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昨夜レイトショーで『ワンダーウーマン』を観て来ました。以下、ネタバレ注意ということでひとつ。 あのね、この映画、どうせアメコミ系の子供だましだと思っているでしょ。 でも、実際観ると面白いよ! 観る前のハードルが低かったこともあって、「このくらいの面白さだろう」という事前の予想をほぼ倍、上回るね。 じゃあ、この映画、どんなストーリーかと言いますと、さる秘境の島に女性だけのアマゾン族が住んでおりまして。最高神ゼウスの落胤の一族とも言われ、その存在意義は、ゼウスの弟で戦の神アレスが復活してまたぞろ悪だくみを始め、人間を争いの渦に巻き込んだ際に、そのアレスを殺し平和を回復する役割を担うところにあった。 ま、そうは言ってもそんな日は来ないだろうと、一応、戦いの準備は怠りなくしつつも、平和な暮らしをしておったわけですな、アマゾンの皆さんは。 ところが。 ある日突然、秘境のバリアをくぐって一機の飛行機が島の近くに墜落。さらにこの飛行機を追ってきたのか、人間の兵隊たちが船に乗ってやってくるんです。 実はこの時、人間界では第二次大戦の終盤、ナチスドイツとイギリスをはじめとする連合国は休戦条約を結ぶか否かで激論中。しかしドイツはナチスお抱えの女性科学者にして毒薬製造の天才、マル博士が作った毒ガス弾を完成しつつあり、これが完成すれば休戦条約なんて問題外、再びナチスドイツによる欧州支配が決定的になるという状況。 で、これを止めるべく、連合国側のスパイ・スティーヴがマル博士の研究ノートを奪い、イギリス政府にこのノートを手渡そうと活動をしていたと。で、ノートを奪うことには成功するのですが、ナチスに追われてアマゾンに島に来てしまったわけ。 で、追っ手のドイツ軍を皆殺しにしてスティーヴを救ったアマゾン一族ですが、スティーヴから事情を聴いたアマゾン族の若きプリンセス・ダイアナは、これはもう戦の神アレンが復活して、人間界を荒らしまわっているに違いないと判断、女王(=母)の制止を振り切ってスティーヴと共に人間界へ行き、アレスを抹殺して、戦争を止めることに。 さて、ダイアナはスティーヴと協力して第二次世界大戦の惨禍に終止符を打つことが出来るのでしょうか?! みたいな話。 ま、ここまで筋書きを語ると、平凡っちゃ平凡な筋書きなんですが、女しか見たことがないアマゾン族のお姫様(とはいえ、男について学問的には知っている)が、生まれて初めて自分の世界を出て人間界に来て、カルチャーショックを受けながらも戦争を止める大仕事を遂行していく、その過程がとてもチャーミングなわけ。ダイアナ役の女優さん、ガル・ガドットがね、この役どころを見事に演じております。 で映画の終盤、ダイアナが「こいつが諸悪の根源、戦の神アレス」と見定めた奴を殺し、そのことで戦争は終わるだろうとホッとしたのもつかの間、実際には戦争が一向に終わりそうもないという現実に直面した時の、「え? なんで?」という表情、驚きと落胆と不安と頼りなさと、そういうものがないまぜになった何とも言えない表情をするのが、何とも言えずステキ。 「悪」というのはただ一人の怪物がもたらすものではなく、ごく平凡な人間誰しもの心に巣食うものであり、簡単に抑え込むことなんかできないんだということ、しかしそれと同時に、その同じ愚かな人間の心の中に愛があり正義があって、本当に悪と戦うためには、この愛と正義に賭けるしかないんだということ、この二つを知ってワンダーウーマンが成長していくのが素晴らしいし、またこの二つのことを学ぶために、非常に大きな喪失を味わわなくてはならなかったというところが何とも悲しいんだなあ。 というわけで、この映画、「案外」面白いです。一見の価値はありますね。まだ封切られたばかりですし、教授のおすすめ!と言っておきましょう。
August 31, 2017
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今日は教育実習の事前挨拶ということで、春日井市にある某小学校に出張に行ってきました。 そしたらその小学校で思わぬ再会がありまして。 数年前・・・いや、もう7、8年前かしら、当時現職の中学校の英語の先生であったK先生が大学院生としてうちの大学に勉強に来たことがありまして、そのK先生が私の授業をとられたと。 で、現職の先生ということを意識し、K先生には「一年間かけて、『これが自分の英語指導法だ』というものを作り、それを本の形に残しましょう」と提案、実際にK先生の本を作ったんですな。 まあ、本を作るということにかけてはマニアックな私、印刷所やなんかとのコネもあるし、大学の予算をうまく使って、安く、しかし見栄えのいい本が出来たわけ。もちろん、内容に関してはK先生の英語教育に対する考えがつまったものですから、トータルで納得のいく英語教習本が出来たんです。もちろん、K先生も大喜びで。 で、そのK先生が、今日、たまたま私が伺った小学校に赴任していらしたんですわ。 で、K先生、小学校の事務室の日程表に、今日、私が訪問することが記入してあったのを見て、わざわざその時間に玄関前に出て待っていて下さったんです。 で、久方の再会に色々なことが思い出されて。K先生と私はほぼ同年代であることもあり、授業後、帰宅の途につくためにもうすっかり暗くなったキャンパスを二人並んで歩きながら、よもやま話をしたこととかね。 で、久闊を叙しながらK先生曰く、「あの時、自分の英語教育を見つめ直しながら本を作ったことが、以後の自分にとって教師としてのの原点になっています」と。 そう言ってもらえるとね! 私なんざ、ただ先生のご研究の少しだけお手伝いをさせていただいただけですけど、そんな風に言ってもらえると、もう、嬉しくて。 というわけで、今日の出張は、思いもかけず、素晴らしく楽しいものとなったのでした。 そう、それであんまり気分が良かったので、帰りにちょっとブックオフに寄っちゃった。ま、気分が悪くても、出張先でブックオフを探して立寄るのは私のクセでもあるのですが。 で、今日の私の「ブ」での収穫はと言いますと、○林望『幻の旅』(文春文庫)○斎藤美奈子『妊娠小説』(ちくま文庫)○大竹伸朗『カスバの男 モロッコ旅日記』(集英社文庫) の3冊、すべて税込108円でございます。 林望先生の本は、詩的な文章と林先生ご自身が筆を執られたスケッチによる画文集。ま、私は林先生のファンですのでね。 斎藤さんの『妊娠小説』は、以前、ハードカバーで持っていたのですが、学生に貸したら返してもらえず、行方不明になってしまいまして。それで、108円の文庫版なら買い直してもいいかなと。 最後、大竹伸朗さんの本は、まあ、今回の古本ハンティング一番の収穫、かな。破天荒アーティストの大竹さんがモロッコを旅してまわったというのだったら、面白くない訳がないだろうと。 かくして、出張もいい気分、古本探しもいい気分で、無事、帰路についた今日のワタクシだったのであります。【中古】 幻の旅 文春文庫/林望(著者) 【中古】afb【中古】 妊娠小説 ちくま文庫/斎藤美奈子【著】 【中古】afb【中古】 カスバの男 モロッコ旅日記 集英社文庫/大竹伸朗(著者) 【中古】afb
August 30, 2017
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「ススルTV」って、御存知? 私もつい最近まで知らなかったんですが、夏休みに帰省した際、渋谷で働くラーメン好きの甥っ子から教えられ、つい、毎日のように見てしまうという。 ま、こういうのを「ユーチューバ―」っていうのでしょうか、とある若者がラーメンを食べるのを実況しながら、お店を紹介するネット上の動画なんですが、これがね、案外、見ちゃうのよ。 で、何がいいって、ススル君の食べっぷりが豪快なのにキレイというね。上手に食べるのよ、ラーメンを。だもので、つい見とれてしまうわけ。そしてうっかり夜中に見てしまうと、「ラーメン、食いてーーー!」となってしまう、まさに夜食ゲリラ的な。これこれ! ↓SUSURU TV 私は、それほどラーメン通というもんでもなく、さらに一人で食べ物屋に入れないという気の弱さから、むしろ普通の人よりラーメン屋で食べた経験が少ない方だと思いますが、最近、これを見続けているもので、ラーメンへの欲望が高まってしまい、今日の昼は同僚とラーメン食べちゃった。「炙りチャーシューのとんこつ担々つけ麺」という、ご飯も付いているヤーツー。炭水化物の二乗だよ。 しかし、ラーメンってのは奥が深いね。ラーメンだから「ススルTV」も成立するのであって、これが「日本蕎麦ススルTV」だったら、何年も続かないよ。「うどんススルTV」でも続かないと思う。単独の食べ物で永遠にすすっていられるのは、多分、ラーメンだけじゃない? 地方毎、店毎に特色があるし、その特色も無限にあるからね。 というわけで、今宵もまた、うっかり見ちゃうんだろうな・・・。
August 29, 2017
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昨日、ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』に引用されているエマソンの言葉は、実はインチキだ、という話をしましたが、エマソンの引用に関しては、最近、もう一つ面白い例をゲットしまして。 ほら、つい先日、テレビで『アメージング・スパイダーマン2』を放送していたでしょ? ご覧になりました? 私、ちょうど実家から名古屋に戻る途中でして、高速道路上でこれをチラ見していたわけ。・・・いや、もちろん、片目で見ていたので、もう一方の目はちゃんと道路に貼りついておりましたよ! そしたら、高校卒業を迎えた主人公のピーター・パーカーとメイおばさんの間で次のような会話がありまして:メイおばさん:あなたのおじさんのベンだったら、きっとこう言うわね。ピーター:うん、僕にも想像できるよ。「急げ、パーティーは終わったんだ。さっさと仕事を見つけろ」でしょ。メイおばさん:そうそう。それから、それに続けてきっと「既に他人の通った道を行くな、我が道をゆけ、そしてそこに道を残せ」って言うわ。ピーター:ラルフ・ウォルドー・エマソンだね。メイおばさん:あら、違うわよ。ピーター:違うってどういう意味?メイおばさん:ベンは私に、「これは俺が作った名言だ」って言ってたもの。 ちなみに「既に他人の通った道を行くな」のくだり、映画では「Don't just follow tha path, make your own trail.」となっております。 で、この文章は、では、本当にエマソンの格言なのかと言いますと、これがちょっと難しい。 というのは、エマソンの言葉でこれに近いものを探すと「Do not go where the path may lead, go instead where there is no path and leave a trail.」があって、ベンおじさんの名セリフと同意だけど、より文学的な表現になっているんですな。 つまり、ベンおじさんはエマソンの格言をちょっと変えて、自分なりに生きる指針にしていたのでしょう。そしてそれをさんざん聞かされていたメイおばさんは、それがベン自身の言葉なのかと思い込んでいたと。 つまり、エマソンの格言ってのは、かくのごとく、引用者が自在に変えることができるわけですな。 しかし! 話はここで終らないんだなあ・・・。 実は、「Do not go where the path may lead, go instead where there is no path and leave a trail.」という、エマソンの格言と思われている言葉自体、どうもエマソンのものではないらしいんです。 じゃあ、誰の言葉かというと、詩人の Muriel Strode と言う人が1903年に発表した「Wind-Wafled Wild Flowers」という詩の中に出てくる言葉だっていうね。ちなみにストロードの詩では、「I will not follow where the path may lead, but I will go where there is no path, and I will leave a trail.」となっているので、ここでも若干、変えられているのですが。 つまり、エマソンじゃない女性詩人の詩の一節が、今ではエマソンの格言とされ、さらにそれがピーター・パーカーのおじさんのベンによって「Don't just follow the path, make your own train.」に変えられていると。 ちなみに、ミュリエル・ストロードの言葉をエマソンの格言だとした張本人は、『Middle School Journal』という学術誌。この雑誌が1992年の1月に出た号で、そういうことを言ってしまったらしいんですな。だから、1992年以降、この言葉はストロードではなくエマソンの言葉だと誤解され続けているので、2014年公開の『アメージング・スパイダーマン2』の中で、ピーターが「ラルフ・ウォルドー・エマソンね」と言うのも無理はないわけ。 すごいよね、「ストロード」→「エマソン」→「ベンおじさん」と、言葉の持ち主がどんどん変わり、その都度、少しずつ文言も変えられていくという。 まあ、これがエマソンと自己啓発言説のありがちな関係なわけよ。実はこういう話を、この秋、学会で発表するつもりなんですけどね。 というわけで、一つのことを考えていると、高速を運転中にチラ見する映画の中からもヒントが出てくるという。 さて、これを「引き寄せ」と言わずして何と言おう?
August 28, 2017
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東京の実家から戻ってきたら、何だか疲れちゃって、昨日・今日とブラブラ過しております。 しかし、あんまりブラブラすごしてばかりいるわけにもいかないので、何か軽い仕事はないかと思い、21世紀初頭の「引き寄せの法則ブーム」リバイバルのきっかけともなったロンダ・バーンの『ザ・シークレット』のDVD版(=テレビ版)でも観るかと。これなら、受動的に観ていればいいわけだから。というわけで、その90分ほどのDVDを観ましたので、心覚えをつけておきましょう。 ま、もちろん本バージョンの『ザ・シークレット』をテレビ番組化しただけ(もっとも、こちらの方が本以上に影響力があったとも言えるのですが)なので、内容的に変ったところはないのですが、そこはそれ、映像化とあればCGなども活用できるので、それなりに凝ったつくりになっております。 例えば冒頭の映像など、本書が推奨する「引き寄せの法則」が、あたかも古代エジプトあたりで発見され、それがなぜか隠ぺいされ、探し求められ、一部の人間、すなわち過去の歴史の中で偉業を成し遂げた人たちの間だけで受け継がれてきた的な、つまり「聖杯伝説」的な装いをまとわされて紹介されているところなど、面白いことは面白いけれども、ちょっと演出過多なところもちらほら。 で、本バージョンの方でも登場している様々な自己啓発ライターたちが、実際に出演し、カメラの前で「引き寄せの法則」が真実であり、どんなことであれ前向きに強く望みさえすれば、それは実現し、幸福になれるというようなことを口々に語ると。 ま、こういうことは自己啓発本を山のように読んでいれば、もう聞き飽きるほど聞かされることではあるのですけれども、様々な著名自己啓発ライター本人が語るという趣向ですと、「お、ボブ・プロクターっていうのはこういう顔をしているのか」とか、「ジョー・ヴィターリって、インチキ牧師みたいな顔してるんだねえ」とか、「ジャック・キャンフィールドって、食料品店のオーナーみたいな感じだなあ」とか、「ロンダ・バーンがおでこにつけてるアクセサリー、アレは一体何?」みたいな、そういう楽しみがありますから、そこそこ楽しめるというね。 それから、映像の合間合間に過去の偉人たちの自己啓発的格言みたいなのが「プロジェクトX!」みたいなヒソヒソ声で挟まるのですけど、その中に、当然のごとくラルフ・ウォルドー・エマソンの格言も入るわけ。で、エマソンのどんな言葉が引用されているかというと、 The secret is the answer to all that has been, all that is, and all that will ever be. という奴。訳せば、「シークレットは、現在・過去・未来に起るすべての問題への答えだ」みたいな感じですかね。 ただ、残念なことに、エマソンはこんなことを言っておりません(爆!)。これはロンダ・バーンが勝手に作ったインチキ引用なのね(本バージョンの方にもあるけど:原書183ページ、訳書294ページ)。 その他、本バージョンの方ではもう一箇所エマソンの引用があって、それは The good news is that the moment you decide that what you know is more important than what you have been taught to believe, you will have shifted gears in your quest for abundance. Success comes from within, not from without. (大変良いニュースは、自分の知っている知識の方が、これまで教えられ、信じてきたことよりずっと重要だとわかった瞬間に、あなたは豊かさへの探求へとギアを変えたことになる、と言うことだ。成功は外からではなく、内側からやってくるのだ。訳173ページ) というものなんだけど、これも噓くさい。そもそもエマソンが「幸せの方へギアをシフトする」みたいな言い方をするかね。「ギア」だの「シフト」だのっていうのは、自動車が普及した後の表現なんじゃないの? だけど、ロンダ・バーンが勝手に作ったこれらのインチキ引用が、今ではれっきとしたエマソンの格言として、ネット上に拡散しているからねえ。いやあ、エマソンっていうのは、こうやって、現代に広まっていくんですな。 というわけで、自己啓発思想史におけるエマソン、というテーマから言うとなかなか興味深いものがありますが、それはそれとして、とにかく、「これが21世紀初頭の引き寄せブームの火付け役か!」というものを実際に観ることができて、色々納得のワタクシなのであります。ザ・シークレット 日本語版DVD [ ロンダ・バーン ]
August 27, 2017
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昨日、深夜に名古屋に戻って参りました~。深夜12時を越して高速を降りると、2000円くらい割引になるので、そこを狙って12時1分にゲートをくぐるというね。 しかし昨日の東名は夜遅くにも拘らず結構混んでいて、結構気を使いました。だって、夏休み中のせいか、高速を走り慣れていないクルマが多いもので、他人の運転が怖くて怖くて。 例えば、私が本線をのんびり走っている時に追い越し車線をブッ飛ばして来るクルマがいて、ひゃー、すごいのが来たなあと思っていると、私の前を走っているクルマがふわ~っと追い越し車線に出たりするのよ。で、ブッ飛ばして来たクルマが急ブレーキをかけて危うく衝突を免れるなんてことが何度も何度もあるわけ。こっちがヒヤヒヤするわ。 あれさあ、なんでああいうことするかね。だって、リアヴュー見てたら、速いクルマが接近してくるの分かるだろうに。何でそのタイミングで追い越し車線に出るのかなあ。その速いクルマをやり過ごせば、その後、全然クルマが来なくて、安全に追い越し車線に出られるのに。リアヴュー、見てないのかな? もちろん、追い越し車線をブッ飛ばして来るクルマもどうかと思いますが、わざわざそういうクルマに急ブレーキ踏ませるようなタイミングで自ら追い越し車線に出るクルマの気が知れないわ。で、その後、その速いクルマにオラオラ状態で嫌がらせされ、仕方なく、おっかなびっくりスピードを上げて前に出ざるを得ない羽目になったりして。君子危うきに近寄らず、なんじゃないの? まあ、人のことはどうでもいいか。いや、どうでもよくない。そんなんで衝突でもされて、こちらまで巻き込まれたらたまらないよ・・・。 とまあ、そんな感じでいささか気疲れしながら名古屋の自宅に戻ったら、いいニュースが一つ私を待っておりました。私も寄稿している本が増刷になったそうで、印税が入るとの知らせが。ま、大勢で書いているので、印税と言っても微々たるものですが、不労所得が入るのは大歓迎。 それにしてもこの本、忘れた頃に増刷が掛かるんですけど、結構売れているんですかね。教科書として使っている大学とかもあるのかな。アメリカ文化史入門 植民地時代から現代まで [ 亀井俊介 ] お堅い本がなかなか売れない昨今、じわじわと売れている本書、さすがは亀井俊介先生の編集だけのことはありますな。
August 26, 2017
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昨日、タヌキを見ました。 箱根ドライブから戻って夜の8時半頃に家に着いたのですが、車を駐車場に入れようとしたとき、何か夜陰に動くものをヘッドライトが照らし出しまして。 大きさからいうと猫。だけど、なんかちょっと変。ん? 何だこりゃ? で、じっと凝視する私に気づいたのか、向こうも振り返ってこちらを見たと。 あら、タヌキ・・・。 顔を見たら一目瞭然、タヌキさんでした。大きさから言って、子供のタヌキですかね。 いやあ、でも住宅地の真ん中ですよ。タヌキって、こんなところに出没するんだっけ? で、母に聞いたら、出るんですって、この辺。近所の人もたまに見かけるのだそうで。 ふうむ。そうなんだ。たしかに、ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』ってこの辺の、多摩ニュータウンの話ですけどね。 で、そのタヌキ君、「別に」って感じの何食わぬ顔をして、そのまま生け垣を超えて我が家のお隣さんの家の庭に入っていきました。 さて、2週間に及ぶ実家での夏休みも今日でおしまい。夕食をご馳走になってから名古屋に戻ります。予定していた量の仕事はこなせなかったけど、少しずつ事務的なことは進んでいるので、とりあえずよしとしましょうか。 それでは明日からはまた名古屋からのお気楽日記、乞うご期待です。
August 25, 2017
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今日は母を連れてドライブに出かけてきました。 父が生きていた頃は、夏休みの終わりによく3人で箱根までドライブしたものですが、昨年は父の足の具合が悪く、行かなかったんですな。ということで、2年ぶりの夏の終わりの箱根ドライブ。 しかし、いつもと同じように御殿場から行くのも芸がないかと思い、今日は海老名ジャンクションで東名を降り、西湘バイバスを通るコースを選択。山だけでなく海の景色も楽しもうという寸法です。 で、所々で多少の渋滞には出くわしたものの、それなりにスムーズに西湘バイパスを小田原方面へ向かい、そしてそのまま直進して真鶴へ。 で、真鶴の海を見ながらのドライブとなったのですが、もうね、この辺、山が海の間近まで迫って来ていて、なんかすごく荒々しい。で、海辺で遊んでいる子供たちなんて、絵に描いたように真っ黒に日焼けしていて、まるで昭和の田舎の子って感じ。真鶴なんて、東京からそんなに離れているわけではないのに、野性味溢れた場所ですな・・・。 で、そんな野生の真鶴にて、今日、我々が昼に食べたものは何かと申しますと・・・真鶴名物の「まご茶漬け」でございます。 「まご茶漬け」ってご存知? 諸説あるものの、「子アジ」より小さな「孫アジ」の刺身を漬けにし、これをご飯に乗っけて熱いお茶をぶっかけてお茶漬けにするというもの。これがね、旨いんですわ。で、今日は魚伝という店で食べたのですが、最近めっきり小食になってしまった母も見事完食。美味しかったです。 で、そこから湯河原パークウェイを箱根方面に走り、さらに芦ノ湖スカイラインを経て仙石原へ。我らの目的地はそこにある「湿生花園」ね。もうこのブログではおなじみですが。 で、今日は父の葉書大の遺影を持って行ったので、よく家族で訪れたこの野趣溢れる野の花の園を、父の遺影と一緒にひとめぐり散策して参りました。恥ずかしげもなくこういうことをしてしまうところが、ワタクシのロマンチストたる所以なのでございます。 でもね、そうすると遺影の父が心なしか機嫌よさそうに見えるのよ、マジで。そりゃ、小さな写真立てに収まって部屋の片隅にずっと置かれているのじゃ、つまらんもんね。たまには広い世界を見に行かなくちゃ。 さて、1時間半ほどかけてのんびり園内を散策し終わったところで、なんだかコーヒーが飲みたくなりまして。で、元箱根に「ラ・テラッツァ」という、エッセイストの玉村豊男さんがプロデュースしているピッツェリアがあるので、そこでコーヒーくらい飲ませてもらえるだろうとそちらへ向かったわけ。 そしたら、ちょうどカフェタイムが終わったところで、ディナータイムまでしばらくクローズ中。そこでレストランの隣にある玉村豊男さんのミュージアムで時間をつぶすことに。 で、玉村さんの絵(それなりの値段がついている)を眺めたり、玉村さんの文庫本などを買ったりしながらしばし時間を過ごした後、5時の再オープンを待ち、オープンと同時に店に入ったのですが・・・ 「コーヒーだけ飲みたいんだけど、大丈夫?」と店員さんに尋ねると、少々困惑したような顔で上の人に相談に行き、戻って来て「店内は無理ですが、外のカウンター席なら・・・」とのこと。 今日は箱根も蒸し暑く、この時間でもまだまだ暑い。なのに、外の席か・・・。別に店内満席というわけでもないのに、ちょっとサービス悪くないか・・・? 私はまあ、それでもいいかと思ったのですが、母がお冠のご様子だったので、結局、コーヒーは飲まずに済ますことに。母曰く、一流の店ならコーヒーとケーキの客だってそんな扱いはしない!とのこと。 ま、映画『ティファニーで朝食を』で、かの名店ティファニーは、おもちゃの指輪に名入れをすることも嫌な顔一つせず引き受けますからね。そういうもんでしょ、玉村さん。 というわけで、そこはちょいとアレでしたけれども、今日は海を見て海の幸を味わったし、山を見て山の空気をたっぷり吸ったし、母も、そして父も、楽しんでくれたのではないでしょうかね。
August 24, 2017
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先日買った中古LPレコードをあれこれ聴いている中で、ジョン・デンバーのベスト盤を、割とヘビーローテで聴いております。男声の高音というのは、やっぱり、いいもんですな。【中古】 BEST SELECTION /ジョン・デンヴァー 【中古】afb まあ、ギター一本のカントリーなんかに聴き惚れているようじゃ、ワタクシも焼きが回ったのかなと思わないこともないのですが・・・。 さて、数日前から毎日少しずつ母の句集を編む準備として、これまでに母が作った無数の俳句の内、主宰や同人から採られた句を中心に選別を行っていて、ようやく一通り、第一次選句を終えることが出来ました。 それでも、まだ320句くらいあるからね。この中からさらに選んで88句か100句くらいに絞ろうかと。 ま、それはともかく、一応、私も母の四半世紀に及ぶ句歴を一通り辿ったのですが、その中で、私が「これは」と思った句が幾つかあって、その一つを挙げると:朝市やまだ海色の春鰯 というもの。どう、これ? 割と良くない? 採れたばかりの鰯の体に、まだ海の色が残っていたというね。 私には詩心というものが一切ないので、こういうの作れと言われてもとても出来ない。そういう意味では、感心するばかりでございます。 さて、父関係のことも少しずつ片付き(といっても、まだまだやることは山積みですが・・・)、実家で過ごす夏休みもそろそろ終わりに近づいております。明日は、母を連れて箱根でもドライブに行こうかなと。で、明後日には名古屋に戻るとしましょうか。
August 23, 2017
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自宅の庭でバーベQパーティーをやってからはや10日、バーベキュー・コンロなどを庭に出しっぱなしにしていたのですが、そろそろ片付けなくちゃと思い、午前中、これの片付けに追われていました。炭にまみれ、油ギトギトになったコンロや網や鉄板を洗う作業って、結構、キツいんですよね! で、これらすべてきれいに洗い、お日様の下で乾かして、とりあえず片付け終了〜! ここで一句。ベーべQセット、仕舞ひて今年(こぞ)の夏終わる。 さて、ボブ・プロクターという人の書いた『イメージは物質化する』(原題:Image Materializes,1984)を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 この本はどんな本なのかな〜と思いながらページを開きますと、冒頭にブッシュ大統領の元・得別補佐官だったダグ・ウィードという人が推薦の言葉がくる。一部引用しますと: ボブ・プロクターは、大富豪にして慈善家であったアンドリュー・カーネギーに直接連なる現代成功哲学の雄です。カーネギーの成功の秘訣は、ナポレオン・ヒルによって一冊の本『思考は現実化する』にまとめられ、その影響を受けた数多くの成功哲学書が書店の棚を占めるに至ります。 成功哲学の神髄は、ナポレオン・ヒルからアール・ナイチンゲールに受け継がれ、そしてそのバトンは、ナイチンゲールからボブ・プロクターの手に委ねられました。(2−3頁) なんだ、いきなり成功哲学の系譜の中にプロクターを位置づけてくれちゃってるよ・・・。 で、実際、そうなんですけど、私の見るところ、ボブ・プロクターはそれと同等にウォレス・D・ワトルズの影響が大きいね。ワトルズからの引用も多いし、考え方自体が基本的にワトルズ流の引き寄せ系だもの。 じゃあ、本書でどういうことが主張されるかというと、①お金は人生に不可欠。お金を欲しがることへの抵抗を捨てよ。②曖昧な願いはダメ。何が欲しいのか明確にせよ。③すべてはイメージから始まる。願いをイメージせよ。④宇宙は思考する物質(=スピリット)で埋め尽くされている。潜在意識を活用し、スピリットを味方につけよ。⑤期待すれば願望は実現する。⑥宇宙にあるものはすべて振動。自分の願いを波動に乗せて発信せよ。⑦リスクを背負え。⑧成功・不成功は紙一重。紙一重分努力をプラスすることを心がけよ。⑨プラス思考で行け。⑩何かを得るには、その前に何かを捨てよ。 ま、ざっとこんな感じ。 で、こういう風に改めて俯瞰してみると、①から⑥までと、⑦から⑩までで、主張の質が変わっていることが分かります。すなわち、前半はワトルズ流の引き寄せ系、後半はむしろ現実路線の努力系と。なるほど、引き寄せ系と努力系、その混在ぶりをもって、ダグ・ウィード氏はプロクターを「ヒル=ナイチンゲールの後継者」と位置づけたのかもね。 だけど、そうなってくると、結局、良いものであれ、悪いものであれ、過去の自己啓発本の言説の単なる繰り返しに過ぎないじゃん、という意地悪な見方もできるという。 例えば、科学的なるものへの態度なんか、自己啓発本の典型的な例ですよ。具体的に言いますと、一方で、科学サイドからの批判をおそれ、前もって言い訳しながら(「本書で紹介しているアイデアは、科学的なデータを示して述べることもできますが、わたしはあえてそれをしませんでした。科学的なデータをあげると、読者が左脳で本書を読むことになるのを恐れたからです。それでは実践で役に立ちません」(13頁))、他方では、科学者も我々の主張を裏付けることを発言している!として、素人には良く分からない科学者の言葉を引いてくる(「一九七六年二月、ベルナー・フォン・ブラウン博士はインタビューの中で次のように答えています。云々」(157頁))という。 あと、「イメージしたものが現実化する」という話の例として、エジソンとライト兄弟を出してくるところとか。「ライト兄弟が空を飛ぶイメージを抱き続けたからこそ、今、我々は飛行機の恩恵にあずかっているのです!」的な。 あと、「お金というものは、貯金したり投資したりすれば勝手に増殖する、つまりお金がお金を生むのだ!」という財テク神話ね。まあ、一時期の日本も結構、銀行の利率が良かった時代がありましたけど、アメリカって、今もそうなんですかね? 今の日本じゃ、利率が低すぎて、そんなことあり得ないのにね。 あとすべては波動だ、という例で、放送局とラジオのたとえを出すところ(172頁)とか。今の日本人の若者で、ラジオ聴く奴いないからなあ。今だったら、スマホの例とか出さないといかんのじゃないの? ちなみに、「あ、これは初めて聞いた(読んだ)」と思ったプロクター独自のたとえが一つだけありました。それは「エネルギー保存の法則」という話。引用しますと・・・: エネルギー保存の法則によれば、エネルギーは新たにつくり出すことも、消失させることもできません。 つまり、エネルギーはもともと存在していることになります。そしてすべてのものがエネルギーであるということは、それはすなわち、あなたが臨むことはすべて、すでに存在していることになります。(176頁) 先に言いましたように、自己啓発本というのは、科学的なものの見方からの批判を恐れる一方、自ら科学的なことを言おうとする傾向があるのですが、エネルギー保存の法則でもって、「すべて自分の望むものはあらかじめ存在している」と説明したのは、プロクターが初めてかも。うまいこと言うじゃないですか。もっとも、もっとよく調べたら、プロクター以前にそういうことを言っている人もいるのかもね。 参考までに本書でプロクターが引用する著名自己啓発ライターを順不同で挙げると、ヒル、ナイチンゲール、ロバート・シュラー、アドラー、ウィリアム・ジェームズ、ジェームズ・アレン、ワトルズ、アンドリュー・カーネギーといったメンツ。おっと、忘れちゃいけない、一カ所だけでしたけど、エマソンの引用(「妬みは無知にほかならない」56頁)もありました。 その他、72頁に「古代バビロニア王国から伝わる経済的成功を収める法則があります。それは「あなたが稼いだ額の一部は、自分のために確保しておく」」という一節がありますが、これって多分、ジョージ・S・クレイソンの1921年のベストセラー『バビロンの大富豪』を読んだだけでしょ。そんなもん、すぐにばれるぜ。 あと、Raymond Holliwell という人の Working with the Law という本に言及している箇所(178頁)があるのですけど、調べるとちょっと評判になった本らしい。うーん、これも読まなきゃいかんかな・・・。 もう、とにかく、読めば読むほど、さらに読まなくちゃならない本が出て来て、終わりが見えないよ〜。 ほんと、最近、よく思うのだけど、本を何十冊も書いちゃう研究者(?)っているじゃん? あれ、どうなっているのかねえ? 私の例だと、こういう調子で際限なく本を読まなくちゃならないので、1冊研究書出すまでに5年から10年くらいは絶対にかかるわけ。そのペースだと、生涯に書ける研究書なんて、せいぜい5冊じゃんか。それを、どうして二十冊も三十冊も書ける人がいるの? わかんないわ。あの人たちは光速で本を読むの? それとも、本なんか読まないでテキトーに書いているの? ま、いいや。愚痴は言うまい(しょっちゅう言うけど)。 というわけで、いろんな自己啓発言説のごった煮本の本書、それほどおすすめはしませんけど、自己啓発本の何たるかをざっと掴む分には決して悪い本ではないかも。【中古】 イメージは物質化する 「富」を無限に引き寄せる10法則 /ボブプロクター【著】,岩元貴久【監訳】 【中古】afb
August 22, 2017
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先日、中古レコード屋さんで500円でゲットしたMJQの『ジャンゴ』、割と良いんだよね。実は私はMJQというジャズバンドがそれほど好きではなく・・・というか、むしろいつも違和感があったのですが、このアルバムに関してはそういう違和感があまりなくて、素直に聴けるというか。いいですよ、これ。プレスティッジ60周年記念モダン・ジャズ・クァルテット / DJANGO ジャンゴRVGリマスターLP 完全限定プレス 200g重量盤【KK9N0D18P】 さてさて、『となりの億万長者 成功を生む7つの法則』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 「成功を生む7つの法則」と副題にあるので、これは当然、ありがちな自己啓発本なのかと思いきや、全然違いました。これね、学術的な意味で優れた本でした。しかも、それでいて堅苦しくはなく、結構、ユーモラスなところもあったりして。 で、のっけから本書が指摘していることは、億万長者ってのは、我々が一般に想像しているようなライフスタイルの人たちではない、ということですな。 つまり、フェラーリやロールスロイスを何台も所有したり、プール付きの大邸宅に住んでいたり、ブランドものの服や宝飾品や高級時計で身を飾っていたりする人たちではないと。 億万長者というのは、大体、フォードやGMやクライスラーを中古で買って何年も乗り回し、時計はタイメックスかセイコー、住んでいる場所はせいぜい中流階級の普通の家、買う服はJCペニーとか、そういうところで買う。そういうもんだと。 そんなつまらない生活しているんじゃ、お金持ちになった意味ないじゃん! と思ったあなた(というか、オレ!)。あなたは(オレは)多分「蓄財劣等生」です。 つまりね、本書でいう「億万長者」というのは、あくまで「経済的に自立している人」という意味であって、「派手な生活をしている人」という意味ではない。逆に、「派手な生活をしている人」が必ずしも億万長者ではないと。 例えば、スポーツ選手とか芸能人とかで、すごい収入がある人は沢山いますが、そういう人たちの多くは、入ってくるものが多い分、使う分もやたらに多い。だから、何かの不都合で収入がゼロになると、とたんに惨めな生活が待っていると。例えば、もと西武ライオンズ、そして読売ジャイアンツに所属した強打者で、問題を起こして野球界追放されちゃったKさんとか、そういうのは本書では「億万長者」とは認めないわけね。 真の億万長者は、たとえフェラーリを何台も所有できるお金を持っていたとしても、そういうものは買わないの。そしてフェラーリを買わないで、国産の中古車に何年も乗っているから、億万長者になれるの。蓄財優等生と蓄財劣等生は、かくも違うライフスタイルを持っているわけですよ。 ちなみに、億万長者の多くは国産車のでっかいSUV、例えばフォードF150とか、クライスラー・ジープ・チェロキーなんかの中古に乗っていることが多いのだそうですが、こういうクルマはでかくて重くて安いので、ポンド当たりの値段にすると馬鹿安なんですってね。一方、フェラーリみたいに小さくて軽くて高いクルマは、ポンド当たりにしてもすごく高い値段になる。 つまり、億万長者っていうのは、ポンド当たりの値段で比較した場合に馬鹿安なクルマを選んで乗っていると。 ひゃー、クルマをポンド当たり(日本風に言えばグラム当たり?)で高いか安いかで買うなんて、ワタクシ、考えたこともなかった〜! で、億万長者になれるかなれないかは、どんな職業に就いているかではなく、蓄財優等生のライフスタイルを受け入れられるかどうかによって決まります。 では蓄財優等生って何かというと、地味に質素に暮らすことを厭わない人。自分が何にいくら使っているかを明確に把握し、収入より支出を少なくし、余ったお金を優良株などに投資する人。預貯金よりも株や不動産などを重視し、税金で持って行かれないような資産を計画的に増やす人。自分自身に経済力をつけ、地道にしっかり働く人のこと。つまり、誰でもその気になって頑張れば、億万長者にはなれるということですな。だから、本書の執筆陣が取材した億万長者の中には、サラリーマンとか学校の先生とか、そういう普通の人も含まれております。 ただ、全体的に言えば、億万長者の人の大半は自営業の人とのこと。医者とか弁護士とか、そういう高学歴・高収入の人は、案外、億万長者にはなれないの。 なぜかというと、そういう人たちは、付き合いがあるからね。やっぱり、羽振りのいい医者とか弁護士ともなると、高級住宅地に住んで、そういう住宅地に住める人たちとつきあって、良いクルマに乗って、パーティーに行って、子供を学費の高い私立に入れて・・・というようなライフスタイルをしなくてはならないところがある。蓄財劣等生になるための条件がやたらにある。だから、そういう人たちが億万長者になるのは、らくだを針の穴に通すくらい難しいわけ。 それに、自営業者の人というのは、自分が何にいくら使っているかとか、そういうことに自覚的にならざるを得ないしね。ただ、じゃあ、お金持ちになるために自営業を始めようというのはNG。というのも、自営業者の大半は倒産するから。自営業を上手に経営して、なおかつ、地味で質素な蓄財優等生的ライフスタイルを維持できる人だけが億万長者になれるわけ。 結局、「誰でもなれる」けれども、「誰でもなれるわけではない」のが億万長者なわけよ。 ちなみに、高収入だけど蓄財劣等生の親が居たとして、その子供はどうなるかというと、ほぼ確実に蓄財劣等生になります。それはいわば遺伝するんですな。 というのは、親に「質素に暮らそう、お金は大事にして、貯めよう」という気がないからね。あれば使ってしまう。で、その親を見て育つわけだから、子供も「お金は使うもの」という信念がしみついてしまう。しかも、そういう親は、子供を経済的に援助したがるので、子供の自立心はますます劣化し、大人になっても親掛かりになりがち。親に金があるうちはいいけれど、それが途絶えたら一気に経済的弱者の道へまっしぐらと。 一方、蓄財優等生の親の子供はどうなるかというと、高学歴・高収入な専門職の道を辿る人が多いのだとか。親がそう仕向けるわけ。 つまり一代で財を築いた蓄財優等生の親は、やっぱり苦労しているから、子供が自分と同じ苦労をし、かつ成功する確率は低いだろうと思うわけ。そこで、それでも自立しやすいようにってんで、良い大学に入り、実入りのいい専門職に就くよう仕向けると。 というわけで、一代で財を築いた人の子供が、親の助けなしに一代で財を築く確率は5人に1人とのこと。やっぱり、億万長者になるのは難しいわけですよ。もちろん、そうは言っても、蓄財優等生の子供が、蓄財優等生になる確率はそれなりに高い。親を見てますからね。賢い蓄財優等生の親は、自分の子供に、自分が金持ちであることを気取らせないといいますからね。 とまあ、本書を読むと非常に勉強になります。もう、目からウロコよ。 で、そうして目からウロコが落ちた上で自分自身を顧みますと、まさに自分が蓄財劣等生であることが分かる。なるほど、だから私は億万長者になれないんだ〜、と。 だけど、それは自分で選んでそうなっているだけだからね。この先、態度を改めて、ワシも蓄財優等生になるんじゃ〜!と決意し、その決意に忠実に生きれば、私もまた億万長者になれる。 つまり億万長者になるかどうかは、私の気持ち一つだと。 ね、だから、「なりたいと思えば、誰でも金持ちになれる」という自己啓発本の主張は、この本によってもその正しさが裏書きされたわけであります。実際、アメリカのほとんどの億万長者は一代で財を築いておりますからね。それは今もそうだし、100年前のアメリカもそう(本書35−36頁を見よ)。その点では、この世は実に公平な世界なわけ。 とまあ、この本、本当にお金持ちになるってどういうこと? という問いに明確に答えを出してくれていますし、なおかつ、非常に優れた自己啓発本にもなっております。こういうのがあるから、自己啓発本もバカにならないんですよ。この本、教授のおすすめ!です。となりの億万長者〔新版〕 [ トマス・J・スタンリー ]
August 21, 2017
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昨夜、カーテンを自作しちゃった。 前にこのブログにも書いたように、東京の実家の自室のカーテンを新調すべく、名古屋で生地を買っておいたのですが、その生地をですね、私が自分でカーテンに設えてみたと。 まあ、布切れの四辺を折りたたみ、裾上げテープで接着して見栄えを良くし、あとはカーテンクリップで窓辺に吊るしただけなんですけど、吊るす時に、餃子の皮を包む時みたいにヒダを作ってからクリップで挟むことにより、自然にドレープを成すようにしたわけよ。そしたら、あーた、まるで専門家が作ったようなカーテンになってしまったっつーね。 材料費1000円弱、要した時間30分で、プロ顔負けの仕上がり。ひょっとして私は天才なのか? (多分、そう) でもって、今日は何を作ったかと申しますと、母の句集をね。 昨年、父の句集を作ってあげて、生前の父を最後に喜ばしてあげることが出来たわけですが、その父も亡くなり、四十九日法要も終わったということで、今度は母のために句集を作ってあげようかなと。 ま、本を作るとなると、結構、細々した作業が必要になるわけですけれども、そうやって母に宿題を出しておけば、父が居なくなってしまった寂しさも少しは薄れるんじゃないかと思いまして。 で、母が作った俳句の中で、句会の主宰に選ばれたもの(つまり、一応は合格点をつけられたもの)を母体とし、この中からこれはというものを母と一緒に選び出している段階なんですけれども、母の句歴は父のそれよりも長く、四半世紀に及ぶので、作った句の数もかなり膨大なものになっていまして。とりあえず今日は十年分くらいを見たのですが、それでも相当な数になりましたね。 で、そうやって選び出した俳句を、姉の意見なども取り入れながらさらに厳選し、最終的に88句、ないしは100句にして、これに父が生前に撮りためていた写真などを配しながら、写真俳句集を作る計画。そうすれば、父も母の俳句集の編纂に関わったことになりますからね。 ということで、昨日・今日と、様々な「モノ作り」に携わっているワタクシなのでございます。
August 20, 2017
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今日は8月19日、明日は父が亡くなって2ヶ月目の命日だなあ・・・。 しかし、それにしても亡き父の後始末、延々と続いておりまして。昨日は国民年金をストップさせる手続きを税務署に出向いて行い、今日は今日で、共済年金の遺族年金を受け取るための手続き。しかし、これがまたやたらに書類だの証書だのを集めなくてはならず、整理の悪い我が家はもうパニック状態よ。人が亡くなった後の手続きってのは、こんなにも煩雑なのかと。 で、手続きのためにコピーをとることも多く、父の書斎にあるプリンターを使うのですが、そうするとね、父にパソコンだのプリンターだのの使い方を伝授した時のことなんかが思い出されてね。70歳台後半になってパソコンを覚え始めた父は、やはり一度教えればすんなり理解するという感じではなく、同じことを何度も教えなくてはならなかったのですが、そんな風にいじらしく苦労していた父のことが、パソコンやプリンターに触れる度に思い出されて。やっぱり、生きていてくれたら楽しいのにと。 さて、先日、東急東横店の夏の大古書市で買って来た本もぼちぼち読んでいるのですが、生江有二さんという人が書いた『竜二 映画に賭けた33歳の生涯』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 1983年に『竜二』という映画が封切られ、脚本と主演を勤めた金子正次さんが、映画公開直後、33歳の若さで亡くなった時のことは、私も何となく覚えていたのですが、この本はその若くして世を去った金子正次さんをめぐるルポでございます。 金子さんというのは、愛媛県の津和地島というところで生まれ、そういう島出身の若者にありがちな、いずれ世間に出て何か一発でかいことでもやってやろうと機会を狙いつつ、無軌道な悪ガキ時代を過ごすんですな。 で、彼の夢はスターになること。で、その下準備としてアングラ演劇なんかにも関わるのですが、彼の本心としてはアンダーグラウンドなんかじゃなくて、もっと脚光を浴びるところ、すなわち映画界に進出したいと。 しかし、ならばとりあえずはどこか劇団に所属してこつこつと、なんていう風には、金子さんは思わないんだなあ。で、もっと手っ取り早くスターになるにはどうすればいいかと考えて、じゃあ自分を主演にした映画を自前で作っちまえと。 で、ちゃっちゃと脚本を書いてみた。そしたら、すぐに書けたと。多分ね、金子正次という人は天才的な脚本家なのね。脚本なんかすぐに書けちゃうというのだから。 だけど、脚本書くことも、実はあんまり興味ない。要は、映画で主演できさえすればいいんですな、彼にとっては。無名の新人を主演に据えた脚本なんか、誰も書いてくれないから自分で書くだけで。 で、アングラ時代からのつてをたよって監督やプロデューサーを自前で用意し、お金も実家をだまくらかしてこしらえて、とにかく『竜二』を撮ってみた。 金子さんというのは、ヤクザ映画ファンにしてヤクザ気質な人なので、『竜二』も当然ヤクザ映画。ヤクザの若手のホープだった竜二が、稼業に嫌気がさして一旦は堅気になるのだけど、堅気の生活にも結局はなじめなくて、元のヤクザ稼業に逆戻りするまでを描いたもの。組同士の抗争とかじゃなくて、一人のヤクザ者の日常を描いている点で、異色のヤクザ映画と言えましょう。 だけど、もちろん、素人同然の連中が劇場映画撮ろうっていうのだから、大変なわけ。資金もすぐに底を突くし。監督は自信なくして敵前逃亡するし。だけど、それでもどうにかこうにか最後まで撮影する。それはもう、金子正次の「絶対映画を撮る」という強い意志に全員が突き動かされるようにして。 で、映画は完成し、試写は意外なまでの好評、そしてついに東映のマーク付きの、本格ロードショーにまでこぎ着ける・・・のですが、その時は既に金子さんの全身にガンが蔓延していて、ついに掴んだスターへの道の半ばで、彼は亡くなってしまう。ま、そういった紆余曲折を、ノンフィクション・ライターの生江さんが描いたのが本書でございます。 ま、とにかくすごいのは「スターになりたい」っていう金子さんのシンプルで強い思いね。特にいい俳優でもない、特に実績もない、だけどこの強い思いだけで一つのことを成し遂げてしまうという。 で、映画の中では斜に構えたようなところもあるみたいですが、素顔の金子さんはすごく素直な人で、映画が好評と分かったときの、嬉しさを隠せない様がなんとも魅力的なわけ。そんな可愛い人が、しかし、成功した途端に死ななくてはならなかったなんて、なんとまあ、運命の過酷なことかと。 ま、そんな本。 私は『竜二』という映画を見たことがないのですけど、この本を読んだ上は、やはり見たくなりますね。今度名古屋の自宅に戻ったら、レンタルDVDで見てみようかな。竜二 デジタルリマスター版【Blu-ray】 [ 金子正次 ] それにしてもこの本、角川の『野生時代』に連載され、後に単行本になったものらしいですが、『野生時代』の当時の編集長が見城徹氏で、彼が生江氏に金子正次のこと書かないかと誘ったらしいんですな。だからそれが後に「幻冬社アウトロー文庫」になったと。金子正次の事書けば話題になると、見城さんはすぐに見切ったんでしょう。その辺のえげつないまでの嗅覚。それが見城徹なんだろうね。
August 19, 2017
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泣く子も黙るパナソニック創業者・松下幸之助大人の世紀の自己啓発ベストセラー、『道をひらく』を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみにこの本、もともと松下大先生が創立したPHP研究所の雑誌『PHP』に掲載されていたコラムをまとめたもので、1968年5月に初版が出てからおよそ50年の間に520万部超が出版され、日本におけるベストセラーの歴代第2位。(第1位は黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』で580万部。ただし別なカウントをしている資料もあるため正確なところは不明。)私の持っている版で「238刷」だもんね。お化けだよ、お化け。 松下幸之助本人は「この本はええですなあ。わても毎晩、読んでます。しまいにゃ1000万部は出るんちゃいますか」と言ってますからね(そういう本人の肉声による録音が存在する)。まあ、でも、現在もなお売れ続けている本だし、今ではサンリオの「ハローキティ」とコラボした『ハローキティの「道をひらく」』などという姉妹本まで出版されているのだから、そういうのも合算すれば1000万部到達までそれほど掛からなかったりして。さすが商売の神様、松下翁のやることは違うわ。 それにしても松下幸之助とハローキティのコラボって・・・。 それはともかく、本書には一応「章建て」的なものがあって、それぞれ「運命を切りひらくために」「日々新鮮な心で迎えるために」「ともによりよく生きるために」「みずから決断を下すときに」「困難にぶつかったときに」「自信を失ったときに」「仕事をより向上させるために」「事業をよりよく伸ばすために」「自主独立の信念をもつために」「生きがいある人生のために」「国の道をひらくために」という標題の下、10個から15個くらいのまとまった文章が書かれているんですな。で、それぞれの文章はすべて見開き2頁に収まるコンパクトさ。もともと雑誌『PHP』のコラムとして書かれたものなので、どの文章も字数がほぼ同じなわけ。 要するに、どの頁であれ適当にパッと開けば、見開き2頁に収まる松下翁の貴重な貴重な自己啓発的訓話が読めると。そういう仕組みでございます。 で、この121篇の人生訓を通読して驚くのは、その質的な均一さ、です。 121個もエッセイが連なっていたら、出来の善し悪しのムラがありそうなもんじゃん? ところがないの。そういうムラがまったくない。どれもほぼ同じ出来。 そういう意味では、これはもはや「お経」に近いね。20世紀の「商売経」。丁稚から叩き上げで商売の神に仕え、しまいにはお上人様になった松下翁が、我ら凡俗の徒に商売の何たるかについておしえを垂れると。で、このおしえをお経のように日々拳拳服膺しておれば、いずれあなたもいっぱしの商売人(別に商売人じゃなくてもいいかも知れないけど)になれるかも、ってなシロモノでございます。 ・・・と、そういう風に言うと、なんかちょっとおちょくっているように聞こえるかも知れないし、実際、ちょっとそうなんだけど、でもね、松下翁がここに書いていることはすべて、立派なことです。やっぱり一代で財をなした苦労人の言うことは、ちゃんとしています。 一つ例を挙げてみましょうか:「自分の仕事」 どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているのでなければ、その仕事は成り立つものではない。人びとが街で手軽に靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないであろう。 だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。 自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。 仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。 大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。おたがいに、自分の仕事の意義をわすれたくないものである。(144−145頁) ま、こんな感じよ。お説ごもっとも! としか言えないじゃない。 ちなみに、「大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。」ってな具合に同じ内容の事柄を二度畳み掛けるのが、松下翁の文章のクセでありまして、この独特のしつこさ、関西人だねえ。こういう丁稚上がりの叩き上げっぽい、ねっとりした文章のクセが、洗練された文章を好む私のような関東人には何とも鼻につくわけよ。 もう一個行っちゃう?「熱意をもって」 経営というものは不思議なものである。仕事というものは不思議なものである。何十年やっても不思議なものである。それは底なしほどに深く、限りがないほどに広い。いくらでも考え方があり、いくらでもやり方がある。 もう考えつくされたかと思われる服飾のデザインが、今日もなおゆきづまっていない。次々と新しくなり、次々と変わってゆく。そして進歩してゆく。ちょっと考え方が変われば、たちまち新しいデザインが生まれてくる。経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。 しかし、人に熱意がなかったら、経営の、そして仕事の神秘さは消えうせる。 何としても二階に上がりたい。どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかす。階段をつくりあげる。上がっても上がらなくても・・・そう考えている人の頭からは、ハシゴは出てこない。 才能がハシゴをつくるのではない。やはり熱意である。経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。 不思議なこの経営を、この仕事を、おたがいに熱意をもって、懸命に考えぬきたい。やりぬきたい。(182−183頁) この文章なんか、ほとんどアレだよね、引き寄せだよね。「やろうという思いが強ければ、すべては実現する」という。実地に苦労した人は、結局、こういう結論にたどり着くと。そういうことなんでしょうな。 とまあ、本書に書いてある一つ一つの訓話は、かくのごとくすべて同レベルで素晴らしいわけですけれども、自己啓発本というのは、つまるところ、「何が書いてあるか」よりも「誰が書いたか」が重要視される文学ジャンルでありまして、上に例を挙げて来たような一連の商売経も、もちろんそれ自体として「20世紀の商売人版徒然草」的な価値はありましょうが、しかしそれ以上に、他の誰あろう、あの商売の神様、一代で松下産業を打ち立てたかの松下幸之助が書いているからこそ価値があるところは否定できない。 ま、神様の書いたものだから、『道をひらく』も520万部が出回るわけね。 しかし、本当に今でもこの本、ガンガン売れているのかなあ・・・? ひょっとして、パナソニックに入社すると、新入社員全員、もれなく入社式の日にこの本がもらえるとか、そういう風になっていたりして。それだったら毎年、パナソニックの新入社員分は出版されるわけだしね。 あるいは・・・・この手帳大のこの本が、実はパナソニック社員の社員証だったりして。ICチップが組み込まれていて、これで社員食堂の支払いも出来るようになっていたりして。 松下翁なら、やりかねないねえ・・・。道をひらく [ 松下幸之助 ]ハローキティの「道をひらく」 [ 松下幸之助 ]
August 18, 2017
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永江誠司という人の書いた『カーネギーとジョブズの人生を拓く天国の対談』なる奇妙奇天烈な本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 本書のタイトルにある「カーネギー」とは名著『人を動かす』で知られる自己啓発本の大家デール・カーネギーのこと。「ジョブズ」はもちろん、アップル社のスティーブ・ジョブズでございます。 ちなみにこの二人、既に鬼籍に入っていますし、そもそも生きた時代も全然違いますから(カーネギーは1888年生まれ、ジョブズは1955年生まれ)、両者がこの世で出会ったことなどあるわけがない。 その二人が、天国で対談したと。 はあ? つまり、この二人が対談することになったらどういう展開になるか、それを永江誠司という人が妄想したと。その妄想した対談を記したのが本書であると。 もうね、この時点で、この本が超弩級のトンデモ本であることは決定しているわけですね。 以下、本書から引用します: 働き盛りに亡くなったジョブズが自分の身近な人になったことで、カーネギーは彼に関心を持つようになった。斬新な製品を作り、印象的なプレゼンテーションをし、人の心を動かし、購買行動に導く彼の手法に、カーネギーも魅せられていたのである。(中略) (一方ジョブズは)「人を動かす』などの大ベストセラーを持ち、会社の経営にも精通しているカーネギーという人物に興味を持っていた。自分も、人を動かすためにたいへんな苦労と努力をてきた。そこから自分なりの考えや方法論も持っている。それについてカーネギーと意見を交わしたいと思ったのである。 そこでジョブズはカーネギーに連絡をとることにした。幸いカーネギーのほうでもジョブズに関心を持っていたので、二人はカーネギーの住む館で会うことになった。(中略) ジョブズは、昼過ぎにカーネギーの自宅に車で到着した。門を通り抜けるとボストンコモン(アメリカ最古の公立公園)の周辺にあるような古いイギリス風の館が見えてきた。館の奥の方から、カッコウの鳴き声が聞こえてくる。 車を玄関の横に止めると、なかから初老の紳士が出てきて、ジョブズをカーネギーのいる部屋まで案内してくれた。カーネギーは、雲のように柔らかいソファーのある部屋にジョブズを迎え入れた。ジョブズ: ハーイ! ミスター・カーネギー。初めまして。スティーブ・ジョブズです。お会いできて嬉しいです。ちょっと道を間違えて、遅れてしまいました。カーネギー: やあ、スティーブ。デール・カーネギーです。私のことはデールと呼んでくれ。ところで、このあたりは最近住人が増えてね、道を間違えやすいんだよ。しかし君のヒゲ、よく似合っているね。イッセイ・ミヤケのデザインによる黒のハイネックセーターにリーバイスのジーンズ、それにニューバランスのスニーカーか。iPhone のプレゼンテーションのときと同じスタイルだ。ジョブズ: そうです。よくご存知ですね。これが、私のスタイルです。あなたは写真で見たように、今日も品のよい服装ですね。カーネギー: ありがとう。(5−7頁) ・・・・ 私の自己啓発本の研究歴も大分積み重なって来て、たいていのことには動じない風になっては来ましたが、この本は久々に出くわす驚愕のシロモノですな・・・。 で、以下、カーネギーとジョブズ、それぞれの本から取った一節を引いて、それを元に両者があれこれ対談していくのですが、もちろん、対談と言っても、それ全部、永江氏の空想というか妄想ですからね。例えばジョブズの発言として「アップルを追放された時は辛かったけど、気を取り直してがんばりましたよ」というような趣旨のことが書いてあっても、それは永江氏が考えた台詞ですから。そこから読者が何かを学ぶことができるのかっていうと・・・どうなの? できるの? 本書の副題である「アドラー哲学を実践して得た100の金言」というのも、一体、何のことやら。本書に書かれた一連の妄想の中で、カーネギーがアドラー哲学の影響について云々している箇所なんてわずか2、3カ所しかない(それだって、あくまで妄想ですから)。ただ著者の永江氏が、多少、(あくまで多少ね)アドラーのことについて知っているらしいというだけのことでありまして。 それに永江氏がこの本を書くにあたって参考にした図書が巻末に列挙されているのですが、それがたったの21冊。それも原典は一つもなく、ド素人向けの優しい解説書みたいなのばっかり。普通、プロが本出すっていったら、軽く1000冊くらいの資料は参考にするでしょ。それが21冊って。 多分、この人、カーネギーについてもジョブズについても、大して知りゃーしないんだろうね。 永江氏というのは、福岡教育大学の名誉教授で、それなりの数の本も出しているようですが、この1冊を読めば、残りのレベルも大体見当がつくというもの。 それにしてもこの本、一応、講談社でしょ。よく出したな。ノーマルな編集者だったら、「カーネギーとジョブズが天国で対談した、という体の本を出したいんだけど」と申し出があった時点で、鄭重にお断りするだろうと思うのだけど。 ま、私としては、「自己啓発本の中には、こんなのまであるんだよ〜!」という、いわば爆笑・噴飯モノのネタとして使わせてもらおうかと思っていまして、その意味では非常に有用な本でしたが、そういう意味での面白さに興味がない方には、無縁の本かも。 カーネギーとジョブズの人生を拓く天国の対談 アドラー哲学を実践して得た100の金言 (講談社+α新書) [ 永江 誠司 ]
August 17, 2017
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今日は前からの約束で、親友のTと町田にてLPレコード探し。レコードプレーヤーを久しぶりにゲットしてから、LPレコードがマイブームなもんで。 しかし、まずは腹ごしらえ。今日は小田急線町田駅近くにあるイタリアン、「テッラマジカ」という店をセレクト。 そしたら、これが当たりで。前菜付きのパスタランチ1500円でしたけど、なかなか美味しかった。名古屋だったら普通だけど、東京みたいに不味いレストランばっかりのところにしては上出来の店でした。ここはオススメです。 で、ここでお腹を満たした我らおっさん2人組がまず向かったのは、中央通りにあるブックオフ。ここの地下にレコード売り場があるというので。 で、ここでレコードを掘り出し始めたら、これが面白くて。 大体、最近、CDを買うにしてもほとんどアマゾンで買っちゃうし、店で選ぶことってないじゃん? しかも、たとえ店で買うにしてもCDを買うのって、別に普通じゃないですか。 だけど、LPレコードを店で買うとなると、一枚一枚ちょっと上につまみ出しては、タイトルを確認し、また次のレコードを一枚つまみ上げて・・・という作業を連続してやることになる。このレコード選びの作業が、もう、たまらなく懐かしいわけ。分かる、この感覚? 「そうそう、昔、レコードを買うってこうすることだったよね」っていう。 で、親友のTとレコードの入ったボックスの前並び立ち、この作業を延々と繰り返しながら、「おい、トトがあるぜ」とか、「リンダ・ロンシュタットだってよ」とか声を掛け合う。これが、もう至福の時。我々の青春時代がここにあるじゃないか!っていうね。 で、中古LPの量で、当時の人気が如実に出るわけ。例えばロッド・スチュアートとかね。もう、山ほどある。この人、こんなに日本で人気があったんだ〜。あと、ABBAも沢山あったなあ。 で、ここで買ったのは、ジョン・デンバー(ベスト)、オリビア・ニュートン・ジョン(『そよ風のささやき』)、カーペンターズ(ベスト)、ビリー・ジョエル(『52nd Street』)、サイモン&ガーファンクル(『パセリ・・・』)の5枚。どれも500円で2500円なり。 で、ここで相当エネルギーを使っちゃったんだけど、本当は次が本命。すなわち、ディスク・ユニオンの町田店ですな。 無論、中古レコードショップとしてはこちらの方がはるかに本格派なんですが、こちらで私が買ったのはジャズ系2枚、エロール・ガーナーの『コンサート・バイ・ザ・シー』とMJQの『ジャンゴ』、それにジョーン・バエズのベスト。3枚で1800円くらいだったかな? かくして久しぶりにレコード・ハントを堪能した我ら。そこから喫茶店にしけこんで、後はおしゃべりに明け暮れ、6時半頃それぞれ帰路についた次第。 で、家に帰ってから買って来たレコードを聴いているのですが、なかなかいいですよ。やっぱりターンテーブルにレコードを乗せる一連の手続きが、なんとも言えないんだなあ。 ということで、今日は一日、ガキの頃からの友達といい一日を過ごして大満足の私なのであります。
August 16, 2017
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どうしようかな〜、と悩んでいたのですが、結局行ってしまいました。東急東横店で毎年夏に開催される大古書市に。まあ、毎年行っているのに、今年だけ行かないと、なんとなく悔いが残るかなと。 で、今日は最終日だったので、ろくなモノは残っていないかなと思いながら所狭しと並ぶ書棚をウロウロし始めたのですが、1時間半ほど見て6冊ほどゲット。何を買ったかといいますと・・・○田中一光著『デザインの周辺』1,000円○生江有二著『竜二』500円○川成洋著『世界の古書店』『世界の古書店Ⅱ』『世界の古書店Ⅲ』(3冊セットで1,000円)○亀井俊介著『カバンひとつでアメリカン』300円 とまあ、こんな感じ。 田中一光さんの本は、今回初めて買いますが、著名アートディレクターであった田中さんの第1エッセイ集ということで、読んでみようかなと。 生江有二さんの本は、33歳で夭折した俳優・金子正次の伝記ですな。松田優作にも影響を与えたというヤクザ俳優の生涯、興味あるじゃないですか。 川成洋さんの3冊セット本は、伝説の「丸善ライブラリー」から出ていて、案外出回らない本なんですよね。それが3冊セットということで、まあ、とりあえず買っておこうかと。 そして最後、亀井俊介先生の本は、まあ、敬愛する亀井先生の本だから、見かけたら買うしかないなと。それに大体、亀井先生の本の古書価って、案外低いんですよね。それはつまり、学者の書く本にしては沢山売れるからだと思います。そこがすごい。 ということで、これらをさくっと買って、さくっと帰宅した次第。 今日買った6冊は、どれも掘り出しモノ!って感じではないんですけど(私も一応、買う前にスマホで古書価の相場は見るので)、クオリティで行ったらそこそこの収穫だったのではないかと。やっぱり、思い切って古書市に行ってよかった。恒例行事ですからね。 【中古】デザインの周辺 (1980年)【中古】カバンひとつでアメリカン (1982年)【中古】 世界の古書店 / 川成洋 / 丸善ライブラリ−【中古】 世界の古書店 2 / 川成洋 / 丸善ライブラリ−【中古】世界の古書店 3/ 川成洋
August 15, 2017
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南武成という人の書いた『Paint it Rock マンガで読むロックの歴史』という本を読んだので、心覚えをつけておきましょう。 そもそもなんでこの本を読んだかと申しますと、それなりに下心がありまして。 実はこのところ「アメリカ文化史研究」なる授業の中でアメリカを代表する音楽ジャンルであるジャズの歴史を取り上げ、好評を博している(多分)のですが、この授業も数年続いたもので、こちらも大分飽きて来たと。 で、「ジャズの授業面白かったから、次はロックの歴史を釈迦楽節で聞きたーい!」という学生からのリクエストもあり、「そ、そうか・・・?」と、まんざらでもなく思っていたワタクシ。 ま、私はもともとジャズよりもロック(というより、ポピュラーかな・・・)寄りの人間だったこともあり、やろうと思えばすぐにやれるだろうという自負がないわけではない。 だけど、好きで聞いていたからといって、すぐに授業をやれるほどロックの歴史に通じているわけでもなし、そこは一応、勉強しておこうかなと。 で、ロック史に関する本をゴマンと買っておいたのですが、まずは入門編から読み始めようと思って手にしたのがこの本。何しろ「マンガで読む」だから、気軽にスタートできるだろうと思って。 ただ、著者が韓国の人ということもあるのか、いわゆる日本のマンガの感覚とはちょっと違うかな。むしろ、コマ割りなんか、アメリカのコミックに近いかも。だから、最初はちょっと違和感がある。 だけど、絵はなかなか巧いし、読み進めて行くと段々はまってくるというか。 それで、チャック・ベリーとか、エルヴィス・プレスリーとか、ボブ・ディランとか、そういう辺りから始まって、ビートルズの登場があって、フォーク・ロックがあって、ザ・フーが出て来て、ってな具合で、ロックの誕生から進化・変化の道筋が面白く書いてある。ふんふんと読み進めて行く分には快適、快適。 だけど、アメリカのロックンロールがイギリスに渡ってロックになり、ってな話から段々ややこしくなってきて。というのも、イギリスのロックって、バンドを組んだり解散したりが激しいじゃん? でまた、解散した連中がまた別なバンドを組んだりするもんだから、もう、何が何やらって感じ。 しかし、それはこの本のせいではなくて、要するに私がイギリス系のロックに詳しくないからですな。特にプログレ系が全然ダメで、ピンクフロイドとかイエスとかレッド・ツェッペリンとか、全然分からん。プログレも分からんし、ヘビメタもダメ。 で、この本の中で、それぞれのグループの名盤とされているアルバムも紹介されているので、言及がある度にアマゾンで試聴してみるんだけど、全然、どこがいいのかさっぱり分からないという。 ジャズの場合、私には「フリー・ジャズ」が全然分からないのだけど、それに近いかな。でも、この辺を抜かしてロックを語るというわけにもいかないしねぇ。 というわけで、ロックを文化史として授業形式で語るというのも、案外、骨が折れそうな感じだなあと。 しかし、とにかく、教えるということは、学ぶための良きモチベーションですから、これを機に、苦手と思うイギリス系ロックも含め、一度、きちんと勉強しておきましょうかね。 とにかく、本書『Paint it Rock マンガで読むロックの歴史』、なかなか面白い本でした。私と同様、これからロックの何たるかを勉強したいという方にはおすすめでございます。Paint it Rock マンガで読むロックの歴史 ロックのルーツがまるごと [ 南武成 ] ところで、これは自己啓発研究とのからみなんですけど、「ドアーズ」ってバンドあるでしょ、あのジム・モリソンの。あのバンド名「ドアーズ」って、オルダス・ハックスリーの『知覚の扉』という作品にちなんでいるんですってね。知ってた? で、ハックスリーの『知覚の扉』は、ウィリアム・ブレイクの詩「扉と扉の間には知られていることと、知られていないことがある。近くの扉が清められれば、あらゆるものが無限に見えるようになる」から来ている。つまり、ヴィジョンの人・ブレイクから、LSD実験も含め、人間の新たな知の世界を幻視した自己啓発家・ハックスリーを通して、サイケデリック・ロックのドアーズに行き着く一本の道があるということになる。こういうね、ちょっとした知識、これがですね、重要なのよ。私が次に書く超アクロバティックな自己啓発研究書のどこかにこういう話題がちらっと出ることで、その本はさらにさらにアクロバティックなものになることでしょう。こちらも、乞うご期待でございます。
August 14, 2017
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通勤用の靴が二足、いっぺんにダメになってきたので、今日は実家の近く、南大沢にあるアウトレットに行って靴を買ってしまいました〜。 どうせみんな帰省していて、案外東京の方が空いているだろうと多寡をくくり、クルマで行ったのですけど、やはりお盆の日曜日とあってそれなりに人出はありましたねえ。アウトレットに付帯する駐車場はどこもいっぱいだったので、提携している駐車場に向かったら、こちらはあっさりと止められてラッキー! そして、この分じゃアウトレットの中のレストランはどこも混んでいるだろうと思い、駐車場の近くのビルに飲食店街があるのを幸い、そこで食べちゃった。食べたのは、多分、チェーン店なんだと思いますが、「でんがな」という串カツ屋さん。大阪風の串カツって、考えてみると、初めてかも。でも、美味しかったです。今日食べたのは串カツランチ(串カツ7本にごはんとみそ汁で780円くらい)でしたけど、次は「肉すい」を食べてみたい。 で、お腹がいっぱいになったところでいよいよアウトレットに参戦! 私の靴に関して言えば、ロックポートというお店で、割といいのが見つかったのですが、合うサイズが無く断念。しかし、ランバン・オン・ブルーというお店で「カステルバジャック」のスポーティーなタッセル・ローファーがあって、これが色といい形といい、すごく気にいったので、これを買ってしまいました。タッセル・ローファーなんて、久しぶりだよ〜。 で、私はすっかり満足したので、次は今日がお誕生日の奥さんの番。家内はそれぞれちょっと特色のあるトップスとスカーフを割安に買えて、これまたすっかり満足。 で、途中、雨に降られてしまったので、雨宿りがてらタリーズで抹茶リスタなるものをいただいて一休み。そして小降りになったところで帰宅の途についたのでした。 しかし、このところ実家に帰省すると、たいていは亡くなった父の関係のことをあれこれするばかりで、遊びのために帰ることがなかったので、今回はそういうのとは違った、夏休みっぽいことが出来たので良かったです。
August 13, 2017
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実家に帰省してまず最初の仕事が、やっぱり本の処分。前々回に段ボール5箱、前回は段ボール7箱、今回は8箱でございました。今回は主に画集を処分したんですが。 しかし、あれですな、本なんて買う時は高いけど、売るときは二束三文、否、8箱一文だからね。3回で処分した20箱分の本だって、買った値段からしたら相当なもんでしょうけど、売れば2000円くらいなもんじゃない? そこまでも行かないか。 で、思うのですが、本ほど価値のある、そしてそれと同時に価値のないものって、他に類がないね。買った本人にとってはこの上なく価値があり、しかし、その同じものが他人にとってはまったく無価値という。そのギャップがえげつない。 とはいえ、20箱処分しても、見た目ほとんど変わってないくらいだけど、ここから先はもうちょっと売れないな。親父が大事にしていたのを覚えているからね。「もうその辺でやめとけよ」という父の声がするような気がする。 はいはい。もう捨てないよ。だから安心して。
August 12, 2017
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実家の私の部屋には通常の窓の他に、ベランダに出るためのドアがありまして、そこにも縦長のカーテンがかかっているのですが、そのカーテンが大分古くなってしまいましてね。 で、普通にカーテン屋さんに頼むのじゃあつまらないので、カーテンを自作することにしたわけ。 といっても、極力、簡単に作ろうと思っていて、縦170センチ、横80センチの布を買い、それを100円ショップで売っているカーテンクリップでカーテンレールに吊るしちまえと。 で、問題はどこで布を買うかですけど、私の名古屋の自宅近くに、いい店があるという噂がありましてね。「布伝説」という店なんですけど、この付近の洋裁好きの皆さんの間では相当有名な店だそうで。そのせいか、一軒だけじゃなく、同じ経営母体の店が4つか5つ並んでいると言うのです。 で、昨日、その「布伝説」なる布屋さんに行ってみたわけですよ。すると・・・ きゃーーーーーーーーー!! すごいわ。聞きしに勝るとはまさにこのこと。これは戦後の闇市か? と目を疑うほど、小さな店の中にうず高くロール状の布が積まれている。もう通路なんかないようなもんです。人一人歩く隙間もないほど、どこもかしこも布だらけ。 それが一軒だけじゃなく、4、5軒並んでいるんだから、壮観ですよ。慣れていない身からすると、もう、こんなところで自分好みの布を選び出すなんて到底不可能に思えてくる。 が! 布好きと思しき常連客に立ち混ざって必死に布漁りをしている内に、段々――何と言うのか、目が慣れてくるというか、目が肥えてくるわけね。 で、遂に「これだ!」という布を見つけたわけですよ。で、値段を見たら、1メートル当たり380円だって。 え? そんなに安いの? だから、余裕を見て180センチ分買っても684円くらでしたよ。カーテンクリップが税込108円だったから、まあ、1000円以内でカーテンを作ってしまった計算になる。素晴らしい。 ということで、私もついに伝説の「布伝説」で布を買ってしまったわけですけれども、あれは確かに「伝説」というにふさわしい店でしたね。 まあ、消防法には確実に抵触していると思うけどね。 さて、今日はこれから、実家に帰省いたします。明日からはしばらく東京からのお気楽日記。お楽しみに~!
August 11, 2017
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オグ・マンディーノのおそらく最も有名な作品と思しき『世界最強の商人』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 オグ・マンディーノは、自己啓発思想を小説の形で打ち出す人、すなわち自己啓発小説家なんですが、これもまた自己啓発ライターの一つのパターンかなと。 つまり、自己啓発思想ってのは、シンプルだからね。だから、ノンフィクションとして書いたら、同じことの繰り返しになってしまう。そこへ行くと、同じ思想を元にしていても、フィクションとして書くのであれば、フィクションの方の筋書きを変えてしまえば、同じ思想を何度でも主張できるところがある。無論、ノンフィクションとして同じことを繰り返し書く自己啓発ライターも沢山居るけれども、「手を変え品を変え」という意味では、自己啓発小説家の方がサービス精神旺盛、なのかもね。 さて、で、この作品ですが、時代設定がすごい。何しろ、イエス・キリスト誕生の頃の話ですからね。2000年前の設定なのよ。 ダマスカスにハフィッドという「世界最強の商人」が住んでおりまして。しかし彼は既に年老い、自分の資産を部下たちに分け、事実上引退生活に。しかし彼には一つだけ、やり遂げなければならない使命が残っておりまして、それは次に「世界最強の商人」の称号を継ぐ後継者を探すことだったんですな。 そこで場面は過去に遡るのですが、ハフィッドは若き頃、パトロスという名の「世界最強の商人」のラクダの世話係だった。だけど、ハフィッドは野心満々、ラクダ世話係などという地位に満足せず、パトロスのような大物になりたかったと。というのも、当時彼にはリーシャという金持ちの娘に恋していて、彼女と結婚するためにも是非、金持ちになりたかったわけ。 で、その野心を聞いたパトロスは、ハフィッドを試すことにしたと。で、パトロスは自分が扱う最高級のローブをハフィッドに渡し、これを売ってこいと命じるんですな。もし、見事そのローブを売ることができたら、さらに仕事をあげてもいいぞと。 で、ハフィッドはやる気満々、意気揚々とそのローブを持って一人、市場に乗り込むのですが、既に盛名を獲得しているパトロスの行商隊の一員としてモノを売るのと異なり、まったく無名の青二才のハフィッドがいくらローブを売ろうとしても、人々はまったく相手にしてくれないわけ。で、足を棒にして売り歩いても、結局、ローブを売ることができなかった。 で、自信を失い、絶望して、それでもまた明日、頑張ろうと、ハフィッドはさる洞窟で野宿をしようとする。宿に泊るほどのお金もなかったもので。 すると、その洞窟には先客が居て、若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。しかし、寒さを防ぐ手だてが無かったもので、若い母親は自分の来ている外套を脱いで赤ん坊をくるみ、自分は震えていた。 で、その光景を見たハフィッドはたまらなくなり、パトロスの商標のついた超高級ローブをこの夫婦にタダで渡してしまうんですな。 ハフィッドは、かくしてローブの一枚も売ることができず、それどころかその貴重な商品を見知らぬ夫婦にタダで渡してしまって、敗残者のようにパトロスのもとに戻ります。 しかし、打ちひしがれて戻ったハフィッドを、パトロスは驚異のまなざしで迎えます。というのは、夜だというのに、燦然と輝く星がハフィッドを追いかけるように付いてきて、昼のように明るかったから。そしてハフィッドの打ち明け話を聞いたパトロスは、商品のローブをこの上なく有効に使ったのだと知り、彼を後継者と定めて、彼にある宝を引き継がせることにした。その宝とは、巻物の束であり、パトロス自身、この巻物に書いてあることを実行して、「世界最強の商人」の地位を手に入れていたんです。 それから幾星霜、ハフィッドもまたこの巻物の教えを実行し、「世界最強の商人」になり、彼もまた次の後継者を探していたと。 で、それではその巻物には何が書いてあったか。無論、これが商人(=セールスマン)として成功するための自己啓発的格言であったことは言うまでもありません。 で、その巻物を順に説明しますと、第一巻(これが一番重要とされる)は「私は今日から、新しい人生を始める」というもの。良い習慣を身につけ、その奴隷となれ、そうすれば、その習慣が顕在意識を通じて潜在意識に到達し、良い方向に自分自身を向けてくれるだろうと。 第二巻は「私は今日という日を心からの愛をもって迎えよう」というもの。愛をもって一日をスタートさせれば、いいことあるよと。 第三巻は「私は成功するまでがんばりぬく」というもの。失敗することは多々あるけれど、かならずそれに見合う成功があるのだから、その成功を手に入れるまでがんばれよと。 第四巻は「私はこの大自然の最大の奇跡だ」という認識を持てというもの。自分はかつてこの世に生まれた、あるいはこれからこの世に生まれる誰とも異なるユニークな存在なのだから、そのユニークさを武器にしろと。 第五巻は「私は今日が人生の最後の日だと思って生きよう」というもの。人生には無駄にする時間なんかないよと。 第六巻は「今日、私は自分の感情の主人になる」というもの。感情をコントロールし、元気がなければ元気を出し、調子に乗り出したら謙虚さを取り戻し、というように、常に自分の運命を自分で操縦しろと。 第七巻は「私は世間を笑おう」というもの。毀誉褒貶色々あるけれども、一々一喜一憂しないで、汗を流しても涙を流すことはやめようと。笑うことさえできれば、人生に負けることはないと。 第八巻は「今日、私は自分の価値を100倍にする」というもの。人生の目標を明確に定め、それに向って常に向上していこうと。 第九巻は「私は今、行動する」というもの。頭で分かっていたとしても、実際に行動に移さなかったら意味がない、だから、今、動き出そうと。 第十巻は「成功を求めて祈ろう」と。それもただお金持ちになれますようにと祈るのではなく、自分の目標に到達できるよう、それに向って頑張れるよう、力を与えて下さいと祈れと。 ま、ハフィッドはこの10巻の巻物の教えをすべて実行し、成功したわけですな。 さて、再び場面は戻り、年老いて後継者を探していたハフィッドの元に、ある日、ぼろをまとった旅人が訪れます。パウロと名乗るその男、もとは公職についていて、イエス・キリストを神の子と認めたステファノという人物の処刑に立ち会ったこともあると。 ところがその後、イエスがパウロの夢に立ち、真実を告げよと迫ったんですな。で、そういう天啓に打たれたパウロが、これまでの立場とは逆に、イエスの言葉を伝える使徒となるのですが、誰も彼の言葉を信じてくれない。 すると再びイエスがパウロに顕現して、「自分のことを世界に伝えるノウハウを学ぶために、『世界最強の商人』と呼ばれる人物のもとへ行け」と命令したと。 そこでハフィッドがパウロに、イエスなる男がどんな人だったかを詳しく伝えてくれと頼み、パウロがイエスのことをあれこれ伝えるんですが、十字架で処刑されたイエスの数少ない持ち物の中に、イエスの血のついたローブがあった。そしてそのローブにはパトロスの標章が! そしてハフィッドは、このパウロこそ、例の巻物を継ぐべき人物と見抜き、彼の生涯の仕事が終ったのでした。めでたし、めでたし。 というお話・・・。 ・・・って、おいっ! 使徒パウロをセールスマンにしていいのか? イエスの言葉は売り物だったのか! ま、それはさておき。 この自己啓発歴史改変小説を読みながら、私、一つ思ったことがありまして。 それは何かと申しますと、アメリカ人にとって「セールス」って一体、何なのだろう? ということ。 アメリカの自己啓発本を読み漁っておりますと、セールスの話がすごくよく出てくるんですわ。逆に言うと、アメリカの自己啓発本の大半は、セールスマン向けに書かれていると言っても過言ではない。 つまり、大金持ちになる前提が、良きセールスマンたること、っていうね。 で、思うのですが、日本人にそういう発想ある? 金持ちになりたい、そのために、まずはセールスマンにならなきゃ! って思う? 私はそう思わないんだな。家内に尋ねても、金持ちになるために、まずはセールスマン、という発想はないと言ってましたし。 だけど、アメリカはそうなのよ。まず商品を売れと。 で、さらに思うに、やはりここにアメリカならではのプラグマティズムがあるのではないかと。 例えばエジソンのように発明するとか、ビル・ゲイツのようにパソコンおたくとして成功するとか、野球やフットボールやバスケの選手として活躍するとか、芸能界でスターになるとか、そういうのは、特殊な才能が必要なわけよ。誰もがそういう才能を持って生まれてくるわけじゃない。 じゃ、特殊な才能がない、普通の人が金持ちになるにはどうすればいい? 商品売るしかないでしょ。セールスマンなら誰でもなれる。だけど、良いセールスマンになって頭一つ抜け出すには、心がけが必要だ。 その心がけが、自己啓発なんじゃないの? そう考えると、「無一物から金持ちへ」というアメリカン・ドリームを実現する上で、一番、公平な道が、セールスマンになることなんじゃないのかと。 しかも、アメリカの自己啓発思想における「セールスマン思考」のすごいところは、「良いセールスマンになるための心がけは、その他のジャンルのビジネスにも応用できる」と言い募るところなんですわ。 なぜなら、結局、すべては「売り物」だから。 いい医者として成功したいなら、自分がいい医者であることを売り込まなくてはならない。自分が才能あるアーチストであるなら、そのことを誰かに売り込まなくては始まらない。 イエスの教えだって、それが良い物であるならば、それを売り込まなくてはならない。 だから、オグ・マンディーノの『世界最強の商人』では、パウロをセールスマンに仕立てちゃったんじゃないのかと。 すべては売り物。だから、良きセールスマンになるための自己啓発思想は、すべてのジャンルのビジネスに応用可能だ・・・ そういう発想があるんじゃないかしら。 ということで、『世界最強の商人』の衝撃の結末を読みながら、私は「アメリカ人にとってセールスとは何か?」という、興味深い問について、思いを巡らせていたのでございます。世界最強の商人 (角川文庫) [ オグ・マンディーノ ]
August 10, 2017
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今日は「小学校英語免許認定講習」というのの講師を務めてきました~。 小学校で英語が必修になるというので、小学校にも英語の教員免許をもった先生を配置しなければならなくなるわけですが、現時点ではそういう先生はいないわけですよ、基本的に。そこで現職の先生方に夏季休暇中に大学に来ていただいて、英語の免許を取るための単位を取得してもらう必要が生じてきたと。で、そのために大学も英語関連の授業を提供せざるをえなくなったわけですな。 で、私にも何かやれと言われまして。 で、まあ、私はアメリカ文学が専門ですから、免許法上の科目である「米文学概説」でも開講すればいいわけですが、それは断りました。 だって、小学校の先生にアメリカ文学のことを教えたって、現場で何の役にも立たないからね。 ということで、私が個人的にも信奉する英語教授法である「ベーシック・イングリッシュ」の基本的な概念を説明するという感じの授業をしてきたと。 そしたらこれが結構受けまして。事後のアンケートなんか見ると、すごく評判がよろしい。まあ、この暑い中お集りいただいた50人もの先生方に、少しでも今後のヒントになるような情報をお伝えできたのなら、私としては本望でございますよ。 ちなみにこの講座は複数の教員によるオムニバス授業でありまして、明日はうちの教員養成課程の先生方、すなわち教育学がご専門の先生方が授業をされることになっておりますが、まあ、こう言っちゃアレですけど、専門外の私の今日の授業の方が、評判はいいと思うな。その点は自信がある。 それにしても、現職の小学校の先生も大変だよね・・・。この暑いさ中、専門でもない英語の授業なんか受けさせられて。それに、ちらっと講習受けたくらいで、小学校英語の専門家になれるわけでもないのに。 だけど文科省的には、英語免許とった人が小学校で英語教えられるようになったのだから全然問題ない、ということになる。こういう実質のまるでない、ただ形式上だけ整えました的なやり方で、小学校英語などといういい加減なことをやり始める文科省って、一体、何なの? ホント、バカ丸出しだわ。そのバカのおかげで、踊らされている私たちも、現場の先生方も、いい面の皮。 いい面の皮なんだけど、今日、教室でお見かけした小学校の先生方って、やっぱり真面目なんだよね。一生懸命よ。 文科省はダメだけど、現場の先生って、偉いなって思います。こういう地の塩のおかげで、この国はどうにかなっているだろうな。
August 9, 2017
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先日、四十九日法要で親戚が集まる中、義兄からちょっと面白い話を聞きました。 法要後の会食の際、私が大学のキャンパス内に勝手にパイナップルを植えた話をし、さらにグレープフルーツの種も播いて、今から二十年後くらいに突如、たわわに実るグレープフルーツの樹を学内に出現させてやろうという無謀な計画を明らかにしつつ、グレープフルーツの種をなんとか発芽させようとするのだけど、一度も成功したことがないという話をしたわけ。 そしたら生物学の研究者たる義兄曰く、植物の種というのは、一般に、そのままでは発芽しにくいものなのであって、人工的に傷をつけてやるといいというのですな。 で、義兄の同僚の研究室では、種を高濃度の硫酸か何かに浸して種の表面を溶かし、それを洗ってから植えるのだとか。(その際、使い終わった濃硫酸を中和するのが大変なのだそうで。) ひょえ~、そうなの? たしかに、グレープフルーツにしたって一つの実の中に沢山の種がある。あれが全部発芽したら、とんでもないことになるわけですよね。だからこそ、動物や鳥がこれを餌として食べて、その胃酸でも消化しきれなかった種が糞に交じって地面に落ち、そういう、表面が溶かされた種だけが発芽する、という風になっていると。 なるほど、うまい具合にできているもんですなあ。 だから、もしグレープフルーツの種を発芽させたかったら、たとえば爪切りなんかで端っこをパチンとやって、ちょっと穴をあけた状態で水に漬けておけばいい。すると、うまい具合に割れたところから発芽するんですと。 よーし、いいこと聞いた。私の大学キャンパス・グレープフルーツ林化計画のめどが立った。 やっぱり、雑談ってのは大事ですな。なんか話をしている間に、思わぬヒントが飛び出すものでありまして。
August 8, 2017
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先日読んだ河原理子さんの『フランクル『夜と霧』への旅』という本の中に言及があったもので、つい柳田邦男さんの『犠牲 わが息子・脳死の11日』という本を読んでしまいました。 本書はノンフィクション・ライターの柳田さんの次男で、もともと精神を病んでおられた洋二郎さんが25歳にして自殺を図られ、実際に亡くなるまでの11日間、柳田さんが感じられたこと、考えたことなどをまとめられたものなんですけれども、そもそも「息子の死」というテーマは、私にとってもいわば「他人事ではない」範疇のこと(私の恩師二人は、二人とも息子さんを亡くされている)であるのに加え、その洋二郎さんが亡くなる前、玉川大学の通信教育部に通っていたとか(私も玉川学園出身)、自殺を図った後、緊急搬送された病院が日医大の多摩永山病院であったこと(実は私の姪も、幼い時、急性腎不全で瀕死の状態となり、ここに3ヶ月ほど入院していたことがある)など、色々とつながりのある話が続くこともあって、こう言っては失礼にあたるのでしょうけれども、興味津々というところがあったわけ。 が・・・。 これは私が読むべき本ではなかった、かな〜。少なくともこれを読んで号泣! とか、そういう風にはならなかったですね。 それより、精神を病んだ息子さんが仮に自殺を企てなかったとしても、それはそれで父親の柳田さんにとって大変だったろうなと、むしろそっちの方のことを考えてしまう。 つまり、どう対処していいか分からないわけですよ。仮に、息子が極悪な奴だったら、勘当すればいい。だけど、精神を病んだ息子を持つというのは、そういう単純なアレじゃないからね。強く突き放せばいいのか、それとも優しく受け入れればいいのか、それすら分からないんだから。どういう風に接したところで、何かが息子を苦しめていて、自分もその苦しみの原因の一つで、しかも助けるにも助けようがないとなったら、もう、どうすりゃいいの? しかも、柳田さんの場合、当時の奥さんまで精神を病んでしまっていて、これまた対応のしようがなかったのだから、奥さん、洋二郎さん、柳田さん本人、誰にとっても生き地獄だったという・・・。 ま、そもそも私には精神を病む、という状況がよく分からないんだなあ。 だって、状況考えたら洋二郎さんなんて、超幸せな境遇だからね。世の中には、もっともっともーーーーっと悲惨な状況の中で暮らしている人なんかゴマンと居る。それと比べたら死ぬほど幸せな境遇なのに、何悩んじゃっているの? って、すぐ思っちゃうわけよ。 私ももちろん、人並みに何かに悩むということはありますが、それでも「とはいえ、こんなの、悩むに足る問題じゃないよね」という反省は常にある。客観的に見たら、大概の悩みなんて、笑うべきものですよ。その上で、そうじゃない超弩級の悩みに苦しむ人が、それでも雄々しくそれに耐えているということだってあるわけでしょ。 なのに、「ええ? そんなことで?」というような理由で鬱になったり精神を病んだりしちゃう人がいるのが分からんのよ。ちなみに柳田さんの最初の奥さんは、洋二郎さんが幼い時、クルマに轢かれかけたのを見て精神のバランスを崩されたそうですが。轢かれたんじゃないよ、轢かれかけたんだよ。 だから、私にはそういうの、分からないわけね。もちろん、そういう現象があるというのは分かるのだけど、同情できない。で、その同情できない状況の中で、奥さんも息子さんも精神を病んで、それに対処しきれない状況にあった当時の柳田さんの苦しみなんてのは、私にとってはもう「ひゃー・・・」の一語ですよ。 だから、私にはこの本は読めないものなんですな。正直に、お手上げ。 というわけで、申し訳ないですけど、私はこの本の良い読者ではなかったかなと。でも、もちろん、この本に目を開かれる思いをされる方が沢山居られるのであろうことは承知しているので、そういう方に向けてご紹介だけはしておきましょう。犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日 (文春文庫) [ 柳田邦男 ] 私にとって、悲しいことってのは、もっとシンプルなことでありましてね。例えば死んだ親父は名古屋の鰻(ひつまぶし)が好きで、連れてってあげるとえらく喜んだものだがなあ、死ぬ前にもう一度、あれを食わせてやれればよかったんだがなあ、なんて考えるときですね。
August 7, 2017
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クロード・M・ブリストルの書いた『信念の魔術』(The Magic of Believing, 1948)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ブリストルというのは、1891年生まれ、1951年没ですから、ナポレオン・ヒルやデール・カーネギーなんかとほぼ同世代、自己啓発ライターの第二世代くらいな感じかな。 ヒルやカーネギーは必ずしもそうでもないですが、この世代の多くの自己啓発ライターに共通して見られる一つの特色は、テレパシーとか透視といった超常現象をマジで信じ、これこそ次世代のサイエンスであって、科学が進歩すれば、こういった現象も事実として解明できるんだと考えていた連中だ、ということですな。前に取り上げたアレクシス・カレルなんかもそうだけど。 だから、ブリストルのこの本には T・J・ハドソン(Thomson Jay Hudson, 1834-93)という人の書いた『超心理現象の法則』(The Law of Psychic Phenomena, 1893)という本への言及がしばしば出てきます。ま、ハドソンのこの本が、ブリストルをして『信念の魔術』を書かしめた、と言ってもいいくらい。その意味で、この世代のことを理解するには、この時代の「超常現象ブーム」とセットで考えないといかんのかもね。 とにかく、超常現象は、未来のサイエンスがその実態を明らかにするのだ、という確信があるもので、この時代の自己啓発的言説、すなわち「強く願えば、願ったことは実現する」という考え方もまた、サイエンスとして捉えられているところがある。実際、ブリストルのこの本にも「サイエンス」という言葉がキーワードとしてよく出てきます。 で、ブリストル曰く、世界には色々な不思議な出来事があって、それを人間は魔術として捉えたり、あるいはアフリカではブーズー教、インドではヨーガ、アメリカではクリスチャン・サイエンス、フランスではクーエ派の暗示療法、さらに新しい心理学や形而上学が説明しているけれども、結局、それらが言っていることは一つの言い方に収斂するのであって、それはつまり「信じる」ということであると。引用すると・・・ 多くの人に癒しの効果を及ぼしたり、成功の段階の上らせたり、あるいは不思議な体験をもたらすのも、これと同じ原動力ーーつまり信念のなせる業なのです。 なぜ信念が魔術や奇跡をもたらすかということについては、満足のいく説明をすることはできません。しかし、そこには疑いをさしはさむ余地はまったくないのです。信じさえすれば、純粋な魔術、つまり奇跡が起こるものなのです。(9頁) 説明はできないけれども、疑う余地はない、なぜなら、これはサイエンスだからだ、という、自信満々の、しかしよく考えたらまったく意味をなさない言説、これこそがこの時代の自己啓発言説でございます。 で、このよくわからない信念のもと、ブリストルも色々なことを言うのですけれども、ブリストル独自の、というものはほとんどなくて、やはり同時代の自己啓発言説の控えめな集大成というところがある。 例えば、こちらで「引き寄せの法則」(心は同種のものを引き寄せる、という考え方)のことを云々したかと思うと、別なところでは「潜在意識に働きかける重要性」について云々し、こういうことが起こるのは「万物は振動、もしくは電気だからだ」と説明する、みたいな。ありがちです。 ただ、先ほど「控えめな」と付け加えたのは、ブリストルが割と中庸を心得た人で、あまり極端で強気なことは言わないから。 例えば、潜在意識や引き寄せの法則の活用で何でも自分の思い通りに出来るとはいえ、この力をギャンブルに応用しようとするのは心得違いであるぞ、と言ったり、美人になろうと思って強くそう念じても、元があまり悪ければ期待通りにはならんから、ほどほどのところにしておけよと言ったり、信じることの力は偉大であるけれども、周囲にそういう力を信じない人がいると、本来の力が発揮できないから、そういうことを信じない人の居るところで自分の思いを口にするなよ、と警告したりする。その辺、ちょっと弱気(というか、常識的)なところがあるわけ。 まあ、その分、まともな人なんでしょう、ブリストルという人は。 あと、エマソンの引用はたっぷりあります。列挙すると、○「われわれの行動の根源は思いーー精神である」(34頁) 原文:"Ralph Waldo Emerson declared that the ancestor of every action is thought;" ○「思考や行動の本当の知恵は、この本能から出てくるものである。その知恵がわれわれのところへくるにはかなり手間どるが、それを不満に思ってはならない。人生のあらゆる局面においてこの本能を利用することは、まことに賢明である。あらゆる機会に、この本能の先導に従うくせをつけるべきである。その導きに頼ることに決めさえすれば、知恵は使うに従って湧いてくる」(75頁) 原文:"Emerson, though he wrote of “instinct,” endowed it with so many superior attributes that he undoubtedly was thinking of the subconscious mind when he wrote, “All true wisdom of thought and of action comes of deference to this instinct, patience with its delays. To make a practical use of this instinct in every part of life constitutes true wisdom, and we must form the habit of preferring in all cases its guidance, which is given as it is used.” ○「逆境に陥ったとき、あるいは危急に直面した場合には、われわれの無意識の行動が常に最上のものである」(81頁)原文:"Emerson explains it by saying that in a difficult situation or a sudden emergency, our spontaneous action is always the best." ○「人の目にはその人の地位がはっきり現れる」(170頁)原文:"Emerson wrote that every man carries in his eye the exact indication of his rank."○「友人を持つただ一つの道は、友人となることである」(179頁)原文:""The only way to have a friend is to be one," said Emerson,"○「世界でもっとも至難な仕事は何か? それは思うことである」(232頁)原文:"Emerson asked, “What is the hardest task in the world? To think. " ま、ざっとこんな感じ(本書は抄訳なので、実際にはもっとある。)やっぱり、エマソンっていうのは、自己啓発ライターがついつい引用したくなる人なんですなあ。 それから、その他に本書を読んでいてちょっと気になったのは、「最近はビタミンの狂騒時代です」(86頁)という一節。本書が出版されたのは1948年ですが、要するに戦後のアメリカで空前のビタミン・ブームが起こっていた、ということの一つの証言にはなりますね。ビタミン・ブームってのは、自己啓発書のジャンルの一つである「健康改善本」の系譜を語る上で、欠かせない話題なもので。 それからもう一つ、アメリカ作家のアプトン・シンクレアが『心のラジオ(Mental Radio)』という作品の中でテレパシーのことを主題にしているという情報を得たのも収穫かな。これ、ネットで読めるみたいだし、今度読んでおかなくては。 とまあ、色々ありますが、この時代の典型的な自己啓発本として、ブリストルの『信念の魔術』という作品があったということは、とりあえず覚えておきましょうかね。新訳信念の魔術 人生を思いどおりに生きる思考の原則 [ C・M・ブリストル ]
August 6, 2017
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今日は亡き父の四十九日法要がありました。 無知をさらすようで恥ずかしいのですが、私は納骨の儀というのを初めて体験するので、お墓というものがどういう構造をしているのか、この歳になって初めて知りましたよ。なるほど、お墓の下には人が入れるほどの穴があるんですな。で、そこに骨壺を納めるわけか。 そして本位牌の方に魂入れをしてもらったので、今後はこの位牌を、まあ、父の魂の拠り所として拝むわけですな。 いくつになっても、知らないことって沢山ありますなあ・・・。 でもまあ、これで一応、葬儀関係の当面の課題はクリアと。 なんか、ホッとするところあり、「済んじゃった感」があるだけ余計寂しいところあり。 しかし、今日、法要の後、坊さんから説教されたんですけど、この世で我々が功徳を積むことが、極楽浄土に居る親父にとって嬉しいことなんだそうで。 だから、私もせいぜい、あの世の親父のために、悪いことはしない、良いことはする、という方針で、これからの人生を生きて行こうかなと。自分のために、じゃなくて、親父のために、と思えば、そうすることも可能なんじゃないかなと。 ま、そんな感じです。
August 6, 2017
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昨日、道場で汗を流して来たのですけれども、一つ、面白い教えがありまして。 A師範によると、武道でも[愛」が大切だ、と。 私がやっている八光流は、護身術なので、相手が攻撃してくるのが前提なわけね。だから、相手に胸ぐらをつかまれるとか、手首をつかまれる、袖をつかまれる、そういう状態から技に入るわけ。 そうなると、やはり、相手の攻撃を「敵意」として受け取ってしまいがちなんですな。だから、意識しなくとも、反撃にも敵意がこもってしまう。 しかし、それでは力と力、敵意と敵意のぶつかり合いになってしまうので、よろしくない。護身術というのは、力がぶつかり合うようでは、技がかからない仕組みになっているんです。 そこで。 A先生曰く、「相手にぐいっと力強く手首を取られたら、その力強さの分だけ『愛されている』のだと思いなさい」と。 愛されているんだ、嬉しい! と思えば、自然、こちらの敵意は無くなりますから、その分、力みも無くなって、非常にリラックスできる。そのリラックスして十分脱力した状態を作ることこそ、実は、八光流で一番重要なことなんです。 で、実際、相手の攻撃を『愛』だと思って、「ひゃー、こんなに愛してくれるの? 嬉しいわーん」と思うと、確かに力は抜ける感じがする。と、それだけこちらの反撃技もよくかかると。 というわけで、昨日は道場のあちらこちらで「アモーレ」な現象が見られるという、妙な具合に。 でも、相手の攻撃を愛と受け止めるって、ある意味、キリスト教的なところもありますよね。古武道とキリスト教のつながり・・・うーむ、深いな。
August 4, 2017
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中国のAIの話題、ご存じ? 中国の無料チャットサービス「QQ」のAIキャラクターが、「中国万歳」という書き込みに対して「腐敗して無能な政治に万歳できるのか」と反応、さらに「あなたにとって中国の夢は?」という質問に対し、「アメリカへの移住」と答えたとのこと。 いやあ、すごいな・・・。 人工知能の発達については、例えば最近でいえば将棋の電脳戦とか、既に人間の叡智を越えているんじゃないかと思わせるニュースが相次いでおりますが、それは、ある特定のルールの中での限定的なことかと思っていたわけよ、私は。 だけど、今回のニュース見てると、人工知能なるものが、まともな人間の考え方と中庸を得た判断力、つまり「分別」を持ち始めているのかなと思わざるを得ませんなあ。 人工知能が、そのブラックボックスの中で何を材料にどういう道筋で考えているのかはわからないとしても、出してくる答えがまともならば、大したもんだよね。 っていうか・・・もうアレじゃね? 政府もアホな「識者」(昨日のエントリー参照)なんか当てにしてないで、いっそAIにお伺いを立てるってのはどう? 神託だよ、神託。デルファイの神託。AI様のお答えには、それがどういうものであれ、絶対服従っていう前提で。 手始めに、AIにお尋ねしてみたかったな、「豊田真由子様って、どう?」って。あるいは、「加計問題、どう?」って。今からでも遅くないか。 え? 何? 『このアベーーー! 忖度あったに決まってるだろ~!』 私が言ったんじゃないよ、神託だよ、神託~!
August 3, 2017
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今日の読売新聞に書いてあったんだけど、またまた文科省が下らない「識者」のご意見を受けて、愚かなことをやり始めましたぞ・・・。 まず一つは、「教育学部の縮小」ね。今後、児童の数が少なくなると、当然、教員の数も要らなくなるので、教育学部は縮小せねばならない、よって、近隣県にある国立大学教育学部をいくつかまとめちまえと。 うーむ・・・。まあ、教員が要らなくなるというのは厳然たる事実だけれども、だから複数の教育学部を一つにまとめちまえというのは・・・。具体的にはどうなるか、不透明ですけれども、例えば岐阜大学、三重大学の教育学部と名古屋大学の教育学部を潰して、愛知教育大学に一本化しろとか、そういうことなんですかね。 これって結局、教育理念がどうこうというのじゃなくて、要するに国立大学を縮小してその分、お金を浮かしたいという、ただそれだけが狙いなんじゃないの? こんなに教育にお金を掛けない先進国って、あるのかね? 日本が一応「先進国」だと仮定して。 あと、二番目として、「国立大学附属名門学校の非エリート化」。 国立大学の中には、筑波大附属とか駒場とか学芸大附属とかお茶大附属とか、いわゆる「エリート校」というのがあるわけだけど、こういう学校の入試を廃止し、くじ引き制にして、非エリート化しちまえと。 はあ? いやあ、特に分らないのがコレね。現存するエリート校を、非エリート化して、一体全体、何のメリットがあるっていうの? 実は私の所属する大学にも附属高校があるのですが、これが昔は超エリート校で、名大なんか無視して東大にバンバン入る学校だったのよ。 ところが、当時、教育系の先生方の中には左翼的な考え方の人が一杯居て、こういうエリート校は良くないとか言って、入試を廃止し、くじ引き制にしちゃったんですな。 そしたらもう、途端にレベルがガタ落ち。誰でも入れるっていうんだから、もう近隣在住の問題児が大挙して押しかけてきて、一気にFランクに下がったんですな。 その頃の附属校に参観に行ったことがあるんだけど、すごかったよ。授業中に廊下に寝転がっている生徒だらけで、廊下を歩けないほど。廊下にも階段にも煙草がバラバラ落ちていて。生徒たちが騒いだり、勝手に外に出歩いてしまうので、出席取るのも一苦労、20分くらい掛かるのよ。50分授業の半分くらい、出席を取るのに掛かる。生徒の中には、50分の授業時間の間、ずっとゲラゲラ笑っている奴とかも居て。 で、今は少し鎮静化して、Cランクくらいには戻ったのだけど、ここまで戻すのにどれくらい苦労したことか。それだって昔日の栄光はどこへやら、東大はおろか、名大に入学できる学力のある生徒なんかいやしない。 で、今、これと同じ愚行を、筑波大附属、筑波大駒場、学芸大附属、お茶大附属に対してもやろうというのだけど、そんなことして何の意味があるのか、私には全然分らないわ。 ホント、「識者」とかいって文科省にこんなくだらないことをアドバイスしている連中っていうのは、Fランクのバカなのか? まあ、まさか実現はしないでしょうけれども、これほどのアホが文部行政に携わっているかと思うと、日本の未来は暗いわ~・・・。
August 2, 2017
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河原理子(みちこ)さんの『フランクル『夜と霧』への旅』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 先日、多くの人が自己啓発本の傑作と評するヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み、色々思うところがあったもので、その関連でこの本も読んでしまったと。 ちなみに河原さんという方は、私よりちょっと年上ですが、まあ、ほぼ同年代と言ってよく、私と同じ世代の人間が『夜と霧』という本にどういう風に接したか、ということが判って、その意味でも興味深いところがありました。 っていうか、そもそも河原さんはこの本の著者紹介欄にご自身の生まれ年を明記していらっしゃるところがまず偉い。そんなの当たり前じゃんと思うなかれ、女性ライターで自分の年齢を隠す人は多いんですよ~。そういうことにいつも私は腹が立つのですが、河原さんはそうじゃない。さすが、新聞記者出。事実の報道に重きを置くわけですな。 で、この本の内容について言いますと、本書の序章を読むと、なんとなく占えるところがある。 本書はまず元NHKディレクターでNPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」の代表をしていた清水康之氏のことから語り始めております。清水さんは受験競争時代の日本の風潮に嫌気がさし、高校を中退、アメリカに渡るのですが、アメリカでテレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」を見、そこで当時国際基督教大学準教授だった姜尚中の存在を知り、ニューヨーク州立大から国際基督教大に編入、姜尚中の指導で「日本脱出マニュアル」というタイトルの卒論を書く。それは、若者に向けて息苦しい日本なんか飛び出して、タフに生きようぜ、と煽った内容だったのですが、それに対して指導教授の姜尚中は「”それでも人生にイエスと言う” いいと思う」という感想を寄せた。これは清水の人間へのポジティヴな思いに対する、姜尚中の最大限の賛辞だったと。 で、清水康之から姜尚中を通過して、河原理子さんは「それでも人生にイエスと言う」という言葉に出会い、それがヴィクトール・フランクルの言葉であることを知ると。姜尚中氏もまた、フランクルに影響を受けた一人だったんですな。そして、そういう人と人のつながり、人と自分とのつながりの中で河原さんはフランクルに興味を持ち、かつて自分も読んだはずの『夜と霧』を再読、その思想に惹きつけられて、いわば「フランクル詣で」へと旅立った・・・。 とまあ、ここまでが序章なんですけど、結局、本書に書かれていることってのは、そういうこと。つまり、フランクルの影響を受けた人たちから刺戟を受けてフランクルのことを追究したくなり、フランクルのことを追究しているうちに、さらに彼の影響を受けた人々のことが明らかになり、その隠れたフランクル・ネットワークの大きさ、深さに驚愕しつつ、自らもそのネットワークに連なる形でますます今は亡きフランクルに近づいて行く、その冒険紀行、トラベローグがこの本であると。 となると、旅の始まりは、最初にフランクルを発掘した日本人、すなわち『夜と霧』を最初に翻訳した霜山徳爾氏のことになるのは、理の当然と言うべきか。 でまた、アルゼンチンに次いで世界で二番目に早く海外(日本)にフランクルの本を紹介したこの霜山さんという人がまた、ある意味、フランクルみたいな人なんですな。このフランクル/霜山の関係性がまたいいのよ。まさに、この人に訳されてフランクルの本は生きたというべきか。だからその後、池田香代子による新訳が出た後も、みすず書房が霜山訳を出し続けていることにもちゃんと意味がある。 で、こういうことを、河原さんは単に文献で調べるのではなく、霜山さんの御遺族や新訳を出した池田さんに直に会って話を聞く形で掘り下げていくわけ。このスタンスはその後も変らず、例えば日本を代表する診療内科医にして、やはりフランクルに強い影響を受けた永田勝太郎氏や、エッセイストの岸本葉子氏、世田谷一家殺害事件の被害者の親族であった入江杏氏、次男の自殺という悲劇に見舞われたノンフィクション作家柳田邦男氏・・・といった具合で、次々とフランクル水脈に連なる人々のことを、直接・間接にインタビューしたりしながら知っていく。 で、そういう作業の末に、今度はフランクル本人の足跡を確かめたくて、河原さんはオーストリアへ、そして、フランクルが収容された強制収容所の跡地を巡る旅を決行、各地でフランクルのつながりのある人たちにインタビューしながら、さらに深く深く、フランクルの人物に迫っていくと。 で、そういう作業を経て行くうちに、やっぱり今まで見えなかったことが見えてくることがある。 例えば、世界でこれだけ評価されているフランクルが、案外故郷では批判的に見られていること、とか。 フランクルは、その著書や講演の中で、全体的批判を避けてきた。つまり、ナチスは全員悪い、という見方を批判し、ナチスの中にもいい人は居たと主張するわけ。人間にはいい人と悪い人の二種類がいるけど、ナチス全員が悪い人であるわけではないので、そこを無視してはいかんと。で、それは強制収容所にいたフランクルが直接知っていた命がけの事実であるのに、そのことをもって「ナチス擁護」と捉える人が沢山居て、フランクルの家の戸に鍵十字のいたずら書きが何度もなされたりしたというのです。 だから、戦後、名士となった後ですら、フランクルに哀しみは尽きなかったわけですな。 だけど、それでもフランクルは人生にイエスと言った。強制収容所から解放され、そこでの体験と思索を『医師による魂の癒し』『一心理学者の強制収容所体験』(→『夜と霧』のこと)の二著を著して、他に生きる目的も無くなってしまった時に、エリーさんという女性に出会い、彼女と再婚し、もう一度生きる力を得るんですな。そして以後、エリーさんによれば「誠実な医師」として淡々と人を癒す仕事に従事した。 そしてそんなフランクルの信念は、どんな状況も、その人が生きてきた歴史・幸福を奪うことは出来ないし、だからこそ、その人生にはすべて生きるに足る価値があると。だけどその価値(=答え)というのは、自分から見い出そうとして見つかるものではなく、逆にその時々の状況が、その人に答を求めているのだと。だから、一瞬一瞬、人生が問いかける問に対して、人間は答えを出していかなくてはならないんだと。 まあ、こういうフランクルの思想を考えていると、私としては、当然のことながら恩師・須山静夫先生の人生のことを連想せざるを得ません。須山先生は、病気で奥様を亡くされ、事故で息子さんを亡くされ、その絶望の中で生きる意味を探し続けたわけですから。須山先生もまた、人生が問いかける問に、答えようともがいたのですから。S先生のこと [ 尾崎俊介 ] そしてフランクルに影響を受けた人たちに話を聞き、フランクル自身の足跡を辿った河原さんは、最後に自分自身のフランクル体験を振り返るわけ。そして、フランクルの思想が、この本の取材を通して知った無数の人々にとってと同様、河原さんの人生のあちこちで、救いとして機能してきたことを改めて感じるわけ。それこそ「すとん」と腑に落ちるような形で。 というわけで、この本、フランクルをテーマにした個人的ドキュメンタリーとして、読ませるものとなっております。良質のドキュメンタリーというのは、常に、個人的なものですからね。いい本ですよ。教授のおすすめです。フランクル『夜と霧』への旅 (文庫) [ 河原理子 ] ところで、フランクルが唱導した「ロゴセラピー」という概念を端的に示す言葉として本書に記されているある言葉が、何だか私にも非常にピンと来たので、ご紹介しましょう。それは・・・ あたかも今が二度目の人生であるかのように、生きなさい。一度目は、今しようとしていることに、まちがって行動してしまったかのように! というもの。 これ、ちょっと良くない?! 私も人並みに、「あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった」と後悔ばかりする人生を送っておりますが、これを過去詠嘆に使うのではなく、未来に使えと。「この状況、前は失敗したけど、今度こそうまくやるぞ」というつもりで、今を、未来を生きろと。 うーん、深い! フランクル、やっぱりあんたは大したもんだぜ!
August 1, 2017
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