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「ミッシング・リンクとオーパーツ(2)」 2015年11月30日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」 「ミッシング・リンクとオーパーツ(2)」 創世記1章21~25節 甲斐慎一郎 その指化石は、爪も皮膚も関節もそろい、どうみても明らかに人間の指である。レントゲンには骨もはっきり写る。成人女性の人差し指だろうと言われている。地元の住民が偶然、泥灰土層の中から発見した。同じ地層からは絶滅した鱗木類の化石も見つかり、まぎれもなく「白亜紀」の地層と確認されている。 この指化石の内部構造をよく確認するため、思い切って二つに切断したところ、皮膚層、肉組織、骨髄などが色相の差で識別できた。指骨は、指の付け根に近いほうが太くなっていることが判明した。 肉質のものが化石化するケースは、きわめて珍しい。だが、高圧下で瞬間的固化という現象を前提にすれば、あり得ないことではないという。実際、このチョーク・マウンテン付近一体は、昆虫の「完全」化石の産出地として、古生物学上有名なところである。 つまり、人間が存在しなかったはずの「白亜紀」地層から、人間の指の化石が出土したのである。これも、進化論を正しいと思う立場からみれば「絶対存在しないはずのもの」すなわち「オーパーツ」である。 「地層は何億年もの長い年月をかけてゆっくり堆積した」というこれまでの進化論の考えが、間違いであることを示しているのである。また「下のほうの地層は古い時代に形成され、上のほうの地層は新しい時代のものである」という進化論の考えが間違いなのだ。 地層は、実は、ゆっくり堆積したのではなく、むしろ一挙に形成された。また進化論者が「○○億年前」と言っている岩石の年代も、実際のところ、そんなに古くはないのである。 進化論にとって「場違い」な出土物の数々、たとえば、コロンビアのヴィヤ・デ・レーヴァという場所で出土した[中生代白亜紀」とされる岩石の中から、人間の片手と、右足の骨の化石が発見されている。同地域の同じ地層からはまた、アンモナイトや、恐竜などの化石も数多く出土している。さらにバナナや、パイナップル、カカオ、トウモロコシ、アボカドなど様々な栽培種の化石も見出だされている。つまり人間の化石は、かなり下のほうの地層からも発見されることがあるのである。 一方、石炭の中からも人工物が発見されている。進化論が正しいとすれば、人間が作った物が石炭中から発見されることはあり得ない。ところが石炭の中から、たとえば鉄製の容器が発見されている。1912年、米国オクラホマ鉱山で、作業員が石炭の塊を打ち割ると、その中から円形の鉄製容器が出てきたのである。それが出てきたところを、複数の作業員が目撃し、それを証言している。また割れた石炭の塊にも、その容器の形がくっきり残っていた。これは鉄製容器が、確かに石炭中に埋まっていたことの証拠だ。 またアメリカの日刊新聞ジャーナリスト、エド・コンラッド氏が所有する500キロほどの重さの石には、その表面に、化石化した人間の頭蓋骨がついている。その岩石は、進化論者の年代測定法により、「2億8000万年前」すなわち「古生代」のものと推定された。頭蓋骨は、見た目は岩石と同じようにも見えるが、調査により確かに人間の骨であり、乾いた血液も付着していることが確認された。このように人間の骨は、地層の上のほうで発見されるだけでなく、実際には、しばしばかなり下のほうでも発見されるのである。 また1926年、米国モンタナ州で、炭鉱の鉱石中に埋まっている人間の子どもの歯が発見されている。その歯は、鉱石中に完全に包み込まれていた。進化論者の用いる年代測定法によれば、その鉱石は約1000万年前のものという。また1997年、ロシアのブリヤンスク市の森林地帯で発見された大きさ20センチほどの堅い岩石の内部には「ボルト」が埋まっていた。X線でみると、他にも10個ほどの同様のボルトがその岩石中に埋まっていた。これも、岩石がボルトを完全に包み込む形であり、岩石生成の時代とボルトが使われた時代は、同一としか考えられない。モスクワ地質研究所が岩石の生成年代を調べたところ、15億年前と出た。15億年前といえば、先カンブリア時代に相当する。それは、まだ生命が誕生していなかったとされる時代だ。これも進化論を正しいと思う立場からみれば、「そこにないはずのもの」である。 (久保有政著『オーパーツと天地創造の化学』学習研究社、35~47頁、2004年)次回は2015年12月7日「降誕の意義(1)人間について」です。
2015.11.29
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「ミッシング・リンクとオーパーツ(1)」 2015年11月23日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」 「ミッシング・リンクとオーパーツ(1)」 創世記1章21~25節 甲斐慎一郎 進化論を否定するものの中で非常に重要なのは「ミッシシグ・リンク」である。もし進化論が事実なら、単細胞生物と無脊椎動物の間、無脊椎動物と脊椎動物、魚類と両生類、両生類と爬虫類、爬虫類と鳥類または哺乳類、または下等な哺乳類と霊長類などの問に、「中間型」(移行型)化石が見い出されなければならない。しかし実際のところ、いずれの間にも、そうした中間型化石は全く見出されない。「中間型」は、種と種のすべての間において「欠けている」のだ。この欠けていることを英語で「ミッシング」といい、また中間型が見出されないことを「ミッシング・リンク」(つながりが欠けていること)という。生物学者ジェフリー・シュワルツ博士は、「ミッシング・リンクは、すべて、今だにミッシングである(欠けている)。それは将来も決して発見されないだろう。なぜなら、そんなものは、もともと存在しなかったからだ」。 一方、第二のこととして、逆のことを見てみよう。この世界を調べると、実は「そこにないはずなのにある」ものが、たくさんある。進化論の立場からは「絶対にない」はずなのだが、実は[ある」。これを「オーパーツ」という。 オーパーツ(ooparts)とは、out-of-place artifactsという英語の頭文字をとったもので、「場違いの人工物」を意味する造語である。この地球上には「進化論が事実ならば絶対に存在するはずがないのに、実際にはある」というものが数多く存在する。それが「オーパーツ」である。説教要約 940 聖書の中の科学(1) また進化論では、石炭は、1000万年あるいは億年単位の長い時間をかけて形成されたものとされている。だから、石炭の中から鉄製容器等の人工物や、人間の化石が発見されることはあり得ない。しかし実際には、そうしたものがしばしば発見される。 進化論によれば、一番下の地層が最も古く、上の地層に行くにしたがって時代が新しくなる。一番下の地層が「先カンブリア時代」で、そこには生物化石はない。その上に生物化石の発見される「古生代」「中生代」「新生代」の地層が、順に堆積しているとされている。人類が現れたのは、新生代の末期とされている。一番上の地層だ。だから、その下の中生代や古生代とされる地層から、人工物が出土することはあり得ない。米国テキサス州ロンドンで発見されたこのハンマーは、その地層内の岩石内部に閉じこめられていた。 ハンマーの柄の部分は木製で、すでに化石化していた。また冶金学者のローランド・ウェーデルが、ハンマーを断層X線投影法にかけて透視したところ、外観は腐食や摩滅で凹凸があるにもかかわらず、鉄質部分の内部はきわめて均質で、明らかに高度な工業技術の産物であることがわかったという。このハンマーは、石灰岩の一部としてその中に取り込まれた形で発見された。岩はハンマーを完全に包み込んでいる。だからこのハンマーは、この岩石が形成された時代のものとしか考えられない。つまり「昔形成された岩石の中に、あとでハンマーが、たまたま何らかの形でまぎれ込んだ」という考えは成り立たない。説教要約 941 聖書の中の科学(2) この岩石が形成された時代と、ハンマーが使われていた時代は同一、としか考えようがないのである。これがオーパーツである。つまり進化論を正しいと思う立場からは、それは「絶対存在しないはずのもの」である。説教要約 942 聖書の中の科学(3) 答えは二つに一つしかない。つまり「このハンマーはインチキで、進化論が正しい」あるいは「このハンマーは真正で、進化論が間違っている」--そのどちらかである。しかし、このハンマーは、科学のエキスパートたちが調査したものであり、充分な信頼性を持っている。ハンマーが出土したと同じテキサス州のチョーク・マウンテン付近で、やはり進化論者が「中生代白亜紀」と呼ぶ地層の中から「人間の指の化石」が出土している。 (久保有政著『オーパーツと天地創造の化学』学習研究社、35~47 頁、2004年)甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2015年11月30日「ミッシング・リンクとオーパーツ(2)」です。
2015.11.22
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「人間の創造(2)」 2015年11月16日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」 「人間の創造(2)」 甲斐慎一郎 創世記1章26、27節 聖書は、人間は神によって創造されたと教えています。これに対して多くの人々は、人間は猿から進化したものであると考えています。前者が「創造論」であり、後者が「進化論」です。人間は、どのようにして生まれたのかということについては、主にこの「創造論」と「進化論」の二つの考え方があります。この二つのうちどちらが正しいのか、信仰と科学の両面から考えてみましょう。 一、 創造論と進化論の前提について 多くの人々は、人間が、どのようにして生まれたのかということについて、創造論は信仰的(または宗教的)なとらえ方であり、進化論は科学的なとらえ方であると思っています。 しかし事実は、どちらも信仰的なとらえ方なのです。なぜなら創造論は、神が人間を創造されたことを信じるものですが、進化論も、科学的に証明することのできない前提(ある物事が成り立つための前置きとなる条件)を信じるものだからです。それは具体的に述べるなら、次のように言うことができます。 説教要約 863 裸の起源に見る進化論の誤り 1 二、創造論と進化論の成立について 「創造論」は、天地万物を創造された全知全能の神が人間をも造られたことを信じればよいのであり、まことに単純明快です。これに対して「進化論」は、多くの前提(ここでは次に述べる七つのこと)をすべて信じなければ成り立たず、しかもこの七つのことは科学的に証明することができないだけでなく、現代の科学の教えに反するものです。 1.無から有を生じる自然発生があった――しかし現代の科学は、自然発生はないと教えています。 2.地質現象は、いつも同じように起きる――しかし化石や地層は、地球上に激烈な大変動があったことを示しています。 3.単純なものから複雑なものへ変化する――しかしエントロピー増大の法則(熱力学第二法則)は、自然の過程は無秩序が増大する方向へ進む、言い換えれば複雑なものから単純なものへ変化すると教えています。 4.突然変異によって生物は進化する――しかし現代の科学は、突然変異は有害であって、生物を退化させると教えています。 5.生物は、時間をかけて少しずつ器官を獲得していった――しかし現代の科学は、細胞の中にすでに、その生物を組み立てる遺伝の情報がすべてはいっていると教えています。 6.移行段階の中間形が存在する――しかし中間形の化石はなく(ミッシング・リンク)、今も生きている生物と全く同じ形の化石が発見されるだけです。 7.進化の途上の不完全な生物が生き延びて繁殖する――しかし生物は、完全な姿の時にのみ生き続けて、子孫を残し、現在も存在していることができます。ですから、たとえ中間形の生物がいたとしても、存続することはできず、一代で絶滅するでしょう。 説教要約 864 裸の起源に見る進化論の誤り 2 三、創造論と進化論の功罪について 創造論は、神が人間を創造されたことを信じるものです。ですから神の啓示によって、人間とは何であり、どこから来て、どこへ行くのか、また何のために生き、どのように生きるべきなのかということがすべてわかります。これは人間にとって最も大切なことです。 ところが進化論は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じるものです。すべては偶然の産物ですから、人間とは何であり、何のために生き、どのように生きるのかということが全くわかりません。これは人間にとって最も不幸なことです。 私たちは信仰と科学の両面から考えて、創造論と進化論のどちらを信じるでしょうか。 説教要約 948 欠けた連鎖に見る進化論の誤り 甲斐慎一郎の著書→説教集拙著「創世記の聖徒たち」4「人間の創造(2)」より転載 次回は2015年11月23日「人間の堕罪(1)」です。
2015.11.15
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「人間の創造(1)」 2015年11月9日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月7日放映「神に会う備え」 「人間の創造(1)」 甲斐慎一郎 創世記1章 神は6日の期間で天地万物を完成して、第7日目に、すべてのわざを休んで、その日を祝福し、この日を聖であるとされました。これが安息日の起源です。ただし旧約における第7日目(土曜日)の安息が、創造のわざの完成であるのに対して、新約における第1日目(日曜日)の安息は、贖罪のわざの完成であるという違いがあります(C・H・M)。 モーセは創世記1章の「天地の創造」において、第6日に「人間の創造」について記していますが(27節)、この2章においてはそれを敷衍して述べているのです。 一、神のかたち(像)に創造された人間 人間の本質は何かということについては、おおよそ次のような3つの考え方があります。1.人間は、結局は物質である(唯物論者)。2.人間は、結局は動物である(進化論者)。3.人間は、神の像に似せて造られた不滅の霊をもつ者である(聖書、 キリスト者)。 J・ウェスレーは、アダムにおける神の像を自然的な像(不死、理解力、情愛、自由意志)と、政治的な像(支配する能力)と、道徳的な像(義と真と聖潔と愛)という三重のものとして考えていました(『神学論文・上』457頁)。 G・C・モルガンは、「神は知性と感情と意志とをもっておられる霊である。人間もまた、知性と感情と意志とをもっている霊である」と述べています。 聖書は、人間は操り人形でもロボットでもなく、自由意志をもつ者として造られたと教えています。すなわち、人は、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んで神に従い、心で決めたとおりに最善のものを選ぶことができるものとして創造されたのです。 このように人間は、単なる物質でもなければ動物でもありません。人の人たるゆえんは神の像に似せて造られた不滅の霊をもつところにあるのです。説教要約 782 化石と地層の形成について 二、人類の代表として創造されたアダム 神が最初の人として造られたアダムは、新約聖書を読むと、彼から生まれた全人類とは異なる特別な人であったことがわかります。 パウロは「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型です」と述べ(ローマ5章14節)、「最初の人アダム」のことを「第一の人」、キリストのことを「最後のアダム」、または「第二の人」と呼んでいます(第一コリント15章45、47節)。 このことをわかりやすく説明するなら、キリストが人類の新しい代表(かしら)であるのに対して、アダムは人類の古い代表(かしら)であり、すべての人はアダムの「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えているのです。説教要約 861 これ以上、単純化できない複雑さ1 三、男と女とに創造された人間 神は、人をご自身のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造されました(1章27節)。この男と女の関係について、聖書は、次のような二つのことを教えています。 1.神の創造された世界の秩序や、一つしかない立場という面から男女の関係を見るならば、女は、男にふさわしい助け手です(18、20節)。なぜなら、「女が男をもとにして造られ……女が男のために造られたのだからです」(第一コリント11章8、9節)。 2.神の前における心身の成長や人格の形成という面から男女の関係を見るならば、男女は互いに補い合う存在であり、二人で一体となるのです(24節)。なぜなら、アダムとエバは、もともと一体であったからであり、また「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものでは」ないからです(第一コリント11章11節)。説教要約 862 これ以上、単純化できない複雑さ2 甲斐慎一郎の著書→説教集拙著「創世記の聖徒たち」3「人間の創造(1)」より転載次は2015年11月9日「人間の創造(2)」です
2015.11.08
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「三つの創造」 2015年11月2日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」 「三つの創造」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章17~21節 聖書は、開巻第一ページにおいて神は万物の創造者であると記しています。この万物の創造者である神のわざについて、次のような「三つの創造」を教えています。 1.今の天と地の創造――「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)。 2.人間の新しい創造――「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。 3.新しい天と地の創造――「私は、新しい天と新しい地とを見た」(黙示録21章1節、第二ペテロ3章13節)。 第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざです。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるなら、第二と第三の創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、あとの二つも信じることができないでしょう。 説教要約 959 見えないものに目を留める(1) 一、私たちが新しく造られるという「人間の新しい創造」こそ最も大切なことです 人間が直面している最大の問題は何でしょうか。無知や無力でしょうか。短所や弱さでしょうか。病気や怪我でしょうか。苦しみや悩みでしょうか。老いや死でしょうか。確かにこれらのことも問題ですが、人間の最大の問題は罪であると、聖書は教えています。 それではこの罪を解決するためには、どうすればよいのでしょうか。学びや勉強をして高い教育を受けることでしょうか。運動や体操をしてからだと心を鍛えることでしょうか。倫理や道徳を守ることでしょうか。努力して苦行や修行に励むことでしょうか。しかしこのようなことでは決して罪を解決することができないことを聖書は教えています。 聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と記し(第二コリント5章17節)、キリストによる「人間の新しい創造」こそ罪を解決する唯一の秘訣であることを教えています。 説教要約 960 見えないものに目を留める(2) 二、そのためには「今の天と地の創造」者である神の救いを信じることが必要です 聖書は、生まれながらの人は「罪過と罪との中に死んで……肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」う罪深い者であると記しています(エペソ2章1、3節)。このような罪人が新しく造られるということなどあり得るでしょうか。そのような人に造り変えられるということなど信じられるでしょうか。 進化論者は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じる者です。もし私たちが進化論者のように「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」(使徒17章24節)全知全能の創造者である神を信じなかったなら、罪深い人間が新しく創造されるということなど決して信じることができないでしょう。 罪深い人間が新しく造り変えられるという「人間の新しい創造」は、ただ「今の天と地の創造」者である神のみがおできになることで、この方以外には絶対に不可能なのです。 説教要約 961 見えないものに目を留める(3) 三、すると「新しい天と地の創造」者である神とともに永遠に生きることができます 現在の地球は、公害や環境破壊によって汚染され、それがもたらす異常気象や天変地異によって狂いが生じ、もし核戦争が起きるなら破滅してしまうでしょう。罪深い人間が新しく創造されなければ、だれも地球の破滅を食い止めることはできないでしょう。 聖書は、「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記し(第二ペテロ3章12、13節)、新しく創造された人間は、今の天と地が破滅しても、新しい天と新しい地に永遠に住むことができると教えています。 私たちが神とともに永遠に住むことができる「新しい天と地の創造」を信じることができるのは、神が「今の天と地の創造」者であることを信じているからであり、そうでなければ決して信じることはできないでしょう。 甲斐慎一郎の著書→説教集拙著「聖書の中心的な教え」3 「三つの創造」より転載次回は2015年11月9日「人間の創造(1)」です
2015.11.01
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