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「神のご計画の全体4 2017年6月25日 神のことばである聖書」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」 説教要約 569 聖書に基づく確かな信仰 説教要約 677 聖書に親しむ 説教要約 939 神の啓示と人の探求 「神のご計画の全体4 神のことばである聖書」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 私たちは、「聖書は神のことばである」と安易に語ったり、伝えたりしていますが、このことばのほんとうの重みを知っているでしょうか。聖書は、なぜ神のことばなのでしょうか。私たちは、このことをしっかりと心に銘記しなければなりません。そうしなければ、どんなに聖書を読んで、その内容を知ったとしても、それは普通の書物を読んでいるに過ぎず、その結果、永遠のいのちや救いに関係がないばかりか、私たちの心と生活に何の変化も起きないからです。 一、神よりの啓示の書である聖書 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1章1、2節)。 ここには「神は……語られました」と明白に述べられています。聖書は、人間に対して神が語っておられることを記した書物です。このことを専門的なことばで「啓示」と言います。 「啓示」ということばは、もともと「おおいをとる」とか「ベールをはぐ」という意味があります。ですから「啓示」とは、人間の理性や人の探求では分からない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 私たちは、この神より啓示された聖書によってのみ、真の神とその神のみこころや神のご計画、また人間の窮状とその救い、さらに世の終わりや次に来る世(来世)について知ることができるのです。 二、神の霊感を受けた書である聖書 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益す」(16節)。 「聖書の預言はみな……決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(第二ペテロ1章20、21節)。 聖書は、神の語りかけを記した神より啓示された書物ですが、その神の語りかけを人間がどのようにして誤りなく記すことができるでしょうか。神は、聖書の記者たちが聖書を書くにあたって、間違いなく神の啓示を記すように働かれました。このことを専門的なことばで「霊感」と言います。 「霊感」ということばは、もともと「神の息や神の霊を吹き込まれる」という意味があります。H・オートン・ワイレーは「霊感とは、その書き記すところが、神の意志の表現となり得るために聖書の記者たちの上に与えられる聖霊の働きである」と述べています。 三、神によって必ず成就する書である聖書 「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」(使徒1章16節)。 「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55章11節)。 聖書のことばは、必ず成就します(ルカ1章20節)。すなわち信じる者には、聖書に記されているすばらしいことが必ず成就し、信じない者には、聖書に記されている恐ろしいことが必ず成就するのです。 なぜ聖書のことばは、必ず成就するのでしょうか。それは、聖書は神から啓示され、さらに誤りなく記されるように神によって霊感された正真正銘の神のことばだからです。 聖書は、神から啓示されたことばです。ですから私たちは、神のことばを聞かなければなりません。聖書は、神によって霊感されたことばです。ですから私たちは、神のことばを信じなければなりません。聖書は、神によって必ず成就することばです。ですから私たちは、神のことばを実行し、人々に宣べ伝えなければならないのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.06.23
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「神のご計画の全体3 2017年6月18日 神の息である聖霊」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 説教要約 887 イエスを仰ぎ見なさい(1) 説教要約 888 イエスを仰ぎ見なさい(2) 説教要約 889 耕地を開拓せよ「神のご計画の全体3 神の息である聖霊」 甲斐慎一郎 ヨハネ20章19~23節 キリスト教の教会暦における行事の中で最も大切で代表的なものは次の三つです。▽クリスマス(キリスト降誕節)▽イースター(キリスト復活節)▽ペンテコステ(聖霊降臨節) クリスマスは、誰でも知っていますが、イースターは少数の人しか知らず、ペンテコステは、ほとんど知られていませんので、ペンテコステの意義について学んでみましょう。 一、いのちの息を吹き込まれた人間 人間の本質は何かということについては、およそ次のような三つの考え方があります。▽人の究極の実在は物質である(唯物論者)▽人の究極の実在は動物である(進化論者)▽人の究極の実在は神の像に似せて造られ た不滅の霊である(聖書、キリスト者) 聖書は、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と教えています(創世記2章7節)。「いのちの息」とは「霊」のことです。 人間は単なる物質でもなければ、動物でもなく、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者です。人の人たるゆえんは、この霊を持つところにあり、人と他の動物との違いは、ここにあります。聖書は、人間以外の動物に知恵はなく(ヨブ39章17節)、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9章10節)、「人は……悟り(神を知る知識)がなければ、滅び失せる獣に等しい」(詩篇四九篇20節)と教えています。すなわち人は、霊が死んで、神を知る知識がなければ、動物に等しいのです。 二、神の息である聖霊について キリストは、弟子たちに「息を吹きかけて……『聖霊を受けなさい』」と言われました(22節)。旧約聖書の原語であるヘブル語も、新約聖書の原語であるギリシャ語も、「霊」という言葉は、「息、風、空気」という言葉と同じです。聖霊を「空気」にたとえるなら、最も分かりやすく、理解することができます。 空気は、A・B・シンプソンが指摘しているように次のような特徴と性質があります。 ▽人は息をすることによって生きています。 私たちは息を吸う(聖霊を受ける)ことによって、(霊的に)生きることができます。 ▽空気には音を伝播する働きがあります。 私たちは空気(聖霊)のゆえに音(神の声)を聞くことができます。 ▽空気には光を拡散する働きがあります。 私たちは空気(聖霊)のゆえに明るく光(神の真理)に照らされることができます。 ▽空気には熱を保温する働きがあります。 私たちは空気(聖霊)のゆえに適度な熱(神の愛)の中に保たれています。 パウロの言うように、まさに「私たちは、神(聖霊)の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17章28節)。 三、聖霊の息を必要としている人間 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」となりましたが、この人の霊は、神の霊(聖霊)がともにおられることによってのみ生き続けることができます(創世記6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました。 人が堕落したことは、人の霊から神の霊(聖霊)が離れて、その人の霊が死んだということです(創世記2章17節)。そこで神は、人に聖霊を与えて、人の霊を再び生き返らせるように計画し、そのことを実行されました。これがキリストの十字架と復活による罪の贖いとその贖いが成し遂げられたことによってもたらされる聖霊の降臨です。ペテロは「神はこのイエスをよみがえらせました。……神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と述べています(使徒2章33節)。 実にキリストが降誕されたクリスマスは、罪の贖いを成し遂げるイースターのためであり、そのイースターは、私たちに聖霊を注がれるペンテコステのためなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.06.17
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「神のご計画の全体2 2017年6月11日 道と真理といのちであるキリスト」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月9日放映「新しい事をされる神」 説教要約 858 キリスト教は証しの宗教、その1 説教要約 859 キリスト教は証しの宗教、その2 説教要約 860 キリスト教は証しの宗教、その3 「神のご計画の全体2 道と真理といのちであるキリスト」 甲斐慎一郎 ヨハネ14章1~12節 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6節)。 一、第一義的な意味 まずこのみことばの第一義的な意味を考えてみましょう。 1.道であるキリスト キリストが道であるとは、どのようなことでしょうか。それは、このことばのすぐ後に、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(6節)とあるように、キリストこそ神に至る唯一の道であることを教えています。 ヤコブは、その頂が天に届くはしごの夢を見ましたが(創世記28章12節)、このはしごこそキリストご自身です(ヨハネ1章51節)。神と人との間には、罪という大きな溝があって、だれも渡ることはできませんでしたが、キリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」(第一ペテロ2章24節)、私たちのために「新しい生ける道を設けてくださった」のです(ヘブル10章20節)。 2.真理であるキリスト キリストが真理であるとは、どのようなことでしょうか。それは、キリストご自身が真理であることを教えています。 それとともに、「わたしを見た者は、父を見たのです」(9節)とあるように、私たちは、キリストを知るなら、それは、そのまま神を知ったことになるということを教えているのです。なぜなら、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿ってい」るからです(コロサイ2章9節)。 3.いのちであるキリスト キリストがいのちであるとは、どのようなことでしょうか。それは、キリストご自身がいのちであることを教えています。 それとともに、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」(12節)とあるように、私たちは、キリストを信じ受け入れるなら、神のいのちが与えられ、神のわざを行うことができることを教えているのです。 二、一般の法則の場合 私たちがどこかへ出かけて務めを果たそうとする場合、自ずから次の三つのことをしているのではないでしょうか。1.目的地に至るまでの正しい道を通る2.正しい目的地に着くことができる3.必要な務めを果たすことができる このようなことから「道と真理といのち」を一般の法則に当てはめるなら、次の三つのことを表しているのではないでしょうか。▽道――正しい手段や方法▽真理――正しい目的や目標▽いのち――正しい結果や成果 目的のためには手段を選ばずでは、決して良い結果を得ることはできないのです。 三、キリスト者の場合 パウロは「テモテへの手紙、第二」の4章において、次のような告白をしています。 1.「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(5節)――パウロが通るべき道 2.「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(7節)――パウロが到達すべき真理 3.「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」(8節)――パウロが受けるべきいのち このようなことから「道と真理といのち」をキリスト者に当てはめるなら、次の三つのことを表しているのではないでしょうか。▽道――キリスト者が通るべき道▽真理――キリスト者が到達すべき真理▽いのち――キリスト者が受けるべきいのち 私たちは、神がそれぞれに備えられた細い摂理の道を、神が示される正しい目的地や真理という「目標を目ざして、一心に走っている」なら、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」ことができるのです(ピリピ3章14節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.06.10
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「神のご計画の全体1 2017年6月4日 万物の創始者・統治者・完成者である神」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月25日放映「聖書に親しむ」 説教要約 906 時空を超越した神の救い、その1 説教要約 907 時空を超越した神の救い、その2 「神のご計画の全体1 万物の創始者・統治者・完成者である神」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章3~11節 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(6節)。 一、万物の創始者である神 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)と記し、神は「万物の創造者」であると教えていますが、これは、神は「万物の創始者」でもあることを啓示しています。しかも「それは非常によかった」とあるように(同1章31節)、神は非常に「良い働きを始められた方」です(6節)。 私たちも、この世に誕生したという初めがあるからこそ、それ以後の人生があるのであり、初めがなければ、それこそ何も始まりません。私たちは誕生という初めだけでなく、学校生活には入学、会社生活には入社、結婚生活には入籍、信仰生活には入信という初めがあります。しかし私たちにとって最も大切なことは、それが神によって始められた良い働きであるかどうかということです。「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば」、だれもそれを「滅ぼすことはできない」のです(使徒5章38、39節)。 二、万物の統治者である神 宇宙や地球には、秩序正しい自然界の法則が定められています。「ヒストリー・イズ・ヒズストーリー(歴史は神の物語)」という言葉のように、世界の歴史を学ぶなら、神は、すべての国の人々に「それぞれ決められた時代と、その住まいの境界とをお定めにな」ったことがわかります(使徒17章26節)。人の心には、善悪の規準に基づいた良心の平安や呵責というものがあり、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6章7節)。 しかしこの世は「悪人が栄え、義人が苦しむ」という「善悪の法則」だけでは説明できない不可解なことに満ちています。これに関しては「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50章20節)との言葉のように、神が無限の知恵によって必要なすべてのものを予め知って配慮してくださる「神の摂理の法則」というものがあります。 神は、万物の創始者であるだけでなく、宇宙や地球、世界の歴史や人間の社会を自然界の法則や善悪の法則、また神の摂理の法則によって支配しておられる万物の統治者です。 三、万物の完成者である神 初めに神が天と地を創造されたという「創造説」と、宇宙は大爆発によって誕生したという「ビッグ・バン説」とに共通していることは、この宇宙には明らかに初めがあるということです。しかしビッグ・バン説は、完成することについては何も教えていませんが、聖書は、神がその天と地を「完成された」と記しています(創世記2章1節)。 私たちも、この世に生を受けたという初めがあるからこそ、それ以後の人生があるのですが、完成しなければ何にもなりません。神は、「良い働きを始められた方」であるだけでなく、「それを完成させてくださる」方です(6節)。神は、「わたしは、終わりの事を初めから告げ……わたしの望む事をすべて成し遂げる」と仰せられる万物の完成者です(イザヤ46章10節)。 しかし現実の世界には、神の摂理では、どうしても理解することができない矛盾や不可解な出来事が数多くあります。このようなことに関して神は、すべてのことを世の終わりに公平にさばかれ、明らかにされます(第一コリント4章5節)。これが最後の審判です。 神の目から見るなら、完成したことも、人の目には完成したとは見えないことに関しては、神は、最後の審判によって物事を完結してくださる万物の完成者なのです。 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ローマ11章36節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.06.03
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