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「情報が物質を造る」 2015年6月1日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年9月10日放映「神に近づく道」 「情報が物質を造る」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~5節 先日、テレビの番組において、人を写真で撮り、それをパソコンに入力し、3Dプリンターに接続して、その人とそっくりの立体形の人形ができたのを見せて、「情報が物質を造った」と説明していました。まさにそのとおりです。聖書は、「主(神)が仰せられると、そのようになり、主(神)が命じられると、それは堅く立つ」(詩篇33篇9節)と記し、神のことばという「情報」が「物質」を造ったと初めから教えています。 一、初めに物理法則ありき 「宇宙は神によって創られたのではなく、物理法則によって自然に作られるのだ。この世界には完全なる法則の集合があり、現在の宇宙の状態を知ることができれば、今後宇宙がどのように発展するのかを予言することができる、という考え方です。このような法則はどの場所でもどの時刻でも成り立つべきで、そうでなかったらそれは法則ではありません。例外や奇跡もありません。神でも悪魔でも宇宙の発展に干渉することはできないのです」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』258頁、239頁、エクスナレッジ、2011年)。 二、初めに情報ありき ヨハネは、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」と記しています(1~3節)。「ことば」は心の表現、言い換えれば人格を持つ者の表現です(マタイ12章34節)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、この「初めにことばありき」というヨハネのことばを用いて「初めに情報ありき」という本を出版しています。すなわち「ことば」は、情報にほかなりません。 聖書は、「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」と記しています(ヘブル3章4節)。 ケン・ハム氏は、「背後に知性の存在を指し示すものの例として、建物、ラシュモア山の彫刻、車を挙げ、これらは決して自然にはできません。知性のある誰かが計画して作ったから存在するのです」と述べています。 ダーウィンの友人であったアルフレッド・ウォレスは、次のように述べています。 「我々が自然の他の構成員とともに永遠の盲目的な力の所産にすぎないとしたら、殉教者の苦悩も,犠牲者のうめき声も、悪も不幸も、自由への闘争も,正義への努力も、人間としての徳と幸せを求める情熱も、そういったものすべてが望むべくもなく、根拠もなく、役に立たないことになる。真実を愛し、美に感動し、正義を熱望し、勇気と犠牲的精神をもって行動し、歓喜に身を震わせる人間の精神の起源は、自然淘汰説には見出しえない」。 ウォレスは、猿のからだ(物質)は、人間の精神(情報)を造ることはできないことを150年も前から見抜いていたのです。 「ヒトの遺伝情報を読んでいて、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を一体だれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で10年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(村上和雄『生命の暗号』198頁、サンマーク出版、1997年)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、宇宙には「情報」と「エネルギー」と「物質」があり、情報がエネルギー(物理法則)を造り出し、エネルギーが物質を形造ると述べています。情報がなければ、エネルギー(物理法則)はなく、エネルギーがなければ、物質は存在しません。 「初めに情報ありき」と「初めに物理法則ありき」のどちらが正しいでしょうか。私たちは、どちらを信じるでしょうか。次回は、2015年6月8日「天地の創造」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.05.31
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「三種類の歩み」 2015年5月25日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月31日放映「知恵の霊的な教え」 「三種類の歩み」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章1~10節 一、見るところによって歩む――感覚(感情)によって歩む パウロは、「私たちは見るところによってではなく」と記していますが(第二コリント5章7節)、これは裏から見れば、「見るところによる歩み」があることを教えています。 人が物事を知るためには、感覚でとらえ、脳が知覚に変換し、脳がそれを理解することが必要で、この理解したことが知識です。人の人たるゆえんは、知識があるところにあります。人間以外の動物に知恵はなく(ヨブ39章17節)、動物はただ本能(先天的に持っている性質や能力)によって生きています。 「見るところによる歩み」は、感覚を知識に変えることなく、五感で感じたことだけで判断し、行動することで、これでは本能で生きる動物と同じです。聖書は「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9章10節)、「人は……悟り(神を知る知識)がなければ、滅び失せる獣に等しい」と教えています(詩篇49篇20節)。 二、神を知らないこの世の知識によって歩む――肉の思いによって歩む それでは感覚ではなく、知識によって歩めば、それでよいのでしょうか。知識によって歩むことにも、二種類の歩みがあります。 知識と思いの違いは、何でしょうか。「知識」は「知っていること」ですが、「思い」は、知識と感情に基づいて何をするか、どのようにするかを考えて、意志の決断をすることです。知識と感情と意志は、たましいを構成する三要素ですから、「思い」は、「たましいの働き」であるということができます。 生まれながらの人間は、神のみこころにかなう良い思いを抱くことはできません。かえって「悪者……の思いは『神はいない』の一言に尽きる」のです(詩篇10篇4節)。 「肉的なことをもっぱら考え」る「肉の思い」とは、何でしょうか(5、6節)。 1.「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(第一コリント15章32節)。 「永遠への思い」(伝道者3章11節、第二版)がなく、死ねば、すべてが終わりなので、生きている間は精一杯、楽しもうという刹那的な思いで、これが「肉の思い」です。 2.「彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3章19節)。 「天にあるものを思」わず(コロサイ3章2節)、ただ地上のことだけを思うことで、これも「肉の思い」です。 3.「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16章23節)。これもまた「肉の思い」です。 三、神を知る知識によって歩む――御霊による思いによって歩む ダビデは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」と祈り(詩篇19篇14節)、パウロは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために……心(思い)……を変えなさい」と勧めています(ローマ12章2節)。 「神のみこころをわきまえ知る」思いを抱く秘訣は、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことです(ヘブル8章10節)。神は、このことをキリストの十字架の死と復活による罪の贖いとその罪の贖いが成し遂げられたことによってもたらされる聖霊の降臨によって成就されました。 私たちが罪を悔い改めてキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪が赦されて聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、さらに「うちに住む罪」(ローマ7章12、20節)がキリストとともに十字架につけられるなら(ガラテヤ2章20節)、罪がきよめられて聖霊に満たされます。この聖霊に満たされることこそ神の律法が心に記されることで、その思いは「御霊による思い」になります(ローマ8章6節)。私たちは、御霊による思いによって歩むなら、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。次回は、2015年6月1日「天地の創造」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.05.24
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「信仰による歩み」 2015年5月18日 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、5章7節インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月23日放映「神が与えてくださる知恵」 一、見るところによって歩む 人には、感覚すなわち五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と体性感覚(表面感覚と深部感覚)と内臓感覚(臓器感覚と内臓痛)があります。五感は、からだの外の光・音・温度・圧力・重力・化学物質をとらえ、また体性感覚や内臓感覚は、からだの中の物理的・化学的刺激をとらえて、両者とも信号化し、それを脳に送り、脳は送られてきた感覚についてよく考え、解釈し、判断して、感覚の意識経験が何であるかを認識しますが、それが知覚です。この時、一つの知覚だけでなく、すべての知覚(認識)を収集して一つのものに組み立てて理解したことが知識です。 人が自分を取り囲む外側の世界であれ、からだの中の世界であれ、それを知るためには、まず感覚でとらえ、次にそれを脳で知覚に変換し、最後に脳がそれを理解することが必要であり、この理解したことが知識です。 聖書は、「見るところによってではなく」と教えていますが(7節)、この見るところというのは視覚ですが、視覚は、すべての感覚の代表であり、人は、感覚だけでは何もわかりません。いやわからないどころか、胃の中に食べ物がはいらなければ、餓死してしまうように、脳の食べ物は知識ですから、脳は、知識を得ることができなければ、精神異常をきたし、遂には死んでしまいます。「五感で感じるままの物質世界は実在しない」からです(猪木正文著『物理学的人生論』33頁)。 エバは善悪の知識の木を見た時、「食べるのに良く、目に慕わしく……いかにも好ましかった」ので(創世記3章6節)、取って食べました。彼女は、感情で判断して、罪を犯しました。人は、感情ではなく、「取って食べてはならない」(同2章17節)という神のことばに基づいた知性によって判断し、生きなければならないのです(マタイ4章4節)。 二、この世の知識によって歩む 人がこの世において生きていくために必要なものは何でしょうか。人は、生まれるとすぐ両親から色々なことを学び、そして学校でさらに広く、深く学びます。色々と学んで、多くの知識を得るなら、技術を習得することができます。人は、この知識と技術によって社会において働いて収入を得て、生きていくことができますが、感覚(感情)だけでは、決して生きていくことはできないのです。 三、神を知る知識によって歩む 世の中は、心の中に知識を得ることによって生きていけますが、信仰の世界は、心ではなく、心の奥にある霊の中に知識を得なければ、生きていくことはできません。霊の中にはいる知識は、この世の知識ではなく、「神のみこころに関する真の知識」または「神を知る知識」です(コロサイ19、10節)。 主は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによ(って生きる)」と仰せられました(マタイ4章4節)。人は、神のことばがなければ、言い換えれば、神のことばが人の霊の中にはいらなければ、生きていくことはできません。 それでは、神のことばを霊の中に入れるためには、どうすればよいのでしょうか。 「神を知る知識」は、「神のみこころに関する真の知識」であり(コロサイ1章9、10節)、永遠の世界を知り、神から永遠のいのちが与えられて生きることを知っている知識です。 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)。まず「神のことばを聞き」(聴覚)、次に「よく考え」て(思考)(第一コリント15章2節)、それが「真理であることを知り」(知覚)、最後にその知った真理を「信仰によって、結びつけ」る(ヘブル4章2節)、すなわち「信じる」なら、「神を知る知識」(知識)になります(コロサイ1章9節)。このように神を求めて信じることは、頭脳と同じように「聴覚」を「思考」と「知覚」と「知識」に変換する働きをするのです。 「信仰によって歩」む(7節)とは「神を知る知識」によって歩むということです。 次回は、2015年5月25日「三つの歩み」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.05.17
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「聖書の中の科学(3)」 2015年5月11日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月11日放映「覚えることと忘れること」 「聖書の中の科学(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章2、7~9節 一、イエーメンのユダヤ人の物語 江戸時代に薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1500キロメートルの道のりを50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。現在、東京―鹿児島間は、新幹線で6時間30分で結ばれ、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。もし西郷隆盛が、羽田空港で鹿児島空港行きの飛行機を見て、1時間50分で、鹿児島に着くと聞いたなら、腰を抜かすほど驚き、そんなことはあり得ないと言い、飛行機に乗るように言われても、恐ろしくて乗れなかったでしょう。 ところが今から70年ほど前に飛行機があることさえ知らず、また見たこともない人たちが、聖書の言葉を信じて、少しも驚かずに飛行機に乗った出来事が起こりました。 「イエーメンのユダヤ人の物語がある。彼らは、その地に移ってから2000年近くたち、その間、外部の文明世界からは隔絶された状態にあった。ある日のこと、文字通り風の便りに、神はその約束を果たされ、パレスチナの地に白分たちの祖国が建てられたと聞いた。--1948年のことである。--その瞬間、43000人のユダヤ人が(特別の事情のある1000人を除いて)、すべてを捨てて歩き出した。どこへ。もちろん祖国へである。彼らは全員、女も子供も、岩山を越え、砂漠な過ぎ、まずアデン目がけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルヘと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは、飛行場まで来た時、大きな輸送機を見て、少しも驚かなかった。当然のようにそれに乗り込んだのには、迎えに来た者の方が驚いた。それをただすと彼らは、平然として答えた。「聖書に記されているでしょう。風の翼に乗って約束の地へ帰る、と」。(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」山本書店、44頁、1970年)。 聖書には「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た」(出エジプト19章4節)、また「彼はケルプに乗って飛び、風の翼に乗ってあらわれた」(第二サムエル22章11節)と記されています。 二、エルサレムで殺された二人の証人を全世界の人々が見たという聖書の記事 聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」には、次のようなことが記されています。 「わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間、預言する。……彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は……彼らの主も十字架につけられたところ(エルサレム)にさらされる。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない」(黙示録11章2、7~9節)。 今から1,900年も前に書かれた聖書の時代に、エルサレムに横たわっている二人の死体を全世界の人たちが現地に行って、三日半の間、ながめるなどということは、到底、不可能です。いや何よりも、もし全世界の人たちが、国を離れて、現地に行けば、その国は、空っぽになりますから、そのようなことをするはずがありません。それなのに、なぜこのようなことを書くことができたのでしょうか。 「さて、反キリストが葬ることを拒んだこの死体を三日半の間に、どのようにして、すぺての民族、国語、国民から出た人々が見ることができるのかと、あなたは尋ねるかもしれない。テレビジョンが発明されるまでは、このことは人々にとって、非常に理解するのに困難な場所であった。たったひとことの命令で、全世界のテレビ放送局が彼らの死体を写し出すことかできるのである」(テモテ・ザオ著「幕開ける預言」155頁、霊糧出版社、1961年)。 今から1,900年も前に書かれた聖書に「飛行機」と「テレビジョン」があることを預言している記事があることは、聖書は、人間が決して記すことができないもので、全知全能の神が聖書記者たちに書かせたものであることを証明しているのです。次回は、2015年5月18日「天地創造は六日か幾億年か(1)」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2015.05.10
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「聖書の中の科学(2)」 2015年5月4日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月23日放映「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 「聖書の中の科学(2)」 甲斐慎一郎 「水の循環とそれに伴う地球規模の大気の循環は、近代になってようやく科学的に解明されたわけですが、このことは昔から聖書の多くの箇所で言及されていました。それは今から3,000年前に「伝道者の書」の1章6~7節で、『風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる』とあります。これは、地球における水と風の循環の、簡潔で包括的な説明です。 水の循環については、ヨブ記36章27~29節には、『この方は水のしたたりを細かくし、その蒸気を雨として注ぐ。それは雲から降り、人の上に豊かに注がれる。いったい、だれが雲の広がりと、その天幕のとどろきとを悟りえよう』(欽定訳私訳)。 水の循環について未だ分かっていないことは多くあります。水の循環のそれぞれの状態は、地球に生命が存在するために必要不可欠なものです。このことは、生命の起源が、いつくしみと愛に満ちた賢明な創造主の、創造のみわざによることの大いなる証拠です。 四、生物学 生物のしくみで血液が特に大切だという事実が、レビ記など聖書の多くの箇所に記されています。しかもそれらは、1616年にウィリアム・ハーヴェイが血液循環を発見する数千年前に書かれているのです。レビ記17章11節は、『なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである』と告げています。 生命の維持は、体細胞に酸素と水と栄養がたえず供給されることで成り立っていることが、今では知られています。この欠かすことのできない機能は、体内を血液が絶えず循環するという驚くべき方法で達成されています。病原菌と戦ったり、傷ついた組織を治したりする血液の役割は、医学で最も重要な発見の一つで、手術や治療などの有益な処置の一つとして輸血がなされることも、肉体をもつ生命にとっての血液の重要性を示しています。 『1799年、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンは当時の名医たちの努力もむなしく、出血多量のため帰らぬ人となりました。その当時は、一部の人々だけが血液についての知識を持っていたにすぎず、ワシントンの治療をしていた医者は、病気の治療のために何回も何回も「捨血(血を抜いて捨てる)」をしていたのです』(ムーディ=科学映画より)。 神によって与えられた聖書の言葉は、このすばらしい生物学的事実に関しても、科学者がそれを発見して大成させるよりずっと前から科学的に正確でした。しかもこれは『罪の罰は死で、罪が赦されるためには贖いの血が流されなければならない』という神のゆるがない霊的な真実を教えるために与えられた言葉でもあります。いのちの液体である血液は、組織内で病気や感染症が優勢なときには、それらの病原体(細菌など)をからだ中に運んでしまいます。聖書の中では、肉体の生と死は、霊の生と死の象徴として用いられます。そしてしばしば、肉体の病気と径我という描写を用いて、霊の病気である罪について語られるのです。 罪の病に冒されている霊が生きるためには、罪をもたず、罪の病に対して戦う力をもっている霊のいのちが必要です。すなわち死ぬべき運命にある罪に病んだ霊を治癒するためには、きれいで抵抗力のある血液をふさわしい提供者から受けて輸血することが必要です。 聖書は、罪なきキリストこそ、そのふさわしい提供者で、十字架にかかって血を流し、すべての人の罪のために死なれたことを教えています」(ヘンリー・M・モリス著『科学は聖書を否定するか』15~26頁、抜粋)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は2015年5月11日「聖書の中の科学(3)」です。
2015.05.02
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