これだけを見たらもう十分だと言うことを漏らしていた。たまたま行き合った老夫婦は、仲良くゴッホの自画像を眺め、同じようなことを言っていたようだ。ゴッホの自画像である「灰色のフェルトの自画像」は、周囲を宇宙を回る星空の如く描き、顔の色彩は、多彩な捕食の効果で、その筆先の集まる点は眉間だという感じで、あの筆使いで、良く人の顔が描けるものだという気がした。この自画像の前に、入館と同時に掲げられていたもう一つの「自画像」は洋服の描き方こそ点描的で似てはいるが、顔の描き方は未だまともで、顔の皮膚などは、自然で、髭を生やした鋭い眼光は、いかにも神経質そうなゴッホ自身を端的に表しているような雰囲気である。ゴッホは、生涯笑ったことがあるのだろうか。ふと短い37年間1度も笑ったことがないのではないだろうかと思うほどである。沢山の自画像を描き、耳を失っても描いている。誰も笑顔の自画像は描かないだろうが、ゴッホの場合は特にそんな気がするのだ。同じ展覧会場に日本の歌川広重などの浮世絵が飾られていた、日本の色彩や、独特の遠近法が、西洋画に取り入れられたと言うことが説明されている。平面的に見える日本の浮世絵が、どのように彼ら西洋の印象派に受け取られていったのか、私などは、知る由もない。ゴッホは他にも、いろいろインパクトのある絵を描いている。私などは、先にも述べたように、ゴッホの絵だけを見続けると、気がおかしくなるような気がする。「糸杉に囲まれた果樹園」などは、そう言った中では、未だおとなしさがある作品のように映る。
2010.10.24
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東京に在住の高校同期会に出席するために、昨日東京に出てきて、昨夜は、旧職場の先輩方と楽しい一時を過ごせた事は昨日書いた。今日は高校の同期会である。元々、大阪の高校であるため、大阪での同期会がメインであるのが、東京でも同期会をやると言うことになっているらしい。私も、しばらく東京在住であったので、幹事をやってくれている友人から何度か誘いを受けていたが、体調の悪い事や、あまり楽しい毎日を送っていない事もあって、人の楽しい姿を見るのは嫌だとばかり、断り続けてきた。この機に大阪に越してきて、連れ合いと暮らすようになって、何か憑きものが降りたように、やたらと交際範囲が拡大した。学生時代を終え、大阪を発って職場に赴任してから、玉野、千葉、東京を転々として、再び大阪に帰って、現在2度目の大阪在住は4年になるが、この4年間で今まで没交渉だった長い期間を完全に取り戻して、おつりが来るようになった。後先になるが、昨日は、久しぶりに伊丹空港から飛行機で羽田に着いた。伊丹は相変わらずの雑踏空港であるが、羽田は、この度第4滑走路の新設なって、国際線が充実し、アジアのハブ空港になるのだという勢いである。しかし、国内線を利用する限りは、旧態然としていて、あまり、変化が見られない。国際線拡充のために江戸町通りなど趣向を凝らしたとニュースに有るが、それを見学するのは、わざわざ巡回バスに乗らなければならないし、現在は出来たばかりなので、見物客で結構混んでいると言うことを聞き、新空港視察は断念した。宿泊も往復航空券付格安パックを利用したので、そんなに豪勢なホテルではない。羽田は、昔よく使った空港で、羽田へは、モノレールという固定観念があったが、京浜急行でももちろん行ける。ところが、この京浜急行で、宿舎の大井町に行くのに、品川で乗り換えというのを、車内放送が聞こえず、そのまま乗っていき、北品川まで乗り越してしまうというハプニングがあった。如何に東京で生活していても、よく路線が変わるようなところは、特に注意しないといけない。大井町も昔に比べると相当に開けている。その大井町で、泊まり、翌朝早くホテルを出て、東京に向かった。先ずブリジストン美術館に向かったが、残念なことにちょうど休館日であった。その時、連れ合いの友人から電話が入り、早く着いたのなら三菱第一美術館で、「藤田嗣治」をやっているからと言われ、八重洲側から丸の内側へとわざわざ入場券を買って、駅構内を横切り、少し歩いて、美術館に着いた。連れ合いにとって、藤田嗣治は好きな画家だと勢い込んで入ったが、どのブースも、それらしいものはない。以前「マネとモダンパリ展」を展示していた時は、なかなかのものだと思ったが、今回は、どうやら勘違いであったようだ。「岸田劉生」の童女像(麗子花持てる)を藤田と勘違いしていたようだ。日本の洋画家にはあまり興味がないところへ、藤田の作品がないということで、他の西洋美術数点に良い作品があったが、鑑賞する気にもならず、そのまま出てしまった。ルノワールの「パリスの審判」、シャガールの「サーカスの光景」なども殆ど素通りしてしまった。後は、岩崎弥之助が、美術館を建立した経緯や設計図などが展示されていて、三菱は、「メセナ」と銘打って、こんなところで稼いでいるのかと少々腹立たしい思いであった。慌てて入ったのは、こちらの迂闊であったわけだが、何ともやりきれない気持ちであった。早めに出て、東京駅からバスに乗り、晴海埠頭へと向かった。行き先の会場は、東京マリナーズホテルで、この辺りは、東京湾を埋め立てたところで、何とも寂しい感じがするのは昔も変わらない。13時からの開始に我々は、12時前には着いていた。三々五々集まって、いくつかのテーブルを囲んでの同窓会となった。私の場合は、今回の出席が始めてである。集まったのは全部で24名、過去の出席者名簿を見せて貰ったが、今までで最高に参加人数が多いようだ。大阪からは我々を含め8名程度の出席である。会員というか、該当するものは約60名であり、良く集まった方だと思う。幹事の友人が、たゆまない努力を結集してくれた故になしえたことだと感謝する。幹事の司会で、指名された人が、近況を述べるやり方で会は進んだ。最初に指名されたのは、之まで、大阪といわず、全体の同窓会開催で、多大な奮闘をしてくれた友人だが、ある時、心因性であろうか、耳が急に聞こえなくなり、今現在も補聴器を使ってもなかなか聞こえないと言うことだそうだ。急に聞こえなくなったので、手話を覚えるのも並大抵ではないらしい。車座になって話している時でも、耳を傾けてはいるが、殆どが聞き取り辛いらしく、隣の友人が筆談で教えていた。歳を取ると、いろいろなところに不具合が生じてくるのはある程度仕方がないことかも知れない。そこに心因性のものが加わると、結果は随分とやっかいである。2番目に私が紹介されたが、それは永年に亘って、出席を拒んできたせいかも知れない。この度は、連れ合いと再度出会うことになり、心も落ち着き、極めて幸せな気分である旨話をさせて貰った。最初の友人が難聴というか、聴覚を失ったことを受けて、私も何度か訪れた「黒い犬」(チャーチルが自分の鬱病をこう呼んだという)のことに触れ、人知の及ばないことは、世の中に沢山あるわけで、老いるということは、それらと何らかの形で関係し、打ち勝ったり、負けたりするのが人の一生なのかも知れないと思った。その後を継いで、3番目に連れ合いも指名を受けて我々2人のことを補足するようにスピーチをした。その後に立って感想を述べた友人は、我々のことを励ましてくれて、感動的であるといってくれた。自衛隊経験者は、今回の尖閣列島への対応について、あまりにふがいないことを述べているし、私も、中国人は、何事に付け人口比10倍の人間が居るのだから、予期も悪しきも上手に付き合って行かなくてはならなくなるであろう。一人は、ビタミンCの宣伝を、時々メールで送付してくれる。化学に進んだだけでなく、そんなことにはまっているというか、如何に長生きするかなどについて語る。もう一人、化学専攻の友人は、ノーベル賞受賞の「クロスカップリング」について熱く語っていて、先のビタミンCの友人と専門的な話を交わしていた。その君は、前立腺癌を患い、手術して、切除したと言うことだが、女性には子宮癌や、乳ガン、男性には前立腺癌が、注意を要するなどと話していた。PSAの値を常に注意しなければならないと、その時初めて聞くPSA値というものが何であるのか、今まで知らなかった。進行すると、 排尿困難等の症状を生じリンパ節や骨、実質臓器に転移するというからやっかいである。帰って調べてみると、PSAとは前立腺特異抗原といい、前立腺からの分泌物に含まれている生体物質である、ということらしい。人それぞれ、進化の途上に於いて、DANの中にそう言った抗原体を持っていたり、又違う悩みを持っているなど、百人百様である。それに抗っても仕方がないことであるが、早期にこれらを発見することで、あたら永らえる命を途中で中断する必要もないと感じた。だいたいこういった会合では、健康に関する話の比重が多くなるようだ。私は何時の頃からか、一時、居眠りをしてしまったようで、ちゃんと証拠の写真を撮られていた。好きな時に寝て、好きな時に起きるという生活が身についてしまっているので、大目に見てもらえたようだ。ともあれ、最初の顔見せに対して、皆快く受け入れてくれたので安心した。同窓会は、大学よりも高校の方が、何かとバラエティーに富んで、面白いという印象を受けた。
2010.10.23
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東京に出る機会があり、造船時代に最初から世話になった3人の先輩と夕食を共にすることになった。造船時代の第1回目から出てくる諸先輩方で、1人は、直属の上司であり、他の2人は、新人としての私を一から丁寧に指導をしていただいた先輩達と言うことになる。そのうちの1人は、バスケットボールでの先輩でもある。なんと言っても、懐かしく、且つ最も重要な時期にご一緒させていただいた方達ばかりなのだ。私より、2年、4年、そして、7年、歳上の3人であり、私が、もうすぐ66歳になろうかというのだから、皆さん、既に、相当な歳であるのに、皆、お元気そうで、何よりだと思った。私も、4年前までは、東京に在住していたが、実質は、サウジアラビアにいたり、ドバイで過ごしたりと、海外で生活していた期間もあるので、12年前に東京に転居してからも、実際に東京に住んだ期間は短い。お会いした3人も、皆さん玉野時代にお世話になった方ばかりで、東京での交流はなかった。8年前に、私が最終の会社で体を壊していた頃に、一度この先輩方とはお会いしている。その時と比べて、あまりお変わりになっていないことに、先ず嬉しく感じた。皆さんは、私が現役の頃から、厳しい中、やさしく薫陶を頂いて、今は、その厳しさがやや緩やかになり優しさだけが、強調されるような状態だった。前にも書いたかも知れないが、7年年上の上司だった人は、当時は、こんなに頭のいい人が居るのかと驚いたものだ。大変多くの事を学ばせていただいたし、何時も優しく接してくださったが、それは今でも変わらない。逐一挙げるととても書ききれないが、今でも忘れないのは、船体の振動を解析するプログラムを書かれたこと、それは膨大なもので、ここの作業をサブルーチンという形のパッケージに分けて、トータルの解析を仕上げるというものだった。その技術計算プログラム(FORTRAN 4)で、船体の固有振動数を算出するのだが、それは素晴らしいものだった。私もそれに倣って、というか、ほぼそれを理解するだけで精一杯だったが、船体上部構造の固有振動数を算出するプログラムを作ったことを思い出した。先輩にそれを話すと「長い時間を掛けてやったから」と言う答えだったが、誰でも時間を掛ければ出来るという代物ではなかった。この先輩は常務までされたのだから、いろいろなことをされてきているが、自分は「構造屋だ」と胸を張っておられた。4年上の先輩は、入社時にバスケットボール部に勧誘を受けた人だ。一時期は、職場でも、クラブでもその双方でいろいろ学ばせて貰った。お酒が1滴も飲めなかったが、今回もやはりグラス半分のビールを飲むのがやっとだと言うことだ。体質とは、そう簡単に変わるものではないらしい。最近は、女性も大酒を飲む人が居る一方、男性でも下戸はいるようで、太郎と姫の関係も正にそう言った逆転現象なのかも知れない。この先輩は、船殻設計には長く居られなかったと言われるが、私には、長い間、同じ職場で過ごしたと感じている。バスケットでも、県外遠征などにも出かけたことがあるといった、そんな思い出がある。このご両人は、既に完全に引退され、悠々自適の生活を送っておられるようだ。家が、千葉同士で近いせいもあって、コントラクト・ブリッジで一緒に時を過ごされている事もあるようだ。2年上の先輩は、若い頃から、テニスをされ、今でもシニア大会で、優勝に絡むゲームをしておられると言うからたいしたものである。伊達公子は、世界レベルだが、年齢からすると、なかなかどうして、先輩も相当大したものであると言わなければならない。奥さんが旅行好きで、特に海外旅行はもう行ってないところがないくらいにあちこち出かけているという。その財力を得るために、今でも週3回の勤務に出られていると冗談で、言われるから、之も素晴らしい。見てくれも、殆ど昔と変わらないくらいに若いのは、そう言った、現役であるということと、常に探求心を持って生活しているせいであろう。多くを語ることが出来ず、毎回同じような話になるのは、歳を取ったせいであるのかも知れないが、逆に今でも覚えていると言うことは、その時には、驚愕するくらいに驚いて、印象に残ったためだろうと思う。2番目の先輩は、早くから鉄鋼関係に転出されたこともあって、共通の話題が、やや少ない上、酒は飲まずに、飲んだ私などの話をにこにこと聞いておられるような人格者で、勢い自らが口火を切って話されることは少ない。3番目の先輩は、真面目な人柄ではあるが、「俺は、3人以上、人だかりがあると必ず何があるのか顔を覗かせるのだ」というくらい好奇心の強い人である。奥様に言われる海外旅行も、皆その先輩の手作りであるという。要するにパックツアーではないのだそうだ。「先輩英語の方は・・・?」と聞くと、「度胸だ」という一言である。英語は、流暢に喋る必要はなく、相手とコミュニケーションできたらいいと言うことなのだ。英語圏以外を旅することもあるだろうから、なまじ英語しか喋れないと、返って苦労することになるのかも知れない、と感心した。私のことは別途いろいろ書いたので、ここで繰り返すこともないが、人間にはいつかは寿命が来るわけで、その事実すら分からず、知らず、関係ないとばかりに猛進していた昔が懐かしい。今、自分が達した心境を持って、若い頃からやり直したとしたら、もう少し違った生き方になっていたのかも知れないと思うが、それもゴルフと同じタラレバ、の事である。しかしながら、世の中は確実に前に向かって進んでいる。それが、「環境問題」などであると、行く先破滅の道へ進んでいるのかなどと疑ってしまう。世の中は確かに便利になった。しかし、私が感じるところ、なにやら、非生産的な面だけが伸びているような気がすることがある。先進国が陥る弊害なのかも知れないが、明らかに現在新興国で起こっている、進歩の向きとはベクトルが違っているのではないかという気がするのだ。人が生き、学び、そして身につけたものを、確実に後世に伝授していけるものなら、無駄もなく、効率的であろう。しかしながら、人は皆、赤ちゃんからはじめ、幼稚園、小学校、中学、高校、大学と、皆一からそれをしているのはいかにももったいないという気がするわけだ。DNAで伝承すると言いながら、その内容は高々知れている。もっと効率的に生きられたらいいのにと考えるのは私だけだろうか。いろいろな思い出を、3時間足らずで、語り尽くすことは当然出来ないが、特に今回会った諸先輩との話は、時間が幾らあっても足らないと思った。
2010.10.22
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以前高校のバスケット部OB会で、私のミスで金が合わなくなったことを気に掛けてくれた先輩が、ゴルフを誘ってくれていたが、なかなか折り合いが付かないまま時間が過ぎ、今日ラウンドすることになった。連れ合いも一緒にと誘われるままに、良いのかなと言いながらも、一緒にラウンドすることになった。グロスで80台を出す人なので、足を引っ張らないかと連れ合いも気にしていたが、元々それを承知で誘ってくれているので、厚かましくも一緒に行ったわけだ。この先輩は非常に面倒見が良く、バスケット部のOB会でも、ゴルフのコンペでも、歩こう会でも皆をまとめていく人である。ゴルフコンペでは、あまり上手でない、会社時代の同僚の奥さんとも一緒にまわり面倒を見る人である。この奥さんは、ハンディーを異例の60まで貰っている人で、なかなかグリーンまで到達しないという人だが、嫌な顔一つするでもなく一緒の組で回ることが多い。この間、70歳の古希を迎えられたが、歳に似合わずエネルギッシュな人で、ゴルフにかけては、未だにプロについてスウィングやパターなどを習っているという前向きな人である。シニアになったので、ゴルフ場が主催するシニア杯のマッチプレーに出たそうだ。予選は、8人の内の最下位で残ったのだそうだが、2回戦はハンディー5の人とプレーして、4アップまで行ったものの、最終ホールがドーミーホールとなり、逆転の1ダウンで負けたのだそうだ。相手は、予選1位の人で、前に女性の組がありざわざわしてペースを乱され、緊張が切れて負けたと言うことだが、惜しい話である。シニアの大会と雖も、バックティーのそのまた後ろにある最後尾のティーから打ったのだそうだ。その話はともかく、今朝は、出発前から小雨がフロントガラスをぬらすという危なっかしい天候である。しかし午後からは少し回復するというので、そのままラウンドすることにした。アウトからのスタートだが、今日はコンペが入っていると言うことで駐車場は、かなり混雑していた。更に、「海の幸コンペ」というのが組み込まれていて、なにがしか商品が当たると言うことで、それにエントリーをした。後ろは、夫婦連れの2人組である。前は詰まり、後ろを待たせるという私には最悪パターンであった。結果は、相手は巧すぎる上に、気心が知れた先輩と言うこともあって、ゴルフそのものに緊張感がぬけ、気合いが入らないこともあって散々な結果であった。何しろ高槻カントリーで24回プレーしている中でワースト3だったのだから、どう申し開きをして良いのか分からない。アウトの1番で、何故そうなったのか未だに不思議だが、ティーショットで空振りをするほどがちがちに力んでいたと言うことだ。その後も、いつもになく、ティーショットでは、チョロしてフェアウェイに届かないのはまだしも、レディースティーの横に落ちるとか、他にも1回似たようなケースがあり、これらは今までやったことがない体たらくであった。之で良い成績が出るわけがない。何でもないバンカー越えでは、吸い込まれるようにバンカーに入ったり、短いアプローチをダフってガードバンカーに捕まったり、何故か力んでいる自分を感じた。バンカーでは日頃1回で脱出するのだが、2回ほど、出ずに砂遊びが過ぎるといった按配である。さらに、グリーン手前に大きな池があるホールでは、最後のアプローチを距離がちょうど良い100ヤードを残して打ったボールは、当たり所が悪く、グリーン手前で失速し、池ポチャとなってしまった。そんな前半であったが、上がり3ホールはオナーを取ることが出来たのがせめてもの救いである。というわけだから、先輩も絶好調ではない。2日前に熱がやっと下がり、今日もひどく咳き込んでいた。「大丈夫ですか?」と聞いても「大丈夫、大丈夫」と平気の態であるが、内心は平気でなかったに違いない。ティーショットは、私などが及びも付かないくらい飛ぶのだが、今日の飛びは、日頃の勢いが無く、球筋が柔らかな感じを受けた。それでもフロント9は40台の前半で回るなど、驚異的な爆発力であるが、それでもあのバンカーで調子を崩したと、上がり3ホール目で私がボギー、先輩がダボとなってしまったことを悔やんでいた。私の後半は、更にメチャクチャで、OBが2回、3パットが4回と、全く快心という当たりが無くなってしまった。ただ1回、いつもはうまく行かない打ち降ろしで手前に池のあるショートホールを、、フォローだったせいもあり、1オンしてピン奥に乗せたということくらいだろうか。しかしこのバーディーチャンスを、3パットのダボとしてしまい、全く良いところが無く、パーも0であった。先輩も前半はバーディーこそ無かったが、パーは3回と、堅実である。しかし、その先輩も、後半になると、私たちのゴルフに影響されてか、また体調が悪くなってか、良いところがさっぱり無く、パーもなく、おそらくかつて叩いたことがない50という結果だったことには驚いた。もちろん私の場合もかつて叩いたことはあるが、最悪のやっと60を切るという有様だったのだ。連れ合いのゴルフに戻ると、スタートのティーショットは、かつて無いほどの良い当たりで、彼女としては、理想的な高度と飛距離が出た。フェアウェイになかなか出ないことラフばかりを伝ってしまう打ち方、これらは私も初心の頃には良くあったことだが、非力な上にラフに喰われてなかなか進まないと言ったケースが目に付き、フェアウェイに落とすことの必要性を先輩にもアドバイスされていた。今までのショットと基本的に違う間違いを、この間の練習で気づき、その修正を心がけたこと、またインパクトを気にすることなくスウィングを大きくとり、フォロースルーを十分にすることを心がけるという課題は、半ば達成されたようである。この後も、身内でのゴルフ、私の旧職場の玉野の連中とのゴルフ、更に、この間の同期の友人夫妻とのゴルフと連れ合いも之から続くラウンドが待っているわけで、心して、プレーを反芻して貰いたいと思う。良いショットが出来るのだが、疲れてくると全てのチェックポイントを忘れてしまうことが後半のプレーを見ていて、分かる。また、折角アドバイスを貰ったのだから、巧くやらなければという気持ちが先行し体に力が入ることであるが、この点は、私も人のことを言える立場にはない。力んで良い結果が出た試しは過去1回もないにも拘わらず力んでしまうのである。これを克服することは自分の例からも難しいことは十分理解できる。私の場合もアプローチで、楽々乗りそうな距離をショートしたり、バンカーに入れたりと、どうしても前方が気になりボールから目を離す事が往々にしてある。特に短いアプローチなどでは、ヘッドアップが激しいので、トップしてグリーンをオーバーすることも度々で、そう言った点は、連れ合いにも注意するものの、自分自身の課題でもあるわけだ。連れ合いは、ショットの仕方の決定的な欠陥を直したこともあって、時に、快打で、飛距離が今までになく出ることもあり、後は慣れと、方向感覚、さらには、あわてすぎて、息せき切って打つなどの余裕を失わないこと、そして最大の課題は、4パットがらみで殆どが3パットだという現状を何とか半分でも解決できれば、途中でチョロ1回がカバーできるわけで、真剣に取り組んで貰いたい。「海の幸コンペ」の結果が、張り出されていたが、賞品で、参加賞相当の芥子明太子が貰えた。そして連れ合いは、メーカーだろうと思っていたが、出場者の中で、自分より下位の人が3人もいたことに安堵感を持ったようである。先輩には2人分のプレーフィーを含め食事までご馳走になってしまった。感謝、感謝である。
2010.10.21
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日経新聞には「領空侵犯」というコラムがある。その道では門外漢だが、他のジャンルで活躍している知識人などが筆を執って、もの申すという形のコラムである。大抵のコラムは、同感だという感じの意見が多い。今回のこの意見には、全く同感だと思った。今日の意見は富士ホールディングス社長の古森氏のものだった。氏は「人間は、競争によってもまれないと、成長しないし、自立も出来ない」とばっさり切っている。最近は、幼稚園や小学校等の運動会でも、なるべく競争をしないように、順位を付けないようにしているのだそうだ。ある子供は、所謂、勉強が出来て、学問に秀でているという一方で、運動はからっきし駄目で、何時もビリであるとか、逆に運動能力は抜群だが、勉強の方は一寸という事もあるだろう。同じ学問の中でも、ノーベル賞を取るような物理学者でも英語は苦手という人もいる。そのまた逆に、英語など外国語を流暢に話し、外国人と丁々発止と渡り合えるが、物理なんてとてもとてもという人もいる。しかし、昨今の流れは、こういった、人として持って生まれた多岐に亘る能力を伸ばそうとはしないで、画一的に、金平糖の星を取って、まぁるい玉にしようとしているのだ。金平糖の各々突出した直径まで、全体のレベルを持ち上げて、大きな丸にするのは、極めて難しいので、では、みんな同じように理解出来るとんがりを削った直径の丸までで、教育を終えてしまおうとしているように見えてならない。小さい頃は、それで良いではないか、何もあくせくしなくてもみんなまぁるくやっていこうと、「ゆとり教育」なるものを取り入れた馬鹿な官僚が居るわけだ。これを是認した結果が、今日の無惨な子供や、大学生などを生んだわけである。皆が同じ対象に対し、競い合うことで、優劣を付け、劣っているものは、勝っている者に追いつこうと努力もするだろうし、努力をしなくても一切優劣は付かないとなれば、如何なるインセンティブも生まれてこないうえ、向上して、何とか自分を磨こうとする人間も出てこなくなるであろう。記者が、それではギスギスしないかという問に、古森氏は「競争とは、何も知育だけを言うのではなく、徳育も含むのだ」という。そして、「勉強が出来ない人をさげすむとかいじめるとかすることは徳育の欠如だ」というのである。記者は更に、古森氏は成功者だからで、敗者の身になればそうも言っていられないと切り返すと。「人生における勝者、敗者は世俗な地位では決まるものではなく、自分なりの生き方を貫ける人が真の勝者である」というのだ。勉強ばかりがその対象のように言われている節があるが、運動や芸能でも何でも自分が得意とすることで、納得のいくものを求めて極めればいいと言うことだと私は感じた。差を付けてはいけないという風潮にあることに関して、それはごまかしであって、彼我の違いや、優劣を知ることで、切磋琢磨することが必要だと説く。ぬるま湯に浸かっていて、ある時、急に諸外国の人と渡り合おうとしたら、途端に過保護の殻から放り出されるので、おどおどしてしまい、言いたいことも十分言い得ないことになってしまう。昔私が経験したのは、概して外国人は、出来ないことでも出来ると履歴書などに平気で嘘をつくこともある。ではと試すと、全く知らないわけで、上手に言い訳をする。それが良いというわけでもないが、日本人はもっと押し出していかなければいけないと思う。そうするためには、自らの基礎学力なり常識なども必然的に身につけなければやっていけなくなるわけで、無競争でそれが達成するとは思えない。社会人になって、企業に勤め、社長を目指すことだけが目標だというのでは、必ずしも無い、如何なる持ち場、立場でも、自分が対峙する人と十分に渡り合っていけるのは、競争して初めて得られることであろう。無競争の社会を作るのではなく、如何に上手に競争をするか、そして、この競争は、勝った者が全人格的に優れているわけではなく、たまたま得意な部門であるのだと言うことを、わからしめる教育こそが必要なのだと思う。それなくして、金平糖の尖った部分を削り取るような、まぁるい社会は、個性の否定にも通じる。世の中には、3%程度の優れた指導者がいれば良く、後は右向けといえば右を向くし、左を向けと言えば何ら躊躇無く左を向く判断力欠如の者達がいればいいのだと言うことも聞くが、それが目的である「ゆとり教育」や「無競争教育」ならば、正に傾国の教育といわざるを得ない。他人を押しのけて、俺が俺がという意味ではなく、自己主張をし、正しく判断して受け入れる社会を目指すべきではないか。世俗的な地位を得るのは、時として、運が大きな要素を占める。オーナー企業の社長の息子に生まれれば、大した脳が無くてもそこそこやっていれば社長になれるわけで、政治家でも然りである。2世政治家、3世政治家と、意味もなく閨閥で地盤を引き継ぐ体制は、正しく、金日成―金正日―金正恩と続く北朝鮮と同じである。管制された報道と締め付けによって、国民は訳も知らず「マンセー、マンセー」とやっているのを見て、私は、おかしいと感じないのかと聞きたい。しかし、日本人も負けないくらい同じ事をやっていると言うことを理解できているだろうか。他人事と笑ってばかりはいられないのだ。人間も動物である、適切な競争社会で、自然に淘汰され、そこに革新と、進歩が生まれるのは進化論的にも異論のないところである。社会に出ればいずれ否応なしに競争が待ち受けている、無競争を唱えるよりも、正しく競争を受け入れることを教えるのが、本当の道だと思う。現在の大学生は、大学に入る意義の一番に、良い就職口が見つけるためという答えなのだそうだ。もちろんこれらのことは、総花的に言っているわけで、この考えが全てではないということは理解しているが、マジョリティーの考えはそう言うことなのだという。年老いて思うことは、何をやってきても、90%以上の人は振り返って、世のため人のためになれたかというとそうでもない。かといって、仲良し、こよしで来られたわけでもなく、適度な競争社会をくぐり抜けた結果なのである。閉鎖された村の中に一生生活できるわけもないから、如何に上手に生きるかを教えること、そして、その過程で、大きな波が押し寄せても、十分に耐えうる、気力体力が付くのだと思う。相手が北朝鮮や中国であって、理不尽な行動を採られても、やはり、まぁるい世界を夢見てしまうことになり、引いては、彼らに従属的な立場に置かれても、やむを得ないと泣き寝入りしてしまう様なふがいない結果になってしまうのだと思う。
2010.10.20
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今日の連れ合いは、昨日、行った中間テストの採点で終日忙殺される。私は、気になっていた、庭の草取りなどをこの機にやってしまおうと、万全の態勢で連れ合いの実家に向かった。この前、伸びた木を切ったのが、5月頃だったので、ほぼ半年近く経っている。生命力というのはすごいもので、半年も経たないうちに、雑草はまたもとの勢いを取り戻し、木々は、新芽を伸ばしている。私の場合、庭木の剪定などは得意としているわけでなく、取り敢えず異常に伸びた枝を切るというのがせいぜいである。探しても脚立が見つからないので、勢い木の先端部はそのままである。本当は、適当な高さで切らないと、ジャックと豆の木ではないが、空高く伸びてしまうのではないか、等と考えてしまう。京都市内から周山街道(国道162号線)に沿って北上すると、有名な京都の北山杉が見られるが、あの木のように植物は、光を求めて上へ上へと伸びるのがその習性である。一軒家の庭に植える木々は、夏場の涼感や、冬の風よけ、また、道路から室内を直視されるのを避けるためなのだから、あまり高く伸びすぎても用を為さないわけである。木々はそれでも少しの期間なら放っておいても問題はないが、雑草はそうはいかない。今年の夏は猛暑日の連続だったために、戸外に立っているだけでも汗が出てきて、とても庭の草取りなどは出来かねる日々であった。一寸涼しくなり、長袖を着ていても汗をかくことはあってもべとべとになるという時期はやっとすぎた。草取りもそうだが、一寸気になるのが、カーポートの屋根の汚れである。不透明の屋根なら下からは見えず気にはならないだろうが、透明なアクリルボードなので、外側の汚れが目に付いていた。まず最初に、その汚れを落とすことを考えて、隣家との境の塀によじ登った。年寄りの冷や水と言われないようにということと、若い頃のように手軽に上れるかと言うことの両天秤ではあったが、それほど無理なくよじ登れる体力は残っていた。捨てても良いハンドタオルを2枚持って上がったが、1枚目を途中で下に落としてしまい、2枚目を慎重に使って何とか拭き終わった。次は、木の剪定であるが、剪定といっても、ただ切るだけで良いキンモクセイに取りかかった。反対側の隣家との境に植えられたキンモクセイは、一寸隣家にせり出していた。たまたまそこは車庫になっていて、隣人は外出中で、作業はしやすかった。壁際ギリギリまで刈り込んで、ガレージに落ちた木の葉や木の端を掃除し終わったところに隣人は帰ってきた。絶妙のタイミングである。後は、玄関の柘植を切りそろえ、また、道路際に張り出したサルスベリの木を大胆に切った。この前切った時は、花が未だ咲いていなのに、切れば咲かないかもという心配をしていたようだが、何のことはない植物は強いものである。ただ、下部を切ったことによりその分上方により以上に伸びたようである。早く上に突出した枝を切らないと、収拾が付かなくなるのではと思うくらいに元気なのである。私は、植物の名前をよく知らない。先に述べた木以外、名前が言えるものは少ない。要は、うっとうしそうに仲間はずれ的に伸びた枝を刈るというのが私流の剪定である。そうやって、灌木を切り終えたが、松がどっかりと残っている。松に関してだけは、素人が剪定すると枯らしてしまうとか、良い形にならないとか言われていることだけは頭に残っているので、手も足も出ず、専門家に任せることにしてある。一寸インターネットで調べてみると、いろいろなことが分かるが、実際に作業をしようという勇気はない。その中の要諦を拾い読みすると、松の枝は3本出てくるのだそうで、一番勢いの良い真中の枝を切るのが、基本だという。そして、交差している枝はいい方を残して切るというが、それは常識的だろう。外に向かって伸びる枝を残すといいというのも頷ける。盆栽で見るように、松は,くねった枝ぶりを鑑賞するのが良いのだろう。そして、多すぎる葉を透かす、「もみ上げ」と言う古葉落としは大切だと書いてある。透かしてやると、下枝まで日が入るようになるので、頭から7cmぐらいを残して、古葉をしごき落とすのだそうだ。もみ上げを、全部やるのが大変な時、下の葉っぱだけつかんで引いて取るだけでもすっきりして大分感じが違うのだそうだ。手をつっこんで、引っ張って取っても良いが、弱々しい枝では行わないという事も考えないといけない。「みどり摘み」という言葉があって、8~9月に剪定すると、来年の芽を切り取ることになるので、そこから芽は出ないということだ。新芽が10cmくらいのびて、かたくなる前のまだ指で折れる頃がいいのだそうだ。だいたい桜が終わって2~3週間経った頃がその見当だという。また「強剪定」という言葉があり、これは、樹の形を整えたり生長を抑えるために、より根元近くで短めに剪定することらしく、要はばっさりと木の形を変えるといった意味であろう。庭師などは、「9月はもう木の勢いが止まってくるから、強剪定すると枯れる恐れがあるので気をつけなければいけない」ということだ。弱っている枝は剪定せず11月まで待って、整姿ともみ上げをする方が良いようだ。死に芽という死んだ芽をなるだけ取るのだが、生きた芽を切らないような注意が必要だとある。上記のことを守っていれば、良い枝振りの形の良い松になるのだそうだが、松は樹形が崩れると元に戻せないので、数年に一度は庭師にやってもらう方がいいとのことだ。出来上がった松をこれ以上大きくしたくないなどの場合、途中で切ったり、短くしたりするわけだが、そんな時には幹から出ている枝で、一番短い枝を選び、その上で幹を切るのだそうだ。松は胴芽をふかないので、このやり方が標準なのだ。切った幹の断面には防腐剤を塗るか、フタをする注意も怠らないようにということだ。赤松と黒松の違いがあることは知っていたが、さて、庭の松はどちらなのかを見分ける術は知らなかった。それも、インターネットによると、簡単な方法として幹の皮を少し削ってみて、中が赤ければ赤松だということで、葉は黒松の葉の方が硬いようだ。そして、あまりに高木になってしまったら、やはり、5段から7段くらいのアルミ製の三脚が必要になる。そして、これは難しいようだが、突出した松の頭を思い切って一段下げてやるのだそうだ。そして、下の段で玉の形を作るのだが、1つ作るにも数年かかるので、気長に形がよくなるまで2~3年かけよということである。この作業は、素人には難しい作業なので、プロに依頼するが良いとあった。これだけなら、一応の形が整っているので、素人でも2~3年は出来そうな気もする。そんなことを考えながら、今日は時間も大分経ったので、後は、雑草を、それこそ雑に摘み取って、今日の作業の終わりとした。
2010.10.19
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IT機器は、実に超ハイスピードで進化している。私も若い頃から、IT関係の機器には興味があった。といっても、あくまでユーザーとしての段階だから、知識は大して持っていない。之は、副題の造船時代に書いたと思うが、入社7年頃だったか、シャープのMZシリーズのテープでBASICを駆動するパソコンを買ったのが最初だったと記憶する。当時の技術計算は汎用大型計算機IBM360だった時代だ。プログラミング言語の1つ、BASIC(Beginner's All-Purpose Symbolic Instruction Code)で簡単な技術計算が出来ると言うところが発端だったように思う。その後は、NECのパソコンを主に使い、新しいOSがでる度に買い換えていったような気分だが、実際にはとびとびに買っていて、出始めのWindowsには手を出していない。8ビットから16ビットに変わり、更に現在使っている機種は、32ビットマシーンである。現在カタログによると64ビットマシーンが出ていると言うが、既に私の能力的にもそれを使う意味に於いても手を出すのは難しく、且つ年金生活者には無用の長物となりつつある。何しろ、現在の機能は、昔に比べ、高速となり、使い勝手といい、私が使用するには十分な機能を有している。パソコンと併用して、いろいろな電子機器を買い求めてきた。ソニーのウォークマンにも飛びつき、通勤の行き帰りなどには、英語のテープを聴いていたが、アナログは頭出しが難しい上、容量的にもテープが何巻にもなるから、ハンドリングが難しかった。今は音楽用として、i-PODを便利に使っているが、之には、英会話はもちろん、写真、動画まで収納でき、相当の容量が収納できるので、便利に使っている。アナログからディジタルに変わった利点を大いに楽しんだものだ。ゴルフの石川遼君が言っているように、聞き流すだけで自然に英語が身につくと言う英語の教材も、実際は、集中して聞いてもテキストがなければ何を言っているのか分からないと言うところが多く、そのテキストを見るのが意外と面倒なのである。この点何とかならないだろうかと常日頃考えている。i-PODの画面に、テキストが出るとか、曲を聴く時にその歌詞が出るとかすればいいのにと何時も思うのである。また、昔は出先でスケジュールを管理する時には、毎年、定型のポケット手帳を買うのが年末のしきたりになっていたが、ある時から、PDAというIT機が出現SonyのCLIEというのを買って管理していたが、ソニーのPDA部門は不振で、私が買った次の週には生産中止が決まり、その後も多少使ってはいたが、やはり使いづらく顧みなくなった。そのうちに携帯電話が出来、日本のIT業界はガラパゴス化などと言われながら、国内にいる時にはそれでも大変便利なものができたものだと思った。更に、携帯電話にカメラ機能が付いたり、簡単なメモが書け、それに簡単なスケジュール管理も出来るので、現役を卒業した今では、携帯電話で事足りると済ませていた。その当時からユビキタス(ラテン語で「どこでも」を意味する)などに興味を持ち、自分がしたいと思った時にしたいことが出来ることを望むようになったと同時に、電話は電話、カメラとは紛いなりにも統合したが、全てのものがオール・イン・ワンにならないかという気持ちも持っていた。そんな時に出てきたのが、このi-Phoneである。出た当初から欲しいには欲しいが、イニシャルコストは何とかなるとして、インターネットし放題(パケ放題という)によるランニングコストは、一寸重荷に感じていた。しかし、姫がi-Phoneの出始めの3Gを購入し、ことある事に機能を見せつけられると、欲しいという気持ちが募ってきた。しかし、こういったオール・イン・ワン的機能を持った機器(スマートフォン)はアップル社の独占で、その販売元がソフトバンクと言うこともあり、通信エリアの関係で、ドコモを使っていたこともあり乗り換えが面倒なこと、さらには、i-Phoneの人気が高く品物が申し込んで2週間から3週間掛かると言うことで逡巡していた。今回は、ラッキーにも在庫があるという。あたかも他社(ドコモなど)のギャラクシー他スマートフォンが逐次売り出されたこともあって、客筋が分散したのかも知れない。各社必死であるが、意外と派遣社員の多いのがこの業界である。更に、何種類もある機種を、しかも隅々にわたる顧客の質問に手際よく対応できる人は、意外と少ない。後は、カタログ通りの事をオウム返しする程度の店員に嫌気がさすことも多い。ソフトバンクの店員は、全員肩からたすきを掛けていて、「笑顔、親切、商品知識」とあったのがそれを物語るといささか面白かった。それにしても、携帯電話会社の利益率を正確に知らないが、20%近くあるのではないかと思う。私がいた鉄鋼や造船業界など重厚長大産業での利益率はなかなか2桁台に届かないと言ったところだったと記憶する。要するに、船は誰でもが欲しがらないが、携帯電話は、誰でもが必要とし、時には、1人で2台、3台と持っている人もいるわけだ。それが、毎日使いまくるわけだから、携帯電話会社はランニングコストで、いかに儲けているかと言うことが分かる。通信は、国家的インフラである。高速道路や、新幹線と同じであるし、時としては、それ以上の効果を持つ物である。それが国家的管理から改革によって民営化され、競合社が多数出来たことによって、その昔は、如何にNTT(旧電信電話公社)が利益を独り占めしていたかが分かる。そこに、最近では、アップル社のような、世界的機能を持つ製品ができたから、ドコモの取り分は減少、ソフトバンクの純増率が連続1位となったわけである。世界では、携帯電話といえば、フィンランドのノキアと韓国のサムスンで、実に60%近いシェアを誇っている。海外では、何処の製品であれ、どんな機種であれ、中に挿入するSIMカードを挿入するだけで通話が可能なのに対し、日本の製品は使えないのである。海外で、プリペードのSIMカードを買って用を済まそうとするが、日本機は使えず、日本に掛けるにも大変な苦労をしていた時があった。世界的な標準化に遅れたことによって、世界市場の大きなパイを食べ損ない、日本人は内輪で、高い金を払わされているというのが現状だと思う。さて、買った、i-Phoneだが、最初のセッティングに困る。パソコンがないといけないことも漠然とした方法などは分かっても、暗証番号だとか、アカウントなどとパソコン側が聞いてくると、自分一人ではなかなかセット・アップできない。勢い先輩格の姫に指導を仰ぐことになるが、今日半日(実質3時間)は掛かりっきりで調整して貰った。やっと使えるようになったが、指が大きいためにタッチパネルの操作が難しいなど、何かとなれるのに時間が掛かりそうだ。しかし、i-PADまでは行かないだろうが、出先で、必要な時にインターネットで必要な情報が手にはいるし、本だって読めることにもなる。可能性を使いこなすまでにはまだまだ時間が掛かりそうだが、また大人のおもちゃが増えて、今は嬉しい。
2010.10.18
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また日経新聞の「世界を読む」の記事からである。私の人生の中で、イスラム教がこのように関わりを持つことなど考えてもいなかった。イスラム教徒のことはムスリムと呼ばれる。イラン・イラク戦争も、チェチェンや、ボスニアの問題なども、日本から遙かに遠い国だから、人ごとのように見過ごしてきた。しかし一歩イスラムの世界に足を踏み入れ触れただけで、妙に気がかりな存在になってきた。とはいうものの、宗教の本質やその教義について何ら造詣が深いわけではなく、むしろ宗教という点に於いては、宗教心の無さを恥じ入るばかりである。無政府は許されても無宗教は許されないくらいに、人は宗教と何らかの形で接触していることになる。海外に出かける時に、飛行機内で渡される入国ビザ(不要な場合もある)に、宗教欄があるが、宗教心がないものの、何時も仏教徒と書くことにしている。そう書いても何ら問題になったり問題を感じたりしたことはなかった。過去に日本が絡んだ戦争も、宗教に原因したものはなかったと思う。私を含め一般の日本人は概して信仰心の希薄な人が多いと思う。仏教徒でも、お正月にお宮参りをするが、寺院を回るわけではない。之は、仏教徒に宮(神社)は不釣り合いなのであり、強いて言えば、葬式で、読経して貰う時にしか、仏教と対座することはあまりないのが現状である。日本では、神代の昔から天孫が降臨したという、神教がある。所謂土着の宗教と言うことになるわけだが、その後538年仏教が伝来し、仏教が日本人の中に浸透し始めた。鎌倉時代になるとこの神道と、仏教が、互いに共存することの必要性があったようで、神仏混淆という神社に仏閣が併存している状態のものが出てきた。之が、現状の日本人のマジョリティーではないかと思う。この辺りまでが日本の古来の宗教のあり方だったわけだ。そして、戦国時代の最中に、フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が渡来したのである。新しい宗教の息吹で、隠れキリシタンと呼ばれる人達を産み、日本におけるキリスト教の地歩を確立していった。現在、日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査によると、神道系が約1億700万人、仏教系が約8,900万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になるのだそうだ。この要因として、自団体の信者数を多めに申告する、複数の宗教にまたがって儀礼に参加する、氏子・檀家の家庭に新たな子供が生まれるとそのまま信者数にカウントする、そして死亡しても信者リストから外さず放置するなどが挙げられているというのだ。しかし割合的にはこのようなものであろう。日本におけるムスリムの数は、その他の約1,000万人のうち、約5万人とも20万人とも言われている。おそらく生まれついての人は少ないだろうし、殆どは海外からの移住外国人であろう。そして、中東における原理主義者とは一線を画した人達であると思う。また日本のクリスチャンは、約100万人程度であり、隠れる必要のない今、その数は、実情に近いものかと思われる。 クリスチャンもムスリムも洗礼といった儀式があるのだろうが、仏教徒や神道系にこういった儀式はなく、汝を仏教徒と見なすなどと言われた覚えもない。国勢調査などにも記載することはないので、曖昧になっている。この事から、日本人の大半の世界観は、仏教と神道に限られ、実に幅の狭いものにならざるをえない。他の存在を認知して、自分の位置を知るというのが、理解に繋がるわけで、そう言った意味でも日本人の世界観は、ごく限られたものだろう。従って、イラク戦争に参加するのはという時点で、憲法問題との抵触などに論議が集中し、何故にこのようなテロリストが存在するのか迄を考え得ないという点にある。おそらく日本では、無知な人は、ムスリム=テロリストという方程式で見ているのではないか。そう言った目で見ると、クリスチャンも、中世における残虐の歴史を見れば、クリスチャン=残虐者といっているのと同じである。このように世界宗教とは隔絶された中で生きてきた我々日本人は、現在、ムスリムの存在がどのようになっているのか、殆ど実感できる人は居ないと云うことだ。しかし、欧米ではこのムスリム台頭に、神経を尖らせているというのが実情だと「世界を読む」では言っている。アメリカは、あの同時多発テロ以降、特に神経が過敏になっているが、ヨーロッパでは、かの十字軍と、イスラム聖戦士との戦いに迄遡り、且つその原因まで知らなければ、おそらく理解は及ばないだろう。ムスリムというと、髭をもじゃもじゃ生やした、白い服(トーブ)の男が出てくるが、一般に目にする男性の姿は、徐々に機能的な西洋風の服装に替わってきているのも事実であろう。女性の服装は、相変わらず、全身を黒い布で覆った、「ブルカ」とか「ニカブ」とかいった民族衣装が使用されている。これを法律で着用禁止にしようとしているのが、ベルギー、スペイン、フランス、オランダなどの西欧諸国である。彼らは、十字軍に対するムスリムの報復が今始まろうと考えているのだろうか。服装を禁じることが、何を意味するのかよく分からないのだが、最近のイラクやアフガニスタンなどで、女性が腹に爆弾を巻き、「ブルカ」や「ニカブ」で覆い隠して、自爆するという事件を想定でもしているのだろうか。それともこれらの服装が増えることに対する単なる心理的驚異なのか、理解が及ばない。日本などでも、犯罪の多くは、在日外国人が多いと言うが、たまたま、「ブルカ」や「ニカブ」を着た人は居ないわけで、それほど、ムスリムに対しての驚異や恐怖感はない。仮に日本人女性が、振り袖を着て、角隠しを付けた格好で、海外に大勢進出しても、彼らは和服着用禁止法を成立させはしなったであろう。日本では、「チマチョゴリ」を着た在日朝鮮人にまでも、教育の機会均等とか言いながら、甘く接する寛容さ(?)を持っている。一方では、いくら彼らが日本人を何百人も拉致し、その捜査すらしない金正日の顔写真を崇めながら学んでいても、学問に国境はないといえるのが日本民族なのである。宗教と政治の間隔が、西欧では近く、更にアラブ諸国には、もはや一体化していると言っても過言ではない。そう言った背景の中、最近では西欧に「モスク」の尖塔が目立ち始めているというのだ。姫が、この間トルコの学会に行き、例のブルーモスクを観てきたようだし、私もアブダビに建設中であった巨大なモスクを見てきたが、その外観の華麗さには目を見張るものがある。西欧人は、これを見ると、何に思い至るのであろうか。日本人の持つ感覚とは全く意を異にしていることは明かである。そんな西欧におけるモスクが、徐々にその数を増し、1994年に約960だったモスクの数が、15年後の2009年には約2倍に達する勢いだというのだ。私の知る範囲では、日本には、神戸と東京に1つずつ有るだけで、横浜のモスクはあるのか無いのか知らないというくらい、無いに等しい。之は、西欧諸国が、移民を受け入れ、下級の仕事をさせてきた結果であるが、ここに来て、日本でも少子高齢化で、しかも汚れ仕事を嫌う感情が同じであれば、巷にムスリムの「ブルカ」や「ニカブ」を受け入れなければならない時が来るかも知れない。
2010.10.17
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今日は連れ合いの孫を連れて、3人で、「地球最後の恐竜展」を観に出かけた。場所はATCミュージアムで、ここで恐竜展を観るのは2回目で、恐竜展はあと1回、今年3月に大阪長居の公園で「大恐竜展」を観たので、都合3回恐竜展を観に行ったことになる。去年の8月から、立て続けに3回恐竜に触れることになった。最近は、遊ぶことが中心だが、何かと忙しい。気楽な身分であるが、そのたび毎に、イソップ寓話の「蟻とキリギリス」を思い出してしまう。昔なら、男社会ということで、大黒柱は男と相場が決まっていたが、今は男女同権、男が弱くなり烈女が横行する時代だから、パラサイトを恥じることもなく、毎日を過ごさせて貰っている。朝1番で出かけるつもりが、何かと忙しく遅くなり、昼前にATCミュージアムに向かった。最初に行った時、孫は未だ4歳であったが、今年は5歳になっている。この辺り、幼稚園では、年少組さんから、年中組になっているので、いろいろ行動範囲も広がっているようだ。今年、3月に出かけた長居の大恐竜展では、折悪しく大泣きしてしまった事を覚えていたためか、心なし、喜色満面という感じは受けなかった。3回目ということもあって飽きたのかも知れない。実のところは、孫が、連れ合いと一緒に行動すると言うことは即ち、「バトリオ」という小さなコイン状のパックを使って遊ぶ事が、セットになっているわけで、出がけにお母さんからそれをしないと制限されたことに加え、1つだけリュックに入れてきたそのパックセットも置いて行かされたと言うことに元気をそがれたようである。前回ATCでは会場の外に空気を入れた大型恐竜をかたどった滑り台などがあり楽しかったことを想定して、連れ合いが話すとなにやら納得したようであった。初回は、JRを使ったりして何度も乗り換えをしたが、今回は、淡路から阪急電車が地下鉄堺筋線に乗り入れしているのを利用し、堺筋本町迄行き、中央線に乗り換え、コスモスクエアまで行って、最後の一駅をニュートラムに乗り換えるという、方法を採った。前回は、孫が、堺筋本町に着いた時に「さかいすじほんまち」と読み、その後「長(なが)!」といったのを思い出す。ちょうど字が読める頃で、駅毎に読んでいたようだ。その言葉で、乗り換えに気づくということもあった。今回は、いくつ目の駅だからといって、数えながらの道中となった。子供なら、目的地まであとどの位とか段々と心が高揚するのが普通であろうが、あまりそう言ったことはなさそうだった。一時は、体の調子でも悪いのではないかとも思ったが、どうやらそうではない。電車の中刷りに、恐竜展があるのを見つけると指さして、教えてくれるのだからまんざらでもないのだろうと、彼の深層心理を読めなかった。それにしても地下鉄からまた乗り換えて、一駅のニュートラムだけは、何と都市計画的にまずい設計だと何時も思う。今日は特に、腹が立った。コスモスクエアはニュートラムの始点であり、ホームは2番線ある。時間帯も悪かったのか、若い女性を中心に混雑が激しかったから、空いている方をと2番で待っても、折り返しの電車は来ない。あまりにおかしいので、駅員に聞くと、「はい、そちらからは出ません」というのである。ふざけた話で、次の列車が来るように電光掲示板には書いてあるが、どうやらそれは1番線のことらしい。1駅のためにわざわざ乗り換えること、混み合っていること、更に駅の表示の拙いことに憤慨したわけだ。やっと目的のトレードセンター前に到着、この頃から、孫のテンションも少し上がり始めた。先ず、食事をしてとなったが、どうも食が細い。私の子供の頃は、食べるものも少なかったので、嫌でも太れなかったわけだが、今頃その反動で、メタボになっている。孫の場合は、どうも食べることに貪欲ではない、飽食の時代という事が返って、飢餓感が無く、何時でも食べられるという意識が、段々と食事に対する貪欲さが無くすのかも知れない。頼んだのはお子様メニューであり、うどん好きは前から知っていたので、うどんが付いたお子様メニューはそのせいかと思ったが、実は、それに付随しているおもちゃが目的なのである。そんなつまらないおもちゃの何処が良いのかと思うが、65歳のじいさんと5歳の考えることが一致するわけがない。だいたいそう言うことで釣っている店が殆どで、需要は一般的に高いと言うことなのだ。連れ合いも、DVDのレンタルショップに行った時に置いてあった、何の変哲もないバッグをみて「これ良いでしょう」というのである。どうやらそれも何かの本に付いた付録であり、世間的にそう言った付録商法が馬鹿売れしていると言うことを聞いたことがある。むやみに5歳児ばかりをを悪く言うわけにはいかないようだ。食事が済んで恐竜展の方向に向かったが、どうもそれらしくないので連れ合いが案内で聞くと、全く反対方向だと言うことだった。この間来たのがたった1年前なのにと、呆けてしまった自分が情けない。やっと入口について、「地球最古の恐竜展」に入る。恐竜は、三畳紀辺りから出始め、ジュラ紀に最盛期を迎え、白亜紀で絶滅する。「最古」と言うからには三畳紀の恐竜を集め炭化といえばそうでもないらしい。ただ客寄せのための冠言葉と言うくらいの意味であろう。そんなことはどうでも良く、館内はいずれも同じ組み立てた恐竜の化石の巨大骨格像の展示が並ぶ。前回は、恐竜自体が、ロボット的に動くと言うことで客寄せにしていたが、今回はそう言ったものも無く且つ規模も小さかった。ただ、恐竜たちがどんな生活をしていたのだとか、恐竜同士の捕食作戦などについて随所にモニターで説明したり、大きなスクリーンに投影されたりしていたのは良かったようだ。孫もそれらを食い入るように見つめていた。その時の表情を思わずスナップ写真にしたが、あの真剣さはどこから来るのだろうか、やはり恐竜に興味を持っているのだなと感じた。俗に恐竜とは陸生の爬虫類といったとらえ方だが、今回は、珍しく、ほ乳類の祖先とも言われるエクサエレトドンが、生々しく飾られていたことである。毛のはげ掛けたライオンの様な面魂は、現生のものより恐ろしく感じた。壁面には、アフリカ象を端に、巨大な恐竜が壁一面に描かれていたが、つい最近動物園でゾウを観てきた孫は、右端のアフリカ象が中央付近の恐竜に比べて小さいのを観て、恐竜の大きさを実感したようだった。子供にとって、学術的に素晴らしい巨大な骨格標本よりも、それがどのように動いていたとか、その大きさが、自分が知る現生の動物と比べてどれだけ桁違いに大きいのかを肌で感じる事の方が分かりやすいと言うことだ。会場を出て、連れ合いが、「前にあった空気で膨らませた滑り台が無くてつまらなかったね」というと、「つまらなくなかった、良かった」と返事が返ってきたので、1年の進歩かと思った。そこからが、恐竜グッズの店を縦横無尽に歩き回り、必死におもちゃを探していた。やはり孫にとっては之がないと、来た意味がないのかも知れない。連れ合いと孫が土産を探索中に、私は、隣のブースで恐竜絶滅の経緯を、隕石衝突説を採って説明しているスクリーンを見ていた。 帰りは、前日まで寝不足だったこともあり私はもと来た道を、連れ合いと孫は、梅田まで出てきた孫の両親と合流して帰ったようだ。
2010.10.16
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NHKの美術講座も5期目に入り、第1回目の講義があった。きりは悪いが4期目の最後に印象派の(1)の講義を受けたので、学期は変わるが、前回からの続きと言うことになる。今期から参加された方もいるようで、教室はほぼ一杯になった。今日からは、講座の会場は新しい場所に移転しての第1回目である。新しい場所は、今までよりも一寸梅田よりの梅田阪急ビル・オフィスタワー17階である。近くは通ったが、工事中のため仕切りがあったためか、入口も目新しく、ロビーに入ると正面にいきなり大きな部屋のようなエレベーターが数機並んでいる。之で15階まで上がり、そこが展望室になっている。そこからは従来のエレベーターに乗り換えて、17階まで行くという、変則的な形になっている。新しいNHK文化センターはこぢんまりして、いろいろな講座に対応するように部屋が造られていた。何しろ新しいので気持ちがよい。今日は印象派の第2回という事で、前回配られた資料の続きという形で進められた。ルノワールからであるが、前回最後にルノワールの「ムーラン・ド・ギャレット」で終わっていたのでその続きと言うことだ。印象派の中でもそれぞれ得意分野があり、モネが風景を得意とするなら、このルノワールは女性が専門である。ドガも人物を好んで描いている。ルノワールの「太陽の中の裸婦」は木漏れ陽が降り注ぐ女性の体をふわっとしたタッチで描いている。バロックやロココ時代の女性の裸婦像は、神や、神話に基づいたものに限られていたが、日常の女性のヌードを描くという事は当時異例であり、それにより旧守の批評家達からはひどくけなされていた。木の葉が女体に当たる分の影とそうでない部分を見て、好意的でない評論家アルヴェール・ヴォルフは、まるで「腐った死体だ」との酷評をした。「ぶらんこ」では、ブランコを手にした、恥じらう若い女性が何か可愛らしく描かれ、向かい合う男性と、恋が始まる予感を感じさせる。ロココまでに時代では、こういった男女の絡みや愛をテーマにした絵には必ず弓を持つ、キューピッドが描かれるのだが、ルノワールはそれを意識してか、可愛らしい女の子をキューピッド替わりに描いている。このブランコに触れる女性は、「ムーラン・ド・ギャレット」にも登場している女性だという。この絵は、ロココ時代のヴァトーの「キテラ島の巡礼」やダヴィッドのホラティウス兄弟の誓い」に匹敵するフランスの同じ趣味だという好意的批評もあった。「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢の肖像」は私も好きな作品であるが、髪の毛をふわっと流した、可愛い12-13歳少女を、描いているが、この少女は知人を通じて知った裕福な家庭の少女であり、評論家にも比較的早く正当な評価を得ている。「水浴図」はルノアールには珍しく、一人一人の輪郭をはっきりと表しているが、全体的なバランスは何処か不自然なものを感じる。画家カミーユ・ピサロからは「何かをやりたい気持ちは分かるが、線を重視するあまり、人物は背景と分離し各々がばらばらとなっている。また色彩への配慮も欠け調和なき表現へと陥っている。」と批判的評価を受けたが、ブーシェの「「水浴のディアナ」に通じるところがあるとの好意的評価もあった。「ピアノに向かう娘たち」は普仏戦争も終わり、平和の訪れた中流の上の家庭の一こまを、国からの依頼で描いたのだという。暖かい色彩、音楽への感性、知性を感じさせる作品だが、このような種類の作品は他にも多く描かれている。「バラを飾るガブリエル」は筆のタッチが荒く、またふんわりとした作風であるが、之はルノアールの晩年の傾向である。ガブリエルは、妻の親戚の娘で、妻がお産の際手伝いに来て10年余年、ルノワールの専属モデルのようになったがため、妻の嫉妬心をあおり、アメリカ人と結婚させられたという。シスレーに移るが、「ハンプトン・コートの橋」は1874年代1回印象派展に出品された作品で、ロンドン郊外の行楽地の情景である。短い線を重ねることによって、波の質感を表しているが、この手法は、モネの「ラ・グルヌイエール」やコンスタブルの「ソールズベリー大聖堂」に共通するものがある。「ポール・マルリーの洪水」はセーヌ川沿いの町で、水面の筆使いは共通したものがある。次にピサロだが印象派の画家達は平均して若いのだが、このピサロは10歳ほど年上だった。従って、モネや、セザンヌにも指導したと言うことだ。「赤い家」に見られるように、彼の作品は、田園風景と都会の風景の融合した平和で、明るく、のどかな作品が多い。サロンに落選しても、落選展に出すという具合で、若い画家達に勇気を与えている。「ヴォワザンの村への入口」夕方の風景を暖色で表し、筆致はかなり荒っぽい。「赤い屋根、村の片隅、冬景色」しっかりとした構成で、村の集合した家々を描いていて、家や、その屋根のバランスが非常によい。「雨のテアトル・フランセ広場」正面遠方にオペラ座がみえ、なにやら懐かしさを感じる、古き良き時代のパリを思わせる作品である。ホテルの部屋から描いているようで、同室に泊まれば、今でも同じ風景が見られるかも知れない。コローの「ドゥエーの鐘楼」はこのピサロに影響を与えている。今日の最後はドガである。ドガは人物を主に描くのを好んだ画家である。銀行の支店長の息子で、パリ大学の法学部を出て後、国立美術学校に入り直したという変わり種で、「少年たちに挑戦するスパルタの少女たち」は史画が優れているとのことで描いた作品だが、線は、あまり良いとは言えない。スパルタの少女は、通常全裸であったらしいが、男女を同じ画面で裸体表示するには抵抗があり、少女は一部布を掛けている。「ベレリ家の肖像」はサロンに出品された作品で、ドガの親戚に当たる喪服を着た女性が手を引く子供達を、虚無的に眺める男性といった作品である。ドガは踊り子を数多く描いたことで有名であるが、「バレエの授業」はその一つであり、踊り子の動きを瞬間切り取るのが巧かった。「緑の衣装を着けた踊り子」は写真の影響を受け、動きを切り取るという描き方で、表現している。写真という点で、マイブリッジの連続した馬の写真12枚が、馬の行動を切り取って出来たものだと言うことで、この作品にドガは、強烈なインパクトを受けたという。今日の最後の作品は「ボックス席から見たバレエ」で、西洋的遠近法で描かれているが、参考にしたとされる葛飾北斎の「富岳三十六景」は遠くの富士山を比較的に小さく描いて、手前の波は大きな波にしている遠近感を取ろうとしているが、どちらも中間の風景画が省略されている。印象派になると、途端に多くの作品と馴染みが深くなるが、様々な解釈の仕方を聞くに付けて、なかなか面白い知見を得ることが出来る。
2010.10.15
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チリの鉱山落盤事故は幸運なことに33人の全員生還で終結できてハッピーな気持ちになれた。終結というのは事故からの生還という意味で、これから先、生還者には、いろいろなオファーが来ているという。そう言う意味では、彼らの先に人生は大きく変わることになりそうである。チリでの事故については、私の記憶では、之が唯一のものである。日本に送られてくる海外での事故は、もし日本人が絡んだり多数の人が殺されたり、または今回のような多数の命がどうなるのかと言ったことで報じられるだけだからだ。そう言う意味ではチリは、日本からは、遠い国である。落盤事故は8月5日に起きたのだから、事故以来69日ぶりの救出活動であったわけだ。この事故が日本に報じられた当初のことは記憶になく、約2週間たって、チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山で落盤事故が起き、地下深くに閉じ込められていた作業員33人から「全員無事」との「手紙」により判明したのだ。閉じこめられた作業員からの手紙は、地下700メートルの地点に達した救助隊のドリルに結びつけられていたという。そこから救助の本格的活動が始まった。坑道は螺旋状にまわりながら、700m地下まで達していて、その中間辺りで落盤が起きたというのだ。 生存を知らせる手だても鉱山労働者ならではの手法で、ドリルの先端を叩いて、その衝撃を地上で感知したのだという。生存確認後まもなく、小さな穴を通じて作業員らと家族などの手紙のやり取りが開始。その後、光ファイバー線が開通し、電話やビデオを使ったコミュニケーションが取れるようになった、とあるが、約2週間の間は、生死も判明せず、焦燥感が募っていたことであろう。地上での絶望感と閉塞された地下での孤独感と死と隣り合わせで過ごした期間は、どんな気持ちだったのだろうか。考えるだけでも気持ちがおかしくなりそうだ。食料の点でも、地上との連絡が取れるまでの17日間は2日に1回のペースでツナ2口、クッキー半分、牛乳コップ半分で凌いだという。700mの垂直坑道が掘られ、更に2本目の坑道が、斜めに掘られるといった、次々に考え出された救出方法は、順調に進み、当初のクリスマスまでには救助するといった予測を大きく縮めての生還となった。待避場所がどれくらいの広さであったのか、どんな生活をしていたのか、色々あっただろうが、この救出作戦は鉱山の守護神「サンロレンソ」の名前が付けられた。生存確認までは、地上では絶望視する見方もあっただろうが、生存と分かると矢継ぎ早の対応策と、地下と地上とのコミュニケーションを密にし、励まし続けたという。やがて、食事も潤沢に供給され、作業員らは地下に照明を設置し、地上に戻った時でも日光に慣れるよう準備をしているほか、救出作業がスムーズにいくように毎日運動を行っていた。鉱山作業員であるから閉所恐怖症の人は居なかったのだろうが、2カ月余に及ぶ地下での生活は、精神に異常を来すこともあるだろう。地上と連絡が取れると云いながら、一度落盤を経験して、自ら閉じこめられている身では、何時また落盤が起こらないとも限らず、圧迫された日々であったろう。娯楽も考えられ、小型プロジェクターでサッカーの試合観戦やトランプ遊び、新聞を読むことも出来るまでに配慮されていたようだ。この救出劇のヒーローは帰還した全員であるが、中でも、リーダーシップを発揮して、統率した54歳のルイス・ウルスアさんが挙げられる。食料配分、役割分担、寝る場所や、食事の場所等を決めたり、全員に役割分担を与え、また起こるかも知れない落盤に備えたのだ。「絶対に希望を失うな」と仲間全員を励まし続け救出されるのも最後になることを希望するなど、これぞ英雄の名に値する人物である。そしてもう一人、「本物の英雄」と称賛される人が居る。12日深夜に地下に向かうカプセル「フェニックス」に果敢に乗り込み、救出劇の一部始終を支えた救助隊員マヌエル・ゴンサレスさんである。 作業員の補助や健康管理に当たるため、最初に坑道に入り、約17分掛けて33人が待避する坑道に到着、地下で黙々とサポートを続けたのだ。救助専門家ではあるが、全員が救出される最後の最後まで、見届け、坑道が完全に無人となったことを見届けて、最後のカプセルで14日未明に地上に帰還し、ほぼ1日に及んだ作戦が終了。この救出劇を、政治に利用しようと言った憶測も囁かれたようだが、ピニェラ大統領も帰還した人達をねぎらい、33人全員生還を喜びで迎えた姿を見ると、スタンドプレーを揶揄する前に、素直に喜びたいと感じた。 救出穴の掘削やカプセル導入また、最新の掘削機を取り寄せるなど、多大な費用を投入し、当初、「クリスマス頃」と予想された救出作業を1か月以上早めた意味での功績者である。その為、9月初めの大統領の支持率は56%にのぼり、救出作戦が始まる前より10ポイント上昇したようだ。 チリでは2月27日には、事故というより天変地異である、マグニチュード8.8の強い地震がコンセプシオン近傍で起き800名を超える生命が奪われたばかりである。そのため、前大統領は国家の激甚災害を宣言していたばかりであり、チリとしては御難続きとなっていた。 落盤が起き、脱出用の坑道が塞がれて粉塵が巻き上がった時には、全員がパニックになっていただろう。避難場所の気温は、32℃から36℃だという、もちろんクーラーがあるわけでなく、疲れに暑さが加わり、とても耐えられる環境ではない。そんな時、年長で、リーダーだった男が、実に冷静沈着に皆に希望を持ち続けさせ、自分は神に祈りながら、必ず来ると信じた救援者を待ったというのだ。当初パニックになり、喧嘩も起こりかけたが、皆、リーダーに従って冷静に行動したと言うから、やはり33人全てが英雄なのだ。作業人で、32人目にカプセルに乗った29歳のアリエル・ティコナさんは、妻エリサベスさんに、遭難中に子供が生まれ、名前を「エスペランサ(希望)」にしたというおめでたい話もある。「奇跡の生還」の第1号作業員は31歳のフロレンシオ・アバロスさんで、5人目の救出は最年少19歳のジミー・サンチェスさんだ。こうして、最後のルイス・ウルスアさんを救出し終わるのに、ほぼ1昼夜かかったという。いろいろなことが同時に起こった、出産もそうだが、隠していた愛人が発覚したと言うこともあった。50歳のヨニ・バリオスさんに愛人が居ると云うことが発覚したのである。妻はどっちにするのかと、地中の夫に圧力を掛けていた。この浮気坑夫が地上に生還したら、一体どちらと最初にハグするのかというアンケートまで採られる始末。このアンケートの結果は、妻とが68%、愛人とが32%ということだったが、生還したヨニ・バリオスさんは救助後、愛人と熱烈ハグしたのだという。正に分からぬものだが、これ以降も、作業員の幾人かに愛人騒ぎが巻き起こっているという。お国柄というべきであろうか。結婚28年目で発覚した夫の浮気は夫人が、夫を気遣い救出現場に駆けつけたら鉢合わせしたのだというのは、このシリアスな、事故とはそぐわない結果であるが、之もまた現実である。今後のトラブルがどうなるのかと言ったところである。奇跡の生還は成されたが、之で終了とは行かない作業員達の将来は如何にといったところである。
2010.10.14
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レンタル映画の続きである。製作年度は2004年と古く、レンタル屋でも長期貸し出しは可能で、しかも料金は安い。内容はもちろんルワンダの内戦(ルワンダ紛争)の1局面を捕らえたものである。ルワンダは、日本の面積の10%にも満たず、アフリカの中でも豆粒のような小さな国である。この国には増えたとはいえ、わずか1000万人ほどしか人口はない。そんな小国で、何故このような虐殺が起こったのかそのことを捕らえた映画を見つけたので、借りることにした。この映画は、ルワンダで内紛による大量虐殺の危機から人々を救った、実在のホテルマンの勇気と良心を描いたドラマであり、私の感覚からすると、実情をぐっと押さえた作品だと思う。惨禍の中、1268人もの命を守り抜く男の勇姿を描いている。この映画が日本で公開されたのは若者によるインターネットでの署名運動が奏功したのだという。儲からなければ興業に掛けない、実に浅ましい日本人ではないか。日本公開を躊躇させた原因には問題があると思う。以前にカンボジアのポルポト政権によるジェノサイドの事を書いたが、世界中には、悲惨な、意味のない殺し合いが続いているというのが現状であり、愚かしくも日本人はその全てを知らされていないということになる。日本人がジェノサイドといえばすぐ、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺を想定するが、このような極端な例は別として、同様の虐殺行為は、至る所で起こっていると言っても良い。この間、映画で見た「カティンの森」もその一つである。日本ではあまり関心がないのか、他国のことと洗い流してしまうことが多いのか、とにかく話題に上ることが少ない。これを以っても、日本が平和呆けをしているといわれる所以であろう。そうではなく、国民に知らしめないでおこうとする意図が働いているとしたら、それは、全く中国と同じ事になってしまう。世界の3大悪人は誰かというサイトがあったが、人それぞれに意見は違うし、的外れのものも多い。ヒットラー・スターリン・毛沢東を挙げている人がいたが、私もその点に関しては同意見だ。その人はトルーマンを次点としていたが、私の場合はポルポトだと言うことになる。そう言った陰に隠れているわけではないが、このルワンダの内紛は、ミサイルや、大砲ではなく、銃はもちろんだが、蛮刀による斬り殺しも含まれると言うから凄まじい。この紛争の元々の原因についてはあまり触れられていない。映画は、1994年、アフリカのルワンダで部族間闘争が激しさを増す中、多数民族であるフツ族出身の大統領機爆破を機に、少数民族ツチ族の虐殺に発展という風に始まっている。異民族同士が、狭い国土で一緒に暮らすことは無理があり、それはいずれの日にか、紛争に発展すると言うことが前提での物語である。しかし何故それだけのことが原因で、ルワンダ全国民の5%から10%(当時人口からはもっと割合が多い)に当たる50万人から100万人が殺戮されたのかという問題である。倍半分の数字であり、正確な犠牲者数は明らかとなっていない。この物語は、ルワンダの首都キガリで、各国の要人らが集まる高級4つ星ホテル“ミル・コリン”のフツ族の副支配人ポール・ルセサバギナが1200人もの人々の命を救った実話を元にしている。アフリカのシンドラーという感じであるが、こちらは書類だけの問題ではなく、体を張っての救助である。元々ツチ族とフツ族は、互いに良好な関係で共存していた。それが、大統領暗殺を機に過去の遺恨が爆発したというのである。ポールは、ツチ族の妻ら家族をホテルに避難させようとした際に行きがかり上、親類・近所の人々もホテルに匿うことになると共に、どこから聞きつけたのか、続々と行き場のない人々が逃げ込んでくる。しかし頼みの綱である国連軍は、「国連最大の汚点」と呼ばれる如く、撤退を決定してしまう。派遣されたカナダ軍中将ロメオ・ダレールにさえも、着任前に、国連からルワンダでジェノサイドの可能性がある報告書が出ていたにもかかわらず、その報告書は彼に届けられなかったようだ。ダレールはPKOの増強や過激派の武器の押収を提案するが、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)には権限がないという理由で不許可となったとある。その結果が、要人の暗殺や民兵の武装化を静観せざるを得なくなる。何がPKOだという感じだ。何故、かつて仲良くやっていたフツ族とツチ族を引き裂いたのかについては深く言及されていない。ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ、第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であったが、フツ族とツチ族は元々は同じ言語を使い、農耕民族のフツと遊牧民族ツチでは徐々に貧富の差が生まれた。人口的には圧倒的に多いフツ族であったが、ツチ族は比較的豊かであり、そこに目を付けたベルギー人をはじめとする白人による植民地支配では、ハム仮説で知られる、「ツチは高貴(ハム系)であり、対するフツなどは野蛮であるという神話・人種概念」を流布し、人為的に境界を作ったと共に、少数派のツチ族をして植民地の代理統治を任せたのである。元々、ツチとフツには大きな差異はなく、驚くべき事に、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られたというから驚く。やがて、人口も爆発的に増加したことによって、土地不足や土壌の疲弊が起こり、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになったのである。やがて、1962年のルワンダ独立を前にしてツチ族とベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視し、社会革命としてフツ族による体制転覆を支援したのである。一方ツチ族は報復を恐れてウガンダなど近隣諸国に脱出したが、ツチ系難民によるルワンダ愛国戦線 (RPF) を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。もちろんこのRPFにはアメリカが肩入れをしている。こういった風にツチが起き、フツに変わり、またツチが支配するといった具合に国民そこのけの大国の論理がこの小国を翻弄したのである。このようにして、1990年ルワンダ内戦が勃発し、3年後の1993年RPFの猛攻と国際世論の高まりで和平合意に至ったが、翌1994年大統領を乗せた飛行機が何者かにより撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。ここからが映画の中味にはいるわけだが、こういった、大国の横暴が、現在でも各地で行われていることを考えると、何時になったら、真の平和というものが来るのかという感じである。やがて、1994年、RPFがツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、フツ族大統領に、ツチ族を副大統領(カガメ現大統領)として新政権が発足させ紛争は終結した。実質的なツチ族の勝利である。ここで、フランス政府が、背後で、虐殺側のフツの援助を組織的に行っていたことや、アメリカが当初からRPFを支持していたりと、ルワンダは大国の草刈り場となっていた。今年、フランスのサルコジ大統領がルワンダを訪問し、虐殺に関する責任の一端があることを認めている。この紛争では、ラジオ放送にょりツチへの敵愾心を煽る放送を常に流し付けていたことが、一般人までもが虐殺に荷担することにつながったことは、映画の中にもよく反映されている。映画での画面であるが、主人公ポール・ルセサバギナが食料を仕入れて、キャンプに帰る途中の路上で、多くの横たわる死体を見るが、之は、実写を使ったのではないかと思わせるような仕立てであった。やがて、ルセサバギナ一家やホテルの難民たちがルワンダ愛国戦線(RPF)の前線を越えて難民キャンプにたどり着き、そこからタンザニアへと出発するところで映画は終わるが、その後の彼らはどうなっているのか、心の痛む映画であった。
2010.10.13
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最近DVDに凝っているというか、レンタルしてきて観ることが多くなった。淀川長治ではないが、映画は面白い。面白いのはどの映画もそうだが、史実を少しでも織り込んでいる作品は特に面白いと思う。この映画はイタリアの歴史といっても、ごく近代的な時期を捕らえた話であり、内容は、貴族故の葛藤といえばいいのか、革命前夜の貴族の生活と、革命後の行方を暗示する内容であった。革命といえば、いずれの国も王制から共和制に移行したり、民主化の波が襲って来たりするわけだが、少なくともイタリアでは、フランスのような過激な革命ではなかったように描かれている。副王と言うから、王家に通じる地位を有する大貴族の家庭内の物語である。時は19世紀半ば、所はシチリアのカターニアである。貴族社会は、どの国もそうであるが、華やかなドレスに舞踏会といった、栄耀栄華を極めた華麗なものである。しかし、ここシチリアでも、徐々に忍び寄る革命の嵐の外には置いてくれない。スペイン王朝の後ろ盾で、栄華を極めたウセダ家を中心に、革命と言うより、その過程で起こる一族の確執、貴族であるが為の自由の欠落などに焦点を当てた作品である。隣国フランスでは、ナポレオンが第2帝政を敷いた頃であり、絶対権力を有するブルボン家の支配下にあって、オーストリアの浸食を受けていたイタリアは、サルディニア、トスカナ、ナポリなどの王国が、イタリア統一に動き始めていた。そんな中でもスペインの副王の流れを汲むウゼダ家のカターニアでの権力は絶対であった。ウゼダ家は、イタリア統一を模索するシチリアの都市カターニャにあった。その長男であり、当主を継ぐべきジャコモは、母親からは疎まれていた。一方、生前母に愛され、遺言で遺産の1/2を分け与えるとなっていた弟ライモンドを、イサベラとの不倫を端緒に難癖を付け、追放してしまう。このライモンドは、いとも容易くその処遇を受け入れるのは、いかにも納得しがたいところであるが、貴族の家長の権力は何処までも絶大だということであろう。権力と遺産を一手にしたジャコモは、絶対的強権を振るうようになり、妻の死も軽く扱い、即座に従妹を妻にしてしまう。息子のコンサルヴィはそんな父にますます反抗的になる。唯一の娘は、父に従順にならざるを得ず、父の友人貴族である次男ジョヴァーニーノに引かれるが、心ならずも父の命で、太って風采の上がらぬ長男のミケーレと結婚させられてしまう。また、ジャコモの友人でもあるベネディクト派の牧師達は「清貧」「従順」「貞潔」を掲げながらも、退廃し夜な夜な、牧師を相手の娼婦が、変装して、教会にはいるという時代であった。彼らは、黒い衣を着て、敬虔そうではあるが、まわりからは「キリストの豚」と称されていた。聖職者の荒廃がきわまったという風に描かれている。しかし一方では、清貧を心がけ、毎夜、敬虔に祈る牧師達一派もいたようである。そんな経過の中、ガリバルディの率いる赤シャツ隊が、シチリアの混乱に援助する形で、革命軍として入ってくる。ガリバルディが、シチリアを占領したのが1980年である。こうして、王政が倒れた時の生き方として、ジャコモは「王の治世には、ウゼダは王の友、貧民の世には貧民の友」と言って憚らず、貴族の権力迎合主義を実践して、生きながらえようと図るのである。コンサルヴィも自ら貴族の御曹司としての立場を捨てきれず、いかにも庶民の味方であると演説し、選挙の結果、議員当選を果たすのである。この辺りは、昔からというか、用の東西を問わず、政治家のしたたかさを感じさせるところである。コンサルヴィは最後まで父ジャコモに反発した。また父ジャコモは、近代的な医学を全く信用しておらず、自らの病気を、祈祷師によって病魔を追い払う悪魔払いという手段しか採らない。現代の我々から見れば、実に馬鹿げたことなのだが、当時はそう言った祈祷的なものが全てに勝ると言うことだったのであろう。貴族に生まれ、嫡男として、育ち、家長として家を継ぐ。日本の江戸時代もかくあったのだが、残念なるかな、現代の日本でも、こういった世襲制度は根強く残っている。そしてそう言った連中は、だいたいが、保守的で、進取の気取りに乏しい頑固者が役回りのようである。貴族が固執する最も大きな対象は、土地、金、財産であろうが、それを守って生きてきたジャコモであったが、息子のコンサルヴィはずばり権力といった。土地、金、財産が権力を呼ぶのか、権力が土地、金、財産を引き寄せるのかは、現代でもその結果を見ることが出来る。イタリアというと、舞台は同じでも、紀元前のローマ帝国時代から営々と続く国家である。しかしその本質は全く違っている。5世紀の終わりに、ゲルマン民族の侵入などで西ローマ帝国が滅亡し、さらにはイスラム国家の台頭などで、翻弄され続けたイタリアであるが、イタリア自身も、ローマ帝国といわれるように、元々都市国家の林立という形であった。フランスにナポレオンが出現し、ハプスブルグ家やブルボン家という一族が全ヨーロッパを分割支配するようになった。こういった支配階級は、各国に、同族を送り込んで、その勢力を広めていったわけである。ナポレオンによる南進で、一旦は、征服されるが、19世紀にはいると、イタリア人自身による「リソルジメント」と呼ばれるイタリア統一国家の形成と「復興」を目指す運動が起こり、ガリバルディらの指導の下にイタリアの統一と解放へと進んだ。この運動は、ナポリとピエモンテが運動の中心であり、シチリアは之に呼応した形となった。この、ウゼダ家もスペイン国王覇権のブルボン家の配下であったが、後にオーストリアのハプスブルグ家に支配され、その後再びブルボン家の下に帰るといった数奇な運命を辿っている。こういった中で生き残る術は、より良く世の中の情勢を見極めることにあるのだろう。ヨーロッパの人種は、こういう風に付いたり離れたりの繰り返しを十二分に経験しているため、外交上の戦術は、日本などに比べると遙かに老かいだと言わなければならない。貴族という種族は、先ず家のことを考えて一族の繁栄を願い地盤を確固たるものにするのが常道だが、このウゼダ家では、親、子、兄弟がそれぞればらばらなことを考えていている。親は持ち前の専制君主を通そうとし、息子はその生き様に反発して反抗する、娘は気の進まない、男と結婚を無理強いさせられる。金があっても、自由にならないのが、親子の愛であり、男女の愛である。しかし、この種の人間は、外から見れば、ごくごく安泰に且つ幸せに生きているように見えるわけである。イタリア統一の傍流だが、貴族が、貴族でなくなった時、生き延びて行くには、変化した世の中の情勢判断と、無用な諍いを止めて、変身することが重要だと言うことをこの映画は伝えている気がする。そうすれば、フランスのマリーアントワネットもあのような末路にならずに済んだのかも知れないと感じた。
2010.10.12
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日経新聞に以前から掲載されている定番コラムである。取り上げる人は、芸術家、文芸家、美術館長、大学教授、作家等々であり、そこには理工系の人はいない。変わりにサイエンス欄があるから辻褄が合うのだろうが、サイエンスは非常に特化していて、誰でもがそれなりの解釈が出来るものではないのに比べ、十選で取り上げられる対象は、読むだけで楽しいという性格のものだというところが連載が続く意味であろう。私が「十選」に気づいたのは1985年の「私の名僧十選」が最初であったろうと記憶する。この事は以前にも取り上げてかと思うのだが、書いた次の日から忘れるようになってしまったので、良く覚えていない。大きな写真スペースとほぼ同じくらいのスペースに取り上げた人のコメントなりが書かれている。昔の写真は、全てモノクロであったが、最近では、カラーで掲載されるようになり、美術などについては、より興味を惹くようになった。選者の趣味に委ねた10の作品なりについてコメントがされているのだが、1つ1つの脈絡はない。従って、自分にとって、第1日目に取り上げられた対象が興味深いことがあっても以降はそれほどでもないといったものがあるのはやむを得ない。世に、三大とか十大とか、百選とか区切りがあるように、ここでは10の作品なり対象についてコメントをしているわけである。これらをランダムに取り上げてみる。「少年のいる情景」でオディロン・ルドンの「子供の顔をした花」があり、荒涼とした野原で細い茎の先端に大きな子供の無表情な顔の花が咲いているという情景がある。物理的に不可解な感じだが安定感を保っているという鑑賞をする人や、別の評では、幼少期のルドンが孤独の中で過ごしてきた状況を表現したものだとか、観る人によって感じ方が違う。私などは、見た瞬間に物理的安定よりも、子供の顔が風船のようにも見え、中にヘリウムガスが充満しているのかと感じたものだ。「楽しき妖怪たち」では「一つ目の妖怪」というのがあった。額の真ん中に目が一つだけある坊主頭の子供の妖怪「一つ目小僧」とは違う、大人の一つ目妖怪なのだ。明治の画家、川鍋暁齋が描いたとされる。別に「一つ目入道」というのもあるから、妖怪の世界も複雑である。異形ではあるが、どことなく愛嬌があるとして取り上げられているが、化け物といえば、聞こえが悪いが、人の弱さを表したものであると言えるかも知れない。「一つ目入道」はまた、天台座主の良源の生まれ変わりともされており、厳しい戒律で僧たちを律した良源が、死後、僧たちの世俗化していく様子を嘆き、この妖怪となって僧を戒めると信じられたという。この辺り、現代の僧侶屋にも目を光らせて欲しいものだ。「創作版画のパイオニア」では、棟方志功の「湧然する女者達々」がある。棟方は少年時代にゴッホの絵画に感動し、自ら「ゴッホになる」と芸術家を目指したという。私もゴッホは好きだが、触発されて、自らもなろうなどといった感性は残念ながら持ち合わせていない。ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に出品した「湧然する女者達々」で、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞した、その作品である。様々な形と表情の女達は、もう既にゴッホといえるものである。ゴッホの燃えるような絵の具を、単純なモノクロにしバレンで仕上げたところが日本らしいといえるのかも知れない。創作といえば、これほど自分の中で、咀嚼して造り上げる芸術家は稀であろう。静かなる構図ではコローの「ローマのサン・バルトロメオ島と橋」があり樹木の全くない無機質な絵画であり、それがコローの作品であると言うところに妙な違和感を感じる。緊密な構図で描かれたこの作品は、例えば私が風景を描こうとするとこのようになるのではないかという感じだ。フランスからローマにやってきたコローに影響を与えた風景なのであろう。NHKの美術教室での紹介にはなかったコローの作品である。また、連れ合いと行ったイタリア旅行でも訪れた場所ではない。旅行記などでも、サン・バルトロメオ島教会 は真実の口に近い場所にあり、ロマネスク様式の鐘楼と、神殿の癒しの水をくみ上げたとされる大理石の井戸があるそうだ。英語読みでは、バーソロミューという方が馴染みがある。標題とかけ離れた印象を持ったのは「響き合う言葉と美」(アメリカ文学から)であった。この中には多くの有名な絵画が取り上げられていた。まず、エルグレコの「トレド風景」がある。通常は使わないであろう筆致と色彩のこの絵はモノクロではその凄さが伝わってこない。ギリシャ人のグレコにとって、第二の故郷であるスペインのトレドは、疎外感を受けた対象であるという見方である。セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」はあまりにも有名であるが、この作品も、アメリカ側から見ると、ヘミングウェイにも影響を与えたのだと言うことが分かる。ヘミングウェイが書く、自身の分身の傷ついた青年が、心を癒す旅に出た、旅先の風景がこのサント・ヴィクトワール山にはあるというのだ。因みにこの絵は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。マネの「オランピア」でも、アメリカの作家の主人公で画家のウィラ・ギャザーが、この絵をきっかけに大富豪の娘と結婚するのだが、その娘には、顔の反面が醜悪な傷跡があった。そのことを無視した振る舞いに、画家は着飾る妻の派手な髪飾りを見て、それが傷跡を一層醜くするのだと暴言を吐き結婚生活は破綻する。オランピアの一糸まとわぬ裸体に大きな髪飾りが、その内面の醜悪さを想起させたのかも知れない。ハンス・ホルバインの「大使たち」はフランスの使節と、友人の司教を描いているが、二人の間には間延びした、頭蓋骨が描かれている。権力の危うさと死がこの全盛とも言える時期にも同時に描かれているのだ。アメリカの作家、ヘンリー・ジェームスの題名「使者たち」はこのホルバインの作品から借用したものであるという。パリから戻らない息子の事情を探るため、青年や、青年の姉が派遣されるが、虚言や洗練された物腰、芳醇な文化の影響に惑わされて、遂に真実を知り得ないというのだ。華麗なるひとときも、虚飾と、最後には死が待っていると言うことであろうか。そんな目でこの絵画を見ていなかったので、改めて、作品を見直してみた。ムンクの「叫び」もここで取り上げられていた。ムンクといえば、「叫び」という具合に、連鎖反応的に出てくる作品である。ここで取り上げられた内容によると、ムンクは「叫び」を描く1年前に、次のような言葉を記しているという。「陽が沈み、突然、空が血のように赤くなった。・・・・友人達は歩き続けた。私は恐怖におののいて、そこに立ちすくんだ。そして、大きな果てしない叫びが自然をつんざくのを感じた」というのである。アメリカの作家もこの作品を見て、影響されてSF小説に活かしたという。その作家には、ムンクのこの「叫び」が、人の叫び声ではなく、遠く広大な宇宙からの悲鳴であると感じたようだ。モノクロでは見えないが、ノルウェーの海岸沿いであろうか、長い橋の向こうからは平然とした2人連れが歩いてくる。ただ一人、真っ赤に焼けた空が映る海面を背にして、耳をふさぐこの少女(?)の心の中は如何様であったのか、そしてこれを描いたムンクは、更に影響されたアメリカの画家は・・・、芸術は、知れば知るほど深遠なものを感じる。途中だが、また続きを何時の日にか書くことにする。
2010.10.11
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3日ほど前にこんな記事が載っていた。毎日新聞では、「在外公館、ワイン保管量が多すぎる 会計検査院指摘」となっていた。産経新聞では「さすが在外公館は優雅? ワイン「30年分」1万6770本貯蔵 検査院が改善要求」であり、他社もおおよそそのような内容であった。内容は、外務省の在外公館(大使館など)に接待用としてだか、自分たち用だか知らないが、ワインを1年の消費量の30倍もため込んでいると言うことが、このほど会計検査院の検査の結果明らかになったというのだ。開いた口がふさがらないと言うしかないが、沸々と怒りの気持ちが湧いてくる。経済協力開発機構(OECD)政府代表部などの在外公館で、年間消費量の7~29倍のワイン(しかも高級)など1万6770本を保有していたのだそうだ。之は、1大使館の問題ではなく日経新聞などによると10大使館で16物件にも亘ることが判明している。会計検査院の調査で分かったとあるが、今までこのような問題を放置していた会計検査院の存在価値も疑われる。私などが、通産省(当時)の大型プロジェクトで、工業技術院がらみの仕事をしていた時には、毎年、詳細な検査を受け、検査官が見やすいように書類に番号を振るなど便宜を図って、如何に税金をごまかしては居ないことを証明したものであった。こういった時の検査院は如何なる諸悪をも逃さないぞといった具合に、重箱の隅をほじくるように調べ、約2-3日は缶詰になることもあった。ところがどうだろう、今回の外務省の問題は、一つワインだけには留まらない。在外公館の保有不動産22億円分が長期間利用されずに放置されている事もわかっている。公邸などを建てる目的で取得したにもかかわらず、何ら手を付けないで放置していた物件なのである。分かっているだけで、その数16物件、主に中東や欧州、アジアなどの在外公館に多いという。これに対して検査院はこの16物件の早期処分求めるとしている。当たり前のことだが、実に不埒な輩である。この不動産の取得に費やした税金は、計約22億5千万円であり、各在外公館割りにすると、1億円少々と言うことになり、そんなちっぽけな問題をとやかく言うなと言うのが外務省の考えであろう。そう言った考えに腹が立つのである。一体何様だと思っているのか、といいたい。公務員上級試験に通ったら、どんなことをしても許される体質に何時からなってしまったのか、いや、何時になったらそのような役人天下を是正することが出来るのかと言うことだ。これに対して、外務省の回答は「国有財産である以上、安値で売却するわけにはいかないが、指摘を受け止めて対応したい」と、しれっとしているのだそうだ。いかにも人を小馬鹿にした対応ではないか。一体誰がこの責任を取るというのだ。役人の1人や2人の首を飛ばしても詮無いことである。親分は、接待ゴルフに明け暮れ、私利私欲に走っていたのだから、出先で、しかも殆どアウト・オブ・コントロールの海外では、したい放題、好き放題と言うところが実情ではないか。私もジンバブウェで大使館の人と交流したことがあったが、民間企業からすれば、それは下にも置かない扱いをしなければならないのが大使館である。大使館員は、大使をはじめ、おそらく2-3年長くて5年以上務めることはないだろう。必ずローテーションがされるわけで、その意味では国内も同じであるが、今のこの事態が誰の責任に帰するかと言うことを明確に出来ないというか、しないようなシステムになっているわけである。ワイン好きの人なら、垂涎の超高級ワインであるが、おそらくワインセラーに貯蔵されていたら、そう易々と劣化が起こるわけはないと専門家も言っているが、ニューヨーク総領事館では約200万円で購入したワイン198本を品質が劣化したとして廃棄したのだという。オーストラリアやドイツ大使館など3公館でも酒類計846本が捨てられていたそうで、この言い訳として、検査院には「異常気象が続いた」「大規模な停電があった」などと説明したというのだ。このまま言いなりに信用して良いものだろうか。捨てたのは、自分たちの腹の中かも知れないのだ。かつて日本の在外公館については、検査院は8年前の(8年は実に長すぎるが)2002年にも取得した不動産が活用されていないとして無駄を指摘していたというのだ。今回は改めて、海外にある211公館のうち国有財産を管理する127公館を対象に調査したそうだが、残りはどうなっているのかということも気になり、当然調査対象としていただきたい。対民間なら、きつい是正とおそらくは刑事罰も視野に入っているのだろうが、同じ官僚同士と言うことになれば、こうも甘く、国民を愚弄するものかと呆れてしまう。ワインと不動産がごちゃ混ぜになっているが、事ほど左様に、外務省(に限らないと思うが)は密閉された陰湿さを感じるわけだ。何か事が有れば、外交上の問題で、逐一国民に知らせることが即国益に繋がらないと煙に巻いてしまうのである。では一体、北朝鮮の拉致問題や、中国、韓国との尖閣列島、ロシアとの北方領土問題はどうなっているのか、全く進展していないではないか。のんびりとワインを酌み交わしている場合ではないぞと言いたい。新聞で取り上げられた1例は、グアムにあるハガッニャ日本総領事館が、公邸用地として1979年に約5800m2の土地を購入したが、2009年度末までの30年間、利用されないまま放置されていたとか、サウジアラビアのジッダ(ジェッダ)日本総領事館は公邸に隣接する職員宿舎を老朽化で使わなくなった後、土地を10年近く保有していて、検査院見解は売却しても問題ないと指摘したとかとにかく桁違いにばかげているのである。私もジェッダにいた時は、日本大使館前を通ったことがあるが、直接のお世話になったこともないし、良くは分からないが、ただ、アメリカの領事館の警備の物々しさだけが目に付いたのを覚えている。 このほかでも、ドイツやタイの大使館などでは、公邸や事務所に使っていた土地・建物が必要なくなったとして売却を決めたにもかかわらず、地元の不動産仲介業者に処分の委託を怠り、合計13物件の売却が滞っていたというものだ。之などは、国民の税金をどう考えているのか、その遅滞した延滞利子は、大使館員が払うのかと問いたい。全く人の物は自分物、自分の物は当然自分の物だとの感覚なのであろうか。また、別の4公館ではワインなどの酒1000本余を廃棄していたことも判明。検査院は保有量が過大だとして、購入を控えるなど適正な本数に改めるよう改善を求めたとあるが、それほど下手に出なければいけない何かがあるのだろうか。ワイン研究家が言うには「高級ワインは室温16~18度の冷暗所に保管すれば簡単に腐るものではなく、地下の立派なワインセラーに保管しているので腐る等とは考えがたい。うがった見方をすると、帳簿上、ワインを買ったように見せかけて、お金を浮かせた、または職員が料理担当者とツーカーになり、カギを借りて仲間内で飲んでしまったのか。大使館員が日本に帰国する際に、お土産として高級ワインを何本も持たせるという話もある」 という話であるが、どうもこのワイン専門家の言う方が当たっている気がする。之は明らかに犯罪行為であり、このまま放置することはとうてい許されるわけではない。2-3年で交代する外交官が、何故30年も先のことを見越して、しかも高級ワインばかりを購入するのはどういう意味があるのか、しっかりとした答弁を聞きたいものだ。仕分けの矛先は、外務省を1番にしても良いくらいだと思った。
2010.10.10
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一昨日の歩こう会解散の後、阪急電車で一気に京都まで出て、烏丸で乗り換え、地下鉄で下って京都駅の「えき美術館」で開催されている「モーリス・ユトリロ展」を観に行った。「えき美術館」は京都駅の伊勢丹7階にある小さな美術展会場である。京都での展示が日本での最終とあって、観ておこうと言うことになったわけだ。作品は油彩を中心に約90点の展示であるから、美術展室内の壁面には、びっしりと作品が並べられていた。パリの町並みを描いた画家、一寸遠近のバランスや、構成のバランスがしっくり来ないとかが印象の画家である。連れ合いなどは、そう言ったところがどうも好きではないと言いながら作品を見始めた。しかし、作品を見ていくうちにというか、生い立ちなどの説明を読んでいくうちに、そう言った謎が解けていくような気がした。モンマルトルという言葉も我々2人を誘う言葉である。パリの美術館巡り旅行に出かけた時に、地下鉄12号線のアベス駅で降り、大したことはないと階段で上がって大汗をかいたことを思い出す。とにかく地上に出るまではかなりの高さを上った記憶がある。そこから、また坂道をどう歩いたのか、画家達が集うといった、モンマルトル広場まで出た。その時通り抜けた町並みを、ユトリロは好んで描いた画家でもあるというささやかな親近感があった。その道や家並みは決して大邸宅が並んでいるわけではなく、日本で言えば、安い集合住宅的な雰囲気だったことを思い出すのである。ここで、ユトリロは生まれたと言うのだ。しかも、母親は、恋多き女性で、ルノワールなど著名な画家のモデルにもなっていた美しい女性で自身も画家だったと言うことだ。ユトリロは、そんな母、シュザンヌ・ヴァトランの私生児として生まれたとある。そして、また其の母も私生児だったという境遇なのだ。母シュザンヌは生きるために、多くの画家のモデルになる一方で、多くの男性を相手にしたわけで、ユトリロの父親を特定することは出来ないという。母親は若かったこともあり、ユトリロに構うことなく、仕方なくユトリロは祖母に育てられるという境遇で育った。後に認知された義理の父親に会うこともなく、母親の育児放棄とも言える中、ユトリロは、10代でアルコール中毒症になったのだという。その治療のために、医師の勧めで絵を描き始めたのだという。たまたまユトリロ47歳、母ヴァトラン65歳の時の写真があったが、ユトリロの表情は精悍で、母はお世辞にも美人という感じではない。しかし、70歳になったユトリロがたばこを吹かす顔写真があるが、年齢以上に老け込んで、之が、有名画家の末路かと思えるほどのみすぼらしさを感じた。しかし、ユトリロは、生涯この母を慕い、心の恋人としての位置づけであったという。そう言った境遇の中、「モンマニーの時代」、「白の時代」「色彩の時代」と彼の作風は変わっていく。この辺りは、以前に勉強していた連れ合いから、要領よくブリーフィングを受けたわけで、私自身は、前にも述べたように、まともな感じの絵もあるが、ゆがんだ絵も同時に描くといった、街路と風景を描くのを好んだ画家程度の認識しかなかった。ユトリロの画家としての最初の時代である「モンマニーの時代」(21歳から25歳頃まで)は、モンマニーの風景、サン=ミシェル橋とパリのノートル=ダム教会近くのセーヌの河岸を描くことから始まったといわれる。ユトリロの作品上のサインには「Maurice Utrillo V.」と入っているが、最後のV.は母親ヴァトランの頭文字を取って記入していたと言うことだ。続く「白の時代」は彼が25歳から39歳頃までを言い、家並みや壁を描いた白く描いている。この時代がユトリロの作品では、充実した時期であるといわれ、白の材質感を出すために、絵の具に石膏や砂を混ぜて、さまざまな手法を試みたとされている。若い頃の作品には、絵の中に人影は描かれていないが、後の彼の作品には、人影が、数名描かれていることが多い。中でも後ろ向きの姿が多いようだ。そして、作品のほとんどは風景画で、それも、小路、教会、運河などの身近なパリ(特にモンマルトル)の風景を描いたものである。どの作品もありふれた街の風景であるが、その画面は不思議な詩情と静謐さが溢れているそして、壁など用いられた独特の白が特に印象的である。この頃は、アルコール依存症から少し立ち直っていた時であろう。作品の内容は、好みにもよるであろうが、「白の時代」のアルコールに溺れていた初期の作品の方が評価は高いようである。「色彩の時代」は彼が39歳頃から以降を指しているようだ。色彩の時代が最も長く、したがって作品の数も最も多い。文字通り色彩は明るくなり、華やかな感じすら受ける。ユトリロは特に鮮やかな色彩を使用し、光の範囲は拡がりを見せている。その分、描画材料の材質的効果や絵肌(マチエール)の味わいは少なくなったとされるが、その分、彼の描く都市風景には快活さが増したようである。連れ合いも之がよいという絵は、私もユトリロの代表作と勝手に思うほどの作品で、パンフレットに描かれている「カルボネルの家、トゥルネル河岸」で「白の時代」の作品である。街角の何気ない風景だが、パリの郊外にはこういった街角が至るところにあるようだ。町の交差点付近で話す女性達、なにやら寒そうな風景である。屋根には、パリ独特の煙突からの排気口も見える。私は「17区の通り」とか「サン=バッルテルミィ広場と教会」などといった比較的輪郭のはっきりした絵が好きである。ユトリロの絵画は、よく売れたようで、ユトリロが後に結婚した妻達によって、お金を生む機械として無理矢理どんどん描かされたのであろう絵は、ぞんざいで、投げやりなところが見受けられる。アルコール依存症になった生い立ちも理解でき、且つそれによって、すさんだ心を直そうと打ち込んだ絵画にたまたま活路を見いだしたというユトリロであるが、アルコールに耽溺した頃、それを克服した時期、そして晩年と、見る者には、歴然とその差が見えてくる。ユトリロの作品は一様ではない。ゴッホなども同じように、他の画家も大なり小なりそんな変遷があり、それがよく分かるのだが、そう言った背景に、生い立ちと、アルコール依存症といった要素が大きく影響を及ぼしている。芸術家がそうであるのか、そう言った人が芸術家たるのかということだが、ユトリロの場合は、後者のような気がする。あれ、この絵はなんだか変だ、遠近法もそれらしくないし平面的である。交差する線もなにやら歪んで気持ちが落ち着かないといった絵もある一方、定規できっちりと描いたような絵もある。設計をやっていた私などは、どうもデフォルメした作品には違和感を覚える。また、ユトリロの絵を見ていると、「あれ、何処かで見た感じだ」という作品が多い。パリを旅行した時に見た街角を思い出すというか、実際にそれを見ているかも知れないという事を感じさせる作品が多いからであろう。
2010.10.09
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私が帰阪してから早いもので、既に4年が経過した。私の可動範囲や、交友関係は、それ以前に比べて実に多様になった。それは、小学校から、大学までの間ずっと大阪にいたからで、当時の仲間達と会うことが多くなったと言うことである。引きこもりに近い状態から、これほどの多忙(遊びで多忙とはいささか口幅ったいが)になったのも、連れ合いのおかげである。今日は高校時代の友人夫妻とゴルフに興じた。高校時代はクラスも違い、あまり話した記憶はない。尤も私は、クラブ活動にうつつを抜かしていて、バスケットボール部員以外と話すことはあまりなかったからかもしれない。帰阪して、1年後くらいに、5-6人のミニ同窓会に参加した時が、再開の初めであった。何回かの会合の時に、夫婦で一度ゴルフをやろうかという話になって、本日のラウンドに結びついたのである。もう少し前にやろうという話だったが、例の酷暑の期間であったために繰り延べていたものだ。場所は、亀岡ゴルフクラブで、何時も連れ合いと行く一庫ゴルフと同じ方向である。似た名前で、亀岡カントリーというのがあり、そこと間違わないようにという案内が来た。10時前の遅いスタートを取ってくれていたので、朝はゆっくり出かけることができた。カーナビで、目的地をインプットすると、京都洛西まわりの道を案内してくれる。一庫ゴルフに慣れていて、頭はそちらまわりという事で決めていたので、ルート選択で選び直すと、なにやら山道を尽ききっていくことを勧める。それらを一切無視して、取り敢えず箕面トンネルを目指して進んだ。その間何度もカーナビは、右に曲がれと指示してくる。ともかく、スタートの1時間前にはゴルフ場に到着した。友人夫妻も既に着いていて、駐車場も車で一杯であった。ご婦人とは初対面であったので挨拶を済ませて、談笑したり、パターの練習をしたりなどをした。友人は、名古屋在勤が長く、製薬会社の役員までした人なので、風格と落ち着きがある。高校時代はついぞ感じなかったので、半世紀の変化は大きいと感じた。友人の夫人は、1年前頃からゴルフを始められたらしい。友人の薦めで、教室に通っておられるという。聞けば我々よりも8つぐらい若いとのことだから、まだまだ上達を十分に期待できると言うところだ。連れ合いは、スキーの名手ながらゴルフは還暦を過ぎて始めたわけで、そのわりには、まともにラウンド出来る迄になり、ゴルフを楽しんでいる。夫人の話では、一般的な夫は習い始めの夫人とゴルフをするのを避けたがるものだが、ご婦人に教室行きを勧め、共にゴルフのラウンドを厭わないばかりか、楽しんでいると言うことで、喜んでおられるようである。友人自身は、名古屋時代、アメリカ駐在時代には、随分とゴルフ三昧だった時期もあったようだが、腰を痛めたとかで、中断していたとのことだ。最近また腰をかばいながらのゴルフ再開で、ご夫人とも2人で回るようになったとのことだ。インからのスタートで、左は、人工ネットで遮っているような狭い打ち出しだが、右は受けていて、右狙いである。オナーを引いた友人のティーショットを見て驚いた。何処が腰が痛いのかというほど実にスマートなスウィングで、私が過去に回った中でも5指に入るような綺麗なフォームでしかも飛距離が私より格段に飛ぶわけだ。尤も私の飛距離は、並以下であるが、それにしても、以降のどのホールもドライバーで彼をオーバードライブしたことはなかった。そして出だし10番でいきなりバーディースタートだ。それはないだろうと、一瞬ひるんでしまった。私の場合は、2打目を隣のコースに打ち込み1ペナで、しかもバンカートラップと、上がりはトリプルボギーだったからなお萎縮してしまった。11番は共に3パットのダボ。12番から15番までは何故か友人は3パット2回、4パット2回と急にブレーキが掛かり、その間に私は、ボギー、パー、パー、ボギーと挽回した。しかしショートを除くどのホールもドライバーの飛距離は、届かない。16番ロングでは、いつものように100ヤードを残して、トップし、グリーンを遙かに超えて、ブッシュの下に潜り込み、返しも乗らず、3パットでトリプル。彼は、パーで上がっていて、蓄えは1つのアヘッドとなった。17番、18番は共にボギーであったため、前半終了して、47-48と1打、良く終わった。タラレバではないが、私の出だしと、16番のトリプルは、何時も良くあることなのだが、友人の3パット4パットは、どうもおかしいということからすると、まともならば、水をあけられているところだ。その話をすると「何時もだいたいこんなものだよ」といなすのだが、パットの多さには少々不満げであった。昼食の40分はすぐに過ぎる。後半はアウトのスタートで、前半のスタートとは逆に、私が、グリーン外からのランニングアプローチのチップインでパーに対し、友人は、トリプルスタートであった。その後、2番は1打良く、3番のショートはパーで同じだったが、彼は、ピン近50cmに付けたバーディーチャンスを逃した惜しいホールだった。4番のロングホールでは、友人は鋭い当たりで、左側フェンスに向かったが受けているスロープを降りてこない。OBというか、ロストボールである。私は、普通にティーショットできたが、3打目のオン狙いで、チョロをしてしまい、更にバンカーと3パットで、トリプル。彼と並んでしまった。それ以降は、友人は最終ホールを除き全てパーに対し、私は1~3打ずつ多めに叩いてしまった。最終ロングで友人がダボの間にやっとボギーで終了したが、上がってみると前半後半の合計で1打負けてしまった。「何時もこんなもんだよ」と相変わらず淡々としている。ご婦人は、練習教室に通っていると言うだけあって、なかなかスマートなショットだし、良いボールが出る。しかし毎回友人が、一言コーチをしているなかなか良い感じである。私も、連れ合いにいろいろ声を発するのだが、時には、混乱して調子を崩させてしまうこともあった。私は、元々コンペだとか、握るだとかということには向いていないし、緊張しやすいのだが、今日は友人夫妻だということもあって、気持ちは楽ではあるが、初めての手合わせでもあったために、適度の緊張感があり、楽しいゴルフであった。又やりましょうと、約束して、別れた。帰りは、山道を通る道を選んだのだが、適当にくねくねしているものの、通い慣れた高槻カントリーに続く道を通って帰ると、心持ち近い気分とトンネルの有料代を払わなくて済み、最初からこの道を選ぶべきだと話ながらの帰宅だった。高槻について、私は夕刻から3ヶ月に1度、梅田で開かれているはずの大学の同期生の集まりに出かけた。ひょっとして誰も来ていない場合もあるとか言っていたので、どうかと思ったが、5人が談笑中で、溶け込んで、話し込み9時までの長時間を過ごして、帰路についた。(この自由ミーティングについては後々書くこともあるだろう)
2010.10.08
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この夏はことのほか暑かったので、前回の歩こう会の7月8日から以降の2ヶ月間は、中止となっていた。従って、3ヶ月ぶりの再開となったわけだが、通常日をずらしたために、他の予定と重なった人が多く、女性の参加者は少なかった。それでも全員で17名だから、まずまずという人数だった。何時も参加の先輩は今日はお休みらしい。主催の先輩も、京都、大阪、神戸と割り振りを考えないといけないので目的地選択に苦労されているようだ。今日は、神戸方面で、神戸総合運動公園に行くことになった。私は始めていく場所であり、楽しみである。連れ合いは、太郎君が高校時代にやり投げの競技で出場するのを応援に来たことがあると言うが、もう何年も前のことである。今上天皇と皇后が、未だ皇太子と皇太子妃時代のことだが、物々しい警備の中観戦に来ていたという事だった。集合場所は、神戸三宮地下鉄改札口となっていた。阪急と、JRを比べると、阪急450円に比べ、JRは890円と嘘のような値段の違いだ。当然阪急を選択し、上牧から三宮まで1時間足らずの予定だが、十三で乗り換えるのを嫌がる連れ合いのために少し早めに出かけることにした。三宮に着くと、地下鉄は2本有るという。とにかく運動公園方面の改札というと、親切に教えてくれた。最近は、女性の車掌が多くなったり、改札員も女性が多くなったりしたせいか、親切に感じる。昼の弁当を買おうと弁当屋を探したが、近くには見つからず、逆にパン屋が多くあったので、パンを昼食にすることにした。集合時間より早めに改札前に行くと、既に幹事の先輩夫妻は到着していた。そこは東口とあるので、ひょっとしたら西口に待つ人が居るかも知れないと見に行かれたのだが、案の定、間違って、西口で待つ人が居たようだ。何人かは、須磨辺りに居住している人が居て、その人達は、名谷で待つと言うことだった。最初の予定では、運動公園まで乗って、ほんの近い距離を歩く計画だったようだが、それでは歩こう会の名が廃ると言うことで、一駅手前の名谷で降りて歩くことになった。気候が良くなったと言っても未だ暑い。しかし皆さんは長袖にトレッキング用のベストを着ている。中には、上着まで着ている人が居たが、歩き出してすぐ上着は脱いだようだ。歩きながら聞いてみると、最近は、引きこもりで出歩くこともなく、今何を着て出ればいいのか分からないと言うことで、窓の外を見て、道行く人の服装から決めたのだそうだ。きっとその人は、オフィス勤めの人ではないかと思うが、自分は歩くのだから、すぐに暑くなるとは考えなかったそうだ。私などは、特に汗かきなので、一人半袖で出かけたが、それでも上り坂で汗を拭き拭きふうふう言いながら歩いた。結構だらだら坂を登る感じで、最近増加した体重のため、いつもより苦しかった。それでも遅れることもなく、神戸総合運動公園に着いた。目的地は、公園奥の「コスモスの丘」だ。とても立派な運動公園を横目に見ながら、また少し坂を上がる。ちょうど障害者の人が、競技用車いすで周回練習をしているところだった。メインスタンドの左側には電光掲示板があり、今日は消えていたが、高校の大会では太郎君の名前が掲示板に点灯したのだという。坂を登り切ると、ハーブティーの無料サービスが待っていた。赤い方が、美肌用、黄色い方が、スタミナ用と銘打っていた。結局その両方を頂いたが、空っ腹に飲んだせいか、妙に利いたようで、頭がくらくらする感じだった。コスモスの丘に降りていく遠景には、明石大橋の主塔が正面に見えた。しかし、期待していたコスモスは、満開とは行かず、ちらほら咲きであった。今年の夏の暑さの影響がいろいろなところに表れている。コスモスの丘の一角を借りて、弁当を採った。人に怖じない鳩が餌をついばみに近くまで首を前後に振る独特の歩き方で寄ってきた。また、須磨に住むというご主人が、そこで合流した。理由は、午前中は、近所の歩く会に参加しなければいけなかったからだという。歩く会の梯子も珍しいが、元気なものである。昼食を食べ終わり、揃って記念写真を撮ったのは良いが、背景のコスモスは、殆ど写らないといった具合であった。素人のおばさんにシャッターを押して貰ったのだが、明るいところを選んだつもりが、後列の人の顔は木の葉の陰で、よく見えないというおまけまで付いた。一休みの後、今度は、運動公園を1周する形で回り込んだ。途中県道の上を陸橋で越え、桜の時期にはとても綺麗だと説明してくれる中、オリックスの本拠地である、スカイマーク・スタジアムの前まで出た。そこで後から参加した男性が、この辺の土地の成り立ちを解説してくれた。それによると、この運動公園の近くには、垂水JCTがあり、この辺りは、物流の拠点となっているとのことだ、現在88社が集合しているとの説明だ。更に、その通勤客だけを相手にしていては、地下鉄線も成り立たないので、運動公園駅の次の駅辺りに大学を5校誘致しているのだという。全部の名前は覚えていないが、その中には、神戸市立の外大も有るのだという。連れ合いが、運動公園に来た時には、未だ物流拠点もまばらなようで、20年も前のことだからと、全く様変わりしている風景を感慨深そうに眺めていた。そこからは、元来た道をまた名谷まで戻るのだが、ここ(総合学園都市駅)から電車に乗る人はどうぞといっても誰も乗る人は居なく、みんな名谷に向かった。来た時は上り坂だったが帰りは下りで、楽に歩けた。名谷について、2-3人の人はすぐ帰路についたが、他の人は、喫茶店に入り、喫茶店のテーブルを寄せ集めておしゃべりを楽しんだ。私と連れ合いだけが理工系で、他の人は経済と法学部出身の人達ばかりである。リーマンショックに始まって、尖閣列島のことや、最後は英語教育の問題になり、小さな時から英語に親しんでいないと、駄目だという結論になった。最後には、海外旅行の話になり、それまでじっと黙っていた人が、実はモロッコに出かけるのだと言うことだった。我々はつい最近アラブ文学で、モロッコの話を聞いたばかりなので、なんだか懐かしい気分だった。一度ジブラルタル海峡を見てみたいし、それがスペインからでも良いし、モロッコ側からでも良いわけだ。イスラム教とキリスト教の接点という意味でも関心のあるところだが、その人は、ジブラルタルには行かないツアーらしい。もう一人はトルコに行くとかだが、我々は残念ながら時間が取れず、今年は我慢の年である。最後には、この歩こう会で何処か外国に行こうという話になり、最終的に台湾へという意見で纏まったようであるが、それが実現するかどうかは分からない。あれこれ話して、本格解散の後、我々は京都に向かい、ユトリロ展を見ることにした。その話は、後日書いてみたい。
2010.10.07
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今年の夏は暑かった。秋が来るのかと思うほど暑かったので、どうなることかと思ったほどである。連れ合いは、奉職する中学校の運動会があり、また、孫の運動会があるということで、何時も通り朝出かけていった。今日は、俗に「天高く馬肥ゆる秋」という真っ青な空が一面に広がる秋晴れの絶好の運動会日和である。朝、昨日不在時の宅配便の再配達を依頼していたのを待って、それから連れ合いの孫の運動会に「ちょっこし」顔を出してみた。子供の頃の運動会の記憶といえば、小学校(私は幼稚園を忌避したとかで行っていない)の100m競争と100m障害物競走(あるいは50mだったかも知れないが)共に3等賞だったのを思い出す程度である。小学校の頃は、生まれた呉市を離れ、既に茨田町(現鶴見区)に転居していたわけで、親が運動会を見に来た記憶もないし、もちろん、祖父や祖母の顔さえ知らないわけである。末っ子であったから、父母がちょうど、今の私より少し若いかといった年格好であったわけだ。小さな校庭に石灰で、1周100mくらいの之も小さな楕円を書いた中で、かけっこやら、玉入れをしたことを思い出す。そんな私の記憶と比較すると、時代も半世紀以上違うわけだが、現在の幼稚園の運動会とうやらは、やたらと派手である。幼稚園自体の運動場は狭いので、町営の運動公園の一部を借り切っての会場だが、何とも立派なものであった。統制の取れた進行は、全て幼稚園の先生方のご苦労であろう。親や、おじいちゃんおばあちゃんの姿も多く見かけ、その殆ど誰もが、カメラや、ビデオを片手に我が子、我が孫を追っているのである。取り敢えず、連れ合いの孫はと探すのだが、見つからない。先に太郎君やお嫁さんの顔が目に付き、会って、教えて貰ってやっと分かる程度である。それというのも昔は考えられなかったほどに服装が統一されているのである。ユニフォームという代物だ。さらに、頭には、単なる帽子ではなく、首に直射日光が当たらないように大きな後ろつばの付いた帽子である。全員がその姿であり、且つ年中組では、目立って身長の差がないから、真正面で見ない限り、見分けがつかない。ちょうど、玉入れに向かうところだったので、出場門のところで一寸だけ顔を見た。こちらは、日差しがきつかったのでサングラスを付けたままであり、連れ合いの孫は分からなかったかも知れないが、急いだあまり、うかつにも帽子を被るのを忘れていたので、スキンヘッドの頭から認識してくれたのではと思っている。2組に分かれて玉入れをするのだが、玉入れの籠を取り巻いて座る青い帽子の園児達の中で、連れ合いの孫を見いだすことはついに出来なかった。しかし、赤い玉を入れる孫が属する魚さんチームが、2回の玉入れに勝った。統制の取れた玉入れだが、中に熱心に参加してなく、外をぐるぐる回りながらこぼれた玉を真ん中に投げ入れる子もちらほら居た。後で、お父さんに聞いて分かったのだが、唯一個性が出ているのは靴下なのだそうで、赤に黒い靴下をはいているのが我が子ですと言われ、それを目当てに探しても、しゃがみ込んでいれば見えないし、なかなか判別が難しかった。そうこうするうちに年長組のリレーが始まった。ほぼ全員が参加するのであろう、5-6組に分かれて、バトンもタッチしての本格的なリレーである。最近は、モンスターピアレントとやらの出現で勝ち負けを決めないのが主流だと聞いていたが、はっきり競争の場面であった。運動会の花形は、玉入れでも騎馬戦でも、棒倒しでもなく、やはりリレーだと思っていたし、運動能力のある子がもてはやされるのは当然と思っていただけに、やや安堵したが、個人のセレクトメンバーによる競争は、見えなかった。幼稚園だからそうなのだろうか。全員参加のリレーのアンカーがゴールのテープを切る場面も、先生方はテープを上に差し上げて、その下を駆け抜けるというやり方であった。連れ合いは、中学校の運動会にも顔を出さないといけないとかで、私も同時にそこを引き上げた。中学校のリレーはどうなのかと少し気にはなったが、私は、そのまま見ずに帰った。小さな頃から、競争意識をもり立てるのが良いのか、運動能力の有る子も無い子も、皆一緒に楽しめるお祭りが良いのか、私には分からないが、どうも作られた運動会を作られたままのレールに乗って動くのが必ずしも良いとは思えない。特に両親や、祖母は我が子が走ったり、動いたりしているのだけが関心事で、カメラやビデオは全体を向かず、我が子だけを追っているのである。自分もそうするだろかなと思うと、おかしくなるが、全体の中のバランスと言うことは論外で、我が子が如何にあるかだけが関心事であるといって良い。中学時代だったかでは、リレーには、地域対抗というのがあって、地区別の大人の参加者も混じって競争するというプログラムがあり、地域結束の力になっていたようなことを思い出した。最近は「個」を大事にするという原点であるから、「個」ばかりが前面に出る。これをかろうじて進行を務める先生方が「団」にまとめているのである。日経の「私の履歴書」などを読んでいても、幼稚園児の頃はどうだったということはあまり書いていない。私などは幼稚園に通ったことがないので、余りよく分からないが、こういった小さな時に情操教育が成され、大人になった時の基盤になっていくのであろう。しかし、日頃から箱の中に閉じこめられ、決められたスケデュールのまま、淡々とこなす運動会が、後の思い出に繋がっていくのだろうか。島本町にはまだ畑や田んぼが残っている。しかし、ここに入って遊ぶことなど許されていない。昔は、お百姓さんの目を盗んでは、刈り取った稲の藁クッションで遊んだこともあるが、そんな場所には既に建物が所狭し、と建っている。勢い閉じこめられた箱庭でのお遊びになるのであり、道路に出ては、交通事故、1人で歩いては誘拐か、殺人などの世の中だから、こうなることも仕方のないことではあるが、一体こんな国にしたのは誰なのだろうか。幼稚園児達は、今、人生のスタート地点にいるわけで、人生はたった1度しかない。そして、私の人生も1度しかなかったわけで、之がベストだと言うことは出来ないし、多くを経験していないから、どういった方向が正しいのか知る由もない。帰宅してしばらくすると、日本人2人がノーベル化学賞を受賞したとのニュースが入った。日本人受賞は喜ばしいことであり、民族の誇りであるという気がするが、このお二方も、早くから頭脳流出組に数えても良いほどの方々である。末は博士か大臣か、といった時代も遠くなってきたようであるが、未だノーベル賞は(平和賞を除く)権威のある賞であることには違いない。さて、今日の幼稚園の園児達の将来はどうなるのだろうかと考えてしまった。
2010.10.06
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連れ合いと2人だけでゴルフをした。2人だけで、もう8回くらい回っただろうか、最初に比べて随分上達しているといってよい。他の人を交えてではもう40回近くになる。還暦を過ぎ、2年前くらいからコースに出始めたので若い時から始めたようには行かないけれど、コースを歩くことが楽しいと言うことで、今も続いている。私の場合は、下手の横好きで、始めた時は早かったが、今以て上達はしていない。2日後に高校時代の同期生夫妻とラウンドが決まっているし、その後、先輩とのラウンド、身内とのゴルフ、さらには来月の旧会社の同僚とのゴルフとたて続けに計画されているので、練習がてら、回っておかなければと言うのもあった。2人でゴルフをするのは、淡路島で2回ラウンドした以外は、一庫ゴルフと相場が決まっていたが、今回は連れ合いのインターネットでの安い権利を活かして、加茂カントリーに行くことになった。加茂カントリーは私も初めてのコースである。西コースは山岳コースで起伏は多いが、距離は短いようだ。バックティーでも6140ヤードと有るから、そこで打とうかと思ったが、前も後ろもぎっしりで、ゲームの遅滞にも繋がりかねないと諦めて5770ヤードのフロントティーから打つことにした。何しろ着くなり、駐車場の車の数(エントリー者)が多いのに先ず驚いた。ここは東コースもあるのだが、そちらもどうやら一杯のようだし、カートは数珠つなぎである。まぁ、こちらは相当な割引で来ているのだからあまり文句は言えないと言うところだ。スタート時間は、初めてだから一番遅い組にして貰ったが、1ラウンド半の人や、なにやら他の組も回るとかで、相変わらず後ろから追われる形である。前の若い男女ペアの4人組はどうやら女性陣の方が巧そうである。その前は、我々よりも年配の夫妻が2ボールで回っている。後ろは、1ラウンド半回るというベテランらしい3人組で、この人達はバックティーから打っている。まあ、巧拙入り乱れてのゴルフだが、最近は、どのゴルフ場も手を変え品を変えて、集客に知恵を絞っている。昔のように1部の特権階級のスポーツでなくなったことは確かなようである。ゴルフ場に行くまでを無視すると、今回のように昼食込みで1人6500円なのだから、昼食を、まあ、1000円程度としても、5500円で約5時間程度の間広い空間を一時占有できると言うことである。最近はカートに乗って移動することにしているが、巧く飛ばなかったり、ボールの位置が、カート道から離れていたりすると、歩く距離は自然と多くなる。1ラウンドで14000歩から16000歩程度が歩く距離となる。毎日家でごろごろしていると、2000歩も歩かないので、これは健康的にもいいことだと思っている。1番は真っ直ぐの打ち降ろしのホールだ。私は相変わらず2オンはしないし、3パットの出足。連れ合い(以下YYという)は、アプローチまで、ミス無く行ったのだが、何と5パットである。パットの感覚がつかめないようだ。2番のロングでは私がアプローチで、チョロチョロしてトリプル。YYは2,3打はトップだったが、4打目はクリーンな当たり、5m以上はあるロングパットを1パットで沈めた。3番大きな池越えで、池は越えたのだが、意地悪く大きな木の先に当たり、レディースティーの横に落ちた。ここも、アプローチをショート、惜しい1パットも逸してダボだ。YYはティ-ショットから3打目まではうまく行くが、4打目がバンカーに入りクリーンに出過ぎてグリーンまわりで大叩きしていた。4番は2オンせず、アプローチの寄せ1でやっとパーを拾う。YYは打ち出しからうまく行かず、最後のアプローチが良かったものの3パットでこのホールは良いところが少なかった。5番の池越えの強烈な右ドッグレッグで、前の組がもたつく中、ティーグラウンドでは猿の群れが、後ろを通り過ぎたのを見ていた。ここでは、ショートカットなら簡単なホールだが、私はやっと池を越えて左の一番遠いところに2打目を持っていった。2打目はクリーンに当たったが、グリーンまでは届かず、グリーンまわりでチョロチョロして、ここでも惜しい1パットを逃し、ダボになる。YYはこのホール池は越えられず、プレ4だったが、最後のアプローチ以外は快音はなかった。6番はショートホールだが、168ヤードと一寸長い。手前のあごの高いガードバンカーに入れてしまいダボ。YYは一寸引っかけバンカー越えになり、3打目はクリーンな良い当たりだが、グリーンオーバーするなどダブルスコアだった。7番は右半分が池であり、やっと池を越したが、残り130ヤード足らずと力んだのか、またバンカーに入る。チョロチョロ何をしたのか、上がって見入ればダブルスコアと、YYと同じ結果だ。8番は大きな池越えのショートで、グリーン手前まで池である。番手を挙げてグリーンをオーバーした。アプローチを焦りざっくりしてダボ。この辺りからYYのことを見る余裕があまり無くなった。9番は嫌らしい谷越えだが、之は越えて、3打目がクリーンな当たりでなく、また3パットするなどまたダボである。このコースは、極端に小さなグリーンが多いようだし、グリーンそのものが砲台で且つ全面鞍型なので極めて難しい。後半が始まるまでに、何と、1時間10分も取ってある。14:40スタートだ。10番は、グリーン左に池がある打ち降ろし。之も2オンできず、ボギー。YYはティーショットは、まずまずで、アプローチは素晴らしかった。でも3パット。11番はティーショットは今日一かという良い当たり、しかし、2オンせず、近いアプローチでシャンクとダボ。YYは3,4打目は良かった。12番、打ち降ろしのショートで、このコース1小さなグリーンだ。なかなか乗らないし乗ってもすぐに転がり落ちる。YYも苦労して、7Iクラブを忘れてくる。(追いついた後続組が手渡してくれた)13番は2打目も、アプローチのグリーンを捕らえられずダボ。YYはそろそろ疲れが見え始める。14番ティーショットは当たりは良かったが、やはり2オンのところまで運べず、また3パット。YYのティーショットは今日一番の当たりだった。15番ロングも、14番とほぼ同じくアプローチでグリーンを捕らえられない。ここが今後の課題である。16番は最後の池越えで打上である。池は越えたが、距離は出ず、ラフに捕まる。左足上がりの2打は深くすくって天ぷらとなる。次のカバーも出来ずダボ。YYは池をかわしたレディースティーからだが、打上を一番の苦手とするので、ここもうまく行かない。17番は打ち降ろしショート、雨がぱらつき始めた。ショートアイアンを引っ張る癖で、グリーン左に外すボギー。YYもダボで納めた。18番最後のロングホールはやや打上の真っ直ぐなホールで、慎重にティーショットしたら今日一という前よりも良い当たりだった。2,3打も快音で、最終アプローチは砲台のピン側80cmに乗り、パーとした。YYには、打上克服と、パターの力加減が課題として残った。私は、珍しいことに池越え谷越えにも拘わらず、ボールを無くすことも、OBも無く終了できた。少し前に降りそうだった雨も終了時には、上がっていて、5時前の夕日が綺麗であった。帰りの奈良街道が少し混んだ以外は、一寸した遠征気分で楽しいゴルフだった。
2010.10.05
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今日の日経の「核心」で対中国摩擦に対する集約的解説と、対中国への対処の仕方などについて要領よく述べられている。我々日本人は、問題が起こる事に中国という怪物を意識しながら、それにすがっている自分たちを感じる。現在表沙汰になっているのが、尖閣列島領有権問題である。この問題は、昔から懸案であったが、不毛の理論は棚上げにしようとした経緯がある。あくまで想像だが、これを日本と中国の両側の意識で見ると、日本は、本気で棚上げして、之は日本の固有の領土であると言い続けているので、国民も納得するだろうという比較的安易な考え方である。日本人はどれだけホットな問題が起こっても「人の噂も七十五日」という言葉通り、75日間の冷却期間が有れば、殆どのことは忘れてしまえる特技を持っている。もちろん当事者にとっては忘れられないのは、当たり前だが、世論はという意味での話である。因みに毒入り餃子事件にしても、もはやあまり口にする人は少なくなっている。口にするは食べるという意味ではなく、話題にするという意味である。日本人は、多くの問題を、どれだけの仕打ちを受けても互いが歩み寄ったと感じれば、すぐに「過去のことは水に流してしまう」ことができる。ところが、何の問題か忘れてしまったが、日本が、中国に「この問題はお互い水に流して、仲良くやりましょう」と言ったのに対し、中国は「我が国にはそれ程多量な水はありません」と返されたことがあった。これは水資源が豊富な日本に対し、中国の水資源総量が世界の第6位でありながら、国民一人平均の水資源量は世界第88位で、世界平均の僅か1/4しかない中国の現状を引っかけた内容でもあったのだろう。人口密集地である東海岸への水の補給のため「南水北調プロジェクト」という大プロジェクトを遂行している。そのことを比喩としたものだろうが、いずれにせよ、過去にこだわり、何かの折には、それを前面に出して、ゆする体質は全く変わっていない。知的財産権など何処吹く風、世界(日本も)の技術者が、あらん限りの知恵を絞って、発明したものでも、発表と中国で同時に海賊版が出るというのは、摩訶不思議なことだがそれが現実なのである。例えば、ルイ・ヴィトンのバッグは高級であるが、高々バッグなのに、それを血眼になって少しでも安く買おうという人が居るので、それに乗じて中国発の偽物が出回る。日本人の1部も彼らに手を貸しているのかも知れない。電化製品でも、テレビなどあらかじめ製品には偽造品があって、客の好みを聴くのだそうだ。「どのメーカーの品が欲しいですか?」、客がソニーがいいと言えば、「Sony」のラベルを付け、パナソニックがいいと言えば「Panasonic」のラベルを付けるといった具合である。サウジなどでも店頭の時計商人が、商品を並べ売っているが、「Rolexを安くしておくよ」というので、冷やかしに、話していて、「どうせ偽物(Fake)だろう」というと、商売の男は、「心配するな、Fakeだけど、品質は保証付きだ、何しろ中味はSeikoから」と笑うのである。今回の尖閣列島問題に絡めて、中国が世界の97%を産出しているという、レアアースの輸出制限を中国側がしている件でも、中国はそんな制限をしていないと、臆面もなく言うのである。これほど言行不一致の国は他にはないだろうが、有るとすれば、ロシアかも知れない。北朝鮮も含めて、これら共産主義国家は、国民というものはあってなきがごとしで、党のトップが、最高実力者であり、政府の指導者(之も国民の真の代表ではない)は、そのずっと下の階級になるということだ。最近、小沢一郎が、検察審議会で、起訴と決まったが、以前は、もし日本が、中国のような国なら、民主=小沢で党首小沢一郎が出現していたら、政府(あの時は鳩山)を手玉に取っていた、あの構図を思い浮かべれば、中国の支配体制がより良く理解できるのではないか。中国では、他の勢力が台頭したら、現状勢力は、「粛正」されるのであって、日本のように、党の長老として、体力が続く限り、死ぬまで、党内に居座れる構造とは違うという点だ。 今回の政治資金規正法で小沢一郎が、裁判を受けると言うことは、ある意味では、日本は民主主義国家の証であるとも言える。中国流なら、小沢一郎に反対するものは今頃、皆粛正されているだろうからだ。中国漁船船長の逮捕に対する報復として、フジタの社員を拘束したやり方は、実に日本のやり方を真似たもので、単純な思想構造の頭しか持たない中国国民にとっては一番理解しやすいやり方だろう。といっても、日本人にもそのことが言えるかも知れないのだが、取り敢えずは、日本では、勝手気ままなことを言う権利が(責任は伴わなくても)有るという違いはある。ロシアもこの機に乗じて、北方領土を返還する気がないことをあからさまにしている。中国にしろ、ロシアにしろ、また北朝鮮にしろ、日本を全く小馬鹿にしているのだ。そこで、石原慎太郎などは、日本を五星紅旗(中国の国旗)の星にする気かと怒っている。五星紅旗の5個の星の意味は、左上の大きな星が中国共産党を,4個の小星は,労働者,農民,知識階級,愛国的資本家の4つ階級を表していて、旧ソ連の国旗を真似て作られたものだ。日本をその星に加えて、5つ目の小星にするのではなく、日本を分解して、4つの小星に振り分けようとの意図であろう。日本を広西チワン自治区や内モンゴル地区、新彊ウイグル地区、寧夏回族地区、チベット自治区に続く日本自治区にしようとしているということだ。これを回避するには、日本も核を持つべきだという極論まで披露している。そうなるとやっと日本人も目覚めるかも知れないが、「盧溝橋事件」の場合ように、事件の発端が、最初に中国側の発砲であるとする日本の理解に対し、中国は日本軍の挑発であると言い張るわけで、平行線を辿るしかない。今回の漁船船長逮捕に至る経緯についても、それを証明するビデオを有しながら何故公開しなかったのだろうか。もちろん深い思惑が有るに違いないが納得は行かない。内需をおろそかにし、世界の工場、世界の市場に期待する余り、抜き差しならないことになっている。企業側の姿勢も安易である。政治的背景とは別に、自らの会社の利益になることであれば、なりふり構わず、政治信条とは切り離し互恵関係を保つという名目で、これらを利用している。東欧でも、ロシア一辺倒だったエネルギー源を絶たれることによって、別ルートのパイプラインを引くなど、資源確保に全力を挙げ、ロシア依存からの脱却(真の独立)を模索している。日本も、中国一辺倒の政治的リスクを回避するために、レアアースの供給元を模索し始めているが、やり方がいかにも稚拙で且つ遅い。中国も、レアアースは産出するが、これを使った液晶パネルや強力磁石、排ガスの浄化触媒などの製品は中国の技術ではまだできず、日本に頼らないと成り立たないわけである。こういったことを、友好・互恵を信じて、リスクヘッジしなかった日本の政治家達の(時には官僚の)怠慢さが分かる。企業側も、中国市場欲しさに至れる尽せりの技術援助を行っているのは如何なものか。中国に対して、何故未だに無償のODAや技術協力が必要なのか、GDPは既に日本を抜き世界2位になっていて、国防費は、日本の400~500億ドルの一定値に対し、中国のそれは2003年頃から日本を抜き、今や、アメリカに次ぐ、軍事大国となり、名目だけでも、日本の約2倍の国防費を費消している。自民党のような弱気外交でもなく、民主党のような定見もない場当たり外交でない、誰かこの国の将来を憂うる人物は排出しないのであろうか。
2010.10.04
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日経新聞の「世界を語る」シリーズだ。氏は現在、74歳になっている、前GE会長兼CEOが経営について述べている。経営の神様と言われ、アメリカのフォーチュン誌で「20世紀で最も優れた経営者」に選ばれたことがある。略歴を見ると、1935年にマサチューセッツ州に生まれMITを卒業後、イリノイ大学院で化学工学の博士号を取っている。先ず、経営の神様と言うからには、商学部か、経済学部を思い浮かべるが、所謂技術屋なのである。しかも化学部門の博士号を取って居て、そのまま1960年にGE入社と言うから、日本で言えば、その先は、先ず化学の専門職で、何か新しい化学製品開発に当たるといったコースが事前に見える。博士号取得は、入社した時から逆算すると、25歳という事になる。普通日本で博士号を取得するには、大学院2年で修士課程を修了し、その後3年で、博士課程を修了、博士になるというのが普通と考えるのだが、ウェルチの場合は相当早く博士号を取得し、且つ入社もすんなりと決まったようである。そして46歳の時には巨大GE社の会長兼CEOとなっているのだから、突出した人物だと頷ける。しかも20年間CEOの座にいて、様々な改革で、GEを世界のトップ企業へと押し上げたのである。「我が経営」の著書で紹介されているよりも、ややきつそうな顔であるが渋みをまし、いい顔をしていると思った。私などは経営なる言葉とはまったく縁がなかったわけだが、企業にいる時には、こういった経営戦略といった類の本を多く読んだものだ。商売というものは、売値から掛かった材料費と経費を引いたものが利益になるというのが荒っぽいが正解である。例えば、材料を仕入れ、遠い道のりを運ぶことで他の地でそのまま売ったとして、利益は、運び賃以外のプラスアルファしか利益にならないと言うことになり、原始的な商売はそこで行き詰まる。要は、材料を入手し、如何に加工して、付加価値の高いものを作り出すかが、之までの製造業(加工業)のやり方であった。従って、私などが企業に勤めている時の上司なり、会社の方針は全て1も2もコストダウンに尽きたと思う。コストダウンは物を安く買うこともそうだが、加工業では、その手間なり、製造方法に知恵を絞り、必要な経費を出来るだけ最小化する努力だと思っている。そう言った基本的な話も当然必要だが、ウェルチは技術や事業モデルのイノヴェーションが必要であると説いている。氏の話でも取り上げられているように、過去は、アメリカ一極集中であった経済が中国など新興国の台頭もあり、企業の形態が大きく変わってきたと言うことである。氏がGEのCEO時代は日本の台頭にある種の焦燥感を持ったように書かれていて、会社は、大きく肥大化する傾向にあったというのだ。しかし今は競争力アップのためには企業文化を変え、よりスリムな組織にしなければならないと説いている。私の会社時代も売上至上主義的に、右肩上がりの各社の動向通り、10年後には1兆円企業と勇ましいかけ声が飛んだこともあった。この時にはイノヴェーション(改革)といった言葉もさかんに飛び交ったわけで、「変える」「変えよう」が合い言葉の時代だった。私の会社では、トップがそれを唱えても、トップ自身が変わりたくないという体質であったため、笛ふけど、踊らずの感があった。変えるための模索はいろいろ試みたのかも知れないが、私のような門外漢を急に配置転換させ、部下といっても何処かの食い詰めものばかりを集めて、さあ、之から何かを開発せよと言ってもそれがうまく行かないことは分かっていたはずであり、もし何とかなると考えていたとしたら、愚かしい経営者だったといわなければならない。案の定1年で瓦解したその「開発部」は、霧散霧消してしまった。氏は経営者には選択肢が2つあるとし、1はぎょっとして近寄らず、批判すること、2は折り合いを付けようと努力することであると説いている。私には3つ目があると思う。それは、他社の動向につられて何の見通しもなく安易に飛びつきそして安易に諦めるなと言うことである。私が命じられた、立体駐車場開発も、聞くところに依ると、その昔、私の会社でも、ずっと以前に手がけていて特許も申請されていた。しかし儲からなかったのであろう、いち早く撤退し、他社にシェアを奪われている。そしてまた大規模駐車場をやれと言うのだ。なんだか力が入らないわけである。トップのアイデアの貧困さもさることながら、従業員個人個人のポテンシャルも大したことがなかったといえばそれまでである。ウェルチは「選択と集中」という命題を抱え、会社の手がける事業で、「ナンバー1またはナンバー2」を残し、それ以外は会社ごと売り払うといったドラスティックな考え方である。この時流行したのが、「分社化」や「カンパニー制」、そして1990年代にブームになった「事業部制」などである。ウェルチの言う選択と集中では、売り払われるないしは分社化される事業が有るということは、そこに張りついてる「従業員」を売ることでもあり、流石に日本では、ウェルチの言うドラスティックな「ダウンサイジング」は徹底されなかった。之を幸いとするか否かは、その国の歴史と土壌に基づいて考えなければならない。ウェルチの成功はアメリカではそうであったが、日本でも同じようにやれ、というのはとうてい理不尽な事であると思われる。しかし今は日本も変わっている、変わろうとして変わったという積極的なものではなく、グローバル化の下、変わらざるを得ないというのが本音かも知れない。先を走る、日産やソニーなど、また日本板硝子などでは外国人のCEOをトップに頂いている。こういった流れは続くのであろうか。いずれも大企業といわれる会社でありながら、日本人の人材は居ないのかと問いたくなる。株主価値至上主義の経営者といわれているという記者の問に、完全に否定している。あくまで、「1株利益の数値は、従業員の仕事の成果の集合体である」というのだ。日本的ではないか。私は、経営者はすぐれたコンダクターであるべきだと思う。オーケストラで、何も演奏していない部門がたまにあるが、それはそれで、次の出番での活躍に満を持しているのである。会社では、そう言った前向きの待機 (インキュベーション) はあり得ても、オーケストラの行動を阻害するような怠け者を置いて置くわけには行かない。氏は、解決策は「イノヴェート(革新する)」であり、企業に自由を与えて、決して「レギュレート(規制する)」があってはならないと言っている。日本でも今、行政改革に取り組もうとしているが、既得権に固執し、一度必要だからとして出来た部門は役目を果たしても生き続けると言ったことが日本ではまかり通っている。アメリカの土壌と違うという点ではその通りかも知れないが、優秀であったかつての日本の官僚組織が、現在のような乞食根性に成り下がったのを是正しなければ、またその勇気を持たなければ、日本株式会社は成り立たなくなるだろう。
2010.10.03
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前回、京都シネマで見かけたチラシを思い出し、記憶していた映画が来たので連れ合いを伴って出かけた。この映画の副題は「消された革命」というものだ。因みに「VJ」はビデオジャーナリストという意味である。これは映画と言うよりも、素人がハンディー・ビデオで記録した、というか、単に撮ったという記録である。しかし内容は、震撼すべきものである。日本ではハンディー・ビデオで撮る記録は、子供が運動会で1等賞になる瞬間や、赤ちゃんがハイハイしている様子などを思い浮かべるだろうが、この映画はそんな生やさしいものではない。今はビルマという名前の国はない。今の名称はミャンマーでありビルマは1989年までの名称である。ウィキペディアの説明では、東南アジアに位置する共和制国家でインドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)とある。私はこれを書きながら、新しい首都ネピドーのことを初めて知った。当然私の持っている14年前発行の古い世界地図には、その名前はない。この映画では、ヤンゴンのことも現地のジャーナリストはラングーンと称していた。ラングーンもヤンゴンの旧地名だ。(以下では、旧名、ビルマとヤンゴンを用いる)こういった国名の変更や首都名の変更は、他の国でもあることだし、遷都と言えば、日本でも平城京(奈良)から長岡京そして平安京(京都)そして現在は東京となっている如くである。ブラジルなどでも港湾部のリオ・デ・ジャネイロから現在の内陸部ブラジリアへと遷都されている例はある。日本でも東京一極集中で、何かと不都合が出てきているために遷都案が出ては消えする時代である。ここビルマの遷都は、2006年に正式に公表された。ネピドーへの遷都の理由には諸説有るようだが、ミャンマー軍事政府によれば「現在の首都ヤンゴンよりも国土の中心に近く、国民のニーズに応えるためにはより適切な位置にある」と発表しているが、この映画を見る限りでは、軍事政権が都市部の市民を恐れているとの説の方が相当であろうと考えた。即ちヤンゴンには高い教育を受けた国民や海外留学から帰った国民が多く住んで居るので、ヤンゴンでの市民運動や革命が起こることを軍事政権は危惧しているというのである。それゆえ、政権中枢を何もない田舎のネピドーに移転して政権の強い地盤とし、革命が起こっても早期に鎮圧できる拠点にする目的だというのだ。正にこの意見に与したくなるような今日の映画である。ビルマの歴史はどの国も辿った王朝から始まり、イギリスによってインドと同じ括りの中で統治されたが、1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。そして1942年、アウンサンスーチー女史の父アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、ビルマ国建国となった。しかし太平洋戦争での日本軍の敗色が濃くなり、日本、頼るに足らずと、1945年、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本とその指導下のビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返ったのである。この間に、映画にもなった「ビルマの竪琴」でビルマの名前を覚えているという人も多い。しかし日本軍を駆逐してからもイギリスはビルマの独立を認めていない。ここにアウンサンの選択は正しかったのか、したたかだったのかを歴史はどう判断するかである。過去に大国イギリス、フランス、そしてアメリカ等の、覇権主義は、本質的には変わらないと言うことだろう。もとより、この時代の日本も覇権を夢見たに違いない。1947年に抵抗運動の指導者アウンサンは暗殺され、1948年にビルマはイギリス連邦を離脱して、独立を果たす。ここまでが、この映画の前振りということになるだろうか、映画では、ナレーションで、1988年現在、過去40年間以上軍政が敷かれ、過酷な生活に対する抵抗運動や、デモが続いてきたという出だしであった。しかし実際は、実に複雑であり、国民党軍、共産党勢力等を破った国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が1962年に政権を樹立、1988年まで軍事独裁体制を敷き、国を掌握したが経済状況を悪化させ、1988年に退陣した。そして、現在の軍部がクーデターにより同年に政権を掌握したのである。軍部が政権を掌握して、一旦は総選挙を公約したが、人気高いアウンサンスーチーは選挙前に自宅軟禁されてしまう。選挙結果は、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟ら反軍政側の勝利となったが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化したのである。映画はそれ以降の、抵抗運動と、デモを政府当局者に隠れて、カメラや、ビデオに収め国外に出すことによって、自国の悲惨さを世界に訴えようとしたものである。民主化指導者アウンサンスーチー女史は軍政側によって、自宅での長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる事は、最近時々新聞紙上で知るわけだ。究極の軍による独裁の例であるが、近くは、キム・ジョン・ウンに世襲された北朝鮮も、軍政優先の独裁ならず者集団であるから、似ているわけだが、ビルマの場合は、抵抗運動が、続けられるという点では未だましなのかと思うほどである。しかし、40年間に抵抗運動をする中、一時、一挙に3000人もの命が奪われている。自由で、民主的な国(世界)を造ると言うことの難しさを考えさせられる映画である。日本人は、敗戦という苦い代償を払って既に65年が経つが、この間は、実に平和裡に経済追及のみを行うことが出来た。映画の中にも出てくるが、ある日老婆がバスに乗ろうとすると、昨日まで500チャット(400円程度か?)だった乗車券が、1000チャットと2倍になっていて、理由は「ガソリンが値上げしたから」という有無を言わさぬ会話である。物価政策など有って無きが如くであり、そのしわ寄せは、即座に皆、国民に直接降りかかる。軍政を指揮する将軍の映像が出てきたが、之が丸々と太っていて、今回の、キム・ジョン・ウンと同じ様子なのが印象に残った。苛烈な情報統制によって外国人ジャーナリストの入国が厳しく制限されているため、私たちがビルマ国内で何が起こっているのかを知ることは困難を極める。この為に行われている、密かな抵抗運動を映画は実に淡々と伝えている。緋の衣を着た、ビルマの僧侶が民衆と共に、また先頭に立って国家の改革を叫んでいる。ビルマにおける僧侶は、昔から尊敬の対象であり、民衆間でも強い支持があるのだが、これを軍の兵士は、緋の衣を剥ぎ、トラックに蹴りこみ、果ては殺して川に放置するという有様である。民主化運動の指導者 アウンサンスーチー女史は、いまなお自宅軟禁中のままである。2007年に軍事政権による独裁が続くビルマの現状を伝える大規模な反政府デモの様子を報じるニュースを世界中に発信することが出来たのは拷問や投獄のリスクをかえりみず、情報を発信し続ける(ビルマ民主の声)VJたちの活動があったからである。 我々にも記憶に新しい、国軍兵士による日本人ジャーナリスト長井健司氏が故意に射殺される瞬間を世界中に配信したのも彼らなのである。私は見終わって、このような映画を、何故お金を取って、他の娯楽映画同様に興業に掛けるのか、之こそ、我が国のODA予算のごく一部を使って何故日本中に無料で知らしめないのか不思議な気がした。自国の青年達(ビルマ民主の声)は、無償で危険を顧みずにやっているのは自国のことでしょうと傍観している場合ではないのではないか、というのが感想である。
2010.10.02
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耐えきれないくらいに暑かった夏もようやく矛を収めてくれた。なんと言っても10月になったのだから当然といえば当然なのだが、今年の夏は長く暑かった。暦の上では既に秋分であるにもかかわらず、実際の感覚は1ヶ月前のようやく暑さが鎮まる「処暑」が来たという感じである。連れ合いは、最近疲れがたまっていると言うことで、日帰り湯にでも行こうかという気になっていた。2日ほど前、恒例になっているという連れ合いの大学時代からの友人との昼食会に出かけ、立ち寄り湯の話が話題になったとかで、一度のんびり温泉につかりたいと考えていたようだ。最近不況のせいだろうか、ごく近くの所謂スーパー銭湯が潰れてしまった。その昔は、伏見の「やまとの湯」に良く出かけていた。最初はそこで良いかという感じだったが、町の中よりも少し遠いところが良いかと言うことになり、友人に教えられた雄琴辺りも候補に挙がったが、いろいろ調べた結果、上方温泉「一休」と言うところに行くことに決めた。ここは、別名「美人の湯」「美肌の湯」と言われるアルカリ性単純温泉で”松泉乃湯”を源泉とする100%アルカリ性単純泉の天然温泉なのだそうだ。場所は城陽市にあり、あまりこの方面には出かけるチャンスがないが、つい1ヶ月ほど前にお茶の郷、和束町に行ったので、だいたい雰囲気は分かる。和束町は木津川市まで南下して、東に向かうのだが、上方温泉というのはそれよりもひと山手前を東に入る国道307号線沿いにある。和束町の場合は、国道163号線沿いと言うことで、そのまま走ると、伊賀、柘植を経由して亀山に向かうことになる。亀山辺りまで行くなら、既に新名神高速道路が出来ているので、なかなか国道163号線は走ることがない。今回の上方温泉は、何時も通る、久御山をそのまま宇治方面に向かい途中国道24号線バイパスを抜け、奈良街道を走り、山城大橋を東に国道307号線を少し走ると左手に見える。そのまま東に走れば、宇治田原町からやがて信楽に出ることになる。国道沿いはもう大分開けていて、里山という感じはない。宇治田原や和束の町なら里山風景にも出会えるのだろうが、城陽市内の外れと言うことで、仕方のないことかも知れない。この奥の方は、ゴルフ場のメッカ的な感じで、山という山はゴルフ場がひしめいているようだ。上方温泉は、307号線を走っていると左手に大きな駐車場と小さな案内標識と幟が数本立っていて、すぐ分かる。広い駐車場で、車は難なく駐めることが出来、風情のある石畳を少し上ると、温泉の入口に着く。温泉とは言うが、入口は、スーパー銭湯を少し改良したような感じであって、気さくに入れる。入口で下足箱に履物を入れ、カウンターでロッカーの鍵を受け取ると、後は何時間でも何回でも温泉に浸かることが出来る。上方温泉は大阪にもあるようだが、ここは、京都の本店と言うことになっている。入湯料も、通常のスーパー銭湯の約1.5倍はする。キャンペーン中だとかで、館内は何処でも自由に歩ける、特製の甚平のようなものをかしてくれた。もちろん食堂も併設されていて、ここでの食事はロッカーキーで後精算となる。ゴルフ場のシステムと同じで、後で一括と言うところは手間が省けて好ましい。ちょうどお昼時になっていたので、食べてから温泉と言うことにした。最近は、少し太り気味なので、また食べ物に注意をしなければならない。なるべくカロリーの低いものを選ぶのだが、やはりソバという答えになる。そこから温泉場にはいるのだが、岩盤浴と一般の風呂に別れていて岩盤浴には追加料金が居るようだ。一般の方に入ると、結構立派な広い脱衣ロッカーである。係の人が私を呼ぶので答えると、連れ合いからタオルと着替えを貰うのを忘れていて、届けてくれたわけだ。何ともうっかりしたものである。風呂のドアを開けると、先ずかけ湯の壺が置いてある。そこから目に付くのは、体を洗う場所である。あまり人は入っていないようだが、混み合っているよりは良いし、ちらほら人が居るのも貸し切り状態で寂しいよりも良いかもしれない。戸外には露天風呂があるが、室内の左手にはワイドサウナがあり、テレビ放映をしているのは何処も同じである。サウナの温度は、他より一寸低めの90℃から92℃くらいであったもちろんサウナの出口には大型の水風呂がある。私は、サウナに入り、じっくり汗を絞り出してから、水風呂で体が冷えるまで浸かっているのが好きである。ちょうど良い季節なので、室内と屋外の間を仕切るガラス戸は取っ払ってある。内湯の方は「座り湯」で背もたれを流れるお湯を座りながら足を湯につけて楽しむ。向かいの湯槽は2つに別れていて、それぞれ「ころあいの湯」「くつろぎの湯」と適当な名前が付けられている。ここには、ジェットバスだとか、電気バスだとか、バブルバスとか言った類のスーパー銭湯にある目玉的なものは配置してない。外には、内湯とガラス戸を外された同じ面に、露天風呂がある。右には、陶器湯と銘打って、信楽焼の壺製の一人風呂が2つ配置されているが、湯はやや温めであった。満々とたたえられた、その壺に入ると、ザザーッとお湯が流れ出るのは、無駄とは思いながらなかなか気分の良いものである。真ん中には、人造の滝であろう、勢いのよい水の流れが配置され、その水は、滝から隣接する池を回って排水の方向に向かっている。池には小さいながら緋鯉たちが泳いでいた。滝を見ながら入る湯には「山河の湯」と名前が付けられている。昼間に滝を見ながら湯に入っていると、斜め上からの陽光が滝の水をキラキラと照らして之も気持ちが良い。その左には、一部屋根の掛かった露天風呂がある。初めなにやらゴミが浮いているのかと訝ったが、之は湯ノ華といって、天然温泉ならではのものらしく、立て札を見ずに聞いていたら恥をかくところだった。最後に左端には赤いドームのような形の部屋があり、「赤釜風呂」と書いてあった。入口の立て札には世界初の超微粒子ミストサウナと書かれていて、中には過熱水蒸気を熱源としたマイナスイオンが充満していて、その超微粒子が皮膚から自然に吸収され、身体の芯まで温まるとあった。入口を入ると、立ちこめたミストをムヮーと感じ、入口付近が一番熱い感じである。中は、真ん中に塩を盛った台があり、まわりには木製のストゥールが配置してある。最近気になりだした腹の部分に塩をすり込むようにして、中の脂肪を絞り出そうと思ったが、そう簡単にはいかなかった。何度か出たり入ったり、また各風呂を渡り歩いたりしたが、連れ合いとの約束の時間が来たので、この館の端にある「くつろぎの間」で落ち合った。少しうとうとして後、再度風呂に浸かりに行ったが、ほぼ半日を湯殿で過ごし、宿舎の遠い温泉のような気分で自宅への帰途についた。たまにはこういったのんびりした手軽な風呂に入るのも良いものだ。
2010.10.01
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