

日本では日本では明治23年、東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、東京電燈会社がアメリカから電車2台を購入し、公園内を約300m走らせたのが電車披露の端緒となったが、東京での営業運行は明治36年まで待たねばならなかった。
明治14年に第三代京都府知事に就任した北垣国道(くにみち)は、琵琶湖から引いた疏水で灌漑をし、上水道を整備し、水運に利用し、水力を利用した工場を興こすことを計画した。北垣の目に留まったのが、工部大学校(後の東京大学工学部)の田邉朔朗(さくろう)の書いた卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」であった。北垣は若干21歳の田邉をこの工事の責任者に抜擢した。


田邉といっしょに米国の水力発電や電車を視察した高木文平は明治26年、電気鉄道敷設を国に出願し、翌年2月、京都電気鉄道(株)(以下、京電)を設立し、自ら社長に就いた。同年、狭軌(2本のレール間の幅1,067mm)による敷設の認可を受け、京都岡崎の地で開かれる第4回内国勧業博覧会の開催に間に合わせるべく工事に取り掛かり、明治28年2月1日、東洞院塩小路/伏見下油掛間、同年4月1日に東洞院塩小路/南禅寺間を開通させた。博覧会の開催が4月1日からだったので、まさに滑り込みの開通となった。

当時の伏見下油掛は京都市ではなく、紀伊郡に属していた(京都市伏見区となったのは、昭和6年4月)。京電が私鉄だったから、この路線が成り立ったのであろう。京電は後に京都市電に買収されるが、もし京都市電から出発していたら、この路線は誕生しなかったかもしれない。


この南禅寺方面と伏見下油掛方面の2路線の乗り換えは、このように踏切を渡らねばならず不便であった。特に明治30年3月に東海道線の京都駅/大谷駅間が複線化されると、踏切による遮断回数が増え、より不便となったため、明治34年4月に高倉通に木製の陸橋(高倉陸橋)が架けられ、伏見方面も京都駅北側からの発着になり乗り換えが容易になった。
この陸橋は、その後2度架け換えられ、現在の陸橋は高倉跨線橋と呼ばる。その北のたもと、塩小路通高倉交差点南西に知る人ぞ知る、京都のラーメン二大巨頭と言われる、行列の絶えないラーメン店「本家第一旭」と「新福菜館本店」がある。このうち「本家第一旭」は、昭和22年に、この地に出店したラーメン店で、「本家 第一旭 たかばし本店」とも呼ばれる。この陸橋をいつの頃からか、人々が「たかばし」と呼ぶようになり、そのたもとにお店を開いたためつけられた名前である。【京都市の鉄道史】その3 私設鉄道の勃… 2026/06/06
【京都市の鉄道史】その2 神戸/大津間開… 2026/06/04
【京都市の鉄道史】その1 プロローグ、日… 2026/06/03
PR
キーワードサーチ
カテゴリ
カレンダー