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「日々新たにされる内なる人」 2018年9月30日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月27日放映「私のささえである主(1)」「日々新たにされる内なる人」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章16節 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)。 この箇所において「外なる人」とは「からだ」とか「肉体的な生命」を、「内なる人」とは「霊」とか「霊的な生命」を意味しています。どちらにしても聖書は、人間には衰えていくだけでなく死ぬべき部分と、生かされているだけでなく新たにされていく部分とがあることを教えています。 日々衰えていく肉体的な生命を持ちながら、日々霊的な生命を新たにされるためには、どうすればよいかいうことを、肉体的な生命と霊的な生命の橋渡しをしている精神的な生命の役割を加味しながら学んでみましょう。 人間を構成している三つの要素(霊と心と肉体)が常に新しく、生き生きとしているためには、どうすればよいのでしょうか。 一、生き生きとした肉体的な生命を保つための秘訣 生き生きとした肉体的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。1.必要かつ十分な休息をとる2.必要かつ十分な栄養をとる3.適度な運動をして肉体を鍛える しかし、どんなに涙ぐましい努力をしても、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体は、日々衰えていくことを避けることはできません。 二、生き生きとした精神的な生命を保つための秘訣 生き生きとした精神的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。1.深く考えて頭をよく使う2.情緒や情操を豊かにする3.創造的な精神を失わない ですから決まり切ったことを、決まり切ったようにしかしないことは、何も考えず、何も感動せず、何も新しいものを生み出さずに、精神的に枯渇してしまう危険性があることを忘れてはなりません。 三、生き生きとした霊的な生命を保つための秘訣 生き生きとした霊的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。 1.恵みの手段(集会出席、聖書拝読、祈祷、奉仕、献金)を守ることによって絶えず神との関係を正しくし、神の御前に歩むことです 2.苦難に遇った時、逃避せずに信仰によって勝利を得て、乗り越えることです 3.未熟なところや至らないところを様々なものを通して訓練されることです これらのことは、私たちが信仰に成長していくための秘訣でもあります。 このように肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、霊的な生命であれ、生き生きとした生命に共通していることは、静止したり、停止したりせずに、絶えず活動し、常に躍動しているということです。使わなければ働きが鈍くなり、ついには動かなくなってしまうのが生命の特徴です。 私たちは、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体的な生命の衰えを防ぐことはできません。しかし神によって生かされた霊的な生命は、衰えを防ぐことができるだけでなく、日々新たにされていくことができます。そのためには霊的な生命を生き生きと保つとともに、精神的な生命を生き生きと保つことが必要です。 私たちは、何事に関しても「それは何なのか」、「それはなぜなのか」、「それはどうすれば解決するのか」という探求心を失ってはなりません。イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われました(マタイ7章7節)。もし私たちがこれを失い、何事もわかったかのように思うなら、思考と感情(情緒と情操)と創造的な精神の働きが停止して、その結果、霊的な生命も死んでしまう危険性があるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.09.29
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「人生の三つの期間」 2018年9月23日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月4日放映「生物が生きるために必要な創造の六日間」「人生の三つの期間」 甲斐慎一郎 使徒の働き、7章23~35節 「40歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を顧みる心を起こしました」(使徒7章23節)。 「40年たったとき、御使いがモーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました」(同7章30節)。 「モーセが死んだときは120歳であった」(申命記34章7節)。 一、三つの期間のモーセの生涯 1.モーセは、0歳から40歳まで、王女の子として「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」(22節)。 2.モーセは、40歳から80歳まで、ミデヤンの荒野で神のお取扱いを受け(29、30節)、その間に彼の中に燃えていた自らの野心や情熱という火は消え、柴の燃える炎に象徴される神の聖なる愛の火によって燃やされる人になりました。 3.モーセは、80歳から120歳まで、神の召命に従い、神によって遣わされてイスラエル人をエジプトから連れ出しました。 二、人から受ける教育と神から受ける教育 「教育する」という言葉は、日本語においては「教え、育てる」と書きますが、英語においては「引き出す」という意味で、どちらも教育とは何かということを非常によく表しています。教育には、「人から受ける教育」と「神から受ける教育」があります。 人から受ける教育は、良いことを教え、良いものを引き出すもので、人間の本性は善であるという「性善説」に立ち、道徳的な善悪とは関係のない知識や能力に関して有効です。しかし最も大切な人格や品性を形造る道徳に関しては全く無力です。 これに対して神から受ける教育は、悪いものを引き出して取り除き、良いことを教えて育てるもので、人間の本性は悪であるという「性悪説」に立ち、単なる知能や能力に関するものではなく、私たちの人格と品性を形造る道徳に関するもので、言い換えれば、罪からの救いです。 神が私たちを苦しめ、私たちを試みるのは、私たちの「心のうちにあるものを知るため」で(申命記8章2節)、心のうちにあるものとは、神を喜ばせるものではなく、神を怒らせるもの、すなわち神への不信仰と反逆という罪です(同9章7、8、23、24節)。 モーセの生涯における第一の期間は、人からの教育を受けた期間であり、第二の期間は、神からの教育を受けた期間です。第三の期間は、神に奉仕した期間です。 私たちの一生は、まず人からの教育を受け、次に信仰を持ち、キリスト者になってから神からの教育を受け、両者の教育を受けることによって神に奉仕するのです。 三、三つの期間の私たちの生涯 モーセの場合は、この3つの期間がすべて40年間でしたが、ヨセフは、17歳まで人からの教育を受け、30歳まで神からの教育を受け、その後、エジプト全土の統治者として奉仕しています。ダビデは、十代の半ばまで人からの教育を受け、30歳まで神からの教育を受け、その後、王として奉仕しています。パウロは、33歳頃まで人からの教育を受け、アラビヤで3年間、神からの教育を受け、その後、伝道の働きをしています。 このように3つの期間は、人それぞれみな長短があり、違っていますが、まず人からの教育を受け、次に神からの教育を受け、最後に神に奉仕することが必要です。実際には、この3つの期間が全く別の期間ではなく、人から受ける教育の期間と神から受ける教育の期間が重複したり、神から受ける教育の期間と神に奉仕する期間が重複したりすることもあるでしょう。大切なことは、この3つの期間があるということです。期間の長短や重複しているかどうかは、問題ではありません。大切なことは、この3つの期間を体験することによって「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごす」ことです(第一ペテロ4章2節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.09.22
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「かけがえのない人生」 2018年9月16日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月13日放映「真の信仰を持つ秘訣」「かけがえのない人生」 甲斐慎一郎 詩篇71篇1~24節 私たちの一生は、日々の生活の積み重ねであり、人がどのような晩年を送るかは、その人が若いころから、どのような種を蒔き続けてきたかによります。この詩篇71篇は、若いころから神を信じ、晩年に至るまで信仰に生きたひとりの高齢者が書いたもので、年老いた信仰者の祈りが記されています。 人は誰でも年を取り、高齢者問題は他人事ではありません。ですから人生のあらゆる艱難辛苦を嘗めた高齢者、しかもこの人のように全生涯を信仰に生き抜いた人の言葉に耳を傾けることは、何と大切なことでしょうか。 そこで敬老の日に因んで、詩篇71篇から、「かけがえのない人生」について考えてみましょう。この中には、詩篇の記者の生々しい人生の体験が克明に記されています。 一、厳粛な人生の現実 この詩篇の記者は、自分をなじり、痛めつけようとする者だけでなく、いのちをつけねらう敵や残虐な者に囲まれていました(1、4、10、13、24節)。しかも彼の肉体は徐々に衰えていたのです(9節)。 人は、霊と心(魂)とからだという三つの要素から成り立っています。私たちは、年を取るにつれて次のようになります。1.からだは衰え、病気がちになります。2.心も衰えてきます。若い時と比べるなら、 知性――物覚えが悪く、忘れっぽくなる。 感情――新鮮な驚きや感動が失われる。 意志――何事も面倒で、おっくうになる。3.霊は、死が近づくため、人生の刈り入れと生涯の締め括りが求められます。 このように人間というものは、年を取るとともに、様々な悩みと苦しみが増し加わり、死に備えて生涯の締め括りをしなければなりません。これが厳粛な人生の現実です。 二、幸福な人生の晩年 このような厳しい人生の現実に直面する時、多くの人々は、この悩みと苦しみに耐え切れず、年を取るに従って夢も希望もなくなり、不平と不満、またつぶやきと愚痴が多くなっていきます。 しかしこの詩篇の記者は、このような様々な苦難と迫害、また肉体の力が衰えていくような中にあっても、その口には一日中、神への賛美が満ち(6、8、14、22、23節)、神の義を言い表し(24節)、神の奇しいわざを告げ知らせています(15、17、18節)。 これらのことを私たちに当てはめるなら、次のような三つにまとめることができます。1.神に対して――神への礼拝と賛美と感謝2.自分に対して――自らの救いの確信3.人に対して――他の人への証しと伝道 これは何とすばらしいことでしょうか。これこそ幸福な人生の晩年です。 三、必要な人生の土台 この詩篇の記者が、このような幸いな人生の晩年を過ごすことができた秘訣は何でしょうか。彼は、神を自らのとりでや岩とするだけでなく(3節)、その神が信頼の的であるとともに(5節)、心を注ぎ出して救いと助けを祈り求め(2~4節)、謙虚に神に教えられています(17節)。 これらのことは、次のような三つに要約することができます。1.神が信頼の的である――神への信仰2.神に救いを祈り求める――神への祈り3.神に謙虚に教えられる――神への服従 パウロが「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と述べているように(第二コリント4章16節)、私たちは、年を取るにつれて、肉体だけでなく、心も衰えていきます。しかし人間の本質的な部分である霊は、神への信仰と祈りと服従によって日々新たにされていくことができるのです。 これこそ幸いな人生の晩年であるとともに、すべての人に必要な人生の土台です。甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.09.15
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「神の国を支配される神」 2018年9月9日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」「神の国を支配される神」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録1~22章 ヨハネは、ドミティアヌス皇帝の迫害の時、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」捕らえられ(1章9節)、エーゲ海にある「パトモスという島」に追放されました(1章9節)。このパトモスという島においてキリストの啓示により、ヨハネが「見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしる」したのが「ヨハネの黙示録」です(1章19節)。 一、パトモスという島においてイエス・キリストの啓示を見たヨハネ(1~22章) 使徒ヨハネは、師と仰ぐバプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と言ってキリストを紹介したので、キリストについて行き、弟子になりました(ヨハネ1章29~40節)。キリストが「神の小羊」であるというバプテスマのヨハネの紹介のことばは、ヨハネに強烈な印象を与え、一生の間忘れることができなかったにちがいありません。なぜなら彼が晩年に記した「ヨハネの黙示録」の主題は、「ほふられた小羊」(5章12節)と「小羊の怒り」(6章16節)と「神と小羊との御座」(22章3節)という三つの「小羊」にまとめることができるからです。 1.キリストの啓示によって「ほふられた小羊」を見たヨハネ(4、5章) まずヨハネは、「御座……と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」、また「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と記しています(5章6、12節)。「ほふられた小羊」とは、私たちの罪のために傷を受け、十字架の上で死なれたキリストです。「傷ついたイエスは、人のために傷つかれた神を人間に対して表すものであり、また主御自身の性格が事実そのようなものであることを示すものである」(G・C・モルガン『キリストの危機』)。ヨハネの目に、このようなキリストの姿が焼き付いて離れなかったのでしょう。 2.キリストの啓示によって「小羊の怒り」を見たヨハネ(6~20章) 次にヨハネは、6章から20章において、救い主としてほふられた小羊であるキリストが、今度はさばき主として激しい怒りを燃やして罪を罰している姿を鋭く描いています。 「『小羊の怒り』ということばほど驚くべきことばがほかにあるだろうか。怒りを形で表そうとすれば、『ライオンの怒り』を描くのではないだろうか。それが誤りなのだ。恐ろしいのは、小羊の怒り、心と性質が愛と優しさに満ちた方の怒りである。愛に燃やされた怒りは、最も恐ろしい炎である」(G・C・モルガン『祈りの実行』)。 3.キリストの啓示によって「神と小羊との御座」を見たヨハネ(21、22章) 最後にヨハネは、すべての審判が終わり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとな」り、「神と小羊との御座が都の中にあ」り、「主は永遠に支配される」という栄光に輝く神の国のことを述べています。「なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです」(11章15節、22章3節、17章14節)。 二、神の国を永遠に支配される神 ヨハネは、「私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。……『神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない』」と記しています(21章1、3、4節)。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(J・ウェスレー『ウェスレー著作集、神学論文・上』)。 「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになり」(第一コリント15章24節)、神は、永遠に神の国を支配されます。アーメン。(神のご計画の全体「70 神の国を支配される神」より転載) 甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.09.08
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「歴史に見る七つの教会(2)」2018年9月2日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年8月3日放映「微生物の存在とその驚くべき働き」「歴史に見る七つの教会(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録2、3章 3.ペルガモの教会――政教一致の時代(黙示録2章12~17節) コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」を発布した313年からグレゴリウス一世が即位した590年までの期間は、教会(宗教)が国家と協力した時代です。この時代の教会は、著しく発展しましたが、その反面、世俗化してしまったことを教えています。 4.テアテラの教会――中世の暗黒時代(黙示録2章18~29節) グレゴリウス一世が即位した590年からマルチン・ルターが宗教改革を始めた1517年までの期間は、ローマ・カトリック教会が支配した時代です。カトリック教会から見れば、教会の黄金時代ですが、プロテスタント教会から見れば、教会の暗黒時代です。 5.サルデスの教会――宗教改革の時代(黙示録3章1~6節) マルチン・ルターが宗教改革を始めた1517年から30年戦争が終結した1648年(ウェストファリア平和条約の締結)までの期間は、カトリック教会とプロテスタント教会が抗争に明け暮れた時代です。この時代の出来事は、信仰と真理のためとはいえ、その犠牲は余りにも大きかったということができます。 6.フィラデルフィアの教会――信仰復興の時代(黙示録3章7~13節) ウェストファリア平和条約が締結した1648年から第一次世界大戦が勃発した1914年までの期間は、英国のメソジスト運動をはじめ、各地でリバイバルが起こり、また多くの宣教師が海外に派遣された時代です。この時代の後期には、日本にも宣教師が派遣され、今日に及んでいます。 7.ラオデキヤの教会――終末の背教時代(黙示録3章14~22節) 第一次世界大戦が勃発した1914年から主の再臨までの期間は、教会が世俗化した背教の時代です。共産主義が拡大したのは、この頃からであり、教会内にも合理主義が入り込んで信仰のいのちが失われ、教会時代はまさに終わろうとしています。 しかしこの7つの教会は、各時代の代表的な教会の姿を教えているのであり、どの時代にもほかの6つの教会は存在しています。 三,主の再臨以後の教会の歴史 これには次のような七つの過程があります。 1.キリストの空中再臨――キリストは、空中まで再臨され、教会は携挙されます(第一テサロニケ4章16、17節)。 2.患難時代――地上は、7年間の患難時代ですが、空中では、キリスト者(教会)の審判とキリストの即位とキリストと教会との婚姻が行われます(黙示録4章2節~5章14節、第二コリント5章10節、黙示録19章7~9節)。 3.キリストの地上再臨――患難時代の終わりにキリストは聖徒(教会)とともに地上に再臨し、諸国民を審判されます(第二テサロニケ1章7節、マタイ24章30節、黙示録19章11~16節、ゼカリヤ14章4節、マタイ25章31~46節)。 4.千年王国時代――その後、キリストは、聖徒(教会)とともに1000の間、地上を支配されます(黙示録20章6節)。その間、サタンは縛られています(同20章2、3節)。 5.大きな白い御座――これは、非キリスト者の審判であり、その人の行為に応じて永遠の刑罰を受けます(黙示録20章11~15節)。この時、古い天地は壊滅し、サタンも滅ぼされます(第二ペテロ3章10~12節、黙示録20章7~10節)。 6.新しい天と新しい地――新しい天と新しい地が造られ、花嫁である教会が住む場所が備えられます(第二ペテロ3章13節、黙示録21章1、2節)。 7.永遠――教会は、永遠に神とともに住むのです(黙示録21章3節~22章5節)。 これが永遠から永遠に至るまでの教会の歴史です。(神のご計画の全体「69 歴史に見る七つの教会(2)」より転載) 甲斐慎一郎の著書→説教集
2018.09.01
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