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『ニューエイジについてのキリスト教的考察』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、「教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗派対話評議会」というところが執筆し、2007年に出版されたのですが、要はローマ法王のお膝元、カトリックの総本山たる教皇庁が、近年の「ニューエイジ」ブームの蔓延に警鐘を鳴らすべく、世界中のカトリック教会の運営者たちに対して、そもそもニューエイジってのは一体何なのか、それはどういう状況下で発展し、どのような手法で信者数を拡大させているのか、それに対して我々カトリック側としてはどのように対処し、人々がこの邪宗の魔の手に陥らないようにするにはどうすればいいか、そのためにどのような理論武装が必要なのか、ってなことを論じたものであります。 その時点で、もうすごいよね・・・。教皇庁ってのは常に現代の、そして世界の信教情勢に目を光らせていて、カトリックの対抗馬になりそうな勢力が現れた時には、それを分析し、それにどう対処すべきかを検討し、対処法を確立した段階で世界中に散らばっている教会に対して指示を出すわけですから。あいつら、本気だ。 で、教皇庁曰く、「多くのニューエイジの伝統を調べてみると実際にはニューエイジの中に新しいものはあまりないことがすぐに分かります」と、のっけから挑発的な分析ぶり。ニューエイジの秘教主義(エゾテリスム)的傾向ってのは、初期キリスト教のグノーシス主義に源があるし、またそれは宗教改革の時代に発展、さらに18・19世紀の自然科学の発展と並行して成長し、とりわけダーウィンの進化論の受容によって現代社会に土台を築いたのであって、その意味では本筋のキリスト教の亜流として、つねに「そこにあった」ものであると。 ではその決して新しくはないニューエイジ(この言葉自体は薔薇十字軍とフリーメーソンが名付け親らしいですが)なる風潮が今、広範に受け入れられているのは何故か。この点について教皇庁は、「相対主義の成長と拡大、またキリスト教信仰への嫌悪ないし無関心によって準備された」と言っております。つまり、ニューエイジなんて古い古いと言いつつも、それが世間に浸透する背景には、正統的なキリスト教への嫌悪・無関心があるんだから、我々も気を引き締めなければならんぞ! という反省もしっかりしている。なかなかシビアな自己認識ではございませぬか。 また教皇庁がニューエイジを恐れるもう一つの理由は、それが単一の新宗教勢力ではなく、音楽・映画・セミナー・ワークショップ・黙想会・セラピーなど、不特定の文化活動の中で漠然と、文化横断的に広まっていること。様々な宗教的・超宗教的セクトの思想的源泉になっておりながら、特定の形式がないものだから、相手のしっぽを捕まえて理論的に論破することが出来ないわけですな。そこが相手にするには非常にやりにくいと。 だけど、それだけ茫洋としたものでありながら、ニューエイジは、主流文化に対する広範な反動として、首尾一貫した流行思想でもあると教皇庁は分析しております。 で、カウンター・カルチャーとしてのニューエイジを考える上で一つの起点となるのが、1968年のミュージカル『ヘアー』と、1969年のウッドストック音楽祭だと、教皇庁は判断しております。ふーむ、教皇庁、『ヘアー』見るんだ・・・。ローマ法王も見たのかな。 そもそも「ニューエイジ」という言葉は、占星術の用語でもあって、それによると、キリスト教の時代というのは「魚座」の時代であった。しかし第三千年期の初め、西暦で言えば1960年代末に魚座の時代は終わり、「水瓶座」の時代に取って代わられることになっている。それが占星術的な意味での「ニューエイジ」なわけですけれども、とにかく壮大な時代の大転換期が近づいているんだという噂が大衆文化の中でじわじわ浸透していくにつれ、時代の閉塞性を打ち破るような新しいパラダイムが到来することへの過大なまでの期待感も盛り上がっていく。ま、アメリカのカウンターカルチャーがこの時代に噴出したのも、こういう漠然とした新時代への期待感がベトナム戦争や公民権運動といった現実的なごたごたへの嫌気と合わさったものですし、世界的に見てもこの時期学生運動が盛んになる背景としてこのニューエイジへの期待がある。 で、そのニューエイジがどうやって民心に取り入るかと申しますと、個人的かつ直接的なスピリチュアル体験を唱道するというのですな。例えばチャネリングとか。無論、その前提として、個人を超えた何か(トランスパーソナル)を想定しているところがあるわけ。で、そこからまた生まれ変わりだとか、そういう発想も出てきて、こういったスピリチュアルな発想が、従来のキリスト教の終末観を不要なものとしてしまうと。これは、カトリックの立場からすると由々しき事態と言いますか、放置できない状況と言えましょう。 さらに何か個人を超えた大きなスピリチュアルな存在との直接交渉、みたいな話になってくると、「ホリズム」(全体主義)という発想も出てきて、これが東洋宗教や東洋医学などと結びつきながら、個人の健康への関心を高めたりする状況を作り出すと。 さらに個人を超えたものへの関心は、環境問題への関心につながり、地球の女神としての「ガイア」信仰なんてものも登場、ここで従来のキリスト教の「父なる神」への信仰が、「母なる大地」を想定するガイア信仰に取って代わられるということにもなってくる。ちなみにガイア信仰からすると、人間なんて地球環境のほんの一角、ということになるわけですけど、従来のキリスト教からすると、人間は神様が腕によりをかけて自分の似姿に作った被造物であって、地球の中心にあるべきものですから、この点でも両者の人間観ってのは大分異なるわけです。 また19世紀末の神秘思想の体現者の一人であるヘレナ・ブラヴァツキーや、初期フェミニスト運動の主導者アニー・ベザントの思想には、女性解放の主張があるわけですが、こうした動きも、大きく見れば、一連の「父から母」への動きの一端と言える。 それに、この宇宙を「神と霊的存在と人間からなる閉ざされた空間」と考える汎神論的な観点と、「創造者たる神と被造物の人間」という絶対的主従関係を想定するキリスト教では、全然、発想が違う。そういう、根本的に異なる宇宙観がニューエイジによって漠然と広がりだすというのは、キリスト教的にはとっても気味が悪いわけですよ。 一方、19世紀末から20世紀初頭にかけての「心理学」の台頭も、1960年代以降のニューエイジの思想的バックグラウンドとなります。その立役者はウィリアム・ジェイムズとユングね。 ウィリアム・ジェイムズは「宗教というのは教義ではなく経験だ」と主張、また自分の心的な態度を変えることによって自分の運命を作り出すことができる、ってなことを主張している。宗教を大分引き下げて、心理学を上に引き上げているわけですな。またユングはユングで「集合的無意識」というものを想定し、それこそニューエイジ特有のスピリチュアル体験を心理学的に説明しているところがある。ユングの太陽崇拝とか、集合的無意識を通過して内的世界が外的世界と照応する、なんて主張は、もろニューエイジっぽい感じですしね。 で、心理学とスピリチュアリティが交錯するところに、「ヒューマン・ポテンシャル運動」を生み出す契機が生じると。で、アメリカのエサレン研究所、スコットランドのフィンドホーン共同体、そういったものがうごめき出す。従来のキリスト教が、人間なんてものは元々は神様が塵芥から作ったものだ、というのに対し、ニューエイジは「個人は宇宙やスピリチュアルなものと直接つながっているんだから、すごいパワーを持ちうるのだ」と考えるわけで、人間がその気になって100%の力を発揮したらすごいことになるぞ、そのパワーを制限している足かせを外すためにLSDとかも使っちゃえ! 的な発想にもなってくる。1960年代のカウンターカルチャーとして語られがちな麻薬文化も、実はその根っこにニューエイジ的世界観があったと。 ところで、ニューエイジは、個人というものに直接呼びかけ、従来のキリスト教信仰から離れさせてしまうわけですけれども、ことほど左様に、ニューエイジ=個人のもの、従来のキリスト教=共同体のもの、というところがある。逆に言うと、20世紀も後半になって、特に都会に住む人々の間で共同体への所属意識が下がり、個人個人で勝手に生きているんだ、という感覚が増すにつれ、ニューエイジの誘惑というのは顕著になってくるわけですよ。 もっとも、ニューエイジはカウンターカルチャーを支えるところがあるばかりでなく、実は主流文化の中にある「立身出世」欲をも肯定するので、その意味では、カウンターカルチャーと主流文化の接点にもなってしまうというところがある。変幻自在にどっちの側からも支持者を取り付けちゃうという魔物的側面があるんですな。その意味では、ニューエイジ=カウンターカルチャーとも言い切れないのであって、そこがまたニューエイジが広範囲な民心にアピールしていく鍵があるわけですが。 ・・・ってな感じで、ここまでのところ、教皇庁はニューエイジの出自、歴史、傾向、特殊性、なぜ現代において信者を増やしているのか、と言ったことについて大まかに分析していくのですが、この分析はすごく面白いと思います。このまとめによって、個々に知っていた事々が互いにつながってきて、様々な歴史的事実の背後にあるニューエイジの影を、かなり上手に描いているような気がしますね。 つまり、教皇庁は、「敵」の実像をかなり上手に掴んでいるのではないかと。 で、そうやって敵の姿を的確にとらえた上で、ここから先、「だからやつらはダメなんだ、やっぱり従来のキリスト教じゃなきゃダメなんだ」という話になってくるのですけど、そこはどうも、なんだか贔屓の引き倒しみたいな話で、いささか説得力が下がるというね・・・。例えば「ニューエイジは、自分の力で自分を救っちゃう、みたいなことを唱道するけれども、そんなのダメよ~、ダメダメ。やっぱり、救いは神様の圧倒的な恩寵のたまものじゃなきゃ!」ってなことを言うんですけど、そんなこと言われても、すぐには「だよね~!」とはならないんだなあ。なります? 具体的なところを示しますと、本書97ページにこんなことが書いてある: (イエスが井戸端で一人の女に出会い、彼女に信仰を与えるエピソードを取り上げつつ)この出会いが井戸のほとりで行われたことには意味があります。イエスは女に「永遠のいのちに至る水がわきでる・・・泉」を与えます。女に対するイエスの優しい接し方は、司牧が効果を上げうるための模範です。こうした接し方は、自己認識という骨の折れる作業を行う際に、人が容易に自分に正直になるための助けとなるからです。こうした方法は、水瓶(アクエリアス)に心を引かれながら、心の底からなおも真理を探し求め続けている人に、豊かな実りをもたらすことができます。 司牧たる者、(ニューエイジを象徴する)水瓶に惹かれている現代人に優しい言葉で巧みに近づいて、「そんな水瓶の水よりこっちの井戸から涌き出す永遠の命の水の方が甘いぞ」と囁け、ってなことを言われてもですね、なんだか詐欺師のマニュアルみたいじゃない? というわけで、本書後半の、ある意味、本書がもっとも主張したい部分には、イマイチ、納得できなかった私ですが、前半のニューエイジ分析はすごく面白いので、この本、ワタクシ的にはおすすめです。楽天では売っていないようですが、アマゾンでは売ってますので、興味のある方は是非。ニューエイジについてのキリスト教的考察
October 31, 2017
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今日はですね、なかなか面白い発見がありました。いや、勤務先の図書館の中でのことなんですけど。 明治時代にいわゆる「お抱え外国人」として日本に38年間もの間滞在し、当代きっての日本通となったばかりでなく、日本の西欧化にも一役買った人物にバジル・ホール・チェンバレンっていう人がおりまして。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)なんかとも親交のあった人ですな。 で、チェンバレンは1911年にイギリスに帰るのですけれども、その際、日本滞在中に集めた膨大な蔵書の一部を残していったんですな、日本に。 で、そのチェンバレンの蔵書が、どういうわけか、うちの大学にあるのよ、「チェンバレン文庫」として。で、それは私も前から知っていて、その実物が見たかったのですけど、うちの大学もケチ臭いというのか、「蔵書目録はお見せできますが」と言うばかりで、現物は図書館の奥の奥に死蔵。実質、全然見られない状態だったんですわ。 ところが最近、図書館が改築され、チェンバレン文庫も一応、「頼めば」見せてくれる、くらいのところまでオープンになったんですな。 で、私、早速、頼んで、見せてもらったわけ。今日。 そしたら! これがね、実に面白かったのよ。面白かったというのは、私の視点から見て、という意味ですが。 チェンバレンは、広い意味で言えば、まあ、外交官・・・なわけですよね。そのせいか、外国に関する知見に係わる本、例えば地誌とかね、そういうのが沢山ある。アフリカで言えば、スタンレーのアフリカ探検記なんかもありましたし、南米とか、そっち系もありましたね。あとフランス史とか、本国イギリス史とか、ギリシャ・ローマ史とか、歴史ものもたーくさん。「歴史」を重視する姿勢っていうのは、かなり明確に見て取れます。 それからこれも外国文化もの・歴史ものの範疇に入るのかどうか、ブッカー・T・ワシントンの『Up from Slavery』他、アメリカの黒人関係の本や、ユダヤ人関連の図書なんかも集めてありました。 あと、チェンバレンは言語学者でもあるので、各国語に関する辞書や文法書も沢山ある。 それから、これはやっぱり19世紀末という時代のせいなのか、チャールズ・ダーウィンとハーバート・スペンサー、この二者の著作は全集として揃えてありましたね。ダーウィン関連では、「ダーウィンの番犬」とも呼ばれたT・H・ハクスレーの著作物も沢山あったので、進化論には余程関心があったのでしょう。 その他、文学方面を見てみると、もちろんシェイクスピア。そしてそれ以上にチャールズ・ディケンズ。トーマス・カーライルにサッカレー。そしてちょい意外なところではラドヤード・キプリング。この辺りが目立っていましたねえ。キプリングっていうと、日本では『ジャングルブック』が有名ですが、あれはイギリス支配下のインドの話でありまして、つまりキプリングってのはイギリス帝国主義の伝道者。イギリスの外交官が読むのも、ある意味、当然かなと。 あとね、フィリップ・チェスターフィールドの著作が全集的に集められていたのもちょいビックリ。なんでびっくりしたかというと、丁度今、私がチェスターフィールドの本を読んでいる途中だったから。この本、当時日本に滞在中の外交官の間でも相当読まれていたってことですな。 アメリカものですと、ホイットマンの『草の葉』があったし、それからやっぱりエマソンは『エッセイズ』をはじめ、相当沢山集められておりました。エマソンは、イギリスでも有名だったんですな。 あと、ちょっと笑ったのは、M・G・ Lewis のセンセーショナルなゴシック小説『The Monk』が鎮座していたこと。高名な外交官も、こういうの読むんだ・・・。 で、ここまではまあ、「なるほど・・・」っていう感じなんですけど、ここから先がワタクシ的には「なるほど!!!」っていうところ。 つまりですね、チェンバレンの蔵書に、そこそこ「自己啓発本」があったのよ。 例えばサミュエル・スマイルズの『Self-Help』。チェンバレンの蔵書にしっかりありましたねえ。やっぱり、読むんだ、この時代の人は。 それから『武士道』。新渡戸稲造大先生の。まあ、これは当然か。日本に滞在しているわけだし。 あと、ラルフ・ウォルドー・トラインの『In Tune with the Infinite』、これは引き寄せ系自己啓発本の初期の傑作の一つですけれども、これがありました。アメリカの自己啓発本、イギリス人も読んでいたことがこれではっきりした。 それから、これも非常に面白かったのですが、マーク・トウェインの『クリスチャン・サイエンス』が一本あったんですわ。マーク・トウェインなんだから、『ハックルベリー・フィンの冒険』などの代表作があるかと思いきや、そういうのはひとつもなくて、ただ一冊、『クリスチャン・サイエンス』があった。マーク・トウェインと『クリスチャン・サイエンス』の関連については、私も自己啓発本出版史の観点から一本論文を書いているだけに、この点も非常に興味深いところがありました。 とまあ、この辺のことは、これから私が書くであろう本の中で、ちょいちょい言及されることになるでありましょう。その意味で、今日はいい題材集めになりました。 昨日はすっかりしょげていたワタクシですが、何せ「ポジティヴ・シンキング」の信奉者。いつまでも泣き言言ってないで、次の目標に向かって一歩駒を進めた今日のワタクシなのであります。
October 30, 2017
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はあ・・・・。死んだ。ワタクシは死にました。 28日の学会。研究発表する予定だったんだけど、自分のせいで大失策。 その一週間くらい前から風邪引いて体調悪かったのよ。それでも、何とか治そうと思って病院で点滴打ってもらったり、たーくさん薬もらったりしつつ、大学の授業も全部潰して、ひたすら寝てたんだけど、なかなか良くならず、結局、具合悪いまま当日を迎えることに。 で、同僚の先生と一緒に自分のクルマで福井まで行ったんだけど、その時点でなんか気持悪くて、同僚の先生に運転頼んじゃったりして。 で、高速のSAで昼食をとったんだけど、食欲まるでなし。かけそばを注文したものの、3口くらい食べた時点でギヴ。 で、昼飯以後は私が運転したものの、たちまち具合悪くなって吐きそうになり、仕方がないから危険を承知で高速道路上の路肩にクルマとめて運転交代してもらう始末。 で、福井についてとりあえずホテルにチェックインし、1時間くらい休んで大学に向かったんだけど、えちぜん鉄道で5,6駅分乗る自信がなく、一旦はプラットホームまで上がったものの、結局乗らずに改札を出て、タクシーで大学へ向かうことに。タクシーなら、いざとなればいつでも降りられますからね。 それで何とか大学まではたどり着いたのですけど、やっぱり吐き気が納まらず、自分の登壇まで控室等で横になっていたのですが、どうにもたまらなくなってトイレに駆け込み・・・。 で、そこから2時間、オエオエ地獄。もはや吐くものもないのに、吐き続ける苦しさ。地獄でした。 で、結局、自分の研究発表ができなかったという・・・。 もう、最悪だよ・・・。研究者として頑張ってきたこれまでの実績も信用もすべて粉微塵に吹っ飛ばす大・大・大失策。自己嫌悪の底の底まで沈んで上ってこられないという。 なんでこんなことになっちまったのか。 具合が悪かった一週間、なぜか全然眠ることができなくなってしまい、直前の3日間はほとんど寝てないんですよね。3日間合わせた睡眠時間は、多分、3時間くらいだったと思います。27日の夜は一睡もしてないし。 で、焦る気持もあって、病院でもらった薬も、定量を越えて飲んでいたの。一日一錠って言われていた頓服も8時間置きくらいに飲んでいましたしね。気管を広げる薬とかも定量の倍は飲んでた。 そういう諸々のことがあって、体が悲鳴を上げていたのかも・・・。 しかし、そんなの言い訳にはならない。何せ支部大会に穴開けちゃったんだから。 それもそうだし、自分自身の気持としても、今回の発表、楽しみにしていたんだよね・・・。結構、面白い内容になるはずだったのよ。で、これをガツンと発表して、いい気分で帰還したかったの。 でまた、福井に昔の教え子が居るもんで、そいつと約束して当日は夜、一緒に飲む予定だったんだけど、もちろんそれもキャンセル・・・。楽しみにしていたことが、全部パーよ。 で、残ったのは、万死に値する信用の失墜のみ。もう最悪だ・・・。 ああ、俺はもうダメだ・・・。
October 29, 2017
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デイビッド・シュパングラーという人の書いた『人はなぜ生まれたか』(原題:The Call)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本は・・・うーん、どう表現したものか・・・まあ、一種のニューエイジ系自己啓発本、なんですかねえ・・・。 と言いますのも、このシュパングラーという人、チャネリングの才能があって、若い時から精霊とコンタクトを取り続けているから。 でもそれも時に困ったもんで、シュパングラー自身は生化学の方に進み、そういう仕事に就きたかったらしいのですが、大学3年生くらいの時、すなわちあと1年で大学卒業という時になって「さて、こんなことやってないで、スピリチュアルな仕事に就け」と精霊から命じられたと。 で、そんなつもりはなかったので、シュパングラーは「嫌です」と答えていたのですが、そしたら向こうが奥の手を使ってきたというのか、生化学を理解する頭のスイッチを切ってしまったと。で、学問のことが何も理解できなくなってしまったので、仕方なくスピリチュアルな仕事に就くようになったらしいんです。 (本当か? 単に沢山単位落としたので自分で進路変更したんちゃうのん?) ちなみに、シュパングラーのつれの精霊は「ヨハネ」なんですけど、『デスノート』のルークみたいなもんなんでしょうか。 でまあ、とにかく、シュパングラー自身はそういった明確な神さまからの「呼びかけ」があったもんで、霊能者として働き出したわけですけれども、霊能者として一般の人からしばしば相談されることはなにかと言うと、「私は神さまから何を求められているのか?」ということだったんですな。 つまり、人間ってのは誰しも、一体自分は何のためにこの世に生れ、何をすべきなのか、ということに非常に迷っていると。で、神さまは私に何を求めていらっしゃるのか、ということを知りたがっているんですな。 で、それに対するシュパングラーの答は、神さまってのは、愛によってこの宇宙を作りたもうたのだから、あなた自身がこの世に居ることはその計画のうちだし、神が我らを愛したように、私たちも同胞を愛し、その役に立つために頑張って生きなさいと。それが、「根源的な呼びかけ(プライマル・コール)」なんだよと。 で、神さまの呼びかけには色々な種類があって、英雄的な行為を求められることもあれば、単に「良い聞き手」になって、人々の話に耳を傾けなさい的な、平凡なものもある。だけど、どれも等価な使命なのだから、各々の才能に従ってそれを果せばいい。神さまは、どんな小さい達成でも喜ばれるのだから。 結局、神さまからの呼びかけってのは、「自分自身でありなさい」ということらしいんですな。そして、その使命を達成することで、より大きな存在に貢献せよと。 神さまからの呼びかけってのは、常に身の回りにある。小さいものもあるし、大きなものもある。それを受けた時、言われた通りにやる選択肢もあるし、やらない選択肢もある。それは自由意志の問題。だけど、それをやり始めると、もうそのこと自体が意味あることになるので、神さまからの呼びかけだったかどうかなんてことはどうでもよくなってくる。つまり、その意味では、われわれ自身が呼びかけの創造主なんだよと。 ま、そんな話。 結局、道端に落ちている紙屑を見た時に、あ、これは神さまが「拾って、ゴミ箱に捨てなさい」と呼びかけているんだなと思えばそうすればいいし、あるいは自分が今やっている仕事が天職だと思えるなら、それを通じて世の中に奉仕し、それをもって「神の呼びかけに応えているんだ、自分は」と言う風に考えてもいい。とにかく、「ひょっとしてこれが呼びかけ?」って常に思いながら、愛を以て一生懸命生きなさいっていうことを言っているんでしょう、シュパングラーさんは。 そうなって来ると、もうニューエイジ的な側面はあまりなくて、普通の自己啓発本ですな。まあ、自己啓発本っていうのは、えてしてそうだけど。鬼面人を驚かす体のものであっても、結局、一生懸命、善人として頑張れ、って話に落ちるのが常でありまして。 だけど、この本に私が注目したのは、もっと別な理由なのよ。 というのは、この人、スコットランドの「フィンドホーン共同体」に在籍していた時期があって、この共同体の創立者であるアイリーン&ピーター・キャディ夫妻やドロシー・マクリーンと共に活動していたから。 フィンドホーンというのは、アメリカのビッグ・サーにある「エサレン研究所」と並んで、ニューエイジ革命の拠点なのね。ということで、自己啓発本を研究する上で、どうしてもチェックしておかないといけない団体なわけ。 ちなみに、フィンドホーンっていうのは、基本、農園なんだけど、海に近い砂地だから土地が痩せているんですな。ところが、アイリーンたちが啓示を受けてここで農業始めたら、とんでもない大きさの農作物がジャンジャン出来たと。で、こんな痩せた土地で、こんな作物の出来がいいのはおかしいってんで、農学者たちが調べに来たくらい。でも、その理由がどうもよく分からないと。 じゃあなんで、それほど作物の出来がいいのか。 「愛」だったらしいよ。 愛を痩せた土地に注ぎ込んだらしいの。そしたら、愛を肥料にして作物がグングン育ったと。 はーい、ニューエイジ! アクエリアース! 理想を追求して作った農業協同体ってのは、オルコットの「フルーツランド」にしても、白樺派の「新しき村」にしても、大体失敗するのがオチなんですけど、フィンドホーンは成功したまま今も現存するわけ。それはすごいよね。理由はともあれ。 というわけで、この本を読んでもフィンドホーンの何たるかはあまりよく分からなかったのですけれども、とにかくそこで一役買ったシュパングラーの自己啓発本ということで、紹介だけしておきましょうかね。人はなぜ生まれたか [ デイビッド・シュパングラ- ]
October 23, 2017
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台風が近づいてくる中、今日は衆院選の投票日。 我が愛知7区は、不倫疑惑で名高い山尾志桜里さんと自民党の鈴木さんの一騎打ち・・・なんですけど、それってどうなの? なんで二択なのさ。なんで選択肢が二つしかないの。安倍政権喜ばすのも嫌、不倫議員も嫌、という場合、他の選択肢がないじゃないの。愛知7区は名古屋のベッドタウンで、人口もそこそこあると思うのですけど、それでこのていたらく。一体、他の政党は何やっとんの。 まあ、それでも比例がありますからね。私も重い体を引きずって行って参りましたよ、投票に。 え? なんで重い体かって? 風邪引いたんです・・・。(爆!) もう昨晩から喉の痛みが半端ない。唾を飲み込むのも一苦労。 というわけで、今日は昨日と打って変わってひっそりと引きこもっている私。でも良かった。1週間ずれなくて。来週末は学会発表で福井大だもんね。 でも、とにかく猶予は1週間しかないので、今はただ風邪を治すことに専念いたします。とりあえず寝よう!
October 22, 2017
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この時期、毎年岐阜県の中津川に出かけて、栗きんとんツアーをするのがならいの我が家。ということで、夏休みも押し詰まってきた今日、家内と小雨降る中、中津川まで行って参りました。 そう、うちの大学、まだ夏休み中なんですよね。勤めている私たちですら、どうかしてると思いますけど。 それはともかく、お昼前に家を出て、向こうに着いたのが1時頃。早速栗きんとん・・・と言いたいところですが、その前に腹ごしらえをしないと。 今日、我々が向かったのは、中津川の商工会議所みたいなところに併設されているステーキハウス「神戸館」さん。このお店、中津川のB級グルメたる「鶏トマト丼」(980円)を供してくれるので、そいつを食べてみようというわけ。 鶏トマト丼というのは、中津川のレストラン30軒ほどで食べられるらしいですが、中津川の食材たる鶏とトマトさえ使ってあれば、その調理法はそれぞれのレストランに任されているようで、神戸館さんのそれは、ご飯の上に千切りのキャベツを乗せ、そこにモッツァレラチーズを挟んで揚げたチキンカツを乗っけて、さらにその上に洋食で使うトマトソースをどろっと掛けたというシロモノでありました。 で、お味の方はと言いますと、まあね、老舗洋食店のまかない料理、みたいな感じで結構うまかったっす。一度試してみて損はないかな。 さて、お腹が一杯になった我らが次に向かったのは、中津川駅前の「にぎわい物産館」的なところ。ここには中津川周辺に点在する栗きんとんのお店の商品が一同に会しておりまして、それらを選んで買えるというなかなか便利なところなんです。 で、ずらりと並ぶ各種栗きんとんの中からこれはと思うものをピックアップ。さらに名店川上屋さんの「ささ栗」(栗きんとんを蒸し羊羹で包んだ超おいしいお菓子)やら、「しん」というお店の栗粉餅(柔らかいお餅の上に、栗きんとんを荒い粉末状にしたものがどさっとかかっているもの)などもゲット。さらにこの地域の地酒やら、有名な「あじめこしょう」(一種の七味)などもゲットして大満足。 そして今日の主たる目的たる栗きんとんを確保した我らが次に向かったのは、国道19号線沿いにある栗きんとんの名店「すや」さん。ここではお店の離れで、100%栗だけで出来た栗ぜんざいが堪能できるんですわ。まさに栗で出来たポタージュスープみたいな奴。めちゃくちゃおいしいの。 が! 台風が近づいているから、土曜日でもそんなに人出はないだろうと踏んだワタクシがバカだった。もう誰もがこの栗ぜんざいを求めて殺到するので、お店の前には長蛇の列。ダメだこりゃ。 で、非常に残念ながら、プランBとして、川上屋さんの19号線沿いのお店の茶房コーナーで栗ぜんざいをいただくことに。しかし、こちらの栗ぜんざいは、普通の餅入りぜんざいに栗の甘露煮が入っているだけのものですから、すやの栗ぜんざいとは大違い。ちょっと残念ではありましたね。 しかし、とにかく甘いモノも食べてさらにパワーアップした我ら。中津川インターの脇にある「ちこり村」にて、名産のチコリを使った様々な産物、たとえば「チコリ・コーヒー」(チコリの根か何かをどうにかしたコーヒーの代用品で、アメリカはニューオーリンズあたりでは当たり前のように飲まれているものなんだとか)やら、チコリ出汁などをゲット。カフェインレス・チコリコーヒー【メール便】【送料無料】【ロハスな国産チコリから誕生】ちこり村のノンカフェイン「ちこり珈琲」1箱アルミパック10包入り【発芽野菜のサラダコスモ】旨味だし おためし5包 だしパック 送料無料 で、買い物の後、トイレに寄ってさあ帰ろうと思ったら、トイレのところに中津川周辺の様々な見どころを紹介したコーナーがあって、そこを見ていたら、土岐にある「岐阜県現代陶芸美術館」にて、若手陶芸家の作品を即売する「孵化展」というのをやっているとの情報をゲット。これは面白そうだということで、ちょいと寄り道していくことに。 で、その現代陶芸美術館ですが、磯崎新氏の設計になる相当大きな美術館でありまして、私も初めて行きましたけど、こんなところにこんなモダンな陶芸美術館があったの?的にビックリするほどのものでした。現地に到着したのが4時45分で、閉館が5時半ですから、あまり時間はなかったのですが、若手陶芸家の作品を見て、それなりに楽しむことができました。結局、買うところまでは行きませんでしたけどね。 かくして、栗きんとんだけでなく、陶芸まで満喫した我ら。どうせ土岐で寄り道したのなら、アウトレットも行っちまおうということになり。 で、結局、私の冬のコートをBEAMSで買っちゃった。これから冬に向かう時期、今まで使ってきたコートが、少しくたびれてきていたものでね。 というわけで、今日は中津川B級グルメたる「鶏トマト丼」に始まり、栗きんとん、チコリ、陶芸、アウトレットと、それぞれ方向性の異なるお楽しみを堪能し、なかなか充実した夏休み最後のひとあがきをやってきたのでした、とさ。今日も、いい日だ!
October 22, 2017
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皆さん、数珠って持ってます? 実は私は持ってないの。アレって・・・持つべきものなの? 大人の嗜み? 持っていないのにも別に理由はなくて、強いて言えば、隠れキリシタンだからってこともあるんですけど、それにしてもだからと言ってどうしても数珠を持ちたくないということもない。だけど、持ってないの。 っていうか、数珠を買うタイミングがね、イマイチ分らないというか。例えば、親戚の誰それがそろそろ死にそうだから、まだ持ってないなら買っておくか、的な? それだと、何だかちょっと誰かが死ぬのを予想しているようで申し訳ないような気がするんだけど。 だけど、昨年・今年と親に死なれて、葬儀やら法事やらにやたらに出た経験から、やっぱり持っておいた方がいいのかなと。 しかし、そうなると、どうやって買うかが問題だよね。 ネットで買う? アマゾンとかで? それもなんだか不謹慎な気が。お手軽過ぎて。 まあ、「楽天」で買うならいいのか。語呂から言って、極楽に行けそうで。 そういうことじゃあない。 となると、仏具屋か・・・。 でも、住んでいる近くの仏具屋って、大抵、しょぼくない? となると、京都などそっち系の盛んなところで買うとか? でも、私は京都嫌いで、数珠買いに京都なんか行きたくないの。 ね? ほら。難しいでしょ、数珠買うのって。 まあ、でも、来年の6月、親父の一周忌までには、どこかで入手しないとなあ。一体、どこでどう買えばいいんだろう?
October 20, 2017
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『バシャール2006 バシャールが語る魂のブループリント』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 まあ、これも自己啓発本なんですけど、バシャールがこの本の中で繰り返し述べているキーワードは「ワクワク」です。ワクワクする生き方をしなさい、というのがバシャールの自己啓発思想の基本。 だけど、大抵の人はそこを間違うわけ。 例えば、向上心のある人は「目標」を定めるでしょ。で、その目標に向かって努力をする。だけど、その目標に到達できる人ってのは少なくて、大概はそこまでいかない。と、当然のことながらガッカリしちゃって、無力感とフラストレーションにとらわれてしまう。 この状況は、バシャールに言わせると、間違っていると。 成功するかどうかは「人生の目的」ではなく、「人生の目的の、ひとつの表現」に過ぎないというのですな。で、その単なる「表現」に過ぎないものに固執し、「自分の人生は、ある特定の目標を達成した時にのみ成功したといえ、その成功を掴んだ時にのみ自分は幸福になる」という風に、あらかじめ幸福の外枠を決めちゃっている。だけど、そういう風に自分で設定した成功概念に束縛されちゃうと、幸せなんてものから遠ざかるばかり。 バシャール曰く、人生の目的は一つしかない。それは「ワクワクした生き方をすること」、これだけ。だから、自分の生き方を問うのであれば、「今、自分はワクワクしているか?」という風に問えと。で、人生というのは、常に自分が自主的に行う「選択」であるのだから、常にワクワクすることを自らの意志で選んで行うのが重要であって、そうすれば「魂のブループリント」(これもバシャールの用語で、各人に設定された幸せの方向性みたいなもの)に己れの行為がシンクロし、その瞬間エネルギーに満ちた「波動」が発生するので、その波動がその人にとって素晴らしいものを引寄せてくれる。だから、「やり遂げるべき何か」を自分で決めるのではなく、まずは今、この瞬間を生き生きと生きろと。そうすれば、そのことによって自ずと何か「達成」と言えるようなものを未来から引寄せることになるよと。 で、バシャールの言う「未来」とは、時間軸上の未来ではなく、パラレルワールドとしての未来なんですな。で、そのパラレルワールドとしての未来は、現在の自分を鏡のように反映するものだと、バシャールは説明します。 このバシャールの「鏡」の比喩というのは、非常に分かりやすいのですが、丁度、鏡をしかめっ面で睨みつけていたところでいつまで経っても「笑顔の自分」を見られないように、まず自分から笑顔になりなさい、そうすれば、鏡は笑顔のあなたを映し出すでしょう、というわけ。まず自分が変われ、そうすれば自分の周囲が変わるであろう、常に世界は「インサイド・アウト」で変わるのだと。 とまあ、バシャールの主張を見てくると、①「自由意志による選択」を重視すること②自分が変われば、世界が変わる、という「インサイド・アウト」の考え方をすること③「波動」及び「引き寄せ」を信じること の3点において典型的な「引き寄せ系自己啓発本」であると同時に、④「今、この瞬間のワクワク」を重視する という点において、「アブラハム・マズロー/ミハイ・チクセントミハイ」の幸福心理学の系譜にも連なる超王道の自己啓発本と言えるでありましょう。 が! 上記系列の自己啓発本とバシャールが異なる点が一つありまして・・・ それは、著者のバシャールが異星人だということでーす! 爆!! ニューエイジ系かあ! そう、バシャールは地球人じゃなくて、エササニ星人なのね。 エササニ星人はもう物理的な肉体とか持ってないほどに進化してますから、地球人との交信はもっぱらダリル・アンカというチャネラーを通して行われます。じゃ、ダリル・アンカって誰かと言いますと、この人はハリウッドの映画関係者で特殊効果の専門家。 で、バシャールそんな風だから、地球の歴史とかについても我々無知な地球人に色々教えてくれちゃってます。 たとえば、初めてE.T.が地球に来た時、地球上には爬虫類が這いまわっていた。だから、そこでDNA上のミックスがあって、それで恐竜が誕生した、とかね。Tレックスは、だから、トカゲと宇宙人のハイブリッドだったのね。知らなかったわ~! あとね、地球人がよく「宇宙人」と言う時に想像する、子どもくらいの背丈の、白くつるんとした、黒目の大きなE.T.、あれはね「グレイ」っていう奴で、もともとは人間だったのが、自分で選択してああいう風に進化したらしいよ。 あと、我々人間も、異星人とのハイブリッドらしいからね。ちなみに、ハイブリッドには地上種と水中種が居て、水中種になったのがイルカとかクジラね。いやあ、ワタクシもどうしてイルカって人間に対してあんなに親しげなんだろうと前から不思議に思っていたんですけど、これで理由が分ったわ。そして、この事実を知った以上、ワタクシもグリーンピースと共闘することにします。捕鯨絶対反対!! はい。そんな感じ~。 そうなってくると、信じるか信じないかはあなた次第です。だけどこの本、ホントかどうか知りませんけど、帯によると「日本の精神性をぬりかえた累計200万部ベストセラー」だからね。200万人くらいは、信じた奴・信じかけた奴がいるってことで。 まあ、自己啓発本の世界も、いろいろあるねえ・・・。 私自身の評価としては、この本のクリームの部分は、すごく正統的な自己啓発思想だと思います。だから、そこを信じて読むのはいいと思う。その他の「ニューエイジ」な部分については・・・ワタクシは面白いと思うけど、ま、どうでもいいですわな。 そういうものとして、こんなものがあるよと、ご紹介だけしておきましょうかね。【中古】バシャール2006—バシャールが語る魂のブループリント
October 19, 2017
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先輩同僚の「アニキ」ことK教授からすごい話聞いちゃった。 アニキ、寄る年波に勝てなかったのか、先日、歯が折れちゃったんですって。別に堅いものを齧ったわけでもなく、ただ突然、上の歯がポキッと。 で、当然、歯医者さんに行ったわけですよ。折れた歯を何とかしてもらいに。 さて、ここで問題です。 この後、アニキはどういう治療法を提案されたでしょうか? まあ、普通に考えたら、歯の折れた部分を、何か人工的なもの、例えば「セラミック」で作って、それを残っている歯に接ぎ木する、そんな感じの治療になるのではないかと、思うんじゃござんせんか? でも違うの。 答え、聞きたい? 聞いたら驚くと思うよ。 私は驚いたもん。 なんとなんと。残っている歯に重石を引っ掛けて、下に引っ張るんですって。半年ほどかけて。 で、そうやって少しずつ下に引っ張ると。 すると、下に降りてくると。折れた歯が。 で、元の位置くらいまで下りてきたら、そこで形を整えておしまい。 え゛ーーーーーー!! って思いません? 私は想像しただけで血の気が引いたわ。 そもそも、歯って、引っぱって下に伸びるもんなのか?って思うでしょ? 伸びるんだって。歯の上の部分はともかくも、歯の根っこの部分には再生能力があるので、下に引っ張れば、一生懸命再生を始めると。そうやって時間をかけて少しずつ再生させて、それで元に戻すと。 はあ゛~。 人間の身体って、スゴイね・・・。 しかし、この治療、自分ではやりたくないな・・・。コワ過ぎる・・・。
October 18, 2017
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今日は今月末の学会発表に向けて、一つ、必要な資料があって、それを求めに名古屋大学の中央図書館に出向いて参りました。 その資料ってのは『Middle School Journal』というアメリカの雑誌なんですけど、日本国内でこいつを持っているのは東京の創価大学と名古屋大学のみ、しかも私が読みたい巻号を持っているのは名古屋大学のみ、というね。 そんなラッキーなことって、ある? で、こいつは都合がいいや、ってんで、久しぶりに名古屋大学の構内に足を踏み入れた私。あれ? 名大の中央図書館って、こんなにキレイだったっけ? 入口のところにはスタバまであるじゃん・・・。いいな、スタバ併設の図書館って。うちの大学もこのくらい気の利いたことすりゃーいいのに。 ま、とにかく、目指す資料のところに一直線で行って、欲しかった資料を無事ゲット! これさえ手に入れば長居は無用。そそくさとキャンパスを後にしたのでした。 で、帰りに大好きな古本屋さん「シマウマ書房」に寄ろうと思っていたんですが、何故か今日はお休み。木曜定休のはずなのにね。で、多少がっかりしてもう一つの「大観堂」という古本屋に行ってみたら、ここはなんと火曜定休。あらま。 で、それならば、「ララハウス」というチーズケーキ屋さんに寄ってチーズケーキを買って帰ろうと思ったら、おやおや? 店がない。 ネットで調べたら、店主の方が急逝されて、閉店になってしまったそうで・・・。えー、ここのチーズケーキ、大好きだったのにぃ! なんだよ、なんだよ。幸先良かったのに、後が続かんじゃん。 ま、それは仕方がない。ので、ミスドでドーナツ買って帰宅したのでした。 ところで、あと10日ほどで福井大学での研究発表。なんか久々の発表で、ちょっとウキウキ。 福井大学までどうやって行こうか検討したのですが、名古屋からだと「あさかぜ」という特急に乗って行くことになる。しかし、9時台に1本、11時台に1本ってな感じで、選択肢が実質この二つしかないというね。 それもなんか、束縛される感じだなあと思い、結局、自分のクルマで行くことに。既に予約をとってあるホテルに電話して、駐車場も確保しちゃった。同僚で、やはりこの学会に参加する先輩がいるので、一緒に乗せて行って高速代を半分出してもらえば、むしろ特急で往復するより安いんじゃね? それにクルマで行けば、翌日の日曜日に観光も出来るしね。 というわけで、今日は迫りくる学会発表の準備に余念がなかったワタクシなのであります。
October 17, 2017
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今日はまず知多半島は半田まで出張し、うちの学生が教育実習でお世話になっている小学校へ、研究授業参観に行って参りました。 そしたらなんと、今日の研究授業は小学校1年生の国語だったという。 もうね、小学校1年生なんて、まるで赤ちゃんみたいなもんですよ。まあ、可愛い、可愛い。 で、見知らぬおっさんの私が教室に入って行きますと、そのちっこい連中が輪になって群がってくるの。人見知りなんて言葉は知らないみたいで。 で、最初は口々に「こんにちわ!」「こんにちわ!」ってなもんなんですが、そのうち少し慣れてくると、「だあれ?」なんて言ってくる。そこで「○○先生の、そのまた先生だよ」とかって答えると、えらく感心してくれたりするわけよ。「先生の先生」ってのはよっぽど偉い人に違いないと思うらしいんですな。 で、さらにもう少し慣れてくると、「ねえ、見て! 私のこの歯、グラグラだよ! もう少しで大人の歯になるの!」とか言いながら、可愛い前歯を指でグラグラさせて見せてくれたり。でまた私が大げさに、「おお、すごいな! もう大人だねえ!」などと応対していると、ほかの子供たちも群がってきて「ぼくのも見て!」「わたしのも見て!」って、まあ、えらい騒ぎになっちゃうの。 小学校1年生って、こんなだっけなあ。私が小学校1年生のころは、もう少しひねていたような気がするけどなあ。 でね、授業が始まるじゃん? で、実習の先生が何か質問して、子供たちが元気に「はい!」「はい!」って手を挙げる。 で、先生が「じゃあ、○○さん」とかって一人を指し、その子が立ち上がるんだけど・・・答える代わりにもじもじして、小さな声で「忘れました」とかって言うの! 超きゃわいい!! イエス様が「天国は子供たちのためにある」って言った意味がわかるね。 で、もうあんまり可愛くて、授業参観どころじゃなくて、好々爺みたいになって出張終了(いいのか、それで?)。 で、帰り道ですよ。このブログの読者ならば、私が出張の帰りにタダで戻るはずがないと知っているはず。 そう、寄り道。今日は同じ半田にあります「かみや美術館」というところに行って参りました。 普通、個人美術館っていうと、たいていは地方財界の大立者とかが金にあかせて建てちゃうケースが多いと思うのですが、「かみや美術館」の創立者・神谷さん(「神谷」という姓は知多半島、特に半田のあたりにすごく多い)は、弁護士さんでございます。聞いた話ですけど、この神谷さんという人は鼠小僧みたいな人で(弁護士を大泥棒に譬えるのもアレですけど)、貧しい人たちからは弁護費用はとらず、企業の顧客からはガッツリ取る、みたいな感じで、弁護士として財を成した人らしいんですな。 で、自分の趣味と、自分の財力の範囲で、少しずつ絵を買いためていき、やがて美術館を建てたらしい。 ということで、そんなには期待できないのかなと思いきや、ですよ。これがね、案外、いいものを持っている。 数はそんなにないですが、村山槐多の生前ほぼ最後の作品とかね。梅原龍三郎とか、萬鉄五郎とか、児島善三郎、須田国太郎、熊谷守一、北川民次等々、なかなかの作品がある。洋画だとビュッフェね。それに、現在の展示では、マックスエルンストとか、ミロとか、マグリッドとか、マンレイもあったなあ、そのあたりの版画。 でも、今回の展示で一番良かったのは、長谷川利行の油絵(『陸橋みち』)と、熊谷守一の油絵、それに木村忠太の大判の油絵ね。特に長谷川利行の作品は素晴らしかった。で、私がそのことを美術館の方に言うと、以前、この美術館に取材に来られた赤瀬川原平さんが、私とまったく同じことを言ったのだとか(『個人美術館の愉しみ』32ページ参照)。まあ、誰が見たって、そうだろうね。個人美術館の愉しみ (光文社新書) [ 赤瀬川原平 ] それにしても、この長谷川利行の『陸橋みち』は、欲しいなあ・・・。今じゃ、天文学的な値段だろうけどね。これこれ! ↓長谷川利行『陸橋みち』 ちなみに、今日の名古屋地方はあいにくの雨だし、平日だし、半田の中でも超田舎の方にポツンと立っている美術館なので、お客さんなんか私一人。だもので、美術館員の方(女性・・・ひょっとすると創立者の縁続きの方?)が張り切ってマンツーマンで一枚一枚の絵を解説してくれたという。 その解説で一つ面白かったのは、北川民次のガラス絵のこと。 北川民次は、油絵だけじゃなく、色々な技法で作品を作った人なんだそうですが、その中にガラス絵もあると。 ガラス絵ってのは、もともとはヨーロッパはベネツィアあたりで始まった技法で、ガラスの裏側から絵の具を塗り重ねて描くのですが、塗る順序を最初からしっかり決めておかないと描けないわけね。しかも見る時は表から見ますから、左右逆転した形で描かないといけないので、結構難しいんですって。 ところが、北川民次は割と簡単にこの技法を習得しちゃうの。 なぜだと思います? 民次は、それ以前に版画をやっていたので、左右逆に作品を制作するのに慣れていたから。だから、民次に限らず、伝統的に木版画経験のある日本の画家たちってのは、ガラス絵に関しては比較的楽に対応するんですって。なるほどね、って感じでしょ? とまあ、そんな感じで、今日は可愛い小学校1年生たちに癒されたし、かみや美術館で長谷川利行の素晴らしい作品も見られたし、なかなかいい一日となったのでした。
October 16, 2017
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ちょっとタイミングが遅いですけど、例の高速道路上の・・・アレなんて言うの? 言いがかり? 怖いね・・・。私もしょっちゅうクルマを運転するし、高速道路も利用するので、他人事じゃないわ。 それ言ったら、つい最近、私の姉もあれに近いことをされたそうで。 姉が運転して東名を移動中、トラックに真後ろに接近され、煽られたというのですな。 で、怖くなって、幸い、サービスエリアが近かったので、そこに避難しようと思ったら、そのトラックも一緒に入ってきたと。 で、姉が駐車スペースを探してスローダウンすると、そのトラックは姉のクルマの前に出て、いきなり急ブレーキ! あやうくぶつかりそうになってしまったのだとか。 で、姉がそのまま止まっていると、ようやくそのトラックはそのままサービスエリアを出て、どこかへ行ってしまった。しかし、サービスエリアを利用しないで出て行ったわけですから、ここへ入ったのは、ひたすら姉に嫌がらせをするために入ったわけですよね・・・。 ある意味、今回の基地外と同類のドライバーだったということですな。姉も危なかった。 高速道路上で道をふさがれ、止まってしまったことなら、私も経験があります。 もうずいぶん前のことで、私も若かったのですが、私が東名の追い越し車線を走っていた時、後ろから煽られまして。だけど、本線が混んでいたので、そうそう道をあけることができなかったわけ。 それなのに、ガンガン煽ってくるので、私もつい売り言葉に買い言葉で「ブレーキテスト」してやったんですわ。 そしたら私が本線に戻った後も、その煽り屋ドライバーは一旦私を追い抜いてから私の進路を妨害し始めまして。 でまた、運悪く、丁度その時豊橋のゲートに差し掛かったのよ。そう、東名には昔、豊橋のところにゲートがあって、一旦、チケットの確認をするようになっていたんですよね。 で、私がゲートを出ようとしたら、そこにその煽り屋が止まって待ってやんの。 で、仕方なく、私もゲートを出たところでクルマを止め、相手の出方を待った。で、クルマ二台、ゲート前で車を止めてにらみ合いですよ。その間、1分くらいかな。 で、ようやく相手がクルマをスタートさせたので、私もちょい間を開けて再スタート。 その後、特にトラブルはありませんでしたが、もしこの時の相手が、今回のような基地外だったら、私も同じような目にあってたかもね。 最近は、もう、私もすっかり穏やかなドライバーになって、本線を法定速度で走り続けるような模範生になってしまったから、以前ほどそういうのにからまれる危険は少なくなったと思いますけれども、わからないよね・・・。今回被害に遭われた方だって、ごく普通の穏やかなドライバーだったんだろうし。 もっとも、今の私なら、基地外に胸倉掴まれたら、逆に柔術でねじ伏せてやりますが。 しかし、君子危うきに近寄らず。災いからは逃げるのが一番。 ま、クルマってのは、ロックしちまえば余程のことが無い限り、外からどうこうされる心配はないと言いますけれども、万が一の用心のため、せめて催涙スプレーの一つくらい、クルマに積んでおいた方がいいのかもね。
October 16, 2017
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家のことをあれこれしに実家に戻った私ですが、昨日までに一通りのことはしたし、今日は土曜日ということで、お役所も銀行も閉まっておりまして、どっちにしても身動きが取れない。 ということで、今日は家のことは何もせず、ふらっと町田に行って、例のブックオフの中古LPレコード売り場に行っちゃった! で、今日の収穫はと言いますと、○クリストファー・クロス『クロストファー・クロス』○ニール・ダイアモンド『His 12 Greatest Hits』○ダリル・ホール&ジョン・オーツ『H2O』○ミシェル・ポルナレフ『ミシェル・ポルナレフ2』 の4枚。全部500円だから、4枚で2000円也。 『クリストファー・クロス』は彼の出世作。久しぶりに彼のハイトーンを聞きたくなったので。意外にもこのアルバム、むしろB面の方がヒット曲だらけなのね。ヒット曲と言えば、ニール・ダイアモンドのはヒット曲集。当然、冒頭は『スウィート・キャロライン』ですわ。 ホール&オーツは80年代の大ヒット・アルバム。このあたりは、もう単独のアルバムなんだか、ヒット曲集なんだか分からないというほど、全曲ヒット曲だからね。 そして最後、ミシェル・ポルナレフは、私が昔から好きなフレンチ・ポップスの雄。雄っていうか、この人しか知らないけど。 どう、このセレクト。「CDじゃなくて、LPで聴く」っていうテーマにピッタリだと思わない? あとね、どうせならキャロル・キングの『つづれ織り』とか,その辺もLPで聴きたいよね。でも、今回は売ってなかった。 で、家に戻ってから早速あれこれ聴きながら思うんだけど、LPのいいところって、雑音じゃないかなと。 レコード盤に針を乗せると、プチプチ雑音がするじゃない? もちろん、曲の演奏中も。 LPからCDに時代が移って、プチプチ音がまったく無くなったとき、「こりゃーいい!」と思いましたけれども、久しぶりにLP聴いてあの雑音を聴くと、むしろそれがいいと思うんだよね。この雑味がいい、みたいな。 分からないもんだよね。不必要なもののはずなのに。 そのうちテレビも、4Kとか8Kテレビに飽きて、昔のブラウン管の、スジが入ったりする画面がいいんだ、なんて言い出したりしてね。 いや、あり得るんじゃないかなあ、「ブラウン管に戻ろう!」的なムーヴメント。今からブラウン管テレビ買い占めて、どっかに隠し置いておくか・・・なんつって。 まあそれはともかく、私のLPブームは、まだ当分続きそうな勢いなのでありました、とさ。Christopher Cross / Christopher Cross (Limited Edition) (180 Gram Vinyl)【輸入盤LPレコード】(クリストファー・クロス)【送料無料】Hall & Oates / H2O (Limited Edition) (180 Gram Vinyl)【輸入盤LPレコード】(ホール&オーツ)
October 14, 2017
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若手の同僚でイギリス文学を研究している奴が、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞にどうも納得ができないとブツブツつぶやいているので、じゃあ誰なら納得なんだと尋ねたら、言下に「ジュリアン・バーンズ」と。 ふうむ。なるほど。言われてみればね。 ジュリアン・バーンズの『フローベールの鸚鵡』は傑作だからね。カズオ・イシグロの『日の名残り』とどっちがいいかって言われたら、私も迷うかも知れない。作風が全然違うけど。 『フローベールの鸚鵡』ってのは、フローベールの研究者が、フローベールの作品に登場するオウムのモデルとなったとされるオウム「ルウルウ」の剥製を二種見つけたことで、一体どっちが本物なのか、調べ始めるというところから話が始まるんですけれども、その過程でフローベール研究の現状の話が出たり、その現状を痛烈に批判が繰り広げられたり、一体これは実際の話なのか、虚構の話なのか、区別がつかなくなってくるという面白さがあるわけ。 で、そういう話を読んでいると、私なんぞ「うーん」と唸ってしまう。 というのも、私も研究者の端くれ、こういうタイプの本、すなわち研究書なのか、それとも小説なのか、区別がつかないっていうような研究書を書いてみたいところがあるわけ。「フローベールが飼っていたオウム」という、本来であればフローベール研究の中心点からはかなり外れたところにあるものを支点・視点に、そこから意外な方法で、いつしかフローベールの本質に迫っていく、というような。つまり、研究書なのか、エッセイなのか、小説なのか、よくわからない、というような本を書いてみたい。 そういう意味で、バーンズの『フローベールの鸚鵡』という小説は、私にとっては羨望の対象でもあるわけね。だから、同僚がイシグロよりバーンズを支持すると言えば、確かに、それはそうかもねと納得するところがあるんですな。 良い機会だし、この際、『日の名残り』と『フローベールの鸚鵡』、両方再読してみようかな・・・。【中古】フロベールの鸚鵡 / ジュリアン・バーンズ 著/斎藤昌三 訳 / 白水社 むむ。今、この本、絶版なのか・・・。
October 13, 2017
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私が日頃愛読しているブログに、荻原魚雷さんの「文壇高円寺」というのがありまして、最新のエントリーに次のようなものがありました。以下、同ブログより(勝手に)再録させていただきます:「わたしにはわからない」 臼井吉見著『自分をつくる』(ちくま文庫)を読む。忘れられた作家というほど、無名ではないが、もうすこし読まれてほしい。大事な提言をたくさん残している。 この本の第三部の「人間と文学」という講演の中でこんなエピソードを紹介している。 小学校四年生の作文に、子どもが自分の家の話を書いた文章があった。 うちでは、お父さんがあたたかいご飯を食べ、お母さんは冷やご飯を食べる。いつもお父さんが先にお風呂に入り、お母さんと自分は後から入る。 その後、「ほうけんてき(封建的)」という言葉が出てくる。 先生はこの問題を取り上げ、他の生徒にも「みんなのうちではどうか」と作文を書かせた。 すると、ほとんどの生徒が、判で押したように「私のうちも、ほうけんてきだ」と書いてきた。 臼井吉見は、そのことを薄気味悪くおもう。いっぽう、クラスでひとりだけ「わたしにはわからない」という文章を書いてきた女の子がいた。《お父さんは外に出て働いているのだから、おふろをわかしても、お父さんに先に入ってもらうことは、自分はうれしい。そして、お母さんがいつも冷たいご飯を食べなければならないというきまりはない。たくさん残っているときは、チャーハンにしてみんなで食べる。しかし、たいていは、お母さんがひやご飯を食べ、おふろにはお父さんが先に入る。それがどうしていけないのか、わたしにはわからない》 臼井吉見は「ぼくはこの作文をよんでほっとしました」という。他の生徒は「ほうけんてき(封建的)」という言葉をトランプのジョーカーのようにつかっている。《それをちょいと出すと、みんなまいっちまう。(中略)これを一度使い出すとこたえられない。信州ことばでいうとコテエサレナイのです。そういうコテエサレナイことを覚えたら、もう、ものなんか考えようとしなくなる》「封建的」という言葉でわかったような気になったり、相手を黙らせたりする——そういう癖がついてしまうと人はものを考えなくなる。臼井吉見は、わからないまま、考え続けることの大切さを語る。(以下略) うーん。なかなかいいですね。特に女の子の文章がよろしい。「お父さんは外に出て働いているのだから、おふろをわかしても、お父さんに先に入ってもらうことは、自分はうれしい」なんてね。この一文を読むだけだって、この女の子のご家庭の健全な雰囲気・・・というか、昭和っぽい家庭の健全な雰囲気が伝わってくる。最後の「わたしにはわからない」という一言も、女らしく凛としているねえ。で、その女の子の言にほっとした臼井吉見もいいし、それに感動した魚雷さんもいい。ついでに言うと、魚雷さんに感心した私もいい(なんだソレ)。 だけど、アレだね。臼井さんにしても魚雷さんにしても、こういうの書けちゃうところがエッセイストですな。難しいよ、こういうの書くの。簡単なようでいて、すごく難しいと思う。少なくとも私には書けないもん。私が書くと、もっとギッチギチに理詰めになっちゃうの。こういう、適度にゆるい文章って、書くのに専用の才能がいるような気がする。 まあ、でも、自分には出来ないから、こういうの読むと、「お!」と思うんだろうね。 とにかく、魚雷さんのブログ、面白いですよ。教授のおすすめ! と言っておきましょう。これこれ! ↓文壇高円寺
October 12, 2017
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アメリカから名古屋に戻ったのもつかの間、今度は東京の実家へ戻るという強行軍。例によって相続関係のアレで。 っつーことで、今日は大学の事務関係の仕事をあらかた済ませて、昼頃から実家に向かったんですけど、東名が例年この時期に行う全面改修の真っ最中で、結構、時間掛かっちゃった・・・。 それにしても、「カリフォルニアの東名」とも言うべき「インターステート5号線」をつい最近走ったのと比べて、まあ東名の平和なこと。基本、2車線だし。一方5号線なんて、何車線あるんだろう。ところによっては片側8車線くらいあるからね。あれを慣れない左ハンドルで走るストレスと比べたら、東名なんて寝ちゃうよ、ほんと。 ま、それはさておき、明日からまた税理士さんと面会したり、司法書士さんと面会したり、銀行回りをしたりと、これまた慣れないことをしなきゃいかんので、いささかゲンナリ。 そういうこともあって、今回の帰省のもう一つの目的である、母の俳句集の編集作業を進める件を、今日のうちに少しやってしまいまして。 で、どうせ母はなにもやっていないんだろうなと思ったら、宿題にしておいた「あとがき」の執筆もちゃんとやっていてくれたし、句集のタイトルも何となく考えていてくれたので、助かる,助かる。 で、その句集のタイトルですけど、句集のタイトルってのは、その句集の中のどれかの句に使われている言葉の中で、好きなものを選んでつけることが多いらしいんですな。 で、母曰く、「若葉風」にしようか、それとも「花鋏」にしようか、迷っていると。 なるほどね。 皆さんだったら、どっちがいいですか? ワタクシだったら・・・ほぼ迷いなく「花鋏」だな。 花鋏ってのは、要するに花を剪定する時の鋏なわけでしょ? いいじゃない、自分が作った何千もの俳句を花に見立て、その中から特に気に入っているものを、ここから一つ、あそこから一つ、ってな感じで、花鋏でチョキン、チョキン、切り出してきた、っていうニュアンスが出るじゃないの。 で、そんなことを言ったら、母も納得していましたが、さて、果たしてどういうタイトルになることやら。 でも、タイトルと後書きが決まってしまえば、もうあとは表紙のデザインを決めるだけ。それが決まれば、もう完成したようなもんだよなあ。意外に順調。 というわけで、明日からの怒濤の仕事を前に、ちょっと息抜き的な句集編纂の仕事を楽しんでいるワタクシなのであります。
October 12, 2017
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4年前にやはりロス・サンタモニカに行った時、誰も彼もが「すごい・すばらしい」という意味で「awesome!」という言葉を使っていたのがとっても奇異で、ちょうど日本で「やばい!」というのを「すごい・すばらしい」という意味で使い出したようなものかなと思ったものですが、今回の滞在でふーんと思った英語は、「text」という言葉ね。 「e-mailを出す」という意味で「text」っていうのよ、誰もがみんな。 もう今どき、「send an e-mail」とか「e-mail me」なんて言い方する奴なんかいやしない。誰も彼も「Text me.」とかって言うの。「text」という言葉を「メールを送る」という意味の他動詞として使うというのは、最近の流行のようで、ああ、こうやって新しい言葉の使い方が生まれるんだなあと。 言葉の用法も時代によって移り変わるようで。 さてさて、移り変わるといえば、2週間ちょい日本を留守にしただけで、私の周りでも色々変わったことがありまして。 たとえば、今日、久々に大学に帰朝報告に行ったら、ずっと私が愛用していたセブンイレブンが潰れてやんの。困ったなあ、通勤途中、道路の左側(入りやすい側)にあるコンビニってここだけなのに。 あと、これは昨日近所のスーパーに行った時のことなんですけど、ミカンが売っていた! いやあ、ついにミカンの季節になりましたか。これはアメリカに行く前には売っていなかったものなので、この2週間ちょいで季節が変わったなと。 それからもう一つ、鍋物の出汁が山積み状態でスーパーに並ぶようになっておりましたね。ああ、今年もいよいよ鍋物シーズンの到来か・・・。 日本の季節は、二十四節季といって、ほぼ2週間を一つの単位として顕著に移り変わっていくわけですが、確かに、アメリカ出張の前と後では、一つ、季節が変わりましたな。 まあ、もう10月中旬だからね。後2ヵ月半ほどで今年も終わるんだから。 ってなわけで、海外出張を経て小さな変化に敏感になってしまった今日のワタクシなのであります。
October 10, 2017
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ひょえ~! 無事、サンタモニカから生還いたしました~! まあ、行きは夕方に成田を出て、長旅の末に向こうについたらまだその日の昼、という状態だから、すっごく疲れるのですけれども、帰りは向こうをお昼頃に出て、日本に着いたら次の日の夜だから、家に着いた途端に寝ればいい。 というわけで、アメリカ出張の場合は帰りの方が楽は楽なんですよね、ジェットラグ的な視点から言うと。 で、昨夜は9時頃に名古屋セントレア空港に到着したんですが、もうその頃には空港内のレストランが閉まっていたので、じゃあ、家までの帰りがけに何かを食べて行くかということになり、出張中、空港の駐車場に放置しておいた愛車キャプチャーに18日ぶりに乗ったと思いなせえ。 で、乗るとさあ、いいのよ、色々。 まず右ハンドル・左側通行という、慣れ親しんだ日本の道がいい。わたしゃどうも左ハンドル・右側通行には慣れないわ~。 でまた、アメリカで乗っていたアクアに比べて、キャプチャーの走りの高級かつパワフルなこと。キャプチャーは1.2リッターのエンジンなので、むしろアクアより小排気量なのに、ターボ・パワーで力感が全然違う、滑らかさが違う、高級感が違う。向こうでは、「もう、クルマはアクアでいいか・・・」なんて枯れたことを口走りましたが、やっぱり乗り比べると、クルマはええやつに乗らないといかんなと思います。 で、家の近くまで来て食べた「ココイチ・カレー」の旨いこと! 11時近かったのに、バッチリ食べちゃったよ。季節限定の牡蠣フライまでつけて。 で、お腹も一杯になって、家について、さあのんびりしようと思ったら! ドアが開かない。鍵が開かない。どうやっても開かない。 20分ほどガチャガチャやった揚句、ついに諦めて、鍵の業者を呼びましたよ。夜中の11時半に。疲れているのに。 で、40分ほどして業者の人が到着、どうにか開錠に成功してようやく自宅に入れたという。自宅に入るのに、28,000円くらい掛かっちゃったよ! ということで、思わぬハプニングと思わぬ出費に泣かされながら、ついに自宅到着~。 で、とりあえず思ったんだけど、日本のシャワートイレは素晴らしい、そして日本の風呂は素晴らしい。日本に帰ってきた甲斐がありました。 ただ、ベッドが低い! アメリカのベッドって、高さが下手すると腰位の位置にあるじゃん? 私はあれが好きでね。昨夜、自宅のベッドに入って「低!」って思いましたもん。 多分、日本人は畳の上に布団敷いて寝ていた過去が長いので、地べたからあんまり離れたところに寝るのが嫌なんだろうね。だけど、ベッドって、本来、膝の高さではなく、腰の高さにあるべきもんだと思いますな。よっこらしょって這い上がって寝るもんだと思う。 ちょっと海外出てたからって、急に彼我の比較なんかしちゃって、わしも嫌味な奴になったもんだねと。 ま、とにかく、無事に帰ってこられました。そのことをご報告して、ご心配いただいた皆様に感謝!でございます。
October 9, 2017
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ひゃー。17日間に渡るロスアンゼルス・サンタモニカ出張も今日でおしまい。明日は朝も早くから帰国の途につきます。 今回の出張、UCLAでの資料探索も順調に行ったし、こちらでも読もうと思っていた資料も相当数読み込んだし、10月末の学会発表の原稿もあらかた書いたし、かなり収穫はあったのではないかなと。(また自画自賛かよ!) ところで最近10年ほどの海外出張歴を振り返りますと、2009年 ロスアンゼルス2010年 ボストン2012年 ロンドン2013年 サンタモニカ2014年 ロンドン2017年 サンタモニカ という感じか・・・。どれも面白かったですけど、ロス&サンタモニカは、勝手知ったる場所の楽しみという感じ、ボストンとロンドンは、初めて行く場所の楽しみでしたね。 来年も海外出張可能なんですけど、さて、次はどうしますか・・・。ポートランドにも行ってみたい気がするけれど、どうかな。楽しいのかな。 本当は、ハワイにも行ってみたいのだけど、「ハワイに研究に行って来ます」なんて言おうものなら、「遊ぶ気だろう! ダメ〜!」って言われそうだし。 一つの旅が終わりかけると、何だか寂しくて、次の旅のことをつい考えてしまいますな。日本に帰れば、山のような事務仕事が待っていると思うと、尚更、ね。 それでは、次回の更新はおそらく、日本に戻ってからのものと思います。飛行機がちょっと怖いワタクシのために、道中の無事を祈っていてくださいね〜!
October 7, 2017
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私、海外出張中に必ず1冊か2冊、日本語の本を持って行って、現地で読むことにしているのですが、今回、玉村豊男さんの『パンとワインとおしゃべりと』と共に持参したのがサミュエル・スマイルズ著・中村正直訳『西国立志編』でございます。 まあ、明治初期に日本でこの本が出て一大立身出世ブームとなり、明治維新の意義が達成された的なところがあるわけでね。この時代の二大自己啓発本が福沢諭吉の『学問のすすめ』とこの本で、前者が日本人の知的成長を、後者が日本人の道徳的向上を、それぞれ促したと言われております。 そんな重要な本を、どうして今まで実際に読まなかったかというと、単純に分厚いから! 日本に居る時は、なんだかんだ忙し過ぎて、こんな分厚い本,読んでいられないんだもーん! だけど、アメリカでなら読み切れそう。そういう思いで持って来たわけですよ。 で、ようやくそれを読み終わったので、心覚えをつけておきましょう。 まあね、一口に言いまして、この本、超面白いです。言っちゃ悪いけど、色々なタイプの偉人たちのエピソード集ですから、俗っぽい意味で面白くないわけがない。 むしろ、こんな俗っぽく面白いものを、江戸幕府の期待を両肩に背負った超弩級の秀才・中村正直が、大感激して翻訳しちゃったというところがね。イギリスの大文字の文学ではなく、ベストセラーの方に惹かれちゃったというところがさらに面白い。 丸山真男と加藤周一の共著となる『翻訳と日本の近代』っていう本の中に、明治初期の日本において、欧米の高級な学術書と大衆向け啓発書が、同レベルのものとして翻訳されてしまったことで、日本の近代化の方向性に影響が出た、ってな事が書いてありますが、『西国立志編』がまさにその例。翻訳と日本の近代 (岩波新書) [ 丸山眞男 ] あともう一つ、この本に対する日本人著者による解説書の中で、『西国立志編』というのは、基本、理系の発明家(ワットやスティーヴンソンなど)の伝記が中心、みたいなことが書いてあるのを読んだことがありますが、そんなの嘘、嘘。理系の人の話なんてむしろ少数派で、文系の学者、芸術家、文人、政治家、軍人、市井の人の話の方が多いです。解説書なんてものは、いい加減なもので、そういうのを頭から信じちゃいけませんな。 で、この超面白エピソード集たるこの本、たとえばどんな感じかと言いますと、「真のジェントルマンとはどんなものか」という辺りの話で、ある貴族がある村を通りかかったら、大雨の後の川の氾濫である家が流されそうになっていて、しかもその家にまだ人が取り残されていたと。で、その窮地を見た貴族が村人を呼ばわって、「あの人を助けたものには報奨金を出そう」と言ったんですな。そしたら一人の若者が名乗り出るや、勇敢にも荒れる川に舟を漕ぎ出していって、見事、救出に成功したと。で、これを見た貴族がたいそう喜んで、褒美をこの若者にとらせようとしたところ、その若者曰く「私は自分の命を金で売るようなことはしない。むしろこの苦境にあって困っているのは、家を流された人の方なのだから、その金はその人に渡してくれ」。で、サミュエル・スマイルズ曰く、卑しい身分の人間の中にも、こういう気概を持っている人がいる。これこそ、君子と言うべきではないのかと。 納得〜! でしょ? あるいは、フランスの将軍ネーのエピソードはこんな感じ。ネー将軍がイギリスとの戦いの中で捕虜を得たんですが、イギリス軍から、その捕虜が無事かどうか、問い合わせが来た。そこでネー将軍は、「捕虜本人に、「無事だし、フランス軍の捕虜の扱いも良い」と答えさせろと命じたんですな。ところが、その件を報告にきた下士官が、まだモジモジしている。そこでネーが「他にも何かあるのか?」と問うと、「実はその捕虜には、年老いた目の不自由なおっ母さんがいまして、息子の無事を国で心配しておるそうなのですが・・・」と。それを聞いたネー将軍、静かに微笑みながら「そうか、老母が心配しておるのか。それならば、その捕虜に、母親のところに直接行かせて、無事だと告げさせよ」と。 ネー将軍は捕虜を解放しちゃったのよ。それも、総大将・ナポレオンの許可を取らずに。 つまり、ネー将軍は、場合によってはナポレオンから大叱責をくらう(否、それどころか、首を切られる)のを承知で、その処分を下したんですな。 で、この一件を後で聞いたナポレオンはどうしたかというと、ネー将軍、よくやった、と褒めた。 ネー将軍もネー将軍、ナポレオンもナポレオン、共にあっぱれであると。 イギリスの人・スマイルズが、敵軍たる仏軍のステキなエピソードを、自著で紹介しちゃう。それが『西国立志編』というものなのであります。 ま、とにかく、こんな感じで、胸躍るエピソード満載よ。 で、全体の趣旨としては、長い人生、結局、持って生まれた才能ではなく、地道な努力を習慣づけることによって道をひらいて行けば、必ずや偉業は達成できますよと。たとえ達成できなかったとしても、それはそれで素晴らしいことだし、その名も無い人の知られざる偉業ですら、必ずどこかで見ている人がいて、後世に語り継がれるのだから、人間として生まれたら,心してそういう人生を送らなきゃダメよと。 で、そういうことを、実際にこの世を生きた有名・無名の人たちのエピソードをもって説得力豊かに語るわけだから、面白くないわけがないというね。 この本、明治初期の大ベストセラーですけど、その価値は21世紀の今でも少しも減じてはおりません。少し日本語が古いので、読みにくいと思う人もいるかも知れませんが、読み始めると,結構すらすら読めるようになります。この程度の日本語が読み下せないようじゃ、それも日本人として寂しいしね。 ということで、この本、現代語訳なんかじゃなくて、オリジナルに近い形で読んだ方が良いと思います。教授のおすすめ! です。【新品】【本】西国立志編 サミュエル・スマイルズ/著 中村正直/訳
October 7, 2017
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ロック(?)歌手のトム・ペティさんが亡くなりました。享年66。 トムさんのご自宅はマリブにあり、しかも搬送され死亡が確認されたのがサンタモニカにあるUCLAのメディカル・センターで、今,私が居るところからほんの目と鼻の先。そういうこともあって、長年トムさんのファンであった私としては、尚更感慨深いと申しましょうか。 トム・ペティと言えば、ハートブレーカーズ。私の学生時代、毎週土曜日に『ベストヒットUSA』が放送されていたバブルの頃、トム・ペティ&ハートブレーカーズは、しばしばこの番組でも紹介されるほど、連続してヒットを飛ばしていたものでした。例えば『逃亡者』とか『孤独な世代』とか。『フリー・フォーリン』とか。『ラーニング・トル・フライ』、『Don't Come Around Here No More』とかね。 独特の粘っこい声質、どこかボブ・ディランを思わせるところもあり、時にシンプルでストレートなところもあり、こういうのがサザン・ロックなのかなと。独特のクセのある風貌も私は好きだった。 で、カリフォルニアでも人気のある人だったので、こちらのラジオではもうこのところずっとヘヴィーローテでトム・ペティの曲が掛かりまくりですよ。 ということで、私も大ファンだったトム・ペティの、懐かしい映像を貼り付けて、追悼することにいたしましょう。合掌。トム・ペティ『Free Fallin』トム・ペティ『Don't Come Around Here No More』トム・ペティ&スティーヴィー・ニクストム・ペティ&プリンス、その他
October 7, 2017
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夕方、ちょっと散歩に出たついでに、家の近くにあるバーンズ&ノーブルに寄って、果たしてカズオ・イシグロのノーベル賞効果がどのようなものか、見に行ったのですが・・・ ぜんっぜんだよ! まったく無視だよ! せっかくノーベル賞取ったんだから、少しは特別扱いして、入り口付近に平積みとか、そういうのがあるのかと思いきや、まったく何の扱いもないという。 平積みされているのは、ヒラリー・クリントンの回想記、『What Happened』と、彼女が書いた絵本『It Takes a Village』だけだったというね。 いやはや。道を歩いていたら、「君、日本人だろ! カズオ・イシグロの受賞、おめでとう!」みたいな感じで、道行くサンタモニカっ子からハイタッチの嵐かと思ったら、全然そんなことなかったよ(だろうね)。 ま、ノーベル賞を特別視するのは日本人だけってよく言われますけど、実際、そうなのかも知れません。カズオ・イシグロより強いヒラリーの本 ↓What Happened WHAT HAPPENED [ Hillary Rodham Clinton ]It Takes a Village: Picture Book IT TAKES A VILLAGE [ Hillary Rodham Clinton ]
October 6, 2017
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今朝はカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュースをネットで知りました。ひゃー、ボブ・ディランの受賞からもう1年経ったのか〜! と思うと、いささかビックリですけれども、イシグロ氏の『日の名残り』は大傑作だと私も思いますので、その意味では納得。 だけど、仮に彼を日本人作家と看做すならば、これで村上春樹さんのアレはますますアレになったのかな・・・。 さて、それはともかく、段々と帰国の日が近づいて参りました。こちらでもそろそろ帰国へ向けての準備を加速中。 で、今日はお昼に「ソーテル街」というところにある日本人タウン,その名も「リトル大阪」(もっとも大阪の要素は一つもないですが・・・)に行って、ラーメンを食べて来ました。 いやあ、アメリカの食事って、結局、パサパサしたものばっかりなので、帰国が近づくほどになると、ラーメン的なものが食べたくなるのよ・・・。 ところで、今やロスはラーメン・ブームでありまして、あっちこっちにラーメン屋があります。ソーテル街だけでも数軒はあるんじゃないかな。 で、今回、私が選んだのは、「大黒家」というお店。豚骨ラーメンのお店でございます。 小さなお店で、店内のしつらえが、昭和の日本の飲屋街的な、金鳥蚊取り線香の看板ありますよ的な、しつらえになっていて、しかも店内にかかっているのが「デビルマン」「ガッチャマン」「キューティーハニー」などのテーマソングだという変なお店ですけど、味は良かったです。日本で食べるラーメンと全然遜色ない感じ。 しかし、スープとともにすするラーメンのおいしいこと。日本の食べ物って、汁気が多くて、いいよね・・・。だけど、さすがにラーメンブームのロス、結構、白人のお客さんもいましたよ。 さて、ラーメンを堪能した後、すぐ近くにある「ニジヤ」という日本食スーパーに顔を出しまして。 いやあ、この「ニジヤ」さん、19年ほど前にロスに住んでいた時には、大分お世話になったところでありまして。まさに心の拠り所的な。ここなら、日本で売っているものは大抵売っていましたから。 だけど、最近のニジヤさんは総菜コーナーが半端ない。文字通りの総菜からお弁当までずらり。シャケ弁当とか、思わず買っちゃったもん、夕食用に。焼き鮭の切り身なんて、なかなか食べられませんからね、こっちでは。 で、ニジヤでのもう一つの楽しみは、店の外で無料で配っている日本語新聞・日本語雑誌。これが昔は貴重な情報源で。 19年前には、『ライトハウス』という新聞が結構、面白かったのですが、最近、一番充実しているのは『LALALA』という新聞かな。これ読むと、ロス在住の日本人コミュニティーの話題が大体分かるのですけど、今日もらってきたのによると、来る10月13日、トーランス(ロス近郊の日本人の多い地域)において、吉田栄作さんがライブコンサートを開催されるとのこと。100人限定、チャージは30ドルとのこと。えー、いいなあ! その日までこちらに居るのだったら、私も是非行きたかったのに・・・。栄作・吉田に間近で会えるんだよ! ジーパンに白いTシャツだよ! 絶対行ったのになあ。 あとね、『フロントライン』という日本語雑誌も、昔よく読んだものですが、今日、それをニジヤでもらって来てビックリ。 何故ビックリしたかと言いますと、この雑誌、後ろ半分は中国語雑誌になっていたから。ふうむ、このことから推測するに、ソーテルの日本人街にも、かの国の人たちが押し掛けているということですな。確かに、ニジヤの中でも見かけましたからね。 で、昔はなかったけど今、ソーテル街にあるものの一つが、「ビアード・パパ」ね。今や、ロスでもビアード・パパが買えるという。もちろん、今日のデザート用に買いましたよ。一個3ドル。税込み価格。 ということで、今日は帰国が近づき望郷の念に駆られたワタクシ、懐かしいソーテル日本人街を散策して、この辺りの変化を目の当たりにしてきたのでございます。
October 6, 2017
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ラスベガスの銃乱射事件、えらいことになっておりますが、それを言ったら先ほど、所属大学より私のところに生存確認が来まして。政府からお達しが出て、在米邦人に巻き込まれた者が居ないかどうか、確認せよということらしいのですが。 ううむ。ありがたいねえ。日本政府に守られている感じがするよ・・・。 ・・・ん? っていうか、アレだな。うちの大学の事務の皆さんは私がどういうキャラかよくご存知なので、釈迦楽先生の奴め、在外研究だとかいって、どうせラスベガスとかで遊んでいるに違いないと、そう読んだんだな! ご明察すぎて反論できない・・・。 ま、それはともかくですよ。 今日、私はアパートに籠って学会発表用の原稿を書いていたのですが、5時頃でしたかね、誰か、アパートのドアをドンドン、ベルをジリリンと鳴らす奴がいたと。 訪問客の予定もなし、そもそもここに尋ねてくる人なんかいやしないのだから、ちょっとドキドキ。 で、一体誰だと思って覗くと・・・ おいおい、銃を持ったいかつい警官が二人、立っているじゃないの! やばい。わし、なんかやらかしたんだ。逮捕されるんだ。刑務所に直行だ。おかま掘られるんだ。 で、いささか血の気が失せたのですが、ここでドアを開けないという選択肢はないし(電気点けていたので、中に居ることはバレているし)、とりあえず開けましたよ。すると・・・ 「911に通報したのは、君か?」と。 はあ? いやいや、何のことやら。で、違いますというと、続けて「このあたりで喧嘩はなかったか?」と。 あ! そういや、ちょっと前に、道路を隔てた隣のアパートで大声で痴話喧嘩っぽいのしている奴がいたわ。 で、その旨告げると、「チェックしてみよう。ご協力感謝」とか言って去って行ったのでした。 いやあ、それにしてもまさかこちらで警官に尋問を受けるとは。 大体、こっちの警官って、日本のおまわりとは大違いだからね。本気の奴らだから。銃抜く奴らだから。私も思わず「サー」づけで対応したからね。 まあ、良い経験にはなりましたけど、あんまり心臓によくないので、もう驚かすのやめて・・・。
October 3, 2017
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こちらアメリカでは、史上最悪と言われるラスベガス銃撃事件の報道で朝から持ち切りです。 昨夜、事件の一報が入った時には死者十数名とか言っていましたが、一夜明けたら58人になっていて、この他に銃撃を受けた人が500人以上いますので、あるいは死者の数もさらに増えるかも。10分間に亘ってマシンガンを撃ちまくったんですからね。 犯人とおぼしき人物は64歳のしがない老人だそうで。逮捕される前に自殺してますから、何でこのような凶行に走ったのか、その理由も分かりませんが。 映像を見ると、コンサート会場の群衆に向かって,遠くのホテルから無差別にマシンガンを撃ったようで、コンサートに詰めかけていた人たちも最初は何が起こっているのか分からなかったみたい。「パタパタパタ」っていう音が遠くでするだけですからね。だけど,その結果、弾に当たった人が倒れるにつれて人々が出口に殺到し、パニックになったみたい。 まあ、怖いですわな。 今回のアメリカ出張に関しても、同僚たちから「テロに気をつけて」と言われ、自分でもなるべく大勢の人が集まるような場所には行かないという方針ではいましたが、滞在中に実際にこういうことが起こると、まじで他人事じゃないという感じになってきますね。 最近アメリカでは、人が集まるような場所、たとえばテーマパークなんかですら、えげつないほどの持ち物検査が行われるようになっていますが、会場そのものではなく、近隣のホテルから銃撃するとなると、防ぎようがないですよね・・・。まさか客がホテルに入る度にX線で持ち物検査するわけにも行かないだろうし。 いや、そのうちにそうなるかもね・・・。 なんか、殺伐たる世の中になってきますね。
October 3, 2017
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エラ・ウィーラー・ウィルコックス (Ella Wheeler Wilcox, 1850-1919) という人の書いた『The Heart of the New Thought』(1902)という本を読了しましたので、覚え書きをつけておきましょう。 エラ・ウィーラー・ウィルコックスという人は、基本、詩人です。この人の詩の中で一番有名なのは「孤独」という詩で、中でも有名な一節がコレ: Laugh, and the world laugs with you; Weep, and you weep alone. For the sad old earth must borrow its mirty But has trouble enough of its own 訳すとすれば・・・ 笑いなさい、そうすればこの世界があなたと共に笑うでしょう; でももし泣くのなら、あなたは一人で泣くのです。 なぜなら年老いて悲しみにくれたこの星は、あなたの笑みに力を得るけれども 涙については、既に十分な持ち合わせがあるのですから ってな感じ? 要するに、人間、笑わなくちゃダメだってことですな。 さて、このウィルコックスさん、詩人であると同時に19世紀末のニューソートの唱道者でもありまして、そもそもね、ニューソート運動っていうのは、女性が結構重要な役割を果たした運動なのよ。ちなみにウィルコックスさんのニューソート系の本を出版したのは、Elizabeth Towne (1865-1960) という女性編集者で、彼女は『Nautilus』という19世紀末から20世紀半ばまで出版されていたニューソート雑誌の編集者として有名。ニューソートの考え方が女性にアピールした、ということについては、ちょっと考えてみないといけないかも知れません。UCLAの図書館で、そっち方面の資料も集めたしね。 まあとにかく、ウィルコックスさんはニューソート系の自己啓発本をあれこれ書いているのですが、その中の一つが今日ご紹介する『The Heart of the New Thought』という本。訳せば『ニューソートのキモ』ですかね。 で、これ読みますとね、もちろんニューソートの基本は押さえてありますが、普通の人生訓として、普通にふんふんと読めます。ほんと、普通のことを言っております。 例えば、「朝起きて、最初に考えることがその日一日を支配します」とかね。だから、朝起きたら、いきなり自分自身に向かって「私は今日この日からあらゆる慰めと楽しみを引き出します。そして世界の幸福に何か良いものを付け足します。自分自身を律して苛立ちや不幸なことに陥らないようにし、物事のいい面を見るようにします」と宣言しろと。そうしたら、その日一日、いいことが起こりますよと。 あるいは「体調が悪い悪いと嘆いてばかりいる人が多いけれど、そういう連中の大半は食べ過ぎです。一日二食にしなさい。肉体労働してない人は一日一食で十分。それに3、4クオートのミルクを飲めば御の字です」とか。 あるいは、「明日の幸福を望むのではなく、今、この時の中に幸福を見いだしなさい。幸福というのは、外から来るものではなく、内側からくるのですから(Hapiness must come from within in order to respond to that which comes from without, just as there must be a musica ear and temperament to enjoy music.)」とか。 あと、不平ばっかり言っている人の言葉というのは、精神的なマラリア(the mental malaria) だから、そんなのに耳を傾けてはいけません、とか。 それから、これはちょっと意外な感じがしたのですけど、ウィルコックスさんの人生訓の一つに「古着に執着するな」というのがある。この二、三年着ていないような服は必要ないのだから、さっさと恵まれない人にあげなさいと。「ひょっとして将来、これが必要になる時が来るかも知れない」と恐れることは、要するに将来の貧しさを期待するのと同じだから,お止しなさいと。ただ、古着を人にあげるときは、下手にすると相手を怒らせることにもなるので、注意しなさいと。 で、こういった、具体的なアドバイスも種々あるのですけど、もう少し骨太のアドバイスもあります。 このところ「ニューソート」が人口に膾炙するようになって、それは素晴らしいことなんだけれども、多くの人はこれを誤解しています。オカルトじゃあるまいし、ちょっと願ったくらいで簡単に望んだものが手に入るなんて思わないように。穀物の収穫のことを考えてみたって分かる通り、良いものというのは育つのに時間がかかるんだから、努力をし、その努力を継続しないといけません。 特に、手っ取り早くリッチになりたい、などと望むのは愚の骨頂。人間として生まれて一番重要なのは、「人格(キャラクター)の涵養」です。気高い人格さえ作れば、たとえ貧困のうちにあったとしても、それ自体が人生の「成功」なのです。 ・・・とまあ、こうなってくると、もう、ベンジャミン・フランクリン流の刻苦勉励哲学と変わらなくなってくるという。 ただ、やっぱりニューソートだなと思うのは、常に世界の明るい面、積極的な面を見よ、という心がけを唱導するところ。 その反面、ウィルコックス女史が徹底して批判するのが、オーソドックスなキリスト教徒ね。旧来のキリスト教徒に対するウィルコックス女史の罵詈雑言は、かなりなものでございます。 たとえばある時、ボストンの方を汽車に乗って旅行していたら、同じ車両に沢山の女の人たちが乗っていたと。で、若い女の子はもちろん、それなりに可愛いのだけど、これが中年女性になると顔に疲れが出ていて美しさのかけらもなくなり、さらに年長の女性になると化け物だと。 そしてウィルコックス女史曰く、「ここにいたほぼすべての女性たちは、オーソドックスなキリスト教徒でした」と。 つまり、旧来のキリスト教徒っていうのは、「我こそはキリストの弟子なり」みたいな口ぶりのくせに、お念仏を唱えるのは日曜日だけ、あとは「貧しくなければ天国に入れません」みたいなことばっかり言って,自らの貧しさを誇る一方、実際にはその貧しさに不平・不満を募らせ、暗いことばっかり考えている。そんな風だから、歳を取るごとにどんどん劣化していくんだと。 一方、ニューソートの信奉者は、これとは正反対。私たちは、日曜日だけでなく、日々の暮らしの中に神の恵みを見ているし、中年に差し掛かるに従って、知識ではなく知恵を身につけることを心がけ、老年になる頃にはその両方を兼ね備えることになるので、その顔はむしろ輝くばかり。悲しみが顔に深い皺をつけることがあったとしても、悲しみのすべてが不幸ではなく、またその悲しみから人間としての深みを得ているのだから、そういう深みが顔に出るのです・・・ みたいな感じ。もう、旧来のキリスト教徒は、ウィルコックスの筆によってボロクソ言われております。 でも、この感覚っていうのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ニューソートが出て来た時に、ニューソートの考え方に共鳴した人々が共通に抱いていた感覚なんでしょうな。 で、この本を読んでいて、「これがニューソート信奉者の自信なんだな」と思えたのは「Thought Force」という章に出てくるこの一節: Each one of us is a needed part of His great plan. Let each soul say:"He has need of me or I would not be. I am here to strengthen the plan. " 「世界中の人間の一人一人は、すべて神の偉大な計画の一部なのであって、神が私を必要としているからこそ、今、私は存在しているのだ。私は生きているのは、私の存在が神の計画を強めることに資するからだ」 うーむ! 凄いな、この一節は。 私が思うに、ニューソート思想のまさに「キモ」は、この一節にあるんじゃないかと。 でまた、私自身がニューソートに興味を持つ・・・否、ニューソートに惹かれるのも、まさにここね。 だってさ、「自分はどうして存在するのだろう」というのは、古今東西を通じ、最大の謎じゃん? この問いこそがすべての神学、すべての哲学の根っこにあると言ってもいい。 で、ここが揺らいだりすると、人間って自殺しちゃったりするわけよ。自分なんか,存在しなくたっていいんだと。 だけど、ニューソートは、そこのところを明確に宣言する。あなたの存在は、神の計画の一部だと。しかも神は間違いを犯さない。だから、自信をもって存在すればいい。 また神は自分の作品である人間が、塵芥、あるいは泥の中をうごめく虫けらのように暮らすのを喜ばれるはずがない。人間が豊さの中に暮らし、自分と世界を富ませてこそ、神は喜ばれるはずだと。 しかも神は慈愛深い親のように、我が子たる人間の成長を見守っているはずなので、ちょうど人間の赤ん坊がようやくつかまり立ちし,危なげな一歩を踏み出すのを、その親が欣喜して見守るように、あなたのほんの少しの成長ですら、喜んでくれるはずだと。だから、人格を陶冶し、少しでも成長し、神の計画に従ってこの世を明るくしなさいと。 こういう考え方こそが、結局のところ、ニューソートのアルファでありオメガだよね。 それにしても「神は私を必要としている、さもなくば私が存在しているはずがない」という宣言・・・いいよなあ・・・。なんかこう、力が湧いてこない? なんかこう、何か大きなものに見守られて、背中を押されるような気がするじゃん? 行け、と。 ということで、今から115年前に出版されたこの本に、大いに啓発されてしまったワタクシなのであります。 The Heart of the New Thought【電子書籍】[ Ella Wheeler Wilcox ]
October 2, 2017
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今回、3週間弱のロス滞在のために、当然、レンタカーをしているのですが、今回私が借りたのは「プリウスC」。日本で言う「アクア」でございます。 当然、こちらのレンタカーの分類上は「コンパクト」のカテゴリーで、料金も一番安いのですが、それでもヴィッツを借りるのと比べると、ハイブリッドの分だけアクアの方が高い。 だ・け・ど。 まあ、アクアってのは燃費がいいんですな。ガソリンが全然減らない。もうこちらに来て10日くらい経つのに、目盛り2つ分くらいしか減ってない。まだ後300マイルくらいは走れそうです。そう考えると、少しくらい料金が高くても、ヴィッツを借りるよりアクアを借りた方が得だったかも。 でね、操縦性も案外、悪くないのよ。モーターのアシストがあるので、出足なんかも結構パワフルだし。 こういうの運転しちゃうと、もうクルマなんてアクアで十分だな、という気がしてきますな。まあ、これで内外装のデザインがもう少し洒脱であってくれると、私でさえ食指が動くのですが。仮に内外装のデザインが初代フィアット・パンダで、動力系だけがアクアだったら、マジで買いますよ。 ところでこちらのクルマ事情ですけれども、まあ、ロスの中でも裕福な層が多いサンタモニカともなりますと、結構、いいクルマが走っております。ベンツよりもBMWの方が圧倒的に多いところがアメリカ気質かもしれませんが、マセラティもポルシェも多い。20年前はぼろぼろのシビックとかがよく走っているのを見かけましたが、最近はそういう古いおんぼろクルマを見かけることが少なくなりました。 あと、割と顕著なのがスバル車の人気が高まっているということ。20年前はほとんど見かけなかったスバルですが、最近は多いよ。XVなんか特に。 日本車だと、やっぱりカムリとアコードが多いかな。シビックも見るけど、この3車種、日本では逆にほとんど見かけないので、ある意味、新鮮。 意外に見ないのが、フォルクスワーゲンのゴルフね。むしろ4ドアのジェッタの方が多いくらい。 あと、日本では見ないけどこちらでよく見るのがキアとヒュンダイ。特にキアはデザインもよくて、日本でなぜ売れないのかなと。 というわけで、クルマ好きとしては、興味が尽きないアメリカはロスのクルマ事情なのでした、とさ。
October 2, 2017
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昨日は、UCLAでの調査を終えた後、夕方からロングビーチに出向き、長年の友人宅を訪れて久闊を叙してきました。 4年ぶりの再会で話は尽きなかったのですが、その中で一つ、ロスの交通事情の話題がありまして。 で、私たちが「この前、メトロに初めて乗ってダウンタウンまで行っちまったぜ」と自慢すると、「おお、エキスポラインは新しいからいいよな!」と。それに比べ、彼らが住むロングビーチとロスを結ぶブルーラインは、歴史が古いこともあって、かなりヤバいものなのだそうで。 というのも、ブルーラインに乗ると、車内アナウンスで「車内でのセクシャル・ハラスメントはお止めください」とか、「財布やスマホはすぐに隠してください」というのが流れるんですと。そういう注意が流れるということは、そういうことが実際に行われているということですからね・・・。 あと、ロスでは3年くらい前から「Uber」というシステムが導入されていて、これを使う人が多いのだとか。 Uberってご存知? 私は寡聞にして知らなかったのですが。 これ、要するに「白タク」ですな。 Uberのアプリをスマホに入れ、今自分が居る場所と、行きたい目的地を書き込むと、「よし、それ引き受けた」という白タクがやってくるという仕組みらしい。このシステムを上手に使うと、正規のタクシーを使う正規の運賃の3分の1以下で目的地まで行けちゃったりするんですと。 で、Uber の他にも、同じような仕組みのものというのは各地にあって、今はそういうものが公共交通機関の一つとして認識されているのだとか。 日本だと白タクは違法ですから、今のところそういうのが出てくる芽はないですけど、タクシー会社にある配車システムをスマホ・アプリにするというこのアイディア、なるほど、頭がいいものですなあ。 しかし、白タクは白タクですから、Uber で運転手との間にトラブルが生じた場合、面倒くさいことになりそうですし、乗っていて事故でも起こされた場合、保障はどうなるのか、あやふやな部分もある。公共交通機関といっても、「自己責任の」というのが頭にくっつくようなシロモノなのでしょう。まあ、私は君子だから、危うきには近づかないかな。 まあでも、海外に出ると、その地の事情が分かって面白いものです。
October 1, 2017
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