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「神のご計画の全体1 行動を決める世界観」2017年2月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」 説教要約 926 人生という応用問題を解く公式である神学 説教要約 932 信仰と理性 「神のご計画の全体1 行動を決める世界観」 甲斐慎一郎 使徒の働き20章27節 「私は、神のご計画の全体を、余すところなく彼らに知らせておいたからです」(27節)。 神の人類に対する遠大な計画は、健全な国家の建設と個人の罪からの救いという両者があります。今回から36回にわたって「神のご計画の全体」について学んでみたいと思います。 一、思想(物の考え方)について 1.近代的な思想や物の考え方 近代は明治維新以後、第二次世界大戦終結までです。これは不変的な正義や真理、すなわち偏見や先入観を捨て、客観的で合理的な知識や正義を追及した時代です。デカルトは、すべてのものから自由になった「個」というものを考えました。すなわち神からさえも自由で縛られない自律的な個人というものを追及しました。しかしこのような近代合理主義は不可能であるという批判が出て来ました。すなわち中立性、不変性、客観性を否定しました。近代合理主義の死滅、行き詰まりです。 2.現代的な思想や物の考え方 現代は第二次世界大戦以後、現在までです。これは中立的、客観的、不変的なものを徹底的に批判し、人間は必ずある枠組みから物を見ているのであって、神や伝統や権威から自由になることは不可能であり、このような抽象的な人間は存在しないという考え方です。 パラダイムとは、前提となっている理論的な枠組みのことで、人間はこのある枠組み(パラダイム)を基準にして、物を見たり、考えたりしているのです。現代哲学は近代哲学を否定し、人間は必ずある視点に立っていると教えています。すなわち万人に共通した中立的な考え方など存在しないというのが現代哲学の教えです。 ですからパラダイムを変更することは、宗教を変えるという「改宗」の問題なのです。 二、人の行動を決定する世界観について 冒頭の図は、一番外側の円が「行動」、その内側が「価値観」、さらにその内側が「信念」、最も奥の円が「世界観(歴史観)」を教えています。その人の「世界観(歴史観)」が「信念」を決定し、その「信念」が「価値観」を決定し、その「価値観」が「行動」を決定します。人の行動を決定するのは、世界観です。 三、おもな世界観(歴史観)について 1.キリスト教世界観(歴史観) 神は天地万物を創造されたが、人間は神に背いて堕落したので、神はイスラエル人を起こし、その民族を通して救い主キリストを遣わし、十字架において罪の贖いを成し遂げ、その救い主を信じる者を罪から救い、世の終わりにご自身のみこころが行われる神の国を建設されるという世界観(歴史観)です。 2.イスラム教や仏教などの異教(他の諸宗教)の世界観(歴史観) 3.無神論的世界観(歴史観)または進化論的世界観(歴史観) 宇宙は大爆発(ビッグバン)によって誕生し、人間は、最も単純な単細胞生物から少しずつ進化して現在の姿になり、未来に向かって限りなく進歩していくという神を信じない人たちの世界観(歴史観)です。 4.皇国史観 古事記や日本書紀に基づき、神話の神々から始まり、天皇が国を統治するという右翼の人たちが信じている世界観(歴史観)です。 5.共産主義の世界観(歴史観) 貧富や階級や搾取のない社会が実現するという左翼の人たちが信じている理想郷(ユートピア)の世界観(歴史観)です。 ほかにも様々な世界観があるでしょう。いずれにしても人間は、必ずどれかの世界観を持ち、それがその人の行動を決定し、それに基づいた国家を建設していくのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.02.26
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「神の計画と人の計画(2)」 2017年2月20日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」 説教要約 875 摂理と運命 説教要約 877 神を信じる人生と神を信じない人生「神の計画と人の計画(2)」 甲斐慎一郎 箴言19章21節 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごと(協会訳、新共同訳は御旨)だけが成る」(21節)。 日本語には「都合」という便利な言葉があります。この言葉には副詞として「全体で」とか「しめて」という意味がありますが、名詞としては、次のような4つの意味を持っています。 用 例 意 味1.都合が悪い――成り行き、具合、事情2.都合をつける――やり繰り、融通、便宜3.仕事の都合――手筈、手続き、手順4.都合をみて――機会、おり、場合 これらの都合がどうであるかということを決めるものは、その人の計画です。すなわち、その人の計画が、そこにあるかないかによって、これらの四つの都合がどうであるかが決まります。これらのことを分かりやすくまとめるなら、次のようになるでしょう。 1.都合が悪い――その人が周囲の「状況」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 2.都合をつける――その人が「工夫」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 3.仕事の都合――その人が「順序」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 4.都合をみて――その人が「時期」においてどのような計画を立てるかによって決まります。 この計画と都合という観点から、私たち人間の姿について考えてみましょう。 一、自分の計画しか持たない人 心の中に自分の計画しか持たない人がいます。このような人は、他の人の都合など念頭になく、ただ自分の都合しか考えない人です。すなわち、自分のためならば、どんなことをしても都合をつけますが、それ以外のことは何もせず、ただ自分に都合の良いことだけをするのです。 しかしこのような人は、だれが考えても最も未熟であるだけでなく、身勝手な人間であることがわかるでしょう。これは、神の前には自己中心の罪深い姿です。 二、他の人の計画をも考える人 これに対して他の人の計画をも考える人がいます。このような人は、自分の都合だけでなく、他の人の都合をも考える人です。すなわち、相手の人の事情をよく考え、必要ならば、その人のために何とか都合をつけて、自らの都合を後回しにするのです。 このような人は、世の中においては、角がとれた如才ない人であり、先の身勝手な人に比べれば、良い人であることは言うまでもありません。しかしどんなに他の人の都合のことを考えても、所詮、それは人間の都合に過ぎず、それこそ都合次第によっては、同じことが善にでも悪にでも変わってしまういい加減なものです。 三、神の計画を受け入れる人 それでは、人間にとって最も大切なことは、何でしょうか。それは、私たちひとりびとりに対する神の計画を知り、それを受け入れることです。 1.神は、私たちを「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」(エペソ1章4節)、そのために十字架の贖いによる救いを備えられました。 2.神は、私たちの賜物や能力が罪のために悪用されず、神と人のために十分に活用されることを願っておられます(ローマ12章6~8節)。 3.神は、私たちが地上において神よりの使命と任務を果たし、神の栄光を現すことを願っておられます(使徒20章24節)。 これが私たちに対する神の計画です。私たちは、自分の計画や都合のために、この神の計画を退けて自己中心の罪に陥り、永遠の滅びに至る者でしょうか。それとも、この神の計画を受け入れて自己中心の罪から救われ、永遠の救いにあずかる者でしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.02.19
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「神の計画と人の計画(1)」 2017年2月13日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」 説教要約 926 人生という応用問題を解く公式である神学 説教要約 962 初めに情報ありきか物理法則ありきか 「神の計画と人の計画」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、7章 「主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか」(5節)。 「万軍の主よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる』と言われました」(27節)。 この前半の5節にはダビデの計画、すなわち人の計画について、後半の27節には神の計画について記されています。そこで神の計画と人の計画について、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて考えてみましょう。 一、様々な計画 計画には様々なものが考えられますが、その形態と目的と長さに関して述べるなら、次のように分類することができるのではないでしょうか。 1.どのような計画か(計画の形態)(1)無計画――いきあたりばったりです。(2)杜撰(ずさん)な計画――いい加減なものです。(3)綿密な計画――用意周到なものです。 2.何のための計画か(計画の目的)(1)生活のための計画――肉体に関するもの。(2)人生のための計画――心に関するもの。(3)救いのための計画――霊に関するもの。 3.どれくらいの計画か(計画の長さ)(1)目先の計画――差し当たりのものです。(2)一生の計画――生涯に関するものです。(3)永遠の計画――来世まで及ぶものです。 二、人の計画 ダビデが主の宮を建てようとしたことは、「私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた」(第一歴代誌22章7節)とあるように、無計画な思いつきやいい加減なものではなかったに違いありません。しかしこれは、次のような三つの理由で神のみこころではありませんでした。 1.ダビデは軍人として多くの人の血を流してきたので、神聖な神殿を建てるにはふさわしくありませんでした(第一歴代誌22章8節)――性質。 2.ダビデは戦いの王として周囲の国々を平定してきたので、回りのすべての敵に煩わされる危険性がありました(同22章9節)――立場。 3.ダビデには神殿を建てるために必要な金銀や材料等を準備するという大切な別の仕事がありました(同22章14節)――使命。 このように人の計画というものは、綿密に計画しても、欠けたところがあるものであり、まして無計画や杜撰(ずさん)な計画は決して神のみこころではありません。また人の計画には、生活のための計画や目先の計画が多く、人生のための計画や一生の計画はまれです。しかしこのような計画でさえも、神のみこころではないことを忘れてはなりません。 三、神の計画 これに対して神の計画は、どのようなものでしょうか。 1.その人の性質や賜物、立場や位置、そして使命や任務を熟慮した綿密な計画です。 2.神の前に生きる救いのための計画です。 3.天の御国にまで至る永遠の計画です。 「わたしが、あなたのために家を建てる」(27節)というすばらしい神の計画を知らされたダビデは、主の前に座して語っていますが、その言葉にあふれているものは、次のような3つのことです。1,第一は、謙虚な感謝です(18~21節)。2.第二は、一途な献身です(22~24節)。3.第三は、大胆な祈祷です(25~29節)。 神の計画を知らされた私たちは、へりくだって感謝し、すべてをささげて神に従い、マリヤのように「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と祈るでしょうか。それとも神の計画に背を向けて、自分の計画を押し通すでしょうか。 もし私たちが神の計画に背を向けて自分の計画を押し通すなら、神の計画はむなしくなりますが、もし私たちがへりくだって感謝し、すべてをささげて神に従うなら、神の計画にあずかることができるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.02.12
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「計画に現れる愛」 2017年2月6日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月7日放映「神に会う備え」 説教要約 863 裸の起原に見る進化論の誤り、その1 説教要約 864 裸の起原に見る進化論の誤り、その2「計画に現れる愛」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章28~30節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名なみことばから「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るという言葉が2回(5、11節)、また「ご計画」という言葉が2回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むなら、神の「愛」は、「計画」に現れていることがわかります。 すなわち、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画してくださるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かります。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています(詩篇31篇15節、139篇16節)。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、一言で言えば、罪です。 聖書は、いわゆる過失致死や過失致傷の罪――計画したのではない罪――以外の罪は、計画性があると教えています(出エジプト21章13節、欄外の訳)。たとえばダビデが犯した姦淫と殺人の罪は、計画的なものであり、様々なことを考え、策略を巡らしながら承知で犯したものです(第二サムエル11章)。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことです(民数記22章32~34節)。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、この言葉から私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をもそのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛することができるようになります(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画に現れる愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間の愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、配慮することこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.02.05
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