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「成長する信仰(1) 成長の三段階」 甲斐慎一郎 民数記、13章1-33節 真の信仰は、目に見えない神に対して持つものです。しかし目に見える人間に対して密接な関わりを持っています。そこで人との関わりにおける信仰について、ヨシュアとカレブの姿から学んでみましょう。 一、見習う信仰 ヨシュアとカレブは、それぞれ部族のかしらです(2、6、8節)。しかし、彼らも初めから部族のかしらであったのではありません。「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュア」と記されているように(民数記11章28節)、ヨシュアも従者として人に仕えていた時がありました。 信仰についても同様です。ヘブル人への手紙の著者は、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」(ヘブル13章7節)と述べ、ペテロも、「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい」(第一ペテロ5章5節)と勧めています。 信仰の表れの第一段階は謙遜です。私たちは、この謙虚さによって先輩たちの信仰に見習い、成長していくことができるのです。 二、立ち上がる信仰 カナンの地を偵察した10人の族長たちは、不信仰のために、その地に攻め上ろうとはしませんでした。しかしヨシュアとカレブの2人は、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう」と言って(30節)、勇気を持って立ち上がりました。彼らは、たとえ先輩といえども10人の族長たちに組して不信仰や悪と妥協しなかったのです。 私たちの場合、見習う信仰によって謙虚に先輩たちに従っていくなら、信仰が成長していきますが、成長していくにつれて、先輩たちの中に必ずしも模範的でなく、あまり芳しくないことがあるのが見えてくるでしょう。 その時、彼らにつまずいたり、彼らを非難したりしないで、自分ひとりだけでも悪と妥協せず、勇気を持って立ち上がり、神を信じて従っていくのが真の信仰です。 信仰の表れの第二段階は勇気です。私たちの信仰が、見習う信仰から自分ひとりだけでも勇気を持って立ち上がる信仰に成長するために、神は、このような、あまり模範的ではない先輩たちをも用いて私たちの信仰を試されるのです。 三、思いやる信仰 神は、「エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない」と仰せられました(民数記14章30節)。イスラエルの人々は、不信仰な10人の族長たちに従ってしまったので、カナンの地にはいることができないという神の刑罰を受けてしまいました。 しかしヨシュアとカレブまで、彼らとともに40年間も荒野を放浪しなければならなかったのは、なぜでしょうか。それはエジプトを出た一世のイスラエル人が荒野で死に絶え、荒野で生まれた二世のイスラエル人がカナンにはいることができるほど成長していくのを待つためでした。 信仰は、自分だけ持っていればよいのではなく、実を結んで多くの人々に及んでいくものです。そのためにヨシュアとカレブのように、信仰の弱い人々や、まだ信仰のよくわからない人々を正しく信仰に導くという目的を持って、彼らの罪に妥協せず、彼らの弱さに同情してともに歩まなければなりません。 信仰の表れの第三段階は愛です。パウロは、「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません」と述べています(ローマ15章1節)。私たちは、立ち上がる信仰から思いやる信仰に成長するために、信仰の弱い者とともに歩まなければならないのです。
2006.11.30
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「信仰の成長の五段階」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、4章43~54節 イエスは「信仰の薄い者たちだ」(マタイ8章26節)と弟子たちを叱責され、百人隊長の「りっぱな信仰」(ルカ7章9節)を誉められました。パウロは「信仰の量りに応じて」(ローマ12章3節)と述べています。このようなことから信仰は、薄い信仰から篤い信仰まで段階があり、成長しなければならないことを教えています。 一、苦しい時の神頼み(47節) 王室の役人は、死にかかっている息子のために必死になってイエスに助けを求めました。信仰の第一段階は、苦しい時の神頼みです。 この諺は、苦しい時だけ神に助けを求める人の身勝手さや御都合主義を教えている言葉です。しかし「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」とあるように(詩篇119篇71節)、聖書は苦しみによってでも神を求めることは幸いであると教えています。罪深い人間が信仰を持つには、ここからはいるしかないのでしょう。 二、しるしを求める信仰(48節) イエスは、懸命に助けを願い求める父親に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と言われました(48節)。信仰の第二段階は、しるしを求める信仰です。 これは「溺るる者は藁をも掴む」信仰です。この場合、「藁」は「しるし」ということができます。このイエスの言葉は、王室の役人に「ただ苦しい時だけ神に拠り頼むのは、しるしを求める御利益信仰である」ということを意味するものです。苦しい時の神頼みで始まった信仰は、「しるしを求める信仰」になります。これも罪深い人間が真の信仰に近づくためにやむを得ないことなのでしょう。 三、イエスを求める信仰(49節) 死にかかっている息子を前にして、なおも父親の信仰の姿勢を問うイエスに対して、彼は、ひるまず「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」と懸命にイエスに救いを求めました(49節)。信仰の第三段階は、イエスを求める信仰です。 イエスの叱責の言葉は(48節)、「不純な信仰を改めない限り、あなたの願いに答えることはできない」という警告と拒絶を意味するものです。人は、御利益信仰から始まり、しるしを求める信仰になりますが、このような信仰をためされ、悔い改めて、不純なものが取り除かれていく時、ひたすらイエスに救いを求めるようになります。 四、神の言葉を信じる信仰(50節) イエスは、王室の役人のひたむきな願いを聞いて、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われました。「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途につ」きました(50節)。信仰の第四段階は、みことばを信じる信仰です。 イエスは、ひたすらイエスに救いを求める役人に、「あなたの息子は直っています」と言われました。彼は、「イエスが言われたことばを信じて帰途につ」きました(50節)。王室の役人は、百人隊長と同じように「権威の下にある者で」(マタイ8章9節)、部下に命じるなら、その言葉通りに物事が運ぶことをよく知っていました。それで権威をもって語られたイエスの言葉は、必ずその通りになると信じて、家に帰ったのです。 五、報いられた信仰(51~53節) 王室の役人が「下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げ」ました(51節)。「そして彼自身と彼の家の者がみな信じ」ました(53節)。信仰の第五段階は、報いられた信仰です。 イエスは百人隊長に「あなたの信じたとおりになるように」と言われましたが、「すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた」と聖書は教えています(マタイ8章13節)。 聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と教えています(ヘブル11章6節)。初めは不純で弱い信仰も、ためされていく時、純粋で強い信仰に変えられ、信じた通りに報いられるのです。
2006.11.29
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「神に近づきなさい」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章1~10節 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」(8、9節)。 一、人間がほんとうに求めているもの 人間は、何のために生きているのでしょうか。いや私たちは、毎日、何を求めて暮らしているのでしょうか。人々は、休日ともなれば、様々な所へ出かけ、週日の仕事の疲れをいやして、気分を転換しようとします。またある人々は、それだけでは足りず、毎日の仕事の憂さを、その日のうちに身近な楽しみによって晴らそうとします。各地の行楽地や盛り場が賑わっているのは、このためであることは、言うまでもありません。 多くの人々が汲々となって求めている金銭や名誉や地位も、それ自体が目的ではなく、それによって心が喜び、楽しむことが真の目的ではないでしょうか。このことは、キリストが話された「たとえ話」において、豊作になった金持ちの農夫が「たましいよ。……さあ安心して……楽しめ」(ルカ12章19節)と言っていることからも分かります。 人間が生きていくための基本的な営みである食べること、飲むこと、運動することでさえも、ただ栄養や健康のためにだけしている人は少ないでしょう。多くの人たちは、その中に楽しみと喜びを求めているのではないでしょうか。このように考えていくなら、人間が本当に求めているものは、心の楽しみであり、喜びであり、笑いであるということが分かります。 二、ほんとうの喜びのために必要なこと しかし、ここで忘れてはならないことは、このような心の楽しみや喜びや笑いは、あくまで何かをしたことの結果であって、これを求めても得られないということです。ですから良い結果を得るためには、良い原因が必要であることは、言うまでもありません。 しかし私たちがこのことを忘れ、原因を吟味せずに、ただ結果である楽しみや喜びや笑いを得ようとするなら、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(箴言9章17節)というような罪深い楽しみと喜びを求めてしまうでしょう。これは何と恐ろしいことでしょうか。しかし人間は、自らの心の楽しみと喜びのためであるなら、悪いものを求めるほど罪深いのです。 三、人間にとって必要なほんとうの喜び このような人間に対してヤコブは、「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と勧めています(9節)。これは、人間が求めている楽しみと喜びと笑いとは全く正反対のものです。なぜこのようなことが必要なのでしょうか。それは人間が真の楽しみと喜びと笑いを失い、偽りの、いや罪深い楽しみと喜びと笑いにうつつをぬかしているからです。 私たちは、自らのいやな性質やだめな性格、また欠点や短所、そして最もいけない所や恥ずべき悪癖、さらに汚れた思いや罪深い心がどのようなものであるかを知っているでしょうか。多くの人々は、これらのことを知ることさえ恐れ、触れないでいるだけでなく、それを忘れようと、偽りの楽しみと喜びと笑いを求めています。しかしこれは、臭いものにふたをして、それを取り除こうとせず、逃避しているに過ぎません。これでは、何の解決もないばかりか、恐ろしい悪循環です。 私たちは、自らの心の姿のために、苦しんだことがあるでしょうか。悲しんだことがあるでしょうか。泣いたことがあるでしょうか。神に近づくことの第一歩は、この自らの心のために憂えることです。そして私たちが、その罪を憂えるだけでなく、それをキリストの十字架のもとに持っていく時、私たちの罪のために死んでくださったキリストの救いを受けることができます。その結果、私たちの心は、罪から救われた真の喜びと楽しみと笑いに満たされるのです。
2006.11.29
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「神を信じなさい」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章16-34節 この箇所には、パウロのアテネにおける伝道が記されています。エルサレムを宗教の都、ローマを政治の都と呼ぶならば、アテネは学問の都です。このアテネにおけるパウロの説教は、学問の都にふさわしく、極めて論理的であり、巧みな導入の序論から始まり、核心を突いた説得力のある本論へ話を進め、そして決断を促す結論に至るまで、実に見事であり、模範的な説教の良い実例です。 一、パウロの説教のきっかけ(16-21節) 一足先にアテネに来て、アテネでシラスとテモテを待っていたパウロは、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ」ました(16節)。「アテネの町の人の数よりも、その町の神々の数のほうが多かった」と記録している人がいるほどです。日本語に「八百万の神々」という言葉がありますが、現在の日本と非常によく似ています。この彼の憤りは罪に対する義憤ですが、それはすぐに人々に福音を語る情熱に変わっていきました。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと、広場ではエピクロス派とストア派の哲学者たちと論じました(17、18節)。 エピクロス派の創始者は、エピクロスで、最高善は快楽であると教えました。しかしその快楽は、刹那的な享楽ではなく、全生涯にわたる幸福を追求するように説きました。これに対してストア派の創始者は、ゼノンで、最高善は徳であると教えました。すべてのものが神であるという「汎神論」的思想をもち、自然に従うことが幸福であると説きました。 彼らはパウロをアレオパゴス(裁判をするためにアテネにあった評議所)に連れて行き、パウロが語っている新しい教えを聞きたいと言い出しました(17-20節)。パウロにとっては、彼らに福音を語る絶好の機会でした。 二、パウロの説教の内容(22-31節) アテネの人たちは、多くの偶像を拝んでいましたが、それでも、拝み忘れていた神々があることを恐れて、「知られない神に」と刻んだ祭壇まで造って拝んでいました。パウロは、偶像を見て心に憤りを感じましたが、その憤りをそのまま言葉に出すような知恵のないことはしませんでした。 かえって、「あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」と言って、彼らの宗教心に訴え、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを教えましょう」と偶像さえも真の神を教える材料として巧みに用いたのです(22、23節)。 パウロは、真の神はどのような方であるかということを偶像と対比させながら、次のように分かりやすく述べています。 ◇真の神は、すべてのものをお造りになった方です(24節)人間が造ったのが偶像であるのに対して、人間をはじめすべてのものをお造りになったのが真の神です。 ◇真の神は、すべてのものをお与えになった方です(25節)人から与えられるのが偶像であるのに対して、人にすべてのものをお与えになるのが真の神です。 ◇真の神は、すべての人をおさばきになる方です(31節)人に品定めをされてさばかかれるのが偶像であるのに対して、すべての人をおさばきになるのが真の神です。 私たちは、このような「神の中に生き、動き、また存在している」(28節)にもかかわらず、そのことを知らずに、偶像を拝み、罪を犯して来ました。そこで神は、「すべての人に悔い改めを命じておられ」るのです(30節)。 三、パウロの説教の結果(32-34節) パウロの説教を聞いた人々は、どのような反応を示したでしょうか。聖書は次のような三種類の人たちがいたことを教えています。 ◇ある者たちは、死者の復活のことを聞いてあざ笑った(32節)。 ◇ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った(32節)。 ◇信仰にはいった人たちがいた(34節)。 この反応は、いつの時代のどの国の人々も同じです。私たちは、どうでしょうか。
2006.11.29
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「神を求めなさい」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章2、3節 「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4章2、3節) 私たちがキリスト教の入門書や案内状などで、よく見かける聖書のことばには、いろいろありますが、最もよく目にするには、次のようなイエス・キリストのことばではないでしょうか。 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7章7節) この「求める」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。それには、人間が生きていくために不可欠なものですが、罪の誘因になりやすい「欲望」との関係を知る必要があります。 一、求めの意味――欲望との違い(マタイ7章7節) 人間には、様々な欲望がありますが、人を構成している3つの要素(霊と心とからだ)から、基本的に次のような3つの欲望に分けることができるのではないでしょうか。 1.からだに関しては、飲食欲や性欲など、自らの生命と、その子孫とを絶やさずに保とうとする「保存欲」です。 2.心に関しては、ほかの人たちや自然界のものと交わり、それを知ろうとする「社交欲」です。 3.霊に関しては、人間よりも偉大な神を崇拝し、礼讚しようとする「礼拝欲」です。 この欲望は、だれに対して、または何を求めるかという「対象」と、何のために求めるかという「目的」と、どのように求めるかという「方法」の可否によって善にも悪にもなります。そしてこの欲望の表現こそ「求め」にほかなりません。 1.求めなさい――これは、求めの第一段階で、自らの願いを告白し、要求することです。 2.捜しなさい――これは、求めの第二段階で、口で要求を告げるだけでなく、からだと心を用いて得るまで熱心に行動することです。 3.たたきなさい――これは、求めの第三段階で、行動するだけでなく、手応えがあるまで相手に自分の願いをはっきりと伝えることです。 二、まちがった求め――むさぼり(ヤコブ4章2、3節) 私たちは、何を求め(対象)、何のために求め(目的)、どのように求め(方法)ているでしょうか。むさぼり(貪欲)は、単に欲が深いというようなものではなく、次のような意味があります。 ◇求める対象がまちがっていること、すなわち求めてはならないものを求めることです(出エジプト20章17節)。 ◇求める目的がまちがっていること、すなわち悪い動機で求めることです(ヤコブ4章3節)。 ◇求める方法がまちがっていること、すなわち目的のためには手段を選ばないことです(第一歴代誌15章13節)。 このように欲望は、その求める「対象」と「目的」と「方法」をまちがえるならば、恐ろしい罪の誘因になるだけでなく、正しいもので満たされないために、よけいに心が渇いてむなしくなり、さらに貪欲の罪を犯すという悪循環に陥ってしまうのです。 三、正しい求め――神とその救いを求める これに対して私たちの心をほんとうに満たしてくれるのは、神とその救いです。 1.「主の御名を呼び求める者は……救われる」(ローマ10章13節)――正しい対象。 当てにならないもの、また罪深いものを求めることをやめ、心から救い主に助けを求める人は、救われることができます。 2.「イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々」(第一コリント1章2節)――正しい方法。 ことごとに神に祈り求め、神にすべての必要を満たされて生きるのがキリスト者です。 3.「だれでもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト……のことを求めてはいません」(ピリピ2章21節)――正しい目的。 自分自身のことではなく、キリストのことを求めるのがキリスト者です。 私たちの求めは、どうでしょうか。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 3」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2006.11.27
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「三つのさばき」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、4章1~5節 私たちは、世の中に住んでいる以上、様々な人から、色々なことを言われることは避けることができません。しかし、その時、私たちは、それに対して正しく処していきませんと、それに負けて、他の人を傷つけてしまい、正しく歩むことができません。パウロは、3つの「さばき」について教えています。 一、他の人によるさばき パウロは、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです」と述べています(3節)。 パウロは、他の人がとやかく言うことなどは、取るに足りないことだと言っています。私たちは、他の人から言われる他の人のさばきそのものによって、私たちの永遠の運命が決定するのではないという意味において、確かにその通りであり、他の人のことばなど気にする必要はありません。 しかし、それだからと言って、私たちは、厚顔無恥や傍若無人であってよいはずはありません。なぜなら人のことばであっても、決して無視してはならないものがあるからです。私たちは、次のような3つの原則によって、それを知ることができます。 1.真実の原則――これは、人から言われたことが、私たちにとって真実であるなら、私たちは、それを無視してはならず、認めなければなりません。 2.謙遜の原則――これは、人のことばであっても、それが聖書の教えであるなら、私たちは、それを人を通して語られる神の声として、相手の年齢や身分に関係なく、謙遜に耳を傾けなければなりません。 3.愛の原則――これは、私たちの動機が純粋で、正しく、人からとやかく言われる筋合いのない正しいことであったとしても、それが弱い人をつまずかせるなら、自分の正しさを通さずに、愛のゆえに弱い人の声に聞き従わなければなりません(第一コリント八章7~13節)。 私たちは、この3つの原則に抵触しなければ、他の人のさばきなど気にする必要はありません。他の人のさばきは、どこまでも小さなことであり、それよりも他の人のさばきに対して私たちが真実と謙遜と愛の態度をとるかどうかということのほうがより重要なことなのです。 二、自分のさばき パウロは、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べています(3節)。 これも他の人のさばきと同様に、私たちは、自分で自分の善悪を判定する自分のさばきそのもによって、私たちの永遠の運命が決定するものではありません。ですから私たちは、自分で自分をさばいて、悪ければ失望落胆したり、自暴自棄に陥ったり、良ければ誇ったり、高ぶったりするというように、自分のさばきの結果に振り回されてはなりません。 私たちは、自分の姿をよく知って、自己批判や自己反省をすることは必要です。しかし私たちは、そこで留まるべきであり、神のさばきを差し置いて、自分で結論を下したり、「先走ったさばきをしては」ならないのです(5節)。 三、神のさばき パウロは、「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は、主です」と述べています(4節)。 私たちの永遠の運命は、他の人や自分という人間のさばきによって決まるのではなく、神のさばきによって決定します。なぜなら神のみ唯一の審判者であり、神のさばきは、正しく、完全だからです。 正しい裁判を行うためには、確かな証拠や証言などの必要な資料が全部そろうことが必要です。しかし人間は、「やみの中に隠れた事」や「心の中のはかりごと」(5節)まで知ることはできないので、証拠や証言が不十分で、正しい裁判をすることはできません。 しかし神は、それらを全部明るみに出されるゆえに、完全で公平なさばきをすることがおできになります。私たちは、不完全な人のさばきなど恐れず、完全で正しいさばきをされる神を恐れて歩もうではありませんか。
2006.11.26
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「人間関係の教え(3) 赦しについて」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章21~35節 ペテロは「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか」と言いました(21節)。イエスは、「七度を七十倍するまで」と言われました(22節)。また、譴責と赦しの関係について、次のように教えられました。 「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章3、4節)。 譴責して悔い改めれば、赦すのは当然です。しかし、イエスが言われた「七度を七十倍するまで」、すなわち、どこまでも赦しなさいという言葉は、たとえ相手の人が悔い改めなくても、赦さなければならないことを私たちに教えています。 一、神に対する罪(23~26節) このたとえ話の中の「王」は神を、「しもべ」は罪人を、「借金」は罪を、「借金の免除」は罪の赦しを表しています。 イエスは、このたとえ話を通して、罪は単に人に対するものではなく、神に対するものであることを教えられました。あの姦淫と殺人という大罪を犯したダビデが、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」と告白している通りです(詩篇51篇4節)。しかもすべての人は、神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者なのです。 二、神から与えられる赦し(27節) このように罪は、人に対して犯したものであっても、それは人を通して神に対して犯したものです。そして聖書は「神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」と教えています(ルカ5章21節)。ですから私たちは、神が私たちの罪を赦してくださらなければ、人に謝罪して罪を赦していただいても、それでは本当に罪が赦されたことにはなりません。 三、人に対する罪(28~34節) このたとえ話は、神に対する罪を一万タラントの借金に、人に対する罪を百デナリの借金にたとえており、その比率は、実に六十万対一です。 このように聖書は、人に対する罪が、どんなに大きくても、神に対する罪は、それとは比較にならないほど大きなものであることを私たちにはっきりと教えています。 四、人に対する赦し(35節) なぜ私たちは、人の罪をどこまでも赦さなければならないのでしょうか。私たちが、人の罪を赦すとか赦さないとか言っている間は、自分が罪を赦す権利を持っているかのように錯覚しているにすぎません。神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者である私たちは、「赦しについて何の権利もないのです」(R・C・トレンチ)。 言い換えれば、人の罪を赦すとは、人を罪に定める権利を放棄すること、いや人を罪に定める権利を持つのは神のみであり、私たちは、初めから人を罪に定める権利など持っていないことを認めることです。 ですから、私たちが人の罪を譴責するのは、罪を赦さないからではなく、その人を悔い改めに導くことによって、その人の罪が赦されることを願うからなのです。 人間関係の教えをまとめてみましょう。 ◇謙遜は、まず自分がつまずかず、また人をつまずかせないようにするものです。 ◇譴責は、まず自分が悔い改め、また人が悔い改めに導かれるようにするものです。 ◇赦しは、まず自分の罪が赦され、また人の罪を心から赦すものです。 この3つは、二人とも神と正しい関係を持つために最善を尽くす信仰の営みです。そして二人とも神と正しい関係を持つ時、互いの人間関係も正しくなるのです。拙著「キリストの生涯の学び」94「人間関係の教え(3)」より転載但し、赤い文字の文は、原書にはなく、付加したものです。
2006.11.25
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「人間関係の教え(2) 譴責について」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章15~20節 イエスは、謙遜について話された後、譴責について語られました。イエスは、山上の説教において謙遜と譴責の関係について、次のように教えられました。 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちり(小さな罪)に目をつけるが、自分の目の中の梁(大きな罪)には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7章3~5節)。 このように私たちは、まず自分自身が悔い改め、謙虚になって罪を犯さない人になる時、ほかの人を悔い改めに導くことができます。 一、譴責の方法(15~17節) イエスは、罪を犯した兄弟に対して次のような三段階の譴責の方法を教えられました。 1.「行って、ふたりだけのところで責めなさい」(15節)。――相手の人の言い分も聞かずに、いきなり公衆の面前で譴責してはならず、まず個人対個人で、しかも内密にしなければなりません。 2.「もし、聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」(16節)。――ふたりだけでは感情論や水かけ論になって、らちがあかない時は、信頼のおける第三者が証人として加わり、すべての事実を確認しなければなりません。 3.「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい」(17節前半)。――これは教会が裁定を下すことであり、この段階では公にされます。 「この三重の規則を厳密に守る者はすべて、ほかの者をつまずかすことは少なく、自身がつまずくことは全くないであろう」(ジョン・ウェスレー、ウェスレー著作集、新約聖書註解、上、85頁、新教出版社)。罪を犯した兄弟への譴責は、人をつまずかせないためにも必要なのです。 二、教会の対処(17、18節) イエスは、「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と言われました(17節後半)。これは、教会はその人を除名処分にし、キリスト者になる前の人に戻った者として扱わなければならないことを教えています。 病院は、病人が健康な人になるところです。ですから、ほかのところよりも衛生的で、病気が感染しないようにしなければなりません。そのように教会は、罪人が聖徒になるところです。ですから世の中よりも聖く、罪が伝染しないようにしなければなりません。 そのために、このような譴責の方法と教会の対処が必要なのであり、神は、これらのことが、とどこおりなく行われるように、教会に権威を授けられたのです(18節)。 三、祷告の必要(19、20節) イエスは、罪を犯した兄弟に対する教会の対処について話された後、祈りについて語られました。それは、譴責の方法や対処の仕方は、形としては世の会社や団体において似たようなことが行われていたとしても、教会は世の会社や団体と異なり、聖なる神の臨在される場所ですから、その精神は全く違っていることを教えるためです。 教会は、罪を犯した兄弟(姉妹)が神に立ち返るために、心を一つにして、神が「彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださる」ように祈らなければなりません(第二テモテ2章25節)。そして神は、そのような祈りに答えてくださるのです(19節)。拙著「キリストの生涯の学び」93「人間関係の教え(2)」より転載
2006.11.24
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「人間関係の教え(1) 謙遜について」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~14節 マタイの福音書の5章から7章までの山上の説教が「神との正しい関係」について教えているのに対して、この18章は「人との正しい関係」について教えています。この章には次のような3つのことが記されています。◇人間関係の教え(1)――謙遜について◇人間関係の教え(2)――譴責について◇人間関係の教え(3)――赦しについて この3つのものは順序が大切です。正しい人間関係の基礎は謙遜であり、これがなければ正しい人間関係を持つことはできません。この謙虚さがある時、譴責、すなわち悔い改めの勧告ができます。そして最後に、私たちは、相手の人が悔い改めれば当然ですが、悔い改めなくても赦さなければなりません。 ここには、何のために、またなぜ謙虚さが必要なのかということが記されています。 一、天の御国にはいるため(1~5節) イエスは、「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」と言われました(3節)。「子どものように」なるとは、「自分を低くする」こと、すなわち謙遜です(4節)。しかし、謙遜には、次のような3段階があります。 1.身を低くする謙遜――これは「出る杭は打たれる」ので、「能ある鷹は爪をかくす」という謙虚な行動をとることです。 2.心の謙遜――これは、神の前に無一物であり、何の良いものも持っていないことを意識することです(黙示録3章17節)。 3.霊の謙遜――これは、神の前に返済不可能な罪という借金を背負った債務者であることを認めて(24、25節)、救い主の必要を意識することです。 この第三番目の人こそ、「心(原語は霊)の貧しい者」であり、「天の御国はその人のもの」です(5章3節)。 二、人をつまずかせないため(6~10節) イエスは、人をつまずかせることが、どんなに恐ろしいことであるかを語られましたが(6、7節)、それとともに自分自身が、どんな代価を払ってもつまずかないように教えられました(8、9節)。「つまずく」という言葉には、次のような意味があります。◇つまずき――罪に誘惑するもの。◇つまずく――(自分が)罪を犯す。◇つまずかせる――(人に)罪を犯させる。 イエスは「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」と言われました(10節)。謙虚でなく、また自分が罪を犯す(つまずく)人こそ、人に罪を犯させる(つまずかせる)のです。 ですから私たちは、人をつまずかせないためにも、まず自分自身が悔い改め、謙虚になって罪から救われ、どんな代価を払っても罪を犯さない人にならなければなりません。 三、神のみこころであるから(12~14節) イエスは、「迷い出た一匹の羊」のたとえを通して、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます……父のみこころではありません」と教えられました(14節)。 ペテロは、その手紙において、「主は……ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と述べています(第二ペテロ3章9節)。 神のみこころは、私たちが謙虚になって罪を犯さず、また人に罪を犯させないことです。ですから私たちは、「人との正しい関係」を持つために、まず「神との正しい関係」を持つことが必要なのです。拙著「キリストの生涯の学び」92「人間関係の教え(1)」より転載
2006.11.23
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「さばいてはいけません」 甲斐慎一郎 ルカの福音書6章37節 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません」(37節)。 このみことばから「さばく」ことについて考えてみましょう。 一、さばくということの意味 「さばく」ということばのギリシャ語の原語(クリノー)には、「(私的に)判断する」と、「(法廷で)審判する」という二つの意味があります。 この原語の意味から「さばくこと」には、第一に「(善悪を)判断すること」、第二に「(最終的な)判決を下すこと」の二つの意味があることがわかります。 主イエスが「さばいてはいけません」と言われたのは、どのような意味なのでしょうか。 二、不当なさばきをしてはいけません 「さばくこと」の第一の意味は、「善悪を判断すること」です。ほかの動物と違い、道徳観念と良心を持っている人間は、善悪の判断をしないで生きていくことはできません。 イエスは、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」と言われたました(ヨハネ7章24節)。このみことばを考え合わせると、「さばいてはいけません」(37節)ということばは、「不当なさばきをしてはいけません」という意味です。それは言い換えれば、「正当なさばきをしなさい」という当然の真理を教えています。 人間関係は、互いに不当なさばきをするために難しくなるのです。それでは不当なさばきとは、どのようなものでしょうか。 1.動機をさばくこと。 「裁いてはならないと言われているのは、兄弟たちの動機についてである」(A・B・シンプソン、「マタイ伝のキリスト」、75頁、いのちのことば社)。私たちは、人のことばや行動となって外側に表れていない動機や、「心の中のはかりごと」などの「隠れた事」について、勝手な詮索や臆測また想像をしてさばいてはなりません(第一コリント4章5節)。 2.証拠がないのにさばくこと。 私たちは、人のことばや行動となって外側に表れたものについても、直接相手の言い分や弁明を聞いて、確かな証拠がなければ、さばいてはなりません(ヨハネ7章51節、使徒25章16節)。 3.資格がないのにさばくこと。 証拠のある罪の事実でも私たちがそれよりも大きな罪を犯していて、その人を責める資格がなければ、さばいてはなりません(マタイ7章3~5節)。他の人をさばくことよりも、まず自分の罪を悔い改めることが必要であり、そうすれば、他の人を正当にさばくことができます。 そしてイエスは、私たちが人の動機をさばいたり、また証拠がないのにさばいたり、あるいは資格がないのにさばいたりして、人を不当にさばくなら、私たちも人から不当にさばかれることを警告されました(同7章2節)。 しかし人は、不当なさばきを禁じられると、正当なさばきをも恐れて、誤った愛や同情や寛大さを持つことがあります。それでイエスは、聖なるものを犬に与えてはならず、豚の前に真珠を投げてはならないと言われました(同7章6節)。これは、聖くて尊い神の教えや真理を故意に神にそむいて罪から離れようとしない人に与えてはならないということです。 三、人を罪に定めてはいけません 「さばくこと」の第二の意味は、「最終的な判決を下すこと」、言い換えれば、「人を罪に定めること」です。 イエスは、「人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません」と言われました(37節)。聖書は、「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます」と教えています(ヤコブ4章12節)。神こそ唯一の審判者であり、私たちは、人を罪に定めてはならないのです。 ですから「さばいてはいけません」というのは、「不当なさばきをしてはいけません」ということと、「人を罪に定めてはいけません」という二つのことを教えているのです。
2006.11.22
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「罪の許しと罪の赦し」 甲斐慎一郎 詩篇130篇3、4節 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩篇130篇3、4節)。 この言葉から「罪の許し」と「罪の赦し」について学んでみましょう。 一、罪の許しと罪の赦しの違い 「罪のゆるし」という言葉は、日本語において、「罪の許し」と「罪の赦し」という二つがあります。この言葉の意味を正しく解釈するならば、「許し」というのは、「許可すること、承認すること(permission)」であり、「赦し」というのは、「容赦すること、赦免すること(forgiveness)」で、全く異なったものです。 日本語の漢字は、「赦し」という言葉が難しいので、「許し」という言葉を代わりに用いていますが、本来は、全く違う意味の言葉ですから、混同せずに、明確に区別しなければなりません。そうしなければ、許可してはならない罪を許したり、反対に赦免しなければならない罪を赦さないという過ちに陥ってしまうことでしょう。 二、罪を許されない神のきびしさ 詩篇の著者は、「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と述べています(3節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のきびしさ」です。 神は、どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではありません。もし罪を許可するなら、神は、義なる方でも、聖なる方でもないことになります。神は、義なる方、聖なる方ですから、決して罪を許す、すなわち許可されることはないのです。 三、罪を赦される神のいつくしみ 詩篇の著者は、「しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」と述べています(4節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のいつくしみ」です。 神はどのような大きな罪でも、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免される)方です。これは神がいつくしみ深い方だからです。私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。 四、他の人に対する「罪の許し」と「罪の赦し」 神は、どのような小さな罪でも決して許されない、すなわち許可されない方ですが、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、どのような大きな罪でも赦される、すなわち赦免される方です。 ですから私たちは、他の人の罪に対して、その罪は決して許さない、すなわち許可してはなりませんが、「神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、互いに赦し合」うことが必要です(エペソ5章32節)。 しかし私たちが、これとは反対のこと、すなわち許可してはならない人の罪を許したり、赦免しなければならない人の罪を赦さなければ、神との正しい関係を持つことも、正しい人間関係を保つこともできず、過ちと混乱を避けることはできないでしょう。
2006.11.21
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「神のいつくしみときびしさ」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、11章20-23節 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(22節)。 ここでいう「いつくしみ」と「きびしさ」は、第一義的には「信仰に立つ異邦人に対する神のいつくしみ」と「不信仰なユダヤ人に対する神のきびしさ」を意味しています。 しかしここでは神の「いつくしみ」と「きびしさ」という観点から、聖書全体が教えている健全な信仰について学んでみましょう。 一、神との関係における健全な信仰 神のいつくしみは、「神の愛とあわれみ」の表れであり、神のきびしさは、「神の義と聖」の表れです。この二つの性質は別のものですが、決して矛盾するものではありません。すなわち神は、いつくしみのゆえに、きびしさを差し控えたり、反対にきびしさのゆえに、いつくしみを止めたりされるようなことはないということです。 このことを罪に対して述べるなら、次のようになります。神は、どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではありません。これは神のきびしさです。しかし神は、どのような大きな罪でも悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免される)方です。これは神のいつくしみです。 そしてこの罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神のいつくしみが一つに溶け合ったものこそ「キリストの十字架」にほかなりません。聖書には「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」と記されています(詩篇85篇10節)。また賛美歌の262番1節は、「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛の会えるところ」と歌っています。 私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。 二、自分との関係における健全な信仰 私たちは、聖書を読んだり、説教を聞いたりした時、どのようなことに恵まれたり、慰められたりするでしょうか。聖書の教えは、決して罪を許可しないきびしいものです。 しかし私たちは、神に罪を許可してくれるように求めないまでも、罪に対するきびしさを少しでも和らげるようなことに喜びと慰めを見いだすなら、私たちは根本的に大きな間違いを犯していることになります。 神からの真の祝福と慰めは、人間の側から見れば罪の悔い改めと神への信仰と服従と献身によって与えられるものです。ですから罪を軽く取り扱い、「平安がないのに、平安だ、平安だ、と言っている」(エレミヤ6章14節)のは偽りの祝福であり慰めです。 罪を許可されない「神のきびしさ」を受け入れない人は、罪を赦免される「神のいつくしみ」を受けることはできません。またこのような人は「悔い改めにふさわしい実を結」ぶ(マタイ3章8節)ことができず、何回でも同じ罪を繰り返して行うのです。 三、他の人との関係における健全な信仰 「親しき中にも礼儀あり」という諺がありますが、対人関係において大切なことは、やさしさときびしさを兼ね備えていることです。 もし私たちが「きびしさ」だけで「やさしさ」がなかったなら、初めはぎすぎすし、ついにはとげとげしくなってしまうでしょう。反対に「やさしさ」だけで「きびしさ」がなかったなら、初めは罪を許可し合う馴れ合いになり、ついには互いに罪を犯して侮るようになるでしょう。どちらにしても対人関係を損なってしまうことになるのです。 しかし私たちが罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神のいつくしみを心から信じて受け入れるなら、人の罪を許可しないきびしさと、人の罪を赦免するやさしさを兼ね備えた人になることができます。 しかしこれは、いわゆる「飴と鞭」、言い換えれば「やさしさときびしさ」をたくみに使い分けるという処世にたけることではありません。やさしさの中にきびしさがあり、きびしさの中にやさしさがあるというように、二つのものが混然と一体となっていることなのです。
2006.11.20
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「敬虔の鍛練(4) 神に満足すること」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章6~12節 敬虔の鍛練の第四番目は、神に満足することについて学んでみましょう。 パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を得る道です」と述べていますが(6節)、真の敬虔に、この満足する心というものは不可欠です。 しかしこの満足は、自己満足や無価値で低俗なものに満足することではなく、最もすばらしい神に満足することであり、これこそ敬虔の第四の意味です。 一、神に満足することの妨げ(9、10節) 神に満足することを妨げるものは、貪欲です。この貪欲という言葉は、新約聖書の原語において「人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やしたい欲望」、また「取ってはならないものまで無理に手を伸ばして取りたい欲望」という意味があります。 そして聖書は、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と教え(コロサイ3章5節)、さらに高慢と貪欲のために悪魔と悪霊になった堕落天使に対して、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたち」と記しています(ユダ6節)。 このようなことから、貪欲は、単に欲が深いということではなく、次のような意味です。 1、求めるべき対象がまちがっていること、すなわち求めてはならないものを求めることです。 2、しかもまちがった方法や不正な手段で求めること、すなわち手段を選ばないことです。 3、その結果、自らの本当のあるべき姿やおるべき所から逸脱してしまうことです。 私たちが本当に求めるべき方は、造り主なる神のみです。もし私たちが造り主の代わりに造られたものを求め、また不正な手段で求めるなら、人間は、あるべき姿から逸脱し、ありとあらゆる罪に満ちてしまうのです(ローマ一章24~32節)。 二、神に満足することの内容(13~19節) それでは、神に満足するとは、どのようなことでしょうか。 1、賜物や恵みより与え主である神に目を注ぎ、その神を喜び楽しむことです。なぜなら私たちは、神さえとらえているなら、すべてのものを持っているのと等しいからです(ローマ八章32節)。 2、神こそ唯一の主権者であることを認め、僭越にも卑屈にもならず、神の支配に身をゆだねることです。なぜなら「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くする」からです(第一サムエル2章7節)。 3、この世の不公平や矛盾に負けて、極端な行動に走らず、すべてを公平にさばかれる神に望みを置くことです。 ヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いましたが(ヨブ1章21節)、これこそ神に満足している敬虔な聖徒の姿です。 三、神に満足することの結果(11、12節) しかしある人々は、満足してしまうなら、そこに安住して、向上心がなくなるのではないかと心配するかも知れません。しかしそのような人は、この神に満足するという体験が、どれほど高いものであるのか、また現実の人間の姿がどれほど低いものであるかを知らないのです。 向上するために不満は必要です。しかし不満には二種類あります。決して満足することを知らない不満は、罪深いものですが、神に満足することを知りつつ、さらに高いところを求める不満は、きよいものです。前者は貪欲であり、後者は神への渇きです。 私たちは、神に満足することを体験する時、さらに高い、神に満足する状態のあることを知って(ピリピ4章11、12節)、ひたむきに前に向かって進むようになるのです(同3章13節)。
2006.11.19
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「敬虔の鍛練(3) 神を意識すること」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、25章 敬虔の鍛練の第三番目は、神を意識することについて学んでみましょう。 「神を意識する」とは、神がここにおられるということをはっきりと自覚することです。ですから、敬虔の第三の意味は、ただ単に神がおられるという神の存在を信じているだけでなく、その神が生きて働いておられるという事実を明白に意識し、自覚することです。 ダビデとアビガイルの姿から、神を意識することの必要と訓練と完成について考えてみましょう。 一、神を意識することの必要(1~22節) アビガイルに会うまでのダビデの姿を見てみましょう。ダビデの丁重な求めに対して、ナバルは、彼を侮辱しました。このナバルの恩知らずと非礼な態度にダビデは怒り、直ちに「めいめい自分の剣を身につけよ」と部下に命じています(13節)。 しかしこれは、あまりにも性急で思慮がない軽率な行動であるだけでなく、祈りもせず、神の導きも求めない不敬虔な態度です。 この箇所には、22節において呪いの誓いのために神の名を口に出していますが、それ以外に神の名は記されていません。ダビデは、ナバルに侮辱された腹いせに、ただ報復のみを考えて、その思いも、会話も、行動も、神を意識していなかったのです。 この時のダビデは、サウル王に追われ、恩師サムエルに死なれ、衣食にも事欠く生活をし、しかもナバルに侮辱されるという最悪の状態でした。しかしこのような時こそ、生きて働いておられる神を深く意識する敬虔さが必要です。 二、神を意識することの訓練(23~31節) これに対してアビガイルの姿は、どうでしょうか。24節より31節までのわずか8節の間に、実に「主」という言葉が7回も記されています。このことから次のような3つのことを学ぶことができます。 1.会話において神を意識する訓練 アビガイルのなにげなく話している言葉の中に何と多くの神の名が出てくることでしょうか。彼女は、(1)報復について(26節)、(2)家の繁栄について(28節)、(3)奉仕について(28節)、(4)生命について(29節)、(5)敵の生命について(29節)、(6)将来について(30節)、(7)幸福について(31節)、ことごとく神に触れており、神と切り離して考えられない会話をしています。 2.行動において神を意識する訓練 しかしアビガイルは、単に会話や言葉において神を意識していただけでなく、その行動においても神を意識していました。実に彼女の行動は、すべての中に神がおられ、すべての出来事や人間関係の中に常に神が介入し、干渉し、働いておられることを信じていたことを表しています。 3.心と思いにおいて神を意識する訓練 アビガイルがこのように、会話においても、行動においても、神を意識していたのは、その心と思いにおいて神を意識していたからにほかなりません。このようなアビガイルの敬虔さによって、ダビデも敬虔さを取り戻したのです(32~39節)。 三、神を意識することの完成(23~44節) 神がともにおられることを意識する敬虔さは、訓練を重ねるうちに次のようになっていくのです。 1.その心と思いは、当然のこととして、常に神が生きて働いておられることを意識するようになります。 2.その言葉は、ごく自然に、すべてを支配しておられる神を中心としたものとなります。 3.その行動は、自己のわざではなく、摂理によって神に導かれるようになります。 私たちの心と思い、言葉、そして行動は、どうでしょうか。
2006.11.18
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「敬虔の鍛練(2) 神に傾倒すること」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、2~3章 敬虔の鍛練の第二番目は、神に傾倒することについて学んでみましょう。 「傾倒する」とは、「心を寄せて慕う」という意味です。ですから敬虔の第二番目の意味は、神を愛するあまり、ほかのものには目も暮れず、ただ神のみに心を向けることです。それは具体的には、次のような3つのことを教えています。 一、世と分離すること(2章20~23節、3章5~9節) この箇所には、「死んで」とか「離れて」、また「殺してしまいなさい」とか「捨ててしまいなさい」という言葉が出てきます。神に傾倒するために必要な第一のことは、神に敵対している世から分離することです(ヤコブ4章4節)。それは、具体的には次のような3つのことです。 1.汚れたものに近づかないこと(第二コリント6章17節)。 聖書は、「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか」と教えています(箴言6章27、28節)。 2.誘惑を拒否すること(マタイ4章10節)。 しかしこちらほうから汚れたところに近づかなくても、誘惑は向こうのほうからやって来ます。その時、私たちは毅然たる態度で、その誘惑を拒否しなければなりません。 3.心の中の罪を捨てること(3章8節)。 さらにもう一つの危険があります。それは、心の中の罪です。これは、きよめられなければなりませんが、そのためには、私たちがキリストとともに十字架につけられて、自我に死ぬことが必要です(2章20節、ガラテヤ2章20節)。 二、神を渇望すること(3章1~4節) ここには、「上にあるものを求めなさい」とか「天にあるものを思いなさい」と記されています。神に傾倒するために必要な第二のことは、文字通り神を慕い求めることです。 1.私たちは、自らを夢中にさせてくれるものを持っているでしょうか。何をしても、面白くなくて、夢中になるものが一つもない人は不幸です。なぜなら、その人は、ほんとうの生きる喜びを知らないからです。 2.しかし私たちを夢中にさせてくれるものは、ほんとうに価値のあるものでしょうか。それとも一時的で、無価値な、または罪深いものでしょうか。その区別は、私たちがそれに夢中になればなるほど、良い人になっていくか、それとも悪い人になっていくかによって分かるのです。 3.私たちに、ほんとうの満足と生きる喜びを与え、私たちをすべてのうるわしい品性と徳とを身に着けた者にする方は、神のみです。私たちは、世と分離すればするほどこの神を慕い求めるようになるのです。 三、全人格が純化されること(3章10~17節) しかし世と分離し、ただ神のみを慕い求めるなら、世の仕事や日常の雑事は、やめなければならないのでしょうか。決してそうではありません。「きよい人々には、すべてのものがきよいのです」とあるように(テトス1章15節)、世と分離し、神を慕い求める人は、思いと言葉と行動のすべてが神に統一されて純化されるので、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現す」ようになります(第一コリント10章31節)。 いにしえの聖徒ブラザー・ローレンスは、「もし神の愛のためであるなら、一本のわらさえも喜んで地面から拾い上げたでしょう」、「台所の騒がしい中にも私は、聖餐式に座している時と同じような静けさの中に神を所有しています」と言いましたが、これこそ全人格が純化された状態です。 私たちは、心から神を慕い求めているでしょうか。
2006.11.17
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「敬虔の鍛練(1) 神を恐れること」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章24~33節 使徒パウロは、若い伝道者テモテに「敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」と勧告しています(第一テモテ4章7、8節)。 敬虔とは何でしょうか。また敬虔を鍛練するには、どうすればよいのでしょうか。このことに関して、次のような4つの観点から考えてみましょう。◇敬虔の鍛練(1)……神を恐れること。◇敬虔の鍛練(2)……神に傾倒すること。◇敬虔の鍛練(3)……神を意識すること。◇敬虔の鍛練(4)……神に満足すること。 敬虔の鍛練の第一番目は、神を恐れることについて学んでみましょう。 一、信仰と敬虔について 信仰と敬虔の違いは、何でしょうか。また信仰と敬虔とは、どのような関係にあるのでしょうか。 キリスト者の生活は、神と救い主イエス・キリストを信じることから始まり、信仰は、キリスト者生活の土台です。これに対して敬虔は、この信仰に確信が伴い、不動のものとなって、信仰者の身につき、信仰の実を結んでいる状態のことです。 しかしこの敬虔は、一朝一夕にして身につくものではありません。それは、個人生活をはじめ、教会生活、家庭生活、そして社会生活のすべてにおいて信仰が鍛練されることによってのみ可能です。信仰と敬虔の関係をまとめるならば、次のようになります。1.信仰――まず信じることから始まります。2.確信――次に確信が伴います。3.敬虔――そして信仰の実を結ぶのです。 しかしこのためには鍛練が必要です。 二、敬虔と恐れについて 敬虔の第一の意味は、神を恐れることですが、これには、次に記すような3つのことを含んでいます。 1.神を恐れること――この世には、恐ろしいものが数多くありますが、神ほど恐ろしい方はおられません。ですから、これは文字通り、「たましいもからだも、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼすことのできる方を恐れ」ることです(28節)。 2.神を敬うこと――しかし神は、私たちの「頭の毛さえも、みな数えられてい」る全知の方であり(30節)、悪も善もすべて公平にさばかれる聖と義に満ちた方です(26節)。ですから神は、最も敬うべきお方です。 3.神を愛すること――神は、私たちを絶えず守り、「雀の一羽でも……父のお許しなしには地に落ちること」はないと言われた愛に満ちた方です(29節)。ですから私たちは、この神の愛に応えていかなければなりません。 「神を恐れるとは、神が私たちを傷つけるのではないかと恐れることではなく、私たちが神を傷つけるのではないかと恐れること」であり(G・C・モルガン)、それは神を敬い、愛することにほかなりません。 三、不敬虔と恐れについて しかし人間は、神を恐れなければ、ほかの様々なものを恐れるようになりますが、その代表的なものは、次の3つです。 1.人を恐れること――もし私たちが神の目よりも、人の目のほうが気になり、人の前における体裁や面目ばかりに心を奪われるなら、人を恐れている証拠です。 2.現実(苦難)を恐れること――もし私たちが厳しい現実や苦難に文句をつけるだけで、少しもそれを乗り越えようとしなければ、現実や苦難を恐れているのです。 3.死を恐れること――聖書は、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となってい」るのが人間であるとという厳粛な事実を教えています(ヘブル2章15節)。 不敬虔とは、神を恐れず、その代わりに人や現実(苦難)や死を恐れることです。 私たちは、日々、何を恐れて歩んでいるでしょうか。
2006.11.16
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「敬虔の鍛練(序) 敬虔の意味」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、4章6~16節 「敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」(7、8節)。 「敬虔の鍛練」について、聖書から学んでみましょう。 一、敬虔の意味について 日本語で一般に「敬虔」と訳されていることばが英語には3つほどあります。それは「デボーション(devotion)」と「ゴッドリィネス(godliness)」と「パイエティー(piety)」です。それぞれを聖書が教える信仰という観点から解釈すれば、デボーションは「神への傾倒や献身」、ゴッドリィネスは「神がともにおられるという意識」、パイエティーは、「神への畏敬」ということができます。 「敬虔」は、私たちの「神に対する意図や動機」という面から見るなら、「神への傾倒」であり、また私たちの「神に対する意識や自覚」という面から見るなら、「神がともにおられるという意識」であり、さらに私たちの「神に対する態度や在り方」という面から見るなら、「神への畏敬」です。 1.神への傾倒――意図や動機の面。 ◇第一は、神と富とに仕える二心ではなく(マタイ6章24節)、神だけを求める澄んだ目、すなわち意図の純潔です(同6章22節)。 ◇第二は、専念すること(13節)、すなわち心を神に集中させることです。 ◇第三は、何事をするにも神の栄光を現す(第一コリント10章31節)という一つの目的や使命に生きることです。 2.神がともにおられるという意識――意識や自覚の面。 西洋の諺に「キリストは、この家の見えざる賓客(まろうど)、すべての会話の静かなる聞き手なり」ということばがあります。 ◇第一は、家の中では、見えざる賓客(まろうど)、また外においては、見えざる同行者(ルカ24章15節)である神をいつも意識して物事を考え、行動することです。 ◇第二は、私たちのすべての会話を聞いておられる神を意識して慎み深く語ることです(詩篇141篇3節)。 ◇第三は、隣人の中におられる神に仕えることです。私たちは、自分の心の中に住んでおられる神を自覚するだけでなく、隣人の中に住んでおられる神をも認めて、その隣人を通して神に仕えることが必要です(マタイ25章40節)。 3.神への畏敬――態度や在り方の面。 聖書は、神とキリスト者の関係について、3つのたとえを用いています。それは主人としもべ、父と子、夫と妻の関係です(マラキ1章6節、ルカ17章10節、ローマ8章15節、ホセア2章16節、エペソ5章31、32節)。私たちは、神を主人として恐れ、神を父として敬い、神を夫として愛するのです。 二、敬虔の土台(基礎)について このような真の敬虔は、まず悔い改めと信仰によって新しく生まれ、次に全き献身と信仰によってきよめられることによって、はじめて可能となるのです。 三、敬虔の鍛練について この敬虔は、祈りと聖書の学びと奉仕という全分野にわたるもので、この3つに均衡がとれていることが必要です。私たちは、この敬虔を体験するだけでなく、それが身について日々成長していくためには、鍛練しなければなりません。何事においてもそうですが、敬虔についても、鍛練するためには次のような3つのことが必要ではないでしょうか。1.反復すること――「あくまで……続けなさい」(16節)。2.苦心すること――「苦心しているのです」(10節)。3.挑戦すること――「模範になりなさい」(12節)。 私たちは、同じことを何回も繰り返さなければ、決して身につきませんし、また苦心することや挑戦することもないでしょう。私たちは、反復する中で苦心し、さらに高い所に挑戦していくのです。実に挑戦は、苦心の賜物であり、苦心は反復の賜物です。そしてこの敬虔の鍛練こそ、今のいのちと未来のいのちが約束されており、すべてに有益なのです。 敬虔の鍛錬について次回から4回に分けて学びます。
2006.11.15
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「満足することと追求すること」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章3~12節 この「テモテへの手紙、第一」の6章6~11節には対照的なことばが2回記されています。一つは、「満ち足りる」(6節)または「満足す」る(8節)ということばであり、もう一つは、「追い求め」る(10節)または「熱心に求め」る(11節)ということばです。 「満足」と「追求」とは、全く正反対の意味を持っています。満足するということは、これ以上追求しないことであり、追求するということは、もうこれでよいと満足しないことです。この2つのことは、キリスト者の生涯に欠くことができないものです。 それでこの満足することと追求することという観点から、キリスト者の成長の秘訣について学んでみましょう。 一、追求することについて このことに関しては、消極的な面と積極的な面があります。 1.消極的な面について。 これは、「こうであってはならない」とか「まだまだ不十分である」と言って現在の状態に決して満足しないことです。私たちは、人間としてもキリスト者としても良いものを追求することは成長するために不可欠であり、適当なところで満足したり、腰を下ろしたりしてはならないのです。 2.積極的な面について。 これは、「こうでなければならない」とか「こうすべきである」と言って高い目標を目指して励むことです。私たちは、現在の状態に満足しないだけでなく、高い理想に向かって限りなく前進していかなければなりません。 このことを実際の信仰生活に関して述べるなら、次のようになるでしょう。すなわち小さい罪も怠慢も、また低いところに留まることも決して許してはならず、かえって、「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に追い求め」(11節)るとともに、「永遠のいのちを獲得」することです(12節)。 二、満足することについて このことに関しても消極的な面と積極的な面とがあります。 1.消極的な面について。 これは、今与えられている神の恵みや祝福を認めるだけでなく、それを新しく見いだして感謝することです。主がパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である」(第二コリント12章9節)と言われたのは、このことではないでしょうか。 2.積極的な面について。 これは、今与えられていなくても将来において受けることを信じて喜ぶことです。「これらの人々はみな……約束のものを手にいれることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え」(ヘブル11章13節)とあるのは、まさにこれです。 このことを実際の信仰生活に関して述べるなら、次のようになるでしょう。すなわち「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4章11、12節)というパウロの告白こそ、すべてを表しています。 三、その識別と調和について このことに関しては一つだけ、その指針を述べてみましょう。 1.不満足に思って追求すべきこと。 これは、自分自身の姿に関するものです。言い換えれば、私たち自身の意志や努力によって向上することができるものに関しては決して満足してはなりません。 2.満足すべきこと。 これは、神の働きや賜物に関するものです。言い換えれば、神の意志によって決められたもので、人間の意志の及ばないものに関しては満足しなければなりません。 この二つのことは、互いに補い合うものです。もし私たちが追求ばかりして満足することを知らなかったなら、倦み疲れてしまうだけでなく、不平と不満とつぶやきの罪に陥ってしまうことでしょう。しかし満足することを学ぶなら、神の恵みと祝福に満たされるだけでなく、さらに良いものを追求する意欲も湧いてくるのです。
2006.11.14
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「心の試験」 甲斐慎一郎 箴言27章21節 「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる」(箴言27章21節) 人間にとって最も大切なことは神を知ることですが、そのためには自分がどのような人間であるかをよく知らなければなりません。なぜなら私たちが、ほんとうに自分の姿を知るなら、必ず神とその救いを求めるからです。またその結果、多くの罪や過ちから救われて、神にさばかれることもないからです。パウロは、「もし私たちが自分をさばく(文語訳、自らおのれをわきまえる)なら、さばかれることはありません」と、暗示深いことを述べています(第一コリント11章31節)。 そこで自分の「心の試験」について、その方法と結果と対策について考えてみましょう。 一、試験の方法について 私たちの神の前における心の状態を教えてくれる物差しは、他人の称賛です。この他人の称賛ほど、私たちの心を正確に核心を突いて、しかも手っ取り早く教えてくれるものはないでしょう。これには4つの面があります。 1.文字どおりに、自分が他人に誉められることによってどうなるかということです。 2.その反対に、自分が他人に誉められず、無視されたり、けなされたりすることによってどうなるかということです。 3.立場を逆にして、他人が誉められることによって自分がどうなるかということです。 4.その反対に、他人が誉められず、無視されたり、けなされたりすることによって自分がどうなるかということです。 この4つが心を試験する方法です。 二、試験の結果について 自分が誉められた時、得意になって人を見下げるのは高慢な人です。このような人は、反対に誉められずに無視されたり、けなされたりすると、打ちのめされて、卑屈になったり、ひねくれたりします。しかし謙虚な人は、自分が誉められても得意にならず、神に栄光を帰して(詩篇115篇1節、第一コリント4章7節)、自分のことは忘れます。また反対に自分が誉められず、無視されたり、けなされたりしても、打ちのめされて、卑屈になったり、ひねくれたりしないのです。 他人が誉められた時、ともに喜ぶことができないのは嫉妬深い人です。このような人は、反対に他人が誉められずに無視されたり、けなされたりすると、ひそかに喜び、冷淡になります。しかし愛の人は、他人が誉められると、ともに喜び、反対に他人が誉められずに無視されたり、けなされたりすると、ともに悲しむのです(ローマ12章15節)。 人は、神に対する敬虔さを失うと、嫉妬と高慢の罪に陥ります。パウロは「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」と述べていますが(第一コリント13章4節)、人間関係の問題は、ほとんどこの嫉妬と高慢の罪が原因であると言っても過言ではありません。私たちが、ほんとうに罪からきよめられ、愛に満たされているかどうかは、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむことができるかどうかによってわかるのです。 三、試験の対策について パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12章15節)と述べていますが、これこそ真の愛です。また「愛の章」と呼ばれているコリント人への第一の手紙の13章において、この愛がなかったなら、どのような素晴らしいことばも騒音に過ぎず(1節)、どのような素晴らしい賜物や知識や信仰も全く価値がなく(2節)、どのようなすばらしい行為も何の役にも立たないと教えています(3節)。 この愛は、生まれながらの人間は誰も持っていません(第一コリント2章14節)。パウロが「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章5節)と述べているように、キリストの十字架による救いを信じ、聖霊を与えられた人だけに与えられるのです。
2006.11.13
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「慣れの功罪」 甲斐慎一郎 ペテロへの手紙、第二、1~3章 「ペテロの手紙、第一」が苦難と迫害の中にある信仰者を慰め励ますために書かれたものであるのに対して、この「ペテロの手紙、第二」は、にせ教師とその誤った教えの危険にさらされている信仰者を警戒し、矯正するために書かれたものです。 ペテロは、この手紙の中で「主イエス・キリストを知る」(1章2、3、8節、2章20節、3章18節)ということばと「思い起こす」(1章12、13、15節、三章1、2節)ということばを多く用いています。 このことから慣れの功罪、すなわち慣れることの良いところ(功績)と悪いところ(罪過)について考えてみましょう。 一、慣れの良いところ(功績)について 「慣れ」ということばの良い意味は、「熟練する」とか「身につく」ということです。良い習慣を身につけるということは、何事においても大切なことです。特に信仰に関すること、すなわち恵みの手段と呼ばれている聖書拝読や祈祷、また集会出席や奉仕に励むことは、計り知れない価値があります。 私たちは、恵みの手段という良い習慣を身につけることによって、にせ教師とその誤った教えのわなに陥る危険を避けることができるのです。 1.良い習慣は知識を成長させます 「偽物を見分けるのに最も良い方法は、本物を良く知ることである」ということばがありますが、私たちは、恵みの手段に励むことによって、ますます主イエスを知るようになり、にせ教師とその誤った教えを見破ることができるようになるのです。 2.良い習慣は感情を抑制させます 恵みの手段に励むことによって、主イエスをよく知った者は、表面的なことや目に見えることに惑わされずに(3章4節)、神の教えてくださる真理を正しく見抜くことができるのです(3章5~7節)。 3.良い習慣は意志を訓練させます 恵みの手段に励むことは、弱い意志が強くされて罪を犯さないようになるだけでなく、にせ教師がいざなう罪の誘惑から私たちを守るのです(2章14節)。 二、慣れの悪いところ(罪過)について 「慣れ」という言葉の悪い意味は、「無感覚になる」とか「形式的になる」ということです。信仰生活がこのような意味において慣れることは禁物です。それでペテロは、「思い起こす」ことを勧めているのです。 1.救いの恵みを思い起こす(1章) この世においてキリストの救いにあずかることほどすばらしいことはありません。それは、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」ことだからです(4節)。この救いは、神の霊感を受けた聖書を土台とし(21節)、「うまく考え出した作り話に従ったのでは」ない(16節)ことを思い起こして、ますます「召されたことと選ばれたこととを確かなものとしな」ければなりません(10節)。 2.罪の恐ろしさを思い起こす(2章) この世において罪ほど恐ろしいものはありません。ここには罪の恐ろしさがよく描かれています。◇誤った教えの恐ろしさ(1、2節)。◇罪深い心の恐ろしさ(10節)。◇罪深い行為の恐ろしさ(12~22節)。◇罪の刑罰の恐ろしさ(3~9、17節)。 私たちは、これらのことを思い起こして日に日に罪に対して敏感にならなければなりません。 3.神の偉大さを思い起こす(3章) この世において神ほど偉大な方はおられません。ここには約束を絶対に守る神の真実さと、忍耐に忍耐を重ねて待っておられる神の愛の偉大さが記されています。私たちが真実でなくても、神は真実であり(第二テモテ2章13節)、人間ならば、到底忍んでくれないような者をも愛のゆえに忍耐してくださる神の偉大さを日に日に思い起こさなければならないのです。 私たちは、神の恵みに慣れることなく、「イエス・キリストの恵みと知識において成長し」(第二ペテロ3章18節)、「内なる人は日々新たにされて」いるでしょうか(第二コリント4章16節)。
2006.11.12
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「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙12章1~14節 先回は、イエスを仰ぎ見ることを妨げる「自分と他の人」から目を離さず、「自分と他の人のこと」を考え、「自分と他の人」に期待し、求めることについて学びましたが、今回は、どのようなイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めるかについて考えてみましょう。 一、信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めること 神は、「万物の創造者」また「万物の創始者」です。さらに「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下」ります(ヤコブ1章17節)。そして神は、私たちの「うちに良い働きを始められた方」です(ピリピ1章6節)。 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1節)。神は、御子イエスによって私たちに語られたということを信じるのが信仰であり、イエスは、私たちが信仰を持つことができるようにしてくださる「信仰の創始者」(2節)です。 私たちは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負」う(第一ペテロ2章24節)ために生まれてくださった信仰の創始者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 二、信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めること ヘブル人への手紙の12章2節の日本聖書協会の口語訳は、イエスは「信仰の導き手」であると訳されています。神は、良い働きを始められた方で、信仰の創始者ですが、完成するまでには、アブラハムとサラのように、「さまざまの試練の中で、悲しまなければなら」ず、「信仰の試練」を受けます(第一ペテロ1章6、7節)。 このように信仰は、紆余曲折をへて完成していくのですが、イエスは、信仰の試練を受けている私たちの「信仰がなくならないように」祈ってくださる方であり(ルカ22章32節)、私たちの信仰を正しく導いてくださる「信仰の導き手」(2節、口語訳)です。 私たちは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍」ばれた(2節)信仰の導き手であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。 三、信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、求めること 神は、天と地を「完成された」方で(創世記2章1節)、「終わりの事を初めから告げ……望む事をすべて成し遂げる」と仰せられる(イザヤ46章10節)「万物の完成者」です。そして、私たちの「うちに良い働きを始められた」ことを「完成させてくださる」方です(ピリピ1章6節)。 神は、さまざまな信仰の試練を受けている私たちを正しく導いて、私たちが終わりの日に「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と、神からお誉めのことばを受けるまで、私たちの信仰を完成してくださる「信仰の完成者」です(2節)。 私たちは、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」た(ヘブル1章3節、12章2節)信仰の完成者であるイエスから目を離さず、そのイエスのことを考え、そのイエスに期待し、祈り求めて、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)。
2006.11.11
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「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 エーリヒ・ザウァーは、「失望したければ他人を見なさい。落胆したければ自分自身を見なさい。しかし勇気を得、勝利を味わいたいと思うなら、イエス・キリストを仰ぎ見なさい」と述べています(エーリヒ・ザウァー著、栄冠をめざして、21頁、クリスチャン文書伝道団)。そこでイエスを仰ぎ見ることの意味について学んでみましょう。 一、イエスから目を離さないこと(2節) 人間は誰でも欠点や悪いところを持っています。もし私たちが他の人の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、他人につまずいてしまうでしょう。また自分の欠点や悪いところばかりをいつも見ていて、目を離そうとしなければ、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に目を離さないで見るのではなく、すばらしいイエスから目を離さないことこそイエスを仰ぎ見ることの第一の意味です。 二、イエスのことを考えること(3節) 人間というものは、他の人の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して色々と考え始めるため、その人の小さな欠点や悪いところも、だんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭や心がそのことで一杯になり、他人につまずいてしまうでしょう。 また自分の欠点や悪いところから目を離さないで見ていると、そのことに関して深く考え始めるため、初めは小さな欠点や悪いところもだんだん大きく見えてきて、ついには私たちの頭と心がそのことで一杯になり、自分に落胆するのも当然ではないでしょうか。 私たちが他の人と自分の欠点や悪いところを一生懸命に考えているのではなく、すばらしいイエスのことを深く考えることこそイエスを仰ぎ見ることの第二の意味です。 三、イエスに期待し、求めること(14節) 人間というものは、他の人の欠点や悪いところを深く考えているうちに、今度はその人に改めるように期待したり要求したりするものです。そしてその人がこの期待や要求にすぐ応えなかったり、この期待や要求そのものが過剰であったり、身勝手さがあったりすると、不平や不満やつぶやきになり、さらに非難や中傷に発展し、つまずいてしまうのです。 私たちが自分の欠点や悪いところを棚上げして、他人にばかり改めるように期待したり、要求したりするのではなく、他の人と自分の欠点や悪いところが取り除かれるようにイエスに期待し、求めることこそ、イエスを仰ぎ見ることの第三の意味です。 四、神を通して自分と他の人を見ること それでは、イエスを仰ぎ見ることは、自分や他の人のことには目をつぶっていることでしょうか。そうではありません。イエスを仰ぎ見ることは、神を通して自分と他の人を見るということです。 私たちは、神を無視して他の人を見る時、もしその人が自分よりも優れているなら、嫉妬するでしょうし、劣っているならば卑下するでしょう。また神を無視して自分を見る時、もし自分の思い通りにすべての物事が運ぶなら高ぶるでしょうし、何もかもうまく行かなければ落胆するでしょう。 私たちは、他の人を見る時、1.私たちの姿を教えるための「鏡」(箴言27章21節)、2.私たちを懲らしめ、造るための「砥石」(同27章17節)、3.私たちが神に仕えるための「相手」(マタイ25章40、45節)4.私たちが福音を宣べ伝えるべき「キリストが代わりに死んでく ださったほどの人」(ローマ14章15節)として見ることが必 要です。、 私たちは、自分を見る時、1.「神に愛されている私」(イザヤ43章4節)2.「神の恵みによって救われている私」(第一コリント15章10 節)、3.「神のご計画に従って召された私」(ローマ8章28節)4.「神の作品である私」(エペソ2章10節)を見ることが必要で す。 このように神を通して他の人と自分を見る時、失望したり、落胆したりすることなく、勇気と勝利をもって歩むことができるのです。
2006.11.10
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「信仰の競走」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙12章1~11節 聖書は信仰生活を競走にたとえています(第一コリント9章24~26節)。この箇所もその一つです。競走ですから、出発点(スタート)があり、競走路(コース)があり、決勝点(ゴール)があり、規定(ルール)があり、多くの観衆(証人)が応援しています(1節)。 信仰生活の出発点は救いです。競走路は、私たちの日常生活、教会生活、伝道や奉仕の生活です。決勝点は天の御国であり、栄化です(ピリピ3章14、20、21節)。「規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(第二テモテ2章5節)。信仰生活の規定は何でしょうか。この12章1、2節に4つの規定が記されています。 一、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる(1節) 走る時に必要なことは、身軽になることです。私たちは、思い煩いという重荷を捨てなければなりません。ある人々は、心配には、「頭の心配」と「心の心配」があると教えています。「頭の心配」は、知性による心配りで、良いことですが、「心の心配」は、不信仰による思い煩いで、悪いことです。ジョン・ウェスレーは、不信仰による思い煩いとは、「明日来るかもしれないものについての恐怖によって、今日の祝福を毒する心配」、また「未来についての心配を、現在の義務を等閑に付するための口実にすること」であると述べています(ウェスレー著作集、第四巻、説教、中、204、213頁、新教出版社)。そして重荷の中の最大のものは罪です。 私たちはすべての重荷を解決しているでしょうか。まつわりつく罪とは、しつこくからみついて、なかなかとれない罪の意味で、罪の性質を表しています。私たちは、罪の性質から全くきよめられているでしょうか。この罪の行為と罪の性質を解決しなければ、重くなり、またからまりついて、身動きがとれなくなり、身軽に走ることはできません。罪が赦され、罪がきよめられることこそ身軽に走る秘訣です。 二、忍耐をもって(1節) ヘブル人への手紙の10章35~39節には、信仰と忍耐とがほとんど同じ意味で用いられています(39節とルカ21章19節を参照)。真の信仰は、必ず忍耐を伴うもので、信仰がなければ、忍耐することはできません。どんなに苦しくても「もうだめだ」と言って、さじを投げないのが信仰であり、忍耐です。 そしてこの忍耐は、懲らしめのためであり(7節)、懲らしめは、聖さにあずかるためにあります(10節)。もし私たちが忍耐を放棄するなら、懲らしめを退け、聖さにあずかることを拒むことになるのです。 三、私たちの前に置かれている競走(1節) 私たちは、右と左に白線のある自分の競走路を走らなければなりません。他の人の競走路に入ったり、他の人を自分の競走路に引っ張り込むなら、失格してしまいます。また左右に白線のないところを走っても失格してしまいます。私たちは、隣人と正しい関係を保ちながら、摂理の細道を走らなければ、脱落者になってしまうのです。 四、イエスを仰ぎ見ること(2節) この競走は、障害物競走です。困難の山、苦難のトンネル、悲哀の谷、誘惑という迷路があります。この障害物競走を完走するための秘訣は、次のような3つのことです。 1.イエスから目を離さないことです。 私たちは、イエスから目を離してはなりません。なぜならイエスこそ信仰の創始者であり、完成者であるからです(2節)。 2.イエスのことを深く考えることです。 しかし何も考えずに走るなら、イエスから目を離してしまうので、ご自分の前に置かれた喜びにゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたすばらしいイエスのことを深く考えなければなりません(2、3節、3章1節)。 3.イエスに期待することです。 私たちが障害物競走を走らなければならないのは、主が私たちを愛する子として扱い、私たちを懲らしめ、訓練して、私たちの益のため、また私たちをご自分の聖さにあずからせため、そして平安な義の実を結ばせるためであることを知って(7、10、11節)、イエスに期待することです。
2006.11.09
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「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙3章14~21節 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(18、19節)。 このみことばから神の愛の広さ、長さ、高さ、深さについて学んでみましょう。 一、神の愛の広さ 広さの反対は狭さや狭量さですが、広さには2つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手が好ましい姿でも、嫌悪すべき姿でも、どのような状態でも、どんな時でも人を愛されます。箴言には「友はどんなときにも愛するものだ」と記されています(17章17節)。これが第一の神の愛の広さです。 神は、義人でも罪人でも、聖なる人でも汚れた人でも、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人を愛されます(マタイ5章45節、ホセア11章8、9)。これが第二の神の愛の広さです。 この神の愛の広さに対して私たちの愛は、何と狭いことでしょうか。 二、神の愛の長さ 長さの反対は短さや短気ですが、長さにも2つの意味があるのではないでしょうか。 神は、人がご自分に逆らって楯突いた時も、堪忍袋の緒が切れて、愛することを途中で止めることなく、どこまでも忍耐深く私たちを愛されます(第二ペテロ3章9節)。これが第一の神の愛の長さです。 神は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31章3節 )とあるように私たちを永遠に愛されます。これが第二の神の愛の長さです。 この神の愛の長さに対して私たちの愛は、何と短いことでしょうか。 三、神の愛の高さ 高さの反対は低さや低俗ですが、高さにも2つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手がどのような状態の時でも、どんな時でも、どのような罪人をも愛されますが、悪と妥協する低俗な愛ではなく、人を罪から救い、正しく聖い人とするために、ご自分のいのちを捨てるほど、その愛は高潔で、高尚です(ヨハネ3章16節)。これが第一の神の愛の高さです。 神は、罪のためにどん底に落ち込んでいた人をも愛し、天の御国に引き上げてくださいます(ローマ5章20節)これが第二の神の愛の高さです。 この神の愛の高さに対して私たちの愛は、何と低いことでしょうか。 四、神の愛の深さ 深さの反対は浅さや浅薄さですが、深さにも2つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手のうわべや目先の姿だけでなく、心の奥底までご覧になり、先のことまで深く考える深謀遠慮の愛をもって私たちを愛されます(ローマ8章28節)。これが第一の神の愛の深さです。 神は、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5章20節 )とあるように、どんなに罪深い者をも愛して救われます。これが第二の神の愛の深さです。 この神の愛の深さに対して私たちの愛は、何と浅いことでしょうか。 五、聖霊によって与えられる神の愛 この神の愛の広さ、長さ、高さ、深さが余すところなく現されたのがキリストの十字架です。私たちを罪から救うために、人に捨てられ、ご自分を捨てられ、神に捨てられたキリストを仰ぐ時、私たちは、神の愛がどれほど広く、長く、高く、深いものであるかを理解することができます。 しかし生まれながらの人間は、この神の愛を知らず、狭く、短く、低く、浅い愛しか持っていません。私たちは、自分の愛がどれほど狭く、短く、低く、浅いものであるかを認め、心から悔い改め、信仰によってキリストが私たちの心のうちに住んでくださる時(17節)、「私たちに与えられた聖霊によって」、広く、長く、高く、深い「神の愛が私たちの心に注がれ」るのです(ローマ5章5節)。
2006.11.08
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「すべてのことを働かせて益としてくださる神」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙8章28節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(28節)。 このみことばから3つのことを学んでみましょう。 一、神のご計画に従って召された人々 聖書は、すべての人は、罪過と罪との中に死んでいた者で、「この世の流れ」と「悪魔の霊」と「肉の欲」に従って生き、この世にあって望みもなく、神もない人ですが、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださった、と教えています(エペソ2章1~5、12節)。これが神の与えてくださる救いです。 しかし罪過の中に死んでいた私たちがイエス・キリストの贖いを信じて救われたのは、私たちから出たことではなく、「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」た神のご計画によるものです(同1章4節)。すなわちイエス・キリストの贖いを信じて救われた者はだれでも、「神のご計画に従って召された人々」なのです(28節)。 二、すべてのことを働かせて益としてくださる神 ヨセフは、兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが」と言いました(創世記50章20節)。 1.ヨセフは、父に特別に愛されていたので、兄たちに憎まれました(同37章4節)。 2.ヨセフは、夢の話をしたので、兄たちにねたまれました(同37章11節)。 3.ヨセフは、兄たちのたくらみによって殺されそうになりました(同37章18節)。 4.ヨセフは、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かりましたが、エジプトに奴隷として売られました(同37章28節)。 5.ヨセフは、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられました(同39章20節)。 6.ヨセフは、献酌官長の忘恩によって、2年間も忘れられました(同40章23節)。 5番目と6番目は、直接的には兄たちの計略ではありませんが、彼らがヨセフをエジプトに売らなければ、このようなこともなかったはずです。 そしてヨセフは、「神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」と言いました(同50章20節)。 ヨセフが兄たちに憎まれてエジプトに売られたのも、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられたのも、献酌官長の忘恩によって2年間も忘れられたのも、彼がエジプトの統治者となって人々のいのちを救うためでした(同45章5、8節)。神がすべてのことを働かせて益としてくださったのです。 「あなたが苦しみに会っても落胆しない秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神をとらえていれば、すべてを失ったとしても、実際は何も失っていないのです。というのは、あなたに神がついていてくだされば、すべてのものがあるということなのです。神はあなたが失ったすべてのものを倍にして返そうとしておられます。一番恐るべきことは、すべてのものを持っていて、神をとらえていないことです。神がいないなら、あなたの持つすべてのものも零に等しいのです」(テモテ・ザオ著、ヨブ記講解『わざわいをも』、21頁、キリスト新聞社)。 三、神に召された人々のなすべきこと 神のご計画に従って召された私たちのなすべきことは、次のような4つのことです。◇神のことばによって示された罪を悔い改めて神に立ち返ることで す(神への悔い改め)。 ◇神のことばを信じて立ち上がることです(神への信仰)。◇神のことばに従うことです(神への服従)。 ◇神のことばに従って神にすべてをささげ、お任せすることです (神への献身)。 私たちが神に対してこの4つのことをする時、「神は、みこころのままに」、私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。
2006.11.07
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「愛の計画性」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙8章28節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名なみことばから「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は、「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るということばが2回(5、11節)、また「ご計画」ということばが2回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むと、神の愛は、その計画性に現れていることがわかります。 すなわち、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画されるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かるでしょう。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画性のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、ひとことで言えば、罪です。 聖書は、罪というものを偶発的なものとして記していません。人類の始祖アダムは、「善悪の知識の木」を取って食べるなら、どのような結果になるのかということを承知で罪を犯しました(創世記2章17節、第一テモテ2章14節)。民数記は、人が憎しみや悪意また敵意をもって人を死なせるなら、その人は殺人者であるが、敵意も悪意もなく、また気がつかないで人を死なせた場合は、のがれの町に逃げるように教えています(35章20~25節)。 罪は、ダビデの姦淫と殺人の出来事(第二サムエル11章)から分かるように計画的なものであり、様々なことを考え、策略をめぐらしながら承知で犯すものであることを教えています。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことなのです。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、このことばから私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をも、そのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛していくことができます(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画性のある愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間的な愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手の人に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、心を配ることこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。
2006.11.06
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「私たちは神の作品」 甲斐慎一郎 エレミヤ書18章1~6節 聖書は、神を陶器師に、イスラエルを粘土にたとえ(6節)、「私たちは神の作品」であると教えています(エペソ2章10節)。 一、陶器師である神 エレミヤは「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」と自分の見たことを述べ(4節)、パウロは「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないでしょうか」と記しています(ローマ9章21節)。 この2つのみことばは、神は、みこころのままにわざを行われる主権者であることを教えています。しかしこれには人間に対して無条件的なものと条件的なものがあります。 1.無条件的な神の主権――神のわざは、バラエティー(差異や相違また多種多様や変化)に富んでいます。 神は、すべてのものを無条件に違ったものとして創造されました。人間は、それぞれ能力や賜物、性格や気質、そして環境や境遇が異なっています。私たちは、互いに違っているからこそ、愛と忍耐と寛容さなどの徳を養い、相互の欠点や短所を知って、助け合うことができます。自分と異なっている人間と多く接すれば接するほど、豊かで、円熟した品性や人格が形造られます。もし自分と同じタイプの人だけと交わるならば、偏狭で、わがままな人間になってしまうことでしょう。 2.条件的な神の主権――私たちの準備が整い、条件を果たすならば、神は私たちを尊くて優れた器にお造りになります。 そのために神は決して粗製乱造されることはありません。時間をかけても、少数でも、優れた立派なものを造られます。アブラハムをはじめヨセフ、モーセ、サムエル、ダビデなど、優れた神の器が一人前になるのに何年の歳月が流れたことでしょうか。 何事も準備しなければ完成しません。準備をせずに物事を完成させようとする人は、怠慢です。物事でさえ準備しなければ完成しないのですから、その物事を行う人はなおさら準備が整うことが必要ではないでしょうか。準備のできていない人は、良い仕事はできず、役に立ちません。 私たちの一生そのものが天の御国にはいるための準備です。人間のなすべき分は準備であり、神のなさる分は完成です。私たちは、準備をし、条件を果たしさえするなら、神は私たちを尊くて優れた器に造られるのです。 二、粘土である人間 1.自分に対する心構え。 粘土である人間は、神の定められた摂理の環境や持ち場や立場を象徴する「ろくろ」の上にいなければなりません。たとえ苦しくても辛くても、神がほかのところに導かれない限り、勝手に「ろくろ」の上から降りてはなりません。もし「ろくろ」の上から降りるなら、未完成の器になってしまうのです。 2.神に対する心構え。 粘土である人間は、神に身をゆだねることが必要です。そのために神のなさることに不必要な干渉や指図をしてはなりません。神にゆだねるとは、何も思い煩わないで、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じて、現在、置かれているところにおいて心を尽くして神と人に仕えることです。 3.他の人に対する心構え。 粘土である人間は、尊くて優れた器を造ろうとされる神に協力することが大切です。神は、その人の表面や現在の姿だけを見ず、その人の本質と有用性と将来性をご覧になります。神が忍耐をもって時間をかけ、手塩にかけて優れた器を造ろうとされるところを、間にはいって粗製乱造し、神のわざを妨げるのは、いつも浅薄で性急な人間です。 私たちは、互いに陶器師ではなく粘土であることを認め、自分も神の忍耐によって何年もかかって造られていくことを覚え、ほかの人に対して性急にならず、忍耐をもって接していくことが必要なのです。 私たちは、陶器師である神によって造られた神の作品であることを知っているでしょうか。
2006.11.05
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「真の愛について(4) その正しい交際」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7-16節 先回は真の愛についての第三回目として、その正しい実践を学びました。これは信仰によって真の愛を体験した者は、どのように行動するのかということを述べたもので、どちらかと言えば原理的または個人的なものです。 これに対して今回の正しい交際は、正しい実践をさらに具体的に敷延し、真の愛を体験した者は、誰と交際するのか(その対象)、また何のために交際するのか(その目的)、そしてどのように交際するのか(その方法)ということを述べるもので、応用的または対人的なものです。 一、その対象――誰と交際するのか 私たちは「互いに愛し合いましょう」(7節)とか「互いに愛し合うべきです」(11節)などと言われると、すぐに恋愛(エロース)や情愛(ストルゲー)や友愛(フィリア)のような心が熱くなる甘い愛を想像しがちです。しかしここでヨハネが述べているのは「敵を愛し、迫害する者のために祈」る(マタイ5章44節)真の愛(アガペー)であり、情的には決して心地よいものではありません。 恋愛(エロース)や情愛(ストルゲー)や友愛(フィリア)は、その人のために心が熱くなる愛です。ですからこのような愛は、自分と共通な場を持ち、自分の好みに合った好きな人だけを愛し、それ以外の人と――社交辞令や儀礼的な会話や挨拶はできたとしても本当の意味において心から――交際することはできないのであり、結果的には人を差別する愛です。 これに対して真の愛(アガペー)は「私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9章2節)と記されているように、その人のために心を痛める愛です。ですからこの愛は、自分と共通な場が何もなく、とても好きになれない人や敵でさえも愛し、すべての人と――本当の意味において心から――交際することができるのであり、人を差別しない愛です。 二、その目的――何のために交際するのか 真の愛(アガペー)は、「兄弟のために、いのちを捨てる」(第一ヨハネ3章16節)ほど自らを与えることですから、「互いに愛し合う」とは、「互いに与え合う」ということにほかなりません。 もし私たちが神のもとに行き、神から慰めを受けるなら――神に用いられている人を通して神から慰めを受けるということもありますが――苦しみの中にいる人を慰めたり、励ましたりして、自らを与えるという真の愛の交際ができるようになります。しかし私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとするなら、自らを与えるという真の愛の交際ができなくなってしまうでしょう。 私たちの心を本当に慰めてくださるのは神だけであり、神から慰めを受けた人だけが人を慰めることができます(第二コリント1章4節)。ですから私たちは、「互いに与え合う」という真の愛の交際をするためには、まず神の前に一人になり、神から慰めを受けることが必要です。 三、その方法――どのように交際するのか 使徒パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」と述べています(第一コリント9章19、20節)。 これは、人を恐れて顔色をうかがったり、御機嫌を取ったりして、その人の言いなりになることも、その人の罪と妥協して相手に振り回されることもなく、人からは完全に自由ですが、その人をキリストに導くために自発的に人に仕えて奴隷となることです。 そのためにパウロは「あらゆることについて自制し」(同25節)、「自分のからだを打ちたたいて従わせ」ています(同27節)。「それは……ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないため」です(同27節)。 しかしこのような愛の交際は、生まれつき備わっている人間的な愛では、不可能であり、ただ信仰と聖霊によって神から与えられる真の愛(アガペー)によってのみ可能なのです。
2006.11.04
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「真の愛について(3) その正しい実践」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7-16節 先回は真の愛についての第二回目として、その正しい体験を学びました。今回は第三回目として、その正しい実践を学んでみましょう。 しかしこの真の愛の体験と実践において忘れてはならない大切なことがあります。それは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章5節)とあるように、真の愛は聖霊によるものであり、また「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3章14節)とあるように、聖霊は信仰によって与えられるということです。 ですからこれから述べる真の愛の実践は、ことばとしては世の中でも言われているような人間的な表現が多いことですが、生まれつき備わっている人間的な愛では、不可能であり、ただ信仰と聖霊によって神から与えられる真の愛(アガペー)によってのみ可能なのです。 一、真の愛の実践――内面的なこと パウロは愛の表れを14ほど挙げていますが(第一コリント13章4~7節)、その中で最も内面的なものは、「自分の利益を求めず」(同5節)ではないでしょうか。 キリストは、一番たいせつな命令は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であると言われました(マルコ12章30、31節)。 これらのみことばから、真の愛の行為を内面から述べるなら、次のようになります。 ◇我を忘れること――真の愛は、神と人のために自分の利益を顧みません。 ◇全力を尽くすこと――真の愛は、出し惜しみをせず、自分のある限りを出します。 ◇懸命にすること――真の愛は、自分のことのように何事も一生懸命にします。 二、真の愛の実践――外面的なこと 前に述べた14ほどの愛の表れの中で最も外面的なものは、「礼儀に反することをせず」(第一コリント13章5節)ではないでしょうか。 パウロは「愛は隣人に対して害を与えません」(ローマ13章10節)、また「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません」(同14章15節)と述べています。 これらのみことばから、真の愛の行為を外面から述べるなら、次のようになります。 ◇不作法をしないこと――真の愛は、隣人に対して害を与えません。 ◇礼儀正しくすること――真の愛は、敬わなければならない人を敬います。 ◇隣人に気を配ること――真の愛は、信仰の弱い人のつまずきになることをしません。 三、真の愛の実践――実際的なこと 真の愛は、聖霊によって与えられるものですが、それは必ず私たちの心(すなわち知性と感情と意志)に働きかけるものです。このことを実際的なことから述べるなら、次のようになります。 ◇気を使う(感情的な心遣い)――これは、相手がどのように感じているのかということを察して相手の気持ちを重んじることです。 ◇頭を使う(知性的な心遣い)――これは、相手が何を考えているのかということを察して相手のためになることを考えることです。 ◇体を使う(意志的な心遣い)――これは、相手が何を必要としているのかということを察して相手のためになることをすることです。 これらの3つは、三本足の三脚のように均衡を取ることが大切です。もし均衡が崩れるなら、たとえば、気を使うことのみ、または頭を使うことのみ、そして体を使うことのみで、他のことがおろそかになるなら、相手の気持ちや考えや行いを無視して、かえって相手に迷惑をかけることになるでしょう。
2006.11.03
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「真の愛について(2) その正しい体験」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7-16節 先回は真の愛についての第一回目として、その正しい理解を学びました。私たちが真の愛を求めていく時、まずそれがどのようなものであるかを知らなければならないからです。 しかし真の愛を持つためには、どうすればよいのでしょうか。そこで今回は第二回目として、その正しい体験を学んでみましょう。 一、否定的な面――真の愛は、3つの人間的な愛を拡大したものではありません 1.エロース(夫婦愛)の対象は、夫または妻という一人の異性であり、この愛を他の人に広げるなら、姦淫の罪を犯すのです(マタイ五章27、28節、箴言5章15-20節)。 2.ストルゲー(肉親愛)の対象は、肉親だけであり、この愛をすべての人に広げることは不可能です。もし私たちが、すべての人を肉親愛で愛するなら、その苦しみのために正常な精神を持つことはできないでしょう。 3.フィリア(朋友愛)の対象は、友人だけであり、この愛を自分の好みに合わず、自分と何の共通点もない他のすべての人に広げることは不可能です。 なぜなら3つの人間的な愛と真の愛(アガペー)とは根本的に異なるからです。真の愛(アガペー)は、すべての人を愛して、人を差別しない愛です。しかし3つの人間的な愛は、ある特定の人しか愛せない(または愛してはならない)愛であり、それは結果的には人を差別する愛なのです。 日本の諺に「可愛さ余って憎さが百倍」、「愛多ければ憎しみもまた多し」、「愛憎は表裏一体をなす」、「愛憎は紙一重」、「愛は憎悪の始め」とあるように、この3つの人間的な愛は、聖霊による真の愛(アガペー)を持たない限り、自分の思い通りにならないと、愛していながら同時に憎んでいるという心の状態になるのです。 二、肯定的な面――真の愛は、十字架の贖いを信じる時、聖霊によって与えられます 人間的な愛は、人に愛された経験が深ければ深いほど、深く人を愛することができます。このことは、神的な愛においても同様であり、神に愛された経験が深ければ深いほど、深く神と人を愛することができるのです。 それでは私たちは、何によって神に愛されていることを知ることができるでしょうか。それは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」という十字架の贖いです。すなわち、「それによって私たちに愛がわかったのです」(第一ヨハネ3章16節)。 私たちは、私たちの罪のためにいのちをお捨てになったキリストの十字架の贖いを信じた時、「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれている」のです(ローマ5章5節)。 そして私たちのためにいのちをお捨てになったキリストの愛がわかった時、「兄弟のために、いのちを捨てる」(第一ヨハネ3章16節)ほど、「自分の利益を求めず」(第一コリント13章5節)、神と人を愛していくことができるのです。 三、継続的な面――真の愛は、真の知識と行いによって育つものです パウロは「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり……キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり……ますように」と祈っています(ピリピ1章9、11節)。 私たちは、愛すれば愛するほど、その愛する人のことを知ろうとするだけでなく、「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そう」とするのではないでしょうか(第一ヨハネ3章18節) このようなことから私たちは、真の愛を体験するだけでなく、それを継続していくためには、次のような3つのことが必要です。◇愛の種が与えられていることを認める。◇何が最善であるかを絶えず考える。◇最善であると思ったことをすぐに行う。 このように真の愛は、真の知識と識別力によって、いよいよ豊かになるだけでなく、義の実に満たされるようになるのです。
2006.11.02
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「真の愛について(1) その正しい理解」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7-21節 聖書は「神は愛です」(16節)と教え、また多くの人々も「キリスト教は、愛の宗教である」と思っています。このこと自体は少しも間違ってはいません。しかしその内容となると、この愛ほど正しく受け取られずに誤解されているものはないでしょう。そこで真の愛について次のような4つのことを学んでみたいと思います。◇真の愛について(1)――その正しい理解◇真の愛について(2)――その正しい体験◇真の愛について(3)――その正しい実践◇真の愛について(4)――その正しい交際 新約聖書の原語であるギリシャ語には、愛と訳されることばが四つあります。 1.エロース(恋愛、夫婦愛)――これは初恋から始まり、本格的な恋愛を経て結婚し、夫婦愛となるもので、肉体的には性愛です。 2.ストルゲー(情愛、肉親愛)――これは親子、兄弟姉妹などの血縁の極めて近い者に対する愛です。 3.フィリア(友愛、朋友愛)――これは自分の好みに合い、自分と共通な場を持つ者に対する愛です。 4.アガペー(聖愛、神的愛)――これは人間が神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ尊いものであるゆえに愛する愛です。 アガペーが神的な愛であるのに対して、エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)は人間的な愛です。真の愛(アガペー)がどのようなものであるかということを、3つの人間的な愛と比較しながら考えてみましょう。 一、真の愛は、自分にではなく、相手に価値があると判断して愛するものです エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)という3つの人間的な愛は、その相手が「自分にとって価値がある」と判断して愛するものです。これは対人関係においては、互いの価値を認め合い、良いものを分かち合うことによって成り立っています。 これに対してアガペー(聖愛、神的愛)は、主がイスラエルの民に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と仰せられたように、また「キリストが代わりに死んでくださったほど」(ローマ14章15節)、「相手に価値がある」と判断して愛するものです。 二、真の愛は、感情的なものではなく、真理に基づいた知性的また意志的なものです エロースは恋愛感情、ストルゲーは肉親の情、フィリアは友情とも訳せるように、この3つの人間的な愛は、理屈を抜きにした情的または感情的なものです。ですから様々な限界があるとともに、善悪をわきまえず、アガペー(聖愛、神的な愛)によって支配されなければ、暴走したり、脱線したりする危険をはらんでいます。 これに対して真の「愛とは、御父の命令に従って歩む」(第二ヨハネ6節)ことです。それは、「神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12章2節)知性的なものであり、その神のみこころに従う意志的なものです。真の愛は感情に支配されず、何が最善であるのかを知って賢く振る舞う知恵に満ちた冷静なものです。しかしこの真の愛を感情の面から表現するなら、同胞であるイスラエル人を心から愛していたパウロが、「私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9章2節)と述べているように、その人のために心を痛める愛です。 三、真の愛は、本能的また自然的なものではなく、超自然的な神からの賜物です エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)という3つの人間的な愛は、教えられなくても生まれつき備わっている本能的なものであり、どのような人の心の中にも自然に芽生えてくるものです。 これに対して真の愛(アガペー)は、生まれながらの人間にはなく、聖霊による超自然的な賜物であり、信仰と祈りによって神から与えられるものなのです。
2006.11.01
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