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「神のご計画の全体21 2017年11月26日 神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年5月5日放映「目に見える神と目に見えない神」 神の愛は、空間的には、第一の天(大気圏)、第二の天(広大な星の世界)、そして第三の天(聖徒や御使いの住む所)にまで及ぶ最も広い愛です。時間的には世の初めより世の終わりまで「とこしえからとこしえまで」(詩篇90篇2節)及ぶ最も長い愛です。さらに人を罪から救い、正しく聖なる人とするために、ご自分のいのちを捨てるほど、最も高潔で、高尚な愛です。そして罪のためにどん底に落ち込んでいる人をも愛し、罪から救い、天の御国まで引き上げてくださる最も深い愛です。「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、3章14~21節 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(18、19節)。 この御言葉から神の愛の広さ、長さ、高さ、深さについて学んでみましょう。 一、神の愛の広さ 広さの反対は狭さや狭量さですが、これには二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手が好ましい姿でも、嫌悪すべき姿でも、どのような状態でも、どんな時でも人を愛されます。箴言には「友はどんなときにも愛するものだ」と記されています(17章17節)。これが第一の神の愛の広さです。 神は、義人でも罪人でも、聖なる人でも汚れた人でも、貴賎上下の別なく、人種の差別なく、あらゆる階層のすべての人を愛されます。これが第二の神の愛の広さです。 この神の愛の広さに対して私たちの愛は何と狭いことでしょうか。 二、神の愛の長さ 長さの反対は短さや短気ですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、人がご自分に逆らって楯突いた時も、堪忍袋の緒が切れて愛することを途中で止めることなく、どこまでも忍耐深く私たちを愛されます。これが第一の神の愛の長さです。 神は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31章3節)とあるように私たちを永遠に愛されます。これが第二の神の愛の長さです。 この神の愛の長さに対して私たちの愛は何と短いことでしょうか。 三、神の愛の高さ 高さの反対は低さや低俗ですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手がどのような状態の時でも、どんな時でも、どのような罪人をも愛されますが、悪と妥協する低俗な愛ではなく、人を罪から救い、正しく聖い人とするために、ご自分のいのちを捨てるほど、その愛は高潔で、高尚です。これが第一の神の愛の高さです。 神は、罪のためにどん底に落ち込んでいた人をも愛し、天の御国に引き上げてくださいます。これが第二の神の愛の高さです。 この神の愛の高さに対して私たちの愛は何と低いことでしょうか。 四、神の愛の深さ 深さの反対は浅さや浅薄さですが、これにも二つの意味があるのではないでしょうか。 神は、相手のうわべや目先の姿だけでなく、心の奥底までご覧になり、先のことまで深く考える深謀遠慮の愛をもって私たちを愛されます。これが第一の神の愛の深さです。 神は、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5章20節)とあるように、どんなに罪深い者をも愛して救われます。これが第二の神の愛の深さです。 この神の愛の深さに対して私たちの愛は何と浅いことでしょうか。 五、聖霊によって与えられる神の愛 この神の愛の広さ、長さ、高さ、深さが余すところなく現されたのがキリストの十字架です。私たちを罪から救うために、人に捨てられ、ご自分を捨てられ、神に捨てられたキリストを仰ぐ時、私たちは、神の愛がどれほど広く、長く、高く、深いものであるかを理解することができます。 しかし生まれながらの人間は、この神の愛を知らず、狭く、短く、低く、浅い愛しか持っていません。私たちは、自分の愛がどれほど狭く、短く、低く、浅いものであるかを認め、心から悔い改め、信仰によって、キリストが私たちの心に住んでくださる時(17節)、「私たちに与えられた聖霊によって」広く、長く、高く、深い「神の愛が私たちの心に注がれ」るのです(ローマ5章5節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.11.25
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「神のご計画の全体20 2017年11月19日 聖書が教える人生ドラマ」インターネットのテレビ局CGNTV(→みことばに聞く→関東→東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年4月3日放映「信仰に成長する秘訣(3)」 「神のご計画の全体20 聖書が教える人生ドラマ」 甲斐慎一郎 申命記8章1~20節 ドラマという言葉は、一般には「演劇」と訳されています。しかしこの英語の語源は、ギリシャ語の「行為」という言葉であり、ドラマチック(劇的な)という形容詞でよく使われるように、ドラマには「劇的な事件」という意味があり、それは必ずしも「演劇」とか「芝居」というような虚構の世界だけを意味しているのではありません。事実や現実の世界でも、いわゆる劇的であるならば、それはドラマなのです。 このように考えていくならば、私たちの人生もドラマです。また聖書は、神と人間と悪魔という三者の三つ巴の戦いを記した壮大な歴史ドラマであるということができます。 この聖書のドラマの特徴は、時間的には世の初めより世の終わりまで記した最も長いものであり、空間的には上は天の御国より下は地獄まで及んでいる最も広大なものです。しかし最大の特徴は、私たち自身が、このドラマの中に生きていることであり、私たちは単なる観客や読者でいることは絶対にできないということです。 一、その構成について まず聖書のドラマまた私たちの人生ドラマの構成について考えてみましょう。 第一に、このドラマは、神の御心や計画という筋書きやストーリーがあるということです。神は、その摂理によって様々なところに伏線を敷き、また悪魔や悪人でさえも用いて、ドラマには欠かせない悪役を演じさせているのです。 第二に、このドラマは虚構の世界ではなく、事実や現実の世界であるということです。私たちは、「事実は小説よりも奇なり」という言葉のように、小説よりも不思議な事実や現実の世界の中で、二度と繰り返すことができない厳粛な人生を送っているのです。 第三に、このドラマは原作者が神であるとともに主人公であるということです。神は、この世界を支配し、その主権と愛によってこの世界に介入されるのです。 二、その主題について 次にこの聖書のドラマまた私たちの人生ドラマの主題は何でしょうか。一言で言えば、「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されること」です(5節)。 1.訓練の基礎――私たちのうちにあるものを知ることです(2節)。 私たちは、苦しみに会う時、最も醜くて罪深い本性や地金が表れてきますが、それを通して神は、私たちに本当の姿や実質を教えて、その実質にふさわしい訓練をされるのです。 2.訓練の目的――主の口から出るすべてのもので生きるためです(3節)。 最も醜くて罪深い自我を示された私たちは、神のもとに追いやられ、神によって生きる以外に真理の道を歩むことができないことが分かるのです。 3.訓練の結果――ついに私たちをしあわせにすることです(16節)。 真のしあわせは、神の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶことです(ヘブル12章10、11節)。 三、その見方について 最後にこのドラマの見方について考えてみましょう。三つの見方があります。 1.自分の立場から見る見方です――これは誰でもしていることですが、どうしても主観的になり、多くの場合、視野が狭く、浅薄で低い見方になりやすいのです。 2.観客または読者の立場から見る見方です――これは自分を離れて自分を客観的に見ることであり、相手の立場に立って見ることもでき、より真理に近づく広い見方です。 3.原作者である神の立場から見る見方です――これこそ様々な人間的な限界や環境的な障害を乗り越えて、最も真理に近く、高尚で深遠な理想的な見方です。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.11.18
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「神のご計画の全体19 2017年11月12日 神の支配とサタンの支配」インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年3月19日放映「信仰に成長する秘訣(2)」 「神のご計画の全体19 神の支配とサタンの支配」 甲斐慎一郎 ヨブ記、1章6~12節 一、サタンは、この世の神であり、世全体は悪い者の支配下にあります パウロは、サタンのことを「この世の神」と呼んでいます(第二コリント4章4節)。またヨハネは、「世全体は悪い者の支配下にある」と述べています(第一ヨハネ5章19節)。そしてサタン自身は、キリストを誘惑する時、「この、国々のいっさいの権力と栄光……は私に任されている」と主張しています(ルカ4章6節)。 図の桃色の台形は、世全体がサタンの支配下にあることを示したものです。 二、神は、その上にあって、すべてのものを支配しておられます 世全体がサタンの支配下にあることは、一面において事実ですが、それがすべてではありません。神はその上にあってサタンさえも支配しておられる方です。 図の青い線の三角形は、そのことを示したものです。 聖書は、ヨブのことについて神と天使たちがサタンと激しく戦ったり(ここでは白熱化した討議をしたり)(ヨブ1~2章)、イスラエルの王アハブのことについて、ひとりの霊が神に進言したり(第二歴代18章20、21節)するという天上の出来事と、その結果として起きる地上の出来事を記しています。 キリストが「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10章29節)と言われたように、この世の神であるサタンも、神の許しなしには何もできないのです。 キリストは、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われ(ルカ22章31節)、弟子たちが自分のゆえにつまずいて散り散りになるのは、サタンのしわざであり、それは神が許されたことであることを知っておられたのです。 三、私たちの戦いはサタンとの戦いです パウロは「私たちの格闘は血肉(人間)に対するものではなく、……暗やみの世界の支配者たち(悪魔と悪霊)……に対するものです」(エペソ6章12節)と述べています。サタンとの戦いに勝利を得るためには――人は、素手でサタンに勝つことはできませんので――第一に、神の大能の力によって強められ、第二に、神の武具を身につける、すなわち真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音の備えをはき、第三に、神の武器をとる、すなわち信仰の大盾をとり、救いのかぶとをかぶり、みことばの剣をとることです(同6章10、14~17節)。 四、神とサタンとの激しい戦いに信仰者がことばによって加わるのが祈りです ダニエル書の10章には、ダニエルが満三週間(21日間)、断食して祈った時(3節)、天上では、その祈りは、「初めの日から……聞かれてい」た(12節)にもかかわらず、「ペルシャの国の君」、すなわちサタンの使いが21日間も立ちはだかっていたので(13節)、地上にいるダニエルには、その祈りが聞かれていたことが分からなかったということが記されています。 「祈り……は神の前に立ち上って、覚えられ」(使徒10章4節)、神とサタンとの激しい戦い(白熱化した討議)の中に私たちのことばも加えられます。もし私たちが祈らなければ、天上の出来事の結果として起きる地上の出来事はすべて、どうすることもできない運命として受け止めるしかないでしょう。 しかし私たちが祈るなら――それが神のみこころにかなったものであるなら――その祈りは神の前に立ち上って覚えられ、神のご計画の中に組み入れられるだけでなく、神は、サタンの恐ろしい企みを打ち破って、地上にそのみこころを行われるのです。 五、サタンとの戦いに勝つためは、死の支配からいのちの支配へ移ることが必要です サタンとの戦いに勝利を収めるために最も必要なことは、図のように全人類は、人類の古い始祖であるアダムの子孫として生まれるので、彼の堕罪による死の支配下にありますが、「だれでもキリストのうちにあるなら」(第二コリント5章17節)、人類の新しい始祖であるキリスト(神)の子孫として生まれ、いのちの支配下にはいることです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.11.11
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「苦難の意味するもの(2)」 2017年11月5日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。 2015年3月4日放映「信仰に成長する秘訣(1)」 説教要約 875 摂理と運命 説教要約 876 三つの現実 「苦難の意味するもの(2)」 甲斐慎一郎 ヨブ記、42章1~6節 あらゆる恵みに満ちた神がキリストを信じる者に備えられた永遠のご計画は、この世においては、罪の解決(救いと聖化)と苦難による完成(成長)であり、次に来る世においては、永遠の栄光(天の御国)です(第一ペテロ5章10節)。ヨブ記は、苦難による完成を教えています。 一、苦難について 聖書は、苦難について次のような5つの説を教えています。 1.刑罰説――「だれか罪がないのに滅びた者があるか。……不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(4章7、8節)。 苦難についての第一の説は、罪に対する刑罰として来る苦難です。ヨブの三人の友は、ほとんどこれによってヨブの苦難を説明しようとしています。しかしこれでは苦難について全部説明することはできず、5つの説の中の一つにすぎません。 2.教育説――「悩みのなわに捕らえられると、そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ……神は彼らの耳を開いて戒め」(36章8~10節)。 苦難についての第二の説は、前のよりも少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難です。エリフは、このように説明しています。これは、罪を犯したことを教えるために苦難が来る場合と、その時点においては、正しい動機で行い、罪がなくても、知恵がなく、幼稚で未熟なために、教育される必要がある時に、苦難が来る場合とがあります。 3.試験説――「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」(創世記22章1、12)。 苦難についての第三の説は、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。アブラハムの苦難の説明はこれです。これは、前の二つと違って、その人には全く罪がないのに来る苦難です。 4.代償説――「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 苦難についての第四の説は、さらに高尚で、自分には全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を負い、代償として来る苦難です。キリストの苦難は、贖罪の死てあり、身代わりの死ではありません。私たちも罪に陥っている人を救いに導くためには、代償の苦難を受けなければならないことがあります。 5.栄光説――「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 苦難についての第五の説は、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。キリストは、生まれながらの盲人に関して、このように説明されました。 ヨブの苦難は、個人的には彼の姿と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人々に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」です。 二、苦難の結果について 最後の章である42章には、次のような四つの幸いな結果が記されています。◇神を目で見る(5節)――より深い神経験◇全く悔い改める(6節)――より深い謙遜◇友のために祈る(10節)――より大きな愛◇二倍に祝される(10節)――より高い恵み 私たちも、苦難を乗り越えるなら、私たち自身がより高く成長し、ほかの人がより大きな恵みに与かり、神のわざがより広く現れます。 ヨブ記の主題は「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でしたが(1章1節)、この苦難を乗り越えることによってきよめられ、完成したのです(1~6節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.11.04
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