ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2026/06/07
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テーマ: 鉄道(26734)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その4~


8.電車の時代・・・・日本で初めて営業用電車が走った京都
1)電車時代の曙

 世界で最初に人が乗車した電車が走ったは、1879年(明治12)のドイツのベルリン工業博覧会だったとされている(シーメンス社製)。その2年後の1881年(明治14)、やはりベルリンにおいて世界最初の営業用電車が路面電車として運転を開始し、さらにその後1883年(明治16)にフランスとイギリスで、1888年(明治21)にアメリカで電車の営業運転が開始された

 日本では日本では明治23年、東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、東京電燈会社がアメリカから電車2台を購入し、公園内を約300m走らせたのが電車披露の端緒となったが、東京での営業運行は明治36年まで待たねばならなかった。

2)琵琶湖疏水と水力発電所
 この間に営業用の電車を日本で最初に走らせたのが、京都電気鉄道である。明治維新後の京都の衰微が、そのきっかけとなった。。
 幕末の禁門の変の大火で京都の街は壊滅的な打撃を受けた。そこに明治維新。首都は東京に移り、天皇も東京に移られ、それに伴い公家も多くの商人も東京に移り、京都の人口は35万人から20万人余りに激減するなど、京都は衰微の一途を辿った。それに対して、様々な復興策が打たれたが、その一つが「琵琶湖疏水」であった。
 明治14年に第三代京都府知事に就任した北垣国道(くにみち)は、琵琶湖から引いた疏水で灌漑をし、上水道を整備し、水運に利用し、水力を利用した工場を興こすことを計画した。北垣の目に留まったのが、工部大学校(後の東京大学工学部)の田邉朔朗(さくろう)の書いた卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」であった。北垣は若干21歳の田邉をこの工事の責任者に抜擢した。
 田邉は明治18年6月、工事に取り掛かる。当初は、上知令で手にした南禅寺の旧境内地などに工業団地を造り、琵琶湖疏水の水による水車動力での工場稼働を企てていた。しかし、ある日田邉は、雑誌で米国での水力発電成功のニュースを知り、明治21年、高木文平(京都商業会議所[現・京都商工会議所]初代会長)とともに渡米し、水力発電とともに電車をも視察した。帰国後、水車動力から水力発電に切り替えるべく田邉は北垣を説得し、水力発電所建設許可を取り付けた。殉職者17人をだす難工事の末、琵琶湖疏水は明治23年4月に完工した。そして翌年5月、日本初の一般供給用水力発電所である蹴上水力発電所が稼働した。これが、京都が日本初の営業用電車を走らせる原動力になったのである。またこれにより、電気を送電すれば、工場は疏水のそばに建設する必要がなくなり、工業団地になる予定だった旧南禅寺境内の土地などは別荘地として売り出された。無鄰菴や對龍山荘などの「南禅寺界隈別荘群」として南禅寺回りが京都らしい景観を保つことができているのも、この田邉のひらめきと実行力の副産物なのである。さもなくば、今頃は南禅寺の回りに工場群が建ち並んでいたであろう。明治45年2月稼働の第二期蹴上発電所は今も関西電力の現役発電所である。





3)京都電気鉄道
 田邉といっしょに米国の水力発電や電車を視察した高木文平は明治26年、電気鉄道敷設を国に出願し、翌年2月、京都電気鉄道(株)(以下、京電)を設立し、自ら社長に就いた。同年、狭軌(2本のレール間の幅1,067mm)による敷設の認可を受け、京都岡崎の地で開かれる第4回内国勧業博覧会の開催に間に合わせるべく工事に取り掛かり、明治28年2月1日、東洞院塩小路/伏見下油掛間、同年4月1日に東洞院塩小路/南禅寺間を開通させた。博覧会の開催が4月1日からだったので、まさに滑り込みの開通となった。
 東京、愛知、大阪、奈良も敷設出願していたが、まず最初に認可されたのは京都だった。では、何故京都になったのか。第4回内国勧業博覧会が京都で開かれることになったのが大きな要因の一つである。内国勧業博覧会は、第1回(明治10年)、第2回(明治14年)、第3回(明治23年)とも東京上野で開催された。第4回(明治28年)は、京都と大阪の誘致合戦となった。もちろん京都の熱心な誘致活動の賜物であったが、平安遷都千百年祭という目玉があったのが京都での開催の決め手になった。この博覧会訪問者の輸送手段の確保が急務であった。もう一つの大きな要因は蹴上発電所が既に完成し、電気が確保できていることが大きかった。道路幅は狭いながらも碁盤の目の街路で線路を敷設しやすいことも、京都への認可下付を後押しした。

 京都駅から勧業博会場を結ぶ東洞院塩小路/南禅寺間の敷設を急いだのは分かるが、何故、まだまだ沿線の人家の少なかった東洞院塩小路/伏見下油掛間の敷設も急いだのであろうか。答えは、船で大阪から博覧会見物に来る客を当て込んだということである。すでに東海道線は明治22年7月にに全通していたが、並行して、淀川には淀川汽船が就航していた。当時、官鉄大阪/京都間の運賃は片道27銭、淀川汽船の運賃は上り12銭、下り10銭と、運賃面では水運の方が競争力があった。また、淀川左岸(南東側)の人々は、交通手段を水運に頼らざるを得ないという側面もあった。そのため、伏見からの客が相当見込めたのだと考えられる。
 当時の伏見下油掛は京都市ではなく、紀伊郡に属していた(京都市伏見区となったのは、昭和6年4月)。京電が私鉄だったから、この路線が成り立ったのであろう。京電は後に京都市電に買収されるが、もし京都市電から出発していたら、この路線は誕生しなかったかもしれない。
 京都駅南の東洞院塩小路交差点南西角に、「電気鉄道発祥地」の碑が建つ。当時、東海道線は全通していた。この石碑をよく読むと、伏見下油掛町への京電路線は「鉄道踏切南側」から出ていたと刻んである。現・京都駅は、この石碑よりずいぶん南に位置する。線路の本数が当時は今より少なかったであろうが、当時の京都駅が今の京都駅の位置にあったら、この石碑より、かなり南の方から出ていたはずで、ここが「電気鉄道発祥の地」と宣言するのは無理があるように思ってしまう。

 当時の地形図と現在の地形図を七条通を基準に重ねてみよう。当時の京都駅は、現・京都駅より、かなり北にあり塩小路通に面するくらいの位置にあったことが分かる。当時の線路数は今よりかなり少なかったであろうから踏切は短く、伏見へ向う路線の乗降場は右下図の「B」くらいの位置にあったと推定される。しかし、そこには現在建物が建っており、当たらずとも遠からずの現位置「A」に石碑を建立することにしたのであろう。


 この南禅寺方面と伏見下油掛方面の2路線の乗り換えは、このように踏切を渡らねばならず不便であった。特に明治30年3月に東海道線の京都駅/大谷駅間が複線化されると、踏切による遮断回数が増え、より不便となったため、明治34年4月に高倉通に木製の陸橋(高倉陸橋)が架けられ、伏見方面も京都駅北側からの発着になり乗り換えが容易になった。


 この陸橋は、その後2度架け換えられ、現在の陸橋は高倉跨線橋と呼ばる。その北のたもと、塩小路通高倉交差点南西に知る人ぞ知る、京都のラーメン二大巨頭と言われる、行列の絶えないラーメン店「本家第一旭」と「新福菜館本店」がある。このうち「本家第一旭」は、昭和22年に、この地に出店したラーメン店で、「本家 第一旭 たかばし本店」とも呼ばれる。この陸橋をいつの頃からか、人々が「たかばし」と呼ぶようになり、そのたもとにお店を開いたためつけられた名前である。


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最終更新日  2026/06/07 12:00:08 AM
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