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「実践的な信仰」 甲斐慎一郎 イザヤ書30章15~18節 イザヤが預言者として活動していた時代のユダは、北にはアッシリヤ、南にはエジプトという二つの強大な国家に挟まれた小さな国でした。 その頃、アッシリヤがユダに攻めて来ました。このような時、イザヤは、何の助けにもならないばかりか、かえって災いを招くことになるエジプトの国との同盟を譴責し、神にのみ拠り頼むことを教えました。 ユダの国の民にとって、神に対する信仰があるかないかは、自分の国の存亡にかかわることであり、それは取りも直さず個人個人の死活問題でした。彼らにとって信仰は、観念的なものでは全く役に立たず、実践的なものにならざるを得なかったのです。 そこで実践的な信仰とは、どのようなものなのかということをこの個所から学んでみましょう。 一、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ……る」(15節前半) 実践的な信仰の第一の要素は、神に立ち返って静かにすること、言い換えれば悔い改めて「委ねること」、「任せること」です。ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」、「創造者(神)に自分のたましいをお任せしなさい」と勧めています(第一ペテロ5章7節、四章19節)。 「委ねる」とか「任せる」ということは、文字通り、そのことに関しては、何もしないということです。これを重い荷物を背負った人が汽車に乗ることにたとえてみましょう。 汽車に乗っても重い荷物を背負ったまま車内を走っていたのでは、委ねたことにも任せたことにもなりません。重い荷物を降ろして網棚にでも置くことこそ、思い煩いを神に委ねることであり、車内で走らずに座席に腰を掛けることこそ、自分のたましいを神に任せることなのです。 二、「落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(15節後半) 実践的な信仰の第二の要素は、「信頼すること」、「信用すること」です。パウロは、「その方(神)は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」と告白しています(第二テモテ1章12節)。 「委ねる」とか「任せる」というのは、「あきらめる」とか「見離す」ということと表面的にはよく似ています。これをキャッチ・ボールにたとえてみましょう。 「あきらめる」とか「見離す」というのは、キャッチャーがいないで、ただボールを投げることで、そこには何の解決も救いもありません。「委ねる」とか「任せる」というのは、キャッチャーである神に私たちの思い煩いとかたましいというボールを投げることです。 ですから私たちは、私たちが投げたものを神が確実に受け取るとともに、それを守り、さらに最善にしてくださるということを信じなければならないのです。 三、「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(18節後半) 実践的な信仰の第三の要素は、「待ち望むこと」、「期待すること」です。預言者イザヤは、「主は……恵もうと待っておられ……あわれもうと立ち上がられる」と述べています(18節後半)。 キャッチ・ボールの場合は、また同じボールが返って来るので、不完全なたとえですが、神の場合は、私たちが投げた「思い煩い」や「問題」を、今度は「祝福」と「恵み」に変えて送り返そうとしておられるのです。 ですから私たちは、神が送り返そうとしておられる祝福や恵みを受け取るために、神を待ち望み、神に期待することが必要です。 実践的な信仰は、この「委ねること」と、「信頼すること」と、「待ち望むこと」の3つが1つになったものです。
2006.09.30
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「主を待ち望む幸い」 甲斐慎一郎 イザヤ書30章18節 「それゆえ、主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(18節)。 この箇所には「待つ」という言葉が2回記されています。一つは、「神が私たちを恵もうと待っておられること」であり、もう一つは、「私たちが神を待ち望むこと」です。しかし神が私たちを恵もうと待っておられるのに、なぜ私たちは神を待ち望まなければならないのでしょうか。このことに関して聖書の中から学んでみましょう。 一、私たちは、待たされることによってのみ願望が増し加わるからです ローマ人への手紙の8章には、文語訳において3回「待つ」という言葉が記されています(19、23、25節)。これは原語においては、「熱心に待つ」(25節、新改訳)とか、「強く期待する」という意味です。 まず人間は待たされるとどうなるでしょうか。ある人々は待たされると、求めることをやめて、あきらめてしまいますが、他の人々はますます熱心に求めて、その願望が増し加わるのです。 私たちが一つの物事を最後まで成し遂げるために必要なことは、強い願望であり、熱心な意欲です。大志や大望また大願を抱かずして物事を完全に成し遂げることはできません。そして私たちは、待たされることによってのみ、願望が増し加わり、期待が強くなるのです。 二、私たちは、待たされることによってのみ忍耐が生じるからです 使徒パウロはローマ人への手紙の8章において「忍耐をもって熱心に待ちます」(25節)と言い、ヤコブも「耐え忍んで待っています」(ヤコブ5章7節)と述べています。 次に人間は待たされるとどうなるでしょうか。ある人々は待ち切れずに途中でやめてしまいますが、他の人々は最後まで耐え忍びます。使徒パウロは、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」(ローマ5章3、4節)と言い、ヤコブも「忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコブ1章4節)と述べています。 私たちが一つの物事を最後まで成し遂げるために必要なことは忍耐です。忍耐はあらゆる徳の基礎であり、耐え忍ばずして物事を完全に成し遂げることはできません。そして私たちは待たされることによってのみ、忍耐が生じるのです。 三、私たちは、待たされることによってのみ準備が整うからです 使徒の働きの23章には「準備をなして汝の許諾を待てり」(21節、文語訳)という言葉が記されています。またキリストは、「すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい」(ルカ12章36節)と言われました。 何事にも準備が必要であり、準備なしに物事を成し遂げることはできません。準備をするためには時間が必要です。そして私たちは待たされることによってのみ準備が整うのです。「待つ」ということを知らない人は、忍耐がなく、わがままで、身勝手であるだけでなく、準備をしないで良い結果を得ようとする熱狂者です。 このようなことから神が私たちを待たせるのは、次のような理由によるのです。 ◇神は私たちを恵もうと、私たちの願望が増し加わるのを待っておられます。 ◇神は私たちを恵もうと、私たちに忍耐が生じるのを待っておられます。 ◇神は私たちを恵もうと、私たちの準備が整うのを待っておられるのです。
2006.09.29
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「弱さについての教訓」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、12章1~10節 「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。……もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」(第二コリント11章29、30節)。 コリント人への手紙、第二の11章21節から12章10節の間に「弱さ」とか「弱い」という言葉が9回も記されています(11章21、29節に各2回、30節、12章5、9、10節に各2回)。特に12章9、10節には、世の中の常識に反した不思議な言葉が書かれています。◇弱さのうちに完全に現れる神の力(9節)◇弱さを誇る(5、9節)◇弱さを喜ぶ(10節、文語訳)◇弱いときにこそ強い(10節) このようなことは、世の中においては考えられないことですが、信仰の世界や霊の世界においては、非常に大切な事実です。それで聖書から「弱さについての教訓」について学んでみましょう。 一、弱さと真の信仰 パウロには、肉体に一つのとげが与えられていました。それは、彼に苦しみを与える肉体の病を持っていたことを意味しています。この肉体のとげは、パウロが経験したすばらしい主の幻と啓示のゆえに、高ぶらないためのものでした(7節)。 高慢は、神から私たちを引き離すものですが、謙遜は、神と私たちを結びつけるものです。神の前に私たちを謙虚にさせるものは、罪ではなく弱さです。 主は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ15章5節)。神を離れた人間は無力な者です。ですから私たちがほんとうに自分の弱さを自覚し、その弱さに徹するなら、堅く神に結びつかざるを得なくなるでしょう。これこそ神に対する不動の信仰を持つ秘訣です。 二、弱さと真の希望 パウロは、肉体のとげが取り去られるように主に祈りましたが、その願いは聞き入れられませんでした。普通なら、弱さそれ自体が、失望や落胆の原因になります。ましてそれが取り去られるように祈ったのに、その願いが聞かれなければ、ますます失望し、落胆してしまうのではないでしょうか。 これに対する主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」というものでした(9節)。 私たちが自分の弱さに失望するのは、自分に拠り頼んでいるからです。ですから私たちがほんとうに自分の弱さを自覚し、その弱さに徹するなら、自分に拠り頼むことがなくなるために失望することもなく、しかも神の力は弱さのうちに完全に現れることを知って、希望に満ちあふれるのです。 三、弱さと真の愛 世の中においては、肉体のとげをもっていること自体が神の愛を疑う理由になります。ましてそれが取り去られるように祈ったのに、聞かれなければ、ますます神の愛を疑いたくなるのではないでしょうか。 私たちが神の愛を疑うのは、自分に対する神の恵みが十分ではないと思うからです。しかし主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われました(9節)。 私たちは、弱さのゆえに高ぶらずに神への真の信仰を持つことができるだけでなく、自分に拠り頼まずに、神に真の希望を置くことができます。このようなことはみな、私たちの弱さを思いやり、同情してくださる神の愛の現れです。 ですから私たちは、自分の弱さを自覚し、その弱さに徹すれば徹するほど、ますます私たちの弱さを思いやり、同情してくださる神の愛の深さを知るとともに、私たちと同じような弱い人たちを思いやり、同情することができる愛の人に変えられていくのです。
2006.09.28
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「苦難と罪について」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書17章14~19節 「あなたがたは、世にあっては患難があります」(ヨハネ16章33節)。 「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17章15節、欄外注)。 聖書は、苦難と罪について何を教えているでしょうか。 一、苦難について 主イエスは、「この世にあっては患難があります」と言われました。聖書は、苦難について次のような5つの説を述べています。 1.刑罰説――「だれが罪がないのに滅びた者があるか。……不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(ヨブ4章7、8節)。 苦難についての最も初歩の説明は、罪に対する刑罰として来る苦難です。ヨブの3人の友は、ほとんどこれによってヨブの苦難を説明しようとしています。しかしこれでは苦難について全部説明することはできず、5つの説明の中の一つにすぎません。 2.教育説――「悩みのなわに捕らえられると、そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ……神は彼らの耳を開いて戒め」(ヨブ36章8~10節)。 苦難についての第二の説明は、前のよりも少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難てす。エリフは、このように説明しています。これは、罪を犯したことを教えるために苦難が来る場合と、その時点においては、正しい動機で行い、罪がなくても、知恵がなく、幼稚で未熟なために、教育される必要がある時に、苦難が来る場合とがあります。 3.試験説――「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった 」(創世記22章1、12節)。 苦難についての第三の説明は、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。アブラハムの苦難の説明はこれです。これは、前の二つと違って、その人には全く罪がないのに来る苦難です。 4.代償説――「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 苦難についての第三の説明は、さらに高尚で、自分には全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を身代わりに負い、代償として来る苦難です。キリストの苦難は、まさにこれです。私たちも罪に陥っている人を救いに導くためには、代償の苦難を受けなければならないことがあります。 5.栄光説――「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 苦難についての最後の説明は、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。主は、生まれながらの盲人に関して、このように説明されました。 ヨブの苦難は、個人的には彼の醜い自我と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」であると言うことができます。 二、罪について 先の5つの説明の中で、後の3つは、罪がなくても来る苦難です。ですから聖書の教えを見ても、現実の世界を見ても、この世においては苦難を避けることができないことが分かるでしょう。聖書が教えている真の救いは、苦難からの救いではなく、罪からの救いです。 しかし、これとは反対に罪からの救いを教えず、ただ苦難からの救いだけを教えるなら、それは御利益宗教です。聖書は、かえって苦難を通して、罪とのかかわりを断つことを教えています(第一ペテロ4章1節)。 そして聖書は、この世において罪から救われた者は、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」世界(神の国)へ行くことを教えているのです(黙示録21章4節)。
2006.09.27
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「真の信仰(4) 信仰と救い」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章6、7節 最後に信仰と救いについて学んでみましょう。これは言い換えれば、信仰という観点から救いとは何かということを知ることです。私たちが聖書を深く学んでいくなら、聖書が教えている救いは、すべて神とキリストと聖霊に対する信仰によるものであることが分かるでしょう。 一、真の救いは、むなしいものを信じることをやめて、生ける真の神を信じることです(エレミヤ2章13節) むなしいものには、様々なものがありますが、その代表的なものは、次の3つであり、聖書は生ける神と対比して教えています。 1.富(第一テモテ6章17節、マタイ6章24節)。 富とは、金銭とともに金銭で買えるすべてのものを表しています。しかしこれは主の激しい怒りの日に私たちを救い出すことはできません(ゼパニヤ1章18節)。 2.人間(エレミヤ17章5~9節、イザヤ2章22節)。 人の心は、すべてのものよりも偽るもので当てにならず、人は移ろう草のようなもの、また神の御怒りによって消えうせてしまうものです(詩篇90篇5~7節)。 3.天地(マタイ24章35節、第二ペテロ3章10~12節)。 古い天地は、主の日には焼けてくずれ去り、消えうせてしまうものです。 人間にとって最も大切なことは、いったい何を信じるのかという信仰の対象です。なぜなら私たちは、自らの信じているものと運命をともにするからです。ですから私たちは、これらのものを信仰の対象にしてはならず、ただ生ける神のみを信じなければなりません。そうしなければ私たちは、これらのものとともに滅ぼされてしまうのです。 二、真の救いは、行いによらず、神の賜物を信じることです(エペソ2章8~10節) 人は、救い主を信じる時、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」ます(ローマ3章24節)。「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2章8節)。 パウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と述べています(第一コリント15章10節)。 私たちは、救われる前は、行いによらず先行的な恵みによって導かれ、救われる時は、行いによらず恵みによって救われた者ですが、救われた後も、行いに拠り頼んで誇らず、恵みに感じた精一杯の感謝の応答である奉仕をしていく者であり、実にすべてが神の恵みであり、神からの賜物なのです。 三、真の救いは、見るところによってではなく、信仰によって歩むことです(コリント人への手紙、第二、5章7節) 聖書は、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と教えています(第二コリント4章18節)。見えるものとは「現象」であり、見えないものとは「本体(または本質)」です。現象は「自然および社会に現されて観察されるあらゆる出来事」であり、本体は「現象の背後や奥にある究極的な存在」です。 私たちの信仰を妨げるものは数多くありますが、その代表的なものは、私たちの目に見えるものです。信仰は、目に見える現象に惑わされず、目に見えない本体、言い換えれば「目に見えない方(神)を見るようにして忍び通」すことです(ヘブル11章27節)。 信仰とは、目に見えるものがどのようなものであれ、すなわち具体的に述べるならば、◇過去の経験や失敗がどのようなものであれ、◇現在の事情や困難がどのようなものであれ、◇将来への心配や不安がどのようなものであれ、 これらに惑わされず、これらに負けず、「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)という神の約束を信じて立ち上がり、歩み出すことです。その結果、救いと解決が与えられるのです。
2006.09.26
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「真の信仰(3) 信仰と罪」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章11、12節 第三番目に信仰と罪について学んでみましょう。これは言い換えれば信仰という観点から罪とは何かということを知ることです。 私たちが少しでも聖書を読むなら、聖書が教えている罪というのは、神とその神に対する信仰ということを離れては考えることができないことが分かるでしょう。 一、罪とは、神とその神の律法を信じないことです(ヤコブ4章11、12節) ヨハネが「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです」と述べているように(第一ヨハネ3章4節)、罪とは律法を破ることです。 法治国家において罪と言えば、国の法律を犯すことであることは言うまでもありません。しかしここで忘れてはならないことは、国の法律を知らなくても、それを犯せば罪になるということです。もし法律を知らなければ、それを破っても罪にならないとしたなら、法律を知ろうとせずに、勝手にふるまうことがまかり通ることにならないでしょうか。それでは、その社会は法も秩序もない最も恐ろしい無法地帯になってしまうことでしょう。 聖書は、「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます」と教え(12節)、天地万物を造られた真の神とその神の定めた律法の存在を教えています。ですから罪とは、この神の定めた律法を犯すことです。 しかし神を離れた人間は、人間の制定した法律や人間性(ヒューマニズム)の法の存在を信じても、この最も根本的な神の定めた律法の存在を信じません。神の律法を犯すことは罪です。とすれば、なおのこと、神の律法の存在を信じないことは、罪ではないでしょうか。その結果、パウロの言うように、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び」るのです(ローマ2章12節)。 二、罪とは、救い主イエス・キリストを信じないことです(ヨハネ16章9節) 聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。……すべての人は、罪を犯した」と教えています(ローマ3章10、23節)。しかし「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされ」たので(第二コリント5章21節)、私たちはキリストを救い主として信じるなら、義と認められて罪から救われることができるのです。 罪人はもちろんのこと、キリスト者も一生涯、この救い主キリストを必要としています。なぜなら「この方以外には、だれよっても救いは」ないからです(使徒4章12節)。ですからこの救い主を信じないで、拒否することは、「神の御子を踏みつけ」る最も恐ろしい罪であり、あとは「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです」(ヘブル10章29、27節)。 三、罪とは、信仰から出ていないことです(ローマ14章23節) パウロは、「疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます」と教えています(ローマ14章23節)。これは非常に大切なことです。私たちは、「これは神のみこころである」と、「自分の心の中で確信を持」つことが必要です(同14章5節)。これは正しいかどうか分からないで、心の中で確信を持つこができず、心の中に疑いや不安、またやましさや後ろめたさがあるなら、それはすべて罪です。なぜなら、それは「信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(同14章23節)。 私たちは日々信仰によって歩むなら、たとえ遅くても必ず信仰に成長して罪に対して敏感になります。ですからもし私たちが何年経っても信仰に成長していないとするなら、それは信仰から離れていることになり、信仰を回復しない限り、罪に定められるのです。
2006.09.25
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「真の信仰(2) 信仰と神」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章18~31節 次に信仰と神について学んでみましょう。これは言い換えれば、「神への信仰」のことです。信仰の第一歩は、神を信じることです。しかし神を信じるとは、どのようなことなのでしょうか。これは、一般的な信仰と、どのような関係があるのでしょうか。 神への信仰も、信じること自体は、一般的な信仰と同じです。ただ根本的に異なる点は、一般的な信仰が、様々なものをただ漠然と、しかも無意識的に信じても構わないことが多いのに対して、神への信仰は、信仰の対象を真の神に定め、次に述べるような知性と感情と意志において、はっきりとした納得と体験と決断を伴わなければ、成り立たないということです。 一、神への信仰――その知性的または論理的な面(19、20節) ある人々は、信仰とは実際には無いものを、あたかも有るもののように思い込むことであると考えています。しかしそのようなことは、理性と知性を持った人間には、不可能です。人間に頭脳と理解力がある以上、何だか分からないものを、ただ信じることはできず、信じる対象を前もって知らなければなりません。これが信仰の知性的な面です。 しかし私たちは、信仰の対象を前もって知るだけでは不十分です。それが確実な真理であることを納得しなければなりません。そうしなければ、その信仰には確信が伴わず、疑い迷いに悩まされるだけでなく、ついには信仰を放棄してしまうでしょう。 聖書は、理性と知性をもった人間が、十分に納得することができる数々の証拠に満ちた信頼できる神の言葉です。ですから私たちは、確かな証拠と根拠をもって神を信じることができるのです。 二、神への信仰――その感情的または体験的な面(21~23節) ある人々は、神を感情的にとらえようとしています。すなわち神を感じるなら、信じるというのです。しかしこのような人は、何も感じなければ、信じないでしょう。真の信仰に感情が伴うことは、言うまでもありません。これは信仰の感情的な面です。しかしこれは信仰の結果であって、その原因ではありません。食べる前に、その味が分からないように、信じる前に、その感じは分かりません。 けれども信仰と信仰の対象である神は、もともと人間の理屈や思考を越えたもの(方)ですから、理屈や思考によらない感情(ただし情操)は、神をとらえるのに非常に役に立ちます。オットーは、絶対他者、すなわち神の前における無力感を「ヌミノーゼ感情」と呼んでいますが、私たちは、これによって神を信じることができます。 しかし真の信仰は、見るところや感じによらず、ただ神にのみ拠り頼むものです(第二コリント5章7節)。ですから感情(特に感覚的な感情や生命的な感情また情緒)は、神をとらえるのに非常に妨げになることがあります。すなわち、何も感じなければ信じられず、また何かを感じて信じるなら、その感情を信じて、ほんとうは神を信じていないかも知れないからです。 三、神への信仰――その意志的または実践的な面(28節) しかし神への信仰を妨げているものは、多くの場合、知性や感情ではなく、「神を知ろうとしたがらない」(28節)、または神を信じたくないという意志です。なぜなら神への信仰というのは、信仰の対象である神の聖い性質上、当然のことながら、道徳性が含まれているので、悪い心や生活を捨てて信じたいという意志がなければ、成り立たないからです。これは信仰の意志的な面です。 多くの人々は、神を信じるなら。自らの悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、信仰を拒否しているのです。しかしキリストが語られたように、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たもの」であることが分かるのです(ヨハネ7章17節)。
2006.09.24
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「真の信仰(1) 信仰と人間」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章 「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」(2節)。 私たちが聖書に対して何の偏見も抵抗も持たずに、聖書を素直に読むなら、世の初めから世の終わりまで詳細に記されている神の啓示に驚くことでしょう。しかしもっと驚くべきことは、人間にとって最も大切な永遠の運命、すなわち私たちが永遠に救われるか滅びるかということは、この神が備えてくださる救いを信じるかどうかにかかっているということです。 それで、これほど大切な信仰について次のような4つの観点から考えてみましょう。◇真の信仰(1)……信仰と人間◇真の信仰(2)……信仰と神◇真の信仰(3)……信仰と罪◇真の信仰(4)……信仰と救い まず信仰と人間についてですが、ここでは、一般的な信仰について学んでみましょう。 一、一般的な信仰は、人間本来の性質です 私たちは、毎日毎日、いや一瞬一瞬、何かを信じて生きているということを自覚しているでしょうか。 1.私たちは、自然の法則または自然現象というものを信じて生きています。私たちは、自然の法則または自然現象というものが、決して気まぐれではないことを信じているからこそ、安心して食べたり、飲んだりして、生活することができるのです。 2.私たちは、科学や文明というものを信じて生きています。今や科学文明というものは、第二の自然と呼ばれるほど、私たちの生存や生活に密着しているものとなっているのです。 3.政治や経済をはじめ、家庭とその集まりである社会というものは、人間同志の信頼や信用で成り立っています。ですからこの信頼や信用が失われるなら、家庭も社会も崩壊してしまうのです。 二、信心よりも信仰の対象が大切です これらのことから一般的な信仰心というものは、だれでも必ず持っているものであることが分かるでしょう。ですから人間にとって最も大切なことは、いったい何を信じるかという信仰の対象です。私たちの信仰の対象は、大別するなら、次のような2つのうちのどちらかです。 1.偽りのもの、非現実的なもの、欺瞞的なもの、空虚なもの、無価値なものを信じる。 2.真実なもの、現実的なもの、不変の真理、実在するもの、価値のあるものを信じる。 私たちは、どちらのものを信じるでしょうか。もし私たちが前者を選ぶなら、たとえどんなに熱心で、忠実に信じたとしても、その「信仰はむなしく」、宣教も「信仰も実質のないものにな」り、その人は、「すべての人の中で一番哀れな者です」(17、14、19節)。なぜなら私たちは、自らの信じているものと運命をともにするからです。 三、真の信仰には必ず根拠が必要です パウロは、この復活の章において「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と述べています(2節)。この「よく考えもしないで」という言葉は、原語において理由なしに、根拠なしに、むだに、無益に、いたずらに、だてに、という意味があります。 人間にとって最も大切なことは、何を信じるかという信仰の対象です。しかし、その時、心しなければならないことは、何を根拠にそれを信じるかという信仰の根拠です。 もし私たちがよく考えもせず、何の根拠もなしに信じるなら、その信仰の対象が確実な真理であったとしても、その信仰に確信を持つことができず、疑いや迷いに悩まされることでしょう。しかし私たちが根拠をもって信じるなら、その信仰は確信に満ち、疑いや迷いもなく、不動のものとなっていくのです。
2006.09.23
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「キリスト者の救い(3) 神の子どもとされること」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙8章14~23節 最後に神の子どもとされることについて学んでみましょう。 このローマ人への手紙の8章14節から23節には、「神の子ども」という言葉が4回、そして「子」または「子ども」という言葉が3回記されています。さらにガラテヤ人への手紙の四章1節から7節にも「子」または「子ども」という言葉が5回記されています。 聖書が教えているキリスト者の救いは、先に学んだ「義と認められること」と、「新しく生まれること」と、今回の「神の子どもとされること」の3つが同時になされるものなのです。 一、神の子どもとされることの必要性 なぜ私たちは、神の子どもとされなければならないのでしょうか。パウロは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは、御霊によって、『アバ、父』と呼びます」と述べていますが(15節)、「子」と対比されるものは、この「奴隷」です。 聖書は、真の神を離れた人間は、次のような3つの姿の奴隷であると教えています。 ◇「私たちも……まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました」(ガラテヤ4章3節)。 ◇「神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした」(同4章8節)。 ◇「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。 そしてこの「奴隷はいつまでも家にいるのでは」なく(同8章35節)、またほんとうの家族ではないので、「子としての身分」(ガラテヤ4章5節)も「子どもとされる特権」(ヨハネ1章12節)もなく、従って財産を相続することもないのです。 二、神の子どもとされることの内容 それでは神の子どもとされるとは、どのようなことでしょうか。人間は、神によって造られたにもかかわらず、その神を離れたために、この世の幼稚な教えと偶像と罪の奴隷となり、その結果、神の子どもとしての身分も特権も失ってしまいました。このような人間にとって必要なことは、もう一度、神の子どもとしての身分と特権を回復することです。 このようなことから神の子どもとされるとは、罪の奴隷から解放されて新しく生まれるとともに、「神の家族」(エペソ2章19節)に受け入れられて、神の子どもとしての身分といっさいの特権が与えられ、天の御国を受け継ぐ「神の相続人」(ローマ8章17節)となることです。 ですから天の御国に入るとは、神の子どもとされた者が神の相続人として「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」(第一ペテロ1章4節)、すなわち「永遠の資産」(ヘブル9章15節)を受け継ぐことであり、単にこの世からあの世に行くというようなものではないのです。 三、神の子どもとされることの根拠 しかし私たちが神の子どもとされるという根拠は、どこにあるのでしょうか。それは、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(ローマ8章16節)という御霊のあかしです。 先に述べたように新しく生まれるとは、御霊のいのちが与えられることですが、その御霊は、「子としてくださる御霊」(同8章15節)であり、私たちは、この御霊によって神を「アバ、父」(同8章15節、ガラテヤ4章6節)と呼ぶことができるのです。 聖書が教えている真の救いは、信じても、ほんとうに救われたかどうかを自分で知ることができない不確かなものではありません。それは、ほんとうに信じたなら、信じた手応えである確信が与えられ、ヨハネが告白しているように、「私たちは、今すでに神の子どもです」(第一ヨハネ3章2節)と、はっきりと自覚して歩むことができるものなのです。
2006.09.22
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「キリスト者の救い(2) 新しく生まれること」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書3章1~16節 次に新しく生まれることについて学んでみましょう。 このヨハネの福音書の3章3節から8節には「新しく生まれる」という言葉が2回、「御霊によって生まれる」という言葉が3回、そして肉によって「生まれる」という言葉が3回記されています。さらに15節と16節には1回ずつ「永遠のいのち」という言葉が書かれています。 この章において主イエス・キリストは、人間の普通の誕生である「肉によって生まれること」だけでなく、「御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちを持つ」ことが必要であることを教えられたのです。 一、新しく生まれることの必要性 なぜ私たちは、新しく生まれなければならないのでしょうか。人間の問題点は、いったい何でしょうか。人間が様々な問題を起こす原因は、何でしょうか。このことに関して世の中においては、およそ次のような5つのことが、その原因であると考えられています。◇人間は、多くの点で無知だからです。◇人間は、心が病んでいるからです。◇人間は、意志が弱いからです。◇人間は、様々な欠陥があるからです。◇人間は、不完全だからです。 これらはみな正しく、間違ってはいません。しかし聖書が教えている人間の問題点は、このような生易しいものではありません。人間は、「罪過と罪との中に死んでい」るという最も厳しいものです(エペソ2章1節)。 聖書において「死」とは「分離」を意味し、次のような3種類の死があることを教えています。 ◇肉体の死――これは人間の肉体から霊が分離することです(創世記35章18節、ルカ8章55節)。 ◇霊的な死――これは霊が神のいのちから分離していることです(エペソ2章1節)。 ◇永遠の死――これは人間が神と永遠に分離されることです(黙示録21章8節)。 二、新しく生まれることの内容 それでは新しく生まれるとは、どのようなことでしょうか。先に述べたように人間の根本的な問題は、単なる無知や心の病、また弱さや欠陥や不完全ではなく、神のいのちから遠く離れて、罪過と罪との中に死んでいるということです。罪のために死んでいる人間にとって必要なことは、その霊が神のいのちによって生き返ることです。 ですから新しく生まれるとは、単に罪過や失敗や過ちを改めて真人間になるということではなく、罪過と罪との中に死んでいる人間に神のいのちが与えられて霊が生き返り、道徳的また倫理的に全く更新されることです。 聖書は、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし……てくださいました」(エペソ2章5節)、「キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて……くださいました」(第一ペテロ1章3節)、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」と教えています(テトス3章5節)。 三、新しく生まれることの根拠 しかし私たちが新しく生まれることができる根拠は、何でしょうか。何の根拠もなしに、ただ神のいのちが与えられて、新しく生まれるということは、あり得ないからです。 愛なる神は、その恵みのゆえに、ご自身のいのちを罪人に与えようと願っておられますが、聖なる神は、その聖さのゆえに罪を罰せずにはおかない方であり、汚れた罪人に近づいて、ご自身の聖なるいのちを、ただ与えることはできません。 しかし義と認められた人間に対しては、神は近づいて、ご自身の聖なるいのちを与えることはできないでしょうか。もちろん可能です。ですから私たちが新しく生まれることができる根拠は、私たちが信仰によって義と認められることなのです。
2006.09.21
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「キリスト者の救い(1) 義と認められること」 甲斐慎一郎 ローマ人への手鏡3章9~31節 聖書は、私たちに「罪を悔い改めて、キリストを自分の救い主として信じるなら、罪から救われる」と記しています(マルコ1章15節、使徒20章21節、16章31節)。その救いに関して聖書は、さらに次のような3つの面があることを教えています。(1)救いは「義と認められること」です。(2)救いは「新しく生まれること」です。 (3)救いは「神の子どもとされること」です。 まず義と認められることについて学んでみましょう。 このローマ人への手紙の3章19節から31節には、「義と認められる」という言葉が6回、「神の義」または「ご自身の義」という言葉が5回、そして「信じる」または「信仰」という言葉が実に10回も記されています。まさにこの章は、「信仰によって義と認められること」について教えている箇所です。マルチン・ルターは、「信仰による義認」は、教会がそれによって立つか倒れるかを決定する信条であると言っています。 一、義と認められることの必要性 なぜ私たちは義と認められることが必要なのでしょうか。この手紙の3章19節から31節には「律法」という言葉が9回も記されています。 私たちが住んでいる社会は、国民の意志によって制定された法律に基づいて政治が行われている法治国家です。ですから私たちが社会において善良な市民であるのか、それとも犯罪者であるのかということは、この法律を守っているかどうかによって決定します。 私たちは、「律法を定め、さばきを行う」(ヤコブ4章12節)神の前に生きている者であり、この神の前に義人であるのか、それとも罪人であるのかということは、この神の律法を守っているかどうかよって決まります。このことに関して聖書は、すべての人は、神の律法に従わずに罪を犯し、罪人であると教えています(9~18、23節)。 ですから人間が神の前に罪人であるというのは、単に心理的または精神的な問題ではなく、「律法を定め、さばきを行う」永遠の神の法廷において、有罪の判決を受けて、永遠の死という刑罰が執行されようとしている司法的なことなのです。 二、義と認められることの内容 それでは義と認められるとは、どのようなことなのでしょうか。すべての人のさばき主である神の法廷において有罪の判決を受け、永遠の死という刑罰が執行されようとしている罪人にとって必要な措置は、有罪の判決が取り消されて無罪放免され、永遠の死という刑罰が取り除かれる司法的な行為です。 ですから義と認められるとは、神と人に対して犯したすべての罪が赦され、神より無罪の判決を受けて義人であると宣告され、いっさいの刑罰が除去されるという司法的な行為であり、これによって私たちは、義なる者として神に受け入れられるのです。 三、義と認められることの根拠 それでは私たちが義と認められることの根拠は、何でしょうか。何の根拠もなしに罪が赦され、義なる者と宣告されるということは、あり得ないからです。 義なる神は、その正義のゆえに罪を罰せずにはおかない方であり、私たちは、ただ神に罪の赦しを求めても赦されるものではありません。何の根拠もなく罪を赦すなら、神は義なる方ではなくなるからです。 しかし愛なる神は、そのあわれみのゆえに「キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためで」あり(25節)、「こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるため」です(26節)。 ですから私たちが義と認められる根拠は、「信仰によって受け入れられたキリストのなだめの供え物」(H・オートン・ワイレー)であり、ほかに救いはないのです。
2006.09.20
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「父と子の交わり」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙8章14~17節 このローマ人への手紙の8章14~17節には、「子」または「子ども」という言葉が各節に、そして「父」という言葉が2回(アバとはアラム語で父という意味)記されています。 そこで、この父と子という観点から、聖書が教えているキリストの救いとは、どのようなものか、また真のキリスト教とは何かということを考えてみましょう。 一、肉体の苦行 およそ宗教と名のつくものには、何らかの形において、肉体の苦行というものがあります。その内容を大ざっぱに述べるなら、次のような4つです。◇様々な欲望を自ら断つ禁欲です。◇肉体を苦しめる行為をすることです。◇自らの肉体を痛め、傷つけることです。◇自らの生命を死に至らせることです。 キリスト教においては、第一のものに相当する断食があります。しかしこれは、神に近づくための一つの手段であり、決してこれ自体を目的としているのではありません。 聖書は、神の宮である肉体を、いたずらに苦しめたり、傷つけたりしてはならず、かえって、その「からだをもって、神の栄光を現」さなければならないと教えています(第一コリント6章20節)。 使徒パウロは、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と述べ(コロサイ2章21、23節)、肉体の苦行によっては、決して真の救いは得られないと教えています。 二、心の修行 次に宗教を心の修行と考えている人々がいます。これをキリスト教に当てはめるなら、次のようになるでしょう。 ◇ある人々は、キリスト教とは、理詰めで神の存在を信じ、ただ聖書を読んで、神の教えを学ぶことであると考えています(知性的な面)。 ◇他の人々は、キリスト教とは、信じることによって神を感じ、ただ神の愛に感動して生きることであると考えています(感情的な面)。 ◇別の人々は、キリスト教とは、すべての悪や罪をやめ、ただ神に仕えて、善行と奉仕に励むことであると考えています(意志的な面)。 キリスト教を、このように考えている人は決して少なくないでしょう。それぞれキリスト教の一面を表しており、真の救いを受けた結果としてこのようになります。しかし、たとえどれにも片寄らず、この3つのものに均衡が取れて備わっていたとしても、これは心の修行であり、真の救いではありません。 三、霊の交わり 聖書が教えている罪からの救いは、次のような三つの面があります。◇それは、「義と認められること」です。◇それは、「新しく生まれること」です。◇それは、「神の子どもとされること」です。 罪を悔い改めて、キリストの十字架は私の罪のためであると信じる者は、義と認められ(すなわち罪を赦され)、新しく生まれるだけでなく、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が……あかししてくださ」り、私たちは、この御霊によって「アバ、父」と呼ぶことができるのです(15、16節)。 私たちは、この御霊によらなければ、神をほんとうの意味と内容と資格をもって「天のお父様」と言うことはできません。「御霊のあかし」は、父の側から子の側への語りかけであり、「アバ、父」は、子の側から父の側への語りかけです。ここから父と子の霊の交わりが始まるということができます。この罪から救われた者だけが持つことができる父と子の交わりこそ、キリスト教の真髄です。
2006.09.19
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「キリスト者と報い(2)」 甲斐慎一郎 ローマ12章17~21節 私たちの人生は、毎日が喜怒哀楽の連続であるということができます。それは多くの場合、私たちが受ける報いと密接な関係があるのではないでしょうか。人は誰しも、良い報いがあれば、喜んだり楽しんだりするでしょうし、反対に悪い報いがあれば、悲しんだり怒ったりするでしょう。それで報いということについて、別の角度から考えてみましょう。 一、報いの評価について 私たちは、自分が報われているとか、報われていないと考える時、その判断や評価を誰がするのかということは、非常に大切な問題です。これには、およそ次のような三者があるのではないでしょうか。 1.第一は自分です。多くの人々は、これではないでしょうか。しかしこれは多くの場合、余りにも主観的、近視眼的で、自分の狭い知識や浅い経験や変わりやすい感情にとらわれて、極めて不正確なものです。 2.第二は、他の人です。これは、いわゆる名誉や称賛です。しかし他の人の私たちに対する評価ほど、まちまちなものはありません。ですから他の人の評価によって自分の報いを計り、一喜一憂することは、賢いことではありません。 3.第三は、神です。神こそ私たちの報いを最も正しく評価することができる方です。しかし報いの評価というものは、多くの場合、最後の審判を受けるまでわからないものであり、私たちとしては、「何についても、先走ったさばきをし」ないことが賢明です(第一コリント5章5節)。 二、報いの種類について 次に私たちが大切な問題として考えなければならないことは、いったい何を報いと思っているかということです。このことに関しては、様々な分類があるでしょうが、ここでは、次のように分けて考えてみましょう。 1.人間的な報い――これは、誰の目にもわかる恵まれた環境や物質的な祝福による報いです。世の人々が汲々となって追い求めている報いは、これです。 2.信仰的な報い――これは、信仰がなければ与えられない報いとともに、人間的には、悪い報いとしか映らないようなもの――たとえば苦難や患難など――も信仰のゆえに良い報いと見ることができる報いのことです。 3.来世的な報い――これは、現世においては、殉教したり、人間的な報いがほとんどなかったりして、ただ来世においてのみ報われる報いです(ヘブル11章35~38節)。 私たちが考えている報いは、人間的な報いが多く、信仰的な報いや来世的な報いは、ほとんど考えていないのではないでしょうか。そして聖書は「わたしは……あなたの非常に大きな報いである」(創世記15章1節、英訳)と、神御自身が報いであることを教えています。 三、報いの応答について 私たちが善であれ、悪であれ、報いを受けた時、それに対してどのように応答するかについては、J・H・ジョウェットの言うように、次のような4種類の態度があります。◇悪をもって善に報いる――悪魔的です。◇悪をもって悪に報いる――獣的です。◇善をもって善に報いる――人間的です。◇善をもって悪に報いる――神的です。 私たちは、キリスト者として善をもって悪に報いるように求められています。しかし私たちの報いに対する考え方が変わり、人間的には悪い報いをも、信仰のゆえに良い報いと見ることができ、また神御自身を報いとするなら、もっと幸いではないでしょうか。そのような時、「我いかにして、その賜えるもろもろの恵みを主に報いんや」(詩篇116篇12節、文語訳)と、心から神に感謝することができるのです。
2006.09.16
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「キリスト者と報い(1)」 甲斐慎一郎 マタイ5章38節~6章18節 私たちが人間関係において、悩んだり、苦しんだりする原因の一つに、報いの違いというものがあります。すなわち「自分は、他の人と同じように、いやそれ以上に努力しているのに、どうして報いられないのだろうか」ということです。それでこの報いということについて学んでみましょう。聖書は、私たちに3種類の報いについて教えています。 一、すべての人が受けなければならない報い(ローマ2章6~11節) パウロは「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」と言っています(ローマ2章6節)。すなわち、善を行う者に対する報いは、褒章であり(同2章7、10節)、悪を行う者に対する報いは刑罰です(同2章8、9節)。この報いは、すべての人が受けなければならない「当然の報い」(同1章27節)であり、「自分のしたことの報いを受け……るのだからあたりまえ」です(ルカ23章41節)。 しかしそれよりも、この報いがあるというのは、神の公平さと(ローマ2章11節)、神の正義(第二テサロニケ1章5~7節)の表れです。もしこの報いがなかったなら、公平も正義も成り立たず、また平和も幸福もあり得ないことになるでしょう。ですからこの世においては、その報いが不公平のように見えても、次に来る世においては、全く公平に報いられるのです。 二、私たち自身が選ばなければならない報い(ヘブル11章24~26節) ヘブル人への手紙の著者は、モーセは「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」と記し(ヘブル11章25節)、その理由として「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」と説明しています(同11章26節)。 信仰には、神からの報いを信じるということが当然含まれているのであり(同11章6節)、キリスト者の生涯を報いと言う観点から述べるなら、次のようになります。すなわち、この世しか通用しない地上のはかない報いを捨てて、次に来る世まで通じる天上の永遠の報いを選び取ることです。 ですから私たちが「人に見せるために人前で善行を」するならば(マタイ6章1節)、「すでに自分の報いを受け取っている」のであり(同6章2、5、11節)、永遠の報いは受けられません。これに対してキリストのために「ののしられたり、迫害されたり」するなら、天における報いは大きいのです(同5章11、12節)。 私たちの生涯は、一瞬一瞬、この選択を迫られています。私たちが永遠の報いを選び取るなら、日ごとに前進して行きますが、地上の報いを選び取るなら、日ごとに衰退して行くのです。これは、私たち自身が自分で選ばなければならない報いです。 三、キリスト者が求めなければならない報い(マタイ5章39~48節) キリストは、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」と言われました(マタイ6章46節)。これは、当然なすべき義務以上のことを行い、また自発的に行ったことによる報いです(第一コリント9章17節)。 言い換えれば、「返してもらうことを考えずに貸」すこと(ルカ6章35節)、すなわち報いや恩返しを期待しない善行です。これこそ真の愛です。 神の愛また十字架の愛は、まさにこれです。この愛がなかったなら、罪深い私たちは、罪から救われることはできなかったでしょう。ですからこの神の愛を追い求め(第一コリント14章1節)、この神の愛に応えて神と隣人を愛していくことこそ(マタイ22章36~40節)、キリスト者生涯のすべてなのです。
2006.09.16
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「恵みと報い」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙4章1~4節 パウロは、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」と教え(エペソ2章8、9節)、また別の箇所においては「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」と記しています(ローマ2章6節)。 そこでこの恵みと報いとは、どのような相違があるのか、またどのような類似があるのか、そしてどのような関係があるのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、恵みと報いの相違について 先に記した2つの言葉から分かるように、報いというのは、その人の行いに従って与えられるものです(第二コリント5章10節を参照)。これに対して恵みというのは、その人の行いに関係なく、無代価で与えられるものです(ローマ11章6節を参照)。ここに恵みと報いとの根本的な相違があります。 報いの良い例証としては、ミナのたとえ話をあげることができます(ルカ19章11~27節)。みな同じ一ミナを与えられましたが、おのおのの働きに応じて、ひとりひとり報いが違っているからです。これに対して恵みの良い例証としては、ぶどう園の労働者のたとえ話をあげることができます(マタイ20章1~16節)。それぞれの働きの量はみな違っているにもかかわらず、最初の約束に従ってみな同一のものを受け取っているからです。 二、恵みと報いの類似について このように恵みと報いとは、根本的に違うものですが、次のような点においては類似しているのではないでしょうか。 1.第一は、恵みも報いも神から与えられるということです。神は愛なる方であるとともに義なる方です。神の愛は、私たちに惜しみなく恵みを与えますが、神の義は、私たちに正当な報いを与えるのです。 2.第二は、恵みも報いも過不足なく、ちょうどよく与えられるということです。神は、計り知れない知恵に従って、私たちには完全に理解することができなくても、おりにかなったふさわしい恵みと報いを与えてくださるのです。 3.第三は、恵みも報いも感謝して受け、それを神と人のために有効に用いるなら、さらに豊かな恵みや報いが与えられますが、反対に不平と不満と呟きを言って有効に用いなければ、与えられた恵みや報いまで失ってしまうのです(マタイ25章29節)。 三、恵みと報いの関係について まず恵みと報いは、どちらが先かという順序ですが、これは言うまでもなく恵みです。パウロは、「だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか」(ローマ11章35節)と言って、神がすべてのものの与え主であることを教えています。私たちは、まず神から恵みを受け、その恵みを働かせることによって今度は報いが与えられるのです。 ぶどう園の労働者のたとえ話の最初に雇われた者は、あとの者をねたみ、主人に文句を言いましたが、これは自分の働きや行いに頼り、それを誇ったからです。その結果、先の者があとになり、R・C・トレンチの言うように、天の御国から追い出されたのです。 報いは、私たちの行いや働きに応じて与えられるものですが、報いが与えられるように行ったり働いたりすることができること自体がすでに恵みです。パウロが「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかしそれは私ではなく、私にある神の恵みです」と述べている通りです(第一コリント15章10節)。私たちは、すべてを神の栄光に帰し、決して自分の行いを誇ってはなりません。そうしなければ報いはもちろんのこと、救いの恵みも失ってしまうからです。
2006.09.16
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「人に対する神のお取扱い」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章5~15節 聖書は、人に対する神のお取扱いには次のような3つの原則があることを教えています。 一、恵みの原則――働きがなくても、ただで与えられる(8節、ローマ4章5節) イエスは、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました(8節)。私たちに対する神のお取扱いの第一番目は、恵みの原則です。 受ける資格のない者に、価なしに与えられるものが恵みです。ですから、多く与えられていても誇ることはできず、少ししか受けていなくても、また全然なくても、不平を言うことはできません。恵みは、受ける資格のない者に与えられるものだからです。 イスラエル人が神に選ばれたのも、彼らが異邦人よりも先に様々な祝福を受けたのも、神の恵みによるのであり、彼らの行いによるのではありません(ローマ11章6節)。それでは異邦人は神に見捨てられたのでしょうか。そうではありません。イスラエルは神に背き、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(同11章11節)。 二、報いの原則――働きにふさわしい報酬が与えられる(10節、ローマ4章4節) イエスは、「働く者が食べ物を与えられのは当然だからです」と言われました(10節)。私たちに対する神のお取扱いの第二番目は報いの原則です。 受ける資格のある者に、当然の代価として与えられるものが報いです。ですから、良い働きと行いがあって、それにふさわしい人には良い報いがあり、何の働きも行いもなく、それにふさわしくない人には良い報いは、ありません。報いは、受ける資格のある者に与えられるものだからです。 しかし報いの原則は、一個人としては公平であっても、他人との比較においては、先に恵みによって多く与えられた者の方が、少ししか受けていない人よりも有利であり、不公平感をぬぐい去ることはできません。そのために第三番目の原則があるのです。 三、公平の原則――多く与えられた者は多く求められる(15節、ルカ12章48節) イエスは、弟子たちを受け入れない町に対して、「さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです」と言われました(15節 )。私たちに対する神のお取扱いの第三番目は、公平の原則です。 多く与えられた者と少ししか受けていない者とが、全く同じことを要求されるのは、不公平です。多く与えられた者は多く、少ししか受けていない者は少し求められることこそ公平ではないでしょうか。 ですから、数々の力あるわざを行って、福音を宣べ伝えた弟子たちを受け入れない町は、このようなことが行なわれなかったソドムやゴモラよりも罰が重くなるのです。 四、三つのたとえ話の教訓 この恵みと報いと公平の原則は、主が語られた3つのたとえにおいて教えられています。 まず「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20章1~16節)は、人は行いや働きによらず、ただ恵みによって救われるということを教えており、これは恵みの原則です。 次に「ミナのたとえ」(ルカ19章11~28節)は、恵みによって救われたキリスト者は、行いや働きに応じて報いられるということを教えており、これは報いの原則です。 最後に「タラントのたとえ」(マタイ25章14~30節)は、行いや働きに応じて報いられるにしても、人には、それぞれ違った賜物が与えられているので、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12章48節)ということを教えており、これは公平の原則です。 私たちは、このような恵みと報いと公平という3つの原則を知る時、人に対する神のお取扱いの正しさを理解することができます。
2006.09.15
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「新しい事をされる神」 甲斐慎一郎 イザヤ書43章19節 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」(イザヤ書43章19節)。 私たちは、新年や新年度を迎えて新しい計画や目標を立てたり、新年や新年度の希望や抱負を語ったりすると、何か新しくなったような気がします。しかし通常の生活に戻ると、昨年や昨年度と少しも変わっていない自分を発見して、愕然とすることがあります。 聖書が教えているように、「日の下には新しいものは一つもな」く(伝道者1章9節)、人は、神による以外に新しくなることはできません(第二コリント5章17節)。 そこで冒頭に記した「見よ。わたしは新しい事をする」という御言葉は、どのような意味であり、何を教えているのかということを学んでみましょう。 一、報いの法則について 私たち日本人は、仏教の強い影響を受けて、過去や前世の行いの善悪に応じて報いがあるという「因果応報」の教えを無意識のうちに信じています。確かに聖書も、「人は種を蒔けば、その刈り取りもする」という報いの法則を教えています(ガラテヤ6章7節)。 しかし現実の世界は、すべての人が善悪の行いにふさわしい報いだけを受けているのではなく、いわゆる「運」とか「つき」に支配されています。 聖書も、「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」と記し(伝道者9章11節)、この世界は、決して報いの法則だけが支配しているのではないことを教えています。 二、神の恵みについて イスラエルの民は、何度も神にそむいて罪を犯し、神が遣わされた預言者たちの警告にも耳を傾けず、ついに敵国バビロンに滅ぼされ、生き残った者は捕虜となり、バビロンに連れて行かれてしまいました。彼らは、神に対して犯した罪の報いを受けたのです。 ところが神は、ペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられたので、王のおふれによってイスラエル人は捕囚の身から解かれ、祖国に帰ることができました(エズラ1章)。 彼らは、「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」と歌っています(詩篇126篇1、2節)。 このバビロンの捕囚からの帰還こそ、冒頭に記した神がなされる「新しい事」です。 神は、彼らの「罪にしたがって」、彼らを「扱うことをせず」、彼らの「咎にしたがって」、彼らに「報いること 」をされませんでした(詩篇103篇10節)。これこそ何の働きもなく、受ける資格のない者に与えられる恵みにほかならず(ローマ4章4、5節)、神は、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに」私たちを「義と認め」、その罪を赦して、神の子どもとしてくださるのです(同3章24節)。 三、私たちの応答について このように神は、受ける資格のない者に恵みという「新しい事」をされる方であり、私たちは、その恵みを受けることができます。 しかしそれだからと言って私たちは、罪を犯しても、怠けても、神は祝福してくださるであろうと決して思ってはなりません。それは、神を侮る恐ろしいことです(ガラテヤ6章7節)。 私たちは、この恵みを受けるなら「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩篇116篇12節)、と感謝にあふれて、神と人に仕えていくことができるのです。
2006.09.15
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「幼子とおとなの違い」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙5章7~14節 「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」(13、14節)。 冒頭のみことばは、幼子とおとなの違いは、「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された」かどうかであると教えています。それで経験によって何を訓練されるのかについて学んでみましょう。 一、私たちの考え方を左右する経験 私たちは、ほとんどの物事に関して、ある思いや考え方を持っています。しかしその思いや考え方というものが真実で正しいものであるかどうかは、実際にその物事を経験しなければ分かりません。ですから私たちは、実際に経験しないうちは、そのことに関して真相を知らないのだというわきまえを持たなければなりません。このわきまえがありませんと、多くの問題が起こります。私たちは、経験によって教えられるものが3つあります。 第一は謙遜です。私たちは、物事を実際に経験する時、その真相を知り、何と自分は思い上がっていたのかを深く恥じるとともに、真相を知らずに人を批判していた高慢な心が砕かれて、謙遜を教えられるのです。 第二は愛です。私たちは、物事を実際に経験する時、その真相を知り、何と自分は思いやりの心がなかったかを深く恥じるとともに、真相を知らずに人を批判していた冷淡な心が砕かれて、愛を教えられるのです。 第三は知恵です。私たちは、物事を実際に経験する時、その真相を知り、何と自分は愚かであったかを深く恥じるとともに、真相を知らずに人を批判していた無知な心が砕かれて、実際的な知恵を教えられるのです。 二、人となられたキリストの経験 神の御子イエス・キリストは、私たちの救いのために人となられるという経験をされた神です。神が人となられるという経験によって、次のような3つのものが現されました。 第一は謙遜です(ピリピ2章6~8節)。神の御子キリストが人となるという経験をされなかったなら、私たちは、神の驚くべき謙遜を知ることはできなかったことでしょう。 第二は愛です(ヘブル4章15節)。神の御子キリストが人となるという経験をされなかったなら、私たちは、神の計り知れない愛を知ることはできなかったことでしょう。 第三は知恵です(第一コリント2章7~9節)。神の御子キリストが人となり、十字架の上で人類の罪を贖うという経験をされなかったなら、私たちは、神の限りない知恵を知ることはできなかったことでしょう。 三、私たちがおとなになるための経験 神ご自身が人となるという経験をされたことによって、その驚くべき謙遜と計り知れない愛と限りない知恵を現されたのです。私たちも人間的には、苦しくて辛く、理解できないような様々な経験をしながら、神と同じように次のような3つのものを身につけていかなければならないのです。 第一は謙遜です。私たちは信仰によって高慢の罪がきよめられて謙遜が与えられます。しかし与えられただけでは借り物で真に自分のものとなっていません。それで様々なところを通り、色々な経験を積むことによって真に自分のものとなり、訓練を受けて、ますます謙遜になっていくのです。 第二は愛です。私たちは信仰によって愛が与えられます。しかし与えられただけでは借り物で真に自分のものとなっていません。それで様々なところを通り、色々な経験を積むことによって真に自分のものとなり、訓練を受けて、ますます愛が深くなっていくのです。 第三は知恵です。私たちは信仰によって知恵が与えられます。しかし与えられただけでは借り物で真に自分のものになっていません。それで様々なところを通り、色々な経験を積むことによって真に自分のものとなり、訓練を受けて、ますます知恵が増し加わっていくのです。
2006.09.14
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「十字架上の七言」 甲斐慎一郎 ルカの福音書23章34~43節 イエスは、十字架の上で7つの言葉を語られました。聖書は、この「十字架上の七言」について、12時までの前半の3時間に3つの言葉を、午後3時までの後半の3時間の後に4つの言葉を記しています。 一、十字架上の第一の言葉 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23章34節)。 イエスは、自分を十字架につけた兵士たちの罪の赦しを祈られました。イエスは、ご自分のことよりも、神の御子を十字架につけるという恐ろしい罪を犯している兵士たちが赦されることを祈っておられました。 二、十字架上の第二の言葉 「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23章43節)。 イエスは、悔い改めた強盗に自分とともにパラダイスにいると言われました。イエスは、ご自分のことよりも、神の御子をののしり、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた強盗どもの救いのことを考えておられました。 三、十字架上の第三の言葉 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。……そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19章26、27節)。 イエスは、母マリヤを愛する弟子のヨハネに託されました。イエスは、ご自分のことよりも、愛する息子の十字架の刑を目の当たりに見ている傷心の母マリヤの将来のことを心にかけておられました。 四、十字架上の第四の言葉 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。 この叫び声は――私たちの想像を絶する誠に信じ難いことですが、――イエスが父なる神に捨てられたことは、紛れもない事実であることを私たちに教えています。 五、十字架上の第五の言葉 「わたしは渇く」(ヨハネ19章28節)。 イエスは、すべてのことが完了したのを知った時、今まで忘れていた「渇き」を覚えられたのです。 六、十字架上の第六の言葉 「完了した」(ヨハネ19章30節)。 これは、イエスが人類を罪から救う贖いのわざを成し遂げ、神から託された地上における使命を終えたことを教えています。 七、十字架上の第七の言葉 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)。 イエスは、ご自分の霊を父なる神にお渡しになり、父なる神がそれを受け取ってくださることを信じ、安らかに亡くなられました。 イエスは、人に捨てられたことによって、人類の罪のためのいけにえとされました。しかし人によってむりやりに罪のためのいけにえとされたのではなく、ご自分から私たちの罪をその身に負われました。そして神に捨てられることによって、「私たちの代わりに罪とされ」(第二コリント5章21節)、私たちを罪から贖い出してくださったのです。 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(すなわち天の聖所)にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章24、12節)。 このようにイエスの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開いたのです。
2006.09.13
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「身代わりの十字架」 甲斐慎一郎 イザヤ書53章 イザヤ書の53章は、キリストの受難の時から数えて約700年以上も前に預言されたものです。しかし私たちがこの章を読む時、イザヤはキリストの十字架の下で、これを書いたのではないかと思うほど、実に鮮やかに贖いの意義を私たちに教えています。 このキリストの贖い、すなわちキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死なれ、私たちの罪を赦してくださるというのは、私たちに何を教えているのでしょうか。身代わりの十字架という観点から、次のような3つのことを学ぶことができます。 一、神の義の必要性 この章には2回、キリストが私たちの罪のために打たれたことが、はっきりと記されています。 ◇「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕 かれた」(5節)。 ◇「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」(8節)。 これは何と恐れ多いことでしょうか。しかしそれ以上に何と厳粛なことでしょうか。神は罪人を救うために、罪のない神のひとり子イエス・キリストを私たちの身代わりに罰せられたのです。これは「ご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ3章26節)。罪は、ただ見のがしにして赦すことは決してできないからです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の義の必要性を教えています。罪人である私たちが神の前に義と認められるためには、キリストの身代わりの刑罰が必要だったのであり、これなしには神の義を現すことができなかったのです。 二、神の愛の重要性 さらにこの章には3回、キリストが私たちの罪を背負ったことが記されています。◇「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(6節)。◇「彼らの咎を彼がになう」(11節)。◇「彼は多くの人の罪を負い」(12節)。 人間にとって最も苦しく辛いことは何でしょうか。無実の罪を負わされたり、濡れ衣を着せられたりすることではないでしょうか。対人関係の問題の根本は、このことであり、これは通常、誤解とか不当な非難とか中傷という形をとって表われます。キリストは、私たちに対する愛のゆえに無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷をも(3、4節)、喜んで受けてくださったのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに神の愛の重要性を教えています。神が罪人である私たちを愛されたことは、キリストが私たちのために無実の罪を負い、誤解や不当な非難や中傷をも喜んで受けてくださったということであり、これなしには神の愛を現すことはできなかったのです。 三、結実の必然性 最後にこの章には3回、罪人の救いという結実があったことを教えています。◇「彼は末長く、子孫を見る」(10節)。◇「多くの人を義とし」(11節)。◇「多くの人々を彼に分け与え」(12節)。 このためにキリストは「自分のいのちを罪過のためのいけにえ」(10節)とされたのであり、しかも「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足」(11節)されたのです。 キリストの身代わりの十字架は、私たちに結実の必然性を教えています。神は、キリストをいけにえとされたので、罪人である私たちは罪を赦されて救われることができるのです。そのように私たちも神と人のために自分をささげて、犠牲にする時、豊かな実を結ぶことができるのです。
2006.09.13
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「教会の三つの面」 甲斐慎一郎 使徒の働き2章37~47節 新約聖書は、教会というものを次のような3つのものにたとえて教えています。 ◇教会はキリストのからだである(エペソ1章23節、コロサイ1章18節) ◇教会は神の家族である(第二コリント11章2、エペソ2章19節、5章32 節) ◇教会は聖霊の宮(神殿)である(第一コリント6章19節、エペソ2章20~ 22節) 一、キリストのからだ――教会の生命的な面 教会はキリストのいのちが躍動している生きたからだです。それは新しく生まれ変わった多くのキリスト者から成り立っている生き物です。ひとりひとりのキリスト者が弱くなれば教会も弱くなり、ひとりひとりのキリスト者が強くなれば教会も強くなります。 教会はそれ自体一つの人格を持っているかのようです。聖書は、「教会は……平安を保ち」(使徒9章31節)とか「諸教会は、その信仰を強められ」(同16章5節)と記しています。 教会はキリストのからだです。それは文字どおりキリストをかしらとするからだであり、キリストの手足です。教会はかしらであるキリストの命じるままに歩むだけでなく、キリストの使命を遂行するために労し、働き、また戦う手であり足なのです。 二、神の家族――教会の家庭的な面 教会は、神の家族です(エペソ2章19節)。家族には3つのきずながあります。第一は夫婦のきずなであり、第二は親子のきずなであり、第三は兄弟姉妹のきずなです。それぞれのきずなに愛と交わりと信頼があります。 キリストは花婿であり(マタイ9章15節)、教会は花嫁です。これは夫婦のきずなです。神は父であり、キリスト者はみな神の子どもです。これは親子のきずなです。キリスト者同士は互いにみな兄弟姉妹です。これは兄弟姉妹のきずなです。これらのきずなは、愛と交わりと信頼によって保たれていくだけでなく、いよいよ深く親密になっていくのです。 三、聖霊の宮――教会の組織的な面 パウロは、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」と記し(エペソ2章20~22節)、教会を聖霊の宮や神殿にたとえています。 そして「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」と述べています(同4章11、12節)。 教会の設計者は神であり、神は永遠の計画と目的をもって教会を神的な組織と制度によって秩序正しく建て上げ、教会の使命である福音宣教によって神の国をつくられるのです。 四、健全な教会の姿 聖書が教えている健全な教会の姿は、これらの3つに均衡と調和がとれていなければなりません。もしからだとしての生命的な面だけが強調されるならば、神秘主義的な教会になるでしょう。また家族としての家庭的な面だけが強調されるならば、社交主義的な教会になるでしょう。そして神殿としての組織的な面だけが強調されるならば、階級主義的または形式主義的な教会になるでしょう。 私たちは、長い教会歴史の中に、そして残念なことに現在ある教会の中にさえ、このような脱線した教会があることを知っています。しかしこれらの教会を見て、聖書の教えを捨ててはなりません。聖書が教える教会は、正しい意味において神秘的な面があり、また霊的、信仰的な交わりがあり、そして神的な組織と制度があり、これらの3つの面は、1つが他のものを排除したり、破壊したりすることなく、共存するものなのです。
2006.09.13
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「教会の二つの面」 甲斐慎一郎 使徒の働き5章1~16節 「教会」ということばを聞くと、多くの人たちは、すぐに建物である教会堂や目に見えるキリスト教会のことを想像します。しかし一般的に「教会」と訳されているギリシャ語の原語は「エクレシヤ」と言い、次のような3つの意味を持っています。 1.それぞれの家から呼び出されて集まった市民たちの集会のことです。使徒の働きの19章の「エペソでの騒動」の記事において(23~41節)、「集会」(32節)とか「議会」(39節)、または、「集まり」(41節)と訳されていることばは、これを指しています。 2.イスラエル人の集まりや社会またはイスラエル人が形成していた宗教的集団のことです。ステパノが説教において「荒野の集会(エクレシヤ)」(7章38節)と言っているのは、これを意味しています(他にヘブル2章12節、詩篇22篇22節を参照)。 3.キリストによって召し出されて一つに集められたキリスト者の集団のことです。一般的に「教会」と言ったならば、この3番目のことを教えています。 私たちは、真の教会というものは、単なる市民の集まりではなく、神の市民の集まりであり(ピリピ3章20節)、そのひな型はすでに旧約聖書において荒野を放浪したイスラエル人の集会にあったことを知るのです。 しかし教会に対しては次のような両極端の誤った考えがあります。1つは、教会はキリストの福音を宣べ伝える便宜上、人間がつくった団体にすぎないという考えであり、もう1つは、教会を神聖視し過ぎて、完全無欠なものと見る考えです。前者の考えの人たちは、教会が社会を変えるというような大きな期待を寄せることはせず、後者の考えの人たちは、教会の中に少しでも不完全なものや教派があるとつまずいてしまうのです。 このようなまちがいは、教会には「天上にある目に見えない教会」と「地上にある目に見える教会」との2つの面があることを知ることによって避けることができます。 一、天上にある目に見えない教会 エペソ人への手紙の中に記されている教会ということばはみな、この天上にある目に見えない教会のことを意味しています。 「天上にある目に見えない教会」は、全時代の全世界における真に罪から救われたキリスト者の集まりのことです。これは、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」であり(エペソ5章27節)、「天の所にすわ」り(同2章6節)、神との深い交わりの中に入れられています。この天上にある目に見えない教会こそ、やがて現れる「天の御国」です。 二、地上にある目に見える教会 「地上にある目に見える教会」は、「コリントにある神の教会」(第一コリント1章2節、第二コリント1章1節)とあるように、各時代において、それぞれの地域にある有形のキリスト教会のことです。この教会は、御霊に属するキリスト者だけでなく、肉に属するキリスト者や救いの道を求める人たち、そして世の人々などあらゆる人たちが出席していますので、さまざまな誤りや問題を避けることはできません(第一コリント3章3、4節、11章19節)。 ですからこの教会は、世の勢力と戦い、福音宣教のために働き、さまざまな訓練を受けて、完成に向かって成長することが必要です。 このように教会には2つの面があることををわきまえ、混同してはなりません。私たちは、「目に見える教会」の問題点や不完全さを見て、「目に見えない教会」を否定するようなことがあってはなりません。「目に見える教会」は「目に見えない教会」を目指して、日々祈りつつ戦っていることを決して忘れてはならないのです。
2006.09.13
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「教会の歩み(3) 社会における歩み」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙6章 教会は、キリストの花嫁として天の神に召されたものですが、この地上にいる間は、この世や社会に対して、正しい在り方と大切な任務というものがあります。それは、何でしょうか。この箇所から学んでみましょう。 一、教会の在り方――世に汚されないこと――勝利の生活(10~17節) キリスト者は、聖霊に満たされ、罪がきよめられるなら、心の中の罪との戦いはなくなりますが、汚れたこの世の中に住んでいる以上、外から来る誘惑や敵との戦いは、決してなくなることはありません。私たちは、世に汚されないためには、次の2つのことが必要です。 1.敵をよく知ること(12節)。 私たちの真の敵は、悪魔であり、その特徴は次の三つです。 (1)目に見えないこと――人間は目に見えますが、悪魔は見えず、また決して姿を見せません。ですから目に見えるものは、私たちのほんとうの敵ではないことを忘れてはなりません。 (2)人間よりも賢いこと――ですから素手ではもちろんのこと、人間のあらゆる力を用いても到底勝つことはできません。 (3)この世の支配者であること――悪魔は、「この世の神」(第二コリント4章4節)ですから、真の神に仕えなければ、結局は、この悪魔に仕えてしまうことになるのです。 2.戦う準備をすること(10~17節)。 戦うためには、次の3つのことが必要です。 (1)力――神の大能の力によって強められること(10節)。 (2)装備――神の武具を身につけること。◇腰……真理の帯を締める(14節)。◇胸……正義の胸当てを着ける(14節)。◇足……平和の福音の備えをはく(15節)。 腰は力の出るところであり(ヨブ40章16節)、胸は思いや動機、また足は歩みを表しています。ですからキリスト者が悪魔の策略に対して立ち向かうことができるためには(11節)、真理の力を帯び、正しい動機で物事をなし、福音を信じて平和な歩みをすることによって品性や人格が形造られなければならないことを教えているのでしょう。 (3)武器――神の武器をとること。◇左手……信仰の大盾をとる(16節)。◇頭……救いのかぶとをかぶる(17節)。◇右手……みことばの剣をとる(17節)。 これは、キリスト者が邪悪な日に際して対抗し、またすべてを成し遂げて堅く立つことができるためには(13節)、まず十字架による罪と死からの救いを確信し、次に試練の火には信仰により、誘惑には神のことばによって勝利を得なければならないことを教えているのでしょう。 二、教会の任務――世をきよくしていくこと――福音の宣教(18~24節) この世は、政治の権力によって上から下へ、また社会運動によって大衆から個人へと改革を押し付けて、きよくしようとしても不可能です。まず個人個人が罪から救われて新しく生まれなければなりません。世をきよくしていくためには、次の3つのことが必要です。 1.神に祈ること(18節)。 悪魔の奴隷になっている罪人を救うためには、まず悪魔の力を破壊しなければなりません。聖書は、祈りだけが天に上って神の御手を動かし、悪魔の力を破壊するものであることを教えています。 2.福音を宣べ伝えること(19、20節)。 私たちは、福音を宣べ伝えなければなりません。なぜなら罪人は、福音を聞き、それを信じることによってのみ罪から救われることができるからです。 3.信仰の交わりをすること(21~24節)。 罪から救われた者は、教会に加わり、互いに助け合う信仰の交わりによって成長し、暗黒の世を照らす「世の光」、また地上の腐敗を防ぎ、よい味付け、すなわち地上に良い影響や感化を与える「地の塩」となることができるのです(マタイ5章13~16節)。
2006.09.10
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「教会の歩み(2) 家庭における歩み」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙5章 「キリスト者の家庭は、天国のひな型である」と言われますが、キリスト者は、「マイ・ホーム(自分または人間中心の家庭)」をつくるべきではなく、「ヒズ・ホーム(神またはキリスト中心の家庭)」をつくらなければなりません。 それで聖書からキリスト者の家庭のあるべき姿について学んでみましょう。 一、個別的な勧告(5章22節~6章9節) パウロは、6つのことを勧めています。 1.妻には服従が求められています。 ◇従う対象――自分の夫(5章22節)。聖書は、一夫一婦と貞操を教えています。 ◇従う程度――教会がキリストに従うようにすべきです(同24節)。 ◇従う範囲――すべてのことです(同24節)。 ◇従う理由――夫は妻のかしらであるからです(同23節)。 2.夫には愛が求められています。 ◇愛する対象――自分の妻(同25、28節)。聖書は、一夫一婦と貞操を教えています。 ◇愛する程度――キリストが教会のためにご自身をささげられたようにです(同25節)。これは妻のために自分のいのちを捨てることができるほど愛することです。 ◇愛する範囲――自分と同様に(同33節)。 ◇愛する理由――妻は自分のからだであり、妻を愛する者は、自分を愛していることだからです(同28節)。 3.子供には服従が求められています。 ◇従う対象――両親です(6章1節)。 ◇従う理由――人道的に正しく、また神の戒めにかなっているからです(同 1、2節)。 4.父には神と聖書による教育が求められています。 5.奴隷には服従が求められています。 ◇従う対象――地上の主人です(同5節)。 ◇従う動機――人が見ていてもいなくても、善意をもってなすべきです(同 7節)。 ◇従う程度――キリストに従うようにすべきです(同5節)。 6.主人には公平が求められています。 このほかに夫は妻につらく当たってはならず(コロサイ3章19節)、父は子どもをおこらせてはならず(エペソ6章4節)、主人は奴隷をおどしてはならない(同6章9節)ことが勧告されています。 二、総括的な教訓 3つにまとめることができます。 1.家庭に関する聖書の教えは秩序です。 聖書が示している夫婦と親子と主従の関係は、家庭内において神による秩序を保つことが大切であることを教えています。この秩序こそ平和な家庭の秘訣です。家庭の中で最も大切なのは夫婦の関係です。親子や主従の問題を解決するには、まず夫婦の問題を解決しなければならないからです。 2.家庭に関する聖書の教えは公平です。 この聖書の教えは、妻や子どもや奴隷に対してだけのものではなく、夫や父や主人に対しても勧告しているという意味において公平です。しかしまたそれぞれ違う種類の人々に対して異なったことを要求しているという意味においても公平です。立場や能力その他において違う人々に同じことを要求するのは公平ではないからです。 3.家庭に関する聖書の教えは不変です。 この夫婦と親子と主従の関係は、神と教会、すなわちキリスト者の関係にたとえられており、家庭に関する聖書の教えは、永久に不変です。しかしこの聖書の教えが守られずに崩れていくと、世の中は必ず乱れて悪くなっていきます。世の中の水準は、個々の家庭の水準以上にはならないからです。聖書だけが不変の正しい家庭の在り方を教えており、それを教会とキリスト者が守っていくとともに、世の人たちに教え、広めていくのが教会とキリスト者の責務です。
2006.09.10
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「教会の歩み(1) 個人における歩み」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、4章 エペソ人への手紙は、「教理の部」(1~3章)と「実践の部」(4~6章)の2つに分けられ、「教理の部」は「教会の建設」について、「実践の部」は「教会の歩み」について記しています。 その教会の歩みは、さらに「個人における歩み」(4章1節~5章21節)と「家庭における歩み」(5章22節~6章9節)と「社会における歩み」(6章10~24節)の3つに分けることができます。 個人における歩みについては、第一に「召しにふさわしく歩み」(4章1節)、第二に「隣人に対して真実を語り」(4章25節)、第三に「神にならう者になる」ように(5章1節)と勧められています。 ここから聖書のメッセージは、まずキリスト者の身分や地位を教えて、どのようにあるべきかという標準を示し(自分に対して)、次にその標準的な姿に歩むなら、どのようになるかという結果を知らせ(人に対して)、最後にそのようになるためには、どうすればよいかという条件や秘訣を教えている(神に対して)ことがわかります。 一、召しにふさわしい歩み(4章1~24節) これには、3つのことがあります。◇一致する歩み(1~13節)……標準◇成長する歩み(13~16節)……結果◇聖潔の歩み(17~24節)……秘訣 キリスト者は、「御霊の一致」を熱心に保たなければなりませんが(3節)、そのためには神から各々に授けられている賜物や恵みや力量(7、16節)の違いを認めて、その賜物や恵みや力量以下でも以上でもなく、それらにふさわしいことをし、また神から各々に与えられている立場や持ち場に留まっていることが必要です(11節)。 このように「一致」していく時、私たちは「成長」していくことができます。しかしこのような一致を保ち、成長していくための秘訣は、何でしょうか。それは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという「聖潔」の歩みです。キリスト者が成長していくためには、ほかの人と関係なく、独立独歩では不可能であり、ほかのキリスト者との一致や協調や協力が不可欠なのです。 二、隣人への真実な歩み(4章25~32節) これには、3つのことがあります。◇勤勉な歩み(25~28節)……行動◇徳を建てる歩み(29、30節)……言葉◇赦しと同情の歩み(31、32節)……思い 罪に陥ってしまう激しい怒りは(26節)、隣人に対して「勤勉」でなく、なすべきこともしない怠慢が原因ではないでしょうか。また私たちは、勤勉に手足を動かすなら、「悪い言葉」を語ることも少なくなりますが、怠慢で手足を動かさなければ、言葉数が多くなり、余計なことを語るようになるのではないでしょうか。隣人に対して「勤勉」に、そして「徳を建てる言葉を語る」秘訣は、隣人に対する「赦しと同情」です。 三、神にならう歩み(5章1~21節) これには、3つのことがあります。◇愛のうちに歩む(1、2節)……標準◇光のうちを歩む(3~14節)……結果◇賢い歩みをする(15~21節)……秘訣 「愛」はキリスト者にとって生活の動力であり、行動の動機であり、人々を救いに導く情熱です。 人間は、興味や関心のあるものを知ろうとしますが、そのように「愛」は、「光」すなわち「真理」を求めるものです。私たちは、「愛」のうちに歩む時、ますます暗黒の罪を離れて(3~7節)、真理である「光」のうちを歩むようになります(8~14節)。 そしてこのような「愛」と「光」のうちを歩む秘訣は、御霊に満たされ(18節)、神に賛美と感謝をささげ(19、20節)、神に服従(21節)する「賢い歩み」なのです。
2006.09.10
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「教会の建設(3) 教会の使命」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、3章 建物を建設するのは、その建築物が建てられた目的に沿って使用するためです。教会の建設にも、その用途、すなわち使命というのがあります。 教会の使命について学んでみましょう。 一、教会の使命の起源(1~6節) パウロは、「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて……この奥義は、啓示によって私に知らされたのです」と述べています(2節)。 奥義とは、「神の啓示によってのみ知られる宗教的な真理」のことです。新約聖書が教えている奥義は、「福音により……(ユダヤ人だけでなく)異邦人もまた共同の相続者となること」(6節)、また「私たちの中におられるキリストのこと」です(コロサイ1章27節)。 パウロの務め、すなわち教会建設の使命は、啓示によって神から知らされました。教会は、それぞれの時代にあって何をなすべきか、その使命は何かという質問に対する答えは、神から与えられなければなりません。それは、人間の考えや思想や教えで決めるべきものではありません。教会の使命は、教会の設計者また教会の建築師である神ご自身が責任をもって定めておられることなのです。 二、教会の使命の内容(7~13節) 教会の使命は、「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え」ることです(8節)。これは「教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです」(10、11節)。 しかしこの世は、「十字架につけられたキリストを宣べ伝えることが教会の唯一の使命であるとは何と愚かなことか」と言うでしょう。しかし聖書は、「神は、みこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」と明白に教えています(第一コリント1章21節)。 ですからこの世が、どれほど福音は愚かであり、その宣教も愚かであると言っても、神がその福音宣教によってのみ人々を救おうと定められたのですから、教会は、その福音を宣教することによって、その使命を果たすのです。このようにする時、罪人は救われて、教会が建設されていくからです。 三、教会の使命の動力(14~21節) それでは、福音を宣べ伝えるという教会の使命を果たすための動力は、何でしょうか。パウロは、4つのことを祈っています。 1.あなたがたの内なる人を強めてくださいますように(16節)。 2.キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように(17節)。 3.人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように(19節)。 4.神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように(19節)。 福音宣教の使命を果たすことは、決して容易なことではありません。なぜなら人間は、あまりにも罪深く、また弱いからです。ですからキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」ることが必要です(18節)。 キリストの愛に比べて、私たちの愛はどうでしょうか。あまりにも狭く、特定の人の、しかも特定の姿の時しか愛せないのではないでしょうか。またあまりにも短く、長続きしないで、冷えてしまうのではないでしょうか。またあまりにも低く、自分の利益だけを考えて愛するのではないでしょうか。またあまりにも浅く、表面しか見ずに、浅薄で、思いやりがないのではないでしょうか。 私たちは、自らの愛がどれほど狭く、短く、低く、浅いかを自覚しなければなりません。このようにする時、「罪の増し加わるところには(罪を犯せば犯すほど、という意味ではなく、罪の自覚が深ければ深いほど)、恵みも満ちあふれ」(ローマ5章20節)とあるように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解する力を持つようになり、福音宣教の使命を果たすことができるようになるのです。
2006.09.10
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「教会の建設(2) 教会の建築」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、2章 建物を建築するためには、まず材料を選び(建築の資材)、次にそれを加工して(建築の方法)、最後にそれを組み立てていかなければなりません(建築の構造)。教会の建築にも、この3つのことがあります。 次に教会の建築について学んでみましょう。 一、建築の資材(1~3、11、12節) 教会の建築の資材は人間ですが、その資材のもとになる素材は罪人です。罪人は「罪過と罪との中に死んでいた者で」、「生まれながら御怒りを受けるべき子らで」す(3節)。 その特徴は、「この世の流れに従い……今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って歩」み、「肉と心の望むままを行」い、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちで」す(2、3、12節)。 箸にも棒にもかからない罪人が教会の建築の素材とは!、こんな粗雑で悪い素材がほかにあるでしょうか。しかし同じ傑作品を造る場合、その素材が悪ければ悪いほど、それだけその建築師の腕が優秀である証拠ではないでしょうか。神は、最低、最悪の素材によって、最高、最善の傑作品を造られる方です。すなわち神は、このような罪人を「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を」建てられるのです(エペソ5章27節)。 二、建築の方法(4~10、13~18節) 優秀な建築師である神は、まず死んで腐敗している素材を、生きたすばらしい材料に造り変えられます。すなわち神は、御子の十字架の死によって、人間の罪を処罰し、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださいます。言い換えればキリストは、私たちのためにいのちを捨ててくださったので、信じる者は生き返るのです。これが救いの恵みであり、この救いは、「行いによるのでは」なく、ただ「信仰によって」与えられる神の賜物です(9、8節)。 「私たちは、神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(10節)。「作品」は、大量生産する「製品」でもなければ、店頭で売買する「商品」でもありません。優秀な建築師である神が心を込めて製作した、世界で、ただ一つしかない傑作品です。 この救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも与えられます。ユダヤ人と異邦人との間には、「戒めの律法」という「隔ての壁」があり、互いに敵対していました(15、14節)。 律法には儀式的な律法と道徳的な律法がありますが、キリストは、十字架につけられることによって、儀式的な律法を成就し(ヘブル10章11~18節)、十字架の贖いを信じる信仰によって道徳的な「律法を確立することになるので」(ローマ3章31節)、両者の間の隔ての壁を打ちこわし、「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現」されました(15節)。すなわち「神の子ども」とされ、「平和をつくる者」となったのです(マタイ5章9節)。 三、建築の構造(19~22節) 教会は、三重の構造になっています。一番下に「キリスト・イエス」という「礎石」があり、その上に「使徒と預言者という土台」があり(20節)、一番上にユダヤ人と異邦人が一つになったキリスト者の集まりである教会が建てられます。 「この方(キリスト)にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって」、私たちも「ともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(21、22節)。 「主にある聖なる宮となる」とか「御霊によって神の御住まいとなる」とは、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」のことです(エペソ5章27節)。このように教会は「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」たという神の設計図の通りに建築されるのです(同1章4節)。
2006.09.09
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「教会の建設(1) 教会の設計」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、1章 アジヤ州(現在のトルコ)の首都エペソは、大女神アルテミスが祭られている神殿のある町として有名です。パウロは、このエペソに福音を宣べ伝え、教会を建設しましたが、この手紙において真の教会は、偶像の神殿ではなく、「聖霊の宮」、「キリストのからだ」、「神の家族」であると教えています。 建物を建設するということは、まず設計をし、次にその設計図通りに建築をし、最後にその建築物が建てられた目的に添って使用することです。教会の建設にも、この3つのことがあります。◇教会の建設(1)……教会の設計◇教会の建設(2)……教会の建築◇教会の建設(3)……教会の使命 まず教会の設計について学んでみましょう。 一、神の設計(3~14節) 教会は、単に外側の建物のことではなく、教会の建設は、教会堂を建築することではありません。聖書が教えている教会は、神によって召し出され、罪から救われたキリスト者の集まりのことで、教会の建設は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ」、「みな……完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことです(4章12、13節)。 父なる神は、この教会の設計者であり、その設計図は、「私たちを……御前で聖く、傷のない者にしようとされ……ご自分の子にしようと」されたことです(1章4、5節)。 子なる神イエス・キリストは、この父なる神の設計図の通りに「実行に移され」た(10節)方であり、その実行の方法は、十字架の「血による贖い」です(7節)。「贖い」とは「罪の赦し」(7節)のことです。それはまた神と和解し、神の子どもとして「一つに集められ」(10節)、「御国を受け継ぐ者」となることです(11節)。 聖霊なる神は、子なる神イエス・キリストがなされた贖いのみわざを、信じるひとりびりとの人間にあてはめて、その人の体験となるように働かれる方です。すなわちその信じたことがその通りになったと「証印を押」し(13節)、また確実なものであると「保証」してくださる方です(14節)。 二、人の承認と信仰(15~23節) このように教会の建設は、その設計から施行に至るまで、みな神がなさるのであり、人は、それに協力することが求められます。私たちは、その設計や施行に関して、文句を言ったり、余計な干渉をしたり、果ては到底不可能であると言って、手直ししたりする能力もなければ、資格や権利もないのです。 パウロは、この教会に関する設計や施行が、どんなにすばらしく、栄光に満ちたものであるかを、この手紙を読む人に分かるように3つのことを祈っています(17~19節)。 第一に、「神を知るための知恵と啓示の御霊」が与えられるように、第二に、「心の目がはっきり見えるように」、第三に、「神の召しによって与えられる望み」と、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」を知ることができるように祈っています(17~19節)。 神の設計は、比類のない最高のもので、その施行は、完全無欠なものですから、私たちは、この神の設計を承認し、自分自身を神にゆだねるなら、その建設は、完全に施行されます。しかし人間の知恵によって、その設計に文句を言ったり、不可能であると言って手直ししたりして、承認せず、神にゆだねなければ、せっかくの比類のない最高の設計も、ふいになってしまうのです。 私たちは、自分に対する神の設計を承認せず、自分を神にゆだねることをしないで、神の怒りを招くようなことを決してしてはなりません。私たちは、自分に対する神の比類のない最高の設計を承認し、また自分を神にゆだねて、「聖霊の宮」、「キリストのからだ」、そして「神の家族」である教会の建設に協力する者とさせて頂こうではありませんか。
2006.09.09
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「私たちの教会(3) その将来の姿」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、1~6章 最後は教会の将来の姿について学んでみましょう。これは教会の当面の目標であるとともに、教会の究極的な姿に関する事柄です。 一、成長する教会 このエペソ人への手紙には「成長し」という言葉が3回記されていますが(2章21節、4章15、16節)、この言葉の前後には教会に関する3つのたとえが述べられています。 1.キリストのからだ(生命的な面)。 教会はキリストをかしらとするからだです。教会はかしらであるキリストの命じるままに歩むだけでなく、キリストの使命を遂行するために労し、働き、また戦う手であり足です。 2.神の家族(家庭的な面)。 キリストは花婿であり、教会は花嫁です。これは夫婦のきずなです。神は父であり、キリスト者はみな神の子どもです。これは親子のきずなです。キリスト者同志は互いにみな兄弟姉妹です。これは兄弟姉妹のきずなです。 3.聖霊の宮(組織的な面)。 教会の設計者は神であり、神は永遠の計画と目的をもって教会を神的な組織と制度によって秩序正しく建て上げ、教会の使命である福音宣教によって神の国を樹立されるのです。 教会が成長するためには、ただ自分だけが信仰に成長すればよいというものではなく、一人一人のキリスト者が教会を構成する「キリストのからだ」であり、「神の家族」であり、「聖霊の宮」であるということを深く自覚し、これを土台として一人一人が信仰に成長していくことが大切なのです。 二、おとなの教会 教会が成長しなければならないのは、「子ども」から「おとな」になるためです。パウロは、「ついに、私たちがみな……完全におとなになってと述べています(4章13節)。それでは「おとな」とはどのような人でしょうか。3つほどのことが考えられます。 1.「おとな」とは、あらゆる面において未熟さがない人です。識別力(知性的な面)と自制力(感情的な面)と責任感(意志的な面)があり、知性と感情と意志その他において均衡と調和が取れて、成熟している人こそ「おとな」です。 2.「おとな」とは、人に世話をかけず、自立している人です。危なっかしさが少しもないだけでなく、何でも安心して任せることができ、信頼のおける人こそ「おとな」です。 3.「おとな」とは、人の世話をすることができ、子どものいる人です。人に世話をかけないどころか、かえって人の世話をし、人を救いに導いて霊の子どもがいる人こそ「おとな」です。 私たちは、個人のみならず教会として、このような「おとな」になることが求められているのです。 三、天の御国 「子ども」から「おとな」に成長した教会の行き着く所は「天の御国」です。キリストが再臨される前の「目に見えない教会」は、「隠された天の御国」ですが、キリストが再臨された後は、それが「現された天の御国」になるのです。天の御国を教会という観点から見るなら、3つにまとめることができます。 1.義の栄冠を受けることです。 天の御国は、「勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し」た者が受ける義の栄冠です(第二テモテ4章7、8節)。 2.栄光のからだを着ることです。 パウロは「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに……死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」と述べてます(第一コリント15章52節)。 3.天の資産を受け継ぐことです。 ペテロは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」ことについて述べています(第一ペテロ1章4節)。このために私たちは、地上において救いを受ける時、御霊が遣わされて神の子どもとなり、キリストとの共同相続人として、天の資産を受け継ぐ権利が与えられるのです(ガラテヤ4章6節、ローマ8章17節)。
2006.09.09
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「私たちの教会(2) その現在の姿」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、1~6章 次に現在の姿について学んでみましょう。エペソ人への手紙の2章から5章には「今」という言葉が5回記されています(2章13、19節、3章5、10節、5章8節)。 一、栄光に満ちた教会 教会の現在の姿は、エペソ人への手紙から考察すると、まず「すべての霊的祝福」(1章3節)と驚くべき神的特権に満ちた栄光の教会であることがわかります。 1.聖霊によって証印を押された教会 真のキリスト者は、人間の側で勝手に神を信じて、罪から救われたつもりになっているのではなく、神より「あなたは正真正銘の神の子どもです」と「聖霊をもって証印を押され」た者であり(1章13節)、その「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」(1章14節)。 2.キリストと一体とされている教会 この手紙には、「キリストにあって」とか「キリストによって」または「キリストにおいて」という言葉が何回も記されています。これは私たちがキリストと結び合わされ、キリストと一体となるということを意味しています。私たちは「キリストとの共同相続人」なのです(ローマ8章17節)。 3.神の豊かな知恵に満ちている教会 「天にある支配と権威」とは天使のことです。罪のために汚れ、滅びて行く罪人が、キリストの福音によって聖い神の子どもとなり、御国を受け継ぐ者とされるということは「御使いたちもはっきり見たいと願っている」ほど驚くべきことであり(第一ペテロ1章12節)、これによって神の豊かな知恵が天使に対して示されるのです。 二、苦難に満ちた教会 しかし目の前の現実の世界は非常に厳しく、教会は様々な苦難に会い、多くの困難に囲まれています。教会が苦しみに会う原因は、色々ありますが、3つのことが考えられます。 1.人間の弱さ――私たちは、罪をきよめられても肉体を持っている間は避けられない弱さや無知また誤りや過失というものがあり、これらのものが様々な苦難を招くのです。 2.悪魔の誘惑――私たちは、罪をきよめられるなら、内的な罪との戦いは止みますが、悪魔との戦いは避けることができません。 3.神の試練――神は、私たちの信仰を試し、私たちを信仰に成長させるために試練をお与えになるのです。 このようにすばらしい栄光に満ちた教会も「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないので」す(第一ペテロ1章6節)。 三、戦い続ける教会 このすばらしい栄光に満ちている教会は、なぜ様々な試練や誘惑を受けて、苦しまなければならないのでしょうか。それは、神がこれらの試練や誘惑を用いて私たちを目覚めさせ、私たちをすべての霊的祝福と驚くべき神的特権に満ちた栄光の教会にするためです。そのためには、次の3つのことが必要です。 1.霊的に更新されることです。 私たちは、「心の目がはっきり見えるようにな」り、「心の霊において新しくされ」ることが必要です(エペソ1章17~19節、3章16~19節、4章23、24節)。 2.神の御前に歩むことです。 私たちは、神に召された者として「その召しにふさわしく歩み」、「愛のうちに歩み」、「光の子どもらしく歩み」、「賢い人のように歩んでい」かなければなりません(同4章1節、5章2節、15節)。 3.神の武具を身に着けることです。 私たちは、悪魔に対して素手で勝つことはできません。ですから神のすべての武具を身に着け、神の武器をとらなければなりません。すなわち「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき……信仰の大盾を取り……救いのかぶとをかぶり……御霊の与える剣である、神のことばを受け取り……御霊によって祈」ることです(同6章14-18節)。
2006.09.09
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「私たちの教会(1) その過去の姿」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、1~6章 エペソ人への手紙の主題は「キリストのからだである教会」であり、コロサイ人への手紙の主題である「教会のかしらである教会」と対になっています。この手紙が教えている教会は、建物である教会堂ではなく、キリストによって召し出されて一つに集められたキリスト者の集まりのことを指しています。 この手紙は、ごく自然に前半の教理の部分(1~3章)と、後半の実践の部分(4~6章)に分けられますが、ここでは「私たちの教会」と題して6章全体から過去、現在、将来の3つの姿に分けて考えてみましょう。◇私たちの教会(1)……その過去の姿◇私たちの教会(2)……その現在の姿◇私たちの教会(3)……その将来の姿 まず過去の姿から学んでみましょう。 一、救われた以後の姿(2章4~10節) 人の一生いや「次に来る世」をも含めた永遠の中で、最も重要な時はいつでしょうか。それは罪を悔い改め、キリストを救い主と信じた救いの時です。なぜなら、この救いの時がなければ、それ以後の信仰の成長も聖潔も、さらに死後の天の御国もないからです。 パウロは、キリスト者の救いについて次のような4つのことを述べています。◇救いの源泉-あわれみ豊かな神(4節)◇救いの方法-恵みと信仰(5、8節)◇救いの結果-新しく造られる(10節)◇いの目的-良い行いをする(10節) 教会は、キリストによって召し出されて一つに集められたキリスト者の集まりです。ですからどんなに多くの人々が集まっていたとしても、一人一人の中にこの救いの確信が明確でなければ、外側は教会のように見えたとしても、それは新約聖書が教えている教会ではありません。真の教会は、救いの経験が明確なキリスト者の集まりであり、これが何よりも大切なことなのです。 二、救われる以前の姿(2章1~13節) この救いの経験を明確にするためには、この救いを受ける前は、どのような者であったかをはっきりと知ることが必要です。 このエペソ人への手紙の2章から5章には「以前」という言葉が4回(2章11、12節、4章21節、5章8節)、「そのころ」という言葉が2回(2章2、12節)、「かつて」という言葉が1回(2章3節)記されています。 私たちは、以前は「罪過と罪との中に死んでいた者」であり、そのころは「この世の流れ」と「悪魔の霊」と「肉の欲」に従って生きていただけでなく、「キリストから離れ」、「約束の契約」に関係がなく、「この世にあって望みもなく、神もない人たち」で、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」を着ていた者です(4章22節)。 私たちは、どんなに祝福を受けて信仰に成長しても、人を思いやる愛と謙虚さを失わないために、自分がどのようなところから救い出されたのか、またかつてはどのような姿であったのか、すなわち私たちの「切り出された岩」と「掘り出された穴」(イザヤ51章1節)とをよく見なければならないのです。 三、さらにそれ以前の姿(1章4節) 新約聖書が教えている教会が誕生したのは、ペンテコステの時です(使徒2章)。しかしその前身はキリストの弟子たちの集団に見ることができます(マタイ16章18節)。けれども、もっとさかのぼるなら、「荒野の集会(エクレシア)」(使徒7章38節)である旧約時代のイスラエル人の集まりが、そのひな型です。 しかし新約聖書は、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」と記し(エペソ1章4節)、教会の起源は、「世界の基の置かれる前から」神のみこころの中にあったことを教えています。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選ばれたのです(ヨハネ15章16節)。 ですから私たちは「恐れおののいて自分の救いを達成し」なければならないのです(ピリピ2章12節)。
2006.09.09
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