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「初めに情報ありきか物理法則ありきか」 2015年9月28日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年9月8日放映「初めに情報ありきか物理法則ありきか」 「初めに情報ありきか物理法則ありきか」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~5節 一、初めに物理法則ありき 「車いすの天才科学者」として有名な英ケンブリッジ大のスティーブン・ホーキング博士は、「2010年9月に『ホーキング、宇宙と人間を語る』を出版し、たちまちベストセラーになりました。日本の新聞にも、ホーキングが『宇宙は神によって創られたのではなく、物理法則によって自然に作られるのだ』と書いていることに対して、欧米ではキリスト教関係者から強い反発を受けているというニュースが流れました」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』258、259頁、エクスナレッジ、2011年)。 ホーキングは、次のように述べています。 「この世界には完全なる法則の集合があり、現在の宇宙の状態を知ることができれば、今後宇宙がどのように発展するのかを予言することができる、という考え方です。このような法則はどの場所でもどの時刻でも成り立つべきで、そうでなかったらそれは法則ではありません。例外や奇跡もありません。神でも悪魔でも宇宙の発展に干渉することはできないのです」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』239頁、エクスナレッジ、2011年)。 ホーキング博士は、この本の出版に関して次のような謝辞を述べています。 「宇宙は偉大な設計図によって創造されました。そして本も、その設計図に従って書かれるのです。しかし、宇宙は無から生まれましたが、本は無から自発的に現れることはあり得ません。宇宙が創られるために創造主は必要ではありませんでしたが、本が出版されるためには制作者が必要です。その役割は著者だけが果たすのではありません。編集者、デザインをした人、校正をした人、図版の制作者、絵を書いた人、個人秘書、コンピューター補佐役の名前を挙げて感謝しています」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』255~257頁、エクスナレッジ、2011年)。 二、初めに情報ありき ヨハネは、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」と記しています(1~3節)。「ことば」は心の表現、言い換えれば、人格を持つ者の表現です(マタイ12章34節)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、この「初めにことばありき」というヨハネのことばを用いて「初めに情報ありき」という本を出版しています。すなわち「ことば」は、情報にほかなりません。 聖書は、「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」と記しています(ヘブル3章4節)。 ケン・ハム氏は、「背後に知性の存在を指し示すものの例として、建物、ラシュモア山の彫刻、車を挙げ、これらは決して自然にはできません。知性のある誰かが計画して作ったから存在するのです」と述べています。 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(村上和雄『生命の暗号』198頁、サンマーク出版、1997年)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、宇宙には「情報」と「エネルギー」と「物質」があり、情報がエネルギー(物理法則)を造り出し、エネルギーが物質を形造ると述べています。情報がなければ、エネルギー(物理法則)はなく、エネルギーがなければ、物質は存在しません。「初めに情報ありき」と「初めに物理法則ありき」のどちらが正しいでしょうか。どちらを信じるでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は2015年10月5日「情報が物質を造る」です。
2015.09.27
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「見えないものに目を留める(3)」 2015年9月21日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月29日放映「被造物が証明している神の存在」 「見えないものに目を留める(3)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 三、現代科学と聖書の教えとの分岐点 現代科学は、究極的な実在は非人格的なエネルギーであり、「わたしたちが存在する必然性も、その根元にまでさかのぼっていけば、エネルギーの存在に帰せられます。……生命の粒子は一つの分子で、DNAと呼ばれるものです。……わたしたちが存在する必然性は、そのDNA分子の存在によるのです」(前掲書、153、154頁)。 これに対して聖書は、究極的な実在は人格を備えた全知全能の神であり、その神がすべてのものを創造したと教えています(創世記1章1節)。前回のところで、『物理学的人生論』の著者の猪木正文氏は、宗教は「唯心論」であると述べていますが、それは、間違いです。「キリスト教」は、唯心論ではありません。猪木正文氏は、物質「の背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます。……『ある物』とはエネルギーのことです」と述べていますが、キリスト教は、この「ある物」は、天地万物を創造された神であると教えています。 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(村上和雄『生命の暗号』198頁)。 聖書は、この「サムシング・グレート」は、全知全能の神であると教えています。 この文を書き終えた直後に『宇宙は何でできているのか』という本が出版されたことを知り、読みました。第一刷は2010年9月30日発行です。副題は「素粒子物理学で解く宇宙の謎」で、著者は、「文部科学省」が世界トップレベルの研究拠点として発足させた「東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU)」の初代機構長の村山斉師です。私が宇宙や素粒子の謎について引用した『物理学的人生論』は、第一刷が1965年ですので、今から50年前です。その間に数々の新しい発見があったことでしょう。それで最新の宇宙と素粒子に関する書物を読んだことですが、結論を申し上げるなら、「エネルギーは現代物理学の基礎概念です」(猪木正文『物理学的人生論』153頁)ということは、最新の研究と発見と本質的に少しも変わっていません。以下は、最新の素粒子物理学の研究と発見です。 「学校では『万物は原子からできている』と習いますし、たしかに地球以外の星も原子でできてはいます。しかし実は『原子以外のもの』が、宇宙の約96%を占めている。――それがわかったのは、2003年のことでした。……宇宙の中で、私たちが理解できた原子は4.4%にすぎません。宇宙のエネルギーの23%を占める暗黒物質は星や銀河ができるもとであり、……また、宇宙のエネルギーの73%は、もっと得体の知れない暗黒エネルギーで、『見えない力』で宇宙の膨張を後押しして膨張をどんどん加速しています」(村山斉『宇宙は何でできているのか』44、224頁)。 拙著『聖書の中心的教え』「4 目に見えないものに目を留める」より転載。 甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2015年9月28日「初めに情報ありきか物理法則あり きか」です。
2015.09.20
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「見えないものに目を留める(2)」 2015年9月14日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月19日放映「創造論と進化論」 「見えないものに目を留める(2)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 2.現代科学は、五感で感じるままの物質世界は実在しないと教えている。 ある新興宗教の教祖は、「『宇宙に真に実在するものは心のみであって、物質世界は、わたしたちの心がつくった映像に過ぎない。心は真の実在であるから、不滅不変で永久的なものであるが、物質世界は心の映像に過ぎないから、生滅極まりない見かけ上のものである』。……この考え方によれば、超感覚的に巨大な宇宙も心の映像であり、物質を作っている基礎粒子である原子も、さらに、その原子を構成している物質の窮極的粒子である素粒子も心の映像です。したがって、これらはすべて、わたしたちの心を離れて独立的に客観的には存在しないものです。……このような宗教思想は、ちょっと考えるとまったくでたらめのようですが、すこし深く考えると、自然の根元的ななぞに触れていることがわかります。……物理学の創始者である有名なガリレオ・ガリレイは、『五感により感じられるものは、程度の低い実在か、または、たんなる幻影である』といっています。五感というのは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ですが、ここでは、すべての感覚という意味です。実在ということばは……見かけ上の存在ではなく、真の存在という意味です。 ……あなたが美人の彼女とデートしているときの光景を想像してみてください。あなたは、五感を総動員して彼女を観察するでしょう。甘い匂いのただよう細い髪の毛、薄桃色の顔、チャーミングな口、形のよい白い歯、魅力的な曲線、弾力的で柔らかい触感などを知ったとしましょう。そのとき、あなたはきっと、彼女自身がそういう感じのものをもっていると思うでしょう。ところで、ここで前述したガリレイのことばを思い出してください。ガリレイのことばに従うとつぎのことがいえます。あなたが彼女について知ったものは、実はあなたの心がつくったものです。それは、極端な表現をすれば幻影なのです。 たとえば、桃色という美しい色は、わたしたちの心が桃色と感じるだけで、わたしたちの心を離れて、桃色という色自体が自然に存在するのではありません。また、甘い匂いというものも、わたしたちの心が作ったもので、匂い自体が心から離れて存在するものではありません。同様なことが、あなたが彼女について知った他のすべてのことについていえます。 また、わたしたちの周囲のけしきも、わたしたちの心がつくったものです。桜花が爛漫と咲きみだれ、花のかおりを含んだ暖かい風が吹き、小鳥がさえずっている春のけしきというものは、わたしたちの心を離れて実在するものではないのです。それはわたしたちの心が描いた像です。……つまり、見えるまま、感じられるままのけしきが心から離れて客観的に存在するのではなく、心でつくられた像や感じが外部に投影されて、それらが外部に存在するように思うのです」(猪木正文著、物理学的人生論、28~32頁)。 海の水は青く見えます。池の水も緑に見えるのがありますが、水は無色透明です。空は、晴天の空は青く見え、夕焼けの空は赤く見えますが、空気も無色透明です。水の青や緑の色、また空の青や赤の色も、わたしたちの心が青色や緑色や赤色と感じるだけで、わたしたちの心を離れて、青色や緑色や赤色という色自体が自然に存在するのではありません。 「……音というものは耳で聞いてから、はじめて生じるものであって、したがって、人のいない所で音は存在しないというのです。防音壁で完全に密閉された無人の部屋でベートーベンの交響曲がステレオで演奏されても、そこにはわたしたちを感激させる、あの荘厳と神秘に満ちた交響曲はないのです。音もわたしたちの心の中で生まれるもので、心を離れては存在しないのです。 たいへん奇妙に感じられるこのような考え方は、ガリレイの考え方であるのみならず、じつは、現代科学が発見した重要な帰結です。そして、これが、不思議にも前述の宗教思想とある点で一致するのです。一致している点は、五感で感じるままの物質世界は実在しないということです。ところが、そのことをいかに解釈するかという点で、宗教と科学は対立するのです。宗教は感じるままの物質世界は実在しないから、真に実在するものは心であると考えます(これは唯心論と言い、『物理学的人生論』の著者の猪木正文は、宗教は唯心論であると言っていますが、それは間違いです。甲斐慎一郎の注)。これに対して科学は、感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます。……『ある物』とはエネルギーのことです。このようにエネルギーは現代物理学の基礎概念です」(猪木正文『物理学的人生論』29~33、153頁)。 拙著『聖書の中心的教え』「4 目に見えないものに目を留める」より転載。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は 2015年9月21日「見えないものに目を留める(3)」です。
2015.09.13
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「見えないものに目を留める(1)」 2015年9月7日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月7日放映「神の啓示と人の探求」 「見えないものに目を留める(1)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留 めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18節)。 一、五感は、広大な宇宙からみれば、非常に狭い範囲のものしか感じることができない 「電磁波の種類」の表にあるように人間の目は0.38~0.76ミクロンの波長の範囲内のものしか見えず、人間の耳は、20~20,000ヘルツの波長の範囲内の音しか聞こえません。これは広大な宇宙から見れば、極めて狭い範囲のものしか見えず、聞こえないということです。嗅覚、味覚、触覚も同様です。 二、現代科学は、見えるものは一時的で、見えないものはいつまでも続くと教えている 1.現代科学は、物質の正体は、目に見えないエネルギーであると教えている。 ある人々は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感で知ることができないものは存在しないと思っていますが、これは非科学的です。現代科学の多くは、肉体的な知覚の範囲を越えた実在の質や量を扱っています。物質は、固体、液体、気体と分けていますが、それは物質の本質を示すものではなく、状態を示すものです。極微(ミクロ)の世界までいけば、固体というものは存在せず、すべての物質は、目に見えない原子から成り立っています。原子は、微粒子からなり、それはまた別な微粒子から成り立っています。固体はすべて、その中は、ほとんどからっぽで、その空間を取り除けば、後には、高倍率の顕微鏡で覗いても見ることができないほど微小なものが残るだけです。原子は、固体ではなく、物凄いスピードで回転し、巨大な力で結び付けられている無限に小さな粒子からなる小さな太陽系です。原子は、太陽系と同じように、ほとんど空間です。これが現代科学の教えている物質の正体です。 「科学においては、なにゆえに存在するか、という質問を続けていくと、かならず行きづまります。すなわち、質問に答えられなくなります。このことを物質について見てみましょう。物質はなにゆえに存在するのでしょうか。それは、すでに述べたように原子が存在するからです。原子はなにゆえに存在するのでしょうか。それは、素粒子が存在するからです。では、素粒子はなにゆえに存在するのでしょうか。現代物理学では、その理由はくわしくわかりませんが、すでに述べたように、しいていえば、それは、エネルギーが存在するからです。それでは、そのエネルギーはなにゆえに存在するのでしょうか。 ここまで質問を続けてくると、ついに答えられなくなります。エネルギーがなにゆえに存在するのかということは、まったくわからないのです。ただ、そういうものが存在すると考えざるをえないのです。それが存在しないと、地球・太陽、それからわたしたち自身も存在できないからです」(猪木正文著、物理学的人生論、190、191頁)。 現代科学も、科学的に証明することができない前提(エネルギーが存在すること)を信じるのであり、これは信仰にほかなりません。拙著『聖書の中心的教え』「4 目に見えないものに目を留める」より転載。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2015年9月14日「見えないものに目を留める(2)」です。
2015.09.06
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