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「神のご計画の全体8 2017年4月30日 生命の惜しみない利他性」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月12日放映「三つの創造」 説教要約 908 聖書が教えている奇蹟、その1 説教要約 909 聖書が教えている奇蹟、その2「神のご計画の全体8 生命の惜しみない利他性」 甲斐慎一郎 創世記1章 進化論は「環境によりよく適応したものが生き残る適者生存により、強い者が生き残り、弱い者が死に絶えて生物は進化する」と教えていますが、自然界の動物は、弱い草食動物が80パーセントを占め、強い肉食動物は20パーセントしか存在していません。もし進化論が本当なら、弱い草食動物は死に絶えて強い肉食動物しか存在しないはずですが、自然界の動物は、そのようにはなっていません。 一、生命の惜しみない利他性 「横浜のみなとみらい駅で降りて、長いエスカレーターを昇っていく。すると黒い大きな壁一面に端正な碑文が刻まれている。独語の詩とその和訳。これはいったい何だろう。 『樹木は、この溢れんばかりの過剰を使うことも享受することもなく自然に還す』とある。……もし植物が利己的に振る舞い、自分の生存に必要最低限の光合成しか行わなかったら、われら地球の生命にこうした多様性は生まれ得なかった。碑文はこう続く。『動物はこの溢れる養分を、自由で嬉々とした自らの運動に使用する』。これは18世紀のドイツの詩人フリードリッヒ・フォン・シラーの言葉。一次生産者としての植物が太陽のエネルギーを過剰なまでに固定し、惜しみなく虫や鳥に与え、水と土を豊かにしてくれたからこそ今の私たちがある。……生命は利己的ではなく本質的に利他的なのだ。その利他性を絶えず他の生命に手渡すことで、私たちは地球の上に共存している」(生物学者の福岡伸一氏「生命の惜しみない利他性」より抜粋)。 二、食物連鎖(食物網)について 陸上の生物には、草の葉をバッタが食べる→バッタをカマキリが食べる→カマキリを小鳥が食べる→小鳥をタカが食べる……といった生物間のつながりがあります。海では、植物プランクトン→動物プランクトン→イワシ→イカ→アシカ→シャチ……などのつながりがあります。これを一繋がりの鎖として取り出した時、食物連鎖と呼びます。 食物連鎖は生産者と消費者そして分解者という三つで構成されます。 1.生産者――植物は、太陽のエネルギーと水と二酸化炭素を利用して光合成を行い、デンプンや糖を作ります。さらに窒素や各種ミネラルを組み合わせて、タンパク質や脂肪などを作り出すのです。 2.消費者――植物(生産者)を餌にする草食動物が第一次消費者で、草食動物を食べる肉食動物が第二次消費者です。以後第三次、第四次となります。 3.分解者――生物の死骸やフンなどは、さらに他の動物に食べられたり、細菌、菌類などの働きによって分解されていきます。生物を構成していた有機物は、やがて無機物と水と二酸化炭素まで分解され、再び生産者に利用される日まで自然の中を循環します。 自然の植物も動物も惜しみない利他性があり、食べられるために生きているようなものです。これは進化論が教えている「環境に適した動物が生き残り、不適格な動物は死に絶える」という自然淘汰とは反対です。生命に利他性がなく、自然淘汰という利己性であるなら、生物は絶滅します。動物の利己性を教えている進化論は、非科学的で誤りです。 三、人間も利他性がなければ絶滅する 人間も、両親や教師が子どものために自分を犠牲にして教えたり、働いたりしているので、子どもは育ちます。社会においては食物連鎖のように農林水産業、工業、商業(商店)など製造業の人が「生産者」で、生産された物を食したり使用したりする人が「消費者」で、清掃業者などゴミを収集したり処理したりする人が「分解者」で、分解された物は再び「生産者」に利用されます。人は、隣人の益のために自分を犠牲にしているので、生きていくことができます。 聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えています(マタイ22章39節)、人は、自分の益のためではなく、隣人の益のために自分を犠牲にする時、死に絶えることなく生きていくことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.04.29
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「神のご計画の全体7 2017年4月24日 微生物の存在と働き」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」 説教要約 764 聖書に出てくる恐竜たち-前篇 説教要約 765 聖書に出てくる恐竜たち-後編 「神のご計画の全体7 微生物の存在と働き」 甲斐慎一郎 創世記1章 ダーウィンが「種の起源」を出版し、進化論を唱えたのは今から約160年前の1859年です。その当時は、DNA(遺伝情報)の存在と働きは、もちろんのこと、生物は電磁波がなければ四肢も内臓も動くことができないこと、生物は無数の微生物がいなければ生きられないこと、そして生命の惜しみない利他性など、生命にとって最も大切なことを全く知りませんでした。 一、微生物が地球をつくった ダーウィンの時代は、高倍率顕微鏡などなく、コップ一杯の真水の中に、無数の微生物がいることなど全く知りませんでした。 以下の文は、2016年1月31日の朝日新聞朝刊に掲載されたP・G・フォーコウスキー著「微生物が地球をつくった」、N・マネー著「生物界をつくった微生物」と題した本を島田雅彦氏が書評した文です。 「これらの本を読むと、人類がいかに微生物に依存し、限りない恩恵を与えられたかがよくわかる。病気になるのも、健康でいられるのも微生物次第というわけで、全ての動植物は生殺与奪の権を微生物に委ねているのだから、生物圏の支配者は人類などではなく、大気や土壌、海洋、湖沼、河川、森林などあらゆる領域を形成し、維持している微生物の方なのである。地球を動かすナノマシンとしての微生物こそが創造主なのである。 人類は目が悪いせいで、ごく最近までそれに気づかなかった。光の画家フェルメールと同郷のレーウェンフックが高倍率顕微鏡を発明し、自分の口腔粘膜を球形のレンズを通して眺めてみた時、ミクロ・コスモスヘの回路が開いた。レーウェンフックは自分の体が無数の微生物たちの乗り物になっていることに気づいた最初の人物ということになる。 その後、ナノ世界にまで観察の目が届くようになる。……微生物は酸化と還元のように電子の移動を行うことで地球環境をつくり変えてきた。そのプロセスで地球上の生物は5回以上の大量絶滅の試練にさらされたが、完全に滅びずに済んだのは、微生物が多様なDNA(遺伝情報)交換を生物圈全体に及ぼしたからである。ヒトが乳製品や海藻を消化できるようになるといった変異も微生物にうながされたのである。 ノーベル医学生理学賞の大村智先生は各地の土壌サンプルを宝物のように持ち帰っていたそうだが、微生物は医薬品の開発のみならず、食料やエネルギーヘの活用、さらに地球温暖化対策の鍵さえ握っている。今後、人類が頼るべきは石油より微生物である」 二、創造の六日間 聖書が啓示している創造の六日間は、第一日に光(電磁波)、第二日に大空と水、第三日に地と植物、第四日に太陽と月と星、第五日に魚と鳥、第六日に陸の動物と人間です。 モーセが創世記を書いた頃は、「微生物」などという言葉はなく、そのようなものは全く知らなかったので、創造の六日間には、何も記されていません。しかし科学が発達し、フェルメールとレーウェンフックは、高倍率顕微鏡を発明し、「大気や土壌、海洋、湖沼、河川、森林など、あらゆる領域を形成し、維持している」微生物を発見したのです。 神が第二日に造られたのは、大空と水です。大空と水がなければ、土壌は造られず、植物も動物も生きることはできません。そして大空と水の中に無数の微生物が造られ、人間の腸の中にいる無数の微生物が「腸内フローラ(細菌)」です。 三、進化論は、非科学的で、誤りです ダーウィンの時代に観察できた外観上の生物の進化の仕組みは、形態学的レベル(生物の外側の姿)しか研究することができず、もっと根本的な細胞レベルでは、何が行われていたか全くわかりませんでした。当時の最も強力な顕微鏡でさえ、細胞は単純なものにしか見えなかったので、それは、まさに「ブラックボックス」でした。このような状況の中で、進化論を唱えたのですから、進化論は、非科学的で、誤りです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.04.23
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「神のご計画の全体23 罪を贖う主の十字架と復活」 2017年4月17日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月15日放映「世を愛された神」 4月16日は、キリストが死からよみがえられたことを記念する「復活節(イースター)」ですので、順序を変えて、キリストの復活のメーセージをします。 説教要約 859 キリスト教は、証しの宗教、その2 説教要約 860 キリスト教は、証しの宗教、その3 説教要約 978 聖なる神に近づく道 「神のご計画の全体23 罪を贖う主の十字架と復活」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章17節 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(17節)。 一、主の十字架の意味するもの 「キリストは……自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」が(第一ペテロ2章24節)、それは、私たちの罪を贖うためです。「贖い」という言葉の原語は、「身代金の支払いにより解放する」という意味です(ギリシャ語辞典)。 アダムの堕罪によって、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」(ローマ7章14節)。言い換えれば「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。しかし神は、御子を遣わし、十字架につけることによって罪の奴隷であった私たちを贖ってくださいました、すなわち身代金の支払いにより私たちを罪の奴隷から解放し、私たちは新しい主人である神のものとされました。 このことをパウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第一コリント6章20節)、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させる」(使徒20章28節)と記しています。ペテロは、「あなたがたが……贖い出されたのは……キリストの、尊い血によったのです」(第一ペテロ1章18、19節)、「自分たちを買い取ってくだった主」(第二ペテロ2章1節)と述べています。 二、もし主が復活されず、十字架の死が身代わりの死であるなら、それは冤罪です 聖歌の156番2節には、「イェスの十字架の上に仰ぐ、身代わりとなりし神の御子を、心は打たれて言葉もなく、その愛のゆえに、ただひれ伏す」と賛美し、「身代わり」という言葉が記されています。 しかし十字架の死について聖書は、「身代わり」という言葉を用いず、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(第一ペテロ2章24節)と記しています。 「身代わり」という言葉は、国語の辞書には「先生・主人・友人・仲間などに代わって、その人のしようとしたことをすること」と記されています(三省堂、新明解国語辞典)。 確かに十字架の死は、主が私たちの罪をその身に負われ、私たちの罪のために打たれたので、聖歌の歌詞のように「身代わりの死」であると解釈されたのでしょう。 しかし主の十字架の死が「身代わりの死」であるなら、法律的、人道的に大きな問題があります。たとえば、ある人が殺人の罪を犯した時、その人を心から愛している父や母、夫や妻または子どもがその人の身代わりとなって、自首し、死刑になったら、どうでしょうか。確かにその人は、罪に問われず、死刑を免れますが、それで良いのでしょうか。これは、罪を犯した人が逮捕されず、罪を犯していない人が逮捕されるという「冤罪」です。義なる神が冤罪によって人を罪から救われるということなど決してされません。 三、主の復活は、十字架の死によって永遠の贖いが成し遂げられた証しです 主は、「人の子が来たのも……多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10章45節)と仰せられ、ヘブル人への手紙の著者は「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章12節)と記し、ペテロは、「キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて」(第一ペテロ1章3節)と述べています。 主が三日目に復活されたのは、十字架の死が「冤罪」をもたらす「身代わりの死」ではなく、身代金の支払いによって私たちを罪の奴隷から解放し(義と認められ)、「贖いの代価として」神のいのちが与えられ(マルコ10章45節)、「新しく生まれ」て(第一ペテロ1章3節)、「自分たちを買い取ってくだった主」(第二ペテロ2章1節)のものとされる(神の子どもとされる)という永遠の贖いが成し遂げられたことを教える確かな証しなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.04.15
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「神のご計画の全体20 人類の古い始祖と新しい始祖」 2017年4月10日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月4日放映「真の幸福」 4月9日は、棕櫚の聖日で、受難週に入り、4月14日は十字架につけられた日ですので、順序を変えて十字架の説教を記します。 説教要約 952 進化否定の米博物館 「神のご計画の全体20 人類の古い始祖と新しい始祖」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12~21節 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、キリストの贖いを信じる者は、だれでも罪から救われます」というのが福音です。しかしキリストの十字架の死は、今から2000年も前にエルサレムで起きた出来事です。それが、どうして全時代の、そして全世界の人たちのためなのでしょうか。なぜキリストの救いは、時空を超越したものなのでしょうか。これに関してパウロは、ローマ人への手紙、5章12~21節において詳細に述べています。 一、アダムの堕罪と死の支配 冒頭の図の赤線の三角形は、人類の古い始祖であるアダムを頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。聖書は、アダムが罪を犯した時、すべての人は、彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の支配下にあったと教えています。 ヒトゲノム計画は、ヒトのDNAの全塩基配列を解読し、「人種は、ただ一つしかない」と宣言しました。換言すれば、すべての人はアダムの「腰の中にいた」、すなわち彼の支配下にあったことが21世紀の科学で証明されたのです。ヒトゲノム計画の詳細な説明 については、以下のブログを参照 してください。 説教要約 950 創造論か進化論か(2) 二、キリストの贖罪といのちの支配 冒頭の図の青線の三角形は、人類の新しい始祖であるキリストを頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。パウロは人類の真の始祖であるキリストとキリストのひな型であるアダム(14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の始祖であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(15、17節)。 DNA(遺伝情報)は、いのちの設計図(情報)であり、生きているいのちであり、新しいいのちを形造り(複製し)ます。パウロは「私のうちに啓示(神の情報)」されるキリスト(ガラテヤ1章12、16節)、「私のうちに生きておられる」キリスト(同2章20節)私の「うちに……形造られる」キリスト(同4章19節)について述べています。 パウロは、「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(キリスト)は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」と教えています(第一コリント15章44~49節)。 このことをDNAという言葉を用いて言い表すなら、次のように言うことができます。 アダムには肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAがあり、全人類は死の支配下にありますが、キリストには霊(御霊)のDNAがあり、キリストの贖いを信じるすべての人は、いのちの支配下にあるのです。「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型」(14節)であるように、「アダムの肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAは、キリストの霊(御霊)のDNAのひな型」です。 三、死の支配からいのちの支配への移行 全人類は、人類の古い始祖であるアダムの子孫として生まれるので、彼の堕罪による死の支配下にありますが、「だれでもキリストのうちにあるなら、新しく造られた者」(第二コリント五章17節)、言い換えれば、人類の新しい始祖であるキリストの子孫として生まれ、いのちの支配下にはいるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.04.09
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「神のご計画の全体6 2017年4月3日 宇宙の設計図である神の数式」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月31日放映「信仰の決断」 説教要約 935 創造論は進化論よりも奇なり 「神のご計画の全体4 宇宙の設計図である神の数式」 甲斐慎一郎 イザヤ書40章26節 進化論には「生物進化論」と「宇宙進化論」があり、宇宙進化論は、137億年前にビッグバンがあり、その直後から物凄い勢いで膨張して、銀河、恒星、星雲、惑星、そして地球が46億年前に生まれたいうものですが、宇宙が膨張したことは、宇宙と生物が進化したという証拠にも証明にもなりません。 一、宇宙の設計図である神の数式 2013年9月22日にNHKのテレビで「神の数式」という番組が放映されました。それは「宇宙はなぜ生まれたのか」(最後の難問に挑む天才たち)という内容です。世界各国の天才物理学者たちがミクロの素粒子を完璧に表した「素粒子の数式」と広大な宇宙を支配する「重力の数式」(すなわち一般相対性理論)の二つを一つに束ねる「神の数式」を書き表すもので、まだ完全に計算することはできていませんが、この「神の数式」こそ「宇宙の設計図」または「神の設計図」であるというものです。 「数式」という言葉を用いるのは、この宇宙のすべては、数や量を表す数字で書き表せるからで、宇宙のすべては、一秒の狂いもなく、正確に動いているということです。これは、創造主である全知全能の神のみがなせるわざです。 二、宇宙の設計図を教えている皆既日食 宇宙のすべてが一秒の狂いもなく、正確に動いているので、数式で表すことができる例として皆既日食を取り上げてみましょう。 皆既日食は、太陽と月と地球が一直線に並んで、地球から見ると、太陽の前に月がすっぽりとはいり、真っ黒い太陽に見えるというものですが、これが何年、何月、何日の何時、何分、何秒に起こるかを何十年も前に計算して出すことができ、その時になると、計算通りの日時に皆既日食が起こるのです。 天文学者の小尾信弥(おび・しんや)氏は、2009年7月22日に起こった皆既日食を満喫して、「太陽の直径は、月の直径の四百倍で、地球と太陽の距離は、地球と月の距離の四百倍なので、ちょうどうまい具合に同じ大きさに見える。自然界の偶然なのでしょうが、もしも神様みたいなものがいるとしたら、随分おつなことをしたもんですね」と朝日新聞の記事で述べています。 皆既日食が起こる日時を計算するには、地球の自転と公転の速度、そして月の自転と公転の速度を知ることが必要です。地球の自転の速度は、およそ時速で約1,666キロメートルです。地球の公転の速度は、秒速で約30キロメートルです。 月が一回自転するのにかかる時間は、約29日半です。月の公転の速度は、秒速で約1キロメートルです。しかし月の移動速度は、月が地球の外側にある時は、速くなり、地球の内側にある時には、遅くなっています。しかも地球の軌道は真円(まんまる)ではなく、少し楕円であり――そのために皆既日食だけでなく、金環日食も起こります――月も移動速度は、一定ではありませんが、決してランダム(気まま、行き当たりばったり)ではなく、数式で書き表せるものです。それで皆既日食と金環日食の起こる日時を1秒の狂いもなく計算することができます。 まさに宇宙は「神の数式」すなわち「宇宙の設計図」または「神の設計図」の通りに創造され、その創造された天体は正確に運行しているのです。 21世紀に起こる皆既日食 ●21世紀の金環日食 三、どこまでも真実な神 詩篇の著者は「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください」と祈っています(詩篇119篇116節)。私たちが神をささえとするということは、神の真実をささえとすることです。それは、「あなたの仰せはことごとく真実です」(86節)と、「どこまでも真実なことばを語られる神」、また「あなたが真実をもって私を悩まされたことを知っています」(75節)と、「どこまでも真実なことをされる神」、そして「あなたの真実は代々に至ります」(90節)と、「どこでも真実な心を持たれる神」を信じることです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2017.04.02
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