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またしても週末、実家に戻っております。先週の葬儀に引き続き、その後始末が色々ありますのでね。 で、葬儀社へのお支払い(結構な額のお金を振込に行ったりするもので、母には任せていられない!)やら、役所に行ってあれこれ書類を出すやら。姉も来ているので、手分けしてどんどん済ませていきます。 で、母と姉と私の三人で夕食をとり、食後は昔話が盛り上がって大笑いしていたのですけど、そういう時ふと振り返って、飾り棚の上、まだ沢山のお花に囲まれた父の遺影が目に入ると、ああ、ついこの間まで元気だった父が、今は写真の人となって、我々の団らんの仲間に入れないんだなぁっていうね、そういう感慨が迫ってくる。寂しいもんです。 それでも、あれから、今日一日がんばったおかげで、とりあえず短期的に済ませなければならないことはめどがついたかな。その他の大きなこと、たとえば家の登記の書き換えだとか、相続だとか、そういうのは、まだ時間的に余裕があるし、司法書士の人に頼む部分も大きいので、もう少し後で考えればいいかなと。 ということで、一段落したところで、最近、我が家で大ブレークしているレコード・プレーヤーを使って、昔のレコードとかをかけて、母や姉と楽しんじゃった。 例えば、子供の頃、私が最初に買ったLPレコードである『ポール・モーリア・オーケストラ ヒット集』をかけて「エーゲ海の真珠」とか聴いちゃったり。これが懐かしいんだ。いいねえ、LPレコードって。やっぱりCDとは音の質が違うんだよね。その違いがようやく分かったわ。 それから、私が小学校6年生の時、ピアノ発表会でヨハン・シュトラウスの「美しき蒼きドナウ」を弾いた時の記録レコード(ドーナツ盤)が出て来たりしたので、それを聴いたり。そしたら、これが結構上手なのよ。小学6年生でこれだけ弾けたなら、そのまま続けていたら今頃は・・・みたいな。バカだよね、ワシ。後悔先に立たず。 ってなわけで、今日は忙しくも懐旧の念に浸れた一日となったのでございます。
June 30, 2017
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さ・て・と。そろそろブログも復活するかな。 さすがに亡くなった自分の父親について、ここであれこれ書くつもりはないのですけれども、一つ興味深いなと思ったのは、父のことを考える度に、つい「去年の今頃は・・・」とか、考えてしまうこと。「去年の今頃は、親父は一人で結構遠くの病院まで通院していたんだよな」と言う風に。そしてそこからどんどん現在に近づいてくるわけ。 「去年の今頃は、米寿記念の写真俳句集を作ってあげて、えらく喜んでいたよな」 「今年の正月までは普通に餅食ってたよな」 「今年の3月にもらった手紙は、筆跡もしっかりしていたよな」 「今年の4月は一緒に鰻屋にうな重を食べに行ったよな」・・・ そして、 「なのに、今はもう、この世にいないんだよな」・・・ なんか、不思議な感じがします。 でも、まあ、私も元気出さなきゃ。 とりあえず、今日から復活しますので、今後ともよろしくぅ!
June 29, 2017
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4月に心不全で倒れて以来、入院加療を続けて来た父ですが、今朝、88歳の生涯を閉じることとなりました。つきましては、このブログもしばらくお休みすることにいたしました。またそのうち、元気になりましたら、復活いたしますので、それまで少々お待ちください。
June 20, 2017
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今日の昼休み、私が研究室で3限の授業の最終チェックをしていると、かすかに誰かがドアをノックする音が聞こえました。 トントントン。何の音? 風の音。あー良かった。 じゃなくて、一人の女子学生でした。見慣れぬ顔なので、誰かと思ったら、私が授業を受け持ったことのないコースに所属する1年生とのこと。 で、そんな学生が私に何用かと思ったら、「先生は、サリンジャーという作家の『フラニーとズーイー』という本の原書をお持ちじゃありませんか?」とのこと。あれば読んでみたい、というのですな。図書館の司書の方に「釈迦楽先生ならきっとお持ちですよ」と言われたことに加え、アメリカ文学に興味があって、前々から私の授業も取りたいと思っていて、単位にはならないまでも、後期に授業を聴講させてもらえるかどうか、その許可も取りたかったので、こうして出向いてきたと。 はあ~? マジですか。そんな殊勝な学生がいるんだ、うちの大学には・・・。 でも、嬉しいっす! というわけで、本も貸し、聴講も許可した次第。そりゃ、そうだよね。 さて、今日の4限はゼミだったのですが、今年のうちのゼミ生たちは何だかのんびりしちゃっているというのか、卒論の進行がめちゃめちゃ遅いのよ。 で、「卒論なんて、自分の調べたいことを調べるんだから、楽しくて仕方がないでしょうに」と嫌味を言うと、一人のゼミ生が「でも先生、私、本を読むのが苦手で・・・」と。 卒論のために図書館から借りた本、既に4週間経っているのだけれども、まだ3分の1も読めていないと。何しろ本を読み慣れていないので、目は文字を追っていても、内容がまるで頭に入ってこないんですって。(「分かる~っ!」っていう同意の声がほぼ全員から上がる) ちなみに、今読んでいる本は、ここ数年で初めて読む本だと。っていうか、大学に入ってから初めて読む本であると。 ええ゛っ! 大学4年生にして、今回、初めて本を読むですと? これまで一冊も読んだことがないの? そしたら、本もそうだけど、文字自体をほぼ読まないと。マンガも読まないし、新聞もテレビ欄を確認するだけで中身は読まない。もちろん雑誌も読まないと。 だから、本っていうものの読み方がそもそも分らないと。こんなに沢山文字が並んでいて、どこから読めばいいかわからないと。 うーむ。実質上の文盲じゃないか・・・。沢山の文字が読めないと言われると、手の打ちようがないな。仕方ない、代りに俺が読んでやる、というわけにもいかないし。 ちなみに、恐る恐る聞いてみたところ、私のゼミ生の中で、私が書いた本を読んだことがある人は一人も居なかったという。ええ゛っ! じゃあ、どうして私のゼミに入ろうと思ったわけ・・・? ゼミ生という、私にとって一番身内の存在がそれで、昼休みに来た外様の1年生はやる気満々。これって、どういうこと? 最後のゆとり世代と、ポストゆとり世代の差か? あるいは、預言者は故郷では容れられないってことか? とにかく、今日は外様学生に励まされ、身内学生にガッカリさせられた一日となったのでした。
June 19, 2017
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田中菊雄の『英語研究者のために』を読んで以来、日本の英語学に若干興味が出てきたのですけれども、今回帰省した際、父の書斎を見ていたら、斎藤秀三郎の『実用英文典』(開隆堂、昭和23年初版)という古い本があったので、とりあえず失敬してきました。 で、ちらちら見ているのですが、これがまたすごい本でね。 基本的に文法書なんだけど、その文法の根拠を示しつつ、さらに実際の使われ方をも示すべく、豊富な例文が盛り込んである。しかも、全編、英語で書かれていますからね。これを、留学なんかしたこともない、1866年生れの日本人が書いたとはとても思えないという。 つまり、英語の天才であり、努力の天才である人なのよ、斎藤秀三郎という人は。 結局、英語が上手になりたいな、と思って、上手になった人を過去に遡って探すと、天才にして人間ばなれした努力家の姿しか見えてこないという。そういう人じゃないと、なれないのか? 英語の上手に・・・。 しかもさ、現在使われている英語より、斎藤英語の方が一枚上手だからね。 例えば、前置詞「at」の説明では、at の意味内容として「occupation (=occupied with)」即ち「今、関わっている、従事している、夢中になっている」という側面があるので、「work」とか「play」といった動詞の後に使うものだ、と説明し、「We played (at) chess.」なんて例文を出している。 つまり、現在の我々が普通に「We played chess.」とやっていい気になっているところを、本来は「We played at chess.」と言うべきである、と言っているわけ。 これって、逆に言うとさあ、我々現代の日本人が「弁当を食べる」「蕎麦を食べる」とか普通に言っているけど、本当は「弁当をつかう」「蕎麦をたぐる」って言うんだよ、って、外国人に言われるようなもんじゃないの? うーむ。凄いね。私も今度、「We played at ball.」とか言って、ネイティヴ・スピーカーの度肝を抜いてやろうかしら。 ま、とにかく、この本はスゴイわ。1000ページ以上あるけど、さらっと通して流し読みしておこうかしら。 ってなわけで、昔の日本の英語達人は半端ないわ、という驚きに圧倒されっぱなしの私なのであります。もっともそれって、英語を勉強し直すモチベーションになるというよりは、むしろその情熱に濡れた毛布を投げかけるようなものだけどね・・・。
June 18, 2017
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今日も父のお見舞いに行って来たのですけれども、あまり状況は芳しくないですなあ。 父も気が弱くなったのか、我々が帰るとなると、寂しそうな顔をするんですわ。泣いているのかな。でも泣くと、鼻水が出て気道が詰まり、痰の吸引をしなければならなくなるので、今日は眠っている内に帰って来てしまいました。 今日は夕食後、一旦名古屋に戻りますが、来週もまた、出来るだけ早い機会に帰省して、父の顔を見に行くことにいたしましょう。 ところで、こういう深刻な時によりによって、という感じもしますが、今日は笑劇のような出来事もありまして。 この前帰省した時、家の近くの某団地の中にある「いなぎSATOYAMAキッチン」というお店でランチを食べた、という話をこのブログにも書きましたが、その時、オープン○周年記念とかで、食事券が当たる抽選みたいなのに参加させられたわけ。 そしたら、それに当たってしまったと。今朝、その当選を知らせる電話をいただきまして。 ということで、何もこんな時に当たらなくてもと思いつつ、せっかくのお話ですから、名古屋に戻る前に母とそのお店で夕食を食べようかなと思っている次第。 アレかな。神様も、少しは我ら一家を励まそうと、粋な計らいをしてくれたってことかな。思うのは勝手だから、そう思うことにしておきましょう。
June 17, 2017
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昨夜、東京の実家に戻り、今朝、父の転院を手伝ってきました。ま、手伝うと言っても、ストレッチャーごと介護タクシーに乗って移動するので、私自身が力仕事をする出番はないのですが、今まで入院していた病院のお支払いを済ませたり、新しく入院した病院の転院手続きをしたりと、まあ、やはり母一人では手が回らないところがありましたので、帰省してよかったかなと。 しかし、父の容態もあまり思わしいものではないようで、新しい主治医の先生から聞かされる話も、渋いものでございました。 で、午後からは治療に関する様々な処置があるということで、我々が傍に居てもあまり役には立たないことがハッキリしたものですから、母と私は一旦、父を病院に任せて昼食をとることに。 向かった先は新百合ケ丘の「ラ・カンパァーナ」というイタリアンのお店。ここ、私のお気に入りなんですけど、今日も美味しかった。何よりも、このところ食欲のない母が割としっかり食べられたのは良かった。母も父の容態の悪化にガックリ来ていたところですから、少しでもね、お腹に入れて、元気を出してもらわなければ。 そして、その後、私は一人で家電品店に行って、LPレコード用のプレーヤーを買おうと思っていたのですが、母が「家に一人で居ると、別れ際のお父さんの寂しそうな顔が思い浮かんでしまうから」というので、予定変更、母と一緒に家電品店に向かうことに。 で、買っちゃいましたよ、プレーヤー。オーディオ・テクニカの奴を買ったのですが、税込みでも1万円そこそこ。安いもんです。 CD時代に入ってから、とりわけ前に持っていたステレオが壊れてから、LPレコードを聴くことはまったく無くなっていたのですが、今回、このプレーヤーを買い、数年前に買ったオンキョーのミニコンポに接続することで、LPレコードを聴ける環境が復活! で、一発目にアンディ・ウィリアムスの『ラヴ・クラシックス』なるアルバムをかけてみた。すると・・・ おお! 懐かしいLPレコードのサウンドが! 時々聞こえる「パチ、パチ」という雑音も懐かしい! なかなか趣のあるもんですなあ、改めて聴くと! このアルバムもそうなんですけど、実は我が家には歌舞伎の好きな母が買った歌舞伎のLPが何枚かありまして、それを母は聴きたがっていたのですけど、今までずっと聴けなかったんですな。だから、今回、このプレーヤーを買って、再びLPレコードを聴く環境が整備されたことで、少しは母を励ますことになればいいなと。父の看護で、疲れることや、落ち込むこともあるだろうと思うのでね。 というわけで今日は、しばらく、懐かしいLPレコードの音を堪能して、厳しい現実をしばし忘れようと思っている私なのであります。【送料無料】オーディオテクニカ ステレオターンテーブルシステム ブラック AT-PL300BK [ATPL300BK]
June 16, 2017
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昨日・今日と、教育実習がらみの出張でございます。 昨日は名古屋の北の方にある某・中学校を訪問したのですが、これがまたえらくモダンな校舎でございまして。とても公立中学校の校舎とは思えないほどの豪華さ。 っていうか、うちの大学よりよっぽどカッコいいじゃないの・・・。 で、ご担当の先生に「すごいですね、この校舎・・・」とお伝えすると、「実はこれ、かの黒川紀章さんの設計なんです」と。 く、黒川紀章?! スゲーじゃん! 確かに校舎間広場を覆うドーム状の屋根とか、黒川紀章っぽいわ。 だ・け・ど・・・。 やっぱり使いにくいところは多々あるんだって。人に合わせて建物があるのではなく、建物の方に人間が合わせないといけないらしい。まさに本末転倒ですな。しかも既製品じゃなくてオリジナルな建具ばかりなので、ちょっと修理するにも多額のお金が掛かり、維持費が半端ないと。 ま、その辺がね。日本のモダン建築家の限界かな。 で、肝腎の教育内容ですけれども、この中学校、外観もモダンなら教育システムもモダンで、例えば教室もクラス単位ではなく、教科単位で設計してある。つまり教室はそれぞれ英語専用、数学専用、国語専用、理科専用・・・みたいになっていて、生徒の方が授業毎に移動し、それぞれの教科の授業を受けるわけ。その他、この学校ならではの決まりごとが色々あるらしく、鄙には稀な、攻めの教育が行われていたという。面白いもんです。 さて、日にち変わりまして今日のこと。 今日は小牧の方にある某・県立進学校(高校)に行ってきたのですが、こちらは参観授業が1限だったもので、8時半までに伺わなくてはならなかったんですな。もう、普段夜中の3時過ぎとかに就寝しているワタクシにとっては地獄のスケジュール。 しかし、参観する私が遅刻するわけにもいかないので、今日は朝5時台に起きてとりあえずこの高校の近くまで向ったという。でも、そんな具合に気合満々で向かったら、さすがに早朝過ぎて渋滞もなく、7時半頃には着いちゃった。というわけで、とりあえず近くにあったマクドナルドに飛び込み、朝マックしながら時間をつぶすことに。 で、コーヒーとソーセージマフィンを注文したら、税込で200円だと。 ん? そんなに安いの? 少なくとも400円位するのかと思ったのに。 で、すっかり気を良くしたワタクシ、持参した新書本をのんびり読みつつ、マフィンを齧りつつ、コーヒーをすすりつつ、ガラガラのマックを独り占めというね。 いいな、これ。なんか、いい気分になってきた。朝マックいいな。 で、いい感じで時間をつぶした揚句、二つの授業を見て、ちょっとだけ実習生の指導をして、それで先程帰宅した次第。 でも、うーん、さすがに火曜に京都での葬儀に参列し、昨日・今日と出張でちょっと疲れちゃった。 ところが、疲れを癒す暇もなく、私はこれから東京に戻るのよ。 というのは、明日の早朝、父が今入院している病院から別の病院に転院するもので、母一人に対処させるのはちょっと酷だなと思い、手伝いに行くんですわ。 ってなわけで、今週はなかなか忙しない週になってしまいましたが、これも浮世の義理。頑張って務めて参ります。明日からは東京からのお気楽日記、お楽しみに~。
June 15, 2017
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昨日、叔父の葬儀で京都に行ってきたのですが、帰りがけに駅中のお土産店に寄ってあれこれ買ってきたんですな。で、その中に「川勝總本家」とかいう漬物屋さんの「水茄子」がありまして。 私は京都の漬物の中では千枚漬が昔から好きで、行く度に買うのですが、昨日はどこのお店にもこれが無くてですね。それではたと気づいたのですが、千枚漬というのはどうやら季節ものであると。 知らなかったわ~。そんなもん、年中あるのかと思っていた。 で、仕方がないので、柴漬けとか、すぐきとか、その辺を買おうかとも思ったのですが、それではあまりにつまらないと思い、頭を悩ませた揚句、「水茄子」を買ってみた。で、昨夜のうちに食べてみたのですけど、これがまあ、旨いのなんのって。茄子の風味が漬けてある出汁の旨味と絶妙にマッチして、この上ない爽やかな味。私は悩殺されたと言っても過言ではありませぬ。 いやあ、茄子だから、きっとこれも夏にしか買えないものなのかも知れませんが、それならば今後は秋冬は千枚漬、夏は水茄子を買うことに決めました。川勝總本家の水茄子、教授の熱烈おすすめ!です。 さて、話はまったく変わるのですけれども、三上延という人の書いた『ビブリア古書堂の事件手帳』なる本を読了しましたので、一言感想を。 こういう小説って、ジャンル的にはどうなっているんでしょうか。YA小説? ま、普通なら私が読みそうもない小説ではあるのですが、ならばどうして読んだかと申しますと、先日読んだ『渡部昇一 青春の読書』という本の中で言及があったから。最近は若い人は本全般に興味がないようだけれども、『ビブリア古書堂の事件手帳』みたいな本がベストセラーになっているとすると、案外、古本に興味のある若い人も居るのかな? 的な話の流れの中で出てきた書名なんですわ。 で、私としては、「お? 渡部さんはこういう本も読むの?」という程度の軽い驚きがあったのですけど、まあ、この人はもともと「小難しい本ではなくて、身の丈にあった、本当に面白いと思える本を読めばいいんじゃ」ということを昔から主張していた人ですから、そういうことはありそうなことでありまして。 で、ならば私も読んでみるかと思った次第。こんなの、ベストセラーだから、ネット上の古書店なら1円(+送料257円)で買えるからね。 で、まあ、2時間くらいで読了。 内容については私などより皆さんの方がよほど詳しいと思いますが、要するに北鎌倉に店を構える古書店・ビブリア古書堂の若き女店主にしてビブリオフィリア、その名も本にゆかりの篠川栞子さんと、ある事情がからこの古書店の店員となった若き・・・なんだ? 気は優しくて力持ち、本は好きだが本を読むとアレルギーが出る五浦大輔が、古本をめぐる様々な事件に出くわし、その事件の謎を栞子さんが本や古本についての豊富な知識と洞察力で快刀乱麻を断つごとく解明、大輔ともども解決に当るというお話。もちろん、そういう話ですから、二人の間の恋模様というのもあって、ロマンティックな側面も生じてくると。 ま、全体的にはよくある話とはいえ、探偵役の栞子さんが、小学生でもなく、家政婦でもなく、骨の専門家でもなく、鉄道マニアでもなく、うら若い女性の古書マニアというところが珍しいと言えば珍しい。(ん? そうでもないのかな? 古本マニアの探偵は結構居るのか・・・。あまり詳しくないので、よく分かりませんが。) で、全体として面白いかと言われたら、うーーん・・・・、面白いかな。 これを面白いと言っちゃうのは、文学研究者としてどうなんだ、というところはありますけど、こんなのちゃんちゃら可笑しくて読んでらんねぇや、という感じではない。2時間と258円を投資してまったく悔いはないです。 ただ、一つ難を言うと、登場人物の集約が強すぎる。小説に登場するほぼ全員が、何らかの形で事件・事情に絡んでくるという設定は、あまりにも人為的。もう少し捨てキャラがいないと、自然な感じがしません。 でも、ま、こういうのを読んで、若い人が古書の世界に興味を持つのだったら、大したもんだよね。さすが「本屋大賞ノミネート作品」。 というわけで、いかにも読みそうもないものを読んでしまったワタクシ。瓢箪から駒ならぬ、渡部昇一からの栞子さん。たまにはこういう「事故」みたいな読書も、いいのかもね。ビブリア古書堂の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫) [ 三上延 ]
June 14, 2017
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今日は思いもかけず京都に行くことになってしまいまして。 と言いますのも、叔父が亡くなったものですからね。全国紙の訃報欄に載っちゃうような関西医学界の重鎮なんですけど、享年91ですから、まあ、大往生と言ったところですかね。喪主を務めた従姉妹によると、最晩年まで元気で、仕事の他、趣味の写真や書道、そして旅行などを楽しまれたとのこと。 告別式の会場に、叔父が生前に出版した写真集が置いてあったのですが、それをパラパラめくって見ていたら、叔父さんの子供二人(私の従姉兄)と姉と私の四人を、榛名湖のほとりで撮った写真もあって、ちょっと懐かしかったですね・・・。 で、出棺を見送った後、滋賀に住む姉夫婦と京都駅の「はしたて」という有名な和食のお店で値段の割にさして美味しくもないランチを食べてから別れ、先ほど名古屋の自宅に戻った次第。せっかく京都まで行ったので、不謹慎とは思いつつ、お土産も色々買っちゃった。 しかし、あの元気だった叔父さんも、今やあの世の人か・・・。私の結婚披露宴で、親族代表でスピーチしてもらったのも、はや19年前のことになっちゃったしなあ・・・。 一昨年は叔母を送り、昨年は家内の母を送り、今日は叔父を送りと、まあ、順番とはいえ、寂しいもんでございます。
June 13, 2017
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昨日、渡部昇一さんの『青春の読書』という本の感想を書きましたけれど、これに反応して下さった「くまぜみ」さんのご教示で、DHCがネット上で公開している「書痴の楽園」という番組があることを知り、早速見てみたところ、これがなかなか面白いんだなあ。これこれ! ↓書痴の楽園 これ、タレントの宮崎美子さんが渡部昇一さんのあの豪華な書斎を訪れ、話を聞くというスタイルの番組だったらしいのですけど、私が見た最終回では、渡部さんは既に亡くなられていて、その主なき書斎を宮崎さんが再度訪れ、渡部さんの思い出を語るという趣向。 で、これを見ながら思ったのですけど、やっぱり本人に会うと、違うんだろうなと。 つまり、本を読んでその著者を批判するのは簡単なのよ。だけど、もしその著者に直々に会って話をしたら、やっぱりその人の人となりというか、そういうのも分りますから、自然、こちらにも情というものがわいてくる。そしたら、おいそれと痛烈な批判はできないだろうなと。 むしろ、その人のいい面を、積極的に伝えたいと思うだろうなと。 だから、もし私が渡部さんに直にお会いして、あの書斎に招き入れられ、そこで直接お話を伺う機会があったのだとしたら、私も多分、もっと好意的に渡部さんのご著書を読んだでありましょう。 それは必ずしも「評価が甘くなる」ということではないような気がする。 ま、とにかく、私自身の親父とほぼ同世代の渡部さんの晩年の姿を「書痴の楽園」を通じて拝見すると、それだけでもやっぱり違いますね。やっぱり、親近感がね。特に、私の親父が今、体調が悪いものだから、体調が優れなかった時の渡部さんの姿を映像で見ると、親父に対するのと同じような気持になりますからね。 昔からいう、「人には添うて見よ」というのは、そういうことなんでしょうね。 というわけで、くまぜみさんにはいいものを教えていただきました。この番組、49回分ありますから、これからぼちぼちと拝見させていただくことにいたしましょう。これをお読みの皆様も、興味があれば是非。教授のおすすめ、です。
June 12, 2017
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先ごろ亡くなられた英語学者、渡部昇一さんの『渡部昇一 青春の読書』という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 その前に何で私がこの電話帳みたいに大部な本(614ページもある!)を読んだかと申しますと、二つ理由がありまして、一つは本書の表紙ね。渡部さんの書斎がそのまま表紙になっているのですけど、これがまあ、すごい。こんな書斎を自分でも作りたい~っていう私自身の願望が、思わず本書を手に取ってしまった第一の理由でございます。これこれ! ↓渡部昇一青春の読書 [ 渡部昇一 ] すごくない、これ? なお、渡部さんの書斎を写した写真は本書の中にも色々あって、これ、本当に個人の書斎? イギリスの由緒ある古書店の写真とかじゃなくて? って感じです。 で、もう一つの理由は、渡部昇一という人が、日本における自己啓発本の出版史に深く関わってくるから。この人は数多くの英米の自己啓発本を翻訳したり紹介したりしていますし、ご自身でも自己啓発的な本を随分書かれている。翻訳に関して言えば、先日ちょっと批判的にご紹介した加藤諦三氏などとは比較にならないほどしっかりした翻訳をされていますからね。そういうこともあって、この人のことは私がこれから書く本の中でもどこかで触れなくてはならないなあと思っていて、だからこの際、この人の若き日の読書遍歴について知っておこうという下心があったわけですわ。 で、実際に読んでみたと。 まず全体的な感想から言いますと、うーん、一言で言いますと、渡部さんという人は、いつまでも若いなと。 基本、今から40年程も前にあのベストセラー『知的生活の方法』を読んだ時の読後感とあまり変わらないというね。あの時の渡部さんは40代半ば、一方、本書を書いた時の渡部さんは80代半ばのはずですが、文体から何から全然変わってないの。若いわ~、いい意味でも悪い意味でも。 だけど、さすがに『知的生活』はコンパクトな新書版、こちらは614ページの単行本ですから、こちらの方が色々なことについて細かく、詳しく書けるのも物理的な事実。同じく学生時代の思い出が書いてあるにしても、こちらの方がよほど詳細に書いてあります。 で、本書『青春の読書』の方で特段にフィーチャーしているのは、鶴岡第一高等学校時代から大学時代にかけてずっと恩師であった英語の佐藤順太先生という方のこと。ま、結局、本書は、佐藤順太先生を始めとする渡部さんの数多い恩師たちに捧げる「先生とわたし」本と言えましょう。実際、渡部昇一という人は、習った先生の影響をやたらに受けまくる「素直なスチューデント」(@ユーミン)なんですな。で、素直なスチューデントだけに、人間だけでなく本の影響も受けまくる。本書はそうした、恩師・恩書へのオマージュで満たされた614ページでございます。 だけど、そういう種類の本だけに、渡部さんが「わし、この本の影響受けたわ~」とおっしゃっている本群に対し、「私もその本、好きです~」と応対できれば、この上なく楽しい読書になると思うのですけど、そうじゃなかったら「はぁ? 何の話?」で終ってしまうかもしれません。渡部さんに興味があるか、渡部さんの好きな本に興味があるか、どっちかじゃないと、614ページは辛いかもしれない。 じゃあ、私はどうなのか、と言いますと、先に言いましたように、職業上、その両方に興味があるので、全然OKよ~! だけど、あくまでも「職業上」の興味だから、私がこの本から学んだことは、箇条書き的に表せることばかり。要するに、「この情報、後で自分の本で使えるな。いただきっ!!」という感じ。著者からしたら、あんまり感じのいい読者じゃないよね。ごめんなさいね、渡部先生。 というわけで、ここから先はしばらく、職業上のメモ書きです。つまらないかも知れないけれど、しばしご容赦を。○スイスの哲学者、カール・ヒルティの『ヒルティ 宗教論文集(上)』に「病気治療法」なる章があり、渡部さんも影響を受けた。(なお、ヒルティは日本では有名だが、今ではスイスでもドイツでもほとんど読まれていないらしい。)○渡部さんが尊敬している英語学者の一人が田中菊雄。『現代読書法』は、自己啓発本として渡部さんに大きな影響を与えた他、『英語研究者のために』もよく読んだとのこと。また田中氏の『私の人生探求』(『あなたはこの自助努力を怠っていないか』に改変)を復刊する際、37ページもの解説を渡部さんは付けている。○戦前の『キング』には、人生訓の付録が付いていた。『偉人は斯く教へる』『考へよ! そして偉くなれ』など。○デカルトは解剖学の知識を持っていて、彼は人間の精神の在り処を松果腺だと考えていた。そして、肉体とは別の精神を創造した神は、宇宙も創造したのであって、ならば宇宙には人間の理性で解明できる法則があるに違いないと考えた。この確信がヨーロッパの精神の基本にある。○渡部さんの愛読書である幸田露伴の『努力論』には、精神療法的なところがあって、心を向けると、そこに気が入り、気が入ると血が集まり、血が集まると肉が作られ、身体が丈夫になる、というようなことを書いている。○渡部氏はアレクシス・カレルの『人間、この未知なるもの』に非常に強い影響を受けている。渡部氏によれば、カトリック神父でこれを読まなかった人はいないであろうと。カレル曰く「現代はパスカルを忘れてデカルトに従った」。しかし、カレルの影響を受けた渡部氏は、後に大西巨人を巡る言論トラブルに巻き込まれることになる。○パスカルもまたカレル同様、自分の姪の眼病が信仰によって完治する奇跡を見て、それが『パンセ』執筆のスプリングボードとなった。○ヒルティの『幸福論』には、「最上の時間消費法は常に仕事である」として人間の懶惰をたしなめるところがあり、一種の自己啓発本と言える。○『週刊朝日』の名編集長・扇谷正造はデール・カーネギーの『人を動かす』の信奉者だった。彼がこれを読んだのは昭和45年頃のこと。渡部さんもその20年前、英文科2年の時に「Public Speaking」の授業でカーネギーのこの本を読み、影響を受けることに。もっとも、当時日本の英文学会などでこの本が話題になることはなく、アカデミックな世界では通俗書扱いだった。なおカーネギーには『有名人秘話集』や『五分で読める伝記集』など短い伝記物がある。○渡部氏は、ドイツ語の訓練法として、スマイルズの『Self-Help』の英語版とドイツ語版を併読した。そしてその成果があって、ドイツへの留学が決まった。○大学院時代、渡部氏はカトリック系女子大で教鞭をとったが、その際、恥しくないよう、マナーを身に付けようとチェスターフィールドの書簡集を読んだ。チェスターフィールドの書簡集は、明治8年には既に『智氏家訓』として邦訳されるなど、日本ではスマイルズの『西国立志編』同様、親しまれていた。○露伴も、スマイルズを必読書として挙げている。○渡部は1835年刊のトッドの『Student's Manual』の影響も受け、後に翻訳している。○新潮社の創設者・佐藤義亮の自己実体験型自己啓発本『生きる力』とその続篇『向上の道』は、ともにベストセラーとなった。○渡部さんとハマトンの『知的生活』の縁は、英作文の参考となるくせのない英文の例として、恩師から推薦されたことから生れた。しかし、実際にハマトンの何たるかを理解したのは、その25年後。そしてこれをきっかけとして、『知的生活の方法』執筆の動機が生まれた。○『知的生活の方法』がベストセラーになったことで、渡部氏は金銭的な余裕が生まれた。8ケタの額の本を、妻に相談なく買えるほどに・・・。○スマイルズの『自助論』がイギリスの労働者階級・中流下層階級の人たちにアピールしたのと異なり、ハマトンの本は中流上層階級や知識階級の間でよく読まれた。○その他、渡部氏にとって有益な自己啓発本であったのは、本多静六の『私の財産告白』、及び高柳米翁の『家を富ます道』。 まあ、ざっとこんなところかな。 それにしても『知的生活の方法』が売れに売れたくだり、すごいね。8ケタのお金って、要するにウン千万ってことでしょ。その額の本を、奥さんに無断で買えたというのだから・・・。 あと、アレクシス・カレルの本の影響というくだりで、悪名高い「神聖な義務」論争の顛末に触れてあるのですけど、本書の中で渡部氏は、「なーんも間違ったこと言ってないから、謝る必要なんかないもんねー!」という趣旨のことを書いておられるものの、これはさすがに、個人の見解というのにとどめておくべきもので、雑誌記事として公表したら、そりゃ炎上するだろうな、と私も思います。渡部さんとしては確信があってのことでしょうけど、何もこの本にまで書かなくてもいいんじゃないのと。 というわけで、「ん?」と思うような点も多々ありましたけど、少なくとも自己啓発本研究の観点から言えば、面白くなくはない本ではありましたね。追加: そうそう、この本を読んでいて、一つ気になることがありました。 田中菊雄さんの『英語研究者のために』という本に言及したくだり(189ページ)で、本書には「・・・その風潮に反対して、田中菊雄は『一外国語を暁得するは一新天地を発見するなり』、また『外国語を知らざるものは、自国語をも知らざるなり」という二つのゲーテの言葉を巻頭に掲げて、この本を出版したのである。『英語研究者のために』と題する本でありながら、ドイツ人のゲーテの言葉だけを巻頭に出したのは、当時のドイツは日本の同盟国なので、出版の際の検閲のことも考慮したのではなかろうか。」とある。 ところが、このブログにも書きましたけれども、私も最近、田中菊雄さんのこの本を読んだばかりでありまして、私が読んだ講談社学術文庫版のこの本の巻頭には、ゲーテの「外国語を知らざるものは」という文と、もう一つエマソンの文が載っているんです。ゲーテの文章二つじゃないわけ。 うーん、これはどういうことなんだろう? どの時点かで、ゲーテの文が一つ削られて、代わりにエマソンのになったのだろうか? これはちょっと調べてみないといけませんな・・・。
June 11, 2017
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前から気になっていた斎藤美奈子さんの『文庫解説ワンダーランド』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 前にもこのブログでちょいと紹介しましたが、斎藤さんという文藝評論家は目の付け所がいつも斬新。この本も、小説などが文庫化される際につけられるオマケ、すなわち「巻末解説」に目をつけ、これを各社比較検討することで、優れた解説とはなにか、ダメな解説とはなにかを明らかにしていくという、まさに今まで誰もやらなかった仕事をなさっております。 だけど、ただそれだけじゃなくて、文庫解説を検討していく中で、自然、当該の作品自体についても再考を促すところもある。例えば漱石の『坊っちゃん』。新潮文庫や文春文庫版の解説を担当しているのは(当たり前のように!)江藤淳氏なんですけど、それを読むと坊っちゃんというのは旧幕臣の出で、坊っちゃんの味方をする山嵐も会津の出。すなわち明治に敗れた江戸関係者であると。だから、この物語ってのは、要するに「敗者の文学」なんだと。こういう指摘は、岩波文庫版の平岡敏夫氏にもある。集英社文庫版の渡部直己の解説も大同小異。 一方、角川文庫版の池内紀解説は、小難しい文学論を避け、適当なエッセイで誤魔化していると。 逆に小学館文庫版『坊っちゃん』の解説をしている夏川草介氏は、江藤・平岡系の「敗者の文学」説を否定し、これは坊っちゃんという逞しい生命力を持った1人の青年の痛快活劇として読んでOKなのであって、彼を「敗者」と見做すなんてナンセンス!と、この小説を読んだことのある大方の読者の感想にお墨付きを与えていると。 さらに集英社文庫の「鑑賞」を担当したねじめ正一氏は、うらなり君みたいなうじうじした男がマドンナに振られるのは当たり前、女はみんな赤シャツみたいな、教養と生活力と積極性のある男が好きなのさ、と、大胆な指摘をする。 つまり、全体としてみると、江藤淳や平岡敏夫など、インテリ批評家はこの物語を「悲劇」と見るが、庶民からすれば坊っちゃんはヒーローなのであって、これは若い青年による痛快活劇と見るわけですな。そうなってくると、文庫解説は、作品を解説すると同時に、それを解説している人たちの傾向まで解説してしまっていることになるわけですよ。 だから、文庫解説を読み解くという作業は、実に実に面白い! こんな面白いことを、今まで誰もやってこなかったのか! ってなもんなわけ。そこに気が付いた斎藤氏はやっぱりすごい! だけど、それに気が付いて色々な作品の文庫解説を読んでいくと、これがまた「トンデモ解説」が沢山あると。 斎藤氏によると、特に日本文学の解説の陥りやすい悪しき例としては、①作品を作者の出自や個性に還元してしまう態度②作者と主人公を重ねて読む傾向③主人公を「特別な人」と考える癖 があると。三島由紀夫や伊藤整による川端作品への解説なんてこの種の悪しき例であって、こういうのは作品の理解を妨ぐばかりで一利もない、と、大物解説者を一刀の下に切り捨てる斎藤氏の迫力はなかなかのもの。 その他、『太陽の季節』とか『なんとなく、クリスタル』的な「事件的作品」の解説パターンは、①作品発表当時の騒動を紹介しつつ、②旧世代の戸惑いを軽くいなし(あるいはあざ笑い)、③新世代の文学の新しさをこれ見よがしに賞賛し、④何よりも文体や感覚が新しいのだと述べる。 ことだ、と喝破したり、現代日本文学の解説の特徴は、①作品を離れて解説者が自分の体験や思索したことを滔々と語る。②表現、描写、単語などの細部にこだわる。③作品が生まれた社会的な背景にはふれない。 ことだ、と喝破したり、文芸評論の解説は、①文芸評論は特定のテキストを論じるため、前提知識か問題意識がないと辛い。②複雑な概念について論じるには、複雑な表現にならざるを得ない。③論者は①②が当然と思っているので、噛み砕く努力を一切しない。 からチンプンカンプンだ、と指摘するなど、斎藤氏の舌鋒はますます鋭い! 実際、そういうの、よくあるんだよなあ~。 とはいえ、もちろん、斎藤さんは文庫解説を批判ばかりしているわけじゃなくて、素晴らしい解説はその素晴らしさの理由も含めハッキリ指摘して高く評価しておられる。 例えば丸山眞男が吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』に付した解説とか。丸山はこの小説の、特に「おじさんのノート」の部分に着目し、主人公のコペル君が幼いながら社会の仕組みについて発見したことをおじさんが評価し、その社会観をさらに一段引き上げるために説明をしている文章の中に、マルクスの『資本論』と同じものを見て取り、そこを称揚するわけですけれども、コペル君の発見とマルクスの発見は同じだと見抜くこと、つまり全く次元が異なるように見えるAとBの間に同質性を見い出し、「これって、あれじゃん」と見抜くことこそ、あらゆる批評の要諦であって、丸山眞夫が『君たちはどう生きるか』の解説でやっているのは、まさにそれだ、と指摘する斎藤氏の言葉も、私にはかなり説得力がありましたね。 あ、そうそう、それからもう一つ。日本の文庫解説にありがちな事情として、「著者が解説者を直接指名する」ケースについても斎藤さんは言及している。この場合、解説者は著者に対して辛口にはなり様がなく、そうした馴れ合いから、生ぬるい感じの解説が生まれてしまうわけですな。これは、人間関係の綾として仕方ないこととはいえ、読者の立場からすれば、あまり歓迎される状況ではないと。 ただ、渡辺淳一大先生の諸作に付された後輩女性作家たちの「解説」のように、表向き大先生を祀り上げているようでいて、実は渡辺大先生のセクハラ的言動をやんわりと批判しているという、そこに賢い女性作家たちの一枚上手の先生あしらいが窺えて面白い、というような味わい方を我々に提示してくれる。なかなか鋭いではありませぬか。 というわけで、人口に膾炙しているような有名な作品を取り上げ、その文庫解説を比較検討しながら、いい解説は良しとし、ダメな解説はダメとする是々非々の態度を維持しつつ、いい解説はどうしていいのか、ダメな解説はどうしてダメなのかも明らかにしながら、そういう検討を通して当該の作品自体への理解も深めるという、文藝評論のスタイルとしては超絶技巧と言って良いようなものに本書は仕上がっております。これはね、一読の価値はある本ですよ。 私も、さすがに文庫本の解説を頼まれたことはありませんが、『週刊読書人』とか『図書新聞』その他から書評を頼まれることはある。そういう時、どういう路線で書評を書けばいいのか、あるいは、どういう書評を書いてはいけないのか。本書を読んだことで、その辺の参考になりましたねえ。私も次に書評を頼まれた時には、「これって、あれじゃん」的なひらめきのある奴を書きたいと思います。 ただ・・・、と言って、これまで褒めちぎってきたこの本に対し、最後に一言、批判めいた言辞を弄するのは、書評のスタイルとしてあまりにも陳腐だ、と言われそうですけど、それでも一言言わせてもらうと、本書における斎藤さんの文体が、少し砕けすぎではないかと。特に、この本が岩波新書の一冊であることを考慮すると、少なくとも私のような岩波教養主義で育った人間にとっては、斎藤さんの砕けた文体は少し、違和感があるんだなあ。 まあ、岩波新書だって進化するわけで、いつまでも教養主義的な、お堅いものであり続けるわけにはいかないよ、というのは分るのですけれども、やっぱりそこはさ、品の問題でしょ。斎藤さんらしいパンチのある文章の感じを維持しつつ、もう少し、砕けた感じを取り除くことは可能だと思うんですよね。 その点だけ注文を付けるとして、後はすごく面白い本でありました。教授のおすすめ!です。文庫解説ワンダーランド (岩波新書) [ 斎藤美奈子 ] あ、あと自己啓発本の立場から、本書で触れられている『葉隠』、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』、山本有三の『路傍の石』を再読しておかなければと思ったこともここに付して、忘備録としておきましょうかね。
June 10, 2017
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アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した『スポットライト』という映画を観ました。ので、ちょいと心覚えを。以下、ネタバレ注意ということで。 ま、ネタバレと言っても、これ、例によって実話を元にしたアレでして、21世紀初頭、ボストン・グローブというアメリカ・ボストンにある新聞社が、70人ものカトリックの坊さんたちが教区の少年・少女たちを性的にいたずらし、そうした事実を把握していたにも関わらず、教会が圧力をかけて隠ぺいしていた、というスクープをものにした、その一連の顛末を描いた映画でございます。 それでもアカデミー賞の主要2部門をゲットした映画ですからね、一応は大いなる期待を持って観たのですけれども・・・ ・・・一言で言って・・・地味? ワタクシとしては、もっとスキャンダラスな映画なのかと思ってたのよ。「世紀のスクープ」なんていう日本語の副題まで付いているわけだし。つまり、スキャンダルの封じ込めを狙うカトリック教会が、その底知れないパワーを縦横に使って、正義に燃えたジャーナリストたちに物理的・精神的なプレッシャーをかけ、事実のもみ消しを試みる話かと思ったわけ。 だけど、別にそういうのもないし。淡々と調べたら、淡々と事実が分って来て、淡々と公表したら、それなりに好評でした、みたいな映画ですからね。 なんか、この盛り上がりに欠ける感じ、前にも同じような映画を観たなと思ったんですけど、アレですわ、『大統領の陰謀』(1976)。ウォーターゲート事件をすっぱ抜いた二人のジャーナリストの活躍を描いた奴。あれも、なんかアンチ・クライマックスな感じの映画でしたけれども、脚本賞を含む4部門でアカデミー賞を受賞したんですよね。 『スポットライト』も『大統領の陰謀』も、ジャーナリスト役の俳優の演技には見るべきものがあるのだけど、その割に地味っていうところがよく似てない? 多分、アカデミーは、こういう感じの映画が好きなんだろうね。これこそジャーナリストたちのリアルな日常じゃ、みたいなのが。 だけど、「そうか~」とは思うけれども、別に感動はしないかな。つまり、これはリアルではあるかも知れないけれど、ストーリーがないのよ。 だけど、ワタクシは映画に「ストーリー」を求めるんだなあ。ワタクシの言う「ストーリー」って何かって言ったら、とりあえず『スモーク』とか『ビッグ・フィッシュ』を観て。これらの映画は、「ストーリーって何?」という主題の映画だから。 というわけで、『スポットライト』に点数を付けるとしたら・・・ 「68点」かな。凡作。ま、そんなもんよ。私はマイケル・キートンのファンだから観てもいいけど、そういうのがなければ、それほどおすすめはしないかな。スポットライト 世紀のスクープ 【DVD】
June 9, 2017
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日本原子力研究開発機構の事故、ビックリするね。 だってさ、超危険な核物質をだよ、ビニール袋に入れてた、ってんでしょ。で、そのビニール袋が破れてえらいことになったと。 あのね、核物質ってのは汁気の多い弁当じゃないんだから。ビニール袋が破れて大変なことになったって、そりゃそうなるでしょうよ。 それにしても、「ビニール袋」って・・・。それで、「今後、核物質の取り扱い方法に改善点がないかどうか検討します」って。 あいつらのことだ、「これからはビニール袋じゃなくてジップロックを使います」とか言うんだろうな。 思うんだけど、原子力研究開発機構の連中って、核物質のこと、つゆほども知らないんじゃないだろうか。そういや、1999年の東海村JCO臨界事故の時も、核物質をバケツで汲んでて被ばくした係員がいたよね・・・。 核は、ちゃんと扱えば安全です、とか政府は言うけれども、「日本原子力開発機構」とか「JCO」とか、核を専門に扱う連中がこのレベルだから、我々国民は心配しているわけですよ。 猛省を促したいわ~。 さて、猛省を促したいといえば、促したい御仁がもう一人います。加藤諦三って人。 アニー・コールって人の書いた『一歩ずつ幸せに近づく本』っていう本を読了したのですが、この本を翻訳したのが加藤諦三ね。早稲田かなんかの名誉教授で、素人心理学者っていうのかな? 素人ラジオ人生相談員っていうのかな? 自己啓発本をやたらに書いている人。 ちなみに原著は『As a Matter of Course』(1894)といって、著者の Annie Payson Call は1853年生まれで1945年没の人。アメリカの有名な『Ladies' Home Journal』で健筆を振るったメンタル・ヘルス系の自己啓発ライターでございます。19世紀末から20世紀初頭にかけての時代、アメリカでは自己啓発本ブームでありまして、その種のライターは沢山いたのですけど、女性のライターというのは案外少ない。ま、彼女の場合は『Ladies' Home Journal』という舞台があったから有名になれたわけですけど、とにかく初期女性自己啓発ライターとして、一応は注目に値するわけね、自己啓発文学史的には。 だから私も気張って読み始めたのですが、うーん、内容的にはそれほど見るべきものはなかったかなと。 アニー・コールの自己啓発本のキーワードは、ずばり「石」ね。彼女によれば、人生には(つまづきの)石がやたらに転がっていると。で、その「石」というのは、要するに人間が自分の空想というか、潜在意識の中で作り上げた虚像、「brain-impression」なわけ。だけど、虚像であっても、実際の石と同じように人間をつっころばすのだから始末が悪い。 例えば「病気」という「石」がある。自分は具合が悪い、病気みたいだ、という思い。これに憑りつかれると、四六時中そのことばっかり考えて、友達に会えばその話ばかり。それで友達も嫌になって退散してしまう。つまり自分ばかりか他人までそのことで不快にさせちゃう。だけど、病気になったらなったで、きちんと医者に診てもらって、適切な治療をしてもらえば、あとはもう治るか治らないかだけなんだから、それ以上、病気のことなんかに気を取られないでいればいいんだと。そうすれば、「病気」という名の「石」を、あなたの進路から取り除けますよと。 アニー・コールの自己啓発哲学ってのは、万事、この調子。この調子で、「憂鬱」とか「不寛容」とか「他人」とか「娯楽」とか、人生に転がっている「石」を取り除け、というね。 ちなみに、アニー・コールのこの本には先人からの引用が少なくて、せいぜいイエス・キリストと詩人のブラウニングくらい。自己啓発本の定番、エマソンからの引用はありません。不思議なことに、19世紀中に書かれた自己啓発本にはエマソンの引用ってあんまりなくて、むしろ20世紀に入ってからの方がエマソン人気は上昇するんだよね。それは何故なのか、ちょっと考えなくちゃ・・・。 というわけで、アニー・コールの本というのは、そういう感じなんですけれども、私が今、問題にしたいのは、この本の翻訳の是非よ。 ところどころ、訳文に疑問があったので、私も原著と見比べながらこの翻訳本を読んだのですが、加藤諦三の訳というのがとんでもないシロモノでね。 まず、原著の章立てと翻訳版の章立てが全然違う。翻訳版の第1章は原著の第1章で、それはいいのですが、翻訳版の第2章は原著で言えば第4章と第5章ね。以下、翻訳版第3章 → 原著第6章翻訳版第4章 → 原著第7章&第9章翻訳版第5章 → 原著第2章&第12章翻訳版第6章 → 原著第3章&第14章翻訳版第7章 → 原著第15章 と言った調子。原著と論述の順番が全然違ってしまっているわけ。 しかもね、一つの章の中でも、原著の論述の順番を変えてしまっていて、原著のある章の真ん中辺に書いてあることが、翻訳版では最後に来ていたりするの。 だから、原著と翻訳版を読み比べると、一体、原著のどの個所を訳しているのか、まるで分らなくなるわけよ。 それでまた、翻訳の質自体も最低で、原著の文言をやたらにはしょるし、原著にない言葉は補うし、しかも訳し間違えだらけで、ほとんど翻訳の体をなしていない。 さらにさらに、訳者解説とか著者紹介もまるでなっていない。 大体、この翻訳本には、アニー・コールの生没年がどこにも書いてない。だから、普通の人は同時代人だと思うじゃん? 著者紹介には「アメリカの女性セラピスト。心理カウンセリングや原稿執筆の他、全米各地での講演など、幅広く精力的な活動を続け、多くの支持を得てきた。本書の他にも数多くの著作があり、いずれも「心の処方箋」として読み継がれている」と書いてあって、まるで現代アメリカの有名人気セラピストみたいな感じがしますけど、最初に言ったように、この人、生まれたのが19世紀半ばだからね。南北戦争の前だからね。でも、そんなことどこにも書いてないから、読者はまさか自分が今読んでいる本が、120年以上も昔に書かれたものだなんてわかりゃーしない。著者紹介の仕方が作為的だよね・・・。 加藤諦三というのは、『アメリカインディアンの教え』という本で名高いですけれども、そもそもあれはドロシー・ノルトというアメリカの育児カウンセラーの書いた「Children Learn What They Live」という育児ポエムを元ネタにしていて、しかもノルトはアメリカインディアンでもなんでもないという。それを『アメリカインディアンの教え』とか偽って翻訳する人だからね。 だから、翻訳者としての加藤諦三は、札付きのワルと言っていいんじゃないかな。 で、自己啓発本の研究者として、私は声を大にして言いたいのだけれど、加藤諦三氏のような、まあ、いわば「売れっ子」が、こういういい加減な翻訳によって英米の自己啓発本を紹介するものだから、日本における自己啓発本の地位が低いのではないかと思うわけですよ。 もちろん、こういうのは翻訳者だけでなく、出版社の責任でもあると思うのですが、「自己啓発本なんか、この程度のやっつけ仕事で出しちまえ。テキトーにやったって、そこそこ売れるんだから」という、そういう安易な取り組み姿勢というのが、出版サイドに絶対あると思う。それは、この種のものを大量に読み込んでいく過程で、ひしひしと感じます。 リスペクトが足らんよ、リスペクトが! 自己啓発本をなめるんじゃないっ! ということで、加藤諦三氏には、私から猛省を促したい。他の誰にも増して、お前さんにはよほどの自己啓発が必要なんじゃないのか?
June 8, 2017
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田中菊雄さんという方が書かれた『英語研究者のために』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 田中菊雄さんは、1893年生まれで1975年没の英語学者で、辞書編纂のお仕事でも有名な方なのですが、この人は学歴から言うと高等小学校しか出ていない。まあ、苦学の人なんですな。 だけど、だからといって不平不満を持っておられたわけではなく、どの道勉強というのはすべて苦学のことなんだと。自分も草木が水を欲しがるように勉強がしたいという一念でこれまでやってきた、ただそれだけのこと、という趣旨のことを自らおっしゃっておられるように、ごく自然に自分の内面の欲求にしたがって好きな学問をやり続けたわけですな。 で、最初は国文学の徒に、あるいは文筆家として立つ夢もあったようですが、その勉強の過程で英語に接するや、次第に英語の勉強が面白くなり、ついにその方向に舵を切ったと。 とはいえ、まずは生活第一ですから、旭川の高等小学校を出た後は小学校の代用教員となるんですな。しかし勉学への情熱抑えがたく、上京して国鉄に勤め、使い走り・お茶汲みのような仕事をしながら、正則英語学校などで必死に英語の勉強するうちに、周囲の人から認められるようになり、やがて呉の中学校の教員に。そこで試験を受けて正教員となり、さらに長岡の中学校の教員、富山高校の教員、山形高校の教員(もちろんすべて旧制)となり、ついに山形大学の教授となる。ある意味順調な、わらしべ長者のような出世でございます。 で、そういう風に出世していく過程での田中先生の英語修行たるや、これがまたものすごい。最初はアメリカの有名な『リーダー』を取り寄せて初歩から学び、すぐに聖書やバンヤンの『天路歴程』に食らいつき、『英語青年』をはじめ、当時日本で刊行されていた英学雑誌を取り寄せては、そこに寄稿されている日本の英学の大家の教えを、あたかも乾土が雨滴を吸い込むように吸収し、さらにシェイクスピアをはじめとする英文学の傑作の数々を徹底研究、そんな感じであらゆる機会を掴んで、寝る間も惜しんで英語の修行に勤しんだと。それはもう、まさしく英語と命がけで切り結ぶ、真剣勝負そのものなわけ。しかも、英語を勉強するのに英語だけやっていてもダメだと考え、フランス語・ドイツ語をはじめ、ギリシャ・ラテンの古典語に至るまで猛勉強。ありったけの辞書を取り寄せ、引きまくり、好みの辞書は夜寝る時も抱いて寝るといった調子。しかも、英語を教えることが自分の天職と心得た田中先生は、教壇で倒れてこそ本望とばかり、後進の指導にも情熱を燃やしたという。 田中先生に言わせれば、「独学」こそが真の学問、ということになるわけですけれども、確かに、独学の鬼ですな・・・。 で、自分自身がそういう独学をやってきただけに、この世には自分と同じように教育機会に恵まれない人は沢山いるだろうと。そういう人に対し、自分の経験が参考になるのではないかと考えた田中先生は、「英語の勉強は、こうやったらいいんじゃないの?」ということを披歴するために本を書かれた。それが本書『英語研究者のために』でございます。 ま、実は本書の執筆理由はそれだけじゃなくて、この本が出た当時、日本は太平洋戦争へと傾斜しており、英語は敵性語として排撃の対象になっていたわけね。で、そのことを憤慨した田中先生は、冗談じゃないと。英語を知らずして、英米人の何たるかなどわかるはずがないだろうと。そういう義憤に駆られて、この本を世に問うたんですな。 だけど、まあ、今日の日本は「英語など必要ない!」という風潮にはなく、むしろ「小学校から英語やれ!」の世界ですからね。田中先生の義憤の部分はもはや必要ではなく、純粋に「英語習得は、こうやれ」という部分が本書のキモということになる・・・ ・・・わけですが、そういう観点から見ると、本書の内容は、まさに、現代日本の英語教育の在り方に対する痛烈な攻撃でもある。 だって、例えば「英文読書法」「英文解釈と翻訳」「和文英訳と英作文」「英和・英英辞典めぐり」・・・などと題された本章の各章には、それぞれのテーマに応じて田中さんご推奨の勉強法と、勉強に際して必要な参考書物が紹介されているんですが、この指示通りに勉強し、この指示通りにこれらの書物を読破するには、一体どの位の労力と時間が必要なんだ・・・と、気が遠くなりますからね。 つまり、なめんなよと。英語習得、なめんなよと。そんな、週に1時間とか2時間とか、しかも文字は使わず、最初は歌とお遊戯とゲーム中心で英語に親しむなんてやり方で、英語が習得できるはずないだろう?と。 一日最低10時間、寸暇を惜しんで勉強しろ。辞書は引くのじゃなくて、読め。そして寝るときは抱いて寝ろ。その調子で10年ほど頑張れば、ちょっとはモノになる英語力はつくよ。もっともそれだけやったって、とてもとても、母国語のようにはいかないけどね――この本が言っていることは、そういうことです。 もちろん田中先生が直接そういう意地悪なことを言っているわけではありません。これは、私が勝手に解釈したこと。むしろ田中先生がおっしゃりたいのは、そうやって寝食忘れて勉強してもまだ勉強が足りないと思えるほど、英語学習(語学学習)は面白いし、そこから無限の喜びが得られるよ、少なくとも自分にとってはそうだ、ということ。もう、楽しくて楽しくて仕方がないんだと。 だから、この本、田中先生の英語に対する愛情が横溢していて、読んでいて至極気持ちがいい。好きで好きでたまらないことを、いつくしむように綴っている、そういう感じを終始受けるんです。 私もね、英語学ならぬアメリカ文学を講じて禄を食んでいるわけですけれども、田中先生のような純粋な喜びと情熱で教鞭を執っているかと言われると、いささか自信がなくなってくる。自分を顧みて、反省することしきりでございましたね。 とにかく、この本、それこそ無一物からスタートして英語学の権威となるまでの痛快極まりない一代記として、また「ああ、自分も田中先生みたいに頑張らなくちゃ」と思わせてくれる一種の自己啓発本として、楽しく読めること請け合い。教授のおすすめ!と言っておきましょう。【中古】 英語研究者のために 講談社学術文庫/田中菊雄【著】 【中古】afb ところで、この本が一種の自己啓発本であると言いましたけれども、そういう目で見ると、これまた私にはひどく面白いところがあります。 というのはね、この本の扉にエピグラフが2つ掲載されていて、一つはゲーテの「外国語を知らざるものは自国語をも知らざるなり」で、これはまさにこの本の趣旨を一言で言い表したものなんですが、もう一つが、エマソンの「英語は普天の下百川の朝する海」(English speech, the sea that receives tributaries from every region under heaven.)なんですわ。 「エマソンの引用のない自己啓発本はない」というのが釈迦楽理論なんですけど、この本もまた、というところがあるわけよ。 でね、それだけじゃなくて、本書によると、田中菊雄先生もまた若かりし頃、さんざん自己啓発本を読んだというのですな。じゃ、田中さんがどんな自己啓発本を読まれたかというと、まず新渡戸稲造の『修養』と『世渡りの道』ね。ちなみに『世渡りの道』には、おのれを捨てて事業のため、主君のため、あるいは義のために働いてこそ「惜しまれる人」となるのだ、ということが書いてあって、実に参考になったとある。でも、これってアレですよね、このブログでも先ごろご紹介した『ガルシアへの手紙』の趣旨とまるで同じですよね。 その他、増田義一の『青年と修養』や『東西名士発奮の動機』、福田琴月の『世界偉人伝』、蘆川忠雄の『人生の慰安』、高須梅渓の『偉人修養の経路』、煙山専太郎の『英雄豪傑論』、三宅雄二郎の『世の中』、加藤咄堂の『修養論』、遠藤隆吉の『読書法』、後藤新平の『処世訓』などが、青年期の田中菊雄先生を発奮させた原動力だったと。 やっぱり、独力独行の人、上を志す人には、自己啓発本が必要だったんだなと。 あ、あとね、この本には付録として、田中先生も参考にされたというジョン・ラボック卿の「良書百選」という、まあ推薦図書が載っているんですけど、この百冊を観ると、中にサミュエル・スマイルズの『Self-Help』がしっかり入っている。それに「スコットの小説」というのもあります。ウォルター・スコットの小説ってのは、基本的に自己啓発本ですからね。ま、ラボック卿は銀行家でもあるので、自己啓発本に対して親近感があるんだと思いますが、ワタクシ的にはなるほどな、と思いましたね。 それからもう一つ、本書で田中先生は、ご自身のことを「楽天家」と定義されており、楽天家であることを、ご自身の唯一の長所、というようなことを書かれていますけど、楽天家であることを薦めるあたりも、ちょっと自己啓発本の匂いがする。 というわけで、つまるところ本書は、自己啓発本を栄養にして英語を極めた一人の英語バカによる、英語学習的自己啓発本なんだと理解した次第。そういう意味でも、実に面白い読書でありました。
June 7, 2017
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親友のTからメールがあり、近々、カルチャーセンターの英会話講座に通うことにしたと。ついては、おすすめの英和辞書を教えてくれないかとのこと。 え? Tが英会話? 薬剤師なのに? 絶対、何かあるな。Tのことだ、何か悪巧みがあるに違いない。そうじゃなきゃ、50過ぎのおっさんが急に英会話とか習わないでしょ。野郎、何しでかすつもりなんだろう? ま、いいか。どんな理由であれ、新しいことにチャレンジするなんて、殊勝な心がけだ。 学習用の辞書なんだから、そんなに難しい奴じゃなくていいんだろうな。学習用に特化した奴をおすすめしておこう。 というわけで、ベネッセが出している『Eゲイト英和辞典』を買えば? とアドバイスしたワタクシ。 ま、学習用辞書としては、大昔は研究社の『英和中辞典』というのが定番でしたけど、その後、学研の『アンカー』というのが出て、これが良く出来た学習用辞書だったもので、一世を風靡。しかしアンカー独裁の時代は長くは続かず、大修館の『ジーニアス』が追随。これまた良く出来た辞書だったのよ。 一方、老舗の研究社も『リーダース』を出し、これはこれでいい辞書だった。これは語数が多いのが特長で、英文読解のためには頼もしい相棒でした。 それから小学館の『プログレッシブ』とか、色々出てきて、中型英和の世界も群雄割拠の時代に入るわけですが、そこへ割って入ってきたのがベネッセの『Eゲイト』だったと。2003年のことでございます。 『Eゲイト』の特長は、「コアセンス」という概念を明確に打ち出してきた点。コアセンスというのは、その語が持つ根源的な意味のこと。例えば「make」という動詞を引くと、この動詞のコアセンスは「Aまず材料があり Bそれに手を加え C形を変える」ということだ、と書いてある。ただ単に「作る」というような訳語が書いてあるのではなく、こういう風にこの動詞の持つ根源的なイメージから説明してあるわけ。これは、画期的な説明だったわけね。 ところが・・・。 調べてみたら、なんと、『Eゲイト英和辞典』は既に絶版だったのであります。 ええ゛ーーーー。マジですか。まだ初版が出てから14年しか経ってないじゃん。それでもう絶版なのかい? えー、だってさ、辞書作るのって、大変よ。企画から完成まで何年掛かるの。このスケールの辞書を作るのだって、ゼロから始めたらそれこそ10年くらいは平気で掛かるんじゃないの? なのに、もう絶版? はあ~。厳しいね、それ・・・。辞書なんて、細々と、だけど長く売れることで、ようやく元を取るような商品じゃないのかね。 やっぱり、あれかな。電子辞書。あれにやられたんだろうね。ま、電子辞書の中に活かされるのならいいけど、そうじゃないなら、丸損ですな。 ひゃー。残念。『Eゲイト』はいい英和辞書だったのに。 というわけで、Tにはとりあえず『スーパーアンカー』を薦めつつ、我が机上にある『Eゲイト』をなでなでして慰めてあげたワタクシなのでありました。興味のある方は古本でどうぞ。Eゲイト英和辞典 /ベネッセコ-ポレ-ション/田中茂範 / 田中茂範、武田修一 / 【中古】afb
June 6, 2017
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昨日、夜中にまた名古屋に戻って参りました。さすがに毎週末実家に帰るとなると、体力的に疲れますな・・・。 ところで、帰宅して寝るまでに、録画しておいたご贔屓テレビ番組などをちらちら見ていたのですが、その中に『カー・グラフィック』というクルマ番組がありまして。で、たまたま今回のテーマが「日産スカイライン」だったんですな。 で、日本ではトヨタ・クラウンに次いで長い歴史を誇る日産の名車・スカイラインの来し方を特集していたのですけど、当然、「ケンメリ」時代のスカイラインへの言及もあり、そのBGMとしてバズの「愛と風のように」がかかったわけ。 で、それを聞いちゃったら、もう、ノスタルジー!って感じで、その曲が頭から全然離れないの。どうしよう。 で、なつかしさのあまり、ネットで当時のスカイラインのテレビCMを探して見たのですけど、これがまた秀逸というか。ショート・フィルムのような完成度でありまして。 これこれ! ↓Buzz 「愛と風のように」 これすごくない? やっぱり1972年というと、日本のCMの全体的傾向として「外国かぶれ」と言いますか、外国人さえ出しておけば、みたいなところがある。だから日本製の新型車のCMなのに、二人の外国人、ケンとメリーしか出てこないというね。 でも、それがまたいいのよ。 感じとしては、アレじゃない、『小さな恋のメロディ』的な。バズの音楽も、ちょっと当時のビージーズ的な。 とにかく、音楽といい、外国人の雰囲気といい、1970年代初頭のいい感じを見事にタイムカプセルに封じ込めたようなこの映像、同年配のみならず、当時を知らない若い人たちにも是非。教授のおすすめ!です。 バズのこの曲、iTunesで買っちゃおうかな。150円だってさ。
June 5, 2017
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先日、買ったはいいが、組み立てが難しすぎて一時的に放置してあったイケアの家具。あれね、結局、組み立て終了。完成。 その鍵を握ったのが、実は、電動工具だったのであります。 究極の選択だったのよ。1万円ほど出して業者に来てもらうか、数千円出して電動工具を買い、それを使って自力で組み立てるか。後者の方がもちろん安くつくわけですけれども、果たして私に電動工具が扱えるのか? 結局、4千円をドブに捨てるようなものなのではないか? それなら最初から業者に頼んだ方がいいのではないか? だけど、まあ、とりあえずトライだけはしてみよう。ってなことになりまして、買ったんですよ、生まれて初めて電動工具を。マイ・ファースト・パワー・ツール!! 自宅近くの島忠ホームセンターに行ってみると、あるある、色々な電動ドライバーが。値段的にもピンキリで、安いのは千円台から、高いのは何万円もする。で、私が買ったのは「ブラック&デッカー」というメーカーの「ミニエヴォ」っていう奴ね。BLACK&DECKER ブラック&デッカー リチウムコンパクトドライバー CS3652LC で、生まれて初めてこの電動ドライバーというのを使ってみたわけさ。すると・・・ すっごーーーーい!!!! 嘘みたいに簡単にネジネジを打ち込めるじゃないの。 もうね、目からウロコを通りこして、悔し涙が出ます。今までの人生は何だったんだと。プラスネジだのマイナスネジだのを(手動の)ドライバーでグリグリやって、それでネジ山を潰しただの何だのって苦労してきた、俺の人生は一体なんだったんだと。 あれはね、飯を炊くというので、まず木と木をこすり合わせて火を熾すところから始めるようなもんよ。今、そんなことしないでしょ。電気炊飯器のスイッチポンでおしまいでしょ。 だったら、ドライバーも電動にしなくてどうする・・・そういう話ですわ。 わずかな投資で、一生、ドライバーの悩みから解放されるんだよ。買うでしょうよ、そりゃ。 とにかくね、ほんと驚いた。こんな便利なものを使わないのはアホよ。少なくとも、イケアその他で「自分で組み立てる系」の家具を買った場合、これがあるとないとじゃ大違い。 で、実際、その電動ドライバーを駆使して、見事、イケアのオーディオラックの組み立てを完了したのでございます。ま、組み立てのマニュアルを見てもチンプンカンプンな私に代わって、どうやればいいか教えてくれた家内のおかげなのですが。 とまあ、そんなわけで、業者に1万円払う代わりに、4千円ほどの投資で済んだ上、電動ドライバーという世にも便利なものをゲットし、今後一生、ドライバーの悩みから解放されたワタクシなのであります。
June 4, 2017
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今日は昼食を外食したのですけど、実家の周りって、これがまた全然お店がないところでね。それで、ネットで調べてどこか新しいお店でも出来ていないか探したところ、一軒だけ、気になるお店があった。 それは、「走る! 洋食屋さん♪ いなぎsatoyamaキッチン」という洋食屋さんでありまして。 ん? 家の近くにそんなお店あったっけ? と思って調べたら、家の近くにある「平尾台団地」という大きな団地の真ん中にある商店街の一角にそのお店があるというのです。 その平尾台団地というのは、これがまた昭和な香りのする5階建てくらいの低層団地でありまして、でも時代が良かったのか、それぞれの棟がゆったりと建っているので、日当りもとっても良さそうなところなんですわ。 で、その団地の真ん中にスーパーや銀行や床屋さんなどがある広場っぽいところが確かにある。で、そこにこのお店もあると。 で、行ってみると、これがまた昭和そのものの商店街でね。ただ、かつてお店だったところで今はシャッターが下りているところも多く、適度な廃れ感がまたなんともノスタルジックで渋い。 で、その昭和広場に行ってみたわけですけど、それらしいお店はない。あれ、ここにあるってネットには書いてあったんだけどなあ・・・。 あった! もう、これまた激渋の八百屋さんの脇にあるもんだから、最初、見過ごしちゃったよ。だけど、確かにある。 で、「ほんとにここでいいのかな?」と思うような入り口の引き戸をあけて中に入ると、テーブル席が3つとカウンターだけの小さなお店でした。だけど評判通りいいのか、既に満席に近い状態。かろうじてテーブル席をゲットした家内と私。そして私は、ロコモコとどちらにしようか悩んだ挙げ句のオムライス、家内はタコライスを注文。 シェフが一人だけなせいか、ちょっと待ち時間は多めでしたが、やってきた料理は、見た目も味もなかなかのレベル。スープに食後の飲み物までついて850円でこれが食べられるのなら、文句ないわ。 看板娘のおばあちゃんが、とっても親切にサーブしてくれるのですが、どうもこのおばあちゃんには「グレープジュース」と「グレープフルーツジュース」の区別がついてないらしく、何人かのお客さんが「グレープフルーツジュース」を注文しているのに、「はい、グレープジュース」って、にっこり笑ってサーブしてくれるという。で、客もそんな看板娘に文句一つ言うでもなく、「ま、いいか」って感じでグレープジュースを受け入れるという。そんなギスギスしないやりとりもまた楽しいというね。 ということで、「いなぎsatoyamaキッチン」、私は結構気に入りました。次は、私もタコライスにしようかな。 さて、昼食後は、父の転院先となりそうな病院を下見してきました。対応に出てくれた方も親切でしたし、病棟もまあ明るくてよさそうだったので、ここで決まりかな。 で、その後、父の見舞いに行って、それでさっき返って来たところ。まだ父には近々転院することは言ってないんですけどね。 というわけで、今日はランチも珍しいところで食べて面白かったし、今回の帰省の主目的である父の転院先の下見が成功裏に終わったので、まずまずの成果であったと言えるんじゃないでしょうかね。
June 3, 2017
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先日、イケア立川店で購入したステレオ台、今日、実家に届いていたのですが、早速組み立てようと思ったところ・・・撃沈しました。 そもそも組み立て説明書がアホみたいに簡単過ぎ・・・っていうか、文章じゃなくて絵で説明してあるのよ。で、この絵がまったく解読不能という。 で、それをなんとか解読して組み立ててみるのですが、ネジをねじ込もうとしても、堅くて堅くて、とても普通のドライバーなんかじゃ入りゃしない。それでも力づくてぎゅうぎゅう押し込んだら、ネジ山がつぶれちゃって、もう進むも退くもできなくなっちゃった・・・。 というわけで、途中まで組み立てた段階で断念・・・。どうすんだよ、これ・・・・。 で、ネットで調べると、イケアの家具の組み立ては引っ越し業者にとっての悪夢、とか書いてあるサイトがたーくさん。だろうね・・・。 でまた組み立て代行業みたいなのも沢山あって、うーん、私もそういうところに頼むしかないのかな・・・。 でも、代行してもらったら、当然お金もかかるわけで、そうやって考えると、イケアの家具って、逆に割高になってくるよね。 そういう意味で、今回、イケアで家具を買ってみて、勉強になったのかも。もう、二度目はないかな。
June 2, 2017
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ひゃー、もう6月ですか・・・。早いねえ。もう今年も半分近く終わったようなものじゃん。 4月に父が倒れて以来、心配の種は尽きないのですが、特に最近はほとんど毎週末実家に戻っているせいか、なかなか思うように仕事ができなくて。時間だけが過ぎて行く感じ。 そりゃそうだよね! 金・土・日と、週に3日家のことに取られちゃって、残りの4日で1週間分の仕事をするんだから。授業の準備だけで、自分の仕事まで手が回らないわけだ。 だけど、そんな中でも毎週木曜日の柔術の稽古だけは、欠かさず出るワタクシ。 やっぱりね、いいのよ。汗を流すということは。この時間だけは、色んなことを忘れますからね。技のことだけ考えて、他のことを考えないから。 職場でもない、家でも実家でもない、第三の居場所があるって、ホントに素晴らしいことよ。 特に今日は入門同期のFさんとの稽古だったのですが、気心も知れているし、お互い、得意な技のコツを教え合って楽しかった。特に「松葉捕」という技のコツをFさんに教えてもらって、ちょっとだけ上達できたし。 さてさて、明日はまた実家に戻らなくては。土曜日には父の転院予定の病院の見学もあったりして、忙しい週末になりそうです。
June 2, 2017
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