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「神の恵みと自分のわざ」 甲斐慎一郎 詩篇、103篇1~22節 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)。 私たちは、一年を終える時、今までのことを回顧します。しかしその過去の出来事の中に何を見、何に心を留めるかによって、それは私たちの信仰の成長にとってプラスにもマイナスにもなるのです。 一、自分のわざに目と心を留める この103篇は、1~2節と20~22節において自分のたましいとほかの人たちに神への賛美を呼びかけています。その中間の3~19節には、ただ神のなされたみわざと、その恵みが記されているだけで、人間のわざや働きについては何も記されていません。 文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、その救いを与えてくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 聖書は、人間は生まれながらの罪人であると教えています(エペソ2章3節)。人は、神を全く恐れない不敬虔な者であり(ローマ3章18節)、「高ぶる者」、「ねたみ……でいっぱいになった者」です(ローマ1章30、29節)。この「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」こそ人間の代表的な罪です。 私たちが神のなされたみわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執して、それを誇示するなら、私たちの心は、このような罪に満ちてしまうのです。 聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」と教えています(ヤコブ1章17節)。 ですから自分のわざや働きにおいて、良いわざは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて反省し、そこから教訓を学んだならば、やはり神にゆだねなければなりません。このようにする時、私たちは、神と人の前において成長していくことができるのです。 しかしもし私たちが、自分のわざや働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、有頂天になって人を見下げ、悪い結果の時は、失望落胆して神と人を恨むようになるでしょう。 どちらにしても神のなされた恵みのみわざを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、感謝の心を持つことができず、あらゆる罪に陥ってしまうのです。 二、神の恵みに目と心を留める しかし私たちが人間のわざや自分の働きを忘れ、神の恵みのみわざを見るなら、事態は全く一変し、「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」とは全く反対のものが与えられます。 ◇「敬虔さ」が与えられます。神の恵みを忘れず、それに心を留めることは、神に栄光を帰することであり、神を恐れ、敬うことです。「主を恐れる者」(11、13、17節)とは、神の恵みを忘れず、神を敬う者であることは言うまでもありません。 ◇「謙虚さ」が与えられます。人は、神の恵みのみわざに心を留める時、自分のわざや働きの小ささと卑しさを知り、「私たちがちりにすぎないこと」(14節)を悟るのです。 ◇「愛」が与えられます。私たちは、「あわれみ深く、情け深い」主、また「怒るのにおそく、恵み豊かである」神(8節)に心を留める時にのみ、その神の愛に応えて、愛が与えられるのです。 私たちは、大晦日に、救いを与えてくださった神と、その神の恵みのみわざを心から賛美して1年を締め括ろうではありませんか。
2006.12.31
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「エベン・エゼル(助けの石)」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、7章12節 私たちは、年末を迎え、過ぎ去った一年を振り返る時、様々な苦しみと困難に会い、何度も何度も危ういところを通りながらも、神が今日まで私たちを守り、助け、導いてくださったことを改めて知り、神に深い感謝を神にささげるのではないでしょうか。 聖書の中にも、様々な危険と苦しみを通りながら、神の助けによって守られて来た一人の人の感謝の言葉が記されています。それは、預言者サムエルの言葉です。 「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった』と言った」(第一サムエル7章12節)。 この言葉は、神に対するサムエルの感謝の念と感恩の情からあふれ出た幸いな言葉であるとともに、彼が神に用いられた秘訣を教える言葉でもあります。 私たちも、一年を守られ、今日という日を迎えることができたことを思い、「ここまで主が私たちを助けてくださった」ことを心から感謝するとともに、このことの深い意味を考えてみましょう。 一、「ここまで……助けてくださった」――継続的な神の助け サムエルは、その誕生においては、母ハンナの篤い祈りがあり、少年時代は、「主にも、人にも愛され」(第一サムエル2章26節)、またイスラエルの預言者に任じられた時も、「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった」(同3章19節)という幸いな人です。彼は、ほかの誰よりも痛切にここに至るまでの継続的な神の助けを知っていたのではないでしょうか。 しかしこのことは、サムエルだけでなく、境遇の違いこそあれ、私たちも同じです。だれも神の間断なき助けなしに、今日まで生き長らえて神に仕えた人はいないからです。私たちは、ここまで助けてくださった神に心から感謝をささげているでしょうか。 二、「主が……助けてくださった」――摂理的な神の助け サムエルの生涯は、幼少から晩年に至るまで、実に多難な日々でした。特に少年時代においては、柔弱な祭司エリと、よこしまな息子であるホフニとピネハスのもとで育てられたことは、非常に大きな試みであったことでしょう。しかしこのような中でサムエルは、老祭司ではなく、少年の自分を選んでイスラエルの預言者としてくださる神の不思議な摂理を知って成長していったのです。 私たちも、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」(ローマ8章28節)知って、困難な環境の中でも、神が助けてくださることを信じて、信仰に成長していきたいものです。 三、「私たちを……助けてくださった」――全体的な神の助け サムエルは、「若い時から今日まで、あなたがた(イスラエル人)の先に立って歩んだ」人です(第一サムエル12章2節)。サムエルの思いは、いつもイスラエルの民にあり(同12章23節)、その生涯は神のためにイスラエルの国をつくることに使い尽くされたのです。 ですからサムエルが神の助けを受けたことは、イスラエル全体が神の助けを受けたことであり、イスラエル人はサムエルの成長とともに成長していったのです。 このことは新約時代の教会も同じです。私たちも、ひとりひとりが神の助けを受けて教会を建設することに力を注ぐならば、私たちの成長によって、教会全体も神の助けを受けて成長するのです。 私たちは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と感謝にあふれて、年末を迎えているでしょうか。
2006.12.30
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「神に会う備え(2)」 甲斐慎一郎 アモス書、4章12節 「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(12節)。 この預言者アモスのことばは、第一義的には、悔い改めようとしないイスラエルの民に上に臨む恐ろしい神の刑罰に対して、彼らがその審判に備えるようにという意味です。しかしこのアモスの言葉から広く「備え」ということについて学んでみましょう。 一、備えの必要について 樹木の落葉は、冬を越すための備えです。ある動物は、越冬するために夏のうちに食物を備えたり、冬眠したりします。渡り鳥は、それぞれの季節に備えて移動する鳥です。このように生物というものは、変化する環境や気候に備えていないと、その生命を維持することができません。 また物事がうまくいくかどうかということは、それに対してどのくらい準備をしたかによって決まるといっても決して過言ではないでしょう。何の準備も努力もしないで、ただ良い結果だけを期待している人は、怠慢な人です。何事に関しても良い備えをする人こそ、勤勉な人であり、真面目な人であるということができます。 このようなことから、生物の生命を維持するためにも、物事を成功させるためにも、また立派な人間になるためにも、備えというものがどんなに必要であるかわかるでしょう。 二、最大の備えについて 聖書は、私たちに最も大切な備えとして、「神に会う備え」を教えています。これは次のような3つにまとめることができます。 1.第一は、人生の備えです。これは、この地上において神の前に喜ばれる歩みをすることができるための備えです。 2.第二は、死または審判の備えです。これは、地上の生涯を終えて、神の審判を受ける時、神の前に責められるところがなく立つことができるための備えです。 3.第三は、永遠または天の御国の備えです。これは、次に来る世において永遠に神とともに住むことができるための備えです。 この「神に会う備え」について、パウロは、具体的に次のようなことを勧めています。 「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、頼りにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」(第一テモテ6章17~19節)。 三、備えの教訓について 備えから学ぶことができるものは数多くありますが、3つだけ学んでみましょう。 1.真の信仰を学ぶことができます。 備えは人間の側でなす分であり、結果は神がなされる分です(箴言21章31節)。信仰は、人間の側で備えをしたならば、結果は神に任せて心を安んじることです。 2.真の希望を学ぶことができます。 神は常に真実な方ですから(第二テモテ2章13節)、私たちが良い備えをするならば、たとえ遅くても、必ず良い結果を与えてくださるゆえに失望することはないのです。 3.真の愛を学ぶことができます。 私たちがすばらしいキリストの救いを受けることができたのは、神の側において人を罪から救う贖いのご計画とそれを完成させる長い準備があったからです。神は愛する者のために良き備えをしてくださったのであり、真の愛は、愛する者のために良き備えをすることに現れるのです。聖書は、神の備えについて次のように教えています。 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(第一コリント2章9節)。
2006.12.29
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「神に会う備え(1)」 甲斐慎一郎 アモス書、4章12節 「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」 (アモス書4章12節) 「備えあれば憂えなし」という諺があります。私たちには様々な憂いがありますが、その根本的な原因は、私たちに備えができていないからではないでしょうか。なぜなら「人事を尽くして天命を待つ」という諺のように、私たちは人事を尽くすならば、すなわち十分な備えをするならば、あとは天命を待つしかなく、いたずらに憂えるならば、ますます苦しむだけだからです。 この預言者アモスのことばは、第一義的には、悔い改めようとしないイスラエルの民に上に臨む恐ろしい神の刑罰に対して、彼らがその審判に備えるようにという意味です。しかしこのアモスのことばから広く「備え」ということについて学んでみましょう。 一、からだのための備え――生命の備え 樹木の落葉は、冬を越すための備えです。ある動物は、越冬するために夏のうちに食物を備えたり、冬眠したりします。渡り鳥は、それぞれの季節に備えて移動する鳥です。このように生物というものは、変化する環境や気候に備えていないと、その生命を維持することができません。 人間の場合も、神から与えられた肉体の健康を維持し、その尊い生命を保つことは、私たちの責務です。ですから私たちは、自分とその家族およびその子孫や同胞が、飢えや病気に苦しむことなく、健康に生きていくために、決してすべてのものを無駄に用いてはなりません。また家庭をも顧みず、ただ自らの欲望を満たすために自分の健康を損なうようなものを飲み食いすることは、私たちに許されていません。それは私たちに生命をお与えになった神を冒涜することになるからです。 二、心のための備え――人生の備え 私たちは、いつ、どこで、どのようなことがあっても、うろたえたり、取り乱したりしないような心構えが必要です。しかしこれは、ただしっかりした心を持てばよいというようなものではありません。それは、将来に起きる出来事を的確に予想して一生の計画を立て、それに基づいて十分な備えをしなければ、到底できないことです。 ですから人生の設計も生涯の使命もなく、ただ漫然とその日暮らしの生活をし、仕事が終われば身近な楽しみで憂さ晴らしをしている人は、人生に何の備えもしていないのです。このような人は、備えがないために、将来に対して絶えず不安を抱き、その不安を取り除くために、また身近な楽しみで憂さ晴らしをするというような悪循環に陥ることになるでしょう。私たちは、人生の計画を立てて備えているでしょうか。 三、霊のための備え――永遠の備え しかし最も大切なことは、私たちが聖く傷のない者として神の前に立つことができるような者に変えられることです。これが「神に会う備え」であり、また永遠の備えです。 人間は、毎日毎日、様々な備えをしながら生きていますが、たとえほかの準備をどんなに完全に、また間違いなくしたとしても、最も大切な「神に会う備え」をしていなかったならば、すべては水泡に帰してしまうのです。 私たちは、この「神に会う備え」をするために、「恵みの日」であり「救いの日」である今という時に(第二コリント6章2節)、神に対する悔い改めと信仰によって罪からの救いを受けるとともに、服従と献身によって神への奉仕と人々への善行に励み、霊的に成長していくことが必要です。 旅行をする時、最終の目的地がわからなければ備えをすることができないように、人生も同じです。聖書が死後における永遠の世界をあらかじめ啓示しているのは、私たちに終着駅を教え、ほんとうの備えをさせるためです。 私たちは、天の御国にはいることができるという永遠の備えができていなければ、この世におけるほんとうの人生の備えも生命の備えもできていないということを知っているでしょうか。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 2」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2006.12.28
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「ヨブの苦難に学ぶ(2)」 甲斐慎一郎 ヨブ記、1~42章 「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(ヨブ42章6節)。 不朽の大作「レ・ミゼラブル(ああ無情)」を著したフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーは、「ヨブ記は、恐らく人類の心の所産の最大傑作である」と言いました。 ヨブの受けた言語に絶する苦しみは、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、大きな苦しみを受けたヨブ(1、2章) 神は、ヨブに5つの苦難が来ることを許されましたが、これは苦難の程度の軽いものから重いものに至るまで5つの段階を教えているのではないでしょうか。 1.息子の行状を心配する心の苦しみです。具体的には何も失っていません(1章5節)。 2.財産が失われる苦しみです(1章13~17節)。これには心の苦しみも伴います。 3.愛する7人の息子と3人の娘が失われる苦しみです(1章13~19節)。この苦しみは想像を絶するものです。しかしこの時、ヨブは、「主の御名はほむべきかな」と神を賛美しています(1章21節)。 4.自分の健康が失われる苦しみです(2章7節)。重い病ほどその心の苦しみは増すでしょう。しかしこの時ヨブは、「神から……わざわいをも受けなければならない」と言って神の摂理に従っています(2章10節)。 5.言語に絶する苦しみに受けながら、同情もされず、友から激しい非難を浴び、人間の尊厳を損なわれた苦しみです(4~25章)。 私たちは、ヨブのような大きな苦しみを受けていないかも知れません。しかし人の一生は、ある意味において「喪失の連続」であると言うことができるのではないでしょうか。 二、神の取扱いを受けたヨブ(3~41章) ヨブの3人の友は、ヨブを慰めに来ましたが、彼のことばを聞いているうちに「ヨブがこのような大きな苦難に会ったのは、大きな罪を犯したからである」と異口同音に彼を非難しました。しかしヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人ですから(1章1節)、この非難は全く的外れです。 ヨブは自分の無実を述べる時、3人の友よりも「知識」と「経験」と「能力」において優っていると言っただけでなく、自分の正しさを主張する余り、神を非難してしまいました(40章8節)。そのような時、神はヨブに3つの質問をされました(38~41章)。 ◇あなたは……(を)知っているか。――ヨブの「知識」を問う質問です(5回)。 ◇あなたは……(した)ことがあるのか。――ヨブの「経験」を問う質問です(9回)。 ◇あなたは……(する)ことができるか。――ヨブの「能力」を問う質問です(25回)。 神がヨブに浴びせた矢継ぎ早の質問には、さすがのヨブも自分の「無知」と「無経験」と「無能力」を認めざるを得ませんでした。 三、神の祝福を受けたヨブ(42章) 神のねんごろなお取扱いを受けたヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを知りました」(1節)と、改めて神の全知全能を心から認め、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(5節)と、新しい神経験をしました。それでヨブは「自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改め」ました(6節)。 ヨブが3人の友のために祈った時、主はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて二倍に増し、息子7人と娘3人を与えられました(10、13節)。こうしてヨブは神からあふれるばかりの祝福を受けたのです。 「あなたが苦しみに会っても落胆しない秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神をとらえていれば、すべてを失ったとしても、実際は何も失っていないのです。というのは、あなたに神がついていてくだされば、すべてのものがあるということなのです。神はあなたが失ったすべてのものを倍にして返そうとしておられます。一番恐るべきことは、すべてのものを持っていて、神をとらえていないことです。神がいないなら、あなたの持つすべてのものも零に等しいのです」(テモテ・ザオ著「わざわいをも」21頁、キリスト新聞社、1964年)。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 16」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2006.12.27
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「ヨブの苦難に学ぶ(1)」 甲斐慎一郎 ヨブ記、42章1~6節 あらゆる恵みに満ちた神がキリストを信じる者に備えられた永遠のご計画は、次のような3つのものです(第一ペテロ5章10節)。(1)罪の解決――救いときよめです(この世)(2)苦難による完成――成長です(この世)(3)永遠の栄光――天の御国です(次に来る世) ヨブ記は第一と第二のことを教えています。 一、苦難の原因 これには次のような3つのものがあります。 1.悪魔に起因するもの 多くの苦難の直接の原因は、この悪魔(サタン)の働きです。しかしサタンは、神の許可なしには何もできないことを聖書は教えています(1章12節、2章6節)。 2.人に起因するもの これは人間の罪や無知や未熟さのために苦難を招くものです。罪に対する罰として苦しみを受ける「刑罰説」や、私たちの無知を教えて未熟なところを鍛えるために苦難を受ける「教育説(鍛練説)」は、これです。 3.神に起因するもの これにはサタンが働くことを神が許可される場合と、サタンを用いずに神が直接働かれる場合とがあります。私たちを試すために苦難が来る「試験説」や、他の人の罪を負って身代わりの苦難を受ける「代償説」や、神のわざが現れるために苦しみを受ける「栄光説」は、これです。 ヨブの苦難は、個人的には彼の醜い自我と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人人に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」であると言うことができます。 二、苦難の方法 神は、ヨブに5つの苦難が来ることを許されていますが、これは苦難の程度の軽いものから重いものに至るまで5段階に分けたものと見ることができます。 1.息子の行状を心配する心の苦しみです。しかし具体的には何も失っていません(1章5節)。 2.財産が失われる苦しみです(1章13~17節)。これには心の苦しみも伴います。 3.愛する7人の息子と3人の娘が失われる苦しみです(1章13~19節)。この苦しみは想像を絶するものです。しかしこの時ヨブは、「主の御名はほむべきかな」と神を賛美しています(1章21節)。 4.自分の健康が失われる苦しみです(2章7節)。重い病ほどその心の苦しみは増すでしょう。しかしこの時ヨブは、「神から……わざわいをも受けなければならない」と言って神の摂理に従っています(2章10節)。 5.このような大きな苦しみに会いながら、同情もされず、友から非難を受ける苦しみです(4~25章)。これにはさすがのヨブも耐え切れず、3人の友を激しく責め、自分の正しさを主張し、神を非難してしまいました(40章8節)。ここに彼のきよめられなければならない醜い自我が暴露されたのです。 三、苦難の結果 最後の章である42章には、次のような4つの幸いな結果が記されています。1.神を目で見る(5節)――より深い神経験2.全く悔い改める(6節)――より深い謙遜3.友のために祈る(10節)――より大きな愛4.二倍に祝される(10節)――より高い恵み 私たちも、苦難を乗り越えるなら、次のようになります。1.私たち自身がより高く成長します。2.他の人がより大きな恵みにあずかります。3.神のわざがより広く現れます。 ヨブ記の主題は「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でした(1章1節)。しかし彼は、この苦難を乗り越えることによって、きよめられ、完成したのです(42章1~6節)。
2006.12.26
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「ルカの福音書の特徴」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1~24章 「ルカの福音書」には、次のような6つの特徴があります。 一、労働者の福音書です 羊飼いたち(2章8~20節)、夜通し働いた漁師(5章1~11節)、三年の間、実を結ばなかった無花果の木にもう一年、肥やしをやる話(13章6~9節)、ミナの譬え(19章12~27節)が記されています。 二、女性の福音書です エリサベツとマリヤの会見談(1章39~56節)、イエスの一行に奉仕した女性たち(8章2、3節)、罪深い女性(7章36~50節)、マリヤとマルタ(10章38~42節)、18年間、サタンの縛られた女性のいやし(13章10~17節)、不正な裁判官とやもめ(18章1~8節)、十字架と埋葬の時、そばにいた女性たち(23章49節、24章1~10節)のことが記されています。 三、幼児・少年の記事が多く掲載されています バプテスマのヨハネの誕生(1章13、14、57~59節)、飼葉おけに寝かされた幼子イエス(2章1~7節)、イエスの献児式(2章22、23節)、12歳の時のイエス(2章41~52節)、やもめの息子の蘇生の話(7章11~17節)が記されています。 四、貧しい人の福音書です 献児式における貧しい人のささげ物(2章24節)、愚かな金持ちの農夫(12章16~21節)、祝宴を催す場合、貧しい人を招く話(14章12~14節)、金持ちとラザロの話(16章19~31節)が記されています。 五、私たちの弱さを思いやるイエスを記している福音書です ペテロのために祈られた主(22章31、32節)、失望しているエマオへの途上の弟子たちに現れたイエス(24章13~33節)、ペテロに復活の姿を現された主(24章34節)のことが記されています。(山室軍平著「ルカ傳餘師」5~10ページより抜粋、救世軍出版供給部、1921年)。 六、賛美の書です ルカは、最初の賛美歌の作者であると言われています。この1章と2章には、御使い、エリサベツ、マリヤ、ザカリヤ、御使いと天の軍勢、シメオンの6つの頌栄・賛歌が記されています。 1.アヴェ・マリヤ――マリヤへの天使祝詞(1章28節)。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(1章28節)。 御使いガブリエルがマリヤに告げた祝福のことばです。 2.ビアティチュード――エリサベツの賛歌(1章42~45節)。 「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」(1章42節)。 エリサベツがマリヤを祝福した賛美です。 3.マグニフィカト――マリヤの賛歌(1章46~55節)。 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(1章46、47節)。 マリヤが主をあがめ、神をたたえた賛美です。 4.ベネディクトゥス――ザカリヤの賛歌(1章68-79節)。 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を」(1章68節)。 ザカリヤが主をほめたたえた賛美です。 5.グロリヤ・イン・エクセルシス・デオ――栄光の賛歌(2章14節)。 「いと高き所に、栄光が神にあるように」(2章14節)。 御使いと天の軍勢が神の栄光をたたえた賛美です。 6.ヌンク・ディミッティス――シメオンの賛歌(2章29~32節)。 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」(2章29節)。 シメオンが神をほめたたえた賛美です。注:カタカナの青い文字の英語またはラテン語の意味は、赤い文字の聖書の言葉です。
2006.12.25
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「東方の博士の礼拝」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、2章1~12節 シメオンとアンナがエルサレムの宮で幼子イエスを見て、神をほめたたえ、感謝をささげてから、しばらくの時が経過しました。 東方の博士たちがエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と言いました(1、2節)。 一、様々なものに導かれた博士たち この東方というのは、アラビヤかバビロンかペルシャか明白ではありませんが、遠方の異邦の地であることは確かです。またここで言う博士というのは、占星術や天文学に通じていた学者のことを指しています。占星術のような占いは、聖書では禁じており(申命記18章10~12節)、天文学も当時は幼稚なものでした。 博士たちは、キリストを礼拝するために、まず東方で見た星に導かれて、エルサレムにやって来ました(2節)。エルサレムに来た彼らは、祭司長たち、学者たちから聖書の預言によって、キリストの生まれる場所は、ベツレヘムであることを知りました(5節)。 博士たちが出かけると、東方で見た星が彼らを幼子のいる家まで導きました。彼らは、幼子をひれ伏して拝み、贈り物をささげました(9、11節)。それから夢でヘロデの所へ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行ったのです(12節)。 神は、熱心に神と真理を求める博士たちをまず星、次に聖書の預言、再び星、そして最後に夢によって導かれました。私たちも熱心に神と真理と救いを求めるなら、初めは幼稚なものによって導かれたとしても、最後は確実なものによって導かれるのです。 二、様々な犠牲を払った博士たち 博士たちがキリストを礼拝するために払った時間的、労力的、そして金銭的な犠牲は大変なものであったにちがいありません。なぜなら彼らは、「黄金、乳香、没薬」という高価な贈り物を携え(11節)、遠くて危険な旅をしたからです。しかしこれは、彼らの神を求める心の表れでした。 私たちは何事をするにも、必ず時間を費やし、またからだを使い、そしていくらかの金銭が必要であり、時間も労力も金銭も全く費やさずに何かをすることはできません。 人間は、自分が本当に欲しいものや求めているもののためには、時間も労力も金銭も惜しみなく費やすものであり、神は、私たちが今与えられている時間と能力と金銭を何に使うかを見ておられます。それによって、私たちが何を求めているかがわかるからです。 三、様々な波紋を巻き起こした博士たち 博士たちがキリストを礼拝するためにエルサレムにやって来たことによって、次のような思いもよらない4つの波紋が生じました。 1.ヘロデ王は恐れ惑った(3節)。――彼は王位を脅かす人を極度に恐れました。 2.エルサレムの民も恐れ惑った(3節)。――エルサレムの民は、ヘロデ王が何をするかわからないために震え上がりました。 3.祭司長たち、学者たちは、キリストの誕生の地を正確に答えた(5節)。――しかし彼らは、幼子イエスをメシヤであると信じなかったか、たとえ信じたとしてもヘロデを恐れて、それ以上は何もしませんでした。 4.ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子が一人残らず殺された(16節)。――何とも痛ましい出来事ですが、これは、博士たちが自分の国へ帰って行った後のことで、彼らは何も知りませんでした。 博士たちは、周囲に様々な波紋を巻き起こすほど熱心に神と真理を求めたのです。拙著「キリストの生涯の学び」14 「東方の博士の礼拝」より転載
2006.12.24
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「シメオンとアンナ」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、2章21~38節 イエスは、8日が満ちて割礼を受けられました(21節)。そして、41日目に、「両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行」きました(22節)。その宮で、シメオンとアンナに出会ったのです。 一、幼子をキリストと見抜いたシメオン シメオンは、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでい」ました。「聖霊が彼の上にとどまっておられ」ました(25節)。また彼は、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」のです(26節)。 アンナは、「女預言者」です(36節)。彼女は、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えてい」ました(37節)。 なぜシメオンは、顔も知らないマリヤの腕に抱かれていた幼子がキリストであるとわかったのでしょうか。それは、「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が……はいって来た」とあるようにタイミングがぴったりと合ったからです(27節)。アンナに関しても、「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて」と記されています(38節)。これが聖霊に導かれるということです。 私たちも聖霊に満たされ、聖霊が示される御言葉の光の中を歩んでいくなら、聖霊に導かれて、ちょうどよい時に、ちょうどよい出来事や人物に出会って、すばらしい神のご計画の中に組み入れられていくのです。 二、人の心の思いをあらわにするキリスト 「シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえ」ました(28節)。また「幼子についていろいろ」と語りました(33節)。アンナも、「神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語」りました(38節)。 ところがシメオンは、神をほめたたえただけでなく、この子は、「反対を受けるしるし」すなわち、栄光のメシヤではなく、受難のメシヤ「として定められています」と言いました(34節)。これは驚くべき預言です。 実際にキリストは、誕生の時はヘロデに殺されそうになり、公生涯の初めは悪魔に誘惑され、三年半の伝道期間中は律法学者やパリサイ人たちの激しい反対を受け、弟子のペテロにも邪魔をされ、イスカリオテ・ユダに裏切られ、最後は「十字架につけろ」という祭司長たちと民衆の声によって殺されました。実にキリストの一生は、その誕生から死に至るまで反対を受け続けた生涯でした。 このように人々が、キリストに反対することによって、神に逆らう彼らの罪深い心がすべて現れてしまいました。そしてキリストは、神に逆らう彼らの罪深い心のために十字架につけられたのです。ところが、そのキリストの死は、私たちの罪を贖うためであったとは、何ということでしょうか。しかしこれが私たちを愛してやまない神の愛なのです。 三、私たちを救いか滅びに定めるキリスト このように私たちがキリストに反対することによって、神に逆らう私たちの罪深い心がすべて現れ、その罪が、キリストを十字架の死に追いやったにもかかわらず、そのキリストの死は、私たちの罪を贖うためであったということを知ったならば、私たちのなすべきことは、次の2つのうちのどちらかを選ぶしかありません。 ◇罪を悔い改め、その罪を赦していただくためにキリストの贖いを信じる。 ◇罪を悔い改めず、なおもキリストに反対して、神に逆らい続ける。 もし私たちが前者を選ぶなら、救いに定められますが、後者を選ぶなら、滅びに定められるのです(34節)。拙著「キリストの生涯の学び」13 「シメオンとアンナ」より転載
2006.12.23
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「羊飼いの礼拝」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、2章8~20節 ヨセフとマリヤがベツレヘムにいる間に、「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産」みました。「それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせ」ました(6、7節)。 一、御使いの告知と賛美(8~14節) ベツレヘムの地で、「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守ってい」ました(8節)。「すると、主の使いが彼らのところに来て」(9節)、驚くべきことを告げました。 御使いは、彼らに「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と言って、「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせ」たのです(11、10節)。 キリストがベツレヘムの馬小屋でお生まれになった時、神は御使いを通して、このことを羊飼いたちに告げられました。なぜ神は、救い主の誕生を告げ知らせるのに、ユダヤの宗教的な指導者である祭司長、律法学者、長老たちではなく、無名の羊飼いを選ばれたのでしょうか。 当時のイスラエルの人々は、聖書の預言を信じてメシヤを待ち望んでいました。しかし宗教的な指導者たちが待ち望んでいたのは、りっぱな宮殿に生まれるような栄光のメシヤであり、決してみすぼらしい馬小屋に生まれるような苦難のメシヤではありませんでした。 このことをヨハネは、「この方(イエス)はご自分のくに(イスラエル)に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と述べています(ヨハネ1章11節)。 羊飼いたちは、御使いが告げた「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を救い主であると信じました(12、15節)。しかし、もし祭司長、律法学者、長老たちに同じことが告げられたならば、彼らは、決して救い主であるとは信じなかったでしょう。 神は、「これらのことを」祭司長、律法学者、長老たちのような「賢い者や知恵のある者には隠して」、羊飼いのような「幼子たちに現」されたのです(マタイ11章25節)。 二、羊飼いの探求と礼拝(15~20節) 羊飼いたちは、救い主誕生の喜びの知らせと、そのことを賛美するすばらしい天使の大合唱を聞きましたが(10~14節)、その後、何をしたでしょうか。 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と言って(15節)、すぐに救い主を捜し始めました。変貌山におけるペテロのように、すばらしい出来事を見聞きした時、うっとりして、その場に座り込むようなことはしませんでした。 ついに羊飼いたちは、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当て」ましたが(16節)、「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせ」ました(17節)。彼らは、救い主を捜し当てたのに、その方について告げられたことを話さないで、黙っているようなことはしませんでした。 そして「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行」きました(20節)。彼らは、救い主について告げられたことを人に知らせるだけで、神を礼拝し、賛美することを忘れるようなことはなかったのです。 私たちは、救い主誕生の知らせと天使の大合唱を聞いた後の羊飼いたちの姿を見る時、なぜ神が、救い主誕生の知らせを、まず彼らに告げられたかを心からうなずくことができるのです。拙著「キリストの生涯の学び」12 「羊飼いの礼拝」より転載
2006.12.22
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「イエスの誕生」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、2章1~7節 歴史家であるとともに医者でもあるルカは、イエスの誕生の時と場所を歴史的また地理的な角度から興味深く記しています。 ◇誕生の時――クレニオがシリヤの総督であった時の最初の住民登録で、ヨセフとマリヤが登録のためにナザレから旅をして、ベツレヘムに着いた時。 ◇誕生の場所――ベツレヘムの馬小屋。 時間と空間を超越した永遠と遍在の神が、このように限られた時と場所という枠の中にはいって来られたのがイエスの誕生です。ですから時と場所に拘束されている人間の目には、誠に不思議な出来事に見えるのです。 一、時間と空間を支配しておられる神 イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになることは、当時から数えて約700年も前にミカによって預言されていました(ミカ5章2節)。しかし聖霊によって身重になったマリヤは、ナザレにいました(1章26節)。どうして、ベツレヘムでイエスを産むことができるでしょうか。 その頃、「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出」ました(1節)。しかしこの勅令がローマから出て、ヨセフとマリヤの住んでいるナザレに届き、さらに彼らが旅をしてベツレヘムに着くまで、途中の様々な道程を計算して考えると、早すぎても遅すぎても、マリヤはベツレヘムでイエスを産むことはできなかったにちがいありません。 このようなことを少しも狂うことなく、ぴったりと一致させることができるのは、ただ時間と空間を支配しておられる全知全能の神のみです。 二、時間と空間の中にはいられたキリスト 人にはすべて、生まれた時と生まれた場所というものがあります。これは神によって造られた被造物の宿命です。そのために人間はその生まれた時(または時代)と、その生まれた場所(または環境)という枠に拘束されて、その枠の中でしか生きられません。 すべての人は、この世から生まれ、歴史の中から出て来た者です。人間は、限られた時間(時代)と、限られた空間(場所)の中から出て来た者であるということができます。 これに対してキリストは、「この世へと降誕された。この世から生まれたのではない。彼は、歴史の中から出て来たのではなく、外側から歴史の中へはいられた」のです(オズワルド・チェンバーズ)。無限の神が、限られた時間と空間の中にはいって来られたとは、何と驚くべきことでしょうか。 そしてこのようなことを可能にする唯一の方法が、処女マリヤの胎を借りて誕生される処女降誕なのです。 三、時間と空間を越えて臨まれるキリスト 使徒パウロは、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」と述べており(ガラテヤ4章19節)、また「キリストが……信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と祈っています(エペソ3章17節)。 神であるキリストが時間と空間の中にはいられたのは、人となり、十字架の上で罪の贖いを成し遂げるためであり、それが完成すれば時代と場所に拘束されることなく、時間と空間を超越して、罪の贖いを信じるすべての人々の心の中に臨むことができます。 これが「その名を信じた……人々は……神によって生まれたのである」ということの意味です(ヨハネ1章12、13節)。このような人は、肉体的には時代と場所に拘束されていますが、霊的には時間と空間を超越して神とともに生きることができるのです。拙著「キリストの生涯の学び」11 「イエスの誕生」より転載オズワルド・チェンバーズ著「いと高き方のもとに」369頁いのちのことば社
2006.12.21
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「ヨセフへの告知」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、1章18~25節 神は、ご自身の御子を世に遣わすために処女マリヤの胎を借りることを定め、そのことを御使いを通して彼女に告げられました。これが「マリヤへの告知」です。 このことは当然のことですが、マリヤの婚約者であるヨセフにも告げる必要がありました。これが「ヨセフへの告知」です。マタイは、救い主の法律上の父に選ばれたヨセフについて記しています。 一、ヨセフの離縁の決心(18、19節) ヨセフは婚約者であるマリヤが自分と「まだいっしょにならないうちに……身重になったことがわかった」時(18節)、どんなに驚いたことでしょうか。彼は、あのザカリヤとエリサベツのように、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行ってい」ました(ルカ1章6節)。 このように「正しい人」(19節)であるヨセフは、「婚約中の処女の不貞または辱しめを受けたことに関する律法」に従って、石打ちの死刑にして彼女をさらし者にするか(申命記22章23、24節)、内密に離縁するかのどちらかを選ばなければなりませんでした。 もしヨセフが正しい人ではなく、人を恐れて、その場をつくろい、マリヤの子を自分の子であると偽って認知したならば、どうなるでしょうか。このようなことをすれば、キリストの法律上の父としての資格を失ってしまったことでしょう。しかしヨセフは、決してそのようなことをする不正な人ではありませんでした。 神の御前に正しい人であるヨセフは、自分の子ではない子を宿した「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」のです(19節)。 二、主の使いの受胎告知(20~23節) ヨセフがマリヤと離縁することを心に決め、「彼がこのことを思い巡らしていたとき」、主の使いが夢に現れて、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と彼に告げました(20節)。 ヨセフにしてみれば、婚約者であるマリヤが自分の子ではない子を宿した事実を認めることも、またその事実をうやむやにしないで、離縁を決心することも、心を引き裂かれるほどつらく、苦しいことであったにちがいありません。しかし、どんなにつらく、苦しくても、現実から目をそらしたり、逃避したりせずに、最善の方法によって対処しようとしました。 このようなヨセフに対して神は、聖霊による処女懐胎という全く新しい事実を示し、ヨセフが妻マリヤを迎えるという思いもよらない全く新しい道へと導かれたのです。 三、ヨセフの服従と節制(24、25節) 眠りからさめたヨセフは、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」ました(24節)。彼は神の言われたとおりにする服従の人でした。その後のヨセフの行動について聖書は、次のように記しています。 「見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい』……そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(2章13~15節)。 ヨセフがこのように神に全く服従することができたのは、彼が最初にマリヤに対して正しく対処し、また神がそれにこたえて彼を正しい道へと導かれたからです。神は、このようなヨセフをご自身の御子キリストの法律上の父として選ばれたのです。拙著「キリストの生涯の学び」10 「ヨセフへの告知」より転載
2006.12.20
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「ヨハネの誕生」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章56~79節 エリサベツは、マリヤが自分の家に滞在している間、彼女と楽しく語り合いました。そして「マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰」りました(56節)。エリサベツは、再び口のきけない夫のザカリヤと二人だけになったのです。 一、ヨハネの誕生と命名(57~62節) 月が満ちて、ヨハネが誕生するまでの間、エリサベツは何をしていたのでしょうか。不信仰のために、ものが言えなくなった夫のザカリヤと暮らしながら、信仰の大切さをかみしめていたことでしょう。そして最後まで信じ続ける信仰をもって、神に祈りつつ日を過ごしていたのではないでしょうか。 さて月が満ちて、エリサベツが男の子を産んだ時、近所の人々や親族は、彼女とともに喜びました(58節)。「八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとし」ました(59節)。その時、エリサベツは、「ヨハネという名にしなければなりません」と言いましたが(60節)、この言葉の中に彼女の信仰が表れています。 また人々がエリサベツに、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言い(61節)、彼らが「身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた」時も(62節)、ザカリヤの代わりに答えるようなことはしないで、夫を信じて立てている彼女の信仰の姿勢を見るのです。 二、口の開かれたザカリヤ(63~66節) 御使いは、不信仰なザカリヤに対して「これらのことが起こる日までは、あなたは……ものが言えなくなります」と言いました(20節)。普通に考えるなら、「これらのことが起こる日」とは、エリサベツが男の子を産む日です。しかし実際は、ザカリヤが書き板に、「彼の名はヨハネ」と書く時まで、話すことができませんでした(63節)。これは、なぜでしょうか。 御使いは、ザカリヤに「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」と言いました。それとともに、その子が将来、どのような人になるかについても述べています(13~17節)。 聖書においては、名は実体を表しています。ところがザカリヤは、男の子が生まれることを信じなかっただけでなく、その子がエリヤの霊と力で、整えられた民を主のために用意する者になることも信じませんでした。 ですからザカリヤが書き板に、「彼の名はヨハネ」と書いて、不信仰を全く悔い改めたという「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」まで、話すことができなかったのです。 三、ザカリヤの預言(67~79節) この聖霊に満たされて預言したザカリヤの預言は、おおかた旧約聖書の言葉と思想が土台になっています。ザカリヤは、ヨハネが生まれるまでの十か月の間、御使いの語った言葉を理解するために、旧約聖書を読んで学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして深く考え続けました。それが、聖霊の働きによって口からほとばしり出たのが、この預言です。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、一瞬にして救いを体験することができます(霊の回心)。しかし、それがどのようなことかということは、長い間、聖書を読んで学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして深く考え、分析して整理しなければ理解することができません(頭の回心)。 このようにザカリヤが神殿で幻を見て、話せなくなった体験は一瞬にして起こりましたが、それが、どのようなことかということを理解するためには、十か月を要したのです。拙著「キリストの生涯の学び」9 「ヨハネの誕生」より転載
2006.12.19
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「マリヤの賛歌」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章39~55節 マリヤは、御使いから受胎を告知された時、エリサベツも男の子を宿して六か月であることを聞きました(36節)。エリサベツは、みごもってから五か月の間、引きこもっており、また場所も遠く離れていたので、親類とはいえ、おそらくマリヤは、何も知らなかったことでしょう(24、39節)。 一、マリヤの訪問と挨拶(39、40節) そのころナザレにいた「マリヤは立って、山地にあるユダの町に急」ぎました(39節)。このユダの町は、おそらく祭司の町ヘブロンでしょう。ナザレからヘブロンまでは、直線距離でも120キロメートルもあります。 自動車も電車もない時代に、みごもってから日の浅い女性が100キロメートル以上も旅をするのは、様々な危険が伴い、決して容易なことではなかったはずです。 しかしマリヤは、年老いた親類のエリサベツがみごもったことを聞いた時、いっしょに喜び合うとともに彼女に仕えるために危険を冒して長旅をしました。もしマリヤがエリサベツを訪問しなかったならば、このすばらしい二つの歌は生まれなかったでしょう。 二、エリサベツの賛美(41~45節) エリサベツは、不妊の女と老齢という大きなハンディを負いながら(ルカ2章7節)、忍耐と不屈の祈りによって、ついに子どもが与えられた人です。ところがこのような時、大したハンディもなく、自分よりもずっと若くて人生の経験も苦労も少ない親類のマリヤが、ヨハネよりも偉大な救い主の母になったことを知りました。 普通の女性ならば、その年齢からみても、その経験から考えても、決してマリヤを喜ぶことはできなかったでしょう。しかしエリサベツは、少しの嫉妬心もなく、心から喜んでマリヤを祝福し、神を賛美しました(42~45節)。彼女は本当に謙虚な人でした。 またエリサベツの夫――長い間、苦楽をともにし、祈りが答えられて子どもが与えられたならば、手を取ってともに喜び合うはずであった人――ザカリヤは不信仰のために、ものが言えなくなりました。このような時、妻は夫とともに不信仰になりやすいのです。 しかしエリサベツは、夫とともに不信仰になることなく、最後まで信じ続けた信仰の人でした。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と言ったエリサベツの告白は、不信仰な夫との苦い経験の中から学んだ千鈞の重みのある言葉です(45節)。 三、マリヤの賛歌(46~55節) このマリヤの賛歌の前半(46~50節)は、救い主の母に選ばれた彼女が、そのことをどんなに喜び、感謝し、しあわせに思っているかがよく歌われています。またこの賛歌の後半は(51~55節)、神の見る目と人の見る目は逆であるという逆説について歌っています。マリヤは、「ハンナの歌」(第一サムエル2章1~10節)をよく読み、よく学んで、自分の歌として賛美しています。 このようにマリヤは、自分のような卑しいはしためが救い主の母に選ばれたことを知り、ハンナの歌にならって神の国の真理である逆説について歌いましたが――もちろん、この時はわかりませんでしたが――彼女自身もこの逆説を学んで、体験しなければなりませんでした。 すなわち、だれも経験したことのない祝福と恵みと栄光を受けたマリヤは、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と言ったシメオンの預言のように(2章35節)、だれも経験したことのない苦難と重荷と十字架を負わなければならなかったのです。拙著「キリストの生涯の学び」8「マリヤの賛歌」より転載
2006.12.18
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「マリヤへの告知」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章26~38節 バプテスマのヨハネの母に選ばれたエリサベツがみごもってから、「六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来」て、驚くべきことを告げました(26節)。 これが、「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」とマリヤに告げられた「受胎告知」です(31節)。ルカは、「ザカリヤへの告知」の後、すぐに「マリヤへの告知」を記しています。 一、御使いの受胎告知(26~33節) 御使いガブリエルは、マリヤのところに来ると、「おめでとう、恵まれた方」と彼女を祝福し(28節)、受胎を告知する時も、「あなたは神から恵みを受けたのです」と祝福の言葉を述べています(30節)。また彼女自身、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と心から喜んで神を賛美しています(48節)。 しかしマリヤは、婚約者のヨセフに前代末聞の処女懐胎を理解されず、離縁されそうになったり(マタイ1章19節)、ヘロデの虐殺の手からのがれたり(同2章13節)、また最後はキリストの死を目の当たりに見たりして(ヨハネ19章26節)、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」というシメオンの預言の通りになりました(2章35節)。 多くの人々は、祝福とは苦難のないことであり、苦難とは祝福のないことであると考えています。しかし苦難の伴わない祝福はなく、祝福の伴わない苦難はありません。「苦難は変装した祝福である」と言われますが、それならば、「祝福は変装した苦難である」と言えないでしょうか。なぜなら真の祝福とは、あらゆる苦難を乗り越えることができる恵みのことだからです。 二、マリヤの疑問と質問(34節) 御使いの告知に対して、「どうしてそのようなことになりえましょう」と言ったマリヤの疑問は(34節)、「私は何によってそれを知ることができましょうか」と言ったザカリヤの疑問とよく似ており(18節)、言葉だけでは決定的な違いを知ることは困難です。 しかし二人の疑問に対する御使いガブリエルの応答は明白です。ザカリヤの疑問に対してガブリエルは、彼の不信仰を叱責し、「ものが言えなくな」るという刑罰を宣告しています(20節)。一方マリヤの疑問に対してガブリエルは、その方法を説明し(35節)、彼女の信仰を励ましています(36、37節)。 このようなことから、ザカリヤの疑問の言葉は不信仰の心から出たもので、マリヤの疑問の言葉は信仰の心から出たものであることがわかります。なぜなら「主は心を見」られるからです(第一サムエル16章7節)。 三、マリヤの献身と服従(35~38節) 初めにガブリエルがマリヤを訪れた時、彼女は、「ひどくとまどって……考え込」みました(29節)。しかし御使いの受胎告知を聞いた時、その言葉を信じ、ただその方法を尋ねています。 マリヤの質問に答えてガブリエルは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」とその方法を説明して、彼女の信仰を励ましました(35~37節)。するとマリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って、神に対して身をささげて服従しました(38節)。 救い主の母に選ばれたマリヤも、初めは、ひどくとまどい、考え込みました。しかし主の言葉を信じた時、神に身をささげて従うことができ、主のみこころを行う人に変えられたのです。拙著「キリストの生涯の学び」7「マリヤへの告知」より転載
2006.12.17
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「ザカリヤへの告知」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章5~25節 バプテスマのヨハネは、「あらゆる人が、神の救いを見るようになる」ために、キリストの先駆者として「主の御前に先立って行き、その道を備え」た人です(3章6節、1章76節)。ルカは、キリストの誕生を記す前に、このヨハネの両親に選ばれたザカリヤとエリサベツについて述べています。 一、祭司ザカリヤとその務め(5~10節) ザカリヤは祭司であり、彼の妻エリサベツはアロンの子孫でした。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行ってい」ました(6節)。彼らは家柄がよく、品行方正で、その務めにも忠実な非の打ちどころのない人たちでした。 ところが、「彼らには子がなく、ふたりとももう年をとってい」ました(7節)。このようなザカリヤに、主の使いを通して、彼の願いが聞かれ、男の子が与えられるという神の言葉が臨みました(13節)。 祭司の務めが毎日行う定期的なものであるのに対して、預言者の務めは必要のある時だけの不定期なものです。 私たちの信仰生涯には、規則的に恵みの手段を守る――聖書を読み、祈りをささげ、集会に出席し、奉仕に励む――という祭司的な生活と、必要に応じた時――たとえば苦難に会った時、特別な出来事がある時、導きを求めた時――に神の言葉が臨むという預言者的な体験があります。この預言者的な体験は、ザカリヤのように祭司的な生活をきちんとしている人に与えられるのです。 二、主の使いの顕現と告知(11~20節) 主の使いは、ザカリヤに男の子が与えられ、その子は、神の御前に聖別されたナジル人として、「エリヤの霊と力で」、「整えられた民を主のために用意する」者となることを告げました(15~17節)。 ところがザカリヤは、子どもが与えられるように祈っていながら、その祈りが聞かれた最も喜ばしい時に(13節)、それを信じなかったので(18節)、不信仰の刑罰を受け、ものが言えなくなってしまいました(20節)。 ザカリヤは、毎日、祭司としての務めを忠実に果たしていながら、どうして神の言葉が臨んだ大切な時に信じなかったのでしょうか。ここに彼の信仰の問題点がありました。 祭司的な生活をする平穏無事な時と、預言者的な体験が必要な危機や転機の時が、交互に連続して繰り返すのが人生というものではないでしょうか。規則的に恵みの手段を守るという祭司的な生活は、危機や転機の時に神の言葉が臨んで、それを信仰によって乗り越えるためにあるのです。 三、口のきけないザカリヤ(21~25節) ザカリヤが話せなくなったことは、不信仰に対する神の刑罰です。しかし、彼にとって、ものが言えなくなった期間は、「黙って、ただ神を待ち望」み(詩篇62篇1節)、神の言葉を聞いて信じるという恵みの時になったにちがいありません。なぜなら、「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになっ」た時、ザカリヤは「神をほめたたえた」からです(64節)。 もし私たちの口から、賛美も祈りも、また神の言葉もあかしの言葉も出てこないならば、不信仰のために、ものが言えなくなっているのではないでしょうか。 私たちは、不信仰な言葉をはじめ「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談」、「悪いことばを、いっさい口から出」さず(エペソ5章4節、4章29節)、黙って神を待ち望むなら、神の言葉を聞いて信仰が成長し、今度は、その口から賛美と祈り、また神の言葉とあかしの言葉が出てくるようになるのです。拙著「キリストの生涯の学び」6「ザカリヤへの告知」より転載
2006.12.16
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「キリストの系図」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、1章1~17節 マタイは、この福音書を記す時、キリストの系図から書き始めています。ヨハネの記した「キリストの啓示」が神の御子の降誕を神の側から述べたものであるとするなら、マタイの記した「キリストの系図」は、神の御子の降誕を人の側から述べたものであると言うことができます。 一、キリストの系図の役割 新約聖書の開巻第一ページに記されているキリストの系図は、外国人の名前が片仮名で列挙されているので、新約聖書を初めから読む人たちにとって大きな妨げになっています。 新約聖書がマタイの福音書ではなく、ほかの福音書から始まっていたならば、もっと読みやすいのではないかと思っている人は、少なくないでしょう。 旧約聖書の最後の書であるマラキ書が記されてから新約聖書の最初の書であるマタイの福音書が記されるまでの間には、400年以上の長い歳月が流れています。また旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語というように、書かれている言葉も全く違っています。 このように二つの書の間には大きな隔たりがあるにもかかわらず、新約聖書は旧約聖書を基にして記されているだけでなく、旧約聖書と新約聖書は切っても切れない関係にあること、いや一つの同じ聖書であることを教えるのに、キリストの系図ほどふさわしいものはないでしょう。 なぜなら、新約聖書が旧約聖書の人物の名前を列挙したキリストの系図で始まることによって、この系図は、旧約聖書と新約聖書を結び付ける蝶番の役目をするからです。 二、キリストの系図の目的 このマタイの福音書は、もともとユダヤ人のために書かれたものです。ユダヤ人にとって系図というものは、「自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明する」非常に大切なものでした(エズラ2章59節)。 ユダヤ人が待ち望んでいるメシヤは、イスラエル民族の先祖であるアブラハムの子孫としてお生まれになるとともに、メシヤのことを「ダビデの子」と呼ぶように、ダビデの子孫としてお生まれになるはずでした。 マタイは、この系図を記すに当たって、まず「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書き始めています(1節)。イエス・キリストこそ、イスラエル民族の先祖であるアブラハムの子孫であるとともに、ダビデ王家直系のメシヤであると宣言しているのです。 マタイは1章において法律上の父ヨセフの系図を、ルカは3章において生みの母マリヤの系図を記し、両親とも、いわゆる、どこの馬の骨だかわからない人ではなく、ダビデの家系と血筋のものであると述べています。 三、キリストの系図の教訓 この系図は、キリストがアブラハムの子孫であるとともにダビデの子孫であるという血統や血筋の良さを教えていますが、同時に、タマル、ラハブ、ルツ、バテ・シェバという4人の女性によって、不名誉な汚れた血がはいっていることをも教えています。 キリストは、聖霊によって処女マリヤよりお生まれになったので、原罪の汚れを受けておられませんが、このような原罪に汚れた先祖を持たれることによってこの系図は、「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました」という罪からの贖いを教えています(第二コリント5章21節)。 このように新約聖書の第一ページから、私たちを罪から救うというすばらしい福音が語られているのです。拙著「キリストの生涯の学び」5「キリストの系図」より転載
2006.12.15
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「キリストの啓示(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章14~18節 ヨハネは、真の神はキリストを通してご自身を現されるという真理を示すために、降臨された神の御子について記した後、受肉された神の御子について述べています。 一、神の御子の受肉の事実(14節) 使徒ヨハネは、1~5節において、「初めに、ことばがあった」という言葉で書き始め(1節)、真の神は、人格を備え、権威のある言葉によってご自身を人に啓示される方であると教えています。 ヨハネは言葉を続けて、次の6~13節において、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」と記し(9節)、神の御子の降臨について述べています。 しかし神の御子が天から地上に下って姿を現される(すなわち降臨される)ためには、人のからだを持ってお生まれになる(すなわち受肉される)ことが必要です。それでヨハネは、14~18節の部分の冒頭において「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記しています(14節)。 二、神の御子の受肉の意味(14~17節) この個所には、「栄光」という言葉が2回、「恵み」という言葉が4回、「まこと」という言葉が2回、「満ち」という言葉が3回も記されていますが、これが鍵の言葉です。 1.神の御子の栄光について。 神は栄光に満ちたお方ですが(イザヤ6章3節)、その神の栄光の輝きは、罪深い人間を焼き滅ぼしてしまうため、人は神の栄光をそのままでは見ることができません。 けれども受肉された神の御子は、その栄光の輝きをからだという衣の下におおい隠して、ちょうどよい輝きにしてくださったので、私たちは神の御子の栄光を見ることができます。 2.神の御子の恵みについて。 神は恵みに満ちたお方ですが(出エジプト34章6、7節)、神の栄光の輝きは、罪深い人間を恐れさせてしまうため、人は神の恵みをそのままでは受けることができません。 けれども受肉された神の御子は、その栄光の輝きをからだという衣の下におおい隠して、ちょうどよい輝きにしてくださったので、私たちは神の御子を通して、あらゆる恵みを受けることができます。 3.神の御子のまことについて。 どんなにすばらしい恵みも、それが恵みであるとわからなければ、人は恵みであるとは思わないでしょう。それで恵みが恵みであるとわかるように、私たちの目を開かせるものが「まこと」すなわち真理です。 神は真理に満ちたお方ですが、神の栄光の輝き(すなわち真理の輝き)は、罪深い人間にはまぶしすぎるため、人は神の真理そのままで照らされるならば、見ることができません。なぜなら人は、暗すぎても見えませんが、明るすぎても見えないからです。 けれども受肉された神の御子は、その真理の輝きをからだという衣の下におおい隠して、ちょうどよい輝きにしてくださったので、私たちは神の御子の真理に照らされて、恵みが恵みであるとわかるように目が開かれます。 三、神の御子の受肉の必要(18節) ヨハネは、この序文の最後に、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と述べています(18節)。 神の御子が受肉されなかったならば、私たちは神の栄光の輝きが余りにも強すぎるため神の栄光を見ることも、神の恵みに与かることも、神の真理に照らされることもできなかったでしょう。ただ神の御子を通してのみ、私たちは神の栄光を見、神の恵みに与かり、神の真理に照らされることができるのです。拙著「キリストの生涯の学び」4「キリストの啓示(3)」より転載
2006.12.14
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「キリストの啓示(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章6~13節 ヨハネは、真の神はキリストを通してご自身を現されるという真理を示すために、啓示された神の御子について記した後、降臨された神の御子について述べています。 一、ヨハネの出現(6~8節) 使徒ヨハネは、神の御子キリストが降臨されることを述べる前に、「神から遣わされたヨハネという人(バプテスマのヨハネ)が現れた」と記しています(6節)。聖書は、このバプテスマのヨハネがどのような人であるかということについて3つのことを教えています。 1.バプテスマのヨハネは、「ことば」であるキリストを紹介する「声」です。「ことば」であるキリストは、バプテスマのヨハネという「声」によって人々に紹介されました(23節)。 2.バプテスマのヨハネは、「光」であるキリストをあかしする「証人」です。「光」であるキリストは、バプテスマのヨハネという「証人」によって人々にあかしされました。それは、「すべての人が彼によって信じるためで」す(7節)。 3.バプテスマのヨハネは、「救い主」であるキリストを受け入れて信じる備えをさせる「先駆者」です。すべての人は、バプテスマのヨハネという「先駆者」によって罪を悔い改め、心が備えられて、「救い主」であるキリストを信じることができます(ルカ3章4~6節)。 二、神の御子キリストの降臨(9、11節) 先回のところで述べたように聖書は、神がご自身を人に啓示される方法については5つの段階があることを、また啓示されたキリストの御姿についても5つの姿があることを教えています。しかしそれぞれの中で要となるものは何でしょうか。 神の啓示について述べるなら、最も確実な方法は、第5番目の聖霊の内住によって神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことです(ヘブル8章10節)。これほど確かに神を人に知らせる方法は、ほかにはありません。しかしこれはキリストが降臨し、十字架の死と復活によって贖いのわざを成し遂げてくださらなければ、不可能なことです。 またキリストの御姿について述べるならば、もしキリストが降臨されなかったなら、私たちのために執り成してくださる天上のキリストも私たちの中に住んでくださる内住のキリストもおられないことになるでしょう。 このようにそれぞれの中で要となるものは、キリストの降臨です。ですから、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとして」おられたのです(9節)。 三、降臨に対する人々の反応(10~13節) ヨハネは、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と述べ(11節)、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は……ただ、神によって生まれたのである」と記しています(12、13節)。 これらの言葉は、神の御子を当然受け入れなければならない人々が受け入れず、これに対して神の御子を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々は神の子どもとされる特権が与えられると教えています。 ヨハネは言葉を続けて、血(すなわち血統や血筋)によってではなく、肉の欲求(すなわち人間の出生)や、人の意欲(すなわち人の意志や決心)によってでもなく、ただ神によって生まれた者だけが神の子どもであると述べています(13節)。拙著「キリストの生涯の学び」3「キリストの啓示(2)」より転載
2006.12.13
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「キリストの啓示(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~5節 ヨハネは「初めに、ことばがあった」という言葉で始まる有名な序文を18節まで記しています(1節)。この序文は私たちに、真の神は、ひとり子の神であるキリストを通してご自身を現される――すなわち啓示される――という驚くべき真理を教えています。 この序文には3つのことが記されています。◇キリストの啓示(1)――啓示された神の御子◇キリストの啓示(2)――降臨された神の御子◇キリストの啓示(3)――受肉された神の御子 ヨハネは、真の神はキリストを通してご自身を現されるという真理を示すために、まず啓示された神の御子について述べています。 一、ご自身を人に啓示される真の神 ヨハネは、この福音書を記すに当たって、何の挨拶もなく、いきなり「初めに、ことばがあった」と書き始めています(1節)。そしてこの序文を最後まで読んでいくと、この「ことば」は、父なる神ではなく、父のふところにおられるひとり子の神キリストであることがわかります(18節)。 なぜヨハネは、単刀直入に、「初めに、神の御子がおられた」と書かずに、遠回しに、「初めに、ことばがあった」と記したのでしょうか(1節)。 「ことば」は心の表現、言い換えれば、人格を持つ者の表現です(マタイ12章34節)。ヨハネが、「初めに、ことばがあった」と記したのは、真の神は、汎神論者が考えているような人格を持たない方ではなく、また理神論者が思っているような啓示のない方でもないことを示すためでした。 ヨハネは、知性、感情、意志という人格を備え、権威のある言葉によって、ご自身を人に啓示される方こそ、真の神であることを教えるためにこのように記したのです。 二、神がご自身を人に啓示される方法 ヨハネは、「すべてのものは、この方によって造られた」と記して(3節)、キリストは創造者であると教えています。これは言い換えれば、神は創造のわざによってご自身を啓示されたということです。神がご自身を人に啓示される方法には、次のような5つの段階があります。1.世界の被造物を通して(ローマ1章20節)。2.預言者の声を通して(ヘブル1章1節)。3.聖書の言葉を通して(イザヤ34章16節)。4.御子の受肉を通して(ヨハネ1章14節)。5.聖霊の内住を通して(ヨハネ14章17節)。 被造物は、言葉もなく、その声も聞かれないため(詩篇19篇3節)、預言者の声が響き渡り、聖書の言葉が書き記され、さらに神の言葉が受肉したキリストが降誕し、そのキリストの贖いによって聖霊が降臨し、信じる者に聖霊が内住されます。これが、神がご自身を人に啓示される5つの段階です。 三、聖書に啓示されたキリストの御姿 いのちがあるとともに、人の光であるキリストの御姿を、66巻の聖書の啓示に従って順序通りに記すなら、次のような5つになります。 1.先在のキリスト――旧約聖書が教えているキリストの御姿で(箴言8章22~31節)、初めからおられた方です(過去の姿)。 2.地上のキリスト――4つの福音書が教えているキリストの御姿です(過去の姿)。 3.天上のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(ローマ8章34節)です(現在の姿)。 4.内住のキリスト――使徒の働きと21の手紙が教えているキリストの御姿(コロサイ1章27節)です(現在の姿)。 5.永遠のキリスト――黙示録が教えているキリストの御姿です(未来の姿)。拙著「キリストの生涯の学び」2 「キリストの啓示(1)」より転載 「汎神論」は、すべてのものが神であるというもので、神が人格(知性、感情、意志)を持っていることを否定するものです。「理神論」は、神はすべてのものの創造主ですが、創造した後は、創造した万物に介入することも、語りかけることもないというものです。
2006.12.12
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「ルカの序文」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章1~4節 ルカは、この福音書を書き記すに当たって、まずテオピロ宛に序文を記しています。この序文は、もともとテオピロ宛のものですが、ルカの福音書を読む人々に、いや四つの福音書を読むすべての人々に宛てたものとして誠にふさわしいものです。ルカは、この序文において大切なことを述べています。 一、ルカの序文の背景 ルカには、テオピロ宛にこの序文を書かなければならない深い理由がありました。 テオピロがどのような人であったか詳細については不明ですが、おそらく身分の高い人で、使徒たちによって福音が宣べ伝えられた当初からキリスト者になっていた人ではないかと思われます。 その当時(今から2000年ほど前)のテオピロから見るならば、キリスト教は、古いユダヤ教を母胎としてはいるものの、まだ歴史の浅い新しい宗教でした。彼の周囲には、まことしやかに捏造された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいたあやしげな宗教、またキリスト教とは名ばかりで、まちがった教えで人を誤らせる異端が数多くありました。 このような中でテオピロは、使徒たちの伝えた福音を信じてキリスト者になってはみたものの、その心にはキリスト教も新しい宗教である以上、あやしげな宗教や異端の一つではないかという一抹の不安があったにちがいありません。医者であるとともに歴史家でもあるルカは、このようなテオピロの心を見通してこの序文を書いたのです。 二、ルカの序文の内容 私たちは、ルカがこのような序文を通してテオピロに伝えたかったことを正しくとらえることが必要です。 この4節しかない短い序文においてルカは、言葉を選んで非常に大切なことを述べています。 ◇「私たちの間ですでに成就された出来事について」(1、2節、欄外別訳)。 ◇「初めからの目撃者」(1、2節)。 ◇「私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて」(1、2節)。 ◇「私も、すべてのことを初めから綿密に調べております」(3節)。 ◇「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であること」(4節)。 これらの言葉は、キリスト教というものがまことしやかに捏造された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいたあやしげな宗教ではなく、実際に起きた歴史的な出来事を初めから目撃した者がそのとおりに伝えた正確な事実に基づいた宗教であることを教えています。ルカは、このようなことを伝えたいためにテオピロ宛にこの序文を書いたのです。 三、ルカの序文の教訓 私たちは、この序文が私たちに教えようとしていることを知ることが大切です。 ルカはキリストの復活を述べる時、「数多くの確かな証拠をもって」と記していますが(使徒1章3節)、この序文を表現を変えて記すなら、次のように言うことができます。◇キリスト教は確かな証拠のある宗教です。◇キリスト教は確かな証人のいる宗教です。◇キリスト教は確かな証言のある宗教です。 次の例話は、真の信仰は事実に基づいたものであるという大切な真理を教えています。 「事実(fact)と信仰(faith)と感情(feeling)がともに旅をしました。まっ先に感情が疲れて休むと、次に信仰もふらふらして弱くなりました。しかし事実は、少しも衰えず、変わりませんでした。これを見て信仰は強くなり、感情ももと通りになりました」(英語の詩、作者不詳)。拙著「キリストの生涯の学び」1「ルカの序文」より転載
2006.12.11
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「信仰の妨げ(3) 世への愛着」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、2章15~17節 「世への愛着」について学んでみましょう。 一、聖書が教えている世の意味について 「世」または「世界」と訳されている原語のギリシャ語は、「コスモス」です。この言葉は、新約聖書において186回ほど記されています。そのうち、「ヨハネの福音書」には78回、「ヨハネの手紙」には24回、「ヨハネの黙示録」には3回、計105回記されているので、全体の半分以上はヨハネが用いている計算になります。 霊的洞察力の深いヨハネは、鋭い目をもって「世」というものが何であるかを見抜いていたのではないでしょうか。聖書が教えている「世」には、4つの意味があります。 1.「世界が存在する前に」(ヨハネ17章5節)、「世界が創造された時からこのかた」(ローマ1章20節)。――これは、宇宙や世界を意味しています。 2.「神は……世を愛された」(ヨハネ三章16節)。――これは、この世界に住む人間や人類のことを表しています。 3.「人は、たとい全世界を手に入れても」(マタイ16章26節)。――これは、この世の事柄や所有物のことを指しています。 4.「世をも世にあるものをも、愛してはなりません」(第一ヨハネ2章15節)。――これは、神を離れて堕落し、神と十字架と真理に敵対している原理のことを教えています。 二、世への愛着の意味について 聖書は、第4番目の世を愛することを禁じており、これが世への愛着です。 1.それは神に敵対することです。 真の幸福や栄光、また真の喜びや楽しみなど、ほんとうに良いものは、すべて神から与えられます(ヤコブ1章17節)。これに対して偽の幸福や栄光また喜びや楽しみなど、すべての模造品や代用品など偽物を提供するのが世です。これは神に敵対することです。 2.それは十字架に敵対することです。 キリスト教の中心は十字架で、聖書は自分を否定し、罪深い自我が滅ぼされなければ、真の救いといのちはないと教えています(マタイ16章24、25節)。これに対して罪深い自我を滅ぼすどころか、自我をどこまでも主張して喜ばせ、高揚させて生かしていくのが世です。これは十字架に敵対することです。 3.それは真理に敵対することです。 真理は永遠に変わらない絶対的なものです(ヨハネ14章6節)。これに対してこの世をすべてとし、永遠も絶対的なものも信ぜず、すべてを相対的にしか考えず、刹那的、地上的、現世的、物質的な原理が世です。これは真理に敵対することです。 三、世への愛着の結果について 聖書は、この世界には神の国とサタンの国の二つしかないことを教えています(ルカ11章18、20節)。世とは、このサタンとその国の原理にほかなりません。これは神とその国の原理に真っ向から敵対するものです。神とその国を愛する者は、永遠のいのちに至りますが、サタンとその国を愛する者は、永遠の滅亡に至るのです。 四、世への愛着からの救いについて 次のような3つの心構えが必要です。 1.私たちにとって大切なことは、私たちの国籍は天にあり、私たちは、この世のものではないという自覚です(ピリピ3章20節、ヨハネ17章16節)。私たちは、この世においては、天の故郷に向かう「旅人であり寄留者」なのです(ヘブル11章13節、第一ペテロ2章11節)。 2.私たちは、この世に対して十字架につけられたのだという心構えが大事です(ガラテヤ6章14節)。言い換えれば、「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思」うことです(ローマ6章11節)。 3.私たちは神の国から、この世に派遣されたキリストの使節であるという自覚が必要です(第二コリント5章20節)。私たちは、旅人や寄留者以上の者なのです。私たちに、このような自覚があるでしょうか。
2006.12.10
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「信仰の妨げ(2) 物への執着」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章3~19節 次に「物への執着」について学んでみましょう。この「物への執着」と次回の「世への愛着」とを分けたのは、「物」と「世」には次のような相違があるからです。 1.「物」は、一般的に目に見えるものであるのに対して、「世」は、本質的に目に見えないものだからです。 2.「物」は、それ自体、善でも悪でもなく中性であるのに対して、「世」は、それ自体がすでに悪だからです。 3.「物」は、ただ現世において現象として存在するのに対して、「世」は、現象の背後にある霊の世界に属するものだからです。 「世」についての詳しいことは、次回に述べることとして、ここでは「物への執着」について、次のような3つのことを考えてみましょう。 一、物への執着の意味について ここで言う「物」とは、物質、また目に見えるすべての物、そしてこれらのすべての物を手にいれることができる金銭や富を指しています。物自体は中性です。しかしこの物に執着することは悪です。その理由は、以下の3つです。 1.物は、目に見えるものですから、物に執着することは、目に見えるものに執着することです。これは、見えないものを信じる信仰とは、相反することで(第二コリント5章7節)、不信仰を意味しています。 2.物に執着することは、物欲にとらわれていることであり、これは決して満足することを知らない貪欲な心です。この貪欲ほど神と人への愛を妨げるものはないでしょう。 3.物の代表は富ですから、物に執着することは、富に執着することです。これは、富すなわちマモン(黄金の神)に仕える偶像礼拝にほかなりません(マタイ6章24節)。 二、物への執着の結果について 物に執着して身を滅ぼした人を旧約聖書と新約聖書より3人ずつ挙げるなら、次のような人たちです。 旧約聖書では、分捕り物をひそかに取ったアカン(ヨシュア記7章)、不義の報酬を愛したバラム(民数記23章)、贈り物をだまし取ったゲハジ(第二列王記5章)がいます。 新約聖書では、真のいのちのことを考えなかった愚かな金持ちの農夫(ルカ12章)、銀貨30枚でキリストを売ったユダ(マタイ26章)、地所の代金の一部を残しておいて、それが全部であるかのように聖霊を欺いたアナニヤとサッピラ(使徒5章)がいます。 彼らはみな悲惨な最後を遂げています。彼らの転落の過程をみるならば、次のようになります。 1.金に目がくらんで、心の眼が見えなくなっています。 2.そのために、正しく歩むことができなくなり、不正な道を歩んでいます。 3.ついには、つまずき倒れて、滅びの穴に落ちてしまいました。 三、物への執着からの救いについて 「私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つ持って出ることもできません」(7節)という聖書の言葉は、物への執着からの救いを教えています。 1.人間は、物質ではなく、霊的な存在であるという自覚を持つことです。私たちは、神のかたち(像)に似せて造られた不滅の霊と人格を持つ者ですから(創世記1章26、27節)、神との交わりにのみ永遠の喜びがあり(第一ヨハネ1章3、4節)、物では決して満足することができないのです(伝道者1章8節、5章11節)。 2.キリスト者は、地上では旅人であり、寄留者であるという自覚を持つことです(ヘブル11章13節、第一ペテロ2章11節)。すべての物の真の所有者は神であり、私たちは、神より委託された物を有効に活用し、神に報告しなければならない管理者なのです(第一コリント4章1、2節)。 3.私たちにとって最も大切なことは、永遠のいのちを獲得することです(12節)。なぜなら、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得」もないからです(マタイ16章26節)。
2006.12.09
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「信仰の妨げ(1) 人への恐れ」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、13章 物事には多くの場合、両面があります。すなわち表と裏、または積極面(プラス面)と消極面(マイナス面)です。信仰の成長も同じであり、成長するために励むプラスの面と成長を妨げるものを取り除くマイナスの面があります。 ボートをどんなに一生懸命に漕いでも、ロープが杭につながっていたのでは前進しないように、私たちは、どんなに信仰に励んでも、それを妨げるものを断ち切らなければ、信仰に成長することはできません。私たちの信仰を妨げるものは数多くありますが、代表的なものは、次のような3つのものではないでしょうか。◇信仰の妨げ(1)――人への恐れ◇信仰の妨げ(2)――物への執着◇信仰の妨げ(3)――世への愛着 まず人への恐れについて学んでみましょう。 一、人への恐れの現れについて サウルは、13章と15章において一つずつ罪を犯しています。第一は、祭司しかしてはならないことを敢えて行った越権行為であり(13章13節)、第二は、勇気をもって神の命令を遂行しなければならない時に、民の声に負けて、神に従わなかった臆した行為です(15章19節)。 このような罪を犯した原因を調べてみましょう。サウルは、次のような4つのことを恐れたと聖書は教えています。◇民が自分から離れて行くこと(13章11節)。◇敵が自分を攻撃して来ること(13章12節)。◇自分の人気が落ちること(15章24節)。◇自分の面目が失われること(15章30節)。 このようなことしみな、人への恐れの現れであるということができます。私たちは、神に従うことよりも、人々が自分を離れ去ったり、迫害したりしないように、また自分の人気や面目が失われないようにすることのほうを選ぶなら、人を恐れている証拠です。 このように人を恐れている人は、神を第一にして神の前に正しい姿になることを捨ててまでも、人間の前で良い顔をし、人に良く思われようとするのです。 二、人への恐れの結果について サウルは、人を恐れることによって忍耐を失い、またあせり、ついに越権行為をしただけでなく、民のご機嫌をとり、人々の声に負けて、神の命令を行うことに臆してしまいました。このように人間は、人を恐れると、出過ぎた余計なことをし、しかも必要で肝心なことができなくなってしまうのです。聖書は、「人を恐れるとわなにかかる」(箴言29章25節)と教えています。 この罪を犯した後のサウルの生涯は、堕落の下り坂を転がりながら、霊媒をする女性に尋ねたことが致命傷になり(第一歴代誌10章13、14節)、ついに真っ逆さまに滅亡の淵に落ちてしまったのです。人を恐れたサウルの生涯の末路は、何と悲惨なことでしょうか。 三、人への恐れからの解決について サウルがこのような悲惨な最後を遂げたのは、罪を犯した後、なおも神を恐れず、人を恐れたために、真の悔い改めをしなかったからです(15章30節)。しかしダビデは、サウルに劣らない、いやそれ以上の姦淫と殺人という大罪を犯しましたが、その後、人を恐れず、神を恐れて、全く悔い改めたので、罪を赦されて立ち直ったのです。 私たちが人を恐れるのは、人の前に生き、神の評価よりも人の評価のほうを重要視するからです。私たちの永遠の運命は、人の前にどのような姿であるかによってではなく、神の前にどのような姿であるかによって決まります。ですから私たちにとって最も大切なことは、私たちの生涯のすべてをさばかれる神を恐れ、その神の前に歩むことなのです(伝道者12章13、14節)。
2006.12.08
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「信仰と幻(ヴィジョン)」 甲斐慎一郎 ヨシュア記、14章6~15節 「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」(12節) これはカレブがヨシュアに言ったことばです。この時のカレブは85歳でした。しかし彼は「今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです」(11節)ということができました。 カレブがこのように言うことができた秘訣は何でしょうか。それは一言で言えば「主に従い通した」(8、9、14節)全き服従です。しかしこの神への全き服従の原動力は、彼の信仰と幻でした。 一、幻(ヴィジョン)の意味 一般的に幻とか夢というと、遠大であっても到底実現不可能な淡い希望のことを意味しています。それでは聖書が教えている「幻」とは何でしょうか。 聖書はエリの時代について、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)と教えています。この「幻」という言葉は、口語訳、文語訳とも「黙示」と訳され、同じ節の並行文では「主のことば」と記されていますから、「幻」とは、「主のことば」であることが分かります。 しかし「幻」は、単に「主のことば」を表しているのではなく、パウロが、「私は、この天からの啓示にそむかず」(使徒26章19節)と述べているように神がその人に与えられた「天からの啓示」です。私たちの場合は、神がその人に与えられた天からの使命ということができます。 さらに言い換えるならば、モーセについて「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブル11章26節)と記されているように、「幻」とは、神が約束され、実現が保証されている永遠の報いのことを指しています。 この幻は、カレブにとっては「主が約束された山地」ですが、私たちの場合は、神がその人に与えられた天からの使命とそれに伴う永遠の報いであると言うことができます。 二、幻(ヴィジョン)の効用 幻は私たちに何を与えるでしょうか。次のような3つのものです。 1.幻は目先の困難に負けない力を与える。 荒野を放浪していたカレブの周囲は、困難と艱難に満ちていました。危険な荒野やつぶやく不信仰の民など、目先の困難だけを見ていたなら、とても耐えられないでしょう。しかしカレブは、主が約束されたすばらしい報いである山地を望んでいたので、目先の困難に負けずに忍耐することができました。 2.幻は目先の欲に走らない力を与える。 目先の困難に負けた人は、必ず安易な目先の欲に走るものです。イスラエルの民が荒野においてつぶやいてばかりいたのも、目先の困難に負けた結果、私利私欲に走ったからです。しかしカレブは、主が約束されたすばらしい報いである山地を望んでいたので、目先の欲に走らず、打算的になることもなく、前進していくことができました。 3.幻は世の流れに流されない力を与える。 目先の困難に負けずに忍耐し、目先の欲に走らずに前進して来たカレブにとって、これからなすべきことは、約束された山地を獲得することでした。このようにして彼は、つぶやく不信仰の民と同じ道を歩むことなく、約束された山地を自分のものとしたのです。 三、幻(ヴィジョン)の実現 私たちの幻は何でしょうか。神があなたに与えられた天からの使命とそれに伴う報いは何でしょうか。私たちは、天からの幻を与えられ、その幻の実現のために神の前に励む時にのみ、目先の困難に負けたり、目先の欲に走ったりすることなく、主のわざを成し遂げて、神の栄光を現すことができるのです。
2006.12.07
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「善悪を決める規準」 甲斐慎一郎 申命記12章25~28節 「あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(25節)。 「あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」(28節)。 神の創造された自然界の中で、人間が個人として、国民として、また信仰者として、あらゆる危険から守られ、正しく生きていくためには、神が定められた法則や人間が制定した規準を知り、それを守ることが必要です。 一、飛行機が安全に飛ぶための規準 昔の飛行機は、有視界飛行でしたので、安全に飛ぶことができるかどうかは、パイロットの操縦の腕にかかっており、雲の中や夜は安全に飛ぶことは不可能でした。現在は、計器飛行ですから、雲の中でも夜でも安全に飛ぶことができます。 ナポリからベンガジの基地に向かって飛んでいた飛行機が、基地から700キロメートルも離れた所で遭難していました。調査した結果、計器飛行に未熟なパイロットが感覚に頼って飛んだために、目的地を通り過ぎて遭難したことがわかりました。 人間の感覚は当てになりませんから、私たちは自分を導いてくれる信頼できる規準を持たなければなりません。空を安全に飛ぶためには、自然法則を正確に示す計器とパイロットが自分の感に頼らず、計器を信じることが必要なのです。 二、善良な国民である規準 私たちが住んでいる社会は、国民の意志によって制定された法律に基づいて政治が行われている法治国家です。ですから私たちが社会において善良な市民であるのか、それとも犯罪者であるのかということは、この法律を守っているかどうかによって決まります。 私たちは、自分は善良な市民であると、どんなに主張しても、法律を破れば犯罪者であり、反対に自分は悪人であると言い張っても、法律を守っていれば、善良な市民です。国の法律に関係なく、自分の考えで、善良な市民であるか、悪人であるかを判断しても何の意味もないのです。 三、キリスト者の生きる規準 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、このようになった原因を聖書は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からであると鋭く指摘しています(17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める規準が何かということです。聖書は「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と、善悪の規準は神の目であると教えています。 人は、悪いことをする時、必ず言い訳をし、それを正当化します。それは、「善や正義や清さ」の価値を認め、「悪や不義や汚れ」の価値を認めていないからです。もし「悪や不義や汚れ」の価値を認めていれば、言い訳をしたり、正当化したりする必要はないのです。 私たちの人生は、一寸先は闇の中を歩む生涯ですから、自分の感に頼って歩むなら、どこへ行くのかわからず、またつまずいてしまい、正しく、きよい生涯を送ることはできないでしょう。 真っ暗な空を安全に飛ぶためには、自然法則を正確に示す計器と、パイロットが自分の感に頼らず、計器を信じることが必要であるように、人生も、自分の感に頼らず、人間の正しい生き方を教えている神の言葉を信じて生きることが必要です。 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119篇105節)。 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8章12節)。
2006.12.06
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「主のことばを聞くことのききん」 甲斐慎一郎 アモス書、8章11、12節 預言者アモスは、神にそむいて罪を犯しているイスラエルの民に神の審判が臨むことを次のような不思議な言葉で預言しています。 「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」(11節)。 一、主のことばを聞くことのききん――その意味と実例について ききんは、人のいのちを支える食物や飲物を欠乏させるものですから、人を死に至らせる恐ろしいものです。イスラエルには、ききんが多く(創世記12章10節、26章1節、43章1節、ルツ記1章1節)、イスラエルの民は、その恐ろしさをよく知っていました。 アモスは、この「ききん」という言葉を巧みに用いて、人の霊的な生命を支える食物や飲物である「主のことば」を聞くことができず、人を死に至らせる恐ろしい神の審判のことを「主のことばを聞くことのききん」と言って、預言したのです。 聖書は、エリの時代について「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」と教えています(第一サムエル3章1節)。この「幻」ということばは、口語訳、文語訳とも、「黙示(すなわち啓示)」と訳され、同じ節の並行文では「主のことば」と記されていますから、神の言葉のことです。エリがさばきつかさとして治めていた頃は、アモスの言う「主のことばを聞くことのききん」の時代でした。 二、主のことばを聞くことのききん――その状態と結果について 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、このようになった原因を聖書は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からであると初めと終わりに鋭く指摘しています(士師記17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める規準が何かということです。 聖書は、「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と善悪の規準は神の目であることを教えています。しかし「主のことばを聞くことのききん」になれば、必ず善悪の規準が「神の目」ではなく、「自分の目」になるにちがいありません。 人間というものは、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているのではなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをしているのです。まさに聖書が教えているように人間は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことをしていることになるのです。ここに「主のことばを聞くことのききん」の恐ろしさがあるのです。 三、主のことばを聞くことのききん――その原因と対策について 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と記されているように(マタイ4章4節)、私たちは、神の言葉によって生きるものです。 しかし私たちが、神の言葉という「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために……真理から耳をそむけ」るなら(第二テモテ4章3、4節)、自分で「主のことばを聞くことのききん」を招いているのです。 主のことばがききんになれば、「捜し求めて」も「見いだせ」ず(12節)、取り返しがつかなくなってしまうでしょう。ですから私たちは「お会いできる間に」、「主を求め」、「近くにおられるうちに、呼び求め」ることが必要なのです(イザヤ55章6節)。 私たちは、主のことばを聞くことのききんになっていないでしょうか。
2006.12.05
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「聖書を悟らせてくださる聖霊」 甲斐慎一郎 使徒の働き2章14-21節 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(17節)。 一、聖霊に満たされるまで聖書の真理が全く分からなかったペテロと使徒たち(使徒1章6節) ペテロと使徒たちは、イエスが地上におられた間は、イエスが語られた十字架と復活のことも、イエスにおいて成就した預言の言葉も、全くわかりませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節)。いやイエスが復活された後でさえイスラエルの国の再興のことしか念頭にありませんでした(1章6節)。 二、聖霊に満たされた時、聖書の真理がはっきりと分かったペテロと使徒たち(使徒1章15節~2章20節) ところがペテロは、イエスが昇天された後、ダビデが書いた詩篇の言葉を引用し(1章16-20節)、旧約聖書とイエスに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時、旧約聖書が教えようとしていることとイエスのことがはっきりと分かり、聖霊が息子、娘、青年、老人、しもべ、はしため――老若男女、親子、主従の区別なく――すべての人に注がれて、預言する(すなわち神の言葉を語る)と説教したのです。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)、「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)、「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)と記されているように「幻」や「夢」は神の啓示、すなわち神の言葉です。聖霊に満たされると、聖書の真理が分かり、あかしをする力を受けて主の証人となるのです(1章8節)。 イエスは、御霊の5つの働きについて教えられました。 ◇「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(ヨハネ14章17節)。 ◇「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14章26節)。 ◇「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15章26節)。 ◇「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16章8節)。 ◇「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハネ16章13節)。 ペテロは、御霊の働きによって聖書の真理が分かり、大胆に語ることができたのです。 三、聖霊に満たされることによって聖書の言葉が身近になったペテロと使徒たち(使徒2章21節、ローマ10章6~13節) ローマ人への手紙の10章6節と7節は、どのような意味でしょうか。 自分の力で努力して、天におられる神に至るまで向上しなければ救われないと思うことは、私たちのために天から下り、人となって十字架の上で贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら自分の力でキリストを天から引き降ろして、救いを成し遂げようとすることだからです。 自分が犯した罪のためには、地の奥底、すなわち地獄に下って刑罰を受けなければ赦されないと思うことは、私たちのために地の奥底にまで下り、罪の贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら、それは自分の力でキリストを地の奥底から引き上げて復活させ、救いを成し遂げようとすることだからです。 パウロは、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30章14節)というモーセの言葉を引用して、「信仰のことば」である福音は、だれの手にも届く身近な現実の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができると教えているのです。 私たちは、神の言葉をこのようにとらえているでしょうか。
2006.12.04
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「聖書に基づく確かな信仰」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章11、12節 「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中には、ギリシャの貴婦人や男子も少なくなかった」(11、12節) 「ここのユダヤ人」というのは、ベレヤの教会の人たちです。この個所には、「聖書に基づく確かな信仰」が記されています。 一、はたしてそのとおりかどうかと アメリカの教会において、日曜学校の先生が「信仰とは何ですか」と尋ねました。それに対して一人の少年が即座に「ほんとうでないと知っているあることを信じることです」と答えました。 多くの人々が、このように思っていることは非常に残念なことです。しかし聖書は、信仰について決してこのようなことは教えていません。ある人が次のように述べています。 ◇何も信じないことは不幸です。 ◇しかし何でも信じることも不幸です。◇信ずべきことを信じ、信ずべきでないことを信じないことこそ真の 幸いです。 誠にこのとおりで、これこそ聖書が教えている真の信仰です。相対性理論を発表し、ノーベル物理学賞を受けたドイツ生まれのユダヤ人であるアインシュタインは、「宗教のない科学は凶器であり、科学のない宗教は狂信である」と言ったそうですが、誠にそのとおりではないでしょうか。 ルカは、その福音書の序文において(1章1-4節)、キリスト教は、まことしやかに捏造(ねつぞう)された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいた怪しげな宗教ではなく、実際に起きた歴史的な出来事を初めから目撃した者が、そのとおりに伝えた正確な事実に基づいた信頼するに足る宗教であると教えています。 二、毎日聖書を調べた イエスは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています」と言われました(ヨハネ5章39節)。 聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれた誤りのない神のことばです。それは実際に起きた歴史的な出来事を正確に記録し、その事実を通して神とその救いに関する不変の真理を教えています。 しかし聖書は、歴史的文書の形をとっているので、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」「どのように」したかという物事の正確な観察と調査が必要です。そうする時、正しい解釈をすることができるとともに、聖書の真の解釈者である聖霊が私たちの心の眼を開き、神の知恵を与えて、聖書の中心であるキリストを見せてくださいます。 ですから私たちは、聖書を注意深く、正確に調べるなら、必ず聖書が教えようとしている真理を見いだすことができるのです。 三、そのため多くの者が信仰にはいった ベレヤのユダヤ人は、非常に熱心に神のことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べました。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいりました。 ルー・ウォーレスは、アメリカの偉大な将軍であり、天才的な文学者と言われました。彼は、過激な無神論者で、聖書と教会を撲滅するために、キリスト教を抹殺する本を書こうとしました。それから5年間、研究に没頭し、山のような資料に囲まれて執筆にとりかかりました。ところがキリスト教撲滅論を書いているうちにキリストを見いだし、信仰を告白してキリスト者になりました。そしてキリストの時代を取り扱ったものとしては比類のない不朽の名作と言われる「ベン・ハー」を書いたのです。東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 1」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2006.12.03
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「謙遜の伴った信仰」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、17章5-10節 キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。古代ギリシャの哲学者は、「何が一番困難だろうか」と尋ねられた時、「自分を知ることだ」と答えたと言われています。 自分の本当の姿を知ることほど難しいことはありません。私たちは自分の姿が見えなくなると、平気で周囲の人々のひんしゅくを買うようなことをするようになります。神の前にも人の前にも正しく、きよく歩むためには自分の姿を知らなければなりません。そこで、どのような時に自分の姿が見えなくなるのかということを考えてみましょう。 一、働きや行いを誇ると自分の姿が見えなくなる(マタイ20章1-16節) ぶどう園のたとえは、「恵みによる救い」を教えています(エペソ2章8、9節)。 最初の者たちは、もっと多くもらえるだろうと思ったり、主人に文句をつけたり、ねたましく思ったりしています(10-12、15節)。彼らがこのように思ったのは、恵みによる救いを忘れて自分の働きや行いを誇ったからであり、自分の姿が見えなくなっています。 「先の者があとになる」とは、天の御国に最後にはいるという意味ではなく、「天の御国から追い出される」ということを教えています(R・C・トレンチ)。なぜなら「いま先頭の者がしんがりになる」という類似の言葉は(ルカ13章30節)、文脈から意味を判断するなら(同13章23-29節)、神の国から締め出されることを意味しているからです。 恵みによる救いが分からなければ、高ぶって神の国にはいることができないだけでなく、自分の姿が見えなくなってしまうのです。 二、祝福を受けても謙虚でないと自分の姿が見えなくなる(第二コリント12章7節) パウロは、パラダイスに引き上げられ、人間には語ることのできない言葉を聞いた体験をしましたが、その啓示があまりにもすばらしいために、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげが与えられたことを述べています(4-7節)。 私たちは、すばらしい祝福を受けたり、良い結果が出たりした時、「それは私ではなく、私にある神の恵みです」(第一コリント15章10節)と告白して神に栄光を帰さなければ、高ぶって自分の姿が見えなくなるのです。 三、熱心さだけで知識が伴わないと自分の姿が見えなくなる(ローマ10章2、3節) パウロは、ユダヤ人について、彼らが神に対して熱心であることは認めていますが、その熱心は、知識に基づくものではないので、神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わず(2、3節)、その結果、高慢になり、自分自身の姿が全く見えなくなっていることを鋭く指摘しています。 私たちは、自分だけが正しく、他の人はみな間違っていると思ったり、熱心さのあまり、不熱心な人を卑下したり、さばいたりするなら、高慢になり、自分の姿が見えなくなってしまうのです。 四、謙遜の伴った信仰を持たないと自分の姿が見えなくなる(ルカ17章5-10節) 使徒たちは、主に「私たちの信仰を増してください」と言いました(5節)。すると主は、「からし種ほどの信仰があったなら」と言われました(6節)。 もし私たちに、からし種ほどの信仰(小さくても生命のある信仰)があったなら、困難な問題があっても、「信じる者には、どんなことでもでき」ます(マルコ9章23節)。しかしその反面、うぬぼれて高慢になる恐れがあります。 そこで主は、私たちに、しもべとして、どこまでも神に仕える謙虚さを教えられました。私たちは、神に命じられたことをみなしてしまったら、「役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言って、へりくだらなければ(10節)、高慢になり、自分の姿が見えなくなるのです。 私たちは、高慢の罪を認めて心から悔い改め、神の前にへりくだる時、神を知り、また自分の姿が見えるようになってくるのです。
2006.12.02
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「成長する信仰(2) 思いやる信仰」 甲斐慎一郎 民数記14章20-45節 人との関わりにおける信仰の中で、最高の段階である思いやる信仰について、ヨシュアとカレブの姿から学んでみましょう。 一、自分がしていないことは、他の人にそのことを決して要求しないのが真の愛です 不信仰の罪を犯して神から刑罰を受けなければならなかったのは親たちであり、子どもたちは直接的にはその責任はなかったはずです。これはヨシュアとカレブにとっても同様でした。 それにもかかわらず20歳未満の子どもたちは、親たちが荒野で死に絶えるまで、彼らの「背信の罪を負わなければな」りませんでした(33節)。まして彼らよりも強く、成人であるヨシュアとカレブは、知らぬ振りをすることができなかったのは当然ではないでしょうか。彼らは、子どもたちとともに身代わりの苦しみを受けたのです。 イエスは、律法学者やパリサイ人に、「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません」と言って、彼らを譴責されました(マタイ23章4節)。これを私たちに当てはめるならば、自分がしてもいないことを他の人にするように要求したり、自分が負ってもいない奉仕や重荷を他の人に負わせようとしたりしてはならないことを教えています。 思いやる信仰である愛は、身代わりの苦しみであっても、自分が負ってもいない重荷を他の人にだけ負わせるようなことはしないのです。 二、たとえ自分がしていることでも、他の人には不当な要求をしないのが真の愛です イスラエルの人たちが、カデシュ・バルネアにおいて不信仰に陥り、カナンにはいろうとしなかったのは、決して偶然ではありません。彼らは、神に「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった」と言われたように(22節)、何回も不信仰のゆえに神に敵対していたのです。日常の小さな出来事に対して不信仰であった彼らが、このような大きな出来事に直面した時、不信仰に陥ったのは当然のことでした。 ヨシュアとカレブは、彼らの過去における不信仰の経歴をよく知っていました。ましてこれからともに歩もうとしている人々は、この不信仰な親たちの影響を強く受けている弱い子どもたちです。どうして彼らに今すぐカナンにはいるというような不当な要求をすることができるでしょうか。 このように思いやる信仰である愛は、自分がしていることでも、相手の実質や実力以上の不当に高いことは決して要求しません。私たちが相手に不当に高いことや完全さを要求しないならば、何と多くの怒りや憎しみ、またいらだちや争いの罪から救われることでしょうか。 三、神と人々の救いのためには、損得を考えず打算を抜きにするのが真の愛です 神は「あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ」と仰せられました(25節)。民がカナンにはいることを拒んだ以上、今度は荒野を放浪することが神の御命令であり、みこころでした。 ヨシュアとカレブは、神がともにおられる所ならば、どこにでも従っていきました。彼らは、人間的には全くむだなことにしか見えない荒野の放浪をし、子どもたちが成長するのを待ったのです。彼らの奉仕は、すぐには報われず、報われたのは、実に40年後のカナンにはいった時でした。 すぐに報われることしかしないのは愛ではなく打算です。思いやる信仰である愛は、神と人々の救いのためには、すぐに報われず、人間的には全くむだなことにしか見えないことも黙々と行っていくのです。
2006.12.01
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