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ついこの間2012年という年が幕を開けたばかりというのに、最早1ヶ月があっという間に過ぎていった。子供の頃、母親に、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」などと時の経つのは早いと言うことを教えられていたが、この頃母が云っていたことが実感として解るような気がしている。このまま、人生の終わりまで真っ逆さまに落ちていくのかという気になることがある。人生も黄昏時になり、何もすることが無く、社会への参加も之と云ってはない。ただただひたすらに、時が経つのを待っている、野球で言えば消化試合に登板したピッチャーのような気分である。自分では未だ若いと思っているし、現実に私の同級生でも毎日ではないものの、社会との繋がりを持ちながら生活している人達も多い。少し前に、友人から貰ったメールに「少しずつ日暮れが遅くなってきました。夜明けの時間も1月の中旬でようやく底を打ったようです。寒さはきびしくとも、日がながくなるだけで心が明るくなります。これで2月の声を聞くと、春へとまっしぐらです。1月の後半になるといつもそう思います。」とあった。その君は、2月になったら目の手術をしなければならないといった境遇で、私などと比べると、人生に立ち向かうのに、随分余分なエネルギーが要ると思われるのに、季節の移ろいを、全身で感じていると言うことが伝わってくる。特に去年は、東日本大震災という未曾有の大地震と津波が東北リアス式海岸一帯を襲い、現在のところでも、15,845人の死者と3,369人の行方不明者、そして避難者は、優に34万人を超えるという状態である。加えて、東京電力福島原発の大事故で、放射線物質が散乱し、元済んでいた地域にさえ、帰れないとか、海中を含めて、広範囲に放線物質が飛散し、思わぬところにもセシウムのホットスポットが出来ているなど、新しい年の幕開けを穏やかに迎えることが出来ない新年であった。通常なら、1月にはあちこちで祭りがあり、大きなものだけでも、その数は120を越えると言うことだが、そう言った祭りも、各地で自粛されたのではないだろうか。それでも奥州各地では「蘇民祭」が行われ、祭りを通じて県民が元気になろうとの思いも聞こえてきた。また世界に目をやれば、1月だけでも、アフリカの南スーダンで独立後の昨年末から民族衝突が激化しており、これまでに3,141人の遺体が確認されたと云ったニュースも伝わってくると同時に、日本の陸上自衛隊施設部隊も、国連平和維持括動(PKO)のために派遣されている。今日の予算委員会では、この自衛隊は、どの国に警護されているかとの質問に、田中直紀防衛大臣は、応えられず、渡辺副大臣に「バングラディシュです」と教えられ、知らなかったことを悪びれる風もなく、素直に謝ったという場面があり、何とも心許ない。一川前防衛相の素人=シビリアンコントロール論争や、今回の、無知さ加減を見て、之では、中国から舐められてしまうことはやむを得ない仕儀であると、感じたわけだ。おそらく東シナ海のガス田「樫」で中国の勝手な独自開発(日本領土内であるにも拘わらず共同開発と云うことにさせられている上に)なども、こういった、無知蒙昧な、防衛という何たるかを知らず、またそれを承知で、こういうふぬけた男を大臣に据える任命者がある故だろう。中東の春の残渣である、シリアでも、諸外国や、同じアラブ民族の湾岸諸国でさえも、呆れるほど、自国民や反政府側に対する、アサド政権の狂気の殺戮など、昨年からの持ち越し事件が、更に拡大の様相を呈している。アフリカのナイジェリアでのテロでは、新たなテロ団体、イスラム過激派「ポコ・ハラム(西洋の教育は罪)」の犯行で、178人(一説には215人)が死亡するという事件も起きている。勿論テロなら定番の、アフガニスタンや、イラクなどでは、テロの報道は、枚挙に暇がないほど頻発している事は言うまでもない。珍しくかつ馬鹿馬鹿しい(と言ってはなくなった人に申し訳ないが)豪華客船「コスタ・コンコルディア」の座礁事故である。ローマより北に位置する、トスカーナ州沖合のジリオ島付近で馬鹿な船長が、岸に近づきすぎて、浅瀬に座礁したというもので、死者は、日に日に増し、現在17名が死亡、15人が不明とされている。しかし、日本人乗客43人は全員の無事とわかり、早くも傍観者で、その船長の異常な行動を一緒になって呆れているという状態だ。とにかく、日本人に何事もないと、この国では、すぐに、緊張感が解けるというか、手のひらを返したように、他所で起こった、他人事であると納得してしまうのである。映画「タイタニック」の様だと感想を漏らした人がいたとかだが、背景には、格安クルーズとか、安全軽視の風潮が根底にあるのかと、分析されている。しかし、どう考えても、船長の狂気の行動は、4,200人の命を預かるといった気概は微塵も感じられなかった。造船に関係していた身としては、航海中の美しい客船のフォルムが事故で半沈した姿になっているのを見るとき、一寸空しさを感じた。船長の狂気を論じるとき、それがイタリアだからと言うだけでなく、日本でも、狂気の展開が、国会に於いてさえ行われている事を考えると、とても他人事とは思えない。船長はまさか全長が290 m、排水量11万トン超もの客船が沈むなんて事は考えなかったろう。日本の原子力村の連中もよもや巨大津波が来て、原発が爆発にまで及ぶとは考えていなかったのとは質を異にしている。船は沈むものなのだ。衝突や座礁を前提にして、なお不沈であることを計画設計した船は無い。タイタニック号の例を出すまでもなく、トルコ海軍艦エルトゥールル号の座礁沈没も然りで、衝突や座礁をしてしまえば、ひとたまりもない。また、どんなジャンボ機でも(ジャンボ機なら一層かも)、航空機は墜落し、どんな高級外車でも自動車は衝突する。船はアルキメデスの原理で浮いているわけで、その浮力を無くすような行動を取ったらひとたまりもない。飛行機はベルヌーイの原理で飛んでいる、揚力が無くなればあの巨大重量物が空気中にとどまれるわけがない。山口県の中国自動車道でスリップして大量に衝突したイタリアの高級車フェラーリも、道路のカーブに於ける設計スピード(勿論安全率は見ているから、道路標識上の100km/h以上は出せるが)を越えたら、遠心力で、曲がりきれなくなるのは、物理学の基礎である質点の力学で解ることだ。こういった原理原則を理解しない者どもが世の中に氾濫しているのが、今日の不幸である。思慮に於いて浅はかと云わざるを得ない。人間の脳は、錯覚すると云うこともあり、また、慣性の法則ではないが、慣れというものがある。之まで大丈夫だったからと云って、今回も大丈夫というのは早計である。しかし危険の積み重ねでも過去にあった経験が、警戒心を解きほぐすこともあるだろうし、事故を起こしたときなどは、きっとアドレナリンがあふれ出ていたのであろう。またつまらないことを書いたが、1月はグレゴリオ暦で年の初めの月である。日本では旧暦で「睦月」とと呼んでいる。諸説あるが、家族が集まって睦まじく過ごす月というのは、ぴったりとくる。しかし、月末の31日にもなると、もう既に会社人間にしろ、公務員にしろ、商売人にしろ、全て平常の戦闘モードになっている。日本では、旧正月という名残は、あまり聞かれなくなったが、中国では、旧正月の方が賑やかだという。イスラム圏や、他の一部の国家では、グレゴリオ暦を使わない国もある。流石に世界会議などと云うのは、使用するのはグレゴリオ暦をベースにしているのだろうが、もしヒジュラ暦(イスラム教)であれば、金曜日には働かない(安息日)なのだから合わないだろう。 西洋では、1月をJanuaryというが、之はローマ神話のヤヌス(Janus)から来ているという。ヤヌスは門の守護神であり、前後に2つの頭(顔)を持つとされている。戸口、物事の開始、日の出と日没をつかさどるとされ、1月は1年の入り口にあたることからこの名が取られたと言うことである。あくまでキリスト教国家がそのベースであると言うことに気づく。午後、連れ合いと一緒に、元の学校長が仕事をされている事務所を訪れた。広い場所で、ゆったりと仕事をされている。停年退職されてから初めて訪れたのだが、早速2月早々にゴルフをやろうかという話が纏まった。我々は、この寒い正月を未だ1度もゴルフクラブを握っていない。果たしてどうなる事やら、また、この冬未曾有の寒波も来ていると言うから、暖かくなってくれることを願っている。と言いながら、帰阪して、過去1月にプレーをしたのは3回だけであることを知った。
2012.01.31
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今日は、ゴルフを愛好する同期の連中との新年会があった。私が帰阪して、何もすることがないと鬱々としていた頃、友人の紹介で、このゴルフ会に入会させて貰ってから欠かさず参加してきたが、振り返ると足かけ6年(ゴルフは5年)過ぎたことになる。この会の成り立ちの詳細は余りよく知らないが、ゴルフをする者だけでなく、しない者も新年会には参加するということで、新年会だけを楽しみに来るという連中も居て、同期の経営する店は半分以上を占める存在である。私は参加できなかったが、去年ゴルフの150回記念大会を川奈ゴルフでしたと云うことで、その時の写真を参加者に配っていた。結局は13人の参加だったようだ。昔から、この会がどういった形で発足したのかを聞いてみるのだが、どうもはっきりしなかった。高校の同窓生と言うことなのに他の高校出身者も居て、その者が、実際には切り盛りしているとか、そうではないとか人によって話が違っていた。成り立ちは、私にとってどうでも良いのだが、150回も続いていると云うことは、素晴らしいことだと思うし、新年会にこぞってくる状態が長く続いていることは素晴らしいと思う。しかしながら、考えてみれば、私は、高校時代にクラブ活動で共に苦労をした2人以外とは、あまり話もしたことがないというのが正直なところである。何時もにこやかに迎えてくれるので、ついつい、永く居たような錯覚にとらわれることもある。この歳になると、昔はどうだったかを何くれと話しても、そんなことがあったのかとか斑に思い出す程度である。賑やかに話す中に、自分の知らないことなどに話題が及ぶと、ふと一抹の寂しさを感じるのはそう言った時なのだろう。昔から、あまり群れて暮らさなかったので、正直クラブを通じて知り合った以外には、交友の幅はなかったと言っても良い位だ。加えて、違う高校出身者も入っているので不思議に思っていたが、どうやら、中学校時代から親しかったとか、予備校時代の遊び友達だったとかが、母体であるようだ。そんなことで、この会の成り立ちを、少し興味があり聞いてみたが、之も諸説あるようで、少し前に、この集まりの1人が工芸個展をしていると言うことで、誘われるままに行った帰りに、聞いた話では、元々は、若い頃に、家族同士で仲良く付き合っていた仲間が、その中でゴルフをする者だけが別途、今回の様なゴルフ会を立ち上げてのだという説明をしてくれる友人が居た。ところが、今日、他の友人に聞いてみると、そうではなく、ゴルフ会が先行して、その中で旧交を温める中、家族ぐるみの付き合いが始まったというのが、真相のようだ。どうもそちらの方が、開催した回数150回(今は3ヶ月に1回)から考えると納得がし易い。また、その元締めは誰かと云うことなのだが、ゴルフ場を手配してくれる友人もそうだが、ゴルフをやらない友人こそが影の男だとか、言う人によって違うわけで、発足当時のオリジナル会員の中にも既に居ない者も居るとかで、まぁ、よく分からないというのが、今日の私の結論だった。そんなことはどうでも良いことなのだが、私の場合、クラブの友人の紹介で参加させて貰ったのだが、すんなりと入会を許可された(一寸オーバーな言い方だが)ようだ。集まった中には、私より遅く会に入った友人もいるが、その君もすんなりと入ったようだし、事前に別のグループで忘年会をしていた友人も参加したいと申し入れていたようだが、之もすんなりと次回から参加するということになったようだ。ここまでの話であれば、納得いくし、人数が増えることはある意味では嬉しいことではないかと思っていたが、私より前に入った友人の中には、参加したいと云ってから1年待ったとか、又ある者は、3年待たされたとかの話があるわけで、どういったことが選考基準になっているかを隣の友人達に聞いてみたところ、後から来た人間が、ゴルフの腕前を自慢したり、何かと仕切ったりしようとしたから、案内を出さなくなったとか、それ以降の新入会を認める際には、少し考えないといけないかと云った時もあったようだ。私は、元々、技術的なゴルフ上達というものに限界を感じると共に、執着が無くなっているので、正直そう言った面倒な会ならどうでも良いかなと思ったり、そうはいうものの、声を掛けて入れて貰い、共にお酒を飲む機会があると言うことは、昔の自分に比して、格段の進歩だと云うこともあったりで、有り難く参加させて貰っている。連れ合いに会いたいと言っていた同級生の知り合いの女性が、来られなくなったと云うことで、今日は私1人の参加であったが、時に連れ合いと一緒に参加することもある。参加者は13人位だっただろうか、正確な数は忘れたが、4人座るテーブルの3つに別れると云うことで、最初は、大体そのテーブル毎に話をするだけで他のテーブルの者との会話はなかなか話が遠い。特段テーマを決めて話をするわけではないのだが、ゴルフでの話題も、それほど深くするわけでもなく、高校時代のことを語るとしても、内容は曖昧模糊としているし、やはり、浪人したり、共に苦労しながら奔放に生活してきたりした友人同士は、話が合うようである。現状はと言うと、未だ弁護士で、存在感を持って生きている人間から私のように全く働かず、少ない年金で生活している者など多様であるから、個々のことについて話が深まることはない。勢い病気の話などに落ち着くのはそう言った意味があるからかも知れない。まだ若く成長していた頃は、皆身体の何処が悪い、ここが悪いと云ったこともなかったが、積年の酷使に、あちこちのパーツが傷んできているのは、誰でも同じようである。私もそうだが、1つや2つは、何処かに危惧を持って生活している。もう既に何人かの友人を見送ったり、中には、夫人を亡くしたりとかの連中もいるわけで、次回の集まりに来られなくなっていないとも限らないのである。誰かが、今を大切に生きるのだと言ったことを聞いたときには、全くの共感を覚えた。そう言う意味では、表面だけにしろ、今ここにいる連中の全てと話を交わすこともまた必要であると言うことにも思い至るのだ。今までの私は、会社時代から一旦座ると立ち歩くなどということもなく、そのままの場所でお開きになるのが常だったが、皆と話をするようにと言う、連れ合いからの助言もあり、今日は、万遍なく話をしてまわった。その内容がどうだったかなどは、殆ど記憶にないわけで、結局埒もないことなのだが、あまり話さない相手と会話したという事実だけは残り、それもまた良しかな、と思うようになった。以前に別の会で、この店で飲み会をしたときに、最後諍いをした友人とも、自分から進んで話に行き、既に和解をしていたというものの、わだかまりを払拭する努力もした。そう言ったことは、通常の人間なら当たり前にやることなのだろうが、私は、過去、そう言ったことは一切しなかったし、むしろむかつく上司の面前で、正直に悪態をついたりしてきたので、慕ってくれる人も居たが、嫌う人間も多かったのではないかと反省している。元々群れるのが嫌いだったことは、皆が私に持っている印象のようで、高校時代は、一寸浮いた存在だったのかも知れない。気の置けぬ友人が、少人数居たらそれで良く、八方美人になる必要は無いと思う気持ちは今までも変わらないが、この歳で突っ張っても何の利益もなく、自然体で生きられればと感じ始めている。同期の友人の店は、メニューは大体決まっていて、一寸値段は高いが、フグやタイなど旨い魚を食べさせてくれるし、他店ではなかなか飲めない良い酒を飲ましてくれるので、よく食べ、よく飲む人は、特に楽しいかも知れない。前回は、旨い酒をぐいぐいと飲んだので、少し酩酊してか、友人と諍いに至ったのではとの反省から、今日は、隣の友人が注いでくれる酒だけで、自分自ら酒瓶に手を出すことはしなかった。それでも良い気分になり、高槻までの友人2人と共に帰ったが、後1駅を乗り過ごさぬように立っていくように言われていたので、その通り守って、無事帰宅することが出来た。
2012.01.30
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日本では施政方針演説、アメリカでは、大統領の一般教書演説と言う呼び名であるが、意味するところは同じである。即ち、施政方針演説とは政府の長(首相)が議会でその年一年間の政府の基本方針や政策についての姿勢を示すために行われる演説であり、一般教書演説とは米大統領が連邦議会に対し、今後1年間の内政・外交全般の施政方針を示す演説ということである。 その両演説が、日本では1月24日の通常国会で、アメリカでも現地時間の24日に行われた。日頃は、日本の首相の施政方針演説などあまり見ないのだが、アメリカ大統領の一般教書と同時期であったと言うことで多少見てみることにした。元より、日本の首相は、議院内閣制で選ばれるわけで、我々の意図が直接伝わりにくい嫌いがある。民主党は、2009年8月の衆院総選挙で圧勝し、悲願の政権交代を果たした。そして鳩山由紀夫内閣が発足したのだが、この馬鹿鳩、発言は思いつきだけで、ぶれまくり、自分の生い立ちから想像する、善意の花園にいるかの如き錯覚からか、その優柔不断は、普天間飛行場移設での最低でも県外発言という精一杯のパフォーマンスを早々に撤回し、首相自らや小沢一郎元民主党幹事長らの「政治とカネ」の問題では大きな味噌を付け、「もう僕ちゃんは議員を辞めちゃうぞ!」なんてことを言い放ったが、未だに居座り、誰も必要としていないのに「必要とされる限りは、議員に留まる」的なことをぬけぬけと言ってのけるのである。最早、国民は何の当てもしていないし、海外に於いても同様の感覚である事は、外国高官の話でも時折出てくるが、当の本人は、蛙の面に小便である。続く菅総理は意気込んで右手にマニフェストを掲げたが、時悪しく東日本大震災に見舞われ、その対応の不適切さに、涙をのむ形で退いた。逆に言えば、毒にも薬にもならなかったと言うところか。しかし、罪もあるが、原発という暗闇で為されていたことをあからさまにした功もあるのかも知れない。今回の野田総理は、係累もなく、金銭面でも今のところクリーンであり、松下政経塾の1期生という事もあって、民主党による政権交代が、良かったと思わせてくれるかという期待の残渣はあった。しかし、これまでの言動や、この施政方針演説を聴いて、表面面を見れば、確かに納得のいくところもあるが、経緯を追うと、これ程人を馬鹿にした、演説もない。野党の自民党が、同じレベルで、揚げ足を取っているばかりでは政治は前に進まないのだが、私個人としては、やはり以下の野田総理が野党時代に街頭演説をし発言していた内容とあまりにかけ離れているのを見るとき、「君子は豹変す」と言う以上に、野党時代にこの状態を見抜けなかった政治家だったのかと、情けなくなる。その街頭辻説法は、「マニフェストに書いてあることは命懸けで実行」で、・・「書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。」「書いてないことを平気でやる。これっておかしいと思いませんか。」「書いてあったことは4年間何にもやらないで、書いてないことは平気でやる。」という下りや「税金の無駄遣いは許さないということです。天下りは許さない、渡りは許さない。それを、徹底していきたいと思います。」といい、「消費税5%分の皆さんの税金に、天下り法人がぶら下がってる。白アリがたかってるんです。白アリ退治しないで、今度は消費税引き上げるんですか?」・・・と、そう言ったまやかしをしないのが民主党なんですとぶち上げていた。あれは一体何だったのだろうか、まるで人格が変わったとしか思えないのである。仕分けのパフォーマンスには飽きたし、官僚原稿にも飽きた。本当の国民のための政治が望まれている。はげの三宅氏は2言目には、消費増税を言うし、国民の中にやはりそうなのかなと思うような気持ちを醸成させている。巧みなレトリックを労しているが、それが松下政経塾の教えなのかと疑う。塾は勉強するところであり、そこでは決して高邁で、高潔な理想的人格が身につくところではない。人間の品性は下劣でも東大に入学できる馬鹿鳩が良い例だ。17特別会計を11に削減する案や、独立行政法人を減ずるつもりが予定に届かないと言った風に、皆パフォーマンスの域を出ない。官僚の宿舎なんて目じゃないほど、55年体制から溜まった、膿は、脈々として残り、既得権益で貪り荒らすシロアリ退治はどうなったのか。野田総理が言ったシロアリは、日本という母屋の大黒柱をも倒してしまいそうだ。諸外国の消費税率を引き合いに出すことは止めて貰いたい。かの国は、高い税金をデポジットとして前払いしているが、それは医療の無料化、教育費の無料化、老後の安心代として確実に使われているわけで、決して、数%の特権階級の懐を潤すためではないことを、総理自身も知っていたではないのか。そう言うことを学ばずして何が政経塾だと言いたい。増税を政治・行政改革と一体にして貰いたくない。先ず、徹底的に、国民が納得できる政治・行政改革をやり終えてから、増税論議を始めようではないか。今までの一貫した民主党の方針を見る限り、政治主導は何処へやら、かつての自民党のように官僚の作文を棒読みしているだけだと言うことは誰が見ても明らかだ。先ず死にものぐるいで、「ネバー×4、ギブアップの精神で、官僚の人員削減、さらには、給与削減を先行しようではないか。勿論平行して違憲と何度も言われている議員定数の是正、そして、議員一人頭に掛けている諸経費(歳費も含むが)を極限まで切り詰めようではないか。施政方針演説の中で具体的に強調されているのは消費税だけであると言っても良く、神の声が乗り移ったのであろうか、まさに野党時代とは完全に別人である。政権は1年持続しないことが自明でも、施政方針演説は施政方針演説なのだろう。一方は、アメリカのオバマ大統領の一般教書演説では、今年の11月6日は大統領改選の日となっており、オバマ大統領は支持率50%を切っている。しかし、未だ1期目の大統領として、現職の強みで、今年の選挙がどうなるか解らない。これに反して、野田内閣の支持率は、28%と国民意思とは乖離していると言っていい程、所謂レイムダック状態である。特に消費増税に反対する割合は53%と、半数を超えている。先ず増税ありきで、その結果なし崩し的に、更なる増税が待っているというか、そうしなければ破綻すると、言うことらしい。入るを計るのは1つの方法であるが、出るを制することに手を付けない限り、この問題は永久に決着は付かないだろう。オバマ大統領の一般教書演説には、経済政策で、「製造」を基盤に考えていると述べているが、野田首相にその考えは微塵もない。またオバマ大統領には「教育」の文字と重要性の言葉はあるが、野田総理は、僅かに人づくりの投資強化を言っているが、教育に対する抜本的考えは聞かれない。ない。またエネルギーに関しても、オバマ大統領はエネルギーについて具体的に述べているが、野田総理の方は極めて抽象的で、中長期的なエネルギー構成を考えると云いながら、原発に対する安全性云々と、原発堅持を捨てきれない内容だ。イノベーションを推進すると言い、海洋国家である故の資源の宝庫だと並べるが、現在殆ど100%資源輸入国が、どういった資源開発を目論んでいるのか、全く抽象論で終わってしまっている。アメリカはシェールガスと油田の開発で、余裕を持ち始めている、日本は、メタンハイドレードというシェールガスよりも希望のある資源があるというが、その動向は一切語られていない。外交に関しても、オバマ大統領は、イラクやアフガニスタンでの成果を強調し、次なるターゲットのイランの核兵器阻止に全力を挙げると表明している。また、雪解けが近いミャンマーに関してもいち早くアメリカのプレゼンスを謳い上げているが、野田首相の場合は、何とかアメリカとの基軸関係には言及しているが、その他の国については、全て善隣外交的で、メリハリが無く、皆さんと仲良くやっていきたいというに留まっている。日本の専守防衛体制では、対中、対ロ、対韓国などの焦眉の急に対しても言及できず、当たり障りのない官僚的作文だけに終始し、自らの言葉で何ら語っていないわけで、増してミャンマーの民主化などは全く眼中にないと言って良い。両演説とも、勿論ブレーンや官僚の作文ではあろうが、らしさを表現できているのは、オバマ大統領の方ではないだろうか。成果を強調しなければ、来る選挙に勝てないと言うこともあるだろうし、より広く国際的な関係を見ている内容だが、野田総理のは、消費増税の点では全く、人が変わった如く洗脳された力の入れ様だが、その他は、総花的で、あれもこれも言っておかなければと言う、官僚の文章から何ら抜け出していないと感じた。今あたかも、橋下ブームに火が付き、石原慎太郎や、もう済んでしまったかと思った平均年齢72歳の老人達が、そのまま立たないのかと思ったら何やら、橋下を杖にして立ち上がろうなどと考えているようだ。自分たちが練り上げたマニフェストを守れないし、施政方針演説はと言えば、いつもながらの官僚作文の朗読、自民党が、民主党に変わっても、之では、いつまで経っても、我々の望む、庶民目線の政治が行われる日は来ないといった気持ちが強くなるばかりである。幕末、明治は本当に遠くなったものだ。
2012.01.29
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イランの問題を考えるとき、切り口を何処にするかで意味が変わってくるほど複雑な背景を持っている。しかし、現在問題になっている原点は、イランの核開発だ。元々核保有の問題には一方的な論理がまかり通っている。世界では、既にアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国の5大国は核を持っているわけで、国連でも拒否権を有する大国は、既保有の核を持ち続けることは、ある意味仕方のないことだとの前提になっている。これはとりもなおさず、これらの国は核を保有しているが絶対に使わないという暗黙の通念が存在すると言うことなのだろう。本当か?一方では、1970年にNPT(核拡散防止条約)条約を結び、核兵器保有国数の凍結。原子力の軍事転用防止を計っているのである。之というのは、「俺たちは既に核を持っているから置いといて、とにかくこれ以上核を持つ国を増やさない方が良いよ、俺たちは常識あるけれど、非常識な奴らもいるからね」という意味なのだろう。之もふざけた話である。アメリカの常識は広島や長崎で原爆(核)を最初に2度も続けて、人類に対して核を使った極悪非道の国ではないか。そのアメリカが、自国の原爆投下に対して、さしたる反省もなく、ある意味では、戦争終結に必要だったと肯定する連中も居ながら、テロを起こし、世界の平和に脅威をもたらすため武装している北朝鮮、イラク、イランの3カ国を悪の枢軸と呼んだのである。このうちイラクは叩きのめしたが、実際には大量破壊兵器(核など)は見いだせなかったという大いなる誤算があった。北朝鮮には、一時、政治的、経済的圧力を加えるものの、同盟国日本が、最も解決を望んでいる拉致問題は、おそらくリップサービスで、解決を目指すべく最善の努力をすると言うに留まっており、日本政府共々なかなか拉致があかない。その後も、インドやパキスタンも核を保有しているぞと言い、大ぴらに核実験を挙行している。之も黙認している。そして保有の可能性が極めて高い国として、北朝鮮とイスラエルが挙げられる。既にアラブの春で、独裁政権が終了したリビアは、カダフィ時代に核開発を断念している。南アフリカ等、保有していたが廃棄したとされる国もある。核保有国が之を行使しないと断言できる人間は誰もいないだろう。居るなら即全廃できるはずだ。アメリカとロシアのどちらか一方が使うと、その相手国から相応以上の報復があり、おそらく地球は滅亡するだろう事は、想定の中に入っているはずである。ではインドとパキスタンではどうだろうか、これらの国は、宗教上の対立や、今でも北西辺境地では、一触即発であるが、互いに核兵器を使うまでには高揚しているとは言い難い。しかし、誰も小型の原爆を局所的に使うことが無いと保証できるものではない。インドが、またパキスタンが、局所的(北西辺境地などで)核ミサイルを使ったとしても、世界が大きく変わることはないだろうと思う。それは即ち使用の可能性が高いと言うことかも知れない。一方の問題は、北朝鮮だが金正日亡き後、傀儡と言われる金正恩がどれ程無軌道であるかについては、未知数といわねばならず、警戒おさおさ怠りないと言うことだろう。日本にとっては、既に北朝鮮の核攻撃で、全土が焦土化する事は判明しており、アメリカに至っては、北朝鮮のテポドン2の射程距離が、アメリカ本土に届く可能性が出てきて、初めて真剣に北朝鮮を相手にしだしたが、日本はそっちのけである。その他には、イスラエルがあるが、私は、この国を引っくるめて、核廃絶を進めない限り、イランの核開発を単独で止めることは出来ないと考えている。しかし、まがいなりにもイランはNPTに加盟しているようだ。だがイスラエルはインド、パキスタン共々NPTには非加盟である。昔は、イギリスの3枚舌外交などと言っていたが、今はアメリカのダブルスタンダードがそれに変わっている。アメリカは、過去、外国が自国に、ましてや本土に直接脅威をもたらしたのは、2001年のアメリカ同時多発テロだけではないだろうか。勿論ハワイの真珠湾へは、日本が、奇襲攻撃をしたとされており「Remember Pearl Harbor」と言うことで、自国民を鼓舞して来、最後には、過剰報復の原発2個という結果だ。テロを止めさせるために何故アメリカはイスラエルをたたけないのか、それは、自国に於ける隠然たるユダヤ勢力のためである。イスラエルの過剰な、パレスチナ入植を何故止められないのか、アメリカという国の(おそらくどの国もそうだろうが)限界が見えてくる。取り敢えず、NPTの目的としては、1.核保有国による非保有国への核兵器供与、製造援助の禁止2.非保有国による核兵器取得、製造の禁止3.非保有国に対する、国際原子力機関(IAEA)との保障措置協定に基づく核査察受け入れ義務付け4.加盟国による誠実な核軍縮交渉が挙げられており、そのどれ1つ取っても、イランは誠実に対応していないと言うことである。消去法で残る当面の国はイランと言うことになる。そう言った意味でのイラン核問題というのは、2002年に秘密核開発計画が発覚したのが発端である。2006年には中部ナタンズの施設で低濃縮ウラン(濃度3・5%)の製造に成功したとしている。これに対し、国連安全保障理事会は2006年12月以降、4度の制裁決議を採択してイランにウラン濃縮の中止を求め続けてきた。しかし、保守強硬派のアハマディネジャド大統領は安保理決議を無視し、ウラン濃縮を続け、核爆弾2~3発の原料となる3トン超を製造した。2009年には中部コム近郊で第2の濃縮施設を建設する計画も判明した。アハマディネジャド大統領は、核開発は平和目的だと主張しているが、中東の腕白坊主である大統領が、核開発を兵器に転用するであろう事を見越して、警戒する国際社会との対立が続いていると言う構図である。 核に関する国際社会の課題としては、1.核軍縮、2.核拡散防止、3.核テロ防止と大きく3つの課題がある。私などは、1.の核軍縮を可及的に進めて、核廃絶にまで持っていくべきではないかと単純に思う。超大国アメリカ、ロシア間では冷戦時代からはSTART(戦略兵器削減条約)を通じSTART1→START2→新STARTと核弾頭数を減少させ、互いに25000~27000発あった核弾頭を新STARTでは、目標1550発に削減するとしている。方向は良しだが、1550個の核弾頭を互いに使ったら、地球は何度も壊滅するであろう。そして、2国間で核を減少させようとすると、中国が、俺も造るぞと、GDP世界第2位の財力で力任せに増強に加わってくる。何故今イランなのかは、ある意味理解できなくもないが、大きなザルの網は少し縮めただけで、金魚すくいの破れやすい紙を貼った網で、イランをすくい取ろうとしても、いささか無理があるようだ。アメリカは経済制裁に打って出た。EUもイランからの原油を禁輸した。そして、アメリカは、トモダチ作戦宜しく、日本にもイランからの原油輸入削減を申し入れてきた。お友達だから、之に応じないわけにはいかないし、核兵器を心の底から(?) 嫌っている日本は大義名分としても当然これに同調する。中国はしたたかで、そう言った制裁協力には慎重である。中国は一方では、イランに対し、「誰も買ってくれなくなるぞ、俺は買ってやっても良いが、安くしておけ」と足下を見る外交戦術まで使っている。経済制裁は、経済の大部分を石油輸出で賄っているイランにとっては、重大な問題であり、対抗措置として、核開発を止めるなどとは言わず、原油輸送のタンカーが通過するアラビア湾(ペルシャ湾とも言った)の喉元であるホルムズ海峡を全面封鎖すると言う。日本が輸入する原油の8割以上は、このホルムズ海峡を通るという重大問題だ。アメリカはここに、空母を派遣するという。まるでキューバ危機の再来のようだ。私もUAEにいるときに最北端まで行ったが、先端はオマーンであり、ホルムズ海峡を望むことは出来なかった。アメリカは、自国でのシェールガス開発に目途を付け、メキシコ湾での原油調達も十分だと言うことで、自国の、エネルギー政策上は、アラビア湾(ホルムズ海峡)は案外致命的な意味を持たなくなっているのだろう。1も2もなくのど元に切っ先を突きつけられた、日本は、それでも唯々諾々と従わなければならないのである。また一つ、原発村の連中に、故に原発が必要なのだと言うことを言わしめるのではないかと、考えてしまう。余談で、海賊に捉えられたイラン船員を米軍が救ったことに対し、イラン政府は人道的と謝意を表したようだが、イランの保守派は、アメリカの空母を展開するための茶番だとこき下ろしているようだ。まだまだ余談を許さない状況が続きそうだ。
2012.01.28
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第二十一段【本文】 万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ、ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。 月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をも分(わ)かずめでたけれ。「?(げん)・湘(しゃう)、日夜、東に流れ去る。愁人のために止まること少時(しばらく)もせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。?康(けいかう)も、「山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ」と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。 【訳文】世間のいろいろの雑事は、特に、月を眺めることによって慰められるものだが、しかし、ある人が、「月ほど感興あるものはあるまい」と言ったところ、もうひとりが、「それより露の方が一層興趣があるものだ」と言い争ったのは、おもしろいことであった。よい時機にあたるならば、何であっても、しみじみとした興趣のないものがあろうか。 月・花はいうまでもないが、風は、特に、人間に興趣を感じる心を催させるもののようだ。岩にあたって砕けてはすがすがしく流れている水のありさまは、どんな季節の区別もなく、いつも、実に賞美に価いするものだ。「?・湘、ふたつの川の水は、昼も夜も都のある東の方へ流れ去ってゆく。都に帰りたい思いを抱いている、この悲しい自分のために、しばらくの間もとどまってくれないのだ」と詠じた詩を見ましたのは、実に感慨が深いものであった。?康(けいこう)も、「山や湿地に遊んで、魚や鳥を見ていると、心が楽しくなる」と言っている。人里を遠く離れた、水や草のすがすがしい場所をそぞろ歩きするくらい、心の慰められることはあるまい。【注釈】・心はつく:心を催させる・?・湘:中国抗州の川名・?康:竹林の七賢人の1人・人遠く:人里を遠く離れた第二十二段【本文】何事も、古き世のみぞ慕(した)はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。 文の詞(ことば)などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮(とのもれう)人数立(にんじゅた)て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講(さいしょうかう)の御聴聞所なるをば「御講の廬(ろ)」とこそ言ふを、「講廬」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。【訳文】 どんな事でも、みな、遠い昔の代が格別に慕わしく思われる。当世の事は、むやみに卑俗になってゆくだけのようである。あの指物師の造っている、美麗な器物も、特に古風なさま・かたちなのが趣致あるように思われる。 手紙のことばなんかも、昔の反古の類を読んでみると、どれも立派なものだ。直接口に出して言うことばも、昔に比べると、次第に、情なくなってゆくことである。古い時代には、「車もたげよ」、「火かかげよ」とだけ言ったのを、当節の人は、「もて上げよ」、「かき上げよ」と言っている。「主殿寮人数立て」と昔なち言うはずのことを、「たちあかししろくせよ」と言うし、禁中で最勝講の講義を天皇が聞かれる御座所をば「御講の廬」と特に言うべきものを、略して「講廬」と言う。これらは情ないことだと、昔を知る老人がおっしゃったことである。【注釈】・今様:当節・無下に:一概に・車もたげよ:牛車の轅(かなえ)を持ち上げよ・火かゝげよ:灯火の光を明るくせよ・主殿寮:禁中の役所・人数立て:官人たちに立って式場を照らせ・御聴聞所:天皇が講義を聞かれるところ第二十三段【本文】衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神(かむ)さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。露台・朝餉(あさがれひ)・何殿・何門などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷・高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(おとゞ)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人(しもうど)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、こゝ・かしこに睡(ねぶ)り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣は仰せられける。【訳文】 昔に比べて、今は、衰微してしまった末世とはいうけれど、やはり、皇居の神々しいありさまは、俗世間の風に染まないで、立派なものである。露台朝餉、あるいは何々殿・何々門と称しているのを聞くと、すばらしい感じがするであろう。下賤のものの家にでもありそうな小蔀・小板敷・高遣戸という名なども、皇居のものだと、実に立派に聞こえるのである。また、「陣に夜の設せよ」という命令を下すのを聞くと、たいした感じがする。夜の御殿の灯火のしたくには、「かいともし、とうよ」などというが、これもまた、すばらしい言い方に思われる。儀式の際、上卿が、列座の中で、命令を下して行事を進行させている様子はいうまでもなく、諸役所の下役人たちが、得意顔で、物慣れた行動をしているのも、おもしろい趣がある。大変に寒い夜を通して、あちらこちらに、その下役人が居眠りしているのも、おもしろい趣である。「内侍所で女官が鳴らす御鈴の音は、結構で、優雅なものである」と、徳大寺の太政大臣は仰せられたことである。【注釈】・九重:皇居・内裏・露台:紫宸殿と仁寿殿の間にある板張り・朝餉:朝夕天皇が略式食事するところ・夜の設:灯火などの準備第二十四段【本文】斎宮の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」・「仏」など忌みて、「なかご」・「染紙」など言ふなるもをかし。 すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもたゞならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿(ゆふ)懸けたるなど、いみじからぬかは。殊(こと)にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・貴布禰(きぶね)・吉田・大原野・松尾・梅宮。【訳文】 斎宮が野宮におすまいになるありさまというものは、実に優雅で、興趣深いことの極みと感ぜられたことである。「経」「仏」などということばを避けはばかって、「なかご」「染紙」などと言っていると聞くのも、おもしろい。一般的にいって、神社というものは、ほんとうに、見捨てがたく心ひかれるものであり、世俗じみない優雅な趣のあるものである。長い年月を過ぎて古めかしくなっている、周囲の森の様子も、世の常ならぬ趣が深い上に、玉垣を一帯に造りめぐらして、榊の枝に木綿(ゆう)を懸けてある様子など、実にすばらしらしくないことがあろうか。その神社の中で、とりわけ趣の深いのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮の諸社。【注釈】・野宮:伊勢に下るときの仮宮・なかご:本尊仏像・染紙:経を写す紙(染めてある)第二十五段【本文】飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽(たの)しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。京極殿・法成寺など見るこそ、志(こころざし)留(とど)まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見(おほんうしろみ)、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、礎(いしずゑ)ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。されば、万(よろづ)に、見ざらん世までを思ひ掟(おき)てんこそ、はかなかるべけれ。【訳文】 飛鳥川の淵と瀬がそのままの状態にとどまらず、いつも変り易いように、無常なこの世であるから、時世が移り、人の遺した事実が滅び去り、楽しみと悲しみが交互に現われて来て、花やかな栄華を示した邸宅のあたりも、いつのまにか、人の住まない野原となり、また、昔のままで変わらぬ住居も住んでいる人は全く別の者に改まってしまう。昔通りに咲く桃や李の花は、ものを言うのではないから、昔のさまを尋ねることができないので今となっては誰と一緒に、昔のことを語り合おうか。まして、見たことのない、遠い昔において、尊い身分であったという方の住んでおられた遺跡は、特に、見てはかない感じがするものである。 京極殿や法成寺などを見るにつけて、それを建てた方の願いばかりは今も記録されて残っているが、その偉業が、このように変遷してしまったありさまは、まことに、しみじみと哀愁を催させるものである。法成寺を御堂殿が立派に造営なされて、寺領として荘園をたくさん寄進なされ、自分の一族だけが、天皇家の御後見役として、また、天下の執政者として、遠い将来まで世に立つべきものと考えおかれた当時に、どのような世になろうとも、これほど荒廃してしまおうとはお思いになったであろうか。大門や金堂などが少し前まであったのであるが、正和年間に、南門は焼けてしまった。金堂は、その後で倒れ伏したままであって、再び造り立てる様子もない。ただ、無量寿院だけが、昔の法成寺の形見として残っている。その内部には、一丈六尺の仏が九体、まことに尊い様子で、並んでおられる。行成の大納言の書いた、堂の額、源兼行の書いた文字のある扉が、いまもやはり、はっきりと見えるのがしみじみと感慨を催させる。法華三昧堂なども、まだ残っているようである。が、これもまたいつまで残存するであろうか。これほどの昔のおもかげを留めているものさえない、寺域内のあちらこちらでは、稀に、建物の礎石だけが残っているのもあるが、それが何の跡かとはっきり知っている人もいないありさまである。 こうしたわけであるから、何事につけても、すべて、自分の死後の、遠い将来までを考えて処置しておくことは、実に頼みにならないことであろう。【注釈】・御堂殿:藤原道長の屋敷・志:道長が法成寺建立に託した願・丈六:一尺六寸・思ひ掟てん:考慮して処置・計画を行う
2012.01.27
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先日、友人宅を訪問したとき、友人は孫が来訪して、相手をさせられたが、とても疲れて、帰ってくれてほっとした。というようなことを言っていた。5歳の男の子だという。身体ごとどんとぶつかってくるし・・・。なんだか眼に見えるような気がして、そうだろうなと想像した。大泉逸郎の「孫」と言う曲が流行り、カラオケでも良く歌う人が居る。「何でこんなに可愛いのかよ 孫という名の宝もの・・・」という歌だ。そして、「じいちゃん、あんたにそっくりだよと 人にいわれりゃ嬉しくなって 下がる目尻がえびす顔」と続く。そして、「紅葉みたいな手が二十歳になったら祝いの言葉をかけてやろう」と歌っているのだ。女の子だったら二十歳にが「嫁に行くとき」に変わっている。そして、歌の途中には、子供に対して、仕事にかまけて、十分に親らしいことをしてやれなかったその分を、孫に返しているのだという事が書かれている。また別な歌では、「抱いてあやせるこの幸せは 孫がいりゃこそ出来ること」といいながら、「こんな可愛い孫を産んでくれた嫁と息子に礼を言う」という下りもある。そしてこの歌でも、「あなた似だとか、おまえ似だとか」譲り合うとかの歌詞がある。落ち着いて聞いていれば、まぁ、どちらかのDNAを引き継いでいるから似なければおかしいといった面もあるわけだ。そして、この歌が馬鹿受けしたという。ついでに出した歌に、「孫も大きくなりました」があり、之は、2匹目か3匹目のどじょうを狙った歌であろうが、「孫を可愛いと思わない人がこの広い世に居るだろうか」と反語的に聞いていて「幼稚園から小学校に孫も大きくなりました」と繋いでいる。そして「孫に嫁来るめでたい席で、孫の歌を歌いたい」といった意味のことを歌っているのである。最近の傾向として晩婚が増えていて、2009年のデーターでは、初婚年齢は男は30.4歳、女は28.6歳と言うことになっているらしく30歳で結婚し、子供が出来たとして、その子が孫を生むのは、自分が60歳という事になる。従ってその孫を抱き、あやすときは若干の力は残っているわけで問題なく、可愛いと思えるだろう。その孫に嫁が来るとなると、更に30年の経過が必要となるわけで、最早90歳、殆どの人は生きていないと考えられるから、この2匹目のどじょうを狙った歌は、架空の歌であることは間違いない。と言うか、極めて長寿祈願の歌でしかないと言うことだろう。之が、昔のように、25歳程度で結婚するとしたら孫に嫁が来るのは75歳という事で、ひ孫も、案外実現は可能であろう。どちらが後先かは知らないが、門脇睦男が「孫娘」と娘に特化して歌っている。「めんこい孫娘の顔を見るまで長生きしなけりゃ」と人生百までを鼓舞しているが、これも晩婚であれば、本人は90歳、早婚であればやっと75歳と微妙なところである。従って、この歌は、希望値であり「千代に、八千代に・・・」といった祝い囃子の歌と考えた方が良い。そしてこの歌は更に「ひ孫を見るまでは」と欲張っている。現実にあり得ないことではないが、今の世の中、出生率が1.26迄落ち込んで最低の記録を更新するような状況下にあるわけで、日本はハイパー少子高齢化社会となることは眼に見えている。従って、この孫の歌を歌うおじいちゃんが望むように、長生きをすれば、その孫や、ひ孫に返って多くの負担を掛ける事になるわけで、安穏と長寿を望むということができなくなるわけだ。困った世の中になったものだ。もう1曲、もりたかしの歌う「孫の声」はおばあちゃんに特化した歌詞であるが、この歌は、連れ合いによく似た環境を歌っていると思われる。おばあちゃんの年齢も、孫の年齢も特化していないが、とにかくおばあちゃんが孫の手を引いておもちゃを買いに行く場面で、欲しいおもちゃを見つけたときに孫が大きな声を上げ、買って貰って「ありがとう!」という歌詞である。この場合を先ほどの晩婚のケースに当てはめると、孫は、5歳から小学校に上がる前程度仮定すると、65歳程度と言うことになり、大いにある得る話で、まさに連れ合いが該当する。そう言えば、外出時、連れ合いは、何時も孫のことを気に掛けている。今日は、子煩悩な太郎君が東京に出張していると言うことで、お嫁さんと、孫2人(小学校前と、幼稚園前)とで夕食のテーブルを囲むことになった。連れ合いの実家の方に集合ということで、私も17:30頃のこのこと歩いて出掛けた。こんな事でもないと、最近の寒さで、出歩くこともないから、少しでも歩くことができ、リフレッシュできる。暫くして、玄関に、孫の声が聞こえる。「こんばんは!」と大きな声であるが、部屋に入ってくると最初は、少しはにかんでか、私の顔を見ていない。無理矢理両手でほっぺたを挟み「今晩は!」と言うと、やっと「こんばんは」と元気に返す。少し遅れて後から、弟君が上がってくる。お嫁さんの手から私にと、小さな紙袋を渡してくれ、お兄ちゃんが私にあげるためと買ってくれたという。何かと思って開くと、恐竜を載せたトレーラーのおもちゃだ。前に買ってあげたおもちゃと同じである。どうやら、私も恐竜好きで、前は、そのおもちゃを譲ってあげた(同等の権利を有していたのに)と言うことが頭にあったようだ。子供が本当に凄いと思うのは、そう言った一寸した場面だ。子供の中には、外交辞令はないわけで、直裁である。「へーえ、未だ覚えていてくれたのか」と一寸感心と共に嬉しかった。あと一つ、彼の心にある計画は、こちらも見抜いている。福井の恐竜博物館に行くことだ。前に出掛けて、いたく感動したようで、その話をすると目がランランとする。「え、行くの!」と来るから「暖かくなったらね、でないと福井は寒いところだから凍って自動車が滑ったら危ないからね」というと、「じゃぁ、暖かくなったらね」と念を押す。弟の方も、巨大恐竜が、高い木に迫り上がるようにして葉を食べる恐竜の再現剥製がインパクトだったらしく、目を輝かせている。之は早いこと行かないとだめだなと後で、連れ合いと話した。上の歌にもあるように孫はすべからく可愛くなくてはいけないし、また可愛いい。連れ合いの孫達は、男兄弟なのだが、最近は特に仲が良い。と言うか、弟君は奔放であるが、兄貴の方が非常に良く気遣っているようだ。小学校に入るという回りからの声、勿論幼稚園でも小学校とは如何なるところかをインストラクトされているはずだから、未知の世界に入る緊張感もあるだろう。何人かの幼稚園での友達が、一緒だという点は、安心の種になっていることだろう。お母さんは、お勉強を少しずつ教えないと、とも思っているだろうし、本人にとっては、少し心細くもあるかも知れない。私の昔に比べると、私にはこのような場面はなかった。とにかく幼稚園に無理矢理担がれて行ったことは頭の何処かに吹き込まれているが、結局は、逃げ帰ったと言うことだ。シャイだったのか、怖かったのか、そこのところの気持ちは思い出せないが、きっと初めての土地で、友達といっても居なかったので、幼稚園に行くのが怖かったのかも知れない。従って、兄貴君が経験したこと、そして弟君が之から経験することを私は知らないわけだ。ご飯を食べる段になって、なかなか食が進まない。察するに、おやつを食べ過ぎたのか、はたまた、準備された釜飯が、子供には合わなかったのかである。お兄ちゃんは、昔からうどん好きで、うどんがあれば満足していた。ソーセージも大好物で、当然のことではあるが、私たちの好みとは少し違うことは確かだ。それでもデザートになると別腹があるのは、私にも覚えがある。一寸したことで、諍いがあっても根は仲良く、じゃれ合っている。私は、この兄弟が何時までも仲良く、いたわり、支え合って過ごしてくれたらと思う。私も基本的には、良い家族を持っていたが、1人例外が居ることが、残念であると感じた。私は9人兄弟の末っ子だから、家族が団らんするといったことや、家族で何処かに出掛けたと言うことは後々少しあったかなと言うぐらいの記憶だ。ここで、家族もどきの体験をさせてもらえることをありがたいと思い、連れ合いの孫2人も、何となくなついてくれているようで、嬉しい限りである。兄貴の方も昔は膝に抱かれてくれて、その温かみがまるで、「孫」の歌を地でいくような気分を味わせてもらったし、弟君の方は、今でも、時々暖かいぬくもりを与えてくれる。何の拍子か、今日も兄の方が、私に抱かれてくれた。昔に比べ、少し男らしく骨張ってきたようだが、感じは昔のままだった。いざ帰るときになって、おんぶしようと約束したら、それが肩車に変わった。当然、兄貴だけのかたぐるまは、弟には我慢できない。「僕も」という弟君を抱っこして、肩車と、抱っこで、帰り道の道の半分位迄来たが、こちらは少し飲んでもいたし、安全のため、そこで2人を降ろした。それから、きゃっきゃ、きゃっきゃ、と走り回る2人であり、私の帽子を握って走る兄貴、どんどん先に走っていく弟君を見て、子供、孫とこのようにして命が繋がっていくのかなぁと一寸感じた。大人も、おじいちゃんもそうだが、健康であることのありがたさをも感じたのである。
2012.01.26
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月1回のペースでゴルフをしている友人夫妻のところへ行きお喋りをした。昨年12月に西宮六甲でラウンドし、1月も早々に行こうと約束していたが、今年に入ってやけに寒い日が続き、ゴルフ場への道も凍結の恐れがあるということで、明日に変更して行くことにしていたがそれも取りやめになった。それというのも、友人の奥さんが趣味のステンドグラスを製作中に、指を切ったと云うことで、その傷もかなり深いらしく、病院で5針も縫うことになったそうだ。連絡があったのは数日前だが、連絡があった日にやっと抜糸したと云うことで、まだまだ安静にしておかないと傷口が広がる恐れがあるとのことだった。それで、否応もなく今回は中止することになったわけだが、このところの寒さを考えると、まだまだ山側は、降雪や凍結など考えられ、とてもラウンドできるような気候ではない。今年の冬はことのほか冷たく、東京などでも積雪で大変なようだ。ところが、去年の夏は、反対に凄く暑くて、7月などは、夏日が最低気温で、真夏日が半分以上といった具合に猛暑が続いた。地球温暖化というよりは、異常気象といった方が、言い当てていると思う。CO2による温暖化であれば、今年の冬のように寒さが身を切るようなこともないはずだからだ。一昨年の年末にその冬は、世界気象は荒れ模様とかで、年末年始には日本でも大雪に注意といった予想が出されていたが、その通りになった。その時の記事ではイギリスやフランスなど欧州、さらには北米東部に寒波と大雪があったと報じている。北極付近の寒気が一気に放出されているという事で、太平洋東部の熱帯海域の海面の水温が例年より低くなるラニーニャ現象がその原因だとする説明であった。それに加えて、通常は素直な円軌道を描く偏西風が、大きく蛇行することによって、シベリア寒気団が南下し易くなったというのだ。こう言ったことが未だ今年辺りも継続しているのかも知れない。理論がどうあれ、それをどうにかするという技術は未だ持ち合わせていないので、我々としては、相変わらず「今年は寒いですね」と言い合うしか手がないのである。地球がこのように、寒波や、大洪水、高温、大雨、熱波など地域によって様々な異常な気象をもたらした。人間というものは、如何にか弱いものであり、人間がこれら異常気象を回避すると云うことは出来ないので、なるべくこういった事が起こらないように祈るしかない。今回のゴルフ中止は、それほど大きな問題ではないかも知れないが、この調子でいくと2月はもっと寒いのではないかと考えてしまう。ゴルフが中止になったこともあり、また、連れ合いの息子の太郎君が勤める、最近なかなか評判の良いバッグの注文を受けていたこともあり、それを届けるという名目で、友人宅を訪れたわけだ。友人は、吹田の吉志部(きしべ)神社の近くで、家の横の道が参道になっているという一寸変わった立地にある。主祭神は天照大神などと書かれているが、まだ中まで入ったことはないが、本殿は2008年に火災により全焼したという。焼失前の本殿は国の重要文化財に指定されていたようだ。我々が、とんど焼きに出掛けた若山神社の主祭神は素戔嗚尊ということだから、その姉の筋に当たる神社のようである。吉志部と言う名も現在では岸辺と書かれているので、何やら由緒がありそうであるが神社の創建時の記録はないそうである。とにかく15:00頃という約束で、10分程度過ぎて到着したが、友人は寒いのにわざわざ外まで出迎えてくれていた。奥さんの指は包帯が巻いてあり、一寸痛々しそうであるが、痛みは治まっているとのことだった。頼まれていた一寸大きめのバッグを手渡すと、勿論予期していたこともあって、満足して貰ったようだ。連れ合いは、自分の財布を買おうとするのだが、黄色のものとマルチカラーのものとでどっちがよいか悩み続け、奥さんや友人にまで感想を聞くのであった。友人はマルチが良いと言うし、奥さんは黄色の方が良いという。結局は、自分が決めなければならないのだが、こういった一寸したことでも、選ぶ楽しみを実に延べ3日もかけて悩むのだから女性は凄いと思う。姫もそう言うところがあって、借家を探すのに何日も通ったことをふと思い出し、やはり親子だなぁと思った。一体何を話し込んだのか、特に之といって覚えていないが、友人は、英字新聞を取っていて、読むのが日課のようである。ふと積んである新聞の一番上には、赤字で書き込まれた新聞があった。結構深く読み込んでいるようなので聞いてみると、スコットランドが国民投票の結果、イギリスから独立しようと云う動きがあるのだそうだ。日本の新聞などには、何処にもそのような記事がなかったと思うのだが、どうなっているのだろうか。前回は、夫人手作りのチーズケーキを頂いたが、今回は指の事故もあるので、ケーキ持参で行ったのだが、どのケーキも美味しそうで、私には毒であると感じ(肥りすぎるから)1個の半分を貰った。友人は、少し位関係ないよと、こんな時には何時も云うのだが、彼の場合は、余程寒くても、雨が降らない限りは、日課として、ウォーキングに出掛けているのだそうだ。それも坂道を上る感じのコ-スを選び、1時間から1時間半掛けて歩くのだとかで、歩数は7-8000歩位だという。夕暮れる前に帰ってくるということで、その時間は奥さんがステンドグラスの教室に通っているといった按配である。奥さんは、ステンドグラスを始める前は、ビーズで小物を作る先生をしていたようで、その作品を何点か紹介してくれた。しかしビーズは目が疲れるということで、今はステンドグラスに切り替えたというわけだ。部屋中の小窓や一寸したところにもステンドグラスの綺麗な飾り物が置いてあったり取り付けてあったりで、全部完成したら、イタリアのドウォモのような雰囲気になるのではと想像してみた。何時間喋っていたろうか、19:00近くになったので、今日は近くのレストランカフェで食事をしましょうと言うことになり、場所を変えて、パスタとピザを前にして、また色々と話し込んだ。友人とは、高校時代同じクラスになったわけでもなく、クラブ活動でも顔を合わすことがなかったが、修学旅行の時など、何故か近くで写っている写真が多かったようだ。彼は高校時代は、おとなしかったようだが、その後会社に勤め、海外生活が延べ20年にもなると言うから、凄いことだ。人の一生は、目論見と結果がなかなか一致はしないし、始めから終わりまで予定していたコースを歩む事など、出来るわけもないが、70年近く生きてきて、何処かでいくつかのターニングポイントを経て、今、高校時代の同級生の連れ合いと一緒に暮らしていることも不思議と言えば不思議ではあるし、同窓生ではあったが、当時あまり話したこともなかった友人と今こうして、話していること、またその奥さんと連れ合いが妙に気が合うというか、波長が合うと言うことも、不思議な巡り合わせだ。人生で、色々苦しいこともあったが、晩年をハッピーな気持ちにさせてくれる連れ合いと、友人そしてその夫人との出会いは、有り難いことである。食事を終えて、勘定は、友人が持ってくれた。レストランを出る前に、友人は夫人が作ったデザートを思い出したとかで、再び家に上がってそのババロアを頂き、また少し話し込んだが、今度こそ、カバンを届けなければいけない、連れ合いの兄の店に行くため辞去したのである。半日が、あっという間に過ぎていったが、これといって、話したことを思い出すわけでもなく、何を喋って、時間が過ぎていったか、不思議な位である。高槻に着き駐車場から歩くときになって頭が涼しいことに気がついた。帽子を忘れてきたのである。いつもながらとんまなことである。つるつるの頭に帽子がなければ寒かろうと、後に宅配便で届けてくれたが、余分な手間を取らせてしまった。兄貴のカラオケ店は、水曜日はあまり人が来ないとかで、届けたカバンのことなどを話題に暫く居て、次回参加することになっている、カラオケ大会用に新しい歌を2曲ほど歌ったが、あまり良い点も出ず、帰ることになった。今日は、何かと忙しい日であったが、あれこれと充実した1日であった。
2012.01.25
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連れ合いがこれは観に行こうという映画だったが、私は最初あまり乗り気ではなかった。しかし、1964年の事を描いた3作目という事で、私たちが丁度成人を迎えた年であると言うことを知り、それならば懐かしい当時の雰囲気に浸れるかと観に行くことを決めた。その頃は、未だ大学生だったので、行動範囲も狭く、大学と家を往復する毎日であり、東京などへ出掛けることもなかったので、映画に出てくる東京タワーなどは、噂で聞く位でしかなかった。勿論新幹線が出来てもその恩恵に浴することもなく、そんな速い列車が国鉄に出来たのだという話は知っていたが、それが東京オリンピックに間に合わせるためであったとしても、私には全く関係のないことだった。しかしながら、団子っ鼻の「0系」には、あまり乗らなかったが、その後段々と改良され、最初、東京―新大阪間が4時間であったのが、やがて山陽新幹線の開通もあり、岡山に勤めていた私などは、東京出張と言えば、寝台特急「瀬戸」で寝ながら東京に着き、朝早くに空いている朝飯屋で朝食を済ませ本社に出勤するといった行程だったのが、ブレッド・トレイン(弾丸列車)と言われたように、新幹線が岡山-東京間も日帰り圏内に変えてしまい、之は労働強化だな、等と考えたものだ。その後、バブルの時などは、「新幹線通勤」などといった言葉まで出来て、新幹線の威力を強く感じたものであった。この映画は、3作目だという事で、実は2作目も観て、一寸うるっと来るところもあった記憶がある。いつだったか、4年年上の先輩との会話の中でもその話が出て、先輩もこの映画背景が楽しみだと言っていた。第1作目から東京の下町で当時の港区愛宕町界隈を想定した夕日町三丁目を舞台とし、そこに暮らす人々の暖かな交流を描くドラマである。私はドラマそのものを観たかったわけではないのは先に書いたとおりだが、軸となるのが、小説家志望の芥川龍之介をもじった茶川竜之介や、吉行淳之介をもじった古行淳之介等であり、またスズキ自動車をもじったのか、自動車修理工場の鈴木オート鈴木則文の絡み合いも、物語の中の人物像として出てくる。しかしながら、この物語が東京の下町であると言うことで、現在でこそ、東京タワーに上った経験があったり、新幹線に乗ったことがあったりするので、理解は出来るが、当時の私は、大阪しか知らず、また阪急沿線に住んでいたので、映画に出てくる下町の風景とは、若干違っていて、映画の方がレトロっぽく感じた。映画のストーリーは、別として、連れ合いと入ったものの、疲れていたのか、始まってすぐ私も連れ合いも少し寝ていたようだ。当時の映画館なら全く考えられないことで、最近のシネマコンプレックスというのは、何時行ってもガラガラであるから、近所に迷惑にはならないので助かる。時代考証で、当時の風景や、走っている車(確かではないが三菱コルトの前身か)、何気なく駐車してある車(ダイハツのミゼット)等は、妙に懐かしい感じである。富士重工はスバル360を製造し、この車がのっぺりしたフロントビューが何台も走っていたのは微笑ましい感じだった。自動車に思い出があるのは、丁度この歳に私が免許を取ったと言うことからかも知れない。勿論当時の我が家で車を持つなどというのは考えられなかったが、大学でバスケットボール部の同級生が免許を取るというので誘われ、免許だけでも取っておいたらという勧めを、親父に話すと、2つ返事でOKしてくれたからである。免許を取って、暫くしたら、親父の会社への送り迎えを条件に、いすゞのベレットを買って貰ったのも、免許取得からそれほど時間が経っていなかった。親父を送りがてら、大学へも車で行ったらしく、同期の友人達は、私と車とを対にして記憶していると云うことだ。阪急沿線に住んでいたから、勿論梅田には何回か行った。映画が最盛期であったようで、梅田劇場、北野劇場そして梅田コマ劇場などがあり、ど派手な大形看板が掛かっていた思い出がある。さらには、「三丁目の夕日」は3Dで観たのだが、3Dの走りであろうか、飛び出す映画や、3台の映写機で投影するシネラマなども当時話題になっていて観たことがある。シネラマは、3台の映写機なので、ワイドではあるが、そのつなぎ目で映像が何となくぎこちない感じだった。飛行機などが左から右に飛ぶときなど、つなぎ目で、少しがくっと方向を転換するようにも見えた。音響もバックに3台のスピーカーを配していたのか、飛行機の動きに連れて、音を出すスピーカーも左から右に移っていき、動的な感覚を表現していた。今回の3Dはスムーズであるが、果たして3Dで観る必要があったかというとその必然性は全くないと感じた。新聞の宣伝には、3Dの作品で良い仕上がりだ、などと書いてあったが、3Dらしさは、3-4箇所しか無く、メガネを掛けることに依る画面の暗さや、第一メガネ代の300円が勿体ないと思った。その当時、映画館は、南(難波や天王寺)にも沢山あったようだが、この時代に、連れ合いと「風と共に去りぬ」を観に行った難波の南街劇場は特に印象が深い。老朽化のため2004年に閉館し、現在は「南街シネプレックス」の中で、「TOHOシネマズなんば」となっているようだ。南には通天閣が既に建っていたが、未だに通天閣には行ったことが無く、時々テレビ放映で観る位だ。折角大阪に帰ってきたのだから、死ぬまでには1度ビリケンさんとやらの顔を拝むにも悪くないかなと思っている。その他、劇場と言えば、宝塚劇場があり、私の通った大学の教養学部の近くで、原子力工学科に在籍した同級の男が何かと言えば、そこに通っていた。大の宝塚ファンだというその男は、結構むくつけき大男だったので、宝塚とは似ても似つかないなぁと感じたものだ。現在よりは、百貨店のステータスは高かったようだ。梅田の阪急百貨店もそうだが、難波の高島屋、心斎橋筋の三越や、そごう等々、お中元やお歳暮には、その百貨店の包装紙が、ぐっと中味の価値を高めていた時代であった。しかし、そう言ったお中元やお歳暮などと言うものは私の家とは関係のない代物であった。親がそう言ったことを嫌っていたこともそうだが、贈り、贈られる人が居なかったからかも知れない。また、京都に何やらタワーが建つと云うことで、建設中であり、古都京都に似つかわしくない異様な感じの白く、てっぺんに赤いUFOを載せたような京都タワーもこの頃に建てかけていた。更に後になって、大型の船をイメージしたのか、近代的な京都駅が景観問題で、喧喧諤々しながらも今、威風堂々として建っているのは、当時からは考えられないことであった。この映画の出だしの「オリンピックだ!」は、この年のメインイベントであった。猫も杓子もテレビにかじりついたのではないだろうか。映画でも東洋の魔女が優勝したことを取り上げていたが、今のなでしこジャパンとどちらがどうだか解らない位に日本中を元気づけたのではないだろうか。ソ連との優勝決定戦に圧倒的な力で勝って、金メダルを獲得した時のテレビ視聴率66.8%だと云うから、日本中の人が殆ど見ていたのではないかと云うことだ。私の家にテレビが導入されたのは、この映画の時代よりは少し前だったかも知れないが、当然白黒であった。作家、茶川竜之介の家のような、飾り気のないテレビだった。お金持ちの家では、家具調のまさに座しに置く家具としての存在感を持つ、鈴木オートの社長が買ったカラーテレビの様だったことを思い出す。当時カラーテレビが観られるというのは、結構裕福な家だったと思うし、私の家が、白黒であったことに不満はなく、親父も頑張って買ってくれたと思ったものだ。さぁ、当時の番組はどうだったのかと思い出してもなかなか出てこない。高校野球を良く観ていたような気がする。溌溂とプレーする若者が、ほんの少ししか歳が変わらないのだと思ってみていた。そう言えば、ひょっこりひょうたん島なども放映されていた。後に就職して、宴会で、その歌を歌う同期入社の顔が浮かぶ。1964年、今からはや、半世紀前、思い出せないほど色々なこともあったが、クラブ活動と、学科の単位を取ることで汲々していたという思い出以外に無いような、狭い世界で生活していたようだ。映画の中味のように、当時の人と人の繋がりが今よりぐっと暖かいものであったような気がしている。
2012.01.24
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この映画を実際に観たのは2日前の20日である。連れ合いが何となく教えてくれたのだが、それまでは全く気づかなかった。題名から想像すると、2重の悪魔といった感じであり、副題に-ある影武者の物語-とあったから、何かサスペンスのような、フィクションを想像していたのである。ところが良く聞いてみて、パンフレットを手に取ると、現実の手記に基づいたものであって、イラクを長年にわたって支配してきた独裁者で、イラク戦争の当事者のサダム・フセインの長男である、「狂気の申し子(ブラック・プリンス)」と呼ばれたウダイ・フセインの悪行を映画化したものである事が解った。父親のサダム・フセインは2006年にアメリカ軍によって捉えられ「人道に対する罪」で処刑された事は記憶に新しい。中東のまさに火薬庫のようなところに生まれ、独裁者の息子として育った男は一体どういう生活をしていたのか、またバグダッドという街はどのような街なのか、非常に興味があった。早速見に行こうと出掛けたわけだ。ウダイ・フセインの想像を絶する悪行と、そのウダイに酷似しているからと言って、無理矢理影武者にされた男、ラティフ・ヤヒア(この映画の原作者)の物語である。映画の中に出てくるサダム・フセインは、その息子と比較すると穏健で、分別があるように描かれているし、常識的でさえあるように見える。サダム・フセインは強引にクウェートに侵攻したことやクルド人に対する化学兵器攻撃、イスラム教シーア派住民ら148人を殺害した件などで、血塗られた独裁者と呼ばれ、最後は、絞首刑で処刑されているのだが、そのサダム・フセインさえもが、分別ある人物のような姿で描かれているから如何に、ウダイ・フセインが非道で、悪魔的だったかと言うことが想像される。映画の中で、父親サダム・フセインが「子供の時に頃に殺しておけば良かった」というセリフを吐くほどだから、影武者にされたラティフ・ヤヒアが如何に苦汁をなめたかを物語っている。しかし、冷静に考えれば、親のDNAを引き、親自身が、非道を行って来たのであり、その息子が、無軌道を通り越した、無慈悲な所業であったのは、ある意味では、当然なのかも知れないと感じた。それほど、ウダイ・フセインは常軌を逸した男として描かれているが、この映画は、影武者に仕立てられ、数奇な運命を辿ったラティフ・ヤヒアその人が体験に基づいた手記というから信憑性もあり更に興味深いのである。そして、ラティフ・ヤヒアは「デビルズ・ダブル」の原作(即ち自己の体験記録)を表すに当たって、実際にはもっと惨たらしいことが行われたと云い、その部分を映画化するにはあまりにおぞましいと表現しているのである。映画で、ウダイ・フセインとラティフ・ヤヒアを演じるのはドミニク・クーパーの1人2役で、真逆の性格を良く演じ分けている。物語の端緒は、ラティフ・ヤヒアとウダイ・フセインとは高校時代の同級生であり、顔がよく似ていたことから物語は始まる。超進学校である高校にウダイ・フセインがいたのは偶然ではなく、親の威光によるコネ入学である。ウダイ・フセインが首席で卒業したと言うのも、悪い点を付けた教師は、拷問に掛けられるといったら、その他のことも類推できようというものだ。皇太子様のご学友というわけにはいかなかったのは、ラティフ・ヤヒアがウダイ・フセインと酷似していたことだ。ウダイ・フセインの影武者(危険なところに出ないために)になることを強いられ、もし拒むと、1週間にわたる拷問が続き、さらには家族に危害を加えると脅され、屈服させられていくのだ。やがてやむなく影武者を演じさせられるのだが、整形手術で付け歯などを行い、若干の背の低さは、靴の底を高くすることで補い、ウダイの執事や取り巻き連中によってウダイの所作や、癖、等あらゆる面で徹底的にウダイのコピーとして仕上げられていくのである。サダム・フセインからも、2人の息子(ウダイの他に、クサイが居た)が3人になったと言わしめるまでにその仕草は似てきたのである。ウダイ・フセインの悪行は数え上げるのもおぞましいが、コカインの常習などは、当たり前のことで、中には、披露宴中の花嫁をレイプし、花嫁を自殺に追い込み、全てを金で解決しようとすることや、自分の誕生日パーティーに呼んだ客を全員全裸で踊らせるなど、異常行動には枚挙に暇がない。そう言ったウダイの悪行の数々に立ち会うはめになり、悪いことの尻ぬぐいをさせられるようになる。その代わりというか、影武者として居る間は、ウダイの暮らす大豪邸で共に過ごし、反対に許可無く外出することは許されなかった。ウダイはまた、異常な性欲の持ち主で、イラクの女子学生たちを拉致し、犯す常習犯だったことも描かれている。さらには、父サダム・フセインが信頼していた腹心を殴死させているが、懲罰と言ったものはささやかなものだった。1993年のドーハでは、サッカー日本代表チームとロスタイムで引き分けたイラク代表チームを「負けたら全員ムチ打ち」と脅していたことは有名である。そんなウダイであったから、サダム・フセインから後継者として認められなかった。ウダイを異常な暴力と狂気に走らせたのは、後継者と認められなかったからなのか、そこのところは語られていないが、原作のラティフは、ウダイをして、生まれつきの悪、天性のサディストであると称している。あのイラクで、宮殿の中で、ウダイと暮らした4年間に、ラティフは1度も安穏を感じたことが無く、何時も家族が殺されるのではないかという危機感を持っていた。高級外車は全てベンツ、女性はよりどりみどり、但しそれは、ウダイに従順であればこそであり、一旦意に染まぬと激しい体罰が待っていたというし、家族への波及は免れがたかったようだ。ルメイラ油田の話、クウェートはイラクの1プロビンス(地方)であったとする発言、そのクウェートが毎年何十億ドルと言う石油を盗み続けていると云って、クウェートに突入する様などを描いている。危険な戦場の最前線に、ウダイは替え玉ラティフを派遣し、ラティフも前線の兵士を鼓舞するのである。この映画には、ふんだんに実際の湾岸戦争時の実写が取り込まれている。米軍のステルス戦闘機が飛び、トマホークが飛行する場面もその1つである。ラティフが、叛旗を翻し、一転してウダイを殺そうとしたのは、父親の言葉であった。ラティフが逃亡中に、父親が、ウダイに拘束されたが、その時父親がラティフと交わした言葉は、ウダイを殺れと言う言葉だった。意を決してラティフが、電話口に出たウダイに言い放ったのは「Go to Hell」であった。そして、いつものようにウダイが女学生を軟派しているところに、忍び寄った、ラティフは、その股間に銃撃を打ち込むのだった。このシーンは、おそらく脚色があるようだ。イラク戦争でアメリカ軍によってバグダッドが占拠された後、ウダイは弟クサイと郊外の隠れ家に潜伏していたという、そして、この隠れ家はイラク人によって通報され、米軍の急襲を受けて2人とも射殺されたということだ。ラティフは、自分の手で、ウダイを殺せなかったことが心残りだと云っているのだが、その点では辻褄が合わない。どんな独裁者も影武者はいるというのだ、映画でも、サダム・フセインが自分の影武者とテニスをしているところが映し出されている。ヒトラーやムッソリーニ、金正日などにも影武者はいるとのことだ。独裁とは、甘い汁を吸う反面、狂気の行動を平然とやってのける異常さがないとできないことのようだ。映画で演じられたラティフは、ほぼ納得いく表現だとラティフ自身が云っているが、サディスティックな場面は実際の10~20%しか放映されていないのだそうだ。もし之を忠実に公開していたら、観客は5分以内に退場していただろうと語っている。ラティフは今海外亡命中だが、いずれの国からも国籍を取得していない。西洋に行けば、本当の民主主義を享受できるかと思ったが、どの国も皆、青い眼をしたフセインばかりだと述懐していることだ。アラブの春で、独裁政権が次々崩壊している。現在最もきな臭いのは、シリアではないだろうか、シリアで起きたデモ以来今日まで、日に日に死亡者数は増え、5000人は下らないと言う報道もなされている。何枚もの舌を持つ西洋諸国家、そして、力なく犠牲になり続ける貧しい国民。それは、独裁国家ばかりではなく、民主主義国家と言われる国でもその薄っぺらなベールを剥がせば、同じではないかと思うことである。
2012.01.23
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連れ合いの兄が経営するクラブでカラオケ大会があった。前々から開催していると云うことで、参加しないかという打診があったが、そのままになっていた。昼は奥さんがカラオケ教室のようなことをやっていると云うことだが、昼に訪れたことはなかった。そこで練習をした人達もやってくるというわけだ。月に1度開催しているとのことで、今回は174回と云うから、かれこれ14-5年は経っている勘定だが、そうだとすると結構息の長い大会と云うことになる。今回は、いつの間にか参加することになっていて、出掛けたのだが、参集していたのは全部で13人と案外、小所帯である。しかも我々よりも若そうに見えるのは、1人位で、後は80歳を越えるようなお年寄りと、それより少し若い人達ばかりであった。中には時々云ったときに見かけるお年寄りも居たし、良く会う夫婦で我々より若い主人も来ていた。歌合戦と銘打ったこの大会のルールは、自己申告制で、カラオケ機械が出す2つの点数を足して、2曲歌う点数を合計して、その合計に一番近くしかも越えない点数を申告した人が優勝となるルールだ。2台のモニターが出す点数の一方は、高低やリズムが合うかどうかで点数(仮に乗り点という)を決めているようであり、一方は偏差値だという。偏差値とは一体何なのかは最後まで解らなかったが、今までその歌を歌った蓄積をコンピューターが覚えていて、そのデーターに基づいて点数を決めているのではないかと想像した。とにかく2曲歌うのだが、1曲目の点数の内、偏差値点数はシークレットにしておくという。乗り点は明らかにされるわけで、リズム通り歌えたかと云ったことは解る仕掛けになっている。開始前に「馬」の投票がある。13人のエントリーに対して枠は7つ用意されていた。前回優勝の若い主人の奥さんと2位の人が1人で1枠である。3枠から6枠までは2人が入っていて、私と連れ合いは初参加と言うこともあって、もう1人の方と最後の7枠となっており、7枠だけ3人だった。自己申告の総合点は、大体300点前後であり、平均は313点と言ったところだ。私は、少し前に店で、歌った時の点数をベースにして大体の点数はどの位かと算定し、315点と申告した。生意気なことに、連れ合いは、330点という高得点の自己申告であった。因みに最高の申告者は、335点であり、次に高いのが331点という連れ合いの兄と同級生だという、我々の高校時代の先輩だということだ。連れ合いは、この2人に次ぐ3番目の高得点を申告したのだ。ステッキのおじいさんが最初に歌い、私は3番目、連れ合いは、8番目の順番を引き当てた。皆結構な歳だから、若い人が歌うような曲はないし、新曲なども出てこない。下手をすると私も聞いたことがないような歌も出てくるわけだ。しかし、最初のおじいさんが、桂銀淑の「J(ジェイ)」を歌ったのには驚いた、と言うか、私は初めて聴く歌であった。なかなか上手だと思ったが、それで出た乗り点が、41点だったので、之はシビアだなと思った。2番目の人は「北国」を歌い、83点の高得点であった。流石に最高得点を申告するだけあると思った。私の番になり、何を歌って良いか解らず、予めお店を手伝う女性に決めて貰った曲と、とっさに連れ合いが云った曲を歌うことに決まった。最初は「おゆき」を歌うことになった。まずまずの歌い上がりかなと思って乗り点を見ると84点とさっきの人よりも1点高いではないか。まぁ、勝ち負けは別として、気分の良い出足であった。私より若い夫婦連れの主人の方は4番手に「霧にむせぶ夜」歌い、76点、夫人(前回優勝者)は5番で「港が見える丘」で、流石の85点であった。声楽をやっていたという、マイクの要らないおじさんは、「ペチカ」で88点を出していた。流石に通い詰めた上手い人はいる者だという感じだ。続いて8番目に、連れ合いが歌ったのは「長崎ブルース」で、これまた87点と、私よりも4点も高得点であったのが悔しい。まぁ、彼女も混声合唱をやっていたのだからと、しょうがないかといった感じだ。その後は、「じょんがら節」のおばさんが72点、「居酒屋」のおばあさん83点、私より若いかなと言うもう1人のおばさんは「涙のワルツ」で81点である。このおばさんは、かけずり回って人の得点を記録していた。やはり何処でも、一生懸命な人はいるものだと感心した。12番目のおばさんは「夜明けの坂」で、84点、高校の先輩だという人は最後(トリ)で、「雪の降る町」を歌い88点の高得点を上げていた。結局88点が最高得点で、2人が該当していた。しかし偏差値点は伏せてあるので、この段階ではどうなるか推定は出来ない。2曲目が始まる前に、夕食が準備される、勿論1曲目が始まる前から、お酒は飲み放題と云うことになっているが、老人が多いため、そうそう飲む人は少ない。私と、若い夫婦連れの主人ぐらいががぶがぶと飲んでいるだけだ。四角いお膳はなかなか豪華で、美味しかった。飲んで、歌って、食事が付いてと考えると、8000円は、まぁそんなに高くはないと云うことになろうか。食事が終わると後半戦の始まりである。後半戦は、歌った直後に偏差値と乗り点の両方が明らかにされるのだが、全員が歌い終わってしまわないと、伏せられた偏差値点が明かされないので、全員が歌い終わった時点で、1曲目の偏差値がどうだったかが披露されそこで勝負が決まるわけだ。但し、高得点(一般に上手く歌ったら出るはずの点)を出したからと言って、自分が申告していた点数を超えたのでは、駄目なわけである。そこのところが、この歌合戦の味噌であり、下手であっても申告点数より低くて、申告点に近い方が優勝すると云うことになっている。最初のおじいさんは、2曲目は(66+77)点であった。2番手の人の曲名は忘れたが、(83+74)点であった。私は勧められた曲「君がすべてさ」を歌い(85+80)の高得点が出てしまった。歌い終わるなり、「今日はうますぎたわ」と言われ、申告点を遙かに越えそうであるから喜べないのだが、なんだか気分は良かった。若い主人の方は「別れても」とかで(92+75)点と何で92点が出たのが不思議であった。その奥さんは、「チャンチキおけさ」で(83+74)、6番の人は「津軽海峡冬景色」で(81+70)点、声楽のおじいさんは、何やら知らぬ歌で(78+60)点だった。続く連れ合いは得意の「宗右衛門町ブルース」を歌い、(81+72)点であった。この時点では、歌の力量は、私が勝っていたので、一安心である。後のおばさんやおばあさん達は「幸せはすぐそこに」で(82+65)点、「最北航路」で(75+64)点、「初孫」で(74+69)点、ラスト前の人は、曲は忘れたが、(74+69)点、そして最後の高校先輩は「愛の賛歌」で(92+72)点という結果になった。結局、優勝(金)は「居酒屋」と「最北航路」を歌って310点と申告したおばあさんが獲得した。後で聞くと80歳は優に超えていて、目も余り見えていないと云うことだった。2位(銀)は2番目に「北国」などを歌い、335点という最高点を申告した人が、申告点からマイナス4点であり、3位(銅)は「夜明けの坂」などを歌った、一寸角張った顔のおばさんで、申告点305点を6点下回っていた。連れ合いは、申告点が330点に対し316点で、あまりにも過大評価しすぎて、マイナス14点となり入賞圏外である。私の場合は申告点315点に対して328点と自己申告より13点プラスと上回ってしまい、もう1人大幅に上回った人が居たので、ブービー賞となった。ブービー賞の賞品は蓋に可愛いい猫の絵を描いた1人用の土鍋であった。馬は連勝単式で5-4枠となり残念ながら該当者は居なかった。之のお金は、次回に繰り越されると云うことだが、モニターが必ず正しく評価するかどうか判断することはそれほど簡単ではない。選曲や機械にマッチした曲に依ることや、譜面通り淡々と歌う方が良い得点になるようだ。それはそうだが、80歳を過ぎても、かくしゃくとし、良く通る声で歌っているお年寄りの歌を聴いていると、カラオケの持てる力、歌の力というものが馬鹿に出来ない若返りの妙薬なのだと言うこと感じた。
2012.01.22
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役員と有志による高校バスケットボールクラブOBの打合せ会が母校であった。会を再度立ち上げてから3年が経ちその間の活動は、立ち上げ時に会長を委任された後輩が何の活動もしない中、過ぎていった。私は立て直しに熱心な先輩と共に、請われるままに行動を共にし、何度も母校に足を運んできた。OB会の趣旨を、現役支援と言うことで始め、当初、旧の住所のままになっているかも知れない人達を含め、住所の記載があるOB達合計800名ほどに葉書を出した。回収できた中で、新しく支援を表明した人達は152名という事になり、名簿を作成した。その名簿をベースに、昨年夏にOB総会を行った時には、現役生を含め、辛うじて60余名が参集した。出だしはまずまずかと思っていたが、今年の夏のOB総会は12名と顧問の先生だけという激減振りであり、落胆してしまった。支援を申し出る人の中には遠方の人もいるので、一々母校まで足を運ぶことが出来ないのは当然としても、なんとか支援はするが、母校にまで行く来はないという人が殆どのようだ。ましてや、世話役になり、何かをやろうかという人は皆無と云って良い。会長だった後輩も、忙しいの一点張りで、初回に出てきただけで、その後一切の会合に出席はしていない。1度は、会合が終了時に顔を見せたが、それは別の役員を引き受けて出席していたご夫人を迎えに来ただけで、何の挨拶もなくそそくさと帰ってしまった。他の役員はと言うと、海外駐在はもちろん、母校に近い連中も、仕事の忙しさを理由になかなか出て来ないのである。そうかと思えば、未だプレーができる若いOBは現役との交流試合や、OB同士の試合(学生であるOB)などには出てくるが、場所を変えた、会合には出席したくないという。そんなバウンダリーの中で、次期の会長を若い人で交代できないかと模索し、ある後輩にたどり着いて、先輩共々その後輩が校長をしている学校に出向いた。場所は、母校から程近く、バスケットボールについては、他でも何かと世話をしていることも小耳に挟んでいたので、適任ではないかと、内心喜んで会ってみた。ところが、その後輩の云うには、有志だけを会員とする現行の制度はおかしいという。母校のクラブを卒業したら、自動的に会員ではないかと云うわけだ。それも一理あるのだが、800人に葉書を出して、宛先不明といった者があったとは言え、名簿に記載できる人は152名であり、80%は無駄になる案内を出し続けるというのは、肝心の現役支援にならないと言うことなのだが、建前論をはく。1枚50円の葉書で通知するとして、明らかに返ってこないもの、参加もしないし、支援もしないと解っているのが殆どで、50×(800-152)=32,400円というお金が、無意味に消えていくのである。年2回の通知なら64,800円である。それを例えば、現会員が全て会費3,000円/年を払ってくれると仮定しても、152×3,000=456,000円から払うとなると現役支援にまわるお金は、45,6000-64,800=391,200円ということになる。之はまた、机上の空論で、支援をするために入っている人の中にも会費納入手続きが面倒なのか、それとも支援すると云ったもののなかなか思うように出来ないといったことも考えられ、そうそう督促を何度もすると、督促通知だけでも支援分が減ると云うことであるから、難しい現実問題にぶつかるのである。今日の役員会で、会計が示してくれた振込手帳によると、実績では40~50人/年の振込があり、中には2口以上の納入もあると言うことから、集金金額は15万円~20万円の間だと云うことだ。従って、集金歩留まりは多く見積もっても20/39=0.51で即ち5割強という事になる。しかし、2口以上は払っている会員を考えると、その割合は50%を切ることは明かである。こういった会合や、母校自身の卒業生の会などに、全く無頓着であった私が云うのも何だが、とてもやっていられないという感じである。大口の寄付があるとか、学校関係の奨励金があるとか、会員の会費以外からでも入金があるのなら、切り盛りも出来るだろうが、とても潤沢にやれるというわけにはいかない。母校を卒業したら、誰でも卒業生として名前が記載され、同期生などが、例えば海外赴任したとか、早世したとか、住所が変わったとかの情報が伝わるもののようだが(全く音信不通になる人も勿論居る)、バスケットボール部のOBと言うことになると、そう簡単にはいかないようだ。私の大学を例に取ると、卒業して1度位はOB会名簿なるものを貰ったことがあるが、その後活動しているのか否かさえ知らない。私自身それで十分だと思っているし、名前も知らない先輩や、どんなことをしているのか、また、同じコートで汗を流したこともない後輩に、特別会いたいとか云う気にならない。そう言った気持ちは、同じようで、全体の会合には参加はしないが、必ず年1回の同期生乃至その前後の年代で、共にコートで汗を流した連中の中には、今でも緊密に会合を持っていると聞く。何故、全体の会合に、そのまま合流しないのか、そこのところはよく分からないが、上に述べた理由が、一番大きいだろう。大上段に慶応や早稲田のような有名大学の特に野球関連などでの同窓会というか、同窓生以外でも、自らのアイデンティティーを見つめなお、確認するという意味で、力強い真のシステムが出来るのだろうが、大阪の、一般公立高校にそれを求めるのは、無理であろう。今日の会合は次期の役員スタッフを決めることや、会員の資格を前卒業生800名にするか、現在の152名を出来るだけ草の根作戦で、広げるかという点などについて話し合ったが、どうやら、また800名に葉書を出すといった方向になりそうだ。筋としてはその方が良いし、対外的にも勿論通りが良い訳だが、大阪府下の名だたる公立高校では、誰言うと無く、地道に活動が続けられてきたようで、創立80周年誌の発行などを行っているという。先輩連中にしてみれば、母校のステータス的にも会誌を発行する学校と同等以上である我が校でも出したいといった気持ちはあるが、それに伴う、資料やその他は、受け継がれていないわけでそう簡単にはいかないのが現状である。私が、在校していたときには、大阪府下で、ベスト4になったことが2回ほどあったが、その時は、こぞって諸先輩が来てくれて、なにがしかの支援を頂いていたのではないかと思う。之は十分条件ではないが、現役が、強くなり、母校の名が、知れ渡るようになったら、もう少し形も変わってくるし、OBに呼びかけ、OBも訪れようかというインセンティブになるかとも思うが、なかなか公立の進学校では余程の偶然で逸材が入学しない限りバスケットボールで名を馳せるのは無理かも知れない。新役員には先輩が会長として、そして、補助として私が副会長に就き、もう1人、若手と言っても、50代後半であるが、次期会長含みで副会長をお願いすることになった。会計には3年間ご苦労を掛けたということで、少し若手に変わって貰うという構成になった。広報と云うことで、20代の若手にお願いしていたが、ホームページ(HP)まで作ってくれてはいるものの、何しろ進学を控えた、中学3年生の担任をしていると言うことで、時間が全く取れず、HPの更新は滞ったままである。之ばかりは、古い人間には付いていけないと言うこともあり、若手も、誰がどれくらい出来るか、また興味があるかについては、今日集まった中には居なかったようだ。後日、その若い先生を訪ねて、HPの仕組みや、どれくらいの時間が掛かるものかをヒアリングに行くことになっている。同じ志を以て同じコートでバスケットボールを楽しんだ(苦しいここともあった)時期は遠く去って、高校を卒業する頃には、大学なり実業団で、引き続き練習が苦しいバスケットボールを続ける人は、2割にも満たない現状からすると、今更バスケットのOB会に出席しても、会話が続かないという面もある。会長になった先輩は、高校は勿論、大学も、そして実業団になっても続けてこられたわけで、そこら辺りの若者の考え方の機微が、理解しがたいと云うことのようだ。しかし、之から3年間だが、何とか、このOB会を軌道に乗せられたらいいのだがと思っている。
2012.01.21
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NHKの美術講座の7期目の4回目である。講座の残りは今回を含めて後3回で終了だ。全部で何回あったか、結構長く続いていたこの講座も、あと3回を以て振り出しに戻ると云うことだ。いろいろな絵画を見せて貰った。本物を観るようにはいかないがその絵画の時代背景や画家の生い立ちなどを知ることで、絵画に対する関心や理解力が増すと考えられる。鑑賞眼というものは、講義を聴いたからと云って上がるものでもないかも知れないが、その絵に対する画家の思い入れや、表現の方法などについて少し理解が出来るまでになったかと感じている。講師も残りをどの画家にするか迷ったと云われていたが、今日はパウル・クレーについてだった。今日は、連れ合いが、買い物が長引いたというので、出だし少し遅れて入ってきたが、私は、やはり1番乗りで座って待っていた。パウル・クレーは、1879年スイスのベルン近郊に生まれたスイス人画家である。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。スイス人には芸術家は少ないと講師が紹介したようになるほど、あまり名前を思い出さない。行ったことはないが、スイスの山岳風景を絵にした人は多くいたであろうにと思うが、山は写真の対象であっても絵画の対象には成らないのかも知れないと勝手に想像した。スイスは美しい国で平和の象徴と感じるが、ウェストファリア条約で1648年に完全独立するまで、鳩時計を造っただけだと揶揄される位芸術には縁遠い国のようだ。クレーは、才気煥発、知性的で、多才であったという。11歳では既にヴァイオリンで、オーケストラの1員となるほどの腕前だったようだ。ピアニストの妻と結婚し、幼少から日記を克明に書くという習慣を持っていたので、クレーのことは、良くその内面まで知れているという。ミュンヘンでの勉強に飽きたらず、1年足らずで、北のアテネと呼ばれたイタリアのルートヴィヒに学んだという。不気味なモノクロ画もあり、ペンとインクそして筆を使ったたらし込み技法を使う作品が多いという。また、下書きを含めると1万点以上という多作であり、シュールレアリスムのような絵画なら、さもありなんと私は感じている。(特に断らない限り、画家はクレーである)最初は「毛皮を着た少年」で非対称な顔とそう言われれば、毛皮かと思うようなものを纏っている歪な正面の顔である。以下の作品も、私が感想を述べるようなものはなく、講師も特別何かコメントすると行ったことも少なかった。「畑の中の黄色い家」はペンを多用して、色彩を緑、白、赤で畑を描きわけ、左の上部に黄色で、マッチ箱のような家を描いた作品である。クレーの絵は小さなものが多く幅20cmと言ったものやそれより未だ小さなものもあると云うことだ。ここで、クレーに影響を与えたというロベール・ドローネの作品「窓、同時的、都市」と言う作品の紹介があった。クレーに似たというか、その逆なのであろうが、四角い区画の枠内にもう1つの四角い枠があり、それを窓と見なしているのか、真ん中にそう言われればエッフェル塔が見えるといった絵である。パリ生まれの抽象画家と云うことで、それ以上は特に感じるものはなかった。「カイルーアン(旅立ち)」はアラブの春が最初に吹き荒れた、北アフリカのチュニジアの都市カイルーアンの夜明けを描いたものである。7世紀に建設された古い街であり。講師が同時に街の屋根をモスクのドームと共に写した写真で紹介していたが、内部は、装飾が美しい霊廟であり、グランド・モスクは640年に建てられたアフリカ最古のものという。クレーはここに来て感動を受けた事が容易に解るほど、モスクの色彩豊かなモザイクタイルはイスラム教独特の風情で、クレーの絵にも多大な影響を与えたのではないかと思われる。「カイルーアンの城門の前で」も上と同様の風景を描いたものだが、モスクのドームが何となく印象的である。この日描く作品として、青騎士のメンバーであったアウグスト・マッケの「カイルーアン3」が紹介されたが、27歳で早世したマッケの絵も、写真で見るルーアン風景を良く表現していると感じた。私には、こういった絵自身よりも、その実際の情景を見る方に心が動いているように感じる。西洋的な美を見せられ続けたから、イスラム社会の、独特の風景は、一寸表現するには、言葉が足りないのだ。「ニーセン山」はベルン近くの故郷の思い出の中の山の絵である。この絵のように正三角錐のような山のようだ。クレーはこの山を薄青い色でのっぺりと描いている。この絵は灰色の空に星や月が黒く描かれた、夜の風景だが、何故か地面は明るく、暖色になっている。クレーは、「自然及びその対象物よりは絵の具箱の中の研究こそが大切である。絵の具箱の焦点を当てる事が大切で、水彩絵の具の並んだピアノで幻想曲を奏でることが目指すところである」と言っている。「いつか夜のほの暗さから浮かび上がり・・・」は薄青い色の帯で上下に分けられた部分に四角い枡を千鳥格子のように配し、その中に文字を埋め込んで詩を書いている。文字の一つ一つに色彩を与えて、全体で絵画という範疇に押し込んだような作品である。私は、この絵から、イスラム教の寺院にある抽象化した文字で囲まれた壁面を思い出した。この頃からクレーの生活の豊かになり始め、パリに於ける画商ボラールの存在のように、ミュンヘンの画商コルツを通じて絵が売れるようになったとのことである。「世捨て人の庵」はいろいろな夢の集合体のような絵で、次々と湧き出る印象をそのまま画面に落としていったという感じ時の作品である。絵のどの部分が何を表しているのかは解らないが、全体の底流には、第1次世界大戦で友人であったフランツ・マルクも失い、科学技術によって人々は殺されていったのだという思いが込められているという。「鷲とともに」はドイツの国章をモチーフに描かれたものだが、真ん中の大きな目のようなものが何であるのか、定説もなく、意味不明の絵である。「ラクダ(リズム・森の風景)」は以前十選でも出てきたような気がするが、クレーが幼少から音楽を手掛けていたこともあり、この絵は全体が楽譜のように構成されている。真ん中に描かれたラクダは、牛かと見まがうが、チュニジアで見たラクダを連想しつつ描いたであろうこの絵のラクダは、音楽が奏でられる中ゆっくりと歩を進めているといった感じである。「赤いフーガ」はドイツのバウハウス(後にナチスによってクローズさせられた)の共同アトリエで描かれたものだが、静止したものに何やら全体的に動きを感じさせる絵である。クレーはカンジンスキーと仲が良く、隣同士に住んでいたとも言う。ここで参照のためカンジンスキーの「黄-赤-青」の作品が紹介された。カンジンスキーの絵のような切れがないのだが、しかし不思議な動きを感じさせるこの絵をどう見て良いのか解らない。「コミック・ファンタジー・オペラ風『船乗り』から、戦闘場面」は一口で云ってユーモラスなのだが、何をイメージして描いているのか解らない。ヤリを持った船乗りは覚束ないが、深海魚であろうか、ウツボの変形したような魚がユニークである。「セネキオ(野菊)」は之もまたファンタジーである。まあるい顔はクレーがよく使う手法のようだ。この顔の両目がアンバランスなのは、毛皮を着た少年よりは少しましだが、一体何処を、また何を見ているのであろうか。「つぶやき機」は機械に支配される人間。ブラックユーモア的な絵であるが、まぁ、解説無しには理解しがたく、訴えることが伝わらない。「黄金の魚」は真ん中のピラルクのような魚の黄金色が極めて印象的である。回りの魚はそれぞれの方向を向き、王様のような魚から距離を置こうとしているように見える。之は押し寄せるファシズムの大きな力から逃げまどう人達を表しているのかも知れない。釣り好きだったクレーは、海を上から眺めるのではなく、水族館で見るように海を輪切りにしたイメージと重ねてカンバスに写し取ったのであろう。「大通りと脇道」は遠近法的技法を用いて、古代から現代に続く道程を現したものなのか、砂漠の広がりを現したものなのか、上部に水平に走る水色の線は、ナイル川の流れを擬したものであろうかという感じである。「オルフェウスの庭」はギリシャ神話に出てくる題材であり、妻ハディスを冥界から救うために出掛けたが、振り返ってはいけないという禁を破り永遠に妻を失うというもので、絵はモザイク調だが、真ん中のクロスのある部分が、冥界への戸口であろうか。この参照として、モローの楯に生首を載せた「オルフェウス」の紹介があり、更にルドンが描いた竪琴と共に横たわる「オルフェウス」の参照もされたが、画家によって、かくも違うものかと感心する。「パルナッソス山へ」は細かいタイル張りのような三角の山に朱の太陽が出ている絵である。音楽の練習曲のように段階的に何枚も書いていた。美しいとは感じるが、銭湯の壁画を思い出してしまった。「古絵文書」はデュッセルドルフの教授を解任され、ナチスに銀行口座を凍結され、更に皮膚硬化症にかかった時期だという。作品は、マヤ文明をモチーフとし、表面描写に凝った絵だという。「美しき女教師(ピーターマイヤー時代の亡霊)」はウィーン郊外の居酒屋で、盆を持つウエイトレスを描いたものだと云うが、理解不能である。「死と灰」はクレーの最後の自画像だと云うが、あまりに抽象的で、この絵が不吉、不安をかき立たせるという以外に私には他の意味は感じられない。大戦が連続する世相をこういった形で表現し、せめてもの抵抗感を示しているのであろうか。
2012.01.20
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この間久しぶりに読み終えた本である。アラブ社会の本は、良く読んだが、この本は、去年の5月に発行されていて、それから200日以上積ん読で、最近時間を掛けて(他にやることが一杯で)読み終えた。何のことはない中公新書で頁数はたったの300頁足らずである。著者は共同通信岡山支局長の船津靖である。記者らしく、現地を自分の足で見て回っているので、なかなか迫力があり、一連の事項もよく分かる良い本だと思う。他の大方の本は、外部から眺めた教科書的な内容で、歴史的事実を知るには格好だが、今ひとつ迫力がないと感じていた。何故パレスチナ戦争という泥沼戦争が、終結する様子もなく今も続いていることについては相当根深いものがある事は予想に難くない。ではこの紛争が、どのようにして起こり、どのような経過を辿り、そしてこの先どうなっていくのだろうかと言うことに興味を持ってみている。ここでは戦争ではなく、紛争という言葉を使っているが、定義的には、戦争は一国の公式な政府の意思で相手国に宣戦布告して開始される武力闘争であり、紛争は宣戦布告なき戦争、または国とはいえない地域や集団との武力衝突を含めた戦闘状態と言うことで、行為は同じながら言葉は違ってくるのである。パレスチナはこの度国連加盟を申請しているが、自治政府はまだ国家としては認められてなく、従って日本等とも所謂国交がない。日本にとっては、殆どどうなろうが関係ないと云ったところだろう。エキスを語ることが出来るほどではないが、この本から得た感想をランダムに書いてみる。このパレスチナ紛争はアラブとイスラエルの戦いである。パレスチナという土地は地中海東岸の旧シリア南部の地域の名称であり、所謂現在の中東と呼ばれる中心である。ここがパレスチナと呼ばれるのは、その昔、地中海側からペリシテ人が移住し、土着化したことから始まるとなっている。BC10世紀この地をダビデ王が統一し、北のイスラエル、南のユダ王国に分かれていった。やがてローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ人は離散することになる。この間にも、アッシリア、バビロニア、そしてアレクサンダー大王の出現などと、この地は、混乱の極みであった。更に7世紀にイスラム教のウマイヤ王朝が出現し、更に十字軍が現れるといった按配で、極めて騒々しい場所である。この地は元々誰の物であったのかについては、旧約聖書によると、エジプトで虐げられていたユダヤ人に対して、神が、モーゼにこの者達を救って、カナンの地へ連れて行けと云っている。イスラエル人が、このパレスチナを自国の領土であるとする根拠は、こんなところにある。しかしそこには、現在のパレスチナ人の先祖であるペリシテ人が住んでいたわけであるから、問題がこじれてくるのは当然である。こういった遠い歴史も背景になっているだけに、子孫同士の話し合いがすんなりと付かないのも道理であろう。そこにイスラム教の預言者ムハンマドがエルサレムの金のドームで囲われた岩のドームから昇天したというのだから話は更に複雑になる。この現在のイスラエル地区の臍の緒のようなエルサレムには、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の聖地がある。実際は、アルメニア教徒の一角もあり、エルサレムは4つの区画に分割されている。そこから一挙に近代に飛ぶが、ドイツのホロコーストにより、多くのユダヤ人が国外脱出を進め、その足は自然とイスラエルに向かうことになる。20世紀強大な版図を持つオスマントルコ帝国が倒れ、イギリス、フランス、ロシアの間で1961年に結ばれたオスマン帝国領の分割を約するサイクス・ピコ協定という秘密協定を結ぶ。その内容は、英仏らにより中東を勝手に分割統治しようという秘密協定である。一方イギリスのバルフォアは1917年にユダヤ人の力を借りるべく、イギリスにあるユダヤ人コミュニティーのリーダーのロスチャイルドに対してイギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束している。これをバルフォア宣言と呼ぶ。イギリスの三枚舌外交と呼ばれるのは、上記2つの協定と宣言の前の1915年に中東のフサインに対して結んだアラブ独立を保証するフサイン=マクマホン協定との矛盾を云っているのだ。バルフォア宣言とフサイン=マクマホン協定は、完全に矛盾するものであり、全く相容れない性質のものである。イギリスの魂胆は、フサイン=マクマホン協定で、アラブ独立を約束することで、アラブをイギリス陣営に引き込み、トルコと戦わせることを目的としたものであり、また、バルフォア宣言はパレスチナにおけるユダヤに配慮することによって、ユダヤから戦争資金を引き出すという目的であった。何ともいい加減な対応である。神のご託宣、イギリスの不誠実外交のおかげで、今日のパレスチナ紛争は起こったと言って良い。しかし、バルフォア宣言では一応「先住民の権利を侵害しないことが前提」とされているわけで、イスラエルが入植する土地は、神から約束された土地と言いながら、無制限に設けることを許しているわけではない。当初は両者の言い分もあるが、パレスチナ先住民と、ユダヤ人が共存する前提で、入植地を設けることの了解で進んでいた。その後、テロなどの行為も加わり、民族間の対立は、抜き差しならぬところまでになった。1993年やっと、オスロ合意で、イスラエルのラビン首相と、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で、歴史的和解の握手が行われたが、その後、ラビン首相が自国側の狂信的ユダヤ教徒によって暗殺されるに及び再び混迷の中に突入していくやがて、イスラエルの建国がアラブ側にとっては一方的に宣言されるに及んで、この両者の対立は、決定的になる。アラブ側は、怒りを自爆テロと言った形でイスラエルに対して行えば、イスラエル側は入植の邪魔になると、現在居住している、パレスチナ人達を、無差別に殺戮、家屋は、戦車で完膚無きまでに破壊するといった、交互のやり取りが悪の連鎖の如く連続して起こっているのである。この本を読んで、イスラエル側のシャロン元首相の残忍さは、どう考えても、悪質である。考えてみれば、昨日まで、安穏と暮らしていたところにイスラエル軍の戦車が来て、家をその戦車で破壊するばかりでなく、無垢な子供らをも含めて虐殺するのである。イスラエル建国時に取り決められた国境線をも無視した、パレスチナ人(ムスリム)の土地までも掠め取ろうと云った魂胆である。テロ行為はいかにも卑劣である事は論を待たない、しかしながら切り口をそのテロ行為1点に絞るだけでは、物事の本質は見えない。イスラエルは、潤沢な資金と、アメリカの強力な支援とで、多くの殺戮火器を有していて、それを駆使して、パレスチナ人の居住地似たいし法を破ってまで侵略しているのである。しかも残酷に容赦なくである。多くのパレスチナ人が死んだことはあまり大きく報じられていない。多くの火器に対してパレスチナ人為は人間爆弾がある(というよりは十分に戦える武器がない)為にテロ行為をしている面もある。この両者の紛争を、切り取る範囲を狭く近視眼的に見るだけでは、問題の本質は見えないし、公平性を欠く。イスラエルの違法行為を見ながら、アメリカはそれに同調するという奇妙な状態である。9.11を忘れるなと云うことなのか。パレスチナの穏健派のファタハ議長のアラファトが死んで、後を継いだアッバスとイスラム原理主義を唱えるハマスの内閣はたびたび対立し、2006年にはガザ地区で衝突し、ハマスはガザ地区を武力制圧した。現在は、パレスチナと言っても、ファタハが政府を置くヨルダン川西岸とハマスの勢力が抑えるガザ地区とに分かれているといった変則状態である。ナチドイツによるユダヤ人ホロコーストを、シャロンのように、今度は、パレスチナ人に対して意趣返し的に行うような首脳を許す限りは、この紛争の解決の糸口はないであろう。
2012.01.19
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2012年問題というのだそうだ。とにかくマスコミはネーミングだけは1流であり、この場合は、今年世界の主要国において、首脳の交代や交代の可能性のある国が多く行われることだというのである。その問題の主要国の中には、残念ながら日本の首相が替わると云うことは勘定に入っていないようだ。目まぐるしく猫の目のように替わる国の、国際的影響力の少ない国の首脳などは目じゃないという感じなのかも知れないし、変わっても世界情勢には影響が無く、変わり映えしない国だからかも知れない。取り敢えず、2012年に首脳が変わる予定の国家には次の国が挙げられる。1月早々に台湾の選挙があり、その結果は与党である、国民党の馬英九が勝利した。3月にはロシアのプーチン首相が傀儡であるメドベージェフ大統領との交代劇が半ば儀式のように行われる予定である。また、3月中旬には中国の胡錦濤主席が降板し、習近平に代わることは既に周知されている。そして、5月にはフランス大統領選挙がありニコラ・サルコジが再選されるかどうかが焦点である。11月初旬にはアメリカ大統領選挙で、今からその前哨戦が始まっている。バラク・オバマ大統領を民主党のロムニー候補が追うことが今のところ伝えられている。12月には韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の交代が取り沙汰されている。既に昨年12月に北朝鮮の金正日が死去し、後継に2代連続の世襲である3男金正恩が総書記に地位に就いていて、現在は体制を固めるのに大童という状態のようだ。こういった世界の首脳の交代劇はもとより各国の選挙制度による首脳の任期によって概ね決められるが、日本のように、議院内閣制の場合で、傑出したリーダーがいない事もあって、何かと言ってはトップの交代がいとも簡単に行われ、その事が、国際関係でも大きくマイナスになっているということは否めない。日本の抱える問題は国内だけで解決するなどと云ったことはとうの昔に出来なくなっているはずなのだが、日本国内独自の問題がなかなか解決できないので、他国との交渉を有利に行えない状態になって、ひいては外れくじを引かされる運命にある。外国側から見れば、この首相は、どれだけ持つのか、賞味期限を考えるだろうから、勢い突っ込んだ話にはならないと云うこともあるだろう。北朝鮮は、金正日の急逝でどうなるのかと思ったが、取り敢えず安泰を保った様に見える。しかし、実際内情はどうなのだろうかとか、拉致問題は、之で終いかという気がしたりする。後継の金正恩総書記に拉致の言葉が伝わっているかどうかと言う懸念さえある。日本の議員はすべからく左胸に拉致被害者を返せといったアッピールの青いバッジを付けているようだが、対拉致に関する行動はそこまでで、実際には何ら進展していないし、また、しそうもない。年が明けて、台湾の総選挙が始まった。1月14日に総選挙があったのだが、新聞で大きく報道されたのは10日前だったろう。アメリカの大統領選挙のように1年も掛けてやるというお祭り騒ぎではないようである。日本にとって台湾は北のロシア、九州からみた韓国などよりも日本に一番近い国ではないかと思うほどで、与那国島と台湾の地理上の距離は110kmと近い。しかしながら国交は無いというへんてこりんな国である(いや、日本からは国という感覚では扱っていない)また一方では、台湾ツアーという名の下に、年間100万人を超える人が訪れている。国交のない国で、訪れては行けない国では北朝鮮だけだと云うことで、その旨昔はパスポート上に明記されていた (今は特記外の国とぼやかしている)が、他の国のことは、特段にパスポート上でも注意書きはなかった。では我々日本人が台湾に行くのはどういった根拠で訪れているのだろうかを考えると、あくまで日本国政府は、中華人民国共和国(中国)の一部へ訪問すると云うこと事でしかない。台湾は蒋介石がソ連のコミンテルンと、その指揮下にあった中国共産党の南京に於ける民間人に対する非人道的な行為に反目して中国は分裂し、蒋介石は台湾に渡ったという経緯である。台湾人の殆どが、漢民族であることを考えれば、これは中国国内の内政問題であると言うことになるわけで、その意味では、中華人民共和国の云っていることは正しいが、但し現在土地を多く占有している側が正なのか、狭いけれど民主主義国家である台湾が正なのかは、今となっては誰も触れようとはしない。共産主義至上の1党独裁で、異論が在れば、武力弾圧で之に応えるという方が正しいのかそれは置いておいて、13億人もの人口を有する国での商売にのみ力を注いで、何ら恥じないという政経分化の考えは、どうにも納得がいかない。台湾には、蒋介石以来、首相でも、大統領でもなく総統府というものを置き今回の選挙は、陳水扁の汚職後立った、馬英九(国民党)が再選されるか否かに焦点があったわけだ。対立候補は最終的には葵英文(民進党)に絞られてきた。葵英文は女性で、女性初の総統が誕生するかと言った点も注目された。最大の争点は、馬英九は親中華人民共和国であり、葵英文は反中華人民共和国であると言っても良いだろう。馬英九も1つの中国を認めつつ、台湾を国と主張することに対する齟齬はないというレトリックであるが、何となく無理を感じるわけで、良く云えば、現状を認識し波風を立たなくして、上手くやっていこうという感じなのだ。一方の葵英文の方は台湾は中国の1部であるとした1992年のコンセンサスは、一方的なもので、なし崩し的に決められたものだから容認できず、新しい中台関係を真に民主的に基づいて、コンセンサスを得るべきだと主張するわけだ。その心は、台湾は、1国家として独立した主権を持つものであることを内外に認めさせることなのである。日本の経済界同様に台湾の経済界も、中国あっての事と認めざるを得ないわけで、台湾が独自に交易相手を中国外に持とうとしてもなかなか大変なことであろう。人間は、窮すれば何かを思いつくもので、中国と台湾間には「三通」と言う直接の「通商、通信、通航」だけは認めることになっている。現実に即した方法であろうが、とにかく根本的な関係に何ら変わりはないのである。選挙前日になって、台湾自身の景気減速とEU債務危機問題も絡んで、現在の対外輸出が減少の一途を辿っていることで、馬英九(国民党)は苦戦に陥ったわけで選挙開始当初よりも更に苦しい攻防が為されてきた。1月14日の選挙当日は、どういう状態だったのだろうか、一夜明けて、15日には馬英九(国民党)が葵英文(民進党)に80万票の差を付けて勝利したのである。この80万票がどれ程の意味を持つのか解らないが、獲得投票比率は51.6%対45.6%であった。馬英九は「清貧、繁栄、平和追求」路線の勝利だと云い、葵英文がいう「貧富の格差、失業対策、低所得者層への配慮」などの訴えに、及ばなかったと云うことである。中国共産党本部も一応この結果には安堵したであろう。その事は、台湾海峡に於ける緊急事態発生といった危惧は当面遠のいた様である。しかし、ここで、馬英九の得票率は前回初当選時に比べて7ポイント低下していると云うことであるから、あまり中国よりになって貰っては困るといった背景がそこにはあるようだ。経済を抜きにして、国同士の関係は語れないだろうし、かといってこのままの道を進めば、台湾は、中国の一部であるとの認識が強まり、香港や、マカオのような立場にならないとは限らないのである。「チャイワン」と言う言葉があるそうだ。チャイナとタイワンを組み合わせた言葉であり、中国が政治目的で台湾企業を優遇しているといった危機感を韓国メディアが使い始めたのだそうだ。物を買ってやるから言うことを聞けと云うことなのであろうが、果たして、こういった台湾の状況で独自性を維持できるかどうか疑問である。韓国から見たら中国も台湾も「チャイワン」であり、同じに見えるだろう事は、同じ漢民族故であり、最も重大な、共産党1党独裁、かつ人権を虫けらほどにも感じていない国とは、一線を画したいのが台湾人であろう。しかし日本も同様だが、企業者側から云えば、これ程美味しい市場はないのであり、輸出の減退は、即ち国力の衰退になると言う懸念は同じかも知れない。香港が1国2制度といった特例で運営されているが、案外台湾人の多くは、台湾もそう言った形で、生き延びることを考えているのかも知れない。
2012.01.18
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私には、コーカサスと言う呼び名のほうで親しんできたので、以下コーカサスという名称を使う。コーカサスについては、あまりその実態には触れることもなく、極端に云えば、それらがどの地方を指し、どういった民族が居るのかさえあまり知らなかった。位置的には、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる地域だと云うことで、面積は約44万km2と言うから、日本よりも若干広い地域を指している。名前の由来は、回りを取り囲む高い山脈の永久冠雪を見て、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)と言う言葉に語源を発しているという。コーカサス山脈を境界として北コーカサスと南コーカサスに分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北コーカサス共和国で、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなっている。 このそれほど広くはない地域に多くの民族がモザイク模様のように入り組んで暮らしていて、地球上で最も民族的に多様な地域であると言われる。独立、非独立を問わず、コーカサスの国々(地域)を逐一上げると、知らない名前が多数出てくるのだが、今日の新聞で報じられた共和国は南コーカサス地域で、トルコとアゼルバイジャンに挟まれ、実質的には、アルメニアに実効支配されているナゴルノカラバフという共和国だ。アルメニアの実効支配の中、独立した国としては、国際的認知は得ていないが、独自の国家体制を敷いている。恥ずかしいことだが、私はこの名前を聞くのは之が始めてである。このコーカサス地方と言えば、先ず名前が出てくるのは、チェチェン共和国である。チェチェンはロシアとの2度にわたる大紛争で以前からよく報道され名前は知っている。チェチェンはイスラム教徒が多数を占め、イスラム原理主義との提携の下、激しくロシアとの間に独立のための紛争を経験している。小競り合いは、ソ連が崩壊したときから始まっている。私などは、中国が、チベットや、ウルムチなどの諸民族を国家に抱え込み、独立を武力で弾圧し続けていることは知っているが、このコーカサス地方でも、様々な民族が、独立という名の下に多くの紛争に巻き込まれている。米ソの冷戦時代が終結し、地球上のバランス・オブ・パワーが変化して、世界中の至る所で独立を志向する動きが活発になった。チェチェン紛争もその1つであるが、2回にわたる衝突の間にも、地下鉄で爆発やその他トラックを利用した自爆テロ、モスクワを離陸した旅客機2機がほぼ同時に爆破され墜落するといった事故、また、モスクワ劇場占拠事件など、各種のテロ事件などが頻発した。こういったテロの中、ロシアはチェチェン全土に空爆などを行って、20万人の難民を出すなどした。チェチェン紛争の原因としては、当時のロシア政治におけるエリツィン体制が戦争を必要としたこと、そして、何よりもロシア国家の統一の維持が不可欠であり、北コーカサスには、チェチェンのほかにダゲスタン、イングーシ、北オセチアなど元々の民族共和国があり、もしチェチェンの独立を許せば、こういった多数の民族国家が次々とロシアから離反するという連鎖反応が起こり、現在のアラブの春のような状態になるのを畏れたのである。そして最後には、この辺りに埋蔵されている石油資源の確保といった面がある。チェチェン自身も原油を産するがロシアにとって、イランやトルコとの軍事上の緩衝地帯であるため、カスピ海で現アゼルバイジャンのバクー油田から産出する石油がこの地方を通過する輸送のパイプラインを守るためにもチェチェンを自国のコントロール下に置きたいと言う思惑もあった。 このコーカサス地域は、16世紀にロシアのイワン雷帝による侵略以降、帝政ロシア、ソ連の時代を通して無理矢理植民地化されてきた経緯があり、この地域の人々が民主的な手続きを経て独立を選んだ場合に、ロシアは、これに反対する資格を持たないということになる。しかし、ロシアにとってチェチェンなどの国は石油、農畜産物、兵役など、必要とするさまざまな資源の供給源となって居るので、このコーカサス地方をむざむざと手放すわけにはいかないのである。バイナフ(コーカサス民の総称で主にチェチェン、イングーシ人を指す)の2民族の強制移住(何もない雪原への放置)などで、数十万人が犠牲になっている。第2次世界大戦終結時に強引に参戦し、日本の北方領土を略奪したやり方を想起させるが、日本人の領土返還に対する熱意はチェチェンほど熱くないように思われる。そのほかにも、3年余前のグルジアに於ける紛争で、ロシアとグルジア間にまたがる、オセット人が住むオセチア地域での紛争がある。オセチアはロシア革命後、南北に二分され、南側はグルジアに編入され、南オセチア自治州となり、北のロシア側は北オセチア共和国として独立した。 南オセチア自治州では、ソ連時代以来グルジア人優先の政策が取られたため、オセット人は、それまで使用していたラテン文字に替わりグルジア文字の強制やグルジア語の教育が強要されたほか、様々な抑圧策が取られた結果、南オセチアに於けるオセット人達の不満がつのり、同民族が住む北オセチア共和国との共存併合を求めて、南オセチア内部での独立運動となったのである。この紛争(戦争)は2008年8月に起こったので、8月戦争とも云われたが、一応和平が成立したことになっているが、民族間の紛争は、そうたやすく、すっきりと解決するものではない。イスラエルとパレスチナは、基本的に2民族間の紛争であるが、この紛争でさえも、と言うか、この紛争は永遠に解決しない様相である。ここコーカサス地方は民族のデパートのような地域で、コーカサス諸語系、インド・ヨーロッパ語族系、アルタイ諸語系など多数の民族が斑模様に居住している。上に述べた、チェチェン紛争やグルジア戦争は、顕在化して、且つ多大な犠牲を伴った例であり、この手の紛争の種は随所に潜在していると云っても良い。今日の新聞記事に依れば、アゼルバイジャン国に帰属しているとされながらも実効支配はアルメニア在るというナゴルノカラバフ自治州(ナゴルノカラバフ自体は、独立国家だと主張している)に起こった、アゼルバイジャンとの紛争である。この、ナゴルノカラバフは8割がアルメニア人である、テュルク系のノガイ人が大半を占めるアルメニアとは相容れないという事は、容易に理解できる。1991年に独立を宣言した同国は、アルメニアの軍事介入で、数万人が死亡したとされている。こういった紛争は、異民族の混在だけでなく、そこに埋蔵された地下資源(原油)の産出絡みの利権や資源問題も絡み、原油の輸送手段として、こういった複雑な地域を横断するためのパイプラインの敷設などの問題が起こってくる。コーカサス地方に行ったこともないし、また之からも訪れることはないだろうが、高原と一部低地のあるこの地方に、原油や天然ガスが産出しなければ、このような問題も起こらなかったかも知れないと思うとき資源保有国が即ち幸せを享受できるという単純な構造でないことに思い至る。民族に宗教、それだけで十分に紛争の種になりうることは世界中あちこちにその例を見るが、それに加わえて地下資源などが絡んでくると、大国の利権などの思惑がぶつかり、まともな解決方法などは望み得ない。ちゃんと住み分けられていた尖閣列島なども、いざ地下資源が出るとなると、急に中国が出てくるといった、問題が生じてくるわけで、今回もアゼルバイジャンのバクー油田から、グルジアのトビリシを経由してトルコのジェイハンに至るBTCパイラインの安全保持になども影響を及ぼしているという。アゼルバイジャンは、バクー油田のおかげで、GDPを過去10年間で10倍に膨れあがったという。之にアメリカが噛まないわけが無く、イスラエルとの軍事同盟関係もあって一方のグループを形成し、ナゴルノカラバフ(アルメニア)は民族関係でトルコと国交を断絶している上、イスラエルと対立するイランとは、通商関係にあり、ロシアとは軍事同盟を結んでいるといった状況である。このような複雑な国際環境に直接曝されていない日本は、ある意味では幸せな国かも知れないし、このような複雑な国際環境を知り得ないために、国際社会では何時も一歩遅れた対応しかできないのかも知れない。取り敢えずは、中東の、アラブーイスラエルの関係、イランや北朝鮮の横暴、中国の高飛車な攻勢等々日本が与すべき外交問題は山のようにあるが、このコーカサス地方も念頭に置かなければならないかも知れない。
2012.01.17
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「不確定性原理」とはなんぞやと言うところから、門外漢の私にとっては既に未知の分野であるが、どうやら、約80年前から現代物理学の基本原理と認められてきた原理であり、アインシュタインの相対性理論などと並んで、この理論を元にして現在の物理学の一部は成り立っていたと云うことだ。原理とは、いろいろな意味で使われ、最近では、イスラム原理主義といった表現も出てくるが物理学では「事物・事象が依拠する根本法則」といった意味であり、揺るがぬ基本法則ということである。数学に於いては、一般に広く通用する真理・道理として「公理」というものがあるが、「原理」は物理学に於ける公理のようなものではないかと思っている。何しろその原理が違っていれば、80年間営々として築いてきた事柄が瓦解すると言っても過言ではないだろうからだ。そこまでの大問題が発見されたと云うことのようだ。要するに、今まで根拠にしていたことにほころびがあると言うことで、「不確定性原理」によれば等と引用していた事柄の1部は最早云えなくなるのであろう。門外漢の私にとっても、大変な意味を持つことだと解る。去年の9月には、物質を構成する最も基本的な粒子である素粒子の1つであるニュートリノが光速よりも速いという実験結果が名古屋大などの国際共同研究グループによって報告された。光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論の前提を覆すような測定結果を発表し、物議を醸したが、その後別のチームによって、その発表に疑義を唱えられ、今日まで結果はどうなのかはっきりしていない状況である。 今回の「不確定性原理」のほころびも名古屋大学などの共同研究グループが実験で確かめたと言うことであり、この結果によって、従来開発されてきた半導体やレーザーの開発が頭打ちになっているところに、大きな進展が予想され、画期的な測定・制御技術に道を開く可能性があるとのことである。 新理論を実証したのは、小澤正直名大教授や長谷川祐司ウィーン工科大准教授らであり、物理学の教科書が修正されることになりそうだという。元々、私などは、「不確定性原理」等というものには馴染みがないので、どういったことに使われていることさえ知らない訳だから、教科書がどう変わろうが、影響はないわけだが、とにかく凄いことなのだろう事は想像できるわけだ。では、ここで少し、「不確定性原理」と言うものを調べてみると(とても詳細まで解るはずもないからだが)、ドイツのハイゼンベルクが導き出したもので、1932年にこの「不確定性原理」を含めて、量子力学の幕開けを行ったという点で、ノーベル物理学賞を得ている。一言で表現すれば、「電子や原子核などの微小世界の物質のふるまいを説明する量子力学の基本原理」と言うことだそうで、具体的には、「位置と速度のような2つの物理量を共に正確に測定することは不可能である」として、2つの物理量の測定誤差を掛け合わせると、その積は一定値よりも必ず大きくなるということをいっている。難しい数式は元より分からないのだが、イメージとしては、粒子の位置と、速度を計測しようとして、光を当てると、光が当たることによって粒子は位置はずれを生じ運動量即ち速度を正確に測れないとされてきた。要するに、一方(位置の検出)の誤差を小さくしようとすると、もう一方(速度)の誤差が大きくなるトレードオフの関係だというのだ。即ち、これら2つを正確に測定しようとしても、測定という行為自体が粒子の状態を既に乱すことになり、計測された結果には誤差が入り込んでしまうと云う事である。何を云っているのか茫洋としているが、要するに、ある種の誤差は不可避で、あまり正確に捉えることが出来ないと言ったことだろうか。そう言った制限下でも、「不確定性原理」は現在の情報科学(IT)やエレクトロニクス関連の産業の発展の基盤となって、大きく寄与してきたわけだが、今回の「不確定性原理」の修正(即ちハイゼンベルグの主張した原理の修正)によって、粒子の位置と速度をある一定の条件の下では、互いの誤差無く、正確に計測できると云うことが実証されたというわけである。従来から小澤らは、「小澤の不等式」という理論を提唱し、過去30年近くにわたって「ハイゼンベルクの不確定性原理を破る測定は可能」と主張し続けてきていたが、このほど長谷川祐司准教授と共に、実験によって自らの理論を実証したと云うことになる。従って80年間信じられてきた原理にほころびが生じ、(より正確に測定することが出来るようになった)従来のハイゼンベルクの不確定性原理を修正したということだ。小澤の式とはどんなものなのかを解説したものがあったのでそれを解釈すると、ハイゼンベルクの式は単純に、位置と運動量のみを対象にし、それらを計測するときに現れる不正確さを全て誤差と決めつけた点にあるという。小澤らの考えは、物体の位置と運動量には、それぞれ測定前にもともと「量子ゆらぎ」を持っているという考えで、これら2つの項を追加することで、ハイゼンベルクが誤差としていたことを、「量子ゆらぎ」と「測定による誤差」に分ける事によって、新たな不確定性の式を導いている。「量子ゆらぎ」というのはもともと物体に備わっている性質であり、既知であると言うことで、之を厳密に区別した上で観測の理論を構築し、ハイゼンベルグが混同していた内容を是正したと云うことになる。理論的にはタイムマシンも可能にするかも知れないという、超光速ニュートリノは光速よりも速いといった問題と違い、今回の実験による確認実証は、量子力学そのものを覆すものではなく、ただ、ハイゼンベルクの提唱する量子力学の基本方程式を若干修正するという事になり、その結果、従来のハイゼンベルクの式では曖昧にしておかれてた粒子の状態が測定が可能になり、むしろ量子力学の可能性を広げることになるのだ。現在の古典力学は、既に解明されていることを用いて、この先起こる現象などを予測することができる理論と言うことだが、量子力学は未だに曖昧な要素を含んでおり、ある意味で確率的な要素を含むものとされていたが、今回の実験と実証で、この邪魔ものと見なされていた「不確定性」を厳密に整理し直したと言うことになるのである。現在は、ロバストな、ノイマン型スーパーコンピューターが使われているが、ナノテクが進める極微の世界が更に一層「ゆらぎ」無く進化、解明されていくと云うことのようだ。「1番でないと駄目ですか、2番じゃ何故いけないですか」などといっている次元をはるかに越えるものである。この小澤の実証によって現在では未知技術である量子コンピューターや量子暗号通信がますます発展していくことが考えられる。所謂ナノテクノロジーと言う世界が飛躍的発展を遂げるといった感触を受ける。現在ナノテク(ナノは10のマイナス9乗)と称するものも、現実にはミクロ(10のマイナス6乗)の世界を扱ったものが殆どであり、この度の実証でハイゼンベルグが縛りになっていたのかどうかは知らないが、今後はより細かな粒子の動きを捉えることができるようになったと考えれば、ミクロからナノへの本質的な展開がよりいっそう加速されるようになったといえるかもしれない。最後に新聞にも掲載されている従来のハイゼンベルグの式(旧式)とこの度の小澤の式を併設転記しておくと、【ハイゼンベルグの式】 εqηp ≧ h/4π (hはプランク定数,最後の文字は円周率のパイ)・・・(1)式と言う簡単な式が【小澤の式】 εqηp + σqηp + σpεq ≧ h/4π・・・・(2)式と少し複雑になっている。(1)に於いて、εqは測定する物体の位置の誤差で、ハイゼンベルグは揺らぎの現象もこの中に封入していた。ηpは位置を測定したことによる物体の運動量に生じる乱れである。ここで、もし位置が誤差ゼロ(εq=0)で測定できたら運動量の乱れ(ηp)は無限大となって,測定値そのものが意味を成さないものになる。(従来)(2)式は(1)のハイゼンベルクの式から,朱記の2つの項が増えている。新たに出てきたσq,σpというのは,それぞれ物体の位置と運動量が,測定前にもともと持っていた「量子ゆらぎ」ということになる。と言うことで、(2)式により、従来は、不可能とされてきた、粒子の動きと位置を確実に捉えることが出来ると言うことになるわけだ。ここまで書いて、之がどのように我々の日常生活にアプライされるのか、見当もつかないが、何かしら、壁が1つ突き破られ、日本のお家芸である物理学にまた1つの足跡を残したことになる。
2012.01.16
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古来からの風習であり、小正月(1月15日)の行事と言うことで、全国的に広く行われているようだ。いろいろな呼び方があるようで、「どんど焼き」とか「どんと焼き」とか「どんどん焼き」と云うところもあるらしい。更に調べると様々な呼び方があるが、一々述べるまでもないだろう。また、別称として「左義長(さぎちょう)」という呼び名もあり、不明にも、私はどういったいわれなのかよく知らなかった。この左義長は三毬杖とも云うらしく、ここら辺の言葉が何故にとんど焼きと関連付けられたのか残念ながらよく分からない。物知りのインターネットを通じて調べてみると、諸説あるようで、その1つに平安時代、『宮中の清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖(ぎっちょう)三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事が由来』だという。(因みに、毬杖とは、木製の槌をつけた木製の杖を振るって、木製の毬を相手陣に打ち込む遊び、またはその杖のことを云う)それが民間に伝わりとんど焼きとなったといわれているとの説明であるが、之では、到底、その関連性を理解することは難しい。いずれにしても、このとんど焼きは無病息災・五穀豊穣を祈るものだそうで、実際には、正月の松飾り・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを家々から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わるお正月の火祭り行事なのである。中には、古い年賀状を持って来て、焼いている人も居て、連れ合いもそれに習っていた。私などは、袋を分けてではあるが、ゴミ捨てに出していたので、なんだか今までは罰当たりな事をしていたような気がしたものだ。また、町内では、同じ主旨であるが、昨日(14日)、近くの畑で、どんど焼き(ここでは「ど」となっていた)で、三毬杖を立て、焼いていた。一昨年までは、この町内に於けるどんど焼きに松飾りなどを出していたが、今年は怪我の功名で、日にちを間違えていて、若山神社のとんど焼きに行くことになったわけで、それはそれで良かったような気がしている。町内の田んぼの真ん中でやる場合は、長い竹や木、藁、茅等で高く積むため、火の高さもそれなりに高く豪快であるが、神社の境内で、持ち寄られた、松飾りや、御札、さらには破魔矢などをこぢんまりと焼くのもまた風情がある。何しろ若山神社の主祭神は素戔嗚尊ということで、天照大御神や月読命等の兄弟であり、伊邪那岐神の子供と言われているが、どうも伊邪那岐神の鼻から出来たとか、伊邪那岐神が払った塵から出来たなどと神話にはあるようでそこが神話の所以である。若山神社から西を見るとこんもりした山があり、何やら霊験あらたかな気がする。しかし一山越えると、ゴルフ場になっているのだが、勿論神社の境内からは山しか見えない。大宝元年(西暦701年)に文武天皇の勅を受けて行基が勧請したのが始まりと伝えられている。またこの境内から東を見ると、桂川、宇治川、木津川の三川合流地点などが眺められ、その川の向こうには、石清水八幡宮のある男山も見ることができる。何となく、正月モードを終了する場所としては、若山神社でのとんど焼きの方が、気持ちが洗われる気がするのも、むべなるかなである。今年は、平安神宮でも、城南宮でもお神籤を引いたが、いずれも「末吉」だった。そこで、ここ若山神社でもお神籤を引くことにしたら、何と「大吉」が出たではないか。毎年、大吉が出るまで引き続けていたのだが、今年は末吉でも良いかなどと思っていたので、やはり若山神社様々、素戔嗚尊様々である。平安神宮の主祭神は桓武天皇と孝明天皇であり、城南宮の主祭神は息長帯日売命(神功皇后)らであることから、素戔嗚尊の方がずっと先輩に当たるわけで、その先輩が、大吉を出してくれたのだから、一審(地裁)や二審(高裁)が、まあまあ気長に待てと判決したところ、上級の最高裁で覆ったような気持ちである。連れ合い共々、また来年も是非来なければいけないと云うことになった。因みに連れ合いは、「向吉」が「吉」に変わっていたのである。さてとんど焼きに戻るが、とんど焼きの火で焼いた団子を食べれば、その1年間健康でいられるなどの言い伝えもあり、神社では市販の餅を焼く準備をしていた一方、杵と臼が置いてあり、暫くすると、餅つきが始まった。つき上がった餅は、きなこにまぶされ、境内に来ていた人達に振る舞われた。之で、五穀豊穣もさることながら無病息災間違い無しと、気をよくしたものだ。さらに、薦樽を開け、御神酒も振る舞われたので、云うことのない、とんど焼きになったわけだ。 「とんど焼き」の語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)」と囃(はや)し立てたことから、その囃し言葉が訛ったのだとか、どんどん燃える様子から付けられたと云われているようだが、どれも後付のような気がする。日本には、(世界的にもゾロアスター教など)火を祭事に使うことが多い。大文字焼きや若草山の山焼き、秋吉台山焼きなどもこうしたことと共通する火に対する畏敬とともに、火は穢れを浄め、新しい命を生み出すといった意味合いから使われるのであろう。お守りや御札を燃やしたり、正月飾りを燃やしたりするという行為から、神様を烟となって空に送る、つまり「正月の神様」が空に帰っていくという意識が働いているのではないかとも云われている。東京(江戸)では火災の恐れがあるので江戸時代からとんど焼きは禁止されていたようだが、現在でも、台東区の鳥越神社ではとんど焼きをやっていると聞く。ぼちぼち読んでいる徒然草にも第180段に「さぎちやうは、正月(むつき)に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)を、真言院より神泉苑(しんぜんゑん)へ出して燒きあぐるなり。法成就の池にこそと囃すは、神泉苑の池をいふなり」とあるようで、兼好法師ものの左義長(三毬杖)の事は取り上げているようである。 元々このとんど焼きは宮中で行われていた神事の三毬杖から左義長へとかわり、何やら庶民がはやし立てながら焼くことから云われ出したとかあるようで、江戸時代の末に書かれた文の中にも「左義長」の文字を見かけるのだそうだ。更に、インターネットで調べた人は、左義長のいわれを次のように紹介していた。 『仏教と道教との優劣を試みるため、仏教の書を左に、道教の書を右において焼いたところ、仏教の書が残り、「左の義長ぜり」という「訳経図記」にある故事からからという俗説(徒然草寿命院抄)がよく知られている』 と引用されていたが、いかにも仏教の優位性を喧伝するために作られたようであり、どうも眉唾のような気がすると書いておられる。 先にも書いたように、とんど焼きで焼いた餅を食べれば、年中の病を除くという事だが、しからばつきたての餅にはそう言った霊験が宿らぬのかと、つきたての餅は旨かったが、一寸やきもちも出来るのを待っていただいて帰れば良かったかなと思った。新年の季語にもなっているとかだが、俳句をよくしない私などは、一寸遠い存在である。幾らも高くない若山神社であるが、車で上る人も多く、何カ所かに造られた駐車場もやがては一杯になる。また、麓からは一部崩れかかった石段が、境内まで導いてくれるが、年寄りでも杖をつき突き石段を登る人も多い。そうして、毎年自身の足で歩いてこられることが幸せであり、且つ健康のためにも良いことなのかも知れない。小正月の行事にこのようなこともあったのかと云うことや、とんど焼きは、町内会の行事ぐらいに思っていた私にとっては、多少とも勉強になった次第で、今年の家族の健康祈願も出来て、爽やかな1日となった。
2012.01.15
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3ヶ月に1度、大学の同期生が随意に集まる会があり、今日は2012年の新年会でもある。集まるのは任意だが、集合場所は、大阪駅前の弥生会館である。私は、朝1番に近くの医者に出掛けた。歩いてもすぐのところで、朝の診察前20分には行くことにしている。通院は、月1回の割合であるが、お定まりの生活習慣病ということである。病気というものも、自覚症状がない場合は、現状肯定で、常は何とも感じないのだが、医者は、「サイレント・キラー」と言う言葉を使って、油断できないと常に警告を発してくれる。私の歳になると、弱ったところが体中に方々に出てくるが、各人各様で、病気と言っても多様である。その医院の待合所は、鉄キチには垂涎なのだろうか、日本の各路線を走る列車で地方、地方を案内してくれるビデオが掛かっている。列車もさることながら回りの風景を見ていると何となく和む気がし、何処かに旅行したいといった気持ちにさせてくれる。そして、時間前10分には、診療の声が掛かる。常と変わらず、薬を貰うときには、座ってすぐ血圧を測ることになる。医者は、「お変わりありませんか」と云うので、「特にありませんが、お正月で肥ってしまいました」というと、医者は求めていた答ではないのか、軽くかわされた。血圧計は少し高めであるが、先月より値が低いので、まあまあ、ですねと云うことで、おきまりの2回目を計ることになった。ところがどうだろう、いつもは、2回目の方が低くなるので、そう期待していたのだけれど、実際は、うんと高い値が出てしまった。医者も困って、平均値にしておきましょうと実に大雑把である。薬の程度を替えるでもなく、たったそれだけで、診察は終わりだ。次回は、3ヶ月に1度の血液検査をするので、それまでには痩せてくださいと云われて、年始の診察は終わった。一旦家に帰って、連れ合いは来年度も学校を続けるという気持ちは固いらしく、連れ合いの春休み期間中にそれまで行きたいと思っていた中欧への旅行相談に旅行会社に出かけた。最近の新聞紙上や折り込みチラシ、そしてダイレクトメールには、国内旅行や近場の海外旅行、さらにヨーロッパ旅行などいろいろな宣伝が入ってくる。どれもメニューは画一的で、大体同じ場所に行くケースが多く、それを何日でまわるかとか、グレードがどうだとか、食事がどうだとかで差があるようだ。あのチラシやダイレクトメールを発行するだけでも大変だろうと思うが、果たして、最近では自動車業界のチラシなどの宣伝よりも多くなっているのだそうだ。期日の規制もあって、一寸短めではあるが、サーチャージ込みの計画で値頃感のプランがあったので、その申込みを済ませた。軽い昼食を済ませて、連れ合いは、友人との夕食会があるというので、分かれた。私は、久しぶりに、ヨドバシカメラに行き、印刷用のインクを買い求めたが、最近の店内に置いてある商品は、何やら昔と様変わりをしていて、未来にワープした気さえする。各社から出されたスマートフォン(スマホ)やiPadなどが売り場面積の大部分を占めていると言った格好だ。1時期から、スマートフォンの販売台数が、パソコンを凌いだという話もあるが、店内は結構混んでいて、店員もあちこちと忙しげに走り回っている。昔なら、新しいパソコン仕様が出ると、必ずチェックしたり、パンフレットを確かめてみたりしていたが、現在では、ウィンドウズも基本ソフトの変化も特になく、殆ど頭打ちになっているかのようである。価格面でも大幅に安くなっているようで、時代の変遷を感じる。昔は、かなりな時間店内を見て回っても、飽きなかった気がしていたが、今ではやはり歳のせいか、立って見て回るのは段々疲れを感じる。欲しい物がないと言えば嘘になるかも知れないが、やはり、物欲的には、相当希薄になり、例え何か新しいツールを買っても、それを使いこなせないのではないかという方が気分的に強くなっている。次ぎに時間潰しで云ったのが、紀伊国屋である。集合場所と、阪急電車に近いという点から、良く立ち寄るが、配置や内装が変わったので、何処に何が置いてあるかも時々迷うほどに本の数は増えている。ただ、専門書のコーナーでは、昔買った本が、未だ店頭に並んでいるものや、あの本はどうなっただろうかといった本を、近くの検索機械で見ても、在庫がないという場合が多くなっている。しかし、相変わらず店頭近くの雑誌のコ-ナーは人だかりが多い。あの半数以上の人は、立ち読みだけで済ませ、買って帰らないのだろうなと思ってみている。私の場合も、読みたそうな題名の本が出ていても、既に、気分に任せて購入し、そのまま積んでいる本が、多くなってきている。おそらくは死蔵のまま終わるのではないかと思っている。そんなわけで、本屋に立ち寄っても購入すると云うところまでは行かない。今日もただぶらぶらと店内を見て回って、それにも疲れて、早すぎるが、集合場所に向かった。17:00から開始する習わしになっているが、30分も前に着いてしまった。一応ホテル形式のところであるが、ロビーに当たるところには、ビニール張りのソファーが並べられているだけの、質素で、暗いところである。それでも本が読める程度には明るいので、メガネを取り出して、読んでいると、10分前頃から同期生が、三々五々集まってきた。何時も良く面倒をみてくれる友人は、17:00ジャストに現れた。皆で決まった店に入り、之も決まったように2つ続きのテーブルに1つ継ぎ足して、広めの領域を確保する。毎回何人が集まるか解らないわけで、予約は当然していない。集まった人間だけで雑談をして変えるというスタイルなのがよい。遅れてくる友人も居たが、そのたび毎に新年の挨拶をし、乾杯をした。結局は、新年と云うこともあって、関西在住で、集まれそうな人は全て集まり総勢8人であった。まだまだ働いている友人の方が多い位で、計量士や、中小企業の間を取り持つコンサルタント的業務や物づくり研究所なるものを経営していると言った者もいる。また、ボランティアの域を越えない位で専門書の翻訳業務をする人もいる。全く趣味の世界にどっぷりと足を付けているのは、私を含めて、3人程度であろうか。3人目の孫が出来、全部男ばかりで大変だといいながら相好を崩す友人や、自分たちが、67歳になっているという現実が、どうにも理解できず、「俺たちが子供の頃70歳近くの老人を見る目と、同じように見られているのかなぁ」と懐疑そうに語る者もいた。この間、三菱神戸造船所で最終の自動車運搬船の進水式があった話を、同所に在籍していた友人に聞いたが、最早余り感慨がないようであった。それよりも教養時代に席を同じくして学んだ原子力工学科の連中と一度原発のこと、原子力そのもののことなど聞いてみたいという話も飛び出した。人それぞれに記憶に残ることは勿論違うのだが、私が、こういう事があったという話をしても、そうだったかなぁ、と言うし、だれかが別な話をしてもそんな記憶は薄れてしまっていると言ったことが多かった。しかし、教養時代になかなか単位を呉れなかった先生のことは、何故か皆覚えていたようだった。話はいつものように多岐にわたるのだが、共通の話題の一つは、身体のことであり、病気のことである。集まった8人の中にも私以外に、厄介な病気を持っているという者も居たが、それでも、ここに集まれるだけでハッピーだと云うことである。この場所は、時間制限はなく、適当に回りも喋っていて、食事こそ出来ないが、つまみは色々あるし、何と言っても安価であることが、素晴らしい。ビールを入れて、焼酎2瓶が空く程度でお開きになる。この10月頃には信州安曇野方面に旅行をする予定というが、次期幹事が計画することになっているようだ、以前に下呂温泉に1泊したが、その時には、東京や、関東近辺在住の数名も参加して旧交を温めることが出来た。中に、大学教授が2名ほど居るが、なかなか忙しくて来られないようだ。そのうちに会えるだろう。同窓生でも、最早きらびやかな肩書きもなく、馬鹿な話をして、3時間余を過ごしてそれぞれの家路につく。私は三線をやる友人と阪急梅田駅まで話ながら帰り、彼は神戸線、私は京都線と別れる。京都行きの準急に丁度座ることが出来、本を広げて読みながら、「茨木市」という名前までは覚えていて、次の次ぎに降りるのだと言い聞かせたまでは覚えているが、はっと気がつくと、電車は「桂駅」に入る寸前だった。又やってしまったかと、Uターンして、今度は寝過ごすまいと、しっかりと上牧で下車することが出来た。楽しかったが、結構長い1日であった。
2012.01.14
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永らく名前を伏せて報道されていた経済産業省の幹部がついに逮捕された。その名前は木村雅昭(53)である。よもや、誤認逮捕ではないとは思うが、そこは、同じ官僚の検察庁のやることであるから、でっちあげが無いとは言えない。しかし、このエルピーダメモリ社に関わるインサイダー取引事件を見て、これ以上ないほどがっかりすることはない。手っ取り早く云えば、自分が地位を利用して得た、又はそうなるように指示していた通りに事が運ぶことを知って、手堅く株を購入し利益を得るという単純且つ卑劣な内容であるからだ。インサイダー取引とは証券用語で極簡単に云えば「会社の内部者情報に接する立場にある会社役員等が、その特別な立場を利用して会社の重要な内部情報を知り、情報が公表される前にこの会社の株を売買することを言う」とある。ここに挙げられている例は、会社役員と言うことだから、例えば、自社の開発した商品が、希少価値があり、絶対に売上が極度に増すことが間違いない(役員会議などで得た情報)と云ったときに、それが世間に発表される前にいち早く自社の株を購入して、発表後に株価が急上昇した時点で売って利鞘を儲けるといった行為である。会社役員というのは、典型的にそう言った情報に接する機会があるだろう事から、定義の中にも盛り込まれているわけだろう。勿論一般社員が、そのような情報を何処かで知りうる場合もあるわけで、そちらも同罪であることには違いない。そして、法律では、このインサイダー行為を行った者に対して5年以下の懲役、若しくは500万円以下の罰金(または併科)を科すことになっている。そして、残念なるかな、こういった法をかい潜って簡単且つ確実に儲けようとする輩は後を絶たないのである。しかし、今回のケースは、内容は同じかも知れないが、極めて悪質であると云うことだ。それは、この前田雅昭という男が、経済産業省の審議官であったと言う点である。エルピーダメモリ社というのはDRAM(半導体メモリー)の専業メーカーであり、日立製作所と日本電気のDRAM事業部門の統合により設立され、三菱電機の同部門も引き継いだ会社である。最近は、このDRAM市場は、韓国に先を越され水をあけられる一方であったために、日本連合として、立て直しをしようという話になったわけだ。その為、木村は国内産業活性化なる法律のもとに、国内唯一のDRAMメーカーを助けずして、どうするかと云った大義名分に隠れ、資本金増額という支援策を纏め、業界指導を行ってきたのである。支援策の中には、勿論、国民の税金注入も関係している。表向きは、あたかも国を救うための国策を立案したとしながら、裏では、エルピーダ社長などから、逐一上げさせた情報をもとに、軌道に乗せられると見るや、株の買い付けを行ってきたのである。明治来の国力増強のために尽力した通産省時代の役人の姿はもう何処にもない。ここまで腐りきっている現在の経産省は、むしろ解体すべきと思うが、未だに霞ヶ関に巨大なビルが建っている。私も省は違うが、霞ヶ関ビルに入ったことがある。課長という地位が、どれ程強大であるかは、行けばすぐに解るだろう。一般企業の社長などは、常にピリピリしている。何しろ許認可の元締めであるわけだから、あだやおろそかに出来ないと言うところであろう。このインサイダー疑惑が最初に報道されたのは、昨年の七夕の日であった。その時は「経産省幹部インサイダーか?」と「?」が付いていた。リーマンショックで立ちゆかなくなった、同社を再生させる辣腕を振るったわけだが、それも之も私利私欲のためであったのかと、実に情けないという思いと共に、憤りを感じる。そう言った手腕を買われてか、その後、この木村は課長から資源エネルギー庁の次長に昇格しているのである。昨年は、東日本大震災で、原発事故を起こし、エネルギー問題が、複雑化している中での、疑惑報道に、職員の中からも不安の声で一杯であったという。後に木村は官房付に異動したが、もし、そのまま発覚せずに進んでいたら、この未曾有の日本の危機をも自分の欲のためになにがしかの金儲けの種にしていたかも知れない。そんな官僚がうじゃうじゃ居るのが霞ヶ関であろう。この牙城を崩そうとしても、彼らは、永年営々と気づき上げた、保身の術があり、ぽっと出の議員が少し位束になって掛かっても壊れるわけがない。この度の野田改造内閣を見ると、先ず消費税のアップがありきで、その後に申し訳程度に行政改革がくっついているような感じだ。この行革は、木村のような官僚の了解を得なければ成らぬものであり。前途は多難と言わねばならない。話を木村雅昭に戻すと、商務情報政策局の審議官に就任し、産業活力再生特措法が閣議決定するや妻の名義で、エルピーダメモリとの取引を開始したのである。最初は、誰でも同じだが、「知らない、何も話すことはない」と言っていたが、木村は、以前にも自身でエルピーダ株取引を行っていたが、別の職員がインサイダー取引で摘発されたので、一旦なりを潜めたようだが、再び、妻名義の口座で取引を開始したというのだ。因みに別の職員とは、当時、経産省情報通信機器課技術係長中原拓也ではないかと思われる。この中原、詳細は知らないが、280万円を売り抜けて利益を得たというのだ。こういった事を知りながら、木村は2009年には、株取引を開始したのだという。人の噂も75日と思ったのだろうか、それとも妻名義なら解るまいと思ったのだろうか。金融商品取引法には、この対象に「上場会社の役員の配偶者および同居者」などとわざわざ規定されていると云うことをよもや知らぬはずがないと思われるのだが、欲に目が眩むというか、元々、こう言ったことのために、難関の東京大学まで出て、頭を鍛えたのだろうか。それにしては、あまりに稚拙なやり方に違和感を覚えるのである。今のところどれくらい利益を得たのか知らないが、逮捕時には230万円の利益とあったから、それほどのリスクを冒してまで行う価値があったのかと之もまた不思議である。自らの地位と、年収、入っているかどうか知らないが、高級公務員宿舎、各種の手当て、その他計り知れない恩恵を棒に振るという程の魅力あるリスクなのだろうか。勿論うまくいけば労せず儲かる甘い汁であり、報道されているのは極1部であろうから、次々と株を購入して、8000株にまでなった利益は、未だ増していったであろう。さて幾ら儲かったのだろうか。(この利益も当然刑が確定すれば吐き出すことになるのに)53歳という若さで顔を見ても更に若作りである。しかもしたたかな交渉力と強引さを持っているとの評もある。之から幾らでも稼げただろうに、と言うことは考えなかったのだろうか。木村の弁護士は、これまで取材に対して、「公知の事実に基づく妻の買い付けで、インサイダー取引にあたらない」と云っているそうだが、李下に冠を正さずといった故事さえも彼の頭には浮かばなかったのだろうか。こういった誘惑はどの国でも同じなのだろう。10日付の新聞には、スイス銀行のヒデブランド総裁の夫人もインサイダー取引で、約600万円の利益を得ていたということで、総裁自身は辞任したと云うことだ。こちらは、夫人が単独でしたことのように書いてあるが、短い記事だから本当のことは解らない。日本でもせっせとお金儲けをした日銀総裁もいた。大概のことは、不問に付せられる場合が多いが、今回の件は、単純、且つ明快なやり方であり、露見してみれば、何と稚拙なやり方だったのだろうかと、疑問に思うほどである。逮捕されたこと自体で、問題は大きな波紋を呼んでいるが、この裁判(当然起訴されるとして)の結果は、どのようになるのか、見守らなければならない。それは、木村個人に留まらず、経産省に於ける、職掌範囲の見直しや、引いては、経産省自体の解体を含む組織の見直しなどを期待したいからである。
2012.01.13
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今日は、友人夫妻とゴルフラウンドの予定であったが、この冬1番の寒さと言うことで、延期を余儀なくされた。友人夫妻とは、暮れから会っていなかったので、今日が初打ちと言うことだったが、果たせず、少しフラストレーションが溜まっていた。連れ合いは、友人の夫人にお会いできなかったのが残念だと言うことをメールで打ったようだ。それでは会いませんかと言うことになり、夫人がチーズケーキを焼いて待っていると言われ、厚かましくも、のこのこと出掛ける事にした。友人宅は、吹田であり、私のところからは、3つ目の市になるわけだが、車で小1時間の場所だ。先週、浜松に出掛けたので、そこで買っていたうなぎパイを手みやげに出掛けた。約束の時間に少し遅れたが、友人夫妻は寒い中、出迎えてくれた。私もそうだが、連れ合いも、友人夫妻と話すと心が安まり、また綺麗に飾り付けた部屋の中で、スマートにお茶を頂くのが好きであり、リラックスさせて貰った。やはり最初の話題は、ゴルフのことである。昨夜は確かに極端に冷え込み、この冬1番の寒さとか言っていたが、昼の時間になり、室内から外を見ると天気も良く、「今日は出来たのではないか」と云った話も出て、一寸羨ましそうであった。今日のキャンセル分に替えて、友人と相談し、次の予約を入れているので、それが初打ちになる予定である。友人のゴルフに関しては、かなりやり続けていたようで、安定したゴルフである一方、私のは、とぎれとぎれの我流だから、最近はとんと調子に乗れなくなっている。夫人の手製のチーズケーキはとろけるように美味しかった。思い立ったら、こういった小技が出来るなんて言うのは良いものだなと思いながら、コーヒーと共に頂いた。そのうちに趣味の話になるが、最近の友人は、雨の日以外は、1時間半程度歩くのを日課にしていると言うことで、スリムな体型を維持している。私の場合は、この正月に食べたいだけ食べて、大台に乗るかも知れないと云うほど肥ってしまった。連れ合いは、食べてもそれほど肥らない体質というか、ある程度で抑えられるようだが、私の場合は、飢えた犬のようにガツガツしているので、その差は大きい。友人の他の趣味と言えば、長い海外生活の延長で、英字新聞を読んだり、NHKの英語でのフリーディスカッションの講座に入って、英語のブラッシュアップをしたり、庭掃除をしたりと、極のんびりと過ごしているようである。更に特筆すべきは、お風呂の掃除を週に1回は念入りにすると言うので、之には感心した。確かに風呂は、くつろぎの場所であるが、長く放って置くと湯垢が溜ったりして、良くないのは解っているが、掃除の回数を聞いた時には一寸驚いた。停年後未だ年数が経っていないと言うことなので、之から何をやろうとか、と言ったことは未だ考えず、やるかも知れないし、またこのままかも知れないと云った自然体なのだそうである。夫人はと言うと、趣味が多彩な上に、ゴルフもみっちりレッスンしていると云うことで、時間が足りないと云うことだった。私の場合も、連れ合いに言わせれば、余り意味のないことが多いのかも知れないが、なんだか時間が足りないと感じることが多い。そんな話の中、連れ合いは、現在、時間講師で通っている学校に、更に来年度からはフルタイムで勤めて欲しいと懇願され、ほぼ本人はその気になっているようである。私も同じだが、友人も、身体を犠牲にしてやるのは考えものだし、マイナスである旨助言を呉れたが、まぁ、本人がやる気があるのであれば、それもまた良しではないかと言うことだった。日本で最高齢の教師になるのではないかと、冗談で思ったりもするが、それでも身体さえ丈夫であれば、それはそれでまた良いかなとも思う。考えてみれば、人の1生は、1回きりであるし、やったことで何が起こるかも解らないが、やらなくて後で悔やんでも仕方がないと、これまた、常識的な考えの繰り返しになる。連れ合いの、延長登板(教師を続ける)事に対して、彼女なりに自分の意思について回りの意見を聞き、決意を固めていって居るようである。そのほかいろいろ話したが、詳細については、余り覚えていない。今日の夕方に池上彰のアラブ関係のテレビ番組「宗教が解れば世界が解る」の放映があると聞いて、帰って観ることにした。池上彰は、上手く時代の潮流に乗って、著作で稼ぎ、テレビで稼ぎと、なかなかの活躍振りである。私は、中東に少し居ただけだが、その滞在中に世界を見る目が少し変わったような気がしている。第1に我々が接した人種は、先ずアメリカをはじめとした西欧人が最多であり、今では、中国人や韓国人が、多く来日したり、またかの国々には比較的安価で行けたりするので、韓国や中国などに出掛ける人も多い。しかし、日本人はペリー迄戻るまでもなく、太平洋戦争の敵対国としてアメリカと対決して敗戦しが、その後は、好むと好まざるとに拘わらず、アメリカを通じた西欧式のフィルターを通した考えでしか世界を見なくなっているというか見られなくなっている気がする。黒人やヒスパニック、その他、他民族の集積地であるアメリカを経験した友人の話は貴重で、時々話題になることも、興味深いことである。何となく話す内にあっという間に時間も過ぎて、楽しい一時を持てて嬉しかったと、辞去した。一寸回り道をして、家に帰り着くと、丁度池上彰の番組が始まっていた。また別の機会に書き留めたいとと思うが、世界の紛争の火薬庫の最も根強い箇所がパレスチナであり、池上彰に言わせれば、ヨーロッパ、アジア、そしてアフリカなどの交接点であることが、地政学的な因縁がその原因の1つであるといった解説をしていた。私は現在、船津靖の「パレスチナ」(聖地の紛争)を読んでいるが、今まで、中東関係やイスラム圏のことなどを記述した数冊の本を読んだことと、現地での僅かな体験からではあるが、その奥深さは計り知れず、パレスチナ辺りは、西欧諸国や、アメリカなどにより、良いように振り回された歴史の歪んだ接点でもあるように思える。現在パレスチナは国として、国連加盟を申請中であり、やがては受け入れられるであろうが、幾度となく共存を計ろうとした試みが為される中、極めて偏執的な指導者の出現によって、その目論見が破綻すると云ったことの繰り返しの歴史を持っている。約束の地カナンは神がユダヤ人に与えた地だとユダヤ人はいう。神は、一方的にそこに住んだ原住民であるアラブ系の民族のことは顧慮しなかったのであろうか。彼らの間に、共存するチャンスを与えるつもりはないのであろうか。イスラエルというユダヤ国家をアメリカが後押しするには、大きな理由があり、それは、友人の話からも頷ける。アメリカの政治の表舞台にこそ多くの人材を出していなく、せいぜいキッシンジャーぐらいだとの説明だったように、アメリカ社会に於けるユダヤ人の影響力は無視できないというか、隠然たる力を有しているのである。ロスチャイルド、フリーメンソンリーなどの言葉は、私の興味を掻き立てる。ヨーロッパのキリスト教徒が、カソリックから分離して新天地に渡ったとき、何か神からのご託宣があったかどうかは知らないが、新天地を求めた要因の1つに、宗教絡みの内紛的なものが根底にあったことは明白である。そして、新しく入植した後のアメリカ人は、その地に昔から居住しているアメリカ・インディアンを、追い詰め、動物のようにおりの中に閉じこめた如き事実と、何処か、今日のパレスチナに於けるユダヤ人が、アラブ系民族を無視して入植を拡大し続けていることの類似性を感じる。侵略の事実を重ね、それにやむを得ず抵抗するアラブ人の自爆テロなどの行為を大々的に取り上げてそれのみをテロ行為と喧伝するが、実は、イスラエルのアラブ系民族に対する仕打ちは、自らが、ナチスによって迫害されたと同様の卑劣な行為を行っているのであり、時にアメリカは之を容認しているといった背景があるのだ。宗教が解れば世界が解ると池上は云うが、1つの宗教でさえも、数多の流派があるように、奥が深くまた、之を理解することは極めて困難であるわけで、ましてや、その互いの宗教というものを比較し、論じるなどと云うことは、不可能であろう。神というクラウドのようなものを、ユダヤ教では「ヤハウェイ」と呼び、キリスト教では「ゴッド」呼びイスラム教では「アッラー」と呼んでいるわけだ。実態は、人の心に宿る神が、外面的には八面六臂の姿となっているように私には思える。「神の思し召しのままに」生きる人間は、キリスト教徒は「Let it be」といい、イスラム教徒は「インシャ・アッラー」などと言葉を変えているだけなのだが。
2012.01.12
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極めて稀な、経営者の責任を問う裁判の判決が出た。この事故は、2005年4月25日、朝の通勤時間帯に起こった、JR西日本の福知山線での尼崎に於ける列車の脱線転覆事故である。この事故を起こした運転士は、高見隆二郎(当時23歳)は事故当日に死亡している。今日まで問題になってきたのは、この事故が、JR西日本の会社そのものの締め付けが誘引で起こったのではないかということ、さらには、JR西日本は危険を十分予知できるはずであったのに対策を怠った経営者の責任ではないかと言う点を追及するものである。事故の状況は死者107人、重軽傷者562人と言う21世紀の日本の列車事故史上では最悪の事故となった。20世紀では、国鉄時代の八高線列車脱線転覆事故や鶴見事故など重大な事故が起こっているが、現代社会に於いては、日本でこのような事故が起こることは、珍しいと言わなければならない。今回の判決は、事故当時鉄道本部長であり、後に社長を務めた山崎正夫に対する在宅起訴に対する判決であり、検察側の求刑した禁固3年に対して、無罪という結果であった。公判の争点は、5つで、1.事故回避の可能性2.ATS整備状況3.前社長の認識4.予見の可能性5.結果回避の義務というものだった。結論的には、1.事故回避の可能性では検察側は列車連絡の利便性を考えて、線路を敷設し直し、曲率半径が600mから304mに曲率を小さくしたことが、危険性を増したと言うことだが、弁護側は、近隣に半径300m程度の箇所は存在し、改正ダイヤにも余裕があったために、現場のカーブが、時に危険であったとは言えないとしている。2.ATS設置の件では検察は、JR西日本は、曲率半径450m未満は既に設置しているので、ATSが脱線防止であることを認識していたはずだというのに対し、弁護側は、ATSは荷棚の荷物落下防止や、乗客の転倒防止であり、脱線防止ではないと主張している。3.前社長の認識では、1996年の函館貨物列車の転覆事故を例に引いて、曲率半径300mでは脱線の危険性があると当然予測できたとするのに対し、函館のケースは、下り勾配であり、且つ貨物列車であったので、之を一般旅客列車に当てはめることは同一視できないとしている。4.事故の予見性では検察の6件に及ぶ過去の例を引用して、急カーブの現場での危険性は当然予見できたというのに対し、之も3.での理由と同様、貨物列車の事故から客車への脱線までの想起は無理があるとしている。5.結果回避の義務では、ATSの設置について、JR西日本の組織としては、大規模事業者には及ばない対策であったといえるが、前社長個人が、之を予見することが出来なかった事を追求は出来ないと言った旨の判決である。とかく裁判の言葉や、その意味するところは複雑で、理解不能のところがあり、一般人としては、いかにも理解しがたい言い回しであるし、当を得ない判決理由のような箇所もある。前社長山崎正夫も、「事故が起こるまでカーブで列車が脱線するとは全く考えていなかった」と危険性の認識を否定したというが、ある程度は納得のいく答だと思う。その立場が、鉄道本部長と言うものであっても、技術者故に予見できたとするには若干の飛躍があるかも知れない。之を有罪とするならば、原発事故を引き起こし何ら反省していない、東電や、原子力保安院、また原子力委員会の委員長であった斑目春樹等は、とっくに起訴されていて然るべきである。遺族の心情は解るが、今回の判決に見られるように、之は、JR西日本の組織としての問題であり、組織が、危険予知なり、危機管理を行う根源的な問題だと思う。山崎前社長1人をスケープゴートにして、処置成れり、とする当初の検察のあり方は、早く片を付けて、終わりにしたいという一貫した考えがあるように思えてならない。現在その渦中にあるのは、郵便割引制度悪用事件での前児童家庭局長村木厚子を陥れようとした、前田恒彦、とその上司である、大坪・佐賀の両名などの例が示している。今回の事故の責任なり、JR西日本の風土を造ってきたのは、井手正敏、南谷昌二郎、堀内剛等の歴代3社長の方であろうかと考える。直接の原因は、運転士のスピードオーバーであり、そのスピードオーバーを誘発したのは、タイトな運行計画であったと言われている。当時の国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の最終報告書では、運転士が制限速度を46km/h上回る116km/hでカーブに進入したと指摘し、JR西日本の懲罰的な「日動教育」が、事故直前に速度超過やオーバーランをした運転士を心理的に追い込んだ結果であり、車掌らの無線交信に気を取られブレーキ操作が遅れたのが原因と結論づけられた。そこで、直属(とは言っても何段階かの階層が介在しているはずだが)の上司たる、山崎前社長のみが書類送検されたわけだ。JR西日本の懲罰的な「日動教育」はいつ頃誰の指示で行われたか、その為には神戸地検が不起訴としたJR西日本の井手正敏ら3人の歴代社長の強制起訴こそ妥当だと思う。しかし、今日の裁判の結果を伝える新聞では、3社長の過失立件は、山崎前社長の場合よりも難しく、ハードルは高いという見通しなのだそうだ。私は全くの門外漢ではあるが、当時友人に聞くと、後何分かのズレがあったら、その友人もひょっとして当該列車に乗っていたかも知れないと言うことを聞くと、やはり、根幹的な、JR西日本の営利本位の体質を改めないと、使う頻度が、少なくない私などの身にとっては、心配である。運輸事業(列車)に携わるものとしては、道路設計同様、カーブの安全な限界半径というものを知らないはずはなく、之を切る小半径で、列車を運行する箇所には、人的な運転手任せではなく、フェールセーフ的な安全装置(それがATSであればATSの設置)が自動的にくみ入れられるような設計マニュアルになっていなければおかしい。 ただ、この線路床の線路を最短で結べば便利だと言って、コンパスで線を引いた図面を何の検証もなく現場で施工することなど技術屋としては考えられないことである。ましてや国鉄時代から鉄道研究所と言えば、技術の粋を集めた場所であったはずである。民営化され、利益追求のみが、企業の目的になりすぎ、まずは、競合私鉄に負けないようにと、危険なことには目を背けて(というよりは、営利を優先して)いあたのではないかと推定されるからだ。そこで、一旦スケープゴートの対象にされると、日本の検察も、何が何でも陥れてしまわないといけないと云った風潮が、最近の現象で、徐々に明らかにされてきているので、問題の争点が意図した方向からずれてしまう恐れがある。今回のケースを単純に数値で検証すると、元の計画の曲率半径=600mで制限速度=70km/hが曲率半径=304mに絞り、そこを超過スピード46km/hで実速度=116km/hで走ったことから、質量(M)は同じであるので、法線方向の力は (70^2/600)=8.2Mで設計されていたのに対し、実際は(116^2/304)=44Mで走ったことになり、線路から飛び出そうとする力は、44/8.2=5.4倍に増したと言うことになるわけで、これ程の安全率は見ていないと考えると、線路外に放り出されて (脱線して) も頷ける。福島原発事故でもでも想定外という言葉をよく使われたが、今回は、異常なスピードは出したものの、曲率半径が600mのままだと、(116^2/600)=22.4Mとなり、その危険度数は22.4/8.2=2.7倍と言うことで、それ位なら、想定安全率の中に入っていた可能性もあるわけだ。悲劇の重畳が起こったというわけだが、それでも(70^2/600)=8.2が、(70^2/304)=16.1と2倍の危険度は眼に見えていたわけであるから、何らかの安全装置が必要であると考えておく方のが当然ではないかと技術的観点からは思われる。
2012.01.11
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1月10日の新聞に、全紙の半分を使った船の進水式の写真が掲載されていた。その大型船の進水式は、三菱重工業神戸造船所での自動車運搬船(PCC)で、最後の進水式だという。私が造船から離れて、4半世紀が過ぎようとしている。私の時代は、主だった大学の中で、造船や船舶工学を教えるところは全国に6つあった。それぞれ毎年30名程度の卒業生を排出してきたようだが、現在は、おそらく、造船乃至船舶という名で講座がある大学はないであろう。かつては、国の基幹産業であり、鉄が産業の米と言われ、華やかな時代があった。日本は造船建造世界1という言葉で、ある種の名誉心をくすぐられ、仕事をしていた時代があったことは確かだが、やがて、鉄が産業の米である時代は過ぎ、産業の米の名称は半導体に譲ることになった。そのターニングポイントは冷戦終結後だと言われている。それ以前の産業の米は、石炭であった。時代は刻々と変化し、昨今の新聞などでは、石炭は勿論、鉄も影を潜めて、さらには、半導体も何やら陰りがあるようになってきた。重厚長大から軽薄短小へといった言葉が聞こえ始めたのは、私が入社後10年あまり後のことである。字面から見ると、軽薄よりも重厚の方が良いような響だが、内実は全く違っていて、その頃から、造船業の凋落が始まっていたのであろう。しかし、そう言った足音を当時の経営者が感じていたかどうかは、企業によって大いに異なったと言うことが、その後10年、また現在にいたって良く現れていると感じる。船体の材料の殆どは鉄鋼であり、その鉄鋼の、日本の技術力は、世界的にも1流と言われるものであった。しかし、日本での鉄鋼業の雄である新日鉄でさえも、世界のアルセロール・ミタルの3分の1強しか生産できていないし、中国の宝鋼集団にも水をあけられている。之に危機感を持って、昨年2月新日鉄と、住友金属の合併の話が持ち上がり、公取の審査も終えて、今年10月を目途に新会社が設立される運びになっている。合併しても、世界1のアルセロール・ミタルには生産量で遠く及ばず、僅かに中国の宝鋼集団を抜くという位置づけになるようだ。元々、アルセロール・ミタルは、オランダのアルセロール社と、ルクセンブルグのミタル社が、合併した会社であり、その各々が、新日鉄の1.5倍程度の生産量を誇っていたのだから新日鉄、住金の合併でも遠く及ばないのは、当然と言えば当然である。我々が、先進国であった西欧やアメリカの技術をキャッチアップすべく、「追い付け、追い越せ」といった時代が、鉄鋼に於いても、造船に於いてもあったわけだが、その日本の高度な鉄鋼や造船技術は経済援助として、韓国や、中国に流れ、韓国ではポスコ、中国では、宝鋼集団等を産んでいったのである。まさに軒を貸して母屋を取られるが如き道を歩んで来たわけだ。グローバル化が叫ばれる中、日本の1億人強の中での閉鎖的経済活動では、天井が見えているわけで、日本にとっても市場開拓としての中国では留まらず、世界の工場としての地歩を築いたわけで、之はまた自然の成り行きであったのかも知れない。現在のTPPの問題を考えるとき、製造業に携わったものには、経団連の会長ではないが、1も2もなく加入すべしであるが、この問題については再度自分なりに考えて見ようと思う。最新鋭の技術と雖も、船舶を日本以外で建造不能と言うことは、開発した直後ぐらいしかなく、船舶の個々の要素技術には、国際特許なるものは無いので、どの国でも船を建造することは可能である。総合技術が要求されるにしても畢竟、労働集約産業であり、開発が先発したからと行って特許による保護というものもない。更に、競合する造船会社間でも、昔は、非常にアミカルな関係にあり、技術屋にとっては、社外秘などと言ったことは、無きに等しかった。私は構造を担当していたが、各社間の構造関係者による損傷報告などは忌憚なく行われおり、日本の造船界は、全体的に浮揚していたこともまた事実である。こういった長期にわたる技術蓄積と、それをオープンにする業界体質とが、結果的に韓国、そして中国に流れたと言って良い。造船業に於ける、人件費の割合は大略30%を占めているので、当時の日本と韓国、最近の韓国と中国の給与差などで考えると日本から韓国(2003年)、そして中国への造船業のシフト(2010年)は、自然の流れであった。之の間で、多少の逆転などはあったものの、今や、中国は造船業における3大指標(船舶受注隻数、受注残、建造数)の全ての首位を獲得したことになる。その後、日本国内では、大手企業間の造船部門の統廃合や、昔、強手(中級造船所)と呼ばれた中堅造船会社のように造船に特化した企業以外は、多方面に業容を拡大し、文字通り、重工業の道を歩んでいった。私が関係した会社は、この波に乗り遅れ、CI(社名変更)などの時機も逸して、私が入社する時にトップクラスだった売上高も、鳴かず飛ばずの平行線を辿り、気がつけば、大手企業から外されそうな位まで凋落していったのである。今日の新聞では、三菱重工の神戸造船所の最終進水式の写真がカラー版で掲載されていたのだが、之が、神戸造船所の最後の建造船であるという。この造船所にも、構造研究会などで、何度か訪れたし、その近くの川崎重工神戸造船所には、大学時代の卒業研究の実験で、六甲降ろしが吹く冬の最中、低温脆性破壊という研究のために、マイナス196℃の液体窒素を扱ったこともあった。いずれにしても造船という分野は、やがて消滅する衰退産業であることは、誰でも感じるところであり、せめて1時期でもその隆盛の期にあったことを喜ばなくてはいけないのかも知れない。造船と言えば、あの、第2次世界大戦の船艦長門や、大和を造った戦争時代の海軍工廠に育まれたわけで、大量輸送の手段としては、今でも船舶に勝るものはなく、ただコスト競争面に於いて、彼我の差が歴然としているが為にその主役が変わってしまったわけである。現在の中国は、都合の良いときには、新興国などと言っているが、この国が、再度の革命によって、アジアの春となり民主主義が引かれるようになるか、このままの形態でも農村部の貧困層にもある程度の再配分が為されたときには、やがて、東南アジアへの移行や、最終的にはアフリカ諸国での建造といった姿になることもあたら空想ではないだろう。1894年からの造船技術100年史を見るにつけ、造船が、如何に多くの要素技術の集大成であるかと言うことが分かる。そして、そこに掲載された、カラー版の船舶や、海洋構造物の何隻かは、私が関係し、設計したものであることを考えると、やはり感慨ひとしおである。今日の新聞を見て、進水を豪快で美しいと感じるが、その裏方には、現場が主体とはいうものの、私のように設計を担当した者にとっても、いろいろな場面が走馬燈のように思い起こされるのである。三菱に於ける進水は、ボール進水というもので、川崎重工のそれは、ヘットと呼ばれる油脂の上を滑らせる方式である。VLCCやULCCを建造ドックで造る場合の進水式は単にドックに水を注入するだけの味気ないものであるが、記事にもあるように、1万~2万トン(時には、3万トン程度もある)巨大構造物が、するすると海上に滑り出る様は、豪快という他はない。この巨大船舶が押しのけた水が、船台を伝って陸側に逆流する様は、一寸した津波のようでもある。私が居た造船所では、宇野と高松の連絡フェリーの航路になっていたこともあり、その方との連絡を取りながら、フェリーの合間、潮の満ちたとき、そして、遠いのではあるが対岸の島に当たらないようにとか、また、浸水した船は操縦装置を持たないので、之を方向転換したり行き足を制御したりするための舷側のアンカーチェーンの投下、それに続く、タグボートによるエスコートなど、様々な連係プレーが要求される。やがて、船体は緩やかに艤装岸壁に接岸され、パイピングの連結、電線敷設の仕上げ、居住区構造の搭載と内装仕上げなどの工程を経て、竣工、引き渡しに向かうのである。私が担当する船殻設計としての最後の仕事は、接岸された船体の船底に潜って、進水時に力の掛かる部分が、へし曲がっていないか、凹損していないかなどを確認することであった。通常の進水時には、船体が船台を滑走して水中に入ると徐々に船尾部が浮力により持ち上がり船首部が、理論的には1点で船台上と接するときがあるわけで、(リフト・バイ・スターンという)その時には、船体重量(3万トン)の半分の力が船首部に集中して架かることになる。その局部的な力を分散させる設計をしているのだが、結果が、どうなっているかを自分の目で確認すると言うことになるわけだ。進水という仕事は、華やかだが、実に入念に多くの人が関与する1大イベントなのである。そう言ったこともまた1つ消えていくのかと、今日の新聞は、何かしら心を打つものがあった。
2012.01.10
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第十六段【本文】 神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。 おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。 【訳文】神楽というものは、実に、世俗じみない優雅なものであり、また、興趣ぶかいものである。 一般に、楽器の音では、笛・篳篥がよいものだ。そして、いつも耳にしたいものは、琵琶・和琴だ。【注釈】・なまめかし:世俗じみていない純な上品さ第十七段【本文】 山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。【訳文】 山中の寺に参籠して、そこの御仏に勤行(ごんぎよう)申すことは、何もすることもない所在なさもなくて、心の煩いもすっかり清くなる心地のするものである。第十八段【本文】 人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財(たから)を持たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。唐土(もろこし)に許由(きょいう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯(たくは)へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、凪に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬(むす)びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。 唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記(しる)し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。【訳文】 人間というものは、自分の身に受ける所を簡素にして、贅沢を遠ざけ、財宝を所有せず、世間の名誉・利益をむやみにほしがらないというのが、立派なことであろう。古来、賢人といわれる人で富裕であるのは、稀なことである。唐土において、許由といった人は、身についている持ち物も全然なくて、水さえも両手ですくい上げて飲んだのを人が見て、ひょうたんという物をくれたのであるが、ある時、木の枝に掛けておいたそのひょうたんが、風に吹かれて鳴ったので、やかましいと思って捨ててしまった。そして、前と同じように両手ですくって水をも飲んだのであった。どんなにか、その心の中はさっぱりしていたことであろう。孫晨は、冬の数か月の間、寝具がなくて、一束の藁があったので、晩はそれに寝て、朝になるととりかたづけたのであった。唐土の人たちは、こういう事実を立派だと思えばこそ、書物にも記録しておいて、後世にも伝えたのであろうが、わが国の人々は、語り伝えそうもないのである。【注釈】・つゞまやか:質素に・許由:堯の高士・身にしたがへる:持ち物・なりひさこ:瓢箪第十九段【本文】 折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(かきね)の草萌え出づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負(お)へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。灌仏(くわんぶつ)の比(ころ)、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月(さつき)、菖蒲(あやめ)ふく比、早苗とる比、水鶏(くひな)の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるも、あはれなり。六月祓(みなづきばらへ)、またをかし。 七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語。枕草子などに古(ふ)りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。 さて、冬枯(ふゆがれ)のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り止(とゞま)りて、霜いと白うおける朝、遺水(やりみづ)より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名、荷前(のさき)の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事(くじ)ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるゝさまぞ、いみじきや。追儺(つゐな)より四方拝に続くこそ面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたう闇(くら)きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩(かどたゝ)き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭(たままつ)るわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。【訳文】 季節がつぎつぎに移り変わってゆくありさまは、何事につけても、しみじみとした興趣が感じられるものである。「ものの情趣は、秋が一番深くまさって感ぜられる」とどの人も口にするようであるが、そう言うのも一応もっともなこととしても、さらにいっそう、もののあわれがまさって感ぜられ、しかも心も浮き立つのは、春のありさまであるようだ。その春のありさまは、鳥の鳴く声も格別に春らしく聞こえて、のどかな日の光の中に、垣の根もとの草の芽が出るころから、しだいに春がふけて、一面に霞がかかるようになって、桜の花もしだいに咲き始めるころであるのに、ちょうどその時に、雨・風がずっと続いて、心忙(せわ)しく感ぜられるように散り終わってしまう、こうした春のありさまは、木々が青葉になるまで、何かにつけて、ただやたらに、人に気苦労を与えるばかりだ。夏の橘の花は昔を思い出させるものとして有名ではあるが、しかし、やっぱり梅の花の匂いには、過ぎ去った昔のことも、その時にまでさかのぼって、なつかしく思い出されるものである。山吹の花がきれいに咲いているのも、藤の花がぼうっとしてはっきりした形をしていない様子で垂れ下がっているのも、すべて、見捨てるには惜しいことが多いものだ。 夏になって、四月の潅仏会(かんぶつえ)が行なわれるころ、賀茂祭があるころ、若葉が、木々の梢も見るからに涼しそうに茂ってゆく時季には、ものの情趣も、久しく逢わぬ人のなつかしさも、多く感ぜられるものだ」とある方がおっしゃったことがあるが、ほんとうにその通りである。五月の、菖蒲を軒に葺(ふ)いて端午の節を祝うころ、苗代田から早苗をとって水田に植えるころ、水鶏(くいな)が戸を叩くような声で鳴くのなどは、心さびしくないことがあろうか。六月ごろ、賤しい家に、夕顔の花が白く咲いているのが見え、蚊やり火をいぶしているのも、情趣ふかいものだ。夏の末に、六月祓が川のほとりで行なわれるのも、また興趣ぶかいものだ。 秋になって、七月七日に七夕祭りをするありさまは、まことに優雅なものだ。次第に夜の寒さを感ずるころ、雁が鳴きながらやってくるころ、また萩の下葉が黄色に色づいて枯れてくるころ、早稲の田をすっかり刈り取るなどと、一時にたくさんのことが寄せ合わせて行なわれるのは、秋に特に多いものだ。それから、秋の台風が吹き去った翌朝のありさまは、ことに興趣あるものだ。このようにつぎつぎに書き続けてくると、すべてみな、『源氏物語』『枕草子』などに言い古してしまったことであるが、同じことを、もう一度言ってはならないというのでもないのだ。言いたいことを言わずにいるのは腹のふくれてくることだと言われて来た通りなので、筆にまかせて書きながら、面白くもない慰み事として、書く一方には破り捨てるつもりのものであるから、他人が見るに価するものではないのである。 さて、草木の冬枯れのありさまは、秋よりもほとんど劣るまいと思われる。庭前の池の水ぎわの草に、紅葉が散ったままにひっかかっていて、霜がたいそう白くおいている早朝、遣り水から水蒸気が立っているのは、おもしろい趣である。年の暮れきってしまう時となって、どの人も一様に新年のしたくをしているころは、何よりも感慨の深いものである。興趣のないものとして、眺める人もない、細い月が寒そうに澄み光っている、二十日過ぎの夜空は、まことに心さびしいものだ。禁中では、御仏名が行なわれ、荷前(のさき)の勅使が出発することなどは、感深く、また尊厳な思いがする。十二月には、朝廷の政務・儀式などが頻繁であって、新年を迎える準備と重複してそれらが催し行なわれるありさまは、実にたいしたことだ。大晦日の夜の追儺の行事からすぐに、元日の四方拝の儀式へ続くのこそおもしろい。大晦日の夜、ひどく暗い中に、松明などをつけて、夜半を過ぎるころまで他人の家々の門を叩いて走り廻り、何のことであろうか、大げさに騒ぎ立てながら、急ぎ足に夢中になって飛び廻っている人たちが、夜明けごろからやはり音を立てなくなってしまうのは、過ぎ去ってしまう年との別れが心さびしく感ぜられる。亡くなった人の魂がこの世にやってくる夜というので、その魂を祭る行事が、近年京都では絶えているのに、関東では、いまも行事としてやっているのは感深いことであった。 こうして、一年が過ぎて、夜の明けてゆく元日の空のありさまは、別に昨日よりも変わっているとは思われないのに、うって変わってめずらしい気持ちがするものだ。都大路の光景は、家々に門松をずっと立てつらねて、はなやかに、またよろこばしい様子であるのは、これもまたしみじみと趣の深いものである。【注釈】・折節:季節・今一き:なおいっそう・灌仏:釈迦の誕生日に香水を掛ける行事・六月祓:六月の晦日に行われる大祓の行事・おぼしき事:大鏡の序・をさをさ:ほとんど・すさまじき:荒涼としている・追儺:大晦日の鬼やらい・四方拝:天皇の行う儀式第二十段【本文】 某(なにがし)とかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。 【訳文】 何某とかいった遁世者が、「この世の中の、心を繋縛(けいばく)するものをすべて持っていないわが身には、ただ一つ、空から受けて心に残る感銘ばかりが捨てがたく感ぜられる」と言ったのは、なるほど、そう感じられることであろう。【注釈】・ほだし:自由を束縛する物・名残:感銘
2012.01.09
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元旦に書いたものだが、都合で今日に持ち越した。 辛酸を極めた2011年も終わり、問題が解決したというわけではないし、時の流れは継続しているわけだが、年頭には、何かしら希望を持って歩いていこうという気にさせてくれる。 人知を凌ぐ存在、神の存在にまつわる諸形態について日経十選のシリーズに「幻獣」というタイトルでの実在しない神話上の動物を取り扱ったときがあった。国立民族博物館名誉教授の立川武蔵さんが選んだ「幻獣」を振り返ってみた。(殆どは、立川さんが書かれたとおりである) 最初の幻獣は「蛇をくわえるキールティムカ」(ネパール)である。 屋根の上の鬼瓦の鬼や名古屋城の金の鯱は、シリア、インドなどから伝わってきた神話上の幻獣なのだという。彼らは仏教やヒンズー教が始まる以前から、人類の精神史の基層に生き続けてきたというのだ。 鬼と鯱は全く別のものだと思うのだが、このルーツは、同じ仲間かも知れないという点が先ず驚きだ。 ここに紹介されたキールティムカはネパールにあるもののようだが、大きく口を開けた鬼面が両手に蛇を持って、その真ん中にかぶりついている彫刻である。様々な形で彫られているようで、半円形の形や、長方形の中に彫り込まれているものもある。 ふさふさとしたたて髪、大きな丸い両目、横に開かれた□、むき出しになった歯。ものすごい形相である。獅子の顔のようだが、角があるから獅子ではない。鬼のようなイメージを受けるのだが、当時インド・ネパールに鬼という概念が存在したかどうか知らない。顔だけが見えて、胴体は見えないのである。 ドアの上部に置かれていたりするので、多分に魔除け的な意味を持っていたのだろう。 この顔と手のみの獣は、サンスクリットで「キールティムカ」(ほまれの顔)と呼ぶ神話上の動物だということである。ほまれの顔が、威力や栄誉を誇示する役目を負い、その恐ろしい力ゆえに、これを見た者が畏れを抱く存在だったようで。それ故であろう、後に中国や日本では寺院などに屋根の鬼瓦の「鬼」と変化したのである。 紹介された写真は、大村次郷さんの撮ったもので、カトマンズでは寺院入り口の上部に掲げられている。これは「トーラナ」と呼ばれ、日本の鳥居と起源が同じで、上の部分が半円となり、それは宇宙を意味し、キールティムカは凄い形相で下界を睥睨していると言うことのようだ。幻獣がくわえる蛇は、宇宙創造の際に混沌とした世界を取り囲む原初の蛇ウロボロスということである。 こういった一見怖い顔をした、日本では鬼と呼ばれるものが、聖獣と呼ばれる所以は何なのだろうか。 次は、「無常大鬼」であり、チベット自治区にあるという。 これはキールティムカ(ほまれの顔)が亀の姿をした身体から顔を出し、足が書き加えられた、仏画である。この幻獣は中国や日本で「無常大鬼」と呼ばれたと言うが、日本では未だ見たことがない。 この「キールティムカ」の胴の丸い部分は5分割されており、天、人、動物、餓鬼、地獄の五道あるいは阿修羅を含む六道の輪廻の輪であるのだそうだ。 キールティムカの源泉の1つに現在きな臭い、シリア出土の儀礼用容器である獅子が鉢形の容器の縁をくわえ、両手で丸い鉢をつかんでいる形状の物があるという。香油入れに使われたと考えられるこの容器は紀元前9、8世紀のもので、30点以上発見されているとか。 第3は「蛇を産むマカラ」である。 マカラはサンスクリット語であり、モデルはワニのようだが、口はワニよりも短く、胴はクジラに似て、尾の形は魚といったやはり幻獣である口から蛇を産み出している。同じサンスクリットの「クムピーラ」もマカラを意味すると言うことでクムピーラが金比羅に訛ったという。 この幻獣の起源は古代オリエント十二宮の一つ、山羊座(キャプリコーン)と関係があり山羊座のヤギは下半身が魚であるため、インドではマカラ宮(魔羯宮)となったと考えられる。 マカラはその大きな口からは蛇だけでなく神々や動物を産む。しばしば花房を口から出しているが、それは世界を意味している。 下半身が魚と言うことで、鱗があり、足は退化したのか小さい。更に上半身は鳥だとも言う。 之が、日本などでは、名古屋城の鯱となる鴟尾に通じるわけである。水や海に棲むマカラがなぜ屋根の上にまで上がってしまったのかと言う点では、おそらく後世、東アジアにおいてこの聖獣の像は「雨ごい」に使われたと同時に、火事からその建物を守る「火伏せ」の役目を課せられるようになったからであろうとされる。 第4は「マカラ」(ネパール)である。 こちらが大きな幻獣マカラの口から大きな動物が顔を出しその動物の口から魚が顔を出しているという構造だ。カトマンズには元は大きな湖であったとされ、その水が全てを産んだという水の想像力と神格化を現したもののようだ。 日本の神社の境内で龍の口から水が流れ出てその水で手を清めたり口をすすいだりするのは、そう言った意味である。 第5は、「鴟尾としてのマカラ」(中国)だ。 中国の少林寺の屋根にあるのだが、未だ日本に入ってくる前のようで、結構荒々しい感じがする。即ち、マカラとは水あるいは海に棲み、様々なものを生み続ける聖獣である。と言うことであり様々な形に変わって、我々が目にすることになったようである。 第6は「ガルダ鳥」(インドネシア)だ。 日本ではガルーダと発音するが、そう聞くと、インドネシア航空の名前を思い出す。インド生まれの空想上の鳥で、「ガルダ」とは元来、言葉を運ぶ翼を意味するのだそうだ。祭官たちの詠う賛歌を神々へと運ぶ翼という意味だ。派手な彩色で、膝を折って中腰となり鋭い爪を立て、獲物の蛇を襲おうとする姿の3m近い木像なのだそうだ。色彩は、之もインドネシア航空のキャビンアテンダントの衣装と似たところがある。 とらえた蛇を両手に持って咥(くわ)える姿は獣そのものであるが、今では世界中を飛び回っている。 ガルダ鳥はヒンズー教の神ヴィシュヌの乗り物でもある。この神を肩に乗せて飛ぶ姿は彫像、浮き彫りなどにしばしば表されてきた。 第7は「守護神シャールドゥーラ」(ネパール)である。 顔は馬に似ているが、湾曲した羊のような角があるから馬ではない。背中には翼がある。後脚は馬の足としてはやけに太い。あのペガサスに角を突け、そのペガサスが輓馬になったような感じの幻獣である、尾は細く、馬ではなくライオンのようだ。何となくユーモラスだが選者は不気味さを覚えるという。とにかく奇妙な動物である。 馬がちんちんをしている格好だが、寺院の入り口両側や神像の両脇に、入り口や神像を挟んで互いに背を向け置かれることが多く寺院や神、仏を守護する役割を課せられているのだろう。 この馬、羊、獅子、鳥が合体したような幻獣をサンスクリット語では「シャールドゥーラ」と言うようだが、この単語は獣あるいはせいぜい猛獣を意味するのであり、この奇妙な動物を的確に指し示す語ではない。 第8は「キンナラ」(ミャンマー)である。 唐草模様が火炎のように立ちあがるなか、上半身は人、下半身は烏といった者が両手を広げて踊る。その者の上着と尾は炎の色で、翼と脚は青黒い。日本の何とか草紙に出てきそうである。 これはキンナラと呼ぶ人面鳥身の神話的存在であり、当て字だろうか、「緊那羅」とかく。「幻獣」と言うには、人間の顔をしているので気が引けるが、ケンタウロスもこの1種のようだ。これら幻獣は、何処かで繋がっているのだろう。 紹介されている絵は、ミャンマーのパガンにあるアーナンダオゥ寺のブッダ像の背後の壁画だというが、タイなどに行けば、金で作ったキンナラ像をよく見かける。キンナラは、蛇を咥えることも、生物を口から産み続けることもなく、ただ、神や仏の近くに仕えるのみである。 第9は「グリフィン」(イラン)である。 丸い目と大きな嘴の頭は鷲か鷹部であるし、身体はライオンのようだ。但し前足は、鷲のような鋭い爪を持っている。空の覇者と地上の王とが合体したようなこの幻獣はグリフィン(グリフォン)と呼ばれる。 紹介されている像は、イランのペルセポリスにある巨大な石柱の上に置かれたグリフィンの石像だとか。縦横それぞれ約1・5mはある大きなもので、紀元前5、4世紀の傑作である。 結構いろいろなところで活躍しているこの幻獣は、ヘロドトスの「歴史」の中にも出て来るのだそうだ。 第10は「一角獣」(フランス)である。 美術画でも見かける「ユニコーン」と呼ばれる幻獣で、馬に似た動物が剣のような1本の角を立てている。その動物は女性の膝に前脚を置いて甘えている様子はまるで子犬のようでもある。手鏡に映る自身の姿に見入る動物の表情はナルシストそのものである。 パリのクリュニー中世博物館には「一角獣を連れた貴婦人」と名づけられた連作ダペストリー6枚がある。それぞれ「味覚」「触覚」などと呼ばれるが、写真のものは「視覚」。一角獣の近くには常に女性がいる。そそり立つ角はペニスの象徴ではなかろうか。かつてヨーロッパでは一角獣狩りが行われたが、処女のみがこの幻獣をとらえることができるといわれた。絵画の題材にもよく使われ、ユニコーンの角と称して、一角の牙を展示しているところもあるというのだ。
2012.01.08
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ホテルで寝ていても朝早くに目が覚めるのはいつものことである。目覚めて早々、温泉に入りに行くが、必ず私よりも早い人はいる。温泉は、いろいろな効用が書いてあるが、大概同じような効き目があるようだ。前に、下呂温泉に云ったときには、温泉の泉質ごとにサンプルが置いてあって、いかにも効用が違うような棚を持つ温泉博物館があったのを思い出した。浜松には、3つの代表的な温泉があると言うことで、1つは、舘山寺温泉、2つ目は、三ヶ日温泉そして、我々が泊まった雄踏町温泉と云うことらしい。日本は、火山国であるという反面温泉地が各地にある。私の隣町の高槻市内繁華街にも温泉が出たと云っている位だから、ここ掘れワンワンではないが、掘れば温泉が出てくるような気がする。一口に温泉と言っても、多様な種類があり、日本に住む特典の1つに、温泉巡りと言ったものもある。温泉は、地中から湯が湧き出す現象やその場所を示すわけで、日本三大名湯とか、日本三大秘湯とか、適当に名前を付けて集客に余念がないと云うところである。残念ながら、雄踏町温泉はこういった名称を得ていない温泉である。温泉の分類の仕方は科学的にも色々あるようで、地球のマグマ熱を主な熱源とする火山性温泉は高温で泉質が多様なものが多いと云い、海岸温泉や深層地下水型温泉などは非火山性温泉と呼ばれ、主に自然地温で温度が上昇したものだそうだ。さしずめ雄踏町温泉はこの範疇に入るのであろう。また特殊型温泉としては、活断層にともなう温泉で、活断層の摩擦熱で温度上昇した循環水によるものだそうだ。日本三大名湯に数えられ、我々もよく行った有馬温泉などは、この特殊型温泉に含まれるという。しからば、温泉とはと言うことになるが、温泉法によると、地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で、所定の温度又は物質を有するものをいう、と定められている。湧出温度は25℃以上で、決められたミネラルなどの鉱物質を1つ以上含んでいるものをいうようだ。この25℃がキーで、これ以下だと、冷泉と云うことになり、温泉の仲間入りは出来ない。しかし、25℃程度の湧出温泉では、我々は風邪を引いてしまうので、ボイラーなどで加熱しているわけである。ちょっと調べてみると、このキー温度の25℃はアメリカでは21.1℃、ドイツでは20℃以上と定められているようである。温泉に関しては、大学教授などが、趣味の域を越えて、調査したものが、良く新聞等に載っている。昔は、湯治などと云って、山村に湧出するひなびた温泉地で猿と一緒に湯に浸かるなどといったこともあったようだが、1泊でせいぜい4回ほど入った位では、どのような効果があったか解らない。しかし、小原庄助さんのように、朝寝、朝酒、朝湯をする身分ならば、さぞかし効果もあろうかと思う。そう言ったことを考えながら、朝の温泉に2度浸かって、チェックアウトの時間までゆっくりと過ごした。それでも、余り長くいるのも所在ないことだし、昨夜、連れ合いが、湯船で話をした人の紹介で、近くに浜松名物のうなぎパイの製造工場があるというので、出掛けてみることにした。ホテルから程近い浜松循環線から少し山側に入った工業団地の中にその工場はあった。飛び込みでも、所定の用紙に記入することで、工場を窓越しに見ることが出来る。殆どが流れ作業的にコンベアの上を流れて、箱詰めされ出荷まで行くのだが、中に傷物はないかとか、焼ムラが無いだとか、包装紙がどうのこうのとか調べるのは皆、人の目である。窓越しに見ていると、その人達は、立ったままだったり、腰掛けたりしてじっとパイの流れを見つめている。勿論交代制ではあるだろうが、あれは疲れるだろうなと内心気の毒に思った。そこに持ってきて、我々一般人が、窓越しに注視しているのである。マスクの下であくび位は出来るだろうが、背伸びしたり、ましてや隣の作業員との会話もままならないという感じで、あたかも囚人の如き気分ではないかと思ったわけだ。しかしそこで、製品に少しでもムラがあるとはねるわけで、そう言った製品は、ちゃっかり見学者へのお土産として配っているようだ。お菓子作りも、製造業といえるのだろうが、私には、こういったマスプロ製品を作る仕事は出来ないだろうと感じた。そこを辞して、隣のピーナツ工場を覗いたが、ここは、見学などはなく、販売店舗も極めて小さかった。ピーナツ(落花生)は元々、千葉の八街製が全国的に有名で、韓国産などの数倍の値段がするのだが、ここでは、千葉産を販売しているので、一寸奇異な感じがした。さていよいよ帰る段になったが、連れ合いが、三ヶ日に行きたいという。三ヶ日は、ミカンで有名であり、とても美味しいのだそうだ。ミカンと言えば、紀州の温州ミカンが有名であり、紀伊国屋文左衛門が、嵐をおして、関東にミカンを運んで大儲けしたという話は良く聞く。有田地域で産出するので、有田ミカンという名でも親しまれている。次ぎに有名なのが、愛媛のミカンであろうか、元は生産量が日本一だったそうだが、今は和歌山に後れを取っているようだ。私が岡山にいるときなどは、伊予柑などと云ってよく食べたものだ。他にも熊本辺りでも、ミカンの生産が盛んなのだそうだ。之に劣らずと云うか、静岡のミカン(三ヶ日ミカン)は生産量も日本3位で、なかなかに有名らしい。静岡と言えば、すぐお茶を連想するが、なかなかどうして、ミカンも相当に美味しいらしい。之を買わずに帰れないと云うことで、三ヶ日に向かうことになったわけだ。三ヶ日ICは丁度浜松西ICから西に1つ目のICであるが、一般道を抜けていくことにした。そこで、この浜名湖の奥深さを知ることになる。浜名湖とその奥の細江湖の間は東名高速道路が通過しているだけで、一般道の橋はない。そこで、細江湖を更に北に進んでやっと一般道の橋が架かっているという状態である。この上流に都田川橋があるはずだ。東から延びてきている遠州浜名湖鉄道に沿うようにして、細江湖をぐるりと回り込むと、三ヶ日町に入る。そこから、山の手に車を走らせると、ミカン畑が見えてくるのだが、殆どのミカンは既に収穫済みのようであった。収穫前に訪れたら、全山オレンジ色の実がなっていただろうと想像すると、さぞかし綺麗であったろうと思われた。収穫を終えた木の下には、何故か、落ちたミカンが転がっている、いくつか、無傷のものを拾って帰ることにした。之って、いけないことかなぁなどと云いながら、どうせ放っておけば腐る物だし、良いだろうとしたわけだ。路端では、数カ所販売しているところもあったが、土産処に箱詰めされた美味しそうなミカンが並んでいた。ミカンの種類も何段階かあるようで、「青島」というのが特上らしい。更にそのL球、LL球はいかにも美味しそうである。ミカンは、少し時間をおいた方が美味しいというので理由を聞くと、時間をおくと、酸味が散って、甘味が増すのだという。しかし放置すると、すぐ傷むので、ミカン一つ取っても扱いは大変だなぁと思った。土産を買って、その前が、三ヶ日ICだ。ガソリンが少し心許ないという事で、目の前のスタンドを見ると、リッター143円だと書いてある。しかし、少し向こうを見るともう1件スタンドがあったので、駄目元で、そこまで走ったら、そこはリッター139円だった。4円も違うと一寸得した気分になったが、之を上牧で入れれば、リッター134円という事で、この差は一体何なのだと思った。イランがホルムズ海峡を封鎖するとか云っている。資源のない日本としては、どうにかしないと、ガソリンの値段は上がるばかり、エコカーに買い換えるには、もう時間がないなどと愚にもつかないことを考えた。後は高速道路で帰るだけだが、車内はとても暖かい。刈谷SAで休憩したが、その後段々眠気が差してきたので、東名阪自動車道に入ってから、御在所SAで連れ合いと運転を代わって貰った。やはり気持ちが良くて、少しの間寝ていたようだ。新名神が終わる頃に目が覚め、マンションに着いたのは15:00だった。走行距離は558kmを指していた。久しぶりのドライブ旅行と、温泉は、少しばかり心も体もリフレッシュさせてくれた。
2012.01.07
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昨年11月に友人夫妻と1泊で淡路島にゴルフに出掛けたが、私の場合は、之はゴルフであって、旅行というカテゴリーに入れていない。従って、最近の旅行というのは、昨年10月の東京での高校同窓会以来行っていない。本来は、姫の住む湘南に行こうかとの話もあったが、姫は今月の15日にラスベガスで行われる、自身が受ける「Carrier Award」とやらで、IEEE(電気・電子技術の学会)へ出掛けるために、とにかく忙しくしているようで、行って邪魔をするのは良くないという話になり、寒くもあるし、近場で間に合わそうと云うことになった。各種候補があったが、余り遠くなく、温泉があるところと云うことを加味して、浜松に出掛けることにした。調べてみると、浜松と云うところは県庁所在地である静岡市よりも面積的には広く、人口も多いようで、2007年に政令指定都市になっている。しかしざっと見ても、日本で10番目に面積の広い浜名湖がどんとある以外は、たいして見るべきところがない。ところが、この浜名湖の周囲は、案外と長く、日本で3番目に位置することを知った。浜名湖は海跡湖と区分され、枝湾として細江湖、猪鼻湖、松見ヶ浦、庄内湖から成っていて、二級河川である都田川水系が流入している。都田川と云えば、この夏、開通が予定されている第2東名高速道路(三ヶ日JCT~御殿場JCT)が越える箇所に、私が関係した、都田川橋と言う外見的にも美しいエクストラドーズドタイプのPC(プレストレストコンクリート)2径間連続箱桁橋が掛かっている。橋自体の重量や、通行する車の重量などを支えるために、長い橋では緊張材という鋼の縒り線を通して緊張しているのだが、大概の補強材は裏方で、外観からは見えない。ところが、明石大橋などの吊り橋や、伊勢湾岸道に架かる斜張橋などと同様、エクストラドーズド橋の斜材は橋の外観を美しく見せる役割も担っている。そして、都田川橋はエクストラドーズド橋としては、国内最大である。専門的になるが、使われている縒り線は、ピアノ線を縒って15.2mmの直径にしたものを27本更に縒り上げたケーブルを使ったスープロマルチという防錆仕様のケーブルを使って橋桁を支えている。この橋は、既に2001年には完工しているが、道路公団民営化や、道路特定財源の見直しなどとも相まって、供用まで11年掛かったことになる。 結局は、供用することになるわけだが、11年間も野ざらしにしておくと言うことは、勿体ないと云えば勿体ない話である。今度開通すれば、通ってみたいと思っている。とは言っても、橋長は僅か268mであるから100km/hで通過すれば、わずか7秒程度であり、エクストラドーズド橋でなければ、おそらくは気がつかないだろう。因みにエクストラドーズド橋は、斜張橋より、主塔の高さが低い構造である。話がそれたが、浜名湖と言えば鰻の旨いことで知られている。連れ合いも、今回の旅行の目的の1つに美味しい鰻を食べることを挙げていた。旨い鰻が育つのも、かつて海だった所が砂州等の発達により海岸の湖沼となった海跡湖故なのかも知れない。さて、いよいよ出発だが、民主党の公約空しく高速道路は無料化されていない。しかし、ETCを使えば平日深夜走行は半額になる。よくよく調べてみると、午前4時までにICを入ると、5割引である。午前4時を越えると、これが3割引にしかならない。当然の帰結として、我々は、午前2時半に起床、3時半前にはスタートし、4時前には悠々と大山崎ICに入った。「How cheap」が私のモットーである。暗い中を走るわけだが、車は結構走っている。トラックが多いのはやむを得ないが、乗用車が多いと云うことは、同じ志を持つ人種かも知れない。道路の凍結も案じられたが、これ位車が走っていれば、問題はない。更に新名神が出来たので、関ヶ原を回避できるため、雪の心配も激減した。未だ暗い5時に、湾岸自動車道路を通過し、そこから、東名高速に入るのだが、やはり未だ外は暗い。6時過ぎ、浜名湖SAについて、時間調整のために休憩を取った。そのうち、夜も白々と明けてきたので、浜名湖SAを後にして、すぐ次の浜松西ICで降りたら、徴収金額は予定通り2900円だった。之と云って行きたいところもないので、浜松駅の方まで南下した。8:20に駅に着いたが、未だ早いのか、人通りも少ない。事前に調べていた、鰻の店「八百徳」は年始休業中であるため、駅前で他店を探したが、未だ早すぎて、店の様子が分からない。そう言えば、インターチェンジを降りたところに「うなぎ藤田」と言う店が、大きな看板を出していたので、そこに向ったが、開店は11時30分からとなっていた。(帰って調べたら、結構有名な店のようだ)それまでの間、手持ちぶさたで、朝が早いこともあって、少しお腹も空いてきた。こう言うときのファストフード店だと近所のマクドナルドに入ったが、鰻を食べるために、コーヒーだけにしておいた。それでも時間を持てあまし、1時間半前には「うなぎ藤田」の店の駐車場に入れ、ぼんやりと時間待ちをすることにしたが、自宅からの走行距離は250kmを指していた。外の空気は、冷たいけれど、車の中は、陽が射しているので、温室のように暖かく居眠りが付く。11時15分過ぎから、段々と車が増えてきて、開店時には、相当の人が来ていた。連れ合いは、折角長く待ったのだからと、一番先に店に飛び込んでいた。メニューを見るとランクにも依るが他店よりも少し安そうである。中くらいのを頼んだが、周りの人の声を聞くと同じメニューを注文している人が多い感じだ。出された鰻重は、見てくれと云い、量と云い、丁度いい加減で、味もなかなか良かったので長く待った甲斐があったというものだ。浜松の駅前にも、東京にも出店しているらしい。鰻の味に満足し、1つ目の目的を達したことになる。昼過ぎに「うなぎ藤田」を出て、このままホテル直行してもチェックインには間があるので、連れ合いの希望で、海沿いの道を走ることにした。何しろ20年あまり前に通ったときには、海の真っ只中を道路(橋)が通っていて、景色が良く、サウジから、バーレーンに向かうコーズウェイのようだと云う説明で、海岸線に向かった。途中浜松の新幹線側の駅に建つ、浜松アクトシティーは、ここにも鉄骨を納めたことがあったかなと見上げたが、今でもランドマーク的な存在であった。問題の橋は、国道1号線のバイパス上の浜名大橋のことらしかったが、昔片側1車線だったような気がするという橋は、現在では片側2車線と広い道路となり、欄干は高くなり、その分眺望も落ちていると云うことだった。それでも、綺麗な砂浜の、海沿いの道を往復して、浜松に来た2つ目の目的も達したことになる。少し早いが、浜名湖ロイヤルホテルに向かうことにする。私の提案で、ホテルでの食事代を節約するため、近くのスーパーに立ち寄り、夕食とワインなどを買い込んで、チェックインしたのが、2時を少し過ぎていた。車のトリップ計は308kmを指していた。部屋には入れたが、温泉は時間通り3時からだという。周りに殆ど何もない、浜名湖の中の庄内湖の湖畔に建つ窓から見ると、湖の波は、満潮なのか、海とは逆方向に波立っていた。温泉に入れる時間が来たので、ゆったりと露天風呂を楽しんだ。連れ合いが温泉で知り合ったおばさん達に聞くと、19:00から「松丸家小弁太劇団」という地方演劇団が芝居と、歌謡ショーをすると言うことで、大広間に出掛けた。演し物は「会津の小鉄」と言うことで、26歳の団長以下、数名が熱演していた。このような、地方演劇を見るのは初めてであったが、一族郎党と、他人を交えた、劇団は、これ以外にも何組か有るようで、集客が大変なようだった。21:15に終了したが、最年少は14歳という一家の構成を聞いて、ヨーロッパのロマ族(ジプシー)とまでは行かないかも知れないが、大変なことだと思った。最後にもう一度温泉に浸かって、今日1日は無事終わった。
2012.01.06
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映画「山本五十六」を観た。太平洋戦争突入前夜からの海軍内部の様子からさらりと書かれている。この戦争の端緒は、戊辰戦争にあるという書き出しである。尤も戊辰戦争とは何ら関係はないのだが、日本の軍隊の底流には、薩長という閥と、その他諸藩という閥があることが窺い知れる。山本五十六は、新潟県の長岡に生まれた郷士のような存在であるが、日本海軍史上にこの人有りと謳われた軍人である。海軍兵学校32期の卒業で、席次は11番であったという。この映画に出てくる人物は、戦争を良く知らない我々を含めた、戦後の人達にも実に分かりやすく、白、黒がはっきりと解るように描かれていると感じた。この山本五十六という軍人の映画は、1968年に「連合艦隊司令長官 山本五十六」として、三船敏郎主演で製作されている。(今回は役所広司)内容は、史実であるから、曲げようもないわけで、結果や経過の事実は、何ら変わるところがない。山本五十六の人となりをどういう視点で捉えるかと言うことに帰結するだろう。場内の観客は殆どが、我々程度の年配のように見えたが、中にはうんと若い人達の姿もあった。出演者に若い人達が居たためであろうか。日本は日清、日露、第1次世界大戦、満州事変と明治以降戦火の連続であり、且つ幸か不幸か、それらの戦争に於いて、形の上での勝利を続けてきた。つい最近も、日露戦争時を描いた、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビ放映されて、旅順攻略のため陸軍司令長官乃木希典、また海軍の連合艦隊司令長官東郷平八郎の日本軍は、辛くもロシアに勝ったことになっているが、日本の疲弊度は極限までに落ちていた。「坂の上の雲」が戦争を賛美するものではないのだが、東郷の参謀であった、秋山真之は知力胆力共に優れて描かれており、その兄秋山好古と共に英雄扱いである。この秋山真之は海軍兵学校17期卒と言うことであるから、山本五十六は、15期後輩と言うことになる。こういった、脈々と続く日本帝国海軍はいわば負けを知らない軍隊であったわけだ。東郷平八郎の座乗したのは戦艦三笠であり、山本五十六が連合艦隊司令長官として座乗したのが、戦艦長門であり、戦艦大和であった。しかし、東郷から山本に至る間に、世界の情勢は、大きく変化し、日本の旧守派である、長野修身軍令部総長や、南雲忠一大将などの大艦巨砲主義が幅を利かす中、山本は、航空隊の必要性を痛感していたという、先見性を持っていた。更に、当時から、アメリカを初め、諸外国の情報収集力は、日本の想像を遙かに越えていたようであり、戦う前から、物量に於いて、情報戦に於いて、日本の勝利の余地は無かったと言って良い。従って山本五十六は対米戦には反対しつつも、いざ開戦となればその持てる力を、大いに奮った軍人として、余りにも格好良く描かれている。近衛総理に聞かれ「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。」と言ったことは有名である。話は変わるが、戦争中であると雖もその状況をフィルムに収める、所謂従軍カメラマンという人達が居る。かつて、私は「日本かく戦えり」と言う、そう云った類の映画を観たことがある。内容は、山本五十六と丁度同じ時期である、「真珠湾奇襲」から「ミズリー号上の降伏調印」にいたる3年有余の戦争の全貌と、日米両軍の血戦死闘の実況を収集し編集したもので、今回の、真珠湾の大奇襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島争奪戦、東京空襲などがモノクロ実写で脚色無しで描かれていた。あの戦争記録映画をまともに観た時、吐き気がするのと、目が眩んだことを思い出す。動きの速い、画面を最前列で観たことが原因であるかも知れないが、作戦の最中、参謀を相手に悠長に将棋を打っていることなど無かったはずである。日露戦争の旅順陥落と、日本海海戦を観ても、海軍の方がスマートであると描かれるのが常である。太平洋戦争に於いても広い海原を長距離航行するのは、艦船でなければ叶わぬ事であった。艦船は、艦船同志の砲撃もさることながら、飛行機の攻撃や爆沈なども、最近のアクション映画のように何かしら醒め現象として眺められるが、それは今回の映画の主役が山本五十六という海軍軍人であるからだ。マレーの虎と称された山下邦文なども日本陸軍の南方進撃をなしていたが、この地上戦の悲惨さは、観るに堪えぬものがある。戦争は、その始める前からほぼ勝敗は決まっているのは、この映画を観ずとも理解できるはずであった。物量に於いて、資源に於いて日本の勝利の道など有ると考える方が狂気の沙汰である。それをいち早く理解していた常識派山本や、米内光政、井上成美、堀悌吉などは、陸軍と意見を同じくする強行派永野修身や南雲忠一などの一派に屈した形となる。今まで戦ってきて負けたことがない「神国」日本が、どうして負けることなど有ろうか、等と、世論を掻き立てるようなアジテートが成されたことは、この映画でも出てくる。支那に侵攻し、戦況が泥沼化する中、遠く、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチスが激しい勢いで台頭してきたのである。このヒトラーの考えが、ゲルマン民族至上主義の、反ユダヤエスニッククレンジングであると、当時の日本陸軍は理解していたのかどうか、映画でも、ドイツ語で書かれた、日本を軽くあしらう部分が欠落した翻訳同盟文で踊らされた将校も描かれている。この同盟の意義を日本側は、支那に荷担するアメリカに対する後方攪乱的な意味だけに捕らえて、三国同盟を強硬に主張したのであろう。この辺のところは、近代史の教科書に詳しく書かれているのだが、ドイツは、独ソ不可侵条約を結びながら、突然之を廃棄して、ソ連に侵攻するという、全く条理も何もあったものではないのが、戦争というものである。やがて、日本も敗戦時に於いて、ソ連が急遽宣戦を布告し、領土の問題を今日に至るまで持ち越していることもここら辺にルーツがあるわけだ。正直当時の軍隊では、多数の将兵を擁する広大な陸軍の意見が、小所帯の海軍よりは強大な発言権を持っていたのであり、米内、山本、井上などの三国同盟反対派の力は及ばなかったと云うところだろう。まして、永野修身などは、海軍に籍を置きながら「戦争はやってみなければ解らない」と発言し、現場(前線)のことなど何も知らず、ただ、大本営(日本国内)に留まって、時には誤った、時には不足した情報を基に分析して戦争の行方を夢見る輩がいたことが、描かれている。特に、ミッドウェー海戦では、連合艦隊司令長官の山本五十六を差し置いて、自分の意のままに動く南雲忠一に、全艦が無事帰投することを命じていた。今一歩で、局地的勝利を得て、そこで講和に結びつけたいと願っていた山本の思惑を頓挫させると共に、日本を引くに引けない泥沼へと引きずっていったのである。ここに出てきた、おそらくは架空の参謀かと思われるが、南雲に、敵航空母艦の出現はないと再三報告し、やがてその敵航空母艦から発信した航空機によって、主力空母4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被ったわけで、これ以降戦争における主導権を失ったと言ってよい。そこらで終戦できていたらと思うが、それを提案するカードもなくしたと言うことである。戦争開始を決意した、最初の真珠湾攻撃に於いても、ここをいち早く叩いて、敵の士気が阻喪しているときに講和を持ちかけようとしたが、ここでも情報は、既にアメリカ側に漏洩していたし、山本が最も心に留めていた、宣戦布告の時期も、真珠湾奇襲後になってやっと敵方に公式通知されたことになっている。敵は、航空母艦など、主要艦船を真珠湾から退避させ、2級の艦隊のみ配置していたことなど、既にここでも情報がアメリカによって操作されていたのである。ガダルカナル島の攻防戦は兵站の途絶えで、餓死する将兵が多数出たが、この事には余り深く追求していない。この前線もついには放棄せざるを得なくなり、出来るだけ多数の将兵を救出したが、多くの将兵は、ここで戦死したのである。たこ足の如く伸びた戦端は太平洋の地図を広げるまでもなく、日本の国力に比して理解不能であり、大艦巨砲が何の役にも立たないことを物語っている。航空機の増産を主張する山本の意は叶わず、戦場の将兵を塗炭の苦しみに追いやったのであるが、それでも、日本国内では、「大本営発表」として、連勝に次ぐ連勝で、敵艦隊を撃滅したり、日本軍の損傷は極めて軽微なりと国民には伝えられ、朝ドラでも観られるように、敵の上陸に供えて、竹槍訓練や、国防婦人会の活躍となっていくのである。 山本五十六は、結果的に多くの将兵を死なすことになるが、自らもその責を取ろうとしたのであろう、ブーゲンビル島視察へ赴くに当たって、普段の通り、特別な護衛機を付けるでもなく、出発し、当然之を察知していたアメリカ軍の航空隊の攻撃で、ジャングルに墜落その59歳の一生を閉じたのである。この映画は、むごたらしい戦場場面は少なく絞り込んでいて、開戦に至る経緯も淡々と説明されている。しかし、十分に無謀であることを知らない連中が居たことも推察できるし、馬鹿な部下を持った上司は苦労し、また無能な上司を持った部下は、悲惨な目に会うと言うことも暗に表していて、現代社会にも通じるところがあるようだ。
2012.01.05
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今日は島本町の新年の交礼会が、町のふれあいセンターであった。私も住民委員会の1員だと言うことで、招請状が来た。大阪に帰り、島本町に在住してから既に5年は経過しているが、辺りの風景や、街並みなどは、ウォーキングしたりすることで大体わかるものの、真実この町がどのような問題を抱え、どう言った方向に進んでいるなどと言うことは知らなかったし、またあまり関心もなかった。住民委員の特別枠として、推薦して貰って、委員会にも何度か出掛けたので、少しずつ街の様子が、解ってきた。そんな中での、町の新年の交礼会と言うことで、どんな様子かを見に出掛けたというのが、正直なところである。勿論平服でお越し下さいとあったので、ラフにならない程度の服装で出掛けたのだが、殆どの人が、ネクタイを締めて参集していた。私は、ネクタイを締めることを止めてから、もう何年経っただろうか。山のようにあるネクタイも、もう殆ど無用の長物のようになってしまった。特に中東関係では、気温が50℃にもなろうかと言うところで、ネクタイをするなどと言うのは実際的ではなく。相手方も、白い風通しの良いトーブを着ているのだから、ついぞネクタイなどと言うものは、無用の長物なのである。しかし、日本では、夏のクールビズなどと言うときには、取って付けたようなノーネクタイ開襟シャツ姿をする政治家が出たものだが、冬場はやはりどす黒い洋服とネクタイという姿が、明治時代以来、定番になっているようである。勿論中には、ノーネクタイの人が居ないわけではなかった。住民ホールの定員何名かは知らないが、総勢200名程度は参集していただろうか。例年来ている人や、街のボス達は、互いに新年の挨拶を交わす中、新参者の私は、誰一人として知り合いはないので、ぽつんと立って、様子を見ていった。立食と言っても、スナック程度しかなく、ウーロン茶の缶が置いてある程度のテーブルが、何個か配されているだけである。やがて時間が来て、最初は、全員で、国歌斉唱と言うことになったが、学校では、之を歌う、歌わないと言うことで、何かと揉めているなどと聞くと、初めて、そう言うこともあるのかなどと考えながら歌った。式次第は、町長の挨拶や、町議会議長の挨拶などがあり、おきまりの国会議員や、府会議員の名前の紹介があったが、殆ど代理出席であり、本人の姿はほとんど無かった。島本町は、今や、高槻市に合併しようとの水面下の動きがあるとは聞くが、そのような言葉は全く出てこない。挨拶の中で、ここ数年人口が3万人を切っていたのが、3万人の大台に乗ったという紹介があり、それはそれで世間の過疎化に比すると良いことの様に思えた。しかし、45歳から50歳までの働き盛りの人口に凹みがあることは、若干好ましくはないようだ。挨拶に立った、町議会議長は、町長と同じく小柄な女性であったので、後方にいると、議長達が壇上に上っているにも拘わらず、顔などは良く見えないという有様であった。別に議会でもないのだからどうでも良いが、挨拶は、何やら書いた物を棒読みのように行っているのは、いかにも昨今の国会の答弁書などのミニチュア版のようであり、とても3万人(参集約200人)という小所帯の中での話し方としては、頂けないものがあった。政治をやる者は、少なくとも自分の口で喋らないと意味がない。やれ官僚がけしからん等と言いながら、役人の書いた言葉をそのままに読み上げるだけでは、本当に民主的な政治が期待できるとは思えないと言う感想であった。中に、小中学校の学力が、大阪府下でトップクラスになったことを喜ぶ話が織り込まれていたが、別な情報では、大阪府自体が全国レベルで、最下位クラスになっているなどと言うのを聞くと、全く何をか況やである。実態を知って言っているのだとしたら、知らない親たちに誤った情報を与えることになるわけだし、正しく認識しているとしたら、もう少し、別な警鐘となって発言されても然るべきだと思うわけである。来賓などの挨拶が終わると、雑談形式で、知り合いとの新年挨拶を交わす時間となったが、私は、之と言って知り合いも居ないわけで、丁度、隣り合わせた人も同じような立場であったらしく、その人と暫く歓談した。出てくる話題は、やはり橋下市長のことであり、民主党の体たらく、マニフェストの不履行等々に帰結する。まぁ、何処の賀詞交換会でも、シャンシャンの話しかしないわけで、新年早々シリアスな話になることはないのだろうが、では、何故、このようなお祭りをするのだろうかと言うことになる。本当に重大なことは、水面下で話が進んでいて、突然議題に上ったときには、もう段取りがついているなどと言うやり方なら、こういった会合での顔見世は、全く必要ないのではないかとさえ思う。30分ほど居ただろうか、もう何も話すこともなくなったし、雰囲気も知れたので、退散することにした。マナーモードにしてあった携帯を見ると連れ合いが迎えに来てくれていると、メールがあったので、そのまま、車で、城南宮へと、車のお祓いに向かった。今年の正月は、例年に比べて寒いような気がする。車を走らせていても、フロント硝子には、細かいみぞれが吹き付けて来る。171号線は、特に混雑しているというわけではないが、既に仕事が始まっているところもあるのか、まずまずの混み合いである。自分が、会社勤めをしているときは、通勤途上とか、街の車の流れなどから、今年の景気はどうだとか言ったことを感じることはあまりなく、自分の勤める会社の置かれている立場から、好、不況を知るということであったが、最近では、リタイアしているから、新聞紙上か又は街での体感などで感じる以外はない。まるで、仁徳天皇が「民のかまどは賑わいにけり」と発言したかの如き感じ方しかないのである。残念なるかな、今の世の中は、余程地方に行かない限り、かまどから煙るが出ていることはないので、野田政権としても、経済動向を、そんな街並みから読むことは出来ないのであろう。仁徳天皇は、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方は尚、酷いことであろう」といって、「向こう3年、税を免ず」とした。それからは、天皇は衣を新調せず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もせず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍んだと言う話だ。しかる後3年がたって、天皇が高台に上り、炊煙が盛んに立つのを見て、上記のように喜んだが、更に3年間は税を取らなかったという。このようなことが「日本書紀」に書かれているという。野田民主党政権は、十分に民のかまどから炊煙が立たない上、自らの奢侈を諫めもせず、よくぞ消費税アップと言う短絡的結果に行き着くものだと呆れる次第だ。それを、「大義」だという。マニフェストこそ大義の発露と信じていた国民を愚弄するにも程がある。 やがて城南宮について、車を所定の場所に入れて、お祓いを受けるが、1台5000円也が、之は、新たにあらがい(新調?)賜いける時であり、毎年の習いにて(例年のお祓い)行うときは、500円の割引があるという。神様も、バーゲンセールをするらしい。しかし、何やかやといい言いながら、もとでを掛けずにお金が入るのは、神社・仏閣というところで、坊主丸儲けとはよく言ったものだ。連れ合いは、再度お神籤を引こうといったが(前回は良くなかったので)、同じ場所ではいかにもまずかろうと、そのまま帰ることにした。丁度食事時になったので、京都にもサンマルクがあるとのことで、行きつ、戻りつして、見つけにくいところの場所を発見し、そこで、昼食を食べて帰った。今年の新春は、まずまずの滑り出しで始まった。
2012.01.04
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今日の池上彰出演のテレビ番組で、世界を紹介する中に、サウジアラビアが入っていた。池上彰と大江麻理子が「世界で最も厳格なイスラム国家・サウジアラビア」に入国を許されたと言うことで、日本のカメラが入るのは、おそらく珍しいケースであったろう。連れ合いに教えられて、番組を観た。話題は、この他にもユーロ、ロシアなど有ったようだが、私は、報道途中に出てくるサウジアラビアの背景を楽しみに、また懐かしく思い出した。サウジアラビアに関しては、冒頭「私たちの知らないイスラム世界」といった紹介から始まる。そして、新聞などで報じられているように、日本が最も多くの原油を輸入している国でもあるのだ。その点についてはダンマン(放送ではダンマーンになっていた)にある、サウジアラビアとアメリカの共同設立会社で、現在は、サウジアラビアの国営会社となっている世界最大規模の石油企業・サウジアラムコ社の取材も一部含まれていた。サウジアラビアと言えば、私にとっては、造船に従事しているときに、私の方向を大きく変えた国であると言うことは、サウジアラビア時代で述べたところであるが、この日記でもヤマニ石油相(当時)の名前は忘れられない。多くの人にとって、バブルというのは大きな影響力を持ち、個人個人のレベルでもその生活が様変わりした人達が居たに違いないが、五分の魂と雖も、私にとってもバブルと、エネルギークライシシスは自分の人生を大きく変貌させたと思う。高々私の仕事人生の3%にも満たない時間ではあったが、それまでの家と職場の間の自転車通勤、そして護送バスのような社バスでの通勤、さらには、2時間近く掛かる、過酷な通勤地獄などを経験した後だったので、ホテルからではあるが、毎日お抱えの運転手が、定時間に迎えに来て、また帰宅時間にも送ってくれるといった生活はやはり懐かしい。私にこの仕事の紹介をしてくれた人は、現在もパキスタンの砂漠の中で仕事をしているという。私の任地は、テレビ放送にもあった、紅海沿岸のジェッダという街である。赴任に当たり取り敢えず知らされたことは、現在多数のシーア派の中でのスンニ派が支配するバーレーンに向かうことであった。勿論その当時は、スンニ派がどうで、シーア派はどうだという事は書物でしか知らなかったわけで、とにかくイスラム圏の国に行くと言うことだけしか自覚はなかった。大江が女性は入国の時にアバーヤ(黒い服)を着るのだと言って身につけていたが、私が単独で入国したときには、そんな女の人を直視してはいけないという忠告だった。アラブ人は嫉妬深いので、袋だたきに遭うかも知れないという意味だ。当時バーレーン(発音はバハレーンの方が近い)は、それほど戒律が厳しくはなかったようだ。後に解ったが、お酒も飲めるし、トンカツだって食べられた。バーレーンは実に小さな国で、今、天然ガスで世界1の産出量を誇るカタールを、サウジアラビアのアラビア湾側の臍とすれば、その臍のゴミのようなちっぽけな国である。当時はこのバーレーン空港へも、香港からドバイを経由しなければ直接のフライトはない。ドバイ空港もそうだが、バーレーン空港は、アジア、中東、ヨーロッパからの足がかりの空港として、24時間明かりが消えることはなく、真夜中でも人が賑やかに行き来している。着いたときは、夜だったので、詳しい様子は分からず、ただ、空港外で待っているはずの現地ドライバーを見つける必要があった。ネームカードを掲げているので、すぐに解って、乗り込み、バーレーンとサウジアラビアを結ぶ、海の上の道路コーズウェイを走って、サウジ側に着いたのだが、その長い海上道路の一部がテレビにも出ていた。翌日、ホテルから同じ車で、ダンマン空港に着くがこのダンマン空港の建物の大きさは、ちょっと驚きであった。とにかく天井が馬鹿高いのである。この空港は、月に1度お世話になった。日に1度のサラー(お祈り)の時には、広い空港内に朗々とサラーへの誘いの言葉(アザーン)が流れる。「アッラーフ・アクバル・・・」である。予習はしていったが、之を日に5回聞くことになるのと感慨深かった。ジェッダへはアラビア半島のど真ん中を横切る、2時間余のフライトであるが、途中に首都リアドがある。殆どが砂漠であるが、所々イリゲーションで灌漑をしている場所もあるようだ。ジェッダ空港は、思いの外手狭である。ここにハッジ(巡礼)の時には200-300万人が訪れるというメッカがあるのにこの大きさで大丈夫なのかと思わすほどである。別のエジプト人運転手が迎えに来てくれていた。そう言ったことが次々に思い起こされる。テレビで池上らが訪問した大邸宅を、中の上の階級の家だと言うことであったが、どうも納得のいかない説明であった。あのクラスは、王家とは全く関係がないのかも知れないが、明らかに富裕層である。説明役のサウジの大使館員は、ニコニコしていたが、おそらく良い場所にしか連れて行かなかったのだろう。ジェッダの古い建物の旧市街の説明もあり、そこには、黒人やアジアからの下働きの人達が住んでいる倒れかかった家並みであったが、確かにその場所を訪れたが、ほぼ、記念物的に残されているという代物であり、あまり奥まではいるとちょっと怖い気がしたものだ。私の最終的な運転手をしてくれたハッサン君は、今でも懐かしく思い出す。彼は、生粋のサウジアラビア人であり、こういった人に会うことは殆ど出来ないというのが現状であろう。サウジアラビアの、サウド家に石油が突然出てくるまでは、ジェッダなどは単なる漁村と、砂漠の商人の田舎村であったわけで、その砂漠の遊牧民こそが、サウジアラビア人なのである。従ってハッサン君のお父さんというのもベドウィンであり、彼らは、テレビに出てくるような家での生活をしているわけではなく、田舎の片隅で、崩れかかったコンクリート造りの家並みの中でひっそりと暮らしているのである。彼は「アリババと40人の盗賊」をもじって「アブドラ(国王)と4000人(王族関係、血縁者達)のハラミ(アラビア語で泥棒のこと)」と言っていた。オイルマネーの殆どは、こういった、王侯貴族達の手の中にあるようだ。昨年は「アラブの春」と言われる、中東の地中海沿岸での独裁政権が次々倒れたが、サウジアラビアでも、常にはない動きがあったようだ。しかしながら、他の諸国家と違い、テレビでも放映していたように、税金などは払わなくて良いとか、急に下層の人達の為に住宅を無償提供するなどのバラマキは行っているため、敢えて、王家を倒して、平等をとか、民主主義をとか、格差社会を無くせ等という表だった動きには今のところなっていない。初代の国王となった、アブドゥル・アズィーズは、トルコを追い出し、サウド家としての国家設立を成したが、(アラビアのサウド家の国という意味でサウジアラビアという)この時、アブドゥル・アズィーズに付き従って戦った聖戦士をムジャヒディーンと呼び、その子孫を今でも厚遇しているようだ。ハッサン君もアメリカの車に乗っている。アメリカは嫌いではないのかというと、アメリカは嫌いではないが、アメリカ政府(当時は子ブッシュ)は嫌いだという明確な線引きをしている。アメリカの石油会社が、サウジに石油を掘り当てたところから現代が始まるが、聞くところに依ると、アメリカはかなり強引に安い金額で、石油掘削権を獲得したようだ。日本が、ペリーによって、不平等な、日米和親条約や、その後の日米修好通商条約を結ばされたのと同じやり方である。日本のアラビア石油の創設者である山下太郎(アラビア太郎と呼ばれた)等にもこの辺のことは描いてあったと記憶する。今では、そのアメリカと、サウジアラビアが、共同してサウジアラムコなる会社を運営しているというのだから、歴史はどう転ぶか、予想が付かないといったところだ。勿論、太平洋戦争で、コテンパンにやられ、原爆を2つ落とされてもなおアメリカを頼りにしなければならない日本などは、世界の人々からどう映っているのか興味深いところである。サウジの女性は実に窮屈であろう。之もサウジ大使館の言葉で、上手く取り繕われているが、テレビで、扱われているイスラム教徒の家族はサウジアラビア人が日本人を妻にしている例で、その家庭が、最も典型的なサウジの家庭とはとても言いがたいと感じた。私も完全に理解するまでに至らないが、イスラム教がシャーリアなどで禁忌する対象と、アラブ人が昔から持っていた精神的伝統(羞じらい)などとが混同されて理解されていることが多いようだ。前にも書いたが、かの国は50℃を越えることも珍しくはない。私がハッサン君に、「どうして、こんな暑い国に好き好んで何時までも住んでいるのか?」と問うた答は「あなたは、どうして、毎年多くの地震が起き多大な犠牲者が出るような国に何故好んで住んでいるのですか?」であった。仕方ないこともあるのだろうが、住めば都だし、それが国を愛すると言うことなのかも知れない。最後にテレビは経済問題に触れイスラム銀行の例を紹介していたが、彼らの教えは、利子(プロフィット)を取らないと言うことを私も聞いた。巨大なイスラム銀行の建物も見た。彼らは、マネーゲームはしない、投資はしても投機はしないという。日本が、経済を危うくした原点を語っているようで、日本人は、西洋文化を学ぶだけではなく、イスラムの教えの良いところをもう少し勉強したらどうかと思う諸外国はどうこうと言うことは聞く、例えば、消費税の率だけは良く比較の対象になるが、内実まではリンクして報道されない傾向だ。我々の頭の構造は、既にアメリカナイズされているが、もう少し、裏側から世界を見渡すことも必要ではないかと感じる。
2012.01.03
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今日は連れ合いと太郎君一家とで、初詣に出かけた。太郎君が車を新しくしたので、そのお祓いも兼ねてと言うことだ。大型車で、8人乗りだと言うし、車輪は、特別に直径の大きなのを履かせているので、車高が同車種に比べて高い。孫2人も元気そのものである。私は助手席に乗せて貰って日頃より高い視座から道路を見る事になるが、高いので、周りの車が小さく感じる。それでも、最近は家族用としてであろうか、大型ワンボックスカーが多い気がする。国道171号線を北上して、いつものように京都に向かう。車のお祓いは、帰りに行うこととし、先ず、八坂神社方面に向かって、東大路通に入る道を選んでいた。その道が、太郎君達が何時も通る道だという。我々の場合は、何時も171号線を真っ直ぐ桂川街道を五条まで上がるので、ちょっと道筋を変えるだけで、気分が変わるものだ。智積院を右に見ながら、長谷川等伯の襖絵の話になった。歩こう会で訪れたところだが、日本画をあまり見ない私でも、その勇壮さには目を見張るものがあった。西洋画は、イーゼルにキャンバスというのが殆どで、大体A4の形を横に置いたランドスケープ型で収まるが、等伯などの作品は、広い日本間の襖絵や屏風などに描いているのだから、極めて横長のものとなり、書籍などでは左隻、右隻等と左右に分かれて示されることも多い。今年は辰年で、この辰は龍という想像上の幻獣が当てはめられている。その他は、牛・馬・羊・鶏・犬・猪(豚)は六畜と呼ばれる家畜であり、鼠・虎・兎は漢字の意符で部首となっている。蛇・猿はどういう訳か、これらから外れている。世に、十二支は、お釈迦様に新年の挨拶に出掛けた順番とか言われるが、虎が居ても、ライオン(獅子)が居ないなど、どうもアフリカやその他の西洋の動物は、含まれていないのも面白いが、元々発音が似ている動物名を無学の庶民に解らせるために割り当てたとする説が納得し易い。なお亥に当てられるのは本来、豚だそうだが、日本では昔、豚を飼う習慣がなかったのかの猪が宛てられたという。そんな正月ならではの考えに浸りつつ、それにしても今年の辰(龍)は、十二支中では変わり者だなぁと思った。等伯に戻るが、「龍虎図屏風」というのがボストン美術館にあるそうだが、右隻に描かれた龍は、まこと之が龍かという迫力のあるもののようだ。いつもの正月に比べ、出掛けるとき若干雨模様だったせいか、人出は少なそうである。しかし、東大路通をそのまま八坂神社まで上るのは、渋滞が心配だと、五条通を、西に向かい、川端通りを北上し、迂回することにした。四条通当たりでは、やはり混み合っているようで、更に北の小径を東に進むと、正月の裏道は案外空いていることが解った。そのまま、丁度知恩院の北門に直結していて、知恩院にお参りすると云うことで、車のまま、本堂(御影堂)のレベルまで上り、連れ合い達一家は、納骨堂へとお参りに上った。昨年法然上人800年遠忌ということで、派手に人出があったようだが、今年からは、修理の期間に入るとかで、御影堂は閉まっていて、何やら人出もまばら、裏に本尊を移してあるとかで、何となく寂しい正月風景である。国宝である三門は見上げるだけ、御影堂は、閉鎖では、詣でたという気にならない。尤も、正月に詣でるのは、神社であるから、それはそれで良いのかも知れない。長く駐車することは出来ないので一旦駐車場を出たが、八坂方面は混んでいそうなので、今年は、八坂さんはパスしようと言うことになった。平安神宮の近くの地下駐車場に入れようとしたら、何と1日1回1000円也である。繁華時に人の足下を見るのは、寺も、神社も、市役所も皆同じなのだと、変な世の中なったものだと、それでも駐車して、平安神宮へと向かった。連れ合いの孫達は、寒さも何のその元気いっぱいに走り回る。我々は何度も通った、應天門(神門)であるが、太郎君のお嫁さんは初めてだという。拝殿は應天門をくぐった真正面の大極殿であるが、左右の蒼龍楼と白虎楼が平安神宮に変化を持たしている。平安神宮は、日本に16社有る勅祭社の1つで、紫宸殿に模して、「右近の橘」と「左近の桜」が植えてある。橘は寒さに弱いのか、この時期、薦が被せられているが、桜は、健気にも細い枝を剥き出しにして、もうすぐ咲くぞと、寒そうに立っていた。これらの木は、それぞれ、「生命の木」と「知恵の木」の象徴としての意味があるのだそうだ。ここも人出は、例年よりは少ないようだ。それでも大極殿に上る階段付近から人が混み出す。整備員が、こちらにどうぞと端の方に導こうとするが、連れ合いは頑として正面をキープする。ここは、明治神宮のように、先端まで言っても大きなプールのような賽銭投げ入れ場所までしか行けない訳ではなく待っていれば、少なくとも賽銭箱までは辿り着く。二拝二拍手一拝と言う作法に従ってお参りするのだが、その事にばかり気が行くのと、後ろから次々と待っている人達が居ると云うことなので、なかなか、年頭の誓いだとか、お願い事などをしている暇はなく、通りすぎるのが常である。今年初めてのお神籤は、「末吉」であった。どうもあの番号棒を先に引き、戸棚からアルバイトの巫女が出してくれる紙切れに今年の運勢の全てが凝縮しているとは思えないのである。「鰯の頭も信心から」と言うが、自分の確固たる意思に勝るものはないと思ったり、去年のように人知の及ばぬ現象見たりするとやはり最後は神頼みかと思うのである。私はなどが思うに、神様も、忙しいのか必ずしも平等ではないという気がするのである。日本では八百万の神という言い方があるが、神は800万居ると云うことでもなく、“無限”や“数え切れない状態”を意味するのだという。路傍の石にも神が宿るなどと言うが、アニミズム(多神教)的な意味合いである。では神に序列があるかというと、「天照大神」がトップだという人もいるが、必ずしも序列が決まっているわけではないという人もいる。北朝鮮などとは違うのかなぁ。それでは、古事記による伊邪那岐神や伊邪那美神は天照大神の両親ということになっているのだから、これ以上の神は居ないのではないかと思うのだがどうだろうか。沢山の神が居ても、裁量権が全く同じとは思えず、たまたま行き当たった神がその時の気分で、神籤に書いてくれることもあるだろう。だから私は、例えば「大吉」が出るまで神籤を引くこともある。連れ合いは「小吉」とかで、やや不満げであった。お参りを済ませ、大鳥居までの両側の出店を見ながら通ったが、やはり景気は余りよくなさそうだ。タコ焼き、イカ焼き、焼きそば、焼きうどん、フランクフルト等々、殆どが、食べる物であり、たまのおもちゃを売る店は、ろくな物を置いていない上に、べらぼうに高い。之では、中国以下だなぁと感じてしまった。僅かな駐車時間でも1000円は変わらない。そこからは、元来た道を帰り、今度は、車のお祓いにと城南宮に参る。10台位を纏めて駐車させて、一気に祝詞をあげて、5000円也/台だから、神社側もほくほくであろう。しかし、こちらの方は祝詞で「かしこみ、かしこみ申さく」等ともっともらしく唱えてくれるが、コストとしては、消耗品とはいえ衣装とコストにもならない御幣、そして、ちょっぴりの塩、それとお守りと言ったところだから、利益率は、70%以上であると思える。城南宮でも本殿にお参りをと行くと、長蛇の列になっている。去年までは、玉砂利のところにも自由に入れたが、今年は規制をしているからのようで、更に、ここも、修復工事に入っており、白い布が被せられた場所が多かった。民は冷えても、神はぬくもる仕掛けがここにも見える。全国の神々は、地方は良いから、東北地方に集中して行ってあげてくれているなら、本殿の修復にも納得するが、まさかかみさんも長期休暇を取っているのではないだろうなと思ってしまった。ここで神籤を引いても「末吉」であり、連れ合いは、「凶向かう吉」と言うことで、ちょっと肩を落としながらも、じっくりと内容を読んでいた。帰りに、讃岐うどんを食べ、今年の初詣は、無事に終了した。時々、連れ合いの孫の紅葉のような手を握って歩いたり、元気ではしゃぎながら歩く孫兄弟の姿を追ったりしていると、これぞ正月に相応しい風景かな、と1人で心暖かくなってきた。
2012.01.02
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(前の十選は後日記入する)冬至も末候「雪下出麦」と言うことで、之からますます寒さが増そうかという中、雪の下では麦が芽を出している候だそうだ。暮れに友人夫妻と、連れ合いの従兄の店でカラオケ忘年会をして、我々なりに昨年の憂さを晴らしたのだが、東日本の悲惨な事故と災害は、年が改まったと言うだけで解消されるものではない。幸か不幸か、関西に住む我々には、殆どその影響もなく、新玉の年を迎えることが出来た。そんな平凡なことが実に有り難いことであり、平凡でいられることが、幸せなのだという実感する年の初めである。連れ合いは、今年の正月は、おせちも市販の品ですまそうなどと、簡便に考えていたようで、私自身もたった2人のことでもあるし、沢山食べられる年齢でもないので、そんな方向で考えていたが、カラオケ忘年会が終わった、翌日には、息子のお嫁さんが、お節の手ほどきをお願いしますと言うことになったらしく、急遽材料から、買い集め、暮れの30日から、一生懸命孫を含め、暮れに帰阪した姫を含め3人協力して、7人分の料理をつくる羽目になったようだ。私自身は、マンションで、好き勝手に過ごしていたが、連れ合いと姫とお嫁さんは、台所でいろいろと忙しくしていたようだ。大晦日には、既に、出来上がったお節を含めた、オードブル昼食会となり、それは、正月の前哨戦であった。そのまま夕食も、共にした。姫の大晦日は、毎年欠かさぬ新年のカウントダウンに出掛けたり、新春の夕食は友人達との会合に出掛けたりと忙しかったようだ。太郎君達も皆、初詣に出掛けたが、今年は寒いこともあって、2人の夜はおとなしく、家で、テレビを見ながら、行く年来る年に思いを致した。今年は西暦2012年であり、和暦では平成24年に当たる。丁度4で割れる閏年であり、オリンピックの開催年でもあるわけだ。当然来月(2月)は29日あるということになる。当たり前のことが、当たり前のように粛々と行われるのであるが、東北地方の人達にとっては、尋常ではない年明けと言うことでもある。昨年の3月11日であったから、最早数ヶ月で1年が経とうとしている。私は直接影響がなかった、幸運な立場だが、関西も16年前の1995年1月17日には阪神淡路大震災を経験しているわけだ。私が大阪に帰ってきたのは、今年で6年目を迎えようとしている訳で、大阪に帰った当初は、如何に若い頃に住んでいた第2の故郷であっても、慣れるまでには、若干の時間を要した。その時間の一時一時を辛抱強く、連れ合いが付き合ってくれたおかげで、今では、ずっと、大阪に住んでいたかの如く、違和感もなく過ごさせて貰っている。連れ合いが作った、お節料理を食べられる日が来るとは、考えもしなかったが、現実にそのような日が訪れているのをふと思う度に、何となく夢見心地になる。連れ合いの得意料理と言えば、いつか口にしていた「オイスターチャウダー」というのが今も頭に残っている。その時の私は、未だ学生だったか、何というハイカラな食べ物があるものだなぁと感心したものである。話はちょっと横道にそれたが、年頭に当たって、初詣などで、よくよくその年が良い年でありますようにと何くれと願う年は、今までは、その前年があまり良くなかった年だったように思う。今年は、単純に、この平凡な暮らしが、つましくも続けられることのみを願えばそれで良いと思うようになった。今の自分は、東北地方の人の例を持ち出す迄もなく、極めて恵まれて幸せを感じている。連れ合いの存在が、大きいことは勿論だが、良き友人、良き先輩に恵まれて、地域の人にも何かと組み入れてもらえていることを考えると、これ以上の幸せは無いと考える。私が、大阪に帰ることを決めたことが、萎んでいく人生を、このように期待以上に前広な広がりを持った、快活なものに変化するとは自分でも驚いている。この5年ほどの間に、旅行と名の付くものは、43回、行楽で出掛けたのは、83回を数えるまでになった。5年半ほどで、126回もの行楽に出掛けていることになるわけで、自分でも驚いている。之には、映画を観たり、美術展に言ったりすること、また、NHKの講座などに行くことは入っていないわけだから、ほぼ毎日遊んでいるような状態である。時々こんな事で良いのかと思うことはないことはないが、健康で暮らせることが、如何に大切なものであるかを実感している。かつては、生産業務に関わっていないと、存在価値がないと思うばかりであり、現在でも、何ら生産活動に従事しない事はある種罪悪感もあるのだが、ボランティア活動をすることもあまり考えず、友人らが、何らかのボランティア活動をしていることを聞くと、自分はどうかと、少々気がかりになることもある。さりながら、自分が会社勤めの間に渾身の力で働いてきたことが、現在のように、簡単に、為替の問題や、技術者を無視したマネーゲーム、自分だけ良ければいいという考え、やらせ、等々、一体世の中は、何を考え、何処に向かおうとしているのかなどを思うとき、個人の力はあまりにも小さく、力のないものだと思ってしまう。ではどうすればいいのか、と言うことなどないのだが、先ず言えることは、自分自身が幸せであることが必要ではないかと言うことだ。自分が幸せだと言うことは、少なくとも他人に迷惑を掛けることが少ないわけで、いずれの時にか、他人の役に立つことに出くわすかも知れないと云うことだからだ。かつて、自分を律しきれないときには、自分自身が幸せでないことは勿論のこと、他人に迷惑を掛けることも多々あっただろうと思うわけだ。昨夜から今日に掛けて、時々テレビの紅白歌合戦を見るだけで、昔のようにかぶりつきで見なくなったのは、自分が変わったのか、世の中の流れに付いていけなくなったのか、とにかくずっと見ている根気が無くなったという方が正しいかも知れない。今年は、年末の連れ合い家族全員での年越しの夕べに引き続き、年初から、連れ合いの作ったお雑煮を食べることが出来て、何とも有り難いことである。連れ合いについては、今年で、教員生活に終止符を打つことになるだろうが、之ばかりは下駄を履いてみないと解らない。私の今年の抱負は、先ほど述べたとおり、現在の平凡とも言える幸福感を、1年1年積み重ねて行ければいいと思っている。勿論ゴルフがもう少し上手かったらと思うこともあるが、やがてそれも、衰えてくるだろう。今年こそは、ウォーキングなどまた初めて、とにかく減量に努めなければと思うが、友人のように意志の強さもないし、今まで買って未だ読んでいない本を読破したいと思うが、メガネを掛けての読書は、段々しんどくなるだろうし、等と、どれも消極的な答しか返ってこない。今後30年以内に発生する確率非常に高いと想定されている東海、東南海、南海の連動地震についてはただ手をこまねいているばかりで、如何に自分が(人間が)非力であるかを思い知らされる。去年あれだけの仕打ちを受けながら、即座に原発縮小に向けて国民のベクトルが統一しないのを見て、最早、善悪、価値感、いろいろなものが、多様化していて、且つそのベースが、自己中心的であり、他利を願うことが無くなっていくのをまざまざと感じる。そんな日本が、対外的にイニシャティブを取れるとは思わないわけで、先行き余り明るい見通しにはならないが、それでも1年1年を必死に生きていき、気を長くして、救世主の現れるのを待たなければならないだろう。最後に、アラブの春の延長で、シリアの無謀さを世界はどう処断するのか、パレスチナの問題かどうなるのか、北朝鮮は相変わらず、何の変化もないのか、中国や、韓国も変わらないのか。EUは、ユーロは生き残れるのかといった、世界の抱える問題を、今年はどの程度解決できるのだろうか。日本の首相に期待するところは、極めて少ないが、アメリカの大統領、ロシアの大統領は選挙を経て、どう変わるのか、流転する毎年が今年はどのようにまわるのか、見守っていきたい。
2012.01.01
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