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連れ合いは、昨日教室のあまりの暑さに熱中症でぐったりとしていたようで、夕方、近所の医者で注射をして貰って何とか一息ついたと言うことだったようだ。それにしても、この連日の暑さはどうなっているのだろうか。連日、既に10数日の連続猛暑日を日々更新している。明日には9月となる今日もまた暑さは昨日と同様である。学校と言うところは、特に暑さがこもる上に、生徒が一人一人熱を発散するので大変な暑さとなるようだ。以前、人は1人で200kcalの熱を発散すると言うことを聞いたことがあるが、別の資料では、人間が新陳代謝や動くことによって、体内で発生する熱量は安静時の成人で80ワットで、軽い運動をしているときには150ワットの熱量を発散するのだという。最近のLEDはそれ程でもないようだが、昔の白熱電球の100ワットはかなり暑くなることを経験している。中学生辺りは、発育期でもあり、発散する熱量は、並の大人よりも多いのではないかと思う。これを1人200ワット程度とすると、40人学級であれば、あの狭い教室に、8000ワットの白熱電球を付けていることになるわけだからたまらない。そこまでなっても、学校と言うところにはエアコンはないのが今の常識であるらしい。スポ根物語がそのまま延長して行われているのが現状のようだ。今日は昨日の注射のせいか、幾分回復した様子で学校から帰ってきた連れ合いは、最近テレビで宣伝している宇治の南の「和束」というところに行きたいという。暑い部屋に閉じこもっているよりは、クーラーを効かせた車でのドライブは気分も晴れるであろうから、それではと出かけることにした。テレビでは、宇治茶の生産地で、美味しいお茶を飲ませてくれるのだそうだ。もう3回も放映されていているというわけで、一度行ってみたいという気持ちが飽和状態になっていたようだ。私は和束(わづかと読む)という町の存在すら知らなかったので、インターネットで調べてみると、城陽市の東隣で、京都府相楽郡にあるという。近くには宇治田原町や、南には笠置町がある、未だに田園風景のある山の町のようである。もう少し下れば、そこは奈良である。インターネットからダウンロードした地図をプリントアウトして、向かうことにする。何本かのルートがあるようだが、カーナビの指示通り走ることにした。171(いないち)と呼ばれる国道を迂回した裏道から京滋バイパスに沿った一般道を走るコースは何時も通る道である。宇治川を越え、宇治東ICのところで、府道7号線に入り、車で何度か通った道路を宇治市内に向かう。宇治川をまた越えるのだが、この川は、源氏物語の舞台にもなったと言うところだけに、砂州を挟んで渡された朱色の欄干の橋が川の流れに映えて背景の山ともマッチした美しい風景である。その朱色の欄干の橋を上流に見ながら宇治橋を渡り、平等院を横目に見て、一度行ったことのある天ヶ瀬ダムを通過してひたすら走る。そのようにカーナビは指示するのである。宇治川と離れる宵待橋のところでは、話し込んでいたためか、カーナビの指示がなかったのか、宵待橋を渡りそうになったが、府道62号を覚えていたので、そのまま南下する。そこから宇治川の支流に沿って、国道307号線に出るまでは比較的広い道で、交通量もそれなりにあるようだ。開けたところが宇治田原町である。ほんの少し国道307号線を走り、再び府道62号線に入る。しかし、そこからは急に道幅の狭い山道になり、この先どうなるのだろうかという気持ちになる。変な場所で対向車と出会うと離合もままならない。曲がり角に設置されたカーブミラーを頼りにおずおずと走る感じだ。山は段々深くなり、やがて峠を越えたのであろう道は下り坂になる。この間に出会った車は2台で、幅広のクラウンとの離合は結構慎重になった。やがて、山道6kmを過ぎた白栖辺りで、急に広い道に出た。安心して走ると、カーナビは、和束町役場に案内してくれた。連れ合いがテレビで見た、「和束茶カフェ」で美味しいお茶が飲めると言うことで探してみると、それは、我々が降りてきた、府道62号線の近くにあった。駐車場に車を止め、玄関を見ると、「本日の営業は3時で終わりました」とある。念のためと入ってお願いすると、どうぞと招じ入れてくれた。そこで、宇治煎茶を一服ご馳走になり、少し上等の煎茶と、トマトで作ったという珍しいジャムを購入、テレビでも宣伝していたというお茶の団子を買って帰ることにした。観光マップを置いてあるものの、外は熱暑で1歩でも歩くことは躊躇われる。数枚の風景写真をランダムにとって、再び車上の人となった。来たあの狭い山道を再び帰るのは気が乗らないので、カーナビに別ルートを検索させると、一旦南におり、伊賀街道と呼ばれる国道163号線を通るルートを案内してくれた。木津川支流の和束川に沿って、伊賀街道に出ると街道は、木津川に沿って走っている。往路は宇治川、帰路は木津川と帰ることになり、行き着く我が家は、桂川の水を集めた三川合流の淀川沿いである。のどかなドライブ旅行となったわけだ。伊賀街道から少し入ると、海住山寺があり、その五重塔は国宝だという。一寸のことだが、これも素通りした、来る時にも、宇治の宇治上神社は、国宝であり、世界遺産にも登録されているが、まだ立ち寄ったことはない。更に街道沿いには、恭仁京跡がある。この辺りはややこしいが、聖武天皇が、平城京から一旦恭仁京に遷都をしたが、やがて難波宮に遷り再び平城京に戻ったというほんのわずかの間の都であるということだ。そこからまた、我々の良く通る長岡京に遷都、最終的には平安京に落ち着いたという歴史的な遺跡である。伊賀街道がぶつかるところが、奈良街道と呼ばれる国道24号線である。左に蛇行して北上する木津川を見、右にJR奈良線と平行して北上する。もう少しで宇治にはいるというところで、道を西に取り、京奈和自動車道に通じる国道24号線のバイパスを横切り、更にこのほど全通した第二京阪道路を横切って、最後に従来の幹線である国道1号線を突ききり、京滋バイパスと交差するところで、バイパスに沿って走る一般道路をいつものように通過して帰ってきた。平城京でも平安京でもない中間地帯で、日頃余り訪れたことのない辺りのドライブは、なかなか興味深かった。天候さえもう少し穏やかであれば、国宝の海住山寺の五重塔くらいは見てきても良かったなと思った。和束町にお茶1杯飲みに行っただけの4時間ほどのドライブだったが、我が家の近くにもまだ山里があり、宇治茶といわれる高級なお茶もこういったところで作られているのかと一寸感慨深かった。
2010.08.31
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3ヶ月おきに開催する高校同級生のゴルフコンペが花屋敷ゴルフクラブ(よかわコース)であった。今回は私にとって7回目の参加となる。今回は、高槻の3人を順次ピックアップして行くことになった。スタートが遅いので、出発も7時20分で十分だったが、いつものように少し早めの出発となった。最終の友人をピックアップして茨木ICから名神に乗ったのは予定より少し早い8時だった。このコンペは長く続いているが、最初の頃の話を車中で聞くことが出来た。若い頃は、何とか仕事の都合を付けて平日に行っていたそうであるが、段々と簡単に仕事も抜けられなくなってきて、日曜日開催が恒例となったらしい。今回は、その恒例の日曜日を破る平日(月)開催の第1回目という事になる。平日とあって、高速道路も何の渋滞もなく走ることができた。吹田JCTから中国道へ入り、心配した宝塚辺りの混雑もなく、嘘のようにすいすい走る。平日開催の話で、サラリーマンの特権である年次休暇がなかなか取れなくて、みんな最終的には捨ててしまったというような話になる。考えてみれば、既に皆前期高齢者となっているわけで、誕生日が過ぎた者はもう66歳になっている。他愛のないことを話しているうちに吉川ICで降り、標識に従って、花屋敷ゴルフクラブを目指すが、10年前に1度ここでコンペをしたことがあると聞いた。この辺りは、所狭しとゴルフ場があり、道ばたには案内標識が林立している。昔来た友人は何となく道を覚えていて、カーナビの案内を確認しながら目的地ゲートにやってきた。花屋敷は、今回の「よかわコース」とは別に、「ひろのコース」があるのだという。入口の導入道路は広く立派である。なかなかの名門らしく、女子プロのツアーコースにもなっているということだ。クラブハウスが見えると、何とお城のような造りである。こんな名門コースには、最近来たことがないというと、前回訪れた「枚方カントリー」も名門だという。そう言えばそうだったと思いながらも、そのクラブハウスの豪勢な造りにバブル期の影を見る思いであった。道路が空いていたせいで到着は、スタートの1時間あまり前であった。他のコンペでも同行する友人が、私のパターをチェックしてあげるとパター練習場に行ったが、ビックリしたのは、その表面の荒れていることだった。赤土が所々というか、グリーンが、赤土との斑模様状態なのである。アウトの練習場は修理中でクローズと言うから、ここはまだなのだろうと、それでも練習で何球か打った。友人に言わせると、私のスタンスは、何時もカップの右を狙っているのだという。従って、入るものも入らないと言うことで、スタンスの位置決めからやり直した。狙いをピンとすると、ピンとボールをクラブで結びそれに並行につま先を合わせるという方法を採ると、私の感覚では、随分左を狙っているように感じる。しかし、それが正解なのである。レッスンを受ける内に全員が集まり、スタート時間となった。スタートの10番ティーに向かうと、まだ前の組がプレーをするところであった。私は、当初予定のメンバーとは入れ違いになっていて、第2組に配置されていた。誰も指示した者はなかったようで、ゴルフ場の単なるミスのようだ。スタート地点には女子プロの名前が書いてあり、宮里藍278ヤード(バーディー)、有村智恵258ヤード(パー)と立て札が立っている。恒例の「スタジオアリス女子オープン」の結果であろう。それにしても、女子プロのプレーはテレビでしか見たことがないが、軽く振っているようでも振り切っていて、芯に捕らえているからであろう、よく飛ばすものだと感心しながらのスタートである。いきなりのロングホールで、我々がスタートする時点から大粒の雨が降り出し、これはどうなることかと思っていたら、全員が打ち終わった頃に小降りになり、やがて雨は去っていった。しかし涼気を運んでくれたわけでもなく、暑さはそれ程和らがなかった。私は、左のラフに打ち込み次は右最後は左のくぼみという具合に広いフェアウェイに一度も出ることはなく、最後のラフから初めて、フェアウェイに出したが、アプローチでも躓いて、3オーバーのスタートであった。日頃は優秀な成績を収める友人はどうしたことか、第1球を左にOB、打ち直しを右にOB、再度の打ち直しを、左にチョロする、考えられないで出して、上がれば13を叩いていた。11番はドライバーも高々150ヤード程度と当たらず、セカンドも当たりは悪く、アプローチでも失敗したが、何とか2mのパットを沈めてボギーで上がれた。12番のショートは、谷越えのような感じだが、グリーンのレベルはティーグラウンドと高低はなさそうだ。そこで5Iを引っ張りすぎて左の林の中に消えていったと思っていたところ、奥の木に当たって跳ね返り、手前のバンカーに落ちた。バンカーは出すだけで、3オンは5mを残した下りである。これも何とか良いタッチの1パットで沈め、ボギーで納めた。これまでは特訓の賜物か。13番はセカンドまではまずまずであったが、残り70ヤードの上り砲台を乗せきれずバンカーに入れ、平静さを失い3パットのおまけまで付いてダブルスコアとなってしまった。14番のミドルでは、ティーショットはまずまずの当たりかと思ったが、左寄りのフェアウェイに落ちたボールは他の3人よりも短かった。この辺りで、飛距離の無さを痛感し始める。追いつかなければという気持ちが力みになり、セカンドはチョロして、次のショットは左の木の下に落ち、100ヤードの打上をオンしてダボとなった。15番のショートは、距離が186ヤードと長い。ドライバーでもと考えたが、4Wでトライし、グリーンは捕らえられなかったが、バンカーを避けたところに落ちた。2オンで、2パット目も外しダボになった。ティーショットで一番当たりが悪かった友人が、何とピン側に寄せるアプローチでパーとなったのは賞賛ものだった。16番はロングで、緩やかに左にドッグレッグしている。ここも3打共左、右、左とジグザグでフェアウェイを使っていない。残り80ヤードのアプローチも失敗、1パットのダボである。17番超ワイドなドラコンホールである。皆よりは短めのフェアウェイは何時もと同じで、ドラコンは、私に縁が無い賞である。ここで、いつもは低迷の後ろの組の友人がドラコンを取ったと後で大喜びであった。18番は面白いホールで、409ヤードとなっているが、グリーン手前には深い池があり、そこまでは200ヤード強ある勘定だ。真ん中に飛んだものの、2オンは無理と見てピッチングで池際まで刻んだ。そこからの3打は、グリーンにわずかに届かず、ダボ終了であった。最も飛ばした友人は、パーで上がり、他の2人は、果敢に2オンに挑戦したが池を越えることは出来なかった。昼休みもそこそこに、濡れたシャツを着替えて、後半に向かう。1番は寄せで突っ込み不足の3パットとまたダボスタートだ。2番ロングでは、前2人が豪快に飛ばしたので、力みすぎて天ぷら気味の球となり、2打目は更にひどい天ぷらで、やっと前方の仲間の1打地点まで運んだ。3打目のフェアウェイウッドは気持ちのいい音で前方フェアウェイを捕らえた。残り150ヤードをまたバンカーに落とし、3パットのトリプル。3番ショートは132ヤードだが、力んで目前の池に落とし、これはトリプルとなった。4番のミドルでも、200ヤード近くは飛んだかと思ったが、皆よりビハインド、2打目からの打上もショートし、1パット目は惜しかったが、結局ダボ。5番ロングは、100ヤードを残した4打目でまたミスし、この日3回目の3パットである。6番はセカンドが湿って、3オンとなり、またまた3パットである。それにしてもまともなグリーンは1つもなかった。7番ショートは当たり損ないの手前のバンカー、バンカーは脱したが、グリーン周りの悪い癖で、またもやトリプル。8番では良く飛ばした友人から50ヤードは置いて行かれた。3打目の上り95ヤードをグリーンオーバーのダボ。最終9番ホールは池越えの良いショットではあったが、2打目は届かず、3打目もグリーン奥で、最後の8mの下りパットはわずか数センチ外れる惜しいパットだった。痛感するのは、ドライバーの飛距離の無さと、アプローチの正確さの欠如と言うことにつきる。なかなかうまく行かないものだ。
2010.08.30
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湾岸6ヶ国といえばアラブ首長国連邦(UAE)、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビアとバーレーンである。この場合の湾とはペルシャ湾(アラビア海)のことであり、ペルシャ湾に面した諸国の間で、湾岸協力会議(Gulf Corporation Council)が1981年に、上記6ヶ国で設立された。共に、中東のイスラム圏であり、ペルシャ湾に面しているにも拘わらず、イランはこれに関係していない。大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派であるからかも知れない。また、イランは元ペルシャと呼ばれ、民族も文化も違うという点もあるのだろう。昔のペルシャは、強大な力を有していたが、現在のイランは核の利用法で世界の問題児となっている。一方、アラビア半島ではないが、ほんの一部ペルシャ湾に接しているイラクもこれに加わっていない。逆に、アラビア半島にありながらペルシャ湾には面していないイエメンも湾岸協力会議には参加していないのだ。私には、合理的に見えるが、逆に湾岸協力会議が何故湾岸なのかを疑う点でもある。私は、これら湾岸諸国の中で、オマーンとカタールには行ったことがない。オマーンはドバイにいる時に、連れ合いとハフィート山に昇り、遠く霞んだオマーンの砂漠地帯を覗いたことがあるだけだ。イラクに侵攻されたクウェートには、行く機会があったが、逃してしまった。アラビア半島の大部分を占め、その真ん中は砂漠であるサウジアラビアは、とても変な国である。首都のリヤドは砂漠の真ん中の都市であって、サウジといえば、石油であろう。そして、世界中のイスラム教徒が一生に一度は、巡礼する事を奨励されている聖地メッカがある。サウジでの開発はと言うと、油田開発と石化事業ということになるが、海水淡水化についてもこのところ大きな事業チャンスとなっている。何しろこの国の水はガソリンよりも高いのである。水は1リットルが70円程度であるが、ガソリンの方は、18円と約1/4近くの値段である。他にも、メッカーメディナ間を結ぶ40kmほどの鉄道も計画しているという。前に私の運転手をしてくれた学生に第2の都市ジェッダとリヤド、さらに東海岸のダンマンに至る鉄道敷設はどうかとの話をしたことが有ったが、砂漠を通る1000km余の鉄道はメインテナンスが大変だというような話になった。また、人口増加に伴う雇用創出を意図して、ジェッダ近郊のラービグに「アブドラ国王経済都市」が計画されていたが、もう既に完成しているのかも知れない。このほかにも、女性が他人の男性に顔や肌を見せたり、女性の運転を禁止したりと何かと厳格にイスラム教の教えを守る国に、初の女性専用の総合大学を設立することも決まっており、新たな大学の創設や、日本の大学などの協力を受け入れることも行っている。なんと言っても開発で世界に知れ渡るのはドバイを中心にしたアラブ首長国連邦であろう。このほど世界最高層のビル「ブルジュ・ハリファ」が完成、竣工したところであるが、このほかにもドバイの人工新都心に完成した、ドバイで2番目に高いビルの「アルマスタワー」がある。ドバイの中心から、南部のジュベール・アリまでの交通システムも完成し、今は空港内を結ぶ交通システムも建設中である。工業都市ジュベール・アリは徐々にその規模を大きく膨らませていて、近郊には、現国際空港の数倍大きな新国際空港も建設に着手しているところである。ドバイ信用不安で、一時工事を中断していた、海中埋め立て都市などもまた工事を復活しているものと思われる。この国もまた、水を確保するのが大変である。日本が協力して、何カ所かで、インフラ整備を行い、発電や海水の淡水化事業も行っている。その他、目白押しの建設ラッシュなど、ドバイは今日、出の勢いを取り戻している。目をアブダビに転じると、世界初の「環境都市マスダールシティ」建設の計画が始動しており、2015年の完成を予定している。予算総額は数千億円規模といい、日本企業も多数このプロジェクトに参画している。これに伴い、環境に優しい、風力発電や、砂漠地帯に惜しみなく降り注ぐ太陽エネルギーを使った太陽熱発電のパネルが敷き詰められる予定である。完成予想のビデオでは、ここが本当に砂漠の国かと思わせるような近代都市で、緑に覆われた中を水路が張り巡らされ、域内を走るトラムカーや、道路網は、計画都市としては、最先端の域に達している。ガス処理設備や、製油設備など、日本や韓国の手による開発も目白押しである。最近アブダビ郊外で日本人技術者を乗せた車が大型トラックに衝突されるという痛ましい事故があったが、アブダビ発展の礎になったような感がある。片側4車線のシェイク・サイード・ロードは、制限時速120km/hとはなっているが、車の性能一杯の速力でも、さほどのスピード感を感じないといった道路であった。カタールは、LNGが産出することで、一躍脚光を浴びてきたが、国土は狭いが、首都ドーハから北に100kmのラスラファンでは、多くの石油プラントが稼働している。私も少し関係したプラントが2つ有るが、世界最大といわれたプラントでは、日本企業は大幅な赤字ではあったが、完成して稼働を始めている。NHKでも取り上げられたが、プラントの壮大さは、目を見張るものがある。最近日本でも、化学プラントの夜景(常時電灯でライトアップした形になっている)を見学するのが流行になっているようだが、化学プラントの夜景は、何とも荘厳でまるで不夜城の如きものだと感じた。グーグル・アースでラスラファンの地域を眺めると、その壮大さが垣間見られると言ったところである。バーレーンは、サウジ時代に何度か脱出(ビザの関係で、月一回海外に出る必要があった)したところである。実に小さな国で、サウジアラビアの一部と考えてもおかしくないような国であった。この国では、世界最初の油井が掘られ、その記念の油井は今も残されている。陸路サウジアラビアから行くために、サウジの前国王時代の援助で、コーズウェイが作られていて、まるで海上を走るハイウェイのような気分である。首都マナーマはこじんまりした街で、コーズウェイからマナーマには入り小さな街を通り過ぎるとすぐにバーレーン空港に着くという具合である。その道路、キング・ファイサル・ストリートの丁度真ん中辺りにツインの世界貿易センタービルが建設中であったが、今はそれも完成し、2つのビルを結ぶような形で3機の風力発電の風車が設置されている。石油がなかったら、これらの国は今日単なる砂漠の国で片付けられていたであろうが、オイルマネーの偉大さを強く印象づけられる発展を遂げている。しかし、ドバイなどでも、ポストオイルを見据えた、各種プロジェクトが計画され、着々と実行に移されていて、世界の冨を収集することに熱心である。振り返って、日本の経済疲弊と、三流政治を見るにつけ、失われた10年(20年)の間に、中東はかくも発展していることをどう捕らえたらいいのか、内心寂しい気がしている。
2010.08.29
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昨日のロマ人の関連で、1年前の新聞記事を見つけた。2009年2月17日「人道の罪」の真相究明のための「ポル・ポト派特別法廷」が開かれたというものだ。今、カンボジアといえば、世界遺産の「アンコール・ワット」や「アンコール・トム」といった遺跡群が思い出され、観光地としてのイメージが強いが、40年前のカンボジアでは悲惨な大虐殺が行われたのは、まだ記憶に残っている。現在は元のノロドム・シアヌーク国王の子である、シモハニを国王とする立憲君主体制を敷いているが、19世紀までは、隣国タイ(シャム)や、元などにより揉みくちゃにされた国である。カンボジアは、少数のイスラム教徒を除き9割が仏教徒である。といっても「上座部仏教」という日本とは若干違う仏教国である。人種もその9割がクメール人で、そのほかベトナム人などが少数派として存在しているが、地政学的に、西欧国家がインドシナ半島と呼んだところは、カンボジアの他にも、現在経済面で発展を遂げつつあるベトナムや、古くからのタイ、ラオスなどがある。それを取り囲むようにして、マレーシア、ミャンマーなどが存在している。正に、アジアのバルカン半島的な存在であるといえる。そのカンボジアで、40年前に何が起こったのかを思い出す人はあまりいないかも知れない。正直私がポル・ポトの存在を意識したのは、20年間に出版された「カンボジア戦記」を読んでからである。随分と遅れていると言えば恥ずかしい限りであるが、このポル・ポトによる大虐殺は国民の間で起こった内戦(勢力争い)であったことだからかも知れない。近代に入って、西欧による植民地政策の一環として、フランスはインドシナ半島(インドシナ)の植民地化を開始した。隣国、タイやベトナムの攻勢に窮していたカンボジアのノロドム国王はフランスと交渉し、カンボジアはフランスの保護国になり、フランス植民が開始されるに至る。太平洋戦争で、日本軍がインドシナに侵攻し、この機にノロドム・シアヌーク国王はカンボジアの独立を宣言したのだが、日本の敗戦ともに、カンボジアは再びフランスの保護下に戻ってしまう。その後も、シアヌークの粘り強い運動で、フランスからの独立を果たすのだが、時が熟していたのかも知れない。その後は、カンボジア王国として比較的平割に推移していた。そこに、アメリによるベトナム戦争の開始である。シアヌークはアメリカの北ベトナムへの爆撃に反対し、国交を断絶するがベトナム戦争により国内は不安定となりやがて、カンボジアの余剰米が政府の買い付け価格より高く北ベトナムとベトコンに買い上げられた。地元共産主義勢力は反米反政府のビラを撒き暴動を煽動し内戦に至る。親米派のロン・ノルがシアヌーク派を追放、クメール共和国の樹立を宣言。ロン・ノルは反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線(ベト・コン)を支援していることが疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺したのである。これにより、カンボジア在住のベトナム系住民50万人のうち20万人がベトナムに大量帰還する事態となった。さらに、ロン・ノルはベトコン支援のホーチミン・ルートを粉砕するため、自国へのアメリカ軍と南ベトナム軍の侵攻を許し、エスカレートして、アメリカ軍によるカンボジア空爆を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させたのである。自国のトップが、外国の軍隊に自国の国土爆撃を許可したと言うことなのだ。これは既に、大いなる異常行為である。このため、数十万人もの農民が犠牲となり、1年半の間に200万の国内難民が発生し、ロン・ノル政権は国民の不人気を買い、反政府活動は激化していった。中国に亡命していた、シアヌークと共にカンボジア帰国を果たしたのが、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮するのが共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。世界三大虐殺者の一人「毛沢東」に心酔していたことからも分かるように、この、ポル・ポト一派(クメール・ルージュ)は、人の命などは露ほどにも思っていないわけだ。ロン・ノル政権(バックは米軍)対反政府勢力(クメール・ルージュ)の構図は、アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルの敗北に終わり、カンボジアに悪魔のポル・ポト共産勢力が支配する時期となった。アメリカの空撃で農村は壊滅的に破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受けていたためクメール・ルージュは、都市部の住民を強制的に農村へ移住させる意図を持って、全市民を例外なく首都プノンペンから離れるよう強制した。住民は行き先も教えられないまま炎天下を何日も徒歩で移動させられたため行き倒れになる者が続出し、大量の死者が出たのである。クメール・ルージュ内でも、これに反対する親ベトナム派などはことごとく虐殺された。狂気とも言える、ポル・ポトの政策は、政策とも言えない狂信的毛沢東路線であり、極端な農本主義政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで100万人から200万人とも言われる大量の死者を出したのである。タイ国境に近いアンロンベンの地は、ポル・ポト最後の砦であり、虐殺の痕跡を残す負の遺産である。広島の原爆ドームのように、今や、カンボジア政府は、アンコール・ワットとともに、プレアビヒアという世界遺産を売り込むための要地としてアンロンベンの開発に力を入れている。更に首都プノンペンに近いトゥール・スレン(暗号名S21)には、ポル・ポトの大虐殺を展示する博物館がある。そこには主に知識人や政治犯を収容、拷問をした痕跡が見られ、中には、拷問などで死亡した頭蓋骨で、カンボジアの地図を形作るなど、人への尊厳はみじんも感じられない。しかし、こういった狂気は、ここ1個所ではないことは、歴史を学んだ者にはよく分かる。これを行った兵士は、下は小学生から中学生というような若い兵士が洗脳されて手を下しているのである。そう言った子供に判断力はなく、ただ言われるままに人殺し(作業)を行ったというものだ。今の中東圏のアルカイーダや、タリバンなどの兵士にもそう言った若い子供達を洗脳して自爆に追いやるというのと似ているところがある。たった一人とその取り巻きの狂気は、結果何を行うか分からないところがあることはこういった史実が克明に証明している。隣国北朝鮮も、これに準ずると言っても過言ではない。国内の疲弊した民を犠牲にして、自らがやりたいことをやる。これは既に国としての態を成さないことは明かであり、世界が何故に放置するのか疑問である。こういった、歴史人道犯罪に対する法廷が開かれ、昨年、元収容所長であったカン・ケ・イウ被告(67)への求刑40年が行われ、その結果がどうなったか分からないが、カン・ケ・イウは被害者に謝罪し、反省のフリをしながら、既に刑務所にいたからもう釈放してくれと言っているとのことである。その他のトップには、訴追さえもまだという極めて曖昧な結果となっている。当時の若者が大量に虐殺されたことにより、カンボジアの人口構成は25歳以上の人口が極めて少なく、24歳以下の人口とは対照的な分布となっている。カンボジアの再興に甚大な損害を与えていることになる。
2010.08.28
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昨年5月、「ハンガリー、放火・暴行広がる」という見出しで、「ロマ人差別 溶けぬ壁」というコラム記事を目にした。今や世界的、被差別民族の最右翼とも言うべき存在であるロマ人は中東やヨーロッパ各国に離散し、細々と生活をしている。その数は、600万人から800万人に上ると言われている。元々はインド北西部に起源するインド・ヨーロッパ語族であるとされるが、少数民族であり、何をもってか10世紀頃に離散を始め中東やヨーロッパ各国に住み着いているというのだ。定住地を持たなかったと簡単に処理されているが、彼らとて、安住の地は欲しくなかったわけではないと思う。インド北西部といえば、地図上ではパキスタン辺りになる。もっと西のアフガニスタンに掛かっていたかも知れず、また北のタジキスタン辺りにも及んでいたのかも知れない。その頃は丁度モンゴル帝国が西進し、各地で略奪と陵辱を繰り返していた時に当たる。オゴティ汗国やチャガタイ汗国とも関連があったのではないか。いずれにしても、放浪が生業となってしまったようで、それが為にナチスにより、ジェノサイドの対象となって、10万人が虐殺されたと言われている。出生からして、元々、彼らはヒンドゥー教かと思われるが、定住した土地での主流の宗教に改宗することが多い。すなわち、東ヨーロッパではロシア正教またはイスラム教、西ヨーロッパではカトリックかプロテスタントといった具合である。独特の神秘主義的な風習を持つが、それは宗教とは別と考えられている。彼らは、一時、エジプト方面からの放浪の民だと自ら名乗ったりしたので、エジプトから来た人と間違われて、「エジプシャン」が訛って「ジプシー」と呼ばれるようになった。現在では「ジプシー」という言葉は差別用語と言うことで使われないと言うが、現実には、放浪する(一所に留まらない)という意味で「ジプシー」なる言葉は多く残っている。子供の頃、旅回りの芸人などに「ジプシー」という名を使った覚えがあるが、これほどの意味を持つとは知らなかった。チャールズ・チャップリンやヨハン・シュトラウス二世等も「ジプシー」の血を引いているといわれ、ユル・ブリンナーも自称そう言っていたらしいが、信憑性は薄そうだ。音楽家や、芸能関係などに多くの著名人が居るユダヤ人が迫害された以上にロマ人への迫害と偏見は根強いものがあるようだ。つい1ヶ月ほど前に京都の「ボストン美術館展」に行ったが、その中に「ド・ラ・ペーニア」の作品で、「祭りに向かうジプシーたち」というのがあった。その解説には、描かれたジプシー達の服装は、彼ら自身に基づいているとはいえ、北方とイタリアの農民の服装が組み合わさっているという。国を持たないジプシー達が、森の中を列を組んで祭りに向かう様子を捕らえた絵である。フランスでは、放浪者はボヘミアから来たと信じられていて、ボヘミアンが、ジプシーと同義語で使われていたと言うから、放浪の民は至る所に離散していたのであろう。定住地を持たないジプシー達の就業率は極めて低く、昔からの差別と、それに基づく貧困に悲惨な暮らしを余儀なくされている。ハンガリーには何人のロマ人が暮らしているのかは分からないが、その9割が差別を感じているとのことである。日常生活は元より、教育や就職にわたる広範囲な差別である。昨年2月に起こったハンドボール選手の殺人事件の容疑者がロマ人であったことから、報復として、ロマ人を標的とした放火や暴行事件が広がった。そこに世界的不況が重なって、ブタペストや近隣のチェコなどでも国外脱出が急増しているという。ある政治家は、ロマ人は芸術面にすぐれているから、子供には芸能部門に特化した教育を行えと極論する者もいるのだそうだ。全く話にならない。そして、忘れていた先月、フランスによるロマ人の移送が始まったというのである。不法滞在を根拠にフランス国内から、ロマ人850人をルーマニアなど東欧諸国へ移送するというものだ。EUの市民でもあるロマ人であるから、フランス政府はこじつけに不法にキャンプを設営した者に限ると弁明しているようだが、キャンプ地を強制的に破壊されたロマ人は、移住に同意したと見なされ、大人3万3000円、子供1万1千円を支給して、事実上の追放をしたのである。これに呼応して、イタリアでも、ロマ人の送還を決めたようである。欧州委員会は貧困にあえぐが為のロマ人達による窃盗や治安の乱れを懸念しつつも、EU加盟国に安易に同調しないように呼びかけている。「ツィゴイネルワイゼン」や「カルメン」を始め、映画の中にジプシーキャンプが登場し007に協力する「007 ロシアより愛をこめて」やビクトル・ユゴーの「ノートルダムのせむし男」さらには、「ドリトル先生シリーズ」なども、このロマをテーマにしたものであるということを知った。さらには「ジプシー」と名が付く歌なども日本では多く歌われている。このロマ人出生地がインド北西部であるというので、インド人と似た癖があるのだそうだ。私も、ドバイで経験したが、彼らは、肯定や分かったと言う時に「イエス」と言いながら首を左右に振るのだ。従って、否定する時には「ノウ」といいながら頭を縦に振るわけだ。丁度日本と逆だったが故に、最初はなめられているのかと思ったが、決してそうではないらしい。余談はさておき、このような差別を受けている民族は世界中で、沢山あるけれど、ロマ人ほど広範囲に分布し、そのどこに於いても正当な人権が与えられていない民族は居ないのではないか。サウジアラビなど中東でも、ベドウィンという種族が居るが、彼らも定住地を持たないが、政府はそれなりに認めているようだ。モンゴルなどでは、新鮮な草を求めて移動式のパオでの生活だがこれも問題ない。国境無きクルド人やスペイン北部のバスク人やカタルーニャ人さらには、永遠に片が付かないパレスチナ人、アメリカインディアンなどもそうだし、オーストラリアのアボリジニーなども被差別民族である。日本のアイヌ問題や、同和問題もこの類のことであるが、国家至上主義であるが故に、アラブとイスラエルとの紛争は絶えないし、宗教や、風習による偏見もこれを助長している。少し前のアフリカのルワンダにおけるツチ族、フツ族の対立、スーダンの紛争など数え上げればきりがないくらいだ。しかし、世界三大虐殺者の「毛沢東」「スターリン」「ヒトラー」が再来しないことだけは祈りたいものだ。次点の「ポル・ポト」「チャウシェスク」等も忘れてはならない。
2010.08.27
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定例ゴルフコンペに出かけた。前回は、土砂降りの中、カッパを着ての最悪のゴルフで、結果はブービーメーカー(早い話が最下位)だった。雨が降ってカッパを着ての奮闘だったが、内から出てくる汗と、外から降り注ぐ雨とで、全くゴルフを苦しむような悪夢の日だった。今日は、朝から晴れている、所々に雲が出るといったまずまずのコンディションのようだ。前回枚方でのプレーでは、熱中症寸前まで行っていたのだろう、目の前が真っ白になったホールが3ホールほど有ったが、今日は、酷暑とは良いながら、まだましの天気のようだ。友人を迎えてゴルフ場に着くと、幹事の先輩が、なにやら話している。どうやら、2人キャンセルした人の中に、何日か前のラウンドで、倒れ、救急車で病院に運ばれ、後何分か遅れたら命が危なかったと医師にしかられたという話だった。スタート前のミーティングも、気分が悪くなったら遅滞なく申告してくださいと、注意に余念がなかった。ゴルフ場から最寄りの病院までは、最低30分はかかるので我慢しないようにとのことだった。枚方でのラウンドも、危ないところだったかも知れない。今日は、冷凍庫で凍らせた500mlのペットボトルを3本と、冷蔵庫に入れておいた同じものを1本持参した。ゴルフ場のサービスで、ペットボトル1本があったから、合計5本有ることになる。組み合わせの変更があり、正に倒れた人と友人の3人でのラウンド予定だったが、入れ替わりに2人入ってこられて、4人でのラウンドとなった。インスタートの最終組で、どの人も見慣れた人であるし、同じ組で回ったこともある人達ではあったが、1番くじを引いた私は、一寸緊張した。それでも、惜しい1パット目を外すボギースタートであった。アウトもそうだが、インのスタートも打上のコースで、上がりはあまり良くないというのが今までであったから、まずまずと言うところだ。オナーを維持し、11番のショートホールでは、怪我の功名的、結果1オンを果たした。それが、ニアピンとなったからラッキーだったし、1パット目がほんの少しずれるというバーディー逃しのパーであった。12番のサービスミドルは、ドラ短ホールで、前の組の旗は相当前に立っていた。私は、右ラフに打ち込み、他の2人もラフであったため、最後に打った友人は、PWで100ヤードを残すところに落とし、ドラ短賞を計画的に手に入れた。彼はそこから2オン2パットであったが、私は2オンをピン側に付けバーディーを拾った。ニアピン、バーディーとこれは絶好調という気持ちで次の13番に向かった。オナーの私は、そこで気負ったのか、あろう事かティーショットをチョロして、直前のラフに転がしてしまった。まぁ、2打目でリカバリーをと気がせいたが、2打目もチョロの尺取り虫。更に動転して3打目もチョロと3打目で、他の3人が落ちた距離にやっと届いた始末。更に4打目でも気負い、引っ張ってOB、打ち直し5打目で、やっとグリーンオンできた。上がれば、9とメチャクチャになって(元の木阿弥)しまった。あわや優勝を狙えるかとぬか喜びもこのホールで費えた。続く打ち降ろしショートも池ポチャ、その後は、通常通り運んだが、友人はぐんぐん伸してきた。18番の前半最終ホールはドラコンが掛かっていたが、私には関係がない。それでも多少力んだのであろう、右の土手からその裾のまで降りてくるパターンで、2打目はつま先上がりの難しい傾斜が残った。そこを何とか打てたのだが、また右のラフに落ち、残りが185ヤードと微妙である。グリーン前は大きな池で、池の右側は土手になっているため、そこを利用して何とか乗せようとした。ところが、飛びきれず、横から池に転がり落ちてしまった。そこまではまだ想定内であったが、後の処理にまごつきトリプルとなった。食事前に汗でびしょびしょの全てを着替え、リフレッシュした。流石に今日はラウンドする人が少ないのか、時間前に、前の組が出発した。暑いのは暑いが、カートに乗って木陰を走ると、風が涼しく感じられるようになっていた。やはり山は少し温度が低いのであろう。出だし1番はダブルボギーだった。高槻カントリーの出だしのだらだら打上は、どうも慣れない。2番は打ち下ろして、セカンドから打上であるが、よりによって2打目の5Iがクリーンにヒットし、グリーンをオーバーしてしまいボギー。3番はティーショットでは「美しい!」とのかけ声を頂いたが、距離が長いため、2オンは出来ずグリーン手前50ヤードで止まった。結果はボギー。続く4番ショートホールでは、オナーを続ける友人が早々と乗せて、ニアピンをゲット。私のは、乗ったかと思いきや、グリーン左のカラーであった。ここでもボギー。右ドッグレッグの5番ロングは友人からナイスショットと言われる良いショットだが、少し飛距離は短いのが不満だ。セカンドも先ず先ず、3打目でグリーン近くの20ヤードまで付けたが、アプローチが悪く、カラーで止まり、友人がパーで上がる中、ダボになってしまった。こういった一寸したところで大きな差が付くものだ。6番の右ドッグレッグのミドルでは、グリーンの真ん中に運んで、同じ組の人から「ナイスショット!」と言われた。2打目からは旗が見える位置だ。セカンドもクリーンに当たったが、グリーンまで10ヤード足りなかった。こんな時に、もう少し飛距離が欲しいと思うのだ。アプローチで一寸ショートだったが、1パットで凌いで、ボギーとし、オナーとなった。7番のミドルはハンディキャップ1の難しい(長い)ホールだ。ティーショットはまずまずだが、ドラコンホールである前の組の旗から随分と置いて行かれている。2打目、3打目も会心の当たりではなかったが、50ヤードのアプローチをピン側に寄せ、結構難しいスライスラインを1パットで沈めた時には友人から賞賛の言葉を受けた。続く8番のショートホールでは、最後のニアピン狙い。軽く打ちすぎて、もう少しで乗るかと言うところを手前のバンカーに掴まってしまった。友人は左に引っかけたボールが、林の木に当たり、運良く下に転がり落ちてきた。バンカーからのナイスオンで、ボギーとしたが、あわやOBかと思った友人もリカバリー良くボギーで上がり、結果は一緒と何とも言えない気分だ。これがゴルフなのであろう。オナーはパーの人に取られた。さあ、最終9番ホール、タイミング良く当たれば飛距離はすごいオナーの人は、今日一番の感触のティーショットだった。私も良い感じで振れて、友人から「伸び伸び打っているね」と賞賛された。セカンドも快心ではないが左のラフに飛び、3打目でグリーン手前の20ヤードに運んだが、アプローチで、ヘッドアップかチョロしてしまい、上がればダブルボギーだった。しかし前半はOB1、池ポチャ2を含む大乱れの50であったが、後半は48に抑えることが出来、念願の100は切ることが出来た。しかし友人の準優勝、何時も幹事の相棒である先輩がネット64での優勝と、今日はどう転んでも優勝の目はなかったようだ。早めに終わって、友人とゴルフ談義をかわしながら帰途についたが、友人は明日も朝宮でプレーするとのことであった。これくらいやらないと巧くは成れないのかという感じである。
2010.08.26
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昔、全日本空輸社長・会長であった野村吉三郎さんが「英語堪能願望」というコラム記事を書いておられた。全く同姓同名で、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官で政治家の野村吉三郎さんのことかと一瞬ビックリしたことで覚えている。外交官であった野村の方は、真珠湾の攻撃前に米国務長官ハルと丁々発止と英語で渡り合った仲であるから、一瞬ビックリしたわけだが、コラムに書いた人とは違っている。違っているとは言いながら、世界を股に掛ける航空会社の会長であり、社長である人の口から語られていると言うことに、なにやら違和感と、一寸した安心感(そんな人でも英語は苦手なのだ!)を感じたことを覚えている。書き出しはこうだ「私は英語が得意ではない」なのだ。仕事柄、部下には流暢な英語を喋る人は数え切れないくらいいるわけで、会社として英語を学習し習得することを奨励しているのは当然であるが、そのトップたる人間が、英語は得意でないと言っているわけだ。それが何年前のことかは定かには分からないが、おそらく10年近く前のことであろう。私より10歳年上であるから、今は既にリタイアされているだろうが、その時には私の年と同じであったわけだが、部下に奨励している手前ご自分も勉強しておられると書いてあった。仕事柄、海外要人とパーティーなどで相手をすることがあるのだが、時にブロークンな英語で、誤解を招き、あわてたと言うことも書いてあった。その乏しい英語力が、後で相手に伝わり、帰って和やかに事が進んだと言うことらしいが、やっぱり言い訳がましく、なお一層勉強に精を出すことにしたと結んでおられた。数ヶ月前、楽天の三木谷社長はインタビューで「英語が出来ない役員は2年後には首にします」といっていたという。日本企業も「ガラパゴス化」を脱し、グローバルに勝ち残っていく為には英語を話せなくてどうするのだということだ。世界共通語として、その昔「エスペラント語」なるものを人為的に作成して公用語としようとする試みがあったが、結局は、どうにもならず、今、世界では、英語が実質的には公用語として通じているわけである。私が渡航経験したのは、英語圏もあるが、そうでない国もあった。フィリピンでは、公用語として話されているので、英語は当然であるし、その後のジンバブウェでも旧宗主国がイギリスであったために、応対する相手に英語を話さない人はいなかった。若い頃に行ったノルウェーでも、タクシーの運転手に英語が通じたのには感動したが、サウジアラビアでは一体どうなるのかと内心不安であった。何しろ、アメリカ資本主義、帝国主義を嫌う国だからである。しかし、そこで働く、フィリピン人やインド人が英語を話すのは分かるとして、ヨルダン人やパレスチナ人等中東の人も英語を話すのである。とは言っても、タクシーに一人で乗るためには、ホテル(フンドック)や空港(マタール)などといった言葉を知らなくては乗れない。中東のある程度の知識レベルの人が英語を話すということには、少なからずビックリした。イギリス辺りと国を掛けた戦いが、有ったことを考えると、敵国を知らずばどうにもならないと言うことなのかも知れない。一方の日本は、英語は敵性言語故使用はまかり成らぬと、ベースボールを「野球」といったのはまだよいが、ストライクを「良し」などと言う辺たりは、その後の日本人の英語下手を助長していたかのようでおかしな気がする。やっかいなのは、中国である、中華思想云々を言う前に、一般人は全く英語をしゃべれなく、タクシーで行き先を言うのも大変であった。中国ならまだ筆談が可能である。最近は北京オリンピックや、上海万博をするに当たって、彼らも仕方なく英語を猛勉強していることであろう。話は戻るが、前出の全日空では入社時には、TOEIC(英語検定試験)のスコアが直接合否に影響することはないとのことだが、総合職で700点、客室乗務員や特定地上職で600点くらいの英語力を必要としているようである。どこだったか、その他の企業でも、課長昇格には何点、部長になるためには何点とクリアしなければならない英語力があるのだという。グローバル化を目指す日本としては、既に遅きに失した感があるが、その点では、韓国や、中国エリート達の語学習得力には舌を巻く。英語によく似た、アルファベットをベースにした西欧諸国なら、「彼らは発音も単語も似ているから」と言い訳がましく言えるが、中国や韓国では、日本と同じく独自の文字の国であるからだ。日本の英語教育云々が言われて久しいが、問題は、やはり、一般の日本人が海外に出て行かないことが最大の問題だろうと思う。島国で、自国の技術力が褒めそやされ、自国にいて事が足りるといった時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているわけで、世界に出て、丁々発止と自らの利益を求める発言をしなければならない時、おじおじしていては勤まらないだろう。石川遼も然りだ、あれは、スピードラーニングの宣伝かも知れないが、彼とて、せっぱ詰まれば英語で十分に意思の疎通は図れるわけだ。元々素養があったのかも知れないが、明らかに大学を出て、何年も英語を使ってきた人と比べると経験も浅いにも拘わらずである。私の場合もTOEICが何点かと言われれば、全く自信がないのだが、それでも、相手の言っていることを何とか聞き分けることが出来、自分の主張を言うことも出来るようにはなった。サウジアラビアで、現地の大学生との会話だが、彼はもちろんアラビア語と英語、私は日本語と英語で、接点は英語しかないわけで、会話の初めは、癖もあり少し理解しずらかったが、話していく内に、彼の言うことが分かり、私の言うことが分かると言ったところまで通じ合うことが出来た。要は慣れの問題であると私は考えている。それと、後は絶体絶命の度胸というものかも知れない。右を見ても左を見ても自分以外には日本語を喋る人は皆無である中に、アラビア語が分からないのだから必死に英語を喋らざるを得ないのである。そう言った、なりふり構わない発音は、やがて彼らに通じると思う。というのが、そう言った意味での我々日本人が習ってきたクイーンズ・イングリッシュは、結構まともな発音を聞かされてきていると言うことだ。海外パック旅行で、日本人ガイドの旗の下に参集するのも良いが、自由時間に一歩踏み出して、自分で外国人と接するのもまた良いのかも知れない。
2010.08.25
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どこからがアルツハイマー病というのか知らないが、物忘れが起こり始めるとアルツハイマー病(AD)の初期段階だとも言われている。この初期段階で早期に見分ける方法を鳥取大の研究グループが開発したという。アルツハイマー病に根本的な治療方法は未だ無いらしいが、投薬や、非薬物療法で病気の進行を食い止めることが出来るのだという。新聞説明によると、アルツハイマー病では、症状が目立たないごく早期から嗅覚異常が表れるのだそうだ。ヒノキやメントールなどのにおい12種類をかぎ分けるテストで、5種類以下しかかぎ分けられなかった人を「異常有り」と認定したというのである。従来の簡易認知症テストでは分からなかった早期認知症患者の85%が検出可能になったという。これが安価で出来るようになると、聴力検査や、視力検査などと共に、容易に検査が可能になる。通常は、アルツハイマー病=認知症≒痴呆症といった認識でいたのだが、最近では、若年性のアルツハイマー病というのもあるらしいから始末に悪い。むしろ、アルツハイマー病は65歳未満の人に起こり、老年痴呆は65歳以降に発病すると区別して考えられていたが、30年ほど前から、若くして起こるアルツハイマー病と高齢で発病する老年痴呆が似た症状や脳の病的な変化を示すことから、両者をいっしょにしてアルツハイマー病と呼ぶようになったということだ。日本人の3大疾病といわれるがん、心臓病、脳卒中も困りものだが、加齢による認知症(痴呆)のアルツハイマー病もやっかいである。顔は分かるのに名前が出てこないとか、テレビでよく見るタレントの名前を思い出せないとか、別の部屋に行って、何をしに来たのか分からなくなり、元の部屋に戻って考えたら思い出す、漢字を忘れて辞書を引く、物をどこに置いたか忘れた、昼ご飯に何を食べたか思い出さない等という事を私も何度か経験したが、知っているのにその記憶が取りだしにくいのは加齢に伴う良性の物忘れでありまだ救いがあるというのだ。アルツハイマー病は、こういった初期症状から始まるのだそうだが、一寸したヒントを貰うと思い出したり出来る間は、まだ笑って済ませる段階かも知れない。しかし、この軽度認知障害(MCI)時点での対処次第によっては、アルツハイマーに移行する人と、アルツハイマーにならない人に別れるのだそうだ。しかしこの症状は急変するわけではなく、徐々に進行していくものだから、自分は元より周りにも気づかれないと言うことが多い。・短気になる。些細なことでもすぐに怒るようになる。 ・物をどこに置いたか忘れることが多くなる。 ・相手の話を聞いている時に、同時に自分が言うことを考えることが出来なくなる。・他人との会話が上手く行かない。 ・好きな事でも関心がなくなる。・日課をしなくなる。・元気が無く憂鬱な感じになる。・あちこち身体の不調を訴える。・料理を作るのが面倒になったり、品数が減る。 ・お金や物品を盗まれたと言うようになる。等は危険信号といわれる。そして、最後は、家族に向かって「あんた誰?」という風になればもう手遅れなのであろう。アルツハイマー病を発病した場合、自分自身を自覚している期間はおよそ10年程度と言われる。まあ、本格発症の潜伏期間というものであろうか、結構長い期間である。その間にじんわりと進行してしまうわけだから、一寸した兆候でも、早めに注意をしておく必要があるのかも知れない。しかし、こういった病気はなかなか自己申告が出来ない。そして、自覚期間が過ぎた場合は、もう自分では如何ともし難くなっているわけである。当の本人は、分からなくなればそれまでで、後は周りの者が迷惑すると言うことになるのだが、正常な時点で、アルツハイマーにかかった人(もちろんその人は自覚が無くなっている)を見た時、自分自身が、その人を見るように、他人も罹病した自分を見るのだろうなという感覚が、耐えられない気分にさせるのである。2年前の2008年、国内の認知症患者数の推計グラフが出ていたが、当時約250万人だった患者数は2025年にはほぼ倍の400万人を超える見通しだと述べ、その伸び率は、それ以降も続くという風に見られていた。また別の資料によると、2007年には世界のアルツハイマー病患者は2660万人もいると書かれており、2050年には1億人を超えるかもしれないという新しい分析結果が、アメリカの国際学会で発表されている。日本の厚労省の推計を単純外挿すると、2050年の日本人のアルツハイマー患者数は約600万人に届こうかという勢いである。日本が極度な高齢化社会であるとはいえ、世界の人口比率では2%弱であるにも拘わらず、アルツハイマー患者比率は、何と6%にもなる計算である。高血圧だとかメタボなどの生活習慣病も、アルツハイマーにとっては良くないとされている。アルツハイマー病は、βアミロイドという蛋白質が脳に沈着する(老人斑)ことで起きるとされているが、アルツハイマー病でない人でも、この沈着は見られるとのことであるから、今ひとつ確かなことは分からないのだという。また、アルミニウムがアルツハイマーにとって良くないのだとも言われているようだが、これもはっきりしない。我々は何もアルミニウムをかじるわけでもないが、この、地表で3番目に多い元素は土や岩石に多く含まれているが、自然の状態では中性に保たれていて水に溶けないのだが、酸性雨によって土壌が酸性化されるとアルミはイオン化し、水に溶けてしまうということだ。大気汚染のひどい中国大陸方面の汚染された黄砂により日本で酸性雨が降り、その酸により、土壌などに含まれるアルミニウムが溶かされて、 他の物質と反応しやすいイオンの形になって、アルミニウムイオンが野菜などの食物に吸収され、食べた人の中に入ってしまうという循環になる。こういったこともアルツハイマー病の遠因になっているのかと考えると、おちおち外出さえ出来なくなってしまう。
2010.08.24
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そう疑問が出るくらいに暑い日がいつ迄も続く。今や、真夏日(30℃以上)は当たり前、その上の猛暑日(35℃以上)が、連続何日と各地で記録を更新しているようだ。これでは、独居老人でなくてもクーラーのない部屋にいたらひからびてしまうだろう。クーラーを30℃と高温に設定していても、部屋の中にいる限りは凌げる。部屋の熱気が、室外機を通じてベランダに排出されているわけだ。洗濯物を取り込む時などにドアを開けると「む!」と熱気が迫ってくる。流石に暑い。週間天気予報を見ても、月末まで猛暑日でない日は、1日しかないようだ。最低気温が27℃を下らないのだから、夜寝苦しいのも道理である。25℃を超える夜は熱帯夜というくらいだから、ジャングルで、寝ているようなものなのかも知れない。かつて1960年代半ばに三種の神器の1つとされ、最も普及が後回しになったクーラーも北海道や、一部を除いては、殆どの家庭に行き渡っているだろう。当時は普及率70%を必需品の目安としていたようで、15年くらい前は世の中がそれ程暑くなかったのかも知れず、クーラーの普及率は、70%にはなっていなかったのだろう、埼玉県に住む高齢者が猛暑の中、担当ケースワーカーにクーラーはぜいたく品だとして撤去され、その高齢者は脱水症状で入院した事件があったようだ。お役所仕事といえばそれまでだが、臨機応変に出来ないのが、また役人である。逆の側から言えば、生活保護のお金は税金から出ているわけだから血税の無駄使いをさせないという事からは理にかなっていると言うのがその根拠だろう。データによると、地球表層気温変化は19世紀後半以降30年くらいの間に約0.6℃上昇しているそうだ。どのようなデータを見ても地球は間違いなく温度が上昇している。一方で、過去数百万年は、4万年から10万年の周期で多くの氷期が起こり、最近の氷期では年平均気温で7-8℃以上低下したというデータもあるのだそうだ。地質時代という目で見ると、10℃程度の寒冷期は過去4-5回起こっている。この地球全球が凍結することが現にあったという研究結果なのである。知識としてそれらを理解することは出来ても、実感としてはなかなか受け入れがたい。私などは、クーラーをがんがんに効かせている部屋を出ると、タオルが2-3本必要なくらいに汗をかく。周りは1戸建ての家もあるが、マンションも多い。その一つ一つの窓にクーラーの室外機が見える。そこからは、熱交換して暖まった熱気が窓外へと吹き出しているのである。地球が、というか、戸外が暖まらない方が不思議なくらいに、みんな共同して、大型ドライヤーで地球を熱しているわけだ。車に乗れば乗ったで、クーラーを思いっきり効かせながら、排気ガスをまき散らして、みんなで協力して地球を暖めているわけだ。そして、店にはいると、これまた異常に涼しくしてある。店内が涼しいというか、寒ければ寒いほど、交換された暖かい空気は、室外に放出されているわけだ。砂漠の国サウジアラビアや、ドバイなどでは、オイルの値段が自前だけに安く、外は猛烈に暑いが、室内が凍るほど寒く温度設定してある。たった、数百メートルを移動するにも彼らは歩くことはしない。すべて車での移動なのである。連れ合いと、病院に姉を見舞ったが、その時の会話で、「今年は冬が来るのだろうか?」ということだった。昔流に言えば、今日は「処暑」と言うことで、「暑気退かんとする」ということなのだが、今週末でも「猛暑」との予想もあるくらいだから、気象予報士も、どういって解説したらいいのか迷っているようだ。あの寒い、雪の冬が世の中にあるのかと思うほどに暑いのである。中東やアフリカ、また東南アジアなどでは、雨季と乾季があるだけで、四季というものがない。従って、俳句などと言ったものはないわけで、暑いか、雨が降るかの2通りしかないのが普通である。やがて、日本でも、そんな時が来るのかも知れないと思わせるような気候なのである。この世界の異常気象は「ロシアなどの干ばつ被害」や、「パキスタンの大洪水」といった、天変地異を誘発している。どこまで戻ればその因果関係が分かるのか知らないが、天変地異は、起こり続けている。「中国南部、広西チワン族自治区での豪雨」、「ブラジル北東部での豪雨と洪水」、「日本の西部、九州・東京等の集中豪雨」、北半球の熱波に反する「南米、パラグアイやアルゼンチン等での大寒波」等々枚挙にいとまがないくらいこのところの地球は異常事態を示している。地球のエネルギー収支はバランスしているのだという。入ってくる(得る)エネルギーの総量はおよそ174ペタワット(PW=17京4000兆ワット)であり、そのエネルギーの大半は太陽による熱の放射であるという。得るエネルギーと失うエネルギーのバランスが明らかに入超状態なのであろう。南米当たりで大寒波となって収支をバランスしようとしても、追いつかないと言ったところであろうか。太陽照度の変化はサインカーブ状であり、その周期は10年前後という記録もある。その震幅差は小さいとは言いながら、過去1982年1992年2002年と10年おきに照射強度は頂点に達している。ということは、今年よりもまだ再来年辺りの方が、更に異常気象が起こる可能性が高いと言うことになる。人間は、人により多少の違いはあるが、平熱はほぼ37℃以下であり、この値をほんの少しでも超えると、身体の具合がおかしくなり、病気になりかねないわけだ。2004年にも「今年の夏の猛暑は記録的」というような記事が載っていた。この時も、「欧州熱波」、「インド・バングラディシュ大雨」、「日本の真夏日最多」そして「ペルー寒波」である。異様に酷似している。その時、示された1900年から2100年までの日本の真夏日の実績と予測(6-8月)をグラフにした図があったが、その図によると、1990年くらいまでは平均気温は22-23℃であったものが、1900年を境に毎年一時曲線のように上昇を続けると予想されているのである。そして、2010年(今年)頃は平均気温が27℃程度と予測されているのである。今年に限っては、6-8月の平均気温がどれだけだったのかはまだ分からないが、感覚的には、6年前に予想されていた温度よりも更に高い温度になるのではないかという感じである。今までは、日本には確実に秋が来、冬がやってきて、雪も積もった。今年は、本当に冬が来るのだろうかというのが、戸外を歩いた今日の実感である。
2010.08.23
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連れ合い一家は、毎年恒例の里帰り墓参に出かけた。私などは最近まで、ついぞ経験しなかった、里帰りであり墓参である。私には、昔から、お盆などという言葉は、余り関係のない言葉で、民族の大移動も殆ど経験がない。お盆というのは、正式には「盂蘭盆会」といい、先祖の精霊を迎え追善の供養をする期間だということである。通常は8月の13日から16日までの4日間を指し、お盆の入りの13日の夕方に迎え火を焚き、先祖の精霊を迎えてお参りし、そして、16日の夕方、送り火を焚き、先祖に帰って頂くということになるのだそうだ。お迎えの方は、余り馴染みがないが、送る方では、「京都五山の送り火」がつとに有名で、今や先祖の精霊を送ると意味を逸脱して観光化してしまっているくらいだ。精霊は、通常は「浄土」に居られると言うことを「歎異抄」では言っている。他の宗派のことは勉強していないので、何とも言えないが、先ずお釈迦様がベースであるから同じようなところに居られるのであろう。しかし、生前悪の限りを尽くした、人間は、地獄即ち「穢土」に居るのであろうか、その者達もやはり、この時期に迎え火により帰ってくるのであろうか。といった話は別にして、先祖の墓に参るのは、この時期がよいとされているわけだ。日本人ばかりではないだろうが、私が知る諸外国と比べて日本はとにかく祭り好きの国民性である。私が調べた限りでも、有名なものだけでも、全国に1000くらいの祭りが年中何処かで行われているという感じである。もちろん、村の、また町内会の祭りといったものを拾い上げれば、まだまだその数は増えるであろう。因みに、昨夜町内を歩いていると、2個所で、提灯がぶら下がり、歩行者天国になっていた。調べた範囲で言えば、8月(葉月)の祭りが一番多い、100を優に超える数が、全国津津浦々で行われている。これに次ぐのが、1月(睦月)である。暑い時と寒い時に祭りが多いのも何かのいわれがあるのであろう。極端に少ないのが5月(皐月)と6月(水無月)である。特に6月は祭りというものは殆ど行われないようだ。さて墓参りだが、ひちめんどくさく言うと、宗派によって、お線香の上げ方や名号の唱え方、合掌の仕方などいろいろと細かく違うらしい。例えば、お線香の立て方にしても、天台宗・真言宗では3本立て、臨済宗・曹洞宗などでは1本または 2本立て、浄土真宗では1本を折って横にするなどである。 また、名号の唱え方も御本尊が違えば異なるわけで、天台宗や浄土宗・浄土真宗では「南無阿弥陀仏」でよいが真言宗では「南無大師遍照金剛」、臨済宗・曹洞宗などでは「南無釈迦牟尼仏」と唱え、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」ということになるわけだ。墓参りすると、最近は、宗派を問わず弔うのか、墓石には「○○家の墓」とか「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」が混在している。以前墓を移す件で、寺に相談に行ったところ、墓地は、借用しているのであって、通常の住家の土地なら、権利を買えば、引っ越した跡地は何らかの形で売れるわけだが、墓地の場合は、墓石の撤去の費用が要る上に、墓地の代金は帰ってこないので、全くの持ち出しだと言うことである。こんなところも、寺が商業ベース化していると考えざるを得ない。坊主はあくまでも丸儲けなのである。細かく言えば、数珠なども、宗派によって形や扱い方は違うようだが、宗派でも使える「八宗用」と呼ばれる数珠があるのだそうだ。合掌の仕方でも、天台宗や真言宗では、十二種類の合掌の仕方があるそうでなかなか大変である。そのなかでも金剛(帰命)合掌といって、両手の指をそれぞれの間に、交互にぴったりと組み合わせる合掌の仕方が多く行われますとの説明もあったが、私が見た限りは、そんな人は余り見たことがない。両方の手のひらと指を顔や胸の前で合わせるのだが、右手が仏様で、左手が自分だと言う意味もあるらしい。全員がムスリムであるサウジアラビアでは日に5回のお祈り(サラー)を今でも行っているが、モスクに行けない時などは、自前の座布団ぐらいの絨毯を持ち出して、立ったりひざまずいたりを何度か繰り返すのである。「ビスミィンラー・アラッハマーン・アラッヒーム ァッハンドレラ・ァッラップアラッミーン・アラッヒマーン・アラッヒーム・・・」等とやっているわけである。イスラム教には、スンニ派とシーア派があるが、お祈りの仕方や唱える文句はどうなのか迄は知らない。いずれにしても「アッラーハ、アクバル(神は偉大なり)」という事に変わりはないであろう。日本のようにいろいろな新興宗教があるようだが、どこがどう違うのかまでは分からない。話は元に戻るが、浄土から年に1回帰るという先祖の精霊は、墓がなければ帰れないというわけでもあるまいと思う。仏教は唯物教ではないとの説もあるが、仏像を作り、これを恭しく拝んでいるので、唯物教でないとは言い難いと思う。キリスト教も、十字架と、磔刑されたキリストを拝んでいるわけで、唯物教といえるのだろう。イスラム教は、これら偶像を一切禁止していて、その為に、文化的遺産は何も残っていないというのが本当らしい。墓地に墓石も目印らしいものは何もない。私が、ドバイで住んでいた、コンドミニアムタイプのホテルの前も墓地であったが、荒れた更地以外の何物でもなかった。随所にあるモスクは、外観が豪華なものもたくさんあるが、中は一切偶像的なものはないようだ。モスクは、祈りを捧げる為の場所といったところであろうか。私が言いたいのは、先祖供養のために墓があるから墓参りが必要なのであって、墓がなければお参りしないからその為にあるのかどうかということである。最近「マイラー」という昔の著名人の墓を参って歩く女性が沢山いるというのだ。世の中は変わったものだと思った。先祖が何の誰部衛であったと言うことを知らない(知ったとしても名のある者ではないが)我々にとって、「○○院○○大居士」などと今更書き付けられても、分不相応で、返って帰りづらい気がする。先祖の精霊は、里帰りしなくても、居ながらにして自分の精神に帰ってくれる。それで良いと思うのだが・・・。連れ合い一家は、子供連れで、渋滞の時期をずらして高速道路を使って長崎まで往復した。片道半日以上の大仕事であり、幸いなことに、高速道路料金が1000円上限とやらの一環で、片道1万5000円はかかるところを1750円だったという。それはそれで良かったが、随分と疲れたことであろう。
2010.08.22
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今日は、連れ合いの学校長が呼びかけてくれたゴルフに出かけた。生憎、連れ合いは、法事のため不参加となり、私一人で行くことになった。代わりに校長の息子さんが参加するという。若いだけに豪快に飛ばすと言うことを聞いていた。裏山のベニーカントリーなので、スタート時間は7時35分と早い。朝早いのは慣れているから問題はないのだが、10日ほど前の枚方では酷暑のため、目の前が真っ白になるというおそらく熱中症一歩手前までを経験していたので、暑さだけが心配であった。17,18の両日で全国の熱中症患者が急増し、全国の患者数は1226人にのぼるという。高校時代の友人夫妻と、つい3日前にラウンドの約束をしていたが、あまりの猛暑日の連続に、もう少し日延べをしないかという提案があったばかりだ。一も二もなく賛同して、9月以降という事にしたが、今回は予定通り行うことになった。一縷の望みは、天気が一時曇りとあることと、山の上なので涼しいとはいかないまでも気温もゆるんでいるだろうとの思いだった。山田太郎の「新聞少年」の歌に「雨や嵐にや慣れたけど、やっぱり夜明けは眠たいなァ」というのがあるが、私の場合のゴルフは、贅沢な遊びであるので、朝が眠たいなどと思ったことはないが、逆に、雨や嵐にはとても慣れない。そんなわけで、朝の目覚ましは何時も不要である。目覚ましが鳴る前に、起きて、念のために掛けておいた目覚ましを止めるというのが、ゴルフに限らず朝の1番の仕事である。歳を取ったからと言う見方もあるかも知れないが、若い頃からそうであった。しかし、子供が明日の遠足のために寝られないというわけでもない。短時間でぐっすりと寝られる、ノンレム睡眠状態であると考えている。いわゆるぐっすり寝ている状態であり、眠りに落ちた直後の3時間にノンレム睡眠は集中的に発生するということで正にこれであろうと思っているわけだ。このノンレム睡眠ができるのは、大脳が発達した哺乳類と鳥類だけで、魚類、両生類、爬虫類などはノンレム睡眠ができないらしい。ともかくも、ぐっすり寝て、6:00起き、6:30出発を目論んでいたが、予定より早く出かけることにした。前回の枚方でも、驚異的なパット数(多い方)を叩いたので、パターの練習をしようというつもりもあった。朝が早いので、裏山の一部細い道も対向車もなくゴルフ場にたどり着いた。もちろんパートナー達はまだ来ていないようだ。練習場で10球程度ドライバーを打ってから、パター練習場に行くと、コンペでもするのであろうか、結構大勢の人が練習をしていた。前の枚方で9回の1パットでラウンドした友人に教えられたように、ホールから5歩離れて、上り下り、とその直角方向などから、力加減と曲がりの具合を感じ取ろうとした。周りの人達も、思い思いにカップを狙うが、よく入る人には、その連れの人が、ここで運を使い果たしたら本番で残らないとか軽口を叩いていた。やはりこの人もパットは運だと感じているのかと一寸おかしくなった。昔、ゴルフを始めた頃に、慶大でゴルフ部だった友人が「Driver is the show. Patter is money」といっていたのを思い出す。ドライバーは華やかなショウのようなものだが、パターはお金になる。とでも言うのか、如何にドライバーで、200ヤード(プロなら300ヤード以上だろうが)を超えたからといって、グリーン上のパターで、数センチを逃せば、1打は1打であり、華やかで、豪快なロングドライブもパットの出来如何では帳消しになると言うことである。そんなことを考えていると、パートナーの先生達と、息子さんが現れた。アウトからのスタートで、先に打った校長さんは左に引っかけて、不本意な出足であり、以降ドライバーは湿りがちであったようだ。息子さんは、178cmの長身を活かした大きなフォームで、ゆったりとスウィングして、距離も出るようであった。女性の先生も、ドライバーはかなり安定して、巧くなられているようだ。私は、2打目があわやOBかというのを逃れたが、アプローチで、グリーンをオーバーし、結局はトリプルスタートだった。校長先生は、グリーンに上がってからは、中距離のパターを1パットで入れるなど、パターには冴えがあった。しかし、ドライバーが荒れていたので、やはりゴルフは総合芸術であるという感じだった。2ホールは打ち降ろしショートで、非力な私は5Iで打ったが、若い息子は7Iだという。この差は一体何なのだと何時も愕然となるが、私のボールはグリーン奥にオンしたし、息子さんのは一寸ショートだった。ということから6Iでも良かったと言うことなのだろう。しかし、ここで、なんと言うことか4パットをしでかした。校長先生と来るとパター数が増えることが多い。3,4ホールは2打目のフェアウェイウッドも先ずまずの当たりで、ボギーであったが、このゴルフ場きっての眺望の良い少し長めの5番のショートホールでは、グリーンに少し届かず、乗せた場所が下りのパットを残し、ここでも3パットしてしまった。校長親子は、揃ってOBでプレ4からのプレーだった。6,8番のロングホールでは、アプローチまではそこそこに進んだが、アプローチで、トップ気味のグリーンオーバーでチョロチョロし、また、8番は、よもやの池に直撃で入れるなど、ロングホールでの利点を生かし切れなかったのは残念である。前半最終の9番ホールでは3オンをグリーンオーバーで逃し、またまた3パットと前半は3パット以上が3ホールもあった。ホールアウトするなり、校長先生は、今日の前半はなかったことにしようと一人で呟いていた。そのままクラブハウスに行くと前が開いているという、ではとスループレーすることになった。10:10のインスタートである。10番ホールはドライバーを左に引っかけたものの、2打目をクリーンにショットしたが、事もあろうに右の連続したガードバンカーの手前に掴まり、そこからまた前方のバンカーを数センチ足らずで越えられないといった出足であった。しかしパットは1つで沈めダボで処理できた。これ以降も、前半は1回もなかった1パットが4回達成できて、2回の3パットを帳消しにしてくれた。やはり、Patter is moneyだな等と考えてしまった。11番のロングを惜しくもボギーにする等したが、比較的相性の良い13番の長めの超打ち下ろしショートホールでは、当たりが悪く、少し届かなかった上、更に3パットもしてしまった。ところが15番の谷越えショートでは、一寸大きめのクラブを持ち、これも一寸当たりが悪かったせいもあり、グリーン手前で跳ね、ピン側に付いたバーディーとなった。考えてみると、クリーンに当たっていたらグリーンをオーバーしてしまったかも知れず、1番手、短いクラブの方が正解であったと感じた。16番右ドッグレッグのグリーン前に大きな池がある名物ロングホールは、3打目勝負なのだが、ここで肝心の3打目をこの日初めてダフってしまうという悲惨さで、前方池の存在が如何に圧迫しているかがよく分かる。おまけに3パットと、良くないことは同時に起こる。精神面の弱さを感じる時である。17番は1パットのパー、最終18番は若干のアゲインストの中、クリーンにフェアウェイど真ん中に落ちた。しかしこれが災いして、前方フェアウェイセンターの高い木のてっぺんの枝をかすめて、本来届くはずの良いショットが、グリーン手前のラフに落ちた。アプローチもラフに喰われて乗らず、わずかに1パットのダボ終了になってしまった。校長先生は、後半も終わって、今日のゴルフはなかったことにしようと言っていたが、私のバーディーや、16番での女性先生のチップインパーの記録だけは後世に伝えて欲しいと笑いながら抗議したものだ。校長の子息は、荒削りで、距離は出るが、方向が時々右左してしまうこともあるが、ショートアプローチも、柔らかくタッチできるなど経験を積めば、巧くなるだろうと思った。
2010.08.21
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9年ほど前の2001年の日経新聞の経済教室の欄に「中国と競う」という記事が7回に亘って掲載された。ほぼ一昔前のことだが、現在の中国の躍進を当時はどう見ていたのかと古い記事を紐解いてみた。2001年の暮れに中国はWTOに加盟した。世界中は、中国のWTO加盟で、中国は変わるだろうと期待していたと思うし、少なくとも世界標準を受け入れて、身勝手な行動は慎むだろうと思ったはずである。第1回のファーストリテイリングの柳井社長は、1.中国には低コストの生産力、日本には市場、資本、技術という強みがあると述べ、2.対中ビジネスで成功するには、市場経済をわきまえたパートナー選びだと言い、3.日本は、産業空洞化を埋めるため知的集約産業を選択すべきだ。とした。中国は既に世界の工場となっており、世界一の生産量を達成する潜在力を秘めていると見ていた。この結果は、今日既に達成され、10年を待たずして、中国はGDPで世界のNo2になってしまった。ファーストリテイリングはユニクロのブランドで爆発的に業績を伸ばし、日本に於いても多数の店舗を構えるまでになり、且つブランドとしての評価も固まってきている。ユニクロ製品の9割は中国産で、その企画は日本で行い、日本で品質管理をするというものだ。即ち工賃の安さで稼ぐには、中国進出が有利であり、それで日本産業が空洞化するなら、その穴埋めとして知的集約産業をやればいいと言うことである。簡単に知的集約産業と言うが、具体的な例は極めて曖昧模糊としている。企画や管理手法は、やがて中国でも独自に出来る時が来るであろうし、安い労働力も、徐々に水準は高くなっていくのは道理である。それでは、日本は、もっとクリエイティブなことを追求しかねればならないと言うことになるが、果たして、今の日本にその力はあるだろうかということになる。第2回目の当時の中国大使武大偉は、先ず第一に計画経済を無くし、社会主義市場経済システムの第一歩を作り上げたと言い、第二に対外開放のため深せんなど14都市を経済特区化した。改革と解放により、GDPは過去22年間9.5%を維持しているという。国内インフラ整備、国民の生活向上との題目であった。確かにこの点では、現在も中国に学ばねばならないところはあるが、この発展の前提は、国内の貧困民族の犠牲の上に立ったものであることを忘れてはいけない。この時点で、武大偉はこんな追従的お世辞を言っている。「米国経済を太陽に例えれば、日本経済は月、中国はまだ星に過ぎない。星が月や太陽になるには更に数十年がかかる」。10年を待たずして、星は月を抜き去り、太陽と肩を並べようとしている。とう(登偏にこざと)小平が打ち出した、三段階成長も着々と実を結び、第三次産業の割合を増加するという目標を掲げている。即ち、1.高度生産技術の発展、2.交通・資源のインフラ整備、3.西部大開発(西電東送・西気東輸)、4.農村の発展、5.教育の充実、6.生活環境の整備である。これらがどれほどの成果を上げているかは知らないが、3.と4.では明らかに矛盾しているように思う。西、即ち、資源が眠る少数民族や農村部のエネルギーを吸い上げて、東海岸を発展させるという構想なのである。今その結果は如実に表れている。第3回のマブチモーター西村社長は中国の作業員の平均月収が約15円で、且つ勤務態度が優秀であるという。品質管理や、コスト低減のインセンティブもあるというのだ。何が彼らを安い賃金で耐えさせているかを考えると、答えは歴然であるのに、目先のことにのみ言及し、逆に日本企業が何故競争力を失ったかを顧みよと言っているのは納得がいかない。現在中国企業では自殺が多発するほど過酷な状態にあったり、賃上げのため、本来許されないはずの労働争議がまかり通ったりしていることを考えると、コストの安さ、即ち低賃金は一過性のものでしかないと言うことである。第4回目のPEC産業センターの山田所長は、日本人の勤勉さが、高所得を生み、裕福になった人達は、工場で働くことに価値を見いださなくなってしまい、マニュアル化した作業にだけしか対応できないようになってしまったというのである。一人一人の工夫が、大切であり、考える技術者が求められるとしている。この意味でも、中国の人口は13億人で、日本の10倍の人がいるわけだ。簡単な理論では律しきれないかも知れないが、馬鹿も十倍居れば利口で勤勉な者も10倍居ると云うことである。その意味でも、中国は恐ろしい国なのである。第5回目のCSFSの陶冬チーフ・アジア・エコノミストはアメリカや日本が製造部門を安価な中国にアウトソーシングするけれど、全てがそうなるのかというと、弱点もあるというのだ。まず、資本、技術、ノウハウを海外に頼っているという点であり、第二に利益率が極めて低いと言うことを挙げている。アメリカの利益率の1/4程度でしかないというのだ。三番目はブランドがないというのだ。昔は安かろう、悪かろうが、日本の代名詞のようであったが、今はそれが中国にあてはまる。「中国産?」と胡散臭くならないようにするには、ただ中国人自身が努力することが必要であり、ここが国民性という点に帰着するのではないだろうか。第6回目の一橋大学の関教授は中小企業こそ中国に進出せよと言っていた。大学のゼミの学生や、東京都の中小企業経営者を中国に連れて行った時の中国の熱気を語っている。そこでは内陸部から出てきた安い賃金の女性が喜々として働いているというのだ。何故にその奥に潜むものを感じられなかったのか不思議だが、彼女たちは、田舎にいては、おそらく1円にもならない稼ぎであるから、安い賃金でも喜々として働いているわけである。痩せた農地の生産効率を2倍にするのは極めて難しいが、第三次産業ならそれは簡単なことであろう。関は中小企業の経営者に座して死を待つよりもとにかく出て行けと言い、それが駄目なら、国内では際だった特化やハイテク化が不可欠だと説いている。しかし、闇雲に中国に進出したとして、賃金コストが現状で止まるとは言えず、その時に如何にするのかの担保が全く示されていない。学者の言うことの限界を感じる。第7回目の日経新聞社の総括では、中国の中核を成す製造業は繊維や雑貨品に止まり、その他の根幹は外資系企業にあるといっていた。しかしながら、鉄鋼におけるハイテク技術の供与や、造船などでも、現地製造のために必然的に行われる技術供与などを得て、中国は、製造業の範囲を、繊維や雑貨に止まらず広げていっている。日本が獲得し磨き上げた技術ノウハウを、簡単に中国に渡してしまい、知的財産の重要性を理解し得ない中国にあっては、そのままブーメラン式に、彼らの輸出品を日本が買わざるを得ないという結果になる。2001-02年頃内外の著者がいろいろな標題で「中国」のことを書いた本を数冊読んだが、「嘘とごまかしの中国」とか、「中国で食い物にされないために」といった言葉が踊っていた。今しかし、中国は現実に日本を抜いて、世界の第2位の位置に座ろうとしている。何でも有りの中国故、驚異もまたひとしおといった感じである。
2010.08.20
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「人間五十年、外天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか」織田信長が、出陣の時にこの舞を舞ったと言うことは良く聞かされている。もとは、謡曲「敦盛」ではなく、幸若舞の「敦盛」の一節であるということだが、その差は私には分からない。織田信長は明智光秀の謀反により本能寺で、48歳の生涯を遂げている。その頃に比べ、現在の平均寿命が男78.5歳 女85.5歳と極端に長くなっている。世界の平均寿命でさえも1950―55年の46歳から2000―05年は64歳に延びたといい、2045―50年ではさらに延びて75歳に達すると予測されている。平均余命は、平均寿命とは違うのだが、現在の数字を使って単純に自分の余命を平均的に見た時、後12年余という事になる。尤も昨今の100歳以上の不明老人もこの平均寿命の中に算入されているのであろうし、その対象を70歳くらいに下げると、もっと不明老人は増えて、日本の長寿国神話は崩れるであろうが、それはさておき、私自身のこれからの余命である12年余を如何に生きるかということを考えてみた。現在放映されている、「龍馬伝」の坂本龍馬は、わずか31歳で明治維新への扉を開く大仕事を成して没している。維新の三傑と呼ばれた西郷隆盛は49歳、桂小五郎(木戸孝允)44歳、大久保利通は47歳と皆若くして偉業を為しこの世を去っているが、上記の人々は、皆、戦乱、暗殺によって、平均寿命を待たずに死んでいったことになるわけだ。戦後65年、幸いなことに日本の国には、直接関わる戦争が無く過ぎており、平均寿命を全うできる環境にある。一方、世界に目を向けると、各地で、民族紛争や、宗教に基づく戦乱が多発しているのは周知の通りである。平均寿命の考え方の中には老衰による自然死以外の要素も考慮されているわけだが、期せずして死ぬ要素には、交通事故、地震などの天災、火事、無差別殺人、その他の突発事故などがあるわけだが、現在何よりも大きな問題として、毎年3万人を下らない自殺死が挙げられている。人口10万人当たりの死亡数で言えば、交通事故が9人、地震が5人、火事が1.7人、他殺が0.52人ということらしいが、これらに比べ自殺は24人と群を抜いて多いことになっている。そんな住みにくい日本にしたのは一体誰なのだろうか。戦後日本の復興に向け舵取りをしてきた、政治家や、官僚はもちろんだが、我々自身も、ただ高度成長こそがわが使命とばかりに猪突猛進してきたことを振り返ってみる。渦中にいては、そのことが使命であり、他の考えを容れる余地はなかったという気がする。余裕がなかったといえばそれまでだが、周囲全体がそうであったのだから、余程ネジが1-2本抜けていない限りは、自分自身が何のために生きているのかに気づかなかったであろう。最近になってやっと、世界に目を向ける余裕が出てきたのだが、結論としては、虫けらのような1個人では如何ともし難いと言うことである。世界の紛争はおろか、交通事故もそうだし、他人が自殺することを止めることも出来なく、ただ近所の人にもろくに日常の挨拶さえもしない自分があることに思い至る。なるようになるしかないのだろうか。そんな高邁なことを考えるのは止めておけと言うことなのかも知れない。病気にかかることも何度かあったし、落ち込んで、死んでしまった方がどれだけ楽だろうかと思うこともあった。もちろん交通事故で、死にかけたことは3度以上ある。後、30cmトラックのタイヤが近くを通っていたら死んでいただろうとか、凍てついた山道をバイクでスリップし、縁石に頭をぶつけたこととか、路肩をバイクで走って、急に左折する車にひかれそうになったとか、今でも鮮明に思い出す。あの時、死んでいたらと思うと、一頃は「その方が楽だ」と感じたこともあるが、何故か生きなさいと言うことだったのだろう、今でも生きている。今は紆余曲折を経て、「生きていて良かった」と正直に思える。人は誰でも、苦しいことや、辛いことを経験しているし、そのことは、年齢と共に増加するものであるが、それとは逆に、辛い経験をした人はその分だけ、生きていることを実感として喜べるのかも知れない。人の辛さ加減の比較は出来ないとつくづくそう思う。自分にとってどれほど辛いことでも、自分以外の人にとっては、些細なことであったり、事によってはどうでも良いことであったりするのである。若い時にはそれが分からない。自分がこんなに辛いのに、何故、他人は分かってくれないのかと思うのである。そのまた逆もあって、他人が悩んでいることに対して、何でそれくらいのことでくよくよするのか思ってしまうのである。ほんの少しでも共有できることがあれば、それがささやかな幸せというものであろう。長じるにつれて、経験を積むことで、過去に悩んでいたことは一体何だったのだろうかと思うことがあるが、その時はその時で、歌ではないが「後からほのぼの思うもの」である。私が育った家も、決して裕福ではなかったし、テレビの導入も人の家よりは遅かったしで、あらゆるものが人の家の後追いだったような気がするが、精神面では、とても裕福に過ごさせて貰ったと両親に感謝している。稼げども、稼げども楽にならなかったような家計ではあるが、末子の私にはそのことでの愚痴をこぼしたのを聞いたことがない。自分の楽しみである仕事を一心不乱にやり続けたのは、もちろん自分のためだけではなく、家族のために働いていたのであるが、海軍上がりの、しかも技術屋の父は、無骨で、融通が利かない人であった。しかし、最後まで家族を大事にしてきた人だと思う。私自身の12年余後に、悔いのない人生であったといえるかどうかは、分からないが、所詮分を超えることは出来ないと言うことはすでに理解できている。「五十而知天命」(五十にして天命を知る)というか分を知ったことはあるが、「七十而従心所欲、不踰矩」(七十にして心の欲するままに従いて矩を超えず)となれるかどうかは極めて疑わしいと感じる。これからは物事を多面的に見ることを心がけ、一方的な論評を元に軽々に判断を下すことがないようにと考えている。イギリスのブレア元首相は、イラク戦争参戦を強く正当化し、サダム・フセイン元イラク大統領を排除したことを後悔していないと語っていたが、イラクに大量破壊兵器がなかった事への反省の色は拭えないものであろう。回想録を書いて売上の全額を負傷兵支援施設に寄付すると言っているようだ。その前払い額、6億2000万円を既に支払ったとのことである。振り返って、我が国大富豪のお坊ちゃま元宰相は、実母から5年間で約9億円に上る資金提供を受けていたことが判明していて、平成の脱税王などと揶揄されながら、追徴金を払うから良し、と片付けてしまった。知らなかった9億円なら、そのまま、一定の恵まれない人の支援に回せば、もっと名が上がったであろうにと思う。昨日であったか、鳩山由紀夫は勉強会たるものを開き、一般感覚では考えられない小沢一郎の復権も視野に入れているという。この2人何を考えているのか分からない以上に、取り巻きの何とお粗末なことかと憂うる。この2人は、政治と金の問題以外何を成したというのか、無為であったことには紛れもない。というか、「Trust me」といって混乱を生じせしめたこと位であろう。無為で終わるかと思ったら、またまた、世間を逆なでする様な行動を取る。この類の2世3世は、結局世の中の実態をまともに見ることなく幸せに死んでいくのであろう。吉田兼好は「一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。」といっている。ノルマがあるから懈怠も生まれる。古希近く、「七十而従心所欲、不踰矩」とあれば、正に懈怠の起こりようもない。何時その時が来ても、「ウム、満足」といって去って行きたいものだ。
2010.08.19
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今日の日経新聞に「A級戦犯が語った戦争」という記事が出ていた。記事によると、釈放後の聴取書綴発見という副題で「極東国際軍事裁判(東京裁判)が終了してから10年後の1958年以降、法務省が釈放されたA級戦犯被告から日中戦争、太平洋戦争などについて聞き取った聴取書綴(つづり)が国立公文書館(東京・千代田)に所蔵されていることが分かった。釈放後、一部を除いて意見を公にしたA級戦犯被告は少なく、昭和史研究の貴重な資料といえそうだ。」ということである。毎年、8月15日になると、終戦の記念日と名前を変えた、日本の敗戦の日が巡ってくる。毎年アブラゼミが鳴く夏真っ盛りという日であるが、今年の夏は、ことのほか暑く尋常ではない。猛暑日という1日の気温が35℃を超える日が、このところ連続している。ここ大阪では、今日もどうやら猛暑日らしい。そんな最中に行われるのが、記念式典である。終戦の前の年に生まれている私だが、実際の戦争の悲惨さは知らない。8月6日広島市に原子爆弾が投下され、3日後の8月9日には長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態となり、やっと、15日に「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」という玉音放送なるものが発せられたのである。当時の大本営の愚鈍さのために、戦争終結が伸びたことは確かである。その為に、1941年、日ソ不可侵条約が締結されその有効期間中であったにもかかわらず、8月8日には火事場泥棒の如く、ソ連が対日宣戦を布告、あらかじめ準備していた軍が満州国に怒濤の如く侵入してきた。国際信義以前の人間としての信義にもとる行為である。これが戦争であるといえばそれまでだが、そう言った戦勝国のみが裁判と称して、日本の戦犯を裁いたのが極東国際軍事裁判という実態である。正に「勝てば官軍」という言葉通りで、極東国際軍事裁判は戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、国際法に基づいておらず、「事後法」や連合国側の戦争犯罪には全く触れられないという「法の下の平等」がなされていない不備が指摘されているが、結果は有無を言わさぬものとなっている。平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価もあるというが、ならば、原子爆弾という大量破壊兵器の使用や、その後の国際信義にもとるソ連の蛮行などについて一言の評価もないのは至って片手落ちである。極東裁判そのものについては、多くの本で語られているので、今更私などがどうこう言っても始まらないが、今回見つかった、(ということ自体余りにもお粗末か、また意図的な隠蔽であったのか)という「聴取書綴」を見る限りに於いて、当時の戦争遂行者の余りにも無責任な、言動なり、行動に改めて、憤りを感じる。記事そのものも抜粋であるが、やがては、前文が何らかの手段で公表されるであろう。その抜粋をまた掻い摘んでみると、元内大臣の木戸幸一は開戦について、「あそこで戦争政策を抑えるとなると内乱になり、陛下のご退位の問題にも発展しかねない見通しもあった・・・」と言っており、人間宣言する以前の天皇の威力が如何に甚大であったかを示すものである。更に、終戦でも、終結の判断の遅さを吐露している。元陸相の畑俊六は日中戦争に触れ、日支和平の鍵は「満州国承認」の条件にあったとのべ、大東亜戦争中に各地において相当の不法行為や行き過ぎのあったことは認めざるを得ないと述懐している。元海相の嶋田繁太郎は開戦に踏み切った時もはっきりした勝算はなく、「戦運」に頼るというだけだったとし、かなりいい加減である。元陸相の荒木貞夫は、日本の政治が総体的に健全性を欠き、自然の大きな流れが戦争への道をたどったと極めて他人事のように語っている。これらの男達が、全員玉砕を指示し、多くの尊い命を散らしめたかと思うと、ここでまた憤りを感じる。元駐独大使の大島浩はドイツの戦力を見そこなったのであると、しれっとしている。ドイツがあのようにふがいないなら日本は三国同盟を結ぶべきでなかったとこれもまるで人ごとである。それを見極めるのが大使の職務ではなかったのかと腹立たしい。元陸軍省軍務局長の佐藤貿了は日露戦争当時の将軍は司令官たるの人格と識見を備えていたが、今時の戦争では、軍の首脳がその資格に欠けていたと述懐している。そして、近代戦では作戦そのものが次第に複雑になり、下僚に任せきりになりやすく、そのため幕僚の比重が漸次重くなり、陸軍幕僚の下克上の風潮が大きくなったと言っている。竹槍精神では駄目だと知りながら戦争を遂行したと言うことである。元海軍省軍務局長であった岡敬純はこの戦争が日本の犠牲において大東亜共栄圏は独立し大東亜戦の目的の一端が達せられたという説もあるが、これは全く自己満足に過ぎないし、独立した諸国で衷心から日本に感謝している国があるかどうか疑問であると述べている。 元内閣書記官長の星野直樹は戦争終結について「今から考えれば早く戦争を止めるべきであったが、当時は敗戦や戦争終結を口にすることば犯罪とされていたので、誰もなかなか言い出せなかった。」と正直な感想であるが、「戦いに大自らは出でまさぬ」の与謝野晶子の歌にあるように、最前線で、命を賭して、天皇の赤子(せきし)として、命を賭して戦っている国民をなんと考えていたのであろうか。自らも散るつもりであれば、如何なる事をも進言できたはずであり、終戦間際の偽りの多い「大本営発表」を苦々しく思っていた人達は決して少なくなかったのではないだろうか。先に述べた、木戸幸一が「終戦時の昭和20年の1月、米軍の(フィリピン)リンガエン湾上陸のころから戦況はいよいよ緊迫の度を加え、私と陛下との間においても戦争の収拾についてのお話しが出るようになった。」といい、「帝都の防衛を任とする九十九里浜配備の師団にさえ武器もない状況であった」と述べている。そして、「陛下もこれらの状況はよくご存じになっておられ、いよいよ終戦へのご決意を固くされていたものと拝察する。」などといっているが、極めて悠長なことではないか。糧食はもちろん、武器もなく、ただ精神論で戦えと言っているだけで、戦争終局近くには、おそらく戦死者の増大率はそれまで以上に高かったであろう。一刻の判断の遅れが、原子爆弾という、世にも憎むべき大量破壊兵器を使わしめたことについて、今更ながらおぞましいと思う。今年やっと、アメリカのルース大使が、広島の記念式典にのみ出席した。アメリカに於いて、原爆投下を未だに是とする人が多数いるという。では9.11はというと、これはけしからぬという。テロであれ、戦争であれ、許されるものと許されないものがあり、国際法は、その為に作られているのである。国際法を踏みにじるような行為をした戦勝国の一方的な裁判であったが、「勝てば官軍」である。それにしても、A級戦犯で、絞首刑を免れた者達の、あまりに他人事のような、今回の「聴取書綴」は驚くばかりである。
2010.08.18
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NHKアラビア文学講座の2期目も第5回目となり、この講座も後1回を残すだけとなった。今回、取り上げられた本は、パレスチナ文学のファドゥアー・トゥカーン著の「私の旅」というタイトルの作品であり、副題とし「パレスチナの歴史」となっていた。図書館に借りに行くと、今回もまた、府立の図書館にしかなく取り寄せるという。少なくとも、島本町で、中東に感心のある人はあまりいないようだ。講師から聞いていた標題が「山を行く旅・困難な旅」と、作者名だけであったので、その旨書いて図書貸し出し係に提出すると、そのような題名の書籍はなく、ファドゥアー・トゥカーン著では「私の旅」という本しかないという。取り敢えず、その本を借り、講師にメールで問い合わせると、その本ですという返事が返ってきた。何とも分かりにくい話である。ファドゥアー・トゥカーンは女流詩人で作家でもあるという。アラビア文学では、女性作家は極めて稀であると思っていたが、前回の「ハーレムの少女ファティマ」を著したモロッコ作家のファティマ・メルニーシーも女性であった。今回のファドゥアー・トゥカーンは1917年第一次世界大戦に於いてバルフォア宣言が出された年に生まれており、大国イギリスの傲慢が、シオニスト(ユダヤ人)に「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見る」との約束をしたのが、バルフォア宣言であり、以来国際的に正当化された名の下にユダヤ人のパレスチナ入植が始まった記念すべき日なのである。この日を境にパレスチナに紛争が絶えなくなったのだが、悲しいことにそれが現在でも続いている。物語の背景は、この歴史的事実を抜きにしては語れないし、また理解することは出来ないだろう。イギリスの三枚舌外交として、つとに有名な、1915年のフサイン=マクマホン協定での中東のアラブ独立を保証したものに続き1916年に秘密裡に行われたサイクス・ピコ協定で英仏による中東分割の協定があり、そして、ファドゥアー・トゥカーンが生まれた1917年のバルフォア宣言によるパレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設の根拠を与えた宣言と、かくも重大な事柄を、イギリスは、3年でたて続けに行ったのである。大国の品位は如何なるところにあるのか、ひたすら自国の利益しか考えない当時の外交官どもの破廉恥さに憤りを感じる。そんな中、ファドゥアー・トゥカーンは裕福なパレスチナ人の家庭に生まれ、アラブ独特の女性蔑視の中で育ってきた。兄弟・姉妹10人中の7番目で、彼女だけが、母親の連続的な出産の疲れで堕胎を考えられた初めての子であったらしい。父親は、そのことを知って、母に激怒したとあるが、それは、5番目に生まれてくる子供が、「男」であるということにのみ根拠があるわけだ。アラブ世界の思想をこの小説(自伝)の出だしから伝えている。アラブの女性も恋をし、女性として目覚めるのは人間として同じであるわけで、幼い頃に男の子にほのかな恋心を抱きながらも、ハンカチに包んだ、ほんの小さなシャスミンの花束を手渡されるといった象徴的な場面が映画で紹介されたが、それすら極めて異常な行為だったのであろう。それを見ていた人によって家族に通報され、以来彼女は、家の中に閉じこめられ外出もままならなくなったと言うことだ。幽閉のような環境で、彼女は、多くの書物を読み、知識を蓄えていった。そして幸運なことに、既に詩人として有名になっていたイブラヒームという次兄の支えもあって、彼女の詩への才能は花開くのである。これに反して、意地の悪い兄弟はいるもので、直上の兄は、徹底的に彼女をいじめ抜いたと記している。私は、彼女の書いた詩がどれほど素晴らしいかを評価する才能を持ち合わせていないが、このように制限された中での文学(アラブでは詩が主流)への意欲や、知識欲に対しては畏敬の念を持った。彼女の家が裕福であったことが、幸運の背景にあることは否めないが、アラビア人としては、珍しく、イギリスに2年間留学しているのである。普通の感覚なら、自国を売った張本人であるイギリスに滞在することは心情的にたまらないのではないかと思うが、彼女にとっては、自国における束縛からの開放感の方が断然増していたと言うことである。ノスタルジックなことは考えなかったのであろうし、2年の期限で、帰国せねばならない時には、返って嫌な気分になったのではないかと想像できる。しかし、誰しも故郷(故国)に勝るものは無いわけで、冒頭こんな詩を書いている。「その胸に抱かれていれば」詩集『夜と騎士』(武田朝子訳) この土地で死に ここに葬られれば 何もいらないそしてこの土の下に 私はとけて消えていくそれからこの土地に草をおくり花をおくりこのくにが育てた子どもの手で摘みとられるこのくにの胸に抱かれて 土になれたら 何もいらない草に 花になれたら 何もいらないもちろん私は、パレスチナの土地を踏んだことはない。サウジアラビアと、UAEに少しの間居ただけだし、カタールやバーレーンも仕事で通り過ぎた国であるから、内実まではとうてい計り知れないが、アラブを垣間見たことで、宗教的な意味と、生活慣習的な意味に於いて、日本人が全く想像も出来ないことが彼の地では未だに残っているという現実を改めて感じる。今や、アメリカの後ろ盾で、ユダヤの国として根を張ってきたイスラエルが、実は、イギリスの三枚舌外交の所産であることを改めて感じ、大国の横暴が、かくもきな臭い関係を作り出したのかと極めて感慨深い。元々パレスチナの土地は、全てパレスチナ(アラブ)の人々の土地であったのが、バルフォア宣言以降、現在では、ヨルダン川西岸、ゴラン高原そしてエジプトに近く、今でも戦火が絶えないガザ地区にのみにしかアラブ人の生活圏はないのである。軒を貸して母屋を取られたアラブ人は、今は、英仏によって秘密裡に行われた、あの忌まわしいサイクス・ピコ協定での中東分割の協定案(これも不条理なのだが)まで戻したいと思ってもそれも叶わないのが現実である。最後にこの故国の状態を嘆かわしく読んだ象徴的な詩を書いてみると、「イギリスのヨルダン系パレスチナ人」 A.Gascoigneへ-ひどいお天気ですね 私たちの国の空は いつも霧がたちこめているんです あなた、おくには~ スペイン人? いいえ、私は……私はヨルダンから来たのです-なんですって、ヨルダンから~ わからないなあ-私は エルサレムの丘から 光と太陽の祖国から来たのです-ああ、そうか、わかった、ではユダヤ人ですね 私の心臓を突き刺す、野蛮なまでの無知、あなた、雲のことをきいているんですか?私の額の上を通り私の目に悲しみの影をさしたお幸せな隣人よ誰が私の心に傷を開いたとお思いですかあなたが思い出させたのです私が 引き裂かれた大地から来たことを根っこから、根っこから引き抜かれ風の通り道であちらこちらに ばらばらに散っていった 祖国をもたない人々のひとりだということをいいえ、そうではない私も ほかの人々と同じです私たちにも 祖国はある…… オックスフォード、イギリス詩集「閉じられた扉の前で」(部分)
2010.08.17
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やがて中国のGDPが世界第2位になるであろう事は、ずっと言われ続けてきたが、この4~6月期で遂に逆転してしまったようだ。日本が1兆2883億ドルに対して、中国は1兆3369億ドルとなって、486億ドルの差が付いたと報じられた。通年では、日本の5兆2473億ドルに対して、中国は5兆6673億ドルになりそうだというのだ。GDPの計算の方法はよく分からないが、消費面から言えば、GDP=消費支出(C)+設備投資(I)+政府支出(G)+純輸出{輸出(EX)-輸入(IM)} ということらしい。経済を学んだことがない素人がとやかく言うのもおこがましいが、GDP (Gross Domestic Product)即ち国内総生産は、一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額であり、GDPの伸び率が経済成長率ということになる。原則として国内総生産には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上されるということで、家事労働やボランティア活動などは国内総生産には計上されない。更に、国内での生産であるから、海外の企業が国内で生産活動をして、付加価値を増したものも、その国のGDPに含まれるわけだ。中国のように、日本を始め海外から生産拠点を中国に移している場合の生産活動は全て中国のGDPとして計上される。世界の工場は即ち中国GDPの上昇と言うことになる。また、世界の市場という点でも、中国の富裕層・中間層の増加による消費支出は、之も当然、中国GDPを押し上げることになる。日本が最近中国人に対するビザ発給の制限を緩和したために、中国からの旅行者が増えて、日本で買い物をする場合は、日本のGDPに算入されることになるわけだ。日本は、2000年から現在までの10年間は、失われた20年の後半に当たるとも言われ、GDPも4兆円から5兆円の間を上下しながら、さしたる成長もせず推移してきた。そして時々マイナス成長も経験してきたわけである。一方中国はといえば、2000年に1兆円強であったGDPがあれよ、あれよという間に、2010年では5兆7000億円にもなろうというのだから、驚異以外のなにものでもない。特に我々のような年金生活者が、ほんの少しの年金を消費に充てたところで、GDPへの貢献は微々たるものである。高齢化が叫ばれる中、日本の労働力人口が6割切っている一方で、中国の労働力人口は73・7%だとも言う。日本が没落して行くのは至極当然のことにも思える。一方の中国も現在の一人っ子政策が、後々中国経済に必ずしも良い結果となるかどうかは分からない。しかしこういった経済の発展の影には当然の如くひずみが起こっている。都会と農村の格差の拡大はもちろんのこと、中国人が車を持ち始めてから、交通事故は鰻登りで、2005年には死者が10万人という驚異的な数字になっている。当時、中国の自動車保有台数は世界の1.9%に過ぎないのに、交通死亡事故の発生件数は世界の15%を占め世界第1位だということであった。上海万博とかで急遽マナー講習を徹底したようだが、我が先という中国人気質がこういった面にも現れているようだ。テレビでは、高嶺の花である高級住宅街が既にゴーストタウン化していると言うことを放映していた。住宅面でもひずみがそろそろ出始めているようである。このように中国は表向き闇雲に経済発展を遂げているが、G8などの会合では、新興国のリーダーたることを標榜し、世界のキャスティングボードを握ろうとしている。敏感なアメリカは、かつての経済大国であるG7+1よりも、この中国を意識し始めている。良くも悪くも、中国を抜きにして、経済を語るわけには行かなくなってきたわけだ。反面、日本の対米相対位置は低下して行かざるを得ない。同盟国日本といいながらアメリカの目は完全に中国を意識していることは明かであり、日本の姿勢次第では、日本軽視の線が打ち出されるであろう事も窺い知れる。図らずも、日本企業などの中国工場化などが中国の大きな成長率を助けているわけだが、それにより、年間10%ずつ軍事費を増大させていて、日本の領海内を中国軍艦が我が物顔に通過しているという有様である。もとより中国の発想の根底は、相手国はアメリカであり、地球の東半分はアメリカが、そして西半分は中国が支配するという棲み分けまで考えているようである。生ぬるさを続ける日本などは、児戯にも等しい行いだと彼らは考えていることであろう。富める国はまた、病む国でもある。チベットや、ウイグルなど周辺に民族問題を抱えていることも大きな問題であるが、中国社会の価値観の昏迷と喪失、貧富の格差の両極化などの問題によって、多くの国民の精神健康に支障をきたしているということが挙げられている。中国だけの問題ではないのだが、中国疾病予防制御センターの精神衛生センターが2009年に発表したデータでは、中国の各種の精神疾病患者の総数は1億人を超えているとのことである。これは、日本人全体が何らかの精神病にかかっているのと同じ数である。 これらの精神病患者により連続殺人事件が多発していることも指摘されている。日本同様に、経済最優先の施策は、ここに来て、中国に於いても、深刻な社会問題となっているというのである。患者数が1億人、重度患者数1600万人以上の精神病問題は、すでに中国社会の安定を脅かすほどであるというわけだ。 中国の精神分裂症患者は総人口の1%、憂鬱病患者は7%、焦燥障害患者は5%を占めていて、これだけでも1億人を超えているのだ。そして他の要素を入れると、中国の精神病患者の実態は、はるかに1億人を超えているはずであると、その精神病専門家は指摘している。 遺伝子の要因、生活スタイルや観念の変化、そして拡大する貧富の格差などが、中国の精神病患者数が1億人を超えることになった主な原因であるとも警告しているわけだ。「一般的に貧しい国では、うつ病の発病率は高くないが、貧富の格差が大きく拡大されれば、貧困層のうつ病の発病率が高くなる。すなわち、格差問題もうつ病をもたらす重要な要因である」と、その専門家は指摘していて、現在中国ではうつ病の発病率が高く自殺率も高いので、もっとも重視されるべきであると警告している。
2010.08.16
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何でも序列を付けたがるのは日本人だけではないらしい。しかし、「世界大学ランキング」などといわれても、どういったことが基準なのかに依っては、順位は大きく異なるであろう。英国のタイムズ誌が発行している教育専門誌によると2009年の世界大学ランキングでは100位内に日本の大学が6校入っている(しか入っていない)と言うことだ。米情報サービス大手トムソン・ロイター等も独自に発表していて、その間には多少の順位差があるようだ。「Times Higher Education Supplement (THES)」による2009年の世界大学ランキングでは、1位は米国ハーバード大学、2位は英国ケンブリッジ大学、3位は米国エール大学で、日本の大学のトップは、東京大学の22位である。このランキングは2004年から毎年発表されているもので、世界の大学研究者の総合評価や論文の引用回数などを点数化し、大学の総合力を評価していると言うことである。評価の対象となる項目は、1.各国研究者からの評価(40%)2.当該国の雇用者による評価(10%)3.学生1人当たり教員比率(20%)4.教員1人当たり論文引用数(20%)5.外国人教員比率(5%)6.留学生比率(5%)という6つの指標に基づいて総合評価しているのだそうだ。 東京大学22位は、アジアではトップだという記事があったが、実はその上に21位の香港大学がランクされている。ほかにも100位以内では、京都大学が25位、大阪大学が43位、東京工業大学が55位、名古屋大学が92位、東北大学が97位にランクインしている。上位は米国、英国の大学が占めており、ハーバード大学は調査開始後6年連続トップを維持しているようだ。これをもって欧米優位、アジアが劣等であると言うことをにわかに言えないけれど、ヨーロッパではイギリスの名門ケンブリッジとオックスフォードなどを除けば、上位は殆どがアメリカの大学という感じだ。イギリスの上位は伝統の強みかと言えるが、アメリカなどは、まだ歴史は浅いわけで、必ずしも、そう言った問題ではないだろう。評価基準のファクターで、1.各国研究者からの評価基準が大きなウエイトを占めるが、これは、4.の論文引用数とも連動しているのではないかと思う。論文引用数では、東京大学が世界11位だそうで、総合評価で、何故22位なのか理解に苦しむ。この論文引用数ランクは、当然毎年変わるわけだが、大学ごとにもちろん得意分野があり、物理では東京大学世界2位、材料科学では東北大学が同3位、化学では京都大学が同4位だということになっている。また、免疫学で大阪大学が初めて5位に入り、薬理学・毒物学では東京大学も初めて5位に入っている。ともあれ、今日の日経の「世界を読む」では、大学の国際化が活発化していると言うことである。文部科学省などの調べによるグラフから見ると、世界全体での留学生は2007年で既に300万人に達しているようだ。世界主要各国の留学生受入数など、新聞紙上では読みづらいが個々の国の目標数を加算しても300万人にはならない。日本では、2008年に「グローバル30」で留学生受け入れ目標30万人を掲げたようだが、2009年の実績は半分以下の13万人に止まっている。大学の質が、留学生によって大きく左右されるとは考えにくいが、広く交流することは、自らの位置を確認でき、それなりに意義があることである。ここで門戸を広げなければ、明治維新の鎖国状態にも例えられるように、西欧やアメリカの文明に置き去りにされるということの再現にもなりかねない。日本が有する個々の技術は、決して海外に劣るものではないということは分かっているが、論文などの引用を含めて、海外の研究者から評価されないのでは、鎖国と同じである。もう一点は、外国人の教員数が日本では極端に少ないと言うことである。オックスフォード、ケンブリッジの40%近い外国人教員数に比べたり、アメリカのハーバード大学の30%とくらべたりしても、日本のそれは、たった5%を切るという状態なのだそうだ。アルファベット26文字の組み合わせでなる米欧の英語圏や、英語を多用する国などでは、結構外国人が英語で授業することになれているのであろうが、日本はからっきし駄目である。大学を卒業しても、まともに英語を聞けない・話せないという人の割合はおそらく世界1位であろう。今では、幼稚園児からアルファベットとか言っているが、それも極端であり、長じてそのまま、英語が流暢になるとは思えない。つい先日の日経新聞では、日本電産は幹部社員に外国語の習得を義務づけるということで、2015年から課長代理以上の管理職への昇進には日本語以外の1カ国語、20年からは部長級への昇進に2カ国語の習得を条件とすると決めたそうだ。グローバル企業で取り残されないための策であろう。その道で鍛え、ニューヨークや、他の英語圏に駐在した経験を持つ友人達とは比較にならないが、私などの場合も、英語圏以外で仕事をする場合、日本語でもその国の言葉でもない英語でしかお互いの意志は通じないのである。サウジアラビアでの仕事などでは、直接のカウンターパートはフィリピン人、上司はヨルダン人、副社長は南アフリカ人、社長はサウジアラビア人そしてIT(コンピューター関連)技術者はパレスチナ人とインド人といった具合であり、共通する言葉は、英語しかない。向こうも拙い英語だが、こっちはそれ以上に拙いけれど、何とか仕事をしなければいけない。大した齟齬無く仕事は進むものなのだ。要は、必然性がない座学は何の役にも立たないと言うことであろう。石川遼もスピードラーニングでの勉強もあろうが、グリーン上で、キャディーの言う言葉が分からないとしたら、スライスして、ライトにスライトリ-カーブなどと言われても分からないかも知れない。要は実地である。2年ほど前か、あの女性蔑視の国サウジアラビアに女子の総合大学を建設する決断を国王がしたという。今ではリヤドで建設中か講義が始まっているかも知れない。これが本当のイノベーションであろう。日本などは、大学の質が低下したと言うが、理の当然で、分数が出来ない大学生が居るなどとまことしやかに言われているくらいだからだ。まるで目的意識もなく、サークルで、青春のお友達を作るだけが目的とか、結婚の条件には短大くらいは出ていないと、とか、全く動機が不純である。今日は、病院で働くインドネシア人の看護師見習いと話したが、「日本語の漢字は難しい」と日本語でたどたどしく言うが、下手ではあるが、英語を喋ることは何の造作もないという感じなのだ。大学の話とは一寸ずれたが、私は、センター試験のような共通試験である一定の成績が収められない人は、大学と名の付くところには入れさせないことだと思う。Collageで良いではないか、何もUniverseである必要はなく、各々の分野で、向上する気運を持てばいいわけだ。旧制高校が大学教養学部となり、今は大学院が昔の大学に匹敵しているのかも知れないが、日本人の「学問」または「知」に対する欲求はあまりに低いのではないかと疑う。
2010.08.15
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1ヶ月ほど前に日経新聞の「あすへの話題」というコラム欄で、村上陽一郎の「使いたくない言葉」というのがあった。このコラムには著名な人達が、グループとなり交代で執筆をし、そのグループが、何回かでグループ毎交代する、一寸した自分の思いを簡単に書かれている欄である。はっきり言って、全くおもしろくないものや、そうだと共感するものまでいろいろである。因みに村上氏は私より8歳年上で、何の接点もないのだが、対談図書「科学史はパラダイム変換するか」を読んだことがあるくらいである。今回の「使いたくない言葉」に関しては、内容は、同感だと思うが、その実どうにもならないと思った内容であった。ヒトが言葉をコミュニケーションのツールとして使い出してから随分と久しいわけで、言葉は、自分の思っていることを相手に伝えるという根本理念をクリアしていれば実際上は用を為していることになるわけだ。そして、言葉を変形したり、組み合わせたりして、俳句だとか和歌だとか、詩だとか、作文などを書いて、自分の考えの深遠なるところをより細かな機微まで表現しようとしてきたのが人間である。動物語を理解しないので、何とも言えないが、おそらく人間で言えば、末期的夫婦の会話である「風呂、飯、寝る」という簡単言葉を述べているだけであろう。人間故に、細かい表現も出来、例えば「飯!」という変わりに「一寸お腹が減ったね」とか「小腹が空いたわね」などと少し軟らかい表現なども出来るわけである。それでこそ人間であるわけだが、ライオンは、決して(?)そんな風には言わないだろうと考えられるわけだ。村上氏が取り上げたのは、無意味な省略語である。そのまま引用させていただくと、「スパコン」「地デジ」「冬ソナ」などの言葉が音に出しても、とても汚らしいと感じていると言うことだ。そして、スーパーのことをスパとは言わないし、コンピューターのことをコンとも言わないでしょうと切り込む。私などは、スパといえば温泉かとも思うが、アパレル業界でも使われたり、ベルギーの都市名であったりするわけで、スパ単独では何を言っているのか分からないわけで同感だ。「スパコン」といえば、ああ「スーパー・コンピューター」のことかと今では飼い慣らされてそう違和感もなく受け取っている。しかし、コンだけでは狐の鳴き声かとは思っても、コンピューターとは思わないわけだから氏の言われることも頷ける。そして「冬ソナ」についても冬のソナタから「の」と「タ」を取ったからと言ってどうだというわけだ。「冬のソナタ」ではいかにも素人っぽくて「冬ソナ」であればなかなかその道に通じているとでも思っているのかと鋭い。私なども大阪に帰ってきた時にすぐ「イナイチで行こう」というのを聞いて、国道171号線を思い浮かべることは出来なかった。ところがである、インターネットで「いないち」と引けば「国道171号線」が出てくるわけだ。氏はこれについてはどういわれるだろうか。「国道171号線」というよりは「イナイチ」の方が簡単でわかりやすく、互いがそのことを知っていれば便利ではある。ではと、京都までの京滋バイパスに沿った国道は「国道478号線」なのだが、「ヨナハ」で帰ろうか?」と連れ合いに言ってみると、「それ何?」と返事が返ってきた。同じ使いからだと言っても「そんなの、おかしい」というわけだ。即ち、「イナイチ」は市民権を得ているが「ヨナハ」はそうではないという事で、原点に戻ると、コミュニケーションツールとしては不的確ということらしい。アメリカ人なども頭字語といって複数の単語から構成される語の頭文字を繋げて作られた単語アクロニムを頻繁に使うという。例えば AIDS(エイズ)やradar(レーダー)等数え上げれば枚挙にいとまがない。私個人的には、こういった新聞などに出てくる言葉(アクロニム)を理解するために私製辞書を作っているくらいである。しかし、新聞などでは、殆ど必ず括弧付きで、その正式名称なり意味を書いている。これでは略す意味もないし何故だろうと考えたことがあるが、おそらくはAIDS(エイズ)などでは、「後天性免疫不全症候群」(Acquired Immune Deficiency Syndrome)だと理解している人はそう多くはないだろうから「エイズ」という言葉で、その内容が浮かぶように我々をティーチ・インしているのだと考えるのが妥当だろう。このコラムで私はニンビー(NIMBY)という言葉を知った。意味は、「自分の庭先に無ければいい」(Not In My Back Yard)なのだそうだ。公共施設で、必要なものではあるのだが、自分の庭先にはあって欲しくないものであり、例えば下水処理場、火葬場、軍事基地、原発基地、廃棄物処理場、刑務所等々である。私は、ここでまた、「ギャル語」なるものも連想してしまった。「あけおめ。ことよろ。」は「明けましておめでとう御座います。今年も宜しくお願いします。」の略らしく、これは、中学生を教える連れ合いなどは常識語として知っていなければならないようだ。また、「マジ(で)」は「真面目に」の略で「本当に?」と言う意味等があり、今はテレビなどでも、タレントが、「マジっすか?」などとやっている。これらは、私ども年配者にとっては、考えられないことではあるが、言葉は変化(進化とは敢えて言わない)していくものであり、10年前の立派な大辞典は、今では通用しない部分もあるというわけだ。それとも彼女たちは、簡単な言葉しか発せられなかった類人猿に近いのかも知れない。私は、今、簡単に「テレビ」でといったが、テレビは正確には「テレヴィジョン」(television)のことであり、「テレ(tele)=遠隔の」を「ヴィジョン(vision)視覚による映像」とするものであるということだ。今時、こんな七面倒なことまで考えて言葉を使っている人はいないかも知れない。しかし、昔、テレビがない時には、初めて表れたこの遠隔受信映像機はテレヴィジョンであったわけだ。私はここでも日本の英語教育の誤りを連鎖的に感じるのだ。カタカナで書く「テレビジョン」は「テレヴィジョン」とすべきではないかというのが私の考えである。中学時代に教わった、「V」は上の歯で、下唇を噛むようにして発音するのですよというあれだ。「ビ」とするから、そのまま発音してしまい「ヴィ」とすれば、多少なりとも唇を噛むようになるのではないかと言うのが私の考えだ。一笑に付す輩も居たが、元々英語をカタカナで学ぶのは邪道だと言えばそれまでだが、私は今でもそう思っている。私が、同じような間違いを友人にしてしまったことを思い出した。ばかげた話だが、同じバスケットボール部の友人に、「相手のCheamはなかなか手強い」という英語混じりで言って、「Cheam」ではないよ「Team」だよと指摘されたのだ。火が出るほど恥ずかしかったが、これも「チーム」ではなく「ティーム」と書くようにしていたら、間違わなかったかも知れないと思ったものだ。村上氏は、最後に上から「目線」も気に入らないと書いていた。「視線」とか「視座」というきちんとした言葉があるのに、何故、妙な造語を作るのかと言うことだった。同感である。
2010.08.14
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永年参ったことがなかった父の墓参を、去年連れ合いに促されて、千里寺に参った。私が、大阪を離れていたこともあるが、何となくしっくりしていなかった別の要因が墓参をためらわせていた。昨年住職に会い、話を聞いて貰ったり、話を聞いたりして、以来、月に1度、寺から「如是」という1枚の紙が送られてくるようになった。「如是」というそのペーパーには、おそらく先代から続けられたその月の寺の行事と一寸した住職の話が思いつくままに書かれている。連れ合いが、最初に奉職した小学校名が「如是」であったこともあり、なんだか懐かしいような気持ちになる。「如是」という意味を調べると、仏語で1.「かくのごとく、このように」の意で経典の冒頭に記される語。とか2.「十如是」の略とか書かれているほか、「如是我聞」(にょぜがもん)という意味もあり、これも仏語で「このように私は聞いた」の意味だという。即ち「仏陀がどこそこにおられたときに説かれたものを我が確かに聞いたものだ」と示す趣意なのだそうだ。その「如是」は第813号となっているから単純に計算しても5年半は続けられていることになる。墓参なども、通常の生活では忘れてしまっているわけだが、盆ともなると、世間が動き出すので、ほんの少しだけ清らかな気持ちで、昔を思い出すわけだ。私は父母が高齢になってからの子供であるから、幼少の頃は、あまり我が家の大人の仲間としては、扱われたという記憶はない。だからといって、世間で言われるような、ネグレクトや、放置ということもなく、実に自由奔放に生かせてくれた。目が届かないという方が正しいのか、とにかく「自由放任主義」という育ち方をした。しかしながら、兄弟が多い故に、親の愛情を一手に受けていると言うことでもないが、何処か大きく見守られていたことは確かで、気楽におおらかに育てて貰った。しかし、父は長男でありながら、田畑を弟に譲って佐賀を飛び出し、海軍に奉職した。この話は、何度か書いた気がするので、この程度にとどめるが、私にとっては、祖父母の顔は全く知らないと言っていい。一度、写真を見たような記憶があるが、それが、祖父母だったかどうかまでは覚えていない。そんな風な父だから、盆に先祖の墓参りをしようなどと言った発想はなく、私自身もそんなものなのだと墓参りなどにはあまり関心がなかった。人間は生きて居てなんぼのもので、死んで灰になれば、やがては水になり、大地に帰るのだという感覚であった。事実そうなのだが、心に残った思い出や、「これをしろ、あれは駄目だ」といった積極的な薫陶や教育はなかったが、「親父の背中」を見て、私自身の人格は形成されたものだと自覚している。そう言えば、父も、どちらかといえば、気が短かったようだ。私の会社時代の友人の中にも、佐賀出身の人がいたが、その人も、大人しいがやや気が短い感じであったことを思い出す。そして私に「俺はきついかな?悪くはない人間なのだがな」と言っていた。私もその人を、悪いなどとは思ったこともなく、とにかく律儀で、ちゃんとしていないとだめだというけじめの正しい人だと思っていた。九州の人間は、特に佐賀県人は、得てして、口下手で、要領が良くないという感じだと思う。質素倹約はどの藩でもそうだったのだろうが、蘭学を大いに学び、他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、佐賀藩を単独で東洋一とも言われる軍事力を持つに至らせたがとの話もある。しかし、明治維新では、枢要な地位に就いた長州藩や、薩摩藩などの陰に隠れて、表には余り出てこないが、幕末の藩主鍋島直正は薩摩の島津斉彬らなどと同様の名君であったという。とは言っても我が父は、佐賀の平民であり、お殿様とは全く関係がないのであるが、培われた気風では、同根のものを感じるのである。一生仕事をし続けてきた父であるが、晩年は、床に伏した生活が続いた。あの時にもっと孝行していれば良かったとは良く聞く言葉であるが、私は私なりに孝行とまでは行かないかも知れないが、父を尊敬してきた。病でなくなったのだが、床についても最後まで頭はしっかりとしていた。口には出さないが、私の成長を大きく包み込むように見守ってくれた。姉や兄が、苦労をしていたことを聞くが私自身は何ら苦労をさせられたという記憶がないくらいに育ててくれた。自分も年を取るに従って、そして、この時代の世相を見聞きする度に、自分の過去が如何に幸せだったかを知る。不思議と長じてからのことは、思い浮かばず、子供の頃の何げない雰囲気が蘇ってくるのはどうしてだろうか。そんな気持ちを持ちながら、寺の団地のような墓だが、花と一寸した供え物と、昔の父母の写真を携えて墓参した。こういった墓参をする気持ちにさせてくれたのは、連れ合いである。周囲の友人・知人とも没交渉を決め込んでいた私を、何とか引き出してくれたわけで、有り難いことだと思っている。今の交友関係は、広がりすぎて、昔に比べたら、もう無限大に近い感じがするほどだ。墓参を済ませた後、姉が前に掛かっていた、済生会の眼科に送迎すべく、今入院中の豊中平成病院に行った。往きは、車まで歩くと気丈なことを言っていたが、舌が巧く回らないしゃべり方が時々表れる。眼科は順調に済んだのだが、帰りの車の中で、聞いてみると、昨日は病院で、看護師の間違いで、あわや血糖値を下げる薬の注射をされ掛けたというのである。もちろん抗議して、わざわざ階下の事務所にまで行ったとかであるが、その看護師はしれっとした感じで、注射をしますと名前を呼んだら、「はい」と返事したからというのだそうだ。何のために手首にタグを付けさせられているのか、そんな杜撰なやり方をしてどうするのだと、怒りがこみ上げ、誰に語ることも出来ず鬱積して、少し変調を来したようだ。その話を聞いて、病院に戻って、少しましな看護師に、抗議すると、昨日の話は、通じていないという。そのことにも抗議すると、医師共々平身低頭ではあったが、これが、病院の実態かと、実に情けなくなった。帰ると田舎の村では年寄りを大事にすると言う風潮が未だに残されているというテレビ放映があった。それが、もうここにはなく、大量に排出される高齢化人口を、どう機械的に処理するかが問題のようである。100歳以上の不明老人の件も然りだが、こんな意味でも、日本は、崩壊するという危機に背中合わせであるようだ。おそらく、私が姉の年になったら、もっと、この悲惨さは増長されているのではないかと感じた。サウジアラビアにいた時に、私はまだ還暦だと思っていたが、かの国では、既に老人の域になっており、そう言った、老人をとても大切にすると言う風潮は、健在であると聞いた。今まで、国に尽くした人を、これからは我々が面倒を見るのだという言葉も聞いた。平均年齢が低く、若い人が多いと言うこともあるのだろうが、外国には、まだ麗しい風潮が残っていると感じたものである。日本は素晴らしい国だと、その時には言われたが、今その言葉を聞いたとしたら、一寸胸を張るには忍びない現実を思ってしまう。
2010.08.13
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このところ、地球上では何が起こっているのだろうか。日本は取り敢えず、連日の猛暑日がうんざりする程度である。程度であるというのも軽々しい表現だが、世界の異常に比べると、まだましかなと思う程度である。しかし、老人が室内にあっても熱中症で死ぬと言うことになれば、話は違う。この熱中症の死亡者の数は、最近の10年間でみると、年平均400人近くで、30年前の6倍にも達しているというニュースもあった。 猛暑日とは気象用語で、1日の最高気温が35℃以上の日のことだが、この用語が使われ始めたのは2007年4月からだと言う。それまでは、猛暑日による死者の数というのがそれ程センセーショナルな問題でもなかったということかも知れない。死亡する年齢層は圧倒的に65歳以上高齢者が多く、その割合は、約70%にもなるという。これを、「自然の過度の高温」による死亡者として、人口動態統計上は1999年から2008年までの10年間に3954人が死亡したということで、1969年から78年の約6倍だというのである。では、猛暑日といわれる日数を比較すると、3倍に満たないのであるから、気温との相関関係はあるが、比例関係ではない。新聞記事などでは、地球温暖化や都市化の影響(ヒートアイランド現象)などで増えたとしているが、あまりに簡単な考察だと思う。この時期必ず問題にされる、日本中の渇水状況なども、これらの陰に隠れてなのか、余り今年は聞かない。それどころではないのだろうか。65歳以上高齢者がコンクリートジャングルをそう沢山は歩いていないと思う。65歳以上は、概して体力が弱く、持病などを持っている率が高いうえ、昨今は、クーラーに慣れているために身体が、楽をしているため、その限度を超えると、体温調節が利かなくなるからだとも言われている。私なども、一昨日のゴルフでは、3ラウンドばかり、目の前が真っ白になり、後で考えるとあれが熱中症の前触れだったのかとも思える。特に私の場合は、40℃を越える炎天下のドバイで、ふらふらになりながらもゴルフをしていたという自負もあり、気にも留めていなかったが、今思えば無謀であったのかも知れない。一面、東京と大阪を比較すると、猛暑日は、大阪の方が多いにも拘わらず、死者は東京の方が多いとの統計も出ており、それは、湿度が東京の方が高かったと結論している。ドバイは、その点湿度が高くはないのだろう。思い出せば、自分でかいた汗が歩行する内に蒸発していると言うことで、その間に気化熱が身体を冷やしているからかも知れない。そしてどんな記事でも、最後には気象庁がエルニーニョ現象であると結論づけている。では何故エルニーニョ現象が起こると異常気象になる(猛暑日が増える) のかについては必ずしも満足な回答を与えていない。水戸黄門の印籠のようなもので、この言葉で全てを解決し、納得させようとしているわけだ。エルニーニョ現象とはと調べると、東太平洋の赤道付近で海水の温度が上昇する現象とある。そして、太平洋では通常貿易風(東風)が吹いていて、これにより赤道上で暖められた海水が赤道海流により太平洋西部に寄せられるが、エルニーニョが発生するとこの暖かい海水を押し流す貿易風が弱まるため、暖かい海域は太平洋中央部や太平洋東部に滞留する。これにより、太平洋東部から中部にかけての海水の温度が上がると言うのである。因みにその反対の現象がラニーニャ現象だという。しかし、この説明では、現象が起こった後どうなるのかは分かる気がするのだが、何故エルニーニョ現象が起こるかについては十分な説明とは言えない。素人が、そのような理屈をこねてみても仕方がないのだが、プロでも、これを止めることも出ないというわけだから、運を天に任せ、対処療法とするしかないわけだ。これに呼応してか、世界中で異常気象が発生している。新聞などによると、ロシアでのモスクワ郊外の大規模な森林火災、また猛暑による干ばつでの穀物収穫の大打撃、この波及効果は計り知れないものがある。穀物面積の1/4が壊滅的状態にあるとも言われ、GDPは1%ダウンするだろうと言うことだ。穀倉地帯といわれるウクライナや、カザフスタンも大幅な減収であるという。幸い日本の小麦輸入は、ロシア方面には余り多くないので、安心だがと、ある評論家は言っていたが、食糧自給率40%の我が国では、他国と雖もその収穫高に一喜一憂しなければならない。また、第一次産業のGDP1%下げは、工業製品などの3-4%にも相当する値であろう。さらには、中国、インド北部、パキスタンなどの洪水被害である。最近では、ドイツ、チェコ、ポーランドなどの東欧諸国での豪雨も大きな被害をもたらしている。ほんの1ヶ月前には、南米での大寒波で、ペンギンなどが多数死んだというニュースもあった。北半球の熱波は、偏西風の蛇行によるものだとも言うし、その偏西風の蛇行はやはりエルニーニョ現象によるのだというわけで、結局は、本当の原因はどうなのかがはっきりしない。確かに地球規模で、大きな変化が起こっているのは確かなようだ。最近ホーキング博士が、地球は滅びるので、全員地球を脱出すべきだと述べている小さな記事を見かけたが、どうやらその予言は、当たっているようにも思われる。我々地球上の人類が全て「ゆで蛙」状態になっているのだろう。猛暑日も年々少しずつ増えているわけで、今年は、猛暑日の日数が最高になったと言い始めて、久しいが、徐々に熱せられるので、「暑いですね、昔はこんなに暑くはなかったのにねぇ」などと挨拶を交わすが、やがて、それも空しく全員がゆであがって死ぬと言うことにも成りかねない。クーラーに慣れた現代人は、ある猛暑日の続く日々に、原発でもどこでもが故障を起こし、必要電力が止まるという(停電など)が続き、どこにいても暑さから逃げられなくなり、気がついたら全員がゆであがっていたということにもなりかねない。これは、偏にCO2だけの問題だとは考えにくい。もちろん地質学者も、宇宙物理学者もいろいろ考えてはいるだろうが、気象問題を予測し、対策が万全になっては居ない。一体、明日はどうなるのか、本当のところは誰にも分かっては居ないのだけど、ホーキング博士の勧めに従おうとしても不可能なことなのである。
2010.08.12
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今日は先輩のお声掛かりで、枚方ゴルフクラブでプレーした。定例ゴルフ会メンバー4人だけのラウンドだった。先輩と、その義弟に当たる人、それと私の同期の4人である。前日は、時折大雨が降り、また雨のラウンドかと訝ったが、朝6時に起きた時にはすっかり上がっていた。私は、島本町、先輩とその義弟は高槻市在住である。何時も世話になっていることもあり、私が高槻周りで、枚方大橋経由で行きましょうというのだが、頑として聞いてもらえず、お二人は、先輩の妹即ち今日プレーする人の奥さんに送ってもらって、阪急の上牧まで来ると言われる。先輩はこうと決めたら、一直線的なところがある人なので、私は、7時に上牧駅で待ち、そこでバッグを積み替えて、大山崎の橋を経由して北側から行くことになった。枚方は淀川の対岸にある。この淀川を渡るのに高槻からの枚方大橋と、大山崎からの京滋バイパス下の道路橋しか無く、すぐ対岸に見える、樟葉などは、直線距離では極近いのだが、おいそれとは行けない。これらの橋の間隔は直線距離でも、10-12kmはある。私の住む島本町から山崎に至る場所は、浪速から京に至る東海道の隘路というか、多くの幹線が狭い場所をひしめき合って南西から北東に向かって通っている。この度開通した、第二京阪道路、国道1号線、京阪電車、東海道新幹線、阪急電車、東海道本線、国道171号線、名神高速道路そして、この淀川である。この地を睥睨するかのように天王山があり、羽柴秀吉と織田信長を討った明智光秀とが山崎合戦を戦かった戦略的にも極めて重要な地である。人で言えば、頸動脈に当たる部分と言ってもいい。この約10kmの間に、淀川を横切る橋はないのである。従って隣接都市枚方は、近いが遠い存在なのだ。今日は、その淀川上流の山崎で桂川、宇治川、木津川の三川が合流する橋を渡って、行った。枚方カントリーでプレーするのは今回で3回目である。いつもの高槻カントリーに比べて距離は360ヤード程度長い。前回ここで私は100を切ったのだが、と思いながら今日はどうなるかな、と密かに期待していた。先輩のナビゲーターのままに独特の道を経由すると、早めにゴルフ場に着いた。スタートは8:21である。パター練習場で、何度か練習をしたが、同期の友人は、早めに上がっている。聞くと「3発連続で入ったから」と言うわけだ。これが今日の彼の好調に繋がるとはその時は思わなかった。インからのスタートを若干追われるように進んでいった。出だしから、アプローチをグリーンオーバー、そして3パットと、冴えなかった。打上のショートホールは、後から考えると5だったようだが、申請を6にしてしまい、1打損をした。ロングホールでは、毎回チョロをしてしまうが、今日も1回当たり損ないがあった。グリーンを3オンで捕らえられそうになるとどうも力んでしまう。13番のミドルでは一寸腹が立った。スタイミーな打ち降ろしホールで、キャディーの言う狙い目通りに打ったら、一寸左にそれ、OBかもといわれ、暫定球を打った。探しに行く途中で、キャディーのガイドした方向は、違うグリーンの方向で、なんだということになった。暫定球は、早々と見つかったが、もう少し観ていると、第1球目もセーフではないか。キャディーは、何食わぬ顔で、ありましたかという。これには腹立ちを覚えた。グリーンには3オンしたが、3パットしてしまった。後で精算の時の領収書を見ると、キャディーフィーは4000円だという。昔に比べ、キャディーの質もマナーも悪化したものだ。私など、キャディーの言うことを聞かない方だから、必要はないのだが、枚方はキャディー無しでは回らせてくれない。次のホールもどうということはないのだが、アプローチでグリーンをオーバーし、動揺で、チョロするなど散々である。前のホールのいらだちを抑え切れていない。15番のロングホールは3オンまであとわずかであり、アプローチは寄せワン60cmだったが、2パットの痛恨ボギーだった。16番は、距離が長いミドルで、一度打上から打ち降ろしになる。これも2打目までは良かったが、アプローチで、グリーンをオーバーしてダブルボギーだった。次のショートは距離が長く、バンカーに入れ、2オンはしたが何と4パットもしてしまった。考えられない結果である。前半最終18番は打ち降ろしのミドルで、グリーン前には大きな池がある。落とすかも知れないと思ったが、ボールを変えるのを忘れて、そのまま打った。クリーンヒットで、フェアウェイ。第2打目を大きめのクラブで振ると、何と2オン出来た。しかし、バーディートライを意識してか、1パット目が外れ、結局3パットのボギーで終わる。昼食は、何もかも先輩の奢りでビールまで飲んだ。これが後半目もくらむような結果を招くとは思わなかった。1番は、左ドッグのショートカットで、一番有利だったが、2打目を失敗、グリーンでは、1パットが惜しくボギー。なんと言うこともない、2番ホールも本日2度目の4パット。馬鹿じゃなかろうかと思うくらいに腹立たしい。3番のロングでは、3打目をミスり、ボギーとした。4番ミドルはアプローチをバンカーに入れ、脱出に手間取り、トリプルだ。5番ショートもバンカーの3パットでダボ。ところが6番のロングホールで奇跡が起こった。2打目までは順調で3打目をガードバンカーに入れてしまった。その頃から、景色は白く霞み、強烈な太陽に頭がふらついていた。先輩も同じバンカーに入れ、珍しく1回で出ず、苦労していた。私は、それを見て、思い切り叩くと、何とバンカーからチップインしてしまったではないか。奇跡のバーディーである。グリーン脇の木陰で、本当に疲れた身体を休めていた。他の3人は、6,7,8,という成績で、このホールだけは気持ちが良かった。オナーの7番は、ラッキーも手伝って、2オンしたものの、3パットである。続く8番ショートは、長く、2オンをピン側70cmに付けたが、1パットで沈められなかった。最終9番ホールの2打目までは一寸グリーンに届かなかったが、順調で、アプローチにはいると、親指がつってしまい、4打目でかろうじてグリーンに結果オーライのオンだった。かくして、100を切れなく、最下位だったが、ミドルでの2オン2回、奇跡のバーディーなど有り、波乱のゴルフだった。それにしても4パットが2回、3パットが5回あったのでは勝てない。同期の友人は、何と9回も1パットで沈めているのである。如何にパットが大事であるかを思い知らされた。最後の3ホールは、朦朧としながらプレーし、且つ風呂場では手足がつるなど散々だったが、とても楽しいラウンドであった。
2010.08.11
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先ずこの記事で私は「へぇー」と驚いた。この調査は、三菱UFJメリルリンチPB證券が発表した「ワールド・ウェルス・レポート2010」によるものである。最近は、いろいろな思いが交錯して、政府なり、自治体なり、こういった民間調査機関の出す数字がどれほど信用のおけるものかと先ず考えるようになった。長寿大国日本と言うことが、世界中から疑惑の目で見られ、不明の老人が、日を追う毎に増加するのを聞いた時に、この「お上」の杜撰さは、頂点に達した。既に、世界中から馬鹿にされ始めているのだ。押っ取り刀で、役所が、今更ながら再調査を始めている。尤も、世界の人口大国、中国の13億人も、インド10億人も当てになったものではないのははじめから想定内である。無届けの人口がどれだけ居るのか、特に「一人子政策」を取る中国などは、子供を産みたいために田舎に第2子目を隠すなどと言うこともあるようだ。確かな証拠はないけれど、インドなどでも、あの混沌とした広大な国で、人口の完全な把握は極めて難しいと思うのである。日本もこういった国々と肩を並べるようになってしまったかと言うことである。今は、100歳以上が問題になっているが、核家族化が進み、昔の兄弟縁者を把握していた時代から、お前はお前、俺は俺と言った姻戚関係にあっても極めて、希薄な関係となってしまっているので、兄弟が今どこで何をしているのかを完全に把握している人がどれだけいるだろうか。かくいう私も兄弟の数は多いし、その子供(所謂いとこ)なども多いのであるが、動向を知るのは、年に1回の年賀状くらいである。今や、年賀状は、本人の生存証明になってしまった感がある。こういった問題が起こるのは、2003年に施行された「個人情報の保護に関する法律」というのが元凶であろう。それまではこういった法律など必要なかったはずなのに、何時の間にか、何処に行っても、「個人の情報に関わる問題ですから」とぴしゃりと扉を閉められてしまう。こういった法律は、大体に於いて、大半の善意の国民には不利に働き、少数の悪意の人々には、返って有利に働く場合が多い。これに真っ向から反対するものとして「国民総背番号制」がある。現在の「個人情報の保護に関する法律」には、下記のように書かれている。【一部抜粋】2 この法律において「個人情報データベース等」とは、個人情報を含む情報の集合物であって、次に掲げるものをいう。一 特定の個人情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したもの二 前号に掲げるもののほか、特定の個人情報を容易に検索することができるように体系的に構成したものとして政令で定めるもの3 この法律において「個人情報取扱事業者」とは、個人情報データベース等を事業の用に供している者をいう。ただし、次に掲げる者を除く。 一 国の機関 二 地方公共団体・・・である。これは、国がちゃんとした運用をすることが前提に考えられた法律であり、我々は、国に情報は把握されるが、それが個人に返ることはないというのが今回露呈した一面であろう。例として、サラリーマンの源泉徴収がある。これは、過酷な迄に厳然と履行されているが、一方、商売人や、個人店主、寺、宗教法人などは、やりたい放題である。何故このような不公平がまかり通るのか。何故一部の人間だけが、利益を必要以上に享受できるのかが問題である。事が性善説に立てば、これらの問題は、大半解決するのかも知れないが、人間誰でも、よこしまな心が起こることは否定できず、毎年、氷山の一角が、脱税などで検挙される、スケープ・ゴートが出るに止まる。年金なども、申告制で、受給資格を得ても手続きを怠れば、受給されないにも拘わらず取る方は容赦なく取っていくのである。インターネット子が役人について述べている。その10箇条は、日本官僚十大原則 1.自省の利益を軽んじてはならない。2.新規の工夫を考えてはならない。3.予算の節約を考えてはならない。4.業務の合理化を考えてはならない。5.失敗を認めてはならない。6.国民大衆を信用してはならない。7.大衆の利便を図ってはならない。8.日本人の利益を他国人の利益に優先させてはならない。9.日本を強くする事を考えてはならない。10.恥を恥と感じてはならない。ということらしい。言い得て妙なところが多いのは、一国民として同感な部分があるからである。自国民が、自国の役人を信用できなくなった時、何が起こるのか、それは、官憲による弾圧にまで繋がる恐れがある。話は違った方向に行ったが、「日本人金持ち世界第2位」は本当だろうか? 富裕の定義は、居住用不動産を除く資産額が約8500万円以上なのだという。その内訳は、アメリカが287万人で第1位(29%)、次いで日本が165万人で第2位(16%)、次いでドイツの86万人(9%)と続くようだ。日本人には、「ノーブレス・オブリージュ」という感覚はない。俺の金は俺が稼いだ俺の物だというものである。そして、昔発表された、長者番付も「個人情報の保護に関する法律」で一切公表されなくなった。発表されていた時の長者は、創業経営者、スポーツ選手、また芸能界の売れっ子などと相場が決まっていた。正に1%強の人に財が集中し、殆ど全ての国民は、働く口もないといった悲惨な状況である。しかし永年教育され続けた、多くのサラリーマンは、腹で文句を言っても、なかなか届かない。背広1着はおろか、靴やネクタイなども必要経費としては認められない有様が続く。取れるところからは搾り取れ、後は、放置しても問題はないということなのだろう。この間、社長の年収と、会社の純利益の記事があったが、殆どが、純利益2-300億円で、年収は2億円程度であった。ところが、日産のゴーン社長は純利益500億円で、破格の年収9億円だというのである。昨今海外経営トップが多くなってきた日本企業だが、日本人というのは正に井の中の蛙、世界を知らないということを如実に感じる。全てを鑑みて、この先、日本は亡ぶか、何処かの国の属国になるのではないかと危惧する。
2010.08.10
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連れ合いが観たいというフランスのサスペンス映画が京都シネマであるという。元々映画(洋画)が好きな私は、ついていくことにする。この夏を乗り切るために、昼食は奮発して外食で鰻を食べる心づもりである。先月末、ボストン美術館展の帰りに、京都河原町の「江戸川」で鰻を食べた。そこは、連れ合いの大学時代の親しい友達3人が集う時に、そのうちの一人からかねがね美味しいと聞いていた店である。落ち着いた雰囲気の、確かに美味しい店であり、客筋もゆったりした感じを受けた。その友人から、もう一軒、次点として教えられていた店が今回食べに行った「京極かねよ」である。ここは、テレビで1-2度放映されたらしく、昼の時間は、一寸待たねばならないくらいの混みようであった。テレビ効果は、げに恐ろしいものである。2階席もあり、下足札があるので、いぶかしく思っていると「ここは月末には、2階で、寄席をするのよ」と連れ合いが教えてくれた。なるほど、それで、今日も8月30日の寄席の宣伝ポスターが貼ってあった訳だ。1階は、それ程広くなく、狭いテーブルに相席をお願いしますと言うほど混んでいる。店先の入口の横では、頭にタオルを乗せたおやじが、炭火の上に沢山の鰻を並べて団扇で扇ぎながらさかんに焼いている。仕切りには、縦型の扇風機が置いてあり、香ばしい鰻の臭いが、待ち人の鼻をくすぐるという仕掛けになっている。また、張り紙には、「70歳以上の方30名様に元気をお分けいたします。」とあり、8月15日には先着30名様限定で「お元気ランチ」を無料サービスする企画があるようだ。このサービスを受けるまでには、我々はまだ一寸時間が掛かるようだ。さらに、車いす拠金もしているようで、その拠金箱も置いてあった。店主が書いたのか、店には「曼魚無双」と書かれた書があった。宮川曼魚という東京・日本橋に生まれの生家が鰻屋の日本の随筆家で江戸文化研究家が居るようだが、その人とは、関係はないようだ。「曼魚」とは鰻を分解し二枚に開いたという意味もあるらしく、「無双」は、二つとないこと、とか並ぶものがないほどすぐれていることを意味しているから、鰻を開いて蒲焼きにしたら天下一品であるということの意味らしい。程なく席に着き、連れ合いが勧めるまま「きんし丼」と「きも吸」を注文した。きんし丼とは鰻丼の上に卵焼きが乗っかっているという代物で、私は初めての経験である。「並でいいよ、並で」とややもすると暴走気味の連れ合いに先手を打って言う。運ばれてきた「きんし丼」には確かに丼を覆うほどの大判の卵焼きが乗っかっている。その大判の卵焼きをそっとつまみ上げて、テーブルの山椒を掛けることになる。片方ずつ持ち上げて、全面に山椒を掛けた。当たり前だが、食べ方は、自由である。しかし、先に卵焼きを平らげてから下の鰻丼を食べる人はいないようである。同時に食べるのが自然のようだ。確かに旨いが、漬け物の小皿は、大きく欠けている。洗い方が荒っぽいのかも知れないが、やはり、こういった小物を大切にして欲しいものだと思いながら食べた。忙しなく、客が出入りする。余り落ち着いた雰囲気ではないので、食後直ちに店を出た。連れ合いの感想では、やはり「江戸川」の方が雰囲気も良いし、断然美味しいとのことだった。味をそれ程鋭敏に感じない私は、まあ、どっちも美味しいが、やはり「江戸川」に軍配が上がるかと、やや追従的な感想を持った。帰って調べて見ると、今日行ったのは「京極かねよ」というところで、どうやら本店は(というか、京極かねよとの関係は知らないが)大津市にあるらしく、明治5年創業の老舗で、800坪の広大な庭園を有するところらしい。そこには、百人一首の三条右大臣が「名にし負わば逢坂山のさね葛 人に知られで来るよしもがな」と詠んだ名木「さね葛」が現存しているという、なかなか粋なところらしい。それはさておき、店を出てから、一寸急ぎ足で、京都シネマに向かった。映画の題名は「華麗なるアリバイ」というフランスのサスペンスである。13:10上映と言うところ、20分ばかし前に着き程なく席に着いた。映画は例によって、数編の予告編から始まる。そして、正に「華麗なるアリバイ」が始まり、前の客の頭が若干気になり、字幕スーパーが読みにくいので、身体を少しずらし、背もたれに頭を乗っけるようにした。するとどうだろう、その瞬間から、目が開けていられないくらいに睡魔が襲ってきたのである。せっかく来たのだし、これではいけないと、気合いを入れるが、殆ど効果はない。そのまま、時折目を開けるが、脈絡はつかめない。終わり頃に急に目がパチッとし出した。老夫妻がベッドでなにやら諍いをしているのに続き、娘がプールで自殺(?)しかけている男性を助けるというところだ。なにやらこれが、若き作家のフィリップ・レジという男である。精神分析医としては優秀な男ピエールの破天荒な、女性関係が絡み合い、やがて殺されるのだが、その犯人がクレール・コリエという妻であるという終結である。これは、私などには最初から観ていても筋が分からないような、三角、四角関係の痴情がらみの物語である。聞けば、アガサ・クリスティーの作品であるが、名探偵ポワロは、作家の意図で、この物語では消し去られている。推理サスペンス物語の「起」「承」「転」の部分を寝ていて観ずに「結」の部分だけを観たのであるから、全体が分かろう筈もない。私が見たのは、エステルというピエールの現愛人が逃げる際に足を滑らせ屋根にテレビのコードで掴まっているところを、妻で夫殺しの犯人であるクレールがそのロープを切ろうとし、駆けつけた作家フィリップに気づいたクレールが逆に足を滑らせ地上に転落死するという場面であった。映画を見に行って、その一部始終を、話して聴かせて貰ったのは初めてのことであり、全く何をしに行っていたことかと、恥ずかしくなる。美しい女優も、ピエールのかつての恋人として事件に絡んでいて、警察による女優の聞き込み時には、パリの町並みが放映されていたと後から聞き、何とも残念な気がした次第である。
2010.08.09
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今日は久しぶりに一日中家にいた。何とはなしに思いついた事を書いてみる。一昨日の日経「春秋」で鈴木梅四郎のことが書かれていた。趣旨を抜粋すると、「鈴木は三井銀行に入り、当時の県知事の月給が300円から350円であった時、5年目にして月給300円に跳ね上がるという出世振りで、王子製紙を発展させた功労者だ」との紹介だ。「当時は社員に実力があれば年齢に関係なく、経営者の裁量で厚く遇する時代だったと言うことである。最後に、野村証券は来春の新卒採用で、報酬が成果に連動する初任給54万2千円のコースを設け、約40人を内定したとあり。ぜひ会社の期待を上回ってほしい。」と書かれていた。春秋子は野村證券の新しい人事制度のことを言いたかったのであろうが、私は、鈴木梅四郎のことを初めて知ったのである。もう少し調べてみると、この人は何でもやっているが、医療費の重圧から庶民を解放するために「医療の社会化」を目指したということで紹介されている。鈴木は福澤諭吉の愛弟子として育ち、慶応義塾を卒業後、時事新報社に入社している。在学時代、学費不足のため、福澤の紹介で当時社長だった中上川彦次郎の時事新報社でアルバイトをしていた縁で入社したのである。 横浜貿易商組合の顧問となった後、中上川彦次郎が三井銀行入りし、大改革に着手することになった時、鈴木も三井銀行に入行する。その後、各支店長を務め、上記のように5年目で月給300円と破格の厚遇を得たというのである。そして、請われて王子製紙専務取締役に就くのである。邦光史郎の「三井王国」では鈴木梅四郎については少し名前が出ているだけである。工業立国を目指す中上川が王子製紙の渋沢栄一の増資話に端を発し、王子製紙乗っ取りを意図して藤山を送り込んだとあるが、鈴木との関係はつまびらかではない。この時代、王子製紙の周辺は医師が不足していて、交通の便も悪いために、周辺の住民に対して、工場の医師を往診させることにした。医療局を工場の職工だけでなく、周辺住民にも開放して、通常の半額程度で診療することにし、経営的には十分に成り立ったのである。この辺からは「春秋」に書いてある趣旨とは離れるが、この鈴木梅四郎は、今回姉が診療を受けた、「済生会」を実費のみで診療することを目的とする「実費診療所」とすべく趣意書を発表した人物である。 ところが、診療者数の拡大に警戒感を強める医師会は、実費診療所つぶしに動き、鈴木の構想に対する医師会の抵抗は、凄まじいものであったというのだ。その後、彼の運動は健康保険法の制定、「衛生省」を頂点とする医療国営を提唱するに至った。歳末無料診療を試みるなど、医療の社会化への試みを続けたが急性肺炎のため77歳で亡くなったとのことである。江戸末期から明治の英傑を見るに付け、現代の宰相を始め、民間会社のトップにしてもなんだか小粒になったような気がする。「ごまめの歯ぎしり」という言葉があるが、ごまめにも満たない私が言うのも何だが、とにかく閉塞感から抜け出られない。前に述べた、中上川は山陽鉄道(やがて国有化され山陽本線となる)の社長であった時代、金融難で、大株主から社員の給与を減額しろと圧力が掛かった時、給料50円以上の高級社員全員を解雇したというエピソードがある。また、山陽鉄道の本社敷地3万坪は、社屋がたった100坪なのに比べ、広すぎるので売却したらどうかとの株主要請にも、「本来は、やがて下関まで伸びる鉄道の本社であり、10万坪は欲しいところを3万坪で我慢したのです」と一蹴している。やがては、そんな株主との軋轢に嫌気が差し、折からの井上馨の要請で三井銀行の建て直しを依頼されるのである。山陽鉄道を退社して三井財閥に入り、三井財閥が政商として抱えていた明治政府との不透明な関係を一掃して財務体質の健全化を図ったわけだ。当時の政商三井はお上には甘く、不良貸し付けなど当たり前で、従業員は、御用商人であり、ぺこぺこお上に平身低頭する一方、満足な給料ももらえず、本業はぶらぶら、サイドビジネスに明け暮れるといった状態であったようだ。そこに、前に述べた、慶應義塾出で、ジャーナリスト上がりの鈴木梅四郎などを引き連れて乗り込み、旧弊を一蹴したと言うところである。しかしやり方が大胆であるだけに反対する者もいた。世に能力主義とは聞こえが良いが、その能力を見い出し、且つ正当に評価するのは誰かと言うことになるとこれは極めて難しい。いわゆる親分子分の柵を作るのが、今まで私が見聞きしてきたことである。その親分は必ずしも正当な能力を見い出す力はないし、その子分には必ずしも能力があるとはいえないであろう。例え部下が苦言を呈しようとも、その時必要なことは何かをわきまえているようなトップなら、その部下を登用するということができるなら理想的だが、世の中はそうそううまく行かない。また、時流というものがある。いわゆる将来を見据えても、尚、人知の及ばぬ事態が起こるということだ。その時流を読み切れず、間違った方向に導くと、これはとんでもない結果になり、後世に付けを残す。だからといって、何の理想もなくただ手をこまねいていたり、不作為を重ね、大衆に迎合するような施策に明け暮れたり、自分が生きている間だけは何とか済ませようという輩が、一国の宰相を始め多すぎる。国家百年の計などというが、百年といえば、昨今の行方不明老人は別としても、まだ生きている人もいるわけで、とてもそれくらいのスパンでの遠望では済まないというのが現代社会ではないだろうか。明治維新時、3千数百万人だった日本の人口が、1億2千万人を超えやがてはまた減少する予想だが、日本国内だけを相手にしていた時から比べると、急に世界69億人を相手にすることになったわけで、それだけでも大変なのに、これとは逆比例するように、人物が急速に小粒化している。唐突だが、自由主義、民主主義とはげに難しいものだと思う。今日のNHK「龍馬伝」では、薩長連合に奔走する場面で、約束していた、長州桂小五郎に会わず京に上った西郷を訪れ真意を糺す。理由はあったが、約束を反故にしたので、もはや長州との連合はあり得ないという西郷に、坂本は「悪かったら、ごめんちゅうたらええきに・・」といい、その手みやげとして、軍艦10隻、ゲベール銃等数千挺をせよと迫る。この時、私はとっさに、何百丁かの銃を手みやげにと位言うのかと予想したが、桁が違っていた。やはりごまめ以下の考えは小さいと感じた。実際、薩摩藩は10万両という大金をはたいて、坂本の作った亀山社中を通じて、グラバーからこれら武器を購入し、長州に届けて、この大同団結はなったわけだ。軽々しく「平成の龍馬」を自称した無能な、元大臣もいたが、真の意味での大物は居ないかと、毎日ごまめ以下の私などは切歯扼腕しているのである。
2010.08.08
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3日にどさくさに紛れたような入院をした姉は、入院への十分な準備の無さも手伝って、かなり動揺と、力を落としていた。機械的に、行くところもなく、済生会病院の紹介と言うことで、豊中平成病院へ入院したわけだが、そこは、いわゆる老人病院のようなところであり、今流に言えば、ケア・センターといったところのようだった。しっかりと治してくれるだろうか、というのが一番の心配だったわけだ。インターネットで調べたら、まだ創立2年ほどしか経っていない若い病院のようである。医師を含めたスタッフは充実しているのだろうかなど、疑心暗鬼になってしまった。我々も疲れていたので、そうなったのかも知れない。あるスタッフが姉に「寝たきりにならないようにリハビリしましょうね」と声を掛けてくれたらしいが、それを、その程度にしか回復しないのでは、困ると考えたようだ。連れ合いも私以上に大変心配してくれて何とかしなければと一生懸命になってくれた。私一人なら、そこまで、やれたかどうかは分からないし、とにかく早い内に何とかしなければという気持ちがあった。私はふと、先輩の知り合いで、定期のゴルフコンペで1回、プライベートに1回ゴルフのラウンドを共にした近くの病院の元外科部長という先生の名前を思い出した。また、先輩が主唱する英会話学校でも一緒になったことがあるので、あながち知らないわけではない。その先生の病院なら、我々の家からも近いことだし、ケア・センターという感じでもなく安心だろうと、そこへの転院を考えた。先輩に労を煩わせ、先生にコンタクトを取ったら、済生会病院からの紹介状があれば、何とかしてあげられるとの回答だった。渡りに船の言葉に、昨日、済生会を訪れたのだが、既に転院している方の紹介状を再び書くことは出来ないと言うことであった。一寸落ち着いて考えるとすぐ分かるのだが、目的意識にとらわれすぎる余り、そのような単純なことまで気がつかなかった。要は、転院したいのであれば、既に入院をしている豊中平成病院からの紹介状を貰わなければなければならないというわけだ。転院希望は、我々が見舞う上で、不便だからといったことが、表に出せる理由である。お宅の病院では心配だ等とは言えないわけだ。しかし、整形外科の専門病院でもなく、医師も週1回の外部回診という勤務表を見ていると何とも心もとなくなるのはやむを得ない。連れ合いも強く背中を押してくれ、思い切って、責任者の方に転院をお願いするつもりで姉を見舞った。今日は本来であれば、連れ合いの元同僚の先生の誘いで、醒ヶ井の養鱒場等を訪れる約束になっていたのだが、そちらの方は断ることにした。前からの約束ではあったが、そんなことなら「醒ヶ井は逃げませんから」と快く了解してくださった。姉に電話を掛け、病院へ行って会ったのだが、入院した当日とは打って変わった如く快活になっていた。ベッドから起き上がる時の痛みはまだ治ったわけではないが、コルセットの採寸も済ませ、11日には、コルセットも出来上がる予定であり、更に明日からのリハビリのスケデュールもしっかりと組まれていた。そんな扱いと、親切で丁寧な応対に、姉は平常心を取り戻し、この病院でやっていくという決意を固めていた。前日のテレビの導入や、ベッドを電動で起伏できるように替えて貰ったりしていたので、わざわざ転院することもないという感じであった。転院希望先の先生に相談すると、病名からして手術の必要はない状態であるし、ケースワーカーの段階での扱いになるから、その点では同じ事だと言うことを聞かされ、姉も、親切にして貰える環境に満足とは行かないかも知れないが、多くを望むわけでもなく、リハビリもしっかりとしてくれるという安心感で、転院の事はなかったことにして貰った。大山鳴動とまでは行かないが、先輩と、その先生には、大変な気苦労をさせてしまい、真に申し訳ない気持ちになった。先輩も、その先生が、同期であるとか、近しい関係ならまだ良いのだが、そこまででもなく、ご自分が通院されていることや、前に述べたような関係なので、返って変な心配を掛けてしまうことになり、申し訳なく思った。姉は今までずっと独居生活をしてきているわけで、本人はまだ若いつもりだが、世間的に見れば十分老人である。入院している他の老人達は、もう少し年配の方が多いようにも見えるが、その方達と同様に扱って貰いたくないというのが、最初に感じた点である。いずれにせよ、骨折は、日にち薬であるから、ある期間は安静にしていたり、運動はもちろん変な態勢でいることは出来ないわけだ。昔、私の母も、晩年に道を歩いていて、溝にはまり、足を骨折したのを機に入院する羽目になり、ベッドで、横たわるだけのことで、治った頃には、既に起き上がれず、そのまま寝たきりの生活となってしまった。私も、姉もそのことも知っているので、多少不安になったわけである。気持ちをしっかり持って、再びゴルフをするのだという気構えで、周囲に惑わせられないように、マイペースでリハビリに励むように忠告した。姉ももちろんこのまま寝込むわけには行かないという点では同じであるので、しばらくの間リハビリメニューをこなすことになるだろう。入院の日は、取るものも取り敢えずと言うことでの押っ取り刀の1日だったから、今日行った時には、リハビリ時のシューズを初めとして、何かと持ってきて欲しいものがリストアップされていた。病院と姉の自宅とでは、車で、30-40分の距離であるから、必要なものを取りに帰り、再び病院に向かった。明日は我が身ということになるのであろうが、この国の病院行政も何かと大変であることを身を以て感じた。医事法というのであろうか、手術を要しない姉のような怪我(骨折)の場合は、通院が建前であり、その入院を許すベッドの余裕も無いというのが実情のようだ。そう言えば、高齢化が進み、今でも医療費の問題では、国会でも喧喧諤々とやっている最中ではないか。少子化がますます進み、従属人口比率(65歳以上人口/15-64歳人口)は高まるばかりである。また、折からの長寿国の欺瞞が暴露されつつあり、100歳以上の老人の行方不明者が日を追う毎に多くなっている。互いに連絡を取れることだけでも有り難いと思わなければならないのだろう。今はただ、姉の痛みが取れ、通常歩行はもちろん、再び遊びながらグリーンを歩ける日が来ればいいのにと病院を後にした。
2010.08.07
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4期目のNHKの講座の第5回目があった。今日の画家はマネである。去る5月28日東京丸の内の三菱美術館でマネとモダンパリ展を鑑賞してきた。その時の様子は、当日のブログに書いたとおりである。その時の作品を思い起こしながら今日の講義を聴いた。マネの作品に入る前に、マネについての梗概の説明があった。王政が絶対であったフランスは、ロココの時代であった。その後フランス革命を経て、絵画の中心は貴族のものではなく、国立アカデミー(サロン)が中心となる。王政の時代は一も二もなく権威は王や貴族に依っていたが、その代替として、国立アカデミーが、絵の価値を決める権威的バックボーンとなったという。一般の人は、多量に絵画を購入することは出来ないが、1-2点は良い絵を飾りたいと思い、それには、名の通った、権威のある絵画を求めると言うことになる。その権威づける立場にあったのが、サロンである。画商や、サロンでの評価が意味を持つことになる。絵画同様に、音楽の世界でもこういった権威付により動かされるが、中には、権威に反抗することこそが芸術だという、反骨精神もまた芽生えた。フランス人は特にこういって傾向のある人種のようである。音楽で言えば、モーツアルトなどはこの反骨の代表的なものであろう。マネは音楽家ブルックナーと同世代の人であり、マネ同様、ブルックナーもまた、反骨の持ち主であったようだ。大衆は芸術家の後を行くものだというのが彼らの考えである。さて、今日最初に紹介されたのは、「両親の肖像」であった。この作品は、東京では出展されていなかった。高級官僚である法務次官の父とスウェーデンの名門に生まれた母の共に威厳に満ちた肖像画である。この作品はサロンに入選している。次の「スペインのバレー団」も東京にはなかった。マネはスペインに趣味があり、纏まりのない、この作品は余り評判を呼ばなかったが、後のマネの作品に繋がるものである。「草上の昼食」は我々には馴染みのある作品であるが、この作品を含め4点をサロンに出品したが、ことごとく落選した。時にサロンに出展された数は5000点に及んだという。この絵は、現在オルセー美術館にあり、かなり大型の作品であった。この頃のサロンは活気があったが、批評や入選作品の選び方に疑問が出されるなど、その権威が揺らぎ始めたのだという。こういった落選作を集めた落選展がナポレオン3世によってチュイルリー宮殿にて開かれた。大衆迎合的であったにせよ、サロン一辺倒からの脱出と言うことだろうか。「草上の昼食」にある、後方の半裸の女性と、正装した紳士の中にいて、此方を凝視する全裸の女性の構図は当時としては極めて異色であったろう。これは、ラファエロの「パリスの審判」に依拠したとも言われ、ジョルジョーネとティツァーノの「田園の合奏」とも似た構図である。しかし後の2作品は、対象をギリシャ神話に基づいており、神話に基づいた裸体表現は許されるが、日常生活にヌードを持ち込むことを当時のサロンは認めなかったと言うことである。以前に紹介のあったクールベの「セーヌ河畔の女達」も下着姿で横たわる女性2人だが、こういった作品もふしだらであるとされた。「オランピア」はマネの代表的作品の一つであろう。この作品はウフィツィ美術館のティッツァーノの「ウルビーノのヴィーナス」を模写する形で描いたものであるが、ティッツァーノの作品中の犬が、マネの場合には黒猫に変わっている。黒猫により、悪魔性を描き、挑戦的な絵である。「ナナ」はオランピア同様娼婦の源氏名として使われていた。この作品もサロンでは受け入れられず、落選したが、高級娼婦を右で待ち受けるシルクハットの紳士もまたおもしろい。この対比として、前にも出たコローの描いた「青い衣の女」が説明されたが、当時の普段の女性の限界はコローのそれである。「ナナ」は特別高いヒールを履いて、扇情的姿でこちらに向かって微笑んでいるのは、いかにもエロティックである。「笛を吹く少年」は遠近法もなく、光線による陰影もなく、バックは乳白色一色で描いている方法は当時としては信じられないことであった。従ってこの作品も落選の憂き目となったが、三次元を二次元化して描くやり方がどうして駄目なのかとの意気込みであり、故に「現代美術の父」と言われるようになった。この作品は、私の友人が高校時代にレリーフを彫って、進呈してくれたことで私には特別な意味を持っている。「エミール・ゾラの肖像」は連れ合いが絶賛する作品である。クールベの描き方を、選ぶ対象は別としてドラクロワが絶賛したように、美術評論もするエミール・ゾラはマネをかっていた。それ故の恩義を感じて描いた作品であるが、背景に相撲取りや、日本画が配されていて、当時は常識とされた、ジャポニズムに染まった絵である。「バルコニーの人々」は2人の女を白い色でまとめ、中心の男は背景の黒に溶け込ませ、奥行きを無視したように描いている。左側の椅子に座る女性はベルト・モリゾであると言うことを初めて知った。そのベルト・モリゾを描いた「ベルト・モリゾの肖像」は、実物は小さいながら、惹きつける絵である。男性画家の中にあって、モリゾ自身も絵画を描いているが、美人でもあり、潤滑油的な存在であったようだ。マネとの恋愛関係が推測されるが、モリゾは、結局マネの弟と結婚し幸せな生涯を送っている。講師は個人的にこの絵が好きだと言っていたが、連れ合いも、私もこの絵は、何か惹きつけるものがあると一致している。「サン・ラザール駅」はサロンに入選したものの、批評は芳しくなく、物語性も、内容もないと酷評されている。スナップ写真の中心を一寸ずらして描いただけではないかとの批評もあったらしい。このモデルも、「草上の昼食」のモデルも、「オランピア」のモデルも同一の、プロのモデルであったという。最後の作品「フォーリー・ベルジェールの酒場」は女性売り子を正面に描いていて、背景には酒場(キャバレー)の喧噪状態が描かれているが実はこれは女性の後ろの壁にある大きな鏡の鏡面反射の図である。それにしては、女性自身は正面を見て真ん中にいるにも拘わらず、鏡に映った背中は右にあり、紳士とやり取りをしている風に描かれている。構図が奇妙なことを承知で描いているわけで、この作品を描いた翌年に没している。印象派のモネとは7歳違うが一時期ラップしていたと言うことだ。
2010.08.06
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何だ、という驚きと、そこまで疲弊しているのかという落胆と、こんな社会に導いた、日替わり宰相国の体たらくを嘆いた。それを選んだのは間接的とはいえ我々国民である。しかし直接選挙ではないだけに、じゃあ、その時、真面目にどの党を選択(実際には自民党)すれば良かったのだと聞かれると、言葉もない。私などは、何の余談もなくこの記事を読んだ時に感じたのは、驚きはもちろん、核家族化による、不要老人のスピンアウトが元凶ではないかと思った。核家族化がどの年代から始まったのかを見てみると、日本の場合、1920年には過半数の55%が既に核家族化していたという。ずいぶん昔から核家族化は始まっていたことになり、不明老人の直接の原因をここに求めることは無理があるのかも知れない。そしてこの核家族化は1960年代に急激に上昇したものの、1975年の約64%を頂点としてその後は徐々に低下し始めているというのだ。この核という字は原子力の核という意味ではなく大家族や複合家族に対する言葉としての細胞の核という意味の言葉であり、米国の人類学者のジョージ・マードックが使い始めた言葉の邦訳だという。核家族の形態は「夫婦のみ」が約20%、「夫婦と子」が約30%、一人暮らしが約8%という割合であると言うから60%近くは未だに核家族なのである。昔からこの形態は、家族の単位としてあったわけだが、医学の発達というか、とにかく心肺停止するまでは、あらゆる高度な技術を駆使してでも、呼吸の管や、食物のための管を使ってでも1分でも1秒でも屍の如き姿でも活かそうとする間違ったやり方にあると思う。こうして高齢化した人も、財力があれば、どこの病院でも引き取って、金蔓とすることはあるだろうが、金もなく、命ながらえたところで、何の得もなければ、自らが意を決して、一人で姥捨て山に行くしかないのであろう。深沢七郎作の「楢山節考」では、信州の寒村の辛い風習を次のように描いている。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わしとなっていて、それは、死を意味するのである。気が進まない孝行息子の辰平も六十九歳になった母を背中に背負って楢山まいりへと出かけていく。そうしたくはないが、家計を考えると村の決まりを破ることも出来ないという哀れな話である。現在は、その六十九歳が、九十九歳になったという事なのだろうか。新聞記事によると、「不明100歳以上、61人に 東大阪は13人確認できず」であり、何故か大阪府が断トツに多い。ミイラ化した老人発見は1週間位前のことであった。その時は、老人に支給される、年金を貰い続ける残存家族の詐欺に近いもので、死体が匂う、匂わないという議論や、即身成仏をしたいとの意向だなどと、尤もらしい話もされていた。その程度の話なら、過去にもあり、それ程驚くこともない、ゆがんだ家族だという程度の認識であった。ところがその後、出るは、出るは、今日現在でも61人と言うから、まだまだこの数は増え続けるであろう。日頃何もしない社会福祉関係の役人達が大あわてで実態を調査しようとしている。ここでまた国民皆背番号制があれば、ちゃんと管理は出来たのにとかの声を聞くが、とんでもない言い訳である。国勢調査なるものを何のために行っているのか、そして、この時代どれだけのコンピューターが使われているというのか。さほど大きくもない、市町村単位の人口把握はそれ程膨大なものでもなく、まして、100歳以上などという人達はその中でも人口10万人当たり40~50人もいれば多い方である。そして、長寿祝いとかで、お祝したりしているにも拘わらず、実態がこうも杜撰であることを、文明国として、全く嘆かわしいと言わなければならない。そして、放置100歳以上を計算に入れて、「福祉国家」でございますとはよくも言えたものである。長妻大臣も、消えた年金が、よもや、こんな架空の人達にも支払われていたと言うことには思い至らなかったであろう。もちろん、その中に何人かは生きておられるやも知れないが、70歳を超えた息子や、娘(?)達が、一向に連絡が取れていないというのにも拘わらず、放置されていることに関して、怒りを通り越して、あきれてしまう。続々と出てくる失踪老人の話。この実態が明らかにされれば、誰が責任を取るのだろうか?大臣が替わるという話が良くある、それより前に、官僚、役人の不作為を咎める法律はないのかといいたい。それがないから、適当に担当者を処分したり、大臣が替われば改善されるだろうくらいな対処が、日本の慣行である。何時までもトカゲのしっぽを切っていて、実際に実務権限を持つ担当した連中を放置しておけば、のど元を過ぎたらまた元の木阿弥になってしまうだろう。世の中、政治家もそうだが、何か積極的に法に触れることをしなければ、何もしないでも(不作為)罪科はなく、段階的に給与も上がり、ボーナスももらえるのが役人である。従って、こういった体質にあっては、誰も危険を冒して新しい試みをするわけがない。新しい試みで、効率が良くなったからといって、彼らが加点され、それが給与とかに跳ね返るシステムではないからである。ならば、何で危険を冒して、旧弊を糺す必要があるだろうか、常識人ならまずはそんな冒険はしないだろう。従って、前例はないかとか、前はどうしていたかという風に、敷かれた軌道を走ることしかしなくなるのであろう。今求められる政治主導は、こういった、旧弊、それによって得た、既得権などを打破し、本来の姿に戻ることであろう。今まではなかったが、本来はこうあるべきだとか、真に戦い、潰さなければならない前例は何かなどを求めることを言うのではないだろうか。これを、前例を金科玉条に、大きな志もなく、私腹を肥やすことにのみ汲々としているような連中(議員)に任せてはおけないと言うことではないだろうか。良く官僚を使いこなすとか言うけれど、政治を志すものは、もちろんある程度の見識を有するのは当たり前のことではあるが、東大に代表されるように、ペーパーテストでは敵うことが出来ないくらいに優秀な人材が、営々と勤め上げた組織をそう簡単に使いこなすことなど出来ない。それが出来ると豪語するなら、それは、大いなる幻想であり、思い上がりである。今まで政治を志したことがない連中が、ある点で、国民の知名度が大きいからといって、それがどうだというのである。その点で官僚を使い切る???とんでもない話だ、毎回秘書のレクチャーを受けないと話も出来ない連中を選んだ国民にやがてはそのツケが回ってきて、もうそれが抜き差しならぬ状態まで来ていると言うことなのであろう。
2010.08.05
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連れ合いが奉職する学校の校長先生とゴルフを時々しているが、去年の5月に最初にプレーを始めて既に今日で5回を数えることになった。先生は、島本町に2個所あるゴルフ場の1つである、ベニーカントリーの会員になられたようで、謂わば本拠地であるが、私の家からも30分足らずの裏山に当たる。我々の同期のコンペでも1度プレーをしたことがあるが、結構フェアウェイに起伏のある難しいコースである。そのベニーカントリーでは既に3度プレーをしている。100を切ったことは2度ほど有り、私としては比較的相性が良いと言っても良いコースである。先生とのラウンドで最悪なのは雨の中の三田27での115という昔のスコアと同じくらいの成績がある。三田27では2度プレーしたが、いずれも同じようなスコアで、ここは少し長めで、且つバンカーが非常に沢山あるために正確なショットが求められ、なかなか良いスコアに繋がらない。そのほかにも家族でラウンドした時もあり、同じようなスコアであったことから、私の実力は高々この程度だと言うことかも知れない。前回は紫香楽国際でのラウンドだった。ベニーカントリーと高槻カントリーの丁度中間くらいの距離で、フェアウェイも結構広い。そこでは100そこそこで回ることも出来たが、今日のラウンドは初めての茨木国際カントリークラブである。もう一つ茨木カントリークラブというのがあるが、私は、国際が付く方が良いのかと思ったが、どうやら、格は茨木カントリーの方が上で、茨木カントリーは、プロも使うというコースなのだそうで、会員規制も未だに厳しく、おいそれとプレーができる場所でないということを知った。また茨木国際カントリーは、よからぬ人も会員になっていることがあるので、決して後ろから打ち込むようなことをしてはいけないといつもの先輩が助言してくれた。なにやら、気が引けるが、それを聞いたのが、プレーの2日前だったので、そのまま行くことになった。場所は、通常のゴルフ場よりも随分近い。念のために1時間を見て6:30にはマンションを出た。ゴルフ場到着は、スタートに1時間以上前であった。なにやら、クラブハウスの前は、ブルドーザーが土を掘り起こし、植生のために木々が運ばれている状態である。聞けば、大規模なクラブハウス周辺の改造を行っているとのことで、これが出来上がれば、大阪一というか、なかなかのものになるらしいが、取り敢えずは、パターの練習場など、スタート前の小さなところしか無く余り良い感じではなかった。更に来て分かったのだが、ここのカートは完全手動運転で、カート道を辿って自分で運転しなければならない。であればコースに入って良いのかというとそれは駄目だという。あくまでカート道を辿って欲しいとのことである。出発前にキャディーのおばさんとの話したのだが、こんなにお金を掛けて、カート道も含め工事をするくらいならついでに電動カート用の電線を埋め込めばいいのにといっていた。電動カートは、1台120~150万円位するのだそうで、おいそれと全部帰ることは出来ないだろうが、完全手動(リモコンがない)となるとかなり不便である。ドバイでプレーしたモンゴメリー・ゴルフクラブはやはり手動運転であったが、フェアウェイ乗り入れば自由で、ただ、グリーン周りの5-60ヤードのみ禁止されていた。これだと、打つ順番にカートをそこに付け非常に楽であるが、乗り入れが出来ないと、打ってはまた元に戻らなければならず、それを思うと、なかなかゴルフに集中することが出来ないという感じだ。例えば、右にカート道がある場合、左にボールを引っ張ってしまうと、カート道からボールまでの往復で疲れてしまう。そこに持ってきて、早めのスタートをしたのだが、後続も早めにやってきて、常に後ろから追われる感じがする。後ろの組に変な連中が入っていないことを願いながらも、やはり気になる。順調に前に進んでいる時は良いが、OBなどしてしまうと、ボールの行方を確認するためにますます遅れ気味になる。それでも、前の組に追いつくこともあり、全体としては大過なく進んだ。汗かきの私のことである、2-3ホールを済んだ状態で、パターをしようとすると、帽子から汗がぽたぽたとボールの上に落ちて、まるで雨の中でパターをしている感じになる。前半の半分を済まないうちに、下着からズボンの上まで汗はびっしょりと外からも見えるようになる。最初の3ホールほどは、ボールを左に引っ張る形で、真っ直ぐは飛ばない。2ホール目などは隣のコースに出てしまい、そこから戻すには、林の間をくぐらなければならず、更にバンカーに入るなどして、ダブルスコア以上の大叩きとなってしまった。前回のコンペの再現フィルムのようだ。一つおいての5ホールでは、ティーショットを左に引っ張りOB打ち直し後2打目が右のフェアウェイバンカーに入ってしまった。そこからまたOBそして、3パットになるなど、もうどの位打ったのか分からないくらいで、2桁を記録する羽目になった。それからあとの前半は何とか、普段の自分に返ることが出来たが、5番ホールまでの大叩き2ホールがたたって、散々な成績だった。昼食時も、さして食欲はないが、とにかく詰め込んだ。前半は西コースだったので後半は、工事中で、クローズされている東コースではなく、北コースに移った。最初のホールは、ダボだったが、2ホール、3ホールとも第2打をOBしてしまい、またまた大叩きである。ところが2ホールは7打目にグリーンエッジに止まったボールをパターでねじ込み、チップインのダボで納まったのはラッキーといえばラッキーである。更に、ショートホールは、打球を誰も見ていなく、私自身もどこに飛んだのか分からない有様で、プレ4を無視し、打ち直してみると、何とワンオンで、ピン側30cmではないか。グリーン周りを探すと、第1打は、かろうじて白杭を外れていた。またOBである。2打目を1パットで沈めたので、本来は「ナイスバーディー」と言うところだが、OBの2ペナで、結果はボギーだった。後半だけでも3つのOB、全部で4つのOBをしたのだから、結果は推して知るべしである。最終ホールは今日一と言われるくらいに快心のティーショットがフェアウェイのど真ん中に落ちた。2打目も良い当たりだったが、真ん中のバンカーに転げ落ちてしまいグリーンから遠く2打目でやっと脱出できるなど手こずってしまった。後半は連れ合いもそうだが校長先生もふらふらの状態で、とにかく最終までやり抜くことが、今回の目標だと言うまでに疲労困憊していた。普段汗をかかない連れ合いも、終わってから随分と汗をかいていたようだ。持って行った500mlのお茶は、全て無くなり、途中で補充した4本も全てからになるという、大変なサバイバルゲームだった。私も幾度か軽い立ちくらみのような症状だったことがある。とにかく夏のゴルフは暑いが、今年は格別である。連れ合いの話では、お風呂場の脱衣場で熱中症の症状で寝ている人が2人居たというから相当だ。ゴルフ場をあとにして、入院中の姉を見舞いに豊中平成病院に回った。この間まで一緒にラウンドしていた姉が、起きるのも辛そうにしていた。早く治ればいいのにと願いつつそのまま帰宅した。
2010.08.04
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先月末、連れ合いと、ボストン美術館展を見、京都で買い物をするなど、酷暑を乗り切って、さわやかな気分になって居たが、姉はどう過ごしているのかとご機嫌伺いがてら電話をしたところ、スポーツジムで、左手首を骨折したという。本人の声は至って元気だし、左手なので、何とか日常のことはこなせるという。寝耳に水的なことであったが、取り敢えず、中津の済生会病院で、診察を受け、担当の(手首専門の)医師が不在とかで、応急版木で済ませ、今日、正式に看て貰い、手術になるか、どうかということであった。以前にも同じところを骨折していると言うし、骨折をそのまま4日も放置して、大丈夫なのだろうかと、素人ながらいぶかしい気持ちではあったが、医者にすがるしかないわけで、そのまま励ましの電話を切った。昨日、夕刻になって、連れ合いが、電車の乗り降りなど、何かと不自由だから、是非病院まで送るべきだと言ってくれる。私もすることは、特にないが、連れ合いは、今は、活躍している教え子が、お盆休みで帰省していると言い、夕方会いたいと言っているらしく、それまでに済むことのことだがからと同行すると言ってくれた。そこで姉に電話すると、なにやら電話口の声に精彩がない。手首の骨折が分かってから2日も経った日曜日の夕方から、なにやら腰が痛くて、起居に不自由だと言うことだ。それでも気丈に「一人で行くから(病院に)大丈夫」という。打ち身か何かが、いたずらしているのだろうと思っていたが、その日は、朝から姉を迎えて、病院に出かけた。11:00受診の約束だから、姉の家を10:00には出る必要があるということで、マンションを9:00前には出発することにした。受診予約の30分前には病院に着いて、私が車で待つ間、手続きをするために連れ合いが同行してくれた。1時間程度遅れているらしいとの情報を持って、車に戻った連れ合いと交代で、整形外科の前に行くと、何人もの人が待っている。何人かの先生が、各ブースで診察をしているようだが、姉の受ける先生のブースだけは待ち時間が1時間遅れと書いてある。この病院に限らず、病院は人を待たせることに実に無神経であることは、昔から変わらない。特に、この病院は、図体がでかいためなのか、極めて遅い部類に入る。姉はあきらめ顔で、しょんぼりと待つだけである。私は、看護婦に、予約の意味が無いではないかと詰め寄ったが、のらりくらりと、言い訳をするだけで、当然らちは開かない。医者と患者の従属関係は、この病院では、特にひどい。済生会とは、古く、1911年に明治天皇の「済生勅語」により、皇室よりの下付金150万円と寄付金を合わせて創設された病院(慈善事業団体)で、今や全国通津浦々にチェーンを持つ巨大医療コンチェルンである。一介の患者如きが何を言っても届くはずもなく、無意味とは知るものの、言わずにはおられない。正に、慈善とは名ばかりになってしまっている。明治の当時はいざ知らず、恩賜といえども、元は税金ではないか。天皇家が過去2600年間に営々と蓄財をしていたものを拠金して作ったのではないことは明かである。ということは、私の親父などが払った税金も基金の一部を成しているのである。そんな成り立ちのよすがは、もうどこにもない。巨大コンチェルンは、待つのが嫌なら、何処か他で看て貰って良いという態度なのである。山崎豊子の「白い巨塔」というドラマがあった。あれは大学病院での話であったが、以前に「大学病院の掟」という本を読んだが、病院とは極めて杜撰で、且つ権威主義であり、個々の患者のことは、実は全く度外視なのだと言うことを知らされた。この病院も正にその類であろう。今や、医師不足・病床不足で、緊急患者がたらい回しされ、やがて引き取り病院が無く敢えなく死ぬという話は、今や常識に近くなっている。そのたびに医療改革などという言葉が飛び交うが、何ら、進展を見せる気配はない。医師が不足しているので、医師を増成しようとすると、優秀な人もいるだろうが、親が医師であったというだけで、高い金を払い(払わなければ医師になれない)一応大学に通わせた医師が、病院に排出される。良い医師に当たればラッキーだが、金儲け本意の(元は取り更に儲けようとする)粗悪な医師に当たれば、最悪という運命的なことにもなる。それも、これも運命である。ところで、11:00予約の姉が、病室から呼ばれて、入室したのが、13:10である。実に予約時間から2時間10分を経過している。手首の骨折で、痛みがないだけなら、腹立ちで済む。それから腰部のレントゲンを撮り、再度入室して、精査したところ、腰の骨も2個所骨折しているという。痛いはずだと云うことになったが、医者や、病院にとってはそれだけのことである。姉は今一人暮らしをしているので、腰が痛く左手が骨折した状態では、身の回りのことをするのも容易ではない。何とか、病院に入院させてもらえないかとお願いしても、返ってくる答えは、「ここで手術をした人に限って入院は受けているだけだ」と実につれない。そう言うことならと病院を紹介してもらえることになり、整形外科の外来病棟を出たのがなんと、15:30なのである。予約時間前30分から待ち延べ時間は実に5時間を経過している。その間飲まず食わずである。担当医師は、どうしているのだろうかとも思った。紹介されたのは「豊中平成病院」で、16:00までに行ってくれと言う。そして、今出られましたからと相手の病院に電話するのだ。それからここの病院の支払を済ませ、中津から豊中まで、30分足らずで行けと言うのだから非常識も甚だしい。腹は立つが、病人が優先である、向かう途中で、電話で遅れる旨を説明し着いた病院は、いわゆる、老人ホームであった。そこが、近くの阪大病院から医師派遣を受けているとのことだから、先ず多くを期待できないようだ。明らかに、営利を目的の介護施設であることは疑う余地がない。ホームページなどでも、求人広告があり、医師なら年収1200万円~1500万円(応談)とあり、看護師あたりは、30万円~40万円/月という給与で求人している状態である。2008年に開業したと言うことで、未知数の部分もあるが、自前の医師を抱えていないのではないかという疑問は当然ある。詳細を観察したわけではないから良くは分からないが、看護師あたりはまだ若く溌剌としていて、一応に親切な感じだが、応対した一人の看護師(女性)は実に事務的で、急の入院と決まったから、同市内の姉の自宅で、準備してくると言うことも許さない。やむなく病棟に入ったら、先ず2人部屋で、呼吸器の音が大きな患者が同室であり、また、隣室では大きな声で、奇声を発する患者が居る。あまりにひどいと、連れ合いが、言ってくれて、階を変わり、やっと個室に入れて貰うことが出来た。当直の医師?と病棟の看護婦は、入院の品を取りに帰ることを快く了承してくれた。一体受付の看護師はどういった気持ちで拒否したのだろうか。医療の崩壊が叫ばれているが、目の当たりに見て、薄ら寒い気持ちになった。私も、あと10数年で、このような扱いに何の声も出せない世の中のお荷物になるのかと、暗然たる気持ちで、姉を病院に残し、帰宅した。連れ合いは、教え子とのたまに会う機会を棒に振って、最後まで付き合ってくれた。有り難いことだと思い、且つ私もまた独居していたら、このような対応が取れなかっただろうし、時あたかも100歳以上の居所不明の老人が40数名もいるとの放送を聞き、本当にこの国はどうなっていくのだろうか、いや滅亡は近いと感じた。
2010.08.03
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準天頂衛星初号機「みちびき」の打ち上げを知ったのは4月頃であった。日本版GPS(全地球測位システム)衛星の1号機ということであった。その打ち上げが8月2日に予定されていたが、6月23日に部品を交換の必要があると判明、打ち上げは延期されることになっていることを見落としていた。打上の時期は未定であるという。自前のGPSシステム(衛星測位システム)搭載というこの衛星は、現在のカーナビの精度をもっと上げたり、携帯電話などに使われている目的地検索の役に立ったりするであろう事が期待されている。他にもいろいろと利用の用途はあるのだろうが、詳しいことはよく知らない。今回の「みちびき」搭載用の人工衛星H-IIAロケット18号機は、7月24日深夜種子島宇宙センターに搬入され組立・結合作業が行われているという。既に、6月13日には小惑星「イトカワ」を探査した「はやぶさ」が約60億キロメートルというとてつもない距離を、7年間に及んで宇宙旅を終えて地球に帰還したばかりである。宇宙の創生、地球の成り立ちなどの糸口が辿られることになるかも知れないという、イトカワに付着した岩石などの解析には時間が掛かるという。この成果を見るまでは、宇宙事業も、事業仕分けの対象であったようだが、奇跡的成功は、国内外に反響を呼び、それに押される形で「必ずしも、仕分けで決定したとおりにならなくても良い」といったニュアンスの発言に変わってきた。話は変わるが、これに反して、本来仕分けすべき分野のその後を訪問する番組では、廃止が決まりながら何ら変化がないという、実行追従の悪さも露呈している。故に仕分け作業がパフォーマンスといわれても致し方ないというのが感想である。そのことは置くとして、私は、宇宙に関する本も何冊か読んだものの、その詳細はとても理解することが出来ないけれども、何となく受ける、ロマンと感動は、いつも感じている。宇宙の問題は、あまりに広範囲すぎて、深淵で、なおかつ進行形でという具合で、おそらく人類が滅亡しても尚淡々と変化し続けるであろう。連れ合いは、中学校で理科を教えている関係で、雑誌「ニュートン」を良く読むという。今回は、姫と買い物に出かけたついでに、「ニュートン」創刊350号記念の「地球」を姫に買って貰ったようである。それを、ざっと読ませて貰った。何も「みちびき」を特集した内容ではないので、極めて広大な宇宙とその宇宙の中での地球の存在位置などについて広汎に書かれている。地球は銀河系に属する太陽系の惑星であることは習って知っているが、地球から肉眼で見える恒星の数が、約8600個もあり、且つ、銀河系に属する恒星の数は何と数千億個にもなるのだという。光り、うねる様な銀河系中央部の「バルジ」と呼ばれる周りにある太陽系の位置は、もちろん注意書きがないと分からないほど極めて小さな点のような存在であると模式図は語っている。次のページでは、この数千億個の恒星は、気の遠くなるほど広汎である(銀河系の直径は10万光年であるという)。太陽系を中心とした半径10光年だけを取ってみると(即ち銀河系の中の太陽系の周りだけ1/5000切り取ったとしたら)、その球体の中には、恒星は太陽自身を含めたったの8個しかないというのだ。何と恒星の存在は疎であることかと先ず感心する。そして、この恒星8つの内、惑星を持つ恒星は太陽だけだというのである。従って、現在のところ、生命が存在する可能性があるのは、太陽系だけであり、現実的には、現在地球にしか生物が存在していないと言うことのようだ。この事は断定されているわけではなく、新たな発見がないとは言えないが、とにかく地球は、我々人類から見て、全く奇跡的とも言える、生命をはぐくむ星なのだと言うことになる。地球の内部は、教科書などで良く描かれているが、誰も見たことがない。地球の中心までの様子がよく分かるものだとまた感心する。詳しいことは何度読んでも分からないのだが、地球内部の透視は「地震波」なのだそうだ。境界層における波動の屈折と反射、P波は液体部を通過するが、S波は通過できないと言ったことを総合的に観測し観察することで、地球内部の構造を推定しているのだという。それによると、地球の半径は6400kmであり、多少私の解釈違いがあるかも知れないが、中心から半径1300kmが固体の鉄で出来た5000℃の「内核」、その外側2200kmは3000~5000℃の「外核」が囲み、その外は2230kmの下部マントル、そして、540kmの上部マントルが取り巻くという形で、それらの上に100km程度のプレートが囲み、我々が住んでいる地殻と呼ばれる部分は、高々、7km~30kmの厚みでしかないわけだ。このマントル部では、原子が密に詰まった鉱物や岩石が、どろどろと拡販されるように対流を起こしているわけで、そして時々マントルの対流部分が、ホットプルームとして、プレートや地殻を突き破って地表に吹き出すというのが火山である。また地表近くのプレートは、数枚に別れており、あるプレートはその隣のプレートに沈み込むように入り込んでいくというわけだ。これが、互いの摩擦力を蓄えつつ、限界までため込んだエネルギーが、最後の沈み込み時に摩擦力が抗しきれず弾ける現象が、地震となるわけだ。このプレートは、下部のマントル対流のためか、じっとしているわけではなく、年間に爪が伸びる程度の速さで、移動を続けているわけで。大陸が1つだったパンゲア大陸が、やがて、現在の分割された5大陸になっているわけだが、之もまた通過点にしか過ぎず、この先どのような形に変わって行くのか、おそらく誰にも分からないであろう。理論的にどうなるかが分かっていたとしても、一体誰が生存してそのことを確かめることが出来るだろうか。我々人類を含む地球上の生物は、皆、この大自然の営みの中に、ほんの瞬間だけ身を置いているわけであり、大宇宙的な観点からは、実にちっぽけなことなのだ。上に述べたように、地球は多くの鉄からなっているわけで、鉄が、その人類の歴史を築いたと言うこともあながち偶然ではないわけだ。今や。新素材が次々と発見され、また作られて、重厚な鉄から軽薄なナノレベルの微少材料へと移っている。地表に表れた、噴出した岩石の肌、地殻の移動による、褶曲した山々、と褶曲による岩石層のねじれ、風と水が生み出した奇妙な地殻の絵模様、氷河、沈む寸前の島々、露出した白亜の断崖等々、我々が日頃見ることのない大きな地球の息づかいが、至る所に残されている。このさきどうなるかは分からないが、一時、宇宙のその塵の如き地球で、今一体何というつまらない営みが、人類の中で行われているかを考えるのもまたおもしろいことではないかと感じた。
2010.08.02
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新聞に「日本この20年」というコラムが大々的に載せられていた。また同時に「世界を語る」で辛口・直言のMITのレスター・サロー名誉教授が「今の日本は余り楽しいことがない」と語っていた。いわゆる失われた20年は1990年から始まったという。私自身が、その先端を行く仕打ちにあったのもこの頃である。元号も変わる平成元年(1989年)、私は22年間関係した造船設計の仕事を追われた。1989年12月末には日経平均株価が史上最高値の38915円87銭をつけ、正にバブルの頂点となった年である。それ以前の株価は、1984年に初めて1万円の大台を突破、その後の5年間で、約2万9000円の上昇まで、正に鰻登りの好景気が続いた。この日経平均株価が1万円を超した1984年から遡る3年前の1981年に、私は、一般商船の設計から、石油掘削リグの設計へと大幅に路線変更するように命じられた。これは、第1次石油ショックで、中東関連の石油が潤沢に入ってこなくなると言う危機に対して、アメリカのメジャーが、海洋資源である石油を掘削すべく、石油掘削リグの発注が急激に高まったからである。この事自体は、私にとって、悪くはない話であった。商船の設計は、会社自体が受注出来なかった客船はもちろんだが、LPG船、LNG船を除くあらゆる船種の構造設計を経験したので、新鮮みが薄れてきた頃であったことも一方では感じていた。従って、石油掘削リグの設計は新しい刺激となり、大いに仕事に励み、徹夜も辞さなかった頃である。しかしながら、リグの設計に関係して、5年ほどの間に世界の情勢はまた様変わりした。中東諸国はOPECを形成、計画的に原油の輸出を再開したのである。そうなると、石油製品であるトイレットペーパーを買いあさるという石油危機は一体何だったのだろうという位に手のひらを返した如く石油掘削リグの発注は全くなくなってしまった。古巣に帰るにももはや席はない。何とか戻った商船の設計も、じり貧となり、13万トンは建造可能という巨大な船台には船の姿はなく、内業工場で細々と小さなアルミ製の高速艇や、漁業取締船などを造り始めた。広い工場は閑古鳥が鳴くように見渡す限り、隆盛を極めた時のような大型船の姿はなかった。それでも2-3年は船の設計に在籍させて貰った。そして、失われた20年と呼ばれる開始の前年(1990年)私は、不要の人材であるということを通知された。別に口頭で言われたわけではないが、研究部に異動せよとの辞令が出たわけである。少し前に起きた事故の解析途上で、時の部長に食って掛かったことが原因かどうかは知らないが、1週間の内に、態良くお払い箱になったわけである。今から研究部で一体何をするのかと思ったが、社長の思いつきで、何か売れる物を開発せよとのことらしく、一切内容は知らされなかった。そして、あとで分かったが、参集した人間は皆どこの部署でも余って不要人間ばかりだったのである。別に期待されていないことは一目瞭然であった。この期に別の部署に移った人間も又然りで、過去の経験はおろか、全く新しい分野での仕事は辛かったようだ。そこから私の失われた20年(定年が2004年だから私にとっては実質6年余という事になろうか)が始まった。定年を迎えても尚、一般社会は失われた日々を積み重ね、不作為の宰相ばかりが、日替わりメニューの如く変わり、20年間で、13人もの日本の顔が変わっただけである。石川県の人を悪く言うわけではないが、ラグビー以外何の取り柄もない森喜朗元首相が、紙面で語っているのは何となく空々しい。紙面で語ることは、誰でも言えるようなことばかりで、主に寝技的な内政、政局取り回しの術に長けているだけで、政治的資質は全くないといっても良い。さらに、一時は、英エコノミスト誌をして、世界で最も優れた中央銀行総裁と評価せしめた福井俊彦前日銀総裁であるが、村上ファンド事件に関わるなどして自らの私腹を肥やすことに専念した巨悪の総裁でもあった。福井の家族は夫人のみであり、夫妻合わせて約3億5千万円の資産を公開するなど、常人には出来ない資産の蓄積を株の操作でものにしているわけで、一国の金融トップとしての資質に欠けることは言うまでもないが、森喜朗と共に、失われた20年を回顧しているのがまたまた空々しいではないか。今や、円高、株安、デフレと3つの要因が、我々を襲っている。消費税率は世界の最低水準だと言い、世界と比べる論評が多い。世界の国で消費税が高い分は、大企業優遇や、福祉に回っていてやがてブーメランのように我が身に返ってくる、謂わば預けたお金であるのに比して、日本のそれは、馬鹿な官僚どもにより、めったやたらと使い放題で費消してしまう点が異なっている。切り口を1点に絞ると極めておかしな結論を誘導する。法人税率が世界に比べて高いと、これまたその点をワンポイントで声高に言い、従って、対外競争力が無くなり世界の後塵を拝すると結論づけている。では、儲かった時の内部留保は如何と言えば、株式配当もゼロか、ほんのわずか、従業員の給与は削れるだけ削っても内部留保を取り崩そうとはしない。それが日本企業の体質になっている。会社は誰のものかと一時話題になり、それは株主のものだという結論になるが、従業員のモチベーションを削ってどうして生産性が上がるのかと言うことだ。大銀行は、もっとひどい、金融危機に陥れば、この大きな銀行を破綻させると影響力が大きいとばかりに、公的資金(税金)を注入する。トップは交代するかも知れないが、大方の高給取りは、給与減額されても一般の会社と比べたらまだまだ高い給与と、定年後の年金面での優遇を受けることになっている。更にひどいのは、公務員の天下りで、まやかしの法人を渡り歩いて巨額の退職金を何度となく貰うのである。これなど、受け皿は全て税金で作った特殊法人で、中には、こういった天下りの高級官僚の給与や退職金を払うだけの特殊法人もあるくらいである。そして、これらをストップするのだと言った民主党は、のっけからこのマニフェストを堂々と破り、恥じるところがない。更に、政治改革をという点でも、総論賛成ではあるが、自らの給与削減だとか、国会議員の定数削減の実際的な手続きはという各論にはいると、途端にトーンダウンしてしまう。政治主導は何処に行ったのだろうか。昨日NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見たが、薩摩だ、長州だと言っている場合ではない、日本を諸外国から守ると言うためには、我が身を賭しても良いという坂本龍馬は、こんな世だから特に輝いて見える。平成の坂本龍馬と軽々しく自称した、アルカイダの友人などは、全く以て鼻持ちならない。今の政治家の中に、私利私欲を捨て、世のために働いてくれる人が何人いるのだろうか。有能な若い人が出れば、モグラ叩きのように押さえ込む、ただただ、自分が生きている間は、既得権益を守りたいという輩が如何に多いことか。政治改革、霞ヶ関改革、無駄の排除・・・、もはやタオルを、どう絞っても水滴一滴も出ないと言うくらいになってから増税を考えるべきである。「たかじんのそこまで言って委員会」に出ている老コメンテーターは、はなから消費税増税を言い、政治には金が掛かるものだよと嘯いている。それっておかしくないかと思っても、この番組の主のような老人に反駁する人は一人もいない。もっとやるべき事があるはずだ、その為に民主党に託したのだから、果敢に断行して欲しいものだ。
2010.08.01
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