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「神の恵みと人のわざ」 2017年12月31日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月29日放映「被造物が証明している神の存在」 説教要約 1059 過去を変えてこそ将来がある「神の恵みと人のわざ」 甲斐慎一郎 詩篇103篇1~22節 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)。 私たちは、一日、そして一年を終える時、今までのことを回顧します。しかしその過去の出来事の中に何を見、何に心を留めるかによって、それは私たちの信仰の成長にとってプラスにもマイナスにもなるのです。 一、自分のわざに目と心を留める この103篇は、1、2節と20~22節において自分のたましいと他の人たちに神への賛美を呼びかけています。その中間の3~19節には、ただ神のなされたわざと、その恵みが記されているだけで、人間のわざや働きについては何も記されていません。文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。 確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、その救いを与えてくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 聖書は、人間は生まれながらの罪人であると教えています(エペソ2章3節)。人は、神を全く恐れない不敬虔な者であり(ローマ3章18節)、「高ぶる者」、「ねたみ……でいっぱいになった者」です(ローマ1章30、29節)。この「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」こそ人間の代表的な罪です。 私たちが神のなされたわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執して、それを誇示するなら、私たちの心は、このような罪に満ちてしまうのです。 聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」と教えています(ヤコブ1章17節)。ですから自分のわざや働きにおいて、良いわざは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて反省し、そこから教訓を学んだなら、やはり神にゆだねなければなりません。このようにする時、私たちは、神と人の前において成長していくことができるのです。 しかしもし私たちが、自分のわざや働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、有頂天になって人を見下げ、悪い結果の時は、失望落胆して神と人を恨むようになるでしょう。どちらにしても神のなされた恵みのわざを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、感謝の心を持つことができず、あらゆる罪に陥ってしまうのです。 二、神の恵みに目と心を留める しかし私たちが人間のわざや自分の働きを忘れ、神の恵みのわざを見るなら、事態は全く一変し、「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」とは全く反対のものが与えられます。 1.「敬虔さ」が与えられます。神の恵みを忘れず、それに心を留めることは、神に栄光を帰することであり、神を恐れ、敬うことです。「主を恐れる者」(11、13、17節)とは、神の恵みを忘れず、神を敬う者であることは言うまでもありません。 2.「謙虚さ」が与えられます。人は、神の恵みのわざに心を留める時、自分のわざや働きの小ささと卑しさを知り、「私たちがちりにすぎないこと」(14節)を悟るのです。 3.「愛」が与えられます。私たちは、「あわれみ深く、情け深い」主、また「怒るのにおそく、恵み豊かである」神(8節)に心を留める時にのみ、その神の愛に応えて、愛が与えられるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.12.30
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「新約聖書にみる降誕の意義」 2017年12月24日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年7月17日放映「創造論と進化論」 「新約聖書にみる降誕の意義」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書1章1~18節 私たちは、新約聖書を読むならば、そこに旧約聖書において準備され、芽を吹き、ひな型として示されたキリストとその救いが、ついに完成し、開花し、実体として現されたことを見るのです。 「ヨハネの手紙、第一」を記した使徒ヨハネは、1章と2章において「神は光である」、3章と4章において「神は愛である」、5章において「神はいのちである」と述べています。 一、真の光――キリストは神が人類に与えられた最高の啓示です(9、18節) 私たちにとって何かが「見える」ためには、次の二つの条件が満たされなければなりません。すなわち「光がある」ということ、そして「目が見える」ということです。私たちの目がどんなによく見えても、もし光がなければ、何も見えません。 神と霊の世界に関することも同じであり、神が啓示の光によって私たちを照らしてくださらない限り、私たちは神に関することは何一つ分からないのです。 神は、まず自然界の光または創造の光によって私たちに神の存在を示し(ローマ1章20節)、次に歴史の光または旧約聖書の光によって神の性質を示しておられましたが、最後にキリストの受肉によって真昼のように明るく神ご自身を示してくださったのです。 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と記されている通りです(18節)。この方こそ、「すべての人を照らす……まことの光」なのです(9節)。 どんなにすばらしい恵み、すなわち次に述べる「神が人類に与えられた最上の贈り物」も、それが恵みであるとわからなければ、人は恵みであるとは思わないでしょう。それで恵みが恵みであるとわかるように、私たちの目を開かせるものが「まことの光」です。 しかしどんなに明るく啓示の光が私たちを照らしても、もし目が見えなければ神を知ることはできません。信仰こそ私たちの目を開かせるものであり、目が見えるための唯一の条件なのです。 二、真の愛――キリストは神が人類に与えられた最上の贈り物です(16、17節) ヨハネは「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」と述べています(16節)。恵みとは「受ける資格のない者に与えられる無代価の賜物」のことであり、いわば神よりの贈り物です。これは神の計り知れない愛の現れであることは言うまでもありません。 私たちは、自然の恵みという神よりの贈り物がなければ、一瞬たりとも生きていくことはできません。しかし神は、この自然の恵みの上にさらに私たちを罪から救うために掛け替えのないひとり子を与えるという恵みを加えられたのです。これ以上のすばらしい贈り物がほかにあるでしょうか。 三、真のいのち――キリストは神が人類に与えられた最善の救いです(12、13節) 神がキリストをこの世界に誕生させたのは、何のためでしょうか。ヨハネは、この神よりの最上の贈り物であるキリストを「受け入れた人々……には、神の子どもとされる特権」(12節)が与えられ、「この人々は……神によって生まれたのである」(13節)と述べています。すなわち神は、信じる人々の心の中にキリストを住まわせるために、キリストをこの地上に誕生させたのです。 キリストは、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」(マタイ1章23節)と呼ばれていますが、罪から救われる真の救いとは、信じる人々の心の中にキリストが宿り、そのキリストのいのちにあずかって、私たちが神と永遠に一つになることなのです。 この世は、暗黒と憎悪と死の状態にあります。しかし救い主イエス・キリストの降誕は、私たちに暗黒に対して光を、憎悪に対して愛を、死に対していのちを与えるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.12.23
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「旧約聖書にみる降誕の意義」 2017年12月17日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年7月7日放映「神の啓示と人の探求」 「旧約聖書にみる降誕の意義」 甲斐慎一郎 創世記3章15~21節 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということばがあります。歴史には、「広さ、長さ、高さ、深さ」(エペソ3章18節)があり、結果や結論が出ていますので、そこから真理を学ぶことができます。しかし個人の経験は、狭く、短く、低く、浅いもので、結果や結論も出ていませんので、そこから真理を学ぶことはできません。旧新約聖書は、「世の初めから世の終わりに至るまでの人類の歴史」すなわち「歴世歴代にわたる神の計画」が記されていますので、クリスマスの意義についての真理を学ぶことができます。 一、罪の悲惨さ――救い主の必要性について(16~19節) この創世記の3章16~19節には、堕落した人類の始祖に対して神が苦しみと呪いを宣告されたことが記されています。ここで注意すべきことは、この人類が受けた苦しみと呪いは、罪に対する刑罰として与えられたということです。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこに余りにも多くの、しかも目を覆いたくなるような赤裸々な罪の行為が書かれているのに驚くことでしょう。殺人をはじめ、姦淫や盗み、放縦や残虐な行為が次から次へと記され、旧約聖書の至る所に神への背信と不信仰と反逆の行為が満ちているのです。 旧約聖書にこのように多くの罪が記されているのは、私たちに罪を犯すことを奨励するためではありません。それは、この創世記3章にある人類の堕落によって罪が全人類に及んだだけでなく、その罪がどんなに恐ろしいものであり、どんなに残酷なものであるかということを、いやと言うほど教えて、人類にはどうしてもこの罪からの救い主が必要であることを私たちに痛感させるためなのです。 二、救い主の予表――救い主のひな型について(21節) 「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださ」いましたが(21節)、この皮の衣は動物を犠牲にしてできたものであることは言うまでもありません。彼らの罪のために動物が殺されて「いけにえ」とされたのです。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこに目を通すのも繁雑なくらいに詳しく牛や羊を殺していけにえにする宗教的な儀式が書かれているのに気づくでしょう。 旧約聖書にこのように詳しく牛や羊を「いけにえ」とする宗教的な儀式が記されているのは、野蛮で原始的な宗教を教えるためではありません。それは、神は聖い方ですから、罪は必ず罰せられなければならないこと、また「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦し」(ヘブル9章22節)も救いもないこと、そしてこれらの牛や羊は「模型」に過ぎず、本物の「いけにえ」はキリストであることを教えるためなのです。 神は私たちに罪を示して救い主の必要性を自覚させるだけでなく、いけにえの儀式を通して救い主のひな型を示し、罪から救われるための道を予め教えておられるのです。 三、神の約束――救い主に関する預言について(15節) 「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(15節)という言葉は、原福音と呼ばれ、キリストは十字架の苦難を受けるが、悪魔を完全に滅ぼすということを教えている救い主に関する最初の約束であり預言です。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこにキリストの誕生をはじめ、その生涯から十字架の死と復活、また再臨に至るまで詳細に預言されているのに気づくでしょう。 旧約聖書にこのように多くの預言が記されているのは、人々の興味や好奇心を満足させるためではありません。それは、神は私たちに罪を示して救い主の必要性を自覚させ、またいけにえの儀式を通して救い主のひな型を示すだけでなく、具体的に必ず約束通りに救い主を遣わしてくださるということを知らせるためなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.12.16
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「真の人であるキリスト」 2017年12月10日 インターネットのテレビ局CGNTV(→みことばに聞く→関東→東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年5月19日放映「目に見える救いと目に見えない救い」 「真の人であるキリスト」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、2章5一18節 ヘブル人への手紙の1章には、天使に勝る真の神であるキリストが記されています(1章4一14節)。これに対して2章においては、そのキリストが天使よりも低い人となられたことが記されています(7、9節)。 真の神であるキリストは、なぜ肉体を持つ人間となられたのでしょうか。 一、人類の新しい始祖となるために人となられたキリスト(5一10節)――キリストの受肉は私たちに人間の尊さを教えています 聖書は、人間はみな罪人であると教えています。これは、私たち人類の古い始祖である「最初の人アダム」(第一コリント15章45節)が神に背いて罪を犯したため、その罪が全人類に及んだからです(ローマ5章12、14節)。 ですから私たちは、この罪から救われるためには、「最初の人アダム」の支配から脱して、罪を持たない人類の新しい始祖の支配下に入れられることが必要です。 しかし罪のない人間はいないので、神の御子キリストが人とならなければなりませんでした。すなわちキリストは、「地から出て、土で造られた者」である「最初の人アダム」に代わり、「天から出た者」である「最後のアダム」として、人類の新しい始祖となられました(第一コリント15章45一47節)。 神は、人間を罪から救うために御子を人とされました。神は、これほどまでに人を尊くみておられます。しかし人間は、その尊さだけを教えられるならば、誇り高ぶる危険性があります。けれどもそのような時こそ、謙遜の模範者として、最も低い所まで降りて来られたたキリストを思い出さなければなりません(9、10節、ピリピ2章6一8節)。 実にキリストの受肉は、私たちに人間の尊さとともに、尊大にならず、謙虚にならなければならないことを教えているのです。 二、いけにえとなるために人となられたキリスト(11一15節)――キリストの誕生は私たちに生命の尊さを教えています 「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっていた人々」とは(15節)、とりもなおさず罪の奴隷となっている人間のことです(ヨハネ8章34節、ローマ6章16節)。 神の義は、罪人を罰することを要求しますが、神の愛は、罪人を赦し、救うことを願うものです。この神の義と、神の愛の両方を満足させるためには、罪のない人間が罪を贖うためのいけにえが必要です。 しかし罪のない人間は、どこにもいないので、神の御子キリストが人となられたのです。神は、人間を罪から救うために御子を人とし、その生命を犠牲にされました。罪とは、これほど恐ろしいものです。しかしまたすべての人の生命は、キリストが「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」る(第一ペテロ2章24節)ほど尊いものなのです。 実にキリストの誕生は、私たちに生命の尊さを教えているのです。 三、大祭司となるために人となられたキリスト(16一18節)――キリストの生涯は私たちに人生の尊さを教えています 人間は、肉体を持っているために独特の不自由さや不便さだけでなく、様々な弱さや悩み、また痛みや苦しみや悲しみ、さらに誘惑や試練があるものです。これは、肉体を持つことによってのみ理解することができます。 キリストは、大祭司としていけにえをささげるだけでなく、肉体を持っている人間の弱さに同情し、神にとりなしをして、人を助けるために、肉体をもって生活され、罪は犯されませんでしたが、すべてのことを体験されました。神は、私たちが肉体を持っていても、罪のない生活をすることができるように、御子にも人の生活を送らせたのです。 実にキリストの生涯は、私たちに人生は決して罪を犯してはならない尊いものであることを教えているのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.12.09
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「真の神であるキリスト 」 2017年12月3日インターネットのテレビ局CGNTV(→みことばに聞く→関東→東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年5月12日放映「目に見える罪と目に見えない罪」 「真の神であるキリスト」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、1章1節~二章4節 ヘブル人への手紙の1章と2章には、キリストの二つの性質について記されています。▼1章――キリストは真の神である▼2章――キリストは真の人である まず真の神であるキリストについて学んでみましょう。 一、ご自身を啓示される神(1、2節) ヘブル人への手紙の著者は、この手紙を記すに当たって何の挨拶もなく、いきなり「神は……語られました」と書き始めています(1節)。彼がこれから書こうとしていることは、人間の考えや思想ではなく、神の啓示であることを強調するかのようです。 「啓示」という言葉は、もともと「おおいを取る」とか「ベールをはぐ」という意味があります。それは、人間の理性や人の探求ではわからない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです 真の神は「汎神論者」が考えているような人格を持たない方ではなく、また「理神論者」が思っているような啓示のない方でもありません。「知性と感情と意志」という人格を持ち、語るべき言葉をもって、ご自身を人に啓示される方こそ真の神です。「われらの神は来て、黙ってはおられない」とある通りです(詩篇50篇3節)。 二、キリストについての啓示(2~14節) ヘブル人への手紙の著者は、神の啓示によってキリストの六つの姿を私たちに教えています(2、3節)。これらは、次のように二つずつ、三つに分けることができます。 1.主権や権威――名実ともに最高の主権者(1)万物の相続者――名誉的な主権者(2)世界の創造者――実質的な主権者 2.本質や本性――すべてにおいて完全な神(3)神の栄光の輝き――神の栄光そのもの(4)神の本質の現れ――神の本質そのもの 3.わざや働き――宇宙と霊界の秩序を維持(5)万物の保持者――宇宙の秩序を維持する(6)罪のきよめ主――霊界の秩序を維持する さらにこの手紙の著者は、旧約聖書を引用することによって天使に勝るキリストの四つの姿を私たちに教えています(4~14節)。1.キリストは神の長子(4~6節)2.キリストは永遠の王(7~9節)3.キリストは不変の創造者(10~12節)4.キリストは至高の権威者(13、14節) これらは、キリストが真の神であることを教える驚くべき神の啓示です。 三、啓示に対する応答(2章1~4節) 「神は……語られました」という驚くべき神の啓示を受けた人間のなすべきことは何でしょうか。それは、ただ一つ、真剣に神の言葉に耳を傾けて、それに聞き従うことであり、それ以外にはあり得ません。私たちが神の語られることに耳を傾けなければならない人間の側の理由は、次の三つです。1.頭脳的に理解するため――目が開かれる2.霊的に体験するため――口が開かれる3.肉体的に実践するため――手足を動かす 幼児は、何もわからないようでも、正常な能力があるならば、大人の話を聞き続けているうちに、それを理解するようになり、次に語れるようになり、ついには大人の語る通りに行動するようになります。 信仰の世界も同じことを言うことができます。私たちは、聖書という神の言葉を聞き続けているなら、次第にそれを理解することができるようになって目が開かれ、次に信じて心の体験となり(ローマ10章17節)、口から信仰告白と祈り、感謝と賛美、また証しの言葉が出るようになり(第二コリント4章13節)、ついには手足を動かして、神のみこころを実践することができるようになるのです(ヤコブ1章25節)。 私たちは、どれだけ真剣に神の言葉に耳を傾けているでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.12.02
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