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私は、耳が悪いのか、日本語ですら聞き間違いをよくやらかします。 で、最近、聞き間違えたのはサーモスのCMね。これ、ご覧になったことあります?これこれ! ↓斎藤慶輔さんのCM 冒頭、斎藤さんが自己紹介をするでしょ? これ、なんて聞こえます? 私には「まあ、基本的に僕は Jewish です」って聞こえるのよ。 で、ビックリして、「ん? どう見ても日本人だけどなあ」と。とてもジューイッシュ(=ユダヤ人)には見えない。 まあ、鷹の話が登場して、ようやく聞き違えていたことに気付くわけですが。 耳のいい人って、うらやましいなあ・・・。
November 29, 2017
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最近、大学の近くにシネマコンプレックスが出来まして、そこには「4D」映画の施設もあるとのこと。4Dですから、映像が立体的に飛び出してくるだけでなく、座っている椅子が場面に応じて揺れたり、熱風や水しぶきが顔にかかったりするヤーツーでございます。 で、昨日、同僚たちとコーヒーを飲みながら談笑している中でこの話題が出たんですが、そこで出た大半の意見としては、「そこまで映画鑑賞にリアルを追求するかなあ?」ということ。4D鑑賞となると、3D映画の時よりもさらに高い料金となるようですし。 で、アニキことK教授曰く、「3D映画ですら、それほど観ないよね・・・。いちいち専用の眼鏡をかけていないとダメだし、面倒臭い。僕なんて最初に話題になった3D映画のアレ以来、観たことないもん・・・」と。 で、そこに居合わせた教授陣全員が、「最初に話題になった3D映画の『アレ』」が何を指すのか、分かってました。 そう、全員分かっているの。だけど、名前(タイトル)が出ないの。その映画の。 ほら、あの、有名な、アレよ、アレ。カタカナ3文字の。 というところまで全員分かるのだけど、カタカナ3文字がどうしても思い出せない・・・! で、その場には40代のF先生も居たんですけど、F先生はその映画を観たことがないらしく、先輩同僚たちが何を指して言っているのか、分からないと。 で、誰かが「確か『ア』が付くんじゃなかったっけ?」と言い出した。 すると若いF先生、すかさず「『ア・・・ア・・・ア・・・リス・イン・ワンダーランド』ですか?」と。 ちげーよ! 次にまた誰かが「体の青い奴が出てくるんだよ!」と。 すると若いF先生、すかさず「分かった! 『ハルク』でしょ?」と。 ちげーよ! ハルクは青じゃなくて緑だよ! で、すったもんだのとんちんかんな問答が長く続いた後、ようやく思い出したのでした。 『アバター』ね。 はあ・・・。 もう、50代、60代の大学教授って、みんなこんな感じ。やだね、健忘症って・・・。・・・ていうか、ひょっとしてボケが始まっているのか? やばいね。ヤバターだよ。
November 28, 2017
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今年の卒論指導真っ只中というところなんですが、早くも来年のゼミ生を決定する時期に来ておりまして、今、3年生諸君が、三々五々、研究室訪問にやって参ります。で、今日は私の研究室にも十人ほどの学生がやってきて、釈迦楽ゼミに入るとどういうことになるのか、説明を聞いて行きました。 ま、それは毎年のことなのでいいのですけど、今年は一つ、驚かされることがありまして。 まあ、研究室訪問ですから、学生が私にゼミの様子を尋ねるのは当然。ですが、こちらだってどんな学生が入って来るのか、興味がありますから、こちらからも学生に尋ねるわけですよ。「君らは、どんな卒論を書きたいの? 大ざっぱなものでもいいから、今、考えていることを教えてくれる?」と。 ところが。 今日、私のゼミの様子を窺いにきた十人ほどの学生のうち、誰一人として、卒論のヴィジョンを持っていなかったというね。 つまり、何について卒論を書くか、まったく考えていないということ。 それは正真正銘「ゼロ」ということで、たとえば「まだ具体的には決まってませんが、アメリカ関連のことで書きたいと思っています」というレベルのヴィジョンすら持っていなかった。 うーむ。だってもう12月だからね。もうあと4か月経ったら、卒論書き始めることになるのに。それにもかかわらず、まったく、何一つ、考えていない。 っていうか、大学3年間、色々な授業を取ってきた中で、何か一つでも興味をそそられたことはないのかね・・・? 「国際文化学科」というところに所属しておりながら、外国文化に魅せられたことは一つもないと? せめて「アメリカのことに興味がある」とか「フランスのことに興味がある」とか、その程度のことでもいいから、考えていることはないのかい? 私だってアメリカ文化・文学系の授業を幾つか担当してきたのに、そのどれ一つとして心に響かなかったと? もうね、ガッカリだよ・・・。
November 27, 2017
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母のために作っている句集ですが、現在、校正の段階に入っております。 ところで、始めは自分の句集を作ることに消極的だった母ですが、ことここに及んでからは結構ノリノリで、完成したら自費出版で出された句集のためのコンテストに応募しようかな、などと、野心めいたことまで口にするようになりまして。 まあ、いいことですわ。目標を持つということは。未来が楽しみになってきますからね。 で、そんな話をふんふんと聞いているうちに、なるほど、俳句の世界にはコンテストというものがあるのだなと。 そりゃ、そうですわな。今や日本の俳句人口はものすごいのですから。 で、急に興味が出てきて、ネットでググってみたわけですよ。すると・・・ ひゃー、11月30日締切の俳句コンテストが一つあるじゃあーりませんか! そのコンテストは参加者それぞれが提出した81句の俳句を審査し、優秀なものを決めるというシステムのようで、もちろん参加費は無用。最優秀に選ばれると、その81句で句集を作ってくれるというのですから、これはありがたい。 で、今母のために編んでいる100句の他に、私の手元にはその100句の選に漏れた母の俳句が200句くらいある。その中から81句を選んで、このコンテストに投句してみたらどうだろう・・・? なーんてことを思いついちゃったわけ。 で、そう思ったら、締切は11月30日なんですから、もう時間がない。とりあえずその200句の中から、私の好みで81句をちゃちゃっと選び出し、エントリーシートに書きこんで、さっさと提出しちゃった。 ・・・そう、母には無断で。 姉が弟のプロフィールをジャニーズ事務所に無断で送っちゃった、みたいな感じ? ま、もちろんね、これが最優秀に選ばれるなんて思っちゃいませんよ。そんなに世間は甘くない。だけど、万が一ってこともあるからね。 ということで、ダメでもともと、うまく行けば儲けものという感じで、細工は流々、後は仕上げをごろうじろってね。母の知らないところで、ちょっとだけ、かすかな期待を抱いている私なのでありました、とさ。
November 26, 2017
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このところ卒論指導が忙しくて、自分の勉強が全然できなかったんですけど、1週間に1冊も自分の仕事関係の本を読まなかったというのでは、あまりに情けないと思い、今日は合間を縫って急いで1冊、本を読み切りました。 読んだのは、リチャード・ワイズマンの『運のいい人、悪い人』という本。 ワイズマンは基本、心理学者ですけど、マジックの名手でもあるという妙な経歴の人。だけど、マジシャンであることが、結構、彼の研究には役立っているみたい。まあ、マジックというのは、もともと人の心理を逆手にとって幻惑する技術みたいなもんですからね。 実際、ワイズマンが「運」の良し悪し、ということを研究テーマにしたのも、マジックがらみなんです。 ある時、彼はとある講演でマジックを披露したんですな。観客(その時はたまたま女性)を一人檀上にあげ、その人から20ドル札を借りる。で、それを20枚ある新品の封筒の一つに入れ、その封筒をシャッフルするわけ。 で、シャッフルした後、その観客に20枚の封筒のうち、1枚を選ばせ、残りの19枚は燃やしてしまう。そして、観客が自分で選んだ封筒の中に、その人の20ドル札が入っていたらマジック成功、というわけ。 果してそのマジックは見事成功し、観客はやんやの喝采! だけど、不思議なことに、当の観客の女性だけはきわめて冷静だったというのですな。 で、不思議に思ったワイズマンがそのことを尋ねると、その女性曰く「私はいつも運がいいので、こうなるとわかっていました」と。つまり、ワイズマンのマジックがどうのというのではなく、自分はいつも運がいいので、自分自身が出資した20ドルを回収できることを最初から信じていた。だから、マジックが成功しても少しも驚かなかったと。 で、この女性の反応にビックリしたワイズマンは、その後色々調べてみて、この世には「自分は運がいい」と信じている人がおり、その一方、「自分は運が悪い」と信じている人もいることに気が付くわけ。 以来、ワイズマンは、「なぜそうなんだろう?」「本当に運のいい人と悪い人はいるのだろうか?」ということに興味を持ち、それを科学的に実証したいと考えた。また、もし本当にそうだとすれば、その理由は何なのか、見極めようとしたんです。 で、例えば、「運がいい人は、悪い人に比べて知能が優れているのではないか?」とか、「何か特殊な予知能力があるのではないか?」とか、様々な仮説を立てて実験してみるのですが、知能の点でも、予知能力の点でも、運のいい人が必ずしも運の悪い人に比べて優れているわけではない、ということが判明する。 じゃあ、一体、運の良し悪しというのは何で決まるのか? その辺りのことをこの本は縷々説明しているのですが・・・答え、知りたい? どうしようかな~、とか言ってみたりして。 実はですね、簡単に言えば・・・「心の持ちよう」だったと。 なーんだ・・・というガッカリした声が聞こえたのは、私の幻聴? でも、科学的に言うと、そういうことなんだって。 で、じゃあ、運のいい人はどういう「心の持ちよう」をしているかと言いますと、ポイントが4つある。ポイント1:運のいい人は、積極的にチャンスを探し回っている。 宝くじに当たろうと思ったら、宝くじを沢山買わないとダメ、ってことですな。同様に、ステキな配偶者を見つけたかったら、家に閉じこもっていないで、パーティーに出てみる。レジに並んだ時に、前の人に話しかけてみる。明るい顔をして、オープンな態度で人と接する。そういう中から、運のいい人は運命を左右するような出会いにぶち当たっていると。ポイント2:運のいい人は、直観を信じる。 直観は、無意識の声。人間の判断に、無意識が加担することは実はすごく多いわけ。特に危険を察知した場合、無意識が危険を察知し、「そっち行っちゃダメよ」という声なき声を発してくれる。この声に従うことが、要するに直観に従うということなわけですな。だから、直観を信じて行動すると、危険を避けられたり、幸運を掴んだりすることができる。逆に、運が悪い人というのは、直観が「ダメ」と言っているのにそれを無視して、結局、災難に遭ってしまうと。ダメンズ・ウォーカーなんていうのは、大抵このケースね。ポイント3:運のいい人は、幸運を期待している。 自分はラッキーだ、自分には常にいいことが起こると信じている人は、実際にそうなると。 これは別にオカルトめいた話ではなく、いい事が起こると信じている人は、どんな苦境の時でも、「最後の最後には自分に都合のいいようなオチがつくはず」と信じているので、それを期待して最後まで頑張りぬくわけね。だから、その頑張りが功を奏して、実際、いい結果が出ることが多いと。逆に運の悪い人は、「どうせ自分には運の悪いことしか起こらない」と思っているので、苦境になると「やっぱりな」とあきらめ、落ち込むことしかしない。この差は大きいと。ポイント4:運のいい人は、不運を幸運に変えることができる。 銀行に行ったら、たまたま銀行強盗に遭遇し、流れ弾に当たって腕を銃で撃たれた。そんな場合、運の悪い人は「普通だったら、そんな目に遭うはずがない」という基準からこの事件を見るので、「なんて自分は運が悪いんだ」と思う。ところが運のいい人は「流れ弾が頭に当ってたら死んでいた。腕に怪我しただけで済んだなんて、なんて自分はラッキーなんだ」と思うわけ。つまり、最悪の事態を基準にして現実を見るので、不幸が幸福に見えると。同じように、仮に就職試験に落ちた場合、「もっといい会社に就職できるチャンスが広がった」と考えて頑張るので、実際にそうなるケースが多いわけ。そうすると、「ある会社の就職試験に落ちたおかげで、人生が開けた!」ということになる。不運が幸運になってしまうんですな。 とまあ、以上4つの心持ちさえ維持できれば、あなたも今日からついてついてつきまくる! ラッキーマンになれること間違いなし! ・・・だそうです。 どう? 納得した? 私は・・・まあ、納得しますね。 つまり、いわゆる引き寄せ系の自己啓発思想、つまり「念じれば、それは実現する」というのを、科学的に解釈すれば、上のようなことになるのではないかと。 要は、まず自分自身を変えろ、ということですな。そうすればあなたを取り巻く世界は変るよと。この点で、自己啓発思想と心理学者ワイズマンの結論は一致してしまう。そこがね、この本を「自己啓発本」として認定できる根拠なんですけれども。 というわけで、上に示した私のまとめさえ読んでしまえば、あえてこの本を読むまでもないのですが、色々の興味深いエピソードなんかも書いてありますから、もし興味のある方がありましたら、一読の価値はあるのではないかと。ご紹介だけしておきましょう。【中古】 運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則 /リチャードワイズマン(著者),矢羽野薫(訳者) 【中古】afb
November 25, 2017
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あのさぁ・・・思うんだけど・・・日馬富士問題はもうどうでも良くない? どのテレビ局もまあ一生懸命になって取材しているけれども、よく考えてみたら、モンゴル人力士同士の単なる内輪もめでしょ。 でまた、その程度のことを必要もないのに掘り下げるもんだから、旭鷲山をはじめ、「内情を知る」人たちってのが次から次へと登場しては、知りもしないことをしゃべって小金を稼いでいるじゃないの。 そろそろテレビ各局も我に返って、本来の業務に戻ってはいかがかしら。 閑話休題。 本来の業務といえば、ワタクシもまた今日は本来の業務に戻って、一生懸命卒論の添削をしておりました。 今日添削していたのは、アメリカの絵本作家ドクター・スースについての卒論だったのですが、添削するに当たって私もウィキペディアを始め、いくつかネット上の情報を調べて、スースについてのおおまかな知識だけは蓄えておいたわけ。 で、その過程で幾つか面白い発見がありまして。 まず一つは、ドクター・スースの絵本に特徴的な韻律について。 スースは好んで「アナぺスティック・テトラミーター」という不思議な韻律を使うのよ。これは「弱・弱・強/弱・弱・強/弱・弱・強/弱・弱・強」という12音節のリズムなんですけど、もう少し具体的に言うと「タ・タ・タン、 タ・タ・タン、 タ・タ・タン、 タ・タ・タン」という感じで、3つ目の「タン」のところにアクセントが来る。 これ、エドガー・アラン・ポーの有名な「アナベル・リー」という詩で使われる韻律ね。そもそも「アナベル・リー」というヒロイン名からして「アナ・ベル・リー」で、「リー」にアクセントが来るもんね。あと、変わったところでは、ラップ・シンガーのエミネムが「The Way I AM」という曲で使っているんだとか。これこれ! ↓Eminem, "The Way I Am" ま、それはいいんだけど、なんでまたスースがこの特殊な韻律を使ったかと言いますと、彼が奥さんを連れてヨーロッパ旅行した時、帰りの船のエンジン音がまさにこの「タ・タ・タン、 タ・タ・タン」だったというのですな。で、このリズムが頭から離れなくなっちゃって、それでこのリズムに合うフレーズを考えていたら、「And to think that I saw it on Mulberry Street」というフレーズが思い浮んだと。 で、このフレーズを脹らませて作ったのが、『マルベリー通りのふしぎなできごと』だったのだそうで。 は、はーーーん! なるほどね、って感じでしょ? あともう一つ面白かったのは、スースが絵本を書き始めたのには、彼自身に子供が無かったからなんじゃないか、という説。 スースは1936年、33歳の時に初めて絵本を書くのですけど、実はこの同じ年、妻のヘレンが妊娠できない体質だということが判明するわけ。 で、スース自身は「人は子供をつくるけど、僕は子供を楽しませるんだ~」とか言って、気にしていない風を装っていたようですけど、その一方、彼は1939年に「Infantograph」という特殊な写真機の開発に携わっているのね。 で、この「インファントグラフ」ってのは何かと言いますと、両親の顔を合成して、二人の間に出来る子供の顔を予測する、という機械なんですな。そんなところを見ると、やっぱりスースとしては、もし自分に子供がいたら、どんな顔になっていたのかな~、なんてことを考えることがあったに違いない。ちょっと切ないね。 だけど、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロル、『かいじゅうたちのいるところ』を書いたモーリス・センダック、『ピーター・ラビット』の原作者ビアトリクス・ポター等々、児童文学の傑作を書いた人の中に、自分自身の子供を持たなかった人って多いんですよね。 つまり、子供を持つことへの憧れのようなものが、人をして優れた児童文学を書かせるのではないかと。逆に、本物の子供を持ってしまったら、それを育てるのが大変過ぎて、とても憧れなんて抱いていられないんでしょうけれども。 そういうことも含めて、自身に子供がなかったスースが、児童文学の道に進むってのは、何となく分かるような気がするなと。 ま、卒論の添削をしながら、そんなことをつらつら考えていた今日のワタクシなのでありました、とさ。
November 24, 2017
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今日は通っている道場で昇段試験がありました。 ま、私には関係ないのですけれども、同じ道場の仲間で、初段から二段に昇段する人が2名、白帯から初段に昇段する人が1名いましたので、この3名にとっては気合の入る一日。 で、私は昇段試験受験者のうちのお一人の「受け」を務めることになりまして。 受験者は座技3種、立技3種を披露することになっているので、私は合計6種の技の餌食になるわけですが、こういう時、受けの役割というのは結構大きいもので、受験者が気持よく技を掛けられるように、受ける側は投げられる時は見事に投げられるべきだし、極められる時もキレイに極められなくてはならない。私自身が昇段試験を受けた時にも、先輩方に上手に受けていただいたわけですから、その恩返しと考えて、私も今日は思い切りズバーンと投げられて参りました。 で、受験者の三人は見事、昇段試験に合格されたのですけれども、皆嬉しそうでした。特に白帯から黒帯に変わることになる初段合格の方は、新たに授与された黒帯を胸に抱いて、嬉しそうにされていましたねえ・・・。 で、その後はいつものように、普通の稽古が始まったのですが、最近、割と調子がいいんですわ、私。 芸事ってのは何でもそうでしょうけれども、一生懸命稽古しているのになかなか上達しないなあ、と絶望的になる時期と、「あれ、ひょっとして自分、少し上手くなった?」と、希望的幻想を抱ける時期と、その両方が交互にやって参ります。もちろん前者の時期が長く続いて、後者の時期はほんの一瞬で終るんですけれども、今、ワタクシ的には、その束の間の後者の時期なんですな。 だからね、稽古が楽しくて、楽しくて! もちろん、この時期を過ぎると、また長く辛い「迷いの時期」に突入するのでしょうけれども、それだけに、今のこの一瞬を楽しみたいなと。 というわけで、今は道場から戻っても、ついつい空想の道場の中で、技を掛ける妄想を楽しんでしまうワタクシなのでした、とさ。今日も、いい日だ!
November 23, 2017
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今年4月、私の父と同じ88歳で亡くなったロバート・M・パーシグさんの奇書『禅とオートバイ修理技術』(原題:Zen and the Art of Motorcycle Maintenance, 1974)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本のことに触れる前に著者パーシグさんの数奇な人生について触れておきますと、先ず彼はIQ170、15歳でミネソタ大学に入学するほどの神童だったんですな。で、当時彼が専攻していたのは生化学。ところが、科学の分野では、一つの仮説を証明する度に更なる仮説が増えるばかりで、一向に最終的な解決に向かわないことに絶望し、大学2年の時にドロップアウトしちゃう。 で、朝鮮戦争に従軍した後、今度は哲学の学位を取り、インドに留学、さらにシカゴ大学大学院で哲学の学位を取ろうとするのですが、途中で断念(その経緯は本書内に記してある)、ミネソタ大学でジャーナリズムで学位を取得、それをひっさげてモンタナ大学(及びイリノイ大学)で教鞭を執ることに。その間、1954年に結婚して二児をもうけるのですが、モンタナ大学時代、精神を病んで入院を繰り返し(1961-63年)、その際、当時のことですから「電気ショック療法」を受けることになる。 で、この電気ショック療法によって、パーシグはそれ以前の記憶をほぼ、失うことになるんですな。 で、もはや大学で教えることができなくなった彼は、技術的な本のマニュアルを作るライターになって糊口をしのぐのですけれども、そんな頃、1968年に、彼は11歳になっていた長男クリスを連れ出して、オートバイによる長旅に出る。本書『禅とオートバイ修理技術』は、そのオートバイ旅行の記録なんです。 が! もちろん、単なる旅行記、紀行文ではございません。 まず問題となるのは、旅の相棒である息子のクリス。11歳という年齢からして、子供と大人の中間点であることは間違いないのですが、そういう年頃の子特有の扱い難さというのがある。調子のいい時はすごくいいのだけど、何か思い通りにならないことがあるとすぐにふてくされる。そういう扱いの難しい子を敢えて連れ出したというのには、もちろんパーシグなりの理由があるわけですが、それにしても、やっかいな相棒に振り回されることもある。そういう意味で、これは父親と息子の対立の記録でもある。 しかし、パーシグにとって息子クリスよりもっと扱いが難しいのは、自分自身なんです。で、電気ショック療法によって、過去の自分と今の自分に分裂していますからね。その二人の自分を一つにくっつけなければならない。で、その二つに分裂した自分に折り合いを付ける作業が非常に難しいものになることは避けがたい。 ちなみにパーシグは、電気ショック療法で記憶をなくす前の自分自身のことを「パイドロス」と名付けているんですな。で、パーシグには自分がパイドロスであった頃の記憶はほとんどないのですけれども、パイドロスが書き残した文章の断片は読んでいるので、そういった断片から少しずつパイドロス時代のことを思い出していくんです。でも、何しろパイドロスは成功者というよりは、挫折者ですからね。挫折した自分を掘り起こすわけですから、この作業自体、なかなかに辛いわけですよ。 そこでパーシグが持出すのが「シャトーカ(chautauqua)」というもの。これは19世紀後半から20世紀初頭くらいにかけてアメリカで流行した巡回講演会みたいなもので、地方の人々の娯楽と啓蒙を兼ねて実施される教育的な催し物のことなんですけど、オートバイでアメリカの田舎道をブッ飛ばしつつ、パーシグは頭の中で「ひとりシャトーカ」を行い、自分自身で過去の自分の頭の中を探っていくことをするんです。いわば、過去の自分であるパイドロスを一旦突き放し、あたかも赤の他人であるようなふりをして、そのパイドロスがどんな人間だったのか、人々に講演するようなふりをしながらパーシグが探っていくという、そういう回りくどい方法を取るわけ。 つまり、パーシグとクリス親子のオートバイ旅は、一面、実際の旅でありつつ、もう一つの側面では、パーシグが自分の頭の中を経巡る旅でもあるんですな。だから、この旅は二重の旅であって、実際に読者は疾走するオートバイから見えるアメリカ諸州の風景と共に、パーシグの頭の中の風景も見させられることになります。 はい、ここまでが本書の外枠の概要ね。ここから先が内容の説明、すなわち、パイドロスが一体どんな人間で、彼は何を考え、何を掴んだ(と信じた)のか、という説明になります。 が! これが難しいの。だってさ、IQ170の人が必死に考えた哲学的な思考を、私のような盆栽、いや凡才が正確に跡付けられるわけないじゃん。 ということで、ここから先はひょっとして的外れなまとめをするかも知れませんが、とにかくね、パイドロスが追求した唯一の主題は、「クオリティとは何か」ということなんです。 じゃあなんでその主題が出てきたかと言いますと、それはパイドロスがモンタナ大学で教鞭を執っていた時に遡ります。 モンタナ大学でパイドロスはライティングの授業を担当するんですな。つまり、自由作文の指導、みたいな感じです。 で、そこに出席している学生たちは、パイドロスに「文章の書き方」を習いに来ているわけ。 ところが。 パイドロスはそれを教えないのね。書きたいことを書きたいように書けと。しかも、そもそも成績を付けることすら拒否しちゃいます。 それはパイドロスの信念というか、大学というところが、なんかノウハウ的なことを教わって、適当にいい点とって、卒業して終り、という感じになっているのが気に喰わないんですな。だから、成績なんか出さない。そういう方針にすれば、学生は「いい点を取るため」ではなく、本当の意味での学問をするために大学に来るようになるだろうし、単なるノウハウでない何かを学ぶことができるだろうと、そう考えたわけ。 が、もちろんパイドロスの教育方針は大学執行部からの猛烈な批判と圧力を受けます。しかし、それ以上にパイドロスを参らせたのは、学生からも批判されたこと。学生としては、うまく文章を書くコツみたいなものを教えてくれて、頑張ればAをくれる普通の先生の方がいいのであって、パイドロスのような理想主義の先生には困惑しか感じないんですな。 しかし、パイドロスからすれば、いい作文ってどういうものかなんて、教わらなくても分かるだろうと。実際、学生に文章をかかせ、その中から良い物と悪い物を抽出して読み比べれば、どんな愚鈍な学生だってどちらが良いか瞬時に分かると。 つまり、作文における「クオリティ」の上下は、誰にでも瞬時に区別がつくと。 で、そういうもんだよ、と学生を諭しているうちに、パイドロス自身、何で「クオリティ」の差が誰にも分かるのか、否、それ以前に「クオリティ」ってそもそも何だよ? という問いに囚われて行くわけね。 で、ここからパイドロスの「クオリティとは何か」の探求が始まるんですけど、その探求は、ヒュームだ、カントだ、インド哲学だ、禅だ、ギリシャ哲学だ、っていう話になっていくので、難解すぎてよく分かりません。だけど、とにかく「クオリティ」というのは、何かがあって、それに「クオリティ」が付随するのではなくて、事実はその逆、まず「クオリティ」があって、その結果、世界が存在できるようになる、的なことになっていく。 だけど、そういうのは、単に思想的な難しい話というのでは必ずしもなくて、日常生活の中の事象にもすべて当て嵌まるというのですな。 例えばオートバイを修理するにしても、修理する自分がいて、修理されるオートバイがあるという状況、すなわち主体と客体が分れているような状況では、きちんとした修理は出来ないのであって、要はオートバイ修理に熱中するあまり、主体も客体も無くなるような状況が生じた時にこそ、「クオリティを見つめている」状態なのだと。また、一人の人間がクオリティを見い出すことによって、それが積み重なって世界を変えることにもつながると。 まあ、この部分だけ取り出すと、パイドロスの「クオリティ」の概念ってのは、チクセントミハイの「フロー」概念に似てるし、「個人の中身を変えることが外側の世界を変えることにつながる」という発想は、自己啓発思想そのものにも似ているなあと思うのですけれども、しかし、パイドロスのクオリティ概念をそんな風にまとめていいものかどうか、私にはよく分かりません。 ま、とにかく、そうやってパイドロスは、実は「クオリティ」こそがこの世で一番重要な概念なんじゃないのかぁぁぁぁぁっ!!っていうことを掴むわけ。で、そうやって興奮しちゃって、それでシカゴ大学の大学院で、自分の掴んだクオリティ概念を引っさげて、高名なギリシャ哲学の先生方と論争し、アカデミックな勝負には勝ったけれども、世間知に長けた邪悪な教授連によって試合には負ける、的なことが起こり・・・ で、精神の病に陥り、電気ショックを受け・・・の流れになっていくというね。 まあ、でも、そういうパイドロスの在りし日の格闘を、このオートバイ旅を通じてパーシグは完全に思い出す。それはある意味、パーシグが癒えていく過程でもあったわけですな。 だもので、最後の最後、息子クリスとの決裂寸前の親子喧嘩の後、どうやら二人の関係が修復するようなことがほのめかされて、この長い長い旅の物語は終ります。 この本、原稿の時点では121人もの編集者から出版を断られるのですが、ついにある出版社が出版を引受けてくれたんですと。それも、「価値があると思うから出すけれども、多分売れないよ」という予告付きで。ところが1974年に実際に出版されると、じわじわと評判になり、最終的には世界で500万部が売れる大ベストセラーになったと。 ちなみに、私の恩師である大橋吉之輔先生は、ちょうどこの本が出た頃にシカゴ大学で在外研究をされていて、その頃、会う人毎にこの本を勧められたんだそうです。で、実際に読まれて、ものすごく感動された、ということをどこかにお書きになっていた。そのことは私も知っていたのですけれども、今回、この本を読み終わって、今は亡き恩師とこの本について語るスタート地点にようやく立てた、という感じ。 さらにちなみにですけど、この本の主題であるオートバイ旅は、1968年に行なわれたそうです。 1968年。『2001年宇宙の旅』が公開されたのもこの年で、このブログでも最近よく取り上げる特別な年ですけど、この本もまた、1968年の旅を元に書かれた。『2001年』も『禅とオートバイ修理技術』も、共に「旅によって生まれ変わる物語」なんですけどね。 さらにさらにちなみにですけど、この本に登場する息子のクリス君、なんとなんと、1979年11月17日に強盗(?)に殺されたそうです。色々劇的ですな・・・。 ということで、難しいっちゃ難しい本なんですけれども、何故か人を惹きつけてやまない不思議な本。興味のある方は是非。禅とオートバイ修理技術(上) (ハヤカワ文庫) [ ロバート・M.パーシグ ]禅とオートバイ修理技術(下) (ハヤカワ文庫) [ ロバート・M.パーシグ ]
November 22, 2017
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基本テレビっ子なワタクシ、深夜の茶会をしつつ、のんびり深夜枠のバラエティーものを見ることが多くて、『月曜から夜更かし』とか『怒り新党』(=現『かりそめ天国』)、今はゴールデンに移ってしまった『今夜くらべてみました』、そしてもちろん『アメトーク』なんかをよく見るのですが、最近、そうしたメンツに加わったのが『激レアさんを連れてきた』。 若林正恭さんと弘中綾香さん司会によるトーク番組で、毎回、珍しい体験をした素人さんに話を聞くという趣向。 私が観たのは、「独自の走法理論を打ち立て、金メダリストを育てた布団屋さんの親父さん」とか、「ハンガリー産の豚を主人公にした漫画を描いていたら、ハンガリーから国賓として呼ばれた漫画家さん」とか、「アラブの石油王に気に入られてしまったおっさん」とか、「風俗店でクモ膜下出血で倒れた顛末が映画化されてしまった元引きこもりの漫画家さん」とか、まあ、それぞれに面白い体験をした人がゲストだった回なんですけど、そういう素人さんの話を若林さんと弘中さんが上手に引き出すものだから、すごく面白い。 お気に入りの深夜番組が増えて、フクロウ族のワタクシとしては大歓迎、まだ観たことのない方は是非。教授のおすすめ!です。 が! あまり好評になると、ゴールデンタイムへ移動、なんてことになって、つまらなくなっちゃうんだよなあ。だから、ホントは内緒にしておきたい感じ。深夜番組だからこその面白さを大切にしてもらいたいものでございます。
November 22, 2017
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ゼミ生の卒論指導をしていて、今日、一つ質問を受けまして。 そのゼミ生曰く、あることを調べていて、そのことについて書いてある文献を読むと、もうそこにすべてが書かれているので、結局、そこに書いてあることを自分の言葉で言い直すしかないのだけれど、それでいいのですか? と。 ああ、それね。この手の質問って、毎年のように受けるんだけど、結構、答えに窮するところがありまして。 そこで、今回はこういう説明をしてみた。 今、世間を騒がせている「日馬富士問題」ってあるだろう?と。 あれは、起った事実は一つしかないわけです。日馬富士が高ノ岩を殴打したという事実は一つしかない。 だけど、この事実の解釈ってのは、何種類もあるわけ。 例えば、「あれは日馬富士が悪いんだ」という解釈。横綱という、いわば「角界の顔」ともいうべき地位にある者が、こともあろうに番付下位の力士を一方的に殴打した。もちろん、番付下位の者が横綱に反撃するなんてことが通用しない条件の下で。しかも、素手ではなく、カラオケのマイクだとか、ビール瓶まで使って。この解釈から行くと、「日馬富士はヒドイ奴だ」という結論を導くことができます。 一方、「あれは高ノ岩が悪いんだ」という解釈もあり得る。今回の事件のほぼひと月前、高ノ岩は先輩諸氏の注意にも耳をかさず、某バーでくだを巻いて他の客に迷惑をかけたばかりか、傲岸不遜にも本人の居ないところで白鵬の悪口を言ってのけた。で、日頃のそういう生活態度に業を煮やした白鵬が、事件当日、高ノ岩を諌めたところ、高ノ岩は反省の色も見せず、先輩であり横綱でもある白鵬に対して非常に失礼な態度をとった。そこで、見るに見かねた日馬富士が激怒し、今回の事件となった。その意味で、もちろん暴力行為に及んだ日馬富士に責任なしとは言わないまでも、本当に悪いのは高ノ岩であり、日馬富士を一方的な加害者として扱うのは不当である――そういう結論を導くこともできる。 ところで、もし事情が上のようなことであるのならば、日馬富士=加害者、高ノ岩=被害者と割り切ることは出来ないのであって、その場合、「喧嘩両成敗」にするのが適当とも言える。で、日本相撲協会がこの事件の概要を早い時点で知ることができたのであれば、おそらく、日本相撲協会は「両成敗」の方向で処分を決めたでありましょうし、それはそれで適切な判断であったかもしれません。しかし、残念ながら事態はそのような方向には動かず、警察沙汰という最悪の方向に動き出してしまった。で、それでは一体なぜ、両成敗ではなく警察沙汰になったかというと、これはもう高ノ岩の師匠である貴乃花親方が、意図的にそういう風になるように動いたからとしか言いようがない。つまり、今回の事件の諸悪の根源は貴乃花親方である――このような結論もまた、解釈によっては正当なものと言えましょう。 しかし、それではなぜ貴乃花親方は、そのような妙な動きをしたのか。それは、貴乃花親方と日本相撲協会の間にある積年の対立関係があるからで、日本相撲協会はこれまでも力士の不祥事に対して、隠ぺい工作的な動きをする傾向があり、貴乃花親方はそうした協会の体質に非常に不満を持っていた。一方、協会は協会で、自分たちに何かと批判的な貴乃花親方を目の敵にするところがあり、それは例えば理事長選のような場面での多数派工作などを通じ、貴乃花親方に冷や飯を食わせようという組織的な圧力という形で顕れてきた。つまり、今回貴乃花親方に一見不思議な行動を取らせたのは、日本相撲協会が永年抱えてきた滓のようなものを一掃しようとしている貴乃花親方の正義感によるものであって、真の悪者は日本相撲協会である――という結論も、正当性がゼロとは言えないでありましょう。 とまあ、事件自体は一つしかないのだけれど、ざっと考えただけで「日馬富士が悪い」「高ノ岩が悪い」「貴乃花親方が悪い」「日本相撲協会が悪い」という4つの解釈・4つの結論を導くことができ、それぞれ相応の正当性があるわけですな。 となると、どういうことになるかっつーと、「どの解釈・どの結論を選ぶかは、お好み次第」ということになる。 結局、論文を書くというのもこれと同じで、いくつかある解釈の中から自分好みのものを一つ選び、その解釈を補強するような証拠固めをして自分好みの結論を出し、その上で「確かにこれが正しい解釈であり、正しい結論のようだ」と読者に説得することなわけですよ。 つまり、一つの事件から一番ありそうな解釈と結論(=物語)を自分で紡げと。そして、そうやって物語を紡ぐことが、要するに、論文を書くということなのだよと。だから、参考文献を読むにしても、その文献の解釈のみが正しいわけではなく、ただ単に、自分が紡ごうとしている物語を補強するものであるか、あるいはそれを反駁しようとするものかのどちらかなのだから、「どっちかなー?」って思いながら読んで、それに応じて利用すればいい。 まあ、そんな説明をゼミ生たちにしたわけ。 そしたら、いつも以上に納得されました。良かった~! 日馬富士問題も、使いようですな。
November 20, 2017
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今日は家内が外出先から夜戻ってきたので、夜ごはんは外食しちゃいました。 で、向かったのは「わだ泉」というカツ丼の店。家の近くにあるのですが、行くのは初めて。 この店の売りは、薄切りの豚肉をくるくると筒状に巻いたものをカツにするところ、そしてそれをソースではなくしょうゆ味のカツ丼にするところ。さらに、そのカツ丼も普通に食べるのではなく、最初はそのまま、二回目はワサビなどを乗せて、三回目はお茶漬けにして食べるという、ひつまぶし風の三段活用をするところ。 で、そんな感じで食べてみたんですけど、これがなかなか美味しい。しかも、これで800円ちょいなんですよね。すごくリーズナブル。 ま、パッと見た目が地味というか、華やかさがないのがちょっとアレなんですけれども、コスパもいいし、味もそこそこいいし、合格かな。 わだ泉、本店が守山に、支店が錦と竹の山にあるのですけれども、お近くの方にはおすすめ! と言っておきましょう。わだ泉HP
November 19, 2017
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二日ほど前、まだ少し早いかなと思いながらも、喪中ハガキを投函したのですけれども、そしたら今日、私の元に何人かの知人から喪中ハガキが届きまして。してみると、私が喪中ハガキを投函したタイミングも、大体合っていたのかなと。 それにしても、従来ですと、知人から喪中ハガキをもらっても、ふーん、ってなもんで、これから準備する年賀ハガキの印刷リストから除く作業をするだけの話、さしたる感慨も抱かなかったのですけれども、いざ自分自身が自分の親の死去に伴う喪中ハガキを出すことになると、やはり知人からいただく喪中ハガキもしっかり読むようになりますね。 特に亡くなった方の年齢は気になるかなあ。亡くなった自分の親と比べて、ああ、若くしてお亡くなりになったんだなあとか、こりゃ大往生だなあとか。 あと、喪中ハガキのデザインもつい見ちゃいますね。 大抵、喪中ハガキってのは渋いグレーの縁取りに縦書きの文言と相場は決まっているわけですけれども、私はどうもそういうのが気に入らなくて、もうちょいポップな感じにし、文章も横書きにしてみたんですな。でも、果たしてそれで良かったのか・・・。ま、どれが正解、ってのはないんだと思いますけどね。 あと、親が亡くなって、自分自身、その後の煩瑣な事務手続きに悩まされた経験をしただけに、喪中ハガキをいただいた知人の皆さんも同様に苦労されたんだろうなと。苦労を分かち合った同志的な感情も芽生えたりして。 要するに、何であれ、本当のことは自分自身で体験してみないと判らないってことですな。 とにかく、いつもならすぐに放り出してしまう他人様の喪中ハガキを、今年ばかりはその重みを感じて、いつまでもためつすがめつ眺めているワタクシなのであります。
November 18, 2017
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先日出版社に入稿しておいた母の句集の校正原稿が出まして。 やっぱりゲラが出ると、いよいよ本の出版に向けて大きく事態が進行したな、という実感があるもので、嬉しいものでございます。 で、今回は同時に表紙案も3案ほど出てきたもので、これらを見比べて、どの表紙で行くか、なんてことを考えるのも楽しい。悩ましいけど、楽しい。 とりあえず私が第三者としてざっと校正し、それをまた実家の母に送って、著者校正してもらうつもりですけど、中に使われる写真も、(私がざっと作ったパイロット版と違い)カラー写真で出ているので、母もより実際の本を見るようなつもりで校正作業が出来るでしょう。そもそも母は「校正」という作業を生れて初めてするわけだから、それも楽しい経験になるのではないかな。 というわけで、私自身のものではないとはいえ、ゲラを眺めながら、ニヤニヤしている今日のワタクシなのであります。今日も、いい日だ!
November 17, 2017
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ジミー・ファロンのお母さんが亡くなりまして。 まあ、ジミー・ファロンと言って、誰のことかわかる日本人は少ないかと思いますが、アメリカの有名な深夜トークショー『ザ・トゥナイト・ショー』の現在の司会者。アメリカでは相当な人気者でございます。 そもそもNBCの『ザ・トゥナイト・ショー』というのは1960年代の頭にジョニー・カーソンという超有名な司会者が出て、それで人気番組になったんですな。で、カーソン時代は90年代の頭まで30年続きます。 で、これほどの看板番組なので、カーソンを継ぐ重責を担うのは誰なのか、全米の注目を集めたわけですが、『ザ・トゥナイト・ショー』の直後に放送されていた『レイト・ナイト』という番組の人気司会者デヴィッド・レターマンが担当するのではないかというのが、最有力の下馬評だったんです。 ところが意外や意外、レターマンではなく、ジェイ・レノという人がカーソンからタスキを渡されたんですな。 で、これに怒ったレターマンは、相棒のバンドリーダー、ポール・シェイファーを引き連れてNBCからCBSに移籍、そこで『レイト・ショー』という番組を始め、ジェイ・レノへの対抗心をむき出しにした。で、レターマンの『レイト・ショー』とレノの『ザ・トゥナイト・ショー』は深夜のアメリカにおいて互いに覇を競うトークショーとして四半世紀の歴史を刻んだというわけ。 ちなみに、ワタクシ自身はNBC時代からデヴィッド・レターマンの大ファンですので、もちろん、『レイト・ショー』に清き一票を投じます。 しかし、両者寄る年波には勝てず、レターマンの引退に伴って同番組はスティーヴン・コルベアが引き継ぎ、一方のレノも引退。そしてレノの後を受けて『ザ・トゥナイト・ショー』の司会に抜擢されたのが、今、私が話題にあげているジミー・ファロンなのでございます。 で、「レターマン対レノ」の代理戦争となる「コルベア対ファロン」ですが、この対決ですと、ワタクシはファロンに一票を投じるわけ。っていうか、コルベアの番組、見たことない。でもファロンの番組は面白いですよ。この9月にサンタモニカに滞在していた時も、もちろん若いジミー・ファロンの軽妙なトークを楽しんでおりました。 ところが、最近、そのファロンのお母さんが68歳の若さで亡くなりまして。聞くところによると、亡くなる前の一週間、ファロンは番組を休んでお母さんの看病に当たっていたそうで。 しかし残念なことにお母さんは亡くなり、ファロンは番組に復帰。その際、番組の最後に1分だけ、お母さんの思い出を語った。 それによると、ファロンはお母さんっ子だったらしく、小さい時、お母さんと買い物に行って、一緒にカートを押しながら、お母さんがファロンの手をぎゅぎゅぎゅっと3回強く握り、「I love you!」って言ったことがあったんですって。それでファロンもお母さんの手を3回握り返して「I love you (too).」と言った。 以来、二人の間では、この「手を3回握る」のが「I love you.」の合図になっていたわけ。 で、お母さんがいよいよ亡くなる時、ファロンは、もう口もきけなくなったお母さんの手を3回握って、二人の間で通じる合言葉を伝えたんですって。 うーん、悲しいねえ・・・。 その話をジミー・ファロン自身が語っている映像があるので、ご覧ください。ジミー・ファロンの「I love you.」 ・・・本当に悲しい。 でもね、この「手を3回ぎゅって握って I love you. を伝える」ってのは、ちょっといいねえ。私もいよいよ死ぬときが来たらば、家内の手を3回握るだけの余力を残しておかなきゃ。
November 16, 2017
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『2001年宇宙の旅』がらみで、『ムーン・ウォーカーズ』という映画を観てしまいました。(ネタばれ注意) この映画の時代背景は1969年、アポロ11号月面着陸の直前。ソ連との宇宙開発競争を繰り広げていたアメリカは、もし11号が月面着陸に失敗した場合、国家のメンツが丸つぶれになるということで、保険をかけることにしたんですな。つまり、『2001年宇宙の旅』で超リアルな宇宙映像を作り上げたスタンリー・キューブリック監督に、極秘で月面着陸映像を作ってもらい、いざと言う時にはその映像を流して、月面着陸に成功した!というふうに装うことにしたと。 で、ベトナム戦争の英雄にして現在はCIA勤務のキッドマン(ロン・パールマン)に命じ、イギリスに渡って、キューブリック監督のエージェントに接触、極秘プロジェクトとしてキューブリックに月面着陸映像の制作を依頼することになったんですな。 で、キッドマンはイギリスでエージェントに接触するのですが、ここでトラブル発生。当該エージェントのいとこで、ダメダメなロックバンドのマネージャーであるジョニーをエージェントと勘違いし、ジョニーとその友人でちょっとだけキューブリックに風采が似ていたレオンに莫大な金を渡してしまうわけ。で、ジョニーはやばい連中から金を借りて首が回らなかったもので、これ幸いとその金の一部で借金を返済しようとするのですが、結局、やばい連中に全額持って行かれてしまうと。 で、ジョニーに騙されたことに気付いたキッドマンは、ジョニーとレオンを抹殺しようとするのですが、ある理由からそれは止めにして、とりあえずジョニーから金を巻き上げたやばい連中のところに行き、そいつらの大半を殺して金を取り戻し、その金でジョニーの友人の前衛映画監督レナータスに、とりあえず月面着陸映像をでっち上げてもらうことにする。 で、レナータスに依頼はしたものの、なにしろ前衛監督なもので、一筋縄ではいかない。で、なかなか事態が進展しないことに業を煮やしたCIAは、キッドマンの首をすげ替えるべく、新たなCIAの一団を送り込むことに。その一方、キッドマンにメンツをつぶされたやばい連中のボスは、キッドマンやジョニーたちを殺そうと徒党を組んで撮影現場に殴り込みを計画。 CIAとやばい連中の双方から狙われることになったキッドマンとジョニーたちの運命は? そして月面着陸映像は完成するのか?! ってな感じの映画です。 で、私の評価ですが・・・ 「80点」! B級映画として、かなりの高評価! 実に面白い! 各種映画サイトでのこの映画の評価を見ると、かなり低いので逆にビックリするんですけど、すごく良く出来た映画ですよ。特にキッドマンを演じたロン・パールマンの怪演ぶりは目を瞠るほど。素晴らしい! 基本的には「ダメダメな連中が何とか力を合わせて何かを成し遂げる」系の映画ですから、後味もいいしね。 ということで、この映画、ワタクシ的には絶賛おすすめ! ということにしておきましょう。ムーン・ウォーカーズ [ ロン・パールマン ]
November 15, 2017
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「アメリカ文化演習」という授業で、アメリカ映画論をやっておりまして、今日はかの有名なスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を学生に見せておりました。 もっとも、「かの有名な」と言ったところで、今どきの学生は『2001年』なんて見たことないんですけどね・・・。これに限らず、何一つ見てないんだ、学生は。 ま、今は2017年だし、「2001年は、一体どういう時代になっているんだ?!」という疑問は、連中にとってはそもそもないわけでありまして。むしろこの映画が封切られた頃に生まれた連中がそろそろ大学生になろうか、という時期ですからね。それもしょうがないのか・・・。 しかし、学生にこの映画を見せながら、自分としても改めて見直しているわけですけれども、やっぱりすごいんだよね、この映画。 何がすごいって、その圧倒的なリアリティが。今から約50年前のグラフィック技術で、よくもまあ、ここまでの宇宙空間感をリアルに映像化したものだなと。 ところで、そんな風にキューブリックの映像美に酔いしれていたわけですが、ふと、この映画が1968年に作られたことを思い出したわけ。 1968年! あ、なるほどね・・・。 通常の『2001年』理解ですと、やっぱりこの1968年という年号には意味がありまして、つまり1969年のアポロ11号月面着陸の前年だ、ということですな。 もうこの映画の翌年には、アメリカは人類を実際に月に送り込んだわけですよ。その意味で、1968年当時のアメリカ人にとって、「宇宙旅行」というのは、すぐ目の前の未来だったわけ。 例えば、ライト兄弟によって飛行機が発明されたのが1903年、その16年後には世界初の旅客機が飛んで、飛行機旅行が始まっております。となれば、1969年からそう遠くない将来に、人間は気楽に月旅行ができるようになるんじゃないかと考えたとしても不思議ではない。 今、自分が生きているうちに月くらいだったら簡単に旅行に行けるようになるだろうと思っている人は、アメリカであれ日本であれ、すごく少ないと思いますが、今から50年前のアメリカでは、宇宙旅行というのは手に届く未来だったわけですな。 当時のアメリカ人にとって、宇宙旅行は空想物語・夢物語じゃなかった。だからこそ『2001年』には、あれほどの圧倒的なリアリティが必要であった・・・ ・・・とまあ、これが従来のあの映画に対する一般的な解釈であるわけね。 ですが・・・。 ワタクシ、このところニューエイジ関係の本ばっかり読んでいるもので、それでふと思ったのですが、ニューエイジ思想にとっても1968年って結構重要な年号で、このあたりで2000年間続いた「魚座の時代」から「みずがめ座(=アクエリアス)」の時代へと、時代の大転換が起こるだろうと考えられていたわけね。 で、それと同時に人間も新たなフェーズに進化するのではないかと。 で、その進化には、ひょっとすると宇宙人が関与するかもしれないと。何しろ、ある種のニューエイジ思想によれば、地球上の生命の進化には、もともと宇宙人が関わってきたのだから・・・。 あ! ・・・と思うでしょ? だって、『2001年宇宙の旅』って、そもそも人間の進化に宇宙人が関与する、というストーリーなわけだし。 そう考えると、『2001年』って、ひょっとしてニューエイジの映画だったんじゃね? で、そう思って調べてみたら、実際、そういうことを言っている人は多いみたいね。私なんざ、寡聞にして知らなかったけれども、そうなんだと思ってみると、なんだかむしろがっかりするほど単純な映画ということになってしまいますな。 でも、このことはいずれ書く、ワタクシの本の小ネタとして、頭の片隅に置いておきましょう。 それにしても、1968年っていうのは、アメリカに限らず、何か意味がある年なんでしょうな。「1968年」をタイトルに含んだ本って、やたらにあるよ。何なんだろうね、1968年現象って? そのあたりについても、今後、少し齧っておかないといけないのかもね。【送料無料】 1968 上 若者たちの叛乱とその背景 / 小熊英二 【本】1968年 (ちくま新書) [ すが秀実 ]
November 14, 2017
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ソフィア・ローレンの『ひまわり』、初めて観ちゃった。 1970年の映画ですから、当時日本では大阪万博の年。私は小学校1年生。この頃のことを思い出すに、当時、日本におけるソフィア・ローレン人気はすごかったような気がします。絶世の美女的な。しかし、何せ私自身は小学校1年生ですからね。あまりにも大人っぽい色気に当てられて、良いんだか悪いんだか思案の外って感じでしたかね・・・。 今、この映画を観ると、ソフィア・ローレンってのは、まあ・・・独特の顔立ちといいましょうか。絶世の・・・というよりは、むしろ個性派ですな・・・。インパクトは確かにあるけれど。 ちなみに1970年当時の私のあこがれの女優さんは、ソフィア・ローレンなんかではなく、トレイシー・ハイドだったという。どうでもいいか。 それはともかく、この映画、監督が『自転車泥棒』のヴィットーリオ・デシーカでしょ。きっと素晴らしい出来なんだろうなと期待して観たわけよ。 が! 大したことないね(爆!) 『自転車泥棒』の素晴らしさと比べたら、もう、屁みたいなもんですよ。 大体、恋人・夫役のマルチェロ・マストロヤンニがちゃらい! こういうちゃらい奴だから、ああいうことになるんだよね! (どういうことになるんだかは、ご覧になって下さい。) 大体、記憶喪失だなんて、本当か? 絶対ウソだね。一瞬、そうなったかも知れないけど、すぐに記憶は戻ったはず。基本プレイボーイだから、適当にこっちで楽しくやってただけでしょ。 戦争の悲惨さなんていうけれど、この場合は、ただ単にマストロヤンニが煮え切らない奴なだけですよ。何でもかんでも戦争のせいにするなって。実際、ローレンに再会したら、今度は現在の妻と娘を放り出そうとするんだからね。男としてガッツがない。まったく同情できません。 ただ、音楽だけは素晴らしい。ヘンリー・マンシーニって、やっぱり映画音楽の天才だと思う。音楽と、画面いっぱいのひまわり画像。この映画で見るべきは、この2点だけだな。 まあでも、この歳になってようやく『ひまわり』を観て、長年の宿題をようやく果たしたような気にはなった私なのでありました、とさ。
November 13, 2017
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今朝、新聞の書評欄を読んでいたら、ちょっと嬉しいニュースが目に飛び込んできました。岡野弘彦氏の一世一代の傑作、『折口信夫の晩年』が、三浦雅士氏の解説つきで復刊されたとのこと。これこれ! ↓折口信夫の晩年 [ 岡野 弘彦 ] 私、この本は、日本人が日本人について書いた伝記の中で、最高傑作の一つではないかと思っているんですな。 というのも、岡野さんは折口信夫が死ぬまでの7年ほど、同じ家に暮していましたからね。で、内弟子の生活すべてを私してしまう折口に翻弄されながら、その偉大なところから何から何まで自分の目で見、心で感じている。そういう岡野さんだからこそ書けた、文字通り、折口信夫の晩年なのであって、これを読まずに折口信夫の何たるかなんて絶対に分らない。そういう種類の本でございます。その意味でボズウェルの『サミュエル・ジョンソ伝』に対抗できる唯一の本と言いましょうか。私はこの本、もう何度読み返したか分からないほど。十度、二十度じゃきかないな。 ちなみに折口信夫にはもう一冊、加藤守雄氏の書いた『わが師折口信夫』ってのがあって、これはまたこれで超生なましい伝記になっている。一人の人間に、これほどの伝記が二つあるなんて、信じられないような話でありまして、それだけ折口信夫という人の怪物的なまでの魅力・・・と言うべきか、引力というべきか・・・を持っていたということなのでしょう。これこれ! ↓【中古】わが師折口信夫 朝日文庫加藤守雄朝日新聞社1991年初版小口ヨゴレ少有[管理番号]文庫1304 ま、とにかく、最初のハードカバー版はもちろんのこと、中公文庫版も絶版になって久しかった『折口信夫の晩年』が、装丁もあらたに復刊されたことは喜ばしい。まだこの本をお読みになったことが無いという方、もう騙されたと思って読んでごらんなさいな。絶対に後悔することはないと思いますよ。教授の猛烈おすすめ!です。
November 12, 2017
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かれこれ3週間くらい前からずっと体調が悪くて、スッキリしない日々が続いております。 で、ここ数日は、右の肺が痛くて、身体を動かすのもそうだし、そもそも呼吸するのも一苦労。 大体、肺が痛いってこと、あります? 喉が痛いとか、頭が痛いってのはあるけれども。 で、心配になって「肺が痛い」「原因」などのキーワードでネット検索すると、まあ出て来るんだ、やばい話がぞろぞろと。やれ、気胸だ、肺癌だ、いやそういう時は実は肺ではなくて心臓が悪いんだ、とかなんとか・・・。 で、ああもうワシは死ぬんだ、死んでお星さまになるんだと世を儚んでいたんですけど、そう覚悟を決めたら逆に開き直ってきて、開き直ったら段々頭にきて、痛む肺をものともせずにちょっと体を動かしてみたわけ。肺も裂けよとばかり、胸を反らせてみたり、肩をぐるんぐるん回して見たり。すると・・・ あれ? 気持いいかも。いわゆる「痛キモ」っていう奴。 そうか、このところずっと横になったり縮こまっていたもんで、胸の辺が凝って固まっていて、それで変な痛みが出ていたのかな? だったら、むしろ積極的に運動して、血流を促して、凝りを取った方がいいんじゃね? というわけで、家内が使うエクササイズ用の大きなボールの上に仰向けに乗っかって背中をぎゅーっと伸ばしてみたり、玉川学園仕込みのデンマーク体操をしてみたり、さらには八光流仕込みの八光流体操などをしてみたと。そしたら、依然として右肺の辺りが痛むことは痛むけれども、それまでの「陰気な痛み」から「陽気な痛み」に変ってきた気がする。 ん? 陽気な痛み? おお、これぞポジティヴ思考! ってなわけで、いつまでもイジイジしていられないぜ! 今日からガンガン運動をして、陽気さで痛みをブッ飛ばしてやろうと思っているワタクシなのであります。
November 11, 2017
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最近、会う人毎に「『ブレードランナー2049』どう?」って聞かれる。まだ観てないって言うと、ガッカリされるんだよね・・・。逆に、こちらから「どうでした?」って聞くと、「長かった」という人7割、「長かったけど、良かった」という人5割、「長かったけど、観るべきところはあった」という人が4割、「長いしつまらなかった」という人3割って感じかな。 まあ、自分が観てないんで、何とも言えまへん。ただ、オリジナルの『ブレードランナー』はつい最近、改めて見直したので、新作を観る準備は万端。近いうちに観に行くことにいたしましょう。 で、今日は家で『シング・ストリート』という青春音楽映画を観ちゃった。去年くらいに封切られた映画ではなかったかと思うのですが、レビューなどを見ると総じて高評価だったので、ちょっと楽しみにしていたんですよね。(以下、ネタバレ注意) が! そうでもないね(爆!)。 いやあ。ワタクシ的には、いろいろ貧困問題も含め、八方塞がりの若者が、音楽というものを頼りに、その八方塞がり的な状況に立ち向かっていくような、そんな映画を想像していたんですわ。『リトル・ダンサー』の場合は音楽ではなくてバレエだけど、その音楽版みたいなのを想像していたわけ。そういうのを撮らせるとイギリス・アイルランド系の映画っていいのが多いじゃん? だけど、そこまでのシリアスさはないのよ、この映画には。一目惚れした女の子の気を惹くために急にバンドを結成することにした主人公の少年ですが、そこから先、バンドメンバーもすぐ集まるし、すぐにいいオリジナル曲も出来ちゃうし、特に挫折もなく、万事すいすいとうまく行くんですわ。当初、少年を苛めるいじめっ子も居たんですけど、どういうわけかすぐ仲良しになっちゃうし。通っている学校の校長とは少しだけトラブルけど、それにしたってそれほどのアレじゃないしね。また少年の両親はダメダメだけど、その代りにいいアニキが居て、ロールモデルを果してくれるし。 だから、この映画にそんなに切実なものってないんだよね、ハッキリ言って。単純な青春映画で、さほど深いものはない。そういう意味では、例えば『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』なんかの方がよっぽど切ない映画ですよ。これはサントラもいいしね。ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [ ミリアム・ショア ][CD] ヘドウィグ&ジ・アングリー・インチ/オリジン・オブ・ラブ というわけで、世評ほどは評価できなかったかな。100点満点で言うと、59点くらいにしておきましょうかね。
November 11, 2017
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タバコ吸う人、少なくなったよな~、と思っていたのですが、案外、そうでもないのかなと思わせることがチラホラ。 まずうちの大学。前の学長が何を思ったのか、教授会に諮ることもなく、突然「学内全面禁煙」を打ち出して、それを自慢げにHPとかでも謳っていたんですけど、それがいつの間にやら撤回されたらしく、今では学内の何か所かに喫煙スペースがあるらしいんですな。 執行部が勝手に禁煙にし、それをまた勝手に反故にするという・・・。まあ、一貫性のなさも含め、今のうちの大学の在り様を反映しているようですが、とにかく、学内に愛煙家が根強く存在することは確か。 ・・・と思っていたら、なんとなんと、私の最も身近な同僚の多くが、実は隠れ愛煙家であったことが判明。えー、そうだったの? アニキことK教授が愛煙家であったことは知っていたのですが、その後、タバコとはキッパリ縁を切ったのかと思っていたんですわ。でも、よくよく話を聞いてみると、たまに他の愛煙家から一本恵んでもらって、陰で吸っていたんですと。 で、アニキ曰く、「最近のタバコは軽いからね~」ですって。 つまり、昔風のニコチン・タール多目のタバコですと、一度禁煙した後でたまに吸うと、きつ過ぎて吸いたくなくなるらしいのですが、最近の1mg とかの軽いタバコは、たまに吸ってもそれなりにおいしく吸えてしまう。そこで、タバコを吸う友人に会う度に「悪い、一本!」とか言ってもらいタバコをするのが止められないんだとか。 一方、この頃は煙の出ないタバコ・・・電子タバコって言うんでしたっけ? 「アイコス」とか「グロー」とか、そういう奴・・・に手を出している同僚も何人か。あれは煙が出なくて、他人に迷惑をかける度合が少ないようで、それでつい吸ってしまうのだとか。ただ、好き嫌いがあるらしく、「紙巻タバコだと、紙の燃える味がして嫌なので、アイコスの方がいい」という奴がいるかと思えば、「アイコスはニコチンがきつくて嫌」という奴もおり。 とにかく、私自身の身の回りに、思いの他愛煙家が居ることに今頃になって気付いたという。 ふーん。そうなのか。 一方、私ですが、実は今、ちょっと興味のあるモノがありまして。それは、電子タバコ型のビタミン吸引器。 電子タバコ ビタミン リキッド フレーバー 本体 タール ニコチン0 電子たばこ vitamitas ビタミタス 使い捨てタイプ ビタボン vitabon ビタシグ vitacig vita【あす楽】ビタボン 電子パイポ・電子タバコ <VITABON> ビタミン水蒸気スティック 代金引換:可【全7種類のオーガニックフレーバー】『二次会 景品にもオススメ!』 これさあ・・・、どうなの? 楽しいの・・・っていうか、美味しいの? めちゃくちゃ興味あるんですけど。 しかし、遊びで買うには、ちょっと高いんだよなあ・・・。試しに買って、一回吸って、それで飽きて放り出すんじゃ、ちょっともったいないし。 まあ、別にわざわざビタミン吸わなくてもいいんですけど、これだけ愛煙家が回りに居るとなると、ちょっと私もなんか口にくわえてみたいじゃん? タバコ的なものを。 ということで、もし既にビタミン・タバコの愛用者が居られましたら、「あれ、いいよ」と私の背中を押して下さいな。
November 10, 2017
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うちの大学に非常勤に来られているI先生を交えて、夕方のコーヒータイムを楽しんでいた時、ちょっと驚くような話を聞かされまして。 その先生は毎週、このコーヒータイムに参加されるわけではなく、それこそ1ヵ月に1回くらいの割で参加されるのですが、今から半年位前に遊びに来られた時、たまたま私が「タッピング」の話をした、というのですな。 まあ、自分が読んだ本のことを話題に出すなんてのはよくあることなので、たまたまその時、そういう話題になったのでしょう。 で、例によって私が相当尾鰭をつけて、「タッピングで、大抵の身体の不調は治っちゃうらしいよ~」とか言いながら、基本的なタッピングのやり方をその場におられた同僚たちに教えたのでしょう。で、たまたまそこに居合わせたI先生も、興味深くその話を聞いていたと。 で、先日ですよ。 I先生、すごく体調を悪くされたことがあったんですって。で、苦しんでいる真っ最中に、タッピングのことを思い出したと。 で、藁にもすがる思いで、私が教えたやり方を思い出しつつ、自分でタッピングしてみたんですって。すると・・・ 治ったと。具合の悪いのが。たちどころに。 マジかよっ! で、「あれは有難かったです~!」ってお礼言われちゃった。 なーんと、なんと。そうなのかい。タッピングはマジで効くのか・・・。 じゃあさ、じゃあさ。この前の学会の時、超調子悪かった時、私もタッピングやれば良かったんじゃね? そうしてたら、ひょっとして、治ったんじゃね? 発表できたんじゃね? もう、他人を治してどうすんだよ、まず自分を治さなきゃ! いやはや。信じる者は救われる。私ももっと確信をもって、タッピングに頼れば良かったわ~。 っていうか、今もなお、ちょっと体調悪いので、早速やっちゃおう。トントントン! ・・・あ!【中古】単行本(実用) ≪宗教・哲学・自己啓発≫ 悩んだら、タッピング / パトリシア・キャリントン【中古】afb
November 8, 2017
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寺山心一翁(翁ってなんだよ?!)著『フィンドホーンへのいざない』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ニューエイジ系自己啓発思想の中心地のひとつとしてスコットランドの北部にあるフィンドホーン共同体に興味が涌きましたので、このところそっち関連の本を取り寄せては読んでいるのですが、この本もそんな一つ。 で、本書の著者である寺山心一さんという方は、もともと早稲田出のエンジニアで、東芝で半導体の研究なんかなさっていた人らしいです。東芝・半導体というと、さて、寺山さんは昨今の東芝についてどのようにお考えか、なんてちょっと思ってしまいますけど、それはさておき、とにかく昭和の猛烈サラリーマンだったわけですな。 で、その後退社されて別の小さな会社で働きまくっていた寺山さんを襲ったのが腎臓ガンだったと。ま、そういう病気ですから、当然、これまでの自分の人生を振り返ったり、先の見えない将来に絶望したり、そういう契機となった。ところが、そんな放射線療法やら化学療法でボロボロになっていたある時、病院の屋上で朝日が上がるのを見ていたら、その朝日のエネルギーがポンと自分の体に飛び込んでくるような体験をするんですな。まあ、一種の神秘体験と言いますか。 で、それ以後、死の恐怖よりも、今生きていることの感謝の気持ちが強まり、また生活も採食生活・玄米生活に変えたりしたことによって段々、回復していくわけ。 で、その回復途上で、寺山さんは安曇野にある「穂高養生園」という、ホリスティックな療養施設で過ごすのですが、ここで「フィンドホーン」に関係する様々な人々との出会いがあって、それで寺山さんもフィンドホーンに実際に行くことになる。で、彼の地でさらに癒しの体験を経た寺山さんは、以後、自分の体験を元に、より多くの日本人にフィンドホーンとその癒しの力のことを知ってもらいたいと活動を始め、今では公式に認められた立場でフィンドホーンへの日本人旅行者のツアーなどを企画するなどしていると、まあ、そういうことらしい。 で、そういう立場から、フィンドホーンでどういうことが行われているか、というのを解説したのがこの本でございます。 だから、この本はむしろフィンドホーンの現在の活動について説明している部分が多く、歴史的な経緯などは割とさくっと書いてあるのですが、もともとフィンドホーンの創立にかかわったのは、アイリーン・キャディとその夫のピーター・キャディ、二人の三人の子供、それに友人のドロシー・マクリーンの6人なんですと。 ちなみに、アイリーンとピーターは、不倫みたいね。アイリーンには他に夫と子供がいたんだけど、そいつらを捨てて、ピーターと出奔したんですと。逃避行だよ、逃避行。 で、キャディ夫妻はフィンドホーン近くのホテルの住み込み支配人になるんですが、アイリーンが神の啓示によってこのつぶれる寸前のホテルの経営を立て直してしまったと。 ところが、神の啓示を元に経営しているという噂が広まってしまったもので、二人はホテルの経営者から突然解雇されるんですな。 で、仕方がないので、二人と子供たち、それに友人のドロシー・マクリーン(この友人のドロシーというのもアヤシイよね・・・。不倫夫婦となぜ行動を共にするのか。解雇されて放浪する友人夫婦に、普通人は付き合うか??)の6人はトレーラーに乗って放浪し、それでフィンドホーンに到達すると。 そしたらそこでまたアイリーンのもとに精霊からの語り掛けがありまして(いつも都合のいい時に語り掛けてくるもんだね!)、この痩せたフィンドホーンで農作物の種を播け、と命じられるんですな。で、その通りにやってみたら、一個18キロのキャベツ、一個27キロのブロッコリーが採れたと。これがいわゆる「フィンドホーンの奇跡」という奴。 で、時折しもニューエイジの機運が高まっていた時(1960年代後半)でありまして、フィンドホーンの奇跡が人々に知れ渡ると、こここそがニューエイジの始まる場所に違いないってんで、イギリス中から人が集まって来ちゃった。で、そういう連中を収容するために7棟のバンガローが建てられ、100人分の食事が作れるキッチンが作られ・・・的に発展し、さらに70年代にはいるとデイビッド・シュパングラーというアメリカ人(本ブログでもすでに紹介済み)がやってきて、彼が中心になってフィンドホーンのことが学べるプログラムが完成、さらに噂が噂を呼び、時には数千人のアメリカのヒッピーがやってきてフィンドホーンに滞在する、などという事態にも。で、ここで成功したデイビッド・シュパングラーは、アメリカに戻って「ロリアン協会」を設立すると。 で、1975年には「フィンドホーン財団」が設立されて、かつてキャディ夫妻を追い出した隣町のクルニーヒル・ホテルを逆に買い取り、ここをカレッジとして使うなど、フィンドホーンは順調に団体として成長しちゃうんですな。また、この頃からフィンドホーンもエコロジーに気を遣うようになり、エコ・ヴィレッジとしても成長していくと。 ちなみにフィンドホーンは、別に独自の宗教を唱道しているわけではなく、むしろ様々な宗教的バックグラウンドの人々が集って、それらに共通するものを平和的に探しだしていこうといったスタイルを取るんですな。そこがまたニューエイジのニューエイジたるところでありまして。でも、とにかくこの土地には余程スピリチュアルな意味でのエネルギーがたまっているのか、ここを訪れた人々は、それぞれ何らかの神秘体験をし、頑なだった心が開いて、心身共に健康になるらしいんですわ。そういうこともあって、この地を訪れる人は引きも切らず、そういう訪問者が中心になって今でも年間200ものイベントが行われたり、シンポジウムや国際会議が行われたりして、お盛んな様子。寺山さんの紹介もあって、日本からも定期的にツアーが組まれ、一週間の体験入所とか、そういうのを体験する日本人も結構居るのだとか。 で、実際、体験ツアーとかでここを訪れるとどういうことになるかと言いますと、まずそれぞれにあった仕事を割り当てられるんですって。清掃とか、畑づくりとか。それから瞑想をしたり、ヨガやらされたり。歌うたったり、ダンスさせられたりもするらしい。 ちなみに、国連の建物の中には「瞑想室」があるんだそうですが、その瞑想室にはパワーストーンが置いてあるそうで、その石はフィンドホーンから持ち込まれた石だそうですよ。そういう意味で、フィンドホーンのパワーってのは、国連お墨付きなわけね。 しかし・・・まあ、瞑想や畑づくりはまだしも、みんなで手をつないで歌を歌ったり、踊ったりするの、私は嫌だなあ・・・。あくまで個人的な意見ですけれども。 だけど、そういうのを嫌がってないで、アホみたいに無心になって参加すると、いいことあるみたい。急に啓示を受けて、涙が止まらなくなったりして、何らかのカタストロフィがあるみたいよ。本書巻末には、どうやったらフィンドホーンに参加できるか、その手段や連絡先なんかも書いてありますし、色々行き詰っている人は、一度参加してみるといいんじゃないでしょうか。別に私が勧める義理はないのだけれども。 ま、とにかく、「信じる者は救われる」という奴でしょうな。それがニューエイジであり、それがニューソートなわけですが。 とまあ、本書はこんな感じの本でございます。関係者による紹介本ですな。本当はもう少し客観的な歴史的記述があるとよかったのですが、もともとそういう種類の本じゃないのだから、それを期待した私が間違っているのでしょう。 でも、ざっと現在のフィンドホーンがどんな感じのところで、どういう活動を行っているのか、ということについては概ねわかりましたので、良しとしましょうか。【中古】フィンドホーンへのいざない—誰もが癒される不思議な場所がある 心一翁, 寺山
November 7, 2017
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親父が亡くなって、ああ、昨年に続き今年も喪中ハガキ作らなくちゃなあと思い、先日ネットで注文しておいたら、今日、それが届きまして。 おお、なかなかいい出来だ!・・・じゃなくて。 こういうの作ると、改めて、ああ、親父、死んじゃったんだなあって思いますなあ。 そういや、親父の遺品を整理していた時、ネクタイが結構沢山あって、その中でまだ使えそうなものはもらっておいたんですわ。 昔の人のネクタイって、すごい高級品なのよ。全部ブランド品だからね。ネクタイって、そういう位置づけだったんでしょうな。 で、たまたま今日、その中の一本をしていったんですけど、やはりモノがいいなと。色もいいし。100%絹だしね。 で、大学から戻って着替える前、親父の遺影にそのネクタイ姿を見せながら、「どう? 結構似合うだろ?」って。 生前、よく「俺のものはみんなお前にやるよ」って言っていた親父ですけど、別にもらわなくてもいいから、もうちょい生きていて欲しかったな。
November 7, 2017
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最近我が家で流行っているお菓子がコレ。ココナッツサブレ。 でも、普通の奴じゃないのよ。「ベイクドチーズ」味。日清シスコ ココナッツサブレベイクドチーズ20枚 【イージャパンモール】 実は我が家では、それ以前にココナッツサブレの「発酵バター」味が流行っていて、「コレ超旨いじゃん!」とか言っていたのですけど、今回のベイクドチーズ味は、ひょっとして発酵バター味さえも陵駕したかも・・・。 日清シスコ ココナッツサブレ 発酵バター 20枚 ま、両方とも美味しいので、まだ食べたことない方は是非!
November 5, 2017
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フィリップ・チェスターフィールド著『わが息子よ、君はどう生きるか』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみに、本書の著者は「フィリップ・チェスターフィールド」となっていますが、正式にはそうじゃない。「フィリップ・スタンホープ、第4代チェスターフィールド伯」ですね。チェスターフィールドは地名ですから。 で、フィリップ・スタンホープという人は、1694年生れの1773年歿ですから、よほど古い人。貴族の生れにして、後には政界で活躍し、また文人としても知られた人ですね。で、生前はウィットに富んだ著作の数々で誉れ高かったようですが、死後は本書(原題は『Letters to His Son』)のみが残ったと。この本はもともと、息子に宛てた手紙であって、もちろん公開するつもりなんかなかったわけですが、結局、その非公開の手紙で後世に名を残すことになるとは、スタンホープ本人にとっては意外なことだったでございましょう。 ちなみに「息子」に宛てた手紙と言っても、その息子ってのは、庶子だからね。スタンホープと本妻との間には子供は生まれなかったの。で、この息子は、スタンホープが仕事でハーグに滞在していた時に、現地の女に生ませちゃったもので、それでもスタンホープは彼を教育面で相当バックアップしたらしい。それなりに才能のあった息子だったようですが、やはり庶子であることのハンディキャップは大きく、また病気も災いして早死にしております。 ま、とにかく本書は、スタンホープが庶子の息子に対し、処世術を伝授した一連の手紙でありまして、イギリス紳士たるもの、心して耳を傾けるべきマナー集として18世紀から今日に至るまで広く読まれ続けている名著ということになっているわけですな。先日ご紹介したように、明治時代に来日したバジル・ホール・チェンバレンの蔵書にもしっかり入っていましたから、この本が如何に広く読まれていたかはもって知るべし、というところでございましょう。 ちなみに、以前このブログでも取り上げましたG・キングスレイ・ウォードの『ビジネスマンの父親より息子への30通の手紙』なんかもそうですが、自己啓発本の一つのジャンルとして「父親が息子に伝授する処世術」というのがありまして、本書『わが息子よ、君はどう生きるか』はまさにこの伝統の劈頭に立つものと言っていい。 で、『ビジネスマンの父親より息子への30通の手紙』をご紹介した時にも書きましたが、私が思うに、このジャンルの自己啓発本は、基本的に「うざい」です。 と言いますのは、一般論から言ってですよ、息子にとって一番、処世訓を受けたくない相手が父親だから。 私にも経験がありますが、親父からの説教ほどうざいものはない。その意味で、父親は息子にああしろ、こうしろと言っても無駄なのよ。聞き入れないんだから。もし聞き入れるとしたら、親父が死んだ後ですよね。「ああ、昔親父がよく言っていたけれども、確かにそうだなあ」と。生きているうちなんか、親父の言うことの反対のことしかやらない。それが息子ってもんでしょう。 だから、「父親が息子に伝授する処世術」という自己啓発本ジャンルは、その成り立ちからしてある意味、崩壊しているわけね。 で、もしこのジャンルがそれでも成立するとすれば、読者が息子の立場ではなく、赤の他人として著者の意見を承って、その上で著者の言っていることを受け入れられるかどうか、に掛かってくると思います。 もっと端的に言うと、当該の本における父親と息子の距離が遠ければ遠いほど、成功する確率が高いということになる。その方が、より一般論になりますからね。 で、『ビジネスマンの父親より息子への30通の手紙』の場合ですと、これは父親の会社を継ぐ二代目に向って、父親があれこれ口を出す想定ですから、親父と息子の関係は血のつながりだけでなく、社長と次期社長という仕事上のつながりもある。両者の距離はすごく近いわけ。だから、ものすごくうざい本になっております。 一方、『わが息子よ、君はどう生きるか』における両者の関係は、社会的身分もある貴族の親父と、その庶子との関係だからね。色々な意味で遠くならざるを得ない。 だからいいのよ! 私が思うに、『ビジネスマン』読むくらいなら、こっち読んだ方がよっぽどいいよ。さすが、200年以上に亘って読み継がれているだけのことはあります。 さて、ではその内容は? ということなのですが、すごくしたたかです。イギリス的な意味で。 それはつまり、「道徳的」というよりは、「戦略的」という意味ね。この本は、別にモラルを教えているわけじゃないの。そうじゃなくて、モラルの観点から言えばこうすべきだろうけど、実際にはこうした方が自分の得になるよ、と。そういう教えを垂れているのがこの本。 でも、処世訓って、そういうことだから。 例えばチェスターフィールド伯が息子に与えた処世訓の一つに「お世辞を言えること」というのがある。 人間は誰しも人から褒められたいと思っている。だから、その褒められたいと思っているところを褒めてやると、その人を自分の味方にできる。しかし、相手がどこを褒められたがっているかを見抜くことが重要で、例えば一流の政治家の政治手腕を褒めるより、その人の二流詩人としての側面を褒めてやった方が遥かに効果的だ。なぜなら、その人は政治に関しては自信があるが、詩人としては自信がないから。その自信のないところを褒めてやれば、相手はイチコロだ。そのためには、相手の言動をよーく観察すること。観察していれば、どこが褒めどころか、分かるはずだ・・・ ・・・的なことが書いてある。無論、「おべっかを使う」というのは、モラル的にはあまり褒められたものではないわけですが、「賢くおべっかを使う術を身に付けている」ことは、良好な人間関係を築き、自分の身を守るためにも非常に有効な手段だから、覚えておけと。 要するにこれがチェスターフィールド伯スタンホープの処世訓なわけ。単なるモラル集とは格が違う。人間学ですよ、人間学。人間通になれと、彼は息子に教えているわけ。 その他、私が「ほう」と思ったこの種の処世訓を羅列していきますと・・・○自分の長所に気を付けろ。短所というのは、それ自体醜いものだから、誰しも避けようとするが、長所は一見素晴らしいものに見えるので、誰もそれを抑制しようとしない。しかし、長所をそのまま増長させると、ひどいことになる。例えば学識は素晴らしい長所だが、ほうっておくと鼻持ちならない衒学になってしまう。長所が長所であり続けるために、よくよく意識して見張っておかなければならない。○他人の些細な欠点には、目をつぶった方がいい。そんなところまで注意して、相手に嫌われるより、その相手の無邪気な欠点に目をつぶって友だちで居た方がよほどいい。○人望ほど合理的で着実なよりどころはない。一人の人間を押し上げるのは、人々の好意であり、愛情であり、善意だ。ではそう言ったものをどうやって手に入れるかというと、まずは手に入れる努力をすべきだ。人々の好意・愛情を努力しないで手に入れた人はいない。○人間は普段よく話をしている人間の雰囲気、態度、長所・短所、ものの考え方まで無意識のうちに取り入れてしまう。だから、付き合う人間を選べ。しかし、もしそういう優れた人が廻りに居なかったのなら、やはり周囲の人間をよく観察して、この人のこういうところがいい、ということがあれば、それを真似よ。○服装や髪形、清潔感など、外見は非常に重要であるので、よくよく気を付けて自分の外見を整えよ。ただし、一旦整えたら、その日一日、自分の外見には一切気を取られるな。○どんな話題にせよ、「その話、知っている」ということを言ったり態度に示したりするな。とにかく、何も知らないという風を通して、相手にとことん語らせよ。そうすれば、案外、自分の知らなかったことまで語ってくれるかもしれないから。○人生最大の教訓は、「物腰はやわらかく、意志は強固に」ということ。仮に譲歩しなければならないことがあったとしても、全面譲歩ではなく、一歩一歩、少しずつ譲歩せよ。柔軟であることは、必ずしも良い結果をもたらさない。譲らない一線を保て。ただし、あくまでも物腰柔らかく。 ・・・ってな感じ。どうよ、なかなかタメになるでしょうが。少なくとも私には大いにタメになりましたね。特に最後の奴とか。私の場合、意志は強固だけど、態度も強固になりがち。そこが私のダメなところで、敵を作っちゃうところなのよね。反省。 ちなみにこういう処世訓を快く思わない人というのは居るのであって、例えばかの有名な文人、ドクター・ジョンソンなんか、チェスターフィールド伯のことはクソミソで、「この本は売春婦のモラルを教える本、ダンスの先生向けのマナー集であって、そういう輩を、うわべだけは紳士として通用させるためのものだ」なんて憎まれ口を叩いております。もっとも、ドクター・ジョンソンは例の英語辞書を編纂する際、チェスターフィールド伯に経済的援助を懇請したものの、体よく断られたことを根に持っていたので、彼の罵詈雑言は、若干割り引いて考えないといけないのかも知れません。 あとね、歴代チェスターフィールド伯はファッションとかインテリアの分野にも名を残していて、例えば「チェスター(フィールド)コート」とか、重厚な皮と沢山の鋲で出来たイギリスっぽい「チェスターフィールドソファ」とか、そういうのみんなここ発信だから。そういう意味でも、チェスターフィールド伯って、面白い存在なのよ。 というわけで、この本、教授のおすすめ!です。わが息子よ、君はどう生きるか (単行本) [ フィリップ・チェスターフィールド ] それにしても、この本、物理学者で『ニュートン』の創刊者としても知られる竹内均訳なんですけど、竹内均って、一体、何なんだろうね? この人、日本の自己啓発本出版史にやたらと登場する人なんですけど。『ニュートン』誌の創刊自体もそうだけど、無知な日本人を啓蒙したい、っていうアレが強い人だったんですかね。
November 4, 2017
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さんざんな不首尾に終わった先週の学会から1週間が経ちましたが、未だ完全に復調しておりません。もう2週間以上、ずーっと風邪のような症状に悩まされているという。本当は、ずっと大人しく寝てればいいのでしょうが、なかなかそうもいかなくて。卒論指導もそろそろギアを上げて行かないとまずい時期なので。 こういう時、どこか遠くの温泉宿か何かで湯治とかしたいなーと。仕事のことなど何も考えず、温泉で温まっては寝、温まっては寝、を繰り返すの。温泉の効能で、ガタがきた身体がゆっくり、じんわり、癒えていく・・・。 なんか、そういうのやりたいなあ・・・。 それやるなら、ついでにマッサージとかもやってもらうのもいいかもね。たまった疲れを揉み出してもらう的な。西洋医学の薬ではなく、東洋医学のツボ押し的な。 食べ物はどうするか・・・。最初はストイックに薄いお粥に梅干しあたりから始めますか。それで、段々お粥の濃度を上げて行きつつ、おかずも一品ずつ増えて行く的な。最終的には魚介の旨味のつまった鍋物と、ほんの少量の百薬の長も添えて・・・。 妄想広がる~! これだけ妄想できれば、まだ死にはしないな。
November 4, 2017
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昨年あたりから、うちの大学ではお昼頃、キャンパス内に日替わりで2台ほどの「フードトラック」が来るようになりまして、学食メニュー以外の、様々なものを食べることが出来るようになっております。 日替わりというところがミソでありまして、毎日毎日「今日はどんなフードトラックが来るのかな?」というのがちょっと楽しい。何か新しく変わるとなると、悪い方にしか変わらないのが常のうちの大学の中では、珍しく歓迎されるべき変化ではありますね。 で、私も毎日利用しているわけではありませんが、タイミングとその時々の食欲に応じて、「今日は、フードトラックで何か買って食べるか」的な気分になることがある。 で、この前食べたのは、「揚げピザ」という奴。基本、中身はピザなんですけど、それを円盤状のまま窯焼きするのではなく、半分に畳むようにして包み揚げにしてあるの。で、中身も三種類から選べて、マルゲリータか、照り焼きチキンか、クラムチャウダーか。チキンとチャウダーで迷ったけど、結局、無難にチキンを選択。ちょっと冒険心もチキンになっちゃったかな・・・。ちなみにお値段はワンコイン・500円。 でも、これが結構おいしかったのよ。ピザ版のピロシキみたいな感じで。 で、「この前のアレはおいしかったにゃー」という記憶もまだ冷めやらない中、今日は「神戸牛メンチバーガー」なるものを売るフードトラックが! よし。試してみよう。 で、またしても500円のそれをゲットして食べてみたのですが・・・。 うまい。 だけど、この前の揚げピザの方が上かな・・・。メンチバーガーの方が若干しつこいからね。 というわけで、今回は期待のハードルが高かっただけにちょっとアレでしたけれども、それでも学内に居ながらにして珍しいものが食べられるのはやっぱり楽しい。 さてさて、来週はどんなフードトラックが来ることやら。噂によると、ケバブサンドのフードトラックがうまいということなので、次のターゲットはケバブサンド! ということにしておきましょうかね。
November 2, 2017
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アリアナ・ハフィントン著『サード・メトリック』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 「ハフィントン」さんというお名前、なんだか発音していても息が漏れてしまうようで、ちょっと読みにくいのですが、ギリシャ生まれのアメリカ人女性でありまして、そのお名前から「ひょっとして・・・」と思われる方も多いかと思いますが、インターネット上のニュースメディアとして有名な「ハフィントンポスト」の創設者でございます。ハフィントンポスト、日本版もありますよ。これこれ! ↓ハフィントンポスト日本版 で、このアリアナさん、自分でそういう一大メディアを立ち上げて育て上げてしまう人ですから、そりゃもうブルゾン的に見てもバリバリの「キャリアウーマン」なんですけど、そのワーカホリックなアリアナさんが2007年の4月に突然ぶっ倒れるんですな。デスクに頭をぶつけて血だらけ、倒れた拍子に鎖骨を折るというなかなかの重症。原因はもちろん過労です。 で、この一件をアリアナさんは一つの啓示と見るわけ。このまま、今の生活を続けていったら、間違いなく死ぬな、と。そこで彼女は、これを機に自分の生活をバッチリ見直すんです。そして、改めるべきところは改めていく。その顛末を記した本書は、その意味で、アリアナさんのライフスタイル改善の実践記録と言っていい。 じゃあ、アリアナさんがどういう方針で自己改革をしたかということなんですけど、まずアリアナさんはそれまでの自分の生活を振り返ってみて、自分が今まで追求してきたのは、「成功」の二つの証、すなわち「権力」と「金」であった、ということを直視するんですな。権力と金。実際、アリアナさんはハフィントン・ポストの成功によってこの二つを二つながら十分に手に入れたと言っていい。 しかし、権力と金を手に入れ、成功の絶頂にあるはずの自分は、今、力なく病室に横たわっている・・・。当然、アリアナさんの心の中で涌き起こってくるのは、「これで自分は幸福と言えるのか?」という大疑問であります。 幸福っていうのは、権力と金だけでは測れないんじゃないか。それを補完する第三の極、第三の基準(=サード・メトリック)があるんじゃないか。そう考えたアリアナさんが、サード・メトリックになりえるものとは何だろうかと熟慮に熟慮を重ねた結果、出した答えが「4つの柱」、すなわち「幸福(ウェル・ビーイング)」「知恵(ウィズダム)」「不思議と驚き(ワンダー)」「与えること(ギビング)」であったと。で、ここからが本当にすごいことなんですけど、アリアナさんはこの4つの柱を自分なりのやり方で実行していくわけ。 「こうすればいいんだろうな」ということは多くの人が考えるのでしょうけど、それを実際に実行するとなると、それはやはり難しい。それを実行してしまうアリアナさんってのは、だからやっぱり例外的な人物なのかも知れません。 ま、それはともかく、ではアリアナさんが実際に何をやったのか、ということですが、まず「ウェル・ビーイング」という観点について言いますと、アリアナさんは直近の自身の経験から、ストレスによるバーンアウト(燃え尽き症候群)が現代人の幸福度を奪っていると考え、それに対処すべく「マインドフルネス」を自身の生活に取り入れるんですな。 「マインドフルネス」については、このブログでも何度か取り上げましたが、要するに「今、自分がやっていることに意識的に集中する」ということ。例えば呼吸一つとっても、「今、自分は新鮮な空気を吸っているんだ」「今、その吸った空気を腹の底から吐き出しているんだ」ということを意識しながら呼吸をする。こういう集中の訓練のことですな。もちろん、その延長線上に「瞑想」ということがあることは言うまでもありません。 また同時に、「マインドフルネス」の対立概念でもある「マルチタスク」(同時にいくつもの仕事をこなすこと――ニュースを見ながらメールをチェックし、食事もする、みたいな・・・)をやめる、ということも自分に課すわけ。そして、十分な睡眠時間を確保することも心掛ける。さらに「毛深い友人」、すなわちペットと暮らすことのメリットを体験してみたりする。 で、アリアナさんは筋金入りのジャーナリストですから、ただ単に「私はマルチタスクをやめました。沢山寝るようにしました。ペットも飼いました」ということを語るだけでなく、自分以外の人々、例えば有名な会社のCEOだとか、トップアスリートたちの中で、マルチタスクをやめ、睡眠時間を増やし、ペットを飼い始めたたことで、逆に効率を上げ、成績を飛躍的に上げた人々の実際のエピソードやデータをこれでもかと盛り込むわけ。だから説得力が違う。 同様に「ウィズダム」の方面では、自身の経験や、友人たちとの付き合い、さらに読書経験などから人生に役に立つ知恵を抽出するという作業をアリアナさんは実行します。例えばアリアナさんは離婚経験をお持ちなのですが、相手に対する恨みを乗り越える過程で、そういったネガティヴな感情を、「もう必要のないもの」として手ばなすことがいかに重要か、ということを学ぶわけ。で、「必要ではないものを手ばなす」という知恵を自分のものにしていくんですな。その他、一日の終わりに「感謝することリスト」を作って、それを書き出し、友人同士見せあうことがいかに優れた人生の知恵であるか。夜、特定の時間を決めて、その時間になったら仕事関係のデバイスのスイッチをすべてオフにすることで、いかに人生は豊かなものになるか。直観というものが、いかに素晴らしいか。そういった様々なレベルの「知恵」を、アリアナさんは一つ一つ自分のものにしていく。 「ワンダー」方面では、自然やアートに心打たれる、といったような意味で、新しい体験にワンダーを感じるという話から始まり、人生に様々な驚きを与える「偶然の一致」という現象を受け入れるとか、あるいは人間である以上誰もが目を背けつつ、しかしいつかは受け入れなければならない「死」に落着いた思いを寄せる、とか、そういった話題が繰り広げられます。 そして最後、アリアナさんは、サード・メトリックの最後のピースとして、「ギビング」ということを提唱する。つまり、与えること、愛すること、気遣うこと、共感や思いやりを持つこと、奉仕すること、こういったことなしに、人間の幸福というのはあり得ないと。実際、人に奉仕をする人は、そうしない人よりも遥かに収入が高い、といった数値的な情報も満載ですが、しかし、この章は感動的なエピソードが盛り沢山。 例えば、父親を失ったあるユダヤ人の少年の話。ユダヤ社会では、父親を失った少年は一年の間、教会(シナゴーグ)に通って追悼しなければならないそうなんですけど、その幼い少年がその習慣に従って協会通いをしていた時、その教会のラビ(=司祭)が、毎朝少年に付き添ってくれるようになったというのですな。「どうせ通り道だから、一緒に行こう」と。そしてその一年間、少年はラビと親しく話をすることで、父親を失った悲しみから立ち直ることができた。 ところがその後大分経って、少年もいい大人になってから判明したのは、そのラビにとって少年の家は教会への通り道どころではなく、1時間も遠回りをしてくれていたということ。父親のない少年を慰めるために、ラビは人知れずそういう行動をとっていたというのです。その事実を知ったその人は、遠い昔に自分のために遠回りをしてくれたラビを思って泣き崩れたそうです。 要するにギビングってのは、このラビの行為のことですわ。 で、アリアナさんがすごいのは、「ウェルビーイング」「ウィズダム」「ワンダー」「ギビング」ということを、それぞれ自分の生活の中に取り入れるばかりでなく、例えば自分の会社の中でも、社内の会議室ではなく、社員と一緒に散歩をしながら会議をすることで、より建設的な意見を集約する、などということを実行したり、ハフィントンポストの記者に「休暇の日にはケータイをオフにする」という「デジタル・ダイエット」を実践させ、その効能を記事に書かせて公開するなど、ハフィントンポストという自分のメディアを縦横に使って、広く一般の人たちにもこうしたことの重要性を訴え続けていること。その辺の実行力、行動力が半端ない。 辛辣な見方をするならば、アリアナさんがこの本の中で行なっている一つ一つのこと・提案は、凡百の自己啓発本に書いていることと大差なかったりもします。しかし、アリアナさんはそれらを、そういった自己啓発本から間接的に学んだのではなく、自分の経験の中から直接的に掴みとったのであり、さらにそこで得た知見を実際に自分の生活の中で試行し、さらにその中でも効果があると確信の持てたものに関して他人(=読者)にも積極的に勧めるというところまでやっている。つまり、本当の意味で「地に足のついた自己啓発」なわけですよ。「生きた自己啓発」というのかな。「権力」と「金」だけが人生の価値ではないということを骨身に滲みて知ったアリアナさんだからこその自己啓発。そういう意味で、これはとても説得力のある、気持のいい、言葉の最良の意味での「自己啓発本」であると言っていい。 下らない自己啓発本も数多い中、これは私も自信を持って皆様に推薦できる数少ない自己啓発本の一つでございます。教授のおすすめ!です。サード・メトリック しなやかにつかみとる持続可能な成功 [ アリアーナ・スタシノポウロス・ハフィント ]
November 1, 2017
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