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全国的に、インフルエンザが、猛威を振るっていますね。会社で隣の席に座ってる女の子も罹患し、昨日まで3日間ほど休んでました。ところが、私は、この病気にかかったことが、一度もありません。小さい頃はしょっちゅう風邪ひいてたし、はしかや水疱瘡、風疹に罹ったこともあるにもかかわらず、です。だから、かかってみたい… というのはもちろん冗談ですが、インフルエンザの症状がどんなもんなのか、全然分からない。「咳が止まらない」「熱がなかなか下がらない」なんて話は聞くんですが、普通の風邪とどのように違うのか、確かめるモノサシがないんです。「もう、インフルエンザに罹って、大変だったんですよ~」なんていわれると、表面上では「お大事に」とか「そうか~、大変だったねぇ」と、同情はします。でも、相手の身になれるだけの経験がないので、ちょっともどかしく感じてしまうのです。
2003.01.31
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さほど仕事が忙しくなかった昼下がり、若い女性2人が、会社の正門に。一見生命保険の新米外交員風だったので、参ったな…と思いながら(ウチの会社は保険外交員を社内に入れない方針なのだ)応対。すると開口一番、「近所にお店を開きました! これ、優待券です。是非来て下さ~い!」と、封筒に入った3枚の「御優待券」を渡すではないですか。で、彼女たちは渡すべきものを渡し終えると、そそくさと、会社を後にしたのでした。我が手に残された「御優待券」、そっと開けてみました。中身を見てビックリ! 風俗のお店の優待券でした。これまでもお店のアピールをしてきた飛び込みの営業は沢山いましたが、さすがに風俗は初体験です。しかし、お昼時に会社を営業回りしている風俗店っていうのも… この業界にも不況の影がかなり巣食っているのか、はたまた単に経営者が変わり者なだけなのか。あと、「御優待券」を配っていたおネエさんは、お店で働いている娘だったのかなぁ… 昼も夜も一生懸命働いて、お疲れ様ですね… と、妙に同情してしまったりして(笑)
2003.01.30
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今日、「速報! 歌の大辞10」を観ていたら、尾崎豊の死後に(!)ヒットした「OH MY LITTLE GIRL」が流れていました。彼のナンバーでは、これが一番好きです。早いもので、彼が死んで、もう11年になるんですね。当時は別に好きでも嫌いでもなかったんですが、30代になった今、彼の歌を聴いていると、誰の歌よりも、自分の若かったというか幼かったというか、もう戻らない日々のことが、フラッシュバックしてきます。この曲がヒットしたのは確か1994年のはじめだったと思うんですが、就職が決まってはいたものの留年するかしないかの瀬戸際だった当時の私は、ある女性に、片想いをしていました。彼女は大学の同級生だったんですが、絵を描くのが大好きで、就職活動もロクにしないでキャンバスにばっかり向かっていたので、既に留年が決定していました。彼女のどこに魅かれたのか? と言われても、今、いや、当時でさえ上手く答える自信はありませんが、恐らくは「好きなことに打ち込んでいる姿勢」だったんだろうと思います。当時の自分は、ただ時の流れのままに就職しようとしている下らない存在に過ぎませんでしたから、逆に魅力を感じたんでしょう。結論から言うと、彼女には、フラれました。しかも私まで留年決定のダブルパンチ(泣) これ以上ないくらいのどうしようもない結末でしたが、今でも「OH MY LITTLE GIRL」のメロディーとともに、かなりはっきりと、当時を思い返すことができます。「♪OH MY LITTLE GIRL あたためてあげよう…」あのときの自分も、誰かをあたため、逆にだれかにあたためられたかったのかな…
2003.01.29
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1月も、もうすぐ終わり。早いものです。で、私の仕事も、1月末に〆切を迎える仕事がいくつかあって、てんてこ舞いの状況。とりわけ嵌っているのが、「不動産の使用料等の支払調書」の作成です。知らない人は「何のこっちゃ?」と首を傾げてしまうこの調書、簡単に述べると去年1年間のいわゆる家賃の支払い状況を支払先の個人・法人ごとに明細をまとめたものなんですが、私の勤務先は各地域のデパートでの催事販売に携わっているため売上に応じて得意先に支払う歩合家賃の件数が多く、作成には毎年苦労しています。今回もまた、北は青森から南は鹿児島に至るまで、デパートごとに、調書の作成をしています。で、この調書、「個人・法人」が単位になっているのがミソで、比較的わかりやすい例を用いれば同じ「三越」でも東京・日本橋に本店がある「三越」と名古屋に本店がある「名古屋三越」は別法人だから、調書もそれぞれ作成しなければならないという、煩雑さがあります。一昨年までの例でも「東武百貨店」と「宇都宮東武百貨店」、「東急百貨店」と「ながの東急百貨店」がそれぞれ別法人だったので戸惑いましたが、今回もまた、「近鉄百貨店」と「草津近鉄百貨店」、「伊勢丹」と「新潟伊勢丹」という、仙台人にはわかりっこない別法人を、発見してしまいました。あと、本店がどこにあるのかわからないデパート、スーパーの類もあったりします。今回嵌ったのは、茨城県(千葉県かも)に本拠を置く「ボンベルタ伊勢甚」と、札幌・春日部・宇都宮に店舗を構える「ロビンソン百貨店」。前者はイオン系、後者はIY系と身元がしっかりしている会社だけに、ネットで調べればわかるかな~と思って検索してみたんですが、何と会社のサイトがない! う~ん、流通系の企業も、謎が多いですなぁ…
2003.01.28
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前にもどこかで書いたような気がするんですが、私は、日本酒が苦手です。学生時代に先輩にしこたま飲まされたというトラウマもありますし、日本酒の味自体も、あまり馴染めない。他にも苦かったりクセがあったりするお酒は多いはずなのに、何故か日本酒の風味だけは、身体が受け付けないんです。このように、何でかわからないけれども身体が受け付けてくれない味覚や風味って、ありますよね。私は日本酒の他にもうひとつ、ワサビの風味もダメ。刺し身なんか、サビ抜きの醤油でしか食べませんし、寿司はまぁ、サビ入りでも大丈夫ですが、サビ率の高い海老系のネタはなるべく避けてますし、あまり人気のないカッパ巻なんか、喜んで食べてます。ワサビで思い出したんですが、私には、薬味系の食べ物を敬遠するキライがあるようで、ヤキソバや牛丼にはつきものの紅生姜はなるべく使わないようにしているし、カレーのらっきょ、福神漬の類も、滅多に入れません。その辺の好みは人それぞれなんでしょうが、こんな具合にリストアップしていくと、自分の人間としての度量の狭さが浮き彫りになってくるようで、ちと恥ずかしいです。
2003.01.27
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ご存知の方が多いと思いますが、仙台を代表する和菓子に「萩の月」というのがあります。ちなみにここが、「萩の月」を製造販売している菓匠三全のサイト。商品紹介を見ると、「萩の月」の他にもいろんな種類のお菓子を扱っていることがわかります。その三全のお菓子の中でもロングセラーとなっているものに「伊達絵巻」というのがあります。小型のバームクーヘンの輪の中に餡やクリームを入れたお菓子です。で、この「伊達絵巻」なんですが、バームクーヘンの特性上、焼いた後の端っこの部分は側面が黒く焼けてしまい年輪も見えず商品にならないため、歩留り率が低いのが難点。ですが三全では、この廃棄物にしかならないであろう切れっ端でさえも、商品にしてしまってます。「久助」という商品が、それ。「伊達絵巻」の切れっ端だけを一まとめにして、袋詰めにしただけの品です。三全では宝塚の女優を起用したCMを流しているんですが、この「久助」に関してはできた経緯が経緯ですから、宣伝は一切打ってません。しかも、日々の焼け具合によって「久助」の素(と呼んでいいのか…)の出具合も変わってくるので、日によっては、店頭に出ないこともあります。でも逆に、これがレアもの好きのお客さんの評判を呼んで、隠れたヒット商品になってたりするから、世の中わからない。というか、三全のアイデア力の勝利なんでしょうね。こういった事例を見聞きすると、何だか自分まで、励まされたような気分になってしまいます。
2003.01.26
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今日、仙台の藤崎デパートまで、足を運びました。お目当ては、「博多の観光と物産展」。そうです。いよいよデパートでも、物産展シーズンの開幕です(笑)。だから、喜び勇んで会場へとまさに突入したんですが、結果はNOTHING(T_T)自分にとっては今年の初物産展だっただけに、残念の度合いもひとしおです。ところで、私たちは既に博多の耳かきを何本かGETしていて、一昨年の新婚旅行で手に入れた辛子明太子ととんこつラーメン、耳かきコレクター仲間とのトレードで手に入れた福岡タワーなんかが、手許にあります。他にもホークス関係など博多らしいの耳かきはいくつかあるようですが、他にも博多らしい耳かきがまだまだあるんじゃないかと、こういった物産展があった時には、常に目を光らせています。その土地土地にゆかりのある耳かきをGETすることで、地域や物産に対する見聞は、確実に深まります。だから、耳かき収集は、単なるお遊びを超えて、教養の範囲に属することなのでは? と、思わず自己弁護してしまう訳ですが、少なくとも自分にとっては「楽しい」ひとときであることには、間違いありません。これからも、時間とお金の許す限り、この趣味を、続けていければと思います。
2003.01.25
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今日から、通常の日記に戻します。昨年9月に空手を始める件、書いたんですが、実はこれ、現在進行形で続いています。来月で終わりにはなるんですが、その前に、「型をひとつ覚える」との師範のお達しがあるので、今日はその練習。結果から言うと、物凄く疲れました。空手って「静」から「動」への移り変わりというかメリハリがきついスポーツなので、「静」→「動」→「静」→「動」…とやっているうちに、どこかに疲れが出てしまいます。具体的には、それは動きの悪さ、言い換えれば動きのメリハリの悪さとなって出てくる訳で、その度に、師範の指導を受ける状況。思う通りに体が動かないもどかしさを、嫌が応でも、感じてしまいます。でも、目一杯身体を動かした後の食事は、美味しい! 殆どこれだけが楽しみで、続けている空手だったりして(苦笑)
2003.01.24
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今日の仙台は、大雪でした。明日の午前中まで、降り続く模様です。雪… 色の白いは七難隠すで雪景色を眺めている分には風情があっていいものですが、「雪かき」となると、大変な重労働。あまりにも雪が積もったので勤務時間中に雪かきをしましたが、次から次へと降ってくる雪に対応できずヽ( ´ー`)丿あ、いけねいけね、今日も、例のヤツの第9弾だったんだっけ(笑)【2000年】この年、私と妻双方の両親に、結婚することを正式に報告。まずは式場探しから、行動を始めます。仙台市内で開催されていたブライダルフェアを何ヶ所か回ったんですが、楽しかったなぁ~ キレーなウエディングドレスはいっぱい見れたし、披露宴の食事の試食はできたし(笑)「結婚しても、お忍びで行こうか?」なんて、二人で話ししてました。ところで、ブライダルフェアを見た感じでの、各式場の印象を、ここで簡単に、挙げておきます。あくまで個人の印象なので、あしからず。なお、式場の名前は、イニシャルにしておきます。①M SENDAI(宮城野区榴岡・「〒」系列の宴会場)初めてブライダルフェアを見たのが、ここ。1階から5階まで続く吹き抜けの階段が、印象的なところです。地元のモデルを使ったウエディングドレスのファッションショーを行なったり、披露宴料理の試食会を開催したりと、フェアには、かなり力が入ってました。会場の内部も新しくてキレイだったし印象は良かったんですが、身内に「〒」勤務の者がおり、「安くすませたんだろう…」と思われるのも癪だったので、結局ここにはしませんでした。②パレスH(青葉区本町・専門式場)ブライダルフェアって結婚を控えたカップルがドレスやら引き出物やらの各コーナーを自由に見て回るのが基本だと思うんですが、ここのはちょっと変わっていて、フェアというより相談会の雰囲気。入るなり個別に担当がついて、妻はいきなりウエディングドレスに着替えさせられました。そして写真をパチリ。更に披露宴会場に案内され、六輝表を片手に早くも日取りの相談と、担当のペースで日程を決められかけます。担当の方の努力は買いますが、余りにも強引(に映った)なのと施設が若干古いので、丁重にお断りしました。③仙台Kホテル(青葉区中央)仙台を代表する高層ビルに隣接するこのホテルは、新しモノ好き。ブライダルフェアでも奇抜な企画を考えて、私たちの前に披露してくれました。ちなみに、見せられたのは、人前結婚式。ふ~ん、こういうのも悪くないなぁと一瞬思いましたが、奇を衒い過ぎる印象が強かったので、ヤメにしました。④Kグランドホテル(青葉区本町)国賓の宿泊実績もある、仙台では屈指の有名ホテル。しかし、内部の施設が凝り過ぎていました。入口に入るとまず目につくのが、金属でできたヨーロッパの騎士の鎧やら壁にかかった鹿の首やらで、非日常性を醸し出すには効果的な仕掛けですが、私の性にはあいません。あと、従業員、出入りの業者ともに、「是非ここで結婚式を挙げて下さい!」という気持ちが、あまり伝わってきませんでした。他の式場ではそんなことはなかったんですが…⑤仙台S(宮城野区榴岡・仙台市が運営する宴会場)時間が余ったので一応足を運びましたが、結婚式に力を入れている感じではありませんでした。⑥ホテルメトロポリタン仙台(青葉区中央)結局ここで式を挙げたので、名前は伏せません(笑)仙台駅に隣接する、JR東日本系列のホテルです。ここのブライダルフェアは、まず規模が大きい! 神殿や教会を駆使しての模擬挙式や、宴会場での模擬披露宴、そして別の宴会場にて行われる試食会&引き出物の展示会ともに、他のどの会場よりも豪華だし、訪れる人も多くて活気に溢れていました。しかもそれでいて、従業員も押しが強かったりする。初めて訪れたカップルには必ずマンツーマンで担当者がつくし、試食会である役員の方が「ウチのホテルは景気がいいからねぇ。最高の食材を使ってるんだよ」なんて喋ってる。これだけ見せ付けられちゃぁ、ここで式を挙げたいと、一度は思ってしまいます。以上。あくまで個人的な印象です。①~⑤の会場で既に式を挙げてしまった方、お気を悪くなさらないで…【2001年】そんな訳で、4月28日に挙式を済ませ、結婚生活がスタート。ところが(息子よ、すまん…)、7月に妻の妊娠が判明。新婚モードからたまごクラブモードへと、場面が一転します。そんな訳で、夏から彼岸までは悪阻に苦しみましたが、その後は母子ともに順調に成長。産婦人科で撮った超音波写真を何度か見せられましたが、最初は数㍉の大きさだったのが月日を重ねるごとにだんだん大きくなってくるのを見て、夫婦で顔をほころばせたものでした。ところで、そうなってくると気になるのが、赤ちゃんの性別。気にしてなくはなかったんですが、結局、お医者さんに訊くことは、ありませんでした。それは、産まれる時までの楽しみにとっておこうと… だから、事前に買っておいた産着も、どっちが産まれてもいいように、白や黄色の色調がメインでした。でも、こんな時に限って、お医者さんは余計なことを言ったりするもの。2002年の年明けの話になりますが、いきなり「男性性器」の超音波写真を見せてくれました(笑)【2002年】う~ん… 書くことがない(苦笑)この年の1月11日からこの日記を書いているんで、今更改めて、書くことが見当たらない。しまった、どうしよう…それもありますが、この年にはいろいろあり過ぎて、どれに絞って書いたらいいのか分からないってのも、あります。「私」の面では3月に息子が産まれて日々の成長に喜び、かつ驚きつつ毎日を過ごしていますし、「公」の面、といっても主にネットですが(笑)、4月の鎌倉オフをはじめ趣味を同じくする皆様とこれほどまでに密度の濃い交流をさせていただけたことを、ただただ感謝する次第です。その折々については、この日記の過去ログかHPの方を見ていただきたいと思うのですが、とにもかくにも、今までの人生でもっとも充実した年だったんじゃないかと思います。…そして2003年。私はどんな毎日を、過ごすことになるのやら? ということで、これからも、よろしくお願いいたしますm(_ _)m
2003.01.23
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今日も、例の企画、第8弾です。しかし、だんだん現在に近づいていくと、ある意味書き辛いなぁ…【1997年】ついに就職が決まることなく、大学を卒業。ムダ飯食うのも気が引けたんで、知り合いのツテで、とりあえずパートとして、働きに出ます。パートとはいえ、自分の健康保険証を所有したのは、この時が初めて。それなりに社会の一員になれたのを、喜んだものでした。そんな感じでノンベンダラリと過ごしていたところ、パート先の役員から「総務に欠員が出たから、社員にならないか?」とのお声が。どうしようか迷いましたが、結局OKし、お世話になることに。社員になることを最初に伝えたのは、さんざん迷惑をかけた両親ではなく、当時交際中だった妻でした。とても喜んでくれてました。で、9月から、正社員に昇格。いきなり総務と言われても何もわからないだろうからと、とりあえずは受発注業務を半年間担当し、OJT的に働いていました。【1998年】4月に、当初言われていた総務部に、異動になります。任された仕事は、何と従業員の給与計算! そんなもの、全然やったこともなければ専門知識もなかったので、覚えるのに必死でした。でも、300人からの給与計算を新人同然の私に任せてしまう会社ってのも、すごく大胆(苦笑)そんなわけで1、2ヶ月は数字との格闘が続いていたんですが、そうこうしているうちに総務部では更なる欠員が発生。6月にひとりが抜けて健康診断の業務と社内報の編集業務が我が手許に舞い込み、10月には更にひとりが抜けて、社会保険の手続までもが私の担当になってしまいました。このうち社会保険については12月にパートさんが入ったので負担は軽減しましたが、それにしても、次から次へと舞い込んでくる仕事に対して、我ながらよく対応できたものだと思います。今だったら、できなかったかも…【1999年】1000年代最後のこの年も、仕事が殺到… ですが、ここで少し話題を変えて、ちょっと妻の話題を。この年を挟んで前後3年間、当時は交際中だった妻の誕生日の1月17日に、二人で鎌倉まで足を運ぶのが、年中行事になっていました。まあ誕生日だからもちろんプレゼントを贈るんですが、この年は、思い切って指輪を買ったんです。ところが、かなり衝動的に「指輪を買おう!」と思ったもんだから、いざお店に行ったはいいものの、彼女の指のサイズがわからない(苦笑) だもんで、ヤマカンで「このサイズだろう」と思ったやつを、買ってきたんです。で、当日。「はまらなかったらどうしよう…」との心境で、指輪を渡します。ところがドッコイ、その指輪は、何と彼女の指にピッタンコ! うそ~、信じらんない!! …これも何かの縁なのかな~と思います。この出来事から10ヶ月後、彼女は勤め先を辞めました。理由は「結婚のため」。
2003.01.22
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う~ん、ついに、第7弾です。嫌でも明後日で終わりますんで、ついてきて下さい(笑)【1994年】留年1年目。本来ならば就職活動をしてなければならないんですが、前年の苦労を考えると、あの中に身を投じるのは、気が進みませんでした。幸い、ゼミの先生が私の卒業論文のプロットを高く評価してくれていたので、もう少し突っ込んでいろいろと調べたくなり、しばらく大学に、残ることにしました。しかし、困ったのはウチの親。あくまで「大学は4年で終わり」の考えで、延長分(苦笑)の学費なんて、払ってくれません。そのことについては自分でも納得し、とりあえず学費を稼がねばと、アルバイトに、精を出すことにしました。アルバイト先は大手食品会社系の倉庫会社で、入出荷の業務を担当。フォークリフトやプラッターを駆使して、パレットに詰まれた荷物を棚に入れたり、逆に棚から荷物を出荷したり… なんてことを、繰り返してました。結果、もっとも働いた月で、20万円ほどの稼ぎに。下手すると、正規に就職した同期の連中よりも、稼いでいたかもしれません。【1995年】バイトで小金をため込んだ後は、論文の執筆… となる訳ですが、この年もまた、遠回り。ゼミの教官が「福島県女性史」なんてものの執筆にハマったものだから、私も助手として、そのお手伝いに明け暮れることに。図書館やどこかの町の歴史編纂室から史料を漁っては、コピーしたり、マイクロフィルムで撮影したり、はたまたそうやって集めた資料を更に分類したり、INDEXを作ったりと、地道な作業の毎日が続きました。「これもまた、論文を書くための基礎作業だ…」との思いで続けていましたが、結局挫折。無責任な話ですが先生もまた無責任だったりして、イギリスに留学が決まったからと大学をとっとと飛び出してしまったから、さあ大変(苦笑) 結局、転ゼミを、余儀なくされてしまいました。あ、そうそう、うちのカミさんは、上記の「福島県女性史」の編纂室で臨時職員として、働いていました。学業と全然関係のないところで、ガンバってしまった私だったりして(苦笑)【1996年】転ゼミを果たし、いよいよ論文執筆にとりかかります。作業は順調で、夏休み前には7割がたが完成。そうなると、「学生」としても自信が湧いてくるもので、3年ぶりに、就職活動にチャレンジ。年を食っている割には前回よりも手応えがあり、地元新聞社と仙台市の外郭団体の試験では最終面接までいったんですが、結局就職は決まらず。残念な結果になりましたが、何故か「社会でやっていけるぞ!」という自信は、この時点でついていたような気がします。論文に話を戻すと、書いたことのある方ならわかるかと思いますが、事実関係をずらずらと挙げるのは簡単なんですが、論を組み立てるとなると、かなり難しい。当時(少し前か)に流行った「遺書」って本で著者の松本人志が「怒らないと文章が書けない」みたいなことを言っていたんですが、まさにこれと同じ状況でした。幸いというべきか、「怒り方」については、かなり有益なお手本が、身近にありました。それは「ゴーマニズム宣言」。「庶民」の側に身を置いて「知識人」を攻撃する手法は、論旨を展開する上で、かなり参考にさせて戴きました。しかし、「遺書」に「ゴーマニズム宣言」かぁ… そんなの参考にしながら書いた論文というのも、ちょいと恥ずかしい気がします。
2003.01.21
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ついに、貴乃花が、引退を発表しました。正直言って、あまり好きな力士ではなかったんですが、改めて引退の知らせを聞くと、やっぱり寂しいですよね。同年代だし…で、今日も連載企画、第6弾なんですが、今回は、その貴乃花が人気絶頂だった頃のお話です。【1991年】この年、タバコと麻雀を、覚えました。タバコは、一丁前に「LUCKY STRIKE」なんて、吸ってました。一番吸っていた頃で一日2~3箱は消費していて、我が部屋の天井が常に真っ白く煙っていたぐらいです。もっとも私は、何か口に入れていないと、駄目なタイプ。高校時代まではガムがまさに「お口の恋人」だった訳ですが、この年になって一気に、チェーンスモーカーへと早変わりしてしまいました。そして麻雀なんですが、近所に住んでいた悪友と、夜毎徹マンに、文字通り明け暮れていました。おかげで、午前中の講義は、殆ど自主休講(苦笑)。絵に描いたようなグータラ学生ぶりを発揮してしまい、この年取得した単位はたったの17(ちなみに4年で合計128単位)… まったく、何をやってたんだろう? この年は…【1992年】「そんな自堕落な生活してたんじゃ、ダメだ!」と思った訳ではないですが、この年から、福島で通年のバイトを始めました。これまでは夏冬の長期休暇に実家に帰ってアルバイトしてきた蓄えで生活していたんですが、今年は違います。もっとも、私が選んだバイト先は、交通誘導の警備員。ペイがいいのが魅力ですが平日丸一日がアルバイトになったりすることもあったので、授業に出る機会はますます激減したりして。税務用語で「勤労学生」って言葉があるけど、当時の私は、「フリーターが片手間に学生もやっている」状態。生活はそこそこ楽になりましたが、何のために学生になったのかわからなくなったというか、同級生とディベートしてもついていかなかったりして、完全に立ち後れたな… という思いがありました。【1993年】一応、大学4年生になりました。この年、一通りの就職活動は、こなしました。が、そもそもオチコボレ学生な訳ですから、卒業後に何がやりたいなんて、頭のどこを叩いても、出てくるはずがない(苦笑)だから、面接なんかでは、付け焼き刃のコメントでボロを出してしまい、「ご縁がありませんでした」の手紙を頂戴するのが、関の山でした。まあ、自身の就職活動も上手くいかなかったし、余談になりますが地元の宮城でも米は大凶作だし(タイ米騒動なんてのも、ありましたねぇ)県知事と県庁所在地の市長がゼネコン汚職で逮捕されるしでいいことなんか全然なかったんですが、それでも何とか、就職活動に関しては、仙台に本社がある某企業から、内定を戴くことができました。「さて、来年から社会人だ…」不安と期待がないまぜになりますが、ここで大きな落とし穴が。これまでの自堕落な学生生活のツケで、単位が足らず、留年が決定してしまったんです。自業自得とは言え、ショックは大きかったです。そしてその後、更なる泥沼に嵌るのか? はたまた復活ののろしを高々とあげることができたのか? とりあえず、次回に続きます。
2003.01.20
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今日も懲りずに、第5弾です。【1988年】1987年の項で述べた仲間と、草野球チームを結成。もっとも、校内では仲良し同士で結成した草野球チームがいくつかあって、ある意味「草野球チームブーム」的な雰囲気があったんですが(笑)で、チーム名なんですが、なんと「○○○ーズ」(○○○には、私の本名が入ります)! 昔「ドラえもん」でジャイアンが作ったチームで「ジャイアンツ」ってのがあったように記憶していますが、それを地で行く展開(苦笑) ということで、私はこのチームでも「CAPTAIN」に祭り上げられた格好になりましたが、そもそも野球をプレーした経験が皆無だったので、先攻後攻のジャンケン専用のCAPTAINでした。しかし、振り返ってみてついつい胸をなで下ろしてしまうのは、このチームのユニフォームを、作成しなかったこと。もし作っていたら、だって私の本名が入っているチーム名ですよ。後々まで笑いのネタになったに違いありません。【1989年】1月7日に昭和天皇が崩御され、元号も平成と、改められました。この「昭和最後の日」のことは、いまでもよく、覚えています。この日は朝から昭和天皇関係のニュースが流れていて、皇室をはじめいろんな方々が「御快癒をお祈り…」などと言っていました。ところが、その甲斐もむなしく、昭和天皇は崩御。時刻を聞くと、朝のかなり早い時間で、ニュースで御快癒云々と言っていた頃には、既に崩御された後でした。当日は学校は休みだったんですが、予備校の冬期講習があったので、予定通り受講。日本の象徴が亡くなっても、一般社会は普通通りに動きます。が、一歩街に出てみると、否応無しに、その出来事の大きさに、気づかされます。あらゆる企業がどこから引っ張り出したのか日の丸を半旗で掲げてたし、お店のBGMもレクイエム調のメロディーに。講習自体は普段と同じ調子で進行しましたが、昨日まであれほど退屈だった講習がこの時点ではかなり珍しくなっていた「日常的な空間」でした。帰りがけに電気屋の前を通ったら、TVがどれもカラーTVのはずなのに、白黒の映像ばかりが流れている。つまりは追悼特別番組が流れていた訳で、この状況は、丸二日ほど続きました。帰宅しても両親がTVにかじりついていたので家ですべき選択肢は、かなり限られたものに。仕方ないので、本屋に行って、いとうせいこうの「ノーライフキング」と、江川卓の「たかが江川 されど江川」を買って来て(我ながらトンデモナイ選択)、二日かけて読んでました。この崩御を境にした「自粛ブーム」が退潮し、当時のバブル景気も相俟って日本全国がお祭りムード的なモードに入ったのは、春になってからのことだったように思います。【1990年】高校を無事卒業し、4月から大学生になりました。大学は福島市内にあって、入学から半年間は、仙台から通っていました。小学4年の頃から仙台に住んでいてこの街に馴れていたせいもあり、福島の街は、とても小さく感じました。また、この年は、夏冬の休みを利用して盛岡や山形など近隣の都市を訪れる機会があったのですが、感想は、同じものでした。同じ頃に仙台から福島にやってきた学生は、十中八九、「福島はイナカだ」と、同じようなことを言ってました。それは、非常に素直な感想だったと思います。しかし、今思い返してみると、「あの時、なんて酷いことを言ったんだろう?」との後悔の念が、頭をよぎります。後年、この街に住んでみると、まさに「住めば都」だったからです。衣食住、事足りていれば、どんなところにだって、快適に暮らせるもの。当時、そして現在でも福島には、「知的好奇心」の部分が欠けています(競馬場はあるけど)が、新幹線を使えば東京まで1時間半、仙台までは30分のロケーションだし、そもそも知的好奇心なんて、日常生活では要らなくたっていいもの。そんなわけで、私も徐々に福島ナイズされ、秋には福島市民と、相成るのでした…
2003.01.19
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この日記を書いたのは19日ですが、18日の分として書きます。もっとも、例によって、連載企画第4弾ですが(笑)【1985年】中学生になると、毎年クラス替えがあります。私の通っていた学校はヤンキー率が結構高かったのでそいつらと同じクラスにならなければいいな… と内心思ってましたが、期待は大ハズレ(T_T) 詳細は差し控えますが、あまりいいクラスでは、ありませんでした。クラスでの落胆(言い過ぎかな…)を埋めてくれたのが、部活の存在。私を含めて同級生が6人いたんですが、その中にHくんという面倒見のいい奴がいて、部活以外のシーンでも彼の家でファミコンをやったりカセットを聴いたりして、皆で盛り上がりました。年末には、彼の家で野郎だけでクリスマス会も、やったんですよ(笑)そのHくんなんですが、翌年に千葉に転校してしまい、その後1回だけ同窓会が催されたのでその時会うことができましたが、もうかれこれ10年ばかし、会っていません。今ごろは彼も、家庭を持って、しっかりやってるんだろうなぁ…【1986年】いよいよ中学3年生。受験勉強の年です。でもその前に、修学旅行で、思い出づくり。例年はTDL&横浜・鎌倉のコースが定番なんですが、私の学年の教師は変わり者が揃っていて、どういうわけかこの年だけ、北海道へ修学旅行と相成りました。初めての北海道だったので大喜びしましたが移動がタイヘンで、初日なんか学校の最寄駅に朝6時に集合して、そこから在来線(最寄駅~仙台駅)、東北新幹線(仙台~盛岡)、東北本線(盛岡~青森)、今は亡き青函連絡船(青森~函館)、そして函館からこの日の宿の洞爺湖温泉まではバスで移動と、かなりの強行軍。移動時間は15時間にも及びました。でも、今思い返すと、この時北海道へ行ったのは、いい経験になりました。まず青函連絡船に乗れたことがひとつ。天候が悪かったので函館の夜景は見れなかったけれど、湯の川温泉やトラピスチヌ修道院、五稜郭と、観光スポットを回れたのも、よかったと思います。当時の私は友人の影響で観光地の通行手形(将棋の駒を大きくした奴です)を集めていて、函館でも、黒船の描かれた通行手形を買いました。う~ん、この時点で耳かきコレクションに開眼していればなぁ… この辺は、少し後悔しています。【1987年】高校に入学。私が通っていた高校は中高一貫教育の私立高校で、学年の半分近くが中学校からの持ち上がり組。しかも学校内では私たちは「4年生」と呼ばれていました。要は、6年制中学の4年生のクラスに転校してきたようなもので、昔転校を繰り返していたころに味わった「外様感」を、またもや味わうことになりました。でも、時間が経つにつれて、仲良くなっていく人はどこにでもいるもので、私も、何人かの友人と、グループを作るに至っていました。学校は一応受験校で3年後には大学受験に臨む立場だということは頭の中では分かっていましたが、まだまだ遊びたい年代。ところがその遊びってのが、キャッチボールやファミスタ(!)だったりするから、今思い返すと笑えるやら恥ずかしいやらです。ちなみに、この仲間と、翌年には草野球チームを、結成するに至ります(以下次回)
2003.01.18
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今日は、妻の誕生日でした。辛うじて20代なんですが、ママになるとさすがに誕生日なんて感覚はなくしてしまってました。誕生日を気にするのは、まだまだコドモの証拠なんでしょうか?それはともかく、今日も、連載企画、第三弾です。【1982年】この年に公営住宅への入居が決まり、4月に3度目の転校。さすがにこの時は、引っ越すのが嫌で嫌でしょうがありませんでした。で、引っ越した先の小学校なんですが、これまで通った学校に比べて「荒れた」というか排他意識が強いところで、転校生の私はその餌食に。別に暴力を振るわれた訳ではないんですが、学校ではあまりいい思いをしませんでした。学校でいい思いをしなかった分発散できたのが、妙な話ですけど当時通っていた公文式の教室でした。なんてったって、自分のペースで算数・数学の問題を解けるのがよかった。小学5年の身分で方程式を解いて、悦に入ってました。【1983年】この年も、「荒れた」学校で、また嫌な思い。小学6年にもなればハレタホレタまではいかないまでも男女の意識ってのができてくるころだと思うんですが、私の場合、クラスメートにたまたま「○○さんが好き」と言ってしまったのを学年中にバラされてしまい、大変な思いをしました。おかげで、このテの話題には、すっかりオクテに。かなり長いこと、尾をひいていました。…とここまで書いてきて、なんだか嫌なことばかりですが、いいこともありました。この年修学旅行に行ったんですが、その時私が書いた感想文が、学校のPTA新聞に、掲載されたんです。自分の書いたモノが学級新聞よりも広い場で公開されるのは初めてだったので、とても嬉しかったです。【1984年】いよいよ、中学校に入学です。当時の(今もかな?)中学生は入学時点で必ずどこかの部活に入らなければならなかったのですが、実はこれ、運動も音楽も美術もからっきしダメな私にしてみたら、とっても残酷な仕打ち。いろいろ悩んだ挙句、「楽そう」との理由からテニス部に入部したんですが、やってみると案外にハードなスポーツでした。ちなみに、この時のテニス部の仲間がいい奴ばかりで、部活を超えたところでも仲良くしてました。これについては、1985年の項で、書くことにします。あと、中学生になると、勉強の中身が急激に高度になって、デキル人と落ちこぼれとの格差が、広がっていきます。幸い私の成績は中の上といったところだったんですが、5教科の綜合得点である点数の壁をどうしても超えることができず、悩んでいました。そこで母が編み出したのが、「テストの点数による小遣い歩合制」制度。前回のテストよりも点数が上がったらそれに応じた小遣いを支払い、更に壁になっている点数をクリアーしたら特別ボーナスを出す、というものでした。このニンジン作戦が功を奏し、この年1回だけ、壁の点数を超えることができました。
2003.01.17
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今日も、昨日の続編です(笑) よろしくです。【1979年】この年の6月に、メガネをかけることになりました。初めてかけた時は、余りにも周りがハッキリ見えるので、世界が変わったような気がしました。しかし、小学2年生でメガネ生活ってのは、結構シンドイです。というのも、友人の「貸して、貸してぇ」攻撃が凄くて、落ち着いてメガネをかけている暇がないんです。で、言われるままに貸してみると、十中八九の人が「うわ! 目が回る~~」って言うんです(笑) なんなんだよ、そのリアクション(苦笑)そうそう、この年には、忘れてはならない出来事が、もう一つ。年の瀬に、交通事故に遭ったんです。しかも相手は、幼稚園の送迎バス(苦笑) なんでそんなのに撥ねられたのか今でも理解に苦しみますが、振り返ってみて思うのは、「あの時死なないでよかった…」ということ。やっぱり、人生、生きれるうちは目いっぱい生きて、少しでも楽しい思いをしないと、損ですよね!【1980年】この年は、仙台にいる父方の祖父の具合が悪く、父が単身で実家に帰って面倒を見ることに。で、母と私たち兄弟は、横浜は日吉にある親戚の許にご厄介になっていました。ということで、小学校も転校。もっとも、この時は3年連続で転校する運命になるなんて、知る由もありませんでしたが(笑)この年に住んでいた日吉の街は、今はどうかわかりませんが、当時は、慶応大学のキャンパスの周辺と東横線の日吉駅周辺が学生目当ての洒落たお店やアパートが建ち並ぶ地域、その他は零細企業の工場やら木賃アパートやらが立ち並ぶ地域で、両者は厳然と区別されていたように思います。もちろん、私たち一家の住まいは、後者の地域でした。だからという訳ではないんでしょうが、この地域には曰くありげな人も結構いたりして、私はこの街ではじめて「在日朝鮮人」の存在を知りました。彼が「俺、朝鮮人なんだよ。誰にも言うなよな」といった時に、私は「すげ~! 外国人なんだ!」とついつい喜んでしまったんですが、彼のカミングアウトの意味の深さを知るには、まだまだ年数が必要でした。【1981年】この年から、仙台に住まいを構えることになりました。2年連続の転校です。新しい家のトイレは汲み取り式。「東北地方=イナカ」の図式はこれまでの人生(苦笑)で学んではいましたが、生まれて初めての汲み取り式トイレでの生活は、その強烈な洗礼でした。他にも、東京とは著しく異なるTVのチャンネルやクラスメートの方言など、慣れないことは数多く、しばらくはカルチャーショックに、悩んでいました。ところが、それはクラスメートにとっても同様であったらしく、私の顔を見る度に「東京って校庭が土じゃないの?(どこかの本でアンツーカーの校庭を見たらしい)」とか「東京の小学4年生は中学校ぐらいの勉強をしてるの?」なんて訊いてくる(笑) そういう所や人もいるんでしょうが私自身はそうではなかったので、どう答えたらいいんだか迷った覚えがあります。
2003.01.16
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これまで1年間日記を書いていて思うのは、日記って、自分のDBみたいなもんだってことです。特にこの日記の場合、今日あったことをそのまま書いているんじゃなくて、過去の思い出話なんか混ぜっ返しながら書いてるから、なおさらその傾向が強い(笑)ならば、ということで、今日から数日にわたって、自分史的な日記を、年を追って書いてみようかと思います。もっとも、ここ数日いろいろまみれてて、その日あったことを日記に書くのが嫌なだけなんですが(苦笑)いずれにしろ私的なことなんで、ウンザリされる方もいらっしゃるとは思いますが、お付き合い下さいませ。【1976年】唐突に1976年で始まりますが、この年は、私が産まれた年ではありません。でも、皆さんもそうだと思うんですが、自分が産まれた年のリアルな記憶なんて、残ってるはずがない(笑) だから、自分のもっとも古い記憶が残ってる1976年を、ここではスタートとしたいと思います。で、この年なんですが、子門真人の「およげ! たいやきくん」が大ヒットを記録した年として、よく知られています。私の記憶の中でもこの曲は鮮明に残っていて、自宅にも、少なくともレコードが3枚はあったと思います。この曲が空前の売り上げを記録した背景には購買層が子供だったためレコードを割ってしまうケースが多かったからという説がありますが、我が家もその例には漏れなかったようです。あと、個人的な話では、この年、幼稚園に入園。遊び着を着て園内を文字通り遊び回った記憶が残っていますが、当時の連絡帳を見ると、入園直後にはしかで2週間の欠席が。他にもいろいろ休んでいて、年間の欠席日数が31日もあった! 確かに、月に一度は寝込んでいたような気がしなくはないんですが、苦しんだ記憶は、残ってません。あと、この年には弟が誕生。ダッコさせてもらった記憶が、残っています。【1977年】この年のはじめに幼稚園から少し離れたところに引っ越したせいもあり、友達と外で遊ぶ機会が、めっきり少なくなりました。結果、友達代わりに本を読む習慣がついてしまい、イトコからもらった子供用の百科事典を、しょっちゅう読んでました。で、その代償。この年の暮れに行われた就学時健康診断で、私の視力は両目とも0.2と診断されてしまいました。自分が「目が悪い」という認識を持ったのは、この時が最初でした。余談ですが、この健康診断での視力測定で、先生の「これは何?」との問いかけに、私は「読めません!」と答えたとか。視力云々よりも、文盲じゃないかと、心配されてしまったそうです。【1978年】4月に、小学校に入学。「小学生」になったのが、嬉しかった記憶があります。入学式の前々日にキャンディーズが解散コンサートを行なったのも、何故かセットで覚えてます。この年の夏、父と二人だけで、父の故郷の仙台に帰省(当時は東京在住)。母方の親族は比較的近くに住んでいたので顔を合わせる機会が多かったのですが、父方の親族と会ったのは、(自分の記憶の中では)これが最初でした。10月には、二人目の弟が誕生。この時私は「弟の弟が産まれたんだよ!」と、近所中に喋り捲ってました。当時の私はどういう訳か同年代の子供よりもオバサンと話す機会が多く、「いらぬことを喋るんではないか…」と心配する母に、しょっちゅう叱られていました。
2003.01.15
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大学受験を控えた皆さん(なんて、こんな日記読んでる訳ないか・笑)、もうすぐセンター試験ですね。悔いの残らないよう、頑張って下さい。そのセンター試験を13年前に済ませた私ですが、たまたま今日行なわれた社員研修で、「忘れられない出来事」というテーマで自分の大学入試体験を話す機会がありました。そこで喋ったことを、この日記でもかいつまんでお話したいと思います。当時はバブル絶頂期という世相を反映してか、国公私立あわせて10校以上を受験するのは当たり前。しかし私は、地元にある本命と福島にあり滑り止めの2校だけを受験。で、2月の末に本命の試験があったのですが、あえなく不合格。またまた当時の景気を背景に言えば、我々の世代(第二次ベビーブーム世代)の人数の多さも相俟って学校の先生ですらも「6・3・3・1・4制度」を半ば公然と口にしていた状況で、ここで来年の受験の準備をしてもよかったんですが、浪人するのも癪だったので、滑り止めの受験に、すべてを賭けることにしたんです。3月の半ばに試験は無事終わり、20日(だったと思う)に合格発表。もっとも、現地まで発表を見に行くことはせず、翌日の新聞か、合格していれば郵送されるであろう書類を待つことにしていたんです。ところが当日の夜、思わぬところから電話が。「こんばんは。××予備校の者ですが」と電話の主。どうも私が浪人するものと見込んで、講座の勧誘をしにきたようです。そこで、△△大学を受験して合格発表待ちであること、合格したらそこに進学することを説明し、とりあえずはお引き取り願うように、話をしたんです。が、「△△大学なら、今日合格発表ですよね。こちらでも発表内容を把握してますから、調べますよ。受験番号は何番ですか?」…余計なお世話だ! しかしそう思いつつも、押しの強さに負けて、結局は受験番号を教えてしまいます。唐突に訪れた、緊張の一瞬。そして保留のメロディー。数分後、メロディーが止み、電話の相手は、興奮した口調で、こう言いました。「お名前、ありましたよ! おめでとうございます!」「いやぁ~、ありがとうございます…」ちょっと予想外な形での合格通知でしたが、満更でもない表情の私。次の言葉を考えあぐねていると、「これからの学生生活、頑張って下さい! 応援してます!」と、エールが返ってきました。…てなことを話したんですが、振り返ってみて興味深く思うのは、もしここで私が受験に失敗していたら、その予備校の担当者はどのように応対したのだろうかということ。すごく気になるけど、二度と体験したくないシチュエーションだなぁ(笑)
2003.01.14
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ご存知ないかたもいらっしゃるかと思うので申し上げますが、私は、メガネ着用者です。一昨年の夏まではコンタクトを愛用していましたが、しょっちゅう物貰いをわずらってしまうので、思い切って替えました。真夏なんかは汗がレンズに滴って大変な時もありますが、まずは、コンタクト着用時よりも快適な生活を、営んでいます。ところが、そのメガネの左側の鼻当てを、どこかに無くしてしまいました。今のところ鼻当て不在での不便は感じませんが、息子が誤って飲み込みはしないかも含めて、ちょっと心配な状況。そこで家中探したんですが見つからないので、諦めて、近くのメガネ屋へ。「ちょっと、これ、直してもらえませんか?」と私。鼻当てのストックぐらいあるでしょうと、至って気楽な表情で訊いてみました。ところが、「こちらのフレームに合う鼻当ては、ちょっとありませんねぇ… 取り寄せで10日ぐらいかかりますけど、いかがなさいますか」との返事。う~ん… じれったい!結局、我がメガネの鼻当てが無事復旧を遂げる日は、当分先になる模様です。
2003.01.13
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ここ数日慌ただしかったせいで、まとまって寝る時間が、殆どありませんでした。そんな訳で久々に自宅に帰ってきた昨晩から今朝、いや今日の昼間にかけては、驚くほどよく眠れ、都合13時間ばかしを、布団の中で過ごしました。イチニチの半分以上が睡眠時間だなんて、いつ以来だろう…とにもかくにも、こんな時に思ってしまうのは、人間って、なんで「寝貯め」と「食い貯め」ができないんだろうってこと。爬虫類や両生類はもちろんのこと、哺乳類でも熊やリスなんかは冬眠の習性があるだけに、我らが人類も、冬眠まで極端ではなくても丸一日ぐらいの睡眠や、3日分ぐらいの食料を胃袋に溜め込むぐらいの柔軟性(?)はあっていいのではと、我が身の能力の無さを嘆いてしまいます。まあ、仕方がない。今の体力、能力で、これからやっていくしかないです。実現不可能な願望を口にする前に、まず自分が、最大限の努力をしなければ…
2003.01.12
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今日は、3日ぶりに仙台のアパートに戻ってきました。かなり慌ただしい出奔だったんで、とりあえず成すべき事は、後片付け。洗濯物を洗濯機に放り込み、流しに置きっぱなしの洗い物を始末し、冷蔵庫に眠っていた賞味期限切れの食材を捨て(罪悪感が…)、とあれこれやっていたら眠気が襲ってきたので1時間ほど仮眠し、今度はこれまたほったらかしになっていた我がHPのメンテを、急ピッチで進めているところです。この日記、今日で執筆1周年を迎えました。この1年いろいろありましたが、何とか続けられた事を、心から喜びたいです。ところで、この日記の記念すべき(?)第1回目なんですが、私のH・NがなぜCAPTAINなのかということを書きました。まあ簡単な話、高校時代のあだ名だったんですが、当時の私の将来の夢は、とにもかくにも、「文章を書く仕事がしたい!」ということでした。人様と比較して特に文才があるとは思わないんですが、とにかく文章を書くのが好きだったし、それを生業にできたらいいなぁ… と、半ば適いっこないなとは思いつつも、夢想していました。あれから十数年。結局、私の職業は、しがないサラリーマンでした。でも、職業ではないにしろ、このスペースを使って不特定多数の皆様に自分の文章を読んでいただける機会を得たのは、精神衛生上すごく助かっています。これからも、多分下らない文章が延々と続く日記になるんだろうなとは思いますが、よろしくお願いする次第です。
2003.01.11
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唐突に始まった遠距離通勤ですが、私が遠距離での通いをしたのは、実は今回が初めてではありません。今を溯ること13年前(もうそんなに経っちゃったんだ!)、半年間ほど、仙台から福島の大学まで遠距離通学をしていたことがありました。確か、自宅を午前5時半に出発して、学校には8時頃に着いていたと、記憶しています。しかも講義が終わるとその足で仙台にトンボ帰りして夜中にバイトまでこなすという自分でも信じられないタフネスぶりを発揮していたんです。が、福島の友人が増えるにつれてそんな毎日に嫌気がさしてしまい、結局、福島に部屋を借りることにしました。その結果はというと、堕落し放題の学園生活で、7年間在籍した末の卒業という相当情けないものだったんですが…で、通勤の方に話を戻すと、9日の日記の通り、定時で仕事をあがれたとしても、プライベートの時間はあまりとれない状況。でも、大学に入ったばかりの頃の自分を考えると、むしろ遠距離通勤が、自分の中の駄目な部分を払拭するいいきっかけになるかも知れないと思ってます。
2003.01.10
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まだ陽も昇らない午前5時半、妻の声で起こされました。そうだ、今日から遠距離通勤だった! 寝ぼけ眼もそこそこに、速攻で顔を洗い、スーツに着替え、朝食を平らげ、歯を磨き、出発の準備を整えます。義父のクルマで最寄駅まで送ってもらい、6時28分に出発する始発電車に乗り込みます。やがては仙台への通勤客で混みあうであろう車内ですが乗り込んだ時点では乗客は殆どなく、車窓に飛び込む明け方の薄暗い空を見ているうちに、ついつい居眠り。それでも停車の衝撃で2~3駅ごとに眼を覚まし、気がついたらもう仙台。電車の中の時間は、意外なほどアッという間に過ぎてしまいます。会社では何事もなかったように仕事をこなすつもりでしたが、昨日からの疲れには勝てず、定時の6時で退散。しかし帰りもまた、長い道程。妻の実家に着いたのは、8時半のことでした。1日だけならいいけど、毎日続けるとなると、大変だなぁ… ひとりごつ私。でも頑張らねば。誰のためでもない、自分と家族のために。
2003.01.09
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この日記を書いてた日は、1月11日です。そう。私は、3日分の日記を、書かずに溜め込んでしまった訳で、今から猛チャージをかけて、今日(11日)を含めた4日分の日記を、書かなければなりません。しかし、この1月11日は、この日記の執筆を始めて丁度1年になるというのに、なんて事だろう…それにしても、8日の日記は、非常にインパクトが強い出来事があったのですが、そのことについては、あまり書きたくありません。ただ言えるのは、この晩は福島の妻の実家に泊まったこと。そしてしばらくの間、ここから仙台の勤務先まで出勤する必要が生じてしまったことです。とにかく、頑張らなければ…
2003.01.08
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このところHPの更新をしていなかったので、耳かきのストックが溜まりつつあります。といっても、まだ7本。他のコレクターサイトのオーナー様に比べれば、大した数ではありません。ところが私の場合、集めた耳かきの1本1本に無理矢理にでもコメントをつけているので、それを考えるのが結構しんどい(苦笑)GETした時のエピソードは? 形状は? 誰とトレードしたのか? …etc etc なるべく同じようなコメントにならないように気をつけてはいるんですが、さすがにそれだけでは、同工異文は避けられそうになくなりつつあります。今日はもう遅くなりましたが、とりあえず、1本分ぐらいは、UPしたいと思ってます。何とか、頑張ってみます!
2003.01.07
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そういえば、12月1日を最後に、サイクリングをやってません。実際のところ、出掛けたい病はかなり疼いているんですが、先月は腰痛&多忙、そして今月は冬将軍の本格到来で、なかなか行けないのが現状です。う~ん、早く春にならないかなぁ…今年のサイクリングで是非ともやってみたいのが、泊まりがけのサイクリング旅行ですね。足の向くままに走って、自分の限界を試してみたいな~、と、無謀なことを、夢想しています。あと、もうすぐ1歳になる息子にも、将来的には、サイクリングの楽しさを、教えてあげたいなと思います。とりあえずは、今年はまだ補助輪つきの自転車にはのれないと思うので、まずは三輪車からスタートし、「漕ぐ」ことを体験させます。あと、妻のママチャリに座席を用意して、「風を切って走る」感覚も、覚えさせたいものです。そんなふうにして、息子とのスキンシップを図っていきたいなぁ~… 喜んでくれるかどうかわかりませんが、モノは試しで、やってみたいと思ってます。
2003.01.06
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で、今日も、福島ネタ(苦笑)今日のお昼、高校サッカーの準々決勝に地元の福島東高校が出場するというので、TVにかじりついてました。相手は、優勝候補の桐蔭学園高校。終始押されっぱなしの展開でしたがよく粘って1-1で前後半を終了。最終的にはPK戦で敗れはしましたが、頑張ったと思います。しかし、私の中には、妙な不満がひとつ。この試合、福島東高校には物凄いハンディがあったと思うのです。それは、大学入試センター試験が、直後に控えていること。福島県下でも十指に入る進学校の福島東では実際にセンター試験を受けるサッカー部員が少なくないんです。相手の桐蔭学園も進学校の一面があるからそういうサッカー部員はいるにはいるでしょうが、多分福島東よりは受ける人は少ないでしょう。ましてや国見とか帝京のサッカー部員なんて、どう考えてもセンター試験とは無縁だと思います。個々の学校の方針はどうあれ、高校生の本分は学業であるはず。だから、将来を決める重要な岐路となるべきセンター試験の直前に全国高校サッカー選手権なんて大会を開くのは、ハッキリ言って非常識。ところが主催者側は「♪ふ~り~むくなよ~」なんて美化しまくっているから、ますます呆れてしまいます。もしどうしてもこの時期に開催する必要があるのならば、センバツか春高バレーのように1、2年生だけの大会にすべきだと思うのですが…
2003.01.05
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今日、明日と、福島の妻の実家に、お世話になります。しかし、「福島ネタ」ってのも、この日記には多いなって気がします。で、今日も福島ネタなんですが、飽きずにお付き合い下さいませm(_ _)m福島県は、やっぱりイナカだからかなぁ…「大字○○字××」って地名が数多く残っているんですが、逆にそうであるからこそ地名の数や種類が多く、また、面白い名前も沢山あるところです。そのなかで、特に私が気になっている地名が「腰巻」。福島市近辺にいくつか見られるんですが、何でまたこんな名前がつけられたのか、さっぱりわかりません。ちなみに、私が知ってる範囲での具体例を挙げると…①福島市飯坂町字腰巻②福島市瀬上町字腰巻③福島市土船字腰巻う~ん… 謎。かつては養蚕で栄えた地域なだけに、腰巻の名産地でもあったのかな… と、妙な像像が、頭をよぎります。
2003.01.04
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今日は、高校時代の同級生と、飲んでました。私の結婚式以来だから、かれこれ2年ぶりです。3人で飲んだんですが、いずれももちろん就職していて、しかも子持ち。仕事やら子育てやら、高校時代には想像もつかなかったような話で、盛り上がりました。そんな事情で、今日の日記は、執筆が遅れてしまいました。ご容赦願います。ところで、マクラの話とは全然関係がないんですが、最近、バンパーにしめ飾りをつけて走っているクルマって、見かけなくなりましたよね。今日たまたま、会社のイベントで駐車場整理をやってたんで暇潰しにチェックしてたんですが、だいたい30台に1台あるかどうかの割合でした。10年ぐらい前までは結構な割合で見れたんですが、どうしちゃったんでしょうか? 不景気に伴う出費の削減や、仙台の地域的な事情によるしめ飾りそのものの需要の減少※など、いくつか理由は挙げられますが、何故なんだかわかりません。誰か知ってる方がいらっしゃったら、教えて下さいませm(_ _)m※仙台の場合だと小正月に「どんと祭」といってしめ飾りを神社の境内で燃やす風習があるのだが、ビニールで覆われたしめ飾りだと燃やす時に有害物質を発生するということで、ここ数年はしめ飾りの持ち込みが減少傾向にあるようです。
2003.01.03
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いきなりでなんなんですが、私は、箱根駅伝フリークです。とはいうものの、この駅伝、関東の大学だけしか参加していないので伊勢や出雲の駅伝に比べればずいぶんとローカルな大会だし、しかも私自身関東の大学を出ていないから、なんで嵌っているのか、不思議といえば不思議です。強いて言えば、59~64年に箱根で6連覇を達成していた頃の中央大学に丁度父が在籍していて、毎年正月にTV観戦するのが慣例になっていたからだと思います。おかげで、私まで中大ファンです。今年の往路は山登りで苦戦して12位と低迷しましたが、復路では盛り返してシード権を確保して欲しいところです。ところで、今年の往路を制したのは、山梨学院大学でした。ここ数年はシード権確保スレスレのところで苦戦していただけに、復活を素直に喜びたいです。箱根での山学大といえば、忘れられない思い出がひとつ。90年代前半のこと、ジョセフ・オツオリら留学生を中心にメキメキと頭角を現していった山学大に対し、どこかは忘れましたが「他には優勝させても山梨だけには優勝させるな」という言葉を公然と口にした(いわゆる伝統校の)大学がありました。確かに「留学生」が大学の宣伝以外何の目的で来日しているのか不明瞭な点はありますが、この言葉は酷すぎます。箱根駅伝を語る時にしばしば「伝統」という言葉が用いられますが、その「伝統」が、当時は新興勢力だった山学大に対して一番嫌な形で噴出したヒトコマとして、記憶に残っています。
2003.01.02
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ついに、2003年、未年がやってまいりました。今後ともご贔屓にm(_ _)m仙台の初売りとといえば、昔は3日に行われるのが通例でしたが、今では開店ペースがどんどん速くなっていて、郊外のスーパーなんかでは元日営業も珍しくなくなりました。私の家の近所のスーパーも元日の10時から営業していたので、妻と息子と連れ立って、買物することにしました。近所に住んでいながら私がこのスーパーを訪れる機会はあまりなかったので、元旦だというのに何だか久しぶりに生活感を味わってしまいました。目に入るものが物珍しいものだから、店内のあちこちをキョロキョロ。何人かの店員さんが忙しそうに働いている姿が目立ちます。で、その店員さんの様子をよく見ると、ある女性店員がどこかで見たような顔のような… あれ? 去年ウチの会社を辞めた人じゃないですか! 久しぶりだなぁ~、と声を掛けます。しかし、何たる偶然でしょう。偶然といえば、この女性店員、「誕生日」に関して物凄く面白い記録というかエピソードというかを、持っています。この人、結婚していてお子さんも二人いるんですが、旦那さんと生年月日が全く一緒で、しかも、二人のお子さんの誕生日も、3歳違いなのに全く一緒なんです。それにしても、すごい偶然が重なったものです。その奇跡的な偶然を持つ人に元旦早々思いもよらないところで出会うのも、何かの暗示かもしれません。きっと今年はそういった偶然との巡り合いがやってくるんじゃないかと、ついつい思ってしまいました。
2003.01.01
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