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「神の目と人の目」 2018年11月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」「神の目と人の目」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、16章6~8節 「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節)。 これは預言者サムエルが、イスラエルの二代目の王となる人に油をそそぐためにエッサイの家を訪れ、長子エリアブを見て、彼こそ王に選ばれる者だと思った時、主がサムエルに語られた言葉です。 この言葉は、神の見るところと人の見るところが違っていることを私たちに教えています。それで神の目と人の目は、どのように違っているのかということを考えてみましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る」というのは、その違いの典型的な一例です。 一、人は外面を見るが、神は内面を見る 人がどんなに外面しか見ていないかということは、この偉大な預言者サムエルでさえ、エリアブの容貌や背の高さといううわべに気をとられたことによって分かります。しかし私たちが人の外面しか見ていないなら、次のような三つの間違いを犯すようになります。 1.正しい評価ができない――うわべに気をとられて、間違って人を見てしまいます。 2.正しい対応ができない――間違った見方のために接し方も間違ってしまいます。 3.正しい解決ができない――間違った接し方は、事態を悪化させてしまいます。 人のうわべしか見ていないなら、人間関係に問題が絶えないのは当然のことでしょう。しかし神は私たちの心をご覧になる方です。 1.神は正しい評価をされる――神は人の心を見て、その本当の姿を知っておられます。 2.神は正しい扱いをされる――神は人の姿に応じて、慰めと懲らしめを与えられます。 3.神は正しい解決をされる――神は人の罪のために真の救いを備えておられます。 二、人は部分を見るが、神は全体を見る 私たちの人生は、人格という建物を生涯を費やして建築するようなものであり、その建物は一生を終えなければ全体が見えないほど大きなものです。しかし聖書は人の心について、「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている」(伝道者8章11節)と記しているように、何と人の視野は狭く、一部分しか見ていないことでしょうか。 これに対して神の視野は広く、いつも全体を見ておられます。私たちが数週間、良いことをしたからといって、すぐに全体が完成するものでもなければ、数週間、悪いことをしたからといって、すぐに全体が崩壊するものでもありません。しかしその結果は必ず刈り取ることになります(ガラテヤ6章7節)。 ですから私たちは、すぐに良い結果が出なくても、常に良いわざに励み、天に宝をたくわえていくことが必要なのです。 三、人は過去から現在を見るが、神は将来から現在を見る 私たちが人を見る時、その人の現在の姿しか見えません。しかもその人の現在の姿というものは、その人の過去の経歴の積み重ねであり、結果です。ですから人は、その人の過去の経歴を通して現在の姿を見ているということができます。 これに対して神も私たちの現在の姿を見ておられるということに変わりはありません。しかし全知全能の神は、私たちが現在の姿のままで生きていくなら、これから先どうなるのかという私たちの将来を知っておられ、その将来の運命から現在の私たちを見ておられるということができます。 神は、私たちが永遠の滅びに至る呪われた将来ではなく、永遠のいのちに至る祝福された将来を迎えることができるように、今この時、心から罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて救われ、恵みに成長しているかどうかを見ておられるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.11.24
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「神の助けと人の助け」 2018年11月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」「神の助けと人の助け」 甲斐慎一郎 イザヤ書、31章1~5節 「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち」(1節)。 「万軍の主は……エルサレムを守り……これを助けて解放する」(5節)。 この前半の1節には、エジプト人の助け、すなわち人の助けについて、後半の5節には、万軍の主の助け、すなわち神の助けについて記されています。 神の助けとは「神からの助け」または「神が与えてくださる助け」という意味であり、人の助けとは「人からの助け」または「人が与える助け」という意味です。しかしここでは、人の助けについては「人が求める助け」という意味も加え、「神の助け」と「人の助け」とは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、その動機の違いについて 私たちがだれかに助けを求める動機は、何でしょうか。イスラエルの民がエジプトに助けを求めたのは、外敵であるアッシリヤの攻撃による恐ろしい災いや悲惨な運命から逃れるためであることは、言うまでもありません。そのように人が助けを求める動機は、苦しみから逃れるためです。 これに対し神が私たちを助けてくださる動機は、何でしょうか。キリストは、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と仰せられ(ヨハネ16章33節)、また「彼らをこの世から取り去って(すなわち患難から逃れさせて)くださるようにというのではなく、悪の力から守って(すなわち罪から逃れさせて)くださるようにお願いします」(同17章15節、欄外注)と、私たちのために祈っておられます。このように神が私たちを助けてくださる動機は、私たちを罪から逃れさせるためです。 二、その方法の違いについて それでは人は、どのような助けを求めるでしょうか。人が助けを求める動機は、苦しみから逃れるためですから、その方法は、どうすれば、苦しみから逃れることができるか、または楽をすることができるかということです。しかし人は、苦しみから逃れようと安易な道を求めれば求めるほど心が弱くなり、ますます苦しみに耐えられなくなるだけでなく、小さな罪にも勝つことができず、堕落してしまうのです。 これに対して神は、どのような助けを与えてくださるでしょうか。神が私たちを助けてくださる動機は、私たちを罪から逃れさせるためですから、その方法は、どうすれば、私たちを罪から逃れさせることができるかということです。そのために神は、苦しみをも用いて私たちに罪を悔い改めさせるだけでなく、苦しみによって私たちの心を鍛えて強くしてくださるのです。 詩篇の記者は、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」(119篇67節)、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(119篇71節)と述べています。 三、その結果の違いについて 私たちが住んでいる社会は、互いに助け合って生きている世界です。たとえば、ある人が助かる(すなわち苦労が省ける)のは、その背後でだれかがその人を助けている(すなわち苦労を背負っている)からです。ですから私たちは、罪から逃れることなど全く考えず、ただ苦しみから逃れて楽をしようとするなら、その結果は、ほかの人を苦しめ、多くの人々に苦労をかけさせてしまうことになるのです。 これに対して神が与えてくださる助けは、どのような結果をもたらすでしょうか。 1.罪から救われて、正しく、きよく歩むことができるようになります。 2.苦労をいとわずに、ほかの人を助けることができるようになります。 3.神のみこころにかない、神の栄光を現すことができるようになります。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.11.17
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「神のみこころと人の願い」 2018年11月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」「神のみこころと人の願い」 甲斐慎一郎 ルカの福音書22章42節 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22章42節)。 このイエスの祈りから「人の願いと神のみこころ」について考えてみましょう。 一、人の計画と神のみこころ 箴言に「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(19章21節)ということばがあります。「主のはかりごと」とは「主のみこころ」のことです。 私たちはだれでも、将来に対して望みを抱き、自分なりに様々な計画を立てて歩んで来たにちがいありません。しかしその希望や計画の中には良い志だけでなく、野望や野心もあったのではないでしょうか。私たちの希望はすべてかなえられたでしょうか。私たちの計画通りにすべての物事が運んだでしょうか。答えは「否」と言わざる得ません。 私たちが正直に自分の半生を振り返ってみるなら、私たちの心に多くの計画があったとしても、野心や野望という良くない計画や身勝手な願いは実現せず、主が良いとみられることしか成就していないことを痛感するのではないでしょうか。 二、人のつぶやきと神のみこころ エジプトを脱出して荒野を放浪していたイスラエル人について、聖書は、「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし」と記しています(民数記11章1、2節)。 「つぶやき」は、一般的には不平や不満や文句と同じような意味で使われています。それは身勝手で不当なものですが、一種の願いです。また「祈り」も神への願いであるということができます。ですから人間は、祈りであれ、つぶやきであれ、心の願いに満ちている者であることがわかります。 私たちの心が神と正しく結びついているなら、その心の願いは祈りとなって表れますが、神より離れているなら、それはつぶやきとなって表れます。言い換えれば神に造られた人間は、神との交わりの中にありましたが、堕落したことによってその祈りがつぶやきに変わってしまいました。ですからつぶやきは、偽物の祈りであるということができます。 私たちのつぶやきは、それが独り言であれ、人に対してであれ、みな神に対するつぶやきになります。イスラエルの民は、「この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきましたが(同14章2節)、神は、「わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう」と言われ、彼らは、そのつぶやきのとおりに、死体となってこの荒野に倒れたのです(同14章28、29節)。神は、私たちがあまりにも貪欲で、悪いと知りつつ強引に身勝手な願いを通そうとするなら、そのとおりにされることがあります。これを許容的な「神のみこころ」と言います。これは放任という恐ろしい神の刑罰なのです。 三、人の願いと神のみこころ 聖書は「主は彼らの願いをかなえたまいしかど、そのたましいをやせしめたまえり」と教えています(詩篇106篇15節、文語訳)。イスラエル人は、その激しい欲望が満たされ、願いはかなえられましたが、そのたましいは、やせ衰え、からだは疫病に打たれて死んでしまいました(民数記14章33、34節)。 人間は、自分の心や霊性が向上することよりも、自分の思いどおりに物事が運ぶことのほうを願いやすいものです。しかし人間は、自分の身勝手な願いどおりに物事が運ぶことによって、かえって心が堕落したり、霊性が低下したりし、反対に自分の身勝手な願いどおりにならないことによって、悔い改めて神に立ち返り、心や霊性が向上するのです。 人間の願望は、つぶやきに代表されるように、自分でも気がつかないほど不純で身勝手なものです。ですから私たちは、自分の願いがかなえられたり、自分の思いどおりに物事が運ぶことを願ったりするのではなく、自らの心や霊性が向上することを求め、主のみこころのとおりにしてくださいと祈ることが何よりも必要で、大切なことなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.11.10
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「神の与える幸いと人の求める幸い」 2018年11月4日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」 「神の与える幸いと人の求める幸い」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章1~10節 人がどんなに幸福を求めている者であるかということは「幸福」という「青い鳥」を探し求めるチルチルとミチルを描いたメーテルリンクの児童劇をはじめ、カール・ブッセの有名な詩である「山の彼方の空遠く」、そして数多くの「幸福論」と名のつく書物が出版されているのを見てもわかるでしょう。 数多い「幸福論」の中で、次のようなカール・ヒルティーの言葉は、幸福を求めてやまない人の心を最もよく表しています。 「人間が意識に目覚める最初の瞬間から、意識の消滅に至るまで、最も熱心に求めるものは、やはり何と言っても幸福感である。そして彼が体験する最も苦痛に満ちた瞬間は、この地上では幸福は見いだすことができないのだと完全に確信した時である」。 一、三種類の幸い しかし幸福と言っても、様々な幸福があります。人間を構成している三つの要素である「からだ」と「たましい(心)」と「霊」に関して述べるなら、代表的なものは、次のような三種類の幸福ではないでしょうか。 1.物質的(環境的または肉体的)な幸福 これは、衣食住において何一つ不自由がなく、平和で安全な環境に恵まれ、健康で長生きすることです。 2.精神的な幸福 これは、「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされること」がなければ(伝道者6章3節)、ほんとうの幸せではないというものです。 3.霊的な幸福 先の二つが、人間が考えたり、感じたりする、人の求める幸いであるのに対して、これは、神が私たちに与えようとしておられる神の前における幸いです。 二、人の求める幸い 生まれながらの人間の本性というものは、次のような時に幸福であると感じるのではないでしょうか。1.自分の思い通りに何でも物事が運ぶ時2.自分の欲しいものが何でも手に入る時3.自分がどんなに偉大な者であるかを知る時 これがほんとうであるかどうかは、逆の場合を考えれば、すぐに分かるでしょう。すなわち私たちは、物事が何もかもうまくいかない時、自分の欲しいものが何一つ手に入らない時、そして自分がどんなにだめな人間であるかを知る時、最も惨めで不幸に感じるのではないでしょうか。 人の求める幸いは、他の人の目には幸福に見えても、本人が不幸と感じれば、不幸であり、反対に他の人の目には不幸に見えても、本人が幸福であると感じれば、幸福であるというような極めて主観的また感情的なものです。しかし、このようなものは、決して真の幸福ではありません。 三、神の与える幸い それでは神の前におけるほんとうの幸福とは、どのようなものでしょうか。「至福の教え」と呼ばれているこの箇所と聖書全体から、次のような三つにまとめるのが最も分かりやすいのではないでしょうか。1.神の前に聖くなる――実質的な性質2.神の前に成長する――実質的な姿3.天の御国にはいる――究極的な姿 私たちは、物事が何もかもうまくいかず、自分の欲しいものは何一つ手に入らず、自分がどんなにだめな人間であるかを知る時こそ、神の前に砕かれて、罪を悔い改め、神に近づいて聖くなるとともに、不屈の精神が養われて、訓練され、神の前に成長していくことができます。英語の諺に「ノークロス、ノークラウン(十字架なくして栄光なし、苦難なくして栄冠なし」という言葉があります。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」と言われましたが(ルカ24章26節)、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければなら」ず(使徒14章22節)、これこそ実質的また究極的な真の幸福なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.11.03
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